日が落ち月が昇ったその夜、我以外が我の下を訪ねた。
我はいつものように我以外に語りかけるが、我以外から返る言葉にはどこか、覇気がない。
どうしたのかとどこかしらを訝しむが、そのまま我は会話を続ける。
面白くない。初めて我はそう思った。
我が問いかけても我以外は上の空で、それまでのように我以外の言葉が我を振るわせることがない。
何かあったのか。そう訊いた我の言葉に、我以外は身を震わせた。
漆.あまねく夜光の下に -魂魄妖忌-
野を蹴散らし崖を乗り越え、丘を一気に駆け登るとそのまま勢いを利用して、巡る塀を一足で飛び越す。
大層な音を立てて中庭に降り立つと、白砂が敷き詰められた広い庭の中程に、白光を受けて影濃くぽつりと、小袖に身を通した女性が一人、横たわっていた。まだ若い女中で、後ろ姿を見ただけで誰だか判別がつくほどに良く会う顔だ。
慌てて駆けつけ抱き起こし、そこで俺は硬直した。
声をかけるまでもなかった。
体はまだ暖かいが、こちらの行動にぴくりとも反応を示さない。ずり落ちるように、俺の膝から再び地面に降りる腕。
白光に晒された彼女は、仏のような、穏やかな寝顔だった。
そっと、無言で彼女を地面に横たえる。
立ち上がり改めて目を凝らし周囲を見渡すと、月夜の下、濃い影を落として至る所に人が横たわっていた。
その誰もが、苦悶一つ見えない穏やかな笑顔を讃えている。
唇を噛み締め、俺は再び大地を蹴る。疾走。全力で、春雷のように天を照らす一角を目指して走る。
まき散らされた幻想の蝶、それに呼応して姿を消した八雲紫、降りた街を埋め尽くすまだ暖かい死体。不意に湧いた人外は斬ると全てが例外なく全てが蝶に変わり、それら有象無象を斬り捨てようやく辿り着いた西行寺邸では、累々と野に晒す屍を地面から突き動かすような地響きが轟音と共に伝播する。
嫌な予感、いや、これは確信だ。まず間違いなく、事態は最悪の方向に収斂しようとしている。
同時に、俺の勘はこれがまだ底辺ではないと告げている。城下一帯を一瞬にして無人にかえ、かわりに無数の人外が徘徊するようになったこの状況がまだ、最悪ではないと告げているのだ。
噛み締めた唇から錆びた鉄の味が広がる。この訳の分からぬ状況で今、俺にできることといえば、こうして全力で大地を駆けることだけだ。少しでも早く、お舘様の所へ。少しでも早く、お嬢の所へ。余りにももどかしい。
また瞬く光、そして何度目かの爆音。これだけ離れていても、嵐のように衝突し渦巻く巨万の妖気が荒れ狂い、逆巻きながら傍らを吹き抜けていく。間違いない、誰かが何かと闘っている。そして庭を走る俺が向かうこの方角は――
一昨日は、共に梅の花を見ながらあわせ詩に興じていた。綻ぶ桜の蕾を待ち焦がれながら、散りゆく梅の花を惜しんで。
昨日は、実に久しく払いの業に出た。いくつか失態を演じたものの、取り立てて大事に至ることなく事を治めることが出来た。
今日は、ご友人の検分を行った。悪い虫であれば追い払わねばならなかったが、そこに見える笑顔は確実に充実したものだった。
今の今まで、取り立てて事もなく穏やかな日常があったはずだ。
それがなぜ、こんな事になってしまったのか。
爆風に舞う梅花、地響きに落ちる椿、妖気に散る馬酔木。近づくにつれて、暴虐の香りが嗅覚を刺激する。
ようやく視界に収めることが出来る距離まで近寄った。遠く、夜の闇にぼんやりと浮かぶのは、朧気な光を発する数多の蝶を纏った一本の巨木。慣れ親しんだはずの遠景に酷く違和感を覚えるのは、間違いなく周囲を覆う結界が認められないためだろう。
やはりそうか。何があったか知らないが、西行妖の封印が解けたのだ。おそらくそのせいで皆は――
「避けなさい、魂魄妖忌!」
叩き付けるような声と圧縮する空気に反応して咄嗟に横に飛び地を転がると、一瞬後、耳をつんざく破裂音と共に俺の立っていた位置が深々と抉られる。
一転した視界を脳内で補正すると、遠く西行妖から七つ七色の霊気弾が放たれた。移動して射線から身体をずらしても、ずらした分だけ恐ろしい精度で軌道を修正してくる。間違いない。昨日、お嬢が人外をしとめたあの術だ。
その絶対的な性能を知る以上、腹を決め俺はその場に足を止める。あれだけの誘導性を持っている術に対して、下手な小細工は足掻くだけ無駄だ。
まずは恐ろしいほどの直進速度でこちらに迫り来る第一弾と、それに覆い被さるように牙を剥く第二弾。
間合いは三間……、二間……、一間!
特殊な歩法を用いて、俺は高速で爆ぜるように横へと位置を変える。入れ違うように、俺を追い切れない緑の霊気弾が地面を抉った。
だが、第一弾の直下で俺の制動を伺っていた紫の第二弾が軌道を修正して牙を剥いた。きわどい間だ。更に身体を横に振り、半身になることで辛うじて第二弾をかわす。弾が脇をかすめる感触と共に、陣羽織の端がごっそり持っていかれた。
紙一重の防戦が続くが、息をつく暇はない。今度は左右から、紅い第三弾と蒼い第四弾が迫り来る。丹田に練った気はまだ辛うじて残っているものの、体勢は先程の移動で重心を下に溜めたままだ。加えて、左右からの同時攻撃。
上に……逃げるしかない! それが正しいかどうかを判断している間すらない。俺は貴重な気を脚に巡らせ、霊気弾とすれ違うように上方へと跳躍する。
お互いに衝突し姿を消した三、四ときて、次は黄の五。それと重なるように藍の六。
今ある位置から移るには余りにも間が早すぎる。歯ぎしりしながら、一か八かで腰の大小を抜く。
正面から俺を飲み込もうとする霊気弾。その中心に、全力で気を込めた二刀のうち大刀を突き刺し、根本まで埋まった頃合いを見計らって込めた気を爆発させる。
願ったり。霊気弾は哀悼の刀身を道連れに景気よく爆砕して姿を消した。
荒れ狂う霊気と千々に砕けた刀身が混じり合って、俺に細かな無数の傷を付ける。体勢を崩しながらも、獰猛に俺を食らいつくさんとする第六弾に逆の小刀を突き刺し、先程と同様に込めた気を解放。
我が愛刀と共に砕け散る霊気弾。だが、刀身の短い小刀では完全に威力を相殺するまでにいたらず、爆発の余波に俺はきりもみして空中に投げ出された。
使用できる気は底をついた。再び使用するにはもう一度、気を練り直さなければならない。
長年連れ添った腰を飾る大小も、風塵に帰した。残ったのは、鍔より下の握りだけ。
そして空中で体勢を崩してしまっては、為す術もない。
そこに、悠々と殺到する橙の第七弾。
まるで、俺の回避行動を計算し尽くしたかのような弾道。完全に詰みだ。
俺はこのまま何も為せず、皆の後に続くのか? まだすべき事は多く残されている。こんな所で朽ちるわけにはいかない!
