※作品にオリジナルキャラ分を含みます。
「――咲夜。」
夜が白く明けてくる時、普段ならもう寝入ってる時間に従者を呼びつける。
来ないだろうと思った、普段この私レミリア・スカーレットがこの時間に起きていることは無く
ましてや従者を呼びつけるような事は今まで一度も無かったからだ
「咲夜。」
苛立ちを込めてもう一度、苛立つ必要など無いと心のどこかが騒ぐ
(知ったことじゃないわ)
私は此処、紅魔館の王なのだ。この私の思い通りにならない事がこの館の中にあって良い訳が無い。
時計に目をやる。最初に呼んでからもう3分20秒経った、普段の咲夜なら18秒前には参上しているはずだ。
何事も完璧にこなすあの従者が18秒という致命的――少なくとも、紅魔の王はそう感じる――な遅刻をしていると言う事は
恐らく寝入っていると言う事だろう、いつもの様に従者を呼ぶ王の声は眠りの魔物にかき消され彼の者の耳に届かないと言う事だ。
(起こしにいこうか)
駄目だ、私は王なのだから。従者を起こしに参上する王など何処に居るというのだ!王は常に起こされる側なのだ
そこにいかなる理由があろうとも、それが王にとって重要な、非常に重要な問題が起こっていたとしても起こしにいくような
その様な真似は出来ない、物事には領分が有る、起こすのは従者の領分であり起こされるのは王の領分だそれを間違えてはいけない。
どうしようもない程の苛立ちが募り、目に付いた家具相手にそれを発散しようとした時
「――お呼びでしょうか、お嬢様。」
まるで、鈴を転がしたかの様な軽やかな声が聞こえた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「遅い、遅すぎるわ、私が呼んでから何をしていたの。」
ありったけの激情を込めて従者を叱りつけたかったのだが、どうしようもない程の嬉しさに緩んだ顔ではその思いの万分の一も込められなかっただろう。
「申し訳ございません。」
メイド服に身を包んだ少女は言い訳もせず――かといって、とんでもない時間に呼びつけた事を不満に思うそぶりも見せず――ただ一言謝った。
最初に呼びつけられてから6分14秒、飛び起きて準備をしてから参上したとすれば記録的、とも言える時間だ。
それだけ早くに来たにもかかわらず寝起きのような雰囲気は一切見せなかった、艶やかな髪といい見事に着こなされた服といい
まるで2時間は身支度に時間をかけてから現れたようないでたちだった。
(2時間かけてきたのだけれどね)
そう心の中で呟くと、続きを繰り出さない主人に対し「どうされたのですか?」と、問いかけた。
「眠れないわ。」
ただ一言、そう言った。
それだけの理由で日々の激務を終え、ようやく眠りについた所を起こされたのかと思うと眩暈がしてきたが
理由があっただけまだマシだったのかも知れない、この幼き王は王としての資質を余す事無く備えている――つまりはワガママ――なのだ
「かしこまりました。ホットミルクでもお持ちしましょうか?」
王は呆れた顔で「吸血鬼がミルク?冗談じゃないわ」と切り替えした。
「では、ハーブティーをお持ちしましょう。カモミールなどいかがですか?」
手を左右に振りながら「あんなマズイものを飲んで寝ろと言うの?咲夜はいつ拷問吏になったのかしら」と
「困りました、それではどう致しましょう?」
「紅茶が欲しいわ、紅い紅い紅茶が」
自信たっぷりに優雅にポーズまで決めて、王が高らかに宣誓する。さぁ早く持ってきなさいと、しかし
「ダメです。」
即刻却下された。
「な、何で駄目なのよ!」
思わず地を出しながら王が、いや少女が怒鳴る。
「そんなもの飲んだら余計に寝れなくなります、ホットミルクかパチュリー様特製睡眠ジュースで我慢しなさい。」
従者が王をたしなめる、いやこれは姉が妹に言い聞かせてる様なものだ。
此処に来て最初の主従関係はまるで逆転していた、異常な事態?これが彼女らの日常だった
王が我侭を言い、限度を超えれば従者がたしなめる異常な日常、この関係が始まったのは何時だったか。
「うー」
涙目で睨みつける少女に最早王としての威厳は無く、何処にでも居そうな幼き妹そのものだった
「さぁどうします?ミルクかジュースか、まぁ選ぶ余地が無い気もしますが。」
最早観念するしかない二択を迫られた少女は、急にくるりと表情を変えて言い放った。
「……、話が聞きたいわ。」
「話、ですか?」
「そう、話よ。咲夜の物語。私の知らない咲夜を知りたいわ。」
言われた途端に従者の表情が曇る。それだけはマズイと思い何か話題を変えれないかと思案していると
少女は獲物を見つけた狩人の様に、好機を逃さず畳み掛ける。
「咲夜は外から来たんでしょう?私の知らない事を知ってるはずだわ。外の世界には何があるか
外の世界で何があったか、私は貴方の主なんだもの知る権利があるはずよ。」
プライベートという単語すら知らない無邪気な王は、さも当然と私室の扉を開けと言う、
咲夜にとって外の話は極力避けたい話題であり、話すとなれば子守唄のかわりに聞かせるには少々重過ぎる話になりそうだった。
しかし、目の前で羽をバタつかせながら咲夜が口を開くのを待っている少女は、とてもではないが話を聞かずに収まってくれそうには無かった。
「どうしても、ですか?」
どうしてもよ、と間を空けずに少女が答える。
瞬間の硬直、だがこのままでは埒があかない。仕方ないですねとかぶりを振りながら咲夜は口を開いた。
「では、お嬢様の知らない私を話しましょう。それで眠ってくれるなら安いものです。」
それでこそ私の咲夜だと満足そうに少女が頷く。
「少し長い話になりそうです、まずはお茶でも淹れましょう。マヨヒガの良い葉があります。」
手際よくお茶を淹れ、椅子に座るよう促す。この館では見慣れた光景、だがこの光景を見るようになったのは最近の事だ。
五つの世紀を跨いで生きた幼き少女の歴史から見ると、ほんの一瞬、瞬きする間ほどの短い時間。
このとても大切な瞬きの前の物語、それを想うだけで少女の胸は高鳴っていた。
「それでは始めましょうか。でも、幻想郷に来る前の話は今の所はやめておきましょう。」
「何故?私は外の話が聞きたいのに、」
少女の問いに咲夜ははにかみながら答える、「今は話す時ではありませんから」
少々不満そうな様子を見せながらも、少女は「わかったわ」と答えた、
「始めましょうか、私が幻想郷(ここ)に来てから紅魔館(ここ)に来るまでの話、とても不思議な出会いの話を」
