「ん~、よく寝た。慧姉に起こされなかったのは初めてかも」
……ん?
そんな朝早くに、私は一人で起きられたっけ?
慧姉の布団はもう畳まれていてないし。
妹紅は昨日、夕飯の前に帰ったから当然いない。
「まさか!」
私は急いで携帯を取り出す。
……うわ! 電池切れてる。
あぁー、何かヤな予感がする。
もしかしてこれは遅刻というやつか?
こっちに来てからは一回もなかったのに。
取りあえず居間に行って、時間を確認しつつ私塾に行く準備をしないと。
気だるい体に鞭打って、慌てて居間に転がり込む。
「おはよう、遅かったな」
「ええ、おはようございます」
居間でくつろいでいる慧姉に適当に挨拶を返す。
時間は……十一時!?
私の授業は四十分からだから、なんとか間に合う。
私は洗面所に行き、顔を洗ってからまた居間に戻る。
「慌しいな」
「危うく遅刻するかと思いました」
「何、急いだほうがいいぞ!」
慧姉も立ち上がり私を急かしてくる。
むー、人事だと思って楽しんでるな。
「いえ、もう諦めました。家に出るところまではノリで続けようかと思いましたけど」
「遠慮せずに続けたらどうだ?」
「虚しいだけです」
「途中で投げ出すのはよくないぞ」
最後まで続けていたら、本当に私塾に行かなければならない。
それで教室に入ったら誰もいなくて愕然として帰ってくる、と。
実際は慧姉がここでのんびりしているところを見て、何となく今日がどういう日か分かった。
「休日ですか?」
私はちゃぶ台の前に座りながら尋ねた。
慧姉も私の向かいに、浮かせたばかりの腰を下ろす。
「ああ。そんなに毎日続けていたら疲れてしまうからな」
「昨日のうちに教えておいて欲しかったです」
「お前の慌てっぷりは本当に面白かったぞ」
「起きた時は本気で焦りましたよ」
学校をサボるのと仕事をサボるのではわけが違う。
前者で困るのは基本的に私だけだが、後者は周りの人にまで迷惑がかかってしまう。
仕事だと取り返しがつかないこともある。
「…………」
「何を考えてるんですか?」
何やら神妙な顔をして慧姉は黙り込んでしまった。
こう、真面目な表情をされると何か怒られるような気がしてならない。
悪いことはしてないつもりだけど。
「いや、いつも通りにお前を起こして、出発直前に休みを伝えたらどうなったか想像してたんだ」
「……どうなりました?」
「始めは猛抗議をしていたんだ。
だが私の『愛のこもった正拳突き』の前に、口から嬉し涙を流しながら崩れ落ちた」
怖い想像が展開されていた。
多分口から出てるのは、涙じゃなくて泡だと思う。
「いいですけどね。でもそんな風にはならないと思いますよ」
「何! お前は『反抗期の回し蹴り』で相殺か!?」
「そんな怪しい体術の心得はありません」
「ふむ、じゃあどうなるんだ?」
「何も言わずに血の涙を流しながら、二度寝に入ります」
「……そんな普通の解答、誰も期待しておらんよ」
慧姉はため息混じりに吐き捨てた。
はいはいごめんなさいね。面白くなくて。
あんな無茶苦茶な想像の後に面白いことを言え、という方が無理がある。
まぁ、幾つか有り得ない展開も思いついたけど、一応真面目に答えておいた。
「さて、今日のお昼はどうする?」
「もうそんな時間なんですねぇ」
「あのまま一生起きて来ないのかと思ったぞ」
「その時は慧姉の口付けで息を吹き返します」
「しわしわになるぞ」
しわしわ……?
……おぉ、生気を吸い取るってことか!
「慧姉のイメージにぴったりですね」
「お前は私にどんなイメージを持ってるんだ?」
「一言で言えば、痴じょぉ!?」
「おっとすまん。手が滑ってしまった」
い、今。フリッカーが耳をかすめた。
うわぁ、風切り音まではっきり聞こえたよ。
それにしても、私の言おうとしたことは余り間違っていないと思うんだけど。
やたらとお風呂に一緒に入りたがるし。
昨日は……記念にと思って私が許可したけど。
「あはは、お昼なら何でもいいですよ」
「そうか。私はお前の作ったものも一度は食べてみたいのだが」
「えー。私ができるのはレンジでチンする程度ですよ」
「……いろいろ突っ込みたい所はあるんだが、他にはないのか?」
「後はですねぇ……お湯を注いで三分待つ程度です」
「はぁ、私が用意しよう」
どの程度伝わったかは分からないけど、慧姉はがっくりしながら立ち上がった。
どうやら大体の感じは分かってもらえたようだ。
意気消沈しながら台所に向かう慧姉。
そんなに私なんかの手料理が食べたかったの?
食べても何にも出てこないよ。
「冗談ですよ慧姉。いや、ほとんど本当の事ですけど」
私は立ち上がりながら慧姉を呼び止める。
「……座って待っていてくれ」
「いいですよ、今日は私が作りますから」
「な、何! それは本当か?」
大袈裟によろめきながら驚く慧姉。
食べたいとか言っておきながら、その反応は如何なものか。
「ええ。簡単な物なら出来ますから」
「きょ、今日は雨が降るに違いない」
「失礼な。私だって一年に一回ぐらいは作りますよ」
「これから一年、お前が作らないと思えば感動も一層高まるな」
「そうですよ。凄い事なんですから楽しみに待っていてください」
慧姉と交代で私が台所に入っていく。
慧姉の笑顔を見る限り、本当に食べてみたかったらしい。
あ、期待に応えられるか不安になってきた。
最低でも食べられるものを出さないと。
本当に久しぶりだけど、なんとかなるかな?
台所に入った私は、食材の確認をした。
えっと、調味料とご飯はあるから大丈夫だろう。
まず始めに油をしいたフライパンを火にかけておく。
その間に豚肉を一口大、野菜を適度な大きさに切りわける。
熱したフライパンに、肉類の火の通りにくいものから順に入れて炒めていく。
「っつ!」
……油が飛んだ。
気を取り直して、焦げないようにフライパンの具を炒める。
具に火が通ったら、ご飯を入れ、醤油で味付け。
それをご飯の色と味を見ながら少しずつ足していく。
最後に塩と胡椒で味を調えて、お皿に盛って出来上がりっと!
おぉ、早い。
……ちょっと早すぎたかな?
お昼までまだ三十分はある。
いいや、冷めたら美味しくなくなるし。
元々美味しくない可能性もあるけど。
「でっきましたよー」
「おぉ、早いな」
さっき私もそう思いました。
慧姉と自分の分を持って、居間に戻り並べていく。
「炒飯か、本当に簡単なもので来たな」
「別にいいじゃないですか。簡単なんですから」
「お前が作ったのなら何でも構わんよ」
「はいはい。冷めないうちに食べましょう」
「ああ、いただきます」
慧姉の思わぬ言葉に動揺しつつ、それを見せないように素っ気無く促した。
取り敢えず慧姉が一口食べるのを固唾を呑んで見守る。
「……ん、普通だな」
「よかった、一応食べられるものにはなってましたか」
作れない事はないと思っていたけど、ちょっと安心した。
不味いとか言われて、ちゃぶ台返しでもされようものなら間違いなくへこむ。
「そうじゃなくてだな、普通に美味しいぞ」
「……ホントですか?」
どれどれ。
私も一口食べてみる。
…………
確かに不味いとは思わないけど、大して美味しいとも思えない。
ほとんど料理もしたことのない奴が、簡単に作った程度のものだ。
私にはそれ以上とも以下とも感じない。
これなら、慧姉が作った方が全然上手く出来ると思う。
「ん~、慧姉の料理の方が美味しいと思いますよ」
「それは当たり前だ」
「……」
「でも、私は誰かに作ってもらうことなんて、今までほとんどなかったからな……」
「ああ。それで美味しく感じるって事ですね」
「そう言う事だ」
…………
どうしよう。
一箇所突っ込んでみたいところがあるんだけど……。
人の家の事情はあまり聞かない方がいい気がする。
美味しいと言ってくれるなら、それで素直に嬉しいし。
態々水を差す必要もないかな。
「じゃ、冷めないうちに食べちゃいましょう」
「そうだな。いくら美味しいといっても、冷めたら食べられなくなりそうだ」
「否定はしませんけど。あんまりだー!」
叫びながら慧姉の皿にスプーンを伸ばす。
しかし慧姉は焦ることなく皿を引き、私のスプーンは空振りに終わる。
「お前の分と同じものだぞ」
「それが人の所にあると、美味しそうに見えちゃうんですよ」
「ほほう。今日は妹紅もいないし、何時かの決着でもつけるとするか」
「いいですね。ですが慧姉じゃ、逆立ちしたって私には敵いませんよ!」
「寝言は寝てから言うんだな!」
私と慧姉が吼えると、その瞬間からお互いのスプーンが無数の軌跡を生み出し光となる。
ほとんど本能によってのみ体を攻防に動かす。
「おっと、その程度ですか? そんなんじゃ私は捉えられませんよ」
「ふん、こんなのはまだまだ序の口だ。お前こそ飛ばしすぎじゃないのか?」
「ウォーミングアップにもなりませんよ。本気でやったら圧倒的になり過ぎて、つまらないですから」
「そうだな。お前など瞬きするうちに倒せてしまう」
「あはは。慧姉は自分というものを、もっと知ったほうがいいですよ」
「ふはは。お前の知らない世界を見せてやろう」
ありえない角度から伸びてくる銀色の凶器を、ギリギリで見切って皿を引く。
空振りの隙を狙い、フェイントで撹乱するもこちらも空振り。
一進一退の互角の勝負が続く。
余裕などはない。
だからこそ、二人のテンションは際限なく上がっていく。
「あはははは。どうしたんですか慧姉? 腕の動きが鈍ってきてますよ!」
「ふはははは。お前こそ、肩で息をしているではないか! 水でも持ってきたらどうだ?
