何かの気配を感じ、少女は目を覚ました。
寝室と表現するにはその部屋はあまりにも広くそして豪華だった。高い天井には華美にして触れれば壊れそうなほど繊細なシャンデリアが吊り下がり、年月を感じさせる棚やテーブルが鈍い光を放ち、無造作に装飾品や美術品がその上に飾られている。緋色の絨毯が敷き詰められ、それと同じ色をした壁。部屋の大きさとは不釣合いな小さな窓が一つだけあったが、厚いカーテンで覆われ外の様子を窺うことはできない。その中でもいっそう豪華な天蓋付きの寝台で少女が上体を起こし今まさに目覚めたところであった。その少女、レミリアは、ちらと窓に目をやりカーテンが淡い光に彩られているのを見ると、低く舌打ちをした。
レミリアは何故こんな早い時間に起きてしまったのかと自問した。光の具合からするにもう夕方に近い時間だということはわかる。しかし目覚める時間にはまだ数刻早い。そこまで考えてから、何かいつもと違う事態を感じ取り目を覚ましたのだということに気付く。
「何かしら。館が揺れたようだけど」
状況を把握すべく行動することにした。側に控えているはずの従者はいない。この時間なら掃除か何かに忙殺されているのだろう。或いは何らかの事態の対処にあたっているのか。
寝巻から着替え、廊下へと出たところで偶然通りかかったメイドを捕まえる。
「ねえ、私が寝ている間に何か変わったことは起きてない?」
唐突に呼び止められたメイドはびくっと体を震わせ、声の主がレミリアであると気付くと更に身を縮こまらせた。
「お、お嬢様お早うございます。えーと、特に変わったことは何も起きていないと思われます」
「そう。わかった」
その答えを聞いて行き先を変えることにした。レミリアに気付けてメイドが気付けない事態。わからないがそういう事態にあるのだ。となれば相談する相手は一人しかいない。
親友にして膨大な知識を有する魔女。その彼女を尋ねることに決め、紅く長い廊下をレミリアは歩んでいった。
扉を押し開け足を進める。そこは同じ館の一室であると同時に異世界であった。毛足の長い緋色の絨毯。深紅に塗られた壁。申し訳程度に設えられた小さな飾り窓。陽の光が僅かしか差し込まない仄暗い空間。これだけを見れば何も変わり映えのない一室である。
一室と表現するのはやや不適当であろうか。部屋自体は桁違いに広い。メイド全員が入っても有り余る規模のホールに匹敵する広さだ。だが実際に中に入ると、全くその大きさを実感することはない。視界に入ってくるのは、本、本、そして、本。空間を埋め尽くさんが如く本棚が聳え立つ。そして夥しい量の書物から漂う紙の匂い。それこそがこの空間を異空間たらしめる理由であった。
扉から真っ直ぐに伸びる他より僅かばかり広い通路を進んだその先にレミリアの求める人物がいた。顔をうずめるかのように本を読む彼女が。
「ねえ、パチェ」と呼びかけ、レミリアは向かい合ったソファーに腰を下ろす。
呼びかけられた少女はちらっと視線を上げ、すぐにまた視線を戻す。そして徐に口を開いた。
「レミィ、今日は早起きね。夢見でも悪かったの」悪夢にうなされてしまって不機嫌なのは自分だ、と言いたいかの如くに。
その科白を受けレミリアは少しばかり顔をしかめる。世界が今日終わるのだと告げるような声色であるが、それはパチュリーの常態である。それは長い付き合いで嫌というほどにわかっている。気に障ったのはむしろその内容であった。
「残念ながら今日は違うよ」
「それは良かったわね」
このところ頻繁に悪夢を見るのである。夜の世界の王にして、陰なるものを遍く従える誇り高き吸血鬼の一族のレミリアが、である。
繰り返し繰り返しある情景が夢で再現される。
格式高いスカーレット家の当主として幼き時から君臨し、後の世まで消えることの無いであろう恐怖と畏怖を人々に与え、才覚と圧倒的な力を以って妖を支配してきた。運命を手中で操り、向かうところ敵のなかったこれまでの500年近い人生。その輝かしい歴史に消えることの無い屈辱がつい先日刻まれたのであった。築きあげてきた誇り、栄光、誉れ、それら全てが、たった一人の人物に打ち砕かれた。その屈辱的な記憶が夢となって繰り返し繰り返しレミリアを苛む。
