時は流れる。
宴は終わる。
人は逝く。
妖は眠る。
あの、毎日がお祭りだったような、騒がしさと波乱と驚きと喜びに満ちていたあの日々は、今は遠くに行ってしまった。
もう、戻ってこない。
今はもう手の届かない、懐かしい日々。
はっ、と藍は浅い眠りから目覚めた。
いつの間にかうたた寝をしてしまっていたようだった。机の上には筆と硯が置いたまま。昼食の後、書き物をしている最中に寝入ってしまったのか。硯はもうだいぶ乾いてしまっている。
今は何時だろう、と、はっきりとしない頭で考える。窓の外を見れば、既に空は茜色に染まり始めていた。里の方には炊事の煙が上がっている。
ああ、もうそんな時間か、と藍は思う。
晩飯の支度をしなければ、とも思うものの、食べるのが自分一人ではどうにも気が入らない。しかし、ここでいつまでも窓の外を眺めていたところでどうなるというものでもない。
よっこらせ、と立ち上がり、ううん、と伸びをする。どうにも年寄りじみた仕草だとは思うが、いつの間にか染みついてしまった癖というのはなかなか抜けないものだ。一人で過ごす時間が長くなってからは、注意してくれる者もいない所為もありなかなか直らない。
さて、昼食の残りものでもあったろうか。そう考えながら台所を調べてみると、櫃の中に冷やご飯が少々、鍋の中に味噌汁が一杯分程あった。あとはこの前漬けておいた沢庵でも切ればよいか。
自分一人であればこれで充分であろう。晩飯としては少々物足らない気もするが、昼食の後はつい先ほどまで寝ていたのだから特に腹が空いているというわけでもない。それに元々、藍はそれほど胃袋の大きい方ではないのだ。どちらかと言えば小食であり、しかも目の前で他人が食事をしていると、それだけで満腹になってしまうような性分である。
まぁ、足りなければその時何か作ればよい。
そう考えてしまえば、これ以上する事もない。居間に戻ろうかとも思ったが、さりとて居間でする事もない。そもそも、することもないからうたた寝などしていたのだ。
ふう、と藍は息を吐く。
どうにも時間の使い方が上手くない。しなければならない事は大抵すぐに終わってしまう。もっと時間をかけてゆっくりとやれば良いとは分かっているのに、何故かそうできない。どうしても気が急いてしまう。急いて終わらせたとしても、他にすべき事など無いというのに。為すべき事が幾つも幾つもあった頃とは違うというのに。
「さりとて、他の生き方も出来ないのだが」
自分は不器用である、と藍は思う。
手先は器用な方ではあると思う。少なくとも、裁縫も炊事も不得手ではない。紫ほどの強力な妖怪の式であるが故に、出来ない事もそう多くはない。
だが、一人で上手く生きる事は出来ない。過ごすために時間を過ごす、生きるために日常を生きる、そういった事が苦手である。あるがままにある、という事が藍には出来ないのだ。人のために働いていないと、何かをしていないと時が流れてくれないのだ。しかも、無為に生きる事もまた、藍には出来ない。
上手く生きる事は出来ない、かといってやり過ごす事も出来ない。故に、自分は不器用である、と藍は思う。上手く生きている、あるいは生きていた者達の顔をいくつか思い浮かべ――そして、藍は首を振った。それは無い物ねだりであろう。他人の持つ者を羨み、欲しい欲しいと言うだけではただの子供である。そして、藍は自分には決して手に入らないと知っているものを追い求めるほど愚かでも利口でもなかった。やはり、不器用なのであろう。
藍は再び溜め息を吐いた。
どんどん、と玄関の戸が叩かれる音がした。
「はいはい、今行きますよ」
ささやかな晩飯の後。洗いものをする手を止め、手拭いで手を拭きながら藍は玄関へと向かった。
もう疾うに日は暮れ、辺りは薄闇に沈みかけている。出歩くには少々遅い時間帯であろう。
はて、こんな時間に訪ねてくる者などいただろうか。僅かに首を傾げながら「どちら様でしょうか」と戸を開けると、
「よう。お久しぶり」
