「よぉ霊夢。調子はどうだい」
賽銭を投げ入れてがらがらいわせていると、霊夢が境内の裏から現れた。
「調子? 調子はね、いいわよ。御神酒は人を幸せにしてくれるの」
「そ、そうか。そんな愛想が聞けるならもっと土産を持ってくればよかった。しまったよ」
「やめてよ。魔理沙がそこまで気を回したら大地が割れて空が落ちてくるわ。それだけでも十分よ」
水を向ける視線に鷹揚に同意して、籠に詰めて持参したたっぷりの食料品をどこに運べばいいか聞いた。霊夢はにこに礼言らしきものを申しながら厨房へ案内する。私はその親切を断って、彼女自身に全てを託した。公平に言えば、仕事を押しつけてとんずらした。
境内にはワインや肉汁が煮立つ腹の空く匂いが漂い始めていた。本日は大がかりな集まりになってしまったので、仕込みの方も忙しいみたいだった。そこかしらに妖怪の気配がしている。私は挨拶をして回った。気の早い連中は既にそうとう聞こし召し臭い息を吐きかけてくる。
「まりさぁ、はやいわね。ほら、まあ飲んで飲んで」
輝夜がにやにやしながらしなだれかかる。身体をよじって絡みつく腕から離れようとするが、そのまま体重をのせてきて、どちらも倒れてしまった。地面が黒くなって、匂いが蒸発して濃厚になる。
「あーあー、こぼれちゃった。永琳、新しいのを頂戴」
「もう姫様、そのような卑しい生き物に触れるからです。障りますよ」
すぐさまなみなみとブランデーが注がれたグラスが二つ、輝夜の両手におさまって、そのうちのひとつを私に差し出す。
私はスカートの裾をはたいて立ち上がった。口唇はぶつくさ言いながらも、右手はしっぽを振った犬みたいに酒にまっしぐらだった。
「おいしいな」
「でしょう。素晴らしい熟成香だわ。いいお酒の普遍的な証明ね。だいたい50年から100年というところね。でも良い物は、昔みたいに掠められなくなっているらしいわね」
「だったらこの愛すべき泥棒共和国が終わって、寄生虫どもが日干しになるだけだ。今更、紫の腹芸だろ」
「そうね、確かに私たちはみんな盗人をしているようなものだわ」
「私はいつも思うんだ。この盗賊団の中で、泥棒の専門家である魔理沙様が、何故盗みを咎められる謂われがあるのだろうか? とな」
「あら、確かにそうね」
永琳が横から割って入り、十杯機嫌で頷いた。
「ま、このように、姫様を騙くらかすのは、そうしようという気になりさえすれば、半ば成功したものです」
「信じるのは美徳よ」
けらけらと輝夜は笑って、どーんと胸を張った。
「ケチケチしないわ、考古学者さん。大事なものはちゃんと置いてあるの、蔵にあるものならなんでも持っていきなさいよ」
「蓬莱の薬は?」
「いいわよ、あんなもの、作ってあげる。すぐに作れるもの。ね、私たちなら」
「そうですね」
永琳が頷く。
私は思わず目を剥いて両手をあげた。
青い空にはもう月が白い肌を顕わにしている。月人たちは月に関して、もう地上人にとっての月と同じに感じるのだと認めていた。つまりは戻りたいとは思わないのだと言っていた。永琳は私に向き直って、頬に手を当てた。
「気が向いたらいつでもどうぞ」
「さすが先生、話が分かるぜ。不死とみれば過ぎた欲望であると見せかけたい流行には困ったものだからな」
「どこでも同じよ。月の住人もそうだったわ。蓬莱の薬なんて健胃剤のようなものなのだけれど、そうでない、何かの危機のようなものを感じる住人も居たの。それが何かは天才である私にも分からなかったけれど」
「そういうことを聞きたかったんだ。まったくのところ、つべこべ言うのは、私から言わせれば天の定めに跪くのが趣味の小人どもの、狂ったハン・ストだぜ。チャチな道徳株式の紙切れを高値で売り抜けんとする山師的努力に汗を流しているだけだ。せいぜいが、『どうだ見ろ俺は理性的なのだ』とメッセージを送っているんだな。よし、今度もらいに行くぜ」
要するに不死を拒むことが「人間らしく」好ましい信仰告白であると一般に思われている、……それ以外の根拠は、別に考えてその結論に達した訳でもない山師には必要ないことなのだ。と、頷いて、ひとしきりぷりぷりと誰を相手にするでもなく怒ってグラスをあおる。
「でも心しなさい」
永琳は低い声で、まるで妖怪の話をしている老人が孫を怖がらせるように、爪を立てて噛みつく真似をする。
「ある種の人間は、根から腐ってしまうわ」
「わたくし?」
手をあげた輝夜は、じと目で永琳に絡み始める。永琳はにこにこしながら輝夜の恨み節を聞いて蕩けていた。
「ね、えーりん、あんたは天才で、長生きがお買い得とすれば、わたしは凡人で、使いでがないの。ぐるぐると、ぐるぐると、同じところを回るのが好きなのよ。えーりんは、そうじゃないから嫌いよ。もっと甘いお酒を望んでいるの」
私はそれを比喩かと思ったのだが、輝夜はコップをひっくり返してふんぞり返る。心得たもので萎びた耳のウサギが側に寄ってきて、果物がプリントされた缶を持って現れた。文化の根のない新しい酒は頭で飲むことを知る幻想郷の少女の舌によく馴染まなかった。
「ボケ老人どもの世話も、なかなかこたえるな」
「地上の人間には推し量れないわ」
鈴仙は半笑いになった。残り半分は自棄だった。
「熱心だな。下っ端にはいろいろな仕事があるものだ。では古い酒袋は貰っていくぜ」
ブランデーの瓶をかっぱらって、ちびちびとラッパ飲みをしながら境内を練り歩く。料理を手伝おうかとちょっと思ったが、思っただけで既に手伝ったのと同じぐらい疲れたので、それはやめにしておいた。どうやら妖怪はもうほとんど集まっているようだった。翳みなき落暉が大地に括られる。ようやく隅から紫色の夜が、最後の影をねじり溶かし始める。
「すばらしい日々です」
鳥居の上に射命丸家の文ちゃんがしどけなく干物になっていた。うつぶせに寝そべりながら両手両足をばたばたさせ、羽を空打ちしている。その瞳は何も移さず、やさぐれた様子でだらだらと独り言を垂れ流す。
「いやあ、明日も頑張ろうって気になりますねぇ」
「何かあったのか。聞かせてくれよ」
「ん。おや、霧雨魔理沙さんじゃないですか。いやなに、平和すぎて商売あがったりで」
「私は霊夢だぜ」
「では博麗霊夢さん、金髪は巫女としてやめたほうがいいですよ」
「嘘だよ。霧雨魔理沙だぜ」
「がさつさは同じですよねぇ」
「一緒にするなよ、あいつは私以上に聖職なんざ関係のない、没義道なヤクザものさ。それこそ機嫌が悪いからというだけの理由で、どれほどの妖怪を気紛れに……しかしあれで、私の一番の友達だからな。あまり悪口は言わないでおこう。これ以上は」
「美しいですねぇ、少女の友情、大好物です。いや、あはは、食べちゃいたいなぁ」
パタパタ羽ばたいて降りてくると、私の酒瓶をひったくって一息で飲んでしまった。おいなんだやめろと抗議の声をあげて取り返すが、もう中身はからっぽで、逆さまにしても少し舌の表面が濡れるだけだ。
「ほう、ほほほう。良いコニャックです。濃厚な香り、それに負けない度数の高さ、のど越し。パーフェクト。いける洋酒ですね、うまい!」
文は賛嘆しながら2,3度深く頷いて、そのまま再び羽ばたいてみんな集まっている方に飛んでいってしまった。速やかな身体のこなしに、もう声の掛けようがないほど距離を取られてから、うやむやになってしまっていることに気付く。
「うざいぜ……」
がっくりと肩を落として、私はもう一度空を見上げる。やがて鳥居をくぐって、階段から下を見下ろして、村の景色を見る。私は瓶を村に向かって放り投げた。
幻想郷はとても広い。
よくもこれだけの土地が地図から消えるのを、外の世界が見逃してくれているものだ。妖怪の山だけで、麓を入れると十数ほどの村が入ってしまうのだから。
もちろん、かわいそうなので余り言わないでおくが、神社の、霊夢の、わけても賽銭のちゃりちゃりいう音の立場からすれば、幻想郷に人間はたった数十人ほどしか歴史上存在しなかった。
「いやまったく、何故霊夢ほどの人間がどうしてこれで満足するのだろうね」
霊夢は贅沢も言わず質素な暮らしをして、満ち足りていた。食材に事欠くことはとても珍しいが、ないでもない。その場合でも泣きつかず落ち着いて我慢していた。そうなると、『頼りになる巫女様は感心にも、またぞろ脂肪の禊ぎの儀をしているぞ』、と好意を持つ人(私だが)は、喧伝し、乞食をするのだった。
