世の中は大抵、不条理だ。
何故ならば、不条理の反対、道理に適う、とは主観的な概念でしかない以上、別々の価値観を持った他者同士が関わり合う世の中において、道理に適う物事とはつまり偶然的な価値観の一致に他ならず、大抵は個人がそれぞれ道理に適う行動をした結果として、それぞれの他人の目が価値観の相違からそれら行動を不条理と見なす。
例えば俺の名前が○○○であること。これは俺の親にとっては最高にめちゃいけてるクールな名前として道理に適っていたが、俺にとってはけったいな名前、不条理でしかない。まるまるまる、馬鹿らしい名前だ。思わず○に好きな名前を入力して感情移入度を高めたくなる。馬鹿らしい名前だ。巫山戯てる。
それと俺の姉の名前が(^_^;)であること。名付けた親でさえ読み方がわからない。これも同じだ。道理に適ってない。本人はカトリーヌ・ボンソワール・種子島・トシ子という名前に成りたがっていたが、あるいはその名前さえも、他人からは不条理な物に見えてしまう。
名前が個人の有り様を表すとするならば、俺はまさに不条理の中で、不条理そのものとして生きてきたわけだ。
だから大抵の不条理さには驚かないつもりはあった。
しかしだ。
自分が首輪を填めて紐で繋がれた上で、街を練り歩き、さらにそのまま酒の席に出ることになるとは、流石に想像した事すらなかった。
厳密には酒の席ではなく、鬼の一人との面会ではあるのだが、鬼との面会=酒の席に他ならない。
「で、さとりはその新しいペットの迷子になった兄弟を捜してるわけかい?」
力の勇儀と名乗った鬼は酷く酔っていて、畳の上に寝ころんで何度も同じ事をさとりに訊いてきてた。
さとりは座布団にちょこんと正座し、おちょこを口に運びながら、訊かれる度に、「はい、すごくわさわさするんですよ」とにこやかに答え。隣の座布団で首輪に繋がれた俺は、「いや、ペットじゃねえぞ」と何度も説明しなければならなず。お燐はつまみの鳥ささみをひたすら食っていた。全員の顔が真っ赤に染まってるのは、囲炉裏に炭がたっぷりくべられていて、汗をかくくらい暑いからじゃない。単純に酒量によるものだ。
「ペットじゃなーいなら、なーんでおめー、白狼天狗のくせに首輪なんざしてんのさあ」
勇儀の舌はもつれそうだ。間延びに間延びを重ねた口調はメロディーの無い歌にも聞こえる。酔いで目が半分閉じてしまっているが、構わず酒瓶をあおり続ける様は、清々しいほどの飲みっぷり。はだけた浴衣もなんとも言えない。なんせチョモランマみてえなおっぱいと、かっこいいケツをした奴だ。目の保養になる。
何もわざわざ今の俺の置かれたちょっとばかしシリアスな状況、(^_^;)の安否が絶望的かも知れないって時に、鬼のおっぱいとケツで目の保養をしてる場合じゃないが、仕方ない。こんな時でも、ついつい目がいっちまうのが男のサガってもんだ。奴がチョモランマみてえなおっぱいと、格好いいケツをしてるのが悪いのであって、俺は悪くない。
「だーかーらー、おめーはなーんで首輪、してんだっつーのお」
なんで首輪をするはめになったのかは、むしろ俺が自分自身に問い直したい気分だったが、「成り行きだ。気にしないでくれ」とだけ答えておいた。
そりゃ俺だって一度は外そうとはした。
実際に大通りで意識を取り戻した時に、俺は首輪を外し、巫山戯るなと、さとりに怒鳴ってさえやった。
が。
さとりが往来でしくしく泣き出したんだからたまらない。街一番の大通りだ、衆目の数は百やそこらじゃない。お燐も俺を責めるような目で見ていた。
さらには、『私の事をとんでもない変態とお思いですね』なんて、さとりは俺の思考を読みとってなじってきやがった。
『心を読んでなじってくるなんて、ろくでもない奴だとお思いですね、やっぱりさとり妖怪は嫌われてしまうのですね』
大通りで泣かれた挙げ句に、奴の能力を駆使した悪質ななじりを受けちえば、俺はあれだ。
負けた。
大人しく自分で首輪を填め直した。情けないが。
『ほら見ろさとり、首輪してやったぞ、泣くんじゃねえ。泣きやめって。な? 尻尾もわさわさしてやるからよ』
俺が尻尾をわさわさしてやったら、さとりはやっと泣きやんだ。
という具合だ。
そうして元妖怪の山四天王へ訪問、と相成ったが、星熊勇儀は俺たちが訪問した時には既に、べろんべろんに酔っぱらっていた。まともな話が出来たもんじゃないが、訪問自体はさとりが散歩の口実にしてただけで、俺にもさとりにとっても茶番でしかない。お燐だけは、俺が鬼の話を真面目に聞きに来たと思っていた。
結局、勇儀の屋敷でやった事と言えば、首輪がどうしたやらと馬鹿話を繰り返し、勺をし勺をされ、酒を飲ませ飲まされた。それだけだ。
俺とお燐は昨日も神社で散々飲んでただけに、少々うんざりな待遇だったが、さとりはペット以外と酒を飲むのは久々だと言って、終始上機嫌で杯を重ねて潰れた。お燐も潰れ、勇儀も潰れた。
普通なら天狗が鬼に飲み比べで敵うわけがないが、奴は俺たちが来る前から飲んでたわけだ。俺だけが生き残った。
日付が変わっていた。
囲炉裏の火は消えかけていて、畳の上には空き瓶や食い物のカスが無秩序に散らばり、三人の女がしょうもねえ恰好で寝てた。静かだった。寝息だけが聞こえる。
俺の地底での第一日目は、空き瓶と食い物カスと、涎を垂らして寝てる三人の女で終わったらしい。
そこそこ悪くはない一日の終わり方だ。吹雪の中を夜明けまで飛び続けたり、砂漠の砂嵐に嬲られる中で、野宿したりするよりはずっとマシだ。だが、茶番は茶番、こんな事をしてたって俺はどこにも行き着かない。
涎がどうしたってんだ。えらく上等だな? お燐やさとりを振り回して満足か俺は?
何しに地底に来たんだ俺は? 決まってる。(^_^;)に会いにだ。
あいつと再会して、それ自体を喜び合いたかった。
でもそれももう、たぶん無理だ。
だから、これなのか? 茶番をやってた。死ぬほど無意味な数時間。
なら俺はあれか、こんなんをこれからもやるのか? 明日も明後日も。
違うだろ。これはよ。
ああ。違う。えらくえらく違う。間違ってる。どこまでも間違っている。
俺は間違ってる。あいつと再会して喜び合いたいのは、俺の勝手な願望だ。
俺がやるべき事と願望は違う。
俺は(^_^;)を見つけて、トシちゃんと言ってやらなきゃならないんだろ。
そうだぜ。あいつがどうなってても、あいつが俺をどう思っていても。
俺が(^_^;)から逃げてどうする。それこそあいつへの裏切りだ。
俺があいつを救ってやらなきゃ。他の誰も救ってやれない。
「俺がやんなきゃなんねえんだ」
自嘲の笑い。ってやつだ。俺は五秒だけ声を出して笑った。寝息だけが聞こえる静かな静かな部屋の中で一人で笑うと、まるで世界が終わった後に取り残されたような気分になった。俺は寝ている三人の中から配偶者を選んで、滅んでしまった地上に、新しい生命の系譜をあまねく芽生えさせなければならない。アホか俺は。馬鹿らしい妄想だ。
オーケー、ここで仕切直しだ。それでいい。だろ?
ああ、小休止みたいなもんだ。もんだった。そう思おう。
すごろくで言えば一回休み、あるいは二回休み、三回休み。
またすぐに俺はサイコロを振る。出た目がいくつでも数の分だけ進む。
それでいい。
一なら一に相応の、六なら六に相応の、単なる俺の未来がある。
それが俺にとってどんなに辛い未来だろうが、そこで俺はトシちゃんとあいつに言ってやる。
オーケー。
その通りだ。見失いそうになってた。俺は自分のために(^_^;)を探してるんじゃない。
(^_^;)を救ってやるために、(^_^;)の所へ行かなきゃならない。
ああ、そうだ。
そのためには、俺は訊かなきゃなんねえ。
一回休みは今この瞬間で終わり。かくしてサイは投げられる、ってやつだ。
「さてと」と俺は言った。また独り言だ。
お燐とさとり、どっちを叩き起こして(^_^;)の事を訊くべきか。
なんなら両方でもいいんだが。
まあでもあれか、その前に。
「一服してえな。煙草買いに行くか」
結局俺はへたれか。まあいい。二回休みだ。んな事を考えながら、居間の障子を開けたらだ。
「あれぇ……お兄さんどこ行くんだい?」
お燐が目を覚ましたらしい。ふらふらと起きあがろうとしてた。なんてタイミングだ。
さあて。どうすっか。
訊いちまうか? ここで。
ああ、うん。それも悪かあねえが。
なんだその、ええと、そう。
三回休みだ。
「ちょっくら酔い覚ましに頭冷やしてこようと思っただけだ。お前も行かねえか?」まあ、俺はんなもんだ。
お燐はこっくり頷いた。おぼつかない脚で立ち上がって、廊下を俺の後ろにヨロヨロ付いてくる。
えらく頼りないが、俺の歩調も似たようなもんだ。
玄関で靴を履くのに、紐を結ぶのを二人で何度もやり直して、やっとこ庭まで出てみれば、大粒の雪がどっさり降ってやがった。塀の外から大通りの賑わいが届いてくる。お燐がよろけた。敷石に躓いたらしい。すっころぶ前に首を捕まえてやった。ろくに歩けないようだ。しょうがねえ。負ぶってやった。「暖かいねえ」なんてしみじみ言ってやがる。言わずもがな相当酔ってる。
千鳥足で門をくぐり、大通りへと歩き出すと、すぐに妖怪たちの雑踏に飲み込まれた。商店の呼び込みがあちこちで喚いていて、所狭しと立ち並ぶ屋台からは、おでんやら焼き鳥や蒲焼きの匂いが漂いだし、混ざり合い、立ち込めている。
午前零時過ぎ、妖怪たちがもっとも活発になる時間帯だ。街は雪の中でも熱気に満ちている。
どこへ向けて歩いてるんだか自分でもわからない。ひといきれの波に合わせてふらふら歩いていく。
まあ煙草なんざ、適当に見っかるだろうが、いやそうじゃねえ。
俺の背中に居る化け猫娘に訊かなきゃならない事がある。
あるはずなんだがなあ。
「いい匂いがするねえ。お腹減ったよ~」
お燐がへにょへにょな声で言った。俺の肩越しにラーメン屋の看板を見詰めてだ。
さんざんつまみを食ったくせに、まだ食い足りないらしいこいつは。
「俺ぁもう腹いっぱいだぞ」
「あのお、スルメ食べませんか?」
「あ? 何言ってるんだお燐、おめえスルメなんか腹壊すぞ」と、スルメを食べませんかの声に、顔を横へ向けてみれば、当たり前だが、言ったのはお燐じゃなかった。
お燐は俺の背中に居るわけで、真横に平行して歩いてた居たわけじゃない。俺もそれなりに酔っている。
俺の真横に歩いてたのは、一言で言えばかわいい妖怪娘だ。はつらつとした大きな目に短めの髪がよく似合っている。
さらにもう一言付け加えるなら、極めてイカ臭いのが特徴だが、目が合って、どうにもニヤけちまった。
「お兄さん、それスルメ妖怪だよ。伊香崎夏想美って言うんだ」
「そうか、ゲソミちゃんか。かわいいじゃねえか」と言う間にも口の前にゲソが差し出されていて、飛び切り好い加減に炙られた美味そうな匂いに、思わず囓りついちまった。お燐もだ。むしゃむしゃ食った。
吸盤がこりこりしてて美味かった。スルメ妖怪がむしゃむしゃ食う俺たちを、嬉しそうに眺めてた。
と思えば誰かが俺たちにぶつかってきて、そいつはこけた。眼鏡をかけたおっさん妖怪だった。頭は禿げてる。いきなり土下座して俺に謝りだした。もしかしてこいつが謝り妖怪か?
