Coolier - 新生・東方創想話

それはスポットライトではない

2015/03/10 17:52:14
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「はいよ、お待ちどう。朝締めたばかりだから、美味しいよ」

 肉屋から経木の包みを受け取った蓮子は、荷物の沢山入った編み籠を肩にかけ直して店を出た。停めておいた自転車にまたがり、危なっかしい足取りでぎいぎい漕ぎ出すと、冷たい風が顔を撫でた。
 いいお天気であった。
 頭上には高く青い空が広がっていて、刷毛で伸ばしたような薄い雲がそこかしこに散らばっている。しかし晴れている分だけ風が刺すように冷たい。
 住居に向かう長い坂を上り切った頃には、厚着をした服の下は汗ばむ程であったが、風に晒されていた鼻先や耳はじんじんと冷えきっていた。
 蓮子はシャツの首元を振って涼を取りながら、息を整えた。深呼吸する度に、胸の奥底が抜けるような心持がした。

「スクーター、ないとっ、疲れる、なー……はあ」

 長い事愛用していたスクーターは、半年前に小さな事故で壊れた。
 自転車を置いて、マンションの階段を上りながらふと目をやると、向こうの方でアスファルトをはがす工事をしていた。
 家に入って、台所に無造作に籠を下ろす。ちょっと奮発して買った天然物の鶏肉は冷蔵庫に仕舞った。昔に比べて生産量は増えたものの、天然物はまだまだ高級品である。扱う手つきも何処か慎重になる。他の野菜やお酒なども然るべき所へと片づけた。
 丁度お昼時だったので、蓮子はお湯を沸かして珈琲を淹れた。朝の残りの食パンにトマトソースを塗り、缶詰のツナとトウモロコシを乗せ、チーズで覆って焼く。簡単なピザトーストを珈琲で流し込み、蓮子は立ち上がった。

「さーて、と……」

 振り返った。テーブルの向こうに見える部屋は雑然としていた。幾つもの本の塔が立ち、パソコン周りは埃っぽい。
 蓮子の住居は台所の他には二部屋と風呂、トイレだけで、一部屋はほぼ書庫兼実験室と化している。まともに使える部屋は見えている一部屋だけだが、散らかり具合が半端ではなかった。

「むう、これじゃメリーに笑われる」

 蓮子は嘆息し、ひとまず部屋の掃除に取り掛かった。
 しかしこれが中々進まない。
 変な所で几帳面な蓮子は、部屋を埋めている本を一々分類して仕舞わねば気が済まないらしく、一冊一冊を丁寧により分けるのだが、ふと内容を忘れた本があったりすると、中身を確かめるだけのつもりが、つい何ページもめくる羽目になる。そうして気が付くと二、三十分は軽く過ぎているのである。
 そんな事を何度も繰り返し、大して捗らぬままにふと時計を見ると、既に午後四時を回りつつあった。

「うわ、やばっ」

 蓮子は読みかけていた本を放り出し、ついでに部屋の掃除も諦めた。何せ客人をもてなす夕飯を作らなくてはならない。その為に奮発して鶏肉を買ったのだ、料理出来ずじまいなど冗談ではない。

「えーと、ローズマリーにオリーブオイル……げっ、漬け込むのか。先にやっとけばよかった」

 携帯端末でレシピを見ながら、危なっかしい手つきで鶏肉にフォークで穴をあけ、塩コショウをし、油に漬け込んでいく。ローズマリーの良い匂いがする。大した作業ではないけれど、普段はあまり込み入った料理をしない蓮子にとってはそれなりに手のかかる仕事であった。
 ビニール袋の中で鶏肉に油を揉み込んで、しばらく置く。その間に付け合わせの野菜を切る。タマネギにマッシュルーム、ジャガイモの茹でた奴。それらを肉と一緒に天板に並べてオーブンで焼くのだが、まだ焼く段に行く前に玄関のチャイムが鳴った。

「うっ」

 時計を見る。五時七分前。いつもそうだ。わたしにいつも遅れて来るなんて言うのに、自分は時間より早く来るんだ。それじゃ時間通りに来たって待たせるんだから、わたしが多少遅刻したってよさそうなものなのに。
 蓮子は誰にするでもない言い訳をしながら、材料を乗せた天板をオーブンに押し込んでから、忙しげに手を洗って、玄関へと向かった。宅配便でありますように、などと無駄な念をかける。しかし願かけむなしく、ドアを開けた先に居たのは十年来の友人であった。

「い、いらっしゃいメリー」
「なーんだ、留守かと思った」

 メリーことマエリベリー・ハーンは、わざとらしく小首を傾げた。蓮子は言い訳がましくぷつぷつ呟く。

「ちょっとばたばたしてたの」
「ちょっと、ねえ……?」

 そう言ってメリーはつま先で立って、蓮子の肩越しに部屋の中を見た。そうしてくすりと、可笑しそうな、呆れたような、曖昧な笑みを浮かべた。蓮子はバツが悪そうに、それとなく体を動かしてメリーの視界を遮った。

「えーと、あれだ。約束は五時だから、あと六分外で待って」
「はいはい、お邪魔しまーす」
「うわっ、ちょ」

 メリーは事もなげに蓮子を押しのけて部屋に上がり込んだ。そうして奥の部屋および台所の惨状を見て遠慮もなしにからから笑った。

「人を招いても遅刻って、ホント蓮子の遅刻癖は筋金入りね」
「あー、うるさい」

 蓮子は後ろ手にドアを閉め、仏頂面で頬をかいた。メリーは持っていた紙袋から酒瓶を出して蓮子に手渡す。

「お世話になるね。ワインは冷やしといて」そうして散らかった部屋の前に仁王立ちする。「あーあー、こんなに散らかしてもう」
「だからあと六分、いや五分」
「It makes no difference」メリーは床に膝をついて散らばっている本を手に取った。「同じ事よ」そう言いながらそうして何冊かまとめて抱えて立ち上がる。
「どこ?」
「む……隣の部屋」

 そうして二人での片付けが始まった。メリーが居るからだろう、蓮子も思わず本に夢中になる事もなく、驚くほど早く本の山は本棚に収まった。終わってしまえば、どうしてあんなに時間がかかったのか理解出来なかった。
 片付けてみると随分部屋が広々したように思う。どれだけの間散らかしていたのか分からない。蓮子は苦笑して、冷蔵庫から缶麦酒を二本取り出して開けた。
 カーテンを開け放した窓の向こうは薄暗闇で、しかし遠く焼けた夕焼けと町の明かりがまばらに差し込んでいる。その前にメリーが立っていた。蓮子はその横に並んで缶麦酒を手渡した。

「境界でも見えた?」
「ううん。いつも何見て暮らしてるのかなって」
「ふぅん」

 蓮子は窓の向こうに目をやった。暮れかけた空に星団の輪郭が薄ぼんやりと浮かんでいるのが見えた。普段は光学式迷彩で見えないそれは、夕暮れ時には赤方偏移に対応しきれずにああやって姿を現す。
 二人して並んで、無言のまま麦酒を飲む。風景に見とれるでもなく、気まずい沈黙に陥るでもない。
 薄暗闇は次第に濃さを増し、星団の輪郭が消え去った頃には星々が輝き出した。

「十八時七分三十一秒」蓮子は呟いた。そうしてメリーの方を見る。「二時間くらいかかるかしら、星団から」
「それくらいかな。最近はチケットも安いし、もっと気軽に来れるかも」
「気軽に、ね。あ、そうだ」

 蓮子は思い出したように台所に戻り、オーブンのスイッチを捻った。

「ばたばたしててメインディッシュがまだなのよね」蓮子はそう言って苦笑いしながら振り返る。「メリーのワイン、白じゃなくて赤だったらバッチリだったけど」

 しかしメリーは窓際に寝転がっていた。

「……メリー?」
「んー……お休み、蓮子……」
「いや、お休みって、もう」

 蓮子が聞き直す前に、メリーはとうに寝息を立てていた。蓮子はしばらく突っ立っていたが、思い出したように布団を引き出して、メリーをその上に転がした。台所でオーブンのタイマーが鳴った。