もしも誰かが、このような選ばれた饗宴に相応しくない、紛れ込んだ村娘を叩き出すべきではないのか、と疑義を呈したならば、私は少しも慌てずこちらに向けられた指先に非礼を詫びて退席するだろう。こんなありえない想定をすることは、私が卑屈のふもとに住まっていることを意味した。
ざわめきが料理の登場を知らせてくれた。洋の東西を問わない珍味佳肴が、大皿に山と盛られ輪奐の美を誇っていた。参加者の質が現れるのか、幻想郷で採られたものはむしろ僅かだった。水を得た魚のように足取り軽く、今宵の厨宰十六夜咲夜は皿の間を動き回りながら素材を解説する。彼女の料理が美味しい理由のひとつは、熱を保存することができるからだろう。このような場でしか見せない彼女の自慢げな陽気さと、誰も知らなかった外界風の給仕に当てられ、よっぱらいどもの胃袋は凶暴なパレードを巻き起こした。こちらはカラマタのオリーブ、あちらはアムステルダムの塩鰊、ブルターニュの七面鳥にはたっぷりのトリュフ。その他各所から取り寄せたカレイ、雉、キャビア、牡蠣、プラム、イチジク、干しブドウ……。
皆は手を拍ち、宴が始まった。
咲夜が私のために、銀の砂糖つぼから穴のあいたおもちゃのようなおたまで、ラズベリーに純白の雪を吹雪かせていた。無言で受け取ると、彼女は咎める指先で私のおでこを突いた。
「言うことがあるでしょう。魔理沙、どうして手伝いにこなかったの」
「さあ。今度いい時、手伝うよ」
「それはいけないわ。どうしてそういうことをするの? 嫌われちゃうわよ」
「飼い主の所へ戻れよ」
「暇を出されちゃったの。お前は勝手にやってろって」
レミリアは遠くの方で、珍しく紫を杯を交わしていた。やつらは初っ端から難しい顔をしていたので、少しく気になり、くちばしを突っ込んでやろうと腰を浮かしかけた。
だが皿の上で雪崩が起こった。山は他から崩されていた。霊夢が子犬のように駆け寄ってきて、人の皿からものを奪ったのだ。周りを眺めると、どうやら賄い連中も一休みして宴会を楽しみ始めているようだ。
「どれ。ふーん、妙な味のイチゴね、私の好みじゃないわ」
霊夢は顔をしかめた。
「慣れたほうが良いわ、若いのだから、好き嫌いなく食べないと。じゃあ、私は行くわね」
咲夜はあっさりどこかへ行った。
宴は挿話を挟みながら過ぎ行く。鬼と天狗はいつものように馬鹿けた咎落としまがいの飲み比べを始めた。吸血鬼と紫は相変わらず同じデカンターを囲んで囁きあい、珍しく難しい顔をしているのだった。月人達は生徒を集めて月の技術を自慢し、腰を落ち着かせた咲夜は珍しく早苗と盛り上がっている。
そういえば、彼女たちは外界人という繋がりがあった。彼女らの過去については、あやふやなことは仄聞するが、どう検討してもいい話ではなかった。私はおっくうな体でぼんやり眺めながら二人の動く唇に勝手な台詞を喋らせた。
早苗は咲夜のなにがしかの言葉に目を見開いて声の調子をあげたようだった。私の頭の中で彼女たちが会話する。
『では咲夜さん、あなたは吸血鬼にならないのですか』
『悪魔の犬ですわ』
『永遠の寿命ですよ。人間を辞めることができるのですから、人間嫌いの貴方がうまうま飛びつかない話ではないと思いますがね。いつも不思議なのですが、どうしてそこにある果実を手に取らないのですか? どんな説得力のある理由が? まさか、人間であることに快楽を覚えているのですか?』
『甘いだけの蜜を舐める権利はないと幼い頃に教えられたのです。私はそういう人間です。やせ我慢だけではありませんのよ。そう、信仰です。なにせ信仰も少しは残っていますからね。二人並んで通れない門もありますわ。不義な私ですが、せめて魂を保ったまま天に召され、審判を甘んじて受け入れる義務が、私とお嬢様の契約なのです。私はキリスト者で未だ魂があり、お嬢様はしかし魂が存在しないのですから』
『宗教ですか。なるほど』
『私は裁かれることで信仰を守るのです。最近ではお嬢様も、私を通して、御自らの失われた信仰を眩しそうに懐かしむふりがあります。ならば私とお嬢様の意思は同じ。お嬢様を裏切らぬためにも信仰を通さねばなりません。誤解をおそれずに言えば、お嬢様にとっても私を天に召すことはある種の得がたい贖罪の機会なのでしょう』
『実にごもっとも。今までのどんな理由よりも納得いたしました。ふむ。しかし大した義理立てですが、もはやなおざりにするがいいでしょう』
『それでも良いのです。でも今更、はしたない気がして。きまりが悪いし」
咲夜は早苗にそう耳打ちして悪戯っぽい表情を浮かべた。
早苗はつられて頷いた。
『恐れずに血を吸われてみればいいのです。誰だって祝福しますよ』
『では、今夜お嬢様にお頼みしましょう。信仰も忘れました。これで紅魔館は完成ですわ』
莞爾と笑い乾杯した。
これでいいのに。と、奥歯で砕氷を砕きながら考える。彼女らはこのまま死ぬ気なのだろうか。今までの人生の負債の帳尻を合わさず、今が幸せだからといって足ることを知り、自らの過去のクレバスを永遠に跳躍することができずに、審判の時に向けて自らの生をパッケージするのだろうか。
私は嫌だ! 私は虐げられたことや我慢したことなど、とてもそのまま等閑に付すことなどできない。全てを取り戻したい、こっぴどく仕返しをしたい。自分から強奪されたものは純金で返済を求めるべきだ。現在の過ぎ行く一瞬の満足で過去の全てを許し、人生を革命した連中は、自分で刷ったアッシニヤやチェルヴォネツの額面を数えて自家中毒の慰めに耽っているだけの破産者で、とどのつまりは倫理的な偽金造りで、良い格好しいのごろつきの手先だ。卑怯なちんぴらだ。起伏はきっちりならしてやらねばならない。
私はしばらく過去に私を馬鹿にした奴らを惨殺したり、村に疫病を流行らせたりする妄想にいそしんで満足した。
「どうして皆死に急ぐのだろう。無限の時間があれば報われるのに」
「そういうことは本物の魔法使いになってから言いなさいよ」
呆れたように霊夢が呟いて、ほら、これで口を塞いでいなさい、と目前にカレイの揚げ物をぶら下げたので、ぱくりと咥える。
「おいちいおいちい。……霊夢はさ、小さい頃どこに住んでいたのか覚えている?」
「あら、どうして急に」
酒を飲み下すとずきと血管が軋む。返答につっけんどんな響きが現れたのを自覚した。
「聞きたくなった」
「理由を教えて欲しいわね」
友情に厚い動機を表明する必要を、私は見出せなかった。外交的発言の無難な接頭語が欠けていたところで、いまさら互いに気分を害したり害されたりするのは馬鹿馬鹿しい話だ。私は話を押し通すことにした。
「私は里の名家で生まれた。ほら、教えたのだから、霊夢も教えるべきだ」
「秘密よ」
「ほう、口止めでもされているのか、怖い妖怪に」
「そうじゃないわ。知っているじゃない。改めてなんて、面映ゆいわ」
「だがな、まあ聞け。おかしいじゃないか。もしも霊夢に子供が居ないとどうする。血族が途絶えたらどうする。才能がなかったらどうする。巫女が破壊的な思想を抱いていればどうする。シリアスに結界の基石として巫女が存在するなら、私ならこうする。誰でもいいし、力は与えるし、洗脳をするし、別に人間じゃなくても良くする。事実は逆だ」
この未だかつて幻想郷で誰も行ったことのない革命的な指摘は一笑に付されることとなった。
「私がお飾りだというの? どうして魔理沙がそんなこと気にするのかしら。賢者様じゃあるまいし、あーおかしい」
「まあ簡単にいえば、博麗霊夢は幻想郷の象徴なんだな」
「ぶるぶるぶる」
彼女は唇を震わせて顔をしかめた。
「私と居ると、表情筋の運動に事欠かないだろう。霊夢も美顔に興味があるだろうから、しばらく黙って聞いていることだな」
まだ挫けるわけにはいかなかった。
「自然に妖精が居るように、幻想郷の妖精が居るとしよう。それが霊夢でござい、というわけだ。だが、そこで賢者様の一級の詐術だ。私にはわからない。霊夢は人間であって妖精ではない」
