空気は冷たく、風は薄ら寒く。
いかに木々が茂り、小川がせせらいだとしても、冥界には死が満ちている。
冬の寒さとは質が違う。これは生の存在を許さない、何者との関わりも否定した決別の証だ。
数多の人が争い、隆盛に衰退を重ねる地上の様相も、ここにはそうそう影響を与えることはない。
幾年月と重ねられた平穏な日々。
主を守護するはずの剣も、庭木の剪定程度の役にしか立たない。
そんな日々ばかりが続いたせいか、魂魄妖忌はここのところ主のいる屋敷を離れることが多くなっていた。
もう何百年ここに留まっているのか。いかに半霊という身なれど永遠ではない。いつか遠くない明日、この半身は朽ちて魂は召されるだろう。 たとえ死してもここは冥界。自分はいつまでもあの方を守っていられよう、そう思っていた頃もあった。
だがどうして、四季の移ろいとともにその気概は薄れてゆく。ここには何もない。脅威となるものも、避けるべき忌むものもあの幽玄の姫にはあり得ない。
私はあの時、なぜ主の死したのちも役目を放棄しようとしなかったのか。
何度も繰り返した自問を続ける。終わりであり始まりである場所、西行寺の運命の根源。あの枯れた妖怪桜の根元で瞑想にふけるのが、この庭師の日課になっていた。
冷たい風がざわりと頬を過ぎる。いつものとおり。そのはずだったが、今日に限っていささか勝手が違っていた。
枝木のみとなってなお超然とした件の大木の下に、ありえないものが倒れていた。
久方ぶりの生きた人間。いまにもその火は潰えようとしているが、今、その娘は生きていた。長い髪は地にまみれ、右手は痛ましく血に塗れた胸を押さえている。すでに呼吸もままならない。その様子に、静かにかしずき声をかけた。
「果てる前に迷い込むとは少々気が早いが、娘よ恐れることはない。ここはすでに黄泉の国。苦しみもじきに終わる…」
そうして刀に手を掛けたときに、絞るように娘が声をあげた。
「…た、すけ……おねが…」
苦痛に顔を歪ませ、それでも必死に妖忌を見上げてくる。そうはいわれても、彼女ははもう手遅れだ。どうすることもできはしない。そう告げようとしたとき、気づいた。
「…このこを…どうか…」
刀傷であろう切り裂かれた胸、はだけた着物。そして、命を宿した身重の身体。
ああそれで合点がいった。傷と衰弱からして、到底生きていようはずもない。その生死の境界にたゆたう身を、一心に繋ぎ止めるは母の執念であったか。
このままでは腹の子も道連れになる、と。娘はそれを恐れている。ゆえに自らの命を絶つ前に赤子を助けてくれとせがんでいる。いきたまま胸を裂かれ、さらに腹も開かれようという。
そのあまりの鬼気に怖れをなしたとき、
「望むとおりにしてあげなさい」
いつもと変わらぬ微笑をうかべた亡霊の姫が舞い降りた。
「申しつけどおり」
躊躇はしない。そんなことはこの娘の覚悟の前にできようはずもない。
磨き上げた剣技でやわらかい腹を切り開く。中身をかきまわし、なるべくすばやく命をとりあげる。痛みは想像を絶するであろうに、叫ぶこともせず、母親は静かに涙を流していた。
「おぬしの宝だ。生きているぞ」
産声すらあげていない、しかし幽かに命の宿る小さな身体をそっと触れさせる。
すでに娘は事切れていた。口元だけはわなないて、何かを伝えようとしているようにもみえた。
そっと目を伏せる。
「もう、なにをぐずぐずしてるの」
すると、瞬く間に腕の赤子を奪われた。
「な、なにをなされます?」
幽々子は着物が血に染まるも構わずに、両腕に赤ん坊を抱きしめていた。
「ほら、しっかりしなさい」
いいながら子供をゆすったり逆さにしたりする。
「あぁ、あまり乱暴になされては」