その間にお前の分はなくなるがな!」
「あっはっはっはっは。慧姉こそ少し休んだらどうです? 手が震えてるじゃないですか」
「甘いな。これはお前を欺く為の罠だという事を教えてやろう!」
「強がりにしか聞こえませんねぇ! それに罠はばらしたら意味がないですよ!」
「安心しろ! お前に罠など勿体無い事に気付いただけだ!」
「その思い上がり、後で後悔しますよ……いえ、今からさせてあげましょう!!」
「身の程を知るがいいー!!」
その熾烈にして苛烈な争いは、長期戦の末私の敗北に終わってしまった。
ああ、一口分負けた……。
嵐のような昼食を食べ終わり、お茶を飲みつつ慧姉と談笑。
考えてみると、この家でお昼を取ったのは初めてだと気付く。
村に来てからは、お弁当か妹紅の家だったんだなぁ。
今までが実に平和なお昼だったという事がよく分かった。
「ねぇ、慧姉。今日のいつですかー?」
私は頬杖をつきながら聞いた。
今日ということしか聞いてないし、慧姉はその為の準備をするでもない。
信頼はしているのだが、多少不安にはなる。
「今夜だ。準備はしとけよ」
「準備と言われても、特にないんですけどね」
「……お前は着の身着のままで、他に荷物はなかったな」
「ええ。いきなりでしたから……そう言えば、私が幻想郷に来た原因って何なんでしょう?」
「多分だが、妖怪が面白半分にお前を誘ったんじゃないか?」
「私って、もてもてですね」
これならいつか、妖怪ハーレムが作れそうだ。
私の知ってる妖怪は何故か軒並み子供だが。
……いや、即効で食われそうだからやめておこう。
「嬉しいか?」
「あはは、私以外はパラダイス」
「どういう経緯を辿ったかは知らないが、お前は運が良かったよ」
「幻想郷に招かれた事を除けば、ですか?」
「貴重な体験だろ?」
「ええ、新鮮で面白い事だらけですからね」
えっと、時間は一時か。
なんか帰れる時間が分かったら急に緊張してきた。
「どうも、落ち着かないです」
「そうか? 別に何ともないが」
「時間が気になるような、そんな感じで」
「それならまだ少し早いが、出掛けるとするか」
「どこへですか?」
「妹紅の家だ。お前を帰すのもあそこになるし、時計もないからな」
あー、あの家に時計はなかった。
あそこで暮らす限りは必要なさそうだし。
いいなぁ、隠居生活。
時間に囚われない生活が出来るって、理想かも。
「そうですね。いざ、理想の家へ!」
「……理想か? ほとんどの物は自給自足で結構不便だと思うぞ」
やれやれ。
慧姉は何も分かっていない。
「困った時には慧姉が来てくれるじゃないですか」
「勝手に野垂れ死んでくれ」
「それでも慧姉の心には生き続けるのでした」
「そんな縁起でもないことはしないから、とっとと成仏しろ」
いつもと変わらない、ちょっと物騒な会話をしながら外に出る。
……この家もこれで見納めかと思うと、少しほろりと来る。
「…………」
私が感傷に浸っていると、慧姉は不機嫌な顔で空を見上げていた。
私もつられて空を仰ぐ。
「あっ……」
私は思わず声を漏らした。
それに反応したのか、慧姉が私に視線を向ける。
相変わらず、不機嫌なままで。
「…………」
「ち、違いますよ。私が悪いわけじゃないですよ!」
首をぶんぶん振りながら、必死に弁解する。
違う! 私は天候操作なんてしてない。
「お前が料理なんか作るから」
「あれは、慧姉が作って欲しいって言ったんじゃないですか」
「はっ、挙句の果てには人の所為にまでするとは……」
「う、でも……だって」
あー、何も言い返せない。
悔しいよー。
私は何もしてないのに。
なんでこんなにタイミングよく今日は曇ってるんだ。
今にも雨が降り出しそうだし。
昨日までずっと晴れてたのに。
「誰かの所為で雨が降りそうだし、急いだ方がいいな」
「私じゃないですからね……あっ、エンジェも持ってった方がいいですよね」
「なんだ、それは?」
「エンジェル・ガールの愛称です」
玄関の脇に停めてある愛車を指差しながら答える。
私と一緒に幻想郷に来ることの出来た唯一の友である。
「それの事か。確か自転車という乗り物だったな」
「あれ、知ってるんですか?」
「知識だけで、見たのはそれが初めてだ」
興味深げにエンジェを観察する慧姉。
やっぱり凄い吸引力を持ってるなぁ、相棒は。
私より人気があったりして……
いやいや、みんな物珍しいだけだよ。
きっとすぐに飽きるって。
「後ろでいいなら、乗ってみますか?」
私はエンジェのサドルに跨りながら聞いてみた。
「い、いいのか!?」
「嫌です」
こういう所で意地悪してしまう自分が割と好き。
「どれどれ」
うわ!
お構いなし。
むしろ私の返事聞いてない?
「……な、何で後ろに乗る方法まで知ってるんですか?」
エンジェに後部座席は付いてない。
よって、二人乗りをするためには骨に足をかける必要があるんだけど。
慧姉は躊躇いもなくそこに足を乗せてきた。
「本に書いてあったんだ」
「日頃どんな本を読んでるんですか?」
「よし、雨が降る前に出発だ」
「……はいはい。それじゃあ、曲がるときに逆方向へ体重をかけないで下さいね」
私は注意をしつつ、ペダルを漕ぎ出す。
「なぁ、今のは少し変じゃないか?」
顔は見えないけど、何か釈然としないものがあったらしい。
それに私はしれっと答える。
「そうですか?」
「さっきのだと、私が愉快犯みたいな気がするんだ」
「違うんですか?」
「いや、概ねそうなんだがな。……うーむ」
悩むのはいいんですけど、普通に愉快犯を認めないで下さい。
正直と言うか、潔いと言うか。
確かに愉快犯じゃなかったら、かなり危ない言動を繰り返している。
ま、人のことは言えないか。
私たちはエンジェに乗って家の前の坂を疾走した。
「……そろそろ降りないんですか~?」
「うむ、がんばれ」
竹林に入れば、エンジェに乗って進むのは不可能になる。
今は仕方なく押して運んでいる。
「重いんですけどー」
「気のせいだ。私は出るところは出ているが、引っ込むところは引っ込んでいる」
「そういう意味じゃないんですけど……引っ込む以上に出過ぎじゃないんですか?」
「どうだ、羨ましいか?」
何とも思わないので、胸を張らないで下さい。
動かれるとバランス取りにくいんですから。
……現在、サドルは慧姉に占拠されていた。
「何を詰めてるんですか?」
「西瓜を二玉が私の基本スタイルだ」
ス、西瓜が二つ!
凄い、想像以上だ。
パットとかそう言う次元を超えている。
応用スタイルならサッカーボールクラスが期待できる。
「もう、胸とか抉れてるんじゃないですか?」
「見たいのか? いやらしいヤツだな」
「興味はありますけど」
抉れた胸なんて見れる機会はそうそうない。
そこから零れる西瓜が二玉……?
「やっぱりやめときます」
「いきなりどうした?」
「表面上を眺めるのが一番輝いて見えることに気付いたんです」
夢や幻想を壊さないことも大切だ。
きっと知らないほうが幸せ。
「私は中身の方が美しいぞ」
「……よく考えたら、知ってますよ」
「ほう、お前にしては分かってるじゃないか」
「そうじゃなくて、一緒にお風呂に入ったじゃないですか」
「……しまった、そうだった」
何故か悔しがる慧姉。
私は実際に見たことがあったのだ。
意識して見ていたわけじゃないけど。
「がっかりな結末を迎えてしまいましたね」
「それでもだ。私の西瓜伝説は止まらない……止められない」
「そこに意地を張っちゃうんですか?」
「当然だ、これだけは誰にも負けられない」
真実は私の中にだけ、そっと閉まっておこう。
あんまり興味ないし。
まぁ、そんな事をやってるうちに、
「ほら、着きましたよお姫様。降りてください」
「ご苦労。しかし、妾(わらわ)はまだ乗っていたいぞ」
「ええ、いいですよ」
私はにこやかに笑ってお姫様の我侭を請け負った。
自転車を家の脇に停めて、玄関に向かう。
「おじゃましまーす」
「…………」
中から返事は返ってこない。
これは留守かな?
私が来るときはいつもいないなぁ。
しかし、勝手知ったる他所の家。
気にせず上がりこむ私。
「モコターン、いないのー?」
「…………」
やっぱりいないのか。
いたらジト目で睨めてるだろうけど。
私は取り合えず台所に行ってお湯を沸かすことにした。
そこで自分のお茶を淹れてから居間に行き、一休み。
……。
ふぅー、ちょっと渋くしすぎたかな。
大人な味。
…………。
「お邪魔するぞ」
「いらっしゃいませ~」
慧姉が家に入ってきたので、私もそれを暖かく迎える。
「お茶でいいですよね」
「ああ、悪いな」
「いえいえ」
台所に行き、ささっとお茶を淹れる。
適当にやったつもりなのに、自分のより上手く出来てしまった。
何事も程々がいいらしい。
それを持って慧姉の待つ居間に戻る。
「随分早かったですね?」
「何だか虚しさが私を満たしてきてな」
「気にせず乗ってても良かったんですよ」
「雨も降ってきたんだ」
つまり寂しかった、と。
それに、言われてみれば確かに屋根を叩く雨音がする。
とうとう降り出してきてしまったか。
やっぱり料理なんて私には合わないんだな。
「降る前にここに着けて良かったですね」
「私の日頃の行いがいいからだな」
「説得力って言葉知ってますか?」
「説得する力だろ。つまり力こそが正義と言う意味だ」
「……初めて聞く、素敵な解釈ですね」
「そうだろう。こう見えて私は国語も出来るんだ」
うわっ!
もしかして今まで慧姉が子供達に国語を教えていたの?
そのうち子供達が悪人に人権はないとか言い出すんじゃなかろうか。
このままでは、あの村は無法地帯になってしまう。
これからの妹紅の活躍に期待するしかない。
「妹紅が最後の砦ですね」
「一応言っておくが、冗談だからな」
「いえいえ、慧姉ならやってくれると信じてますよ」
「そうだな。まずはお前にさっきのが冗談だと言う事を、『説得力』を使ってその身に刻んでやろう」
「妹紅はどこに行ったんでしょうねぇ?」
「いないのか? 気付かなかった」
いろいろと雲行きが怪しくなってきたので、別の話題を振ることにした。
それにあっさり釣られてくれる慧姉。
真剣に話してたわけじゃないしね。
しかし、家の主の不在に対して気付かなかった、はひどいと思う。
私の対応が余りにも嵌まりすぎていたのだろうか?
将来は役者になろう。
「既に自分の家のようにくつろいでますよね?」
「ここが私の第二の故郷だからな」
「近っ! ってそれよりも人の家ですよ」
「個性的だろ」
「そ、そうですね」
個性的だけど、迷惑そうだ。
妹紅がどう思ってるかは分からない。
案外認めている可能性も高い気がしてきた。
妹紅はイマイチ何を考えてるか読みにくいんだよなぁ……。
お互いにこれと言った話がなくなり、私は頬杖をつきながらボーっとしていた。
慧姉も、今は何も言わずにお茶を啜っている。
雨足が強くなってきたのか、屋根を叩く水の音が激しくなってきている。
それを聴きながら、鼻歌でも口ずさんでみる。
「お前は、雨は嫌いか?」
「…………」
何もこんな日に降らなくてもいいのに。
降らなければ降らないで、困る人もいるんだろうけど。
タイミング悪すぎ。
「おい」
「…………」
「聞いてるか?」
「……はっ? 聞いてますよ」
おっと!