「で、お燐。どうすりゃいいんだ。こいつらの対処は」
「そのおっさんは土毛佐ヱ門の介、謝り妖怪だよ。気にせず歩けばいいのさ。食わせ飽きたり謝り飽きたらどっか行くよ」
「そうか、じゃあ気にせず歩くか」
スルメ妖怪と謝り妖怪のフットワークは見事だ。俺の千鳥足を完全にトレースしながら、スルメ妖怪は俺とお燐の口に、間断なくゲソを差し出し続け、謝り妖怪は俺たちの背後から分間九十回ほど申し訳ございませんでした、と連呼する。もちろん土下座しながらだ。歩く相手を追跡しながら一秒間に1.5回土下座をすると、蛙がぴょんぴょん跳んでるみたいになる。
地上でこんな大道芸をしてたら、翌日のゴシップ紙の一面を飾ることは間違いなさそうだが、この街じゃたいして俺たちを注目する奴はいない。これじゃあ確かに、街中でおかしな名前を彫っていたりしても、誰も気に留めやしないだろう。
「ねえお兄さん。明日からはどうするんだい?」
お燐も慣れたものらしい。スルメをむしゃむしゃ食いながらも、スルメ妖怪や謝り妖怪の存在を、完全に忘れたかのように、極プライベートな話題を切り出してきた。
「明日からか」
明日も何もねえ。俺は今けりを付けるんだろ? 違うのか?
「明日もさとり様に散歩してもらう?」
ろくでもねえ。
「そいつだけは遠慮しときたいな」
「じゃあ、明日からはどうするんだい?」
「明日からか」もう一度呟いてみた。
時間稼ぎの意味しかない呟き。どこにも行き着かず彷徨う言葉。究極のナンセンス。
スルメを飲み込む音が耳元でした。お燐は俺の左肩に顎を乗せて、一つため息を吐いた。
「あたいはね。わからなくなる事があるんだ」
「あ? 何がだ」
「何が良くて、何が良くないのか」
「散歩は良くねえだろ。ありゃあダメだ。二度とゴメンしたいもんだぞ。首見てくれよ。痕が付いちまってら」
「そうじゃなくてさ」
「じゃあなんの事だ」
「さとり様とかもさ」
「さとりがどうかしたのか?」
「ううん、例えばだよ。さとり様は例えばなんだけど、例えばだけどさ、さとり様は心を読めるじゃないさ」
「ああ、読まれたな散々、チョモランマとかいらん事までな。ありゃあ便利だが、ろくでもねえな」
「だからさ、さとり様は他の妖怪から嫌われたんだよ。いっぱい、いっぱい」
「でもよ、俺は思うんだが。あれっつうのは読んだことを相手に言わなきゃ。相手から嫌われることも無いんじゃねえのか。読まれた方は、読まれたかどうかわかんねえしよ。俺がさとりなら黙ってにやにやしとくけどな」
「でも、さとり様は言うんだよ。読んだことを」
「俺もそれが不思議だった。さとりは、なんでわざわざ言うんだろうな。嫌われるのが好きなのかね」
「そんなわけないよ。逆だよきっと。さとり様はわかって貰いたいと思ってるんだよ。きっと、みんなにわかってもらいたいんだよ。心が読めちゃう自分をわかって貰いたいと思ってるんだよ」
「でも、言えば言うほど嫌われるわけか。不器用な奴だ。言わなきゃ、嫌われないのにな」
「あたいも、そう思う。秘密にしてたほうが、色んなひとにとって良い事ってあるんだよ。黙ってた方がみんなが幸せな事っていっぱいあると思うんだ。お兄さんはそう思わない?」
「そういう事も。ああ。間違いなくあるな。知りたくない事ってのは、俺だって、ある」
「でもさとり様はね。全部の事が知れちゃうんだ。知りたくないことでも、知らなくて良いことでも」
「そりゃ難儀だな。俺だったら音を上げちまうかもな」
「だと思うよあたいも、だって知ってる事ばっかりがどんどん増えるのに。話しちゃいけない事も、話して良いことも。だからせめて、自分に関する事だけは口に出すんだよ。そうしないと、きっとパンクしちゃいそうになっちゃうんだ」
「言わずにはいられないわけか、さとりは」
「うん。大事な事をずっと抱えてるとねお兄さん。それが大事なことであればあるほど、パンクしちゃいそうになるんだ。どうしていいかわからなくて。言って良いのか、どうかわからない事もある、でしょ?」
お燐が俺の首にしがみつかせていた両腕に、ほんの少しだけ力が込められた。
なんてことない、ほんとになんてことない力の込められ方であって、どんなニュアンスも無かった可能性だってある。
だけど。
「あたいね、お兄さんに言わなきゃなんない事があるんだ。大事な事だよ。とってもとっても大事な事なんだ。でも、でもね。わからないんだ、あたい」
無限にあったはずのニュアンスの可能性が一つに絞られた。
酒が回りきって火照っていた頭の中で、零下三十度の風が吹いた気がした。
街の喧噪が遠のいた。すぐ身近にあるはずの雑踏が、まるで三千キロの彼方から聞こえてくるようにだ。
お燐の息使いだけが、やけに身近に、大きく聞こえ、背中に伝わる鼓動が暖かい。早くなっている。
俺の鼓動もだ。早くなってる。「なんだお燐、俺に惚れたか」毎度の軽口も、いつも以上にろくでもない。
「馬鹿だね。全然違うよ」
お燐は笑って、俺の耳を後ろから乱暴に引っ張った。わざとらしい笑い声だ。詰まらない冗談を、お情けで笑ってくれてるというよりは、緊張を逃す先としての笑い。
お燐は言おうともしてたわけだ。(^_^;)の事を。
なのに俺は、ひたすら答えを聞くのを引き延ばし続けるだけ。
情けないもんだ。てめえの度胸の無さで、いつまでお燐を悩ませるつもりなんだ俺は?
「悪かったお燐、俺のつまらねえ用事のせいで、変に気ぃ使わせちまってたみたいだな」
ああ。もういいさ。十分だろ。九百年、悪くない夢を見続けられた。十分だ。ここで、けりをつけるんだ。
「俺もお前に訊かなきゃなんねえ事があるんだ。トシ子の事だ」
耳を弄ってたお燐の手が止まった。
「ずっと覚悟はしてた。してたつもりだった。自分じゃタフだと思ってた。だって九百年誰にも頼らず一人で生きてきたんだぞ。タフになったんだと思ってた自分ではな。でも逆だ。九百年掛かっても覚悟仕切れないくらいヤワな奴だったみてえだ。上等だろ、笑えちまう、だがな、あいつに言ってやらなきゃならないことがあるんだ。これだけは俺がどんなにへたれでも、やんなきゃなんねえ」
俺は言いながら大通りをフラフラ歩き続けた。何匹もの妖怪とぶつかり、その度によろけ、その度に言葉もぶれ、肩に乗っかったお燐の顎がかくかく揺れた。
「なあお燐、あいつは、死んでたりするのか?」
三秒だけ間があった。
長い長い三秒間だった。
俺の言葉が上空三万メートルくらいまで上昇していって、それから三時間かけて落下し、やっとこお燐の耳に届いたかのような。
そんな三秒間の後だ。
「うん」とお燐は俺に答えた。
お燐に案内されたのは河原の近くの野原。ちょっとした丘。河を見下ろしても湯煙と雪のせいで、白くけむって川面は見えない。街から長い時間を掛けて歩いてきた。飛ぼうとしたら墜落したからだ。俺がまともに飛べなかったのは、酔いのせいだけじゃない。歩いてくるのに時間が掛かったのも、そうだ。
丘にあったのは墓だった。
墓だ。
長方形の石に、『カトリーヌ・ボンソワール・種子島・トシ子 之墓』と彫ってあった。
天然の石を荒く削っただけの墓標だが、間違いなく墓だ。何しろ墓と書いてある。墓以外の何物にも見えなかった。
もしこれがベンチだったとしたら座る部分が高すぎる上に狭すぎ、テーブルだとしたら、皿を一つ置けば他は何も置けないくらい不便そうで、彫刻作品だとしたら前衛的すぎる。
それに、こんな彫刻作品にタイトルを付けるなら、『墓』以外は絶対に有り得ない。
この上なく完全完璧にトシ子の墓だった。
(^_^;)は死んでいた。
「少し前にね。仕事してる時に見つけたんだよ」
お燐が俺の左肩の上からぽつりと言った。スルメを噛みながら、謝り妖怪の謝る声をBGMにしてだ。俺の首にしがみつかせた両手にまた少し力が入っている。
「変な名前だから良く覚えてたんだ。こういうのを探して掘り起こして運ぶのもあたいの仕事なんだ」
死体を運ぶ仕事。お燐は死体と話すことが出来る。あいつと何か話したのだろうか?
