「ふう」
魔理沙は一仕事やり終えたといった風に、大きな息を吐いた。
魔法の森にひっそりと居を構える霧雨魔法店。その屋号は名ばかりで、仕事をするのは魔理沙の気まぐれによるところが大きかった。
こうして今日も魔理沙は好奇心の赴くままに、実験を重ねていた。不敵な笑みを浮かべた彼女の顔は、実験が成功を収めたことを物語っていた。
「うふふふ、うふふ……」徹夜明けの反動なのか、口からは奇妙な声が漏れ出していた。
魔理沙はカーテンを開け放つ。
低い位置に浮かぶ太陽が、雲間から光をにじませていた。朝露を帯びた魔法の森の木々は、光に照らされてきらきらと輝いている。
今から寝ようか――魔理沙はふと思う。睡魔に身をゆだねたら、どんなに心地よいことだろうか。干したきり一度も寝転がっていない布団の感触が、嫌に懐かしかった。
冷め切った紅茶をあおると、魔理沙は愛用の箒を手にする。
体の中で、魔力が渦巻くのを俄かに感じた。
――調子は、まずまずだな。
ドアを開け放つと、黒い魔法使いは空に向けて飛び出した。
◇
――朝だ。
光が差し込んでいるから、パチュリーはそう思った。実際のところは昼というのが適当なのだろうが、パチュリーにとっては今がまさに朝だった。
パチュリーは半ばまどろみに身を任せながらそう思う。窓から差し込む光が、明るさに慣れきっていない目にはまぶし過ぎるぐらいだ。
知識と日陰の少女――パチュリー・ノーレッジは、本を枕にすっかり眠りこけてしまっていたようだった。無類の本の虫である彼女は本のページをめくるが最後、本に突っ伏すまで文字を追い続けてしまう。百年以上にわたって繰り返されてきたそれは、不思議と苦痛にはならなかった。
このままもう少し寝てしまおうか、とパチュリーが目を閉じた矢先のことだ。
――きろ。
くぐもった声が断片的に聞こえた。夢とうつつの境をさ迷うパチュリーにはその声が幻聴なのか、はたまた本当の声なのか判りかねた。
パチュリーはやおら身を起こして、周囲をぐるりと一瞥した。少なくとも、彼女の周りには何もいなかった。
普段から開ききっていない重そうなまぶたが、一度、二度としばたく。
――起きろって。
「ま、魔理沙!?」
魔理沙の声がひどく唐突で、パチュリーは素っ頓狂な声を上げてしまった。
――「むきゅー」とか、「ほよ?」とか言われても一体何言ってるかすら分かりゃしないぜ。
「いつから聞いてたの?」
――ほら、この前地下に潜ったときがあっただろ? あのときみたいにオプションを付けておくと声が伝達できるように、紫に少し手を貸してもらったんだ。これはいいぜ。
「そうじゃなくて」
興奮気味にまくし立てる魔理沙は、パチュリーの質問など耳に入っていない様子だった。
つい最近、間欠泉から温泉と共に湧き出す怨霊の根源を突き止めるべく、霊夢と魔理沙が地底へと侵入したのだった。それに当たって、八雲紫からの話を受けてパチュリーも魔理沙をサポートすることになった。パチュリーは正直な所、魔理沙を手伝うだなんてまっぴら御免だったが、幻想郷の大妖怪――八雲紫が憂えているとなればそうもいかなかった。
あくまでも、仕方なく、なのである。
「魔理沙、貴方聞いてるの?」
――ああ、そうだったな。お前がまだ寝てるときからだったかな。お前が寝言をつぶやき始めたものだから……悪気はなかったんだぜ。やんごとなき事情って奴がだな……。
「貴方も人のプライバシーを侵害しておいて何を抜かすか。本だけじゃなくて、人の私生活まで覗き見るなんて――これだから泥棒鼠は嫌なのよ」
――そうかっかするなって。にしても何だあれ、寝言なのか?
「貴方には関係ないじゃない」
そう言う魔理沙は心底満足しているといった響きを帯びていて、パチュリーははらわたが煮えくり返る思いだった。一方で、無防備な姿を――間接的であるとはいえ――さらしていたことは、耐えがたく恥ずかしかった。オプション越しの魔理沙にさとられまいと、パチュリーは小さく息を吸って心を静める。
――これで大丈夫。
魔理沙はいつもこうだ。口調は伊達男みたいで、がさつで、その上捻くれ者のはねっかえりと来ている。人の身辺をかき回すのが得意で、妖怪退治なんて建前に過ぎないのだ。
それを示すかのように、地底に侵入したときも、パチュリーの予想を大きく上回る鬱陶しさを全身から発散していた。
「さあ、そのオプションを捨てなさい」
――あー? 便利なのに捨てるだなんて勿体無いぜ。今後も色々と便利なことに使えそうだしな。
この魔女は何を言っているのだろうか。声を介すことでしか意思の疎通ができない代物が一体何の役に立つと言うのだろう。
パチュリーは嫌な予感がした。
空を飛び回りながら、邪(よこしま)な考えにほくそ笑む魔理沙の姿が容易に想像できる。
「冗談じゃない。今すぐにでも破棄しなさい」
――ああわかったって。考えておこうかなぁ。
そういったきり二人の間を繋ぐ会話は途切れた。
パチュリーは図書館の天井を仰ぎ、深い溜息を吐いた。
今日は厄日だ。
◇
「お嬢様……こんな時間に珍しいですわ」
「――うん」
紅魔館を実質的に取り仕切るメイド長、十六夜咲夜はレミリアを見て目を丸くした。
メイド長として朝から仕事に勤しむ彼女の予定を狂わせたのは、紛れも無い紅魔館の主であったからである。彼女が起きて来たからには、咲夜も一連の作業を中断しなければならない。時を止めて、ある程度のところまで終わらせてしまおうかも思ったが、忠義を尽くす悪魔の犬のプライドが許さなかった。
だらしなく机に突っ伏したレミリアは、臙脂を深く湛えた双眸をいかにも眠そうにこすっている。夜の王と恐れおののかれる彼女も、昼間とあっては年端の行き過ぎた少女に成り下がってしまうのだ。
「咲夜、紅茶」
寝起き特有の腑(ふ)抜けた声で、甘えるようにレミリアは言った。それには威厳の欠片も無い。それは、五百年の月日を生き長らえてきた悪魔にあるまじき声色だった。信頼を結んだ従者の前だからこそ、レミリアも気心が許せるのかもしれなかった。
咲夜はレミリアの言葉を受けて、そそくさと紅茶を淹れる準備にかかる。
「どうぞ、モーニングティーですわ」
「うん、美味しい……でも」
「でも?」
「なんでもない」
そう言ったきりレミリアは黙りこくった。
すっかり目は覚め、頭もそれなりに冴え渡ってきているつもりだった。でも、何かが決定的に足りない。直感的な何かが、確かな感覚をもってレミリアに囁いていた。
「咲夜、気を落としてるの?」
「いえ、どうかなされたのですか、お嬢様?」
「だって、咲夜が落ち込んでるように見えたから」
「そんなことは断じてないですわ」
ティーカップが空になったのを見計らうと、主人のまとう衣服の着付けにかかりながら咲夜は応じた。
誓いを立てた我が主が、いくら心にもないことを口走ってしまっていたとしても、咲夜にとってそれは心痛いものだった。
「咲夜の紅茶は本当に美味しいのよ? 霊夢の淹れた緑茶も中々に美味しいけど、咲夜の紅茶が一番ね。――あ、魔理沙は話にならないけど」
ぎくしゃくした空気を溶かそうと、レミリアは精一杯その場を取り繕った。
はにかみながら、思い出したように魔理沙の名前を付け加えるレミリアに、咲夜は硬い表情をほころばせた。
幻想郷を紅い濃霧が覆い込むという吸血鬼のわがままが解決されてからというもの、レミリアは時折思い出したように博麗神社に足を運ぶ。そこで会う幻想郷の変わり者達――彼女たちは主に妖怪なのだが――とも仲良くやっているようだった。
ちなみに、レミリアの起こした出来事は『紅魔異変』として、幻想郷縁起に大げさに書き立てられているらしい。馬鹿馬鹿しいことを平気で実行してしまう、子供染みたところは五百年を経ても変わらないのかもしれない。
咲夜は、レミリアのそんな所が好きだ。
また日の光を厭うレミリアのために神社まで日傘を差してあげることも、紅魔館のメイド長にとっては心落ち着く一時であった。
「それにしてもこんな朝早くから……。悪い夢でも見ましたか?」
「そんな子供じみた理由じゃないの!」
と言いつつも、レミリアは見るも明らかに取り乱していた。
「何て言えばいいのか……運命の――匂い?」精一杯威厳を保とうとしながら、レミリアは言う。
それを見て、着付け途中の咲夜はくすくすと笑いをこぼした。
「あまり動かれると困りますわ」
「あ、笑ったわね、咲夜。満月の夜は覚悟しておきなさい」
「着替えは――これで大丈夫です。それと、覚悟はいつでも持ち合わせてますわ。お嬢様」
起伏に乏しい曲線を描く腰の辺りで、背中に緋色の大きなリボンを結ぶと、咲夜は微笑みながらに両の掌(てのひら)を合わせた。
レミリアの薄い胸を張っての恐喝もむなしく、咲夜はまるで取り合わなかったのだった。
彼女の幼い線の頬は、まるで紅い月のように朱に染まっていた。
◇
持病と長らくに渡って付き合いを重ねていると、さして不便を感じなくなるものだ。
パチュリーは、こほん、と一つ咳き込むと、自分の病状を推しはかった。この程度ならば生活に影響は与えない程度だろう、と彼女の勘が言い聞かせる。これなら大丈夫だ。
「魔理沙、まだかしら――」
誰にともなく、それはパチュリーの口をついて出ていた。
パチュリーはとっさに口元を押さえるが、動作が余りにも遅すぎることに気づく。
――呼んだか?