何か、何か手はないのか。
だが、その俺の心情をあざ笑うかのように、刻一刻と霊気弾は距離を狭める。
万事休すか。俺の思考に諦観がよぎったその時、視界を埋め尽くすかのような霊気弾の前に、忽然と人影が割り込んだ。
直後、耳障りな甲高い音と共に閃光が俺の視界を焼き尽くす。そんな中、視覚と聴覚を殺された俺の脇を、誰かが抱える感触。一瞬後には、空中にあった俺の浮遊感が消え、身体が大地に横たえられた。
かすれる視界を叱咤し痛む目を開けると、まず最初に、帽子に包まれ絹糸のような金髪を捕らえた。
「八雲紫……?」
庭園の一角、妖気に当てられた芍薬が悲しく散る池の畔。俺と八雲紫の二人をしっかりと覆い隠す庭石の影から、彼女は油断なく西行妖を伺っていた。
その身体からは、ごくわずかながら先程感じられた妖気の残滓が感じ取れた。
衝突していた巨大な二つの妖気のうち、一つは間違いなく西行妖。そして、残る一つがこの八雲紫。
間違いない。この女は全てを知っている。もしくは、この女が全ての元凶なのか。
俺は庭石に背を当て西行妖を監視している八雲紫の胸ぐらを掴んだ。
「おい、説明してもらおうか。これは一体どういう事だ」
そのままこちらに引き寄せ、乱暴にその身を揺する。
「お嬢は無事なのか!? お舘様は!? この惨状は一体どういう事だ!?」
対する八雲紫の表情はどこまでも冷めたもので、屍の山にあって憐憫の一つすら浮かんでいない。それが、俺を二重にいらだたせる。やはり、妖怪は妖怪、人となれ合うことなどあり得ないのか。お嬢に見せたあの表情も全て偽りの仮面、二心あってのことだったというのか。
「答えろ! 八雲紫!」
目を剥き牙を剥き、人形のような顔をした八雲紫に詰め寄る。
余りの反応のなさに苛立ち、余った手で肩を掴み上げると、掌をなま暖かいぬめりを帯びた液体が湿らせ滑らせた。
眉をひそめてたなごころを開くと、一面にべったりと真紅の光沢が夜光を受けてなまめかしく輝いている。
改めて八雲紫を見ると、だらりと、肩口から袖を無くした着衣の下には、無惨にも切り刻まれた左腕がじくじくと血を滲ませ、力無く垂れ下がっていた。
唖然と腕を見つめる俺の視線に気づいたのか、八雲紫は能面のような顔で裂傷にまみれた腕を一瞥し、そのまま右の掌を肩もとに当てると、妖気を込めて何の躊躇もなく左腕を根本から切り落とした。
重い音を立てて砂地に落ちる物体となった腕。湿った音を立てて血を吹き出す傷口にまた右手を当てると、今度は短く肉の焦げる音が耳朶を打った。
白砂を染める血が、止まった。
瞬く間に隻腕となった妖怪は、冷めた視線で傷口を一望した後、再び視線を俺に戻す。
「余り時間はないけれど、説明を御所望かしら?」
益荒男であってすら目を見張るその荒療治を表情一つ変えずやってのけた手弱女は、氷のような美貌を気後れ無く俺に突きつける。
逆に、それを見て些か頭を冷やした俺は、辛うじて首を頷かせた。
「予想はついていると思うけれど、西行妖が目覚めたわ」
八雲紫の言葉は何よりも簡潔で、一言を以て全てを明快にした。
思考が暗転する。西行寺が再び闇に落ちたことを示す、予想通りの告知。
「領民は諦めなさい。致死の甘味から逃れた者も、夜が明ける前に蘇った妖怪の餌食でしょう」
やはり、西行妖の仕業なのか。口伝に聴くその危険性は、決して誇張ではなかったのだ。
「……蘇った……、妖怪とは……?」
「西行寺が討った、あるいはそれ以外でもなんでも。強い情と力が残った者は人間であれ妖怪であれ、蘇り遺恨を晴らすでしょうね」
「……それが、あの町中の惨状か。だが、城下を抜けた際には悲鳴の一つも聴かれなかった。それは何故だ?」
「西行妖は生ある者を例外なく、死に誘う。人だろうと畜生だろうと、はては植物から鉱物、恐らく世界すらもね」
「その中で、人だけが死に妖怪だけが生き残るのは……?」
「その違いはないわ。人だろうと妖怪だろうと、死ぬ者は死に蘇る者は蘇る。その対象が静物ではなく動物に絞られているのは……、長くなるから省くわ」
「……それでは……」
「ええ、西行寺邸を中心に城下一帯から山一つ越えた辺りまで、完全に無人となったでしょうね。西行寺郎党も例外なく、彼岸に渡ったわ」
音がするほど、拳を握りしめる。丘で見た、あの蝶が舞い散った一瞬のことだったのだろう。俺も誘われたから分かる。その一瞬で、全てが終わってしまったのだ。
「ただ、例外が一つだけある」
感情のない声に促されて、俺は悔恨にまみれた顔を上げる。
「西行寺幽々子、彼女だけはまだ、この此岸にある」
「何だと!?」
再びつかみかかった俺の手を制して、八雲紫はそっと体を離した。
「本当よ。所在までは分からないけれどね」
絶望視していたお嬢が生きている。俺にとってはこれ以上にない朗報だ。
完全に萎えて朽ちかけていた忠心に、再び火が入る。それさえ分かれば、俺がまだ生き恥を晒す価値はある。
生きる理由は得た。後一つ、この場で明らかにしておかなければならない肝要な疑問が残っている。
「お前は……味方か?」
それは問いというよりは確認に近い響きになった。俺は彼女を信じたい。深い傷を負った幼少より他人との関わりを畏れるようになったお嬢が、あれほどに心を開いた彼女のことを。
だが、帰ってくる彼女の声はどこまでも冷たい。
「さあ? あなたにとって何が敵であるかは分からないけれど、少なくとも、あれを放っておくつもりはないわ」
「……西行妖を敵としている点で、利害は一致しているという意味か……?」
「いいえ、今の西行妖は、私一人では到底、討つこと叶わない。どうにかしたいのなら、あなたと私が協力する以外に打つ手はないの」
「……選択の余地は無しか……」
「逃げるという選択は?」
「問われるまでもない」
初めて、八雲紫の表情が崩れた。まるできかん坊に呆れかえる姉のような顔。苦笑し、唯一残された右手を口元に当てる。
それを見て、俺も破顔する。未だ疑問は数多く残されているが、この死地にあって、お互いの意志は統一された。
西行妖を打ち倒し、お嬢を救い出す。それが魂魄としての俺の役目だ。
固めた拳を掌に打ち付ける。さあ、戦闘再開だ。まずはあの大木を切り倒す。
「これを使いなさいな」
そんな俺を見かねたのか、八雲紫が口元に当てていた右手でふっと虚空を撫でると、どういう仕組みかその軌跡に沿って空間が裂けた。
目が痛くなりそうな極彩色を奇妙に変化させるその空間から現れたのは、大小一式の刀。
「いくらあなたでも、あれを相手に徒手空拳はないでしょう」
亀裂が入った空間から柄を覗かせている二刀のうち、大刀を握るとこちらに差し出してくる。
「それは?」
長さは三尺を超える黒漆の長刀。飾り気も何もなく、その拵えは鐺から頭に至るまで無骨なまでに黒い。
「妖怪が鍛えし刀。銘を楼観」
手渡された重みを確かめながら、俺は柄に手をかける。途端、身体の霊力を吸引される強烈な虚脱感に襲われて、慌てて手を離した。
重い音を立てて地面に落ちた楼観が、月光を反射して妖しく二色に輝いている。装飾のない拵えが、かえって不気味だった。
「銘刀どころか妖刀の類だけど、あなたなら扱えるでしょう」
無茶を言ってくれる。鞘に入ってあの感触では、抜き身を常人が握ればそれこそたちまちに身の霊力を搾り取られ、灰燼と化すだろう。先程の一瞬の感覚を思い出し、じっとりと汗が浮かんだ掌を握りしめながら、俺の反応を楽しむように微笑を浮かべている八雲紫を睨む。煮ても焼いても喰えなさそうなこいつのことだ、間違いなく、俺の出方を待っているのだろう。
妖刀か。……面白い。この程度のじゃじゃ馬、即座に扱いこなせねば西行妖を斬るなど夢の果てだ。
転がった楼観を持ち上げ下緒を腰にしめた所で、満足したように一度頷いた八雲紫が残った長脇差を差し出してくる。
「逆に、こちらは楼観に比べれば幾分か扱い易いはずよ」
今度はうってかわって、装飾が一切無い白木の美しい脇差しである。
受け取り慎重に柄を握ると、楼観とは異なりこちらはぴんと緊張が張りつめた。そのまま扱っても危険はないと判断し、すらりと抜き放つと、音がないはずのこの空間で白楼が、夜光を反射し甲高い音に変える。
「迷津を解き絶つ霊刀。銘を白楼」
左手に納まった白楼の感触を確かめながら、先程、躊躇った楼観を握り、勢いをつけて抜き放つ。意識を絞り、俺の霊気を吸い尽くそうと獰猛に牙を剥く本性を押さえ込むと、完全に制御下に置く。
利き手の楼観、逆の白楼。それぞれが激しい自己主張を繰り返しながらも、まるで長年連れ添った恋女房のようにしっくりと俺の掌に収まった。
分かる。この刀たちの使い方が。どのように使われたがっているのか。どのような生き場を求めているか。霊気を巡らせた歓喜の胎動から、全てを感じ取ることが出来る。
「すぐにいける、魂魄妖忌?」
その問いに、獣のような笑みを返すことで答える。
微笑しながら八雲紫の指が再び虚空をなぞると、今度は俺たちの足下が落ちた。