修辞的には、幻想郷の象徴、で正解のはずだが、霊夢は人間で、妖精ではない。私はここに本当の意味で、博麗霊夢の成立の秘密があると感じていた。しかし私は未だ真実の半ばにあった。
「ふぅん、それで?」
正直なところ、私は破綻を悟り、意志は半ば挫かれ、顔面の毛細血管は膨張をはじめ、頭にはもやがかかり、グラスの汗を指紋がなくなるほど無意識に拭いていて、何が言いたいのかも分からず、人事不省の一歩寸前だった。
「まあ実際の話、そこいらの石ころや、霧雨魔理沙という器官や、そこの放ったらかしの贅枝もだ、これら万物に宿るものが、幻想郷にも宿るだろう。で、それは巫女だから、勘がいいのも当たり前という訳だ。そして幻想郷の変化と共に、老い、一時代の精神の棺に包まれた巫女は墓の下で眠り、新しい巫女に代替わりする。私たちが成長し、別人になっていくように、霊夢は今の幻想郷の象徴であり、未来の幻想郷の象徴ではない」
「ひー、ぷぷう」
肩をすくめて霊夢は吹き出した。
「……」
私はとうとう心が折れて、じっと俯きエプロンの柄を見つめた。付け加えれば、博霊の巫女がどこから来るのかという疑問については、もちろん幻想郷史上初めて霧雨魔理沙の透徹なる知性によって生じたという訳ではない。
「まったく。どこからそんな結論を引っ張り出してくるの? 私は強力な霊力を持つ一族の、特別才能を持った娘よ」
だがそれは私がとっくに卒業(もしも人の生まれの歴史の説明について「卒業」という概念があるのだとすれば)したと思っている、人里で流布しているような寺子屋向けの回答だった。
その強力な霊力を持つ一族が世継ぎ残さず絶えた場合はどうなるのか。といった続く疑問に関しては、霊夢も他愛ないことを繰り返す。つまり、博霊の末裔は幻想郷のいたるところに居るとか、どんな凡人であれ厳しい修行で強くなるのだ、とかいった安泰な明るい話題が展開される。
私はこんな不安定な、誰かの悪意によって簡単に打ち砕かれる世界が、人間よりも遙かに有能な賢者たちの最高の努力と吹聴されることは、どうにも納得できなかった。私は妖怪にたいして憧れがあり、妖怪の仕事は人間にはとても到達できない域にあるのだと信じたかったのだ。
「まあ霊夢。どちらにせよ、もうちょっと自分を大事にしないとな。何時くたばるか分からんぜ。いや、油断するなという話さ。ほら、たとえば私が今、お前の首筋の青い血管を眺めて何を考えているか分かるものか」
霊夢はとても複雑な表情をした。私が霊夢を手にかけるような冗談に嫌悪感を覚えたのか。いや……。
「心配してくれるの? うふふ。嘘ばっかり。魔理沙の探求心は巫女の代替わりを望んでいるでしょ」
笑いが本物かどうかはともかく、ひとまず曖昧にすることにした。
「ふん、からかいは無用だ」
「はいはい。あ。思い出したわ。さっきはよくも用事を押しつけてくれたわね」
私は焼酎を煽って、頭を燃やした。陽気な感情が私を支配するのを感じた。私は立ち上がって、霊夢に宣言した。
「よし。創設者様、スペルカードルールで決めようぜ。負ければサボりは謝るよ」
符を指先で踊らせ、挑戦的に鼻先をあげる。霊夢は少しく沈思し、私のがら空きの眼窩から脳の中を子細に照らし検めるように、急に決闘をしたがった不審な親友を計っていた。
庭燎の花心がぱっと開き、蟻のように蠢く妖怪たちの馬鹿騒ぎを、隠すように囲っている。
「それだけ? いいえ、もし魔理沙が負けたら、後片付けを全てやってもらうわ」
「おいおい、そんな暇はないよ。明日私の店は営業日だからね」
「急にいま体よく、自分がやっているつもりになっている仕事を思い出しても無駄よ、後片付けの方が大事じゃない。そんなに飲んで、どうせ潰れてしまうわ」
「待てよ。霧雨魔法店は看板を虚空に向け、玄関を茂みに隠して営業している訳ではないぜ。客は来るさ、悪意や、救いを、財産で購おうとする客が。精神的に高級な妖怪に囲まれているお前が、人間同士の醜くうんざりするような感情のやりとりの話にどれだけ同情できるというんだ」
我知らず、非難がましい口吻になってしまっていた。私は霊夢に複雑な感情を抱いていることを、久しぶりに理解した。霊夢は私の酔いを疑ったようだった。
「そんなので、弾幕ごっこができるというの」
「いや、分かった。霊夢が負けたら、ちょっと妖怪に良く効く符でも貸してくれよ」
「やっぱり、やめましょう。お酒を飲みたいわ。美味しいお酒をね」
それもまた挿話に過ぎない。宴はなおも大過なく進む。事件など起ころうはずもない。私たちの感覚では妖怪が妖怪を殴って地面に埋けたり、誰かが理由もなく輝きで夜空を埋め尽くしたり、仲のいい不死人どもが死に芸を見せたり、しばしば年寄りどもが、私こそが事件の黒幕であるとか、或いはかの有名な何某とは私のことなり、と自慢し、会ごとに矛盾する形で行われる歴史の講釈を呆気に取りつつ傾聴することは、普通の出来事だった。
今夜は月の住人たちが、実は月の薬には二つあるのだという解釈を見せつけていた。月の住人になるための穢れを払う薬と、彼女たちが飲んだ蓬莱の薬という似て非なる二つの薬があるというのだ。
「私は翁に月の住人になってもらいたかったけれど、それを永琳が止めたの。で、私はせめてものことに、蓬莱の薬を与えたのよ。私は好きな人には永遠に生きていてもらいたいのですもの」
輝夜は無邪気な聴衆に精一杯聞きたがっていることを聞かせていた。曰く、永琳は西王母(この前は思兼だった)であり、彼女が作ったのは月人になるための薬だが、蓬莱山伝説にある不死の薬とは蓬莱の薬の前身である不完全な不死薬である。つまり私たちの薬は中国西方の伝説と東方の蓬莱山伝説の融合であり、伝説の集大成であるのだと。
さもありなんだ。今日の話がたまたま本当でも、私に分かるものか。奴らに誠実さが微塵もないということは腹立たしいことだ。
自慢を聞いている間に、とうとう夜が白み始め、朝鳥が鳴き始める。
いつのまにか船を漕いでいたようだ。霞んだ視界のむこうで油を注ぐものが居なくなった篝火の勢いが弱り、消える。それを看取ったのは多分私だけだと満足する。
私の身体には、誰か親切な奴が毛布を掛けてくれていた。あたりを見回す。参加者のうちで潰れているものは殆ど居なかった。だが、夜明けは近い。さすがに酒好きな妖怪たちでも太陽の下で宴会をやりたがらないだろう。終わりは近い。そろそろ温泉にでも入って、仮眠を取ろう。
服を鼻に押しあてると、饐えた臭いがした。人間はたった一日だって清潔ではいられない。生理的な事柄から解放されたいものだと切に望みながら、最後の盛り上がりを見せる連中を尻目に、宴会の団居から外れ、ふらふらと一人で温泉に入った。
湯煙から覗くしののめの薄灰色にはまだ赤みが混じり込んでおらず、夜が最後のあらがいをしている。たっぷりのお湯に埋まって、いろいろなことを思う。研究、子供の頃の思い出、朝ご飯、何でもいい、それらどれもが、今の私にはない。欠落している。ここにはどれもない。どうして人はただ思うだけで、思った通りのことが実現しないのだろう。昔に戻りたいとか、あり得べき自分でありたいとか、どうして今すぐそれらが与えられないのだろう。そうあればいいのに。
湯から上がり、水瓶に顔を突っ込みぐびぐびと温い水を飲んで、胃袋をたっぷり潤す。そしてたっぷり花を摘んでから居間に入り、髪も乾かさないまま畳の上で眠った。
そのまま私は朝日が昇るまで眠っていた。体に鞭を打ちながら身だしなみを整えて、縁側に端居する。
とうとうとした朝日は睡余の目には刺しすぎる。目じりから涙がはらはらこぼれる。私は指の腹にとってそれを舐り、塩味を確かめた。皮脂が滲み、庭の景色が白く曇る。その曇りを取るため瞼を閉じて眠気を楽しむ。
足音が近づいてきた。
「あら、魔理沙。おはよう、昨日は途中で寝ちゃってたわね」
「おはよう」
「少し待っていなさい」
霊夢は来た道を引き返し、残飯をかき集めて戻ってきた。
「ありがとう。ねぇ霊夢、霊夢は夜通し起きていたの?」
「いいえ、寝たわ。付き合ってなんかいられないもの」
「お大尽たち、昨夜はいやに盛り上がってやがったからね。それはもしかして、私のを?」
「そうよ。かき集めてきたの。でかした、でしょう。見つからないうちに一緒に食べましょう」
