ノックの音。
扉が開く。
* * *
もうし、もし。ごめんください。夜遅くにすみません。ああ、構えないでください。悪戯をしに来たわけじゃないのです。花を。ええ、花を買いに来たのです。はい、お金も、ちゃんとこの通り持ってきています。怪しいお金じゃありません。寺子屋の慧音先生のところでお手伝いをして、駄賃としていただいたお金です。これで、花を買わせて欲しいのです。遅いところをすみません。昼間に来ればよかったのでしょうが、これ、この通り私は妖精ですから、きっと他のお客さんたちも何事かと構えてしまうでしょう。何か悪戯をするかもしれないと思われて、叩き出されてしまうかもしれません。ですから、申し訳ないとは思ったのですが、こんな夜分にお邪魔させてもらったのです。
はい、花です。とびきりきれいな花を一輪、お願いしたいのです。好きな人がいるのです。その子に、渡したいのです。野原に咲いている花もいいのですが、やっぱり、ちゃんとしたお店で育てた、とびきりのきれいな花を渡してあげたいのです。
でも、その、変なことを言うようですが、実は花を渡したい相手というのは男の子ではないのです。はい、私は、女の子に恋をしてしまったんです。本当のことを話そうかどうかここに来るまでずいぶんと悩みましたが、せっかく花を見立てていただくからには、やっぱり本当のことをお話しして、その上で花を選んでいただいたほうがよいのではないか、と思ったのです。
やっぱり、おかしいでしょうか。おかしいですよね。女の子が同じ女の子を好きになってしまうなんて、どうかしちゃったんじゃあないかと思っても無理はありませんよね。ああ、私は何を言っているんだろう。すみません。こんな夜遅くに、無理なお願いをしてしまって。もう、帰ります。いえ、そんな、そこまでお構いいただくわけには。……はい、はい。……わかりました。長くなりますが、お時間は大丈夫でしょうか。いえ、私も誰かに聞いて欲しいとは思っていましたので、すっかりと全部お話します。
妖怪の山の麓に、霧の湖という、その名の通り昼間になるとすっぽりと霧に包まれてしまう湖があるのはご存知でしょうか。湖畔にはあの悪名高い紅魔館が建っていまして、今から話すのはその紅魔館から紅い霧が吹き出す異変が起きた、ちょうどその頃のお話です。
私は以前からずっとその霧の湖に住んでいまして、他の妖精のお友達とおしゃべりをしたり、たまに湖を訪れる釣り人たちに軽い悪戯を仕掛けたりして暮らしていました。その日は特に紅い霧が濃い日で、霧に含まれる魔力に中てられて、普段より気が大きくなっていたんでしょう、湖の上を飛んでいく巫女に弾幕勝負を挑んでしまったのです。
はい、あの有名な博麗神社の巫女です。普段なら絶対にそんなことはしないのですが、妖精というのは魔力が多い場にいると、やたらと好戦的になってしまうものなのです。
当然の結果というか、私は手もなくやられてしまって、湖のほとりまで命からがら逃げ出しました。岸辺にたどり着いて草っ原の上に座り込み、息が整う頃には私はすっかりと正気に戻っていて、何て馬鹿なことをしたんだろう、ボロボロになった服をどうやって繕えばいいだろう、なんてことを考えていました。お気に入りの、水色のスカートの端のところに空いた大きな穴を見ていると、何だか無性にみじめな気分になってきて、涙がぽろぽろと溢れてきました。ああ、本当に、本当に馬鹿なことをした、と、それはそれは深く後悔したのです。
そのときでした。不意に湖の上空が、ピカッ、と光ったのです。私は驚いてそちらの方を見ました。するとまた、ピカッ、と。紅い霧に包まれた薄暗い空を裂くようにして、色とりどりの弾幕が、まるで真夏の夜空に咲く花火のように飛び交っているのです。
私は息を飲みました。きっとさっきの巫女に違いない、とは思ったのですが、それでは彼女はいったい誰と戦っているんでしょう。こう見えても、私は霧の湖周辺の妖精たちの中ではかなりの実力者なのです。その私がなす術なくやられたあの巫女相手に、誰がああまで戦うことができるんだろう。そんなに名の知れた妖怪や妖精がこの辺りにいただろうか。私はそう思い、はっ、と思い出しました。
『いばりんぼう』のチルノちゃん。霧の湖に住んでいる氷の妖精です。それまで彼女のことを思い出さなかったのは、私は一度も彼女と話したことがなかったからです。いつも自分は強いと自慢ばかりしていて、同じ妖精仲間からも嫌われている彼女。かくいう私も彼女は苦手で、寂しそうだな、と思うことはあっても、自分から話しかけることはありませんでした。けれども、彼女の戦いを見て私は思ったのです。何てきれいな弾幕なんだろう。幾十、幾百の御札が空を舞い、同じだけの数の氷の弾が共に光の尾を引いてぶつかり合います。札が、氷が弾けるたびに七色にきらめく魔力の残滓が、燃え尽きる直前の花火のように一際大きく輝いて、かき消すように宙に消えていきます。もしもこれが霧の中でなかったならば、その光景はより鮮烈に、それこそ芸術というべき素晴らしさで空に描き出されていたことでしょう。
気づけば私は口を半開きにして、二人の戦いに見とれていました。
自分のスペルカードを持っている妖精というのはあまり多くありません。かくいう私も持ってはいないのです。妖精でスペルカードを持っているのは、光の三妖精と、後はあのチルノちゃんくらいしかいないのではないでしょうか。意味を込めた自分だけの弾幕。私にとってスペルカードというのは一種の憧れで、チルノちゃんの操るそれに私はすっかりと目を奪われてしまったのです。
でも、やはり相手は博麗の巫女。決着はすぐにつきました。一際大きな光の花が空に咲き、チルノちゃんの小さな身体が湖に落ちるのが見えたのです。私は、あっ、と声を上げ、思わず飛び出しました。助けよう、とか、声をかけて慰めてあげよう、とか、その辺りはよく覚えていません。とにもかくにも彼女の側に寄ってあげなくちゃいけないと、そう思ったのです。
チルノちゃんはすぐに見つかりました。湖の上に、それほど大きくはない氷の浮島のようなものができていて、その上でチルノちゃんは仰向けに、大の字になって倒れていました。私は彼女に近寄りました。
「なによ」
と、チルノちゃんは言いました。
「あんたも、あたいを馬鹿にしに来たの?」
私はあわてて首を横に振りました。あの巫女にやられたのは私も同じですし、あんなきれいな弾幕を見せられた私にとっては賞賛こそすれ、馬鹿にするなんてとんでもない話だったからです。
「じゃあ、なに」
「えっと、あの、大丈夫?」
我ながら、間の抜けた返答だったと思います。あのときの私はとにかく頭の中から考えというものがきれいさっぱりに抜け落ちていて、チルノちゃんにかける言葉の一つも考えてなかったんですから。
向こうも同じことを思ったのか、チルノちゃんは胡散臭げに鼻を鳴らすと身体を起こし、ここで初めて私に向き直りました。
「大丈夫なんて、当たり前じゃない。……って、あんたも怪我してるけど」
「ああ、うん」
「あんたもあの紅白にやられたの? ダメよ、あんたたちふつーの妖精はあたいとは違うんだから」
「うん」
「いくらあの赤い屋敷から魔力が駄々漏れてるからってね、あんまり調子に乗ったら痛い目にあうんだからね」
「うん」
「何よ、さっきから、うん、うん、って。おトイレでも行きたいの?」
確か、こんなようなことを言っていたと思います。記憶があまり確かではないのは、チルノちゃんの言葉が、私の耳にはほとんど届いていなかったからです。
そのとき私の目と心は、チルノちゃんの背中の羽に釘付けになっていました。
妖精というのはそれぞれが自分の羽を持っていて、個体ごとに形も多少違うのですが、チルノちゃんの羽はそれを差し引いても物凄く風変わりなものでした。三対六枚の、どこまでも透き通った氷の羽です。かすかに青みを帯びたそれは一点の曇りもなく、腕のよい宝石職人が選び出して磨きぬいた価値ある水晶細工のような、あるいは厳冬に凍てついた湖の、氷の下で静謐を保つ湖水のような、そんな美しさを持っていました。
「チルノちゃんの羽、きれいだねえ」
気づけば、私はそう口に出していました。
「へ?」
「さっきの弾幕もそうだけど、チルノちゃんってすごいんだねえ」
チルノちゃんはあわてたようでした。
「な、なによ急に。そ、そーよ! あたいったら最強なんだから!」
「うん。本当にそうだねえ」
チルノちゃんは気恥ずかしくなったのか、心なしか頬を赤くして、プイッ、と横を向きました。その仕草は本当にかわいらしくて、私は思わず、くすり、と笑ったのでした。