先程、刀を取り出した極彩色の亜空間に取り込まれたかと思うと、一瞬後には視界が回復する。
眼前に、巨木の樹皮があった。見慣れたはずの今にも剥がれ落ちそうな、ひからびてひび割れた樹皮ではなく、瑞々しくどこまでも果てしなく続いている若々しい木肌。
落下の浮遊感に体制を整えながら、俺は頬を引きつらせる。すぐにいくとは、文字通り直下直行か。確かに、離れた間合いから挑めば先程の俺のように容易く迎撃されてしまうだろうが、だからといってこれはないだろう。
一言くらい説明しろと軽く毒づきながら、落下の勢いを乗せて着地地点、西行妖の根に斬りつける。
新入りの二刀は想像以上に秀逸で、ぎっしり水分と妖気が詰まった根を地面ごとなますのように切り分けた。
直後、西行妖から巻き起こった衝撃波で身体を飛ばされながらも、俺は確信した。いくら永きを生きた西行妖といえど、その存在は妖以上でも妖以下でもない。そこには人間と同じように意志があり、感情があり、それらがあれば間違いなくつけいる隙もある。
いける。あの誘導弾は速度を稼ぐ為に一度、対象から距離をとる。これだけ間合いが近ければそう易々と当たるまい。
空中で姿勢を立て直し、後方への運動を殺しつつ着地する。戦闘の場に宙を選べば、全方位からの射撃に対応しなければならないし、移動に際していちいち霊力を消費する。それなら、前方後方上方に気を払うだけですみ、かつ脚で移動が可能な地面を選択したほうが賢い。
そして猛進。距離が開けばそれだけ西行妖の優位となる。倒れるつもりなどさらさらないが、倒れるのなら西行妖ごと道連れだ。
詰まる間合い。唯でさえ巨大な樹木が見る見るうちに大きくなる。目指すはその根本、その幹。
今宵、何の理由もなく無辜なる命が一瞬にして無数に奪われた。昨日、事態の解決を見て喜びを露わにしていた領民を思い、歯を軋ませる。
城下、初代西行寺が命をなげうってまで封じた功績が認められ、ときの御門より賜った領地。森を拓き川を灌漑し、決して軽くない労役を課せられながらも笑顔を絶やすことなく街を興してきたもの達。今日までの西行寺を彩る城下が、今は見る影もない。
そして、魂魄が護るべき西行寺はその血を絶やす寸前にまで追い込まれている。
この、目の前の西行妖によって!
さあ、数多の命を貪った妖怪桜よ。領民の恨み、屋敷のものの悔い、お舘様の無念、思い知るがいい!
地面が音を立ててめくり上がり、そこから木の根が迫り上がって俺の脚を絡め取ろうとするが、瞬く間に寸断される。俺を死に誘おうと無数の蝶がばらまかれるが、俺に触れる前に全てが耳障りな音を立てて消えていく。
八雲紫。
何がしがない結界師だ。この西行妖相手に自身を護りながら他人を庇いきるなど、希代の結界師でもなしえないことだ。宙に浮かび、残像すら浮かびそうな勢いで印を結び続ける隻影を盗み見る。隻腕となってもその戦闘能力は計り知れない。
背後はまるで問題ない。この偉大な妖怪が西行寺についている以上、俺の成すべきはただ一つ。
駆け様、楼観を鞘に収め、利き手に白楼を持ち直し、頭を左手に握りしめる。
応えろ。そして刻みつけろ。
全力で霊力を流し込むと、歓喜に白楼が震えた。瞬く間に短い刀身を蒼銀に輝く強い光で鎧い、その長さを五尺にも六尺にも伸ばしていく。
今や物干し竿と化した白楼を担ぎ、大地が震えるほどに踏み込んで、西行妖に向けて逆袈裟に振り下ろした。
西行妖が纏う妖気と白楼とが正面から激突し、目がくらむほどの火花を散らす。少しでも気を緩めれば、剣どころか体ごとはじき飛ばされてしまいそうな妖気の圧力に俺は歯を食いしばる。
拮抗する力と力。俺が更に踏み込めば、木の根が盛り上がりそれを阻む。体ごとねじ込めば、西行妖が妖気で押し返す。
一進一退。盛り上がる背筋。浮き上がる汗。早春の肌寒い空気に、荒げた息が白む。
力業なら、より妖力の大きい西行妖が有利か。一旦離れ、しきり直そうとした所に怜悧な響きを持った八雲紫の声が場を制した。
「西行妖を斬りなさい、魂魄妖忌」
それを合図として、西行妖の周囲に巡らされた可視できる程、濃厚な妖気が揺らぎ、薄らいでいく。
初めて、西行妖に感情らしき感情を見て取ることが出来た。風のない夜に梢を揺らし、根が這う大地を蠢動させる。
いける。今一度、白楼を担ぎ直し丹田に気を練ると、薄まった妖気の層を全力で俺は突っ切る。
妖気との摩擦で肌に無数の裂傷が生まれる。妖気そのものが意志を持って俺に絡みつき動きを阻もうとする。
だが、俺の意志を絆すものは何もない。ただ一つ、己が決意の元に、全力で手の内の白楼を振り下ろす。
ひときわ眩しい火花が上がると同時に、確かな感触が俺の手元に伝わった。全力で白楼を振り抜き、人が手を繋いで十人連なっても囲いきれないほどの巨木を、一刀のもとに半ばまで両断。封印されていた時の姿からは想像できないほどに瑞々しい木肌と年輪が外気に晒された。
いける。もう一太刀で完全に切り落としてくれる。下におろした白楼を持ち上げるのももどかしく、俺はそのまま白楼を手放すと、納刀された楼観の柄を握り回り込みながら鞘走らせた。
これで終わる。今宵、繰り広げられた悪夢も、長き西行寺の確執も、全てが幕引きとなる。さあ、西行妖よ、その呪われた生に終焉を告げてやろう。
鯉口から滑りぎらりと肌を現す楼観は、霊気を帯びて架空の刀身を作り上げた白楼と異なり、食い込む樹木のより確かな感触を俺に伝えてきた。
終わった。
俺が後方にはじき飛ばされたのは、そう確信した瞬間だった。何が起きたかも理解できず、受け身もそこそこに地面に叩き付けられ、勢いで激しく転げ回る。
朦朧とする頭を振りながら膝をつき立ち上がると、そこに蝶が襲いかかった。奇跡的に取り落とさなかった楼観を振るい、辛うじて身体に触れる直前でたたき落とすが、怒り狂ったかのような西行妖からの反撃は容赦なく続く。無秩序にばらまかれたかのように見える美しい蝶が、ゆっくりとだが確実に軌道を変え、俺に向かって殺到する。
どうにか事態を理解しようと、楼観を振るい弾道から身をかわして防戦に徹しながら周囲に注意を向けたその間隙を縫って、凄まじい速度で地面に衝突した何かが足下を揺らし、俺の横を通り過ぎていった。そして勢いは止まらず、その何かはそのまま西行妖に叩き付けられる。
幹に釘付けとなったのは、後方で宙にあったはずの八雲紫その人。露出の少ない肌は愚か、衣服の所々が切り裂かれ、そこから真紅の液体を滲ませている。
後ろで何かあったのか。振り返ろうとしたその矢先、背筋を駆け上る悪寒に俺はその場を飛び退ると、抜け様、入れ替わった身体の位置に渾身の楼観を叩き付ける。
甲高い金属音が闇夜を切り裂いた。
新手か。いくら西行妖に集中していたとはいえ、背後に回られておきながら、妖気霊気は勿論のこと、気配すらまるで感じられなかった。寸前で攻撃に気づいたのは、唯の運と勘に過ぎない。
西行妖からばらまかれる蝶や霊気弾に的を絞らせないよう懸命に立ち位置を変えながら、挟撃を恐れて更に後ろに下がる。
どうする、八雲紫を救って退くか!? だが、彼奴らを放置すればそれだけ被害の数が増える。それに、領土一帯が西行妖に掌握されている以上、退く所などどこにも――
「魂魄妖忌! 斬りなさい! 彼女はもう――」
八雲紫の悲鳴に近い絶叫は、途上で遮られる。幹から伸びた枝が剣となり針となり彼女の全身を刺し貫くと、まき散らした鮮血ごとほかの無数の枝が彼女を絡め取り、周囲を取り囲んだ。姿が見えなくなるくらいに枝が絡まったあと、最後にその枝が崩れるようにどろりと融けて樹皮となり、八雲紫のあった場所は大きな瘤となった。
だが、俺には目の前の事実からほかに気を回す余裕などまるでなかった。両手から力が抜け、膝が震え、意識が目の前の現実を全力で否定する。
「……お嬢……?」
微風にそよぐ栗色の髪。鬢は似合わないからと、いつも下げたままでいた。子供の気質がいつまでたっても抜けないとお舘様などはよく嘆いていたが、俺はそんなお嬢の髪が好きだった。
強い意志を秘めた鳶色の瞳。いつもくりくりと動いて、苦しい時も悲しい時も他人には弱い所を見せない。だが、俺は知っている。哀しみを堪える時、お嬢の瞳は決まって美しく揺れる。そのくせこちらから目をそらさず、頑なに認めようとしないのだ。
見るものに安堵と勇気を与える顔。昔は憂いが多かったが、この頃はよく笑うようになった。特に八雲紫と出会ったであろうこの数週、気負った所もあったが、お嬢の顔は概ね笑顔に満ちていた。
「……お嬢……」
野放図に乱れる髪。力無くよどんだ瞳。半開きの口に緩んだ頬。垂れ下がった腕には、血の滴る鉄扇が握られている。
殺気がないどころか、あれだけ輝きに満ちていたお嬢の身体からは生気そのものが感じられない。
嫌に口が渇いた。背筋に汗が浮かび、熱する皮膚の表層と反比例して、身体の芯が凍えて震える。
そうなのか?
