いつだって、星空は近くにある。
それがスターサファイアの常識である。
昼間でも雨の日でも建物の中からでも。目には見えなくとも星は確かにそこにある。
もちろん、それは星の光の妖精、スターサファイアだからこその感覚である。彼女と同じ光の妖精仲間、サニーミルクやルナチャイルドとですら共有できない世界。
スターサファイアだけの世界だ。
「うーん、ないわねえ」
サニーがスターの背中の方でぼやいた。
「そっちはどう?」
「ダメね、ぜんぜん。ビー玉一つ見つかんないわ」
応えるルナの声には疲れが混じる。いかにもうんざりしたという口調である。妖精にしてはネガティブな彼女のこと、きっといつものように唇を尖らせているのだろう。
サニーはスターの後方、ルナはさらにその後方。スター、サニー、ルナの順に線を結んで上から見れば、「く」の字形になるだろう。
もちろん、背を向けたスターには、二人の姿は見えない。
しかし、スターはそれをスターのみが持つ感覚で捉える。
「スターの方は?」
問われてスターはサニーの方を振り向いた。
「んー、こっちもさっぱり。今日はハズレね」
そう言って、スターは苦笑した。
今日は宝探しの日である。
場所は神社近くの森。
この辺りは、時たま外の世界から物が流れ着いたり、神社へ訪れる人妖が落とし物をしたりと、何かしらお宝が隠されていることが多い。宝探しには絶好のロケーションなのである。
たいていは小さくとも何かしら収穫があるのだが、どうも今日は日が悪いらしい。
朝から張り切ってやってきたものの、日が中天にさしかからんとする頃になってさえ未だボウズ。元々、遊びとしてやっている宝探しだから、これではどうにも盛り上がらない。
「あーもう、つかれた!」
手近な木へどすんと背を預けてサニーが叫んだ。
「ほんと、もう目とか腰とか痛くてたまんないわ。お腹もすいたし」
ルナも顔をしかめて己の肩をとんとんと叩く。なにしろ、朝からずっと地面を見続けていたのだ。いかに妖精とて、それは肩も凝る。
「でも、残念ね。せっかく来たのに」
そう言うスターだが、実はそれほど残念でもなかったりする。他の二人と違って、あまり真面目にやってないのである。なので、体もたいして疲れちゃいない。
なにごともほどほどに済ませて体力温存。それがスターの処世術である。
「それで、どうするの?」
ルナがサニーへ問う。サニーは腕を組んで、うーん、と唸った。
「このまま帰るんじゃつまんないわねー。何かないかなあ」
「何かって何よ」
「そりゃあ何かよ。何か」
むむむ、とサニーは天を睨む。
「宝探しなんだから、アレが足りないと思うのよね」
「アレ?」
ルナとスターは首を傾げる。サニーは頭の回転が速い分、こうして二人がついていけなくなることがままある。
「そう! 宝探しといえば冒険! アドベンチャーよ! スリルとロマン! それにサスペンス!」
拳を振り上げてサニーが叫ぶ。おお、とルナ、スターは声を上げた。
「秘密の洞窟とか!」
「謎の遺跡とか!」
「未知の生物とか!」
イエーと三人でハイタッチ。気分が盛り上がりそうな連想ゲームは三人とも大好きである。
「じゃあどこかに冒険行くの?」
「そうねえ……」
ルナとサニーが楽しげに話す。スターも笑顔で彼女らに合わせるが、しかし内心、あまり気は進まなかった。
スリルもサスペンスも、眺めるだけなら良い。
当事者にさえならなければ。
サニーは知っているだろうか。彼女がもたれかかるその樹上で、小鳥が今まさに虫をついばんでいることを。
ルナはわかっているだろうか。彼女の後ろの下生えの中、蜘蛛が哀れな獲物を捕らえたばかりであることを。
周囲にひしめく数多の生命が、どれほど過酷な生存競争を、スリルもサスペンスも吹き飛ぶようなサバイバルを行っているのかを。
生き物の位置を知る。それがスターサファイアの能力である。
姿形(すがたかたち)まではわからないが、それらの位置と大きさくらいはわかる。それだけわかれば、スターは経験的にそれがどういう生き物なのかを知ることができた。
スターが認識する世界。
それは、満天の星空に似ている。
空にも、川にも、木の上にも、石ころの下にも、更にそこから地面の奥深くまで。
どちらを向いても、どこを見ても星は輝いている。この世界がどれほど星の輝きに満ちているのか、スターはよく知っていた。
そして、その星がどれほど容易く輝きを失うのか。そのことも十分すぎるくらいよく知っていた。
今こうしている間にも、スターの周囲で消えていく星がある。
生命とは、かくも強く、儚い。
輝く星のうちの一つは、サニーミルクであり、あるいはルナチャイルドであり、スターサファイア本人である。
星であれば、いつか自分が消える側になるのか。スターがそれを意識するのは当然のことだった。
妖精らしくないな、とはスター自身も思う。
多くの妖精は向こう見ずでやんちゃを好む。それは妖精が一般的な死から遠い存在だからだろう。基となる自然さえあれば再生する彼女らは、仲間の死ですら『一回休み』と軽く流す。
しかし、スターは違う。
身近に多くの生と死を見続けるスターにとって、それは簡単に流せない事柄だった。
スターサファイアは、死が怖い。
星が輝きを失うことが怖い。
その時、その瞬間、どれほどの苦痛と衝撃があるのか、それを想像するだけでも怖ろしくて堪らない。
だから、スターは危険を好まない。サニーやルナほど無邪気にはしゃぐことができなかった。
二人と一緒に遊んでいても、常に全天へアンテナを張る。何かことが起こればいつでも逃げ出せるように。そのための力は必ず蓄えておかなければならない。全力で遊びに興じるなんてもってのほか。
それが、スターの処世術である。
そこで、スターはふと気付く。
サニーとルナの会話を聞きながら、己が感知できるレンジぎりぎりのところで、新たにひっかかった星が一つ。
虫や鳥ではない。獣か。自分達と同じくらいの大きさ。
獣であったとすれば、決して侮れないサイズ。
あるいは妖精だろうか?
それとも妖怪?
要警戒。
だが、新たに現れた星を感じて、スターは更に警戒レベルを上げた。
さきの星よりも更に一回り、いや二回りは大きい。
それが、明らかに前のそれを追っている。
狩る者と狩られる者だった。
距離を測る。まだ大丈夫。もしこちらに向かってきたとしても、十分に逃げられる。それだけの余裕がまだある。なんといってもこちらにはサニーとルナがいるのだ。姿と音を消せば、たいていの者からは逃げ切れる。
スターはそれだけを瞬時に判断した。まだ他の二人には知らせるまでもない。経験上、怖がりすぎるのも良くないのだ。捕食者は多くの場合、一つの獲物を狙って仕留めるまで他に注意を払わない。だが、下手に騒げば狩りの邪魔をすることになって、狙いがこちらに来ることがある。それだけは避けなければならなかった。
大きな星が、小さな星をついに捕らえる。
小さな星が呑み込まれて、一際明るく輝くが、それは最後の抵抗だ。
もう逃げられない。
明滅する輝き。次第にそれは弱まっていく。もう、あとは消えていくしかない。
こうなれば一安心だった。この大きさの星なら――それが獣か妖怪かはわからないが――狩りが終わればまたいずこかへと去るはず。哀れな生贄は一匹で済むのだ。ほっとスターは肩の力を抜いた。
「――ということで、今日は帰って準備するわよ!」
サニーが総括して宣言する。往々にして、サニーが提案、ルナが批判、あとはスターが適当に合わせておけば、話がうまくまとまるものなのである。
どうやら、明日は本格的な冒険ごっことなるらしい。場所は帰ってから地図を見て詰めるというところか。それならばまだ安心だ。行く前に脱出ルートもチェックできるだろう。
その時だった。
スターの世界を、流星が貫いた。
びくり、とスターは身を震わせた。上空。十時の方向から二時の方向へ一直線。しかし、途中でぐいっと進路を曲げて、スター達目がけて急降下し――、
「おい、お前達!」
声をかけられて、他の二人もびくりと飛び上がった。三人でこわごわと空を見上げる間もなく、黒い影が木の葉を舞い散らせて下りてくる。
特徴的な黒いとんがり帽子。白いシャツとエプロンに、黒いベストとスカート。急制動をブーツでかけて箒にまたがるのは、霧雨魔理沙である。
なあんだ、と三人胸をなで下ろした。
「お、脅かさないでくださいよぅ」「そ、そうですよ。なんですかいきなり」「ほんとほんと」
愛想笑いをしながら、魔理沙へ軽口を叩く。この程度には親しくなった仲である。
だが、
「お前達、誰か見なかったか?」
魔理沙は厳しい口調で問うた。いつもの魔理沙らしくない、硬質な声と鋭い目。気圧された三人は揃って息を飲んだ。
「だ、誰かって、あの?」
辛うじてサニーが問い返すが、その声は小さく震えた。普段、溌剌として親しみやすいはずの魔理沙が怖いのだ。スターもルナと手を取り合って、肩を小さくする。
魔理沙は即答しなかった。じろりと周囲を睨む。その様子を、三人は息を殺して見守った。
やがて、
「子どもだ」ぽつりと呟いた。
「人間の女の子。まだ小さい。長い黒髪。着物は藍染めに朱の帯だ。見てないか?」
「い、いえ……?」
戸惑うサニーがルナとスターを見る。ルナはぷるぷると首を横に振り、スターもそれにならおうとして、
固まる。
人間。子ども。女の子?
ぞわり、と背筋を冷たいものが這う。
――自分達と同じくらいの――
「知ってるのか」
魔理沙の目がスターを捉えた。その目から逃れようとスターは一歩退く。血の気が引いていることは自分でもわかった。
「知ってるんだな」
口元を吊り上げる魔理沙。その笑顔の獰猛さにスターは泣きそうになる。
だって、無理だ。
そうスターは思う。
教えても、無駄だ。
あれは、もう――。
そこで、スターは再び気付く。
違和感があった。
小さな星が、まだ光っている。生きているのだ。狩りならば、もうとっくに息絶えているはずである。
既に大きい星は去ったというのに、である。
なぜだろう。しこりのような疑念に囚われながら、スターは探る。弱々しく瞬く星を。もう消え入りそうな輝きを。
そして、自分でも意識することなく、その方角へ震える指を差した。
「そっちか! サンキュー!」
魔理沙がその方角へ向けて飛ぶ。まるで矢のようなスピード。サニーとルナが後に続いた。
だが、スターは動けない。
なぜだかわかってしまったからだ。
恐ろしい真実に気付いてしまったからだ。
なぜ今まで生きていたのか。
違う。
あれは、生かされていたのだ。わざと。
遠くで、サニーとルナの悲鳴が聞こえた。
そして同時に、その星は微かに瞬いて消えた。
閑静な森は、たちまち喧噪に覆われた。
壊れた笛のように泣き叫ぶ男女。互いに抱き合いながら、涙を絞り上げるように慟哭する。
戦慄と憤りを隠せず震える声で話し合う男達。手に持った物騒な得物が、がしゃがしゃと鳴る。
連絡を受けてやってきた里人達だった。先ほど亡くなった少女の両親と、少女を捜していた人々。
悲嘆と怨嗟と憤怒、そして恐怖。各々の顔にはそんなものがべっとりと張り付き、互いに目を血走らせる。
そんな殺伐とした人々の輪を、スターは木陰から眺めていた。
スターの傍では、サニーとルナが目を回して横になっていた。あの後、二人は揃って卒倒したのである。スターは二人を介抱しながら、人々が噴き上げる負の感情から隠れていた。
妖精にとって人間というのは暇つぶしの対象でしかないが、同時に怖ろしいものでもある。特に、殺気だった集団ともなれば尚更だ。こうして眺めるだけでもぞっとする。
それに、光の妖精であるスターは、負の感情そのものが苦手だ。スリルもサスペンスもフィクションならばいくらでも楽しめるが、実際、目の当たりにするとどうしても恐怖と不安が先に立つ。
人々から自分の横へ目を移す。
スター達三人の横で、魔理沙は静かに立っていた。
左手に箒を握り、帽子を目深にかぶって一言も喋らない。
だが、箒を握る手の震え、きつく結んだ口元はなによりも雄弁だった。
押し殺された怒り。それがまた恐ろしくて、スターはとても声がかけられない。できればここから今すぐにでも離れたいくらいだが、魔理沙がそれを許す雰囲気ではなかった。三妖精を、いや、スターを逃がさないために、魔理沙は横に立っているのではないか。スターがそう思うくらいに、彼女の威圧感がスターを縛っていた。
やがて、人々の輪の中から、二人の人影が現れた。そのまままっすぐ、スター達の方へ歩いてくる。
「真っ昼間から酷いものを見たわ」
不機嫌も露わにそう吐き捨てるのは博麗霊夢である。どこからか事件を聞いて飛んできたのだ。
「一応、簡単に清めたけど、血の臭いはしばらく残るわね。まったく、神聖な鎮守の杜でなんてことしてくれるのよ」
ぶつぶつと文句を垂れる霊夢の隣で、真ん中から赤と青に染め分けた特異な格好の女がくすくすと笑う。八意永琳。それまでスターに面識はなかったが、あの後、魔理沙が呼んできたのだ。
「お疲れ様。貴女が巫女らしいことしてるの、初めて見たわ」
「私はいつだって巫女らしいわよ。それで、あれはいったいどういうことよ」
親指で後ろを示しながら、霊夢は魔理沙を睨んだ。睨まれた魔理沙は肩を竦める。
「どうもこうもないさ。まあ、私の話の前に、まずはそっちの話を聞こうじゃないか。どうだった?」
魔理沙は帽子の影から永琳を見た。永琳は、そうねえ、と腕を組む。
「一言でいえば、なかなかの腕利きね。限られた時間と場所の中で行われた作業としては、実にスピーディで精確な仕事ぶりだわ。神経を避けて筋繊維に沿って切開、主要な血管の止血、傷一つついていない臓器、どれも知識と経験に裏打ちされた技術よ。素人とは思えないわね」
そこで、永琳はうっすらと笑った。
「麻酔は昏睡しないように調節してある。出血は最小限に抑えてあるし、ショックが起こらないように気を遣ったのね。これらのことから、犯人は可能な限り被害者を生かそうとしたと見られる」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ」
霊夢が割って入った。
「なに、あれはじゃあなんなのよ。中身ごっそりくり抜かれて、ご丁寧に並べてあったあれは!」
目が据わっている。いつもの巫女らしくない、血の気の引いた顔。
「つまり、こういうことだろ」
魔理沙は声を低くして呟いた。
「あの子は、生きたままバラされたんだ」
その言葉に、スターは総毛立った。
すうっと目の前が暗くなる。明滅する星の光。次第に次第に弱くなっていく輝き。現場は見ずとも、それが実際に行われたことをスターは既に知っている。
スターが見も知らぬその少女は、生きながらにして腹を裂かれ、中身を一つずつ抜き取られたのだ。スター達が釣った魚を捌くように。
痛いだろうか。麻酔をかけられていたといっても、意識は本当に無かったのだろうか。己の身体が少しずつ損なわれていくことを、己の腹の中を掻き出されるところを、何も感じなかったのだろうか。
いや、違う。あの時の小さな星の瞬きが示している、苦痛を訴えていた。もがいていた。助けを最後の瞬間まで求めていたはずだ。
それを、スターだけが知っている。じわじわと死にゆくことを怖れる彼女の悲鳴を、スターだけが――!
「おい、大丈夫か」
ぐい、と強く抱えられて、自分が倒れそうになったことを知った。スターの顔を魔理沙が覗き込んでいる。
「なんだ、顔色悪いな。しっかりしろ」
魔理沙の顔つきは、先ほどに比べれば幾分柔らかかった。一応、スターの身を案じてくれているらしい。
「仕方ないな。お前も寝ておくか?」
「い、いえ、大丈夫、です。すみません」
まったく大丈夫ではなかったが、そう応える。とてもじゃないが、怖くてまともに眠れる気がしない。目を閉じることすら耐えられなかった。この明るい中に現れる闇が、どうしようもなく怖ろしい。
かちかちと鳴る歯を止めることもできず、スターは魔理沙にすがりついた。袖を掴まれた魔理沙は苦笑したが、それでもスターを振り払うことはしない。その優しさと力強さに、スターは少しだけ安心して首を預けた。
「さて、私の話はこれくらいだけど、他に何かあるかしら」
頃合いを見計らうように、永琳が問うた。魔理沙はそこで里人達の方へ視線を向ける。ちょうど、男衆が担架を持ち上げたところだった。どうやら引き上げる様子である。
その様子を眺めながら、魔理沙は首を横に振った。
「ああ、知りたいことはだいたいわかったし、もういいぜ。サンキュー、わざわざ来てもらって済まなかったな」
「いいのよ。こちらも切っ掛けができて助かったわ。でも、貸しは貸しよ」
「わかってるさ。礼はたっぷりはずんでやる」
「ふふ、期待しないでおくわ。では、私はこれにて失礼」
永琳は会釈をすると、ふわりと浮き浮き上がって去っていった。
彼女の後ろ姿を見送りながら、むう、と霊夢は唸った。
「あいつはあんまり驚いてなかったわね。あんた、なんであいつを呼んできたの?」
横目で睨む霊夢へ、魔理沙は肩を竦めてみせた。
「客観的な外部の意見ってのを伺いたかったのさ。それに」
「それに?」
魔理沙は、人差し指で霊夢を招いた。怪訝そうに近付いた霊夢の耳元へ、魔理沙は声を潜めて囁く。
「里の医者を使いたくなかった。いろいろ事情があってな」
「事情ってなによ。もったいぶるわね」
「愉快な話じゃないからな」
魔理沙は、そこで言い淀んだ。そして、ふっと軽く息を吐く。
「実はな、この事件はこれが初めてじゃない。あの子は三人目だ」
霊夢が息を呑んだ。
「ちょ、それって――!」
「しっ、落ち着けよ。ま、そういうことだ。と、これ以上はここじゃ話しにくいな。場所変えようぜ」
魔理沙と霊夢が揃ってちらりと里人達を見る。
「いいけど、どこ行くのよ」
「お前んちでいいだろ」
「なんで私んちなのよ」
「ついでに昼も食わせてくれ。朝から何も食ってないんだ」
「図々しいわね。ありあわせよ」
「よし、決まりだ。と、そうだ」
魔理沙は、ふと気付いたように抱えたスターを見た。
「そんなわけだ。私と霊夢はこれから用事がある。お前は、と、まだ少し顔色悪いな。もうちょっとここで休んでろ。あとの二人が気付いたら早く帰れよ」
「は、はい」
そう返事はしたものの、ここで魔理沙と離れるのは心細かった。去りつつあるとはいえ、気が立っている人間達がたくさんいるし、サニーとルナは未だに起きる様子が無い。少女の死のイメージはくっきりとスターの中に刷り込まれていて、同じように襲われたらと思うと、それだけで息が止まりそうだった。自然、魔理沙を掴む手はいっこうに離れなかった。
そんなスターを見かねたのか。霊夢は、一つため息をついて、寝ているサニーとルナに近付いた。
そして、おもむろに右足一閃。
二人まとめて蹴飛ばした。
ぎゃあ、と二人が情けない悲鳴を上げて転がる。
「いったーい! ちょっと、何すんのよ!」「あいたたた! ひどい! なんなのいったい!」
ぎゃんぎゃんと抗議する二人を尻目に、霊夢はスターへ言った。
「ほら、二人とも起きたわ。これで帰れるでしょ」
渋々、スターは魔理沙から手を離した。魔理沙が苦笑して肩を竦めた。
「ああもう、サイアク!」
翌日である。
サニーが起きたのは、昼も過ぎようという頃だった。元々寝坊助の彼女であるが、これほど遅いのは珍しい。
「昨夜はあんまり眠れなかったわ。なんか厭な夢見そうで」
寝癖もそのままに、サニーはだらしなく椅子に座った。言葉を裏付けるように、目の下の隈が濃い。
「これ以上寝てたら、まぶたがひっついちゃうんじゃないの」
新聞を読みながらルナが言う。しかし、そんな彼女とて顔色はあまり良くない。眠れなかったのはルナも同じなのである。
うーと唸るサニーの前に、スターはティーカップを差し出した。眠気覚ましの紅茶である。受け取ったサニーはちびちびと口をつけて外を見る。そして、再び唸った。
窓から見える風景は雨で煙っていた。日の光の妖精、サニーとしてはまったく調子が出ない天気である。
「今日は朝からずっと降ってるわ。しばらく止まないんじゃないかしら」
サニーと同じように外を見て、スターは言った。
「お出かけはやめておいた方が良さそうね。今日は一日おとなしくしてましょ」
「言われなくたって出ないわよ」
ルナは、重いため息を吐いてぼやいた。
「昨日の今日だもの。あんなの見ちゃったら、そんな元気なくなるわ」
「あーやめてやめて! 思い出すからやめて!」
サニーがぶんぶんと腕を振り回して叫ぶ。蒼い顔で睨む虚空には、昨日の光景が浮かんでいるのだろう。
「ほんっと昨日はヒドイ一日だったわ。宝探しはハズレだし、あんなのには出くわすし、巫女には蹴られるしっ」
ぶちぶちとサニーは文句を垂れる。不機嫌である。妖精は一晩眠ればたいていのことは忘れてしまうし、何か他に楽しそうなこと、好奇心をくすぐるもの、美味しいものがあれば、それだけで機嫌が直ってしまうものだ。三人の中でも特に妖精らしいサニーならば尚更で、そんな彼女をして陰鬱とさせるのだから、やはり昨日の出来事はそれほどの事件だったということである。
スターは、昨日のことを思い返した。
幸い、と言っていいものか、スターは現場を見ていない。スターが知っているのは、あの小さな星の瞬きだけだ。無論、それだけでもスターにとっては震え上がるほど怖いのだが、それでもスターは現場を見なくてよかったと心から思う。
三人のうち、ひときわ臆病なスターである。もしそんなものを見ていたら、ショックで今日も寝込んでいたに違いない。
「昨日の件、新聞に出てるわよ」
ルナは持っていた新聞をテーブルに広げた。『号外』『白昼の凶行』といかにも大仰で特大の見出しが目を惹く。どれどれとサニー、スターも記事を覗き込んだ。
「え、昨日のやつってあれで三件目なの!?」とサニーが叫んだ。
そうか、サニーもルナも魔理沙の話を聞いてないんだっけ。スターは今更それに気付いた。
「被害者はみんな女の子なのね。 げげっ、みんな同じ殺され方だって!」
サニーの言葉どおり、記事にはそのように書いてあった。詳しいことは書かれていないが、もし昨日の少女と同じであれば、やはり生きながらにして解体されたのだろうか。
「しかも犯人、まだ捕まってないらしいよ」そう言うルナは気難しい顔で記事を指さした。『依然、犯人の足取り掴めず!』『捜査の範囲を広げることを検討』どうやら事件解決にはまだまだかかりそうな様子である。
「前の二件は人里だったのね」記事を読みながら、スターは意外に思った。
「里で人を襲うのってダメじゃなかったっけ?」
昔ならいざしらず、今の幻想郷はそれなりに平和だ。人が妖怪に襲われることも少なくなった。もちろん、人と妖怪の関係からして、そういったことが全く無くなることはないのだが、それでも人里で妖怪が暴れることはタブーのはずである。
どうかしらね、とルナは首を傾げた。
「妖怪じゃないみたいよ」
「え、それって……」
人間、ということか。
スターの視線に応えるように、ルナは再び記事を示した。
「食われた痕が無いんだって。それに」そこで、ルナは眉をひそめて声を落とした。
「狙われてるのが女の子ばかりだしさ。ちょっとアレな人間かもって」
ぞわり、とスターの背筋を悪寒が走った。
あれが人の手によるものだとしたら、その犯人は何を思っていたのだろうか。
何が目的であの小さな星を手にかけたのだろうか。
何を考えて、生きたまま少女の腹を裂くという狂気に身を委ねたのだろうか。
そのおぞましさにスターの肌が粟立つ。妖精と人間は違うとはいえ、スターの心は犠牲となった少女にまだ近い。近かったはずだ。だからこそ尚更、スターは少女が受けた恐怖と苦痛を思うと胸が苦しい。怖くて怖くて堪らない。
震えを抑え込むように、スターは胸元で拳を握った。
「人間だったら珍しいわね」
サニーが腕を組んで言った。
「幻想郷(ここ)ってそういう事件、あんまり起こらないじゃない?」
「あんまりどころか、ほとんどないわよ」
そう言いながら、ルナは椅子に背を預けながらマグカップのコーヒーをすすった。
「なんたって、あの里はあんまり広くないからね。なんかやらかせばすぐバレるでしょ」
「でも、この犯人は捕まってないんでしょ?」
「そうね、一応容疑者は挙がってるみたいなんだけどさ」
「あ、そうなの?」
「うん、医者の次男坊だってさ」
幻想郷では珍しい外科の心得がある医者である。手口から見て、犯人が専門的な知識と技術を持ってることは明らかだったし、そういったことを学べる者は限られている。医者の息子であれば、いくらか知識もあろうし、器具も扱えよう。
そして、この容疑者となった男の評判が、悪い。
二十代半ばの大男である。陰気で人付き合いが悪く、図体がでかいくせ里の労役には顔も出さぬと年配層から睨まれている。
家業は長男が継ぐことが決まっていたので、男はいつか家を出ることになるはずだったが、本人に働く気はあまり無かった様子である。普段はほとんど家に籠もりきりで、時折
親の手伝いをしている姿が近所からは目撃されている。
また、着替えを覗く、と女性患者の苦情も多かった。なにしろ大男である。隠れようとしたって見られている側からは丸わかりだったらしい。
また、なにより容疑者として目される決め手が、解剖である。
小さな動物の解剖を趣味としている。そんな噂があるのだった。
無論、医者の息子であるから、勉強のためにこうしたことをすることもあるだろう。にもかかわらずこうした噂が流れるくらい、男が殺めた動物の数は多い。
挙げればいくらでも悪い噂が出る。そういう男のようであった。
ふと、昨日のことをスターは思い出した。
――里の医者を使いたくなかった。いろいろ事情があってな。
そういうこと、なのだろう。
あの時点で、魔理沙は犯人のことを知っていたに違いない。
「そんだけわかってるんならすぐ捕まりそうなもんなのにね」
「それだけうまく立ち回ってるってことかしら。里からは逃げたのかもね」
そこで、ふとなにごとか思い至ったようにルナは唇をへの字に結んだ。
無論、スターもわかった。サニーも気付いている。
申し合わせたように、三人揃って窓の外へ目を向けた。
水滴が流れるガラスの向こう。しとしとと降る雨越しに広がる黒々とした森。
昨日の事件は、ここからそう遠くない場所だった。
そう、もしかするとあの森の中には――。
「あーもー、やめやめ!」
サニーが叫んで立ち上がった。
「こんなのすっぱりきれいに忘れちゃおうよ。なんにしたって人間の話なんだしさ。私達には関係ないでしょ」
こういった思い切りの良さがサニーの強みだ。多少強引でも、暗い流れを断ち切る。それができる明るさが彼女にはあった。
「そ、そうよね」「私達は大丈夫だもんね」
スター達もその明るさに乗った。ただでさえ雨が降って陰鬱なのだ。これ以上空気が重くなっては息が詰まる。確かに幻想郷ではセンセーショナルな事件で、三妖精はそれに図らずも出くわしてしまったが、それで自分らに直接危険が及ぶわけでもない。所詮は他人事。自分達には関係ない話だと割り切ってしまえばいいのだ。
ルナは新聞を片付け、スターは昼の用意をしようとエプロンを手に取った。
その時だった。
スターの星空に動きがあった。
ざわり、と星達が蠢き、散っていく。逃げようとしているのだ。何から?