忘れようとしていた怒りが再び湧き上がりかけるが、理性でそれを押し留め、呼吸を落ち着かせる。現在はそれよりも優先しなければいけない事がある。まずは、それからだ。気を抜くと震えそうになる声を落ち着かせ、目の前の魔女に問いかける。
「パチェ、ちょっと聞きたいことがあるの」
「それは奇遇ね。私もレミィに聞きたいことがあるの」
「私が寝ている間に」「ほんの少し前に」
「「何かおかしい事が起きなかった?」」
二人の声が同調した。
「やっぱりパチェも気付いていたんだ」
「レミィが目を覚ましたのは、それの所為でしょ」
「そうよ。パチェなら原因を把握してると思って」
パチュリーは本を閉じ膝の上に乗せ、改めてレミリアに向き直った。そして一番起こり得そうで、尚且つ一番起こり得てほしくない事態を口にする。
「妹様じゃないわよね」
それは真っ先にレミリアも想定した事態である。だからこそ即座に応えが出る。
「それはないわ。フランが部屋の封印を解いたらもっと大騒ぎになっているし、それに」
「それに?」
「姉である私が判らないということはない」
「それもそうね」
じゃあ、とパチュリーが次の可能性を挙げる。
「どこかの妖怪が攻めてきたりしてるんじゃない」
「それもない。少なくともそれらしき妖力は感じられない。パチェだって解るでしょう?」
「そう、ね。魔力的にも侵入者は感じられないわ」
「解ってることをわざわざ聞かないでよ」
陳腐でありきたりな可能性をまず排除するのが当然よ、とパチュリーが応える。
「それに襲撃を受ける運命も視えないんでしょ」
ん、と言ってレミリアは目を閉じ精神を集中させる。
運命を操る程度の能力。それがレミリアの有する力である。無数に起こる小さな事象が相互に複雑に影響し合って、起こりうる未来はそれ以上に無数に存在する。それを予知することなど不可能だ。たった一つの僅かな差異が別の事象に影響を与え、全く違った結論が導かれる。蝶が羽ばたいたことで世界の反対側では嵐が起きるかもしれない。未来を予知するとはそれまでに不可能なことである。しかしレミリアにはそれが可能なのだ。全ての要素を正確に把握し寸分の狂いも無く計算するのではない。そこにあるのは結論だけである。正確無比な演算を以ってしてではなく、最初に結論ありき。何の要素が答えを導く鍵となっているのかは解らない。ただ演算された結論のみがどうしてか解ってしまうのである。それ故に運命を操る悪魔として、崇められ、怖れられてきた。
用意された結論は変わらない。改めて視たところで、今日襲撃を受ける運命はなかった。
「聞くまでもないことだったわね」
「そうよ、ただ、」
「?」
「近い将来襲撃を受ける運命が視える。まだぼんやりとして細かいことはわからないけれど」
「そう。いずれにせよ今日で無いなら関係ないわね」
と、なれば、残った可能性は一つしかない。それは無論レミリアも思い至ってはいたのだが、無意識に考えないようにしていたことである。その結論を否定してほしいからこそパチュリーの元へとやってきたのだ。
「大きな衝撃を館が受けた。しかもそれを行えるような妖怪は存在しない」
「パチェが実験を失敗したわけでもないしね」
「メイドたちはそれに気付いてる様子も無いのね?」
「そうよ」
「一見不可能にも思えるような現象が発生している。けれども観測された事象と矛盾しない例外があるわ」
――あの妖怪なら不可能ではないはず、とパチュリーが冷静に告げる。
「……」
「調べたの。彼女なら可能と言わざるを得ない」
「……」
「あらゆる境界を操る程度の能力。それが彼女の持つ力、ね」
「……そうだ」
忌々しい記憶が甦る。
それまでの世界に見切りをつけ、噂で聞いていた幻想郷に移住することにした。世界から失われつつある妖が力を持ち生を謳歌する楽園。それは楽園であると共に、王たる吸血鬼が統べるべき世界であると思った。だからこそ、移住の準備をパチュリーや従者に任せ、配下の妖怪を携えて幻想郷に乗り込んだ。外の世界よりも妖怪が力を持っているとはいえども、吸血鬼の足元には遙に及ばなかった。立ちはだかる敵を殲滅し、服従の意を示す者を配下にし、レミリアを頂点とする新たな秩序を築き上げた。