心配する妖忌をよそに、遅れながらも力強く泣きはじめる。
「本当に産まれる準備はできていたのねぇ」
幽々子は感心したように産まれたばかりの子供を見つめると、やおら妖忌にむかっていいはなった。
「ほぉら、早くへその緒をきるのよ。それからねぇ、お湯の用意をしなさい。たっぷり速攻で」
いわれるままに剣を持ち直して、おかしなことに気づいた。本来ひとつのはずの管が二本もみえる。そんなばかなとよくよく目を凝らすと、管にみえたそれは妖忌の見慣れた霊体であった。
「これは…」
「幽界で死地の母が亡者に産婆をたくす。…まっとうな生者の産まれる道理はないわね」
助けたと思った子は、すでに半ば死者でもあった。自分と同じ半端ものにしたてあげてしまった。
胸中に暗いものがよぎる。しかし赤ん坊を抱えた幽々子はうれしそうに、言った。
「あら悪くはないわよぉ。だって普通の子だったら地上に返さなきゃならなかったじゃない」
「それでは、その子を育てるおつもりですかな?」
そういうと、幽々子はすねたような顔をみせた。
「ここのところ、紫は顔もみせないし、妖忌までふらふらしてるんだもの。誰かいてくれないと退屈じゃない」
「そのおっしゃりかただと、玩具を手に入れたというように聞こえるのですがな」
「そういったのよ」
その言葉にあきれ返ったが、同時に思い出したことがある。妖忌はそもそも、このふわふわとして掴めない主人が一人きりで居続けることが忍びなかった。生前とはすっかり変わっているとしても、孤独だった少女の姿が脳裏に焼きついているのだ。
自分の未練はこの少女自体なのか。
そう思至って、改めて赤ん坊をみる。
この子も、自分と同じく半端な身。…この先は孤独な姫の心配など無用かもしれぬ。
はやる嬢を尻目に、美しく昇天した母親に深く頭をたれた。
いかに木々が茂り、小川がせせらいだとしても、冥界には死が満ちている。
冬の寒さとは質が違う。これは生の存在を許さない、何者との関わりも否定した決別の証だ。
数多の人が争い、隆盛に衰退を重ねる地上の様相も、ここにはそうそう影響を与えることはない。
幾年月と重ねられた平穏な日々。
主を守護するはずの剣も、庭木の剪定程度の役にしか立たない。
そんな日々ばかりが続いたせいか、魂魄妖忌はここのところ主のいる屋敷を離れることが多くなっていた。
もう何百年ここに留まっているのか。いかに半霊という身なれど永遠ではない。いつか遠くない明日、この半身は朽ちて魂は召されるだろう。 たとえ死してもここは冥界。自分はいつまでもあの方を守っていられよう、そう思っていた頃もあった。
だがどうして、四季の移ろいとともにその気概は薄れてゆく。ここには何もない。脅威となるものも、避けるべき忌むものもあの幽玄の姫にはあり得ない。
私はあの時、なぜ主の死したのちも役目を放棄しようとしなかったのか。
何度も繰り返した自問を続ける。終わりであり始まりである場所、西行寺の運命の根源。あの枯れた妖怪桜の根元で瞑想にふけるのが、この庭師の日課になっていた。
冷たい風がざわりと頬を過ぎる。いつものとおり。そのはずだったが、今日に限っていささか勝手が違っていた。
枝木のみとなってなお超然とした件の大木の下に、ありえないものが倒れていた。
久方ぶりの生きた人間。いまにもその火は潰えようとしているが、今、その娘は生きていた。長い髪は地にまみれ、右手は痛ましく血に塗れた胸を押さえている。すでに呼吸もままならない。その様子に、静かにかしずき声をかけた。
「果てる前に迷い込むとは少々気が早いが、娘よ恐れることはない。ここはすでに黄泉の国。苦しみもじきに終わる…」
そうして刀に手を掛けたときに、絞るように娘が声をあげた。