ずしん、と地響きがした。
わあ、とサニーが身を屈める。ルナがよろめいてテーブルにしがみつく。窓ガラスがびりびりと震える。
「な、なに?」「地震?」
慌てて外へ目を向けると、ちょうど、遠くでパパパッと光が走った。そして、爆発。
先ほど星達、森の小動物達が逃げていたあたりである。そして、スターの感覚は新たに二つの星を捉えていた。
追う者と追われる者。
「あ、あれ魔理沙じゃない?」
スターの横でルナが言った。爆炎に照らされたシルエット、空に浮かぶその姿は特徴的で見間違えようがない。スターが見る星の位置からして、彼女が追う者だ。
では、追われる者は?
スターの身が竦んだ。その星の大きさには見覚えがあった。
それは、昨日も見たばかりだ。
「犯人がいる!」
「ええ!?」
スターの叫びに、サニーとルナが振り返った。
「は、犯人!?」「ほんとなの、スター」「ほんとよ、あの辺り!」「どこ?」「見えないわよ!」
犯人がいる方角を指し示すが、サニーもルナも見つけきれない。雨で視界が悪いせいか、スターも肉眼ではわからなかった。だが、星空には確かに映っている。いるのは間違いなかった。
「あ、逃げる!」
魔理沙と犯人の距離が広がっていく。魔理沙も犯人を見つけきれないのか、辺りを爆撃するものの犯人の場所とはまるっきり外れていた。
「ね、ねえ、魔理沙に教えた方がいいんじゃない?」「どうやってよ」「今、魔理沙に近付いたら私達も撃ち落とされるんじゃ……」
三人でおろおろとする間に、犯人はどんどん魔理沙から離れていく。
「ああ、逃げちゃう!」
そして、ついにはスターの星空からも消えてしまった。
「追うわよ!」
行動はサニーが一番早かった。スター達の応えを聞く前に、玄関から外へすっ飛んでいく。慌ててスターとルナも後を追った。
「スターとルナは犯人を追って! 私は魔理沙を連れてくる!」
言うやいなや、サニーは魔理沙目がけて飛んでいった。スター達が頷く間もあらばこそである。スターはルナと目配せしあって、犯人が消えた方へ向かった。
雨は変わらず降り続く。
慌てて飛び出したので、傘は持ってこなかった。いくらも飛ばないうちにスターもルナもずぶ濡れになった。セットが台無しよ、とルナは恨めしそうに自分の髪を引っ張る。
犯人の星はほどなく見つけられた。あれからすぐに追いかけたのが良かったのだろう。
あらためてその星を捉えてみれば、その大きさが人間の大人くらい、それも大柄であることがわかる。そのサイズだけでは妖怪か人間か判断できないが、人だとすればおそらく男だ。速度からみて相手はどうやら歩きのようで、スター達でも追いかけるのは楽だった。
「どこに向かってるのかしら」
ルナがそう呟いた。周りの音はいつものように彼女が消しているので、相手がどれほど耳ざとくても安心である。
これでサニーがいれば完璧なのだが、彼女がいないのでは仕方が無い。ただ、この天気で元々視界は悪い。ある程度離れていれば見つかることはないと思えた。
「そりゃあ帰ってるんじゃないの?」
応えながら、スターは犯人が向かう方角から検討をつけようとした。
相手が妖怪だとするなら、森の何処かに住んでいるのかもしれない。あるいは、人間ならば人里に家があるのだろうか。
今のところはどちらともいえなかった。それに、犯人は回り道をするかもしれないではないか。
回り道。
まさか、次の犠牲者を探しているのか。
もしそんな場面に出くわすことになったら。そんな厭な想像が首をもたげた。
そして、気になっていることがもう一つ。
そのことをルナに伝えるべきか、スターは迷った。
保険のためである。
万が一のことを考えてしまう。これは性分だった。
少しでも自分が助かる確率を上げるために、あえて情報を隠す。今までスターはそうしてきた。
時には仲間を見捨てることも考えて、である。
横目でルナを見る。不安と不快がないまぜになった彼女の横顔を見ながら、スターは自問する。
私は、彼女が殺人鬼の手にかかるところを見たいだろうか。
もちろん、否だ。
だが、同時にスターは思う。
それは、自分が殺人鬼に殺されることと天秤にかけて、どちらが重いだろうか。
と、物思いにふけっていたスターは、ふと我に返った。
「ルナ、ストップ」「え?」
ルナの手を引いて止める。
「なによ」と口を尖らせるルナへ、スターは前を示した。
「あいつ、止まったわ」
「え、なんで?」ルナは首を傾げた。「だって、家も何もないわよ」
ルナの言葉通りである。ここは森のまっただ中で、とても犯人の目的地とは思えない。
だが、犯人が歩みを止めたのは確かだった。何か理由があってのことなのか。それともただの休憩なのか。
なんにせよ、一息つけるならばスターとしても助かるところだ。
「丁度良いわ。雨宿りしましょ」
手頃な木陰に下りる。大きい枝葉のおかげで、身体の小さい二人ならばそこで十分雨がしのげそうだった。そこで、二人して濡れた服を絞り、濡れた髪を拭いた。
「あーもう、なんでこんな目に……」ルナは頬を膨らませて、ぶちぶちと文句を言った。
「早く帰りたいね」とスターも合わせる。成り行きでこうして犯人を追っかけてきた二人だったが、なにしろこの天気である。とっとと終わらせたいというのが本音だった。
「あいつは何してんの?」
ルナの問いに、スターは肩を竦めた。むしろスターの方が教えてほしいくらいである。
星の動きに変化は無い。どれくらい留まるつもりなのか、それだけではわかるはずもなかった。
揃ってため息を吐く。いつまでこの尾行を続ければいいのかと思うと、気が滅入って仕方が無かった。
「ちょっと気になったんだけど」
ふとルナが話を切り出した。
「昨日ので三件目って新聞にはあったけどさ。前の二件のことって今まで新聞に出てなかったのよね」
「そうなの?」
日頃、新聞を読む習慣があるのは三人のうちルナだけである。
「読んだけど忘れてただけじゃないの?」
「あんな大事件が載ってたらスター達にも話してたわよ。それに、たいていこういう大きなことって号外出るじゃない。昨日のだってそうだったしさ」
そこで、ルナは声を潜めて言った。
「なんか、おかしくない?」
その言葉に、スターの心がざわついた。
「お、おかしいって?」
「だってそうでしょ。何か事情があるにしてもさ、隠すなら隠す、知らせるなら知らせるで一貫してそうなものじゃない」
そのとおりである。
事件が人里で起こっていたというから、おそらく人間達には周知のことだったのだろう。
だが、三件目に至って初めて新聞に載るというのは、何か作為を感じる。
それまでは隠さなければならない事情があった?
前の二件と三件目の違いは何だろう?
あ、とスターは思いついた。
「昨日のは外で起こったからじゃないの? 前のは里であったんだし」
「里で起こった事件だって、いつもは新聞に載ってるわよ。それもだいたいどうでもいいようなのばっかり。それが、こんな大事件よ? あの天狗達なら大喜びで記事にしそうなものじゃないの」
ルナの指摘はもっともだった。針小棒大のゴシップを書き散らす天狗の新聞である。これほどの大事件を見逃すはずがなかった。
うーん、と二人で考え込む。が、結論は出なかった。元々妖精は考えることに慣れていないのだ。
「気にしすぎじゃない? だいたい何かあるにしても、それが私達に関係あるとは限らないでしょ」
「まあ、それはそうなんだけど……」
呑み込めない様子のルナである。三人の中で最も疑り深い彼女らしい。
だが、今、スターにとってそれはいらぬ不安を煽るだけで、あまり続けたくない話であった。
これ以上話しているうちに、何かに気付きそうで怖かったのだ。
話題を変えよう。そう思って、スターは遠くを見て言った。
「サニー遅いね」
そういえば、とルナも同じ方向を見る。
「そうね。もうわりと時間経ってる気がするけど。ほんと何やってるのかしら」
口を尖らせるルナ。どうやらうまく乗ってくれたようである。
しかし、それにしても遅い。
魔理沙を呼びに行って、それっきりだ。はたして魔理沙にちゃんと会えたのか。もし話ができているなら、もうとっくに合流できてもよさそうなものである。しかし、スターの星空には魔理沙が映っていない。
「もしかして、会う前に撃ち落とされたんじゃ……」「ま、まさかね」
二人で乾いた笑いが重なる。先ほどの魔理沙が見せた苛烈な攻撃振りからすれば、そう無茶な想像ではない。
「あれ?」と、ルナが首を傾げた。
「あのさ、思ったんだけど、サニーはどうやって魔理沙をここに連れてくるの?」
「あ!」
今更、そんなことに気付いた。
もちろん、サニーはスター達の位置を知らない。なので、どうにかしてサニーへこちらの位置を教えなければならないのだが。
この雨である。空を飛んでいても、肉眼では厳しい。それに、魔理沙がどこにいるのか、スターにもわからないくらい離れてしまった。
互いに場所がわからないのではどうしようもないではないか。
「ど、どうしよう……」
そこまでは考えていなかったのだ。サニーの言うまま、犯人を追ってきただけなのである。
いや、策が無いわけでも無い。
ルナに犯人を追ってもらい、スターがサニー達を探しに行けばいいのだ。サニー達と合流した後はルナを探す。魔理沙のスピードでこの位置まで戻ってこられるなら、その間にルナがどこへ行ったとしてもスターの星空に入るはずだ。
だが、それはできない。スターは唇を噛む。
「ルナ、あの木が三本立ってるとこ、見える?」
「なによいきなり。うん、見えるけど」
「じゃあ、あの近くに人間の男が見える?」
「人間? うーん、よく見えないけど……」
目を細めてルナがそちらを見る。しかし、やはり見えないらしい。
そうか、とスターはため息を吐いた。
「仕方ないか。うん、ルナはサニー達を探してここまで連れてきて」
「え、なんでよ? 探すんならスターの方が得意じゃない」
「そうなんだけど、もし犯人がまた動き出したら、ルナじゃわからなくなっちゃうわ」
スターは前方を指さした。
「ルナには見えないけど、あの辺りには犯人がいるの」
怪訝そうなルナへ、スターは隠していたことをついに教えた。
「あいつ、サニーみたいに姿が消せるみたい」
ルナが息を呑んだ。
「え、ど、どういうことよ」
「どうもこうも、そのまんまよ。あいつは目に見えないの。人間じゃなくて妖怪なのかな。よくわかんないけど、そういう能力があるんだわ」
そう、犯人を追い続けて、スターはそれがずっと気になっていた。
姿が見えない襲撃者。
それがどれほどの脅威なのか、考えるまでもない。
少々腕が立つとしても相手にならないだろう。
もし、この場にルナを置いていけば、彼女では犯人に対してなすすべも無い。
もし対峙したとするならば。襲われるとするならば。
そこから逃げられるのはスターだけだ。
そして、だからこそ。
「だから、あいつを追えるのは私だけなの。あいつが今からどれだけ動くかわからないけど、ここに連れてきてくれれば、多分、私ならわかるわ。そしたら、私から弾幕でもなんでもとにかく位置を教えるから」
「で、でもそれじゃスターが危ないんじゃないの」
不安そうにルナはスターを見た。
ルナ達へ位置を知らせるということは、すなわち犯人にも知られるということだ。尾行がバレれば、どんな目に遭うか。
それに、相手がこの先どこまで移動するのかがわからない。
ルナが魔理沙を連れてくるまでに、スターが感知できる以上距離が開けば、スターは孤立してしまう。
いろいろな面でリスクの高い作戦である。
ルナは優しい。彼女は本気でスターの身を案じていた。
だが、そんなルナにスターは後ろめたさを覚えた。
わざと彼女に敵の能力を隠していたこと。
いっときでも、彼女を囮にして逃げようと考えていたこと。
そんな自分の内面を知らない彼女の心根が、スターには苦い。
「大丈夫よ」
不安を振り切るように、スターは笑ってみせた。
「私なら何があったって逃げ切れるわ。ルナみたいに鈍くさくないし」
「わ、私はど、鈍くさくなんかないわよっ!」
赤くなって、むー、とルナがむくれた。
「いーわよ、わかった。行けばいいんでしょ」
口を尖らせて、ルナはスターから離れる。そして、そこで表情をあらためた。
「無理しないでよ。私がいないんだから音はたてないようにね」
「わかってるわよ。心配しないで」
ルナは何かを言いたそうだったが、やがて一つ頷いてから背を向けた。
そして、全速力で飛び去っていく。
しばし、その後ろ姿を眺めてから、スターは小さく深呼吸した。
よし、と気合いを入れ直してから、犯人がいる方向を睨む。
雨はいまだ止む様子が無かった。
それから三十分ほど経っただろうか。時計を持たないスターに正確なところはわからなかったが、たいして服が乾かないうちなので体感的にはそのくらいである。
犯人が動いた。
できれば魔理沙が来るまで動いて欲しくなかったのだが、世の中そう都合良くはいかないらしい。
覚悟を決めなければならない。
待つか。追うか。
「ルナにあんな見栄切っちゃったし、仕方ないか」
苦笑して呟いた。
震える足を叩いて気力を奮い起こすと、スターは再び雨の中へ飛び出した。
次第に雨足が強くなっていた。
乾き始めていた服も、すっかり元通りだ。スターの長い髪はたっぷり水を吸ってずしりと重く、その上、雨粒が大きくなって真っ直ぐ飛ぶことも難しくなってきた。
そして、更に堪えるのが寒さだった。
風がないのがまだしもだったが、それでも長く雨に打たれるのはかなり辛い。
がたがたと震えて縮こまりながら、何やってんだろうなあ、とスターは自嘲した。
自分らしくない。そう思うのである。
人一倍臆病な自分が、なぜこんなことをしているのか。
できるだけ楽するのが信条だというのに、どうしてこんな苦労をしているのか。
理由はスター自身にもわからなかった。
ただの成り行きで、いつの間にかこんなことになってしまった。感覚としてはそれが一番合っているように思う。
だが、それでも普段のスターなら、こんな苦労は背負い込まなかっただろう。
いつだってほどほどに済ませる。全力は使わない。それがスターの生きる知恵だったはずだ。
それが、なぜ今日に限って、自分はこんなに頑張っているのか。
ぼんやりとそんなことを考えるが、やはり結論は出なかった。
そんな時だった。スターの眼下に三本並んだ木が見えた。
先ほどまで犯人がいた場所である。
そういえば、あいつは何をしていたのか。
疑問がよぎる。一時間とはいわずとも、それなりにまとまった時間、犯人は何のためにここにいたのか。
おそらく、休憩ではない。身を休めるなら、もっと良いところがあるはずである。犯人の体格からいって、ここでは雨宿りにならない。
では何が目的なのか。
何かあるのかと目を凝らしてみたが、あいにく黒々とした地面と黄色く枯れかけてきた下生えしか見あたらなかった。
スターの星空にも特に怪しいところはない。
考えすぎかしら。
そう思って、視線を再び前に向けようとした、その時だった。
がつん、と頭に衝撃が来た。
目の前に火花が散って、一瞬遅れて激痛が走る。
気が付いた時には、自分がバランスを崩して落下しているところだった。
押さえた手の間から、ぬるりとした温かいものが流れる。それが何なのか見るまでもない。
ずきずきする頭を抱えて、ともすれば暗くなりそうな意識を気力で保ちながら、スターは失速を抑えようと羽を動かした。このまままともに落ちれば、いくら妖精とはいえ無事に済まない。
しかし、ただでさえ飛びにくい雨の中ではそれも厳しかった。それでも必死に姿勢を丸めて、辛うじて落下に備える。
ばさばさと木の枝にぶつかりながら悲鳴を上げた。派手に何かにバウンドして、ボールのように転がり、ふうっと意識が飛ぶ。
目を開けると、そこは既に地面だった。
積み上がった落ち葉の感触と雨で湿った土の匂い。
体のそこかしこが痛んだ。特に頭はぐわんぐわんと軋むように痛くて堪らない。勝手に涙がぼろぼろと出て、それが喉にむせて何度も咳き込んだ。
だが、どうにか生きている。
何が起きたのか。
辺りを見回すと、近くに拳大の石が落ちていた。片面が赤く染まったそれを見て、スターは理解する。
撃ち落とされたのだ。
己の油断をスターは悔やんだ。
スターの世界でわかるのは生き物の位置だけだ。たいていの脅威は近付かなければどうということもないので、普段は自分の感覚を信じればそれで事足りる。
だが、なまじそれに頼っているだけに、こういった飛び道具には弱い。
きちんと飛んでくることがわかる弾幕ごっこならともかく、この雨の中の不意打ちでは。
当然、予想しておくべきだった。
他のことに気を取られてよそ見などしてはならなかったのだ!
