季節は春。
晴れ渡った青い空と雲のように広がる桜の群舞。
冥界は見事な花見日和だった。
主に夜活動する幽霊たちも、こんな時には夜から昼間まで延々と騒ぎ続けるのである。
咲き誇る桜の下、彼らはあちらこちらに集って花を見上げる。あちこちの席には騒霊楽団が飛び入って音色を奏でる。それを肴にして、また桜の花を楽しむ。
年に何度かある、冥界が騒がしくなるイベントの一つだ。
どこもかしこも騒がしい、そんな春の日。しかし、冥界の中にある大きなお屋敷だけはいつも以上にひっそりとしていた。
亡霊の姫が住まうお屋敷、白玉楼。
常ならば塀の外の庭まで幽霊たちが押し寄せては立派な桜を楽しんでいるのだが、今年は虫の霊さえいない。
その原因は空気にあった。今の白玉楼にはどんよりとした、まるで通夜のような空気が流れている。
桜を楽しもうとする者がそんな白玉楼に近寄るわけも無い。また、下手に騒ぎ立てて屋敷の主の怒りを買っては大変だと、幽霊たちは挙って白玉楼から離れた場所で花見を始めた。結果、白玉楼の周りには何者も寄り付かず、沈んだ空気は更に深みを増しているのだ。
この状態こそ幽霊屋敷の本来あるべき姿なのだろうが、屋敷の主の西行寺幽々子という亡霊を知っているものが見れば訝しむだろう。幽霊は明るく楽しく賑やかに、をモットーにしているような彼女である。それなのに、今の白玉楼からはそんな空気は微塵も感じられないからだ。
これは数日前、白玉楼の庭師が行き先も告げずに屋敷を去った日から始まっていた。
その日、庭師はいつも通りに起き、いつも通りに主人である幽々子へ朝の挨拶をし、そしていつもとは違い一つの申し出をした。
いわく、弟子に庭師を任せ自分は隠居したいと。
庭師の目を見た幽々子は、その申し出を驚くほどあっさりと受け入れた。
その後は早かった。庭師は二振りの刀を幽々子に預けると、孫でもある弟子に挨拶をすることなく、着の身着のまま白玉楼を後にした。幽々子は長年仕えてくれた元庭師を、ただただ静かに見送った。そうしてその背が見えなくなった後、庭師見習いだった半人半霊の少女を呼び出した。
呼ばれた少女が勇んで馳せ参じたのはそれから暫らく後のこと。先代のように打てば響くという領域には達していない、まだまだ未熟な少女だ。そんな見習いに幽々子は事情を告げる。
話が終わる頃、竜頭蛇尾の如く消沈した少女は俯きながら小さな背を更に小さく縮めていた。暫らく少女の反応を待った幽々子だが少女が動けないでいるのだと悟ると、半ば強引に継承の証である二振りの刀を握らせてその場を後にした。
この日より、白玉楼の庭師は二代目魂魄妖夢へと引き継がれることになった。
しかし、まだまだ未熟を自覚している妖夢にとってこの出来事は喜ばしいことではない。加えて、大きな屋敷の住人が三人から二人に減り、まだ幼い妖夢がただ一人の肉親に捨て置かれたという実情だ。いくら周りに壮観な景色が広がっていようとも陽気な空気が生まれようはずも無かった。
そんな状況で幾日かは元気のなかった妖夢だが、最近は以前にも増して庭師の仕事を頑張るようになった。
しかし、心が弱っている者の一心不乱さは大抵の場合において硝子細工に滅金を施したようなものである。そして、それは妖夢も例外ではなかった。今の彼女は幽々子の剣にも盾にもなれはしないだろう。
もちろん幽々子がそれに気付かないわけもない。
「出来る範囲のことをしなさい」
毎日妖夢にそう一声だけ掛けると、ふらふらと散歩に出掛けてしまう。
幽々子にしてみれば、一人にして考える時間を与えようという心積もりだったのだろう。しかし、妖夢は幽々子が思っているよりも少しばかり幼く、少しばかり直向きだった。