「そこは、とてもとても深い森の――――」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
そこはとても深い森の中だった、
普段ならば重装備のレンジャーですら、無闇に入ることを避けるであろう暗い夜の森そんな中を一人の人間が歩いていた。
ローティーンと呼ぶには大人びていて、ハイティーンと呼ぶには幼すぎる、まさに『少女』と呼ぶのが相応しい年頃の女の子
少々肌寒い空気の中をボロひとつ纏っただけで歩いている、だがそこからは浮浪者のような惨めさは感じられず、気品すら漂わせていた。
少女は森の中を歩き慣れている訳ではなかった、むしろ少女の庭は都会の石畳の上であり、ここは土俵の外と呼ぶのが相応しい空間だった。
普通ならすぐに方向感覚が狂い迷い込んでしまいそうな森の中だったが、少女に不安は無かった。
深い森ではあったがすぐ右手には湖が見えており、それに沿ってさえいれば方向を見失うことは無かったし
なにより見たことも無いほど輝いている月が暗い森の中でも自分の場所を教えてくれていた。
(――、ホシとツキさえ見えていれば、位置は見失わない)
何も頼る物が無い場所で、ただ自分の技術だけを信じ歩みを進める少女。
そもそも何故こんな場所に自分が居るのか定かではなかったが、今までの人生も定かでは無い事だらけだった。
どうして、と問うことの無意味さを少女は身を持って知っていた。大事なのはどう対処するかだ。
幸い、武器は身につけていた。いざとなれば食料を調達できるだろうし、水も問題なく確保できそうだった。
(――、口に出来るかどうかはわからないのだけれど)
この森に来てから目にした小動物や虫を見る限り、今まで少女が居た土地と大きく植生が変わる事は無さそうだったので
水などが有害であると言う事は無いだろうが、口にして絶対に安心という保障はどこにも無かった。
離れた土地の水というだけで腹を下すことも有るのだ、何故かいきなり放り出されたこの土地で水を口にした時の危険を考えると
少々喉がヒリついてたとしても我慢しようと思えた。
(――、豚か猪でも居れば良いのだけれど)
水は危険だが、血なら致命的なことになる可能性は少ないだろう、異世界に飛ばされたわけでは無さそうだし
ソラを見る限り随分と遠い土地のようだが、病気持ちでもない限り水より安心して飲めそうだと思えた。
(――、生き物の血を求めて彷徨う。まるでヴァンパイアね)
自分の考えた妄想が面白かったのか、少女は思わず声に出して笑った。
「とても楽しそうね。」
跳ねた。湖に向かって。
気配というものは当てにならない、そんなものを読むなど荒唐無稽な話だ。だから危険の少ない方に跳んだ。
人が居そうな感じはしなかった、呼吸音、衣擦れ、体温による空気の揺らぎ、全てを感じなかった。
少女の今までの経験がどこにも、誰も居ないと告げていた。
しかし、声が聞こえた、確実に誰かが居る。だとすれば森の中だ湖には誰も居ない。
動きの鈍る水の中に入るわけにはいかなかったので、森と湖のわずかな大地に着地する。
すぐさま懐から携帯していたナイフを抜き放ち、森を睨みつける。
いつの間にか、森の様相が一変していた。簡単に言えば『気配』が違っていた。
小動物のざわめきが、木々の揺らぎが消えていた。後ろだから見えないが、湖の揺らめきも消えているのだろう。
(――、何が!何が起こったの!?)
パニックに陥った心はそう簡単には静まらない。
この瞬間にも致命的な攻撃が加えられるかも知れないのだ、心と頭を切り離す。何、いつもの事だ
不確実な意識で森を見るのを止め、確実な無意識で見つめる。こういう時は無意識に頼った方が良いと経験が知っていた。
だんだんと落ち着いてきた意識が、森には何も居ないと告げている。では湖に居るのだろうか?今こうしている間にも真後ろに忍び寄り
無常にもその刃を少女に加えようとしているのではないのだろうか?今すぐ振り向いた方が良いのではないだろうか?
(――、駄目!後ろには何も居ない!)
疑心暗鬼に駆られてはいけない、脅威は目の前にある。見えないし感じないが確実にある、今後ろを向けばそれが少女の最期になるという確信があった。
何の音もしない、異常な空間が満ちている。もしかしたらもうバケモノの胃袋の中に居るのではないかとまで思わせる異常な静寂。
ただ、少女の感覚だけが森から目を離してはいけないと告げていた。
「あら、随分と嫌われたみたいね。」
唐突に音が――いや、声がした。
この期におよんでも、どこから聞こえてくるのか少女には分からなかった。
こんな事は今まで経験したことが無かったが、そんな事どうでもいい。大事なのはどう対処するかだ。
現状を確認する。武器は大振りのナイフが一振り、以上。足場は悪くない、いざとなったら右か左に飛べる、つまり死の可能性は50%だ。
せめて前か後ろに動ければ変わってくるが、森の中に飛び込めば100%の死が待っている、湖も論外だ、着水と同時に殺される。
少女には奥の手と言える能力が有るが、それは人間相手にしか試したことが無い。
目の前の人間以外と思われる脅威に通用するか、試してみなければ分からない。
ここまで考えた時に致命的な事に気がついた。
(――、名前だ、名前がない。)
目の前の脅威に名前がない、それが非常にまずい事だと少女の経験が告げた。
名前はとても大切だ、名前があるから人はソレを対象として認識できる。いざと言う時「目の前の脅威」と考えていてはいけない。短く適切な名前が要る。絶対にだ。
少女には危機的な事態を切り抜けるスキルが備わっていた、先天的なもの後天的なもの全てに熟達していた。しかし、名前を付けると言う人間的な行為を非常に苦手としていた
ありていに言えばネーミングセンスが無かったのだ、
(――、訓練して身に付くものでも無いじゃない)
誰に向かってと言う訳ではないが、思わず文句をつける。文句を言っても始まらないし、考える時間があるわけでもない、とりあえず
少女はそれに『シ』と名付けた。『死』というほど明確な物じゃないし、『し』は間が抜けすぎている、なにより
(――、『シ』に殺されたって言う方が、サマになるじゃない)
「ねえ、貴方。名前は何て言うの?」
いきなり『シ』が語りかけてくる、少々驚いたが油断せず森を睨みつけながら答える
「――、何故そんなことを聞くの。」