「後片付け、手伝うからね。私、負けたのだから」
「ふふん、何それ、遅いわよ。ほとんど終わったわ。お気持ちだけ押し付けられたってねえ」
「知っていたよ。私は卑怯な奴だ」
朝の安らいだ雰囲気は、毒を和らげた。
乾葉を混ぜたお握りと、雉のローストをもしゃもしゃ噛みながら、おいしいおいしいと喜んで食べ進む。たぶん霊夢は顔があるからにはどこかを向かなければならない、といった理由で空を見た。私は米の滋味に感極まって天を仰いだ。何事かを感じたのか霊夢が目配せした。互いのまじろがぬ瞳には黙契があった。
私たちは慌ただしく口と手を動かす。
という訳で、脳天気な歌をうたいながら萃香がやってきたころには、ただ私たちはお茶を澄まして啜っているだけで、奪われるものはなくなっていた。
「あんれぇ~、魔理沙、起きたんだ。おっはよう」
「よお萃香、さすが、昨日の今日で余裕だな。どうかしたのか」
「小腹が空いてね」
案の定萃香は意地汚さを発揮した。にやにやと私と霊夢は秘密めかして微笑みあう。
萃香か頬をふくらました。
「何か隠しごとしているね。気に入らないよ」
「おたふくみたいね」
霊夢が呆れた声を出しながら頬をつついて空気を抜いた。
「もう十分食い散らかしたでしょうに。米びつは空っぽだって分かっているでしょう」
「でも、いい匂いがするなあ……」
鼻をくんくんさせている萃香は、とぼけた顔をして、しっかりと不審な空き皿を視線で捉えていた。私はすかさずフォローを入れる。
「お、出たな。なんといっても、おまえは自分の鼻くその匂いを嗅いでは恍惚境に入っているのが売りだものな。縁起物ということだ。「いいにおいがするなぁ」に朝から出くわすとは幸先がいいぜ」
「私のことを言っているのか?」
「昨日もこのやりとりをしたのだけれど」
「なんだと。やっていないぞ。嘘をつくな」
「ぷっ。魔理沙は嘘つきだからねえ」
「嘘じゃないよ、冗談さ。鬼は寛容じゃないよ。そんなだから嘘を聞くと興奮のあまり頭の血管がちぎれて憤死するのじゃないか。危なっかしくて見ていられないんだ、明日にもどんな嘘で命を落とすか分からないからね。これぐらいは血のめぐりが緩やかになるぐらいで慣れてもらわないと心配なんだよ」
萃香は挑戦に応じて私の両頬を指でつまんだ。
私の口からはふがふがと声にならない呻きが漏れた。
「ふが、ふが」
ざまあみろ、と萃香は鼻で笑った
「そうさ、魔理沙はそうやってふがふが言ってりゃ、人の悪口じゃないだけ世のためさ」
「はなせ。痛い、加減しろよ」
手をほどいて睨み付ける。萃香は悠々と奥へ向かった。
「魔理沙を虐めたって、仕方がない。諦めて厨房を漁るとするよ」
「あ、待ちなさい」
霊夢が追いかける。私は置いてけぼりにされた。
しばらく一人で退屈して茶碗の糸底を床板にころがして遊ぶ。静まりかえった神社は、もう妖怪たちがほとんど帰ったことを告げていた。
昨日の宴はなかなか良かった。彼女らは愉しむ術を知っている。宴会では彼女らは教師だ。
すっかり落ち着いて、何をしようとも思わず、このまま終日空を見上げていられそうな気分になった。座るのもだるくなり、寝そべりながら脈絡なくつぶやく。
「幻想郷に禍あれ……。不安と疑いが奴らと共にありますように。悪魔の家族どもめ。すぐに喇叭の音を聞かせてやる」
忠実な聴衆である庭におりた鳥がちゅんちゅん鳴いた。
「はあ。いい天気だ」
私は何を欲しているのか。それは私も知らない。溜め息をつき、まぶたを閉じる。
視界が昇り……自分の背が見える。黒いエプロンに包まれたか身体がかすかに呼吸で動いている。
「なんだ、私の背中が見える……」
そのまま私は身体を置き去りにして鳥居をくぐり、外へ出る。幻想郷の端まで私は飛び続け、結界を越え、外界へ降り立つ。
外界は、活動写真で見たような光景そのままだった。車が走り、建物の間を人がまばらにうごめいている。私はとくに感情を動かされはしなかった。知識を確かめたにすぎなかった。
歩きだそうとしたとき、一瞬だった。認識が反転し、集約し、先のものが夢となり、じわりと現実に着地した。
「まりさー、ゴボウもってきてー」
瞑想から揺り戻され、濃いしびれが身体を経巡り、聞こえた言葉だけが心にとどまった。
「興味深い白昼夢だ。なんだ、霊夢は私を呼んだのか。邪魔をしやがって」
指先が、動くようで動かない。四肢の調子を整え、のろのろ立ち上がって無関心に庭の一郭に埋けてあったゴボウを掘り起こし、厨房まで運ぶ。
「食べていくのでしょう?」
厨房では昼ごはんを作り始めていた。萃香は私をすがめ、まだへそを曲げているのかすぐに土鍋の沸騰の観察に戻った。
「霊夢」
「ありがと。ついでに皮を剥いてね。ちょっと残るぐらいでいいわ」
「いや、やはり帰るよ。ゆっくり休みたくなったんだ」
「大丈夫? うちで寝る?」
「寝首をかかれるからやめておくよ」
誘いを断り鳥居をくぐる。
日差しでめまいがした。さわやかな風が服を膨らませる。遠くで窯の烟があがっている。なるほど平穏だ。楽園なのかもしれない。だが人間は見晴らしのいい場所に留まってただ感じているわけにはいかない。
飛び立とうとしたとき、日傘をさして境内に佇んでいた八雲紫と目があった。彼女は私を見つけると満面の笑みを浮かべ、白い手袋に包まれた腕を振った。
胸騒ぎがした。彼女は笑みを絶やさずに余裕のある身振りでこちらへ歩んできた。ゆらゆらと、踊躍する埃が近づいてくるようだった。押し返しても押し返しても、近づいてくるような。
「あら、もうお帰り?」
「……そちらこそ、とうに帰ったと思っていたよ。暇なのか? 戻らなくていいのか」
「戻る。どこにですか。どこにあれども同じですわ。八雲紫は愛と共に幻想郷中に遍在し充ち満ちているのですから」
「そうか。たまにお前の結晶が野糞と呼ばれて道ばたに落っこちて迷惑をかけているぞ」
「怪しからん態度もこれまでです」
「ふん。やってやるさ」
「致し方ありません」
紫があごを上げ不敵に目を細め手のひらを掲げると空中にひびが入り、無数の目がこちらを見た。なんと、その亀裂から私の自室においてあるはずの手帳がまろび出てきた。
それは魔法とは関係のない私記であり、矛盾も弱さもしるされている老廃物の塊ではあるが、遠い先の未来には結晶化の奇跡が待望されるどろどろとしたものを包む繭だった。
「あっ、それは私の日記帳。なんてこった。ぶっ殺してやる」
奪い返そうとする腕が空を切る。
「おっほっほ」
彼女は高笑いしつつ日記をスキマへ入れると、それは空から降ってきて私の頭にぶつかった。あわてて日記を探るが、既にそれは八雲紫の手元にあった。
「いたい。くそ。毎度毎度、素晴らしく使いでのある能力だな。私もいっとう得意な能力をご披露させていただこうか。お前の頭蓋骨を光線に乗せて幻想郷に遍在させる散骨葬をする程度の能力というのはどうだ」
いつもながらに紫は馬耳東風だった。傘と体をくるくる回して満面の笑みを浮かべる。
「ねえ、私の能力って、羨ましいでしょう?」
私はぺっと唾を吐いて中指を立てた。
「まさに垂涎のまと。犬に犯されろ売女め」
「そうね。妬まれますの。天狗の口さがない新聞において、スキマでの盗み見は伝統的な皮肉の種ですもの。むごいと思いません? 私はこの能力のおかげで皆様のお役に立ちますのに」
「不思議なことさ。私も八雲紫の卑猥な能力と幻想郷パノプティコンとの聖婚という伝統の人気テーマで、明日あたりひとつ禿筆を寄せたくなってきたよ」
空間の裂け目に見える眼球を、彼女はファッションだと主張してた。八雲紫が何を思って気色の悪い眼球を装飾に足ると断じたのかは分からない。だがこんな前代未聞に不躾な態度に出られた私は、己の能力への八雲紫一流の自虐的なユーモアとして、例の三角形の中心に眼球が描かれているフリーメイソンの意匠を採用したのではないかと推測せざるを得なかった。
「盗み見なら誰だって出来ますよ。鬼だって、神様だって、人間だって」
「だが性根というやつがあるからな。そうとも、能力が悪いことなんてありえない。重々承知のことだと思うがね、私は本当に怒っているんだぜ」
「まあぷりぷりして、落ち着きなさって」
賽銭を投げ入れてがらがらいわせていると、霊夢が境内の裏から現れた。