◇◇◇◇◇
二代目庭師として数日を過ごした今日、妖夢は幽々子を探して白玉楼を歩き回っていた。
先日挿し始めたばかりの二振りの刀が、身に余って動きづらい。更に、その重さも小さな身には少々勝ちすぎている。それでも出来るだけ見栄えよくなるようにと、いつも以上に姿勢に気をつけて歩く。
桜並木という言葉でも表せないほどの桜の中を暫らく巡って行くと、白玉楼にあるもっとも立派な桜の木の下でそれを見上げる幽々子の姿を認めた。今まで一度たりとも花咲かせることの無かった桜の木を幽々子はじっと眺めていた。
「幽々子さま、こんなところにお出ででしたか」
そう声を掛けながら妖夢は桜の木を見上げる。やはり、開花していない。この満開の桜の海の中、この桜だけが特異だった。
「あら、妖夢。もうお昼の時間かしら?」
ゆったりと振り返った幽々子はのんびりと尋ねる。
「いいえ。まだお昼までは半時ほどあります」
「いやいや、妖夢。半時早くても構わないわ」
「そういう訳にはいきません。朝昼晩と決まった時間に食べるのが健康の元になるのです」
霊の体で健康も何も無いような気もするが、食事に睡眠そして適度のお酒をとることこそ健全な冥界ライフを楽しむ秘訣である。
幽々子はふよふよと屋敷に向けて歩きながら妖夢に顔を向ける。
「それで、誰かお客さんかしら?」
しかし、妖夢はふるふると首を振る。
「いいえ。剣の修行です」
「?」
妖夢の答えに幽々子はわずかに首を傾げた。修行なら何時だって黙ってやるというのに、何の報告だろうかと訝しんでいるのだ。
しかし、すぐにあることを思い出したため、それ以上は考えるのを止めた。
「そう、頑張りなさい。私は屋敷に戻っているわ」
そう励ましの言葉を掛けた幽々子はまた前を向く。目指すは台所の棚に隠してある桜餅だ。
「待って下さい」
呑気な主を諌めるように妖夢は声を掛けた。
「私の修行ではありません。幽々子さまの修行です」
今度ばかりは幽々子も足を止め、体ごと振り返った。その眉は怪訝にひそめられている。
妖夢は気にせずに告げることにした。
「私は先日、二代目として庭師を引き継ぎました」
そうね、と幽々子は軽く返す。
「同時に剣の指南役の任も引き継いだと考えます」
そうかもしれないわね、と今度は微妙な返し方をする幽々子。
「私の方もようやく庭の手入れに慣れました。ですから、本日より空いた時間を使い、幽々子さまには剣の稽古に励んでいただきます」
妖夢の言葉に幽々子は辺りを見回す。確かに、この満開の桜の下で体裁が整う程度には片付けられている。数日前までは一区画片付けるだけで日も暮れていたというのに、驚くほどの向上ぶりだ。幽々子は溜息をついた。
先代も当代も西行寺の庭師は剣の指南役を兼ねている。兼ねているはずである
しかし、妖夢は幽々子の稽古というものを今まで一度も見たことが無かった。先代も時折声を掛けていたが、幽々子がそれに応じたことは一度もなかった。
「そうね……。今日は見て学ぶわ」
そう断わると、宣言通りに縁側へ腰掛けて人の稽古を見る。大抵その手には茶飲みを抱え、時には思い出したように一句詠むこともある。そして毎回の居眠りでその見学は終わる。
先代は先代で、そんな幽々子を諌めもしなかった。
何か事情があるのかもしれないが、このままでは指南役としての立つ瀬がないと妖夢は思う。妖夢自身まだまだ未熟ではあるが、いくらかの手ほどきなら出来ると判断して先ほどの言葉に至ったわけだ。