「そうか、あいつの体はなんか言ってたか? 成仏できてりゃいいんだがな」
「掘り起こしても死体は無かったよ。それらしい怨霊も見てないね」
どんな死に方だったんだか知らないが、体が残らない事だって、そりゃあ、あるだろう。
怨霊になってないとしたら、まあ、最低限の救いだ。
「そうか」
せめて俺を恨んでたかどうか位は知りたかったが。知らない方がこれから先でも良い夢を見られるかも知れない。
けれど、墓を作ってくれる奴はあいつにもいたらしい。独りぽっちで野垂れ死んだわけじゃない。
誰だって一度は死ぬんだ。墓があるなら、そんなに悪い人生のお終いじゃあ無い。俺よりちょっとばかし早く逝っただけ、それだけだ。それだけの事だ。それだけじゃねえか。それだけだろ。
ああ……。
「ごめんねお兄さん。教えた方がいいのかどうかわからなかったんだ、あたい。迷ったんだ。最初に河原に来た時、すんごいわさわさして嬉しそうだったから、言いにくくてね。言うのが良いことなのか良くないことなのか、わからなかったんだ。言わない方がお兄さんには良いのかもなんて。お姉さんが見つからなくても、生きてると思えるだけで嬉しいなら、あたいは秘密にしてたほうが良いのかもって。さとり様にも相談したんだ。おっぱいの事で怒られた後に相談したんだ。そしたら、話すかどうかはお燐が決めなさいって言われたんだ。心が読めてしまう妖怪が本人に言って良い物事ではない、だからお燐が決めなさいって、話さない方がずっとお散歩出来ていいかも知れないけどねって。でもあたい、わからなかったんだよ。もしかしたら、お兄さんにとっても、ずっとお散歩の方が、いいのかなって」
さとりは最初から、俺のほとんど全部を見透かしてたのか?
そうなんだろうな。真実を訊く事から逃げ回ることしか出来なかったのが俺だ。さとりとしては、一方的に俺に真実を伝えたところで、俺がまともに受け入れると思えなかったんだろう。
散歩に連れ回されたり、茶番の面会をしたりと、随分回りくどい道のりだったが、結果的に俺は、自分自分の意志でここに来ることは出来た。
まあ、さとりからすりゃ、ただ単に犬の散歩したいだけだったんだろうが。奴にも感謝しとかなきゃな。
「確かにな、俺にとっちゃ、言われない方が良かった。間違いない。情けねえが、それが恰好つけない正直な感想だ」
「やっぱり、そうだったのかな……ごめんよ」
「謝るこたねえよ。俺の問題なんだ。俺がどんなに辛くてもな。お前に絶対に訊かなきゃならなかったんだ。気にするこたねえ」
俺は辿り着いた。辿り着くべき場所へとだ。
言うべき事を言えばいい。
「トシちゃん」
墓石に言ってやった。
涙の一つくらい出てきやがるかと思ったが、んな事はなかった。
今、俺が感じているものは、今まで感じた事のあるどんな感情でもない。
悲しさでも、寂しさでも、悔しさでも、落胆でも、後悔でも、絶望でも、どれでもあると同時に、正確にはきっと、どれでもない。
圧倒的な喪失。自分がなくしたものが大きすぎて、心がどういう反応をすればいいのか、判らないのかも知れない。
間違いなく、あいつは俺の世界の半分以上だった。かつて俺はそれを自分の手で失わせ、再び取り戻す事だけを考えて、九百年間、希望に縋ってきた。そしてその希望も、終わった。確実に終わったという事を自分の目で確認した。
ため息だけが漏れた。
ため息は白く漂った。雪に混じった。
お燐のため息も首筋に感じた。
いたたまれなそうな、遠慮がちなため息で、イカ臭い。
くちゃくちゃとスルメを噛む音も聞こえる。
お燐も俺も土毛佐ヱ門の介も伊香崎夏想美もスルメをくちゃくちゃ噛んでいる。
(^_^;)の一生を思ってみる。妖怪の山で白狼天狗の平凡な一家に生まれ、非凡な名を与えられ、世界を憎み、世界へ憎しみをばらまきながら、故郷へ舞い戻り、非凡な妖怪たちがひしめき合う地底で、生涯の幕を閉じる。
極控えめに言っても、けして幸福そうな生涯ではないし、もし(^_^;)がもう一度一生をやり直せるとしたら、別の生き方を選ぼうとするだろう。けど結局のところ、俺もあいつも自分の出来る精一杯を生きてきて、その結果が今なら、やはり同じ一生を歩むのかも知れない。
(^_^;)に俺が何をしてやれたのかを思い出してみた。ろくなもんじゃない。せいぜい一緒に世界ってもんを憎んでやったくらいだ。俺はあいつの憎しみを肯定して、トシちゃんと呼んでやるために、あいつを探し続けた。
だがその終末がこれか。化け猫娘を背負ってスルメを食いながらひたすら謝られ、墓らしい墓の前で涙さえ流さず、ため息を吐く。えらく上等だ。えらく虚しく感じる。
九百年の悲願を達成したはずだ。
あいつの死に場所を見つけてトシちゃんと言ってやった。
それでもだ。いや、それだからかも知れない。今更考えちまうわけだきっと。
俺にもあいつにも別の生き方があったはずだ。なんて考えちまう。
もし俺たちが弟や妹たちのように、もっと自分の名前に対して器用に振る舞えたら。
もし、俺があの時に冷や汗たらーと呼ばなかったら。
もし、もっと早く(^_^;)を見つけてやることが出来ていたなら。
例えば地底にだってあいつを探すために来たんじゃなくて、あいつと一緒に温泉巡りに来ていたかもしれない。
そういう、今、だってあり得たはずだ。
んな考えは馬鹿らしいとはわかっちゃいるが、トシちゃん、と言ってやった今更になって、どうしようもなく考えちまう。どうしようもなく。もう一度やり直せたら、なんて。
だが。
「済んじまった事だ」
呟いてみたら、気分は良くならなかったが、諦めは付けられるような気がした。世界の半分がなくなったって、諦めを付けることはきっと出来る。済んじまった事だ、と毎日五千回くらい呟いてればいい。そうすりゃ俺が死ぬ前の一瞬くらいは諦めが付けられるかも知れない。あるいは死ぬ瞬間まで諦めが付けられないかも知れないが、一つだけ確かなのは、俺はなくした世界の半分の残骸を抱えて、これから先ずっと、生き続けることになるだろう。という事だ。
笑ってた。俺は笑ってた。
小さな声を出して、へらへらと。
「もういいさ。行こうお燐」
「いいのかい?」
墓に背を向け、街の灯へ向かって歩き出した。歩調は重くはない。むしろ少々現実感が無いくらい軽く感じる。今思いっきりほっぺたを抓ってみれば、これが夢で、目が覚めるんじゃないかって、んな期待をしたくなるほどにだ。
「ああ、終わったんだ。全部な。なあお燐。さとりを鬼のとこから回収して、地霊殿に帰って三人で一緒に風呂入って、その後また飲み直そう」
「あたいもう飲めないよ」
「だったら、俺がだらだら喋っから、話だけ聞いててくれ」
「今すごく寝むいよ」
「だったら、お前の寝顔に向かって独りでぶつぶつ言ってるさ」
「寂しいよそれ」
「だな」
「がんばって起きててあげるよ」
「是非そうしてくれ、もし寝やがったら楽しい悪戯してやるからな」
「ダメ。お兄さんにはちゃんと起きてる時にしてくれなきゃ嫌だよ」
「あ?」
「冗談だよ~。ドキッとしたかい?」
盛大に笑いやがる。ケラケラと酔っぱらいの笑い方。しんみりしちまってる俺に気を遣ってるのか、まったく気を遣ってないのか知らないが、おおげさなくらい明るい笑い声だ。また俺の耳を引っ張って遊びだしてる。
「しょうもねえが、三十%くらいはドキッとしたぞ。純情な男心を弄ぶもんじゃねえ。俺はちょっくら傷心なんだ」
「起きててあげるからさ」
「ああ、ありがとよ」
「いいってことよ」
お燐は俺の肩の上で引き続きケラケラ笑った。
でも俺が五歩歩くうちにも笑い声は小さくなり、八歩目でテンポがぐっと落ちて、十四歩目には寝息に代わっていた。
しょうもねえ奴だ。
ため息が出た。ため息には、ほんの少しだけ俺の笑う声が混じっている。
乾いた虚しい笑いじゃない。ため息だって、なんてこった的な物ではなく、やや肯定的でやれやれ的な物だ。
80%のやれやれ的ため息と80%のポジティブな笑い。-60%は全てへの嘲り。これで差し引き丁度100%だ。
俺の旅は終わった。
旅の終わりに用意されてたのは最悪に近い結末じゃああったが、何も世界が滅亡したわけでもない。半分ほどが消えて無くなっただけで、背負ってかなきゃならないものが、一つ増えただけだ。
それだけだ。
完
袖が引っ張られた。雪空を仰いでハードボイルドを気取りつつ、完という文字を思い浮かべていたら、袖が引っ張られた。
土毛佐ヱ門の介が引っ張っていた。奴は俺に何か言おうとしていたが、気づいてやれてなかったらしい。
「あの、それではわたくしめはこれにて失礼させていただきます」恐縮ここに極まれりといった表情で、土毛佐ヱ門の介はペコリと頭を下げた。元々背の低い奴だが、お辞儀すると頭の天辺の禿げが良く見える。
「あ? なんだお前、もうどっか行くのか、聞いた話じゃ三十日間謝り続けるってんだったが」
「はあ、本来はそうなのですが、期間を短くしてくれとの、謝らせいただきぬし様からのご要望が多かったものですから、最近は九十倍速で謝らさせて頂いております。というわけでご本人様への謝り期間は終了しました。次はご家族の方へ、謝罪に参りたいと存じております故、これにて失礼いたします」
流石に冗談だとして笑えるもんじゃない。
「なんだそりゃ。俺はあれか、喧嘩売られてんのか?」
「と言われますと?」
「俺の肉親は一人残らず死んでる。それが今さっき判明したわけだが。お前は謝るのに夢中で話聞こえてなかったかも知れないけどな。俺に家族は一人としていねえんだよ。もうな」
「失礼ながらお話は拝聴し損ねましたが、ご家族の方が一人もご存命でないという事は、有り得ないのではと、ええわたしくめは存じておりますが」
「居ねえもんは居ねえんだ」
「そのような事はございません。わたくしめの謝るべき相手を探知する程度の能力が、謝るべき相手を今感じてるという事は、謝るべき相手が生存しているという事です。死者や霊などは探知しません。現にこちらに近づいて来ているようです。あなた様の肉親の方が近づいて来ています」
おいおい。
おい、おい。
おい。おい。おい。
「なんだよ、そりゃ?」
土毛佐ヱ門の介が空を見上げた。
奴が見た方向、背後の空へ、俺と夏想美も釣られて顔を向けた時には。
そいつが、白っぽい髪をなびかせて飛んできていた。
そいつは一言で言えば白狼天狗の女で、おっかない顔で俺たちをギンギラギンに睨み付けていて、もう一言付け加えるなら、その顔は俺に良く似ていた。
だから生憎と特段美人でもなければ、かわいらしくもない。どうしても世辞を言わなきゃならないなら、お綺麗ですねくらいは、当たり障り無く言ってやっても、少なくとも嫌みに取られる事はなさそうだけれど、もし同性同士なら迷わず顔ではなくスタイルを褒める事だろう、天狗の中でも特に体格に恵まれた白狼天狗とはいえ、たっぱとおっぱいとケツはなかなか立派な物だが、それも着ている物で台無し気味だ。
一言で言えば何故かカウボーイみたいな恰好をしていた。もう一言付け加えるなら、やはりどうしても世辞を言わなきゃならないとしても、ファッションについてはよっぽど勇気のある奴以外は触れないだろう。ぶっちゃけダサイ。
くたびれきったパンタロンジーンズは、そこら中がほころびていてブーツも同様、皮のジャンパーもくたびれきってボタンも幾つか脱落し留められておらず、中に見える白いシャツは埃で汚れていた。
目深に被ったテンガロンハットも、そうであるのがさも統一感の演出なのかと言う具合に、くたびれきって穴が開き、耳が飛び出てるし、髪も無頓着に後ろで結わえてあるだけだ。
着る物に拘りを持っている事は感じられるが、美的なバランス感覚は極めて残念。そういう香ばしさがぷんぷん匂ってくる恰好だ。
そいつは、丘の中腹に居た俺たちの前に降り、腕を組んで立ちはだかった。
「ちょっくら待とうかお前たち」とそいつは言った。眉間に深く皺を寄せ、口をへの字に曲げ、両目で俺たちを睨み付け、「私の名前の墓に何してやがった? この前も掘り返えされた跡があったんだ。お前たちがやったんじゃないのか? だったらぶっ飛ばすよ。三秒以内に答えなきゃぶっ飛ばすよ。名前が生き返ったらどうするんだまったく」と右手の団扇を振りかざしてみせた。左肩にシマリスが乗っかってて、そいつの言葉に呼応するように、小さく一声鳴いた。
「姉ちゃん」と俺は言っていた。
他にまずはいくらでも訊かなきゃならないこと、確認するべき事がある気がするが、俺の口から出たのはそれだけだった。
だって姉ちゃんは姉ちゃんだ。
だろ? 他のなんでもない。
だがなんだ?