解かれた封印。一瞬で奪われた無辜なる無数の命。蘇った人外と西行妖。
その発端がそうだというのか?
違うなら、そうといってくれ! 違うと、いつものようにぴょんと跳ねて、逃げるようにからかうように否定してくれ!
「お嬢!」
お嬢の足下が地を離れ、浮き上がる。こちらには一瞥すらくれず、一直線に西行妖へと向かうお嬢を追って、俺は走る。
吸い込まれる様に、小さくなっていくお嬢。いや、錯覚ではない。西行妖に近づけば近づくほど、お嬢の身体は虚像の様に揺らいぎ薄らいでいく。
駄目だ! 行くな! 行かないでくれ! 俺はあなたと共にある! 何でもいい、この惨劇が、誰の仕業でも構わない! だから俺だけを置いて行かないでくれ!
俺は、あなたを護りたいんだ!
「お嬢ーーーーーーーーー!」
西行妖が、咲いた。
お嬢の姿が遂に掻き消え、入れ違う様に膨らんだ数多の蕾が、柔らかく音もなく一斉に開いた。
陰惨たる殺戮の嘆きを受けた月が放つ陰の光を一身に受けて、視界を埋め尽くさんばかりに、天を覆い隠さんばかりに、雲の様に霞の様に咲き広がる古今無双の西行櫻。
俺はその姿に見惚れた。唯、立ちつくし、言葉を失ってその櫻を見上げていた。
在るだけで、人を誘い惑わす妖艶の櫻。魔性などという言葉は所詮、俺たちが主体になってつけたに過ぎない妄評で、この人外を呼称するには到底足りない。
完全なまでに圧倒的で、揺るぎない雄姿に、終焉がここに来たことを俺は悟った。俺程度のちっぽけな存在に、あの妖は倒せない。誰も、あの櫻には届かない。
蝶が、放たれる。赤、青、紫、橙、黄、藍、緑、他、無数の蝶が、西行妖から放たれる。
余りにも美しいその光景に、俺は膝を落とす。
もう、どうでもいい。早く終わりにしてくれ。
俺も、皆の元に連れて行ってくれ。
一匹の蝶が二匹に四匹に分裂し、瞬く間に視界は蝶で埋め尽くされた。この世のものとは思えぬ雄大な夜桜に、儚く瞬く夜光の蝶。見納めには悪くない光景だ。
天を仰いでそっと目を閉じ、その瞬間を待つ。ゆっくりとゆっくりと、蝶はこちらに向かっていることだろう。触れればそれで終わりだ。苦痛も恐怖もない。静かに静かに、この長い生涯に幕が下りる。
母上、お舘様、俺も今、そちらに行きます。
『やれやれ、助けてやろうかね。まったくだらしないたらありゃしない』
あとどれくらいだろう。漠然と自分の死が訪れるまでの時間を数えていた俺の意識に割り込んで、よく通る低い女性の声が聞こえてきた。
『ほらほら、蝶が来るよ。しゃんとしな』
いや、聞こえてきたわけではない。耳が捕らえる音は相変わらず、夜風にそよぐ枝木の音のみだ。この声は直接、俺の脳に響いている。西行寺が好んで使う念話の術ともどこか違う。
少し、意識を死の願望から遠ざけてみると、背後に微かな気配があった。
だが、それがどうしたというのだ。もう、俺には何も残っていない。ただ一人の少女すら守り通すことが出来なかった俺に、何が出来るというのだ。
何も反応を見せずただうずくまっている俺の頭に伝わった随分と呆れた調子の嘆息と共に、頬が巻き起こる風を感じた。
と、一瞬後に俺の聴覚は轟々という風切り音に支配される。
『……全く、本当にしようのない子だねぇ。あんた男だろ?』
また、お節介焼きが来たのか。もう、捨て置いてくれ。俺が生きる理由など、何処にもないのだ。
領民が嘆いた時、俺に何が出来た? お舘様が苦境に立った時、俺に何が出来た? 八雲紫が取り込まれた時は? そして、お嬢がいなくなった時に俺は、何が出来た?
何が当代一の荒武者だ。こんな間抜けなど、何処をどう探しても、そうそういるものではない。
『苦痛を耐え忍んでこんな奴を待ってる紫の気が知れないねぇ。よくもまあ、こんな腑抜けに希望を託したもんだよ』
もう何もかも諦めて、楼観すら取り落とそうとした俺の手が、その言葉に反応した。
今、何といった?
八雲紫は。
「……八雲紫は……生きているのか……?」
『ああ、生きてるさ。今も西行妖の責め苦に耐えながら、あんたの助けを待っている』
八雲紫が……、俺を待っている? こんな俺を、まだ誰かが待つというのか?
『紫は絶対に諦めない。だから、あんたも諦めるんじゃないよ』
喉からこぼれかけた疑問の声を飲み込む。懊悩は全て胸へ、力は全て手に、諦めて閉じた目を、今一度開く。
こんな俺がこの刀を振るう意味は、まだ残っているのか?
『一度だけ、好機を作ってやる。それで紫を助け出せ。あいつを解放すれば、全てが治まる』
「……信じて、良いんだな?」
まだ、こんな俺を奮い立たせてくれるものがいるというのか?