庭の片付けに粗も見つからず、これと言った逃げ口上も思いつかなかった幽々子はもう一度大きな溜息をついた。
「さて……。妖夢、お腹が空いたわ」
「今は稽古の時間です。早く道着に着替えてきて下さい」
あからさまに話を変えた幽々子だが、妖夢は頑として譲らない。
「はてさて、稽古着は何処に仕舞ったかしら?ちょっと思い出せないわ」
「箪笥の上に置いてある葛の中にありますよ」
「あらあら、それでは届かないわねぇ」
「届きますっ。……そんなに稽古をしたくないのですか?」
わずかに苛立ちを含んだ声で妖夢は尋ねる。
「ええ、やりたくないわ」
あっさりきっぱり言い放った。
これには妖夢も呆れて溜息をつくしかない。
「何がそんなに嫌なんです?」
「だって、疲れるじゃない。そもそも私は武術に向いていないのよ」
妖夢はがっくりと肩を落とす。下手に勘繰っていた自分が莫迦に思えた。
「それに、妖夢はまだまだ人に教えられるほど達者ではないでしょう?」
うなだれた妖夢の耳に、幽々子のそんな言葉が飛び込んでくる。それは妖夢のわずかばかりの矜持に触れた。
未熟なのは百も承知です。しかし、それを幽々子さまが言うのですか。
あげたのは声ではなく視線。だが、その視線は雄弁にそう問いていた。
「あら……」
幽々子は失言だったとばかりに扇子で口元を隠す。
見上げる妖夢の顔には怒りとも悲しみともつかない表情が浮かんでいる。幽々子はそれを見て、大きく深呼吸をした。
「仕様がないわね。いいわ。稽古をしましょう」
そう告げると、口元の扇子をぴしゃりと閉じて妖夢へ向ける。
目の前の幽々子を妖夢は呆と見つめる。
運動には向いていない普段着。長さも鋭さも刀には遠く及ばない扇子。
しかし、幽々子はそれでも構えていた。真剣な表情で妖夢を見つめていた。
妖夢は背負った長刀、楼観剣を抜き放つ。
唾を飲むと喉が鳴った。
扇子を相手に刀で斬り込む。数秒後の自分を想像して、しかし何故かそんな莫迦な光景を笑うことが出来なかった。
すっと身体が前に動く。動こうと思ったわけではなく、自然に前へ。長年の修行の成果なのか、それとも――。
考えるより先に刃は伸びていく。右上段から袈裟へ抜ける軌道。その刃先を眺めながら、ようやく心が身体に追いついた。
腕の力を抜いて寸止めの加減へ、手首を捻って刀の腹を向ける。
そこまでが精一杯だった。調整を終える頃には妖夢の刀は幽々子へとまっすぐに伸びている。
しかし、刀は幽々子に届かない。
妖夢が止めたのではなく幽々子がそれをさせなかった。くるりと扇子が舞い、楼観剣の腹に触れる。その流れに巻き込まれ、楼観剣はあらぬ方向へ逸れていった。
空を斬った自らの刀を妖夢は呆然と見下ろしていた。しかし、不意に痺れにも似た感覚を受けその身を屈ませる。
直後、頭上を幽々子の扇子が薙いでいった。
妖夢は慌てて振り向き、刀を構える。
直後にまた扇子が迫っていた。鋭い刺突。それを刀の腹で弾く。弾かれた扇子は蝶のようにふわりと舞い、再び鋭い刺突となって妖夢に襲い掛かる。
今度は身体を動かしてやり過ごした。脇を逸れた扇子を横目に、間合いを取ろうと足に力を込める。一歩の間合いでは長物である楼観剣は使えない。右へ一歩、足を踏み出し大きく跳躍。
その直前、妖夢の左腕に痺れがはしる。突きから斬りへと軌道を変えた扇子が妖夢の腕を捉えていた。
「つっ……」
刀を取り落としそうになった妖夢はたたらを踏んでしまう。
近すぎるせいで、妖夢は扇子の軌道を目で追いきれなかった。相変わらず一歩の間合いを保つ幽々子。その手を見た妖夢は冷や汗が出るのを自覚した。