「なんじゃあそりゃああ!」姉ちゃんは思いっきり叫んで団扇を振りやがった。
俺たちの体にぶつけられようとした物は風、空気といえど重さはある、一定の速度を超えれば立派な凶器だ。
お燐の寝顔にスルメを詰め込んでいた夏想美の悲鳴が、秒速千メートルほどでフェードアウトしていき、姉ちゃんに向かって土下座体制に入っていた土毛佐ヱ門の介は、一度地面にめり込んだ上でバウンドし、彼方へ弾け飛んでいった。
俺がそうならずに済んだのは、咄嗟に風の流れに干渉して、突風を体から逸らしたからだ。そのせいで夏想美とおっさんへ流れる気流が増えた気はするが、まあ悪いのは俺じゃない。文句なら姉ちゃんに言ってくれ。
「へえ、私と同じ能力を使うんだなお前は。でもな。私は墓に何をしてたんだと訊いたんだぞ。姉ちゃんなんて答えがあるかこの野郎!」
団扇をまっすぐ突きつけてきた。俺のことがわからないらしい。そりゃ別れたのはガキの頃だ。無理はない。
「おい待て、俺だ。俺だよ姉ちゃん」
「なんだあお前、オレオレ妖怪かあ?」
「そうじゃなくてだな。俺は俺だ。わかんないか?」
九百年も経てば、ガキがいっちょまえの男になる。顔なんか変わっちまうが、俺だって姉ちゃんの顔が一発でわかったんだ。面影は十分に残ってる。
「うーん、そうだなあ」姉ちゃんは首を捻った。俺の顔をじーっと見て、思い出そうとしてるようだ。それからすぐに手をポンと叩いた。「あっそうだ。思いついた」と。「私はな、名付け妖怪なんだ。お前に新しい名前をつけてやるから喜べ。喜びいさんで思わずもんどり打ったりしろ。さーあ耳の穴かっぽじって、よーく聞きやがれぃ、いいかあ、発表するぞお、じゃかじゃかじゃーん。ぱんぱかぱーん。お前の新しい名前は○○○だあ!」
姉ちゃんは眉間に縦皺を寄せたまま、団扇で俺の鼻先をつついて、にやけた。
こいつめ。やっとこ気づいたらしい。
「ああそうだよ姉ちゃん、俺は○○○だ!」
自分の顔がとんでもなく笑ってるのを感じる。急転直下ならぬ急転直上とでも言やあいいのか、地獄から天国だ。
なんでかはわからんが、死んでたと思ったら生きてた。この様子じゃ俺の事を恨んでるってわけでもない。
「うん、お前はいかにも○○○って感じがするから、今日から○○○だね。格好名前いいだろう。もんどり打ちそうだろう。私のめちゃいけてるネーミングセンスにびびったか?」
「つまんねえ冗談はもうやめろよ。俺ぁ元々○○○じゃねえか、九百年も経つと随分つまんねえ冗談言うようになるもんだな」
俺は大げさに笑ってみせた。
そこで奴も破顔一笑、『そんなつまんなかったかねえ、あはは、元気だった○○○?』なんて返してくると思った。
だが姉ちゃんは、「九百年? なんの話?」と言った。心底不審そうな顔でだ。「わかった、お前あれだね。新種の迷惑なタイプの妖怪だろ、大方最近地上から落とされて来たってところだね。だろ。九百年妖怪か? オレオレ妖怪か?」
「よしてくれ姉ちゃん、俺は今、何がなんだかわからねえが、ああ畜生、とにかく嬉しいんだ。わかんだろ。ろくでもねえジョークやられても笑えねえよ。こう抱き合ってグルグル回転したっていいと思うくらいに、わけがわかんねえんだ。ちょっとやってみねえか? グルグルってよ。な?」
んな事を言いながら実際に片手で姉ちゃんの肩を抱いてやろうとしたらだ。
「うおっ、何すんだお前」なんて怒鳴られた上で、襟首を掴まれ、「百年早いよ!」ぶん殴られた。
まさかとは思うが、人違いか? 有り得ねえが……。
「あんたは、トシちゃんなんだろ?」
「へえ、私の古いあだ名を知ってるんだねお前は。でもね、どんな用事で来たのかしらないけど。その名前は死んだよ」
「名前が死んだ?」
「地底で名前を付ける物がなくなったから、最後に名前を付けたんだよ。自分にね。だから古い名前は死んだ。もやもやする嫌な名前だったんでね。きっちり死んで貰った。ちゃんと墓も作った。そうすればちゃんと名前が死んだって感じがするだろう? でだ、私の今の名前はこれだ」
ペンダントを俺に掲げて見せてきた。(^_^;)と書いてあった。首かけの細い鎖を銅板に通しただけの、無骨なペンダントだ。「どうよ~、超めっちゃいけてるっしょお?」得意げに笑った。
こいつは間違いなく(^_^;)のはずだ。
が、なんだこれは?
地底に居る白狼天狗で、俺に似てる顔してて、トシちゃんという名前、だった奴。
でもこいつが(^_^;)だとしたら、トシ子という名前を死なせて、(^_^;)という名前を自分に付け直すだ?
どういう事だ? (^_^;)はトシ子という名に憧れていて、(^_^;)という名前を憎んでいたじゃないか。
もちろん偶然他人のそら似で、トシ子という名前だった奴が、(^_^;)という名前に憧れて、なんて可能性としちゃゼロじゃないだろうが。んな偶然があってたまるか。
とりあえずあれだ。姉ちゃんがくらだないジョークやってるだけだろ?
「ああ、いかした名前だな」
くだらねえジョークやってんなら、笑ってやろうと思ったが巧く笑えなかった。空笑いみたいになった。
わけがわからな過ぎる。
「だろ? あったしはネーミングセンスには自信があるんだ。こう見えても昔はね、世界中の物に名前を付けて回ったんだからねえ」
「俺も世界中を旅してたんだぜ」
「へー、お前もなんだ? 私は世界中を格好良い名前にするために旅してたんだ。お前は何のために旅してたんよ?」
「決まってんだろ、姉ちゃんを探すためだ。九百年探してた。やっと会えたんだ。もう冗談は止めろよ」
「あー、そっか、やっとわかった。これナンパかあ。背中の化け猫一匹じゃ足りないってか?」
お盛んだねえ、と言わんばかりにニヤニヤしやがる。
まさか。
まさか、とは思うが、こいつは俺の事、下手したら昔の事も忘れてんじゃねえか?
いやそりゃねえだろ。ねえよ。だって俺を○○○やら、自分のことを(^_^;)って言ってるんだぞ?