そこには小柄な少女が立っていた。右手に瓢箪、左手に風呂敷包み、側頭部からは二本の角。鬼である。酒好きの鬼らしく、風呂敷包みの中からは酒瓶らしきものがその姿を覗かせていた。
藍はこの鬼を知っていた。
「これは……萃香さま」
「ははっ、さま付けか。相変わらず藍は堅っ苦しいなぁ」
「そうでしょうか」
と、藍は憮然とした表情で言う。
萃香は永き時を生きた鬼であり、主である紫の古い知人である。故に敬意を払うべきであろう、と考える。いや、それ以前に、他人に――少なくともその相手が無礼ではない場合には――敬意を払うのは当然であろうと、藍としては至極当然の事として思っているのだ。だが、どうもそうは思わないない者が周囲には多いようである。
「そうそう。もっと気楽で良いのに。例えば萃香とか萃香さんとか萃香ちゃんとかすーちゃんとか」
「すーちゃん、ですか」
「そうそう。もっと言って、もっと」
言って、萃香はけたけたと笑う。
藍ははぁ、と溜め息を吐き、
「萃香さま」
「ん~? なに?」
「酔っていらっしゃいますね」
「それは勿論。私が酔っていない時なんて」
「あるはずがありませんよね……」
「そうそう。よく分かっているじゃない」
再び楽しそうにけたけたと笑う。手の瓢箪に口を付けぐびぐびと呷り、ぷはぁ、と一息。藍は鼻をひくつかせた。酒臭い。瓢箪の中身は聞くまでもなかろう。
仕方ありませんね、と藍は苦笑する。この鬼が酒に酔っていない所など見た事がない。素面であったのは数百年以上も前、と豪語する程の鬼である。酒を飲むな、と言う方が理に適っていないに違いない。理であり、あり方であり、即ちそれ自然という事である。萃香にとって酒は唯一無二にして不可分、つまりはそういうものなのであろう。
「まぁ、このようなところで立ち話も何ですから」
「ん。上がらせて貰うよ」
二人は居間に向かって歩き出した。
風呂敷包みの中身は人の酒、それも外の世界の酒であった。萃香に曰く、冷やした方が美味い、との事であったので冷水に浸けて冷やす事にした。水瓶の中の水は既に温くなっていたので、桶で井戸の水を汲み上げ入れ替えておいた。
「それで」
作業を終え、居間に腰を落ち着けた所で藍は切り出した。
「本日は如何な御用事ですか?」
「うーん。特に用事って程の用事はないんだけど」
「と、いいますと」
「ん、なんとなく寄ってみただけ」
「はぁ」
藍は首を傾げた。
「良い酒、って程のもんじゃないんだけど、珍しい酒が手に入ったもんで」
言って、萃香はちらりと水瓶の方に視線を送る。
「それはまぁ、外の世界の酒でしたら確かに珍しいですね」
「ん。そうだね。あっちじゃそれほど珍しい物でもないけど」
「そうなのですか」
「そうだよ」
萃香は手の瓢箪に口を付け、
「ありゃ」
「どうかなさいましたか?」
「切れちゃった」
瓢箪の上下を逆さにし、二三度振ってみせる。が、酒はその口からただの一滴も落ちては来ない。
「ねぇ、藍」
「何でしょうか萃香さま」
猫なで声の萃香、仏頂面の藍。お互い考えている事が分からない程の仲ではない。というよりは、この状況が、萃香の性質が分かり易すぎるだけなのだが。
「この家に、何かお酒無いかな?」
「――無い事も、ありませんが」
「ほほう」
と、萃香は嬉しそうな顔をする。
藍はあきらめ顔である。萃香を、この酒好きの鬼を招き入れたならばこうなる事くらいは百も承知であった。藍は立ち上がり、
「しかたありませんね」
「やった。藍、話せるね」
「確か大吟醸の良いのがあったはずです。ついでに何か肴を用意しましょう。何か希望はありますか?」
「任せるよ。特に嫌いな物はないから」
「分かりました」
台所へ向かいながら、そういえば一人でない酒は久しぶりなのだな、と藍は思った。
座卓の上には藍の用意した肴と酒瓶、それに猪口が置かれて、非常に手狭になっていた。鯵の干物を焼いたものに大根おろし、湯豆腐、沢庵とその他数種の漬け物。肴のはずが先ほどの自分の夕食よりも豪華な物になってしまい、藍は苦笑いした。
「豪勢だな」