ボーっとしすぎた。
「本当か? じゃあ質問は何だ?」
「雨は嫌いかどうかですよね?」
「……お前は聞いておきながら無視したんだな」
慧姉の顔が険しくなる。
無視じゃないんですよー。
「え、違いますよ。
頭に言葉だけ入ってきて、意味を考えずにその場に放置してたみたいです」
「……器用だな」
何とか誤解は解けたようだ。
私がしたことは無視したともとれるけど、それは秘密。
そんなつもりはなかったから、きっとセーフ。
それと器用なのだろうか?
多分みんな無意識のうちにやってるよね?
「慧姉は嫌いなんですか?」
質問に質問で返してみる。
私より先に慧姉の答えが気になった。
「私か? 今まで深く考えたことはなかったが。
服が濡れるのは好きじゃないからな、どちらかと言えば嫌いに入るのだろう」
割と普通の理由だった。
雨に濡れると溶けるとかいう理由だったら面白そうなのに。
そんな事になったら妖怪の仲間入りだな。
「それで、お前は?」
「恵みの雨って言うじゃないですか」
「意外だな。農家出身だったのか?」
「いえ、都会っ子です」
「よし、その喧嘩は買ってやろう」
「あはは、冗談ですよ」
「……もうどうでもよくなってきたが、本当のところはどうなんだ?」
危なかった。
慧姉はちょっとカルシウムが足りてないよとか思ったり。
当然そんなことを言えるはずもないけど。
「私はですねー……このぐらい降っていれば結構好きかも知んないです」
私は天井を見ながら答えた。
台風とかには及ばないけど、それでも屋根を叩く音は激しい。
「小雨は駄目なのか?」
「あれは、べたべたするから嫌いです」
「複雑だな。何で大降りのほうが好きなんだ?」
……
うーん、どうしよう。
ちょっと言いにくい理由だから適当にはぐらかそうかな。
正直に言ったとしても、慧姉なら馬鹿にしたり笑ったりする事はないか。
私は軽く息を吐いてから、肩をすくめて話し始めた。
変に重苦しくならないよう気をつけながら。
「ほら、雨に濡れると泣いているような……泣けるような気がしませんか?」
「…………」
「どうしたんです?」
「いや、そうかも知れないな」
多少なりとも気を使ってくれたようだった。
普通の理由じゃない事は、自分でも分かってる。
「言っときますけど、やった事はないですよ」
「……そうか」
やってみようかなと思うことはあった。
だけど、濡れた後の事を考えると面倒臭そうだから、実際にはない。
服とか大変な事になるだろうから……。
「私の胸でよければ貸してやるぞ?」
「慧姉の胸は固そうですよねぇ」
「馬鹿な。いつも厳選した西瓜を選んでいるんだ。安心して飛び込むがいい」
「そんな恥ずかしい事絶対しません」
「ちっ、手篭めにする計画は失敗か」
「真剣な顔してそんな事考えてたんですか!」
また、いつもの世間話だか何だか分からない軽口の応酬が始まった。
やっぱり重い話は駄目だな。
疲れてしょうがない。
今回はボケてくれた慧姉に感謝しよう。
「私の包容力で骨抜きにするつもりだったのだが」
「悪いんですけど、私は西瓜に対して包容力の欠片も感じたことはないです」
「なっ! お前はあの丸いフォルムに何も感じないというのか!?」
「何を感じろと言うんですか!」
「夢や憧れに決まっているだろう!」
「知るかぁ!」
妹紅の家に着いてから大分時間が経った、と思う。
時計がないので正確な時間は分からない。
雨は止む気配を一向にみせず、逆にどんどん強くなってきている。
もうすぐ帰れるのかと思うと、やはり落ち着かない。
「妹紅帰って来ませんね?」
「……ん、ああ。そうだな」
そして私以上に落ち着きのない人もいたり。
慧姉は待ち人でもあるように、しきりに玄関の方を気にしている。
落ち着きなくちゃぶ台をコンコンと一定のリズムで叩く事も忘れていない。
分かりやすいほど焦っていた。
「もう少し落ち着いたらどうです?」
「……ん、ああ。そうだな」
まさか私の方が諭すことになるとは思わなかった。
それにもめげずに慧姉は指でリズムを刻んでいる。
ってこの人は、
「聞いてます?」
「……ん、ああ、聞いてるぞ。二回も同じ返事をすればお前が不安になるかと思ってな」
聞いてないかと思ったらしっかり聞いていた。
私の不安を煽りたかっただけらしい。
結構余裕があるのかな。
それとも、
「でもあんまり余裕なさそうですね」
「ちっ、変なところだけ鋭い」
「私はいつでも鋭いです。繊細ですから」
慧姉は隠すことなく白状してくれた。
思ったとおり振りだけだったらしい。
あれだけソワソワしてれば一目瞭然だろう。
しかしながら、それさえも私の不安を煽るものだったとしたらお手上げだ。
「どうしたものかな?」
「私に聞かれても困るんですけど。探しにいきますか、妹紅」
「ちょっと待て。どうして私が妹紅を待ってるいると分かった」
そりゃあ、分かりますよ。
あれだけ玄関を気にしていれば。
この家で待ち人と言ったら他にいない。
それよりも、本当に慧姉より私の方が落ち着いているらしい。
大丈夫かな、この現状。
「妹紅が愛しい、という波動が垂れ流しでしたよ」
「とうとう私の愛もそこまでに達してくれたか」
「はいはい、凄いですね……で、どうします? 探しにいきますか?」
愛云々はともかく、慧姉がこんな状態じゃ私の方も不安になる。
一見すると全然余裕っぽいけど、空元気だろうし。
ほとんど私に見せないところは流石だと思う。
「そうだな、一刻も早く妹紅の気持ちを確かめたい」
……あぁ、この人は本当に焦ってるのか分かりづらい。
まだ、冗談を飛ばす余裕はあるって事でいいのか?
慧姉は決意を秘めた瞳で立ち上がった。
その拍子にちゃぶ台に足をぶつけ、蹲って痛がるというお約束つきだった。
お願いだからボケか天然かはっきりして下さいよー。
「私も行きますよ」
「気持ちはありがたいが、足手まといだ」
おおぅ、ストレートにきた。
予想はしてたけど、もうちょっと遠回しに言ってくれると思ってた。
待ち構えてなかったら傷ついたかもしんない。
「言われると思いました」
「そうか、じゃあ行って来る」
「傘持って行ったほうがいいですよ」
「……ああ、分かってる」
慧姉は私の言葉に少し逡巡してから頷いた。
何を悩んだかは、おおよそ分かる。
まだ私を気遣ってくれる余裕はあるようだ。
「お土産は『妹紅の詰め合わせ』で我慢しときます」
「それは私専用だから諦めろ」
「残念。今日は暗くなるのも早いでしょうから気をつけてくださいね」
「大丈夫だ、言われるまでもない……雨なのはお前のせいだがな」
「雨乞いしながら待ってます」
慧姉は行ってくる、と言って家を出て行く。
私も皮肉を返しつつ玄関のところまで見送った。
まだ結構余裕ありそうだったし、あまり気に病む必要もなさそうだ。
私は居間に戻り、雨の音を聞きながら慧姉の帰りを待つことにした。
雨乞いは……面倒だからやめよ。
慧姉が家を出て行ってから、体内時計で大体三十分ぐらい?
全然当てにならない。
不規則な生活が基本の私に、体内時計なんてものはきっと壊れている。
ここ最近は幻想郷にいたから日付と曜日の感覚も狂ってる。
私はちゃぶ台に突っ伏しながら、暇な時間を過ごしていた。
「う~、退屈~」
早く帰ってこないかなー。
暇過ぎて死んじゃうよー。
……ん?
なんだかポケットのあたりが揺れてますよ?
「嘘!」
私は慌てて携帯を取り出した。
うわ、着信が入ってる。
こんな電波の届かないところにまで態々ご苦労様です。
……でも知り合いじゃないから無視しよ。
携帯はそのうち振動を止め、留守を伝えるメッセージを流しだした。
用があるんならまた掛けて来るだろうから、そん時に出ればいいや。
私は携帯をポケットにしまった。
「はぁー、暇だよ~」
またちゃぶ台に突っ伏してごろごろする。
一人で遊べるゲームって何かなかったかな?
右手と左手でじゃんけんとかはどうかな?
空しくなりそうだからやめとこう。
…………
十回ほどやったら飽きたので、またごろごろ。
勝率は何故か右手が八割を超えることが判明した。
利き腕の問題?
「……またきた」
今度は驚くこともなく携帯を取り出した。
掛かってきているのはさっきと同じナンバー。
これは流石に出てみるしかないか……
「…………」
「あれ? 繋がってるわよね?」
着信の主は女性のようだった。
声から察するに年齢は……よく分かんない。
どうも電話は相手が見えないから苦手だ。
電話の相手は無音の状態が続いたので不安になったらしい。
「……あなたの御掛けになった番号は、現在電源が切ってあるか、電波の届かないところにあり――」
「嘘おっしゃい」
「いえ、どちらも嘘じゃ無いんですけど……」
「知ってるわ」
どっちなの?
どっちでもいいか。
「どちら様ですか? 用件は何ですか? それじゃ切りますね」
「せっかちね。暇そうだから話し相手になってあげようと思ったのに」
「趣味は覗きの人でいいですか?」
「ふふ、それで構わないわ。ただし私は妖怪よ」
普通に認められてしまった。
電話は苦手だけど、それ以上にこの妖怪はやりにくい。
私は相手にばれないよう、静かに息を吐いた。
「分かりました。今忙しいので、後程こちらから掛け直しますねー」
「まぁ、何でそんなにつれないのかしら?」
「こんな怪しい電話を長々としたがる人間はいません」
「あら、寂しい。でも二つ目の質問にまだ答えていないわ」
ここは無視して切った方が賢明か。
ただ、その場合また掛かってくるような気がする。
ああもう、選択肢なんかないじゃないか。
電池が切れてる状態をお構いなしに掛けて来るのは反則だろう。
鬱陶しくてしょうがない。
「はぁ、ヨウケンハナンデゴザイマショウカ?」
「そんな機械みたいな喋り方じゃ悲しいわ」
「電話越しだからそう聞こえるんですよ、多分」
「用件ね。あなたが元気でやってるかなぁ、と思って」
「元気です。さようなら」
プチッと。
ふぅ、変な妖怪だった。
幻想郷で電話をするとは思わなかったよ。
もしや私は、この世界で携帯を使った記念すべき一人目じゃないのだろうか。
……また掛かってきた。
大丈夫、今回は言う事も決めてある。
「やりましたね。今夜はお赤飯にしましょう!」
「はっ? あっ、それもそうね」
「じゃあ悪いんですけど、そっちで用意しておいてくれますか?」
「ええ、分かったわ」
電話の向こうでは「ラン~、今夜はお赤飯よー」とか聞こえてくる。
言いたい事が言えて満足した私は、清々しい気持ちで電話を切った。
今思えば、あまり悪い妖怪じゃなかったのかも知れないな。
……だんだん掛かってくるペースが速くなってきている。
番号を押す順番を覚えてきたのだろうか。
「何ですか? 私は満足しましたよ」
「私を満足させてはくれないのかしら?」
あれだけ乱暴に扱ったのに、相手にはまだ余裕があった。
私とは器が違うのかもしれない。
もしかして大物?