と、スターはここではっとする。
犯人の位置は。
そう思った時には、自分のすぐ近くまで巨星が迫っていた。
逃げようとした。しかし、傷だらけの体はろくに動かず、這うことすら難しかった。
ひゅう、と喉が鳴った。視界が涙で歪んだ。血まみれの右手を伸ばそうとした。
同時に、がっしりとした重みのある掌が、スターの細い肩を掴んだ。
まるで石ころでも扱うように軽くひっくり返され、頭と両手を押さえつけられた。足を動かそうとしたところに丸太のようなごつい重みが加わる。あっという間もなく、スターは地面に仰向けのまま、びくとも体を動かせなくなっていた。
そして、そんなスターの視界を覆うように、彼女へ馬乗りになった大男が見下ろしていた。
縦も横もでかい。腕などスターの胴回りくらいはありそうだった。
その巨躯を上から下まで黒で覆うのは、幻想郷では珍しい雨合羽。その合羽のフードの奥から覗く小さな目。
ぞっとするような冷たい目だった。
悲鳴を上げた。上げたつもりだった。だが、喉から洩れるのは壊れた笛に似た音だけだった。
恐怖に駆られてもがく。しかし、スターの力では男の指一本すら動かせない。絶望的な力の差だった。
ずい、と男が顔をスターに近付けた。
おそらくは、若い。顎は無精髭で覆われて、頭は硬そうな髪が野放図に伸びていた。太い鼻と薄い唇。そして、でかい図体に比して、小さくて昏い、まるで金属のように感情が見えない眼(まなこ)。
その眼が、スターは怖かった。
ただでさえ人間は苦手なのだ。それがこれほど間近にいるだけでも怖いというのに。
押さえつけられていることだけでも怖くて怖くて涙が出るというのに。
この男は、なぜスターをこんな無機質な眼で見ているのか。
「妖精か」
呟くように、初めて男が喋った。
まるで潤いというものがない、掠れた低い声だった。
「お前、俺が見えていたのか」
抑揚の無い喋り方だった。スターへの質問なのか、ただの呟きなのか、どちらでもあるようでどちらでもなさそうな言葉の連なり。
「なぜ見える」
スターは答えようとした。男が望むままに、なんでも答えようと思った。もしかしたら、どうにかこの男の機嫌を取って逃げられるのではないか。そう考えたからだ。
「なぜ俺を尾けてきた」
だが、スターの喉は震えなかった。スターの舌は動かなかった。錆び付いたかのように強ばって、ただ歯だけがカチカチと鳴る。
「誰かに頼まれたのか。誰が頼んだ。親父か。兄貴か。それともあいつか。他に誰がいる。俺を追ってるのは誰だ」
ぎゅう、とスターを押さえる手に力がこもる。その痛みに耐えきれず、ついにスターは泣き声を上げた。
「なぜ俺の邪魔をする。俺を止めようとする。これはミアズマ・レイク・イリスの意志だ。生命、命の意味を知るための崇高な行為だ。俺を理解しない奴は誰だ。俺を羨んでいるのか。俺を妬んでいるのか。俺を引き摺り下ろそうとしてるのか。女神を狙う卑しい奴らめが」
喋る声は、次第に熱がこもってくる。小さな眼には、いつしか剣呑な光がちらついていた。
「そんなことはさせない。許さない。俺がたとえ終わったとしてもだ。奴らにわかるか。わかるはずがない。生命とはどこから来てどこへ行くのか。命とは何処に生まれ何処に宿り何処から去るのか。その答えは誰も知らない。誰に聞いても答えられない。どいつもこいつも曖昧模糊としていて一つとしてしっかりとして明確で明瞭な答えは持っていやがらない。かといっていくら調べてもいくら探してもどんな本をひっくり返しても虫眼鏡で一字一句読んでもさっぱりで全く見当違いで役立たずで話にならない」
スターは泣きじゃくって男の視線から顔を背けようとする。しかし、男の力が許さない。
「だが、ミアズマ・レイク・イリスは言った。人は女の胎から生まれると。犬も猫も雌から生まれると。鳥は卵から生まれ卵は雌が生むのだと。この世界の命の連鎖はどこから始まりいつまで続くのか。肉体を作れば命は宿るのか。あるいは命があるからこそ肉体ができるのか。命とはどこまでが命でどこからが黄泉に続くのか。その鍵は女だ。この世界の命は女が握っている。女で回っている。女神の言葉は正しい」
何について何を喋っているのか、さっぱりわからなかった。
わからなかったが、スターは直観で何かが間違っているということだけはわかった。
だが、何がどう間違っているのか。
そんなことを話したところで、とても話が通じそうに見えなかった。
男の目はスターを向いているものの、その言葉はおそらくスターへ向いていないのだから。
男の呟きは加熱しながら早口になっていく。
「生と死の境はどこにあるのか。それを確かめるのは難しい。だが、その境界を知ってこそ見える道もある。イリスはそれを教えてくれた。なに、簡単だ。単純な実験だ。一つ一つ取り除いていけばいいのだ。丁寧に。女が鍵であるなら調べるのも女が良い。調べた。たくさん調べた。数え切れないほど試した。最初は鼠だ。次に猫を試した。犬を試した。だが駄目だ。すぐ死ぬ。死んでしまう。あっけなく境界を越えてしまう。命の泉が見つからない」
いまや、男の眼は爛々と輝いていた。熱に浮かされたようなその昏い輝きは、スターの星空でスターの上に被さる男の星そのものだった。
その構図に、スターは見覚えがあった。
そう、昨日の昼頃。
狩る者と狩られる者。
大きく猛々しく残虐な星と、小さく弱々しく哀れな星。
あの時と違っているのは、
狩られた小さな星がスターであること!
「だから学んだ。俺は技術を身に付けた。出血に気を付ければかなり保つことがわかった。血管をうまく結紮するんだ。胃、腸、肝臓、膵臓、胆嚢、腎臓は摘出してもすぐには死なない。つまり命はそこに宿っていないということだ。しかしここから先が難しい。肺は大動脈と密接に繋がっていていくらうまく処理しようとしてもダメだ。それに呼吸が止まるとそれだけで死ぬ。心臓はもちろんダメだ。蛙も鼠も猫も犬も人もみな同じだ。ならば命は肺に宿るのか。心臓に宿るのか。魔術的に心臓は重要だが、では心臓のみで生きることはできるか? できない。心臓もまた摘出すればすぐに死ぬ。何度やっても死ぬ。やはり心臓は泉ではないのだ。では泉はどこだ。生命を生命たらんとするものは何だ。何度やっても失敗だ。こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃ――」
ぶつぶつと呟き続けていた男が、そこでふと言葉を切った。
「そうか、お前は、妖精だったな」
唐突に、そのことに気付いた、そんな口ぶりだった。
「そうか、お前は妖精だったのだな」
男がスターの頭を押さえていた右手を離した。泣きべそをかくスターがその手の行方を追うと、そこにはいつからあったのか、スターが丸ごと入りそうなくらい大きい真っ黒な鞄があった。
鞄の留め金が開いた。ばくんと口を開けた鞄の中には、ぞろりと銀色の鈍い輝きが並ぶ。
「あるぞ」
男がその中の一本を手にとって、スターを見下ろした。
「俺は妖精も試したことがあるぞ」
ざわっと鳥肌が立った。
男が右手に持ったメスの剣呑な輝き。男の血走った眼。
男の、大きく歪んだ笑み。
それを見て、何かがスターの中で外れた。
悲鳴が出た。今まで出そうとしても出せなかった叫びが溢れた。
どこかが壊れてしまったかのように、いつまでも叫び続けた。
今までさんざん泣いたというのに、それでも涙が止まらなかった。
頭を振った。身体を捻った。わずかに動かせる踵で地面を打った。
だが、それだけ必死で暴れても、男は全く動じなかった。
何をやっても覆らない。
狩られる者はただ狩られるしかない。
逃げられなかった者は食われるしかない。
スターがこれまで数え切れないほど見てきた残酷な戦いの一つでしかない。
誰かに言われるまでもなく、スター自身がそれをよく知っている。
よく知っていた。
だからこそ、スターは逃げてきた。
今まで何があっても逃げてきた。
どんな手を使ってでも、自分の身に危険が及ぶことだけはないように立ち回ってきた。
それは、スターがわかっていたからだ。
自分の非力を。
自分が狩られる側であることを。
一度捕まったが最後、もう何があっても逃れることができないということを!
男は鞄から長い紐を取り出して、スターの両腕と両足を縛る。手慣れた手つきだった。これまでどれだけ同じ事をしてきたのか、そんなことを考えたくもないのに考えさせられる、そんな淡々とした作業だった。
「試したのはずいぶん昔だったな。おおかた爺の舶来物が目当てだったんだろうが、しょっちゅう入り込んで陰でばたばたしやがる。泥棒がいつもいつも俺の研究を邪魔ばかりしやがってクソが。やっと奴らを捕まえた時は念入りにやったな。みっちりやった。徹底的にやった。清々したな。おかげで面白い研究テーマも見つけられたし、実に有意義な実験だった」
男が厚布を敷いて、丁寧に器具を並べていく。どれもこれも、何に使うのかスターには見当も付かない恐ろしげな形だった。
「そうだな。あの頃はまだ手際も悪かった。今考えれば無駄も多かったな。だが、今ならもっとうまくやれる。もっと綺麗にできるだろう。ああ、しまった」
男が茶色の瓶を見て唸る。
「そうか麻酔を切らしていたんだった。誤算だった。三人も調べればわかるかと思っていたんだが」
そこで、男がまたスターを見る。濁った目と軽い笑い。
「無しでも構わんか。妖精だしな。人とは作りが違う分、もしかすればミアズマ・レイク・イリスの意志に近付くかもしれん」
「イヤあッ!」
想像もできない絶望を突きつけられる。
この男は、スターの意識を残したまま切り刻むというのだ。
痛いだろうか? 痛いに決まっている!
気が狂うほど痛いに決まっている!
「イヤだあッ! ヤだあッ! イタイのはイヤあああッ!」
いくら泣き叫んでも、男の手は止まらなかった。
「無駄だ。いくら暴れようが誰も助けには来ない」
男はスカートの裾に鋏を入れた。そのまま乱暴な手つきで下着ごと縦に切り裂いていく。
「結界の中だ。ここは外からは見えず音も聞こえん」
スターの脳裏に、昨日のことがよぎる。
そうだ。あの少女は誰も助けられなかった。
凶行の現場も、少女の悲鳴も、外からではわからなかった。この男が今まで悠々と三人も殺してきたのはこの力があったからだ。
スターの力が抜けた。
仮に魔理沙達が来たとしても、この男の姿を見ることはできない。スターの姿を捉えられない。
それができるのは、スターだけだったから。
じゃあ、どうにもならない。
そのことがスターにはわかった。わかってしまった。
スターは抵抗を止めた。しゃくりあげながら、自分がもう助からないことを噛みしめた。
男がスターの服を開いて、白い胸と腹を晒す。そして、太い指で持ったメスを宙にかざし、小さく頷くと、そろりそろりとスターの胸元へ下ろしていった。
その鋭い切っ先を見ると、やはり怖い。諦めたとしても、恐怖は消せなかった。
スターは精一杯目を開き、唇を歪めて、その瞬間を待つ。
メスの動きから目をそらせない。
いっそ、ひとおもいに刺して楽にしてくれと願う。一片の慈悲を乞う。
だが、きっと苦痛は一度に終わらない。
胸から腹まで切り裂いて、
腹に手を突っ込んで、引きずり出して、
スターの中身を空っぽにするまで地獄の責め苦は続くのだ。
「……イヤ」
スターは呟く。
「やっぱり、イヤだよぉ!」
スターの最後の悲鳴も空しく、刃先はスターの胸へと――
――――閃光!
眩しさにスターが目をつぶった瞬間、ふっと身体が軽くなった。そして、ふわりと誰かに身体を起こされて、優しく肩を抱かれる感触。
目を開ける。何度かまばたきをして、ようやく目が慣れると、結ばれた焦点が見知った横顔を映した。
「まりさ、さん?」
スターの声に、魔理沙は「よう」と男前な笑顔を見せた。
「間一髪ってところか。ははは、随分頑張ったみたいじゃないか。サンキュー、助かったぜ」
朗らかに言いながら、魔理沙はスターの肩をぎゅっと抱いた。雨に濡れた布地に頬を押しつける形になったが、なぜか冷たいはずの布地が暖かく感じた。
「まりさ、さん」
ぎゅっと彼女に両手でしがみつく。体中が軋んで痛かったが、そんなことは全く気にならなかった。
「まりささんっ! まりささんっ! まりささんっ! うわああああんっ!」
何もかもかなぐり捨てて、スターは泣く。
ダメだと思った。
無理だと思った。
自分なんかがらしくもなく危険に飛び込んでしまって、心の底から後悔するところだった。
助かった。助かった。助かった!
その想いの全てが涙になった。離れるものかと懸命に魔理沙へしがみついて、彼女の胸元へ頬をこすりつけて、わんわんと泣きじゃくった。
「おいおい待て待て。まだ終わってないぜ」
苦笑した魔理沙がスターの背中をぽんぽんと叩いた。「え」と鼻水だらけの顔で振り返る。
十メートルほど向こうの木陰で、のっそりと立ち上がる大きな影が見えた。
雨合羽は裾と袖が裂け、全身は泥だらけだった。しかし、あれほどの衝撃で吹っ飛ばされたにもかかわらず、男自身はほとんど無傷だった。
俯いていた男が顔を上げる。
薄い唇を固く引き締め、小さい目はガラス玉のように色が無かった。
ただ、男は睨んでいた。押し殺した憤怒で。
魔理沙を。
「……なぜ」
絞り出すような声音だった。
「……なぜわかった」
はん、と魔理沙は鼻で笑った。
「詰めが甘かったな。見てみろ。こんなわかりやすい印が残ってるぜ」
魔理沙が顎で示す先、それを見て男が唇を歪めた。
そこには、わずかながら赤い印。
スターの頭の怪我から流れた血だった。
「お前が妙な力を使うことは知ってたからな。ずいぶん逃げ回ってくれたじゃないか。へっ、やっとまともに顔が見れたぜ。おい、あんた」
そこで、魔理沙の瞳にちらりと暗い炎が揺れた。
秘めた怒り。見るもの全てを灼くような激情で、魔理沙は真っ直ぐに男を睨み返していた。
「おいたが過ぎたな。派手に暴れたツケはでかいぜ?」
口調こそ軽かったが、その声は鋭利で冷たい。
「もう逃がさん。さっきはこいつがいるから手加減したが、今度は容赦なしだ。覚悟しな」
そう言って魔理沙は右手をかざす。その手に握られているのは彼女の力の源、八卦炉。
男は無言だった。
歯軋りが聞こえてきそうなくらい口元を歪め、両の拳は震えるほど固く握られていたが、それでも男は平静さを保とうとしているように見えた。
「邪魔を、するな」
強く区切るように、男は言った。
「なぜだ。お前も魔術師の端くれならば、究めようという志がわかるはず。どうして俺の邪魔をする」
一歩、男が足を踏み出した。
「真理に触れようと願った。何に替えても知りたいと焦がれた。お前にはわからないというのか」
ほう、と魔理沙は目を細める。
「真理だと? 調子に乗るなよ、トーシロが。お前なんかに仲間扱いされたかないや」
魔理沙は吐き捨てるように言葉を放った。
「お前が語る真理なんざ鼻紙にもならんさ。いくら言葉で飾ろうが、お前がやってることは魔術的に何の価値もありゃしない。ああ、てめえでわかってないみたいだから、もっとはっきり言ってやる。お前は魔術師でもなんでもない。小さな女の子を切り刻んで喜ぶただの変態野郎さ!」
男の顔面が、さっと赤黒く染まった。こめかみに青筋がくっきりと浮かび、唇がめくれ上がって食いしばった歯が露わになる。もはや隠そうともしない、怒りの形相だった。
男が吼えるのと、魔理沙が魔力を込めるのは同時だった。
閃光が走った。あらゆるものを貫かんとする魔理沙のレーザー。
だが、その時既に男は動いていた。
懐から取り出した小さな箱。男の掌に載る、似つかわしくない組木細工の箱。
レーザーを際どく躱した男は、そこでついっと口の端を吊り上げた。
スターは気付いた。
その箱が何なのか。
男が何をするつもりなのか。
「魔理沙さん! あいつ消えるつもりです!」
舌打ちして魔理沙が狙いを変える。しかし、その時にはもう男の姿が消えていた。
「ちくしょう! どこ行きやがった!」
魔理沙の怒号。慌てて辺りを見渡すが、狙うべき姿はどこにもいない。
いや、そんなことはない。
スターの星空には映っている!
「後ろ!」
スターが叫ぶ。魔理沙が強引に身体を捻る。肉薄する凶刃。
そして、
「はいはい」
横から飛び出してきた紅い影。
ぱしん、と軽くはたくような音とともに、男が姿を現した。
男の手を離れて宙に浮くあの小さな箱。
驚愕に歪む男の顔。
翻る御幣が男の手からそれを払い落とした。そのことにスターが気付いたのは、ずっと後のことだ。
男が闖入者へ目を向けるよりも先に、彼女は――霊夢は男の鳩尾を下から蹴り上げていた。
ずしん、と重い音が響く。
男は宙を舞い、霊夢の身長よりも高く上がった。華奢な彼女が、どうやってこの巨体を蹴り上げたのか。常識外れの威力だった。
男が受け身も取らず、べしゃりと落ちた。
それでおしまいだった。
男はぴくりとも動かなかった。だらしなく四肢を投げ出して、痙攣すらしない。
生きてはいた。
スターの星空では消えていない。どうやら気を失っているだけらしかった。
唖然とするスターと魔理沙。そこへ、霊夢がこきこきと肩を鳴らしながらやってきた。
「詰めが甘いわよ、魔理沙。かっこつけてる余裕あるなら、さっさとぶっ放しなさいよ」
その言葉で、ようやく魔理沙の呪縛が解けた。
「お、おい! なんで良いとこ取っちゃうんだよ、お前!」
「あんたがもたもたしてるからでしょうが」
魔理沙の抗議に、霊夢はにべもない。
「私だってこんな面倒事、首突っ込むつもりさらさらなかったわよ。里のことは里で解決するのが掟。こんなことでいちいち出張るほど暇じゃないんだからね」
でも、と霊夢は苦い顔で後ろを示した。
すると、そちらからぱっと小さな影が飛び出し、
「スター!」
スターへと飛び込んできた。
「ルナ!?」
「ああ、良かった! ごめん、ごめんねスター! 私、サニー達がどこにいるのかどうしてもわかんなくて……」
ルナは涙で顔をぐしゃぐしゃにして、良かったとごめんねをスターへ繰り返した。当惑したスターが説明を求めて霊夢を見ると、肩を竦めて言った。
「そいつが泣きながらうちに来たのよ。何言ってんだかさっぱりだし、邪魔だから放っておこうとしたんだけどさ。いつまでもぴーぴーうるさいし、めんどーだから魔理沙にでも押しつけようかと思って」
「……お前らしいよ」
魔理沙がくっくっと笑った。なるほど、図らずもルナの目的と霊夢の目的が一致したらしい。
「あれ、じゃあ魔理沙さんはどうやってここが?」
スターの問いに、魔理沙は、ああ、と頷いた。
「お前、被弾しただろ」
「は?」
きょとんとするスターへ、魔理沙はウインクした。
「聞こえたのさ。ピチューンってな」
「は、はあ? ええっ!?」
頭に手をやる。血は止まったらしいが、やはりずきりと痛む傷。
「え、ちょ、からかわないでくださいよ! ピチューンって! ほ、ほんとにそんな音がしたんですか!?」
「おお、ホントもホントさ。ここは幻想郷だからな」
そう言いながら屈託なく笑う魔理沙。ぷっと吹き出す霊夢。釣られるように、泣くのを止めて笑うルナ。
笑い声の中で、スターは一人戸惑う。
いろいろなことが起こりすぎて、
冗談事でなく死ぬような怖い思いをして、
たくさんたくさん、たくさんたくさん泣いて、
その果てに、自分が何をすればいいのか、どうすればいいのかがわからなかった。
ただ、スターの周りで輝く星達はあまりに暖かくて、
スターは自分の顔が綻んでいることを知った。
「ちょっとー!」
遠くから声が飛んでくる。
「魔理沙さーん! 置いてかないでよおーもおーっ! あ、いた! おーい! え、あれ、どうなったの? ちょっと、スターってばなんか怪我してる! 大丈夫なの!?」
血相を変えて飛んでくるサニーへ、スターは大きく手を振った。
秋雨が数日続き、ようやく晴れ間が見えた。
そんな日の早朝、スターは魔法の森を歩いていた。
一人である。
サニーはまだ寝ているし、ルナはのんびり新聞を読んでいる頃。
手にはスコップ。先ほど使ったばかりだった。
平べったい風呂敷包みを胸に抱えて、スターは歩く。
鬱蒼とした森の茂みを抜けて、やがて、ぽっかりと開けた場所に出る。
そこに建つ、古びた一軒家。
斜めに突っ立った看板には、乱暴かつ大胆な筆使いで『霧雨魔法店』とあった。
玄関のドアを前にして、スターは躊躇う。
主が在宅なのは、ノックをするまでもなくわかっていた。
だが、スターは迷っていた。自分の行動がはたして正しいのかを。
すると、
「開いてるぜー」
中から声がかかった。ほう、と息を吐く。気付かれているのだ。ならば迷っていても仕方がないと腹を括る。
「お邪魔します」
スターはドアを開けて中に入った。
どこもかしこも、何に使うのかわからない物が積み上がっていた。どうにか、歩くスペースだけは確保されていて、スターはそのラインを進むしかない。
「よう」
どうやらリビングらしい部屋には、やたらと古そうなテーブルと数脚の椅子。その一つにだらしなく腰掛けて、魔理沙はマグカップをすすっていた。
「まあ座ってくれ。あんまりたいしたおもてなしはできないけどな。コーヒーでいいか?」
「あ、いえ、お構いなく。でも砂糖は三つ、ミルク多めで」
魔理沙の対面の椅子に座った。風呂敷包みをぎゅっと抱きしめて、魔理沙を見る。
魔理沙は、スターの前にコーヒーを用意しながら言った。
「元気そうじゃないか。もう怪我はいいのか」
「あ、はい。もう大丈夫です。あの、こないだは助けてくれてありがとうございます」
「はは、いいっていいって。妖精にそんなかしこまられちゃこっちの方がやりにくいぜ」
どうぞ、とマグカップを薦められる。スターは、ぺこりと礼をしてマグカップを手に取った。
しばし、二人で無言のままコーヒーをすする。そして、頃合いを計ったように、マグカップから口を離した魔理沙は、そこでようやくスターを正面から見た。
「さて、用件を聞こうか」
ぎしり、と椅子が鳴り、魔理沙は左肘をテーブルに置いた。
「失せ物探し、身辺調査、学術研究、遺跡発掘に水道工事、霧雨魔法店は何でも受け付けるぜ。さあ言ってみな」
スターは戸惑った。何を言うべきなのか、この場に来てもまだうまくまとまらないのだ。魔理沙の真っ直ぐな視線を受けきれず、スターは俯いた。
「仕事の依頼じゃない、と。すると、何の用だろうな。ああ、そうだ――」
魔理沙は、もったいぶるように頷いて言った。
「私からはお前に用があるんだったよ」
その言葉に、スターはびくりと震えた。
「こないだからちょいと探し物があってな。困ってるんだ。お前、知らないか?」
口調は軽い。だが、俯いているスターにとっては、それが太い鎖のように感じられた。
「あ、あの」
その圧力に耐えきれず、スターは口を開く。
「ミアズマ・レイク・イリスってなんですか」
スターが問うと同時に、すうっと空気が冷えた。堪らず、ぎゅっとスターは拳を握る。ともすれば震えそうな全身へ力を込める。
沈黙が続いた。
俯いたスターには魔理沙の顔が見えない。いや、見たいとも思わなかった。
見るのが、怖い。
しんとした室内で、柱時計の秒針の音だけが響く。
そして、ようやく、
「たいした話じゃないぜ」
魔理沙は沈黙を破った。
「あの男が崇めてたもんの名前だ。神様、じゃねえな。そもそもは本だ。奴にとっての魔法の本、さ」
吐き捨てるような言い方には、どこか苦さが滲んでいた。
「奴の親父は医者だ。この幻想郷じゃ珍しい外科医をやってる。だがその先代は魔術師でな。外から幻想郷に移ってきたそうだ。家ごとな。しかし、こっちじゃ魔法を止めて医者一本でいくことにしたらしい。なにしろ、幻想郷じゃ魔法使いはごろごろいるが、外科医はほとんどいなかったからな」
医者の家に生まれた男は、当然医者になることを求められた。
長男は期待に応えた。だが、次男は出来が悪かった。
勉強はお世辞にも出来る方ではなかった。図体はでかかったが、それを生かすようなことは一切せず、内向的で友達もいず、一人、家の中で遊んでいる。そんな子どもだったらしい。
男は、家の中で遊べるものを探して掻き回す。
そこで、男は見つけたのだ。
ミアズマ・レイク・イリスを。
「『生命とはどこから来てどこへ行くのか。命とは何処に生まれ何処に宿り何処から去るのか』とか、まあそういったことを書いてる本だ。まあ、チャチな内容さ。昔の哲学やら科学やら魔術やら医術やら、そういったもんをごっちゃまぜにして手前勝手な考察を偉そうに並べてあるだけだ。実につまらん与太話だが、どうやらあいつには波長が合ったらしいな」