と、萃香は嬉しそうに箸を取った。右手に箸、左手に猪口を持ち、飲む食う飲む食う飲む食うと忙しない。次々と片づけられていく料理と酒。それに酒を注いでやりながら、よくこの小さな体にこんなに入るもんだ、と、藍は驚いたような呆れたような顔をした。
「藍も(ごくり)見てるばっかじゃなくて(むしゃむしゃ)何か(ごくごく、ぷはぁー)食べた方が(むしゃむしゃ)いいんじゃ」
「……私の事は良いですから、黙って食べて下さい。行儀が悪いです」
「(ごくごく)そう。それじゃお言葉に甘えて」
再び料理の攻略に取りかかる萃香。もう既に結構な量がその胃袋に消えているのだが、一向にそのペースが落ちる気配もない。ちびりちびりと自分でも酒を飲みながら藍は、八面六臂というのはこういう状態なのかな、と益体もない事を考えた。
「はー、食べた食べた。ご馳走様」
「お粗末様でした」
結局、用意した肴の内、藍が手を付けたのは漬け物を二切れ三切れで、それ以外の殆どは萃香の腹の中へと収まった。食べ残しなどありはしない。鯵は頭と骨以外は残っておらず、湯豆腐の鍋に入れておいた昆布まで食べられていた。
ここまできっちりと食べて貰えれば藍としても非常に気持ちがよい。最近は他人のために腕をふるう機会が無かったので、久しぶりのよい気分だった。
「ご飯と味噌汁も用意した方が良かったでしょうかね」
「今からでも遅くないよ、って冗談だってば。もう十分。堪能したよ」
今にも立ち上がりそうな、そしてどこか不満そうな様子の藍に、萃香は苦笑した。
「それで、最近どうさ」
卓上の片づけを終えたところで、萃香が何気なく切り出した。
「どう、と言いますと」
「私があちらに行っていた間に何かあったのかな、と思ってね」
「あちら? ――まさか、」
「たぶん、藍の思ってるとおりだよ」
「では、幻想郷から」
「そう」
「どのようにして」
「それはもう、蛇の道は蛇というか、魚心あれば水心というか」
「意味が分かりませんよ」
しかし、と思いながら藍は腕を組んだ。ずいぶんと長い間姿を見せないと思ったら幻想郷を出ていたとは。ただの鬼の気まぐれかとおもっていたが――いや、幻想郷を出るのもそれはそれで単なる気まぐれなのかもしれないが。
「一体何をなさっていたのですか?」
「わざわざ聞くような事かな。だいたい想像はつくと思うけどね」
「はぁ」
「あちこちのお祭りに顔を出して、酒ばっかり飲んでたよ。向こうは酒の種類だけは多いからね。飽きはしなかったな。それだけは良かった」
「……」
萃香は遠い目をした。その雰囲気に飲まれるようにして、藍は押し黙ってしまう。それを察したのか、萃香はすぐに話題を変えた。
「それで、こっちは最近どうなんだ。ほれ、ここにも居ただろう」
「何がですか?」
「元気な黒猫が、いや猫又だったかな。何という名だったか」
「ああ、橙の事ですか」
「そうそう、そんな名前だったか。今はどうしてるんだ。この時間だ、もう寝てるのか」
「もう、そんな子供ではありませんよ」
藍は苦笑する。
ある程度以上に年を経た妖は、それ以上にその姿を変える事はない。むしろ自らの姿を自分で選ぶくらいのことは当然のようにする。萃香も藍もそれは同じだ。藍は大人の姿をしているが、萃香の姿形は完全に子供のそれである。
その萃香が子供について語る。それに少し可笑しさを感じる。
「そうか。月日の経つのは早いものだな」
「ええ。本当に」
藍は手の猪口を傾けた。飲み干し、机に置く。勢いが付いていたのか、カン、と小気味よい音を立てた。
萃香が藍の猪口に酒を注ぐ。藍の礼に萃香は、気にするな、と笑って頷いた。
「……橙は、この前旅に出しました」
「ほう。可愛い子には旅をさせよ、と言うからな」
「この前、と言っても……もう、だいぶ前の事ですね。百年も経つでしょうか」
「便りはないのか」
「しばらく前に自分の式を持った、とありましたが、それ以降は」
「式の式の式か」
「烏、らしいです。詳しい事は分かりませんが」
「それ以降は」
「便りが無いのがよい便り、と言います」
「……そうか」
萃香は自分の猪口を傾けた。藍も先ほど注がれた酒を飲み干していた。