少女が初めて声を出した。鈴を転がしたかのような美しい声。少女はこの声が嫌いだった。
「あら、名前がないといけないのよ?ヒトは名前があって初めて対象を認識できるわ。」
とても、とても驚いた。なんと『シ』は少女と同じ事を考えていたのだ。このなんだかよく分からない脅威は少女と同じく名前を必要としていたのだ。
「――、○○。」
多少の親近感を覚えつつ答える、名前と言うか少女の周りの人間が呼んでいた記号のような物だったが、少女にとってはこれが名前だった。
「酷い名前ね。でも貴方の名前だといわれると納得できるわ。」
褒められてるのか貶されてるのか――貶されてるのだ、おそらく――とりあえずどうも、とだけ答えておいた。
「――、貴方は、なんなの?」
「あらあら、そんな事も知らなかったの?」
『シ』は心底あきれたという風に答えてくる、
「私はね、『妖怪』って言うのよ、○○ちゃん。」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「――と、それが私が初めて妖怪と会った瞬間ですわ。」
少女は早く早くと、
「それで、その続きは?その妖怪をどうしたの?」
「どうしたと言われましても、どうも出来なかったと言うのが正しいですわ、その頃の私は妖怪と戦えるような力もありませんでしたし。」
その頃を思い出すように、目を細めながら咲夜が答える。
「そうですね、ただ――、話をしました。」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「――、ヨウカイ?」
自分はからかわれているのだろうか、少女には『シ』がヴァンパイアやライカンの類にはどうしても思えなかったが
何となく嘘を言っていないような気もした、なんだかよく分からない絶対的な脅威を妖怪と言うなら、『シ』は間違いなく妖怪だろう。
「ええ、私は妖怪よ。とてもお腹を空かしていて、ニンゲンを食べにきたの。」
ああ、そうだったのか!少女は納得した。金品を持っているわけでもない小汚い自分が、なぜ脅威に晒されるのかよく分からなかったが
理由を聞いてとても納得した、つまり自分と一緒なのだ。
(――、私は血を求めて畜生を狙う、『シ』は肉を求めて私を狙う)
何もかもが似ていた、『シ』と私は一緒なのだ絶対的な上位者が下位者を狙う。ただ『シ』は私より上にいるだけなのだ。
異常なだけと思えた空間がとても自然になった、ここにはただ自然の連鎖があるだけだったのだ。
では、私は何をすればいいか、とても明白だ。抵抗すれば良い。
ただ食われるだけの弱者ではない、尊厳をもって生きているのだ、食うというならば全身全霊を持って抵抗すれば良い。
それも同じなのだ、畜生も尊厳を持って生き、全身全霊を持って抵抗する。私が畜生と言うならば抵抗するだけなのだ。
「――、フフ、フハハハハハ。」
思わず、本当に無意識に声が出た。可笑しくてたまらなかったのだ。
散々畜生を殺し、畜生以外も殺してきた私は、畜生と同じように殺されるのだ。これが笑わずにはいられるだろうか。
なんと言う皮肉だろうか、居ないと思っていたが神は居るのかも知れないとまで思えた、こんな事ならば日曜ミサに通っておけばよかった。
ちょうど良い聖書の一節でも浮かんできたかも知れないのに
「何故笑うの?」
今までと少し違う拍子で『シ』が語りかけてきた、気が触れたとでも思ったのだろうか、
「笑わずにはいられないでしょう?こんなに可笑しいことは無いのだもの」
笑いを堪えつつ少女は答えた。笑いすぎた故かその目には涙すら浮かんでいた。
「だってそうでしょう?私と貴方は一緒なの、何もかもが一緒、私は『シ』に殺されるの。」
なんだかよく分からない、そんな当惑した雰囲気を漂わせながら『シ』は、「じゃあ、大人しく食べられてくれるかしら?」
「ふふ、貴方は分かってるはずよ、そんなはず無いって。私は全力で抵抗する、貴方はそれをいつもの様に抑え込む。そうでしょう?」
「よく分からないけど、ひとつだけ分かったわ。貴方は食べられる覚悟が出来たって事よね。」
瞬間、雰囲気が変わる。先程までのどこか和やかなムードは一変し、辺りに『シ』が満ちる。
「そうね、食べられる覚悟が出来たわ。それと同時に、貴方を殺す覚悟も出来たの。」
ナイフを握りなおし、目の前の森に意識を集中しなおす。正直言って森に『シ』が居るのか分からなかったが、何となく確信できた。私なら森に居る。
作戦は一つだ、『シ』が飛び込んできた瞬間に右に避ける。姿を確認したら能力を使う。そして必殺の一撃を……、急所がよく分からないから一番弱そうな所にお見舞いする。
『シ』が飛び込んでこなければアウト、避ける方にヤマを張られてたらアウト、姿が見えなければアウト、能力が効かなければアウト、一撃が通用しなければアウトだ。なんと心強い作戦だろうか。
それでも可能性があるだけマシだ、全てセーフなら殺せる。畜生が狩人を殺そうというのだ、これ位のハンディキャップは甘んじて受けるべきだろう。
永遠とも思える静寂が続いた、実際にはほんの一瞬だっただろうが、少女にはそれほど永く感じられた。
ヒュっと空気を裂く音が聞こえた、『シ』が飛び出してきたのか、それとも何かを放ったのか分からないが飛び出したことに賭けるしかないのだ、とっさに
『左』に跳んだ、理由など無い。右に跳ぼうと決めていた、だから『左』に跳んだ。
視線は今まで自分が居た所に向けていた、そこには『何か』――いや、違う!『シ』だ!――が居た!
私と反対の方に意識を向けている『シ』が居た、三つ、三つセーフだ、後二つセーフなら私の勝ちだ!
ここで能力を使う、少女の必殺の能力。僅かの間、世界を固定する――時を止める力を!――
「プライベートッ……スクウェア!」
名前は重要ではない、いや、名前は重要だ。人は名前を付ける事で初めて対象を認識できる。
『私』と名付けられた能力は、少女の周りの世界を固定してゆく。人間相手には確実に効いた能力。
数瞬の間だけ『世界』を『私』に出来るその能力は、『シ』をも確実に固定していた。
(――、四つ、四つセーフッ!)
与えられた僅かの時間で少女は着地し、元居た場所に跳ねる。驚くことに『シ』はヒトと変わらぬ様相だった。
(――、ならッ!)
首だと、経験が叫んだ。頭も胸も確実ではない、首を、あるかどうか分からない頚動脈を裂き、折れるかどうか分からない頚椎を叩き砕く!