男は信じた。
生命の探求。それは魔術師の究極の目標の一つだ。
その時から、それが男の目指すものになった。
「魔理沙さんは」
スターは俯いたままで、呟くように言った。
「魔理沙さんは、読んだんですか」
魔理沙の言葉が途切れた。再び訪れた沈黙は、先ほどのそれとは違って、どこか当惑が感じられた。
やがて、
「出しな」
魔理沙は言った。
「それ、そこに出しな」
何を意味しているのか、もちろんスターにはわかっていた。
元々、そのために持ってきたのだ。
抱えていた包みをテーブルの上に置いて結び目を解く。
風呂敷の中は、何の変哲もない無地の木箱だった。箱を開けると、油紙の包み。更にそれを剥がすと、一冊の本が現れた。
本といっても、厚紙を表紙にした紐綴じである。綴じた紙の大きさも不揃いで、それがあまり出来の良くない手作りであることは明らかだった。
その表紙には、手書きの筆記体で本の名前らしきものが書かれてあった。
Miasma Rake Iris
顔を上げて、魔理沙を見る。
その本を眺める彼女の顔は、あえて言葉にすれば『苦虫を噛みつぶしたような』ということになるのだろう。明朗闊達な彼女らしからぬ表情だった。
しかし、その中にどこか悲哀を含んでいるように見えるのは、スターの気のせいだろうか。
「これ、どこにあったんだ?」
魔理沙は静かに問うた。
「あの時の、森です」
「森?」
「はい、あの日、尾行してたら一度あいつが休憩したことがあって」
そう、やはりあれは休憩ではなかったのだ。
「あいつがいたところの木の根っこに埋まってました」
ふと、スターは気付いたのだ。
ちょうどその部分だけ、土が新しかったことを。
「……そうか、あいつも覚悟はしてたんだな。中身は読んだか?」
スターは首を横に振った。魔理沙はため息を吐いて、「賢明だ」と呟いた。
「この名前自体に意味はない」
魔理沙はその本を手に取った。
「こいつはただの言葉遊びさ。まあ、あえて言えば著者名になるのかな。魔法使いってのは名を隠すものだ、なんてそんなことを思ったのかもな。つまり、これを書いた奴にとっちゃこの名前も含めてお遊びなんだ」
そう言って、ぱらぱらと本をめくる。
「そう、あの男にとって不幸だったのは、これを書いた奴が本物の魔法使いじゃなかったってことだ。魔法使いに憧れる奴なんて、あいつに限った話じゃない。そうさ、この本を書いた奴はそういったうちの一人だ。この本は、ただの魔法使いごっこの産物なのさ」
きちんとした魔法を学ぶには、元々そういった家系に生まれるか、本物の魔法使いに弟子入りするしかない。
独学など無茶な話だった。
手当たり次第に本を読んでも、思ったことを書き散らしても、それで身につくものはほとんど無い。
「この著者はな。そこそこ裕福な家で暮らしてたんだ。だから、当時幻想郷で高価だった紙を使うこともできた。でも、魔法を勉強するには向かない環境だった」
となれば、どこかにその場を求めるしかない。
「実は、この著者の親と件の医者は知り合いなのさ。で、この医者ん家には外から持ち込んだ魔法に関する資料がたんまりあるわけだ。だから、なにかと理由を付けて医者の家に出入りするようになった。ただ、魔法を勉強していることは親に内緒だったから、勉強したことは全部頭の中に入れるしかない。といっても、いくらなんでもやっぱり無茶だからな。頭に詰め込んだもんをどこかで吐き出さないとパンクしちまう。というわけで、出来た物がこれだ」
魔理沙は、ぱん、と本を綴じた。
「ま、そういうことだ。この内容自体に魔術的な価値は全くないし、考察は穴だらけ。そりゃあひどいもんだぜ。で、だ。この作者は、これ書いた後、ちゃんとした魔法使いに弟子入りしたんだ。そこできちんと基礎を学んだ。魔法使いの修行ってのは厳しいからな。ガムシャラにやってるうち、この本のことを忘れちまった。きれいさっぱりな。だから、この本がどうなっちまったかなんて知らなかったんだ」
そこで、魔理沙は軽く唇を噛んだ。
「マジックアイテムってのは、そこにあるだけで周りに影響を与える。本来、魔術的な意味を持たない物でも、強力なマジックアイテムがあるだけでその影響を受けるんだ。ああ、その時は知らなかったのさ。そんなことをな。だから、無造作に置き去りにしてきたその本が、本当に魔力を持っちまうなんて思ってもみなかった」
それが、あの男にとってのもう一つの不幸さ。
「あいつは魔に魅入られた。心の弱いところをつけ込まれて、命じられるままに血を流した。まったくとんだマヌケさ。魔法を心得る者なら一番に気を付けるべきところなのにな」
魔理沙は立ち上がって、脇にある小さな机へ向かった。その上には、彼女の八卦炉が載っている。
魔理沙が、持っていた本を八卦炉にかざした。すると、本からはたちまち青い炎が噴き上がる。炎にあぶられて、本が苦しそうに身を捩った。魔理沙が手を離すと、本は炎の中へ一息に呑み込まれ、まばたきをする間に灰も残さず消えた。
「さて、と」
魔理沙は、うーんと大きく伸びをした。
「はは、やっと清々したぜ。どこにもなくて困ってたんだ。あいつも手元に持ってなかったしな。どうしようかと思ってたんだぜ。お前が持ってきてくれて助かったよ。サンキューな」
朗らかに笑いかける魔理沙。だが、スターはそれに応えられなかった。
笑い声が、どこか空々しく聞こえたように思えたのだ。
そこからスターは推測する。
魔理沙とあの男は、ずっと昔に知りあっていたのではないだろうか。
もっと幼い頃に、出会っていたのではないだろうか。
そして、そんな知り合いが、自分が書いた本で道を誤ったのだと知って、彼女は罪の意識を覚えたのではないだろうか。
「だから」
「ん、なんだ?」
スターは魔理沙を真っ直ぐに見つめて問うた。
「だから、あの男を生かしてるんですか」
この家に入る前から気付いていた。
地下に、誰かが『いる』。
その星の大きさや輝きを、スターは見知っているように思えてならなかった。
もしかすると、魔理沙があれほど必死だったのは、彼を捕らえるためではなく――。
「くっ」
すると、
「ぷ、ぷはははは!」
唐突に、魔理沙が笑い出した。
「何を言い出すのかと思えば、そうか、お前、生き物の位置がわかるんだったな。はははは!」
「な、なんですかいったい!」
笑われて、ついムキになる。しかし、魔理沙は「悪い悪い」と言いながらも笑い続けた。
「そうかそうか、『あれ』が生き物か! ははは、こりゃ傑作だ! きっとヤツも喜ぶぜ! くくく、はははは!」
そんな魔理沙を、スターは唖然として眺めた。
いったい、何が彼女のツボを押したのかさっぱりわからない。
腹をくの字にしながら、魔理沙は言った。
「くくく、ま、まあ待て。いや、お前、何か勘違いしてるだろ?」
「は?」
ようやく笑いを収めて、「よし」と魔理沙は背を伸ばした。
「こいつは面白い。いいぜ、ついてきな」
言うが早いか、魔理沙はすたすたと部屋を出た。事情が呑み込めないまま、慌ててスターが後を追う。
石造りの壁に設えられた木扉を開けると、ひんやりと湿っぽい空気が流れた。
「三件目の事件が載った新聞、お前は読んだか?」
カンテラを持ってその扉をくぐりながら、魔理沙は唐突にそんな質問をした。
「あ、は、はい」
質問の意図はわからなかったが、ひとまず頷く。
「あれを読んでるなら話が早い」と魔理沙は続けた。
「あの事件な、二件目までは新聞に載ってないんだぜ。知ってたか?」
「はい」
そういえば、ルナとそんな話をしたことがあったっけ、とスターは思い出す。
「なぜ二件目まで新聞に載せなかったか。それは事件が里の中だけで起こってたからだ」
階段を下りながら、魔理沙は言った。
「里の中で起こった事件は里の中で解決すべし。それが掟だ。外部からの介入もできない。これは人里が自治を保つための要だからな」
だが、三件目は、里の外で起こった。
「つまり、犯人が里から出た時点で、事件の扱いが変わった。解決のために里の外の力を借りるもやむなしってことになったのさ」
「ああ、それで新聞に……」
幻想郷の新聞は、主に天狗達が作っている。天狗の新聞に載るということは、問題を幻想郷全体に、妖怪達にも知らせるということになる。
「と、まあここまでは表の話だ」
スターの方へ振り返って、魔理沙は笑みを浮かべた。それを見て、スターはぞっとする。
暗がりの中、カンテラの光に浮かぶその笑みが、どこかしら邪に感じられるのは、はたして気のせいだろうか?
「ところで、だ。私は普通の魔法使いだが、特に専門は黒魔術だ」
階段を下りきると、開けた場所に出た。倉庫なのか、雑多な物が積まれているようだが、魔理沙はそれに構わず、奥へ進む。
「魔法の研究はいろいろと厄介が多くてな。実験したくても材料集めが大変なんだ。中でも――」
奥の扉を開けて、魔理沙はカンテラを掲げた。
「中でも――人体はな!」
灯りが照らした物が何なのか、スターは最初把握できなかった。
がっしりとしたテーブルの上に、それは何かが積まれているのかと思った。
赤紫色のつるりとした塊。暗褐色の管。黄土色のぼってりとした襞。そんなものがいくつもいくつも無造作に積み上がって山になっている。そういうものに見えた。
だが、よく見ればそれらの表面を編み目のように紅い筋が通っていることがわかる。
てらてらとぬめる粘液が浸みだしていることがわかる。
臓物。見た目ならそれが一番近い。
動物の臓物を掻き出して、ただ積み上げたような――
すると、それが突然、ぶるんと震えた!
ひっとスターは悲鳴を上げて飛び退る。その声を聞きつけたかのように、テーブルに載ったそれは、激しく動いた。
管がびくんびくんと脈打ち、
くびれた塊がぶるんぶるんと震え、
ぼってりとした部分がべちんべちんとテーブルを打った。
そして、べろりと開いた隙間の奥から、
どこかで見覚えのある、小さな冷たい目が、スターを見た。
それを見て、スターはへなへなと座り込んだ。
スターには、わかったからだ。
『それ』が何なのか。
『誰』だったのか。
「あ、あれ、あれは……!」
うまく言葉にならない。歯がかちかちと鳴って、まともに喋れなかった。
「ま、そういうことだ。はは、貴重なサンプルだからな。張り切っていろいろ使っちまったんだが、実験で弄りすぎちまった。もう『どこ』に『何』があるのかもよくわからん。生きているのかすら怪しいと思っていたが、そうか、生きてるんだな、これでも」
くっくっと魔理沙は笑った。その姿は、確かに魔理沙でありながら酷く現実味を欠いていた。
スターの星空にはいつもの魔理沙が映っているのに、スターの頭はどうしても今、目の前で『それ』を見て笑う魔理沙を、魔理沙だと思えなかった。
あの日、自分を助けてくれた彼女に、なぜこんな恐ろしいことができるというのか。
「なんだ、どうした。立てないのか? 仕方ないな」
スターの前に彼女の手が差し出される。だが、スターはその手を取れなかった。
怖い。
スターは魔理沙が、怖い。
焦れた魔理沙が強引に抱えようとしたが、スターは身を捩って抗った。
「おいおい、どうした。何が気に入らないんだ?」
呆れた様子の魔理沙。それを見て、スターは彼女が全く悪びれていないこと。この恐ろしい行為に対して動じていないことがわかった。
「ど、どうして……どうしてこんな……!」
「どうしても何も、これが裏の事情さ」
魔理沙は肩を竦めた。
「今の幻想郷じゃ、妖怪が人を襲うってこと、滅多にないだろ。まあ、襲うにしたっていろいろと仕来りが面倒らしいんだがな。ところがだ、人里で殺人、まして連続殺人なんて重犯罪をしでかす奴は別だ。そいつがいったん里を出れば、そいつを守る法はない。新聞に載るってのはそういうことさ」
それは、幻想郷中のお尋ね者になるということ。
妖怪達にとってはまたとないご馳走であり、
魔法使いにとっては貴重な実験材料である。
「中身のいくつかは、永遠亭へくれてやったよ。こないだの検死のお礼代わりさ。こいつ、おつむの中身はどうしようもなかったが、身体は健康そのもので丈夫だったからな。なかなかの上物だって喜ばれたぜ」
「ひ、ひどい……!」
「酷い? なにがだ? お前だってこいつに酷い目に遭わされただろう? こいつは因果応報ってもんさ」
「そ、それにしたって、私、こんなこと望んでません!」
「そりゃ当たり前だろ。これは私が望んだんだ」
それに、と魔理沙はスターの前にしゃがみこんで顔を覗き込む。
「そんなことはお前が一番よく知ってるだろう?」
「な、なんのこと、ですか」
「弱肉強食が世のならいだってことをさ。狩る側は狩られる側の都合なんか気にしないんだ。狩る側の目的は命を奪うことそのものじゃない。その結果、得られるものが欲しい。肉だろうが血液だろうが、目的さえ達成できれば、狩られる側がどうなろうと知っちゃことじゃないのさ。生きてようが死んでようがな」
「そ、それは……!」
スターは唇を噛む。それは、確かに世界の真実だから。
だが、スターは認めたくなかった。
それは、あまりにも悲しく、辛い。
「それじゃ……それじゃ、魔理沙さんもあいつと同じじゃないですか!」
スターは叫んだ。
「あいつが女の子達を殺したのも、魔理沙さんがあいつにしたことも、それじゃ一緒じゃないですか! 狩る側が何をしてもいいなんて、そんなのバカにしてます! 狩られる側の命を、バカにしてます! それじゃあ、狩られる側は――私達の命はなんなんですか!」
スターは魔理沙を睨み付ける。命を弄ぶ彼女へ、精一杯の抗議を込めて。
魔理沙は、笑みを消してしばらくその視線を受け止めた。
答えを探しているのか、迷っているのか。それは彼女の表情からは読み取れなかった。
やがて、魔理沙が立ち上がった。
「そうだな。私もあいつと一緒だ。目的のためならお構いなしさ。だがな、ある意味で私はお前とも一緒だ。狩る側だって、いつか狩られるかもしれない」
いつか私もこうなっちまうかもな。
テーブルの上へ目を向けて、魔理沙は自嘲気味にそんなことを言った。
「命とは何か、か。そういうものを古今東西、いろんな奴が考えあぐねて、いろんなことを試してきたが、いまだに結論なんか出やしない。いや、ただ、そうだな。一つはっきりしてることがあるぜ」
魔理沙は、スターへ再び向いて、力無く笑った。
「お前、生き物の場所がわかるんだろう? ってことはだ。生き物ってのは、『お前に見えてるもの』ってことになるな。永らく多くの者が求めてきた命の定義、それがお前だ。ははは、こいつもとことんマヌケな奴だ。真理はこんなにも近いところでうろちょろしてやがったってのにな」
「じゃあ、帰ります」
「おう、気を付けて帰れよ」
玄関でスターと魔理沙は向き合っていた。
地下室から戻ってからは、お互いほとんど会話をしていない。魔理沙が淹れなおしたコーヒーを互いに飲んで、それだけだった。
魔理沙は、見た目では何も変わってないように見えた。
まるで、あの地下室での彼女が幻だったかのように、普段スターが知る魔理沙のように見えた。
だが、スターの星空は常に真実を映す。
あれが決して幻ではなかったことを、今でもあの星が教えている。
世界がいかにおぞましく残酷であるのかを、スターへ知らしめる。
しかし、コーヒーを飲む間に、スターはもう一度自分が見たもの、聞いたものを思い返して考え直した。
三人目の少女が殺された時の彼女。
スターを助けてくれた彼女。
そして、地下室で見せた、力無い笑み。
どれも同じ魔理沙だ。
ならば、理由があるのかもしれない。
彼女が、そうしなければならなかった理由が。
狩る側でも、いつ狩られるかわからないのだから。
あるいは、
彼女も昔、狩られる側だったから?
それはただの推測だし、それが明かされることもないだろう。
そして、スターもそれを聞くつもりは、一切無い。
「お、そうだ。思い出した」
そう言って、魔理沙はごそごそとエプロンのポケットを探した。
「ほれ、お前にやる」
取り出した物を放られて、スターは慌てて受け取った。
それは、組木細工の小箱。
「こ、これ!」
スターは息を飲む。あの男が持っていた物である。
「透明消音なんて、どうやって実現してるのかと思ってな。どういう理屈なのか知りたくて調べたんだ。箱自体はなんてことはない、ただの箱さ。問題は中身だ。だが……どうやら私の目的には合わないみたいだ。こういうのは、性に合わん」
大きさはスターの手にあまる程度。それを持つ手が震えた。
ごくり、と唾を飲み込む。
「中身は……」
ああ、と魔理沙は頷いた。
「勝手に処分したぜ。最初はその箱ごと全部燃やしちまうかと思ったんだがな。気が変わった。まあ、あとはお前の好きにしな」
魔理沙の声は、突き放したようでいて、どこか痛ましい響きがあった。
「そう、ですか」
スターは、ぎゅっと小箱を胸に抱えた。
魔理沙は知っているのだ。そのことを確信した。
「ありがとう、ございます」
「礼を言われるようなことはしてないぜ。ああ、一つ訊いてもいいか?」
魔理沙は、表情をあらためて言った。
「そいつの中身、おまえには『見え』たか?」
スターはぴくりと身体を震わせた。しばらく答えに悩んで、小さく首を横に振る。魔理沙は、そうか、と小さく呟いた。
はたして、魔理沙がそれ以上触れないのは、優しさなのか、残酷なのか。
「帰ります!」
いたたまれず、スターは魔理沙に背を向けて走り出した。
そのまま振り返らずに、走って走って走る。
自分の顔を、魔理沙へ見られたくなかったのだ。
自分がどんなに情けない顔になっているか。スター自身がよくわかっていたから。
幸い、魔理沙は追ってこなかった。
いや、きっと彼女は弁えているだけだ。
この世界の現実を。
スターのことを。
走っているうちに、ぼろぼろと涙がこぼれた。
スターは誰よりも知っている。
この世界はどこまでいっても、狩る者と狩られる者しかいないことを。
そして、狩られる者は捕まったらそれで終わりなのだということを。
だからこそ、狩られる者は何をしても、どんな手を使ってでも逃げ続けるしかないのだということを。
「ごめん」
知らず、言葉が洩れた。
「ごめんね、ごめんね、ごめんね」
ぐずりながら、何度も謝る。既にその中身の無い小さな箱へ向けて謝る。
かつて見殺しにした、二人の面影へ謝り続ける。
それがスターサファイアの常識である。
昼間でも雨の日でも建物の中からでも。目には見えなくとも星は確かにそこにある。
もちろん、それは星の光の妖精、スターサファイアだからこその感覚である。彼女と同じ光の妖精仲間、サニーミルクやルナチャイルドとですら共有できない世界。
スターサファイアだけの世界だ。
「うーん、ないわねえ」
サニーがスターの背中の方でぼやいた。
「そっちはどう?」
「ダメね、ぜんぜん。ビー玉一つ見つかんないわ」
応えるルナの声には疲れが混じる。いかにもうんざりしたという口調である。妖精にしてはネガティブな彼女のこと、きっといつものように唇を尖らせているのだろう。
サニーはスターの後方、ルナはさらにその後方。スター、サニー、ルナの順に線を結んで上から見れば、「く」の字形になるだろう。
もちろん、背を向けたスターには、二人の姿は見えない。
しかし、スターはそれをスターのみが持つ感覚で捉える。
「スターの方は?」
問われてスターはサニーの方を振り向いた。
「んー、こっちもさっぱり。今日はハズレね」
そう言って、スターは苦笑した。
今日は宝探しの日である。
場所は神社近くの森。
この辺りは、時たま外の世界から物が流れ着いたり、神社へ訪れる人妖が落とし物をしたりと、何かしらお宝が隠されていることが多い。宝探しには絶好のロケーションなのである。
たいていは小さくとも何かしら収穫があるのだが、どうも今日は日が悪いらしい。
朝から張り切ってやってきたものの、日が中天にさしかからんとする頃になってさえ未だボウズ。元々、遊びとしてやっている宝探しだから、これではどうにも盛り上がらない。
「あーもう、つかれた!」
手近な木へどすんと背を預けてサニーが叫んだ。
「ほんと、もう目とか腰とか痛くてたまんないわ。お腹もすいたし」
ルナも顔をしかめて己の肩をとんとんと叩く。なにしろ、朝からずっと地面を見続けていたのだ。いかに妖精とて、それは肩も凝る。
「でも、残念ね。せっかく来たのに」
そう言うスターだが、実はそれほど残念でもなかったりする。他の二人と違って、あまり真面目にやってないのである。なので、体もたいして疲れちゃいない。
なにごともほどほどに済ませて体力温存。それがスターの処世術である。
「それで、どうするの?」
ルナがサニーへ問う。サニーは腕を組んで、うーん、と唸った。
「このまま帰るんじゃつまんないわねー。何かないかなあ」
「何かって何よ」
「そりゃあ何かよ。何か」
むむむ、とサニーは天を睨む。
「宝探しなんだから、アレが足りないと思うのよね」
「アレ?」
ルナとスターは首を傾げる。サニーは頭の回転が速い分、こうして二人がついていけなくなることがままある。
「そう! 宝探しといえば冒険! アドベンチャーよ! スリルとロマン! それにサスペンス!」
拳を振り上げてサニーが叫ぶ。おお、とルナ、スターは声を上げた。
「秘密の洞窟とか!」
「謎の遺跡とか!」
「未知の生物とか!」
イエーと三人でハイタッチ。気分が盛り上がりそうな連想ゲームは三人とも大好きである。
「じゃあどこかに冒険行くの?」
「そうねえ……」
ルナとサニーが楽しげに話す。スターも笑顔で彼女らに合わせるが、しかし内心、あまり気は進まなかった。
スリルもサスペンスも、眺めるだけなら良い。
当事者にさえならなければ。
サニーは知っているだろうか。彼女がもたれかかるその樹上で、小鳥が今まさに虫をついばんでいることを。
ルナはわかっているだろうか。彼女の後ろの下生えの中、蜘蛛が哀れな獲物を捕らえたばかりであることを。
周囲にひしめく数多の生命が、どれほど過酷な生存競争を、スリルもサスペンスも吹き飛ぶようなサバイバルを行っているのかを。
生き物の位置を知る。それがスターサファイアの能力である。
姿形(すがたかたち)まではわからないが、それらの位置と大きさくらいはわかる。それだけわかれば、スターは経験的にそれがどういう生き物なのかを知ることができた。
スターが認識する世界。
それは、満天の星空に似ている。
空にも、川にも、木の上にも、石ころの下にも、更にそこから地面の奥深くまで。
どちらを向いても、どこを見ても星は輝いている。この世界がどれほど星の輝きに満ちているのか、スターはよく知っていた。
そして、その星がどれほど容易く輝きを失うのか。そのことも十分すぎるくらいよく知っていた。
今こうしている間にも、スターの周囲で消えていく星がある。
生命とは、かくも強く、儚い。
輝く星のうちの一つは、サニーミルクであり、あるいはルナチャイルドであり、スターサファイア本人である。
星であれば、いつか自分が消える側になるのか。スターがそれを意識するのは当然のことだった。
妖精らしくないな、とはスター自身も思う。
多くの妖精は向こう見ずでやんちゃを好む。それは妖精が一般的な死から遠い存在だからだろう。基となる自然さえあれば再生する彼女らは、仲間の死ですら『一回休み』と軽く流す。
しかし、スターは違う。
身近に多くの生と死を見続けるスターにとって、それは簡単に流せない事柄だった。
スターサファイアは、死が怖い。
星が輝きを失うことが怖い。
その時、その瞬間、どれほどの苦痛と衝撃があるのか、それを想像するだけでも怖ろしくて堪らない。
だから、スターは危険を好まない。サニーやルナほど無邪気にはしゃぐことができなかった。
二人と一緒に遊んでいても、常に全天へアンテナを張る。何かことが起こればいつでも逃げ出せるように。そのための力は必ず蓄えておかなければならない。全力で遊びに興じるなんてもってのほか。
それが、スターの処世術である。
そこで、スターはふと気付く。
サニーとルナの会話を聞きながら、己が感知できるレンジぎりぎりのところで、新たにひっかかった星が一つ。
虫や鳥ではない。獣か。自分達と同じくらいの大きさ。
獣であったとすれば、決して侮れないサイズ。
あるいは妖精だろうか?