「馬鹿言うな。手前味噌の姉貴をナンパなんざするか」
空笑いが過ぎ去って、もっとおかしな笑いが体の奥から沸き上がって来た。
もし姉ちゃんが俺の事を忘れてるなら。昔の事も綺麗さっぱり忘れているなら。と思うと。
今すぐ泣き出したい衝動にも駆られる。あまりの馬鹿馬鹿しさに笑い転げたくもなる。
怒りにまかせて(^_^;)を張り倒したくもなってくる。
「あったしに弟なんざいるわけないだろ。こちとら海と空の間から生まれた、天涯孤独の名付け妖怪様だよ。私のすんばらしいネーミングセンスで、世の中全部をすんばらしくするために生まれてきた愛の使者だよ」
「あんたは天狗だ。妖怪の山で生まれた。家族だって居た。○○○は弟の名前だ。本当にわからないのか?」
「お前がわけのわからない妄言を吐いてるのはわかるよ。それと、どうしてもナンパしたいって事もね」
俺は特大のため息を吐いた。今日は何回ため息を吐いたかわかんねえ。
だが、今日でも一番のどでかいゲッソリしたため息だった。
(^_^;)がジョークでやってんのか、ほんとに俺や自分自身の事を忘れちまったのかは、わかんねえが。
まともに取り合ってたら、こっちの気が狂っちまいそうだ。
深呼吸した。深呼吸して、肺をいつもの三倍ほど膨らましてから、全部をため息にして吐きだした。
「ああ畜生、ろくでもねえな。馬鹿らしいぜまったく。真面目にやんのは止めだ。もうそれでいい。なあ姉ちゃん、飯でも食い行かねえか?」
「お、ナンパらしくなって来たねえ。いいよいいよ、暇だし飯くらい傲られてやんよ、腹減ってたんだ。で、どこ連れてってくれんのよ? 気の利いたレストランとかがいいね。こうシャンとしたオサレなとことかさあ」
体をクネクネさせて言いやがった。あほくせえ。馬鹿面でクネクネさせてる様は妙に腹が立ってくる。
「馬鹿言うんじゃねえ。なんで、んなとこ連れてかにゃならねえんだ。さっき美味そうなラーメン屋みっけたんだ。大通りのな。そこで十分だ。ほら行くぞ」
地面を蹴って飛び立った。とんでもないサプライズのおかげで、酔いは大分覚めた。まだフラフラしちまうが、ゆっくり飛べば墜落するこたあ無い。
姉ちゃんはぶつくさ文句を言ってるが、しっかり付いてきてる。よっぽど腹が減ってるのか、よっぽど暇なのか、どっちかだろうが、そもそも、(^_^;)がこんなおっ軽い性格の奴だったかと言えば、んな事はなかった気はする。
が、子供の頃も繊細さと同時にある種の大ざっぱさや、適当さは持ち合わせていたし、直情的で気の向くままに行動するのも、昔からだった気もしなくもない。九百年ぶりに再会すれば兄弟と言ったって、相手に抱く感想としちゃ、多大な違和感と、多大な懐かしさと、多大な親近感。そういうもんかも知れない。
とりあえず、まったく意味がわからない状況だが、最悪じゃあない。死んでるよりはずっと良い。
ラーメン屋はえらく騒がしかった。居酒屋も兼業してるもんだから、酔っぱらい共の笑い声と歌がエンドレスな具合。
俺たちは座敷に向かい合って座りチャーシュー麺をズルズル啜った。姉ちゃんは大盛りだ。お燐は座布団を枕に熟睡している。
とりあえず、姉ちゃんに話を聞いてわかった事は、姉ちゃんが本当に自分を名付け妖怪だと信じている事だ。
種族:名付け妖怪
能力:ありとあらゆるものに超めちゃいけてるクールな名前を付ける程度の能力+風を操る程度の能力
これが姉ちゃんの自己認識で、姉ちゃんにとっての最初の記憶は、海と青空だったらしい。
「あったしはねえ。最初に頭の上も青で、足下も青で、青と青の間に居たんよ」と姉ちゃんは語った。
何百年前かはわからない。どこの海かもわからない。とにかく見渡す限りが青で、自分の他に何も見えなかったそうだ。遙か外洋には海鳥さえ居ない。
どこへ向かって飛んでるのかも、わからなかったらしい。
ただ一つ自分の事で判ったのは、カトリーヌ・ボンソワール・種子島・トシ子という名前。身につけていたあらゆる持ち物に、その名前が書かれていたそうで、姉ちゃんにとって、モヤモヤする気持ちの良くない名前だったそうだ。
やがて陸地が見えてきて、浜辺へ降り立つと、沢山の生き物や物を目にした。気づいたら名前を付けていたそうだ。
どうして自分がそんな事をしているのかわからなかったけれども、名前を付けたい衝動に従ってひたすら続けた。
最初の頃はただ名前を付けるだけで、刻みはしなかったらしい。
そうして名前を付けて旅をしているうちに、段々と自分が何故名前を付けているのかが、わかってきたと言う。
姉ちゃんは自分が付ける名前をえらく気に入っていた。この上なくクールと信じていた。ばりばりにエッジが立ってると思っていた。きっと自分は世界を格好良くするために名前を付けているのだ。間違いない。自分は名付け妖怪なのだ、だから格好いい名前を付けて回っているのだ、あたしってばめちゃいけてるよと十日ほどで確信するに至った。
「あったしはね。あったしの愛で世界を埋め尽くす、愛の使者なんだよ」と言うことらしい。
あの名前たちは憎しみの産物ではなく。世界に対する愛の賜だったというわけだ。端から見りゃ、意味不明の悪戯でしかないが。愛の表現はひとそれぞれ、世界に対する自らの存在意義を感じる行為は人それぞれだ。
存在意義、存在理由、出自については自分でも興味をひかれる部分があったらしい。自らに名付け妖怪という種族を当てはめたのも、そのためだ。世界中を巡って知識を身につけて行くにつれ、姉ちゃんは自分が生まれた過程の様々な仮説を考えた。
その中で最もロマンチックな説は、愛の使者自然発生説で、これは海風と青空の光が結晶化して、愛の使者が自然発生したという、恐ろしく笑えるもの。これを姉ちゃんは本気で信じてる。笑うと殴られる。俺は殴られた。三発だ。
もう一つの有力な仮説で最もロマンチックでないものが変化説だそうだ。
変化説の内容は、もともと(^_^;)は別の妖怪か動物だったが、トシ子という名前に嫌気がさして自ら名付け妖怪に変化する過程で、記憶を失ってしまった。というものだった。
動物が妖怪へ、妖怪が別の妖怪へ変化するのは、珍しい事じゃない。妖怪は精神が自身の存在のありようへ、強い影響を与える。精神的な要因が変化の切掛けになることだってある。お燐のように猫と人型を使い分ける日常的な変化とは違う、生まれ変わりに近い劇的な変化ならば、記憶への影響は未知数だ。なくなる事だってあるだろう。
だから俺は思った。案外、(^_^;)が記憶を無くしてしまった経緯の真実は、ロマンチック説と非ロマンチック説の中間点にあるような気もする、なんてだ。
そう、姉ちゃんは元々(^_^;)という名前に嫌気がさしていた。そして世界において自らの扱われ方の変革を強く願った結果として、中途半端な変化が起こり、美意識だけが変わってしまった。
つまり(^_^;)という名前をクールでエッジが立っていると思えるようになってしまった。これで姉ちゃんは世界に対する自らの不遇を呪わずに済むようになった事になる。そうなれば当然、それまでの(^_^;)という名前を憎んでいた記憶は邪魔なものになるから、変化の過程で記憶も無くしてしまったのではないか。
こんな仮説だ。つじつまは合うが、なんにしろ確認する手段はない。何故記憶がなくなってしまったのかなんざ、今更どうでも良いことだ。
どうでも良くない事があるとしたら、俺のヤワなハートがちょっくら虚無的泥沼にはまりこんだ事くらいだろう。
人生の殆どをかけて探し出した相手から、「わりーけど、お前ぜんっぜん覚えてないわあ」とカラッとした笑いと共に言われれば、そうもなる。なる。マジでなる。俺はどっぷり頭の先まで虚無的泥沼にはまりこんだ。
俺が覚えている想い出でも、姉ちゃんは覚えていない。一切。なにもかも。
が。まあ。ともかく。
姉ちゃんは何百年も旅を続け、世界を何周かもして、ある日気づいた事があったそうだ。
「どこにどこまで名前付けたかわかんねーや、ってさ、気づいたんよねえ。というわけで刻む事にしたわけよ」
そこから名前の道しるべが始まった事になるが、世界中を旅している間でも、一カ所だけなんとなく避けている場所があったらしい。トシ子という自分の名前を思う度に浮かんできた場所。モヤモヤする場所。
どこからどこまで名前を付けたかわからなくても、確実にまだ名前を付けていないのが明らかな場所。
そこへ向かっている途中から、名前を刻み始めた。幻想郷という名前になろうとしていた故郷への、俺が辿った道しるべの誕生だ。
「そこ行ってみれば。どうしてモヤモヤするのかとかも、わかるかなと思ってたんだけどね。いざ結界に入ってみれば、ドンチャン騒ぎでさ、どうにもね。結界からも出れなくなるし、参ったねえあの時は。右手と右足が取れちゃったしさ」
時は大結界騒動の真っ最中。熾烈な妖怪同士の戦いの最中でも、果敢に名付けに挑んだらしいが、数十分もせずに戦闘に巻き込まれ右半身に重傷を負い、命からがら逃げている内に、偶然地底へたどり着く事になった。
「ま、唾つけといたらまた手とか生えてきたし、地底も名前付けてなかったし、丁度良かったんよね。結果オーライみたいな。でさ、もう地底もあらかた名前付け終わったからさ。今って地上に行けるようになったみたいじゃん。明日から名前付けに行こうかなって、その前に自分の名前の墓参りしとこうと思ったとこに、お前たちが居たんだよねえ。墓で何してたんよ? やっぱ化け猫と野外でプレイとかなん?」
今度は俺がこれまでの身の上を話す番だった。長い長い話だ。
話す間、俺と姉ちゃんはラーメンのスープを飲み干し、餃子とキムチとらっきょうを新しく注文して、それも平らげ、さらに揚げ豆腐と枝豆の皿まで空っぽにした。すっかり息がにんにくと、ネギと、らっきょう臭くなった。
「つまり、人様の墓で野外プレイをしようよしてたんじゃなくて、お前は私の弟で私をずっと捜してて、あったしは本当は地上の天狗で、トシ子の名前はそうして生まれた、って事なんだね。つじつまは合ってる。それが問題ってわけだね」
「ああ、それが問題っつーかな。あんたは俺の姉ちゃんだ。間違いない。わかんだろ? 顔も似てりゃ、耳も尻尾も髪の色も、瞳の色も同じだ。同じ種族なんだよ。名付け妖怪じゃなくて白狼天狗だ」
耳をぴょこぴょこ動かしてみせて、尻尾もわさわさしてみせつつ、十本目のビールを注いでやった。
姉ちゃんはそれをガブガブと一息で飲み干すと、コップをどんと勢いよくテーブルに置いた。
「同じ種族てのは百歩譲るとしてもさあ、兄弟って根拠は無いじゃんさ。あたしにはいきなり信じられないっつーの」
「だが俺は信じてる。だからもういいさ。再会出来ただけで、十分じゃねえか、俺はそう思うことにした。つーかな、そうでも思うしかねえだろ。姉ちゃんがなんも覚えてねえなら、仕方ねえじゃねえか。だろ?」
「再会出来て嬉しかった?」
「そりゃな」