出来る、何故か少女は確信した。『シ』は『私』なのだ。ならば頚動脈は裂け、頚椎は折れる。
必殺の一撃は『シ』の首に吸い込まれる様に近づいていく、固定された世界の中の、避けようの無い一撃。
(――、仕留めたッ)
1ミリの油断無く放たれた必殺の一撃が『シ』の首に見舞われ……、
見舞われたと思った瞬間、ガシリとナイフが掴まれる。勢いあまり『シ』に激突する少女を気にした風もなく、『シ』はナイフを握りつぶす。
……終わった、能力は効いてなかったのだ。一つアウトの時点で少女の負けは確定していた、今少女は『シ』の傍に転がっている、勢いあまってぶつかった後、
体勢を立て直せるはずも無く、そのまま地面に転がった。鋼のナイフを握り潰す程の握力だ、頭を握りつぶすなり拳を叩き付けるなり
好きなように少女を殺せるだろう。……が、
「貴方も……、妖怪だったの?」
呆然としながら『シ』が問いかける。なぜ呆然としているのか、そもそも何を問いかけているのかすら少女には分からなかったが
これだけは確かだ、と言う意思を込めて少女は言い放った。
「私は……、人間よ。」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「そう、なんでココに来たのか分からないのね。」
隣に座った『シ』が優しく話しかけてくる、この妖怪が居るからなのか周りの音は相変わらずしなかったが、少なくとも先程の様な攻撃の意志は感じられなかった。
「気がついたら森の中にいたの、その前は確か――」
「何かから逃げてた?」
ドキリ、とした。まさにその通りだったからだ、私は逃げていた、逃げて逃げて気がついたらこの森の中にいたのだ。
「そんな顔しないの、何となく分かっただけよ。」
まさか心が読めるとでも思ってる?と『シ』は笑いながら言う。
きっと心は読めないのだろうと少女には思えた、『シ』は『私』なのだ、私の境遇が分かっても不思議ではないのかもしれない。
「これから先、どうするつもりなの?当てはある?」
「無いに決まってるわ、そもそもココがどこかすらわからないんだもの。」
年相応な表情で少女が答える、もう『シ』に警戒する必要はどこにもなかった。
「それならこの湖畔をずっと歩いていくといいわ、今は見えないけど朝になればずっと遠くに真っ赤なお屋敷が見えるはずよ。」
「真っ赤な屋敷?随分と不気味ね。」
ふふ、と柔らかく笑いながら『シ』は答える
「そのお屋敷に厄介になりなさい、そこなら少なくとも住むも食うも困ることは無いわ。貴方が十分に働けるならね。」
雑用なら得意よ、と少女が自慢げに胸を張って答える、嘘ではない、そうやって雑用もしながら今まで生きてきたのだから
「じゃあ、行きましょうよ、遠いんでしょう?ボヤボヤしてたら着く前に行き倒れちゃうわ。」
満面の笑顔を浮かべながら少女は立ち上がる、そして腰を上げない『シ』に手を差し伸べる。
「あらあら、私は行かないわよ。貴方一人で行くの。」
「どうして?貴方も困ってるんでしょう。」
少し困った様子で『シ』は、
「そこのお屋敷で昔悪さをしちゃってね、ちょっと近寄れないのよ。」
気にすることないわ、行きましょうよ。と言いながら少女は『シ』の腕を掴み――、
とっさに離す。
「貴方……。」
まるで枯れ枝を掴んだような感触だった、周りの音がしない理由を少女は今悟った。ここには『死』が満ちていたのだ。
周りの生物を纏めて殺してしまうような濃密な死の気配、その根源が『シ』だった。
「何で!何で私を食べないのよ、貴方死んじゃうわよ!」
柔らかく笑いながら『シ』は
「貴方は、人間を食べるかしら?」
とても小さな声でそう呟いた。
「食べないわ、私は人間だもの」
「ならそれと一緒よ、私は妖怪を食べない。」
「意味が分からないわ!私は人間よ、食べれるはずじゃない!」
すぅと、深呼吸をした後『シ』は優しく、とても穏やかに語りだす。
「いい?貴方は妖怪なの、貴方のその力は紛れも無い妖怪の証よ。貴方が妖怪をどういうものと思っているかは
わからないけれど妖怪と言うのはね、ヒトならざるモノの事なのよ。貴方はヒトの範疇から外れる、ならそれは妖怪と言う事なのよ。」
少女は、ただ立ち尽くしていた。『シ』が本当にそう思って言っているのかは分からない、何故だかわからないが私を食べたくないだけじゃないかとも思える
それでも『シ』に立ち上がる意志が無いのだけは分かり、そして今さら少女を食べた所でどうにもならないであろう事も分かってしまった。
「……、私は行くわ。そのお屋敷に行ってヒトとして生きるの。」
決別の意志を込め、言い放った。震える声を必死に抑え、今にも泣き出しそうな所を必死に堪えながら。
「ええ、行ってらっしゃい。それが一番いいわ。」
相変わらず、優しい穏やかな声、どうすればこんな声が出せるのか少女には分からなかったが、『シ』がとても穏やかな気持ちになっているのは確かなようだった。
壊れたナイフを地面に突き立てた後、少女はクルリと踵を返しその場を後にする。振り向いてはいけない、声を出してもいけない、ただ進まなくてはいけない
なぜかそんな感情にとらわれて、ただ一心不乱に歩を進める。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「あーあ、お腹がすいたわね。」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
少女のはるか後ろから、小動物のざわめきが、木々の揺らぎが、湖の揺らめきが感じられた。
少女は、振り返ることなく、歩み続けた。こぼれる涙も、洩れる嗚咽も隠そうとせずに、
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「それで、咲夜はココに来たの?」
少女が始めの頃と変わらぬ無邪気な声で尋ねてくる。
「ええ、そうですわ。紅魔館で人として働き、人として生きる事にしたのです。」
「ふ~ん、咲夜は妖怪でも良いと思うけどな、そうしたらずっと一緒に居られるもの。」
大きくかぶりを振りながら咲夜は答える。
「私は人間ですわ。心配しなくても、人として生きている間は精一杯お嬢様のお傍に居させてもらいますので。」
「なんだか、長い話を聞いてたら眠くなってきたわ、」
最早、先の話からは興味が削げたのか、眠そうな眼をこすりながら少女がベットに向かう、
「あ、駄目ですよキチンと着替えて。ほら、歯も磨かないと」