「まだ不満があるんですかー?」
「そうよ。だから私とお話しましょ」
「共通の話題なんてないと思いますよ」
「そうかしら? でも、ほら。そんな物がなくても私たちはこんなに会話をしているわ」
含みのある言い回しだった。
この妖怪は私のどこまで知っているのだろうか?
携帯の番号を知っている時点でかなり詳しそうだな。
「……そうかしら、ってどう意味ですか?」
「あら? あなたは満足したのでしょう」
遊ばれてるなぁ。
今更って感じもするけど。
さっきのもおそらく、私から聞いてくるのを待っていたのだろう。
「八割方満足したんです」
「ふふ、いいわ。あなたをここ、幻想郷に招待したのは私なの」
この妖怪のせいで私は学校を休むはめになってしまったのだ。
いや、これは嬉しい事だけど。
……よくよく考えてみれば、私がこっちに来て損をしたことはほとんどない。
「わぁーお!」
「何それ?」
「大げさに驚いてみました」
「楽しいわね」
「それより、さっきみたいな事って、本人に言わない方がいいんじゃないですか?」
「どうしてかしら?」
……どうしてだろ?
どうも外の世界の感覚で考えていたらしい。
別に悪い事をした訳でもなかった。
私が損をしたわけでもない。
「恨みを持った人が押し寄せてきたら……妖怪には嬉しいんでしょうねぇ?」
「あなたはここ、『マヨヒガ』まで来れる?」
誘われているようだ。
具体的な場所まで教えられてしまった。
「もしかして私って好かれてます?」
「あなたなら、退屈はしないですみそうね」
「それじゃ参考までに、マヨヒガってどこですか?」
「それは、もうすぐその家を訪れる妖怪にでも聞いてみなさい。
きっと何でも知っているわ」
そこまで言って、電話は唐突に切られてしまった。
一方的だなぁ。
始めに妖怪が言っていた通り、暇つぶしにはなってくれたけど。
相手が楽しんでいただけな気がする。
招待までされてしまった。
……ここを訪れる妖怪って誰だ?
私の知り合いに該当しそうなのはいない。
うっ、もしかして逃げた方がいいのかな?
でも雨は降っているし、辺りはすっかり夜だ。
なら隠れようか?
どうして隠れるとなると、私は真っ先に地下室が思い浮かぶんだ。
随分私もあの村に毒されている。
玄関の戸に鍵……はないからつい立ぐらい立てておこう。
後は、慧姉が早く帰ってくるのを祈るぐらいだな。
祈る対象なんて特に持ってないけど。
「おーい、開けてくれないかー?」
おっと、もう帰ってきてくれた。
私は玄関に行き、つい立を……
「一応聞いておきますけど、慧姉ですよね?」
「そうだが、どうした?」
外す手を止め、扉越しに話しかけた。
この付近の人なら声を変えるぐらいの事は普通にやりそうだ。
妖怪だって出来てもおかしくはない。
「念のため、質問に答えてもらっていいですか?」
「ほう、用心深いな。それはいい事だ。どんな質問に答えればいい?」
ここで私と慧姉だけが知っていることを聞けばいい。
何があるかな……
「じゃあ、慧姉のスリーサイズを上から言ってみて下さい」
「……別に構わないが、お前は知っているのか?」
「大丈夫です。自身があります」
もちろん詳しいところは全く分からない。
しかし、これで本人か別人かの区別は出来る。
私たちには長年連れ添ったっぽい、阿吽の呼吸というものがあるはずだった。
「仕方ない……上から大玉、小玉、中玉西瓜と言ったところだな」
やはり外にいるのは慧姉のようだった。
今こんな回答をしてくれるのは他にいない。
十分納得のいく返事をもらったので、私は安堵ともについ立を外した。
「慧姉、おかえりなさ……い?」
「ああ。ただいま」
んで、姿を現したのは……
(どうして?)
あはは、やばい。
どう対応していいか分かんないや。
取り敢えず笑うことしか出来そうにない。
それもかなり引きつった……。
「あはは、妹紅は見つかりましたか?」
何を聞いていいのかさえ、よく分からない。
だから、なるべく普段と変わらない対応をしようと思った。
「妹紅は近くの川で流れに逆らって泳いでいたから、驚きだ」
「……増水してますよね?」
私は話しながら、一歩後退りした。
私が後ろに下がった分、彼女も一歩だけ歩み寄る。
持って行った傘はどこにやったのか、ずぶ濡れのまま。
「冗談だ。本当は見つからなかった」
「そんな所だと思いました」
彼女の声は慧姉のものと同じで、しゃべり方も同じで。
顔も、浮かべる表情も同じだった。
私は一歩後退り、彼女は一歩歩み寄る。
「体拭かなくて、風邪ひきませんか?」
「お前は私が風邪をひくように見えるのか?」
きっと私はまだ笑っているのだろう。
人は引きつっている時は笑っているように見える、というのを何かで聞いたことがある。
きっと凄く歪な笑いを。
一歩……一歩……
「夏風邪は馬鹿がひくんですよ」
「何! 休んでいなくて平気なのか?」
あぁ、やっぱり彼女は慧姉なんだろうな。
だっていつもと何ら変わらない、会話が出来るんだから。
……そして、私の背中が壁にぶつかった。
「一つだけいいですか?」
「何だ? プライベートに関することなら勘弁だ」
手を伸ばす。
「……綺麗な髪ですね。こっちの方が私は好きです」
いつもは青かった部分が、今は緑に染まっていた。
雨に濡れて顔に掛かっている髪を、優しく持ち上げる。
がっ……!
「そうか、嬉しいぞ」
「――――」
(どうして?)
衝撃と圧迫感は同時だった。
苦しさで顔が歪む。
空気を求めて必死に足掻くが、少しも肺に届かない。
細い腕が私の首を締め付けている。
慧姉から伸びるそれは、見た目からは想像もつかない力を持っていた。
「私もお前のことは、好きだからな」
慧姉は何事もないように、変わらぬ調子で私に話しかけた。
首を掴む手に、更に力がこもる。
酸欠より先に首の骨が折れそうだ。
「・・・・?」
私は声を出そうと口を動かすが、それは何の形も取らない。
呼吸が出来なければ声も出せるはずがなかった。
それに、私は何を言おうとした?
「……どうして、か」
私の声にならなかったセリフは、慧姉の声を借りた。
でも、これは何の質問?
私は何が聞きたい?
何を聞こうとした?
「どうしてだと思う? お前は私が何に見える?」
首を押さえつける手の力が少しだけ弱まった。
辛うじて声が出せる程度に。
問いに答えろと言う事らしい。
慧姉が何に見えるか……
「よ……」
「どうした?」
私は今、何を言おうとした?
慧姉は目の前にいて、他には誰もいない。
そして聞かれている。
慧姉が何に見えるかを。
どうして! 私は妖怪と言おうとした?
どうして! 妖怪に見えると思った?
…………
私には人間とか妖怪とか、どうでもいい事なのに。
慧姉は慧姉なんて、見れば直ぐに分かる。
普段と同じように答えればいい。
だって重苦しい雰囲気は疲れるから。
左手は私を掴む手首に重ね、右手は慧姉の頭へと伸ばす。
それに、出来る限り皮肉の効いた笑顔と、普段の会話と同じ調子で言おうと思った。
「はは、水も滴る、いい、キィモ・ケネー……一歩手前」
右手で慧姉の頭の角を撫でる。
因みに一歩手前と言ったのは、リボンをしていなかったから。
リボンをしてれば聞いた話と同じだったのに、惜しい。
あ、でも尻尾がある分こっちの方が愛らしいかも。
「……」
慧姉は驚いたような顔で私を見ていた。
そんなに見つめられると、頬を赤く染めちゃいますよ。
「どうしたんです? 私に惚れちゃいましたか?」
「ふふ、そうかもしれん。お前は面白いヤツだからな」
慧姉は、微笑みを浮かべて答えた。
今まで見てきた中で、一番自然な笑顔かもしれない。
心から笑っているのだろう。
いいなぁ。
そんな顔が出来るなんて、羨ましいですよ。
私には――例え私を掴む手がなくても、出来そうにはないですから。
「初めて、合った時も、そんな事、言ってました、ね」
「ああ。お前が私の事を、慧姉と呼んでいいか聞いたときだな」
「……『偉大なる慧音様』とか、懐かしい、ですね」
「そうでもないぞ。まだ一週間だ。
私はお前と暮らしてきた日々は、初日からしっかり覚えている……」
一週間かぁ。
長かったような、短かったような。
懐かしいと思えるんだから長かったんだろうな。
充実してたってことか。
「そして、これからも忘れる事はないよ」
「ちゃんと、絵日記に、付けといてくださいね」
「当然だ。……お前はこんな事になって後悔しているか?」
「まさか。いろいろあったけど、自分の意思で、ここまで来たんです。
この瞬間も、後悔なんて、してませんよ」
慧姉は一度眼を閉じてから開いた。
何を考えていたのだろうか?
「前向きでいいな、それは」
「……一つ聞いて、いいですか?」
多分、自分の死を受け入れることを前向きとは言わないと思う。
でも、後悔なんてするつもりはない。
私の相手をしてくれているのは慧姉なんだから。
あ、でも最後に食べたのが自分の炒飯ていうのは心残りかも。
贅沢したかったなぁ。
「…………」
「慧姉は、人間のどこが……好きですか?」
それは、慧姉の家に初めて泊まったときに聞いた言葉。
疑っているわけではないけど、ちょっと気になった。
また、慧姉の手に力がこもる。
「全部好きだ」
「……」
もう声を出す余裕はなかった。
私の意見はいらないのだろう。
伸ばしていた手も下ろす。
慧姉は私の瞳を覗くように、目を合わせてきた。
「人間の愚かなところ、賢いところ。冷たいところ、優しいところ。
怒って、泣いて、悲しんで、時には妬んで……笑い、喜び、恋をし、そして愛を育む。
人は人を生み、人を殺す。
私はその全てが愛しい。
殺してしまいたいほどに…………食べてしまいたいほどに……」
浪々と語る慧姉は、何よりも美しかった。
私では到底つり合いそうにないや。
妙に納得したし、慧姉らしいと言えばこれほど慧姉らしい事もない。
「じゃあな」
「……」
私は目を閉じてその言葉を聞いた。
別れのモノとしては明るかった。
私もその方が気楽でいい。
それに、首を絞める慧姉の手がこんなに心地よいものとは知らなかった。
はは、やばいかも。
いつまで……笑ってられるかな……?
…………
「はぁ、はぁ。間に合った」
……何故か妹紅の声がした。
恐る恐る目を開けると、慧姉の後ろには息を切らした妹紅が立っていた。
雨の中を突っ切ってきたのか、慧姉と同様に全身ずぶ濡れで。
私だけ出遅れた!