新たに注ごうとして、瓶の中身が無い事に気付く。
「まだ何本かありますが」
藍の言葉に萃香は頭を振って、
「いや、私が持ってきたのがあったろう。あれももう冷えている筈だ。飲み頃じゃないかな」
「では、お持ちしましょう」
「ああ。あとは硝子のコップがあれば」
「確か一つ二つあったはずですが」
藍が棚からそれらの物を持って戻ると、
「そんな良い物じゃなくていいのに」
「と、言われましても。他にございませんし」
藍が棚から持ち出したのは、複雑な、精緻な意匠の施された硝子杯であった。どこの有名な職人の手による物か。人か、それとも妖か。微かに蒼みがかかったその杯は、傾ける角度によってその色を、姿を変えた。繊細に、豪放に、無邪気に、磊落に。刹那の間にその表情を変える、まさしく美術品の傑作と呼ぶのに相応しい杯であった。
「安っぽい物の方が雰囲気出るんだけどなぁ……まぁいいか」
そう言って、酒瓶の栓を抜いて藍の硝子杯へと中の酒を注いだ。
「これは……不思議な酒ですね」
茶色というか麦わら色というか、銅色というか。幻想郷では見ない色の酒である。そしてその上部には白い泡が溜まり、その対比が何とも言えず独特である。
萃香は自分の杯にもその酒を注いだ。泡は杯から溢れる寸前、杯の上部を覆うような形で止まり、萃香は得意げな顔をした。
「練習したんだ」
「はぁ」
藍は首を傾げた。
萃香は藍の反応の薄さに少し不満そうな顔をしたが、結局は気にしない事にしたようだった。
「じゃ、乾杯」
「乾杯」
かつん、と打ち合わされた杯が音を立てる。
初めて飲むどころか、初めて見る酒である。藍はどうしたものか、と思いながら恐る恐る口を付けた。泡の味がした。考えてみれば当然の事である。萃香の方を見ると、ごくごく、と一気に飲み干し、ぷはー、と気持ちよさそうに息を吐いている。あれが正しい飲み方なのか、と一瞬考える。が、よく考えるまでもなくあれはいつもの萃香の飲み方であった。参考にはなりそうもない。
まぁ、人の飲む(らしい)酒である。萃香の言を信じるならば、少なくとも毒ではあるまい。藍は軽く杯を傾け、酒を口に含んだ。
苦い。
藍は顔を顰めた。もう一度試してみるが、やはり苦い。萃香が当然のような顔をして飲んでいた事を考えると、元々このような味なのだろう。藍は手の中の杯を見つめ、結局杯を卓に置いた。
気付けば、萃香がにやにやと藍の方を見ていた。
「苦いか」
「はい。失礼かもしれませんが、あまり美味いとは思えません」
「そうかもな」
「これは、何の酒ですか」
「麦酒。麦から出来ているらしい」
「麦、ですか」
「ああ」
萃香は自分で注いだ酒を、また一息で飲み干していた。
「コツがあるんだ」
「はぁ」
「舌で味わうんじゃなくて、喉で飲むんだ。そうすると美味い、かもしれない」
「……」
物は試し、という。藍は思い切ってぐいっと杯を傾けた。
「……やはり、美味いとは思えません」
「ははっ、そんなもんだ」
「萃香さまは、これが美味いと思いますか」
「さて、どうだろう。美味いとも不味いとも思うが」
萃香が誤魔化したのか、それとも本当にそう思っているのか、藍にはよく分からなかった。手の中の杯を再び傾けてみても、やはりこの麦酒は苦かった。
杯を手にぽつりぽつりと話す内に、幻想郷の者達の話となった。
「冥界の、白玉楼の亡霊達はどうしてる」
「あそこは相変わらずです。そもそもが死者達の住む場所ですから。成仏していなくなる者も、新しくやってくる者も大勢居ます」
「ふむ」
「ただ、幽々子さまは変わられたようです。めっきり人前に姿を現さなくなりました。……半人前の庭師が鬼籍に入ってからだったと思います」
「庭師か。半幽霊だったはずだが」
「半分は生きた人間です。ただの人よりは長く生きましたが、死にもすれば成仏もします」
「そうか」
「紅魔館の吸血鬼達は」
「館から出てくる事が無くなりました」
「ふむ」
「メイド長が変わってからでしたので、……もうだいぶ前になります」
「亡くなったのか」
「彼女は人間でしたから」
「そうか」
「永遠邸の者達は」