幽々子はもうすでに刺突の構えにはいっていた。避けられない間。妖夢はとっさに右手で白楼剣を抜き打つ。短剣の白楼剣ならこの間合いでも振るえた。
コンと、勢いの割に小さく鈍い音を響かせ、扇子と白楼剣が交わった。
直後、幽々子は大きく下がる。妖夢の目論見とは異なったが、結果として彼女の望む間合いになった。
距離を保ったまま、幽々子は扇子を、妖夢は左腕を、それぞれ確認する。どちらも異常は無かった。正対する二人は共に無傷。しかし、心身ともに妖夢の方が弱っていた。
妖夢は幽々子を呑気な主だと思っていた。弾幕でも本気の手合いでも分があるとは思わないが、こと剣術においては自分に分があると信じていた。だから、自分が剣術を使って彼女を守るのだと信じていたのだ。
しかし、それがただの自惚れだったということを悟らされた。
先ほどの打ち合いで、一刀どうしの勝敗は決していた。ならば、二刀で勝負を掛けるしかない。そこに勝機があるかもしれない。
憶測に過ぎないのは重々承知と、妖夢は腹をくくって二刀の構えを取った。
対する幽々子は左手を懐に滑らせ、もう一本の扇子を取り出した。そして構える。二刀の構えだった。
模したように同じ構えで、二人は向き合っていたのだ。
妖夢は深呼吸を一つし、気持ちを落ち着ける。扇子だからと侮れないのは身に沁みて理解した。師匠と稽古するつもりで気合をいれる。
「いきます」
妖夢は静かに告げ、地を蹴った。
大きく一足、二足、三足目で楼観剣の間合いに入った。妖夢は距離を活かせる突きを放つ。それを幽々子は横に避ける。幽々子の体を追うように、楼観剣は横に流れた。先程と逆の立場だ。
しかし、楼観剣は扇子に流され弾かれた。
妖夢は気にせず、更に一歩詰めながら白楼剣を突き上げる。
幽々子は左手の扇子を白楼剣の腹に添わすと、横向きに力を加えて軌道を変える。
白楼剣は流れるに任せ、楼観剣を振るう。刃先が地に触れそうな低い薙ぎ。
これは跳躍によってかわされた。しかし、楼観剣が幽々子の下を通る頃には白楼剣流れは止まっている。突き上げからの返しで袈裟に斬り下ろす。同時に楼観剣を返し右下から左上へ斬り上げる。
同方向段違いの刀を流すのは流石に無理がある。回避が出来るのは後方のみであり、地に足が着くのはわずかな間。長さのある楼観剣を避けきるのはほぼ不可能。避けきったとしても姿勢は崩れる。そこまで持ち込めば詰みだ。
少なくとも、妖夢はそう思った。
しかし、幽々子の表情に変化は無い。跳んだまま右手を前に差し出し、扇子を広げた。一瞬妖夢の視界が塞がれるが、すぐに扇子は動き白楼剣に近付く。
つっと音を立てながら、白楼剣は扇子の和紙にその身を沈める。続いてパチンと扇子が閉じられた。幽々子が扇子に捻りを加えると、骨に挟まれた楼観剣は上から下へ真っ直ぐに軌跡を描く。
妖夢の右腕もそのまま下へ流され、振り上げようとしていた左腕を上から押さえ込まされてしまう。
すっと幽々子が大きく踏み込む。左腕を後方に、刺突の構えだった。
両腕が交差し身動きを封じられていた妖夢に避けるすべは無かった。
ドンッと、妖夢の鳩尾に扇子が突き刺さった。その勢いに体が後方に吹き飛ばされる。
数回地面を転がり、ようやく妖夢の体が止まった。
「……っ……はっ」
妖夢は思うように呼吸が出来ず、塊を吐き出すように身体を震わせる。
「もう、終わりにしましょうか」
妖夢を見つめながら幽々子が提案した。
「ふっ……ぅ」
妖夢は呼吸を整えながら首を横に振る。そして近くに落ちていた二振りの刀を拾い上げると、白楼剣だけを鞘へ戻した。
「ふぅぅ……っ。最後に、もう一本だけ、お願いします」