「どれくらい?」
「思わず嬉しゲロ吐きそうなくらいだ。ゲロの代わりに心臓が口から飛び出して、地球を一周するくらいだ。一周してきた心臓を避けるために、やっほーってジャンプしたら下手したら月まで届いて、餅つきウサギさんにやあコンニチワって挨拶出来そうなくらいにな」
「そっか、なら私も嬉しがれたら良かったかも知れないね」
姉ちゃんは苦笑いして枝豆の殻の山から、まだ剥いていないサヤが無いか探しているが、見つからない。
奴のシマリスがほとんど全部平らげちまった。ちなみにシマリスの名前はラッキー・ボンジャックくんだ。わりかし平凡な名前で驚いた。
「なんならさ○○○、今から、なんつーかこう、いかにも感動の再会っぽく抱き合ってさ。ぎゃーすか泣いてみる?」
「無理にしなくて構わないぞ。気が向いたらいつでもそうしてくれ。ただし俺が便所に入ってるときとかは無しだ」
「うん、じゃあ無理はしないでおくよ。悪いけどね。ほんとに海より前の事は、何も覚えちゃいないんよ。悪いけどね」
もう何十回も聞いた台詞だ。一回目に聞いたときには愕然として、二回目に聞いたときは少なからず俺の心が傷つき、三回目でため息、四回目で苦笑い、五回目でやっと、しゃあねえな、と思えるようになった。
「姉ちゃんのせいじゃない。でもよ。もし昔の事をずっと覚えてたらだぜ? 姉ちゃんはよ。俺を恨むと思うか?」
一番、ききたい事だった。
「誰のせいでもないっしょ。そういうのはさ。そうなるべくして、そーなるみたいな。別に恨まないんじゃない?」
姉ちゃんは、とってもあっさりぶっきらぼうに答えた。
もうちょい、なんていうかこう、俺の今までの苦悩が報われる的な優しげな言葉を、言って貰いたいところだったが。まあなんも覚えちゃない本人からしちゃ、他人事も同然だ。あっさり風味に答える他はねえだろうがよ。
「まあ、そういうもんか。姉ちゃんがそう言うなら俺は、納得するしかねえよな……でもよお」
なんかこう、なあ? 俺散々じゃねえか? なんかもっと言ってくれもいいよな。
「なに○○○。なんか拗ねちゃってんの?」
「す、拗ねてなんかねえよ。馬鹿言うな。なんで俺が拗ねなきゃならねえんだよ」
「ふうん、まいいけど、それよりさ。この後はどこ連れてってくれるんよ。ナンパなんしょこれ」
卓に肘を付いて爪楊枝で歯をほじくりながら、ニタニタしやがる。
で、ほじくったチャーシューのカスを灰皿に捨てる。品も何もあったもんじゃねえ。
せめて手で隠すくらいの事すりゃあいいのによ。
にしても今更ナンパがどうだなんて、なんでいちいち言うんだとも思うが。姉ちゃんは半信半疑なのかも知れない。
俺と兄弟だと信じられないってのはわかる。逆の立場だったら俺だって信じられないだろう。だからといって、俺がこの場で話した内容は、小手先の口説き文句としちゃあほくさすぎるし、兄弟だと訴える必死さだって、恰好がついたもんだじゃない。訴えられる方だってナンパだなんて思えるはずがない。
姉ちゃんは本当に俺が兄弟なんじゃないかと、少なくとも俺がそう思ってるのは間違いないんじゃないかと、半分くらいは信じようとしているのだと思う。だからナンパだなんざ言って俺の反応を見ているのかも知れない。
「俺ぁな。男の目の前で平気で歯ほじくる女をナンパなんざしないんだ。わかるか?」
「ふうん」引き続き絶賛歯ぁほじりゃあがる。「で、どこ連れてってくれんのよ」
「だからな、てめえなんざをだな。俺が選り好んでナンパするわけねえだろってんだ」
「ふうん、失礼な奴だね」とか言いつつ手鏡で鼻毛をチェックして抜きやがった。ブチッとだ。痛そうに顔顰めてやがる。それをふうっと吹き飛ばしてきた。微妙に能力で風を操ってる。俺のビールの中に入れようとしてるらしい。ガキの悪戯じゃあるまいし、ろくでもねえ。俺も対抗して吹き返した。奴のビールにお見舞いしてやろうかとしたが、そこは同じ能力同士だ。卓の上空三十センチで鼻毛を押し押されの、すったもんだなバトルになる。なかなか決着が付かない。
不意に姉ちゃんが姿勢を落とした。
何かと思ったら、畜生め。奴は卓の下から脚を伸ばして、俺の股ぐらをけっ飛ばしゃあがった。
俺は悶絶して座敷に倒れこみ、鼻毛がビールに飛び込んで、姉ちゃんはゲラゲラ笑いだした。
「ホールインワンだねえ。失礼な事言った天罰が下ったんだぞ、さあ飲め飲め、栄養つくぞ栄養、っはっはっはっは」
「ざけんなこら……いきなり何しゃあがる、はっはっはじゃねえぞ。しゃれんなんねえ……」
俺ぁちょっとした脂汗だらだらって奴だ。はっ倒してやろうかとも思うが、姉ちゃんはこれ以上楽しい事なんざ無いってくらいに、腹抱えて笑ってやがる。
アホくせえ。この上なくアホくせえ。とんでもなくアホくせえ。
あまりの馬鹿馬鹿しさに自分でも笑けてきた。アホか俺は。笑えたもんじゃねえぞ。
だろ、なんだよこりゃ。九百年探してやっと再会した兄弟が全部忘れてて、おまけに鼻毛をビールに入れられて、股ぐらまで蹴られた。なんだこりゃ。俺の人生はアホか。俺の人生の九割九分が鼻毛をビールに入れられるために費やされてきたのか? アホだろ。笑うしかねえぞ。
「アホくせえ」
馬鹿みたいだが、吹き出しそうになった。
咄嗟に姉ちゃんから顔を逸らして、必死に堪えた。笑ったら負けだと思った。何に負けるのかは知らねえが。
「ほらあたしが飲めっつってんだろさあ、一気だ一気」
髪の毛が捕まれたと思えば上を向かされて、喉にビールを流し込まれた。
いきなりだったもんだから、半分吹いちまった。顔中泡だらけだ。
姉ちゃんはこれまた楽しそうに笑ってやがる。
おかえしに俺もビールを、奴のどたまからぶちまけて、ざまを指さして笑ってやった。
そしたら次に奴は瓶ごと俺に浴びせてくるわけで、俺がそれを取り上げて、浴びせ返すという具合だ。
互いに全身びしょ濡れになった時には、俺も姉ちゃんから顔を逸らさずに、普通に笑っていた。
どうやら俺の負けだ。何に負けたのかわかんねえが。
俺は笑っちまってた。
「なあ姉ちゃん。この後は、そうだな。温泉にでも浸かりに行かねえか。とりあえずビールまみれだ。それにせっかく地底に居るんだしな。やっぱ温泉だろ。背中でも流してやらあな」
「やっぱスケベな奴なんだねお前」ニタニタしやがる。
「言ってろアホ。てめえのハダカなんざ、ガキの頃で見飽きてらあ、今更これっぽっちも有り難かねえや。もし俺たちがだぜ。互いに旅に出る生き方をしてなかったらだ。今日あたり温泉に来てたっておかしかねえんだ。なんて思ってただけだ。さっきな」
「スタイルは結構自信あるんだけどね」
またクネクネさせてやがる。馬鹿面でだ。アホくせえ。
「んなこた知るか。くだらねえ事ぐだぐだ言ってっと、連れてってやんねえぞ。行くのか行かねえのか、どっちだ」
姉ちゃんは頬杖をついて、ニタニタを少し緩め、俺の目から三センチだけ視線をずらして、考えてるふりをした。
ふりじゃなくて、ほんとに考えてたかもしれないが、とにかく俺にはふりに見えた。
どうしてだ?
「しょうがないね。連れてかれてってやるよ」
口元だけにんまりさせて、白い歯を見せてくる。逸らしていた両目は俺に向けられた。
こんな笑顔にはひどく見覚えがあった。ガキの頃に俺が毎日のように見てた顔だ。
姉ちゃんと二人で遊びに出かけたりする時だった。俺が後ろを付いて飛んでる時に、奴は一人でスピードを上げてわざと俺を置いてっちまう。意地悪しやがる。
んで俺は必死に追っかける、半べそかきながらだ。そんで必ず姉ちゃんはどっかで隠れて待ってる。
俺がそれを探す。ちょっくら必死な鬼ごっこか、かくれんぼみたいなもんだ。
姉ちゃんを見つけた俺はいつも強がった。
別に置いてかれてもどうってことねえぞ、とか言って、半べそかきながら、強がった。
そんな俺を姉ちゃんは笑って茶化すわけだ。
俺はえらく腹が立ったが、姉ちゃんの笑う顔で妙に安心しちまうのが悔しかったのを覚えている。
今回は、随分と長い鬼ごっこだった。おまけに俺の事も覚えてねえと来たもんだ。
上等すぎる。強がる気力も起きやしないくらい上等すぎるが。
(^_^;)は今、ただ笑ってる。
(^_^)
それで十分だ。
『幻想郷震撼……!? 名付け天狗現る!』
文々。新聞にこんなけったいな見出しと、非常にいい顔で名前を付けて回ってる姉ちゃんの写真が載ったのは、姉ちゃんが地上に出てきてから一週間後の事だ。
幻想郷震撼というわりに、三面記事だったが、あの新聞が大げさなのはいつものことだ。
射命丸は俺にも取材に来た。新聞が出る三日前だ。俺が姉ちゃんを温泉に連れて行った後で、さとりたちに紹介し、二人でわさわさして見せてから数えると四日目。姉ちゃんが地上に出てきて俺の家に転がり込んでから、やはり四日目だった。
その日は良い天気だったから、貯まってた洗濯物をかたしようと、俺が縁側に出たとこで、鴉天狗の女が庭に降り立ってきた。
射命丸だった。
奴は最近現れた名付け天狗を取材していたようだが、本人にインタビューしに行ってみても、例によって、愛の使徒だとかなんとか言う妄想ばっかりを聞かされるだけで、わけがわからないので、という事で肉親たる俺にもインタビューしに来たらしかった。未だに姉ちゃんは他人向けには、愛の使者だと名乗っている。
ちなみに射命丸は( -_[◎]o という名前を付けられたらしい。まんまカメラを構えた恰好の絵文字だった。
「あんな天狗、いったい今までどこに居たんですかね」とかなんとか、そんな感じの事から訊かれた。
インタビューに応じてやる代わりに一緒に洗濯物を干させた。
無償で飯のたねを提供してやったんだ。それくらいはやって貰っても良い。
俺と姉ちゃんの身の上を話してやった。
射命丸自身は俺の話を信じていたようだが、記事にするかどうかは、わからないと言っていた。
確認のとりようが無いかららしい。
律儀なポリシーだが、律儀なのはポリシーだけだ。
実際には奴が書く記事は律儀じゃない。大げさで、どれもこれも大概くだらなく、時に歪んでさえいる。だけれどネタ自体は律儀に現実に即していたりするから、奴の新聞を読んでいると世の中にはまるで、大げさで歪んでくだらない出来事しか起きていないように思えちまう。何しろあの新聞に書いてある事で、まともと言えるのはせいぜい日付だけだ。広告欄もだいたいやばい。
「で、今は、ご一緒に暮らしているわけですね」
射命丸は姉ちゃんのサラシを物干しに釣るしながら、そんな事も聞いてきた。
まあ、暮らしてるなんてもんじゃねえ。元々が根無し草の姉ちゃんにとって俺は、食い物を提供してくれて、寝る場所を貸してくれて、着る物を洗濯してくれるおさんどん、そんなもんだ。
「九百年探してたんですよね。一緒に暮らせるなら、さぞ嬉しいんでしょうね。私は生粋の天狗ではなく鴉から変化した身なので、兄弟も居ませんし、想像しかできませんが。肉親が身近に居るなら、嬉しいことですよね?」