チルノちゃんはその境遇からか、最初は私のことを警戒していたようでしたけれど、時が経つにつれてだんだんと打ち解けて、よく一緒に遊ぶようになりました。チルノちゃんは少しお馬鹿で、何事につけても無鉄砲で、いろいろとハラハラさせられることも多いのですが、臆病で引っ込み思案な私とは不思議と馬が合って、それこそ本当の姉妹のように仲良しになったのです。
たとえば、こんなこともありました。チルノちゃんと遊ぶようになってから、少し経った頃のことです。チルノちゃんは博麗の巫女――霊夢さんにこっぴどくやられてからも、折を見ては弾幕勝負を挑んでいまして、その日も霊夢さんに勝負を仕掛けて、ぼろぼろに負けてしまったようでした。
「危ないことはやめてって言ってるのに」
勝負に負けて湖に落ちたらしく、びしょびしょになったチルノちゃんをとにかく家に迎え入れて、私は口を尖らせました。もうちょっとお小言をいいたくはあったのですが、まったく悪びれずに照れ笑いなんか浮かべるチルノちゃんを見たら、そんな気も失せてきます。
とにかくチルノちゃんの濡れた服を脱がせて、毛布を貸してあげて――ああ、チルノちゃんは氷の妖精なので寒いのは全然平気なのですが、だからといって裸のままでいさせるのはちょっとひどいですから――とにかく毛布を貸してあげて、チルノちゃんに作ってあげるレモネードはやっぱりアイスがいいのか、それともホットのほうがいいのか、その辺りをちょっと考え込んでいたところ、
「ねえ、大ちゃん」
と、チルノちゃんが声をかけてきたのです。ああ、『大ちゃん』とは私のことです。チルノちゃんは、私のことを『大ちゃん』と呼びます。先に出会ったときにきちんと本名を伝えたのですが「大妖精だから大ちゃん」という具合に押し切られてしまって、それ以来私はずっと『大ちゃん』です。
「なあに?」
「大ちゃんって、お母さんみたいね」
「私、そんなに年上じゃないよ?」
「うん、そうだけど」
チルノちゃんは、毛布にすっぽり包まったまま私の傍に擦り寄り、にへらー、と本当に幸せそうに笑って言うのです。
「だって、お母さんの匂いがする」
「せめて、お姉ちゃんって言ってほしいなあ」
「じゃあお姉ちゃんでもいいや。大ちゃんはあたいのお姉ちゃんね」
「もう、適当なことばかり言わないの。ほら。髪の毛まだ濡れてる。ちゃんと拭かないと風邪引いちゃうし、変な臭いだってするんだからね」
「いーよう。あたい、風邪なんか引かないもん」
「だーめ。女の子なんだからちゃんとしないと。ほら、こっち向いて」
といった具合で、本当に、何で今まできちんと話したことがなかったのか不思議なくらいに純粋でいい子なのです。みんながチルノちゃんを仲間はずれにしてるのも、きっと以前の私みたいに誤解しているからに違いありません。こんないい子にお友達がいないなんて、そんなのは間違っています。
私はチルノちゃんを人里の、慧音先生の寺子屋に連れて行くことに決めました。ご存知かもしれませんが、慧音先生は時折、妖精や妖怪の子を対象に夜間教室を開いてくれています。言っては何ですが、チルノちゃんはあんまり頭がよくありませんし、湖の妖精たちの間でも評判がよくありません。チルノちゃんは根がいい子なのですから、きちんとした場所で常識とか礼儀とかそういうものを教えてもらえれば、きっと他の妖精たちとも仲良くなれるはずなんです。
お勉強は好きじゃないのか、あまり乗り気ではないチルノちゃんを何とか説得して慧音先生にお願いに行くと、先生は快く承諾してくれました。夜間教室には何人かの妖怪の生徒さんたちがいて、チルノちゃんは持ち前の明るさと愛嬌ですぐにみんなと打ち解けたのです。
ただ、チルノちゃんにお友達が増えたのはいいのですが、それはそれで何となく寂しいような気もして、出来る限りチルノちゃんと一緒にいるようにしていたら、そのことでお友達にからかわれてしまった、なんてこともありました。
そのときはチルノちゃんがからかった相手に食って掛かってケンカになってしまいまして、騒ぎを聞きつけた慧音先生が割って入って事は収まったのですが、何というか、胸にもやもやっとしたものが残った出来事でした。今から思えば……いいえ、言っても、仕方がないことなのかもしれません。
ともかく、チルノちゃんと一緒の日々は、おおむねこのようにして過ぎていったのです。
とある春の日のことでした。私は木陰で眠るチルノちゃんの頭を膝の上に乗せて、彼女の空と同じ色の柔らかな髪を、何となく指で梳いていました。陽射しは心地よく、風は穏やかで、うたた寝にはもってこいのお天気でした。あんまり気持ちのよい陽気だったものですから、私もついついぼーっとしてしまって、あるいは魔が差した、というものなのかもしれません。眠っているチルノちゃんがあんまり無防備なものだったものですから、ちょっと悪戯してみたくなったのです。
私はチルノちゃんの頬にそっと指を伸ばし、軽く突っついてみました。チルノちゃんの頬はすべすべとしていて、まるで赤ん坊の肌のように触り心地がいいのです。チルノちゃんはちょっとむずがゆそうな素振りを見せましたが、目を覚ます気配はなかったので私は少し調子に乗り、そのままチルノちゃんの顔を指でなぞりました。軽く汗ばんだ額。まだ幼い鼻梁。これも、ぽかぽかと暖かな陽気のせいなのでしょうか、チルノちゃんの顔を見ているうちに、私の頭はお酒にでも酔ったかのようにぼうっと痺れてきました。
空にはお陽様がなおも暖かく、柔らかな風に芝生の緑がそっと揺れ、木漏れ日の下で私とチルノちゃんは二人きり。音は遥か時の彼方で、私たちを包み込むのは春のぬくもりと、柔らかな静寂だけ。まるで夢の世界にでも迷い込んでしまったような、そんな気分になってきたのです。
私はそっと息を吐きました。無防備なチルノちゃん。安心しきって、私の膝の上でゆっくりと寝息を立てる彼女の、軽く開いた唇に、私はそっと指で触れ――チルノちゃんは眠ったままでしたから、恐らく反射的なものだったのでしょう。まるで赤ちゃんがそうするように、チルノちゃんは私の指先をその小さな唇でそっと咥えたのです。
温かな、柔らかく濡れたものが指先を包み込む感触に、私は「あ」と小さく声を上げました。胸が、ぎゅうっと締め付けられる感触がしました。背筋を何かが駆け上り、お腹の底の辺りがぐるりと回転するような、妙なむずがゆさに私は思わず身体を震わせました。目の前で無防備に眠っているこの子を、何かめちゃくちゃにしてやりたいような、そんな衝動を覚えたのです。
私は、もう自分がわかりませんでした。全ては午後の陽射しが見せる白昼夢のようで、何もかもに現実感というものが感じられませんでした。視界に映るのは膝の上で眠るチルノちゃんだけで、それ以外は全てが白い靄の中に溶け、世界には私とチルノちゃんのほかには何もないような、そんな錯覚を覚えたのです。私は震えそうになる指をゆっくりと引き戻すと、熱に浮かされたような心地で、さっきまで私の指を咥えていた唇を見つめました。どくん、どくん、と心臓が鳴っています。何かを求めるように軽く開かれた唇を見ていると、何かたまらない気持ちになって、私は小さく喉を鳴らしました。押し殺すように息を吐き、私は吸い寄せられるようにゆっくりと自分の顔をチルノちゃんの顔に近づけて、
チルノちゃんが身じろぎしたのはそのときでした。
急速に世界に色が戻り、途切れていた音が耳に飛び込みました。悪い夢から無理やりに引き戻されたような感覚に私は身体をのけぞらせ、勢いあまって背もたれにしていた樹の幹に、後頭部を思いっきりぶつけてしまいました。
「……大ちゃん、どうしたの?」
私の上げた悲鳴で目が覚めたのか、寝ぼけた声でそう問いかけるチルノちゃんに、私はぶつけた頭を押さえながら「何でもない」と返しました。
本当のことなんか、言えるわけがありません。
私は「用事を思い出した」と物凄く下手な嘘をつくと、逃げるように自分の家に飛び帰り、扉に鍵をかけてベッドのシーツに潜り込みました。自分で自分の身体を抱いて大きくひとつ身震いすると、頭の中に先ほどの光景が浮かんできます。眠るチルノちゃんの顔。柔らかな頬。私の指先を包み込む、温かく濡れたあの感触。間近で感じた、チルノちゃんの氷の妖精らしからぬ日向の匂い。胸の高鳴りは天井知らずで、顔が熱くて、身体が熱くて、あまりの熱さに私は思わずため息を漏らしました。
ああ、私は何をしようとしていたのでしょうか。私は女の子で、チルノちゃんも女の子です。いくら仲がいいといってもあんなことをしようとするなんて、私はどうかしてしまったのでしょうか。