うー、やっぱり咲夜を呼ぶんじゃなかったな、などと悪態を付きつつ言われたとおりに着替え、歯を磨いてから少女は眠りにつく
「おやすみなさいお嬢様、良い夢を」
「おやすみ、咲夜。貴方はいい夢を見るわ」
運命を見透かしたかのように、紅魔の王はささやいた。
<fin>
「――咲夜。」
夜が白く明けてくる時、普段ならもう寝入ってる時間に従者を呼びつける。
来ないだろうと思った、普段この私レミリア・スカーレットがこの時間に起きていることは無く
ましてや従者を呼びつけるような事は今まで一度も無かったからだ
「咲夜。」
苛立ちを込めてもう一度、苛立つ必要など無いと心のどこかが騒ぐ
(知ったことじゃないわ)
私は此処、紅魔館の王なのだ。この私の思い通りにならない事がこの館の中にあって良い訳が無い。
時計に目をやる。最初に呼んでからもう3分20秒経った、普段の咲夜なら18秒前には参上しているはずだ。
何事も完璧にこなすあの従者が18秒という致命的――少なくとも、紅魔の王はそう感じる――な遅刻をしていると言う事は
恐らく寝入っていると言う事だろう、いつもの様に従者を呼ぶ王の声は眠りの魔物にかき消され彼の者の耳に届かないと言う事だ。
(起こしにいこうか)
駄目だ、私は王なのだから。従者を起こしに参上する王など何処に居るというのだ!王は常に起こされる側なのだ
そこにいかなる理由があろうとも、それが王にとって重要な、非常に重要な問題が起こっていたとしても起こしにいくような
その様な真似は出来ない、物事には領分が有る、起こすのは従者の領分であり起こされるのは王の領分だそれを間違えてはいけない。
どうしようもない程の苛立ちが募り、目に付いた家具相手にそれを発散しようとした時
「――お呼びでしょうか、お嬢様。」
まるで、鈴を転がしたかの様な軽やかな声が聞こえた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「遅い、遅すぎるわ、私が呼んでから何をしていたの。」
ありったけの激情を込めて従者を叱りつけたかったのだが、どうしようもない程の嬉しさに緩んだ顔ではその思いの万分の一も込められなかっただろう。
「申し訳ございません。」
メイド服に身を包んだ少女は言い訳もせず――かといって、とんでもない時間に呼びつけた事を不満に思うそぶりも見せず――ただ一言謝った。
最初に呼びつけられてから6分14秒、飛び起きて準備をしてから参上したとすれば記録的、とも言える時間だ。
それだけ早くに来たにもかかわらず寝起きのような雰囲気は一切見せなかった、艶やかな髪といい見事に着こなされた服といい
まるで2時間は身支度に時間をかけてから現れたようないでたちだった。
(2時間かけてきたのだけれどね)
そう心の中で呟くと、続きを繰り出さない主人に対し「どうされたのですか?」と、問いかけた。
「眠れないわ。」
ただ一言、そう言った。
それだけの理由で日々の激務を終え、ようやく眠りについた所を起こされたのかと思うと眩暈がしてきたが
理由があっただけまだマシだったのかも知れない、この幼き王は王としての資質を余す事無く備えている――つまりはワガママ――なのだ
「かしこまりました。ホットミルクでもお持ちしましょうか?」
王は呆れた顔で「吸血鬼がミルク?冗談じゃないわ」と切り替えした。
「では、ハーブティーをお持ちしましょう。カモミールなどいかがですか?」
手を左右に振りながら「あんなマズイものを飲んで寝ろと言うの?咲夜はいつ拷問吏になったのかしら」と
「困りました、それではどう致しましょう?」
「紅茶が欲しいわ、紅い紅い紅茶が」
自信たっぷりに優雅にポーズまで決めて、王が高らかに宣誓する。さぁ早く持ってきなさいと、しかし
「ダメです。」
即刻却下された。
「な、何で駄目なのよ!」
思わず地を出しながら王が、いや少女が怒鳴る。
「そんなもの飲んだら余計に寝れなくなります、ホットミルクかパチュリー様特製睡眠ジュースで我慢しなさい。」
従者が王をたしなめる、いやこれは姉が妹に言い聞かせてる様なものだ。
此処に来て最初の主従関係はまるで逆転していた、異常な事態?これが彼女らの日常だった
王が我侭を言い、限度を超えれば従者がたしなめる異常な日常、この関係が始まったのは何時だったか。
「うー」
涙目で睨みつける少女に最早王としての威厳は無く、何処にでも居そうな幼き妹そのものだった
「さぁどうします?ミルクかジュースか、まぁ選ぶ余地が無い気もしますが。」
最早観念するしかない二択を迫られた少女は、急にくるりと表情を変えて言い放った。
「……、話が聞きたいわ。」
「話、ですか?」
「そう、話よ。咲夜の物語。私の知らない咲夜を知りたいわ。」
言われた途端に従者の表情が曇る。それだけはマズイと思い何か話題を変えれないかと思案していると
少女は獲物を見つけた狩人の様に、好機を逃さず畳み掛ける。
「咲夜は外から来たんでしょう?私の知らない事を知ってるはずだわ。外の世界には何があるか
外の世界で何があったか、私は貴方の主なんだもの知る権利があるはずよ。」
プライベートという単語すら知らない無邪気な王は、さも当然と私室の扉を開けと言う、
咲夜にとって外の話は極力避けたい話題であり、話すとなれば子守唄のかわりに聞かせるには少々重過ぎる話になりそうだった。
しかし、目の前で羽をバタつかせながら咲夜が口を開くのを待っている少女は、とてもではないが話を聞かずに収まってくれそうには無かった。
「どうしても、ですか?」
どうしてもよ、と間を空けずに少女が答える。
瞬間の硬直、だがこのままでは埒があかない。仕方ないですねとかぶりを振りながら咲夜は口を開いた。
「では、お嬢様の知らない私を話しましょう。それで眠ってくれるなら安いものです。」
それでこそ私の咲夜だと満足そうに少女が頷く。
「少し長い話になりそうです、まずはお茶でも淹れましょう。マヨヒガの良い葉があります。」
手際よくお茶を淹れ、椅子に座るよう促す。この館では見慣れた光景、だがこの光景を見るようになったのは最近の事だ。
五つの世紀を跨いで生きた幼き少女の歴史から見ると、ほんの一瞬、瞬きする間ほどの短い時間。
このとても大切な瞬きの前の物語、それを想うだけで少女の胸は高鳴っていた。
「それでは始めましょうか。でも、幻想郷に来る前の話は今の所はやめておきましょう。」
「何故?私は外の話が聞きたいのに、」
少女の問いに咲夜ははにかみながら答える、「今は話す時ではありませんから」