それとも妖怪?
要警戒。
だが、新たに現れた星を感じて、スターは更に警戒レベルを上げた。
さきの星よりも更に一回り、いや二回りは大きい。
それが、明らかに前のそれを追っている。
狩る者と狩られる者だった。
距離を測る。まだ大丈夫。もしこちらに向かってきたとしても、十分に逃げられる。それだけの余裕がまだある。なんといってもこちらにはサニーとルナがいるのだ。姿と音を消せば、たいていの者からは逃げ切れる。
スターはそれだけを瞬時に判断した。まだ他の二人には知らせるまでもない。経験上、怖がりすぎるのも良くないのだ。捕食者は多くの場合、一つの獲物を狙って仕留めるまで他に注意を払わない。だが、下手に騒げば狩りの邪魔をすることになって、狙いがこちらに来ることがある。それだけは避けなければならなかった。
大きな星が、小さな星をついに捕らえる。
小さな星が呑み込まれて、一際明るく輝くが、それは最後の抵抗だ。
もう逃げられない。
明滅する輝き。次第にそれは弱まっていく。もう、あとは消えていくしかない。
こうなれば一安心だった。この大きさの星なら――それが獣か妖怪かはわからないが――狩りが終わればまたいずこかへと去るはず。哀れな生贄は一匹で済むのだ。ほっとスターは肩の力を抜いた。
「――ということで、今日は帰って準備するわよ!」
サニーが総括して宣言する。往々にして、サニーが提案、ルナが批判、あとはスターが適当に合わせておけば、話がうまくまとまるものなのである。
どうやら、明日は本格的な冒険ごっことなるらしい。場所は帰ってから地図を見て詰めるというところか。それならばまだ安心だ。行く前に脱出ルートもチェックできるだろう。
その時だった。
スターの世界を、流星が貫いた。
びくり、とスターは身を震わせた。上空。十時の方向から二時の方向へ一直線。しかし、途中でぐいっと進路を曲げて、スター達目がけて急降下し――、
「おい、お前達!」
声をかけられて、他の二人もびくりと飛び上がった。三人でこわごわと空を見上げる間もなく、黒い影が木の葉を舞い散らせて下りてくる。
特徴的な黒いとんがり帽子。白いシャツとエプロンに、黒いベストとスカート。急制動をブーツでかけて箒にまたがるのは、霧雨魔理沙である。
なあんだ、と三人胸をなで下ろした。
「お、脅かさないでくださいよぅ」「そ、そうですよ。なんですかいきなり」「ほんとほんと」
愛想笑いをしながら、魔理沙へ軽口を叩く。この程度には親しくなった仲である。
だが、
「お前達、誰か見なかったか?」
魔理沙は厳しい口調で問うた。いつもの魔理沙らしくない、硬質な声と鋭い目。気圧された三人は揃って息を飲んだ。
「だ、誰かって、あの?」
辛うじてサニーが問い返すが、その声は小さく震えた。普段、溌剌として親しみやすいはずの魔理沙が怖いのだ。スターもルナと手を取り合って、肩を小さくする。
魔理沙は即答しなかった。じろりと周囲を睨む。その様子を、三人は息を殺して見守った。
やがて、
「子どもだ」ぽつりと呟いた。
「人間の女の子。まだ小さい。長い黒髪。着物は藍染めに朱の帯だ。見てないか?」
「い、いえ……?」
戸惑うサニーがルナとスターを見る。ルナはぷるぷると首を横に振り、スターもそれにならおうとして、
固まる。
人間。子ども。女の子?
ぞわり、と背筋を冷たいものが這う。
――自分達と同じくらいの――
「知ってるのか」
魔理沙の目がスターを捉えた。その目から逃れようとスターは一歩退く。血の気が引いていることは自分でもわかった。
「知ってるんだな」
口元を吊り上げる魔理沙。その笑顔の獰猛さにスターは泣きそうになる。
だって、無理だ。
そうスターは思う。
教えても、無駄だ。
あれは、もう――。
そこで、スターは再び気付く。
違和感があった。
小さな星が、まだ光っている。生きているのだ。狩りならば、もうとっくに息絶えているはずである。
既に大きい星は去ったというのに、である。
なぜだろう。しこりのような疑念に囚われながら、スターは探る。弱々しく瞬く星を。もう消え入りそうな輝きを。
そして、自分でも意識することなく、その方角へ震える指を差した。
「そっちか! サンキュー!」
魔理沙がその方角へ向けて飛ぶ。まるで矢のようなスピード。サニーとルナが後に続いた。
だが、スターは動けない。
なぜだかわかってしまったからだ。
恐ろしい真実に気付いてしまったからだ。
なぜ今まで生きていたのか。
違う。
あれは、生かされていたのだ。わざと。
遠くで、サニーとルナの悲鳴が聞こえた。
そして同時に、その星は微かに瞬いて消えた。
閑静な森は、たちまち喧噪に覆われた。
壊れた笛のように泣き叫ぶ男女。互いに抱き合いながら、涙を絞り上げるように慟哭する。
戦慄と憤りを隠せず震える声で話し合う男達。手に持った物騒な得物が、がしゃがしゃと鳴る。
連絡を受けてやってきた里人達だった。先ほど亡くなった少女の両親と、少女を捜していた人々。
悲嘆と怨嗟と憤怒、そして恐怖。各々の顔にはそんなものがべっとりと張り付き、互いに目を血走らせる。
そんな殺伐とした人々の輪を、スターは木陰から眺めていた。
スターの傍では、サニーとルナが目を回して横になっていた。あの後、二人は揃って卒倒したのである。スターは二人を介抱しながら、人々が噴き上げる負の感情から隠れていた。
妖精にとって人間というのは暇つぶしの対象でしかないが、同時に怖ろしいものでもある。特に、殺気だった集団ともなれば尚更だ。こうして眺めるだけでもぞっとする。
それに、光の妖精であるスターは、負の感情そのものが苦手だ。スリルもサスペンスもフィクションならばいくらでも楽しめるが、実際、目の当たりにするとどうしても恐怖と不安が先に立つ。
人々から自分の横へ目を移す。
スター達三人の横で、魔理沙は静かに立っていた。
左手に箒を握り、帽子を目深にかぶって一言も喋らない。
だが、箒を握る手の震え、きつく結んだ口元はなによりも雄弁だった。
押し殺された怒り。それがまた恐ろしくて、スターはとても声がかけられない。できればここから今すぐにでも離れたいくらいだが、魔理沙がそれを許す雰囲気ではなかった。三妖精を、いや、スターを逃がさないために、魔理沙は横に立っているのではないか。スターがそう思うくらいに、彼女の威圧感がスターを縛っていた。
やがて、人々の輪の中から、二人の人影が現れた。そのまままっすぐ、スター達の方へ歩いてくる。
「真っ昼間から酷いものを見たわ」
不機嫌も露わにそう吐き捨てるのは博麗霊夢である。どこからか事件を聞いて飛んできたのだ。
「一応、簡単に清めたけど、血の臭いはしばらく残るわね。まったく、神聖な鎮守の杜でなんてことしてくれるのよ」
ぶつぶつと文句を垂れる霊夢の隣で、真ん中から赤と青に染め分けた特異な格好の女がくすくすと笑う。八意永琳。それまでスターに面識はなかったが、あの後、魔理沙が呼んできたのだ。
「お疲れ様。貴女が巫女らしいことしてるの、初めて見たわ」
「私はいつだって巫女らしいわよ。それで、あれはいったいどういうことよ」
親指で後ろを示しながら、霊夢は魔理沙を睨んだ。睨まれた魔理沙は肩を竦める。
「どうもこうもないさ。まあ、私の話の前に、まずはそっちの話を聞こうじゃないか。どうだった?」
魔理沙は帽子の影から永琳を見た。永琳は、そうねえ、と腕を組む。
「一言でいえば、なかなかの腕利きね。限られた時間と場所の中で行われた作業としては、実にスピーディで精確な仕事ぶりだわ。神経を避けて筋繊維に沿って切開、主要な血管の止血、傷一つついていない臓器、どれも知識と経験に裏打ちされた技術よ。素人とは思えないわね」
そこで、永琳はうっすらと笑った。
「麻酔は昏睡しないように調節してある。出血は最小限に抑えてあるし、ショックが起こらないように気を遣ったのね。これらのことから、犯人は可能な限り被害者を生かそうとしたと見られる」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ」
霊夢が割って入った。
「なに、あれはじゃあなんなのよ。中身ごっそりくり抜かれて、ご丁寧に並べてあったあれは!」
目が据わっている。いつもの巫女らしくない、血の気の引いた顔。
「つまり、こういうことだろ」
魔理沙は声を低くして呟いた。
「あの子は、生きたままバラされたんだ」
その言葉に、スターは総毛立った。
すうっと目の前が暗くなる。明滅する星の光。次第に次第に弱くなっていく輝き。現場は見ずとも、それが実際に行われたことをスターは既に知っている。
スターが見も知らぬその少女は、生きながらにして腹を裂かれ、中身を一つずつ抜き取られたのだ。スター達が釣った魚を捌くように。
痛いだろうか。麻酔をかけられていたといっても、意識は本当に無かったのだろうか。己の身体が少しずつ損なわれていくことを、己の腹の中を掻き出されるところを、何も感じなかったのだろうか。
いや、違う。あの時の小さな星の瞬きが示している、苦痛を訴えていた。もがいていた。助けを最後の瞬間まで求めていたはずだ。
それを、スターだけが知っている。じわじわと死にゆくことを怖れる彼女の悲鳴を、スターだけが――!
「おい、大丈夫か」
ぐい、と強く抱えられて、自分が倒れそうになったことを知った。スターの顔を魔理沙が覗き込んでいる。
「なんだ、顔色悪いな。しっかりしろ」
魔理沙の顔つきは、先ほどに比べれば幾分柔らかかった。一応、スターの身を案じてくれているらしい。
「仕方ないな。お前も寝ておくか?」
「い、いえ、大丈夫、です。すみません」
まったく大丈夫ではなかったが、そう応える。とてもじゃないが、怖くてまともに眠れる気がしない。目を閉じることすら耐えられなかった。この明るい中に現れる闇が、どうしようもなく怖ろしい。
かちかちと鳴る歯を止めることもできず、スターは魔理沙にすがりついた。袖を掴まれた魔理沙は苦笑したが、それでもスターを振り払うことはしない。その優しさと力強さに、スターは少しだけ安心して首を預けた。
「さて、私の話はこれくらいだけど、他に何かあるかしら」
頃合いを見計らうように、永琳が問うた。魔理沙はそこで里人達の方へ視線を向ける。ちょうど、男衆が担架を持ち上げたところだった。どうやら引き上げる様子である。
その様子を眺めながら、魔理沙は首を横に振った。
「ああ、知りたいことはだいたいわかったし、もういいぜ。サンキュー、わざわざ来てもらって済まなかったな」
「いいのよ。こちらも切っ掛けができて助かったわ。でも、貸しは貸しよ」
「わかってるさ。礼はたっぷりはずんでやる」
「ふふ、期待しないでおくわ。では、私はこれにて失礼」
永琳は会釈をすると、ふわりと浮き浮き上がって去っていった。
彼女の後ろ姿を見送りながら、むう、と霊夢は唸った。
「あいつはあんまり驚いてなかったわね。あんた、なんであいつを呼んできたの?」
横目で睨む霊夢へ、魔理沙は肩を竦めてみせた。
「客観的な外部の意見ってのを伺いたかったのさ。それに」
「それに?」
魔理沙は、人差し指で霊夢を招いた。怪訝そうに近付いた霊夢の耳元へ、魔理沙は声を潜めて囁く。
「里の医者を使いたくなかった。いろいろ事情があってな」
「事情ってなによ。もったいぶるわね」
「愉快な話じゃないからな」
魔理沙は、そこで言い淀んだ。そして、ふっと軽く息を吐く。
「実はな、この事件はこれが初めてじゃない。あの子は三人目だ」
霊夢が息を呑んだ。
「ちょ、それって――!」
「しっ、落ち着けよ。ま、そういうことだ。と、これ以上はここじゃ話しにくいな。場所変えようぜ」
魔理沙と霊夢が揃ってちらりと里人達を見る。
「いいけど、どこ行くのよ」
「お前んちでいいだろ」
「なんで私んちなのよ」
「ついでに昼も食わせてくれ。朝から何も食ってないんだ」
「図々しいわね。ありあわせよ」
「よし、決まりだ。と、そうだ」
魔理沙は、ふと気付いたように抱えたスターを見た。
「そんなわけだ。私と霊夢はこれから用事がある。お前は、と、まだ少し顔色悪いな。もうちょっとここで休んでろ。あとの二人が気付いたら早く帰れよ」
「は、はい」
そう返事はしたものの、ここで魔理沙と離れるのは心細かった。去りつつあるとはいえ、気が立っている人間達がたくさんいるし、サニーとルナは未だに起きる様子が無い。少女の死のイメージはくっきりとスターの中に刷り込まれていて、同じように襲われたらと思うと、それだけで息が止まりそうだった。自然、魔理沙を掴む手はいっこうに離れなかった。
そんなスターを見かねたのか。霊夢は、一つため息をついて、寝ているサニーとルナに近付いた。
そして、おもむろに右足一閃。
二人まとめて蹴飛ばした。
ぎゃあ、と二人が情けない悲鳴を上げて転がる。
「いったーい! ちょっと、何すんのよ!」「あいたたた! ひどい! なんなのいったい!」
ぎゃんぎゃんと抗議する二人を尻目に、霊夢はスターへ言った。
「ほら、二人とも起きたわ。これで帰れるでしょ」
渋々、スターは魔理沙から手を離した。魔理沙が苦笑して肩を竦めた。
「ああもう、サイアク!」
翌日である。
サニーが起きたのは、昼も過ぎようという頃だった。元々寝坊助の彼女であるが、これほど遅いのは珍しい。
「昨夜はあんまり眠れなかったわ。なんか厭な夢見そうで」
寝癖もそのままに、サニーはだらしなく椅子に座った。言葉を裏付けるように、目の下の隈が濃い。
「これ以上寝てたら、まぶたがひっついちゃうんじゃないの」
新聞を読みながらルナが言う。しかし、そんな彼女とて顔色はあまり良くない。眠れなかったのはルナも同じなのである。
うーと唸るサニーの前に、スターはティーカップを差し出した。眠気覚ましの紅茶である。受け取ったサニーはちびちびと口をつけて外を見る。そして、再び唸った。
窓から見える風景は雨で煙っていた。日の光の妖精、サニーとしてはまったく調子が出ない天気である。
「今日は朝からずっと降ってるわ。しばらく止まないんじゃないかしら」
サニーと同じように外を見て、スターは言った。
「お出かけはやめておいた方が良さそうね。今日は一日おとなしくしてましょ」
「言われなくたって出ないわよ」
ルナは、重いため息を吐いてぼやいた。
「昨日の今日だもの。あんなの見ちゃったら、そんな元気なくなるわ」
「あーやめてやめて! 思い出すからやめて!」
サニーがぶんぶんと腕を振り回して叫ぶ。蒼い顔で睨む虚空には、昨日の光景が浮かんでいるのだろう。
「ほんっと昨日はヒドイ一日だったわ。宝探しはハズレだし、あんなのには出くわすし、巫女には蹴られるしっ」
ぶちぶちとサニーは文句を垂れる。不機嫌である。妖精は一晩眠ればたいていのことは忘れてしまうし、何か他に楽しそうなこと、好奇心をくすぐるもの、美味しいものがあれば、それだけで機嫌が直ってしまうものだ。三人の中でも特に妖精らしいサニーならば尚更で、そんな彼女をして陰鬱とさせるのだから、やはり昨日の出来事はそれほどの事件だったということである。
スターは、昨日のことを思い返した。
幸い、と言っていいものか、スターは現場を見ていない。スターが知っているのは、あの小さな星の瞬きだけだ。無論、それだけでもスターにとっては震え上がるほど怖いのだが、それでもスターは現場を見なくてよかったと心から思う。
三人のうち、ひときわ臆病なスターである。もしそんなものを見ていたら、ショックで今日も寝込んでいたに違いない。
「昨日の件、新聞に出てるわよ」
ルナは持っていた新聞をテーブルに広げた。『号外』『白昼の凶行』といかにも大仰で特大の見出しが目を惹く。どれどれとサニー、スターも記事を覗き込んだ。
「え、昨日のやつってあれで三件目なの!?」とサニーが叫んだ。
そうか、サニーもルナも魔理沙の話を聞いてないんだっけ。スターは今更それに気付いた。
「被害者はみんな女の子なのね。 げげっ、みんな同じ殺され方だって!」
サニーの言葉どおり、記事にはそのように書いてあった。詳しいことは書かれていないが、もし昨日の少女と同じであれば、やはり生きながらにして解体されたのだろうか。
「しかも犯人、まだ捕まってないらしいよ」そう言うルナは気難しい顔で記事を指さした。『依然、犯人の足取り掴めず!』『捜査の範囲を広げることを検討』どうやら事件解決にはまだまだかかりそうな様子である。
「前の二件は人里だったのね」記事を読みながら、スターは意外に思った。
「里で人を襲うのってダメじゃなかったっけ?」
昔ならいざしらず、今の幻想郷はそれなりに平和だ。人が妖怪に襲われることも少なくなった。もちろん、人と妖怪の関係からして、そういったことが全く無くなることはないのだが、それでも人里で妖怪が暴れることはタブーのはずである。
どうかしらね、とルナは首を傾げた。
「妖怪じゃないみたいよ」
「え、それって……」
人間、ということか。
スターの視線に応えるように、ルナは再び記事を示した。
「食われた痕が無いんだって。それに」そこで、ルナは眉をひそめて声を落とした。
「狙われてるのが女の子ばかりだしさ。ちょっとアレな人間かもって」
ぞわり、とスターの背筋を悪寒が走った。
あれが人の手によるものだとしたら、その犯人は何を思っていたのだろうか。
何が目的であの小さな星を手にかけたのだろうか。
何を考えて、生きたまま少女の腹を裂くという狂気に身を委ねたのだろうか。
そのおぞましさにスターの肌が粟立つ。妖精と人間は違うとはいえ、スターの心は犠牲となった少女にまだ近い。近かったはずだ。だからこそ尚更、スターは少女が受けた恐怖と苦痛を思うと胸が苦しい。怖くて怖くて堪らない。
震えを抑え込むように、スターは胸元で拳を握った。
「人間だったら珍しいわね」
サニーが腕を組んで言った。
「幻想郷(ここ)ってそういう事件、あんまり起こらないじゃない?」
「あんまりどころか、ほとんどないわよ」
そう言いながら、ルナは椅子に背を預けながらマグカップのコーヒーをすすった。
「なんたって、あの里はあんまり広くないからね。なんかやらかせばすぐバレるでしょ」
「でも、この犯人は捕まってないんでしょ?」
「そうね、一応容疑者は挙がってるみたいなんだけどさ」
「あ、そうなの?」
「うん、医者の次男坊だってさ」
幻想郷では珍しい外科の心得がある医者である。手口から見て、犯人が専門的な知識と技術を持ってることは明らかだったし、そういったことを学べる者は限られている。医者の息子であれば、いくらか知識もあろうし、器具も扱えよう。
そして、この容疑者となった男の評判が、悪い。
二十代半ばの大男である。陰気で人付き合いが悪く、図体がでかいくせ里の労役には顔も出さぬと年配層から睨まれている。
家業は長男が継ぐことが決まっていたので、男はいつか家を出ることになるはずだったが、本人に働く気はあまり無かった様子である。普段はほとんど家に籠もりきりで、時折
親の手伝いをしている姿が近所からは目撃されている。
また、着替えを覗く、と女性患者の苦情も多かった。なにしろ大男である。隠れようとしたって見られている側からは丸わかりだったらしい。
また、なにより容疑者として目される決め手が、解剖である。
小さな動物の解剖を趣味としている。そんな噂があるのだった。
無論、医者の息子であるから、勉強のためにこうしたことをすることもあるだろう。にもかかわらずこうした噂が流れるくらい、男が殺めた動物の数は多い。
挙げればいくらでも悪い噂が出る。そういう男のようであった。
ふと、昨日のことをスターは思い出した。
――里の医者を使いたくなかった。いろいろ事情があってな。
そういうこと、なのだろう。
あの時点で、魔理沙は犯人のことを知っていたに違いない。
「そんだけわかってるんならすぐ捕まりそうなもんなのにね」
「それだけうまく立ち回ってるってことかしら。里からは逃げたのかもね」
そこで、ふとなにごとか思い至ったようにルナは唇をへの字に結んだ。
無論、スターもわかった。サニーも気付いている。
申し合わせたように、三人揃って窓の外へ目を向けた。
水滴が流れるガラスの向こう。しとしとと降る雨越しに広がる黒々とした森。
昨日の事件は、ここからそう遠くない場所だった。
そう、もしかするとあの森の中には――。
「あーもー、やめやめ!」
サニーが叫んで立ち上がった。
「こんなのすっぱりきれいに忘れちゃおうよ。なんにしたって人間の話なんだしさ。私達には関係ないでしょ」
こういった思い切りの良さがサニーの強みだ。多少強引でも、暗い流れを断ち切る。それができる明るさが彼女にはあった。
「そ、そうよね」「私達は大丈夫だもんね」
スター達もその明るさに乗った。ただでさえ雨が降って陰鬱なのだ。これ以上空気が重くなっては息が詰まる。確かに幻想郷ではセンセーショナルな事件で、三妖精はそれに図らずも出くわしてしまったが、それで自分らに直接危険が及ぶわけでもない。所詮は他人事。自分達には関係ない話だと割り切ってしまえばいいのだ。
ルナは新聞を片付け、スターは昼の用意をしようとエプロンを手に取った。
その時だった。
スターの星空に動きがあった。
ざわり、と星達が蠢き、散っていく。逃げようとしているのだ。何から?