至って落ち着いた口調で、魔理沙の声が聞こえてきた。
パチュリーは自分に言い聞かせた。魔理沙自身のことなんてどうでも良くて、彼女が紫と会うことが出来たのかが気になったのであって――
「呼んでない」
――おいおい、そりゃないぜ。しっかり私の名前を呼ぶ声が聞こえたんだが、それは気のせいだっていうのか。
「気のせいよ。幻覚性のある変なキノコでも食べたりしてないでしょうね」
――そういうものはまず、アリスや霊夢に試食させてみて確かめるんだよ。だから大丈夫だぜ。
「……信じられない、最低。それはさておき、まだ手放せていないみたいね」
――いや、それがだな……。
「言い訳がましいわ」
逼迫したパチュリーの問いかけに、魔理沙はもごもごと言葉を濁した。
「つまり、その気は無い……ってこと?」
――へへ、今の用事を終えたらこんな物、湖の底にでも沈めてやるぜ。
魔理沙は自信たっぷりに言い放った。
「ともかく、無駄口を叩く暇があるならさっさと湖の底に沈めてくるなりすること」
――お前から話しかけてきたのに何だっていうんだよ。今日のお前こそ、ちょっとおかしいぞ。
「わ、私は普通よ。貴方のそのひねくれた性根がそう見せてるのよ」
――ふん、ひねくれもので大いに結構だ。ここは大賢者の霧雨魔理沙様に任せて、かび臭い本でも読んで大人しく待ってることだな。
「はあ、貴方と話してて疲れたみたい。私はこれからレミィとお茶とでもさせてもらうわ」
――ちくしょう。約束を果たした暁には、私の為の特等席も用意しておいてくれよ。
「嫌」
――意地でも押しかけてやる。……って、聞こえてるか? なぁ、聞こえてないのか!?
しばしパチュリーが黙りこむと、ようやく魔理沙の声が収まったようだった。
ああうるさい。この声が無くなるならば、紅茶の一杯なんていくらでも出してやろう。私が淹れてやってもいい。
そう思うと、パチュリーは図書館を出ようと椅子を立った。
彼女が図書館から廊下に繋がる扉に手をかけたとき、古びたそれには不釣合いな錠前を認めた。
そういえば、魔理沙の度重なる侵入が鬱陶しくて、咲夜に頼み込んでつけてもらったものだった。付いていたところで気休め程度にしかならないのだろうけど。
暗澹たる思いを抱えて、パチュリーは廊下へ出て行ったのだった。
◇
よくよく考えてみるとレミリアは起きていないのだ――とパチュリーが思い当たったのも束の間、紅き吸血鬼は案の定、豪奢な長テーブルに腰を下ろして思索に耽っているようだった。
「あら、レミィ。珍しいのね」
「うん、ちょっとね」
席に着いたパチュリーの元に、咲夜によってティーカップが一つ、ことりと音を立てながら置かれた。
アールグレイが、湯気を立てながら並々とカップに注がれていく。かぐわしく立ち上る香気は、パチュリーのささくれ立った心を幾分か癒した。
「おはようごさいます、パチュリー様。今日はお嬢様の朝が早くて私も嬉しい限りですわ」
「そうね、来てみれば珍しいこともあるものね」
「パチェまで何なのよ。私だって、たまには早起きすることがあってもいいでしょ!」
「お嬢様、それは早起きとは言いませんわ」
「私にとっては早起きなの!」と、顔を真っ赤にして咲夜に反駁するレミりアをよそに、パチュリーは魔理沙のことを思い出した。
本来なら魔理沙の持っているオプションを通じてその場の光景が見えるはずなのだが、何も見えなかったのだ。――大方、布でも被せておいてあるのだろうが。
「パチェ、今度宴会があるらしいわ。あの鬼がまた萃(あつ)めてるみたいだから」
「退屈していたところだし、悪くないんじゃないかしら」
「そのためには早起きが肝要です」
「え、え、宴会は宵の口からって相場が決まってるのよ!」
「では、私は仕事に戻らせてもらいますわ」
咲夜は尾っぽを巻いて、早々に逃げを決め込んだようだった。事実、これからも彼女にはこなさねばならない仕事が山積している。流石のレミリアも引き止めるまではしなかった。
「宴会って、私、好きだよ」
気を取り直して、ふいにレミリアが言った。
「そうね――本を読むのに倦んだときは良いかも」
「えー? パチェは楽しみじゃないの?」
「そういう訳じゃないけど……」
「さっきまでどうも引っかかることがあったんだけど、宴会のことを考えてたらどうでもよくなってきたみたい」
さぞ楽しそうにしているレミリアを眺めていると、霊夢達と関係を持って以来、彼女は本当に変わったとパチュリーは思う。従者である咲夜の存在も大きいだろう。
そう考えたところで、パチュリーは自分に立ち返った。
――なら、私は?
自分は何処か変わったのだろうか。堆(うずたか)く積まれた本を崩す毎日。魔法の研究に没頭する毎日。レミリア、フラン、咲夜、そしてあともう一人――名前を忘れたが、誤差の範囲である――との、紅魔館での有意義な毎日。のどかなようでいて、事件にはこと欠かない幻想郷に暮らす毎日。そして――
「どうしたの、パチェ?」
パチュリーのとりとめも無い思索は、レミリアの一声であっという間に霧散してしまった。
「ん、なんでもないわ」
「パチェったら変なの。気難しく考え込んじゃって、らしくない」
「……そう?」
変、などと言われたのは今日で二回目だ。これまでにこんな日があっただろうか。この、本とともに積み上げてきた、百年の日々に。
パチュリーは渋面を作り、頬杖を突いて悩んだ。
本当に――魔理沙にかかわっているとろくなことが無い。
それだけは確かだった。
◇
「こんなときに魔理沙なんて……」
絞るような一声を発した博麗の巫女は、神社の縁側に倒れふしていた。
寒さには、流石の彼女とて敵わなかったようである。
「何の用? 私は寒くてたまったもんじゃないわ」
「こっちだって同じだぜ」
大きな三角帽子を外し、箒を立てかけると、魔理沙は飛び乗るように縁側に、仰向けになっている霊夢の横へ座った。地につくほどに長い、エプロン風の黒いスカートが空気を孕んでふわりと膨らんだ。
「そうだ。今日、宴会やるんだってな」
白々しく魔理沙は言った。
博麗神社に住む霊夢には、このことは知っておいてもらわなければならない。そう――秘密裏かつ突発的に宴会を企画した魔理沙としても、余り迷惑は掛けたくなかった。
萃香に一言口ぞえるだけで、ここまで事が上手く運んでしまうのだから後々が心配である。
「えっと、どこでやるって?」
「何言ってるんだよ。ここでやらないでどこでやるっていうんだ」
「知らないわよそんなこと。私は昨日も今日もここで倒れてたんだけれど」
「まさか」
日差しを避けようと、霊夢は眼前に手を掲げながら、魔理沙の言葉の意味をゆっくりと飲み込んだ。
きっと、萃香あたりが勝手に躍起になっているのだろう。