あれは夢だ。シーツに包まりながら私は強く思いました。チルノちゃんは大切なお友達なのです。あれは春の日差しが束の間見せた悪い夢で、決して自分の本心ではないと、そう自分に言い聞かせたのです。
ですがそれ以来、私はチルノちゃんとまともに接することができなくなってしまいました。一緒に遊んでいても、チルノちゃんが傍に来るたびにあの日の出来事を思い出してしまって、チルノちゃんの顔をまともに見られなくなってしまうのです。話しかけられても出てくる言葉は心とは裏腹に「ああ」とか「うん」とか、そんな生返事だけで、伝えたいことの半分も口にできません。
自然、私たちの距離は離れ、以前はあれだけ一緒に遊んでいたのに、一度も顔をあわせない日が何日も続くようになりました。私はもうすっかり元気をなくしてしまって、家の中に閉じこもりがちになりました。けれど一人でいても気が安らぐなんていうことはなく、それどころか寂しさと悲しさで胸の痛みがどんどんひどくなるばかりなのです。
どうしてなのだろう。私は思いました。何故、チルノちゃんのことを考えるとこんなに胸が苦しくなるんだろう。何故、無性に泣きたい気持ちになるんだろう。
もしかして、とは思うのです。それ以外に考えられないのではないか、とも思うのです。でも、それは許されてはいけないことだと、そうも思ってしまうのです。
なのに。私は。
あの子の柔らかな髪も、星屑を閉じ込めたようなあの瞳も、すべすべのほっぺたも、桃色の唇も、全部全部自分のものにしてしまいたいと、そう思ってしまうのです。
私はチルノちゃんが好きです。ずっと一緒にいたいと思っています。でも、それは友達としてであって、決して、そういったものではなかったはずなのです。
チルノちゃんはよいお友達で、とても純粋ないい子なんです。いつも元気で、私を姉のように慕ってくれるあの子に、どうしてこんな邪な気持ちを押し付けられるでしょう。もしも私がこんな想いを抱いてるなんて知られたら、きっと、ひどく傷つけてしまうことになるのではないでしょうか。そんなことはしたくありません。
それに彼女の、高原に降り積もった足跡ひとつない新雪のように無垢な心は、何よりも純粋な、水晶細工のように透き通ったあの羽は、私なんかの想いで汚してはいけないのではないかと、そう思うのです。
ああ、でも。あの春の日から未だ収まらない身体の熱は、まるで私を責めるようで。チルノちゃんの顔を思い出すたびに、胸には甘い痛みが走り涙がこぼれてくるのです。
外はあんなにいいお天気なのに。私はひとり暗い部屋でシーツに包まって。
搾り出す吐息は熱く、切なく。それでいて砂糖菓子のように甘く。
――恋をしたんだ。
と、長い時間をかけて、私はようやくそのことを認めたのでした。
またしばらくの時が過ぎまして、つい昨日の話です。私はこの頃になってもまだあまり表に出ず、もっぱら家で過ごす日々を送っていました。辺りが暗くて静かだとついつい考え事をしてしまい眠れないので、夜が明けてからやっと眠りにつくという生活です。カーテンは一日中閉め切りっぱなしで、不健康なことこの上ありません。その日も睡魔が訪れたのは空が白み始めてからで、外ではお陽様が元気に辺りを照らしているというのに、私はといえばすっかりと夢の中に遊んでいたのです。玄関の戸を叩く音で目が覚めたのはちょうどそんなときでした。
「どちらさま?」
寝起きで油断していたのでしょう、寝ぼけた目をこすりつつ扉を開けると、そこにはチルノちゃんが心配そうな顔で立っていました。チルノちゃんはまだ寝巻き姿の私にびっくりしたのか、ちょっとだけ目を見開いて、
「おはよ、大ちゃん。えっと、その、大丈夫?」
「え、あ、うん。大丈夫って、何が?」
「大ちゃん、この頃ちっとも遊んでくれないし。寺子屋にも来ないもんだから何か悪い病気にでもかかっちゃったんじゃないかって思って」
「そんなこと」
そんなことはない、と言おうとして、私はチルノちゃんから視線をそらしました。心配そうなチルノちゃんの顔がまぶしくて、正面から見ることができなかったのです。チルノちゃんと顔をあわせるのは本当に久しぶりで、私は内心で動揺を抑えるのに必死でした。
「うん、そんなこと、ないから。大丈夫だから」
「本当?」
「本当だよ。ちょっと待ってて、すぐ着替えるから」
なおも気遣わしげな目をするチルノちゃんを玄関で待たせて気を落ち着かせると、私は久しぶりに寝巻き以外の服に着替えてチルノちゃんを家の中に通しました。レモンを浮かべた紅茶に蜂蜜を落としたものと、来客用のクッキーなど揃えてテーブルに並べたのですが、チルノちゃんは視線を落としたままあまり手をつけようとしませんでした。
「欲しくないの?」
「……ううん」
チルノちゃんは首を振るとようやく一口、二口、クッキーと紅茶に手をつけましたが、やはりどこか気もそぞろで、どうにもいつもの元気がないように見えました。
「チルノちゃんこそ、大丈夫? どこか悪いの?」
「あたいは大丈夫。だけど……」
チルノちゃんの返答は歯切れが悪く、なかなか会話が進みません。
ひょっとして、何か悪いものでも食べたんじゃないかしら。それともまた誰かとケンカでもしてしまったんじゃないかしら。考え始めると何だか無性に心配になってきました。
しばらくの間、私とチルノちゃんは無言でしたが、やがてチルノちゃんは顔を上げると私の顔色をうかがうように口を開きました。
「ねえ、大ちゃん」
「何?」
「今夜、時間ある? 表、出られる?」
「う、うん。大丈夫、だけど」
「今夜ね、博麗の巫女が神社でお祭りやるっていうの」
「うん」
「でも霊夢のことだし、お客さんなんか全然集まらないかもしれないじゃない。ケチだし。鬼巫女だし」
「そうかなあ」
「そうなの! そうでないとだめなの!」
いきなりの剣幕に私が目をぱちくりさせると、チルノちゃんはバツの悪そうな顔をしつつ息を整えました。
「でね? せっかくお祭り開いたのに誰も来ないなんてかわいそうでしょ?」
「う、うん」
「だからさ、その、もし、もしも大ちゃん暇なら、あたいと一緒にお祭り、いかない?」
「……」
何となく、私はチルノちゃんの言いたいことがわかりました。祭りがどうとかは口実で、きっと、チルノちゃんは私と遊びに出かけたいんだ。だってあれだけいつも仲良くしていて、何をするにも二人一緒だったのです。きっと、チルノちゃんも寂しくなったのでしょう。
だって私がこんなにも寂しく感じているんだから、きっとチルノちゃんもそうなんだ。そうに違いないんだ、と、私は強く思ったのです。
「だめ?」
上目遣いに私の顔を覗き込むチルノちゃんの顔は真剣そのもので、目の端には小さく涙が浮かんでいました。私はそれを見て――自分でもひどい奴だと思うのですが――何かもうとても嬉しくなってしまって、気づけば首を縦に振っていたのです。
チルノちゃんが帰った後、私はしばらく自己嫌悪に浸っていました。本当に、我ながら現金だと思います。あれだけ思い詰めていたというのに、チルノちゃんが私を見てくれていると思うだけで、こんなにも心が浮き立ってしまうのです。そして、一度は諦めた『想いを伝えたい』という気持ちも、胸の底で黒々と煮えたぎる溶岩のように、ふつふつと沸いてくるのです。
いけない、と私は首を振りました。
この想いを伝えてしまったりしたら、きっとチルノちゃんを傷つける。きっと私たちは友達じゃいられなくなる。それは何よりも恐ろしいことなのです。
けれど、こうも思ってしまうのです。
もしも、チルノちゃんが私の気持ちを受け入れてくれたなら。
それは、どんなに素晴らしいことなのでしょう。
私はため息をつきました。
胸の痛みは相変わらず私を苛んで。けれども、何故かこのときは。この痛みを少しだけ甘美なものに感じていたのです。
お陽様が傾きはじめる頃合になって、私とチルノちゃんは博麗神社に出かけました。
意外と、と言っては失礼ですが、お祭りは思ったよりもちゃんとしたものでした。恐らく相当前から準備をしていたのでしょう、神社と人里を結ぶ獣道から参道に至るまで、ずらりと釣り下がった提灯が夕暮れの薄暗い道を橙色に照らし、石造りの階段の回りでは綿飴を手にした子供たちが楽しそうに遊んでいます。境内のほうからは太鼓や笛の音が響き、露店のおいしそうな匂いが風に乗ってこちらにまで流れてきます。人通りは多くにぎやかで、人間と妖怪が互いに襲い襲われることもなく、今夜ばかりはみんな笑顔でお祭りを楽しんでいるのです。
「やるじゃん、霊夢」
「そうだねえ」
私とチルノちゃんはどちらからともなく笑顔になり、手を繋いでゆっくりと境内まで歩いていきました。何となく、空を飛ぶのはもったいないような気がしたのです。