『選択の余地はあるのかい? それに、嘘かどうかは見ていれば分かるはずだよ』
ああ、つくづく、今日はこういう境遇に縁がある。どいつもこいつも勝手に話を進めて、俺が決定に関わる機会など一度としてありはしない。
良いだろう。出たとこ勝負、上等だ。思う存分、俺を使うがいい。せめて、あのでかぶつを道連れにして、一つでも多くの命を助け出してやる。
八雲紫が俺を信じたというのならば、俺も全てを信じよう。あらん限りに力を全て振り絞って、それに応えよう。
もうこれ以上、誰も死なせない。
『一度だけだ。それを逃せばいくら紫でも保たないからね』
その声を合図にそよりと、足下に小さなつむじ風がまいたかと思うと、一瞬後に炸裂音を残響させて颶風が一直線に蝶の驟雨を切り裂いた。西行妖まで真一文字に道を造った風は直線上の蝶を全てかき消し、太い幹に叩き付ける。
『きっちり決めるんだよ!』
風を追って、俺も走る。枝に幹に呑みこまれた八雲紫を解放する為に。今も生きる一つの生命を助ける為に。
俺が白楼で薙いだあれほどに深い傷は、すでに跡形もなくすっかり消えていた。とすれば、一太刀か、それに近い速度でかつ、どれだけの深度にいるか分からない八雲紫を傷つけない様に、表皮だけ切開して救出しなければならない。
途方もないことだ。だが、決して俺は独りではない。こんな俺を護り肩を並べてくれた八雲紫が、今も生きている。そして、その俺の背後をまた、護ってくれるものがいる。
やれる。やってみせる。だから、待っていろ八雲紫。今、助ける。
八雲紫が納まる瘤を目指して跳躍、俺に群がっては風に弾ける蝶を横目で流し、楼観を浅く構え、撫でる様に表皮のみを切り裂く。
その傷の快癒が始まるより早く、二の太刀を水平に入れる。同時に分身を出して前の太刀を再生すると共に、袈裟懸けにもう一太刀。
三の太刀を入れてはそれまでの太刀を再生し、四の太刀を入れてはそれまでの太刀を再生し、膨大な消費霊力に目を霞ませながら血を吐きながら、西行妖の快癒速度を上回ってひたすら表皮を削り続ける。
永遠の様な一瞬を以て赤茶けた木肌から、淡く乳白色に輝く面が姿を現した。と同時に、俺の役目が終わったことを悟る。
さあ、俺が成せぬ事でもお前ならと信じて助け出したんだ。結果を出せよ、八雲紫。
膜が音もなく弾けた。
男が女の小脇に抱えられて飛ぶなど、武門としての恥を公開しているようなものだが、上手く身体が動かないのだから仕方がない。霞む視界が捕らえるのは、ぼんやりと浮かぶ蝶と、白を基調としていたはずがすっかり紅く染まった八雲紫の姿だけ。
そして、そのまま俺の身体は軽々と上空に放り投げられる。確かに隻腕の八雲紫が腕を使うには俺が邪魔だ。ぞんざいな扱いも致し方なかろう。
「神代の終わりを告げるもの、とこしえの息吹を止めるもの」
そのかわり、
「神苑の境は目の前にありて見ること触れること能わず。然れば、其は常にそこにありて息づき根を下ろす」
これで全てを終わらせられなければ、
「掛けまくも畏き岩戸に在らせられる日の本の大神よ、此の処に鎮まり陽を隠し夜を照らす陰の円の大神よ、今昔より語り継がれし数多の忌籠りよ」
例え地獄に落ちても、這い上がってお前の素っ首、叩ききってくれる。
「慎み敬いも申さく、八雲紫はここに、今一度の神隠しを願い給う。幣なるは我が血肉、我が血潮、我が生命。種種の味物を捧げ奉り拝み奉る」
だから、終わらせてくれ、八雲紫。お嬢の為に、皆の為に。
「此処に境ひきて弥遠の安き穏ひを与え守り恵み給えと、かしこみかしこみて申す。――結界、神隠れの封――!」
一瞬だけ、一際眩しい光が視界を埋め尽くす。
体勢を立て直し、辛うじて着地した俺の鼻先を小さな一枚の花びらが横切った。
大量の霊力放出でくらむ頭を持ち上げると、闇夜にたゆたう無数の蝶がゆっくりと薄らいで、そこから姿を現したのは、夜風に花を散らす西行妖。
栄花を極めた現世の隠り世、西行妖の花弁が一つ一つ、ゆっくりとゆっくりと音もなく綻びて、風に流れて散っていく。
生者必滅。余りにも儚い、一夜限りの謳歌。蝶が消えた今、光源は思い出したかのようにぽつりと現れたの月と、闇にちりばめられた星達だけ。
そんな月夜の下、綿のような櫻の雲から、ひらりひらりと、花びらが落ちてくる。
終わったのだろうか。半ば自失しながら、その幻影の如き幻想に魅入る。
本当に勝ったのか、その確信が持てぬまま足を一歩踏み出すと、散る花びらの数に比例して、中空に朧気な輪郭が浮かび上がってくることに気がついた。
まさか……。
期待と不安が混淆して混乱を生む。混乱を来したまま、俺は更に一歩、足を進める。
まさか、まさか……。
「……お嬢……?」
初めこそ薄い朝靄のような影でしかなかった外郭が、次第にはっきりしたものとなる。
そこに消えた人。追いすがった俺を振りきっていなくなってしまった人。祈る気持ちを抱き、願う気持ちを胸に俺はもう一度、口にする。
「お嬢!」
もう、見間違えようがなかった。未だ背後に西行妖を映すくらい姿は薄いが、赤子の頃から見てきたこの俺が見間違えるはずがない。
手も届きそうな所で消えてしまった。死んだものと思っていた。西行妖に殺されたものだと思っていた。それがまさか、生きていたとは!
これ以上の結末はない。西行妖は再度、封印され、死んだと思ったお嬢が帰ってくるのだ!
俺は両手を広げ、お嬢を迎え入れる。さあ、お嬢、祝いましょう。失ったものは余りにも多い。だが、今は訪れた平穏を祝いましょう。
「幽々子」
喜色を湛えて見上げる俺の横に、いつの間にか八雲紫が立っていた。完全に不意をつかれて横を見るも、俺は八雲紫の視界にはないらしい。俺のことは一瞥すらせず、八雲紫は西行妖を、お嬢を見つめている。
お嬢を見上げる八雲紫の姿はまさしく満身創痍で、傷がない所など探しても見つかりそうにない。着衣は所々が皮膚ごと切り裂かれ、枝が貫通した箇所は白の布地に真紅の花を咲かせている。淡い花びらのような唇からは血の筋が形の良い顎に向かって幾筋も垂れ下がり、そして、肩口から覗く左腕の傷痕が、目を背けるほどに痛々しかった。
だが、顔色は蒼白で、脚は引きずられ、片腕すらなくした八雲紫の表情には寸毫の揺らぎもなく、ただ瞳だけが力強い意志を秘めてお嬢を貫いていた。
「紫……」
逆に、八雲紫を見下ろすお嬢の瞳は、感情に揺れていた。幼い頃より時折、垣間見せたあの苦痛に耐えるときの瞳。突き放すような八雲紫の視線と、縋るようなお嬢の視線が真っ向から衝突している。
しょうと流れた風が大地に散った花びらを巻き上げ、お嬢と八雲紫の髪を絡めて彼方へと運んでいく。
「……幽々子。西行妖と深く繋がったあなたなら、どうすればいいか分かるわね?」
声は習い事の生徒を諭すような、そんな程度の軽いもの。だが、鼓膜を振るわせた声音と脳に届いた意味との差に背筋を凍らす。
その言葉に、大きく表情をゆがめたお嬢が、やがてこくりと小さく頷いた。
頷いた。その意味を、理解した。
止めなければならない。そう本能的に直感した俺の肩が八雲紫に叩かれた。
脚が、地面に根を張ったかのように動かなくなった。腕が、膠で固められたかのように硬直した。呼吸と瞬き、それ以外の身動きが、一切封じられた。わずかな声すら絞り出すことを許されない。
そんな俺の前で、八雲紫がお嬢に何かを投げてよこした。重い音を立ててお嬢の手に握られたのは、俺が取り落とした白楼。
再び、二人の視線が交錯する。深く大きく、もう一度、お嬢は頷き、そして何もかもを理解して、その上で微笑む。
優しい優しい、全てを受け入れた笑顔。釈迦のような仏のような、全てを悟りきった笑顔。
「ありがとう、紫」
駄目だ。
駄目だ、止めなければならない。
「ごめんなさい、妖忌」
こんな哀しみだけを背負わせて逝かせてはならない。
あなたが謝らなければいけないことなど、一つもないのだ。例え、誰があなたをどれだけ誹ろうと、俺はそれからあなたを護ってみせる。
あなたが謝らなければならないことなど、一つもないのだ!