紅白の巫女の、おぼろげな意識の中での推理は大方当たっていた。こうしている今も、酒の入った瓢箪を片手に幻想郷を東奔西走し、能力を使って参加者を募っている(こんな穏当な表現は本来おかしいのであるが)のだろうか。
「それより魔理沙。手、怪我してる」
「――ん」
霊夢は身を乗り出すと、魔理沙の片手を取った。
すらりと伸びた右手の人差し指が火傷していて、水ぶくれの症状を呈している。大した治療もせず、唾でもつけておけば治ると本気で思っていそうな所が魔理沙らしかった。
「ちょっと待ってて。薬、持ってくるから」
言われて初めて、魔理沙は気がついた。
実験をしていたときに、ふとした拍子に火傷してしまったのかもしれない。
「世話が焼けるわね」
畳の敷き詰められた居間の奥から、霊夢が薬箱を抱えてやってきた。彼女は箱を開けて、てきぱきと必要な道具だけを取り出し始める。
霊夢は優しい。
魔理沙はことあるごとに実感していた。まさか自分が特別だと自惚(うぬぼ)れているつもりはない。ただ、付き合いが長いと、彼女の優しさに触れる機会が多いというだけのことである。
「手貸しなさいよ」
「う、うん」
魔理沙の指先に霊夢の指があてがわれる。患部に得体の知れない軟膏が、撫でるように塗りこまれていった。
薬なんてめったにつけない魔理沙は、どことなくこそばゆかった。唾でもつけておけば治ると思っているのが、霧雨魔理沙だった。
簡単な処置が終ると、霊夢はガーゼを軽く巻いた。
「おー。ここまでしてくれるなんてありがたいな」
「怪我してる人間をほうっておくほど私も冷酷じゃないけどね」
「分かってるぜ」
魔理沙は別段理由も無く、指にぞんざいに巻きつけられた白い布を空にかざしてみた。
そのままぼおっと青空を眺めていた魔理沙が反応したときには、霊夢は帽子を奪い取り、そのまま顔に被せていた。
傍(はた)から見れば、紅白の巫女が黒々とした三角帽子で頭を覆っているのだから奇妙な光景である。
「――暖かいわ。これ、色々できて便利ね」
「機能性だって重視してるんだから当たり前だ。冬は暖かくて、夏は日除けにもなるんだぜ。でも、借りられるのはちょっとばかり困るんだが」
「魔理沙みたいなのは、被ってても被ってなくても大差ないわよ」
「何だよそれ」
「そう、大差ないの。だから魔理沙って――」
霊夢は一旦言葉を切ると、
「勝手よね」
ごく短く、二の句を継いだ。
萃香に「宴会をやるぞ、酒も浴びるように飲み放題だぜ」とけしかけた本人であるだけに、心を覗き込まれたようで魔理沙は内心ひやりとした。
霊夢はほうけているように見えて、誰も図り知らない所ですべてを見通しているのだから侮れない。
「どうせ霊夢のことだ。何とでも言え。特別に聞いてやろうか」
「いや、悪く言ってるわけじゃないけど――。むしろ魔理沙のそういう所、好きよ」
被り物をした霊夢は、表情も窺い知れないままにつぶやいた。
「それはどうも」意表を突かれて、照れくさそうに魔理沙は礼を言った。
ふと、魔理沙は少しだけの間でも霊夢をこのまま放っておこうと思った。含むようなことはほとんどないつもりだ。
ただ――
今、すぐにでも霊夢の顔に乗った帽子を取っ払ったら、霊夢が霊夢でなくなる気がした。
魔理沙は漠然とした不安を覚えた。人妖を問わず等しくあり――それは他者への興味が希薄なことの裏打ちなのかもしれないのだが――幻想の境界に住まう楽園の巫女が、そうではなくなってしまうのではないか、と。
「お茶貰うからな」
「あら、魔理沙が自分でお茶を汲むなんて珍奇なこともあるのね。今夜の宴会の笑いの種でも良いけど、天狗にでもタレこもうかしら」
「ふん、動きもしない奴は黙って帽子でも被ってろってこった」
「――」
魔理沙が悪態を吐くと、やはり霊夢は黙りこくった。
こぽこぽと、お茶を淹れる音だけが響いている。白黒の魔法使いも、紅白の巫女も、もはや何も口にしなかった。
神社の縁側に座って、魔理沙は美味そうにお茶をすする。二人して何をするでもなく、無為な時間が刻々と過ぎて行った。
そうしている間に陽は高く上り、いよいよお昼時が近づいてきているようだった。
「いい加減寒いぜ……」
言ったきり、魔理沙も霊夢同様に両手を広げながら倒れこんだ。
目を瞑(つむ)り、このまま昼寝にでも洒落込もうとしたのも束の間、木枯らしが神社の縁側のあたりを吹き抜けた。さながら天狗が駆け抜けたかのような突風だった。
風にさらわれた向日葵色の癖っ毛が、はらはらと横に流れる。
まぶたを開くと、行き場を無くした三角帽子が魔理沙の手元に落ちていた。
そして目を覚ました彼女の傍らで、帽子が払い落とされた霊夢はとうに眠りこけていた。
「こんなに寒いっていうのに、能天気な奴だ。風邪引くぜ」
霊夢の上に、部屋から引っ張り出してきた毛布を被せた。勢い余って顔を覆ってしまったようだが、なんら問題ないだろう。
布が皺を作り、端正な顔の輪郭が浮き上がる。それでも霊夢は、まぶた一つ動かすことはなかった。
すう、と規則的な寝息を立てる巫女をそばに、帽子を乱暴に被った魔理沙は博麗神社を後にした。
◇
魔理沙にしては口数少ない会話を聞くに、どうやら霊夢の脇でお茶を無断で飲んでいるみたい――とパチュリーは推測した。
先ほど、パチュリーが魔理沙のことを煽ったのだが、それが気に食わなかったのだろう。対抗意識を燃やして、乗り気でない紅白とお茶でも飲んでいるのだ。パチュリーはそう勘ぐった。
ふとここで、パチュリーはあることに思い当たる。
今まで、自分の図り知らない所で何が起きているかなんて考えたこともなかった。せいぜい幻想郷に異変が起きたり、宴会に呼ばれた際にふらりと外に出向くぐらいのものだ。
「パチェ、私はもう少し寝てくるわ。まだちょっと眠いみたい」眼をこすりながら、レミリアは言い残した。
「おやすみなさい」
レミリアに返事するとパチュリーは机に突っ伏した。
先ほどの会話から鑑(かんが)みるに、魔理沙も宴会には来るようだった。
想像するだけでも気が滅入る。特に今日のようなことがあった日は。
そもそもに――魔理沙のくだらないお遊びに殊勝に付き合っていることが間違っているのだ。地霊殿の一件があった後に久々に聞く声は、この上無く鬱陶しく、そして空々しく、パチュリーの頭の中で歪んで反響する。
――久しぶりだった。
ようやく、パチュリーは思い当たった。
どうして、魔理沙とめっきり顔を合わせていないのだろうか。分からなかった。習慣通りに図書館に居るだけで、本を読みながら待っていれば――そうだ、咲夜が追い返したのだった。むしろ、咲夜に追い返させた、と言ったほうが正しい。
――何故追い返したの?