お祭りの神社は、いつものそれとはまるで別世界のようでした。
普段は霊夢さんが一人で掃除している境内に、今は出店がずらりと並び、焼き蕎麦やら綿飴やら焼きもろこしやら、カキ氷にチョコバナナりんご飴などいろんなものが本当においしそうな匂いを立てているのです。見たことのない食べ物もあるのは、きっとあの妖怪の賢者といわれている方が持ち込んできたものなのでしょう。他にも、外の世界から流れてきたと思われるお面やおもちゃなどが売られており、人間や妖怪の子供たちが物珍しそうな顔で眺めています。境内の右手のほうには食事とお酒が楽しめるよう、十人くらいが座れる長椅子と机が何列か置かれてあって、お酒の好きな妖怪や人間たちが早くも酒盛りなんかを始めています。また左手には紅白の布を垂れ下げた櫓が組まれており、頂上に据え付けられた大きな太鼓を半裸になった男の人が叩く度、ドォン、ドォン、と地面まで震わせるような大きな音が辺りに響いてくるのです。
もう神社の境内はまるでごった煮の博覧会のようで、チルノちゃんも私もすっかり興奮してしまって、慧音先生のお手伝いをして貯めたなけなしの小銭を握り締めて出店に駆けていったのです。
日も沈み、空に星が瞬く頃合になると、お祭りは宴会へと様相を変えていきました。私たちはこっそりとお祭りを抜け出して、神社の裏手の、少し開けた場所に涼みに出てきました。昼間の熱気がまだ残る地面に二人並んで腰を下ろし一息つくと、さわやかな夜風が軽く汗ばんだ額を優しく撫でていきます。空には丸い月が出ていて、星を散りばめた夜空はまるでビロウドに砕いた宝石をまぶしたかのようで、私はしばらくそれに見とれていました。
「ねえ、大ちゃん」
私の隣で同じように空を見ていたチルノちゃんが、祭りの余韻に少々弾んだ声で言いました。
「お祭り、楽しいね」
「うん」
私は心からうなずきました。本当に、いつまでもこの時間が続けばいいのに。空には星の海、地面には緑があって、隣には大切な友達がいて。もう世界には私以上に幸せな人なんていないのではないか、私がそんなことを思っていると、
「……来てくれないかと思ってた」
チルノちゃんが、ぽつりと言いました。
「え?」
聞き返す私に、チルノちゃんは火の消えたような、さっきまでの元気さが嘘のような弱々しさで呟きました。
「大ちゃん、あたいのこと嫌いになっちゃったんじゃないかって思ってた」
「そんな」
考えもしていなかった言葉に、私は思わず声を高めました。
「……何で?」
「だって」
チルノちゃんは言います。
「大ちゃん、この頃ちっとも遊んでくれないし。寺子屋にも来ないし。たまに話しかけても、あんまりお返事してくれないし。今日だって、病気にでもなっちゃったんじゃないかって思ったら、元気そうだったし。あたい馬鹿だから、知らないうちに大ちゃんに嫌われるようなことしちゃって、それで大ちゃんはあたいを嫌いになっちゃって、それであんまり構ってくれなくなっちゃったんじゃないかって、そう思ってた」
チルノちゃんの台詞の、後半は涙声でした。
鈍器で頭を殴られたような衝撃に、私は言葉もありませんでした。
「ねえ、大ちゃんあたいのこと嫌いになっちゃった? もう一緒に遊んだりしたくない?」
涙をいっぱいにためた瞳で私を覗き込むチルノちゃんを見て、私はチルノちゃんと初めて出会ったときのことを思い出していました。
この子は、私と知り合うまでずっと一人で過ごしていて。言うなれば私が初めてのお友達で。私を母のように、姉のように慕っていたのもきっとそれが理由で。だから、想像して欲しいのです。ずっと拠り所にしていた人が、突然自分のわからない理由で離れていったとしたら、たとえば――自惚れかもしれませんが――親に突然捨てられた子供が、いったいどんな思いを抱くのか。
私は震えました。私は、チルノちゃんを傷つけまいとして、その実、チルノちゃんがもっとも傷つくことをしていたのではないでしょうか。だとすれば、本当に馬鹿なのは私のほうだったのではないでしょうか。
私には、チルノちゃんが生まれたての雛鳥のように見えました。
「ごめん、ごめんね。チルノちゃん」
気づけば私はチルノちゃんを抱きしめていました。両目からは熱い涙が流れ落ち、私の頬とチルノちゃんの肩を濡らしていきます。
「私、そんなつもりじゃなかったの。寂しい思いさせちゃってごめんね。辛い思いさせちゃってごめんね」
「うん、寂しかった。寂しかったよう、大ちゃん」
星空の下、私とチルノちゃんは抱き合って二人でしばらく泣いたのです。
そのまま、どれくらいの時が過ぎたでしょう。やがて私たちは身体を離すと、どちらからともなく笑顔を浮かべました。
「泣いちゃったねえ」
チルノちゃんが、涙でくしゃくしゃになった顔のまま、照れたように言いました。
「うん、たくさん泣いたねえ」
きっと私も同じ顔をしていたのでしょう。チルノちゃんは、へへ、と笑うと、いつかのときと同じく、甘えるように私の傍に擦り寄ってきました。チルノちゃんからはあの春の日と同じ日向の匂いがします。私はチルノちゃんの肩を抱き、手のひらであやすようにチルノちゃんの腕をポン、ポン、と叩きました。
「ねえ、チルノちゃん」
「なに、大ちゃん」
「私ね、チルノちゃんが大好きだよ。世界で一番、チルノちゃんのことが好き」
「うん、あたいも」
チルノちゃんは本当に嬉しそうに笑って言いました。
「あたいも、大ちゃんのことが世界で一番大好きよ」
「うん」
私はそっと目を閉じました。
あなたと私では少し意味合いが違うかもしれないけれど。
それでも。
それでも、私はこの言葉だけで十分に幸せなのです。
月に手が届かないように、本当の気持ちはあなたに届かないとしても。
もしも許されることならば。
「私たち、ずうっと一緒にいようねえ」
閉じた目の端から零れ落ちそうになる涙をじっと堪え、私は精一杯の微笑みを浮かべてチルノちゃんにもたれかかりました。
少しの間、私たちは無言でした。いつしか祭りも終わっていて、聞こえてくるのは夜風が木の葉を掻き分ける、サア、という音と、鈴を鳴らすような虫の鳴き声だけで。
ふと、チルノちゃんが口を開きました。
「ねえ、大ちゃん」
「なあに?」
チルノちゃんはちょっとためらいながら、りんごのように頬を赤く染めて、私の耳元でささやくようにこう言ったのです。
「お月さんが、きれいだねえ」
すっかりと、全部お話しました。私はもういてもたってもいられなくて、チルノちゃんに何かしてあげられることはないかとそう思い、今日ここまでやってきたのです。お願いします。私に、花を売ってはくれませんか。チルノちゃんによく似合う花を見立ててやってはもらえませんか。
……ああ、はい。仰るとおりです。私が自分で選ばないと意味がないですよね。すみません。動転してしまって。では、その花を一輪、いただけますか。はい、その向日葵の花です。実はこのお店に入ったときから、ずっと気になっていたのです。チルノちゃんの笑顔は向日葵の花のようで、見ていると、とても心が温かくなるのです。おかしいですよね。チルノちゃんは氷の妖精だっていうのに。でも、私はそんなチルノちゃんの笑顔が、世界で一番大好きなのです。
では、こちら、お代になります。ありがとうございます。向日葵、確かに受け取りました。親切にしていただいて、本当にありがとうございます。
……え? よろしいのですか。ええ、はい。きっと、きっとまた寄らせていただきます。今度はチルノちゃんも一緒に。そのときは、きっと二人で花を買わせていただきます。では、お世話様でした。失礼します。
* * *
扉が閉まる。
灯りが消える。
扉が開く。
* * *
もうし、もし。ごめんください。夜遅くにすみません。ああ、構えないでください。悪戯をしに来たわけじゃないのです。花を。ええ、花を買いに来たのです。はい、お金も、ちゃんとこの通り持ってきています。怪しいお金じゃありません。寺子屋の慧音先生のところでお手伝いをして、駄賃としていただいたお金です。これで、花を買わせて欲しいのです。遅いところをすみません。昼間に来ればよかったのでしょうが、これ、この通り私は妖精ですから、きっと他のお客さんたちも何事かと構えてしまうでしょう。何か悪戯をするかもしれないと思われて、叩き出されてしまうかもしれません。ですから、申し訳ないとは思ったのですが、こんな夜分にお邪魔させてもらったのです。