今から外に出て雨に打たれてこなければ。
慧姉が手を引っ込めてくれたら行けるのに。
「慧姉、どうしたんです?」
首を掴む手は既にかなり弱まっているので、普通に話すことが出来る。
掴むのではなく当てている様なものだった。
「妹紅。二人で愛を語らっているところに突然現れるのは、些か無粋だろう」
「それは浮気宣言?」
「違うな。一夫多妻制だ」
私を無視して話し始めるお二人さん。
私の扱いなんてどうせこんなもんですよ。
「状況説明が欲し……」
「私は認めないよ」
「仕方ない、お前は諦めるとしよう」
そう言って慧姉は掴んでいた手を下げてくれる。
どうやら助かってしまったらしい。
嬉しい事は嬉しいんだけど、何だか拍子抜けしてしまった。
割といい雰囲気だったからかな。
手を離した慧姉は、私に顔を近づけてきた。
迫る慧姉の顔に驚いて、後ろに壁があることも忘れて思わず身を引く私。
ゴンッ!
つー、後頭部打った。
かなり小気味の良い音がしたというのに、慧姉は笑うこともせず近づいてくる。
ちょっ! 諦めるとか言っておいて何がしたいんですか?
うわわ、嫌な汗まで背中に掻いてきた。
首を絞められている時とは違う緊張感が私を襲う。
妹紅に視線を移せば、明後日の方を向きながら目だけでこちらを見ている。
何を期待してるんだ、妹紅。
そうこうしている内にも、慧姉は不安な乙女の顔で眼前に迫りくる。
そういう顔は似合わないからやめて欲しいんだけどなぁ……。
「私を……恨んでいるか?」
私の耳元で囁くように言った。
……な、何だ。それが聞きたかったのか。
全く別の想像してたよ。
いやー、焦った焦った。
今の慧姉を初めて見たときより焦ってしまった。
もうちょっとこういう不意打ちに免疫付けた方がいいかな。
「あれ? 慧姉は何か私に恨まれるような事でもしたんですか?」
私は肩を竦めながら、とぼけてみせた。
慧姉は余程驚いたのか、体をビクッと震わせる。
むー、信用ないなぁ。
私は一度も慧姉を恨んでいるような発言はしてないつもりなのに。
「それより慧姉……」
「なんだ?」
「私まで濡れるんで、離れてくれませんか?」
寄り掛かる格好で話していたので、もう手遅れかもしれなかった。
「おお、悪い。すまんな」
「はぁ、いいですけどね」
直ぐに離れてくれる。
びっしょり、というほどではない。
でも、服が体に張り付いていい感じで気持ち悪かった。
私は溜息を吐いて、壁に寄り掛かりながら座り込んだ。
緊張の連続で疲れてしまった。
「あれ? もう終わり?」
妹紅が意外そうな声を上げる。
この人もこの人で何を期待していたんだか。
私と似たような想像してたんだろうなー。
「? まだ何も始まっていないぞ」
「もっと絡み合ったりするのかなぁ、と」
「そんな気持ち悪い事するか」
妹紅は私より想像力が豊かだった。
完全に妄想の域に入っている。
そんな事を思う傍ら、慧姉の言葉に傷つく私。
この二人が揃うと私の扱いが急に雑になる。
「うぅ。一頻り私が苛められたところで、何がどうなってるのか教えて欲しいんですけど」
「そうだな、今回は苛めてばかりもいられないな」
「……いいの、慧音?」
「こいつなら構わんさ」
そう言って、慧姉は手を後ろに付く様にして座った。
妹紅も玄関の段差に腰を下ろしている。
変な所で腰を落ち着けてしまった。
全員濡れているから、居間にまで入るのは憚れるけど。
「細かいところは省くとして、私は見ての通り妖怪だ。
人間を襲う理由も言ったな」
「ええ、好きで溜まらないからですね。もう少し我慢したらどうです?」
「五月蝿い、人間の時はそこまでじゃない」
私のいらない横槍は、簡単にあしらわれてしまった。
「満月の夜だけなんだ、この姿になるのは。
それで、この姿の時は少し普通が変わる」
「普通が……? よく意味が分かんないです」
「そうだな。趣味嗜好が若干妖怪よりになるんだ」
「つまり、人を襲う事が普通になるって事ですか?」
「ああ、そういうことだ」
「今は大丈夫なんですか? 取れたての新鮮な人間が目の前で誘ってますよ」
私は慧姉の前で手を振ってみせる。
挑発しているとも言う。
すると慧姉は、一度妹紅と顔を合わせてから、やれやれと言った感じで話を再開した。
「ふふ、お望みなら食べてやろうか」
四つん這いになって私の方へにじり寄って来る慧姉。
いやらしい笑みを顔に浮かべて。
「べ、別の意味で怖いので、遠慮しときます」
慌てて壁の隅に逃げながら答えた。
「全く。今はこれをしているから大丈夫だ」
「さっき私がつけたよ」
慧姉は角に結んである赤いリボンに触れた。
いつの間に、と思ったところで妹紅がフォローする。
そのリボンを見るとついついあの名前が脳裏をよぎるんだけど、もう言わない方がいいんだろうなぁ。
「その尻尾、ふさふさしてて可愛いですね」
「何故話をそっちに持っていく?」
「い、いえ、別に。深い意味はないですよ」
「とにかく、これは封印の役目をしていてな、妖怪側の性格を抑えているんだ」
「私が作ったよ」
ちょくちょく、妹紅の自慢のようなものが入る。
「それなら、慧姉が妹紅に合う前は……?」
私は悪いかなと思いつつも聞いてみた。
もちろん、どんな回答が返ってくるのかはある程度予想して。
世の中あまり都合のいい事ばかりではないと思っている。
「お前の予想通りだよ。あの村でな」
慧姉はあっさり認めた。
これはちょっと予想外。
はぐらかしても深く追求する気はなかったのに。
んで、そう言われると新たな疑問が出てきちゃうんだけど。
ああ! もしかして私誘導されてる?
「……それにしては、村にとけ込んでましたよね?」
「ああ、あの村はよくいろんな妖怪に襲われていたんだ。私が来る前はな」
「いえ、もう大体の事情は解ったんで結構です」
「慧音は昔、崇拝の対象だったんだよ」
「あはは、もういいですよ」
「……私は村に住み着き、村人を守る事にした」
ちらりと私を見てから話を続ける慧姉。
はぅ。どう合っても私に聞かせたいらしい。
どんな経緯を辿ったかは概ね解ったから勘弁して欲しい。
そうですよ、人間は楽な方に流されるもんなんですよ。
犠牲が少ないならそれに越した事はないですからね。
「お好きなように続けてください」
「ああ。村人は一番犠牲の少ない道を選んだ」
「……生け贄、ですね」
方針を変えて、とっとと話を進めることにした。
「満月の夜だけな」
「村人は慧姉を守り神みたいに崇拝して、腫れ物に触るかのように慎重に扱った…………痛いですね」
「仕方のないことだ」
話としてはよくあるモノである。
慧姉の気持ちを考えなければ。
「慧音は人間としても妖怪としても不安定だから、村人の行動に傷ついてしまう」
「いっそのこと、人間なんて滅ぼしてやる、ぐらいの方が楽じゃないですか?」
「人間は好きだと言ったはずだぞ……どっちの私にしてもな」
うぅー、生け贄を出す村人の行動も理解できるし。
普通に暮らす事を望む慧姉を思うと、遣る瀬無い。
でもそれが出来ない日がある訳で……
あれ?
「今はどうなんです? 奉ってるようには見えませんでしたけど」
「私は元々村人に嫌われていたわけではない……と信じたい」
妹紅が来てからは奉る必要がなくなる。
だから村人は慧姉を受け入れていった。
……本当にそれでいいのかな?
慧姉は村の中で私塾まで開いてるのに。
「よく私塾とか出来ますね?」
「お前の言いたい事はわかる」
「ええ。普通なら自分の子供を喰われる可能性がある人の所へやったりしません」
「あんな事が出来るようになったのは、ここ一、二年からだ」
慧姉は懐かしいものでも見るように、当時を振り返っているようだった。
私もそれを黙って聞くことにした。
「妹紅が始めて私を止めてくれた夜も、当然生贄が私の家へ来た。
村人がどんな基準で生贄を選んでいたかは知らないが、その時に来たのはまだ年端もいかない女の子だった。
私はその子を喰おうとした。
でもな、その子は怯えなかったよ。ましてや拒否するような事さえしなかった。
お前ほどではなかったが、あの子のとった行動はお前に似ていた。
その後は、間一髪で妹紅が来てくれて助かった。
私はその子に、もう生贄を出す必要はない、と村人に伝えるように頼んで村へ帰した。
それでもしばらくは、満月の夜になると誰かしら来ていたけどな。
そして、私のところへ誰も来なくなり、長い間一人で暮らしていた。
十年か……二十年か……。
そのぐらいの時間が経ったときに、私の家を見知らぬ家族が訪ねてきた。
母親と子供の二人連れだった。
母親は私に、自分の子供に勉強を教えてやって欲しいと頼んできた。
私がどうするべきか悩んでいると、母親が突然謝りだしてしまってな。
訳がわからなくて母親に事情を聞くと、以前私のところに来た女の子という話だ。
あの時の女の子は、私の家から帰った後も、何度も私の家へ来ようとしていたらしい。
その度に両親に止められて、それならせめて私をもっと村で受け入れて欲しい、と頼んでいたそうだ。
恐らく子供の言うことだと、ほとんど聞く人もいなかったんだろうな。
だから、一人立ちできるようになるまで、ずっと待っていたらしい。
話を聞いた私は、それならばと、子供の勉強を見てやることにした。
暫くは私の家で、一対一で勉強を教えてやった。
一年ぐらい経つと、未だ母親の子供が健在という事が村の中で噂になり始めた。
母親の努力もあったのだろう。
次第に私のところに来る親子が増えていったんだ。
そのうち、私の家では入りきらなくなってしまって。
思い切って、村長さんに空き家を貸してくれないか頼んだんだ。
村長さんは少し困っていたけど、ちゃんと貸してくれたよ。
別れ際には、すまなかった、と謝られてしまった。
私も謝って、笑顔でその時は別れる事ができた。
多分、そこで始めて、私は村人に受け入れられたんだろうな」
慧姉は村人を責めることなく、ありのままを話してくれたようだった。
とても辛くて、苦しくて、だからと言って誰に責任を押し付けるでもない。
何十年と孤独な生活を強いられて来たのに。
それでも人間が好きだからというだけで、影ながら守ってきた。
最後には、今の幸せを掴むまでに到っている。
「なんて言っていいのか……慧姉は、強いですね」
「そんな事はない。私は只、人間が好きなだけだよ」
「その想いが強いんですよ」
「恥ずかしいことを言うな」
慧姉は照れてそっぽを向いてしまった。
「今、その女の子……じゃなくて母親か。どうしてるんですか?」
「まだ村で暮らしている。もしかしたら、既に会っているかもな」
「会ってみたいですね。話が合いそうな気がします」
今の慧姉を見ても怖がらなかった女の子。
村の中で育ったのなら、慧姉についていろいろ教え込まれていただろう。
そんな先入観を押さえつけて、女の子は慧姉を救おうとしていた。
私にも、そんな事が出来たか分からない。
きっとその女の子も、強かったのだろう。
「……一応、私も頑張ったんだけど」
「あれ? 妹紅居たの?」
「私だって、ずっと慧音と一緒にいた」
妹紅は、でも、と続ける。
その表情は、見ている私の方が痛さを憶えるような、悔しいものだった。
「部外者の私では何も出来なかった。
慧音の近くで、慧音が傷付いていくのを見ているしかない。
私では、近くに居ることしか出来なかった」
妹紅も苦しんでいたのか。
それでも、私は妹紅を羨ましいと思った。
当事者になれたこと、慧姉を抑えることが出来たこと。
私には両方なかったから。
ついつい、意地悪したくなってしまう。
「ところで妹紅は、今日どこに行ってたの?」
「今日はずっと慧音の家に居たよ」
「へ?」
思わず顔を見合わせる私と慧姉。
「私の家で何をしていたんだ?」
「今日は満月だから、慧音を待ってた」
「留守なら帰ってくればよかったんじゃない?」
「また子供に勉強を教えてるのかと思ったから」
「「……」」
嫌な沈黙が流れる。
つまり、これはアレだ、行き違い。
その所為で私は死にかけたんだ。
私は一方的に悪役を心の中で決め付けると、沈黙を破った。
「慧姉、諸悪の根源は妹紅だったんですよ」
「ん、あ、ああそうだな。私もそう思うぞ」
「私は認めないよ」
当たり前だけど、妹紅が反論する。
しょうがないので、私は笑顔で理由を教えてあげた。
「妹紅。多数決とか、数の暴力って言葉知ってる?」
「ず、ずるい」
「やりましたよ慧姉。悪は滅びました」
「すまんな妹紅。これで丸く収まるんだ」
まだ何か言いたげな妹紅をほっといて、慧姉と喜びを分かち合う。
妹紅は受けに回ることがほとんどないから、偶にはいいんじゃないかな。
「よし、そろそろお前を帰すぞ」
つ、遂にこの時が。
……もう緊張する余力もないや。
メインイベントの前に何で私はこんなに疲れてるんだろ?