少々不満そうな様子を見せながらも、少女は「わかったわ」と答えた、
「始めましょうか、私が幻想郷(ここ)に来てから紅魔館(ここ)に来るまでの話、とても不思議な出会いの話を」
「そこは、とてもとても深い森の――――」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
そこはとても深い森の中だった、
普段ならば重装備のレンジャーですら、無闇に入ることを避けるであろう暗い夜の森そんな中を一人の人間が歩いていた。
ローティーンと呼ぶには大人びていて、ハイティーンと呼ぶには幼すぎる、まさに『少女』と呼ぶのが相応しい年頃の女の子
少々肌寒い空気の中をボロひとつ纏っただけで歩いている、だがそこからは浮浪者のような惨めさは感じられず、気品すら漂わせていた。
少女は森の中を歩き慣れている訳ではなかった、むしろ少女の庭は都会の石畳の上であり、ここは土俵の外と呼ぶのが相応しい空間だった。
普通ならすぐに方向感覚が狂い迷い込んでしまいそうな森の中だったが、少女に不安は無かった。
深い森ではあったがすぐ右手には湖が見えており、それに沿ってさえいれば方向を見失うことは無かったし
なにより見たことも無いほど輝いている月が暗い森の中でも自分の場所を教えてくれていた。
(――、ホシとツキさえ見えていれば、位置は見失わない)
何も頼る物が無い場所で、ただ自分の技術だけを信じ歩みを進める少女。
そもそも何故こんな場所に自分が居るのか定かではなかったが、今までの人生も定かでは無い事だらけだった。
どうして、と問うことの無意味さを少女は身を持って知っていた。大事なのはどう対処するかだ。
幸い、武器は身につけていた。いざとなれば食料を調達できるだろうし、水も問題なく確保できそうだった。
(――、口に出来るかどうかはわからないのだけれど)
この森に来てから目にした小動物や虫を見る限り、今まで少女が居た土地と大きく植生が変わる事は無さそうだったので
水などが有害であると言う事は無いだろうが、口にして絶対に安心という保障はどこにも無かった。
離れた土地の水というだけで腹を下すことも有るのだ、何故かいきなり放り出されたこの土地で水を口にした時の危険を考えると
少々喉がヒリついてたとしても我慢しようと思えた。
(――、豚か猪でも居れば良いのだけれど)
水は危険だが、血なら致命的なことになる可能性は少ないだろう、異世界に飛ばされたわけでは無さそうだし
ソラを見る限り随分と遠い土地のようだが、病気持ちでもない限り水より安心して飲めそうだと思えた。
(――、生き物の血を求めて彷徨う。まるでヴァンパイアね)
自分の考えた妄想が面白かったのか、少女は思わず声に出して笑った。
「とても楽しそうね。」
跳ねた。湖に向かって。
気配というものは当てにならない、そんなものを読むなど荒唐無稽な話だ。だから危険の少ない方に跳んだ。
人が居そうな感じはしなかった、呼吸音、衣擦れ、体温による空気の揺らぎ、全てを感じなかった。
少女の今までの経験がどこにも、誰も居ないと告げていた。
しかし、声が聞こえた、確実に誰かが居る。だとすれば森の中だ湖には誰も居ない。
動きの鈍る水の中に入るわけにはいかなかったので、森と湖のわずかな大地に着地する。
すぐさま懐から携帯していたナイフを抜き放ち、森を睨みつける。
いつの間にか、森の様相が一変していた。簡単に言えば『気配』が違っていた。
小動物のざわめきが、木々の揺らぎが消えていた。後ろだから見えないが、湖の揺らめきも消えているのだろう。
(――、何が!何が起こったの!?)
パニックに陥った心はそう簡単には静まらない。
この瞬間にも致命的な攻撃が加えられるかも知れないのだ、心と頭を切り離す。何、いつもの事だ
不確実な意識で森を見るのを止め、確実な無意識で見つめる。こういう時は無意識に頼った方が良いと経験が知っていた。
だんだんと落ち着いてきた意識が、森には何も居ないと告げている。では湖に居るのだろうか?今こうしている間にも真後ろに忍び寄り
無常にもその刃を少女に加えようとしているのではないのだろうか?今すぐ振り向いた方が良いのではないだろうか?
(――、駄目!後ろには何も居ない!)
疑心暗鬼に駆られてはいけない、脅威は目の前にある。見えないし感じないが確実にある、今後ろを向けばそれが少女の最期になるという確信があった。
何の音もしない、異常な空間が満ちている。もしかしたらもうバケモノの胃袋の中に居るのではないかとまで思わせる異常な静寂。
ただ、少女の感覚だけが森から目を離してはいけないと告げていた。
「あら、随分と嫌われたみたいね。」
唐突に音が――いや、声がした。
この期におよんでも、どこから聞こえてくるのか少女には分からなかった。
こんな事は今まで経験したことが無かったが、そんな事どうでもいい。大事なのはどう対処するかだ。
現状を確認する。武器は大振りのナイフが一振り、以上。足場は悪くない、いざとなったら右か左に飛べる、つまり死の可能性は50%だ。
せめて前か後ろに動ければ変わってくるが、森の中に飛び込めば100%の死が待っている、湖も論外だ、着水と同時に殺される。
少女には奥の手と言える能力が有るが、それは人間相手にしか試したことが無い。
目の前の人間以外と思われる脅威に通用するか、試してみなければ分からない。
ここまで考えた時に致命的な事に気がついた。
(――、名前だ、名前がない。)
目の前の脅威に名前がない、それが非常にまずい事だと少女の経験が告げた。
名前はとても大切だ、名前があるから人はソレを対象として認識できる。いざと言う時「目の前の脅威」と考えていてはいけない。短く適切な名前が要る。絶対にだ。
少女には危機的な事態を切り抜けるスキルが備わっていた、先天的なもの後天的なもの全てに熟達していた。しかし、名前を付けると言う人間的な行為を非常に苦手としていた
ありていに言えばネーミングセンスが無かったのだ、
(――、訓練して身に付くものでも無いじゃない)
誰に向かってと言う訳ではないが、思わず文句をつける。文句を言っても始まらないし、考える時間があるわけでもない、とりあえず
少女はそれに『シ』と名付けた。『死』というほど明確な物じゃないし、『し』は間が抜けすぎている、なにより
(――、『シ』に殺されたって言う方が、サマになるじゃない)
「ねえ、貴方。名前は何て言うの?」
いきなり『シ』が語りかけてくる、少々驚いたが油断せず森を睨みつけながら答える