「あそこも相変わらずですね。あそこは不死者が多いので」
「ふむ。そう言えばそうだったな」
「ただ、変わる者は変わっています」
「逆にいえば、変わらない者は変わっていないという事か」
「はい」
「ふむ。そうか」
「あの、黒い魔法使いは」
「魔理沙の事ですか」
「ああ」
「彼女は、人間です」
「だが、魔法使いだろう」
「だとしても。所詮、人の身です。彼女の住んでいた家も、今は廃屋になっていると聞きました」
「……そうか」
「博麗神社の、巫女は」
「何度か代替わりをしまして、今は当代の巫女が神社の管理をしています」
「ほう」
「聞いた話によると、なかなかの才を持っているとか。特に結界に関してはかなりのものだと」
「ふむ」
「まだ若いので経験には欠けるようですが、経験さえ積めば歴代で一二を争う才ではないかとの噂です」
「そうか」
藍の話を、萃香は相づちを打ちながら聞くともなく聞いていた。杯を口元に運び、一口。息と共に言葉を吐き出した。
「そうか。幻想郷は、変わったんだな」
「変わらぬものなど有りはしません」
「そうだな。外の世界はもの凄い勢いで変わって行っている。幻想郷が変わらないはずがない、か」
萃香は息を吐きながら言った。残念そうに、
「だが、ここは、幻想郷だけは変わらないと思っていたんだがな」
「ええ。私も、そう思っていました」
藍は頷いた。
「けれど、そうではありませんでした。六十年を一周期として繰り返すとは聞きましたが、繰り返すからと言って変わらないわけではないようです」
「ははっ。年寄りの泣き言だな」
「ええ。全くです」
藍は麦酒を飲んだ。相変わらず苦かったが、その苦さもだんだんと心地良くなってきた。きっと、慣れてきたのだろう。この麦酒が喉を通る瞬間の苦み、その感触。それが僅かに心地良く、爽快である。苦さを腹の中に飲み下しているという事か、と藍は思う。
そんな藍を見ながら、萃香が何気なく言った。
「それで、紫は」
「……」
少しの間、藍は押し黙った。
「紫さまは……」
言うべきか言わぬべきか。これがただの妖怪、ただの人であったならば言う事などありはしない。何も答えず叩き出すだけだ。だが、相手は萃香である。
藍は迷うようにして、結局、
「紫さまは、寝ていらっしゃられます」
「紫が寝ているのはいつもの事だと思うが。あいつは暇さえあればいつも寝ているだろう」
「ええ、そうなのですが」
「? 何か問題があるのか」
「起きていらっしゃられません」
「――いつからだ」
「もう、三百年程になります」
「……そんなにか」
それは、異常である。いくら紫がよく寝る妖怪だとしても、数十年、数百年も寝続けているというのは異常である。いかな大妖怪とて、栄養を全く摂取せずに存在し続ける事は出来ない。紫とてその例外ではない。もしそれが出来るとしたら、それは人外である妖怪の、さらにその枠外の存在でしかないだろう。
「――切っ掛けは?」
「は?」
「なんで、あいつは寝てるんだ?」
「……それは、」
藍は口ごもった。
萃香は酷く苦みの強い笑みを浮かべ、
「分からない、って言う感じじゃ無さそうだな」
「――、」
「言いたくない、……いや、言いにくい、か」
「いえ、そういったわけでは」
「そうか」
萃香は手の中の杯を傾けた。瞬く間に杯は空になる。藍はそれに麦酒を注いだ。
「そんなに言いたくないか?」
「……」
「三百年前、か。ああ、そうか――」
萃香は一瞬だけ遠い目をし、
「幽霊、半妖、吸血鬼、メイド、人形使い、魔法使い、どれも違うな」
「――萃香、さま」
「ああ。簡単じゃないか。つまり、」
萃香は一拍、息を吐いて、
「巫女、か」
「――――」
「それからずっと――か?」
頷いた。藍には、頷くことしかできなかった。
「そうか」
再び言って、萃香は手の杯を傾けた。その視線は藍の方を見ていない。何かを思うように、ぼんやりとした視線を中空に向けている。
「紫は寝ているか」
再度、頷く。目を伏せたかった。
「ははっ」
と、少し寂しそうに、笑う。
「そうか。寝ているか。――あいつらしいじゃないか」