「具体的にはどうするんですかー?」
「何だ? やる気がないな」
「慧姉は元気いいですねー」
「……まぁいい。これから私がお前の幻想郷に来たという歴史を消す」
…………ふぇっ?
それってもの凄い事だよね。
「そ、そんな事出来るんですか?」
「この姿の時だけな。他にも幻想郷の全ての歴史を知っている」
「……慧姉が崇拝されてた理由が分かった気がします」
「お前までやめてくれ。いい思い出ではない」
「はぁ、ごめんなさい」
とんでもない人と知り合いになってしまった。
どうも歴史が得意だと思ったら、そんな裏技があったのか。
あれ? ちょっと待てよ。
私がここに来たという歴史を失くすという事は、
「私の今日までの記憶はどうなるんですか?」
「ん? ああ、どうだろうな」
「はっきり教えてくださいよ」
「その方法だと、多分なくなるよ」
教えてくれたのは妹紅だった。
「おい、妹紅!」
「しょうがないよ、多分言わなきゃ納得しないし」
「……それを聞いても納得は出来ないんですけど」
はっきり言えば、幻想郷での生活は私が生きてきた中で一番充実していた。
それを失うなんて絶対に納得できない。
「いいんじゃない? 記憶のあるまま帰しても」
「慧姉、出来るんですか?」
「出来ないこともないんだが。ここから帰れた、という歴史を創ってしまえばいいだけだからな」
歴史を消すとか創るとか。
ホントに次元が違う話をしている。
漠然とそんな事が出来るんだろうなぁ、としか分からない。
まぁ、それは些細な事だからいいとして。
「慧姉、まだ何か隠してますよね。さっきの口振りからすると」
「ん、ああ。お前はそれでいいのかと思っ……」
「慧音!」「えっ?」
慧姉の言葉を途中で遮って、妹紅が叫ぶ。
初めて怒鳴ったところを見た。
しかしその表情は怒ると言うよりは、焦っているような感じだ。
何を?
このまま私が帰ると何か取り返しがつかないことでもあるの?
「ちょっと待って、どういうことですか?」
「もういい、慧音! どっちでもいいから早く帰したほうがいい」
「う、しかし」
「こいつは危険すぎるんだ。判断を誤る可能性だってある!」
妹紅の怒声を聞きながら、私は必死に考える。
私の記憶がある状況で帰ると、何か不都合でもあるの?
私が危険、何に対して?
私が判断を誤るって、いつの話?
「だから待ってよ」
「無理矢理でいいから早く! こいつが気付いたらあんたじゃ出来なくなる」
「く、仕方ない」
ちょっ! 無理矢理って。
ん? 無理矢理でいいって事は、私が帰った後はどうしようもないって事だよね。
記憶がある状態で帰ろうとした時と、ない状態で帰ろうとした時の慧姉の違いも気になる。
ある状態のときだけ、それでいいのか聞いてきた。
……嗚呼、何となく分かった気がする。
「……答えてもらいますよ」
「無視しろ、慧音!」
「だが……」
「私が再度、幻想郷に来ることは出来るんですか?」
「……」
「……ちっ」
私が疑問を口にした途端、雨の音以外の全てが消失した。
最後の妹紅の舌打ちが、妬けに大きく玄関に響く。
こんな大事な話を玄関でするもんじゃないな、と今更ながらに思った。
「……どうなんですか?」
「……」
「答えてやりなよ、慧音。あんたは優しいんだから、仕方ないさ」
さっきのような怒声ではなく、妹紅は労わるような穏やかな声で促した。
二人の様子を見れば、答えは容易に知れる。
でも、はっきりとした言葉が聞きたかった。
中途半端は嫌だし、変な希望もいらないから。
「お前の力じゃ、一度帰れば二度と幻想郷には来れない」
「やっぱり」
私がこっちに来たのだって、妖怪の力があったから。
私は何もしていない。
「どうする? 記憶のない状態で帰るか?」
「やっぱり……慧姉は優しすぎると思います」
「な・に?」
私は慧姉の問いには答えなかった。
そして、全く別の途を選択をしようとしている。
妹紅が言っていたように、判断を誤った途を。
分かっててそっちを選ぶんだから、私も馬鹿だなぁ。
「無理矢理にでも記憶のない状態で帰した方が、きっと私の為でしたよ」
「おい、まさか」
「ええ、私は幻想郷に――」
「やめろ、言うな! 私は聞きたくない!」
言うな、何て言われたら余計に言いたくなっちゃいますよ。
天邪鬼ですから。
……きっと私は地獄行きだな。
死後の世界なんて信じてないけどね。
不思議な感じがした。
今まであんなに帰ろうとしていたのに、もう来れないと分かっただけで手の平を返すなんて。
きっと、帰らなくてはいけないという得体の知れない義務感があったから。
最初から心の奥底では、私はずっとここにいたかった。
「残ります」
…………
妹紅から溜息が漏れた。
彼女は始めから、私がここに来れないと知った時の反応も大体分かっていたようだ。
だから、あんなに慧姉を急かしたのだろう。
私以上に私を理解していた。
「何故だ! お前にだって友人はいるだろう?」
「ええ、いますよ」
私は淡々と、笑顔で答える。
「兄弟姉妹は? 親だっているんだろう!」
「あはは、残念ながらちゃんといますねー」
努めて明るく。
暗い雰囲気は好きじゃない。
「それなのに何でだ!」
さっきは慧姉の過去の暴露だったけど。
今度は私の心の暴露になっちゃったなぁ。
適当なことを言ってもきっと納得してくれないし、ちゃんと答えないと駄目か。
「私が我侭だからでしょうね」
「何、だと」
言いながら、もう一度自分の気持ちを確かめる。
何で幻想郷に残ろうと思ったのか……。
「友人、家族、私には皆大事です。でもですね……」
「……」
……。
この先を口にするのはやっぱり気が引ける。
薄情者で、単なる我侭だと知ってるのに。
「私は、自分の為に生きたいんです」
「……」
「一回だけの、一つしかない私の命。私の好きに使いたいじゃないですか?」
「……」
「あのー、何か言ってくれないと私も困るんですけど」
ずっと黙りっぱなしの慧姉に声を掛ける。
怒るでも何でもいいから、反応がないと居心地が悪い。
「そんなの、唯の我侭じゃないか!」
「言ったじゃないですか。私は我侭なんです」
「なら! お前に恋人はいないのか!」
「……」
…………
私は首を振ってそれに答えた。
ああ、確かに恋人がいれば帰ったかも知れないな。
でも私って、独身主義っぽいんだよなぁ。
「じゃ、じゃあ! 私がお前の恋人になって一緒に帰……」
「ほ、本気ですか!?」
慧姉の言葉は尻すぼみに消えていった。
それでも言いたい事が解った私は、思わず聞き返してしまった。
まさかこんな大胆な案を持ち出してくるなんて。
「お、お前は……私では不満か?」
真っ赤になりながら聞いてくる慧姉。
まぁ、そういう所は可愛いと思うけど。
「つり合いませんよ」
「なら、つり合う様にもっと努力する」
「……差を広げてどうするんですか?」
思わず突っ込んでしまう。
そう、慧姉と私じゃ到底つり合わないという事は、絞殺されかけたときに思い知った。
住む世界からして違う気がする。
私が……慧姉の世界に行こうとしてるわけだから、事実違った訳だけど。
でも、それも、これからは過去形で語れる……。
「慧音。ちょっと落ち着いた方がいいよ」
「うっ、分かっている」
「……そうですね。もっと違う出会いをしていれば……例えば外の世界で出会っていれば、結構いい関係になれたかもしれませんね」
私は真剣に考えてみた。
慧姉が外の世界で待っていると思えば、私は帰ったんじゃないだろうか。
きっと私の我侭を止める、そこまでの存在になってくれたと思う。
実際は幸か不幸か、私にそんな人はいない。
「お前は……お前を心配してくれる人全員を、裏切るというのか」
「……私は我侭ですからね……」
私は大きく深呼吸をした。
嗚呼、やっぱり私は薄情者なんだな。
心配してくれる皆には悪いけど、私は自分の途を歩いていくよ。
「だから……」
それでも、この言葉を口に出すのは躊躇われる。
でも、自分で決めたことには後悔しないと決めているから。
言ってしまおう。
「裏切ります」
それは決別の言葉。
外の世界に向けての別れの言葉。
そして、私の新たな旅立ちの言葉になればいいと思う。
「はぁ。それで、あんたはこれからどうするの?」
妹紅の当然の疑問。
どうしよっかな、この後の事まで考えてなかった。
「うーん、このまま村で暮らす……っていう選択肢はないけど」
「なっ! 死にたいのか?」
「慧姉は私が死ぬと思ってるんですか?」
「う…………思っている」
慧姉は長い間躊躇ってから、素直に答えた。
私も素直に口にしてみる。
「実は私も思ってます」
「妹紅。どうすればいいんだ」
「どうしようもないよ。価値観からして違ってる」
……そうかも知れない。
自分の命をこんなに軽く考えてる人も少ないだろう。
その癖好き勝手生きたいとか言うんだから、我ながらふざけていると思う。
「本当の事を言いますと、私は現実の世界から逃げたかったんです。
常に不安と恐怖が付き纏う現実から。
どんなに幸せな時間でも、途中で自分が幸せな時間に浸かっていると気付いてしまうんです。
それに気付いてしまうと、後はいつか終わってしまう恐怖に怯えるだけです。
最後に残るのは空虚感と不安。
具体的な夢や目標がない私は、未来ですら恐怖の対象。