「――、何故そんなことを聞くの。」
少女が初めて声を出した。鈴を転がしたかのような美しい声。少女はこの声が嫌いだった。
「あら、名前がないといけないのよ?ヒトは名前があって初めて対象を認識できるわ。」
とても、とても驚いた。なんと『シ』は少女と同じ事を考えていたのだ。このなんだかよく分からない脅威は少女と同じく名前を必要としていたのだ。
「――、○○。」
多少の親近感を覚えつつ答える、名前と言うか少女の周りの人間が呼んでいた記号のような物だったが、少女にとってはこれが名前だった。
「酷い名前ね。でも貴方の名前だといわれると納得できるわ。」
褒められてるのか貶されてるのか――貶されてるのだ、おそらく――とりあえずどうも、とだけ答えておいた。
「――、貴方は、なんなの?」
「あらあら、そんな事も知らなかったの?」
『シ』は心底あきれたという風に答えてくる、
「私はね、『妖怪』って言うのよ、○○ちゃん。」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「――と、それが私が初めて妖怪と会った瞬間ですわ。」
少女は早く早くと、
「それで、その続きは?その妖怪をどうしたの?」
「どうしたと言われましても、どうも出来なかったと言うのが正しいですわ、その頃の私は妖怪と戦えるような力もありませんでしたし。」
その頃を思い出すように、目を細めながら咲夜が答える。
「そうですね、ただ――、話をしました。」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「――、ヨウカイ?」
自分はからかわれているのだろうか、少女には『シ』がヴァンパイアやライカンの類にはどうしても思えなかったが
何となく嘘を言っていないような気もした、なんだかよく分からない絶対的な脅威を妖怪と言うなら、『シ』は間違いなく妖怪だろう。
「ええ、私は妖怪よ。とてもお腹を空かしていて、ニンゲンを食べにきたの。」
ああ、そうだったのか!少女は納得した。金品を持っているわけでもない小汚い自分が、なぜ脅威に晒されるのかよく分からなかったが
理由を聞いてとても納得した、つまり自分と一緒なのだ。
(――、私は血を求めて畜生を狙う、『シ』は肉を求めて私を狙う)
何もかもが似ていた、『シ』と私は一緒なのだ絶対的な上位者が下位者を狙う。ただ『シ』は私より上にいるだけなのだ。
異常なだけと思えた空間がとても自然になった、ここにはただ自然の連鎖があるだけだったのだ。
では、私は何をすればいいか、とても明白だ。抵抗すれば良い。
ただ食われるだけの弱者ではない、尊厳をもって生きているのだ、食うというならば全身全霊を持って抵抗すれば良い。
それも同じなのだ、畜生も尊厳を持って生き、全身全霊を持って抵抗する。私が畜生と言うならば抵抗するだけなのだ。
「――、フフ、フハハハハハ。」
思わず、本当に無意識に声が出た。可笑しくてたまらなかったのだ。
散々畜生を殺し、畜生以外も殺してきた私は、畜生と同じように殺されるのだ。これが笑わずにはいられるだろうか。
なんと言う皮肉だろうか、居ないと思っていたが神は居るのかも知れないとまで思えた、こんな事ならば日曜ミサに通っておけばよかった。
ちょうど良い聖書の一節でも浮かんできたかも知れないのに
「何故笑うの?」
今までと少し違う拍子で『シ』が語りかけてきた、気が触れたとでも思ったのだろうか、
「笑わずにはいられないでしょう?こんなに可笑しいことは無いのだもの」
笑いを堪えつつ少女は答えた。笑いすぎた故かその目には涙すら浮かんでいた。
「だってそうでしょう?私と貴方は一緒なの、何もかもが一緒、私は『シ』に殺されるの。」
なんだかよく分からない、そんな当惑した雰囲気を漂わせながら『シ』は、「じゃあ、大人しく食べられてくれるかしら?」
「ふふ、貴方は分かってるはずよ、そんなはず無いって。私は全力で抵抗する、貴方はそれをいつもの様に抑え込む。そうでしょう?」
「よく分からないけど、ひとつだけ分かったわ。貴方は食べられる覚悟が出来たって事よね。」
瞬間、雰囲気が変わる。先程までのどこか和やかなムードは一変し、辺りに『シ』が満ちる。
「そうね、食べられる覚悟が出来たわ。それと同時に、貴方を殺す覚悟も出来たの。」
ナイフを握りなおし、目の前の森に意識を集中しなおす。正直言って森に『シ』が居るのか分からなかったが、何となく確信できた。私なら森に居る。
作戦は一つだ、『シ』が飛び込んできた瞬間に右に避ける。姿を確認したら能力を使う。そして必殺の一撃を……、急所がよく分からないから一番弱そうな所にお見舞いする。
『シ』が飛び込んでこなければアウト、避ける方にヤマを張られてたらアウト、姿が見えなければアウト、能力が効かなければアウト、一撃が通用しなければアウトだ。なんと心強い作戦だろうか。
それでも可能性があるだけマシだ、全てセーフなら殺せる。畜生が狩人を殺そうというのだ、これ位のハンディキャップは甘んじて受けるべきだろう。
永遠とも思える静寂が続いた、実際にはほんの一瞬だっただろうが、少女にはそれほど永く感じられた。
ヒュっと空気を裂く音が聞こえた、『シ』が飛び出してきたのか、それとも何かを放ったのか分からないが飛び出したことに賭けるしかないのだ、とっさに
『左』に跳んだ、理由など無い。右に跳ぼうと決めていた、だから『左』に跳んだ。
視線は今まで自分が居た所に向けていた、そこには『何か』――いや、違う!『シ』だ!――が居た!
私と反対の方に意識を向けている『シ』が居た、三つ、三つセーフだ、後二つセーフなら私の勝ちだ!
ここで能力を使う、少女の必殺の能力。僅かの間、世界を固定する――時を止める力を!――
「プライベートッ……スクウェア!」
名前は重要ではない、いや、名前は重要だ。人は名前を付ける事で初めて対象を認識できる。
『私』と名付けられた能力は、少女の周りの世界を固定してゆく。人間相手には確実に効いた能力。
数瞬の間だけ『世界』を『私』に出来るその能力は、『シ』をも確実に固定していた。
(――、四つ、四つセーフッ!)
与えられた僅かの時間で少女は着地し、元居た場所に跳ねる。驚くことに『シ』はヒトと変わらぬ様相だった。
(――、ならッ!)
首だと、経験が叫んだ。頭も胸も確実ではない、首を、あるかどうか分からない頚動脈を裂き、折れるかどうか分からない頚椎を叩き砕く!