「――さようなら――」
細い頸に押し当てられた刃が大きく引かれ、瞬き一つした後に、夜空に真紅の徒花を咲かせる。
紅い紅い、どこまでも紅い彼岸花が花を散らす櫻を背に、濃く闇を落とす闇夜の下、盛大に花開いた。
我は眠る。
この闇の底のような檻で我は為す術もなく、我はただそこに在るのみだ。
何故にこの様なことになったのか、我には理解できない。
理解できないが故に、理解しようとする。だが、一方でやはり訝しむ。
何故に、この様なことになったのか。
我以外は泣いていた。
声もなく、ただ流れるがままに、我にはない涙というものを流していた。
何故、泣くのか。何故、我にこの様なことを強いたのか。
我は理解できない。我と我以外は、友ではなかったのか。
我は眠る。また、あの暖かい日射しの下に出られると信じて。
我は眠る。また、あの我以外と語らえる日が来ると信じて。
八.さくらさくら -八雲紫-
静寂に包まれた屋敷の庭園。住むものがいなくなった屋敷は無機物のように冷たく、そこにもとあった団欒のような柔らかい静寂はもう無い。
文字通り、言葉通りの静寂。沈黙。
そんな忘れ去られた屋敷の片隅、桜並木の奥にある、垂付きの荒縄に囲まれた巨木と向かい合うように、私は立っていた。顔は満開を喫した花々があったであろう枝先を向いたまま、微動だにしない。
桜を綻ばせるほどに温みを帯びた風は、住むものがいなくなった土地の空気を優しく循環させる。この陽気の下でなら、何もかも忘れて心地よく眠れるだろう。
何もかも忘れて、きっと安らかに。
「……斬ってくれても構わないわよ?」
所々にぽつぽつと葉を茂らせた西行妖だったが、この葉も枯れ落ちるを待つのみで、後ろに並ぶ桜並木とはまるで対称的だ。
西行妖の結界は完璧だ。幽々子の体をもって礎と為す限り、この結界がとぎれることはないだろう。
幽々子が眠り続ける限り、この西行妖もまた眠り続けることになる。咲くことも枯れることも許されぬ、輪の如き残酷な微睡みの中で、いつまでもいつまでも、眠り続けるのである。
さぁっと、そよぐ麦秋の風が私の髪を揺らした。
私は待っている。ゆりかごのようなその微睡みを想像しながら、鯉口がきられ踏み込みが轟くその瞬間を。
私は待っている。黄昏のようなその幕引きを瞑想しながら、白刃が閃き、己の体を断つその瞬間を。
だが、いつまで待ってもその瞬間は訪れない。空気はあくまで早春のそれだ。
暖かい陽光が、西行妖の枝の合間を縫って燦々と降り注ぐ。
「お嬢の友人を斬るわけにはいかんさ」
しばしの逡巡を挟んで、それが先程、自分が放った言葉に対する答えなのだと私はようやくたどり着いた。それどころか、自分が発した言葉すら忘れかけていたことに、私は少なからず驚きを覚えた。
「……此の期に及んで、私がまだ幽々子の友だと?」
何とも滑稽な話だと、思った。この巨木の根元に埋まっている人物と、その人物がここに埋まるように仕向けた私が友人同士?
ふざけた話だ。そのまま口に出してみたが、まさしくその通りだと思った。何処をどう間違えば、そんな言葉が出てくるというのだろう? 守るべき対象を失って、このもののふは心まで失ってしまったのだろうか?
友人、私たちの関係を表すには、余りにもかけ離れた言葉だ。笑いが止まらない。ああ、こんな愉快なのはいつぶりだろうか。もう、何でも話せてしまいそうなくらいに気分が良い。
「過程は下の下だったけれど、結果的にうまくいって良かったわ」
本当に気分が良い。堪えきれず、笑声を上げ肩を揺らし腹を抱える。
「本当は西行妖を滅ぼすつもりだったのだけれどね。結局、また元の木阿弥。でも、別にどうでもいいわ。私は西行妖を押しとどめることが出来ればそれで良いのだから」
そして、いつになく饒舌。面白いくらいに舌が回る。
「そう、過程は下の下。結果は中の下。幽々子が死ぬことも止む無しと、最初から心算がついていたの。あの子の命を使えば、西行妖を簡単に封じられるとね」
まったく、その通りだ。私は幽々子を、道具の一つとしか考えていなかった。あの子に対しての感情など、それ以外に一つもなかった。
「あの子のことは最初から、想定された被害の一つにしか数えていなかったのよ。保険の為に、私はあの子に近づいた。ただそれだけ。それ以上でもそれ以下でもないわ」
全部、吐露してしまおう。そうすれば、そうすれば。
「どう? これで少しはそのお人好しな目が醒めた?」
そうすれば、この侍は私を憎むだろう。そうすれば、この侍は私を恨むだろう。
そうすれば、きっと私は……。
「……なら、その涙の訳はどうやって説明する?」
動きを止めた私の道服が、たおやかに翻る。
再び西行妖を見上げる私の体は動かない。
「元の木阿弥……か」
お侍は近づくでもなく、ただ、私の後方から言葉だけを投げかけてくる。緩んだ気でお互いにお互いを辛うじて感知できるくらいの、つかず離れずといった距離。
気負いもなく、ただお互いにいることだけが出来るくらいの穏やかな距離。
「初代と共に西行妖を封じたのは、お前だな?」
静かな庭に開かれたお気軽な法廷は、その気になれば偽ることは簡単で、しかし私は、彼の言葉に抗う術を持たなかった。
「……遠い昔の事よ……」
景色は移ろい、あの当時の面影はもうどこにも残っていない。深遠なる森は切り開かれて街となり、山より流れ出でる洋々たる川は流れを変え、田畑を潤している。
誰もいなくなった空の下、私と私の目の前にある西行妖だけが変わらない。
「もう、覚えている人は誰もいない。遠い遠い昔のお伽噺」
思い出すことを、意図的に避けていた。
思い出せば辛みだけだから、そこから逃げていた。それでも、遺された言葉は確実に私を縛る。だから、今と先だけを見てきた。
流れゆく時の流れにたゆたいながら、唯あるがままを受け入れ、そのまま諦めてきた。
「……お前の想いは受け継がれているよ」
ざっと、風に梢が強く揺れる。
私から語る言葉は既に尽きた。この何処までも優しくて残酷な尋問は、お侍がその気をなくすまで続けられる。
「……この屋敷はどうなる?」
「……この土地は西行妖の呪いを濃く浴びてしまった。もう、顕界に在ることを許されない」
「屋敷ごと、幽界に飛ばすのか?」
「ええ、西行妖ごとね」
西行妖の力も、死を基底とする幽界であれば弱まるだろう。顕界では五分の結界からも、その負担を取り除くことが出来る。
それで、終幕だ。西行寺の血が途絶えた今、共に幾とせを過ごした西行妖もここにある意味を失った。
それは、私の役目もここに消失したことを意味する。私の約束が、ここに消滅したことを意味する。
「ならば、俺も一緒に飛ばしてくれ」
「……分かり切ったことを言わせないで頂戴。生きた人間に冥土は踏めないわ」
「それなら死ぬさ。この命など欠片も惜しくはない」
「死せばその御霊は閻魔天の裁きにて浄化され、次の輪廻に入る。この世に留まる例外など万に一つしかない」
それは自分が全く無駄なことをいっているという、不思議な確信。
「……お前なら、可能だろう?」
このお侍もまた、こちら側の存在となった。
彼は禁忌を犯そうとしている。一度、死んだものはもう死を恐れない。それは当然だ。死んだものは既に死んでいるのだから。
彼は死んだのだ。あの瞬間に、彼はこちら側の存在となったのだ。
「お前なら、俺を不浄の霊としてこの世に縛り付けることが可能だろう?」
だが、ここで不可能だといえば終わる。この不幸の輪転はここで終結の目を見ることになる。
私が不可能だといえば、彼は再びあちら側の人間になる。その後に彼が何をしようが、それは彼の自由だ。私が関与すべきことではない。
不可能だといえば、悲哀の連鎖はそれで終わる。
「可能よ」
それだというのに、また繰り返そうとしている自分に呆れた。
足掻いて、遺されて、どれだけ思い知れば気が済むというのだろう。