はい、花です。とびきりきれいな花を一輪、お願いしたいのです。好きな人がいるのです。その子に、渡したいのです。野原に咲いている花もいいのですが、やっぱり、ちゃんとしたお店で育てた、とびきりのきれいな花を渡してあげたいのです。
でも、その、変なことを言うようですが、実は花を渡したい相手というのは男の子ではないのです。はい、私は、女の子に恋をしてしまったんです。本当のことを話そうかどうかここに来るまでずいぶんと悩みましたが、せっかく花を見立てていただくからには、やっぱり本当のことをお話しして、その上で花を選んでいただいたほうがよいのではないか、と思ったのです。
やっぱり、おかしいでしょうか。おかしいですよね。女の子が同じ女の子を好きになってしまうなんて、どうかしちゃったんじゃあないかと思っても無理はありませんよね。ああ、私は何を言っているんだろう。すみません。こんな夜遅くに、無理なお願いをしてしまって。もう、帰ります。いえ、そんな、そこまでお構いいただくわけには。……はい、はい。……わかりました。長くなりますが、お時間は大丈夫でしょうか。いえ、私も誰かに聞いて欲しいとは思っていましたので、すっかりと全部お話します。
妖怪の山の麓に、霧の湖という、その名の通り昼間になるとすっぽりと霧に包まれてしまう湖があるのはご存知でしょうか。湖畔にはあの悪名高い紅魔館が建っていまして、今から話すのはその紅魔館から紅い霧が吹き出す異変が起きた、ちょうどその頃のお話です。
私は以前からずっとその霧の湖に住んでいまして、他の妖精のお友達とおしゃべりをしたり、たまに湖を訪れる釣り人たちに軽い悪戯を仕掛けたりして暮らしていました。その日は特に紅い霧が濃い日で、霧に含まれる魔力に中てられて、普段より気が大きくなっていたんでしょう、湖の上を飛んでいく巫女に弾幕勝負を挑んでしまったのです。
はい、あの有名な博麗神社の巫女です。普段なら絶対にそんなことはしないのですが、妖精というのは魔力が多い場にいると、やたらと好戦的になってしまうものなのです。
当然の結果というか、私は手もなくやられてしまって、湖のほとりまで命からがら逃げ出しました。岸辺にたどり着いて草っ原の上に座り込み、息が整う頃には私はすっかりと正気に戻っていて、何て馬鹿なことをしたんだろう、ボロボロになった服をどうやって繕えばいいだろう、なんてことを考えていました。お気に入りの、水色のスカートの端のところに空いた大きな穴を見ていると、何だか無性にみじめな気分になってきて、涙がぽろぽろと溢れてきました。ああ、本当に、本当に馬鹿なことをした、と、それはそれは深く後悔したのです。
そのときでした。不意に湖の上空が、ピカッ、と光ったのです。私は驚いてそちらの方を見ました。するとまた、ピカッ、と。紅い霧に包まれた薄暗い空を裂くようにして、色とりどりの弾幕が、まるで真夏の夜空に咲く花火のように飛び交っているのです。
私は息を飲みました。きっとさっきの巫女に違いない、とは思ったのですが、それでは彼女はいったい誰と戦っているんでしょう。こう見えても、私は霧の湖周辺の妖精たちの中ではかなりの実力者なのです。その私がなす術なくやられたあの巫女相手に、誰がああまで戦うことができるんだろう。そんなに名の知れた妖怪や妖精がこの辺りにいただろうか。私はそう思い、はっ、と思い出しました。
『いばりんぼう』のチルノちゃん。霧の湖に住んでいる氷の妖精です。それまで彼女のことを思い出さなかったのは、私は一度も彼女と話したことがなかったからです。いつも自分は強いと自慢ばかりしていて、同じ妖精仲間からも嫌われている彼女。かくいう私も彼女は苦手で、寂しそうだな、と思うことはあっても、自分から話しかけることはありませんでした。けれども、彼女の戦いを見て私は思ったのです。何てきれいな弾幕なんだろう。幾十、幾百の御札が空を舞い、同じだけの数の氷の弾が共に光の尾を引いてぶつかり合います。札が、氷が弾けるたびに七色にきらめく魔力の残滓が、燃え尽きる直前の花火のように一際大きく輝いて、かき消すように宙に消えていきます。もしもこれが霧の中でなかったならば、その光景はより鮮烈に、それこそ芸術というべき素晴らしさで空に描き出されていたことでしょう。
気づけば私は口を半開きにして、二人の戦いに見とれていました。
自分のスペルカードを持っている妖精というのはあまり多くありません。かくいう私も持ってはいないのです。妖精でスペルカードを持っているのは、光の三妖精と、後はあのチルノちゃんくらいしかいないのではないでしょうか。意味を込めた自分だけの弾幕。私にとってスペルカードというのは一種の憧れで、チルノちゃんの操るそれに私はすっかりと目を奪われてしまったのです。
でも、やはり相手は博麗の巫女。決着はすぐにつきました。一際大きな光の花が空に咲き、チルノちゃんの小さな身体が湖に落ちるのが見えたのです。私は、あっ、と声を上げ、思わず飛び出しました。助けよう、とか、声をかけて慰めてあげよう、とか、その辺りはよく覚えていません。とにもかくにも彼女の側に寄ってあげなくちゃいけないと、そう思ったのです。
チルノちゃんはすぐに見つかりました。湖の上に、それほど大きくはない氷の浮島のようなものができていて、その上でチルノちゃんは仰向けに、大の字になって倒れていました。私は彼女に近寄りました。
「なによ」
と、チルノちゃんは言いました。
「あんたも、あたいを馬鹿にしに来たの?」
私はあわてて首を横に振りました。あの巫女にやられたのは私も同じですし、あんなきれいな弾幕を見せられた私にとっては賞賛こそすれ、馬鹿にするなんてとんでもない話だったからです。
「じゃあ、なに」
「えっと、あの、大丈夫?」
我ながら、間の抜けた返答だったと思います。あのときの私はとにかく頭の中から考えというものがきれいさっぱりに抜け落ちていて、チルノちゃんにかける言葉の一つも考えてなかったんですから。
向こうも同じことを思ったのか、チルノちゃんは胡散臭げに鼻を鳴らすと身体を起こし、ここで初めて私に向き直りました。
「大丈夫なんて、当たり前じゃない。……って、あんたも怪我してるけど」
「ああ、うん」
「あんたもあの紅白にやられたの? ダメよ、あんたたちふつーの妖精はあたいとは違うんだから」
「うん」
「いくらあの赤い屋敷から魔力が駄々漏れてるからってね、あんまり調子に乗ったら痛い目にあうんだからね」
「うん」
「何よ、さっきから、うん、うん、って。おトイレでも行きたいの?」
確か、こんなようなことを言っていたと思います。記憶があまり確かではないのは、チルノちゃんの言葉が、私の耳にはほとんど届いていなかったからです。
そのとき私の目と心は、チルノちゃんの背中の羽に釘付けになっていました。
妖精というのはそれぞれが自分の羽を持っていて、個体ごとに形も多少違うのですが、チルノちゃんの羽はそれを差し引いても物凄く風変わりなものでした。三対六枚の、どこまでも透き通った氷の羽です。かすかに青みを帯びたそれは一点の曇りもなく、腕のよい宝石職人が選び出して磨きぬいた価値ある水晶細工のような、あるいは厳冬に凍てついた湖の、氷の下で静謐を保つ湖水のような、そんな美しさを持っていました。
「チルノちゃんの羽、きれいだねえ」
気づけば、私はそう口に出していました。
「へ?」
「さっきの弾幕もそうだけど、チルノちゃんってすごいんだねえ」
チルノちゃんはあわてたようでした。
「な、なによ急に。そ、そーよ! あたいったら最強なんだから!」
「うん。本当にそうだねえ」
チルノちゃんは気恥ずかしくなったのか、心なしか頬を赤くして、プイッ、と横を向きました。その仕草は本当にかわいらしくて、私は思わず、くすり、と笑ったのでした。
チルノちゃんはその境遇からか、最初は私のことを警戒していたようでしたけれど、時が経つにつれてだんだんと打ち解けて、よく一緒に遊ぶようになりました。チルノちゃんは少しお馬鹿で、何事につけても無鉄砲で、いろいろとハラハラさせられることも多いのですが、臆病で引っ込み思案な私とは不思議と馬が合って、それこそ本当の姉妹のように仲良しになったのです。
たとえば、こんなこともありました。チルノちゃんと遊ぶようになってから、少し経った頃のことです。チルノちゃんは博麗の巫女――霊夢さんにこっぴどくやられてからも、折を見ては弾幕勝負を挑んでいまして、その日も霊夢さんに勝負を仕掛けて、ぼろぼろに負けてしまったようでした。
「危ないことはやめてって言ってるのに」
勝負に負けて湖に落ちたらしく、びしょびしょになったチルノちゃんをとにかく家に迎え入れて、私は口を尖らせました。もうちょっとお小言をいいたくはあったのですが、まったく悪びれずに照れ笑いなんか浮かべるチルノちゃんを見たら、そんな気も失せてきます。