その行為が創造者にして管理者たる八雲紫の逆鱗に触れたのであった。本人を含めても僅かばかりの人数で逆にレミリアに攻めてきたのである。迎え撃つは幻想郷に入ってから数倍にも膨れ上がった軍勢。しかしその中で生き残ったものは数えるほどしかいない。多くの妖怪は何が起こったのかもわからず、敵の姿さえ捉えられずに命を落としただろう。レミリアでさえ歯が立たなかった。闇を貫く紅の槍は結界に阻まれ、身体能力を最大限に活かして放った拳は紫を捉えることもなかった。攻撃が当たるその瞬間、空間に裂け目が生じ、紫の身体は移動し、或いはレミリアの拳が吸い込まれ自らへと迫ってきたのだ。また、不規則に開かれた裂け目からランダムに降り注ぐ弾の雨、拳、傘による刺突、認識すると同時に体を貫く光線。それらの桁外れた攻撃を耐え続けることは出来なかった。
ついに力尽きたレミリアは銀の刃で拘束された。灼熱の太陽が沈むことなく辺りを照らし、また雲も出てないのに豪雨が降り注ぐ。肉体的にも精神的にも絶えることのない責め苦を負わされ続けた。時間の感覚など疾うになくしていた。完膚なきまでに打ちのめされたところで紫はある提案を持ち出してきた。ここまでされても幻想郷に来たいのならば、いい提案があるのだけれども? と紫は言った。それが強制でなかろうとも、レミリアにはそれを拒否する気力などもう残っていなかった。屈辱的な契約を結ばされ、それでレミリアは解放された。
夢で見るのは屈辱の記憶。それ以来一度しか紫と会っていないのに、その姿は未だに鮮明に脳裏に焼きついている。
紫ならば今起こっている事態など朝飯前に起こせるだろう。その運命を視させないことだって何らかの方法で可能だろう。事実と虚偽の境界でも弄るのだろうか。
「くそ、あいつは一体何をしてるんだ!」
「待って、レミィ。確かに彼女なら可能だけど、それはまだ仮説に過ぎない」
「推定無罪とか腑抜けたことでもぬかすのかっ!」
怒声が響き渡る。一方それを向けられたパチュリーは動ずることなく静かに続ける。
「まだわからないことがあるわ。フーダニット、ハウダニットについてはいい。けれども、ホワイダニットがまだよ」
誰が、どのようにして、何故、それを行ったのか? ということである。紫だとしたら、どうしてこのようなことを起こしているのかという理由。それがわからない。
ルールに従っている限りこちらから干渉することはない。レミリアが契約を受け入れると、紫はそう告げて去ったのだ。越してきてからは特に何も起こしていない。些事を片付けるのに追われ、このところようやく落ち着ける日々がやってきたところなのである。
「……そうね。怒鳴って悪かったわ。あいつは何を考えてるのかわからないけど、確かに理由がわからない。パチェは何か考えてる?」
「お手上げよ」
「そう」
それならばもうどうしようもない。直接乗り込んで真偽を正そうにも彼女の居場所はわからない。調べたところで簡単に行き着けるところでもないだろう。二人の間に深い沈黙が漂う。無数の本から発せられる重々しい静寂とは異なった種類の静寂が。
不意に音が響き渡った。――ノックの音だ。
失礼します。扉の前で一礼をし、紅魔館の全てを取り仕切るメイドが入ってきた。レミリアの後ろまで歩み寄ると再び深く頭を下げた。
「おはようございます。お嬢様。お目覚めのときに参ることができず、大変申し訳ありませんでした」
「いいわ。たまたま早く目が覚めただけだし。それより紅茶を持ってきて」
「畏まりました。パチュリー様はいかがなされますか?」
「別にいいわ」
少々お待ちくださいと言ったその次の瞬間には、銀のティーワゴンが登場していた。無駄な動き一つない洗練された仕草で給仕を行うと、再びレミリアの斜め後ろに控えた。
「私が寝ている間何か変わったことは起きなかった?」
「お嬢様に報告すべきことは何も起きておりません」
「侵入者とかは」
「いえ、ありませんが」
苦々しい顔つきになったレミリアの代わりにパチュリーが口を開く。
「咲夜も気付いていないのね。何も不審な魔力や妖力は感じられないけれど、何かが紅魔館で起きてるのよ、今」
事の重大さを理解したのか、有能な従者は眉をひそめる。館の一切を取り仕切る者として、看過できない事態である。