ここまで考えたところで、パチュリーを突如頭痛が襲った。頭の芯からぐらぐらと揺さぶられているような気分だ。気持ちが悪い。
オプションを使ってまでコンタクトを取ろうとする魔理沙に悪気は無いのだろう。数知れぬ門前払いを受けた末の、苦肉の策だったに違いない。むしろ、パチュリーのほうに非があるとすら言える。
行動することに関してはひたすらにまっすぐな魔理沙に対して、パチュリーは嫌いになりきることができずにいた。馬鹿の一つ覚えのように、定刻になると必ず紅魔館を訪問するのだ。「邪険にされるのは慣れてるんだ」と、呟く彼女は今日は来るのだろうか。
魔理沙を前にして、パチュリーは自分の対応が勝手なこともしっかり理解していた。魔理沙にしてみれば、出入り禁止を強いられるのは不可解かつ理不尽極まりないだろう。
考えれば考えるほどに自分が嫌になる。ひどい自己嫌悪だ。
こめかみの付近に痛みを覚えながら、パチュリーは書庫となっている自室に戻った。
徹夜が祟ったのか、しばらくすると文字を追うのが疲れてきた。ビタミンAが足りないのかもしれない。
ちょうど正午を回った頃、眠気に見舞われた少女は、ほどなくして眠りについた。
◇
庭の剪定を終えた魂魄妖夢は、一息つく間もなく、次なる仕事を仰せつかったのだった。そのため、これから人間の里まで降りていかなければならない。
妖夢が主――西行寺幽々子の話を聞くに、今晩より宴会が博霊神社で執り行なわれるそうなのだ。
「紫がそういってたのだから間違いないわ」と嬉々として語る幽々子を見ていると、白玉楼の庭師はこの亡霊少女の従者でいて良かった――そう、心から思えるのだった。
幽冥に在る白玉楼の庭は、木々の群青が良く映えていた。手入れの行き届いたそれらに囲まれながら、屋敷と門とを繋
ぐ石畳を妖夢は歩いていた。少し遅れるようにして、半霊が宙をたゆたうように付き従っている。
しかし、いつになく急な話である。普段ならば数日前に、準備も兼ねて若干の余裕を持たせておくのが慣例だったはずである。最近起きた、温泉と共に怨霊が湧き出るという怪事解決の祝賀として行うと考えれば、すんなりと納得のいく話なのだが。
不審を募らせる一方で、妖夢は別のことに期待を寄せていた。温泉からもう怨霊が湧き出ないのであれば、場合によっては、いや――間違いなく入浴することだってできるはずだ。あの巫女ならば入湯料を徴収しかねないが、そうは問屋が卸さない。
傾斜のきつい階段を飛び飛びに駆け降り、巨大な門を潜(くぐ)って霊界を出ると、幻想郷がぐるりと鳥瞰できた。
「まったく、幽々子様は人使いが荒いです……」
人間の里への方向を定めながら、妖夢は一人ごちた。
幽々子は実体に留まらず、性格までもがふわふわとしている。だからなのか、幽々子の意図することが読めないことが妖夢には多々あった。また、そのたびに従者としての力量不足を痛感する。
言い得も知れぬ痛みを感じるのは、紅魔館のメイド長――十六夜咲夜と比較してしまうからなのだろうと、妖夢は薄々分かっていた。
歳は妖夢と同等(半人半霊の為、妖夢はゆっくりと、人の半分しか歳をとらない)、もしくは若いなのかもしれない。だが、何気ない仕草一つであっても、それは妖夢の目指す従者としての理想だった。
泰然自若としていながらも、細やかな気配りが行き届いている――妖夢はそう在りたかった。なのに、幽々子に振り回されてばかりだ。
「お、随分と疲れた顔してるな」魔理沙だった。
「そうです、私は少し疲れてるんです。――だから、邪魔をするようなら容赦なく斬り潰す」
目の前の魔法使いに向けて無気力に言い放つと、妖夢は楼観剣の鍔(つば)に手をかけた。
荒れているな、と妖夢は自分自身に呆れ帰った。
「物騒な奴だ。私も普段なら軽くひねってやったところだが、今は生憎やんごとなき事情があってだな」
「ふうん。なら、宴会のときにでも、また」
「待ってくれよ。そっちは――お前、人間の里に行くのか?」
「はい、お酒とその肴を切らしてしまっているみたいなので」
「それは丁度良い。私も、とある大切な実験の材料が不足しててな――久々に本腰を入れて取り組んでるんだ。これも何かの縁だろうし、一緒に行こうぜ」
これほどにも魔法使いらしくない魔法使いに出会って何かの縁だと抜かされたものだから、妖夢は素っ頓狂な声を上げる所だった。喉元までせり上がってきた苛立ちを懸命に押しとどめた。
はきはきとした口調からして、魔理沙は相当に乗り気のようだった。反面、妖夢は乗り気でなかった。
朝から妖夢は忙殺されていた。やたらと忙しいときに限って、急用が入るものだから敵わない。
働き詰めの疲れも手伝って、白玉楼の庭師は露骨に顔をしかめた。
「顔色悪いぞ、お前。……あ、そうか、半霊だからか」
「違う。こんなに疲れているときに、貴方に会ったからだよ」
「邪険にされるのは慣れてるんだ。ほら、送ってやるから大人しく後ろに乗れって」
柄にも無いことを言い始めた魔理沙に、妖夢は面食らった。
彼女はよほど驚きに打たれたのか、わずかばかり後ずさる。横一文字に切りそろえられた前髪が乱れ、その細い髪にも増して白い額が露わになった。
「人の好意には甘えておくものだぜ?」
ああだのこうだのと言い合った挙句、魔理沙の強い押しにたじろいだ妖夢が折れることとなった。
仕方なく魔理沙の箒に乗せてもらった彼女は、不服だと訴えんばかりの苦虫を噛み潰したような表情だった。それは、幽
々子に仕えることが本分であり、人の好意に甘える機会が少ないからこその反応なのかもしれない。
良くも悪くも愚直な妖夢は、相当に慣れないことをされているためか手元が落ち着かないようで、しきりに指を絡めてみたり組んでみたりしていた。
「早いだろ、ついたぜ」
人間の里は活気にあふれ、行き交う人々が目まぐるしかった。その雑踏の中に慣れた様子で紛れていく魔理沙を見て、慌てながらも真似るように妖夢も後ろを追った。
――こいつも人間なんだ。
魔理沙は親しげに薬屋らしき店の主人と談笑していた。漢方になりそうな草葉を片っ端から手にして、値踏みをしているようだ。
こうして、店を眺めては歩くの繰り返しが続いた。用事を済ませた妖夢が苛立ちを募らせていると、思い出したように魔理沙は立ち止まって、何やら片手を突き出してきた。
「そうだ、忘れてたんだが……。最近は妖怪退治だけじゃ成り立たなくて、荷物運搬も請け負ってるものでな。人間だってお手の物だ」
妖夢は「ははあなるほど」と得心した。
金銭を要求しようというのだ。
狡猾な黒魔法使いは実に油断がならない。僅かでも気を許せば付け上がるのだから始末に負えないのだ。
「持ち合わせのお金がないので」
「いつまでも待つぜ。お望みとあらば白玉楼まで押しかけてやっても良いんだが」
「それだけはやめてくれますか。宴会後ならお相手するけど、はたして貴方が覚えていることやら」
「後悔するなよ。明朝、自慢のスペルカードで、一番乗りに駆けつけて起こしてやる」
――お酒の肴を忘れた。
魔理沙と分かれた後、溜息を一つ吐くと、妖夢は目当ての品を探しに再び歩き始めた。
大きな溜息は、魔理沙に向けてのものなのか、もしくは幽々子に向けてのものなのか、従者である彼女自身にも判断がつかなかった。
この際、どちらでもいいのかもしれない。妖夢は投げやりだった。
◇
二度目の目覚めは、夜の帳(とばり)も下り始めた夕暮れ時に訪れた。
日光をなるたけ遮って造られた紅魔館は、墨を垂らしこんだかのようにうすら暗かった。嵌め殺しの窓から注ぐ夕日だけが、おぼろに浮かび上がっていた。
パチュリーはベッドから上体を起こすと、開きかかった目で窓へ視線を移した。
――宴会、なのね。
館内には、もうレミリアと咲夜の姿は無いだろう。この様子だと、二人して博麗神社へと向かっている最中なのかもしれない。
神社には、やたらと人妖が多く集まる。宴会が執り行われていなくとも、妖怪の類が霊夢の周りに集っていることがしばしばである。それは、萃香の疎と密を操る能力が影響していることにも起因するのかもしれないが、霊夢は公平なのだ。
故に、主として妖怪に好かれる。八雲紫や、山の四天王の一角、伊吹萃香も相当に肩入れしているらしいと、パチュリーは聞いていた。
――少なくとも、自分は公平ではない。
それにしても、先ほどから魔理沙との連絡がめっきり途絶えていた。流石の魔理沙のことだから、宴会が始まる前には到着して、酒の一杯でも呷(あお)っているものかと思っていた。
なのに、何も聞こえない。
「――理沙、居るの?」
パチュリーは、声が上手く出せなかった。心のどこかで、魔理沙に対して後ろめたい気持ちが多少なりともあったからなのかもしれなかった。
そんな彼女が気力を振り絞って出した一声も、ただの徒労に終った。いずれとして、魔理沙からは憎まれ口の一つも聞こえなかった。いつもの彼女が、少しだけ遠のいたような気がした。
普段は邪魔なことこの上ない魔理沙の声が、どうしようもなく聞きたかった。無いものねだりとはこのようなことを言うのかもしれない。
「――居るなら居るって言って――また下らない悪戯?――もう、飽き飽きよ――」
次第に、自分が饒舌になっていくのが手に取るように分かった。でも、止められなかった。
「居ないの……?」
紅魔館に、不気味なまでの静けさが戻った。レミリア、そして咲夜の声もしなかった。パチュリーは立ちつくして、ひたすらに押し黙っていた。それに反比例して、思考は次第に加速していた。
魔理沙は何処へ行ったのだろうか? 必死の問い掛けを無視して、一人ほくそえんでいるのだろうか?