ずしん、と地響きがした。
わあ、とサニーが身を屈める。ルナがよろめいてテーブルにしがみつく。窓ガラスがびりびりと震える。
「な、なに?」「地震?」
慌てて外へ目を向けると、ちょうど、遠くでパパパッと光が走った。そして、爆発。
先ほど星達、森の小動物達が逃げていたあたりである。そして、スターの感覚は新たに二つの星を捉えていた。
追う者と追われる者。
「あ、あれ魔理沙じゃない?」
スターの横でルナが言った。爆炎に照らされたシルエット、空に浮かぶその姿は特徴的で見間違えようがない。スターが見る星の位置からして、彼女が追う者だ。
では、追われる者は?
スターの身が竦んだ。その星の大きさには見覚えがあった。
それは、昨日も見たばかりだ。
「犯人がいる!」
「ええ!?」
スターの叫びに、サニーとルナが振り返った。
「は、犯人!?」「ほんとなの、スター」「ほんとよ、あの辺り!」「どこ?」「見えないわよ!」
犯人がいる方角を指し示すが、サニーもルナも見つけきれない。雨で視界が悪いせいか、スターも肉眼ではわからなかった。だが、星空には確かに映っている。いるのは間違いなかった。
「あ、逃げる!」
魔理沙と犯人の距離が広がっていく。魔理沙も犯人を見つけきれないのか、辺りを爆撃するものの犯人の場所とはまるっきり外れていた。
「ね、ねえ、魔理沙に教えた方がいいんじゃない?」「どうやってよ」「今、魔理沙に近付いたら私達も撃ち落とされるんじゃ……」
三人でおろおろとする間に、犯人はどんどん魔理沙から離れていく。
「ああ、逃げちゃう!」
そして、ついにはスターの星空からも消えてしまった。
「追うわよ!」
行動はサニーが一番早かった。スター達の応えを聞く前に、玄関から外へすっ飛んでいく。慌ててスターとルナも後を追った。
「スターとルナは犯人を追って! 私は魔理沙を連れてくる!」
言うやいなや、サニーは魔理沙目がけて飛んでいった。スター達が頷く間もあらばこそである。スターはルナと目配せしあって、犯人が消えた方へ向かった。
雨は変わらず降り続く。
慌てて飛び出したので、傘は持ってこなかった。いくらも飛ばないうちにスターもルナもずぶ濡れになった。セットが台無しよ、とルナは恨めしそうに自分の髪を引っ張る。
犯人の星はほどなく見つけられた。あれからすぐに追いかけたのが良かったのだろう。
あらためてその星を捉えてみれば、その大きさが人間の大人くらい、それも大柄であることがわかる。そのサイズだけでは妖怪か人間か判断できないが、人だとすればおそらく男だ。速度からみて相手はどうやら歩きのようで、スター達でも追いかけるのは楽だった。
「どこに向かってるのかしら」
ルナがそう呟いた。周りの音はいつものように彼女が消しているので、相手がどれほど耳ざとくても安心である。
これでサニーがいれば完璧なのだが、彼女がいないのでは仕方が無い。ただ、この天気で元々視界は悪い。ある程度離れていれば見つかることはないと思えた。
「そりゃあ帰ってるんじゃないの?」
応えながら、スターは犯人が向かう方角から検討をつけようとした。
相手が妖怪だとするなら、森の何処かに住んでいるのかもしれない。あるいは、人間ならば人里に家があるのだろうか。
今のところはどちらともいえなかった。それに、犯人は回り道をするかもしれないではないか。
回り道。
まさか、次の犠牲者を探しているのか。
もしそんな場面に出くわすことになったら。そんな厭な想像が首をもたげた。
そして、気になっていることがもう一つ。
そのことをルナに伝えるべきか、スターは迷った。
保険のためである。
万が一のことを考えてしまう。これは性分だった。
少しでも自分が助かる確率を上げるために、あえて情報を隠す。今までスターはそうしてきた。
時には仲間を見捨てることも考えて、である。
横目でルナを見る。不安と不快がないまぜになった彼女の横顔を見ながら、スターは自問する。
私は、彼女が殺人鬼の手にかかるところを見たいだろうか。
もちろん、否だ。
だが、同時にスターは思う。
それは、自分が殺人鬼に殺されることと天秤にかけて、どちらが重いだろうか。
と、物思いにふけっていたスターは、ふと我に返った。
「ルナ、ストップ」「え?」
ルナの手を引いて止める。
「なによ」と口を尖らせるルナへ、スターは前を示した。
「あいつ、止まったわ」
「え、なんで?」ルナは首を傾げた。「だって、家も何もないわよ」
ルナの言葉通りである。ここは森のまっただ中で、とても犯人の目的地とは思えない。
だが、犯人が歩みを止めたのは確かだった。何か理由があってのことなのか。それともただの休憩なのか。
なんにせよ、一息つけるならばスターとしても助かるところだ。
「丁度良いわ。雨宿りしましょ」
手頃な木陰に下りる。大きい枝葉のおかげで、身体の小さい二人ならばそこで十分雨がしのげそうだった。そこで、二人して濡れた服を絞り、濡れた髪を拭いた。
「あーもう、なんでこんな目に……」ルナは頬を膨らませて、ぶちぶちと文句を言った。
「早く帰りたいね」とスターも合わせる。成り行きでこうして犯人を追っかけてきた二人だったが、なにしろこの天気である。とっとと終わらせたいというのが本音だった。
「あいつは何してんの?」
ルナの問いに、スターは肩を竦めた。むしろスターの方が教えてほしいくらいである。
星の動きに変化は無い。どれくらい留まるつもりなのか、それだけではわかるはずもなかった。
揃ってため息を吐く。いつまでこの尾行を続ければいいのかと思うと、気が滅入って仕方が無かった。
「ちょっと気になったんだけど」
ふとルナが話を切り出した。
「昨日ので三件目って新聞にはあったけどさ。前の二件のことって今まで新聞に出てなかったのよね」
「そうなの?」
日頃、新聞を読む習慣があるのは三人のうちルナだけである。
「読んだけど忘れてただけじゃないの?」
「あんな大事件が載ってたらスター達にも話してたわよ。それに、たいていこういう大きなことって号外出るじゃない。昨日のだってそうだったしさ」
そこで、ルナは声を潜めて言った。
「なんか、おかしくない?」
その言葉に、スターの心がざわついた。
「お、おかしいって?」
「だってそうでしょ。何か事情があるにしてもさ、隠すなら隠す、知らせるなら知らせるで一貫してそうなものじゃない」
そのとおりである。
事件が人里で起こっていたというから、おそらく人間達には周知のことだったのだろう。
だが、三件目に至って初めて新聞に載るというのは、何か作為を感じる。
それまでは隠さなければならない事情があった?
前の二件と三件目の違いは何だろう?
あ、とスターは思いついた。
「昨日のは外で起こったからじゃないの? 前のは里であったんだし」
「里で起こった事件だって、いつもは新聞に載ってるわよ。それもだいたいどうでもいいようなのばっかり。それが、こんな大事件よ? あの天狗達なら大喜びで記事にしそうなものじゃないの」
ルナの指摘はもっともだった。針小棒大のゴシップを書き散らす天狗の新聞である。これほどの大事件を見逃すはずがなかった。
うーん、と二人で考え込む。が、結論は出なかった。元々妖精は考えることに慣れていないのだ。
「気にしすぎじゃない? だいたい何かあるにしても、それが私達に関係あるとは限らないでしょ」
「まあ、それはそうなんだけど……」
呑み込めない様子のルナである。三人の中で最も疑り深い彼女らしい。
だが、今、スターにとってそれはいらぬ不安を煽るだけで、あまり続けたくない話であった。
これ以上話しているうちに、何かに気付きそうで怖かったのだ。
話題を変えよう。そう思って、スターは遠くを見て言った。
「サニー遅いね」
そういえば、とルナも同じ方向を見る。
「そうね。もうわりと時間経ってる気がするけど。ほんと何やってるのかしら」
口を尖らせるルナ。どうやらうまく乗ってくれたようである。
しかし、それにしても遅い。
魔理沙を呼びに行って、それっきりだ。はたして魔理沙にちゃんと会えたのか。もし話ができているなら、もうとっくに合流できてもよさそうなものである。しかし、スターの星空には魔理沙が映っていない。
「もしかして、会う前に撃ち落とされたんじゃ……」「ま、まさかね」
二人で乾いた笑いが重なる。先ほどの魔理沙が見せた苛烈な攻撃振りからすれば、そう無茶な想像ではない。
「あれ?」と、ルナが首を傾げた。
「あのさ、思ったんだけど、サニーはどうやって魔理沙をここに連れてくるの?」
「あ!」
今更、そんなことに気付いた。
もちろん、サニーはスター達の位置を知らない。なので、どうにかしてサニーへこちらの位置を教えなければならないのだが。
この雨である。空を飛んでいても、肉眼では厳しい。それに、魔理沙がどこにいるのか、スターにもわからないくらい離れてしまった。
互いに場所がわからないのではどうしようもないではないか。
「ど、どうしよう……」
そこまでは考えていなかったのだ。サニーの言うまま、犯人を追ってきただけなのである。
いや、策が無いわけでも無い。
ルナに犯人を追ってもらい、スターがサニー達を探しに行けばいいのだ。サニー達と合流した後はルナを探す。魔理沙のスピードでこの位置まで戻ってこられるなら、その間にルナがどこへ行ったとしてもスターの星空に入るはずだ。
だが、それはできない。スターは唇を噛む。
「ルナ、あの木が三本立ってるとこ、見える?」
「なによいきなり。うん、見えるけど」
「じゃあ、あの近くに人間の男が見える?」
「人間? うーん、よく見えないけど……」
目を細めてルナがそちらを見る。しかし、やはり見えないらしい。
そうか、とスターはため息を吐いた。
「仕方ないか。うん、ルナはサニー達を探してここまで連れてきて」
「え、なんでよ? 探すんならスターの方が得意じゃない」
「そうなんだけど、もし犯人がまた動き出したら、ルナじゃわからなくなっちゃうわ」
スターは前方を指さした。
「ルナには見えないけど、あの辺りには犯人がいるの」
怪訝そうなルナへ、スターは隠していたことをついに教えた。
「あいつ、サニーみたいに姿が消せるみたい」
ルナが息を呑んだ。
「え、ど、どういうことよ」
「どうもこうも、そのまんまよ。あいつは目に見えないの。人間じゃなくて妖怪なのかな。よくわかんないけど、そういう能力があるんだわ」
そう、犯人を追い続けて、スターはそれがずっと気になっていた。
姿が見えない襲撃者。
それがどれほどの脅威なのか、考えるまでもない。
少々腕が立つとしても相手にならないだろう。
もし、この場にルナを置いていけば、彼女では犯人に対してなすすべも無い。
もし対峙したとするならば。襲われるとするならば。
そこから逃げられるのはスターだけだ。
そして、だからこそ。
「だから、あいつを追えるのは私だけなの。あいつが今からどれだけ動くかわからないけど、ここに連れてきてくれれば、多分、私ならわかるわ。そしたら、私から弾幕でもなんでもとにかく位置を教えるから」
「で、でもそれじゃスターが危ないんじゃないの」
不安そうにルナはスターを見た。
ルナ達へ位置を知らせるということは、すなわち犯人にも知られるということだ。尾行がバレれば、どんな目に遭うか。
それに、相手がこの先どこまで移動するのかがわからない。
ルナが魔理沙を連れてくるまでに、スターが感知できる以上距離が開けば、スターは孤立してしまう。
いろいろな面でリスクの高い作戦である。
ルナは優しい。彼女は本気でスターの身を案じていた。
だが、そんなルナにスターは後ろめたさを覚えた。
わざと彼女に敵の能力を隠していたこと。
いっときでも、彼女を囮にして逃げようと考えていたこと。
そんな自分の内面を知らない彼女の心根が、スターには苦い。
「大丈夫よ」
不安を振り切るように、スターは笑ってみせた。
「私なら何があったって逃げ切れるわ。ルナみたいに鈍くさくないし」
「わ、私はど、鈍くさくなんかないわよっ!」
赤くなって、むー、とルナがむくれた。
「いーわよ、わかった。行けばいいんでしょ」
口を尖らせて、ルナはスターから離れる。そして、そこで表情をあらためた。
「無理しないでよ。私がいないんだから音はたてないようにね」
「わかってるわよ。心配しないで」
ルナは何かを言いたそうだったが、やがて一つ頷いてから背を向けた。
そして、全速力で飛び去っていく。
しばし、その後ろ姿を眺めてから、スターは小さく深呼吸した。
よし、と気合いを入れ直してから、犯人がいる方向を睨む。
雨はいまだ止む様子が無かった。
それから三十分ほど経っただろうか。時計を持たないスターに正確なところはわからなかったが、たいして服が乾かないうちなので体感的にはそのくらいである。
犯人が動いた。
できれば魔理沙が来るまで動いて欲しくなかったのだが、世の中そう都合良くはいかないらしい。
覚悟を決めなければならない。
待つか。追うか。
「ルナにあんな見栄切っちゃったし、仕方ないか」
苦笑して呟いた。
震える足を叩いて気力を奮い起こすと、スターは再び雨の中へ飛び出した。
次第に雨足が強くなっていた。
乾き始めていた服も、すっかり元通りだ。スターの長い髪はたっぷり水を吸ってずしりと重く、その上、雨粒が大きくなって真っ直ぐ飛ぶことも難しくなってきた。
そして、更に堪えるのが寒さだった。
風がないのがまだしもだったが、それでも長く雨に打たれるのはかなり辛い。
がたがたと震えて縮こまりながら、何やってんだろうなあ、とスターは自嘲した。
自分らしくない。そう思うのである。
人一倍臆病な自分が、なぜこんなことをしているのか。
できるだけ楽するのが信条だというのに、どうしてこんな苦労をしているのか。
理由はスター自身にもわからなかった。
ただの成り行きで、いつの間にかこんなことになってしまった。感覚としてはそれが一番合っているように思う。
だが、それでも普段のスターなら、こんな苦労は背負い込まなかっただろう。
いつだってほどほどに済ませる。全力は使わない。それがスターの生きる知恵だったはずだ。
それが、なぜ今日に限って、自分はこんなに頑張っているのか。
ぼんやりとそんなことを考えるが、やはり結論は出なかった。
そんな時だった。スターの眼下に三本並んだ木が見えた。
先ほどまで犯人がいた場所である。
そういえば、あいつは何をしていたのか。
疑問がよぎる。一時間とはいわずとも、それなりにまとまった時間、犯人は何のためにここにいたのか。
おそらく、休憩ではない。身を休めるなら、もっと良いところがあるはずである。犯人の体格からいって、ここでは雨宿りにならない。
では何が目的なのか。
何かあるのかと目を凝らしてみたが、あいにく黒々とした地面と黄色く枯れかけてきた下生えしか見あたらなかった。
スターの星空にも特に怪しいところはない。
考えすぎかしら。
そう思って、視線を再び前に向けようとした、その時だった。
がつん、と頭に衝撃が来た。
目の前に火花が散って、一瞬遅れて激痛が走る。
気が付いた時には、自分がバランスを崩して落下しているところだった。
押さえた手の間から、ぬるりとした温かいものが流れる。それが何なのか見るまでもない。
ずきずきする頭を抱えて、ともすれば暗くなりそうな意識を気力で保ちながら、スターは失速を抑えようと羽を動かした。このまままともに落ちれば、いくら妖精とはいえ無事に済まない。
しかし、ただでさえ飛びにくい雨の中ではそれも厳しかった。それでも必死に姿勢を丸めて、辛うじて落下に備える。
ばさばさと木の枝にぶつかりながら悲鳴を上げた。派手に何かにバウンドして、ボールのように転がり、ふうっと意識が飛ぶ。
目を開けると、そこは既に地面だった。
積み上がった落ち葉の感触と雨で湿った土の匂い。
体のそこかしこが痛んだ。特に頭はぐわんぐわんと軋むように痛くて堪らない。勝手に涙がぼろぼろと出て、それが喉にむせて何度も咳き込んだ。
だが、どうにか生きている。
何が起きたのか。
辺りを見回すと、近くに拳大の石が落ちていた。片面が赤く染まったそれを見て、スターは理解する。
撃ち落とされたのだ。
己の油断をスターは悔やんだ。
スターの世界でわかるのは生き物の位置だけだ。たいていの脅威は近付かなければどうということもないので、普段は自分の感覚を信じればそれで事足りる。
だが、なまじそれに頼っているだけに、こういった飛び道具には弱い。
きちんと飛んでくることがわかる弾幕ごっこならともかく、この雨の中の不意打ちでは。
当然、予想しておくべきだった。
他のことに気を取られてよそ見などしてはならなかったのだ!
と、スターはここではっとする。
犯人の位置は。
そう思った時には、自分のすぐ近くまで巨星が迫っていた。
逃げようとした。しかし、傷だらけの体はろくに動かず、這うことすら難しかった。
ひゅう、と喉が鳴った。視界が涙で歪んだ。血まみれの右手を伸ばそうとした。
同時に、がっしりとした重みのある掌が、スターの細い肩を掴んだ。
まるで石ころでも扱うように軽くひっくり返され、頭と両手を押さえつけられた。足を動かそうとしたところに丸太のようなごつい重みが加わる。あっという間もなく、スターは地面に仰向けのまま、びくとも体を動かせなくなっていた。
そして、そんなスターの視界を覆うように、彼女へ馬乗りになった大男が見下ろしていた。
縦も横もでかい。腕などスターの胴回りくらいはありそうだった。
その巨躯を上から下まで黒で覆うのは、幻想郷では珍しい雨合羽。その合羽のフードの奥から覗く小さな目。
ぞっとするような冷たい目だった。
悲鳴を上げた。上げたつもりだった。だが、喉から洩れるのは壊れた笛に似た音だけだった。
恐怖に駆られてもがく。しかし、スターの力では男の指一本すら動かせない。絶望的な力の差だった。
ずい、と男が顔をスターに近付けた。
おそらくは、若い。顎は無精髭で覆われて、頭は硬そうな髪が野放図に伸びていた。太い鼻と薄い唇。そして、でかい図体に比して、小さくて昏い、まるで金属のように感情が見えない眼(まなこ)。
その眼が、スターは怖かった。
ただでさえ人間は苦手なのだ。それがこれほど間近にいるだけでも怖いというのに。
押さえつけられていることだけでも怖くて怖くて涙が出るというのに。
この男は、なぜスターをこんな無機質な眼で見ているのか。
「妖精か」
呟くように、初めて男が喋った。
まるで潤いというものがない、掠れた低い声だった。
「お前、俺が見えていたのか」
抑揚の無い喋り方だった。スターへの質問なのか、ただの呟きなのか、どちらでもあるようでどちらでもなさそうな言葉の連なり。
「なぜ見える」
スターは答えようとした。男が望むままに、なんでも答えようと思った。もしかしたら、どうにかこの男の機嫌を取って逃げられるのではないか。そう考えたからだ。
「なぜ俺を尾けてきた」
だが、スターの喉は震えなかった。スターの舌は動かなかった。錆び付いたかのように強ばって、ただ歯だけがカチカチと鳴る。
「誰かに頼まれたのか。誰が頼んだ。親父か。兄貴か。それともあいつか。他に誰がいる。俺を追ってるのは誰だ」
ぎゅう、とスターを押さえる手に力がこもる。その痛みに耐えきれず、ついにスターは泣き声を上げた。
「なぜ俺の邪魔をする。俺を止めようとする。これはミアズマ・レイク・イリスの意志だ。生命、命の意味を知るための崇高な行為だ。俺を理解しない奴は誰だ。俺を羨んでいるのか。俺を妬んでいるのか。俺を引き摺り下ろそうとしてるのか。女神を狙う卑しい奴らめが」
喋る声は、次第に熱がこもってくる。小さな眼には、いつしか剣呑な光がちらついていた。
「そんなことはさせない。許さない。俺がたとえ終わったとしてもだ。奴らにわかるか。わかるはずがない。生命とはどこから来てどこへ行くのか。命とは何処に生まれ何処に宿り何処から去るのか。その答えは誰も知らない。誰に聞いても答えられない。どいつもこいつも曖昧模糊としていて一つとしてしっかりとして明確で明瞭な答えは持っていやがらない。かといっていくら調べてもいくら探してもどんな本をひっくり返しても虫眼鏡で一字一句読んでもさっぱりで全く見当違いで役立たずで話にならない」
スターは泣きじゃくって男の視線から顔を背けようとする。しかし、男の力が許さない。
「だが、ミアズマ・レイク・イリスは言った。人は女の胎から生まれると。犬も猫も雌から生まれると。鳥は卵から生まれ卵は雌が生むのだと。この世界の命の連鎖はどこから始まりいつまで続くのか。肉体を作れば命は宿るのか。あるいは命があるからこそ肉体ができるのか。命とはどこまでが命でどこからが黄泉に続くのか。その鍵は女だ。この世界の命は女が握っている。女で回っている。女神の言葉は正しい」
何について何を喋っているのか、さっぱりわからなかった。
わからなかったが、スターは直観で何かが間違っているということだけはわかった。
だが、何がどう間違っているのか。
そんなことを話したところで、とても話が通じそうに見えなかった。
男の目はスターを向いているものの、その言葉はおそらくスターへ向いていないのだから。
男の呟きは加熱しながら早口になっていく。
「生と死の境はどこにあるのか。それを確かめるのは難しい。だが、その境界を知ってこそ見える道もある。イリスはそれを教えてくれた。なに、簡単だ。単純な実験だ。一つ一つ取り除いていけばいいのだ。丁寧に。女が鍵であるなら調べるのも女が良い。調べた。たくさん調べた。数え切れないほど試した。最初は鼠だ。次に猫を試した。犬を試した。だが駄目だ。すぐ死ぬ。死んでしまう。あっけなく境界を越えてしまう。命の泉が見つからない」
いまや、男の眼は爛々と輝いていた。熱に浮かされたようなその昏い輝きは、スターの星空でスターの上に被さる男の星そのものだった。
その構図に、スターは見覚えがあった。
そう、昨日の昼頃。
狩る者と狩られる者。
大きく猛々しく残虐な星と、小さく弱々しく哀れな星。
あの時と違っているのは、
狩られた小さな星がスターであること!