すでに、幽々子への指南ではなく妖夢への指南になっていた。妖夢もそれに気付いていた。だから、妖夢はもう少しだけ続けたいと思ったのだ。
幽々子は諦めたように溜息をつき、左手の扇子だけを懐に仕舞う。妖夢が一刀に変えた理由を幽々子は察したのだ。
「本気ね」
「はい。よろしく、お願いします」
わずかに言葉を交わした後、妖夢はやや乱れた呼吸のままに駆け出した。
一気に詰まる二人の距離。楼観剣の間合いまで後数歩といったところで、妖夢は地を踏みしめ、立ち止まる。そして、力を込めて刀を握る。
「はああああっ!」
スペルカードにもしていない、純然たる剣技。それでも、気は宿る。
妖夢の声に呼応するように刀身へ気が宿っていく。宿った気は更に勢いを増し、新たな刀身となって伸びていく。
幽々子も扇子を持つ手に力を込める。同様に気が宿り、刀身となって長さをもつ。
扇子に宿った刀身は妖夢のそれより更に長く、そして太い。
二つの大剣が互いの間合いを必中のものへと変えていった。
互いを見つめる視線は鋭く、それだけで力を持とうかというほどの勢いで交差している。
共に、渾身の一撃とばかりに腕を大きく振りかぶる。
空気が震え、風となって二人の間を荒れ狂っていた。
「――冥想斬!!!」
「――迷津慈航斬!!」
技の名前を叫び、二人同時に振り下ろす。
斬り下ろされる刃は更に刀身を伸ばし、風を斬りながら二つの刃が天地を繋いだ。
一瞬の拮抗と交差。
しかし、幽々子の方が勝っていた。
上から叩き付ける衝撃が妖夢の身体を襲い、次の瞬間にはめくり上げるように妖夢の身体を後方へ吹き飛ばした。
幾ばくか空を舞った後、妖夢は背中を地面へしたたかに打ち付ける。それでも勢いは止まらず、再び身体を宙に跳ね上げる。
妖夢の意識はそこで途切れた。
◇◇◇◇◇
妖夢が目を覚ますと、そこは白玉楼の縁側だった。
長閑だった春の日差しも、今は空を橙に染める程度で空気も薄寒くなっている。
そんな中、縁側に腰掛けた幽々子は膝の上に妖夢の頭を乗せていた。
「ゆ、幽々子さまっ?!」
意識の覚醒した妖夢は慌てて主の膝から頭をどかそうとする。
しかしそれよりも早く、幽々子の手が妖夢の頭を優しく押さえた。
「もう少し、このまま……」
それだけの動作で妖夢は動けなくなった。
身体中、どこと言わず痛みがはしり、その上疲れも相当溜まっている。幽々子との一戦だけでなく、ここ数日のオーバーワークもたたっていた。
妖夢は幽々子の言葉に甘えることにした。
幽々子の手が妖夢の髪を頬を優しく撫でていく。冷たいはずのその手が、とても温かく感じた。
それを感じると同時、妖夢の胸に後悔の波が押し寄せてきた。
丸腰の相手に真剣で向かうなど、あるまじき行為。
一刀の相手に二刀を振りかざすなど、あるまじき行為。
主人を相手にとっておきの大技を使うなど、あるまじき行為。
今日の自分は主にどれだけの無礼を働いたのか、それを考えると逃げ出してしまいたいほどに後悔の念が湧き上がってきた。
「申し訳、ありませんでした」
妖夢は胸の内を滲ませるように、謝罪の言葉を告げた。
「何を謝る必要があるの?お昼ご飯が抜きになったことかしら?」
相対した時の鋭さなど嘘のように、幽々子はのどかな声で尋ねる。
自らの口で言うことで反省させる。幽々子の言葉をそう受け取った妖夢は自分の行動を省みていく。
「……先ほどの、稽古のこと――」
「だから、それは稽古でしょう?妖夢は修練した技術を最大限に使っただけ。それを謝る必要は無いわ」
妖夢の言葉を遮って、幽々子はあっさりとそう告げた。