とにかくチルノちゃんの濡れた服を脱がせて、毛布を貸してあげて――ああ、チルノちゃんは氷の妖精なので寒いのは全然平気なのですが、だからといって裸のままでいさせるのはちょっとひどいですから――とにかく毛布を貸してあげて、チルノちゃんに作ってあげるレモネードはやっぱりアイスがいいのか、それともホットのほうがいいのか、その辺りをちょっと考え込んでいたところ、
「ねえ、大ちゃん」
と、チルノちゃんが声をかけてきたのです。ああ、『大ちゃん』とは私のことです。チルノちゃんは、私のことを『大ちゃん』と呼びます。先に出会ったときにきちんと本名を伝えたのですが「大妖精だから大ちゃん」という具合に押し切られてしまって、それ以来私はずっと『大ちゃん』です。
「なあに?」
「大ちゃんって、お母さんみたいね」
「私、そんなに年上じゃないよ?」
「うん、そうだけど」
チルノちゃんは、毛布にすっぽり包まったまま私の傍に擦り寄り、にへらー、と本当に幸せそうに笑って言うのです。
「だって、お母さんの匂いがする」
「せめて、お姉ちゃんって言ってほしいなあ」
「じゃあお姉ちゃんでもいいや。大ちゃんはあたいのお姉ちゃんね」
「もう、適当なことばかり言わないの。ほら。髪の毛まだ濡れてる。ちゃんと拭かないと風邪引いちゃうし、変な臭いだってするんだからね」
「いーよう。あたい、風邪なんか引かないもん」
「だーめ。女の子なんだからちゃんとしないと。ほら、こっち向いて」
といった具合で、本当に、何で今まできちんと話したことがなかったのか不思議なくらいに純粋でいい子なのです。みんながチルノちゃんを仲間はずれにしてるのも、きっと以前の私みたいに誤解しているからに違いありません。こんないい子にお友達がいないなんて、そんなのは間違っています。
私はチルノちゃんを人里の、慧音先生の寺子屋に連れて行くことに決めました。ご存知かもしれませんが、慧音先生は時折、妖精や妖怪の子を対象に夜間教室を開いてくれています。言っては何ですが、チルノちゃんはあんまり頭がよくありませんし、湖の妖精たちの間でも評判がよくありません。チルノちゃんは根がいい子なのですから、きちんとした場所で常識とか礼儀とかそういうものを教えてもらえれば、きっと他の妖精たちとも仲良くなれるはずなんです。
お勉強は好きじゃないのか、あまり乗り気ではないチルノちゃんを何とか説得して慧音先生にお願いに行くと、先生は快く承諾してくれました。夜間教室には何人かの妖怪の生徒さんたちがいて、チルノちゃんは持ち前の明るさと愛嬌ですぐにみんなと打ち解けたのです。
ただ、チルノちゃんにお友達が増えたのはいいのですが、それはそれで何となく寂しいような気もして、出来る限りチルノちゃんと一緒にいるようにしていたら、そのことでお友達にからかわれてしまった、なんてこともありました。
そのときはチルノちゃんがからかった相手に食って掛かってケンカになってしまいまして、騒ぎを聞きつけた慧音先生が割って入って事は収まったのですが、何というか、胸にもやもやっとしたものが残った出来事でした。今から思えば……いいえ、言っても、仕方がないことなのかもしれません。
ともかく、チルノちゃんと一緒の日々は、おおむねこのようにして過ぎていったのです。
とある春の日のことでした。私は木陰で眠るチルノちゃんの頭を膝の上に乗せて、彼女の空と同じ色の柔らかな髪を、何となく指で梳いていました。陽射しは心地よく、風は穏やかで、うたた寝にはもってこいのお天気でした。あんまり気持ちのよい陽気だったものですから、私もついついぼーっとしてしまって、あるいは魔が差した、というものなのかもしれません。眠っているチルノちゃんがあんまり無防備なものだったものですから、ちょっと悪戯してみたくなったのです。
私はチルノちゃんの頬にそっと指を伸ばし、軽く突っついてみました。チルノちゃんの頬はすべすべとしていて、まるで赤ん坊の肌のように触り心地がいいのです。チルノちゃんはちょっとむずがゆそうな素振りを見せましたが、目を覚ます気配はなかったので私は少し調子に乗り、そのままチルノちゃんの顔を指でなぞりました。軽く汗ばんだ額。まだ幼い鼻梁。これも、ぽかぽかと暖かな陽気のせいなのでしょうか、チルノちゃんの顔を見ているうちに、私の頭はお酒にでも酔ったかのようにぼうっと痺れてきました。
空にはお陽様がなおも暖かく、柔らかな風に芝生の緑がそっと揺れ、木漏れ日の下で私とチルノちゃんは二人きり。音は遥か時の彼方で、私たちを包み込むのは春のぬくもりと、柔らかな静寂だけ。まるで夢の世界にでも迷い込んでしまったような、そんな気分になってきたのです。
私はそっと息を吐きました。無防備なチルノちゃん。安心しきって、私の膝の上でゆっくりと寝息を立てる彼女の、軽く開いた唇に、私はそっと指で触れ――チルノちゃんは眠ったままでしたから、恐らく反射的なものだったのでしょう。まるで赤ちゃんがそうするように、チルノちゃんは私の指先をその小さな唇でそっと咥えたのです。
温かな、柔らかく濡れたものが指先を包み込む感触に、私は「あ」と小さく声を上げました。胸が、ぎゅうっと締め付けられる感触がしました。背筋を何かが駆け上り、お腹の底の辺りがぐるりと回転するような、妙なむずがゆさに私は思わず身体を震わせました。目の前で無防備に眠っているこの子を、何かめちゃくちゃにしてやりたいような、そんな衝動を覚えたのです。
私は、もう自分がわかりませんでした。全ては午後の陽射しが見せる白昼夢のようで、何もかもに現実感というものが感じられませんでした。視界に映るのは膝の上で眠るチルノちゃんだけで、それ以外は全てが白い靄の中に溶け、世界には私とチルノちゃんのほかには何もないような、そんな錯覚を覚えたのです。私は震えそうになる指をゆっくりと引き戻すと、熱に浮かされたような心地で、さっきまで私の指を咥えていた唇を見つめました。どくん、どくん、と心臓が鳴っています。何かを求めるように軽く開かれた唇を見ていると、何かたまらない気持ちになって、私は小さく喉を鳴らしました。押し殺すように息を吐き、私は吸い寄せられるようにゆっくりと自分の顔をチルノちゃんの顔に近づけて、
チルノちゃんが身じろぎしたのはそのときでした。
急速に世界に色が戻り、途切れていた音が耳に飛び込みました。悪い夢から無理やりに引き戻されたような感覚に私は身体をのけぞらせ、勢いあまって背もたれにしていた樹の幹に、後頭部を思いっきりぶつけてしまいました。
「……大ちゃん、どうしたの?」
私の上げた悲鳴で目が覚めたのか、寝ぼけた声でそう問いかけるチルノちゃんに、私はぶつけた頭を押さえながら「何でもない」と返しました。
本当のことなんか、言えるわけがありません。
私は「用事を思い出した」と物凄く下手な嘘をつくと、逃げるように自分の家に飛び帰り、扉に鍵をかけてベッドのシーツに潜り込みました。自分で自分の身体を抱いて大きくひとつ身震いすると、頭の中に先ほどの光景が浮かんできます。眠るチルノちゃんの顔。柔らかな頬。私の指先を包み込む、温かく濡れたあの感触。間近で感じた、チルノちゃんの氷の妖精らしからぬ日向の匂い。胸の高鳴りは天井知らずで、顔が熱くて、身体が熱くて、あまりの熱さに私は思わずため息を漏らしました。
ああ、私は何をしようとしていたのでしょうか。私は女の子で、チルノちゃんも女の子です。いくら仲がいいといってもあんなことをしようとするなんて、私はどうかしてしまったのでしょうか。
あれは夢だ。シーツに包まりながら私は強く思いました。チルノちゃんは大切なお友達なのです。あれは春の日差しが束の間見せた悪い夢で、決して自分の本心ではないと、そう自分に言い聞かせたのです。
ですがそれ以来、私はチルノちゃんとまともに接することができなくなってしまいました。一緒に遊んでいても、チルノちゃんが傍に来るたびにあの日の出来事を思い出してしまって、チルノちゃんの顔をまともに見られなくなってしまうのです。話しかけられても出てくる言葉は心とは裏腹に「ああ」とか「うん」とか、そんな生返事だけで、伝えたいことの半分も口にできません。
自然、私たちの距離は離れ、以前はあれだけ一緒に遊んでいたのに、一度も顔をあわせない日が何日も続くようになりました。私はもうすっかり元気をなくしてしまって、家の中に閉じこもりがちになりました。けれど一人でいても気が安らぐなんていうことはなく、それどころか寂しさと悲しさで胸の痛みがどんどんひどくなるばかりなのです。