「調子? 調子はね、いいわよ。御神酒は人を幸せにしてくれるの」
「そ、そうか。そんな愛想が聞けるならもっと土産を持ってくればよかった。しまったよ」
「やめてよ。魔理沙がそこまで気を回したら大地が割れて空が落ちてくるわ。それだけでも十分よ」
水を向ける視線に鷹揚に同意して、籠に詰めて持参したたっぷりの食料品をどこに運べばいいか聞いた。霊夢はにこに礼言らしきものを申しながら厨房へ案内する。私はその親切を断って、彼女自身に全てを託した。公平に言えば、仕事を押しつけてとんずらした。
境内にはワインや肉汁が煮立つ腹の空く匂いが漂い始めていた。本日は大がかりな集まりになってしまったので、仕込みの方も忙しいみたいだった。そこかしらに妖怪の気配がしている。私は挨拶をして回った。気の早い連中は既にそうとう聞こし召し臭い息を吐きかけてくる。
「まりさぁ、はやいわね。ほら、まあ飲んで飲んで」
輝夜がにやにやしながらしなだれかかる。身体をよじって絡みつく腕から離れようとするが、そのまま体重をのせてきて、どちらも倒れてしまった。地面が黒くなって、匂いが蒸発して濃厚になる。
「あーあー、こぼれちゃった。永琳、新しいのを頂戴」
「もう姫様、そのような卑しい生き物に触れるからです。障りますよ」
すぐさまなみなみとブランデーが注がれたグラスが二つ、輝夜の両手におさまって、そのうちのひとつを私に差し出す。
私はスカートの裾をはたいて立ち上がった。口唇はぶつくさ言いながらも、右手はしっぽを振った犬みたいに酒にまっしぐらだった。
「おいしいな」
「でしょう。素晴らしい熟成香だわ。いいお酒の普遍的な証明ね。だいたい50年から100年というところね。でも良い物は、昔みたいに掠められなくなっているらしいわね」
「だったらこの愛すべき泥棒共和国が終わって、寄生虫どもが日干しになるだけだ。今更、紫の腹芸だろ」
「そうね、確かに私たちはみんな盗人をしているようなものだわ」
「私はいつも思うんだ。この盗賊団の中で、泥棒の専門家である魔理沙様が、何故盗みを咎められる謂われがあるのだろうか? とな」
「あら、確かにそうね」
永琳が横から割って入り、十杯機嫌で頷いた。
「ま、このように、姫様を騙くらかすのは、そうしようという気になりさえすれば、半ば成功したものです」
「信じるのは美徳よ」
けらけらと輝夜は笑って、どーんと胸を張った。
「ケチケチしないわ、考古学者さん。大事なものはちゃんと置いてあるの、蔵にあるものならなんでも持っていきなさいよ」
「蓬莱の薬は?」
「いいわよ、あんなもの、作ってあげる。すぐに作れるもの。ね、私たちなら」
「そうですね」
永琳が頷く。
私は思わず目を剥いて両手をあげた。
青い空にはもう月が白い肌を顕わにしている。月人たちは月に関して、もう地上人にとっての月と同じに感じるのだと認めていた。つまりは戻りたいとは思わないのだと言っていた。永琳は私に向き直って、頬に手を当てた。
「気が向いたらいつでもどうぞ」
「さすが先生、話が分かるぜ。不死とみれば過ぎた欲望であると見せかけたい流行には困ったものだからな」
「どこでも同じよ。月の住人もそうだったわ。蓬莱の薬なんて健胃剤のようなものなのだけれど、そうでない、何かの危機のようなものを感じる住人も居たの。それが何かは天才である私にも分からなかったけれど」
「そういうことを聞きたかったんだ。まったくのところ、つべこべ言うのは、私から言わせれば天の定めに跪くのが趣味の小人どもの、狂ったハン・ストだぜ。チャチな道徳株式の紙切れを高値で売り抜けんとする山師的努力に汗を流しているだけだ。せいぜいが、『どうだ見ろ俺は理性的なのだ』とメッセージを送っているんだな。よし、今度もらいに行くぜ」
要するに不死を拒むことが「人間らしく」好ましい信仰告白であると一般に思われている、……それ以外の根拠は、別に考えてその結論に達した訳でもない山師には必要ないことなのだ。と、頷いて、ひとしきりぷりぷりと誰を相手にするでもなく怒ってグラスをあおる。
「でも心しなさい」
永琳は低い声で、まるで妖怪の話をしている老人が孫を怖がらせるように、爪を立てて噛みつく真似をする。
「ある種の人間は、根から腐ってしまうわ」
「わたくし?」
手をあげた輝夜は、じと目で永琳に絡み始める。永琳はにこにこしながら輝夜の恨み節を聞いて蕩けていた。
「ね、えーりん、あんたは天才で、長生きがお買い得とすれば、わたしは凡人で、使いでがないの。ぐるぐると、ぐるぐると、同じところを回るのが好きなのよ。えーりんは、そうじゃないから嫌いよ。もっと甘いお酒を望んでいるの」
私はそれを比喩かと思ったのだが、輝夜はコップをひっくり返してふんぞり返る。心得たもので萎びた耳のウサギが側に寄ってきて、果物がプリントされた缶を持って現れた。文化の根のない新しい酒は頭で飲むことを知る幻想郷の少女の舌によく馴染まなかった。
「ボケ老人どもの世話も、なかなかこたえるな」
「地上の人間には推し量れないわ」
鈴仙は半笑いになった。残り半分は自棄だった。
「熱心だな。下っ端にはいろいろな仕事があるものだ。では古い酒袋は貰っていくぜ」
ブランデーの瓶をかっぱらって、ちびちびとラッパ飲みをしながら境内を練り歩く。料理を手伝おうかとちょっと思ったが、思っただけで既に手伝ったのと同じぐらい疲れたので、それはやめにしておいた。どうやら妖怪はもうほとんど集まっているようだった。翳みなき落暉が大地に括られる。ようやく隅から紫色の夜が、最後の影をねじり溶かし始める。
「すばらしい日々です」
鳥居の上に射命丸家の文ちゃんがしどけなく干物になっていた。うつぶせに寝そべりながら両手両足をばたばたさせ、羽を空打ちしている。その瞳は何も移さず、やさぐれた様子でだらだらと独り言を垂れ流す。
「いやあ、明日も頑張ろうって気になりますねぇ」
「何かあったのか。聞かせてくれよ」
「ん。おや、霧雨魔理沙さんじゃないですか。いやなに、平和すぎて商売あがったりで」
「私は霊夢だぜ」
「では博麗霊夢さん、金髪は巫女としてやめたほうがいいですよ」
「嘘だよ。霧雨魔理沙だぜ」
「がさつさは同じですよねぇ」
「一緒にするなよ、あいつは私以上に聖職なんざ関係のない、没義道なヤクザものさ。それこそ機嫌が悪いからというだけの理由で、どれほどの妖怪を気紛れに……しかしあれで、私の一番の友達だからな。あまり悪口は言わないでおこう。これ以上は」
「美しいですねぇ、少女の友情、大好物です。いや、あはは、食べちゃいたいなぁ」
パタパタ羽ばたいて降りてくると、私の酒瓶をひったくって一息で飲んでしまった。おいなんだやめろと抗議の声をあげて取り返すが、もう中身はからっぽで、逆さまにしても少し舌の表面が濡れるだけだ。
「ほう、ほほほう。良いコニャックです。濃厚な香り、それに負けない度数の高さ、のど越し。パーフェクト。いける洋酒ですね、うまい!」
文は賛嘆しながら2,3度深く頷いて、そのまま再び羽ばたいてみんな集まっている方に飛んでいってしまった。速やかな身体のこなしに、もう声の掛けようがないほど距離を取られてから、うやむやになってしまっていることに気付く。
「うざいぜ……」
がっくりと肩を落として、私はもう一度空を見上げる。やがて鳥居をくぐって、階段から下を見下ろして、村の景色を見る。私は瓶を村に向かって放り投げた。
幻想郷はとても広い。
よくもこれだけの土地が地図から消えるのを、外の世界が見逃してくれているものだ。妖怪の山だけで、麓を入れると十数ほどの村が入ってしまうのだから。
もちろん、かわいそうなので余り言わないでおくが、神社の、霊夢の、わけても賽銭のちゃりちゃりいう音の立場からすれば、幻想郷に人間はたった数十人ほどしか歴史上存在しなかった。
「いやまったく、何故霊夢ほどの人間がどうしてこれで満足するのだろうね」
霊夢は贅沢も言わず質素な暮らしをして、満ち足りていた。食材に事欠くことはとても珍しいが、ないでもない。その場合でも泣きつかず落ち着いて我慢していた。そうなると、『頼りになる巫女様は感心にも、またぞろ脂肪の禊ぎの儀をしているぞ』、と好意を持つ人(私だが)は、喧伝し、乞食をするのだった。