そんなはずはない。
魔理沙がどんな人間であるか、魔女のパチュリーは知っている。
だから、外へ出ようと思った。多分、魔理沙のことが心配だったのだ。
――多分。
宴会なんて真っ平ごめんだったけれど、パチュリーは自分の思っている魔理沙は、本当に魔理沙なのか、たまらなく確かめたかった。自らの独りよがりに終わるのが怖かった。
咳を一つ払うと、足をもつれさせながら紅魔館を飛び出した。
雲間に隠れてぼやけた月は、何処か紅いような、そんな気がした。
◇
宴もたけなわとは、まさにこのことを言うのかもしれない。
博麗神社は、寂寥とした昼間とは打って変わって、跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)の様相を呈していた。
実際はそんなおぞましいものではなく、妖怪や人間が酒を片手に宴会に興じているだけの話なのだが、傍から見れば恐ろしい光景に見えるのかもしれない。
ことに、霊夢や魔理沙の周りには人だかりが出来る。
本人たちは至って自然に振舞っているのだが、周りはそれに惹きつけられている。二人は、ある者にとっては友であり、敵であり、どのような形であれ慕われていた。
「おい霊夢。幾らなんでも呑みすぎだぜ?」
「いいの。色々と忘れたい気分なのよ」
「いつも節度はわきまえろって、五月蝿(うるさ)い癖に良いご身分だ」
魔理沙の文言が気に障ったのか、ふい、と顔を背けて、霊夢は再び猪口を傾けた。その拍子に、傾いた腕に合わせてするすると、肩口まで巫女服の袖が滑っていった。
博麗の巫女は、暗がりに浮かぶ白い頬をほんのりと赤く染めていた。
「そうだ――帽子はどうしたの?」顔を背けたままに霊夢が言う。
「ああ、紫がどうしても使いたいって言うから貸したんだ」
「……私には貸してくれなかったのに、あんなインチキ妖怪に」
「だってあれは」
「もういいわ、下らないことに固執して悪かったわね。私、絡み上戸になってるみたい」
霊夢が言い終えると、何処から沸いたともしれない天狗が「痴話喧嘩ですか? 新聞のネタになりそうですね」と、勘違いも良い所の横槍が入った。その新聞記者の目は、獲物を捕らえんばかりの、ぎらぎらとした光を宿していた。喋くらせておく分には何の問題もないと判断した魔理沙は、まったくの無視を決め込むことにした。
どうして霊夢がつれない態度を取るのか分からず、魔理沙はまた放っておこうと思った。こうすることしか、今の自分にはできないのだから。
そして――まだ、やらなければいけないことがある。
魔理沙は酔いの回った体でもって、ふらふらと立ち上がった。
◇
――寒い。
絶え間なく吹き付ける夜風に身を震わせながら、パチュリーは体を浮き上がらせて移動していた。
あいまいであるが、博麗神社までの道のりは薄ぼんやりと記憶に残っていた。こんなときに肝心なことはしっかり覚えておらず、本で覚えた知識で溢れかえったこの頭を呪った。
神社への道すがら、パチュリーはどことなく体の異変を感じ取った。そういえば、魔力も朝と比較すると大分落ちているような心地だ。
目覚めてから体の調子が悪いような気がしていたが、まさかここまで酷いとはつゆも思わなかった。
繰り返し咳き込むと、浮遊感がたちどころに失われていく。
やがてパチュリーは宙を浮くのを諦め、いずことも知れない森の中に降り立った。
――どこだろう。
皆目見当がつかなかった。百年余を生きている魔女は、幻想郷の地理に関してはチルノも及ばないぐらいに疎かったのである。それはひとえに、パチュリーが一日の大半を図書館である自室に篭って過ごしているからに他ならない。
――困ったわ。
パチュリーは、かろうじて道と判る辺り、つまり獣道を慎重に歩いていた。すると正面の宵闇に、ぼう、と浮かび上がる幾つもの白光を認めた。光は無軌道に宙を舞い、ときどき青く滲んだ。まるで、生命を持っているかのように。
ひとつ、ふたつ、みっつ――数えると十つあった。
日陰の少女はそれを見るなり、魔女として培ってきた経験からある種の違和感を抱いた。光はゆるやかに魂を引っ張っているようで、ともすれば命を奪われてしまいそうであった。
だが、一方でこの光に行き先を委ねてもいい――パチュリーは漠然と決心しつつあった。
木の枝を掻き分けながら、明滅する光へと足早に近づくと、なにやら三角の布が目に付いた。また、光は四葉のクローバーのような形を保ったまま、消滅してしまった。
――魔理沙の、帽子?
打ち捨てられた三角の布は、紛れもなく魔理沙がこよなく愛して被るそれだった。
魔理沙に、何かあったのかもしれない――験(げん)が悪い冗談が、現実として帰ってきた。
――そうだ。
そもそも、魔理沙が易々とのされるはずがないのだ。
すると、疑うべき対象は限られてくる。霊夢は無いと思ってよいだろう。博麗の巫女が害の無い人間、それに親しい魔理沙をどうにかしてしまうとは思えない。ならば、強大かつ人間に馴染みの深い妖怪ということになり、それは想像しうる限り一人しかいなかった。
――八雲紫。
パチュリーはひどく狼狽した。
何故? 八雲紫が? 魔理沙に何を? 経緯は? 動機は?
思考が巡るにしたがって息遣いが荒くなり、パチュリーはその場にくず折れた。
今の今まで投げかけた数々の罵倒や悪態を後悔しながら、目の前にいない魔理沙に向かって詫びることしかできなかった。
「邪険にされるのは慣れてるんだ」決まってそう言う魔理沙の顔だって、今なら鮮明に思い出すことが出来る。
そのときの彼女は笑っていた。幾度となく追い返しても、数日後にはへらへらとした顔をしてぬけぬけと姿を現すのだ。ざっくばらんで、すること為すことが迷惑なのに、心の底からは憎めなかった。むしろ近頃になって、どう足掻いても埋まりようのない距離が少し縮まったような気さえしていた。
――追い返さなければこんなことにはならなかったのに。図書館の鍵を開け放しておけば、こんなことにはならなかったのに。
魔理沙にこと関しては絶対に泣くまいと固く誓ったにもかかわらず、どうしようもなく涙が溢れてきた。知識が幾らあっても、七曜の魔法を自在に使いこなせても、感情を制御することは出来ないのだ。少なくとも知識の少女は、そんな魔法は知らなかった。
辺りを見回して人の気配すらないことに絶望したパチュリーは、とぼとぼと帽子に近づいていった。体が重くて咳が止まらなかったけれど、もはやどうでもよかった。
足元に落ちるそれを拾おうとしたとき、勢いよくどこかに引きずり込まれた。
世界が暗転して、パチュリーはすっかり気を失ってしまった。
◇
――今日の幽々子様は妙だ。
魂魄妖夢はひしひしとそれを感じていた。
普段ならば、宴会の肴に節操なく手を伸ばし、従者である妖夢が制止するのも構わずに酒瓶を消化していく彼女が、ひどく大人しかったからだ。
元を辿れば、買い物に行かせたことだって腑に落ちなかった。妖夢の記憶では、酒瓶だってまだ蔵に残っていたはずだった。
こういうときに限って、幽々子は従者を蔑ろにする。妖夢はそれがいたく気に食わなかった。
――少しぐらい、構ってくれてもいいのに。
妖夢が横で大人しくしていれば、幽々子は時空の隙間から顔を覗かせる八雲紫と、声を潜めて談笑していた。
二人が幾十年では到底及ばないような旧知の仲なのは、妖夢もよく知っている。しかし、妖夢とて生半可な覚悟で幽々子に仕えている訳ではない。西行妖(あやかし)が咲かない理由も、幽々子が永遠に成仏しない理由も全て承知の上で、白玉楼の庭師の役目を背負っている。現世(うつしよ)を彷徨い続ける幽々子と所詮半人前の従者では、生き続けることができないことだって――
「妖夢、どうしたの?」
毎日飽きるぐらいに見ている、そら惚(とぼ)けた顔が近くにあった。
いささかの混じり気もない桃色に満ちた瞳が、妖夢を心配するかのようにじっと見つめていた。
「な――なんでもありません。気になさらずにお話を続けては?」棘のある口調で、妖夢は返答した。
「生憎だけど、紫はどこかに行ってしまったわ」
「そうですか……。でも、すぐ戻ってくるに違いないですよ」
「そう? ところで、私は温泉とやらに入ってみたいんだけど」
すっかり忘れていたことだったが、今となっては、わざわざ幽々子に付いて行ってまで風呂で一息つく気にはなれそうにもなかった。
「雪も積もっていて寒いですし、私は遠慮させてもらいます。すみませんが、幽々子様が一人で入ってこられては?」
「……私は妖夢と入りたいのにぃ」
幽々子は妖夢の目をはばかることなく肩を落とした。亡霊だからだろうか、存在感の希薄な(人間からしてみると、存在感が希薄には見えないのかもしれないが)彼女が本当に消え入ってしまいそうである。
眉を曇らせてふくれる主人を見ていると、妖夢は放っておけなくなるのだ。
――幽々子様は、ずるい。
「今日だけは、特別ですよ」
妖夢の一言を聞いて、幽々子は笑顔を咲かせた。
たまにはこういうのも、悪くないかもしれない。
*
妖夢の横で温泉に浸かる幽々子は、先ほどまでとは打って変わって上機嫌だった。
「宴会なんだから呑まないと駄目よぉ」
「お風呂で酔っ払って成仏してしまっても知りませんよ」
「私は正常よ? あと、妖夢が居る間は成仏しないから大丈夫」
嘘とも真(まこと)ともつかない調子で、幽々子は言う。