どうしてなのだろう。私は思いました。何故、チルノちゃんのことを考えるとこんなに胸が苦しくなるんだろう。何故、無性に泣きたい気持ちになるんだろう。
もしかして、とは思うのです。それ以外に考えられないのではないか、とも思うのです。でも、それは許されてはいけないことだと、そうも思ってしまうのです。
なのに。私は。
あの子の柔らかな髪も、星屑を閉じ込めたようなあの瞳も、すべすべのほっぺたも、桃色の唇も、全部全部自分のものにしてしまいたいと、そう思ってしまうのです。
私はチルノちゃんが好きです。ずっと一緒にいたいと思っています。でも、それは友達としてであって、決して、そういったものではなかったはずなのです。
チルノちゃんはよいお友達で、とても純粋ないい子なんです。いつも元気で、私を姉のように慕ってくれるあの子に、どうしてこんな邪な気持ちを押し付けられるでしょう。もしも私がこんな想いを抱いてるなんて知られたら、きっと、ひどく傷つけてしまうことになるのではないでしょうか。そんなことはしたくありません。
それに彼女の、高原に降り積もった足跡ひとつない新雪のように無垢な心は、何よりも純粋な、水晶細工のように透き通ったあの羽は、私なんかの想いで汚してはいけないのではないかと、そう思うのです。
ああ、でも。あの春の日から未だ収まらない身体の熱は、まるで私を責めるようで。チルノちゃんの顔を思い出すたびに、胸には甘い痛みが走り涙がこぼれてくるのです。
外はあんなにいいお天気なのに。私はひとり暗い部屋でシーツに包まって。
搾り出す吐息は熱く、切なく。それでいて砂糖菓子のように甘く。
――恋をしたんだ。
と、長い時間をかけて、私はようやくそのことを認めたのでした。
またしばらくの時が過ぎまして、つい昨日の話です。私はこの頃になってもまだあまり表に出ず、もっぱら家で過ごす日々を送っていました。辺りが暗くて静かだとついつい考え事をしてしまい眠れないので、夜が明けてからやっと眠りにつくという生活です。カーテンは一日中閉め切りっぱなしで、不健康なことこの上ありません。その日も睡魔が訪れたのは空が白み始めてからで、外ではお陽様が元気に辺りを照らしているというのに、私はといえばすっかりと夢の中に遊んでいたのです。玄関の戸を叩く音で目が覚めたのはちょうどそんなときでした。
「どちらさま?」
寝起きで油断していたのでしょう、寝ぼけた目をこすりつつ扉を開けると、そこにはチルノちゃんが心配そうな顔で立っていました。チルノちゃんはまだ寝巻き姿の私にびっくりしたのか、ちょっとだけ目を見開いて、
「おはよ、大ちゃん。えっと、その、大丈夫?」
「え、あ、うん。大丈夫って、何が?」
「大ちゃん、この頃ちっとも遊んでくれないし。寺子屋にも来ないもんだから何か悪い病気にでもかかっちゃったんじゃないかって思って」
「そんなこと」
そんなことはない、と言おうとして、私はチルノちゃんから視線をそらしました。心配そうなチルノちゃんの顔がまぶしくて、正面から見ることができなかったのです。チルノちゃんと顔をあわせるのは本当に久しぶりで、私は内心で動揺を抑えるのに必死でした。
「うん、そんなこと、ないから。大丈夫だから」
「本当?」
「本当だよ。ちょっと待ってて、すぐ着替えるから」
なおも気遣わしげな目をするチルノちゃんを玄関で待たせて気を落ち着かせると、私は久しぶりに寝巻き以外の服に着替えてチルノちゃんを家の中に通しました。レモンを浮かべた紅茶に蜂蜜を落としたものと、来客用のクッキーなど揃えてテーブルに並べたのですが、チルノちゃんは視線を落としたままあまり手をつけようとしませんでした。
「欲しくないの?」
「……ううん」
チルノちゃんは首を振るとようやく一口、二口、クッキーと紅茶に手をつけましたが、やはりどこか気もそぞろで、どうにもいつもの元気がないように見えました。
「チルノちゃんこそ、大丈夫? どこか悪いの?」
「あたいは大丈夫。だけど……」
チルノちゃんの返答は歯切れが悪く、なかなか会話が進みません。
ひょっとして、何か悪いものでも食べたんじゃないかしら。それともまた誰かとケンカでもしてしまったんじゃないかしら。考え始めると何だか無性に心配になってきました。
しばらくの間、私とチルノちゃんは無言でしたが、やがてチルノちゃんは顔を上げると私の顔色をうかがうように口を開きました。
「ねえ、大ちゃん」
「何?」
「今夜、時間ある? 表、出られる?」
「う、うん。大丈夫、だけど」
「今夜ね、博麗の巫女が神社でお祭りやるっていうの」
「うん」
「でも霊夢のことだし、お客さんなんか全然集まらないかもしれないじゃない。ケチだし。鬼巫女だし」
「そうかなあ」
「そうなの! そうでないとだめなの!」
いきなりの剣幕に私が目をぱちくりさせると、チルノちゃんはバツの悪そうな顔をしつつ息を整えました。
「でね? せっかくお祭り開いたのに誰も来ないなんてかわいそうでしょ?」
「う、うん」
「だからさ、その、もし、もしも大ちゃん暇なら、あたいと一緒にお祭り、いかない?」
「……」
何となく、私はチルノちゃんの言いたいことがわかりました。祭りがどうとかは口実で、きっと、チルノちゃんは私と遊びに出かけたいんだ。だってあれだけいつも仲良くしていて、何をするにも二人一緒だったのです。きっと、チルノちゃんも寂しくなったのでしょう。
だって私がこんなにも寂しく感じているんだから、きっとチルノちゃんもそうなんだ。そうに違いないんだ、と、私は強く思ったのです。
「だめ?」
上目遣いに私の顔を覗き込むチルノちゃんの顔は真剣そのもので、目の端には小さく涙が浮かんでいました。私はそれを見て――自分でもひどい奴だと思うのですが――何かもうとても嬉しくなってしまって、気づけば首を縦に振っていたのです。
チルノちゃんが帰った後、私はしばらく自己嫌悪に浸っていました。本当に、我ながら現金だと思います。あれだけ思い詰めていたというのに、チルノちゃんが私を見てくれていると思うだけで、こんなにも心が浮き立ってしまうのです。そして、一度は諦めた『想いを伝えたい』という気持ちも、胸の底で黒々と煮えたぎる溶岩のように、ふつふつと沸いてくるのです。
いけない、と私は首を振りました。
この想いを伝えてしまったりしたら、きっとチルノちゃんを傷つける。きっと私たちは友達じゃいられなくなる。それは何よりも恐ろしいことなのです。
けれど、こうも思ってしまうのです。
もしも、チルノちゃんが私の気持ちを受け入れてくれたなら。
それは、どんなに素晴らしいことなのでしょう。
私はため息をつきました。
胸の痛みは相変わらず私を苛んで。けれども、何故かこのときは。この痛みを少しだけ甘美なものに感じていたのです。
お陽様が傾きはじめる頃合になって、私とチルノちゃんは博麗神社に出かけました。
意外と、と言っては失礼ですが、お祭りは思ったよりもちゃんとしたものでした。恐らく相当前から準備をしていたのでしょう、神社と人里を結ぶ獣道から参道に至るまで、ずらりと釣り下がった提灯が夕暮れの薄暗い道を橙色に照らし、石造りの階段の回りでは綿飴を手にした子供たちが楽しそうに遊んでいます。境内のほうからは太鼓や笛の音が響き、露店のおいしそうな匂いが風に乗ってこちらにまで流れてきます。人通りは多くにぎやかで、人間と妖怪が互いに襲い襲われることもなく、今夜ばかりはみんな笑顔でお祭りを楽しんでいるのです。
「やるじゃん、霊夢」
「そうだねえ」
私とチルノちゃんはどちらからともなく笑顔になり、手を繋いでゆっくりと境内まで歩いていきました。何となく、空を飛ぶのはもったいないような気がしたのです。
お祭りの神社は、いつものそれとはまるで別世界のようでした。
普段は霊夢さんが一人で掃除している境内に、今は出店がずらりと並び、焼き蕎麦やら綿飴やら焼きもろこしやら、カキ氷にチョコバナナりんご飴などいろんなものが本当においしそうな匂いを立てているのです。見たことのない食べ物もあるのは、きっとあの妖怪の賢者といわれている方が持ち込んできたものなのでしょう。他にも、外の世界から流れてきたと思われるお面やおもちゃなどが売られており、人間や妖怪の子供たちが物珍しそうな顔で眺めています。境内の右手のほうには食事とお酒が楽しめるよう、十人くらいが座れる長椅子と机が何列か置かれてあって、お酒の好きな妖怪や人間たちが早くも酒盛りなんかを始めています。また左手には紅白の布を垂れ下げた櫓が組まれており、頂上に据え付けられた大きな太鼓を半裸になった男の人が叩く度、ドォン、ドォン、と地面まで震わせるような大きな音が辺りに響いてくるのです。
