『人とも妖怪とも関わらず、あなたはあなたとして生きること。上白沢 慧音、それがあなたにできる唯一の善行です』
例えば、そんな戯言。
日がな一日中鍬を振り下ろすという作業も悪くは無い。そう思い始めたのはいつからだろうか。
「ふう」
手を止めれば自然と息は出てくる。気持ちのよい疲労感であった。
肩にかけた手ぬぐいを手に取り、さっと額の汗を拭う。汗と土に塗れたそれは、どことなくこの風景と合っているように思えた。
ここには全てがある。
木々のざわめき、鳥の囀り、土の匂い、川のせせらぎ、地平を割る朝日、稜線に沈む夕焼け、閑寂な夜の帳。
生活をしていく上での労きも無い。大抵の物はここで得る事ができるし、ここに無い物でもこうやって土を弄くっていれば作ることが出来る。与えられる恵みには感謝をするのみである。
ここには何も無い。そう言う世人も確かにいる。
私は別にそれを否定したりはしない。私だけにしか見えないものがあるように、他人にも当人にしか見えない何かがあるのだ。この齟齬は別に悲しい物ではない。むしろ喜ばしくもある。
齟齬とは差異であり、差異とは価値である。そしてその価値によって、事象は息を吹き込まれ、個としてのカタチを得る事が出来るのである。カタチを得た物は石にもなるし金にもなる。自明のように、石は無価値、金は有価値である。取捨選択をするのならば、当然のように金を選び、石は捨てるであろう。換言すると、石は捨てるが、金は得る事ができるのである。そう、獲得である。
齟齬によって差異が生まれ、差異によって価値が生まれる。そうしてその価値によってカタチが生まれ、人は始めてそれを獲得できるようになる。
だからこそ齟齬とは大切なのである。それには他人の無価値が自分の有価値に流転する可能性すらも内包されている。
ここには何も無い。そう言う世人も確かにいる。
それでも、私はこう思う。
ここには全てがあると。
「いただきます」
慇懃に手を合わせる。誰に対してでもない。
食事というのは不思議なもので、大して凝りはしなくてもきちんと食すことができるのである。やれ色をつけたりだの、やれ匂いをつけたりだの、そのようなものは結局のところ単なる装飾にしか過ぎないのだ。
今日は川魚を塩だけで焼いてみた。味は無いが上手いという不思議な感想。また明日も作ってみようと思った。
「ごちそうさま」
恭しく頭を下げる。無論、対象はいない。
恥ずかしいことに、私は今の今まで大きな間違いをしていたらしい。
「いただきます」「ごちそうさま」、この二言は、席を共にする相手に対して言っているのだと思っていた。村の祝い事に招かれた時も、博麗神社の宴会に参加した時も、妹紅と二人で食事をしている時も、この二言は逐一対象を変えながら、それでも確かに対象を定めて言っているとばかり思っていた。
考えてみれば馬鹿な話だ。ならば、一人の時はどうなのだということである。
「いただきます」「ごちそうさま」、この二言に必然は無かった。ただ、言葉としてあるだけだ。こんな単純な結論にすら達せなかったとは、甚だ自分が情けない。思考を切りつめて、意識の贅肉を落とせば、答えなんて直ぐであったのだ。
食事の片づけが終わると、後にすることは何も無い。硬い床に寝転がり、静かに天井でも仰ぎながら、眠くなるまで待つだけである。
気兼ねというものもいらない。隣に誰かがいるわけでは無い、明日誰かに合うわけでも無い。誰かが怒った、誰かが泣いた、誰かが笑った、そんなことに逐一気を病まなくてもいい。その日暮らし。喜も無く、怒も無く、哀も無いが、少なくとも楽ではある。
純粋な楽がここにはある。
立ち上がる。何というわけでもない。理由など必要無い。赴くままに足を運び、庵の外に出た。
外は真っ暗であった。灯りが無いから当たり前なのではあるが、何故か必要以上にそう感じてしまう。”元”の庵に住んでいた時は、同じ暗さでも今よりかは明るく見えていた気がした。
「……と、いかんいかん」
無駄な思考だった。よくないことだと自戒する。
価値を生む上では、比較は確かに必要なのであるが、それが同一という段階にまで昇ると話は別である。比較は有意、同一は無意。理由は言うまでも無い。せっかく隔てたものを、再び一にしようなどと誰が思うであろうか。
隔絶とは悲観ではない。相容れないからこその幸福がそこにはある。人は何をやっても一人であるとか、そんな青臭い論理を言うつもりは無い。相互扶助、それが一つの理想であるように、一人で生きるという気構えも一つの理想なのである。前者は万人が目指すべき理念、後者は”特別”な、例えば私のような者が目指すべき理念であろう。
『金科玉条を人が手にしたらどうすると思いますか?』
そんな問答。
『頽落ですよ。他人に依り切った者は必ずや自己を破滅に導く』
そんな妄言。