妖夢は束の間、しかし、深く反省すると、それを心の奥底に仕舞いこんだ。
主が不問にすると言った。だから、これ以上は言うまいと心に決める。
それきり、二人の間に穏やかな時が流れていく。
「ねえ、妖夢?」
暫らくして、幽々子が優しい声でそう呼んだ。
「はい?」
返事をした妖夢に幽々子は尋ねる。
「すっきりしたかしら?」
その言葉で、今日に限って幽々子が稽古に応じた意味を、妖夢は理解した。
同時に、それほどまで自分は落ち込んでいたのかと考えると、恥ずかしくもなった。
妖夢は幽々子と視線を合わせないようにしながら、今の気持ちを考える。
「……分かりません」
それが、妖夢の正直な答えだった。妖夢自身、自分が落ち込んでいるとは思っていなかったのだ。
「そう」
幽々子は妖夢の答えに頷くと、空を見上げる。
「私は……、私はすっきりしたわ」
そして、そう告げた。
妖夢は目を見開いて幽々子を見上げる。
しかし、茜色に照らされた幽々子の顔は妖夢の位置からでは見えない。
そうか、この人も――。
妖夢はそう思うと、今見上げている景色を目に焼きつけ、自分の未熟さを自覚する気持ちと共に心にはっきりと刻み込んだ。
幽々子を見上げながら、妖夢は静かに告げる。
「私は、まだまだ未熟です」
「そうね」
幽々子は穏やかに頷くと、続けて言葉を紡ぐ。
「何十年か何百年か、そんな昔にあなたの師匠から剣術を習ったことがあるの。でも、結局私は歌を詠む方が向いていて、途中でやめてしまったわ。だから私が使えるのは見かけだけの物。あなたはまだ、それにも及ばないほどに未熟だわ。そう、まだ、ね」
まだ、と強調して幽々子は言う。今は未熟でも、いつかは立派な庭師を務めてみせれば、それでいいのだと。
妖夢は深く目を閉ると、心の中で誓いを立てる。いつか、立派な庭師へと。
閉じたまぶたの上に幽々子の手がそっと覆いかぶさる。
「……妖夢」
幽々子は暫らくためらった後、妖夢に尋ねる。
「……あなたは、ここに居てくれるわよね?」
目を開けた妖夢には幽々子の掌以外、何も見えなかった。
幽々子の表情は見えない。幽々子が自分の表情を見ることもない。
だから、はっきりと自分の答えを口にすることにした。
「もちろんです。私はどこにも行きはしません」
そっと幽々子の手が妖夢の顔から離れた。
見下ろす幽々子と見上げる妖夢の視線が交じり合う。
潤みをおびた互いの瞳に、相手の笑い顔が浮かんでいた。
◇◇◇◇◇
翌日、妖夢は幽々子の新しい扇子を買うため、人間の里まで出掛けていった。
一人残った幽々子は白玉楼の一室に赴いていた。先日、主の居なくなった部屋だ。着の身着のまま出て行ったというのに、その部屋には私物一つ残っていなかった。
がらんとした室内の一角に、幽々子は使い慣れた扇子を飾るように置く。開かれた扇子には空を舞う数匹の蝶が描かれ、その一部に昨日の切り傷が残っていた。
それを眺め、幽々子は満足そうにその部屋を後にした。
いつの日か 庭師が贈りし 扇あり
今はその身に 彼の跡残す
温かい眼差しで妖夢を見守るゆゆ様・・・・
永久に・・・・あれ。
そんなゆゆ様が出てきたら、鼻血出して喜びますとも!!ええ!!
庭師二人とお嬢様の間柄を楽しんでいただけたようで幸いです。
また、期せずして某キャラのようになってしまいましたが、楽しんでいただけたようで胸を撫で下ろしています。
最後に、誤字脱字等ある文に評価くださった皆様にお詫びと感謝を。
最後の短歌、補足説明せずとも意味はしっかりと読めました。
すらすらと読めて、よかったです。
剣と扇の対決いいですね