藍は何も言わない。
紫と萃香の関係。それを誰の口からも詳しく聞いた事が無い。二人とも長く永く、生きた妖である。きっと本人達しか知らない事であろうし、請われたとしても話す事は無いに違いない。
故に、口を挟めない。
己が知ったような口をきく事は出来ない。
「まったく――人がせっかく久しぶりに戻ってきたというのに、あいつときたら寝てるのか」
萃香がぐい、と手の中の麦酒を呷る。流し込むように、一息に。杯は瞬く間に空になる。一部が口の端から溢れ喉を伝っていったが、萃香は気にする様子もない。
「まったく――友達がいのない奴だ。せっかく人が土産まで持ってきてやったというのに」
藍は黙ったまま萃香の杯に酒を注いだ。注がれた酒を、萃香は即座に飲み干す。だから藍はまた、黙って萃香の杯に酒を注いだ。
「……」
「……」
二人とも黙ったまま。
藍が酒を注ぎ、萃香がそれを飲んだ。浴びるように飲む。まさにそのような表現が相応しい、と藍は感じた。
これは――こんな飲み方は、萃香の飲み方ではない。そう藍は思った。いくら萃香が酒好きで、かつ、酔いはすれど体を悪くすることはないといえども、萃香はこのような飲み方をしたことはなかった。
今の萃香には、酒に対する想いがなかった。
敬意がなかった。喜びがなかった。楽しそうでは、無かった。だからかってに、口が動いた。
「……自棄酒、ですか」
「……そうかもな」
違う。それは違う。萃香は頷いた。けれど、藍には分かったのだ。
人のする自棄酒とは違うのだ。
自分の身などどうでも良いと思っているのではない。勢いに任せ、止まることなど考えずにただ飲んでいるのではない。忘れたいことがあって飲んでいるのではない。
違うのだ。
それは、哀しさだ。
それは、寂しさだ。
やりきれない想いが、言葉にならない感情のうねりが。衝動となって萃香を突き動かしているのだ。
「なぁ――藍」
「はい」
「藍も飲め。いや、飲んでくれ。だって――」
萃香は視線を窓の方に逸らした。
窓の外には、月。
けれど、鬱蒼と茂った木の枝とぼんやりとした雲にその姿を半ば以上隠されている。だから月の姿など、月の光など、ほんの僅かしかこの場所には届いてこない。
「だって――一人で飲む酒は、あまりにも寂しすぎる」
藍は自らの杯を差し出した。萃香がそれに酒を注ぐ。
一息に、飲み干した。
「苦い。やはり、ひどく苦いです」
「まさしく、な。まったく、苦い酒だ」
「ええ」
藍は頷いた。
そして、お互いに酒を注ぎあい、二人で黙々と酒を飲み続けた。
夜更け。丑三つ時。
時はゆるゆると過ぎ、結局、夜明け前まで飲み続けた。
「それじゃあな」
と、一言だけ残して萃香は去っていった。
見送りに出た藍の方など振り返らず、朝の霧の中に、すう、と消えていった。
また人の世に渡るのか。それとも、しばらくは幻想郷に留まるのか。あるいは、そのどちらでもないところに行くのか。思ったところで、考えたところで、藍に出来ることはない。
藍に許されているのは、ただ、待つことだけ。この場から動くことなど、紫の元から離れる事など許されるはずがない。
何十年後か、何百年後か、何千年後か――
紫が目覚めるその時まで、あるいは、風が全てを風化させるその時まで。ただ待ち続けること。それが今の藍の全てだった。
部屋に戻り、昨晩の片づけを始める。
疲れてはいるが、倒れそうなほどではない。寝るのは片づけが終わってから、と考えた。
皿を片づけ、藍は卓に残されていた杯を手に取った。よく見れば、中身がまだ半分ほど残っている。
藍はそれをぐいと呷り――
「不味い――な」
温くなった麦酒は不味かった。もう泡が喉を抜ける感触も感じられず、ただ生温くて苦いだけの、酷く不味い酒でしかなかった。
「まったく、萃香様」
藍は一人愚痴る。
「こういうのは、『冷やした方が美味い』ではなくて、『冷やさないと不味い』と言うんですよ」
そう言って、最後の一滴まで飲み干した。
後に残るは、宴の後の寂しさか。
或いは、黄昏の日々か。
それは人でなき者、妖とて知る事の無い事。