「メインディッシュ……」

 蓮子は天板を引き出した。ローズマリーとオリーブオイルに漬け込まれていた鶏肉は香ばしい匂いを漂わせており、一緒に並べて置いた野菜にもその味が染み込んでいるらしい事は見て分かった。初めてにしては上出来ではないか。
 ちろりとメリーの方を見る。幸せそうな顔をしてくうくう眠っている。何か口をもぐもぐさせている。匂いが夢の中に漂って来たのだろうかと思う。

「朝締めた天然鶏のローズマリー焼き」蓮子は言いながら、肉と野菜を皿に盛り付ける。「星団じゃ食べられないでしょうに、勿体ない」

 蓮子は缶麦酒をもう一本開けて、しばらくそればかり傾けていたが、やがて諦めたように肉を切り分けて口に運んだ。合成物よりも少し硬いが、歯ごたえがあると考えれば何の問題もない。むしろ噛む毎に味わいが増すように思われた。

「美味しい」

 肉を食べ、野菜を食べ、麦酒で喉を潤す。皿に残った脂もパンで拭き取って口に運んだ。それで皿の上はすっかり片付いてしまった。それでもメリーは起きない。時折「んん」と寝返りをうつばかりである。
 蓮子は立ち上がって、メリーの枕元に腰を下ろした。思い立ったように帽子を取ってやる。上着を脱がしてやる。少し考えて、上半身を抱き起してスカートのベルトを抜いてやった。するとメリーがぼんやりと薄目を開けて、肩越しに蓮子を見た。

「んー……ふふ」
「起こした?」
「んぅ……」

 とだけ言ってまた目を閉じるので、元の通り寝かしてやると、メリーが蓮子の裾を掴んだ。

「どしたの?」
「手ぇ、握って」
「ん」

 ほっそりとした白い指先はひやりと冷たかった。メリーは安心したように再び寝息を立てる。
 学生時代を終えてから十年近い年月が経っていた。十年という時間を思い起こしてみると、それなりに沢山の出来事が挟まっているものだと蓮子は思った。
 窓の外を見る。月が昇って来たらしい、空が少し白々している。

「二十時二十五分二秒」

 誰に言うでもなく呟いた。握った手が少し汗ばんでいた。


  ○


 目を覚ますと部屋の中はぼんやりと明るかった。メリーの手を握ってやって、横に座っていたつもりが寝てしまったらしい。覚えていないが、ご丁寧に毛布まで引っ張り出している。
 もぞもぞと体をよじらして、乱暴につっかけた毛布を蹴って起き上がると、隣ではメリーがまだ寝ている。何度も寝返ったのか、もともと少し癖のある髪の毛が尚更激しく跳ねていた。つないでいた手はもう離れている。

「んん……」

 蓮子は窓の外を見、星が見えないので時計を見た。六時半を少し過ぎた所である。部屋の中はひんやりとして、蓮子が動いたことで初めて空気も流れたといった態である。立ち上がって洗面所に立って、うんざりした。

「あー、ひどい顔」

 歯を磨くどころか口もすすがなかったせいか、口の中が変にねばっこい。蓮子は顔を洗って、口をすすいだ。

「変な時間に寝ると、早く起きちゃうな」

 と独り言ちた。普段が夜型で朝が遅い分だけ、こうして早起きしてしまうと返って時間の使い道に迷う。贅沢な悩みだ、と蓮子は苦笑した。
 冷凍庫から凍らせたご飯を取り出し、レンジで解凍する。大根と油揚げで簡単に味噌汁を作り、卵を割って朝食にした。いつもは食べない朝食だけど、こうして食べてみると中々どうして悪くない、と蓮子は変な所で感心した。
 食器を流しに放り込み、部屋を覗き込むと、メリーはまた寝返って向こうを向いていた。

「メリー」

 呼んでみる。当然返事はない。毛布はずりおちて、ほとんど体にかかっていない。そのせいか、メリーは胎児のように膝を丸めて小さくなっていた。寒いのかもしれない。
 蓮子は毛布をかけ直してやって、しばらくメリーの寝顔を見ていた。
 他人の寝顔というのは面白い。寝ていても呼吸はするのだろう、唇の真ん中が細かく震えたり、鼻の穴が大きくなったり小さくなったり、あるいは胸の上下に呼応して動いたり、変わらないように見えても色々の変化があるものである。
 指でメリーの頬をつついてみる。柔らかく、すべすべしている。あまり学生時代と変わらないように思う。それが何だか悔しくて、ついつい指に力を入ると、メリーが「みゅう」とうめいたので、止めた。

 珈琲を淹れて、適当な本を手に取って開いた。時計が八時を打った。窓の外が少し賑やかになって来たように思う。
 退屈任せにしばらく本をめくっていたが、どうにも気が散っていけない、止めてしまった。テーブルの上に置いて立ちかけて、ふとこういう積み重ねで部屋が散らかるのだと思い直し、本棚に戻す。そうしてメリーの寝ている部屋、つまりいつもの仕事部屋に入った。
 メリーはまだ寝ている。このまま起きないのではないかと思う。そう考えると柄にもなく不安になって、そっと顔を近づけてみたりする。するとちゃんと寝息が聞こえ、吐息が頬にかかるので、蓮子は安心する。
 パソコンを点けた。書きかけの原稿を仕上げてしまう事にした。どうせ暇つぶしなら、本を読むよりも頭を使った方が幾分か紛れる。

 蓮子は大学卒業後、星団で数年仕事をしたが、合わなかったから京都に戻って来た。メリーはそのまま星団で仕事を続けている。
 学生時代は、二人揃って宇宙に飛び出すだろうとお互いに思っていた。よしんば地球に戻るとしてもそれはメリーの方だろうとも。しかし二人の予想に反し、蓮子はこうして京都で仕事をし、メリーは地球の外に居る。会う事も数か月に一度という風だ。長い時は一年近く会わなかった事もある。そんなこんなでもう十年が経つのだから、早いものだと思う。
 キーボードを叩いて、原稿がそれなりに形になった頃、西日が影を長くした。
 一度集中するとそこに没頭する。蓮子自身はそれを長所だと思っているが、メリーは「でもそれで話を聞かないんだから、短所でもあるわ」と言う。
 パソコンの電源を落として、大きく伸びをした。ずっと背中を丸めていたからだろう、ほぐれるようにぽきぽきと音が鳴るのが心地よい。
 台所のテーブルに着いて、缶麦酒を片手にぼんやりしていると、ごそごそと音がした。振り向くとメリーが上体を起こして、目じりに手をやっていた。

「起きた」
「……何時間寝た?」
「二十時間十二分五十六秒。いや、五十秒くらいかな?」
「んはー」

 メリーは満足げに伸びをすると、立ち上がって台所に入って来た。そうして蓮子の向かいに腰かける。

「お腹空いたわ」
「でしょうね」
「メインディッシュって?」
「もう食べちゃったわよ」蓮子は呆れ気味に缶麦酒をメリーに手渡した。「朝締めた天然の鶏をローズマリーとオリーブオイルに漬けてオーブン焼き。美味しかったー」
「あらら、それは残念」言いながら、メリーは旨そうに麦酒を飲んだ。「何かある?」
「胸肉が少し、あとはレバーとか砂肝」
「わ、一羽丸々買ったのね、じゃ、それで何か作りましょ」
「その前に化粧くらい落としなさいよ。なんかすごい事になってるよ」
「あ、そうだった。あのまま寝ちゃったのよね」

 そう言ってメリーは洗面所で化粧を落とし、台所に立つ。蓮子は冷蔵庫の中を物色し、材料を決めて献立に首をひねった。

「皮は湯がいてポン酢かなあ」
「レバーは甘辛く焼いて、砂肝はオリーブオイルで煮ればいっか。ニンニクと唐辛子入れて……」
「あ、シメジもあるから、一緒に入れて」
「牛乳あるし、チーズもあるし、胸肉はホワイトソースとチーズかけてグラタン風とか」
「わあ、わたし普段はそんな料理した事ないわ」