俺は鼻で笑った気がする。
インタビューが終わったらビールでも飲みながら愚痴の一つでも聞かせてやろう。んな事を思って、とりあえずこう答えた。
「ああ最高にいかして泣けてくるぜ。躾のなってねえ馬鹿な野良犬でも飼ってるみてえな気分だな」
すると射命丸の野郎はすかさず、俺を顔をカメラで撮っていた。「いい顔してましたよ」なんてだ。
そして、ついさっき射命丸が刷り上がった新聞を届けに来た。
俺が夕飯の支度をしている所にだ。一人暮らしの時には、外で済ませちまう事ばかりだったが、何しろ食費が倍増した。自炊しない事には首が回らない。たれ込み屋を閉めてからというもの、収入も芳しくはない。
射命丸は記事の感想が欲しいらしかった。名付け天狗の記事だけでも、今すぐ読んで感想をくれと言われたが、姉ちゃんが帰ってくるまでに飯の用意をしておかないと、ギャーギャー五月蠅い事になる。
姉ちゃんは最近は里へ名前を付けに行っていて、人間に合わせた昼型の生活になっていた。朝起きて朝飯を食って、弁当を持って出かけ、夕方に帰ってきて、夕飯を食って寝る。全部俺が支度してやってる。ろくでもねえ。
射命丸にそんな愚痴を聞かせた上で、「新聞今すぐ読んでやっから、お前代わりに飯作ってくれ」なんて試しに言ってみたら、奴はすんなりオーケーしやがった。奴にとって新聞とは商売であると同時に、至高の趣味でもある。じゃなきゃ、あんなけったいな記事ばかりを、わざわざ選んで載せたりしないだろうし、いちいち感想だって必死に聞いて回ったりもしない。
しかし曰く、「カレーくらいしか料理は作れませんけどね」との事だったが、俺だって似たようなもんだ。あとは目玉焼きと卵焼きと魚の切り身を焼くくらいの事は出来るが、世間一般ではそう言った物を料理とは呼ばない。
ともかく、俺はソファーで脚を投げ出しビール片手に煙管吹かして、記事をだらだら読み始め。奴はエプロンしめてダイニングキッチンでカレーを作り始めた。
「それで、××さんのお姉さんが地上に来てから一週間になりますが」と射命丸は細切れにした野菜と豚肉を鍋に放り込みつつ訊いてきた。ミニスカートにエプロンな後ろ姿ってのも、なかなか悪かない。こう、後ろから近づいて、色んな部分を鷲掴みにしたくなる引力のようなものがある。
「お姉さんの記憶は戻ったりはしてないの?」
「なんだ。また取材か?」
「違う違う、単なる世間話」
新聞は相変わらず体操服鬼がどうたら、園児服さとり妖怪がどうたらとかいう、くだらねえのが一面やら二面を飾ってやがるが、世の中平和な証拠だと思えば、けして悪い記事じゃあない。文々。新聞の唯一良いところはそこだ。世の中くだらねえ事ばっかりしかなさそうだが、悪くはない。世の中別に悪くはない。そう思えるところだ。
「まあ、姉ちゃんは何一つ思い出してねえな。ありゃあ、思い出すとか思いださねえとかじゃあねえんだろうな。完全に記憶が消えちまってんだよ、こう、パッとな。消えちまったんだきっと。ゼロだよ」
「完全に? そういうものなのかなあ」
「そうだぜ射命丸、お前だって変化したなら、わかんじゃねえのか。鴉としてだけ生きてた時の事、どんくらい覚えてる?」
鍋の中から野菜と肉が炒められるジュージューいう音が聞こえてきた。
「うーん。記憶っていうと、そこまでな感じだけど、感覚みたいなものは良く覚えてるかな。例えば……翼で風をいっぱいに掴む感じだとか、木を見たりすると、とまりやすそうな枝だなあ、とかそーゆーの」
「あとは、美味そうな生ゴミだなあとかだな」
「そーそー」
「そいつは難儀だな。どうにも」
「じょーだんに決まってるじゃん」鍋をしゃもじで掻き混ぜながら射命丸は笑った。
「けど、そうだな。言われてみると姉ちゃんも、そういう感覚みたいなのは、わりと覚えてるのかも知れないな」
「ほおほお。例えばどういう感覚ですか?」興味津々って具合だ。
「俺が奴と再会した時だよ。あいつ、俺に名前付けたんだけどな。なんだったと思う?」
「○○○」
少しも考えずに答えやがった。たいした勘、いや、単純に話の流れから予想しただけなんだろうが。
奴の言うとおりだ。姉ちゃんに昔の記憶は残って無くても、感覚の幾ばくかはあるんだと思う。
再会した時だって、いきなり目の前に現れて弟と名乗った見ず知らずの男に、ああも気安く付いていったのは、ただの暇つぶしってだけじゃあ無いだろう。
あの場でのやりとり以外にも、プラスαで感じる物があったはずだ。と言い切りたいが、いまいち自信はない。
ラーメン屋や温泉に付いていったのが、ただの暇つぶしのつもりだったと言われても、そうだろうなとも思えちまうのが、今の姉ちゃんの性格だ。
「さすが察しがいいな。んで奴自身も自分に例の、冷や汗たらー、って名前を付けてたわけだ」
「なるほどねえ」
「だろ?」
「うんうん、感覚は残ってるのかも知れないですね。他の兄弟のこととか、どうなんだろ? 感覚が残ってるならそれが切掛けで、色々思い出したりしそうかなあ、とか安易に想像しちゃったり」
「俺だってそう思ったさ。実際に家族の墓にも連れてってもみた」
地上に出てきてすぐにだ。家族の墓にも連れてった。
もしかしたら、なんか思い出すんじゃねえかって他愛もない思いつきだったが、まあ。
姉ちゃんは何も思い出しはしなかった。
墓場には細かな雪が降っていた。肌に当たると溶けずに毛穴に入り込んでくるような、細かくて冷たくて硬い雪だった。風は無かった。だから音というものがなかった。俺と姉ちゃんの足音と息づかいだけが全てだ。
家族の墓石には、凍った雪がびっりしこびりついて四角い雪だるまみたくなってた。誰も手入れをしないんだから当たり前だ。
まあ元々、たいして立派な墓石じゃない。そこらの墓場に幾らでも転がってそうな墓石だ。ただしそこらに転がってるのと明らかに異質な部分がある。刻まれてる名前。墓石に掘るにしては、かなりファンキーでパンクでキッチュに過ぎる記号や絵文字が掘ってある。大抵の奴が見たら、爆笑するかドン引きするかのどっちかだ。
俺はもちろん爆笑もドン引きもせずに、煙管をくわえてただじっと墓石を見下ろした。
花も持っていかなかった。持っていっても、どうせ投げつけるだけだと思ったからだ。
家族の墓参りに行ったのは二度目だ。一度目は花を投げつけた時。
あの墓石を見るのは、少々辛い。
あれは。けして取り返しの付かない固まって動かなくなってしまった物の象徴みてえなもん、だった。
俺の未熟さや世界の残酷さや滑稽さ、(^_^;)の不器用さ、全部は過ぎ去った出来事なくせに、ごちゃごちゃに混ざり合って、俺の中でしこりのように固まってしまっていた。
取り除こうにも、それも出来なかった。時間が経ちすぎていた。パカパカに固まっていて、どうにもならない。これから先でも永久に俺の中に残り続ける。そう思ってた。
だが、そんなもんは、ほんの一瞬で覆っちまう事だってある。
俺が煙管をくゆらせてる横で、姉ちゃんは墓石を前にして体を震わせていた。
『これが、私の両親の名前? 両親が付けた兄弟の名前?』と泣いてたのではもちろんない。
姉ちゃんは赤いマントを見た牛のように鼻息を荒くして興奮していた。
『今やっと、私がお前の姉ちゃんだって信じたよ。だってそうでしょ、千年くらい前に、こんな超クールでメチャモロにエッジの立ってる名前を思いつけるなんて、私の親しかいないよ』
(^_^;)だとか○○○だとかを子供に名付けるのにセンスは必要ない。むしろ一般的にセンスと呼ばれるものを、これっぽっちでも持ち合わせていれば、絶対にしない。と言ってやろうかと思ったが止めた。どうせ殴られるだけだ。
ともかく。
姉ちゃんが俺と血が繋がっている事を初めて信じたのは、自分のネーミングセンスへの絶対的な自信故だったというわけだ。
そういやオヤジも似たような事を良く言ってた。
お前たちに付けた名前は世界一めちゃいけててクールなんだよ!
あんな馬鹿な親でも一応は、いや一応どころではなく、世界一俺たちを愛してはいたのだろう。
笑うしかない。笑うしかないが、笑えもしない。
『でも、お前が言うにはさ。昔の私はこんな良い名前を貰って、嫌がったんでしょ? おかしなもんだね。今なんかみんなに自慢して回ってるくらいなのにさ』
あっけらかんと、言いやがった。
もしそうだったら。
本当に昔から自分の名前を愛せていたなら、二人で世界を憎まずに居たならば、俺や(^_^;)の過去はどう変わって、今がどう変わって居たのだろう。
そんな事を考えていたら、墓石の前に立っている自分たちが、とてつもなく寂しい存在に思えてきた。
他の家族がみんな死んじまった事が、とてつもなく、寂しく思えた。
何も俺たちのせいでみんな死んだわけじゃないし、俺たち自身だって選ぶ事が出来なかったことを、自分たちなりに必死にしてきただけだが、いつの間にか、全部が手の届かない所に過ぎ去っちまってた。
俺は泣いてた。墓石を睨み付けて、涙を流してた。
寂しいとは思ったが、寂しいだけで泣くほど子供じゃないはずで、哀しくもあったけど、哀しくて泣くだけなら旅をしてる間で、もうやり飽きた。自分がどうして泣いてるのかわからなかった。
だが。
そういった寂しさや哀しさを共有していると思っていた唯一の相手が、全てを許してしまっていたから、かも知れない。
姉ちゃんはこの世の何も憎んでいなかった。
俺の中でパカパカに固まってた全部が溶け出して、涙になって流れ出してる。
そんな気がした。
泣いてる俺を姉ちゃんは心配してたが、俺は何も応えず墓石に乗っかった雪を払い落とした。
ΩΩΩのカーブを描いた溝を丁寧に指でなぞって氷を掻き出した。Ωの一つ一つからだ。
^(*´(●●)`)ノの●に詰まった雪をほじくり出してやった。左右両方だ。綺麗に。
そん時にだ。右目が見えるようになってる事に気が付いた。
「ふうむ。お姉さんをお墓に連れて行っても、記憶は戻らなかったと。次の日に探偵事務所をリニューアルオープンしたのは何か関係が? そういえば、この度はうちに開業広告を出して頂いてありがとうございます」
鍋に水が注がれた。後は煮立ってからルーを入れるだけだ。
女と危険をこよなく愛する私立探偵○○○。これが新聞広告に載った探偵事務所のキャッチコピーだ。以前に俺が自己紹介した時に言ったジョークなんだが。まさか広告に使われるとは予想外だ。
広告のコピーは適当にそれっぽくやってくれ、俺がそう注文したのが不味かった。ジョークはジョークである内が華なんであって、広告にしちまったら、ただの大げさでくだらなく歪んだ妄言でしかない。
「別に関係はねえよ。気分だ。ただのな」
たれ込み屋は廃業した。もう俺にとって食い物にするべき世の中なんざ、復讐するべき世の中なんざ、どこにも無い。まっとうな探偵に鞍替えだ。まあ、依頼の殆どが浮気調査なんて具合だから、やってること自体は変わらないんだが。