「何か、と申されますと、具体的にはどのようなことが」
「館が衝撃を受けたの。メイドは誰も気付けないようだし」
「もしかして……」
「何」
「……あの、大変申上げにくいことなのですが、」
「――『地震』をご存知にならなかったりしますか?」
「「え?」」
「咲夜、何それ」
咲夜が口を開く前に、パチュリーが滔々と語りだした。
「ああ、わかったわ。地震という現象は知っていたけれども、体験したことがなかったから理解できなかった。そうね、地震とは普段は固着している地下の岩盤が一定の部分を境目にして急にずれ動くこと。またそれによって引き起こされる地面の振動。正確には、前者を地震と呼び後者を地震動という。通常には後者を指して地震と呼ぶことが多いらしいわね。メカニズムとしてはプレートテクトニクスという理論で、ごく簡単に説明すると地球の表層はプレートと呼ばれる硬い板のような部分でできておりそのプレートは移動しプレート同士で押し合いを続けている。そのためプレート内部やプレート間の境界部には力が加わり歪みが蓄積している。この歪みが限界を越えたとき岩盤内部の一点から破壊が始まり急激に岩盤がずれて歪みを開放し始める。これが地震の始まり。そし……」
「ふーん、パチェは物知りだな」
明らかに途中から聞いていない様子であったが。
「ということは、特に問題ないわけね」
「ええ、単なる自然現象ですわ。幻想郷の存在するらしい地域では日常的に地震が起こるらしいです」
「なんだ、考えて損した。ああ、下がっていいわよ」
「ではお言葉に甘えまして。食事の用意をして参ります」
従者が退出し、再び静寂が戻る。先ほどまでとの空気とは違いこの場に本来からあるはずの静謐な空気であり、二人を支配していた重厚な沈黙ではなかった。レミリアは立ち上がって大きく体を伸ばした。あーあ、なんだか気が抜けた。そう呟き所在無さげに近くの本棚を物色しだす。
「そういえば、雨を降らせない術式ってどうなった?」
「手が空いたから取り掛かってるわ。今読んでるのもそのための魔術書。そうね、精々この館の周りで精一杯というところだけど」
「やっぱりパチェは器用だな」
特に意味もなく目に付いた本を開いてはめくり、開いてはめくりを繰り返す。しばらくその無為な行為に浸っていたが、ふとパチュリーのほうを振り返った。
「ねぇパチェ。雨が振らないだけじゃなくて、日中も活動できたら素敵だと思わない」
「……吸血鬼がよく言うわね。それこそ太陽を隠すなんて絶対に出来ないとは言わないけど、相当難しいわ。現実的には館をもう一回り大きな結界で覆うのが妥当なところね」
「その中だけ?」
「その中だけ」
「それじゃあ変わらないじゃない。流石のパチェでもそこまで器用じゃないんだな」
「世界を夜にし続けるなんて、妖怪全てを配下にするよりよほど大それた行為だと思うけど」
「あ、いいこと思いついた。
太陽を隠すのは無理でも――光が届かないくらい濃い霧を出せばいいんじゃない?」
その時、紅い霧の中、少女がレミリアの元へ乗り込んでくる運命が動かせないものとなった。
あんなに前振りが長くて落ちは自然現象でしたーってのは少し変なような。そしていきなり紅魔郷へとつながる・・
私が言えることではありませんが、自然現象の地震から紅魔郷へと繋がる経緯が私にはわかりません。
運命を見て霊夢or魔理沙が乗り込んでくる運命を見るために自然現象の地震を前ぶりにしたとしてもちょっと前ぶりが長すぎませんか?
そんな感じでこんな点数です。長文失礼しました。
それはそれ、紅茶の香りが漂ってきそうな良い紅魔館でありました。
文章中の小道具が雰囲気を醸し出すのに一役かっていて、非常に好みです。
しかし、タイトルがイマイチピンとこないのですがはて?
幻想郷では地震が日常じゃなかったりするのかもしれない。
>なんか最初と話変わってません?
綺麗に1つの話にまとめたわけではないです。多少強引な感はあるんですけど、、、
>緋想天の話かと思った
緋想天とか地霊殿出る前じゃないと書けなそうなネタだったので。
>タイトル
いいタイトル思いつきませんでした。ググれば幸せになるかもしれません。