嘆いて、叫んで、どれだけ背負えば気が済むというのだろう。
「……俺は屋敷に行っている。気が済んだら宜しく頼む」
返事を返す間もなく、背後の気配が遠のいていく。勿論、返事など返すつもりもなかった。
留まる鳥すらいない西行妖を見上げながら、私は思い返す。
――私、お友達って初めて持つんです。よろしくお願いします、八雲紫――
春の日差しを受けて陽気に包まれながら、私は思い返す。
――授業料……? これ、私が持ち歩いている扇子なんですけど。あの、これくらいしか出せるものが無くて……――
花開いた桜の香りを受けながら、私は思い返す。
――あなたっていつも寂しそうに笑うんですね。もっと、心から笑いませんか?――
私は一生、彼女のことを忘れないだろう。
彼女の無垢な笑顔は一生私を縛る鎖となる。私の身に心に打ち込まれる楔となる。
また一つ、悔恨を刻んで私は永い永い執行猶予期間を過ごすのである。
せめて、彼女の笑顔に縛られていよう、私は彼女を思い出す。
彼女がいつまでも、微睡みにいられるように、私は彼女を思い出す。
いつか、彼女のように微睡む日を待ちながら。
ほとけには 桜の花を たてまつれ
我が後の世を 人とぶらはば
「華胥の夢を、幽々子」
我はいつものように我以外に語りかけるが、我以外から返る言葉にはどこか、覇気がない。
どうしたのかとどこかしらを訝しむが、そのまま我は会話を続ける。
面白くない。初めて我はそう思った。
我が問いかけても我以外は上の空で、それまでのように我以外の言葉が我を振るわせることがない。
何かあったのか。そう訊いた我の言葉に、我以外は身を震わせた。
漆.あまねく夜光の下に -魂魄妖忌-
野を蹴散らし崖を乗り越え、丘を一気に駆け登るとそのまま勢いを利用して、巡る塀を一足で飛び越す。
大層な音を立てて中庭に降り立つと、白砂が敷き詰められた広い庭の中程に、白光を受けて影濃くぽつりと、小袖に身を通した女性が一人、横たわっていた。まだ若い女中で、後ろ姿を見ただけで誰だか判別がつくほどに良く会う顔だ。
慌てて駆けつけ抱き起こし、そこで俺は硬直した。
声をかけるまでもなかった。
体はまだ暖かいが、こちらの行動にぴくりとも反応を示さない。ずり落ちるように、俺の膝から再び地面に降りる腕。
白光に晒された彼女は、仏のような、穏やかな寝顔だった。
そっと、無言で彼女を地面に横たえる。
立ち上がり改めて目を凝らし周囲を見渡すと、月夜の下、濃い影を落として至る所に人が横たわっていた。
その誰もが、苦悶一つ見えない穏やかな笑顔を讃えている。
唇を噛み締め、俺は再び大地を蹴る。疾走。全力で、春雷のように天を照らす一角を目指して走る。
まき散らされた幻想の蝶、それに呼応して姿を消した八雲紫、降りた街を埋め尽くすまだ暖かい死体。不意に湧いた人外は斬ると全てが例外なく全てが蝶に変わり、それら有象無象を斬り捨てようやく辿り着いた西行寺邸では、累々と野に晒す屍を地面から突き動かすような地響きが轟音と共に伝播する。
嫌な予感、いや、これは確信だ。まず間違いなく、事態は最悪の方向に収斂しようとしている。
同時に、俺の勘はこれがまだ底辺ではないと告げている。城下一帯を一瞬にして無人にかえ、かわりに無数の人外が徘徊するようになったこの状況がまだ、最悪ではないと告げているのだ。
噛み締めた唇から錆びた鉄の味が広がる。この訳の分からぬ状況で今、俺にできることといえば、こうして全力で大地を駆けることだけだ。少しでも早く、お舘様の所へ。少しでも早く、お嬢の所へ。余りにももどかしい。
また瞬く光、そして何度目かの爆音。これだけ離れていても、嵐のように衝突し渦巻く巨万の妖気が荒れ狂い、逆巻きながら傍らを吹き抜けていく。間違いない、誰かが何かと闘っている。そして庭を走る俺が向かうこの方角は――
一昨日は、共に梅の花を見ながらあわせ詩に興じていた。綻ぶ桜の蕾を待ち焦がれながら、散りゆく梅の花を惜しんで。
昨日は、実に久しく払いの業に出た。いくつか失態を演じたものの、取り立てて大事に至ることなく事を治めることが出来た。
今日は、ご友人の検分を行った。悪い虫であれば追い払わねばならなかったが、そこに見える笑顔は確実に充実したものだった。
今の今まで、取り立てて事もなく穏やかな日常があったはずだ。
それがなぜ、こんな事になってしまったのか。
爆風に舞う梅花、地響きに落ちる椿、妖気に散る馬酔木。近づくにつれて、暴虐の香りが嗅覚を刺激する。
ようやく視界に収めることが出来る距離まで近寄った。遠く、夜の闇にぼんやりと浮かぶのは、朧気な光を発する数多の蝶を纏った一本の巨木。慣れ親しんだはずの遠景に酷く違和感を覚えるのは、間違いなく周囲を覆う結界が認められないためだろう。
やはりそうか。何があったか知らないが、西行妖の封印が解けたのだ。おそらくそのせいで皆は――
「避けなさい、魂魄妖忌!」
叩き付けるような声と圧縮する空気に反応して咄嗟に横に飛び地を転がると、一瞬後、耳をつんざく破裂音と共に俺の立っていた位置が深々と抉られる。
一転した視界を脳内で補正すると、遠く西行妖から七つ七色の霊気弾が放たれた。移動して射線から身体をずらしても、ずらした分だけ恐ろしい精度で軌道を修正してくる。間違いない。昨日、お嬢が人外をしとめたあの術だ。
その絶対的な性能を知る以上、腹を決め俺はその場に足を止める。あれだけの誘導性を持っている術に対して、下手な小細工は足掻くだけ無駄だ。
まずは恐ろしいほどの直進速度でこちらに迫り来る第一弾と、それに覆い被さるように牙を剥く第二弾。
間合いは三間……、二間……、一間!
特殊な歩法を用いて、俺は高速で爆ぜるように横へと位置を変える。入れ違うように、俺を追い切れない緑の霊気弾が地面を抉った。
だが、第一弾の直下で俺の制動を伺っていた紫の第二弾が軌道を修正して牙を剥いた。きわどい間だ。更に身体を横に振り、半身になることで辛うじて第二弾をかわす。弾が脇をかすめる感触と共に、陣羽織の端がごっそり持っていかれた。
紙一重の防戦が続くが、息をつく暇はない。今度は左右から、紅い第三弾と蒼い第四弾が迫り来る。丹田に練った気はまだ辛うじて残っているものの、体勢は先程の移動で重心を下に溜めたままだ。加えて、左右からの同時攻撃。
上に……逃げるしかない! それが正しいかどうかを判断している間すらない。俺は貴重な気を脚に巡らせ、霊気弾とすれ違うように上方へと跳躍する。
お互いに衝突し姿を消した三、四ときて、次は黄の五。それと重なるように藍の六。
今ある位置から移るには余りにも間が早すぎる。歯ぎしりしながら、一か八かで腰の大小を抜く。
正面から俺を飲み込もうとする霊気弾。その中心に、全力で気を込めた二刀のうち大刀を突き刺し、根本まで埋まった頃合いを見計らって込めた気を爆発させる。
願ったり。霊気弾は哀悼の刀身を道連れに景気よく爆砕して姿を消した。
荒れ狂う霊気と千々に砕けた刀身が混じり合って、俺に細かな無数の傷を付ける。体勢を崩しながらも、獰猛に俺を食らいつくさんとする第六弾に逆の小刀を突き刺し、先程と同様に込めた気を解放。
我が愛刀と共に砕け散る霊気弾。だが、刀身の短い小刀では完全に威力を相殺するまでにいたらず、爆発の余波に俺はきりもみして空中に投げ出された。
使用できる気は底をついた。再び使用するにはもう一度、気を練り直さなければならない。
長年連れ添った腰を飾る大小も、風塵に帰した。残ったのは、鍔より下の握りだけ。
そして空中で体勢を崩してしまっては、為す術もない。
そこに、悠々と殺到する橙の第七弾。
まるで、俺の回避行動を計算し尽くしたかのような弾道。完全に詰みだ。
俺はこのまま何も為せず、皆の後に続くのか? まだすべき事は多く残されている。こんな所で朽ちるわけにはいかない!