「…た、すけ……おねが…」
苦痛に顔を歪ませ、それでも必死に妖忌を見上げてくる。そうはいわれても、彼女ははもう手遅れだ。どうすることもできはしない。そう告げようとしたとき、気づいた。
「…このこを…どうか…」
刀傷であろう切り裂かれた胸、はだけた着物。そして、命を宿した身重の身体。
ああそれで合点がいった。傷と衰弱からして、到底生きていようはずもない。その生死の境界にたゆたう身を、一心に繋ぎ止めるは母の執念であったか。
このままでは腹の子も道連れになる、と。娘はそれを恐れている。ゆえに自らの命を絶つ前に赤子を助けてくれとせがんでいる。いきたまま胸を裂かれ、さらに腹も開かれようという。
そのあまりの鬼気に怖れをなしたとき、
「望むとおりにしてあげなさい」
いつもと変わらぬ微笑をうかべた亡霊の姫が舞い降りた。
「申しつけどおり」
躊躇はしない。そんなことはこの娘の覚悟の前にできようはずもない。
磨き上げた剣技でやわらかい腹を切り開く。中身をかきまわし、なるべくすばやく命をとりあげる。痛みは想像を絶するであろうに、叫ぶこともせず、母親は静かに涙を流していた。
「おぬしの宝だ。生きているぞ」
産声すらあげていない、しかし幽かに命の宿る小さな身体をそっと触れさせる。
すでに娘は事切れていた。口元だけはわなないて、何かを伝えようとしているようにもみえた。
そっと目を伏せる。
「もう、なにをぐずぐずしてるの」
すると、瞬く間に腕の赤子を奪われた。
「な、なにをなされます?」
幽々子は着物が血に染まるも構わずに、両腕に赤ん坊を抱きしめていた。
「ほら、しっかりしなさい」
いいながら子供をゆすったり逆さにしたりする。
「あぁ、あまり乱暴になされては」
心配する妖忌をよそに、遅れながらも力強く泣きはじめる。
「本当に産まれる準備はできていたのねぇ」
幽々子は感心したように産まれたばかりの子供を見つめると、やおら妖忌にむかっていいはなった。
「ほぉら、早くへその緒をきるのよ。それからねぇ、お湯の用意をしなさい。たっぷり速攻で」
いわれるままに剣を持ち直して、おかしなことに気づいた。本来ひとつのはずの管が二本もみえる。そんなばかなとよくよく目を凝らすと、管にみえたそれは妖忌の見慣れた霊体であった。
「これは…」
「幽界で死地の母が亡者に産婆をたくす。…まっとうな生者の産まれる道理はないわね」
助けたと思った子は、すでに半ば死者でもあった。自分と同じ半端ものにしたてあげてしまった。
胸中に暗いものがよぎる。しかし赤ん坊を抱えた幽々子はうれしそうに、言った。
「あら悪くはないわよぉ。だって普通の子だったら地上に返さなきゃならなかったじゃない」
「それでは、その子を育てるおつもりですかな?」
そういうと、幽々子はすねたような顔をみせた。
「ここのところ、紫は顔もみせないし、妖忌までふらふらしてるんだもの。誰かいてくれないと退屈じゃない」
「そのおっしゃりかただと、玩具を手に入れたというように聞こえるのですがな」
「そういったのよ」
その言葉にあきれ返ったが、同時に思い出したことがある。妖忌はそもそも、このふわふわとして掴めない主人が一人きりで居続けることが忍びなかった。生前とはすっかり変わっているとしても、孤独だった少女の姿が脳裏に焼きついているのだ。
自分の未練はこの少女自体なのか。
そう思至って、改めて赤ん坊をみる。
この子も、自分と同じく半端な身。…この先は孤独な姫の心配など無用かもしれぬ。
はやる嬢を尻目に、美しく昇天した母親に深く頭をたれた。
何が書きたいのかも分からないですよほんと。
20kb程度が目安です。分けるなら、ですが。
こううまいこと表現できないのですが。