「だから学んだ。俺は技術を身に付けた。出血に気を付ければかなり保つことがわかった。血管をうまく結紮するんだ。胃、腸、肝臓、膵臓、胆嚢、腎臓は摘出してもすぐには死なない。つまり命はそこに宿っていないということだ。しかしここから先が難しい。肺は大動脈と密接に繋がっていていくらうまく処理しようとしてもダメだ。それに呼吸が止まるとそれだけで死ぬ。心臓はもちろんダメだ。蛙も鼠も猫も犬も人もみな同じだ。ならば命は肺に宿るのか。心臓に宿るのか。魔術的に心臓は重要だが、では心臓のみで生きることはできるか? できない。心臓もまた摘出すればすぐに死ぬ。何度やっても死ぬ。やはり心臓は泉ではないのだ。では泉はどこだ。生命を生命たらんとするものは何だ。何度やっても失敗だ。こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃ――」
ぶつぶつと呟き続けていた男が、そこでふと言葉を切った。
「そうか、お前は、妖精だったな」
唐突に、そのことに気付いた、そんな口ぶりだった。
「そうか、お前は妖精だったのだな」
男がスターの頭を押さえていた右手を離した。泣きべそをかくスターがその手の行方を追うと、そこにはいつからあったのか、スターが丸ごと入りそうなくらい大きい真っ黒な鞄があった。
鞄の留め金が開いた。ばくんと口を開けた鞄の中には、ぞろりと銀色の鈍い輝きが並ぶ。
「あるぞ」
男がその中の一本を手にとって、スターを見下ろした。
「俺は妖精も試したことがあるぞ」
ざわっと鳥肌が立った。
男が右手に持ったメスの剣呑な輝き。男の血走った眼。
男の、大きく歪んだ笑み。
それを見て、何かがスターの中で外れた。
悲鳴が出た。今まで出そうとしても出せなかった叫びが溢れた。
どこかが壊れてしまったかのように、いつまでも叫び続けた。
今までさんざん泣いたというのに、それでも涙が止まらなかった。
頭を振った。身体を捻った。わずかに動かせる踵で地面を打った。
だが、それだけ必死で暴れても、男は全く動じなかった。
何をやっても覆らない。
狩られる者はただ狩られるしかない。
逃げられなかった者は食われるしかない。
スターがこれまで数え切れないほど見てきた残酷な戦いの一つでしかない。
誰かに言われるまでもなく、スター自身がそれをよく知っている。
よく知っていた。
だからこそ、スターは逃げてきた。
今まで何があっても逃げてきた。
どんな手を使ってでも、自分の身に危険が及ぶことだけはないように立ち回ってきた。
それは、スターがわかっていたからだ。
自分の非力を。
自分が狩られる側であることを。
一度捕まったが最後、もう何があっても逃れることができないということを!
男は鞄から長い紐を取り出して、スターの両腕と両足を縛る。手慣れた手つきだった。これまでどれだけ同じ事をしてきたのか、そんなことを考えたくもないのに考えさせられる、そんな淡々とした作業だった。
「試したのはずいぶん昔だったな。おおかた爺の舶来物が目当てだったんだろうが、しょっちゅう入り込んで陰でばたばたしやがる。泥棒がいつもいつも俺の研究を邪魔ばかりしやがってクソが。やっと奴らを捕まえた時は念入りにやったな。みっちりやった。徹底的にやった。清々したな。おかげで面白い研究テーマも見つけられたし、実に有意義な実験だった」
男が厚布を敷いて、丁寧に器具を並べていく。どれもこれも、何に使うのかスターには見当も付かない恐ろしげな形だった。
「そうだな。あの頃はまだ手際も悪かった。今考えれば無駄も多かったな。だが、今ならもっとうまくやれる。もっと綺麗にできるだろう。ああ、しまった」
男が茶色の瓶を見て唸る。
「そうか麻酔を切らしていたんだった。誤算だった。三人も調べればわかるかと思っていたんだが」
そこで、男がまたスターを見る。濁った目と軽い笑い。
「無しでも構わんか。妖精だしな。人とは作りが違う分、もしかすればミアズマ・レイク・イリスの意志に近付くかもしれん」
「イヤあッ!」
想像もできない絶望を突きつけられる。
この男は、スターの意識を残したまま切り刻むというのだ。
痛いだろうか? 痛いに決まっている!
気が狂うほど痛いに決まっている!
「イヤだあッ! ヤだあッ! イタイのはイヤあああッ!」
いくら泣き叫んでも、男の手は止まらなかった。
「無駄だ。いくら暴れようが誰も助けには来ない」
男はスカートの裾に鋏を入れた。そのまま乱暴な手つきで下着ごと縦に切り裂いていく。
「結界の中だ。ここは外からは見えず音も聞こえん」
スターの脳裏に、昨日のことがよぎる。
そうだ。あの少女は誰も助けられなかった。
凶行の現場も、少女の悲鳴も、外からではわからなかった。この男が今まで悠々と三人も殺してきたのはこの力があったからだ。
スターの力が抜けた。
仮に魔理沙達が来たとしても、この男の姿を見ることはできない。スターの姿を捉えられない。
それができるのは、スターだけだったから。
じゃあ、どうにもならない。
そのことがスターにはわかった。わかってしまった。
スターは抵抗を止めた。しゃくりあげながら、自分がもう助からないことを噛みしめた。
男がスターの服を開いて、白い胸と腹を晒す。そして、太い指で持ったメスを宙にかざし、小さく頷くと、そろりそろりとスターの胸元へ下ろしていった。
その鋭い切っ先を見ると、やはり怖い。諦めたとしても、恐怖は消せなかった。
スターは精一杯目を開き、唇を歪めて、その瞬間を待つ。
メスの動きから目をそらせない。
いっそ、ひとおもいに刺して楽にしてくれと願う。一片の慈悲を乞う。
だが、きっと苦痛は一度に終わらない。
胸から腹まで切り裂いて、
腹に手を突っ込んで、引きずり出して、
スターの中身を空っぽにするまで地獄の責め苦は続くのだ。
「……イヤ」
スターは呟く。
「やっぱり、イヤだよぉ!」
スターの最後の悲鳴も空しく、刃先はスターの胸へと――
――――閃光!
眩しさにスターが目をつぶった瞬間、ふっと身体が軽くなった。そして、ふわりと誰かに身体を起こされて、優しく肩を抱かれる感触。
目を開ける。何度かまばたきをして、ようやく目が慣れると、結ばれた焦点が見知った横顔を映した。
「まりさ、さん?」
スターの声に、魔理沙は「よう」と男前な笑顔を見せた。
「間一髪ってところか。ははは、随分頑張ったみたいじゃないか。サンキュー、助かったぜ」
朗らかに言いながら、魔理沙はスターの肩をぎゅっと抱いた。雨に濡れた布地に頬を押しつける形になったが、なぜか冷たいはずの布地が暖かく感じた。
「まりさ、さん」
ぎゅっと彼女に両手でしがみつく。体中が軋んで痛かったが、そんなことは全く気にならなかった。
「まりささんっ! まりささんっ! まりささんっ! うわああああんっ!」
何もかもかなぐり捨てて、スターは泣く。
ダメだと思った。
無理だと思った。
自分なんかがらしくもなく危険に飛び込んでしまって、心の底から後悔するところだった。
助かった。助かった。助かった!
その想いの全てが涙になった。離れるものかと懸命に魔理沙へしがみついて、彼女の胸元へ頬をこすりつけて、わんわんと泣きじゃくった。
「おいおい待て待て。まだ終わってないぜ」
苦笑した魔理沙がスターの背中をぽんぽんと叩いた。「え」と鼻水だらけの顔で振り返る。
十メートルほど向こうの木陰で、のっそりと立ち上がる大きな影が見えた。
雨合羽は裾と袖が裂け、全身は泥だらけだった。しかし、あれほどの衝撃で吹っ飛ばされたにもかかわらず、男自身はほとんど無傷だった。
俯いていた男が顔を上げる。
薄い唇を固く引き締め、小さい目はガラス玉のように色が無かった。
ただ、男は睨んでいた。押し殺した憤怒で。
魔理沙を。
「……なぜ」
絞り出すような声音だった。
「……なぜわかった」
はん、と魔理沙は鼻で笑った。
「詰めが甘かったな。見てみろ。こんなわかりやすい印が残ってるぜ」
魔理沙が顎で示す先、それを見て男が唇を歪めた。
そこには、わずかながら赤い印。
スターの頭の怪我から流れた血だった。
「お前が妙な力を使うことは知ってたからな。ずいぶん逃げ回ってくれたじゃないか。へっ、やっとまともに顔が見れたぜ。おい、あんた」
そこで、魔理沙の瞳にちらりと暗い炎が揺れた。
秘めた怒り。見るもの全てを灼くような激情で、魔理沙は真っ直ぐに男を睨み返していた。
「おいたが過ぎたな。派手に暴れたツケはでかいぜ?」
口調こそ軽かったが、その声は鋭利で冷たい。
「もう逃がさん。さっきはこいつがいるから手加減したが、今度は容赦なしだ。覚悟しな」
そう言って魔理沙は右手をかざす。その手に握られているのは彼女の力の源、八卦炉。
男は無言だった。
歯軋りが聞こえてきそうなくらい口元を歪め、両の拳は震えるほど固く握られていたが、それでも男は平静さを保とうとしているように見えた。
「邪魔を、するな」
強く区切るように、男は言った。
「なぜだ。お前も魔術師の端くれならば、究めようという志がわかるはず。どうして俺の邪魔をする」
一歩、男が足を踏み出した。
「真理に触れようと願った。何に替えても知りたいと焦がれた。お前にはわからないというのか」
ほう、と魔理沙は目を細める。
「真理だと? 調子に乗るなよ、トーシロが。お前なんかに仲間扱いされたかないや」
魔理沙は吐き捨てるように言葉を放った。
「お前が語る真理なんざ鼻紙にもならんさ。いくら言葉で飾ろうが、お前がやってることは魔術的に何の価値もありゃしない。ああ、てめえでわかってないみたいだから、もっとはっきり言ってやる。お前は魔術師でもなんでもない。小さな女の子を切り刻んで喜ぶただの変態野郎さ!」
男の顔面が、さっと赤黒く染まった。こめかみに青筋がくっきりと浮かび、唇がめくれ上がって食いしばった歯が露わになる。もはや隠そうともしない、怒りの形相だった。
男が吼えるのと、魔理沙が魔力を込めるのは同時だった。
閃光が走った。あらゆるものを貫かんとする魔理沙のレーザー。
だが、その時既に男は動いていた。
懐から取り出した小さな箱。男の掌に載る、似つかわしくない組木細工の箱。
レーザーを際どく躱した男は、そこでついっと口の端を吊り上げた。
スターは気付いた。
その箱が何なのか。
男が何をするつもりなのか。
「魔理沙さん! あいつ消えるつもりです!」
舌打ちして魔理沙が狙いを変える。しかし、その時にはもう男の姿が消えていた。
「ちくしょう! どこ行きやがった!」
魔理沙の怒号。慌てて辺りを見渡すが、狙うべき姿はどこにもいない。
いや、そんなことはない。
スターの星空には映っている!
「後ろ!」
スターが叫ぶ。魔理沙が強引に身体を捻る。肉薄する凶刃。
そして、
「はいはい」
横から飛び出してきた紅い影。
ぱしん、と軽くはたくような音とともに、男が姿を現した。
男の手を離れて宙に浮くあの小さな箱。
驚愕に歪む男の顔。
翻る御幣が男の手からそれを払い落とした。そのことにスターが気付いたのは、ずっと後のことだ。
男が闖入者へ目を向けるよりも先に、彼女は――霊夢は男の鳩尾を下から蹴り上げていた。
ずしん、と重い音が響く。
男は宙を舞い、霊夢の身長よりも高く上がった。華奢な彼女が、どうやってこの巨体を蹴り上げたのか。常識外れの威力だった。
男が受け身も取らず、べしゃりと落ちた。
それでおしまいだった。
男はぴくりとも動かなかった。だらしなく四肢を投げ出して、痙攣すらしない。
生きてはいた。
スターの星空では消えていない。どうやら気を失っているだけらしかった。
唖然とするスターと魔理沙。そこへ、霊夢がこきこきと肩を鳴らしながらやってきた。
「詰めが甘いわよ、魔理沙。かっこつけてる余裕あるなら、さっさとぶっ放しなさいよ」
その言葉で、ようやく魔理沙の呪縛が解けた。
「お、おい! なんで良いとこ取っちゃうんだよ、お前!」
「あんたがもたもたしてるからでしょうが」
魔理沙の抗議に、霊夢はにべもない。
「私だってこんな面倒事、首突っ込むつもりさらさらなかったわよ。里のことは里で解決するのが掟。こんなことでいちいち出張るほど暇じゃないんだからね」
でも、と霊夢は苦い顔で後ろを示した。
すると、そちらからぱっと小さな影が飛び出し、
「スター!」
スターへと飛び込んできた。
「ルナ!?」
「ああ、良かった! ごめん、ごめんねスター! 私、サニー達がどこにいるのかどうしてもわかんなくて……」
ルナは涙で顔をぐしゃぐしゃにして、良かったとごめんねをスターへ繰り返した。当惑したスターが説明を求めて霊夢を見ると、肩を竦めて言った。
「そいつが泣きながらうちに来たのよ。何言ってんだかさっぱりだし、邪魔だから放っておこうとしたんだけどさ。いつまでもぴーぴーうるさいし、めんどーだから魔理沙にでも押しつけようかと思って」
「……お前らしいよ」
魔理沙がくっくっと笑った。なるほど、図らずもルナの目的と霊夢の目的が一致したらしい。
「あれ、じゃあ魔理沙さんはどうやってここが?」
スターの問いに、魔理沙は、ああ、と頷いた。
「お前、被弾しただろ」
「は?」
きょとんとするスターへ、魔理沙はウインクした。
「聞こえたのさ。ピチューンってな」
「は、はあ? ええっ!?」
頭に手をやる。血は止まったらしいが、やはりずきりと痛む傷。
「え、ちょ、からかわないでくださいよ! ピチューンって! ほ、ほんとにそんな音がしたんですか!?」
「おお、ホントもホントさ。ここは幻想郷だからな」
そう言いながら屈託なく笑う魔理沙。ぷっと吹き出す霊夢。釣られるように、泣くのを止めて笑うルナ。
笑い声の中で、スターは一人戸惑う。
いろいろなことが起こりすぎて、
冗談事でなく死ぬような怖い思いをして、
たくさんたくさん、たくさんたくさん泣いて、
その果てに、自分が何をすればいいのか、どうすればいいのかがわからなかった。
ただ、スターの周りで輝く星達はあまりに暖かくて、
スターは自分の顔が綻んでいることを知った。
「ちょっとー!」
遠くから声が飛んでくる。
「魔理沙さーん! 置いてかないでよおーもおーっ! あ、いた! おーい! え、あれ、どうなったの? ちょっと、スターってばなんか怪我してる! 大丈夫なの!?」
血相を変えて飛んでくるサニーへ、スターは大きく手を振った。
秋雨が数日続き、ようやく晴れ間が見えた。
そんな日の早朝、スターは魔法の森を歩いていた。
一人である。
サニーはまだ寝ているし、ルナはのんびり新聞を読んでいる頃。
手にはスコップ。先ほど使ったばかりだった。
平べったい風呂敷包みを胸に抱えて、スターは歩く。
鬱蒼とした森の茂みを抜けて、やがて、ぽっかりと開けた場所に出る。
そこに建つ、古びた一軒家。
斜めに突っ立った看板には、乱暴かつ大胆な筆使いで『霧雨魔法店』とあった。
玄関のドアを前にして、スターは躊躇う。
主が在宅なのは、ノックをするまでもなくわかっていた。
だが、スターは迷っていた。自分の行動がはたして正しいのかを。
すると、
「開いてるぜー」
中から声がかかった。ほう、と息を吐く。気付かれているのだ。ならば迷っていても仕方がないと腹を括る。
「お邪魔します」
スターはドアを開けて中に入った。
どこもかしこも、何に使うのかわからない物が積み上がっていた。どうにか、歩くスペースだけは確保されていて、スターはそのラインを進むしかない。
「よう」
どうやらリビングらしい部屋には、やたらと古そうなテーブルと数脚の椅子。その一つにだらしなく腰掛けて、魔理沙はマグカップをすすっていた。
「まあ座ってくれ。あんまりたいしたおもてなしはできないけどな。コーヒーでいいか?」
「あ、いえ、お構いなく。でも砂糖は三つ、ミルク多めで」
魔理沙の対面の椅子に座った。風呂敷包みをぎゅっと抱きしめて、魔理沙を見る。
魔理沙は、スターの前にコーヒーを用意しながら言った。
「元気そうじゃないか。もう怪我はいいのか」
「あ、はい。もう大丈夫です。あの、こないだは助けてくれてありがとうございます」
「はは、いいっていいって。妖精にそんなかしこまられちゃこっちの方がやりにくいぜ」
どうぞ、とマグカップを薦められる。スターは、ぺこりと礼をしてマグカップを手に取った。
しばし、二人で無言のままコーヒーをすする。そして、頃合いを計ったように、マグカップから口を離した魔理沙は、そこでようやくスターを正面から見た。
「さて、用件を聞こうか」
ぎしり、と椅子が鳴り、魔理沙は左肘をテーブルに置いた。
「失せ物探し、身辺調査、学術研究、遺跡発掘に水道工事、霧雨魔法店は何でも受け付けるぜ。さあ言ってみな」
スターは戸惑った。何を言うべきなのか、この場に来てもまだうまくまとまらないのだ。魔理沙の真っ直ぐな視線を受けきれず、スターは俯いた。
「仕事の依頼じゃない、と。すると、何の用だろうな。ああ、そうだ――」
魔理沙は、もったいぶるように頷いて言った。
「私からはお前に用があるんだったよ」
その言葉に、スターはびくりと震えた。
「こないだからちょいと探し物があってな。困ってるんだ。お前、知らないか?」
口調は軽い。だが、俯いているスターにとっては、それが太い鎖のように感じられた。
「あ、あの」
その圧力に耐えきれず、スターは口を開く。
「ミアズマ・レイク・イリスってなんですか」
スターが問うと同時に、すうっと空気が冷えた。堪らず、ぎゅっとスターは拳を握る。ともすれば震えそうな全身へ力を込める。
沈黙が続いた。
俯いたスターには魔理沙の顔が見えない。いや、見たいとも思わなかった。
見るのが、怖い。
しんとした室内で、柱時計の秒針の音だけが響く。
そして、ようやく、
「たいした話じゃないぜ」
魔理沙は沈黙を破った。
「あの男が崇めてたもんの名前だ。神様、じゃねえな。そもそもは本だ。奴にとっての魔法の本、さ」
吐き捨てるような言い方には、どこか苦さが滲んでいた。
「奴の親父は医者だ。この幻想郷じゃ珍しい外科医をやってる。だがその先代は魔術師でな。外から幻想郷に移ってきたそうだ。家ごとな。しかし、こっちじゃ魔法を止めて医者一本でいくことにしたらしい。なにしろ、幻想郷じゃ魔法使いはごろごろいるが、外科医はほとんどいなかったからな」
医者の家に生まれた男は、当然医者になることを求められた。
長男は期待に応えた。だが、次男は出来が悪かった。
勉強はお世辞にも出来る方ではなかった。図体はでかかったが、それを生かすようなことは一切せず、内向的で友達もいず、一人、家の中で遊んでいる。そんな子どもだったらしい。
男は、家の中で遊べるものを探して掻き回す。
そこで、男は見つけたのだ。
ミアズマ・レイク・イリスを。
「『生命とはどこから来てどこへ行くのか。命とは何処に生まれ何処に宿り何処から去るのか』とか、まあそういったことを書いてる本だ。まあ、チャチな内容さ。昔の哲学やら科学やら魔術やら医術やら、そういったもんをごっちゃまぜにして手前勝手な考察を偉そうに並べてあるだけだ。実につまらん与太話だが、どうやらあいつには波長が合ったらしいな」
男は信じた。
生命の探求。それは魔術師の究極の目標の一つだ。
その時から、それが男の目指すものになった。
「魔理沙さんは」
スターは俯いたままで、呟くように言った。
「魔理沙さんは、読んだんですか」
魔理沙の言葉が途切れた。再び訪れた沈黙は、先ほどのそれとは違って、どこか当惑が感じられた。
やがて、
「出しな」
魔理沙は言った。
「それ、そこに出しな」
何を意味しているのか、もちろんスターにはわかっていた。
元々、そのために持ってきたのだ。
抱えていた包みをテーブルの上に置いて結び目を解く。
風呂敷の中は、何の変哲もない無地の木箱だった。箱を開けると、油紙の包み。更にそれを剥がすと、一冊の本が現れた。
本といっても、厚紙を表紙にした紐綴じである。綴じた紙の大きさも不揃いで、それがあまり出来の良くない手作りであることは明らかだった。
その表紙には、手書きの筆記体で本の名前らしきものが書かれてあった。
Miasma Rake Iris
顔を上げて、魔理沙を見る。
その本を眺める彼女の顔は、あえて言葉にすれば『苦虫を噛みつぶしたような』ということになるのだろう。明朗闊達な彼女らしからぬ表情だった。
しかし、その中にどこか悲哀を含んでいるように見えるのは、スターの気のせいだろうか。
「これ、どこにあったんだ?」
魔理沙は静かに問うた。
「あの時の、森です」
「森?」
「はい、あの日、尾行してたら一度あいつが休憩したことがあって」
そう、やはりあれは休憩ではなかったのだ。
「あいつがいたところの木の根っこに埋まってました」
ふと、スターは気付いたのだ。
ちょうどその部分だけ、土が新しかったことを。
「……そうか、あいつも覚悟はしてたんだな。中身は読んだか?」
スターは首を横に振った。魔理沙はため息を吐いて、「賢明だ」と呟いた。
「この名前自体に意味はない」
魔理沙はその本を手に取った。
「こいつはただの言葉遊びさ。まあ、あえて言えば著者名になるのかな。魔法使いってのは名を隠すものだ、なんてそんなことを思ったのかもな。つまり、これを書いた奴にとっちゃこの名前も含めてお遊びなんだ」
そう言って、ぱらぱらと本をめくる。