 蓮子が言うと、メリーはくすくす笑った。

「蓮子、普段何食べてるの?」
「毎食同じじゃないわよ、言っとくけど。まあ、簡単に済ましちゃう事が多いけど」
「でもここだと天然物も手に入りやすいんじゃない?」
「昔に比べてかなり比率は増えたわね。それでもやっぱり高いから毎食そうってわけにはいかないけど」

 二人はもそもそ話をしながらも手を動かし、夕飯の支度を整えた。テーブルに並べて向かい合うと、中々どうして豪勢な食卓が完成した。メリーはワインの蓋を開ける。

「赤ならばっちりだったわね?」と蓮子は言った。
「迷ったんだけどね、このスパークリングが美味しそうだったから」

 成る程、グラスに注ぐと細かな泡が底からぷくぷくと上がった。

「それじゃ」
「乾杯っと」

 グラスを合わせると、ちんと尖った音が鳴った。

「忙しいの?」
「うん、まあね。やっぱり宇宙だとまた違った精神状態になる人も多いみたいでね。日々観察とデータ収集、それから書類や集めたデータとにらめっこ。考察、推察、実験、実証、その繰り返し」
「単調と言えば単調ね」
「そうね。でも面白いわ。毎日何かしらの発見があってね、それらを統計的に並べてみると、パズルみたいに見えて来るものがあるのよ。これはちょっと病みつきになるわね」
「ふうん」

 蓮子はややぶっきらぼうに相槌を打った。何だか充実しているらしいメリーが羨ましいような気がした。
 メリーは精神学の研究チームの一員として活動している。人類が星団や月へと移り住み始めると、環境の変化からか特異な精神状態に陥る人間が増えるらしい。

「でも人間の精神って、どれだけデータがあっても突然突拍子もないものが出てきたりするのよね。同僚がそれで研究対象になったりするんだから、笑い話にもならないわ」
「メリーは大丈夫なの?」

 蓮子が尋ねると、メリーはきょとんとして、それからくすくす笑った。そうして旨そうにグラスのワインを干す。

「毎晩二、三時間で目が覚めちゃうんだから、大丈夫じゃないかもね。一睡もしない日もざらにあるし」
「それって単なる病気じゃないの。病院行った?」
「そりゃ行ったわよ。でも行ったって薬くれて、ストレス減らせって言われるだけ。それよか寝られる時に寝だめた方がいいでしょ。蓮子のところだと夢見ないでぐっすり寝られるんだもん。寝に来ていいって言ったのは蓮子じゃない?」
「そうだけど……夢、ね」蓮子はテーブルに肘をついて、少し身を乗り出した。「あの夢、まだ見るの?」
「幻想郷?」
「うん」
「見るわ。あっちで寝たらほとんど例外なく」
「筍抱えて来てないでしょうね」

 蓮子が言うと、メリーはけらけらと愉快そうに笑った。

「もうそれはないわねえ」
「ホントにー?」
「ホント、ホント。前みたいに物は持ち帰らないわ」
「ならいいけどね」

 蓮子は背もたれに体を預けた。お互い少し黙って、料理に舌鼓を打つ。ちろりとメリーの方に目をやると、天然の鶏にご満悦らしい、満足そうに口をもぐもぐさせていた。
 リラックスした気分で、久方ぶりの他愛もない話に花を咲かせ、テーブルの上の料理は片付き、ワインの瓶も空になった。
 話を酒の肴に、少し飲み過ぎたらしい、まぶたが何処となくとろんと重く、向かいに座ったメリーも俯きがちに小さく左右に揺れていた。
 お茶でも淹れようかと、蓮子が立ち上がりかけた時、メリーが呟いた。

「ねえ……蓮子」
「なに」
「胡蝶の夢ってあるでしょう」
「荘子?」
「そう。蝶の夢を見たのが自分なのか、それとも自分が蝶の見た夢なのか」
「……さっきの夢の話?」
「うん……まあ、蝶じゃないんだけど」メリーは我ながら馬鹿馬鹿しいと言う風に笑った。「夢の中だとね、わたし妖怪なの」
「妖怪……」
「呆れないでね? 本当なんだから」
「まあ、メリーってちょっと妖怪っぽいから、分からなくはない、かな?」
「あ、ひどい」
「あはは、ごめんごめん。お茶でも沸かそっか」
「ん」

 蓮子は薬缶を火にかけ、メリーはティーポットに茶葉を入れる。

「それで」蓮子はティーカップを二つテーブルに並べた。「どんな妖怪になってるの」
「管理者。幻想郷のね」
「へえ、それはまた随分と……」
「その妖怪はね、空間を……いや空間、というより境界かな? 境界を操れるの」
「それって」
「そう、まるでわたしの能力が成長したみたい」
「……」

 以前、蓮子はメリーの能力が単に境界を見るだけでなく、操る所にまで成長しているのではないかと推測した。まだ学生で、秘封倶楽部というオカルトサークルの活動をしていた頃だ。事実、メリーはそれらしき兆候を見せた事がある。

「だから不安になるの」とメリーが言った。「幻想郷の夢を見過ぎると、いずれ帰って来れなくなるんじゃないかって」
「……あまり眠れないのは、防衛本能かも知れないって事?」
「それもあるかもね……」

 メリーは頬肘をついて、ぼんやりと宙空に視線を漂わせた。その表情がいかにももののけ・  ・  ・  ・染みていて、蓮子はどきりとしてしまう。

「ねえ、蓮子」メリーは蓮子の方を見た。「わたしが妖怪になっちゃったら、どうする?」
「む……」

 黙ってしまった。もしメリーが妖怪になってしまったら? あり得ない話ではない。メリーの「目」は、人間の領域の外側を見てしまう。その世界に触れ続けていたら、そちらに引き込まれてしまう事は十分にあり得るのだ。
 真面目な顔をしている蓮子を見て、メリーは吹き出した。背もたれに寄り掛かる。

「もー、そんな真剣に考えないでよ」
「だってさ……」
「大丈夫よ」メリーはにっこり笑った。「もし妖怪になるなら、蓮子も一緒よ?」

 かくん、と体の力が抜けた気がした。

「なによそれ、わたしが妖怪になるって?」
「そりゃそーよ、一緒に『向こう側』に沢山触れたじゃない。それこそ蓮子がわたしを引っ張ってさ」
「いや、そうだけど、あれはただの遊びだったし」
「そうね、まあ、お気楽な遊びだったわね……」

 メリーは学生時代を思い出しているらしい、どこか懐かしげな、遠い目をした。どこともなく視線を揺らして、頬杖をつく。横顔の、額から鼻、そして顎までの線がほっそりとして、消えてしまいそうで、蓮子は思わず息を飲んだ。

「そ、それじゃあ、さ」
「んー?」

 ――また、そのお気楽な遊び、してみない?

 と言いたいのに、

「さっ、散歩にでも行ってみる?」

 そんな曖昧な言葉しか出て来ない。
 声が上ずったのが可笑しいのか、メリーはくすりと笑って、首を振った。

「ううん、まだ寝るの」
「……寝るの」
「そう、シャワー浴びてから。タオル借りるね」

 メリーはそう言って立ち上がった。
 蓮子は諦めたように背もたれに体を預けた。

「わたしもメリーも、一人で食べて、一人で眠るのね」
「そうよ、蓮子が統一物理学の学生で、わたしが相対性精神学の学生だったときから」

 そう言ってメリーはにっこり笑った。

「その時、わたしが星団で働いて、蓮子が京都で文章書いてるなんて想像できた?」
「……ううん」
「想像しようと思ったけど、出来なかったなあ」
「十年、か」

 蓮子は呟いた。
 二人は黙って、しばらく見つめ合った。互いの目の中に映る自分の姿を見つけようとするようであった。


  ○


 とある学会の立食パーティの招待状が届いた。行きたくなかったけれど、断るわけにもいかないので出かけた。
 会場は京都ステーションホテルのホールであった。その広いホールに何の関係だか分からないが大勢が集まっていて、その上無暗に暖房が効かしてあるから、何だか汗をかくような心持だった。
 あんまり大勢がいるので、誰が誰だか分からない。蓮子を招待した人が気を利かして、会場の紳士淑女を蓮子の前に引っ張って来て、こちらは何博士、こちらは何教授と紹介してくれたが、互いに世辞を言い合って、返って疲れるばかりであった。そのうちみんな知り合い同士が歓談を始めて、知り合いのいない蓮子は壁際に寄り掛かって息をついた。