出来る、何故か少女は確信した。『シ』は『私』なのだ。ならば頚動脈は裂け、頚椎は折れる。
必殺の一撃は『シ』の首に吸い込まれる様に近づいていく、固定された世界の中の、避けようの無い一撃。
(――、仕留めたッ)
1ミリの油断無く放たれた必殺の一撃が『シ』の首に見舞われ……、
見舞われたと思った瞬間、ガシリとナイフが掴まれる。勢いあまり『シ』に激突する少女を気にした風もなく、『シ』はナイフを握りつぶす。
……終わった、能力は効いてなかったのだ。一つアウトの時点で少女の負けは確定していた、今少女は『シ』の傍に転がっている、勢いあまってぶつかった後、
体勢を立て直せるはずも無く、そのまま地面に転がった。鋼のナイフを握り潰す程の握力だ、頭を握りつぶすなり拳を叩き付けるなり
好きなように少女を殺せるだろう。……が、
「貴方も……、妖怪だったの?」
呆然としながら『シ』が問いかける。なぜ呆然としているのか、そもそも何を問いかけているのかすら少女には分からなかったが
これだけは確かだ、と言う意思を込めて少女は言い放った。
「私は……、人間よ。」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「そう、なんでココに来たのか分からないのね。」
隣に座った『シ』が優しく話しかけてくる、この妖怪が居るからなのか周りの音は相変わらずしなかったが、少なくとも先程の様な攻撃の意志は感じられなかった。
「気がついたら森の中にいたの、その前は確か――」
「何かから逃げてた?」
ドキリ、とした。まさにその通りだったからだ、私は逃げていた、逃げて逃げて気がついたらこの森の中にいたのだ。
「そんな顔しないの、何となく分かっただけよ。」
まさか心が読めるとでも思ってる?と『シ』は笑いながら言う。
きっと心は読めないのだろうと少女には思えた、『シ』は『私』なのだ、私の境遇が分かっても不思議ではないのかもしれない。
「これから先、どうするつもりなの?当てはある?」
「無いに決まってるわ、そもそもココがどこかすらわからないんだもの。」
年相応な表情で少女が答える、もう『シ』に警戒する必要はどこにもなかった。
「それならこの湖畔をずっと歩いていくといいわ、今は見えないけど朝になればずっと遠くに真っ赤なお屋敷が見えるはずよ。」
「真っ赤な屋敷?随分と不気味ね。」
ふふ、と柔らかく笑いながら『シ』は答える
「そのお屋敷に厄介になりなさい、そこなら少なくとも住むも食うも困ることは無いわ。貴方が十分に働けるならね。」
雑用なら得意よ、と少女が自慢げに胸を張って答える、嘘ではない、そうやって雑用もしながら今まで生きてきたのだから
「じゃあ、行きましょうよ、遠いんでしょう?ボヤボヤしてたら着く前に行き倒れちゃうわ。」
満面の笑顔を浮かべながら少女は立ち上がる、そして腰を上げない『シ』に手を差し伸べる。
「あらあら、私は行かないわよ。貴方一人で行くの。」
「どうして?貴方も困ってるんでしょう。」
少し困った様子で『シ』は、
「そこのお屋敷で昔悪さをしちゃってね、ちょっと近寄れないのよ。」
気にすることないわ、行きましょうよ。と言いながら少女は『シ』の腕を掴み――、
とっさに離す。
「貴方……。」
まるで枯れ枝を掴んだような感触だった、周りの音がしない理由を少女は今悟った。ここには『死』が満ちていたのだ。
周りの生物を纏めて殺してしまうような濃密な死の気配、その根源が『シ』だった。
「何で!何で私を食べないのよ、貴方死んじゃうわよ!」
柔らかく笑いながら『シ』は
「貴方は、人間を食べるかしら?」
とても小さな声でそう呟いた。
「食べないわ、私は人間だもの」
「ならそれと一緒よ、私は妖怪を食べない。」
「意味が分からないわ!私は人間よ、食べれるはずじゃない!」
すぅと、深呼吸をした後『シ』は優しく、とても穏やかに語りだす。
「いい?貴方は妖怪なの、貴方のその力は紛れも無い妖怪の証よ。貴方が妖怪をどういうものと思っているかは
わからないけれど妖怪と言うのはね、ヒトならざるモノの事なのよ。貴方はヒトの範疇から外れる、ならそれは妖怪と言う事なのよ。」
少女は、ただ立ち尽くしていた。『シ』が本当にそう思って言っているのかは分からない、何故だかわからないが私を食べたくないだけじゃないかとも思える
それでも『シ』に立ち上がる意志が無いのだけは分かり、そして今さら少女を食べた所でどうにもならないであろう事も分かってしまった。
「……、私は行くわ。そのお屋敷に行ってヒトとして生きるの。」
決別の意志を込め、言い放った。震える声を必死に抑え、今にも泣き出しそうな所を必死に堪えながら。
「ええ、行ってらっしゃい。それが一番いいわ。」
相変わらず、優しい穏やかな声、どうすればこんな声が出せるのか少女には分からなかったが、『シ』がとても穏やかな気持ちになっているのは確かなようだった。
壊れたナイフを地面に突き立てた後、少女はクルリと踵を返しその場を後にする。振り向いてはいけない、声を出してもいけない、ただ進まなくてはいけない
なぜかそんな感情にとらわれて、ただ一心不乱に歩を進める。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「あーあ、お腹がすいたわね。」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
少女のはるか後ろから、小動物のざわめきが、木々の揺らぎが、湖の揺らめきが感じられた。
少女は、振り返ることなく、歩み続けた。こぼれる涙も、洩れる嗚咽も隠そうとせずに、
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「それで、咲夜はココに来たの?」
少女が始めの頃と変わらぬ無邪気な声で尋ねてくる。
「ええ、そうですわ。紅魔館で人として働き、人として生きる事にしたのです。」
「ふ~ん、咲夜は妖怪でも良いと思うけどな、そうしたらずっと一緒に居られるもの。」
大きくかぶりを振りながら咲夜は答える。
「私は人間ですわ。心配しなくても、人として生きている間は精一杯お嬢様のお傍に居させてもらいますので。」
「なんだか、長い話を聞いてたら眠くなってきたわ、」
最早、先の話からは興味が削げたのか、眠そうな眼をこすりながら少女がベットに向かう、
「あ、駄目ですよキチンと着替えて。ほら、歯も磨かないと」
うー、やっぱり咲夜を呼ぶんじゃなかったな、などと悪態を付きつつ言われたとおりに着替え、歯を磨いてから少女は眠りにつく
「おやすみなさいお嬢様、良い夢を」
「おやすみ、咲夜。貴方はいい夢を見るわ」
運命を見透かしたかのように、紅魔の王はささやいた。
<fin>
>オリジナルキャラ
必要なのが明白で、そして幻想郷という世界に違和感がありませんでした。お見事です。
最初妖怪=ゆかりんかと思った。それくらい違和感を感じない不気味な妖怪だった
御見事です。