もしも誰かが、このような選ばれた饗宴に相応しくない、紛れ込んだ村娘を叩き出すべきではないのか、と疑義を呈したならば、私は少しも慌てずこちらに向けられた指先に非礼を詫びて退席するだろう。こんなありえない想定をすることは、私が卑屈のふもとに住まっていることを意味した。
ざわめきが料理の登場を知らせてくれた。洋の東西を問わない珍味佳肴が、大皿に山と盛られ輪奐の美を誇っていた。参加者の質が現れるのか、幻想郷で採られたものはむしろ僅かだった。水を得た魚のように足取り軽く、今宵の厨宰十六夜咲夜は皿の間を動き回りながら素材を解説する。彼女の料理が美味しい理由のひとつは、熱を保存することができるからだろう。このような場でしか見せない彼女の自慢げな陽気さと、誰も知らなかった外界風の給仕に当てられ、よっぱらいどもの胃袋は凶暴なパレードを巻き起こした。こちらはカラマタのオリーブ、あちらはアムステルダムの塩鰊、ブルターニュの七面鳥にはたっぷりのトリュフ。その他各所から取り寄せたカレイ、雉、キャビア、牡蠣、プラム、イチジク、干しブドウ……。
皆は手を拍ち、宴が始まった。
咲夜が私のために、銀の砂糖つぼから穴のあいたおもちゃのようなおたまで、ラズベリーに純白の雪を吹雪かせていた。無言で受け取ると、彼女は咎める指先で私のおでこを突いた。
「言うことがあるでしょう。魔理沙、どうして手伝いにこなかったの」
「さあ。今度いい時、手伝うよ」
「それはいけないわ。どうしてそういうことをするの? 嫌われちゃうわよ」
「飼い主の所へ戻れよ」
「暇を出されちゃったの。お前は勝手にやってろって」
レミリアは遠くの方で、珍しく紫を杯を交わしていた。やつらは初っ端から難しい顔をしていたので、少しく気になり、くちばしを突っ込んでやろうと腰を浮かしかけた。
だが皿の上で雪崩が起こった。山は他から崩されていた。霊夢が子犬のように駆け寄ってきて、人の皿からものを奪ったのだ。周りを眺めると、どうやら賄い連中も一休みして宴会を楽しみ始めているようだ。
「どれ。ふーん、妙な味のイチゴね、私の好みじゃないわ」
霊夢は顔をしかめた。
「慣れたほうが良いわ、若いのだから、好き嫌いなく食べないと。じゃあ、私は行くわね」
咲夜はあっさりどこかへ行った。
宴は挿話を挟みながら過ぎ行く。鬼と天狗はいつものように馬鹿けた咎落としまがいの飲み比べを始めた。吸血鬼と紫は相変わらず同じデカンターを囲んで囁きあい、珍しく難しい顔をしているのだった。月人達は生徒を集めて月の技術を自慢し、腰を落ち着かせた咲夜は珍しく早苗と盛り上がっている。
そういえば、彼女たちは外界人という繋がりがあった。彼女らの過去については、あやふやなことは仄聞するが、どう検討してもいい話ではなかった。私はおっくうな体でぼんやり眺めながら二人の動く唇に勝手な台詞を喋らせた。
早苗は咲夜のなにがしかの言葉に目を見開いて声の調子をあげたようだった。私の頭の中で彼女たちが会話する。
『では咲夜さん、あなたは吸血鬼にならないのですか』
『悪魔の犬ですわ』
『永遠の寿命ですよ。人間を辞めることができるのですから、人間嫌いの貴方がうまうま飛びつかない話ではないと思いますがね。いつも不思議なのですが、どうしてそこにある果実を手に取らないのですか? どんな説得力のある理由が? まさか、人間であることに快楽を覚えているのですか?』
『甘いだけの蜜を舐める権利はないと幼い頃に教えられたのです。私はそういう人間です。やせ我慢だけではありませんのよ。そう、信仰です。なにせ信仰も少しは残っていますからね。二人並んで通れない門もありますわ。不義な私ですが、せめて魂を保ったまま天に召され、審判を甘んじて受け入れる義務が、私とお嬢様の契約なのです。私はキリスト者で未だ魂があり、お嬢様はしかし魂が存在しないのですから』
『宗教ですか。なるほど』
『私は裁かれることで信仰を守るのです。最近ではお嬢様も、私を通して、御自らの失われた信仰を眩しそうに懐かしむふりがあります。ならば私とお嬢様の意思は同じ。お嬢様を裏切らぬためにも信仰を通さねばなりません。誤解をおそれずに言えば、お嬢様にとっても私を天に召すことはある種の得がたい贖罪の機会なのでしょう』
『実にごもっとも。今までのどんな理由よりも納得いたしました。ふむ。しかし大した義理立てですが、もはやなおざりにするがいいでしょう』
『それでも良いのです。でも今更、はしたない気がして。きまりが悪いし」
咲夜は早苗にそう耳打ちして悪戯っぽい表情を浮かべた。
早苗はつられて頷いた。
『恐れずに血を吸われてみればいいのです。誰だって祝福しますよ』
『では、今夜お嬢様にお頼みしましょう。信仰も忘れました。これで紅魔館は完成ですわ』
莞爾と笑い乾杯した。
これでいいのに。と、奥歯で砕氷を砕きながら考える。彼女らはこのまま死ぬ気なのだろうか。今までの人生の負債の帳尻を合わさず、今が幸せだからといって足ることを知り、自らの過去のクレバスを永遠に跳躍することができずに、審判の時に向けて自らの生をパッケージするのだろうか。
私は嫌だ! 私は虐げられたことや我慢したことなど、とてもそのまま等閑に付すことなどできない。全てを取り戻したい、こっぴどく仕返しをしたい。自分から強奪されたものは純金で返済を求めるべきだ。現在の過ぎ行く一瞬の満足で過去の全てを許し、人生を革命した連中は、自分で刷ったアッシニヤやチェルヴォネツの額面を数えて自家中毒の慰めに耽っているだけの破産者で、とどのつまりは倫理的な偽金造りで、良い格好しいのごろつきの手先だ。卑怯なちんぴらだ。起伏はきっちりならしてやらねばならない。
私はしばらく過去に私を馬鹿にした奴らを惨殺したり、村に疫病を流行らせたりする妄想にいそしんで満足した。
「どうして皆死に急ぐのだろう。無限の時間があれば報われるのに」
「そういうことは本物の魔法使いになってから言いなさいよ」
呆れたように霊夢が呟いて、ほら、これで口を塞いでいなさい、と目前にカレイの揚げ物をぶら下げたので、ぱくりと咥える。
「おいちいおいちい。……霊夢はさ、小さい頃どこに住んでいたのか覚えている?」
「あら、どうして急に」
酒を飲み下すとずきと血管が軋む。返答につっけんどんな響きが現れたのを自覚した。
「聞きたくなった」
「理由を教えて欲しいわね」
友情に厚い動機を表明する必要を、私は見出せなかった。外交的発言の無難な接頭語が欠けていたところで、いまさら互いに気分を害したり害されたりするのは馬鹿馬鹿しい話だ。私は話を押し通すことにした。
「私は里の名家で生まれた。ほら、教えたのだから、霊夢も教えるべきだ」
「秘密よ」
「ほう、口止めでもされているのか、怖い妖怪に」
「そうじゃないわ。知っているじゃない。改めてなんて、面映ゆいわ」
「だがな、まあ聞け。おかしいじゃないか。もしも霊夢に子供が居ないとどうする。血族が途絶えたらどうする。才能がなかったらどうする。巫女が破壊的な思想を抱いていればどうする。シリアスに結界の基石として巫女が存在するなら、私ならこうする。誰でもいいし、力は与えるし、洗脳をするし、別に人間じゃなくても良くする。事実は逆だ」
この未だかつて幻想郷で誰も行ったことのない革命的な指摘は一笑に付されることとなった。
「私がお飾りだというの? どうして魔理沙がそんなこと気にするのかしら。賢者様じゃあるまいし、あーおかしい」
「まあ簡単にいえば、博麗霊夢は幻想郷の象徴なんだな」
「ぶるぶるぶる」
彼女は唇を震わせて顔をしかめた。
「私と居ると、表情筋の運動に事欠かないだろう。霊夢も美顔に興味があるだろうから、しばらく黙って聞いていることだな」
まだ挫けるわけにはいかなかった。
「自然に妖精が居るように、幻想郷の妖精が居るとしよう。それが霊夢でござい、というわけだ。だが、そこで賢者様の一級の詐術だ。私にはわからない。霊夢は人間であって妖精ではない」
修辞的には、幻想郷の象徴、で正解のはずだが、霊夢は人間で、妖精ではない。私はここに本当の意味で、博麗霊夢の成立の秘密があると感じていた。しかし私は未だ真実の半ばにあった。