『人とも妖怪とも関わらず、あなたはあなたとして生きること。上白沢 慧音、それがあなたにできる唯一の善行です』
そんな……戯言。
評判どおり、地獄の閻魔、四季 映姫 ヤマザナドゥの言葉は実に馬鹿げたものだった。イワシの頭も信心からと言うが、彼女の言葉にはその価値すらも無かった。
馬鹿らしすぎて逆に冷静に話を聞く事が出来たのだが唯一の幸いだった。私がもう少し激情的ならば、有無を言わず彼女を殴りつけていたであろう。
……ただ、そんな話でも一つだけ悟ったことがある。それは彼女が言うような、依存がどうだとか周りがどうだとかいう下らないことではない。そんな言葉は右の耳に入って左の耳から出て行った。
私が感じたこと、それは、どうやら私は”特別”であるということだった。
気が付くといつの間にか裏手を散策していた。目が慣れたせいか、周りの景色も少しだけ明るく見える。この季節にしては風が冷たい。それはどことなく厭世的な雰囲気を醸しだしていた。
ここには誰もいない。それでも何かが有る。それだけは確かなのだ。
”特別”は世に交わってはいけない。
”特別”は誰かと関わってはいけない。
不本意なことに、”私が”導き出した結論は、あの閻魔と同じようなものだった。起点が一緒であるから自然とそうなったのかもしれないが、あまり気分のよろしい物ではない。
私は私だけで考え、私だけで動く事が出来る。なれば、私が取ったこの一連の行動も、彼女の言う最善ではなく、”私の”言う最善に違いないのだ。
”特別”は世に交じってはいけない。
”特別”は誰かと関わってはいけない。
混濁、それは大きなパラドックスであり、直しようの無い歪みを生じさせる。
墨汁を落とせば水は濁る。例えそれが目に見えなくとも、本質として確かに水は濁っているのである。それを悟った時、出来ることは一つに限られてくる。すなわち、水の濁りが目に見える前に、墨汁の滴を止めるのである。本質的な濁りが無くなるわけではないが、少なくとも水としての様相は保つことが出来る。
故に、それこそが唯一にして最善の方法となるのだ。
適度な運動は適度な疲れを産む。庵に帰る頃には、少しだけ体が重くなっていた。本来ならば、このまま庵に帰って寝るだけなのだが、今日に限っては不思議とそんな気にはなれなかった。
手近な岩を探してそこに腰を掛ける。ひんやりとした感触が下から伝わってきた。虫の音はもう聞こえない。少し前まではやかましく鳴いていたものだが、今はピタリと止んでいる。時間の流れは確かなのだと実感する。
『けいね様、また遊ぼうね』
村の子供たちはそう言って別れた。
『慧音様、またお願いします』
村の若い衆はそう言って別れた。
『慧音様、また来てくだされ』
村の長老はそう言って別れた。
そうして私は彼らの歴史を変えた。上白沢 慧音という存在を消したのだ。これで彼らの目の前には誰もいない。
他の者達も要領は一緒だった。博麗 霊夢、八雲 紫、霧雨 魔理沙、アリス・マーガトロイド、十六夜 咲夜……。同じようにして、彼女たちの歴史からも私を消した。今際の言葉は必要無い。名残を惜しむほどの間柄でもなかった。
『慧音、また明日ね』
迷いはなかった。上白沢 慧音は居ない、ただその事実が残るだけなのであるから。
『……慧音?』
それは普遍だ。例え村の住人達であっても、例え雑多な人妖であっても、例え……妹紅であっても。
『泣いてる……の?』
パチンと、本当にそんな音が聞こえたかどうかはわからない。それでも、確かに、そこで彼女の歴史から私は消えた。
結論、上白沢 慧音などという者は最初から存在していなかった。
かくして、”特別”は真の意味での”特別”になったのである。歴史には存在しないのに、ここには確かに存在する。無いのに有るのだ。そんな矛盾を帯びたバケモノが住むには、このような場所が打ってつけだった。
ここには何も無い。それでも全てが有る。
「……む」
いつの間にか掌はぐっしょりと汗ばんでいた。その部分だけ夜風が殊更に染みる。
「いかんな、どうにも」
頭を冷やそうと外気に身を晒していたのだが、どうやら余計に熱してしまったようである。散漫であろう。
さて、と腰を上げ、凝った体を軽く伸ばす。そのついでに空を仰ぐと、そこには溢れんばかりの星空が広がっていた。自然と笑みが零れる。
「何も無いから全てが有る、か」
何かが有るということは、それが無くなるという可能性も内に含んでいる。
固体は崩れ、液体は濁り、気体は霧散する。何一つとしてその本質を留める物は無く、全てが絶え間なく流転していく。昨日の不幸は今日の幸福、今日の幸福は明日の不幸。無情にも無常なのである。
私は”変わらせる”ことが怖かった、そして”変わる”ことも怖かった。そう、”特別”なバケモノは、生意気にも失う怖さを知ったのである。滑稽な話だ。自分がそれを為す要因でもあるのに。全くもって、思い上がりも甚だしい。