嬉しいのだけれど、幽々子に課せられた運命を想うと妖夢は複雑な気持ちになった。のぼせているのか、顔が心なしか火照っているような気がした。
「じょ、冗談でもそういうことは言わないものですよ」
「妖夢は実直ねぇ。でも、そういう固いところが好きよ」
言うと、妖夢は後ろから覆うようにして抱きすくめられた。首の付け根が圧迫されて苦しかったけれど、泥酔している主人に何を言ったところで無駄だということを従者である妖夢は心得ていた。
それに――酒の匂いに混じって、桜色の髪から甘い香りがする。首筋がくすぐったい。お風呂なんて数え切れないほど一緒に入っているというのに、嫌に緊張した。
「暑いです……」
「そうね。十数えたら上がろうかしら」
幽々子は片手の人差し指を立てて、一、二、と呂律も怪しいままに数字を数え始めた。
それだけならまだ良かった。あろうことか、幽々子は数を刻むたびに人差し指から死蝶を放っていた。よほど機嫌が良いらしく、鼻歌すら奏でている始末だった。
「何してるんですか! 万が一にでも誰かが触れたら大変です。酔っ払っているからといって、こればかりは許す訳にはい
きませんよ」
「死蝶は幸運の証なのよ? ほら、四葉のなんとやら――」
ここまで来ると、もはや滅茶苦茶だ。
「馬鹿言わないでくださいって!」
「もう。宴会なんだから――頼りない妖夢の顔に免じて、少しぐらい許して頂戴」
「わ、私が頼りないことは百も承知ですけど――それにしても、どこへ飛ばしているんですか? 間違っても人里の方に飛
ばすなんて危険な真似はしないでくださいね」
「元々死んでいる蝶なのだから、特に宛てはないけれど……。強いて言うなら、迷える魔女を導いているのかしら」
妖夢には幽々子の言葉の意味が判りかねた。
でも、冬枯れの夜空に散りばめられた翅(はね)は、鬱積した不満を忘れさせてしまうぐらいに綺麗だった。蝶が羽ばたく度に闇にこぼれる光が、しんしんと降り行く粉雪を思わせた。
眉を八の字にする従者を見て、幽々子は「紫に頼まれたのよ」とさり気無い一言を添えた。
「もう……」
「妖夢も喜んでくれて、これで一石二鳥ね」
「喜んでません。やっぱり幽々子様は酔い過ぎです。――今度から、節度は守ってくださいね」
「妖夢はお堅いわねぇ」
従者が思っている以上に、亡霊の少女は気が確かだった。
酔いが回っていては迷える子羊を導くことが出来ないだろう。それに幽々子は、生真面目でいて頼りない妖夢のことが心から好きなのだ。
十の胡蝶は満月の下をゆらゆらと漂う。不器用な二人を繋ぐために。
◇
八雲紫は、いつになく責任を感じていた。
魔理沙が善からぬことを企んでいるのは永い妖怪の経験から察せられたのだが、好奇心に任せて魔法具を修理してしまったのが間違いだった。
結果として、整然としていた縄は乱れ、複雑に絡まり、面倒な事態へと発展してしまった。
紅魔館が抱える知識人が、部屋に閉じこもりがちなのは知っていた。だが、魔法具を通じての魔理沙の声の接触によって、心を乱した彼女が宴会へ出向かなくなったのは明らかだった。
話の発端の糸を引いたのが魔理沙とはいえ、沈みきった彼女をこのまま放っておくのは忍びなかったのだ。
そこで、幽々子に協力を恃(たの)んだ。彼女は会話が妖夢の耳に入らないよう、買い物をことづけて追い出したが、何もそこまでする必要があったのかは甚だ疑問である。妖夢があらぬ勘違いをしてしまっては、厄介なことになりかねない。
紫は白玉楼を出た後、途方に暮れる魔理沙から強引に魔法具を奪い取って、ついでに帽子も拝借した。魔法具を奪えば、二人の通信の手段は断たれることになる。パチュリーに魔理沙の行方を案じさせる――多少の荒療治は辞さない覚悟でないと、おそらくパチュリーは部屋から出ないだろう。
途中、彼女が森の中に降り立つという不測の事態こそあったものの、無事に帽子は置かれて計画は滞りなく進んだ。仕上げとして、魔理沙の帽子に博麗神社の裏へと通じるスキマを配した。パチュリーが帽子に触れたときに引きずりこめば、魔理沙の元へとたどり着く。そんな算段だ。
また、入浴する幽々子の元へ予定の変更を伝える為に出向いたところ、邪魔してはならないような雰囲気だったのが気がかりだった。
かくして、準備が整った。
――疲れた。
私の役目は終ったみたい――胡散臭いことこの上ない大妖怪は、一人不貞腐(ふてくさ)れている霊夢に会いに行こうと思った。一日の大半を睡眠に費やしているため、幻想郷を駆けずり回ったのは久方ぶりだった。
この疲れを忘れるには霊夢と呑み明かすしかない。
もっとも、ひどく無関心になった博麗の巫女が付き合ってくれるかどうかは、さっぱり分からないのだけれど。
◇
――ここで待っていれば、彼女が出てくるはずよ。
八雲紫は信じがたい笑みを浮かべて、魔理沙にそう言った。
「いくらなんでも遅いぜ……」
宴会の喧騒を離れた裏庭はうらぶれていて、魔理沙は柄にもなく心細くなった。パチュリーが扉の鍵を開けてくれるならいつまでも待てるつもりだったのに、いざ会うとなると緊張している自分がいた。
勢いに任せて自分のペースに巻き込んでしまう魔理沙は、この場には居なかった。
緊張は次第に高まり、刻々と時は過ぎていく。五分が経ち、十分が経っただろうか。魔理沙は時間の感覚を失いつつあった。
――あの胡散臭い妖怪のことだ。信用した自分が馬鹿だった。
魔理沙は痺れを切らして裏庭を立ち去ろうとした、そのときだった。
突如として空間が口を開け、矢継ぎ早にパチュリーが転がり出てきた。文字通り、パチュリーは気を失ったまま地面に投げ出されたのである。
「お、おい。大丈夫か!?」
「……馬鹿」息も絶え絶えに、パチュリーが言う。
無論大丈夫なはずもなく、パチュリーの体は熱を持っていた。病的なまでに白い額には、汗の粒がうっすらと浮かんでいる。仔細に観察すると、目じりがしっとりと濡れていた。地面に叩きつけられた衝撃でどうやら意識は取り戻したものの、呼気は浅く、その間隔は早かった。理由は定かではないが、帽子だけは抱えて離さないでいるのが痛ましかった。
――喘息だ。
魔理沙は直感した。彼女が喘息を患っていることは見知っていたが、ここまで重篤な症状だとは思いもよらなかった。ひどく発熱しているのは、風邪が喘息の症状に拍車をかけているからだろう。
放っておいては危ないと悟るや否や、魔理沙は体が先に動いていた。
彼女はこのような心理状態に陥ることがままある。霊夢が重い腰を上げるような、原因不明の怪事が起きたときが良い例だ。特に考えもなく、霊夢を追って妖怪退治に出かけるのだ。
しかし今の魔理沙は過去のいずれとも、ある一点において大きく異なっていた。
魔理沙は真剣だった。
「少しで良いんだ、動けるよな?」魔理沙の呼びかけに、パチュリーはこくりと一つ首肯した。「よし、行くぜ」
パチュリーが呼吸しやすいように姿勢を正した状態で横向きに箒に乗せると、乱暴に魔力を込めて、そのまま空へと駆け出した。
魔理沙の家へ向かう途中、パチュリーは一言も口を聞かなかった。小動物のように魔理沙の背中を弱々しく掴んで、振り落とされまいとしているだけだった。飛行する高度を落とすと、パチュリーの手にこもる力が強くなるのが分かった。魔理沙も思わず、箒の柄を強く握った。
喘息の症状で、声を発するのも躊躇われる状態であるのは分かっていた。ただ、顔を合わせれば憎まれ口を叩き合っていただけに、魔理沙としては、二人して言葉の一つも無しに過ごすのは気恥ずかしかった。
ただでさえも緊張するというのに、辛抱ならない。
「なあ――パチュリー」
返答が貰えないことは分かっていても、切り出さずにはいられなかった。
パチュリーが咳き込む声だけが幻想郷の夜に木霊(こだま)し、くしゃくしゃにしおれた帽子だけが魔理沙の頭に戻ってきた。温もりを残した鍔広の帽子を魔理沙は深く被りなおして、声の調子を落として言う。
「ごめんな」
パチュリーは何も言わずに、魔理沙の背にしな垂れかかってきた。
墨で染め上げられたような空に瞬くのは、満月と、箒の穂先から散りしく虹色の星くずだけだった。はらはらと零れ落ちる淡い光は、不安に駆られる日陰の少女を柔らかく包んだ。
ぎこちなく注意を払いながらも、一秒でも早く家路に着こうとしているのが背中越しからでも感じられる。
意識の薄れつつある中で、心が通い合っているような――病弱な少女は、魔理沙の背中を弱弱しくつかむと、そんな心地がした。
二人の間に、もう、言葉はいらなかった。
*
パチュリーは、弾力に富んだ大きなベッドで目を覚ました。
魔理沙の匂いがして、目覚めたばかりにもかかわらずパチュリーはどきどきした。
す、と体を立ち上げると、部屋の一帯を俯瞰(ふかん)することが出来た。
誰もいないことは勿論気になったが、その部屋は足の踏み場も無いぐらいに物が散乱し、とても健全な生活が営めているようには思えなかった。窓から差し込む朝日だけが、洒落っ気の欠片もない室内を照らしている。
「――魔理沙、いるの?」
心配だった。
また魔理沙が居なくなってしまうのかと思うと、胸が苦しくなった。
――傍にいてほしいのに。
一方的な我がままが通ろうはずもないのに、パチュリーは魔理沙にすがっていた。普段の精神状態からしてみたら、到底
考えられない。
するべきこともなかったので、積み上げられた本を捲ったり、魔理沙の部屋を見回してみたりもした。紅魔館の蔵書とおぼしき本もあり、忌々しくも、ほのかに懐かしい記憶が蘇ってきた。