はは。だから私は、出来る限り先の事を考えずに生きてきたんです。
どうしようもないほど、臆病なんですよね」
多分これが私の本音。
未来に恐怖しか感じない私は、逃避場所を探していた。
現実に逃げる場所なんてないから、死を探してしまう。
しかしながら、臆病な私は死ぬことも出来ない。
それが幻想郷に来る前までの私だった。
だけど幻想郷は私にとって逃避場所であり、消極的に死を感じられるところらしい。
そう言えば……私がこっちに来てからは夢を見なくなったし、見たいとも思わなくなった。
「な、それではお前は、今まで何の為に生きてきたんだ!」
「さあ? 何の為でしょうね」
「ふざけるな! ちゃんと答えろ! 私を納得をさせろ!」
耳が痛い。
これは、私が今まで惰性的に……流されるままに生きてきたツケ。
「慧姉に合うため……じゃ駄目ですか?」
「当たり前だ!」
慧姉の怒声が響く。
冗談で済むはずがないのに、私はそれを望んでしまう。
そうやって今まで生きてきたから。
私は目を瞑り首を振ってから、笑顔を取り出した。
無理やり作れる笑顔は、これがきっと最後。
これ以上は恐怖に押し潰されて……泣いてしまうかもしれない。
だから、これで納得してくださいね。
「私は……終わる為に、生きてきました」
笑顔とは不釣合いな言葉。
ここまで自分の胸の内を話したのは、始めてだった。
外の世界でこんな事を言える相手なんていなかったから。
慧姉の息切れした呼吸音が聞こえる。
私は眼を合わせてから、二度頭(かぶり)を振った。
――もう無意味です、と。
「くっ。私ではお前を止められないんだな」
「すいません」
「何故謝る」
「……慧姉を傷つけてしまいましたから」
私なんかの為に、誰かが傷つくべきじゃない。
私は単に我侭なだけなのだから。
それで傷つくのは私だけならいい。
……嘘だ。
私がしていることは、外の世界で心配してくれる人を傷つけている。
善人ぶってるだけで、自己満足にしかなっていない。
綺麗なままでいようなんて、思い上がりも甚だしかった。
それでも私は、ここに残りたいと決めたんだ。
「……もういい!」
「えっ?」
「まだお前が死ぬと決まったわけではない」
「そうですけど」
「それに、先の事はその時に考えればいいのだろう」
「ええ、まぁ」
「じゃあ、今はどうしたい?」
……納得してくれたかは分からない。
でも、私を説得出来ないと判断したのだろう。
その上で、前向きにこれからの事を聞いてくれた。
だから、口には恥ずかしくて出せないけど、心の中でだけでも言っておきたい……
ありがとうございます
「今日は、慧姉の家に帰りたいです」
「ああ、帰ろう。……妹紅、迷惑をかけたな」
「私は気にしてないよ」
「とうとう、私も雨に濡れちゃうんですね」
「泣くなよ」
「さあ、どうでしょう?」
私と慧姉は雨の中を走って帰った。
その中で私が泣いていたかは、自分でもよく分からなかった。
早朝、私と慧姉は村の出口に立っていた。
昨日とは打って変わって、晴れ渡っている。
雨もいいけど、朝は晴れてた方が気持ちいい。
「眠そうだな?」
「今なら立ったまま寝る自信があります」
そう言って、私は欠伸を噛み殺した。
村が起き出す気配はなく、何となく気だるい雰囲気が眠気を増す。
今日はいつもより更に早くて……えっと、まだ五時頃。
村を出るのなら早い時間の方がいいと思い、慧姉に叩き起こしてもらった。
最後まで世話になる図々しい私。
……だるい。
「本当に行くのか?」
「他に行く当てもないですからね」
目指すはマヨヒガ。
行ったことがない所に行ってみたかったし、せっかく招待らしきものもされたから。
昨晩帰ってから、慧姉にどこにあるのか聞いてみたけど、詳しい場所はよく分からなかった。
迷い人が訪れる地……らしい。
本当は「マヨヒガに行ってみたい」と慧姉に話したら、猛反対されたのでしっかり聞けなかったからなんだけど。
迷子が行けるのなら、案外早く見つけられるんじゃないだろうか。
「お前なら、何とかなりそうな気がするから不思議だよ」
「気休めですね」
「悪かったな」
変わらないいつものやり取りと笑顔が、ちょっと胸に刺さる。
良心からくる罪悪感……。
なんで朝から鬱になってるんだろうな、私は。
「あ、慧姉! アレちょっと見てくださいよ」
私は村の方を指しながら言った。
「ん、何だ?」
くるりと振り返って村へ視線を移す慧姉。
自然と、私に背中を向けることになる。
「よっ!」
「キャッ!!」
少女らしい声を出して驚いてくれた。
ちょっと似合わない……と言うのが、率直でかなり失礼な感想
「振り向いちゃ駄目ですからね」
「あ、ああ。しかし、こんな不意打ちみたいな事をしなくても……」
「何ですか?」
「ちゃんと頼んでくれれば良かったんだ」
「そんな恥ずかしい事、私に言えるわけないじゃないですか」
「顔を赤くしながら、しどろもどろで私に頼むところを想像すると、中々愉快だぞ」
「嫌な想像しないで下さい」
「お前ばかりずるい奴だ」
「ええ。だから忘れて下さい。覚えていてもいいことないですよ」
「ふ、誰にものを言っている?」
「やっぱり無理ですか?」
「当然だ」
「でも、慧姉が気に病む必要はないんですからね」
「ほぅ? こんな事までしといて、無責任だろう」
「これは慧姉の最後のサービスだから、私に責任はありません」
「勝手に決めるな。私は村しか見えないんだぞ」
「絶対に振り向かないで下さいね」
「…………」
「もう行きますね……このまま、別れましょう」
「最後に……顔も見せてくれないんだな?」
「はは……すいません……」
――エピローグ――
太陽が昇りきる前に、その鳥は目を覚ました。
普段ならまだ寝ている時間。
しかしながら、どうしてももう一度眠る気にはならない。
嫌な時間に起きてしまった、と思いながら鳥は体を起こした。
このままここにいても面白くない。
それならば、普段あまり見ることのない昼の世界を見て回ろう。
鳥はそう結論付けた後に軽く伸びをした。
背中にある羽をパタパタと動かし、調子を確認する。
羽の調子に満足した鳥は、幻想郷の空へと飛び立った。
「ちゃんと、やってる?」
「あ、咲夜さん。おはようございます」
「ええ、おはよう」
紅い洋館から出てきたメイドは、門番にそう訪ねた。
門番は先に挨拶をすると、メイドもそれに答える。
それはありふれた日常の一コマ。
「こんな朝早くにどうしたんですか?」
「またサボってないか、見に来ただけよ」
「まだあの事覚えてるんですか~?」
少し前に、この門番は警備をせずに夜通し遊んでいたことがあった。
外の世界から迷い込んだという人間の私物を借りて。
メイドにはあの時の事が、かなり強く印象に残っていたらしい。
それは、門番にしても同じだった
「あれ以来怠け癖がついてないかと思って」
「ちゃんとやってますよ。あ! でも自転車には乗ってみたいですね」
「それじゃあ、私に対してサボり宣言しているようなものよ」
溜息を吐きながら、軽く嗜めるメイド。
それに門番は、大げさに口を押さえながら慌てて見せる。
どちらも単純に会話を楽しんでいるだけで、それ以上どうこうするつもりはないようだった。
その時門番が、メイドの懐中時計に付いている見慣れない物に視線を移した。
「どうしたんですか、それ?」
「ん? ああ、これ」
メイドは懐中時計に括り付けていたストラップを取り出した。
犬の姿をしたそのストラップが、吊られて微かに揺れる。
門番には、しばらく前までこんな物が付いていなかったことを記憶していた。
「ええ、それです」
「ちょっと前に貰ったのよ」
「可愛いですね。似合うかどうかは別として」
「五月蝿いわね。気に入ってるからいいのよ」
腰を屈めてストラップを見ながら感想を口にする門番。
それにメイドは少し顔を赤らめて、反論のようなものをする。
どうやら本人も似合っていないような気はしていたようだった。
二人が話している所に、洋館に来客があった。
もっとも、その客は館内に用があるわけでなく、門番に合いに来たようだった。
二人とも顔見知りだった為、特に警戒などはしない。
しかし、滅多に顔を見せる相手ではないので、お互いに顔を見合わせて首を傾げていた。
「おはよう、チルノちゃん。今日はどうしたの?」
「うん、おはにちは」
何の躊躇いもなく元気に挨拶をする氷精。
メイドはそのセリフにもの凄い違和感を覚え、思わず聞き返していた。
「……何、その挨拶?」
氷精を大きく胸を張って、得意げに答えるのだった。
「新しい挨拶だよ。便利だから流行らせようと思って」
「……」
「……」
門番とメイドはまた顔を見合わせて、アイコンタクトをはかる。
――適当にあしらっちゃいなさい。
――わかりました、普及させるんですね!
悲しいぐらいに意思の疎通はとれていなかった。
「紅魔館は任せて。私達で何とかするから」
「えっ!?」
「ホントに! じゃあよろしくね。私は他の所も回ってくるから」
「頑張ってねー」
「あっ、ちょっと!」
それだけ言い残して、氷精はさっさとどこかへ飛んでいってしまった。
まさかの事態に呆然とその姿を見送るメイド。
対称的に、門番はなんとも楽しそうだった。
その後、氷精のもたらした奇妙な挨拶が、紅い洋館の水面下で密かに流行していた時期があったとか……?