何故私が世を離れたのか、その理由は結局のところ自己満足だけに終始する。
一つ、”私は”何かを変えたくなかった。
一つ、”私は”何かを失いたくなかった。
何かが有るということは、それが無くなるという可能性も内に含んでいる。
だから私は逃げ出した。
何も無い、何も失うことの無いこの場所へ。
静かに目を瞑ると、頬を温かい物が伝った。少しだけ驚く。すっかり乾いたものだと思っていた。
”ここ”は優しい。私の全てを受け入れてくれる。そこには普遍や特異などの隔たりはなく、私を私として認めてくれる。
有り難い。その言葉を反芻しながら、庵の中へと戻っていった。
「ただいま」
誰に言うでも無い。言葉としてあるだけだ。
布団はいらない。床に寝転がれば事は済む。明日はどんな日だろうか、そんなことも考えないでいい。今日が昨日と変わらないように、明日も今日と変わらないのであろう。
目を閉じると睡魔はすぐにやってきた。心地の良いその感覚に身を委ねる。
おやすみ。
誰に言うでも無い。口にするでも無い。
何も無いが故に全てが有る。
ここは無何有の郷、私だけの黄金郷。
end
思い詰めそうな感じの人なのでいかにもありそうですが、
三途の川の渡し賃が足りなくなりそうです。
慧音だったら水に墨汁というよりは水にカルピスだと思うんですが。。。
あ、入れる順番逆か。
致します、犬と呼んでください、是非に是非にお願い致しまするぅぅうう!!
それは兎も角
特別であるがゆえに独りである事を選んだ慧音。
愚かだと思います。勝手です。卑怯です。
えぇ、それはとても綺麗な在り方です。理想です。素晴らしいです。
だけれど歴史を改竄した程度で、残された者たちの空隙を埋める事ができる
とでも思ったのでしょうか。その程度の関係だったとでも思っているのでし
ょうか。
繰り返します。この慧音は愚かすぎます……哀しくなる程に……
人と交わりたいけど、受け入れられないという苦痛。交わろうとしても、あらゆる人間や妖怪から置いていかれているという絶望。よって、あらゆるものから断絶した世界に身を委ねたいという逃避願望。そういうのがひしひしと伝わってきました。同じ世界にいながらはみ出し者として生きてきた慧音にとって、そこはいったいどれほどの楽園だったのか。夢想するだけで悲しみと安らぎを感じてしまいます。
掃き溜めすいませんでしたm( _ _ )m
私に後者は無理です。人恋しさに。
というわけで今度、その黄金郷にパワーストーンを探しに行こうと思います。
慧音に限らず彼女の身の回りには特別な存在が大勢いるのに、彼女だけが自分を
特別と感じたのは何故でしょうか?
おそらく数百年以上の時を生き、自分が守ってきた村人達の死と幾度となく向き合ってきた彼女が失うことの恐怖に今更怯えるのは何故か?
自身が妖怪でありながらも、好きだからこそ人間を守ってきた彼女の思いはそんなに簡単に変わるものなのか?
これも1つの見方だとは思いますが、どうも納得できません。
失うことを恐れてしまうから大切だと思える、それを、そのときを。
特別であろうがなかろうが、生きる意味などあとからついてくる。
上白沢慧音が何者であるか、その前提の後から生きる意味はついてくる。
慧音を失いたくないというものと、慧音が失いたくないと思うもの。
双方に…大切なもの、ひとつ。
それから逃げるならば、慧音は『負けてしまった』と思います。
愚かしいことですが同時に致し方ないとも思う。痛みに耐えられるほど、早々人は強くない。そんな慧音は、誰よりも人間らしいと思う。
慧音をあるキャラに重ねてみているので、どうにもこのような感想が出てしまいますが……負けた結末、といえども、魅せていただきました。
結局交わることをやめて、一人だけになると心が空になる。
その空っぽの心が彼女の黄金郷ならそれは悲しいことです。
満足はしている様だけれどいつの日か思い出すでしょう。仲間の暖かさを。
頼れることの喜びを。頼られることの喜びを。
一時は耐えられるだろうけど一度思い出せばずっとついてくるものですから、
いつかは耐えられなくなるかもしれない。
そんな慧音を見るのは少し心が苦しいです。
しかし、慧音がそういう選択をするかというと。
いえ、一方的に私が憤っているだけですので。
私の望む慧音と、筆主殿が書かれた慧音との間にも差異がある。
この差異から、僕は価値を見つける事はできるだろうか。
自問し、自答し、それでも答えは無の中に。 いや、だからこそ・・・・・・。
同時に、慧音という存在的に危うい位置の妖怪に、厚みが一層出た気がする。
筆者に感謝する。
闇のように冷たく静かな物語。こいつを書けるアンタは凄いよ。