「ふぅん、それで?」
正直なところ、私は破綻を悟り、意志は半ば挫かれ、顔面の毛細血管は膨張をはじめ、頭にはもやがかかり、グラスの汗を指紋がなくなるほど無意識に拭いていて、何が言いたいのかも分からず、人事不省の一歩寸前だった。
「まあ実際の話、そこいらの石ころや、霧雨魔理沙という器官や、そこの放ったらかしの贅枝もだ、これら万物に宿るものが、幻想郷にも宿るだろう。で、それは巫女だから、勘がいいのも当たり前という訳だ。そして幻想郷の変化と共に、老い、一時代の精神の棺に包まれた巫女は墓の下で眠り、新しい巫女に代替わりする。私たちが成長し、別人になっていくように、霊夢は今の幻想郷の象徴であり、未来の幻想郷の象徴ではない」
「ひー、ぷぷう」
肩をすくめて霊夢は吹き出した。
「……」
私はとうとう心が折れて、じっと俯きエプロンの柄を見つめた。付け加えれば、博霊の巫女がどこから来るのかという疑問については、もちろん幻想郷史上初めて霧雨魔理沙の透徹なる知性によって生じたという訳ではない。
「まったく。どこからそんな結論を引っ張り出してくるの? 私は強力な霊力を持つ一族の、特別才能を持った娘よ」
だがそれは私がとっくに卒業(もしも人の生まれの歴史の説明について「卒業」という概念があるのだとすれば)したと思っている、人里で流布しているような寺子屋向けの回答だった。
その強力な霊力を持つ一族が世継ぎ残さず絶えた場合はどうなるのか。といった続く疑問に関しては、霊夢も他愛ないことを繰り返す。つまり、博霊の末裔は幻想郷のいたるところに居るとか、どんな凡人であれ厳しい修行で強くなるのだ、とかいった安泰な明るい話題が展開される。
私はこんな不安定な、誰かの悪意によって簡単に打ち砕かれる世界が、人間よりも遙かに有能な賢者たちの最高の努力と吹聴されることは、どうにも納得できなかった。私は妖怪にたいして憧れがあり、妖怪の仕事は人間にはとても到達できない域にあるのだと信じたかったのだ。
「まあ霊夢。どちらにせよ、もうちょっと自分を大事にしないとな。何時くたばるか分からんぜ。いや、油断するなという話さ。ほら、たとえば私が今、お前の首筋の青い血管を眺めて何を考えているか分かるものか」
霊夢はとても複雑な表情をした。私が霊夢を手にかけるような冗談に嫌悪感を覚えたのか。いや……。
「心配してくれるの? うふふ。嘘ばっかり。魔理沙の探求心は巫女の代替わりを望んでいるでしょ」
笑いが本物かどうかはともかく、ひとまず曖昧にすることにした。
「ふん、からかいは無用だ」
「はいはい。あ。思い出したわ。さっきはよくも用事を押しつけてくれたわね」
私は焼酎を煽って、頭を燃やした。陽気な感情が私を支配するのを感じた。私は立ち上がって、霊夢に宣言した。
「よし。創設者様、スペルカードルールで決めようぜ。負ければサボりは謝るよ」
符を指先で踊らせ、挑戦的に鼻先をあげる。霊夢は少しく沈思し、私のがら空きの眼窩から脳の中を子細に照らし検めるように、急に決闘をしたがった不審な親友を計っていた。
庭燎の花心がぱっと開き、蟻のように蠢く妖怪たちの馬鹿騒ぎを、隠すように囲っている。
「それだけ? いいえ、もし魔理沙が負けたら、後片付けを全てやってもらうわ」
「おいおい、そんな暇はないよ。明日私の店は営業日だからね」
「急にいま体よく、自分がやっているつもりになっている仕事を思い出しても無駄よ、後片付けの方が大事じゃない。そんなに飲んで、どうせ潰れてしまうわ」
「待てよ。霧雨魔法店は看板を虚空に向け、玄関を茂みに隠して営業している訳ではないぜ。客は来るさ、悪意や、救いを、財産で購おうとする客が。精神的に高級な妖怪に囲まれているお前が、人間同士の醜くうんざりするような感情のやりとりの話にどれだけ同情できるというんだ」
我知らず、非難がましい口吻になってしまっていた。私は霊夢に複雑な感情を抱いていることを、久しぶりに理解した。霊夢は私の酔いを疑ったようだった。
「そんなので、弾幕ごっこができるというの」
「いや、分かった。霊夢が負けたら、ちょっと妖怪に良く効く符でも貸してくれよ」
「やっぱり、やめましょう。お酒を飲みたいわ。美味しいお酒をね」
それもまた挿話に過ぎない。宴はなおも大過なく進む。事件など起ころうはずもない。私たちの感覚では妖怪が妖怪を殴って地面に埋けたり、誰かが理由もなく輝きで夜空を埋め尽くしたり、仲のいい不死人どもが死に芸を見せたり、しばしば年寄りどもが、私こそが事件の黒幕であるとか、或いはかの有名な何某とは私のことなり、と自慢し、会ごとに矛盾する形で行われる歴史の講釈を呆気に取りつつ傾聴することは、普通の出来事だった。
今夜は月の住人たちが、実は月の薬には二つあるのだという解釈を見せつけていた。月の住人になるための穢れを払う薬と、彼女たちが飲んだ蓬莱の薬という似て非なる二つの薬があるというのだ。
「私は翁に月の住人になってもらいたかったけれど、それを永琳が止めたの。で、私はせめてものことに、蓬莱の薬を与えたのよ。私は好きな人には永遠に生きていてもらいたいのですもの」
輝夜は無邪気な聴衆に精一杯聞きたがっていることを聞かせていた。曰く、永琳は西王母(この前は思兼だった)であり、彼女が作ったのは月人になるための薬だが、蓬莱山伝説にある不死の薬とは蓬莱の薬の前身である不完全な不死薬である。つまり私たちの薬は中国西方の伝説と東方の蓬莱山伝説の融合であり、伝説の集大成であるのだと。
さもありなんだ。今日の話がたまたま本当でも、私に分かるものか。奴らに誠実さが微塵もないということは腹立たしいことだ。
自慢を聞いている間に、とうとう夜が白み始め、朝鳥が鳴き始める。
いつのまにか船を漕いでいたようだ。霞んだ視界のむこうで油を注ぐものが居なくなった篝火の勢いが弱り、消える。それを看取ったのは多分私だけだと満足する。
私の身体には、誰か親切な奴が毛布を掛けてくれていた。あたりを見回す。参加者のうちで潰れているものは殆ど居なかった。だが、夜明けは近い。さすがに酒好きな妖怪たちでも太陽の下で宴会をやりたがらないだろう。終わりは近い。そろそろ温泉にでも入って、仮眠を取ろう。
服を鼻に押しあてると、饐えた臭いがした。人間はたった一日だって清潔ではいられない。生理的な事柄から解放されたいものだと切に望みながら、最後の盛り上がりを見せる連中を尻目に、宴会の団居から外れ、ふらふらと一人で温泉に入った。
湯煙から覗くしののめの薄灰色にはまだ赤みが混じり込んでおらず、夜が最後のあらがいをしている。たっぷりのお湯に埋まって、いろいろなことを思う。研究、子供の頃の思い出、朝ご飯、何でもいい、それらどれもが、今の私にはない。欠落している。ここにはどれもない。どうして人はただ思うだけで、思った通りのことが実現しないのだろう。昔に戻りたいとか、あり得べき自分でありたいとか、どうして今すぐそれらが与えられないのだろう。そうあればいいのに。
湯から上がり、水瓶に顔を突っ込みぐびぐびと温い水を飲んで、胃袋をたっぷり潤す。そしてたっぷり花を摘んでから居間に入り、髪も乾かさないまま畳の上で眠った。
そのまま私は朝日が昇るまで眠っていた。体に鞭を打ちながら身だしなみを整えて、縁側に端居する。
とうとうとした朝日は睡余の目には刺しすぎる。目じりから涙がはらはらこぼれる。私は指の腹にとってそれを舐り、塩味を確かめた。皮脂が滲み、庭の景色が白く曇る。その曇りを取るため瞼を閉じて眠気を楽しむ。
足音が近づいてきた。
「あら、魔理沙。おはよう、昨日は途中で寝ちゃってたわね」
「おはよう」
「少し待っていなさい」
霊夢は来た道を引き返し、残飯をかき集めて戻ってきた。
「ありがとう。ねぇ霊夢、霊夢は夜通し起きていたの?」
「いいえ、寝たわ。付き合ってなんかいられないもの」
「お大尽たち、昨夜はいやに盛り上がってやがったからね。それはもしかして、私のを?」
「そうよ。かき集めてきたの。でかした、でしょう。見つからないうちに一緒に食べましょう」
「後片付け、手伝うからね。私、負けたのだから」
「ふふん、何それ、遅いわよ。ほとんど終わったわ。お気持ちだけ押し付けられたってねえ」