「来なくてもよかったな……」

 蓮子は誰にも聞こえないように呟いた。
 ホテルの料理は旨いけれど、周りが賑やかな中、一人で食べるのは寂しい。貧乏学生時代のような底なしの食欲はとうにない。慣れない礼服を着ているのもあって、変に居心地が悪い気がする。
 片付かない気持ちでグラスワインをちびちびと舐めながら、目の前でいろんな人が行ったり来たりしているのをぼんやり眺めていると、その人ごみから小さな少女が抜け出して来て、蓮子の隣で嘆息した。

「はあ、暑い……」

 長い髪の毛を大きな三つ編みにまとめている。まだ十歳に満たぬという風体ながら、その顔つきは妙に大人びていた。
 少女はハンケチで汗をぬぐい、きょろきょろと人ごみの方を見回した。飲み物の盆を持ったボーイを呼び止めようとするが、人が多いので止まらない。少女の声も聞こえていない様子である。
 蓮子はそれをしばらく眺めていたが、いよいよ見かねてボーイを呼び止めてやった。ボーイからグラスを渡された少女は、蓮子を見て目をぱちくりさせた。

「あ、ありがとうございます」
「いいわよ。一人なの?」

 蓮子が言うと、少女は頷いた。

「招待されて来たんだけど、人が多くて辟易です」
「ああ、分かるわ」

 と首肯しかけて、蓮子は首を傾げた。招待されるという事は、この子は何処か良家のお嬢様なのかしら。
 その時人ごみを分けて、蓮子を招待した人がやって来た。宇佐見先生、探しましたよと言う。

「いやはや、これだけ盛況ですとたまりませんな」
「お疲れ様です」

 蓮子はわざとらしく苦労をねぎらった。蓮子を招待した人は「恐縮です」とハンケチで汗を拭き拭き、ふと隣の少女に目を留めて「おや」と言った。

「八意先生こんな所に。ちょうど紹介しようと思っていたのですよ」

 そう言って少女を蓮子と向かい合わせる。

「この方は八意××先生です。先日発表された総合遺伝子薬学の論文はお読みになりましたか? その見事さゆえに博士号を授与されたのですよ。まだ九つながら、既に院まで卒されて、国立の研究所で腕を振るっておられる、稀有な才能をお持ちの方です。八意先生、こちらは宇佐見蓮子先生です。統一物理学の分野ではたいへん有名で……」

 ああ、そうだったのか、と蓮子は納得した。八意という名前なら聞いた事がある。子供ながら飛び級で大学を卒業し、総合遺伝子薬学で既に名をはせている天才少女だそうだ。よもやここまで幼いとは思わなかったが。
 蓮子を招待した人は、誰かに呼ばれてまたどこかに行ってしまった。
 ××とまた二人になった蓮子は、特に他にする事もないので色々の話をした。流石に天才と言われるだけの事はある、××は蓮子の話に楽々付いて来るばかりか、驚くような気付きすら蓮子に示して見せた。
 すっかり意気投合して、互いに人ごみが苦手な性分もあったから、蓮子は××を誘ってこっそり会場を逃げ出した。何だか悪い事をしているようで、年甲斐もなく面白い気分になる。二人は無邪気にけらけら笑った。
 外に出るとまだ肌寒い。日が落ちればなおさらで、話をするたびに口から息が白く立ち上る。だが、火照った体には丁度良く思う。

「はーあ、普段こんな服着ないから、窮屈ったら」
「分かるわ。わたしも普段は白衣ばっかり」と××が言った。
「今は京都だっけ」
「そう。去年の暮れまでは星団に居たわ」

 ××は星団で生まれ、星団で育ったらしい。地球に来たのは記憶にもないくらいに幼い頃と、今回の二回しかないそうで、温度や湿度も管理されている星団と違って、こうして肌寒さや暑さを感じるのが新鮮であるようだ。
 子供連れではバーに入るわけにもいかない。蓮子はあちこち見回して、二十四時間営業のファミリーレストランに入り込んだ。学生時代にはよくメリーと一緒に入った。星団から帰って来てからは一度も行っていない。だからひどく懐かしい気がする。

「ドリンクバー二つに、チョコレートケーキ……あなたはどうする?」
「これ! この、イチゴパフェがいい!」

 ××もあまりこういう所には来ないらしい、物珍しげに店内を見渡し、注文を終えてからも忙しげにメニューをめくり、年相応の好奇心と期待感に目を輝かしていた。天才と言われようが、九歳の子供なのである。

「こんな所来るの初めて。何だか楽しいな」
「友達と来たりした事ないの? 星団にもファミレスくらいあるでしょうに」

 蓮子が言うと、××は苦笑いしながら首を振った。

「同年代の友達がいないの。ただでさえ出生率が下がってるし、周りでわたしの話に付いて来れる人がいなかったし……」

 ああ、そうだろうなあと蓮子は思った。あまりに頭が良すぎると、周囲から孤立するものだ。それは周りから避けられるというよりは、返って自分が付き合うのが嫌になるのだ。蓮子にも多少の覚えがあった。だから大学時代もメリーくらいしか友人と呼べる存在がいなかった。
 銘々に好きな飲み物を取って来て、向かい合って座る。蓮子は珈琲を飲み、××はオレンジジュースを選んだ。

「で、さっきの続きだけど、遺伝子上に四次元的な概念を付与するとすれば」
「ああ、待って待って」言いかけた蓮子を××が遮った。
「そんな話はよしましょうよ、せっかく友達とファミレスに来れたんだもん、もっと別の話がしたいな」
「え、友達」
「そ、友達。違った?」

 やにわに不安げになった××の表情が可笑しくて、蓮子はくすくす笑いながら身を乗り出して××の頭をぽんぽんと撫でてやった。

「うんうん、友達よ。ちょっと歳の差はあるけどね」
「そんなの些細な問題よ! えへへ、友達なら難しい話ばっかりしないよね? 別の話しましょ。学術的な話は研究者同士でいっつもしてるから、もううんざり」
「別の……ねえ」

 蓮子が首を傾げると、××は表情を輝かしながら身を乗り出して来た。

「そう、友達同士の会話! 蓮子さんは普段友達と何を話してるの?」
「普段……えっと、なんだろ?」

 蓮子が曖昧に言葉を濁すと、××はハッとしたようにもじもじした。

「ご、ごめんなさい、蓮子さんも友達……」
「いるよ!? 友達がいないわけじゃないわよ!?」
「あ、そうなんだ。よかった……」

 何だかホッとしたようにジュースを飲む××に、蓮子は毒気を抜かれたように嘆息した。

「でもね、今は星団にいるから、そんなに頻繁に会えないの」
「へえ、何してる人?」
「相対性精神学の研究チームに入ってるの。色々充実してるみたいよ」

 それが話の火種になって、二人は他愛のない話で盛り上がった。研究の事や、学問の事は脇に置いて、何が好きだとか、京都を散歩するなら何処が面白いだとか、あのカフェは珈琲が美味しいだとか、そんな話だ。
 蓮子は話しながら、こんな取り留めもない話で盛り上がれるのは、メリーと他数人くらいしか思い当たらない事に気付いて苦笑した。特にここ数年は会う人会う人同業者ばかりで、その筋の話しかしない。交友関係はそれなりに広いけれど、もし他愛もない話で盛り上がれるのを友人と呼ぶならば、

(うーむ、わたしって意外に友達いなかったのかも……)

 自嘲気味な口元を誤魔化すようにカップを口に運ぶと、中身がなかった。
 話が盛り上がれば、時間は早く過ぎてしまう。××が欠伸をして目をこするので時計を見ると夜の十時を過ぎていた。窓際の席だから外は見えるけれど、分厚い雲が垂れ下がって町の灯を照り返すばかりで、月も星も見えない。
 店を出て、タクシーを止めた。
 音もなく滑って行く車中で、××は眠そうな声で家の場所を告げると、蓮子に寄り掛かったままやがて寝息を立てた。起こすのはかわいそうだと蓮子は黙って窓の外を見る。運転手も無口らしい、何の愛想もない。だが変に話を振られるよりは気が楽だった。