「そう、あの男にとって不幸だったのは、これを書いた奴が本物の魔法使いじゃなかったってことだ。魔法使いに憧れる奴なんて、あいつに限った話じゃない。そうさ、この本を書いた奴はそういったうちの一人だ。この本は、ただの魔法使いごっこの産物なのさ」
きちんとした魔法を学ぶには、元々そういった家系に生まれるか、本物の魔法使いに弟子入りするしかない。
独学など無茶な話だった。
手当たり次第に本を読んでも、思ったことを書き散らしても、それで身につくものはほとんど無い。
「この著者はな。そこそこ裕福な家で暮らしてたんだ。だから、当時幻想郷で高価だった紙を使うこともできた。でも、魔法を勉強するには向かない環境だった」
となれば、どこかにその場を求めるしかない。
「実は、この著者の親と件の医者は知り合いなのさ。で、この医者ん家には外から持ち込んだ魔法に関する資料がたんまりあるわけだ。だから、なにかと理由を付けて医者の家に出入りするようになった。ただ、魔法を勉強していることは親に内緒だったから、勉強したことは全部頭の中に入れるしかない。といっても、いくらなんでもやっぱり無茶だからな。頭に詰め込んだもんをどこかで吐き出さないとパンクしちまう。というわけで、出来た物がこれだ」
魔理沙は、ぱん、と本を綴じた。
「ま、そういうことだ。この内容自体に魔術的な価値は全くないし、考察は穴だらけ。そりゃあひどいもんだぜ。で、だ。この作者は、これ書いた後、ちゃんとした魔法使いに弟子入りしたんだ。そこできちんと基礎を学んだ。魔法使いの修行ってのは厳しいからな。ガムシャラにやってるうち、この本のことを忘れちまった。きれいさっぱりな。だから、この本がどうなっちまったかなんて知らなかったんだ」
そこで、魔理沙は軽く唇を噛んだ。
「マジックアイテムってのは、そこにあるだけで周りに影響を与える。本来、魔術的な意味を持たない物でも、強力なマジックアイテムがあるだけでその影響を受けるんだ。ああ、その時は知らなかったのさ。そんなことをな。だから、無造作に置き去りにしてきたその本が、本当に魔力を持っちまうなんて思ってもみなかった」
それが、あの男にとってのもう一つの不幸さ。
「あいつは魔に魅入られた。心の弱いところをつけ込まれて、命じられるままに血を流した。まったくとんだマヌケさ。魔法を心得る者なら一番に気を付けるべきところなのにな」
魔理沙は立ち上がって、脇にある小さな机へ向かった。その上には、彼女の八卦炉が載っている。
魔理沙が、持っていた本を八卦炉にかざした。すると、本からはたちまち青い炎が噴き上がる。炎にあぶられて、本が苦しそうに身を捩った。魔理沙が手を離すと、本は炎の中へ一息に呑み込まれ、まばたきをする間に灰も残さず消えた。
「さて、と」
魔理沙は、うーんと大きく伸びをした。
「はは、やっと清々したぜ。どこにもなくて困ってたんだ。あいつも手元に持ってなかったしな。どうしようかと思ってたんだぜ。お前が持ってきてくれて助かったよ。サンキューな」
朗らかに笑いかける魔理沙。だが、スターはそれに応えられなかった。
笑い声が、どこか空々しく聞こえたように思えたのだ。
そこからスターは推測する。
魔理沙とあの男は、ずっと昔に知りあっていたのではないだろうか。
もっと幼い頃に、出会っていたのではないだろうか。
そして、そんな知り合いが、自分が書いた本で道を誤ったのだと知って、彼女は罪の意識を覚えたのではないだろうか。
「だから」
「ん、なんだ?」
スターは魔理沙を真っ直ぐに見つめて問うた。
「だから、あの男を生かしてるんですか」
この家に入る前から気付いていた。
地下に、誰かが『いる』。
その星の大きさや輝きを、スターは見知っているように思えてならなかった。
もしかすると、魔理沙があれほど必死だったのは、彼を捕らえるためではなく――。
「くっ」
すると、
「ぷ、ぷはははは!」
唐突に、魔理沙が笑い出した。
「何を言い出すのかと思えば、そうか、お前、生き物の位置がわかるんだったな。はははは!」
「な、なんですかいったい!」
笑われて、ついムキになる。しかし、魔理沙は「悪い悪い」と言いながらも笑い続けた。
「そうかそうか、『あれ』が生き物か! ははは、こりゃ傑作だ! きっとヤツも喜ぶぜ! くくく、はははは!」
そんな魔理沙を、スターは唖然として眺めた。
いったい、何が彼女のツボを押したのかさっぱりわからない。
腹をくの字にしながら、魔理沙は言った。
「くくく、ま、まあ待て。いや、お前、何か勘違いしてるだろ?」
「は?」
ようやく笑いを収めて、「よし」と魔理沙は背を伸ばした。
「こいつは面白い。いいぜ、ついてきな」
言うが早いか、魔理沙はすたすたと部屋を出た。事情が呑み込めないまま、慌ててスターが後を追う。
石造りの壁に設えられた木扉を開けると、ひんやりと湿っぽい空気が流れた。
「三件目の事件が載った新聞、お前は読んだか?」
カンテラを持ってその扉をくぐりながら、魔理沙は唐突にそんな質問をした。
「あ、は、はい」
質問の意図はわからなかったが、ひとまず頷く。
「あれを読んでるなら話が早い」と魔理沙は続けた。
「あの事件な、二件目までは新聞に載ってないんだぜ。知ってたか?」
「はい」
そういえば、ルナとそんな話をしたことがあったっけ、とスターは思い出す。
「なぜ二件目まで新聞に載せなかったか。それは事件が里の中だけで起こってたからだ」
階段を下りながら、魔理沙は言った。
「里の中で起こった事件は里の中で解決すべし。それが掟だ。外部からの介入もできない。これは人里が自治を保つための要だからな」
だが、三件目は、里の外で起こった。
「つまり、犯人が里から出た時点で、事件の扱いが変わった。解決のために里の外の力を借りるもやむなしってことになったのさ」
「ああ、それで新聞に……」
幻想郷の新聞は、主に天狗達が作っている。天狗の新聞に載るということは、問題を幻想郷全体に、妖怪達にも知らせるということになる。
「と、まあここまでは表の話だ」
スターの方へ振り返って、魔理沙は笑みを浮かべた。それを見て、スターはぞっとする。
暗がりの中、カンテラの光に浮かぶその笑みが、どこかしら邪に感じられるのは、はたして気のせいだろうか?
「ところで、だ。私は普通の魔法使いだが、特に専門は黒魔術だ」
階段を下りきると、開けた場所に出た。倉庫なのか、雑多な物が積まれているようだが、魔理沙はそれに構わず、奥へ進む。
「魔法の研究はいろいろと厄介が多くてな。実験したくても材料集めが大変なんだ。中でも――」
奥の扉を開けて、魔理沙はカンテラを掲げた。
「中でも――人体はな!」
灯りが照らした物が何なのか、スターは最初把握できなかった。
がっしりとしたテーブルの上に、それは何かが積まれているのかと思った。
赤紫色のつるりとした塊。暗褐色の管。黄土色のぼってりとした襞。そんなものがいくつもいくつも無造作に積み上がって山になっている。そういうものに見えた。
だが、よく見ればそれらの表面を編み目のように紅い筋が通っていることがわかる。
てらてらとぬめる粘液が浸みだしていることがわかる。
臓物。見た目ならそれが一番近い。
動物の臓物を掻き出して、ただ積み上げたような――
すると、それが突然、ぶるんと震えた!
ひっとスターは悲鳴を上げて飛び退る。その声を聞きつけたかのように、テーブルに載ったそれは、激しく動いた。
管がびくんびくんと脈打ち、
くびれた塊がぶるんぶるんと震え、
ぼってりとした部分がべちんべちんとテーブルを打った。
そして、べろりと開いた隙間の奥から、
どこかで見覚えのある、小さな冷たい目が、スターを見た。
それを見て、スターはへなへなと座り込んだ。
スターには、わかったからだ。
『それ』が何なのか。
『誰』だったのか。
「あ、あれ、あれは……!」
うまく言葉にならない。歯がかちかちと鳴って、まともに喋れなかった。
「ま、そういうことだ。はは、貴重なサンプルだからな。張り切っていろいろ使っちまったんだが、実験で弄りすぎちまった。もう『どこ』に『何』があるのかもよくわからん。生きているのかすら怪しいと思っていたが、そうか、生きてるんだな、これでも」
くっくっと魔理沙は笑った。その姿は、確かに魔理沙でありながら酷く現実味を欠いていた。
スターの星空にはいつもの魔理沙が映っているのに、スターの頭はどうしても今、目の前で『それ』を見て笑う魔理沙を、魔理沙だと思えなかった。
あの日、自分を助けてくれた彼女に、なぜこんな恐ろしいことができるというのか。
「なんだ、どうした。立てないのか? 仕方ないな」
スターの前に彼女の手が差し出される。だが、スターはその手を取れなかった。
怖い。
スターは魔理沙が、怖い。
焦れた魔理沙が強引に抱えようとしたが、スターは身を捩って抗った。
「おいおい、どうした。何が気に入らないんだ?」
呆れた様子の魔理沙。それを見て、スターは彼女が全く悪びれていないこと。この恐ろしい行為に対して動じていないことがわかった。
「ど、どうして……どうしてこんな……!」
「どうしても何も、これが裏の事情さ」
魔理沙は肩を竦めた。
「今の幻想郷じゃ、妖怪が人を襲うってこと、滅多にないだろ。まあ、襲うにしたっていろいろと仕来りが面倒らしいんだがな。ところがだ、人里で殺人、まして連続殺人なんて重犯罪をしでかす奴は別だ。そいつがいったん里を出れば、そいつを守る法はない。新聞に載るってのはそういうことさ」
それは、幻想郷中のお尋ね者になるということ。
妖怪達にとってはまたとないご馳走であり、
魔法使いにとっては貴重な実験材料である。
「中身のいくつかは、永遠亭へくれてやったよ。こないだの検死のお礼代わりさ。こいつ、おつむの中身はどうしようもなかったが、身体は健康そのもので丈夫だったからな。なかなかの上物だって喜ばれたぜ」
「ひ、ひどい……!」
「酷い? なにがだ? お前だってこいつに酷い目に遭わされただろう? こいつは因果応報ってもんさ」
「そ、それにしたって、私、こんなこと望んでません!」
「そりゃ当たり前だろ。これは私が望んだんだ」
それに、と魔理沙はスターの前にしゃがみこんで顔を覗き込む。
「そんなことはお前が一番よく知ってるだろう?」
「な、なんのこと、ですか」
「弱肉強食が世のならいだってことをさ。狩る側は狩られる側の都合なんか気にしないんだ。狩る側の目的は命を奪うことそのものじゃない。その結果、得られるものが欲しい。肉だろうが血液だろうが、目的さえ達成できれば、狩られる側がどうなろうと知っちゃことじゃないのさ。生きてようが死んでようがな」
「そ、それは……!」
スターは唇を噛む。それは、確かに世界の真実だから。
だが、スターは認めたくなかった。
それは、あまりにも悲しく、辛い。
「それじゃ……それじゃ、魔理沙さんもあいつと同じじゃないですか!」
スターは叫んだ。
「あいつが女の子達を殺したのも、魔理沙さんがあいつにしたことも、それじゃ一緒じゃないですか! 狩る側が何をしてもいいなんて、そんなのバカにしてます! 狩られる側の命を、バカにしてます! それじゃあ、狩られる側は――私達の命はなんなんですか!」
スターは魔理沙を睨み付ける。命を弄ぶ彼女へ、精一杯の抗議を込めて。
魔理沙は、笑みを消してしばらくその視線を受け止めた。
答えを探しているのか、迷っているのか。それは彼女の表情からは読み取れなかった。
やがて、魔理沙が立ち上がった。
「そうだな。私もあいつと一緒だ。目的のためならお構いなしさ。だがな、ある意味で私はお前とも一緒だ。狩る側だって、いつか狩られるかもしれない」
いつか私もこうなっちまうかもな。
テーブルの上へ目を向けて、魔理沙は自嘲気味にそんなことを言った。
「命とは何か、か。そういうものを古今東西、いろんな奴が考えあぐねて、いろんなことを試してきたが、いまだに結論なんか出やしない。いや、ただ、そうだな。一つはっきりしてることがあるぜ」
魔理沙は、スターへ再び向いて、力無く笑った。
「お前、生き物の場所がわかるんだろう? ってことはだ。生き物ってのは、『お前に見えてるもの』ってことになるな。永らく多くの者が求めてきた命の定義、それがお前だ。ははは、こいつもとことんマヌケな奴だ。真理はこんなにも近いところでうろちょろしてやがったってのにな」
「じゃあ、帰ります」
「おう、気を付けて帰れよ」
玄関でスターと魔理沙は向き合っていた。
地下室から戻ってからは、お互いほとんど会話をしていない。魔理沙が淹れなおしたコーヒーを互いに飲んで、それだけだった。
魔理沙は、見た目では何も変わってないように見えた。
まるで、あの地下室での彼女が幻だったかのように、普段スターが知る魔理沙のように見えた。
だが、スターの星空は常に真実を映す。
あれが決して幻ではなかったことを、今でもあの星が教えている。
世界がいかにおぞましく残酷であるのかを、スターへ知らしめる。
しかし、コーヒーを飲む間に、スターはもう一度自分が見たもの、聞いたものを思い返して考え直した。
三人目の少女が殺された時の彼女。
スターを助けてくれた彼女。
そして、地下室で見せた、力無い笑み。
どれも同じ魔理沙だ。
ならば、理由があるのかもしれない。
彼女が、そうしなければならなかった理由が。
狩る側でも、いつ狩られるかわからないのだから。
あるいは、
彼女も昔、狩られる側だったから?
それはただの推測だし、それが明かされることもないだろう。
そして、スターもそれを聞くつもりは、一切無い。
「お、そうだ。思い出した」
そう言って、魔理沙はごそごそとエプロンのポケットを探した。
「ほれ、お前にやる」
取り出した物を放られて、スターは慌てて受け取った。
それは、組木細工の小箱。
「こ、これ!」
スターは息を飲む。あの男が持っていた物である。
「透明消音なんて、どうやって実現してるのかと思ってな。どういう理屈なのか知りたくて調べたんだ。箱自体はなんてことはない、ただの箱さ。問題は中身だ。だが……どうやら私の目的には合わないみたいだ。こういうのは、性に合わん」
大きさはスターの手にあまる程度。それを持つ手が震えた。
ごくり、と唾を飲み込む。
「中身は……」
ああ、と魔理沙は頷いた。
「勝手に処分したぜ。最初はその箱ごと全部燃やしちまうかと思ったんだがな。気が変わった。まあ、あとはお前の好きにしな」
魔理沙の声は、突き放したようでいて、どこか痛ましい響きがあった。
「そう、ですか」
スターは、ぎゅっと小箱を胸に抱えた。
魔理沙は知っているのだ。そのことを確信した。
「ありがとう、ございます」
「礼を言われるようなことはしてないぜ。ああ、一つ訊いてもいいか?」
魔理沙は、表情をあらためて言った。
「そいつの中身、おまえには『見え』たか?」
スターはぴくりと身体を震わせた。しばらく答えに悩んで、小さく首を横に振る。魔理沙は、そうか、と小さく呟いた。
はたして、魔理沙がそれ以上触れないのは、優しさなのか、残酷なのか。
「帰ります!」
いたたまれず、スターは魔理沙に背を向けて走り出した。
そのまま振り返らずに、走って走って走る。
自分の顔を、魔理沙へ見られたくなかったのだ。
自分がどんなに情けない顔になっているか。スター自身がよくわかっていたから。
幸い、魔理沙は追ってこなかった。
いや、きっと彼女は弁えているだけだ。
この世界の現実を。
スターのことを。
走っているうちに、ぼろぼろと涙がこぼれた。
スターは誰よりも知っている。
この世界はどこまでいっても、狩る者と狩られる者しかいないことを。
そして、狩られる者は捕まったらそれで終わりなのだということを。
だからこそ、狩られる者は何をしても、どんな手を使ってでも逃げ続けるしかないのだということを。
「ごめん」
知らず、言葉が洩れた。
「ごめんね、ごめんね、ごめんね」
ぐずりながら、何度も謝る。既にその中身の無い小さな箱へ向けて謝る。
かつて見殺しにした、二人の面影へ謝り続ける。
一歩間違えれば産……廃送りになるような題材の調理お見事でした。
事件解決、と一息つく間もなく、ミアズマ・レイク・イリスのくだりから一気に畳みかけていく展開には息が詰まる思いでした。
臆病だけれど懸命に前を見ようとするスターサファイアが素敵で、少し辛かったです。
最後にスターサファイアに手渡されたあの小箱が、結果的に女の子たちの棺になってしまっていたのでしょうか。
その皮肉の、なんて残酷なこと。
裏の世界なんて知るもんじゃないし、知らない方が幸せね。
魔理沙は黒歴史をまたひとつ処分することに成功したと。うふh
求聞史記を読むと妖精が悪戯で人間殺したりすることもあるらしいし、
狩る狩られるの関係は人間と妖怪の間には深く横たわっているのだろうね。
弾幕張れるくらい強くなれば、狂気を含まない我を通すのは弾幕ごっこで済むのだろうけど。
とはいえとても読み応えのある内容でした。
魔理沙以外のキャラがいつも通りに描かれている分、さらに事件の陰惨さが際立ちますね。
ちょっと汚れてる魔理沙ちゃんがステキ。
Miasma Rake Iris
わかったときは鉛をのんだ感覚に…
悲しくもあり残酷であり…心に響きました。
感心しきりでした
願わくは、いつまでも三人の日常が平和でありますことを
嫌なものを見たって気持ちになるも、直ぐにあぁ堪らないって思う自分は終わってるのか?
ゾクッと来ますね
本当は怖い幻想郷か……
こういう手に汗握る感じの話は大好きです。
なんと言うか…………ぞくぞくします。
あってほしくない幻想郷なのは、それはそうなのだけれど、こんな魔理沙たちは嫌なのだけれど……
それはとりあえず置いとけるくらい面白かった! です。
最近は温い幻想郷像に浸ってばかりでしたがこういう一面も有りうるよなぁと思い出しました。
その執着から離れられず。作品の完成度に関係ない所での減点をお許しください。
何気にこんな時でも冷静な霊夢が一番空恐ろしかったです
平然と人体をサンプルと言い切る魔理沙は中々斬新。最初こそうぇぇと思ったけど魔理沙の価値観を聞いてみれば納得出来る。こういうのもアリだな。
しかし霊夢の相変わらずっぷりには救われるな
頼もしい
すごいお話を見させていただきました
実際問題、人間ってどの辺りまでなら生きているんでしょうね。
生きているという言葉の定義が問題かもしれませんけど。
興味深い話をありがとうございました。
でも面白かった
こういうダークなのもいいね
そういう器官でもあるの?
実際本来の魔理沙の専門分野を考えてみると、その野郎の末路には少々違和感が。
やったのがもう一人の森の住人なら脳裏から拭えなくなっていたかも知れません
なので、この点数で。
とりあえず、魔理沙もスターも過去を清算できたことを祝福したいですね。
一点だけ、違和感を抱きました。
「不老不死になれるとはいえ、人間の生き肝を食べるのはちょっと…」とか、
「透明化に消音…全て私が欲しい力ばかりじゃないか!」->>「こういうのは性に合わんから勝手に処分したぜ」など、
趣味は悪くないように見える魔理沙が犯人に行った仕打ちが、いささか悪趣味なように見えました。
三妖精が主役のSSでこんなダークな物語が語られるとは。
キャラの描写も題材を生かした展開も、とても素晴らしいものでした。
魔理沙のアナグラムとか、最後のネタ明かしの描写も凄い。
文句なしの傑作です。
Kirisame Marisaの黒歴史。
なんか本物の魔女を見た気分です。
素人の生兵法がこんなエグいことになるとは。
しかもオチよ。
ああ、解体した妖精って、そういうことだったのか。
なんというダークネス幻想郷。うわぁぁぁぁぁぁ。
能力解釈やらスターの哲学やら三妖精をここまで掘り下げたのは初めて見た気がします。にも関わらず世界観の完成度は極めて高い。お見事でございました。
創作応援してます。
ダークな話ですが面白かったです。
久々に背筋が寒くなるSSを読みました。
これは……うーん……うおおお……う~ん……
ぐううう~ん……ぬぅ……むぅ……
う~んwww
狩る側が狩られる側へ、狩られる側から狩る側への二人の心情、
そして、狩られる側である妖精の心情がダイレクトに伝わりました。
お見事でした。
猟奇的な殺人事件から一気に目が離せなくなり、最後まで息を呑んで読み続け、真相に目を瞠る。
面白く、悲しく、やっぱり面白いお話でした。充実した時間を、ありがとうございました!
文句なしの100点です
気分悪い
恐すぎますってホント
個人的には、非常に東方らしい作品だと感じました。
中身がみっしりしてればこういう方向性の作品でも
ちゃんと評価されるそそわって捨てたモンじゃないなぁ
スターのキャラクターが上手く出ている良い話だと思います。
アナトミーがルナサニーに見えるのはきっと気のせい。
そうせざるを得ない、エグさ。
辛い。が、いい。
題材も面白かったです。
ここまで辛くさせられる手腕をお持ちということか・・・。
スターちゃんの能力と普段の性格から、シナリオや生命感まで自然に結びつけているのはまさにお見事としか言えませぬ。
臆病なスターちゃんが新鮮で可愛くて可哀想で最後はいたたまれない気持ちでいっぱいでした。
結局一人だけ無事なのはなんという皮肉……