あの頃はまだ、出会って間もなかったかもしれない。馴れ馴れしくて、とんでもないあばずれが現れたと思った。紅魔館の日常をかき乱すのは間違いなくこの魔法使いだと確信したものだった。
そして今になっても、何も変わっていない。
昨夜から水の一滴も飲んでいないパチュリーは喉の渇きをおぼえた。水を貰おうとして立ち上がろうとした、そのときのことである。
「起きたか。それにしても随分と早いお目覚めだな」
「お蔭様で」
魔理沙は頭を帽子を被っておらず、それがパチュリーにとってやけに新鮮だった。
パチュリーが魔理沙に見とれている間、魔理沙は障害物の合間をこなれた動きですり抜けて、ベッドの横にまでつかつかと歩み寄ってきていた。
「なっ、何?」
「いや、熱はもう大丈夫なのかなと思って」
パチュリーの髪を掻き揚げて、魔理沙は額をくっつけてきた。こん、と肌が触れる音がする。
魔理沙の顔が近すぎてパチュリーは顔をそむけそうになったが、すんでのところで堪えた。
鼻が触れ合いそうなほどに近くで魔理沙の顔を見たのは初めてかもしれない。向日葵色の虹彩を持った瞳が憂いを帯び、心配そうに覗き込んできている。目の下は黒く翳(かげ)っていて、存外に睫毛が長かったのはびっくりした。
「も、もう大丈夫だから。私だって一応魔女よ」
「何言ってやがる。つい先刻まで、喘息なんだか風邪なんだかはっきりしないのに、うなされてて酷かったんだぜ。まだ少し熱っぽいな。そうだ――何か食べるか?」
ごみごみしたキッチンめいたスペースへ向かうと、魔理沙は尋ねた。行動に頓着せず、当たり前のように心配してくれているのがいかにも彼女らしかった。
「――何でも」
「やけにしおらしいな、調子が狂うだろ。っても、私も凝ったものは作れないんだけどな」
小気味よく包丁がまな板を鳴らし、鍋がぐらぐらと煮立っていた。
キッチンに向かっててきぱきと作業を進めている魔理沙は不気味なぐらい家庭的だった。台所がここまで似合わない人間も珍しい。
「ほら、できたぜ。薬膳がゆだ」
毒が混入していないか心配だったが、スプーンで一口だけ掬うとゆっくりと口に運んだ。
――美味しい。
「どうだ? お粥なんて作る機会がめったにないから、味は怪しいところなんだが……」
「そんなことないわ。咲夜のには劣るけれど、久しぶりにしては上出来ね」
「一言余計だが、美味しいならそれは良かった。別にあの悪魔の犬と張り合おうって気は無いんだ。食べてもらえただけで
も十分なんだが」
本来パチュリーは捨食の魔法を習得している為、一週間前後の断食なら苦にもならない。寝食を忘れて、数日に渡り文字を追うだけの生活を続けることすら可能だ。
それでも、魔理沙が部屋を片付け始めたときには、すっかり粥を平らげてしまった。
「ごちそうさま」
「早いな。下げるぜ」
魔理沙は空になった皿を持って台所に向かう。作った料理を食べきってくれたのが嬉しかったらしく、声が弾んでいた。
そんな元気な彼女が、突然のことだった――何の前触れもなくよろけたのだ。
初めは、床に散らばった本にうっかりつまづいたように思えた。しかし、魔理沙の足元には塵の一つもない。体勢を立て直すのが早く、皿を割る惨事には至らなかったものの、魔理沙の体に異常が兆しているのは明白だった。
「おっと危ない。さっさと部屋の片付けもしないとな」
「嘘つかないで。こっち見て、魔理沙」病み上がりにもかかわらず、しっかりとした調子でパチュリーは言う。
「一体どうしたっていうんだよ。私のことより、自分の身の心配をした方が良いぜ」
「いいからこっち向いて」
皿を置くと、魔理沙はしぶしぶパチュリーの方向を向いた。
「目の下に隈が出来てる。魔理沙、寝てないのね」
「あ、ああ――そうだが、私だぜ? 大丈夫だ」
パチュリーの問いは正鵠を射ていた。魔理沙は表情を強張らせるも、追及は止まなかった。
「どうして寝てないの? ここまでしてくれたのは勿論感謝してるわ。でも――貴方に体を壊して欲しいなんて思った覚えはないの」
「だから大丈夫だって言ってるんだ」
「大丈夫じゃない。この部屋は何? 私は分かるわ。研究に没頭する余り夜を明かしてしまう貴方の姿が、そのまま弱った体で宴会に参加しようとした貴方の姿がまじまじと見て取れる」
「そ、それはだな――」
「言い訳なんて聞きたくない。私はソファーで寝るから、魔理沙はベッドで体を休めて」
ベッドが柔らかすぎたのも、魔理沙がろくに床(とこ)についてなかったからなのかもしれない。何よりも自分を優先してくれたことを嬉しく思いつつも、パチュリーは呆れの色を隠せなかった。
「そうだ、実験で思い出したんだが――喘息に効く薬とやらを作ってみたんだ。飲むといいぜ」
薬。
パチュリーは魔理沙が何を言わんとしているのか理解できなかった。
「アリスや霊夢に毒見はさせたの?」
「させる訳ないだろ。永遠亭まで出向いて作り方を教えてもらったんだから絶対に大丈夫だ。なんたって、月の頭脳のお墨付きだぜ?」
魔理沙から包みを受け取ると、薄い紙の上に白い粉末が小さな山を作っている。
信じられなかった。
――何て大ばか者なの。
「研究に熱が入りすぎてな、体のことを考えてなかったのはすまないと思ってる。でも、作っておいて良かったぜ」
「行き過ぎも大概にしておくことね」
「――で、提案なんだが……」
「何?」
魔理沙からの提案。
パチュリーの背筋を不吉な予感が走った。
でも、今日の魔理沙は変だ。提案とやらを言うのかと思えば、当の本人はまごまごとしていた。心なしか頬が赤いような気がする。魔理沙に羞恥の感情があったなんて、にわかには信じがたかった。
――変なの。
「こうやって薬も出来たことだし、ときどきで構わないから、私の家に来てみたらどうだ……って話なんだ」
「……何それ。どうして私を呼ぶの? 同じ森に居る、同業のアリスでも誘えばいいじゃない。気も合うでしょ」
アリスに不条理な嫉妬をぶつけるなんて、見苦しい。パチュリーは自分を恥じた。
「ならどうして、パチュリーじゃ駄目なんだ?」
「駄目なんて言ってない!」パチュリーは声を荒げると、げほげほと咳き込んだ。
「そ、そりゃ、強制してる訳じゃないんだぜ? たまには外には出た方が病状も快方に向かうだろうし、私の家なら、永遠亭や人間の里に薬を貰いに行くより早いはずだから……」
魔理沙に誘われた。
外から出ることなんてないと思っていた。訪問者を迎え入れるだけで満ち足りていたつもりだった。もしものことがあれば、紅魔館の図書館に骨を埋める覚悟だってできているつもりだった。
なのに、この人間は――
「散歩がてらに寄ってくれれば、お茶の一杯でも振る舞うぜ」
「それは……どうしても?」
「ああ、どうしてもだ」
「魔理沙がどうしてもって言うなら……か、考えておくけど」必死に平静を装って、パチュリーは小さく返答した。顔が熱
い。風邪の症状が再発しかけているのかもしれない、と理由を取って付けずにはいられなかった。
返事を聞いて、魔理沙は胸をなでおろす。そして、屈託もなく笑った。
*
不毛な譲り合いの結果、互いの意見を折半して魔理沙はベッドの端を枕に寝ることになったのだった。
本のページを繰る手が進まない。魔理沙が横に居るだけなのに、パチュリーは傍らの魔法遣いを意識することしかできな
かった。
魔理沙の髪は、癖があるようで柔らかそうだ。パチュリーは魔が差して、魔理沙の髪に触ってみたくなった。
手が伸びる。耳元で三つ編みになった金髪が無造作に垂れていた。跳ねた髪に、指先が触れて――
こんこんと二度、玄関で音がした。
とっさにパチュリーは手を引っ込める。
真冬の早朝だというのに、それは訪問者のようだった。
口の端に涎を垂らした魔理沙が「どうぞ」声を掛けるが、扉は微動だにしない。何をためらっているというのだろうか。
すると、軋る音を立てながらドアが開き、降り積もる雪にも似た銀色のおかっぱ髪がひょいと姿をちらつかせた。どうやら白玉楼の従者は部屋に入りたくないようで、玄関口で立ち往生している。
昨日はあんなにふてぶてしかった癖に――魔理沙はそう思いながら、妖夢の元へと近づいた。
「こんな朝早くからどうしたんだ?」
「こ、こ、これ……幽々子様が、昨日町まで送ってもらったお礼にって」
「ご苦労なこった。今後とも是非贔屓にしてくれよ」礼をして、魔理沙は一升瓶を受け取った。
「で、では――私は用事があるので!」
――変な奴だぜ。
素早く踵を返して、妖夢は段々と遠ざかっていった。新雪にはくっきりと小さな足跡が残り、彼女がいかに焦っていたのかということを如実に示していた。
魔法の森の先まで伸びる足跡を目で追うと、灰色の紙が一枚、ぽつねんと落ちている。妖夢がこんな走り方をしなければ見落としてしまったかもしれない。そもそもに、慌てていなければ落し物などするはずはないのだ。
雪を踏みしめながら対象物へと近づく。拾い上げると、それは新聞だった。
――これは。
所々が湿ってふやけた新聞を眺め回すと、射命丸文が発行する『文文。新聞』の号外のようだった。
水分をたっぷりと含んでくすんだ紙は、文字が読みづらくなっているが、そんなことはお構い無しに魔理沙は記事の文字を追う。
しばらく読み進めたところで魔理沙はひどくうろたえた。
――畜生、やられた!