 ××を家まで送り届け、蓮子は同じタクシーに乗って自宅へと向かった。窓の向こうでは宵の町がまだ煌々と明かりを撒いている。それが筋になってどんどん後ろへ流れて行った。
 タクシーを降りると、細かな雨が降っていた。料金を払い、足早にマンションに入る。階段を上りながらふと外に目をやると、町の灯が霧雨にけぶって滲むようであった。

「はー、疲れた」

 部屋に戻って、窮屈な服を脱ぎ捨てる。春彼岸も過ぎて、次第に暖かくなっているとはいえ、まだまだ夜は寒い。蓮子は部屋着を着て、洗面所で化粧を落とし、上から綿入れを羽織った。
 台所のテーブルに座って、ぼうとする。
 何だか忙しげな一日であった。
 昼間は余所行きの服を慌てて引っ張り出してアイロンをかけたり、すっかりしなくなった化粧をするのに手間取ったりと、ずっとばたばたしていたし、夜は夜で楽しくもない立食パーティで大勢の人を紹介された。その殆どの顔を思い出せない。しかし××という友達も出来た。

「友達、か」

 蓮子は冷蔵庫から麦酒を出し、半分近くを一息で飲んでしまった。
 もう一口で残りを飲み干した蓮子は、寝室兼仕事部屋に入った。脱ぎ散らかした服や、出したままの本を避けながら、パソコンの前へと向かう。
 前回メリーが来てから間もなくふた月、最初は意識して片づけていた部屋も、前の通りに雑然としてしまった。
 パソコンを立ち上げると、メリーから短いメールが来ていた。最近は特に忙しい事。合成食品の質が向上した事、最近思った事などが簡潔に書かれていた。そうして、『また寝に行くね』と締めてある。蓮子は呆れながら、しかし口端を緩まして背もたれに寄り掛かる。

「メリーったら、うちを宿屋か何かと勘違いしてるんじゃないかしら」

 しかし学生時代、よくメリーの家にご飯を食いに行っていた蓮子を見て、メリーは言った。

 ――蓮子ったら、うちをレストランか何かと勘違いしてるんじゃないかしら。

 思えば、学生時代からお互いに何か遠慮したような記憶はない。傍から見れば不躾とも思える関係性が、二人にはある種普通であった。××と話した時も、ついつい学生時代の思い出話に熱が入り、「蓮子さん、その人の事になると饒舌ね」と言われた。
 長く会わない時期もあったのに、蓮子がふとした時に思い出すのはメリーの事である。
 メリーはわたしの事を思い出す時があるのかな、と蓮子は思う。でも忘れているならばメールは寄越さないだろう。メリーは単なる愛想でメールを送るような人間ではない、と蓮子は思っている。その筈だ、という願望も混じってはいたが。

 蓮子はもう一度、丁寧にメールを読み返した。一文字ずつ確かめるように視線でなぞって行く。そうして同じように、一文字ずつを確かめるようにして返事を書き始めた。
 外は雨脚がより強くなって風もあるらしい、窓ガラスを叩いてぴしぴし音を立てていた。


  ○


 蓮子へ。

 長い事連絡できなくてごめんなさい、心配かけちゃったかな? まあ、蓮子がその程度で参るとは思っていないから変に信用して、少し長く間が空いちゃいました。
 星団は四季が感じられないので、季節の移り変わりがとても懐かしいです。蓮子だってしばらくはこっちに居たんだから、その気持ちは分かるよね? まあ、そんなのは共有しても仕方がないと思うけど。

 わたしは日々研究に没頭しています。
 わたしたちは地球で生まれて、星団で暮らしているけれど、今は星団で生まれ育った子供たちも多いの。出生率は地球よりも低いから、それこそ数えるほどしか居ないけど、そのうち星団に移住する人が増えれば、宇宙生まれの子供も増える筈ね。
 その子供たち、わたしたち地球生まれの人間たちとは精神上少し違う所があるみたいなの。平たく言えば、天才児が多いって感じ。特に体外受精で生まれた子たちはその傾向が顕著だわ。理由はまだはっきりと分からないけどね。

 ほら、遷都以降に生まれたわたしたちの世代って、当時は新世代とかいってもてはやされたじゃない。それで実際に大学に入る年齢も下がって、飛び級は当たり前になって。
 でもね、今の子たちはその比じゃないのよ。あと十年もすれば、科学はより発展して、月どころか火星にも進出できるんじゃないかな。今は実験段階の月への移住計画も、来年には本格化するみたいだし。旅行するのにも高額だった時代が懐かしいわね。
 ともかく、そういう星団生まれの子たちの精神のサンプルデータが大量に入って来てね、それらを分析して整理する作業にてんてこ舞いだったの。情報量が多くて、もうたいへん。でも人間って面白いわね、自分たちの事ながら。

 蓮子はまた新しい論文を書いてるのかな? 前のメールに苦しげな事が書いてあったから、ちょっと心配したけど、蓮子なら大丈夫だろうと根拠のない事を思ってます。もしファイルを送ってくれれば読んで意見を言うくらいは出来るわ。気が向いたらよろしく。
 そうそう、最近星団に新しいカフェが出来たの。地球から移って来た人が始めたお店で、合成物じゃない本物の豆を使って珈琲を淹れてくれるの。
 いつも休憩中に珈琲は飲んでるけど、久しぶりに美味しいのを飲んだら他のが味気なく感じちゃって、逆に損した気分。
 だから最近はそのお店に入り浸ってます。蓮子が星団に来る事があったら、案内するね。

 珈琲のせいってわけじゃないけれど、最近は前にも増してちっとも眠れません。
 数時間でも寝ようとベッドに入っても、数時間どころか二、三十分で目が覚めちゃうの。その間もわたしは妖怪になって幻想郷を眺めているみたい。夢の中では数日を過ごしているのに、起きるとたったの三十分。もうわたしは半分妖怪なのかもしれないわね。
 寝不足が続いても、特に頭の回転が鈍るわけでもないんだけど、やっぱり体は疲れてるって事を感じます。夢の中でも動き回ってちゃ、たった少しでも寝た気にならないもの。

 京都はもう秋めいているかな? 千本鳥居の木々も紅葉して、きっと綺麗なんだろうなあ。夜の紅葉狩りを装って境界探しをしたのを思い出します。あの頃は楽しかったね。
 また今度、時間が出来たら寝に行くね。まだ研究が立て込んでいて、直ぐには無理だけど、次は何とか長く時間を作って蓮子に会いに行きたいな。
 今度はちゃんと部屋を綺麗にしておいてね。

 メリーより。


  ○


 朝から雨が降っていた。年の暮れで、肌寒いどころの話ではない気温である。しかし雨は雪にならず、びしゃびしゃと冷たく地面を濡らした。
 メリーとは結局会っていない。メールのやり取りはあるが、それだけだ。男でも出来たのかと勘繰った事もあったが、メリーがそれを蓮子に隠す理由は見当たらない。単に忙しいだけであろうと蓮子は思った。
 前にも随分長い事顔を合わせない時間があった。それに比べればまだ一年を越さない。まだまだ大丈夫、と蓮子は妙な理屈で自分を納得させる。
 喫茶店に居た。
 窓際の席に座って、蓮子はぼんやりしていた。別にそうするつもりではなかったが、窓に打つ水滴の数を数えた。水滴はやがてまとまって筋になり、そうして流れて行ってしまう。するとまた一から数え直した。
 どれくらいの一を重ねたのか分からないが、ともかく時間が過ぎて、手元のカップもすでに空になっていた。お代わりを頼む気も起きない。時計の針は午後三時を回っていた。
 からからと戸に付いた鈴が音をさして、お客が入って来る。蓮子はそちらに目もやらなかったが、入って来た客は軽い足音で蓮子の方に来た。