誰もが、知らなくて良いことを知りたがる。
知ることが幸福を生むのか不幸を生むかと言えば、大概誰かが不幸になる。
それでも誰もが、知りたがる。
役回りが必要とされる。誰かが知りたがってることを、調べて教えてやる役回りがだ。
それがたまたま俺だってバチは当たらない。どうせ俺がやらなくても誰かやる。
「うーん、なら。お姉さんをお医者に診せてみたらどうです? 山の医者でダメだったら永遠亭とか。あそこの薬師の胡蝶夢丸って知ってるでしょ? 夢を操れるくらいなんだし、記憶を取り戻す薬くらいは、簡単に出来そうだけど」
そりゃ、俺だって考えた。実際に薬だって貰ってきた。
飲ませりゃ、全部を思い出す。世の中にはちゃんとそういう便利な薬もある。
姉ちゃんの飯に放りこんどきゃ、思い出したい事でも、思い出したくない事でも、なんでもかんでも思い出す。
だが、薬は飲ませずに捨てた。
「俺ぁな、射命丸。もう今のままでいいんじゃねえかって思ってんだ」
「どーしてですか、お姉さんはあなたの事覚えてないんでしょ。いいのそれで」
「昔の事をだな、あいつに思い出させるのが、ほんとにあいつにとって良いことなんだろうか、って考えるとよ。俺の勝手な判断っちゃ、そうなんだがな。あいつ自身にとっちゃ過去なんて無かった事も同じだからなあ。思い出しても思い出さなくても、どっちでも良いなんて本人が言う始末だしよ。そうなりゃなんだ。あいつの昔を知ってるのは俺だけだろ? 俺が答えを出すしかない。で、俺の答えは出た。今のままでいい」
「なるほどね、うん。理解はできる。お姉さんにとっては、その方が良いのかも知れません。けどさ。本当にあなた自身はそれでいいの?」
俺にとって想い出と呼べるようなもんを共有している唯一の相手が、俺の事を何も覚えちゃいねえ。
ガキんときに俺があいつの名前を馬鹿にする奴らを、片っ端から殴りつけてやった事をあいつは覚えてないし、喧嘩で怪我した俺を手当してくれた事もあいつは覚えてない。米吉の名前を一緒に考えた事も覚えてない。ちょっくら必死な鬼ごっこや隠れん坊も覚えてない。リスを捕りに行く前の晩に、俺はあいつが寝付くまで部屋に居てやった。あいつは俺にありがとうと言ってた。どんな意味のある、ありがとう、なのか俺にはわからなかった。嬉しさだけ感じた。
その、ありがとう、もあいつは覚えてない。
「まあな。そりゃよ。俺としちゃちょっくら」言葉を最後まで続けようと思ったが止めた。
大の男が他人に寂しいなんざ言うもんじゃない。
「ちょっと寂しい気もしなくはないけどな、ですか?」
「ん……んな事思ってねえよ……」
「ほんとに?」
「あったりめえだろ、あんなろくでもねえ姉貴なんざ、なんならお前にくれてやる」
射命丸の後ろ姿から目を逸らして、十秒ほど記事に走らせて、もう一回横目で奴を見てみたら、なんだ。
楽しげにこっち眺めてやがった。
「なんだ、嫌みな顔でよ。文句あんのか。確かに俺は、臭せえ事言った気がするけどな。忘れて良いぞ」
「もうメモしました。『俺がちょっくら寂しさを我慢するだけで、姉ちゃんが幸せで居られるなら、それでいいじゃねえか』と要約した上でメモしちゃったりして」
手帖をひらひらさせ、にやにや笑う射命丸に、俺が出来る事と言ったら、肩をすぼませるしかない。
「ところで、記事はどうでした?」
「どうしたも何も、おめえなあ。インタビューされた内容が殆ど載ってないじゃねえか」
載っていた俺のコメントの八割は、三日前に洗濯物を干し終わった後で、射命丸とビール飲んでた時の愚痴だった。
こんなのだ。
『もし奴に会ったら、ろくでもない名前を付けらんだろうが、特に害は無いから安心してくれ。奴はチャーシュー麺が好きだ。チャーシュー麺を傲ってやると喜ぶ。それと誰か奴に仕事を紹介してやって欲しい。それか嫁に貰ってやってくれ。一日中ほっつき歩いて働きやがらねえんだ。こちとら食費が二倍、税金も二倍になってんだ。おまけに家事の一つもしやがらねえ。洗濯物も二倍だ。なんで俺が奴のサラシを洗わにゃならねえんだ? 巫山戯るなってんだ。まったくもって、ろくでもねえったらありゃしねえ』
実に気の利かないコメントだが、文々。新聞は大概気の利かないコメントが載ってる。気にするこたない。
ついでに俺の顔写真も載ってたが、表情はあまり、『まったくもってろくでもねえ』てな顔はしてなかったのもご愛敬だ。
どっちかと言えば、まんざらでもない。んな表情だ。
始まっている。自分の顔写真を見ていて、そう思った。
全部が終わった、だから、次が始まっている。
終わったのは俺一人だけで生きてきた九百年間。始まっているのは、なんだろうな?
とにかく終わりと始まりの、中間地点の少し先。そこに今の俺は居るみたいだった。
「でーも、良い写真だと思いませんかあそれ、躾のなってねえ馬鹿な野良犬、とか言ってた時の写真なんですけどねえ」
いやったらしく笑いやがる。
俺は鼻で笑い返してやった。だが、上手くいかない。鼻で笑うつもりが、普通にはっはっは、なんて笑っちまってる。
「ろくでもねえよ」苦し紛れで言ってみた台詞が、似合う表情じゃあ、とてもじゃないがないだろう。
なんたって、射命丸が俺にカメラを向けてまた撮ってた。いい顔してましたよ。とか言ってだ。
>
あと顔文字の使用はやめたほうがよろしいかと
読み進めていくうちに、顔文字=名前のキャラがどうしても幻想郷と結びつかなくなり、違和感が拭えませんでした。
主人公のキャラは立ってると思ったんですけど二次SSの主人公としては首を捻ってしまう感じで。
一発ネタとしてもっとコンパクトにまとめられていたら、勢いに押し切られていたのかもしれませんが、
長文っぷりがアダとなって流し読みになってしまったので、フリーレスにてご容赦を。
長すぎて途中でちょっとダレ気味になってきてしまいました
発想等は面白かったのですが
よくこんなことを此処まで文章にまとめて、
読みやすくかつオリキャラなのに飽きさせない物語に造り上げたと思います
どうしようもない才能の使い方をする貴方様に感謝したいですw
面白かったです(^_^;)
ユッケは確かに美味いけど10皿も食えねえよ、みたいな気分です。
後、偏った視点で申し訳ないのですが。白狼天狗という設定は、どうにも犬走椛を連想してしまいます。
途中で話に触れもしないあたり本筋に絡んでくると期待したのですが、落胆がありました。椛を絡めないのであれば、白狼天狗という設定は必須では無い気がします。ビジュアル面からでしょうか。
射命丸の代わりに彼女を登場させて、可能性を潰しておいて欲しかったです。
とてもとても翻弄されるカオスな印象は強いのですが、意外と色々バランスを良く考え作られている感じもします。
そのへんも素敵です。
まぁ、それは置いといて(ww
進化していく博麗式思考な作者様に、私も理屈をこえ博麗式思考でこの物語の評価をさせて頂きます。(^_^;)
面白い!
名前とかのアレでちょっとくじけそうになりましたけど
洒落が通じない人には全く合わないだろうし、人を選ぶけれど、
少なくとも俺は非常に面白いと思った。色々とアレだけどw
次回も期待しています。
ただ、他の方も仰っているとおり、後編の後半で、その引力が弱まって散り散りになってしまった感じです。
個人的な感想で恐縮ではありますが、姉はほんとに死んでいることに
していても良かったのではないかと思います。お燐からそのことを聞かされる
件までは本当に良くできていて、そのあたりで纏められていれば綺麗だったのではないかと。
ただ、謝り妖怪の能力が伏線になっている所は良かったと思うので。生きているパターンでも、
過去のことにケリをつけるくらいの感じでシンプルに出来ていればよかったかも。
何にしろその後がちょっとグダグダに感じました。
あと、自分は普通に面白いと思いましたが、小説に形式の厳格さを求めるタイプの人には、
記号文字を使うのはやはり嫌われるかと。まぁこれは完全に好みの問題ですけどね。
長文での感想失礼しました。
何とも例えようもない魅力を感じました。
非常に高い完成度でギャグとシリアスが融合してると思う。
舞城王太郎初めて読んだとき思い出しました
後半での地霊キャラの切り出しもいいですね
いい作品だったと思います
何もかも完璧だと思いました。
何というか、簡単にコメントすることも躊躇われるSSだと感じます。
感動しました。
どうしても真っ当な二次創作ではない(むしろ嫌われる類)なのだけど確かに楽しい。
とはいえ、ちょっと冗長(ご本人が楽しみすぎ?)に思えたので点数は控えめで。
東方の二次創作界隈では原作準拠の型を大事にしたものが好まれやすいけど、俺としてはどんどんこういう自由な二次創作が増えていってほしいと思う。そういった思いもこめてこの点数で。
オリキャラも東方キャラもどちらもいい味わいでした。
うん、なんていうかムズ痒い〆方にやるせなさと妙な安心感をもらいました。
-20の分は、ちょっと読み辛かったので。
すごくよかったです。あやちゃん結婚して!
でも、あえて東方の世界観を借りない方が面白くなったような気がする。作品内に出てくる名詞を変更しただけでも、多分面白さはかなり違う気がする。
……気がするだけかもしれないけど。
とかく、話としてはとても面白かったです。
姉ちゃんが生きてると分かってちょっとたるーんとしちゃったけど、
それでも読み終えると「これしかない!」って思いました。
900年の時を超え、手に入れた日常。
それが報われたのかどうかは、カメラだけが知っている。
それでいいのだと思います。
それにしてもなんでこれだけどいつもこいつも魅力的に描けるのか、
羨望と嫉妬と共に頭を垂れる次第でございます。
読ませてくれてありがとう。
本当に、本当にありがとう!
最後のお姉さんが親の墓をきれいにすること、それで主人公の目が見えるようになるところがよいです。
でも確かに、東方の世界観と幻想郷を使っているのだとも思いました。
何が言いたいかっつーと、東方二次はこう言ったサブのストーリーこそが面白いんだよなあと。
こう言うスレてしまいすぎて擦り切れちゃった様な描写は久々に見た。
昔のPC98の探偵エロゲとかの主人公ってこんな感じだったよなー、みたいな。
一言で言うと楽しかった。
これを読まないのは勿体無い。
『固有名』が主題なのかしらと思いながら読んでいましたが、そういったテーマや展開、キャラクターの描き方、どれをとっても素晴らしいお話でした。
このようなSSを読ませていただいたことに感謝です。
一つの作品としては90点
いけてるし時代を先取りできている
確かに東方ではないのかもしれないけれど、それでもこれは幻想郷であると言い切れるように思えます。面白かったです。
イメージはロックだとかバラードだとか曲のジャンルはバラバラだけどそんな感じ。