『文文。新聞<号外> ××月○○日(△曜日)
・魔女二人の密会!? 宴会裏に隠された真実
○○日未明、幻想郷の古参として著名な
某妖怪Y.Y氏の証言と提供された怪しい魔法
具によって、今回の事実は白日の下にさら
される運びとなった。
情報が飛び込んできたのは深夜、宴会も
最高潮の盛り上がりを見せている真っ只中
のことだった。しかし、その段階でY.Y氏
の発言を鵜呑みにするわけにもいかず(彼女
が胡散臭いからともっぱらの噂であること
とは関係ないとあらかじめ断っておこう)、
暫しの間こう着状態が続いた。
状況が打破されたのは、Y.Y氏が証拠と称
する魔法具が、突如にして声を吐き出し始
めたのである。驚きに包まれながらも、真
実を伝える為に私の手は懸命に会話を書き
取りひたすらに記憶した。
過去にも幾度となくこのような報道をし
てきたつもりであるが、今回の一件はまご
うことなき真実である。(今までの報道が真
実ではなかったという訳ではないつもりな
のであしからず)
下に可能な限り、会話の一部始終を掲載し
ておいた。名前はイニシャルに改めて表記
している。また、これらの内容に関しては、
いかなる質問も受け付けないし、答えられな
い。ここに記す内容の全ては真実であり、ど
う受け取るかは貴方の良心に委ねられている。
P「――魔理沙、いるの?」
M「起きたか。それにしても随分と早いお目覚め
だな」
P「お蔭様で」
(中略)
M「こうやって薬も出来たことだし、ときどきで
構わないから、私の家に来てみたらどうだ……
って話なんだ」
P「……何それ。どうして私を呼ぶの? 同じ森に
居る、同業のアリスでも誘えばいいじゃない。
気も合うでしょ」
M「ならどうして、パチュリーじゃ駄目なんだ?」
P「駄目なんて言ってない!」
M「そ、そりゃ、強制してる訳じゃないんだぜ?
たまには外には出た方が病状も快方に向かうだ
ろうし、私の家なら、永遠亭や人間の里に薬を
貰いに行くより早いはずだから……」
(中略)
M「ああ、どうしてもだ」
P「魔理沙がどうしてもって言うなら……かっ、
考えておくけど」
今後も報道の自由に則り、速報があれば随時号外
を発行する予定だ。
追記/雪見酒が美味しい夜ですね。
』
細切れになるまで新聞を破くと、魔理沙は急いで部屋に戻った。
ドアを押し開け、息せき切らす魔理沙を、パチュリーがきょとんとした表情で見つめてくる。彼女はベッドにはおらず、部屋の中央辺りに立っていた。
魔理沙の頭を、かの天狗文屋の書き散らした文面が駆け巡った。八雲紫に、うかつに魔法具を受け渡したのが間違いだった。この号外はもう幻想郷中に出回ってしまっているはずだ。
つまり、余計な誤解を大々的に広めてしまったことになる。
――嘘にしても書き方があるってものだろ!
断じてパチュリーとこんな関係になった覚えもなければ、密会などという不埒な行為に及んだ覚えもない。喘息の発作に苦しむ彼女を目の当たりにして、誰が放っておけるというのだろうか?
心配だった、それだけなのに――
それにしても、だ。
――"随時"って何だ?
今になってもまだ、天狗があの通信具を手放していなかったとしたら? 夜通しで執念の取材を敢行していたとしたら?
魔法具のそばで聞き耳を立てていたとしたら――?
魔理沙はパチュリーを見る。
すみれ色の長い髪は肩口で乱れ、白磁のような肌は赤みが差している。風邪がまだ治りきっていないのかもしれない。気になったのは、彼女にしては珍しく口ごもっていたことだった。
パチュリーは、それなりにはっきりと物を言う性質(たち)である。ましてや、相手が魔理沙となれば尚更だ。しかし、そんな本の虫は、あろうことか言いよどんでいる。
「魔理沙、どうしたの?」
「なんでもないぜ。ほら、妖夢から酒を貰ったんだ」ごと、とテーブルの上に酒瓶が置かれる。
「ふうん――あと、聞いてほしいことがあるの」
「ん、何だよ。くだらないことなら願い下げだぜ」
「違う、違うの。だから、絶対……聞いて」言葉を区切ると、ほう、とパチュリーは溜息をついた。「その……」
雲行きが怪しくなってきたようだ。
天狗が聞き耳を立てている傍で、これ以上の誤解を生む言動だけは避けたかった。
先程だって大したことは言っていないのに、新聞一つでああも大げさに書き立てられてしまうのだから敵わない。
「えっと、その――ま、魔理沙のこと、じゃなくて魔理沙――」
言葉を最後まで聞きたかった。
でも――
決断した途端、またも体が先に動いていた。パチュリーの体を抱き寄せて、彼女の小さな顔を自分の胸にうずめた。手で触れていると、パチュリーの体がとても華奢なのが服越しに伝わってくる。くらくらするような香りとわずかな古書の匂いが、紫の髪からほのかに漂ってくる。
魔理沙はパチュリーのことが好きだ。ただし、それは恋愛感情の類とはほんの少しだけ異なった所に位置していて、何より胸がとくとくと高鳴った。こんな感情が働くのは、パチュリーだからなのだと思う。
そんな意味も含めて、パチュリーの言葉を断つために魔理沙は抱きしめた。しょうもない噂を流されたくなかったという一面も無きにしも非ずなのだが。
パチュリーもまた、同じだった。
唐突に体を引っ張られたときは、何が起きるのかと思った。魔理沙が直情的なのは知っていたが、予想だにしなかった行動だった。
――結局、言えなかった。
でも、今はそれで良いのだと思う。
魔理沙の胸の拍動を直に感じながら、パチュリーは割り切った。魔理沙もいっぱいいっぱいなのだ。あの魔理沙が、と考えただけでもふつふつと笑いがこみ上げてきそうだ。表情が確認できないのが残念でならない。
――だからせめて、これだけ。
聞こえなくてもいい。伝えたかったのに、伝え切れなかった気持ちを、ささやかに言葉に乗せて――パチュリーは小さく口元を動かした。
――大好き。
<おしまい>
こういうパチュマリ大好きだ。