「蓮子さん」
「ん?」

 見ると××が立っていた。寒さのせいだろう、鼻先や頬を赤くしてはにかんでいる。

「奇遇ね、どうしたの?」
「ちょっと研究もひと段落したから、お茶を飲もうと思って。そしたら蓮子さんがいたから」
「ああ」

 そういう事、と蓮子は頷き、××を向かいに座らした。
 この店は蓮子が教えた。蓮子やメリーが学生時代からここにある。マスターは不愛想だが、珈琲は旨いし、何より店の中が静かなのがいい。無論音楽だってかかっていて、何の音もしないわけではないが、静けさがあるのだ。それも、破るのが憚られる静寂が張りつめているのではなく、ぼんやりと、気持ちの落ち着く静けさがある。お高く留まっているわけではなく、いい意味での上品さがあるのが蓮子は気に入った。
 かつてはよくここでメリーと向かい合わせになって、自分たちのサークルの計画を立てた。取り留めもない話もしたし、互いの持論をぶつけ合う事もあった。
 今は××が向かいに座って、美味しそうにミルクティーを啜って、蓮子と色々の事を話している。

 きっと××はメリーのメールににあった星団生まれの天才児の一人なのだろうと蓮子は思った。親がいないという事から、おそらくは体外受精で生まれたのだろう。
 彼女はまだ地球で一年も経たぬうちに論文を幾つも書き、多くの新薬の臨床実験を成功させていた。加速度的に忙しくなっているらしく、会う機会も左程多くはないものの、××は蓮子にすっかり懐いて、しきりに会いたがる。目の前に座っている様子は、見るからに嬉しそうだ。

「はあ、今日は寒いね」××が言った。
「ホントにね。雪になればまだいいのに、雨じゃ気も滅入るわ」
「でもわたし雨って好き。星団じゃ天気なんかないんだもの」
「ああ、それは確かに」

 蓮子は星団暮らしをしていた時を思い出した。あらゆるものが人の手で管理され、人が快適に暮らすために調整された空間。確かに不便さや不快感は覚えなかったが、窮屈さを感じたのも事実であった。
 星団は巨大な宇宙ステーションである。居住区の明かりがちらちらと明滅する様子が星のように見える事から、『星団』という俗称が付いた。
 常に快適になるように調整された空間には、温度の変化はもちろん、天気の移り変わりもない。それでは人間の体が弱ると、一部にはそういったものを再現する施設もあり、蓮子は一度行ってみたが、大して面白味を感じなかった。どれだけ精密に作られていても、それが作り物だと分かっている以上、自然のものには及ばないような気がした。
 ××は星団で生まれ育ったから、天気や季節の移り変わりを、知識として知っていても実感していない。既に半年以上を京都で暮らしているが、今でも些細な事で目を輝かせる。蓮子はそんな××を見るのは好きだった。

「まだきちんとした雪を見た事がないの。ほら、前に降った雪はびしゃびしゃで、積もらないで溶けちゃったじゃない? ふわふわで、冷たくて、積もる雪が見てみたいの」
「きっとそういう雪は年が明けてからよ」
「そっかぁ。ふふ、でも楽しみだわ。地球に来て、見てみたかったのは海と、それから雪だもの」

 ××はそう言って、にこにこしながら窓の向こうを見た。
 雨は降っていても、雲を通して薄ぼんやりとした明かりが差し込む。窓を流れる雨垂れを通り抜けた光が、まるで水槽を通したような水模様になって、それが××の顔に柔らかな陰影を作っていた。それでも店の中の方が明るいから、ガラス窓に××の顔が映る。ガラスに映った××と目が合って、蓮子は思わずドキリとした。
 ××は蓮子の方に向き直って、少し身を乗り出した。

「ねえ、蓮子さん、雪が降ったら一緒に散歩に行きましょ? あちこち見たい所があるの」
「ん……散歩ね、いいわよ」
「約束ね?」

 そう言って××は右手の小指を蓮子の前についと出す。蓮子は一瞬面食らったが、直ぐに意図を理解して、自分の小指をそれに絡ました。

「指切りげんまん、嘘ついたら針千本のーます」

 二人で唄って、どちらともなく笑う。
 ××は愉快そうに言った。

「この科学万能時代になっても、こんな馬鹿げた事ずっと続けるのよね、人間って」
「ふふ、でもわたしは好きよ、こういうの」

 壁にかかった年代物の振子時計が五時の鐘をぼんぼんと鳴らした。××がハッとして文字盤に目をやり、あたふたと立ち上がった。

「いっけない、夜から用事があるんだった! 支度しなくちゃ」
「あら、忙しいわねえ」
「うー、学会の石頭たちと話さなきゃいけないと思うと気が滅入るけど、蓮子さんと会えたから頑張れそう」××はコートを羽織って、足早に席を立った。「じゃあまたね、蓮子さん。約束忘れないでね!」

 ××はぱたぱたと出て行った。まだ雨は降っているらしい、ドアを開けた時に、雨粒が地面を叩く音がした。
 蓮子はしばらく座っていた。
 学生時代にもこんな事があった。
 尤も、その時は自分がメリーを待たした挙句、夜の用事の為に足早に店を出たのだった。メリーが呆れたような顔をして、「明日は遅れないでね」と指切りしたのを思い出す。
 店のスピーカーから、控えめな音量で音楽が流れている。時計の振子の音、カウンターの向こうで薬缶がしゅうしゅういう音。ずっと××と話していたせいか、今まで気にもならなかった音が大きく聞こえる。
 別に何かが欠けているわけでもないのに、蓮子には何かが物足りなかった。それが何だか分からないのが、余計にその気分を助長した。
 次第に外も暗くなってきたので、蓮子は席を立って会計の前で財布を出した。だが顔見知りのマスターは首を振った。

「お連れさんが払って行ったよ」

 年下に奢られていたとは、と蓮子は片付かない気持ちでいたが、無理矢理に代金を押し付けた。マスターは眉をひそめた。

「困るよ」
「取っといてよ」
「あたしは出したもの以上のお金は受け取らない性質でね」

 押し問答だ。蓮子は諦めて、言った。

「じゃあ次に来たお客さんに、珈琲一杯サービスしてやって」

 それならいいでしょ? と言う蓮子に、マスターは肩をすくめただけだった。
 雨脚は弱まっていなかった。傘をばらばらと叩いて、足元には水たまりを作っている。
 灯り始めた町の明かりがそこに照り返してゆらゆらと揺れていた。


  ○


「ひゃあ、冷たい!」

 両手で雪をすくった××が、嬉しそうに悲鳴を上げた。
 法観寺八坂の塔を望む小道を、雪が白く染め上げていた。そこから見える八坂の塔の屋根や、道の両脇に立つ古い建物の屋根も雪化粧である。
 年が明けてからも、降る雪はみぞれのようであったり、もしくは雪の後に雨に変わったりして、積もる事がなかったのだが、一月の終わり、大寒の名に恥じぬ寒波が京都に訪れ、久方ぶりに大雪が京の町に降った。
 かねてからの約束通り、蓮子は××と連れ立って雪の京都を歩いた。特に目的もなかったが、××はすこぶる満足そうであった。
 二人は御苑で待ち合わし、丹塗りの平安神宮や南禅寺を巡って、法観寺から清水寺に下り、五条通を西へと進んだ。
 昼前まで降っていた雪は止んでいて、雲も何処かへ流れたらしい、空は抜けるように青く、いいお天気である。その分空気がしんしんとして、顔の皮が突っ張るような心持がした。

 昼食を食べて烏丸から電車に乗り、嵐山まで行った。
 桂川を挟んで渡月橋の向こうに見える嵐山もまた、木々の葉ひとひらずつに雪が積もって、それが午後の日を受けてきらきら光っていた。日差しは強いようなのに、気温が低いせいだろう、積もった雪は返って冷たく硬度を増しているように思われた。

「蓮子さん、甘酒買おう、甘酒!」
「はいはい、転ぶから走らないの」

 年相応の無邪気さではしゃぐ××に、蓮子はすっかり保護者の気分であった。
 甘酒を買った二人は、茶屋の軒先に置かれた竹の縁台に腰を下ろした。周囲には同じように雪景色を楽しみに来た人たちが立ったり座ったりしている。縁台に敷かれた毛氈や、その上に差された大きな番傘の赤色が雪の白に映えていた。
 熱い甘酒をふうふう言いながら啜ると、冷えた体に染みるようであった。口元で甘酒を吹き冷ますと、立ち上る湯気は甘酒のものなのか、自分の息なのか分からない。