「知っていたよ。私は卑怯な奴だ」
朝の安らいだ雰囲気は、毒を和らげた。
乾葉を混ぜたお握りと、雉のローストをもしゃもしゃ噛みながら、おいしいおいしいと喜んで食べ進む。たぶん霊夢は顔があるからにはどこかを向かなければならない、といった理由で空を見た。私は米の滋味に感極まって天を仰いだ。何事かを感じたのか霊夢が目配せした。互いのまじろがぬ瞳には黙契があった。
私たちは慌ただしく口と手を動かす。
という訳で、脳天気な歌をうたいながら萃香がやってきたころには、ただ私たちはお茶を澄まして啜っているだけで、奪われるものはなくなっていた。
「あんれぇ~、魔理沙、起きたんだ。おっはよう」
「よお萃香、さすが、昨日の今日で余裕だな。どうかしたのか」
「小腹が空いてね」
案の定萃香は意地汚さを発揮した。にやにやと私と霊夢は秘密めかして微笑みあう。
萃香か頬をふくらました。
「何か隠しごとしているね。気に入らないよ」
「おたふくみたいね」
霊夢が呆れた声を出しながら頬をつついて空気を抜いた。
「もう十分食い散らかしたでしょうに。米びつは空っぽだって分かっているでしょう」
「でも、いい匂いがするなあ……」
鼻をくんくんさせている萃香は、とぼけた顔をして、しっかりと不審な空き皿を視線で捉えていた。私はすかさずフォローを入れる。
「お、出たな。なんといっても、おまえは自分の鼻くその匂いを嗅いでは恍惚境に入っているのが売りだものな。縁起物ということだ。「いいにおいがするなぁ」に朝から出くわすとは幸先がいいぜ」
「私のことを言っているのか?」
「昨日もこのやりとりをしたのだけれど」
「なんだと。やっていないぞ。嘘をつくな」
「ぷっ。魔理沙は嘘つきだからねえ」
「嘘じゃないよ、冗談さ。鬼は寛容じゃないよ。そんなだから嘘を聞くと興奮のあまり頭の血管がちぎれて憤死するのじゃないか。危なっかしくて見ていられないんだ、明日にもどんな嘘で命を落とすか分からないからね。これぐらいは血のめぐりが緩やかになるぐらいで慣れてもらわないと心配なんだよ」
萃香は挑戦に応じて私の両頬を指でつまんだ。
私の口からはふがふがと声にならない呻きが漏れた。
「ふが、ふが」
ざまあみろ、と萃香は鼻で笑った
「そうさ、魔理沙はそうやってふがふが言ってりゃ、人の悪口じゃないだけ世のためさ」
「はなせ。痛い、加減しろよ」
手をほどいて睨み付ける。萃香は悠々と奥へ向かった。
「魔理沙を虐めたって、仕方がない。諦めて厨房を漁るとするよ」
「あ、待ちなさい」
霊夢が追いかける。私は置いてけぼりにされた。
しばらく一人で退屈して茶碗の糸底を床板にころがして遊ぶ。静まりかえった神社は、もう妖怪たちがほとんど帰ったことを告げていた。
昨日の宴はなかなか良かった。彼女らは愉しむ術を知っている。宴会では彼女らは教師だ。
すっかり落ち着いて、何をしようとも思わず、このまま終日空を見上げていられそうな気分になった。座るのもだるくなり、寝そべりながら脈絡なくつぶやく。
「幻想郷に禍あれ……。不安と疑いが奴らと共にありますように。悪魔の家族どもめ。すぐに喇叭の音を聞かせてやる」
忠実な聴衆である庭におりた鳥がちゅんちゅん鳴いた。
「はあ。いい天気だ」
私は何を欲しているのか。それは私も知らない。溜め息をつき、まぶたを閉じる。
視界が昇り……自分の背が見える。黒いエプロンに包まれたか身体がかすかに呼吸で動いている。
「なんだ、私の背中が見える……」
そのまま私は身体を置き去りにして鳥居をくぐり、外へ出る。幻想郷の端まで私は飛び続け、結界を越え、外界へ降り立つ。
外界は、活動写真で見たような光景そのままだった。車が走り、建物の間を人がまばらにうごめいている。私はとくに感情を動かされはしなかった。知識を確かめたにすぎなかった。
歩きだそうとしたとき、一瞬だった。認識が反転し、集約し、先のものが夢となり、じわりと現実に着地した。
「まりさー、ゴボウもってきてー」
瞑想から揺り戻され、濃いしびれが身体を経巡り、聞こえた言葉だけが心にとどまった。
「興味深い白昼夢だ。なんだ、霊夢は私を呼んだのか。邪魔をしやがって」
指先が、動くようで動かない。四肢の調子を整え、のろのろ立ち上がって無関心に庭の一郭に埋けてあったゴボウを掘り起こし、厨房まで運ぶ。
「食べていくのでしょう?」
厨房では昼ごはんを作り始めていた。萃香は私をすがめ、まだへそを曲げているのかすぐに土鍋の沸騰の観察に戻った。
「霊夢」
「ありがと。ついでに皮を剥いてね。ちょっと残るぐらいでいいわ」
「いや、やはり帰るよ。ゆっくり休みたくなったんだ」
「大丈夫? うちで寝る?」
「寝首をかかれるからやめておくよ」
誘いを断り鳥居をくぐる。
日差しでめまいがした。さわやかな風が服を膨らませる。遠くで窯の烟があがっている。なるほど平穏だ。楽園なのかもしれない。だが人間は見晴らしのいい場所に留まってただ感じているわけにはいかない。
飛び立とうとしたとき、日傘をさして境内に佇んでいた八雲紫と目があった。彼女は私を見つけると満面の笑みを浮かべ、白い手袋に包まれた腕を振った。
胸騒ぎがした。彼女は笑みを絶やさずに余裕のある身振りでこちらへ歩んできた。ゆらゆらと、踊躍する埃が近づいてくるようだった。押し返しても押し返しても、近づいてくるような。
「あら、もうお帰り?」
「……そちらこそ、とうに帰ったと思っていたよ。暇なのか? 戻らなくていいのか」
「戻る。どこにですか。どこにあれども同じですわ。八雲紫は愛と共に幻想郷中に遍在し充ち満ちているのですから」
「そうか。たまにお前の結晶が野糞と呼ばれて道ばたに落っこちて迷惑をかけているぞ」
「怪しからん態度もこれまでです」
「ふん。やってやるさ」
「致し方ありません」
紫があごを上げ不敵に目を細め手のひらを掲げると空中にひびが入り、無数の目がこちらを見た。なんと、その亀裂から私の自室においてあるはずの手帳がまろび出てきた。
それは魔法とは関係のない私記であり、矛盾も弱さもしるされている老廃物の塊ではあるが、遠い先の未来には結晶化の奇跡が待望されるどろどろとしたものを包む繭だった。
「あっ、それは私の日記帳。なんてこった。ぶっ殺してやる」
奪い返そうとする腕が空を切る。
「おっほっほ」
彼女は高笑いしつつ日記をスキマへ入れると、それは空から降ってきて私の頭にぶつかった。あわてて日記を探るが、既にそれは八雲紫の手元にあった。
「いたい。くそ。毎度毎度、素晴らしく使いでのある能力だな。私もいっとう得意な能力をご披露させていただこうか。お前の頭蓋骨を光線に乗せて幻想郷に遍在させる散骨葬をする程度の能力というのはどうだ」
いつもながらに紫は馬耳東風だった。傘と体をくるくる回して満面の笑みを浮かべる。
「ねえ、私の能力って、羨ましいでしょう?」
私はぺっと唾を吐いて中指を立てた。
「まさに垂涎のまと。犬に犯されろ売女め」
「そうね。妬まれますの。天狗の口さがない新聞において、スキマでの盗み見は伝統的な皮肉の種ですもの。むごいと思いません? 私はこの能力のおかげで皆様のお役に立ちますのに」
「不思議なことさ。私も八雲紫の卑猥な能力と幻想郷パノプティコンとの聖婚という伝統の人気テーマで、明日あたりひとつ禿筆を寄せたくなってきたよ」
空間の裂け目に見える眼球を、彼女はファッションだと主張してた。八雲紫が何を思って気色の悪い眼球を装飾に足ると断じたのかは分からない。だがこんな前代未聞に不躾な態度に出られた私は、己の能力への八雲紫一流の自虐的なユーモアとして、例の三角形の中心に眼球が描かれているフリーメイソンの意匠を採用したのではないかと推測せざるを得なかった。
「盗み見なら誰だって出来ますよ。鬼だって、神様だって、人間だって」
「だが性根というやつがあるからな。そうとも、能力が悪いことなんてありえない。重々承知のことだと思うがね、私は本当に怒っているんだぜ」
「まあぷりぷりして、落ち着きなさって」
パノプティコンって…。さすが魔理沙 口悪いね(紫さまも性格悪いけど)
前作の小麦の挿話もそうだけど幻想郷的ジョーク?に ニヨり