もう神社の境内はまるでごった煮の博覧会のようで、チルノちゃんも私もすっかり興奮してしまって、慧音先生のお手伝いをして貯めたなけなしの小銭を握り締めて出店に駆けていったのです。
日も沈み、空に星が瞬く頃合になると、お祭りは宴会へと様相を変えていきました。私たちはこっそりとお祭りを抜け出して、神社の裏手の、少し開けた場所に涼みに出てきました。昼間の熱気がまだ残る地面に二人並んで腰を下ろし一息つくと、さわやかな夜風が軽く汗ばんだ額を優しく撫でていきます。空には丸い月が出ていて、星を散りばめた夜空はまるでビロウドに砕いた宝石をまぶしたかのようで、私はしばらくそれに見とれていました。
「ねえ、大ちゃん」
私の隣で同じように空を見ていたチルノちゃんが、祭りの余韻に少々弾んだ声で言いました。
「お祭り、楽しいね」
「うん」
私は心からうなずきました。本当に、いつまでもこの時間が続けばいいのに。空には星の海、地面には緑があって、隣には大切な友達がいて。もう世界には私以上に幸せな人なんていないのではないか、私がそんなことを思っていると、
「……来てくれないかと思ってた」
チルノちゃんが、ぽつりと言いました。
「え?」
聞き返す私に、チルノちゃんは火の消えたような、さっきまでの元気さが嘘のような弱々しさで呟きました。
「大ちゃん、あたいのこと嫌いになっちゃったんじゃないかって思ってた」
「そんな」
考えもしていなかった言葉に、私は思わず声を高めました。
「……何で?」
「だって」
チルノちゃんは言います。
「大ちゃん、この頃ちっとも遊んでくれないし。寺子屋にも来ないし。たまに話しかけても、あんまりお返事してくれないし。今日だって、病気にでもなっちゃったんじゃないかって思ったら、元気そうだったし。あたい馬鹿だから、知らないうちに大ちゃんに嫌われるようなことしちゃって、それで大ちゃんはあたいを嫌いになっちゃって、それであんまり構ってくれなくなっちゃったんじゃないかって、そう思ってた」
チルノちゃんの台詞の、後半は涙声でした。
鈍器で頭を殴られたような衝撃に、私は言葉もありませんでした。
「ねえ、大ちゃんあたいのこと嫌いになっちゃった? もう一緒に遊んだりしたくない?」
涙をいっぱいにためた瞳で私を覗き込むチルノちゃんを見て、私はチルノちゃんと初めて出会ったときのことを思い出していました。
この子は、私と知り合うまでずっと一人で過ごしていて。言うなれば私が初めてのお友達で。私を母のように、姉のように慕っていたのもきっとそれが理由で。だから、想像して欲しいのです。ずっと拠り所にしていた人が、突然自分のわからない理由で離れていったとしたら、たとえば――自惚れかもしれませんが――親に突然捨てられた子供が、いったいどんな思いを抱くのか。
私は震えました。私は、チルノちゃんを傷つけまいとして、その実、チルノちゃんがもっとも傷つくことをしていたのではないでしょうか。だとすれば、本当に馬鹿なのは私のほうだったのではないでしょうか。
私には、チルノちゃんが生まれたての雛鳥のように見えました。
「ごめん、ごめんね。チルノちゃん」
気づけば私はチルノちゃんを抱きしめていました。両目からは熱い涙が流れ落ち、私の頬とチルノちゃんの肩を濡らしていきます。
「私、そんなつもりじゃなかったの。寂しい思いさせちゃってごめんね。辛い思いさせちゃってごめんね」
「うん、寂しかった。寂しかったよう、大ちゃん」
星空の下、私とチルノちゃんは抱き合って二人でしばらく泣いたのです。
そのまま、どれくらいの時が過ぎたでしょう。やがて私たちは身体を離すと、どちらからともなく笑顔を浮かべました。
「泣いちゃったねえ」
チルノちゃんが、涙でくしゃくしゃになった顔のまま、照れたように言いました。
「うん、たくさん泣いたねえ」
きっと私も同じ顔をしていたのでしょう。チルノちゃんは、へへ、と笑うと、いつかのときと同じく、甘えるように私の傍に擦り寄ってきました。チルノちゃんからはあの春の日と同じ日向の匂いがします。私はチルノちゃんの肩を抱き、手のひらであやすようにチルノちゃんの腕をポン、ポン、と叩きました。
「ねえ、チルノちゃん」
「なに、大ちゃん」
「私ね、チルノちゃんが大好きだよ。世界で一番、チルノちゃんのことが好き」
「うん、あたいも」
チルノちゃんは本当に嬉しそうに笑って言いました。
「あたいも、大ちゃんのことが世界で一番大好きよ」
「うん」
私はそっと目を閉じました。
あなたと私では少し意味合いが違うかもしれないけれど。
それでも。
それでも、私はこの言葉だけで十分に幸せなのです。
月に手が届かないように、本当の気持ちはあなたに届かないとしても。
もしも許されることならば。
「私たち、ずうっと一緒にいようねえ」
閉じた目の端から零れ落ちそうになる涙をじっと堪え、私は精一杯の微笑みを浮かべてチルノちゃんにもたれかかりました。
少しの間、私たちは無言でした。いつしか祭りも終わっていて、聞こえてくるのは夜風が木の葉を掻き分ける、サア、という音と、鈴を鳴らすような虫の鳴き声だけで。
ふと、チルノちゃんが口を開きました。
「ねえ、大ちゃん」
「なあに?」
チルノちゃんはちょっとためらいながら、りんごのように頬を赤く染めて、私の耳元でささやくようにこう言ったのです。
「お月さんが、きれいだねえ」
すっかりと、全部お話しました。私はもういてもたってもいられなくて、チルノちゃんに何かしてあげられることはないかとそう思い、今日ここまでやってきたのです。お願いします。私に、花を売ってはくれませんか。チルノちゃんによく似合う花を見立ててやってはもらえませんか。
……ああ、はい。仰るとおりです。私が自分で選ばないと意味がないですよね。すみません。動転してしまって。では、その花を一輪、いただけますか。はい、その向日葵の花です。実はこのお店に入ったときから、ずっと気になっていたのです。チルノちゃんの笑顔は向日葵の花のようで、見ていると、とても心が温かくなるのです。おかしいですよね。チルノちゃんは氷の妖精だっていうのに。でも、私はそんなチルノちゃんの笑顔が、世界で一番大好きなのです。
では、こちら、お代になります。ありがとうございます。向日葵、確かに受け取りました。親切にしていただいて、本当にありがとうございます。
……え? よろしいのですか。ええ、はい。きっと、きっとまた寄らせていただきます。今度はチルノちゃんも一緒に。そのときは、きっと二人で花を買わせていただきます。では、お世話様でした。失礼します。
* * *
扉が閉まる。
灯りが消える。
でも妖精に人間の男女感や社会倫理感って共感できるものなのかな?
それに人間でも、大正以前の時代背景の幻想郷だと、同性愛は結構一般的かも。
一夫一妻制度や同性愛への忌避感って大正に入ってより西洋化進んでからだし。
>「私たち、ずうっと一緒にいようねえ」
この台詞だけでなんつーか満足しちまいました
心が貧しくなっちまってすぐ腹一杯になっちまうんですかねぇ
大チルが俺のアイシクルフォール
ストーリーも大ちゃんの自分でも感情がコントロールできてない感じがよく表現できていたと思う
ただお母さんとかお姉ちゃんという家族関係の感情は自然から生まれる妖精に存在するのかなーと気になった
そこまで気にするものでもないが気にする人には違和感を覚えるところだと思う
テンポもよく全体的に纏められていいお話でした+114514点
チルノちゃんと大ちゃんの花が欲しい(意味深
心がきゅっと切なくなる魅力的で良い作品に出会えたことに感謝します。
その効果か内容もスラスラ頭に入り、情景も浮かべやすく、まさに"上品な百合"といった感じ。
上品で口当たりの良い、SSとしての完成度の高さに感服。
ただ少女の百合ものとしては凄く良い出来だと思うけど、
妖精のお話としてどうなのかなと引っかかりがありました。
妖精らしさが欲しかったなあと思います。
大ちゃんの、恋に浮かれ、悩んでいる気持ちが良く伝わってきました。
チルノも大妖精も同じ妖精なのに、チルノの方からアプローチってのは中々考えにくいのは何故でしょうね。
寺子屋の描写からチルノは習ったそのフレーズを言ってみたんだと思う。
それでも大ちゃんのそれとはまだ少し隔たりがあるように思うけども。
お二人が幸せでありますように。
乙女なチルノもかわいいよ!
言葉は慧音先生に教えてもらったと予想