 ひゅうひゅうと風が出だして、知らず知らずに足をすり合わせるようにして体を縮込ます。手袋や耳当てがあるから、体の先が冷えるという事はないけれど、むき出しの顔はやっぱり張りつめたようにぴしぴしする。
 蓮子と××はしばらく黙ったまま、並んで座っていた。遠い嵐山に当たる日が傾くほどに、見える風景も表情を変えるように思われた。
 また風が吹いて、体を震わした蓮子は××の方を見て、言った。

「ねえ、何処かお店に入ろうか」
「そうねえ」××はすんすんと鼻をすすった。「寒いし、そうしましょうか」

 二人は連れ立って手近な喫茶店に入った。大衆喫茶といった趣で、照明も明るいし、かかっている音楽も流行りものである。同じように寒さから逃げて来たといった態のお客が詰まっていて、暖房が効いているのもあり、席に付いて少しすれば上着まで脱ぐような有様であった。
 珈琲と軽くつまめるものを頼んだ。夕飯には早いが、昼食には遅い。小腹の減る時間帯である。
 運ばれて来た珈琲を啜る。合成物で、大して旨くもないが、初めから期待していないので何の事もない。
 ふと向かいを見ると、××も珈琲を啜って、目をぱちぱちさせていた。蓮子は呆れたように砂糖の壺を差し出した。

「ちょっと、砂糖とか入れないと苦いわよ?」
「へ、平気だもん……」

 ××はぷいとそっぽを向き、珈琲を啜って、やっぱり顔をしかめた。背伸びしたいらしい。蓮子は苦笑しながら、しかし何処となく微笑ましいような気分で、苦い珈琲と戦う××を眺めた。
 今日歩いた場所の感想など取り留めもない話に耽り、珈琲をおかわりする。××は一杯目を半分であきらめたらしい、ミルクティーを注文し直した。

「山の緑とか、毛氈の赤色って雪とのコントラストがホントに綺麗! 何だか空気も澄んでる感じがして、凄く楽しかった」
「わたしは××のはしゃぎようが楽しかったけどね」

 からかうように言うと、××はぷうと頬を膨らました。

「もう! 子ども扱いして!」
「だって子供じゃない」
「そりゃそうだけど……そりゃそうなんだけど……」

 ××はもじもじして、誤魔化すようにミルクティーを飲んだ。それが可笑しくて、蓮子は思わずくすくす笑った。

「でも、いずれあなたも大人になるわよ。望む望まないにかかわらず」
「そうね。みんな年を取って、いずれは死んでいくもの」
「だから今焦って背伸びしなくてもいいじゃない」
「あら、そうやって背伸びできるのも子供の特権じゃない?」

 それはそうかも知れない。蓮子だって、子供の頃は大人に負けじと色々な些細な面で背伸びをした記憶がある。

「蓮子さんって、どういう子供だったの?」
「さあ? 理屈っぽくて嫌な子供だったかもね?」
「えー、そんな事ないと思うけどな」
「好奇心は旺盛だったわね、いろんな事に対して」
「そっかー。わたしも似たような感じかも」

 次第に窓の外が暗くなって、風景が曖昧に、しかしシルエットだけはくっきりと浮かび上がるようになって来た。店の中も客の数が減って、妙に広々としたような気がする。
 窓の外を見ていた××は思い出したように蓮子の方を見た。

「ねえ、蓮子さん」
「なに?」
「死ぬのは怖い?」
「……物騒な質問ね。まあ、人並みには怖いと思ってるけど」
「わたしは怖いわ。とても」××は俯きがちに言った。「もし死んじゃって、わたしのした事や発見が残ったとしても、わたし自身の事は忘れられちゃうのが、怖い」
「それは仕方がないと思う」
「うん。でも怖いの。それに、蓮子さんと会えなくなるのも怖い。死んじゃったら、こうやって一緒に雪を見るのも、お茶を飲むのも出来なくなっちゃう」

 水をかけられたような気分になって、思わず蓮子は俯いて××から視線を逸らした。
 会話が途切れて、どちらともなく席を立ち、連れ立って店を出た。外は相変わらずしんしんと冷えていて、日が落ちた分だけ余計に寒い気がした。
 嵐山の駅で電車が来るまでどちらもしゃべらなかったが、電車に乗ってから、××がおずおずとした口調で言った。

「あの……さっきは変な事言ってごめんなさい」
「ああ、気にしないで。その怖さ、わたしにも覚えがあるから、つい、ね」
「そっか、蓮子さんも……」

 瞬く間に電車は駅に着いて、蓮子は降りた。

「蓮子さん、ありがとう。今日はとっても楽しかった」
「うん、こちらこそ。気を付けて」

 蓮子は電車に乗って遠ざかる××を見送った。電車が行ってからも蓮子はしばらくホームに立っていたが、不意に吹いた風に体を震わして、くるりと踵を返して改札を出た。


  ○


 耳元で電話が鳴っているので、蓮子は目を覚ました。台所のテーブルの前で、椅子に座ったまま寝てしまったらしい。テーブルの上には麦酒の空き缶とブランデーの空き瓶が転がっている。

「ん、んん……」

 こめかみを押さえて、ぐるぐる回る視界を誤魔化すようにして、何とか電話を取った。
 電話しているうちに頭が覚醒して来たが、二日酔いの体は思うように動かない。電話を切って、蓮子はふらつく足で立ち上がった。

「急がなきゃ……でも、ひとまず……シャワー……」

 ふらふらしながら服を脱ぎ、立っているとふらつくので、半分壁にもたれかかって、冷たい水を頭から浴びる。滴を垂らす前髪をかき上げ、ぶるぶると頭を振る。
 タオルで乱暴に体を拭き、何も着ないまま冷蔵庫から麦茶を出して注ぐ。たちまち汗をかくグラスを一息であおると、幾分かましな心持になった。
 落ち着いたところで下着をつけ、ブラウスにスカートをはいて、帽子を片手に早足で外に出た。
 初夏の日差しがぎらぎらと容赦なく照り付けていて、しばらく雨も降っていないから、地面から陽炎が立ち上っているように見えた。まだ少し湿ったままの髪の毛が、もう乾くような心持がする。

「あー、と」

 蓮子は帽子を目深にかぶり、うだるような暑さに顔をしかめながら、出町柳から電車に乗って京都駅まで出た。
 京都駅は人類の宇宙進出に伴って巨大化し、星団との行き来の拠点にもなっている。無暗に広い駅を歩き回り、蓮子は目的地を見つけて入り込んだ。

 そこは駅の一角にある小さな医務室であった。緊急の患者が運び込まれたり、体調を崩した人間を休ませたりする場所らしい。
 案内された部屋に入ると幾つかのベッドが並んでいて、白いカーテンが揺れていた。窓は開け放されていたが、磁気膜を使っているのだろう、風は入るが、外の気温が入ってくることはなかった。
 ベッドですうすう寝ているメリーを見て、蓮子は嘆息した。他に患者はいないらしかった。
 傍らに立っていた看護師にぺこりと頭を下げる。

「ご迷惑をかけました」
「いえいえ。まあ、単に寝ているだけですので、なんの心配もないですよ」

 何でも、星団からの移動船に乗っていたメリーはその中で眠りこけ、添乗員がいくら起こしても起きず、止む無しと医務室へ移された。検査の結果別に体調に異常はないのだが、とにかく眠りが深く、起きない。寝言で「蓮子」と言うので、失礼ながら携帯端末を調べさせてもらって、蓮子に連絡した云々。
 看護師は出て行って、蓮子はベッドに腰を下ろしてメリーの髪を撫でた。ふわふわしていて、手触りがとてもよい。
 京都駅の医務室から電話があった時は思わず青ざめたが、こうやって目の前で暢気に寝息を立てているメリーを見ると、ホッとすると同時に何となく腹が立った。忘れかけていた二日酔いもぶり返して来る。