草原を風が吹き抜ける。
その風に流される様に、暗い塊はふわふわと漂っていた。
目的など持っていない。
ただそこで、自身を吹き抜ける風を感じることが幸せだった。
太陽も頂点に達し、世界を明るく照らす時間。
しかしそれを嘲笑うかのように、暗い塊はそこに在り続ける。
ここ何日かは機嫌がよかった。
おそらく、可笑しな人間に出会った日から。
一緒に食べたおにぎりは、一人で食べるより美味しく感じられた。
一緒に風を切って走るのも、凄く楽しい。
でも、妖怪には眩しかった。
昼の太陽は身を焦がすかの様で、体に馴染まない。
人間の楽しそうな笑顔が、妖怪という彼女の在り方を否定する。
人間とは生きる場所が違った。
彼女には、闇の中のほうが落ち着く。
だから彼女は、思い出だけをしまって人間と別れた。
草原を只々気持ち良さそうに、風の吹くまま飛んでいく。
既に昼はまわっていたが、太陽が沈むにはまだ早い時間。
地面に着いてしまう程長い銀髪をした少女が、家の中へと入っていく。
少女にとって見知らぬ家のはずなのに、臆すことなく、家主と堂々と話していた。
「お邪魔します。上がらせてもらっていいですか?」
「ええ。どうぞ」
家主も突然の来訪に驚くことなく、少女を家へと招いた。
少女は家へと上がっていく。
その姿を見て、家主は何か思うところがあったのか、少女に尋ねていた。
「あなたは、初めてよね?」
「そうですよ。どうかしましたか?」
「……どこかで、あなたに合った事がなかったかしら?」
「私に覚えはないですね」
そう、と言って家主はその話題を打ち切った。
確かにどこかで合った気もするのだが、小さい頃の事だから記憶もひどく曖昧で。
そんな時に出会った少女ならば、今もまだ変わらぬ少女である筈がない。
多少引っかかりはあるものの、他人の空似だと思うことにした。
「先生、見ーつけた!」
その時、子供特有の高い声が家に響いた。
声と一緒に、姿を現したのも同じ子供。
恐らく少女がこの家に来た事を知り、隠れていたのだろう。
「……見つかってたの?」
「ここで網を張ってたら、先生が飛び込んできたんだよ」
「…………」
勝ち誇るように、子供は得意げに話す。
言葉を聞いて、家主にはそれが意趣返しだということに気付いた。
少女に教えてあげようかとも思ったけど、一応ルールなので黙って見守ることにする。
ここまでは懐かしいやり取りだった。
少女が、以前ここで何があったかなど知るはずもない。
なればこそ、子供には絶対の自信があった。
「ほら、早く先生も探しに行かなくっちゃ」
「……」
「どうしたの?」
ずっと黙ったままの少女が心配になり、家主が声をかけた
「誰に見つかったの?」
「私は知らないわ」
「……誰?」
「うっ」
少女は先に家主に聞いてから、その後に視線を子供へ移した。
疑いの眼差しを正面から受けて、子供は動揺してしまう。
ここまでの事態は、子供の想定外だった。
最初の鬼の名前をあげればいいものの、焦って咄嗟に出てこない。
「私はそんな単純な手には乗らないよ」
「……ちぇ」
懐かしかったけど、結果は家主の知っているものとは違った。
これがあの人だったら、もっと少女とも渡り合えた気もする。
そんな事を考えながら、家主は二人を眺めていた。
「少女の蝋燭が灯った時に♪ 母親の蝋燭は消えてしまった……♪」
あの時と同じように、綺麗な星空だった。
「この世に灯る 灯りの数が決められて居るなら私は 何を照らす為に在るの♪」
あの時と同じように、木の枝に腰掛けていた。
「少女は父親の顔さえ知らない♪ 母親は顔以外ろくに知らない……♪」
あの時と同じように、歌を唄っていた。
「この夜に灯る 灯りの数が決められて要るなら私は 誰を照らす為に在るの♪」
あの時と同じように、歌はまだ完成していなかった。
それでも鳥は、この場所で唄う。
今夜で全て完成させる為に。
今夜で全て終わらせる為に。
鳥は唄い続けた。
どのくらい唄っていたのだろうか……
もう、深夜と言える時間に、正面に建つ家の戸がゆっくりと開いた。
中からは迷惑そうな顔をした少女が顔を出す。
「お前はいつまで唄っているつもりだ?」
鳥は歌を止め、相手を確認してから答えた。
「あなたが出てくるまで」
目的の人に会えた喜びで、鳥は顔を綻ばす。
少女はどうしたものか、と眉根を寄せた。
少女が態々顔を出したのは単に迷惑だったからではない。
鳥の唄うメロディーが、どこかで聴き覚えがあったからだ。
何か大事な事を見落としているような焦燥感。
どこで聞いたか思い出せない歌。
その正体を確かめる為に、少女は鳥に聞いた。
「さっきの歌は、どうした?」
「中々いいでしょ? 私が作ったんだよ」
「どこかで聞いた覚えがあるんだが」
「へぇー。まだ一人にしか聞かせたことないのに。
その人はいい歌だね、て絶賛してくれたよ」
鳥の言葉を聞くにつれ、少女の不安は増していった。
早くどこで聞いたか思い出せという焦燥感と、今更意味がないという諦観が、同時に湧き上がる。
「……誰に聞かせたんだ?」
「それでね、あの時は未完成だったんだよ」
鳥は少女の言葉を無視して続けた。
少女は多少苛立ちながらも、無理に止めようとはしない。
「ほう、今は完成しているのか?」
「さっき唄ってた時は出来てなかったよ」
「なかった?」
「うん。あなたを見たら出来上がっちゃった」
やっぱり私の勘は正しかったんだよ、と言って鳥は微笑んだ。
少女にはその笑みが、どこか含みのあるように思える。
それでも心の底から嬉しくて笑っているのは、間違いなかった。
それに、鳥の言っている意味が分からない。
「最近さぁ……」
「……」
黙って少女は続きを促す。
「ここに住んでた外の人間、見ないよね」
少女は、鳥が誰の事を言っているのかを知った。
鳥の言葉を聞いて、どこでこの歌を聞いたのかも思い出した。
この歌を初めて少女が聞いた時、気になったのはもっと別の事だった。
そして、あの人間がどういう結末を迎えるのかも分かってしまった。
記憶の中で、雨の音を背景にあの人間は鼻歌を唄っている。
「……行くのか?」
「ええ、行くわ。あなたは私を止めるの?」
「…………」
「何が正しいかなんて、よく分からないものだね」
少女は唇を噛み、搾り出すような声で言った。
「ここの村人には、手を出さない約束だったな」
「約束を変えるの? 私はそれでも構わないよ。
その時は、嘘吐きのあなたとやりあわなくちゃだけど」
「そんな気はない……だがな…………お願いだ、早くここから去ってくれ」
鳥は肩を竦め、飛び去っていった。
少女は怒りを拳に溜めて、それでも抑えきれずに、叫びだしそうだった。
やり場のない怒りが一言だけ、口から出てしまう。
「畜生……」
作者からのメッセージが取られてしまったのでここで簡単に挨拶を。
本当はこのような形は不本意ですが、これだけは言っておかないと……
最後のミスティアの歌はサウンドホライズンからお借りしました。
ミスティアが木の枝に座って唄っているのも、一枚の絵を見て書いてみたいなぁと思ったからです。
いろいろ借りまくりになってしまいした。
ごめんなさい。
最後までお付き合いしてくれた読者の皆さん本当にありがとうございました。
少しでも楽しんでもらえればそれだけで嬉しいです。
それでは失礼しました。
都会で生まれた幻想の魂を持つ少女には、幻想の世界に生きることができたのでしょうか。
たとえそれ自体が幻でも、それを想う人がいるだけでこんなにも悲しいことになるのでしょうか・・
重ねて、お疲れ様でした。
あの時のミスチーがこういう形で関わってくるとは・・・・
普段は見えない幻想郷の一面を使ったEND、お見事でした。
すばらしい作品をありがとうございました。
彼(彼女)が最期に幸せな夢を見れる事を願いつつ…良作ありがとうございました。
そして、『私』は、果たして見つかったのでしょうか。
幸せな『結末』であったことを願います。
お疲れ様でした。
しては、終わってしまう事に一抹の寂しさを感じております。
本当に『私』を最後まで、書き切ってくださりありがとうございました。
『私』の抱える虚無への憧憬、全てを投げ捨ててしまいたいという願いに
表層では反発、根底で同意してしまう俺。できれば完全に否定できるだけ
の大切なものを持てるようになりたいなぁ。
慧姉、妹紅、ミスティア、ルーミア、咲夜、美鈴、そして村人たち。
みんなみんな素敵でした。本当に読ませて頂いてありがとうございました。
一番残酷だったのは、はたしてどれだったのでしょうか。
予想だにしないエンドです。
虚脱感いっぱいの読了感。
しかし、それが嫌ではない。
特に『私』の性格に非常に強い共感と好感を持ちました。
ですがそのお陰で、この結末は私にとって辛過ぎます。
理屈では高得点を入れたいのに、感情が反発している状態ですので、
フリーレスと言う半端な形での評価をお許しください。..
読み終わったあとの余韻がなんともいえません。
「私」にとても強く惹かれ、同時に共感したいと思えました。
幻想郷という架空の世界の中に放り込まれた「私」に、親近感とリアリティを覚えました。あぁ、いいなぁ。「私」みたいに幻想郷に放り込まれたい。そしてむしゃむしゃされたい。
無事マヨヒガに辿り着けたんでしょうかね。
最後に思ったことは、かの魂が幽霊となって三途の川を渡り、死神や閻魔とどのような話をするのかという、取るに足らない瑣末事でした。
死後の世界を期待するのは残された者の傲慢かもしれませんが、願わくば、そう在ってほしいものです。消極的に終わりを望み、それが与えられてもまだ続きがあるというのは酷かもしれませんが。
終わりを望んだとしても、そう簡単に終わっちゃくれない。
どうせ短い人生だ。軽々しく死を受け入れるんじゃないよ、本当に。
とか、死神に説教されそうですね。
三途の川の、長い長い道中にでも。
完結、お疲れ様でした。
こういう終わり方とは……予想していなかったです。
”私”は……満足して、いるのかな。
願わくば……
おやすみなさい。
「私」と幻想郷の住人の小粋なやり取りが楽しい作品でした。
現実から逃げ、未来へと歩まない者は、
他の存在の糧となるのが相応しいのでしょう。
前へ進もうとしなかった者の末路は悲惨であって当然です。
またそうあるべきです。
歩み続ける人がそれを教訓にできますから。
わたしは「私」を認めません。馬鹿な人です。我が侭はいいのです。
でもその末になにもないというのは救いようがありません。
最後に多くを感じることのできた作品をくださった著者様に対してお礼申し上げます。
白昼夢、そんな感想がぴったりでした。
さびしいけど、こんな話も嫌いじゃないです。
ありがとうございました。
凄い作品だと思います。
だって、届いてしまったら、その心はーー
悲しみに覆われてしまうだろうから。
『私』との幻想郷の住民達の関わりが素晴らしかったです。
慧音の想いは届かない事が最善だったと言えるのか。
誰も答えは持たないと思います。
ただ、『私』と過ごした時間は慧音にとって、そして『私』にとっても幸せだと感じていたことは確実に言えます。
でなきゃ、最後にあのような・・・想いを吐露するような発言はしませんから。
素晴らしい作品でした。
『私』が、後悔が無いまま行けたことを願うばかりです。
本当にありがとうございました。
これにて失礼いたします。