「メリー……メリーったら!」

 蓮子はむにっと乱暴にメリーの頬をつまみ上げた。

「ふあっ!? いひゃい、いひゃい!」

 起きなかった、というのが嘘のようにメリーは目を覚ました。目の前に蓮子がいるのに驚いた様子であった。
 事の顛末を話すと、ぽかんとして首を傾げた。

「全然覚えてない……」とメリーは頭をかいた。「地球行きの船に乗って、それから……」
「寝ないで働いてると死んじゃうわよ……」
「寝ないで働いてるわけじゃなくて、寝れないからその時間を使ってるだけよ」
「うっぷ……」
「……なに、どうしたの、蓮子? ……二日酔い? 誰かと? 一人で?」
「うう……」
「一人で二日酔い……まったく、もう学生じゃないんだから……」

 メリーは呆れたように言った。
 ひとまずいつまでも医務室に居るわけにもいかない。二人は連れ立って電車に乗り、祇園四条で降りた。
 鴨川沿いは車の数も昔より減り、不要なアスファルトもはがされているとはいえ、夏は暑い。影は濃く、暑い風に乗って川端の草いきれが流れて来る。
 鰻屋の納涼床に腰を下ろして、冷たいお茶を買って飲んだ。遅い昼時で、良い具合に腹も空いたので、二人は鰻を食った。胸がもたれるようで、蓮子は半分ばかりでよしてしまったが、その残りもメリーが平らげたので、蓮子は思わず目を丸くした。
 学生の一団が服のまま川に入ってはしゃいでいる。土手に等間隔に並んだカップルがいる。

「ああ、やっぱりこっちはいいわねえ」

 メリーは伸びをした。蓮子は片付かない表情で麦茶を啜っている。

「まったく、連絡もなしに突然来るなんて、驚いたわよ」
「だって蓮子を驚かそうと思ったんだもの」
「ええ、驚いたわよ、すっごく驚いた。連絡もなしに来て、それで医務室で寝てるなんて。寿命が縮んだわよ」
「もー、悪かったってばー」

 メリーはからから笑った。蓮子は嘆息して麦茶を飲み干した。そうしてテーブルの木目を見た。二日酔いは多少収まったが、別の気がかりが蓮子の表情を硬くしていた。メリーは怪訝そうに目を細めた。

「二日酔いにしても、何だか元気がないわね」
「……うん」
「何かあったの?」
「……どうしようかと思って」
「何が?」

 ちろちろと軒先に下がった風鈴が音を鳴らす。
 蓮子は手に持った団扇をぱたぱたと煽いだ。髪の毛が揺れる。
 周囲のお客らは、銘々に初夏を楽しんでいる。昼酒を飲む連中もいた。鰻のタレの焦げる匂いがする。
 蓮子はぽつぽつと話をした。

「――その子がね、共同で研究を始めないかって言うんだ」
「へえ」
「……月の研究施設で、ね」
「じゃあ、お地球見が出来るわね」
「ああ……そっか」

 蓮子はテーブルに肘をついて、川の方を見た。

「そんな機会は中々ないだろうし。どうしようかと思って」
「それで悩んで深酒したの? 蓮子らしくもない」
「それは言わないで」

 蓮子はぐたっとテーブルに伏した。
 メリーは特に目立った感情もない表情で、蓮子を見る。

「行かないの?」
「ずっと地球に居るだろうと思ってたしなあ……別に理由はないんだけど」
「じゃあ行くの?」
「……でも行くのもね」
「面倒なんだ」
「はーあ……」

 蓮子は納涼床の欄干にもたれて、空を見上げる。ちぎれたような雲の下でとんびが一羽、ぐるぐると輪を描いている。メリーは面白そうな顔をして麦茶を飲んだ。そうして、考えたように目を伏せた。
 さあさあと川音がして、そこに照り返す日が光るのが、目の端でちらちらする。

「あのね」メリーが言った。
「ん?」
「わたし、眠れるかも知れない。普通に」
「……夢も見ずに?」
「今まで来る途中で寝てしまうなんてなかったからね」
「危ないわよ。今度はちゃんと連絡してから来なさいよ、迎えに行くから」

 蓮子が言うと、メリーは笑って首を振った。

「ここまで来なくていいかもしれないよ? 寝るために」
「……そっか」
「何かが変わるかもしれない」
「じゃあ……」蓮子はメリーの方を見た。「もう来ないの?」
「どうしよっかなあ」メリーはいたずら気に笑った。「でも、そうすれば心置きなく月に行けるでしょう?」
「まあ」
「人生に二度はないのよ」
「うん」蓮子はごろりと仰向けに転がった。「だから面倒は嫌だ」
「生きる事って繰り返しだけじゃないわ」

 メリーはテーブルに身を乗り出して、蓮子を覗き込んだ。

「今の研究も新しい人が頑張ってくれてるし、新しい事を始めたいなあ、わたしも」
「新しい事、ねえ」
「そう、新しい事」
「例えば?」
「そうねえ、いっそ妖怪にでもなってみようかな?」

 蓮子は笑った。メリーも笑いながら立ち上がって、蓮子を促した。蓮子も立ち上がり、店を出る。
 鴨川に沿って、家に帰るでもなく、一歩一歩を確かめるようにゆっくりと歩いた。
 高野川と賀茂川の交わる辺りで、向こう側に見える糺の森を眺める。日は暮れかけて、焼けた空の色が川に照り返している。森は黒いシルエットになっていた。

「あの辺も、よく見に行ったよね、学生の時に」
「ああ、行った行った。冬の夜は結構不気味だったわね、夏はデルタで学生が騒ぐからうるさかったけど」
「花火が上がったりしてねえ」

 メリーはくすくす笑った。
 こうやって並んで立ってみると、まるで学生時代に戻ったような気がした。向かいから吹く風も、耳に届く夕暮れの喧騒も、昔とちっとも変わった気がしないのに、確かに違うものに感ぜられるのが不思議だった。
 蓮子はメリーの方を見た。メリーも蓮子の方を見る。目が合った。光源があるわけでもないのに、瞳の中でちらちらと不思議な光が揺れている気がした。

「どうしたの?」

 メリーが言った。蓮子は「いや」と元通り前を向いた。

「いい時間だし……」
「家に帰る?」
「ううん」蓮子はいたずら気に笑って、メリーを見た。「博麗神社の入り口、見に行ってみない?」
「ああ」メリーは嬉しそうに笑った。「それは、いいわね」

 二人は連れ立って、道を下って行った。長い影が、二人の足元から伸びていた。

「ねえ、メリー」
「なあに?」
「……ううん、何でもないや」
「ふふ、変な蓮子」

 夕暮れの涼風が吹いて、辺りの草がさわさわと鳴った。
 赤く染まった空に、星団の輪郭がぼんやりと浮かんでいる。
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コメント



0.990簡易評価
2.100名前が無い程度の能力削除
情景描写が相変わらず綺麗。
変わらない二人の関係も素敵でした。
3.90奇声を発する程度の能力削除
雰囲気も素敵で良かったです
4.100名前が無い程度の能力削除
ちびえーりん見たいです
秘封は何十年もずっとこういう関係続いてほしいですね
関係ないですがずっと前に言ってた秘封の話しかこうっていってたのはこの話なんですかね
5.100名前が無い程度の能力削除
生活感のある描写で良かったです
メリーはなんだかんだで蓮子の世話をしてくれそう
9.100絶望を司る程度の能力削除
これはいい秘封。面白かったです。
10.90名前が無い程度の能力削除
あらゆる変化の可能性を感じさせるのに、まったく変わらないであろう2人を感じることができる作品でした。
12.100名前が無い程度の能力削除
この、触れれば壊れてしまいそうなほど儚く脆く繊細に見えるのに、ナイロンザイルよりももっと強固な2人の縁が、強い印象を残します。小道具や設定の使い方が上手く、世界が広々と感じられて、その中でのミクロさの感じがまた良いです。
24.100名前が無い程度の能力削除
大人な二人、素敵でした
27.100名前が無い程度の能力削除
 とっても楽しませて頂きました。