何か、何か手はないのか。
だが、その俺の心情をあざ笑うかのように、刻一刻と霊気弾は距離を狭める。
万事休すか。俺の思考に諦観がよぎったその時、視界を埋め尽くすかのような霊気弾の前に、忽然と人影が割り込んだ。
直後、耳障りな甲高い音と共に閃光が俺の視界を焼き尽くす。そんな中、視覚と聴覚を殺された俺の脇を、誰かが抱える感触。一瞬後には、空中にあった俺の浮遊感が消え、身体が大地に横たえられた。
かすれる視界を叱咤し痛む目を開けると、まず最初に、帽子に包まれ絹糸のような金髪を捕らえた。
「八雲紫……?」
庭園の一角、妖気に当てられた芍薬が悲しく散る池の畔。俺と八雲紫の二人をしっかりと覆い隠す庭石の影から、彼女は油断なく西行妖を伺っていた。
その身体からは、ごくわずかながら先程感じられた妖気の残滓が感じ取れた。
衝突していた巨大な二つの妖気のうち、一つは間違いなく西行妖。そして、残る一つがこの八雲紫。
間違いない。この女は全てを知っている。もしくは、この女が全ての元凶なのか。
俺は庭石に背を当て西行妖を監視している八雲紫の胸ぐらを掴んだ。
「おい、説明してもらおうか。これは一体どういう事だ」
そのままこちらに引き寄せ、乱暴にその身を揺する。
「お嬢は無事なのか!? お舘様は!? この惨状は一体どういう事だ!?」
対する八雲紫の表情はどこまでも冷めたもので、屍の山にあって憐憫の一つすら浮かんでいない。それが、俺を二重にいらだたせる。やはり、妖怪は妖怪、人となれ合うことなどあり得ないのか。お嬢に見せたあの表情も全て偽りの仮面、二心あってのことだったというのか。
「答えろ! 八雲紫!」
目を剥き牙を剥き、人形のような顔をした八雲紫に詰め寄る。
余りの反応のなさに苛立ち、余った手で肩を掴み上げると、掌をなま暖かいぬめりを帯びた液体が湿らせ滑らせた。
眉をひそめてたなごころを開くと、一面にべったりと真紅の光沢が夜光を受けてなまめかしく輝いている。
改めて八雲紫を見ると、だらりと、肩口から袖を無くした着衣の下には、無惨にも切り刻まれた左腕がじくじくと血を滲ませ、力無く垂れ下がっていた。
唖然と腕を見つめる俺の視線に気づいたのか、八雲紫は能面のような顔で裂傷にまみれた腕を一瞥し、そのまま右の掌を肩もとに当てると、妖気を込めて何の躊躇もなく左腕を根本から切り落とした。
重い音を立てて砂地に落ちる物体となった腕。湿った音を立てて血を吹き出す傷口にまた右手を当てると、今度は短く肉の焦げる音が耳朶を打った。
白砂を染める血が、止まった。
瞬く間に隻腕となった妖怪は、冷めた視線で傷口を一望した後、再び視線を俺に戻す。
「余り時間はないけれど、説明を御所望かしら?」
益荒男であってすら目を見張るその荒療治を表情一つ変えずやってのけた手弱女は、氷のような美貌を気後れ無く俺に突きつける。
逆に、それを見て些か頭を冷やした俺は、辛うじて首を頷かせた。
「予想はついていると思うけれど、西行妖が目覚めたわ」
八雲紫の言葉は何よりも簡潔で、一言を以て全てを明快にした。
思考が暗転する。西行寺が再び闇に落ちたことを示す、予想通りの告知。
「領民は諦めなさい。致死の甘味から逃れた者も、夜が明ける前に蘇った妖怪の餌食でしょう」
やはり、西行妖の仕業なのか。口伝に聴くその危険性は、決して誇張ではなかったのだ。
「……蘇った……、妖怪とは……?」
「西行寺が討った、あるいはそれ以外でもなんでも。強い情と力が残った者は人間であれ妖怪であれ、蘇り遺恨を晴らすでしょうね」
「……それが、あの町中の惨状か。だが、城下を抜けた際には悲鳴の一つも聴かれなかった。それは何故だ?」
「西行妖は生ある者を例外なく、死に誘う。人だろうと畜生だろうと、はては植物から鉱物、恐らく世界すらもね」
「その中で、人だけが死に妖怪だけが生き残るのは……?」
「その違いはないわ。人だろうと妖怪だろうと、死ぬ者は死に蘇る者は蘇る。その対象が静物ではなく動物に絞られているのは……、長くなるから省くわ」
「……それでは……」
「ええ、西行寺邸を中心に城下一帯から山一つ越えた辺りまで、完全に無人となったでしょうね。西行寺郎党も例外なく、彼岸に渡ったわ」
音がするほど、拳を握りしめる。丘で見た、あの蝶が舞い散った一瞬のことだったのだろう。俺も誘われたから分かる。その一瞬で、全てが終わってしまったのだ。
「ただ、例外が一つだけある」
感情のない声に促されて、俺は悔恨にまみれた顔を上げる。
「西行寺幽々子、彼女だけはまだ、この此岸にある」
「何だと!?」
再びつかみかかった俺の手を制して、八雲紫はそっと体を離した。
「本当よ。所在までは分からないけれどね」
絶望視していたお嬢が生きている。俺にとってはこれ以上にない朗報だ。
完全に萎えて朽ちかけていた忠心に、再び火が入る。それさえ分かれば、俺がまだ生き恥を晒す価値はある。
生きる理由は得た。後一つ、この場で明らかにしておかなければならない肝要な疑問が残っている。
「お前は……味方か?」
それは問いというよりは確認に近い響きになった。俺は彼女を信じたい。深い傷を負った幼少より他人との関わりを畏れるようになったお嬢が、あれほどに心を開いた彼女のことを。
だが、帰ってくる彼女の声はどこまでも冷たい。
「さあ? あなたにとって何が敵であるかは分からないけれど、少なくとも、あれを放っておくつもりはないわ」
「……西行妖を敵としている点で、利害は一致しているという意味か……?」
「いいえ、今の西行妖は、私一人では到底、討つこと叶わない。どうにかしたいのなら、あなたと私が協力する以外に打つ手はないの」
「……選択の余地は無しか……」
「逃げるという選択は?」
「問われるまでもない」
初めて、八雲紫の表情が崩れた。まるできかん坊に呆れかえる姉のような顔。苦笑し、唯一残された右手を口元に当てる。
それを見て、俺も破顔する。未だ疑問は数多く残されているが、この死地にあって、お互いの意志は統一された。
西行妖を打ち倒し、お嬢を救い出す。それが魂魄としての俺の役目だ。
固めた拳を掌に打ち付ける。さあ、戦闘再開だ。まずはあの大木を切り倒す。
「これを使いなさいな」
そんな俺を見かねたのか、八雲紫が口元に当てていた右手でふっと虚空を撫でると、どういう仕組みかその軌跡に沿って空間が裂けた。
目が痛くなりそうな極彩色を奇妙に変化させるその空間から現れたのは、大小一式の刀。
「いくらあなたでも、あれを相手に徒手空拳はないでしょう」
亀裂が入った空間から柄を覗かせている二刀のうち、大刀を握るとこちらに差し出してくる。
「それは?」
長さは三尺を超える黒漆の長刀。飾り気も何もなく、その拵えは鐺から頭に至るまで無骨なまでに黒い。
「妖怪が鍛えし刀。銘を楼観」
手渡された重みを確かめながら、俺は柄に手をかける。途端、身体の霊力を吸引される強烈な虚脱感に襲われて、慌てて手を離した。
重い音を立てて地面に落ちた楼観が、月光を反射して妖しく二色に輝いている。装飾のない拵えが、かえって不気味だった。
「銘刀どころか妖刀の類だけど、あなたなら扱えるでしょう」
無茶を言ってくれる。鞘に入ってあの感触では、抜き身を常人が握ればそれこそたちまちに身の霊力を搾り取られ、灰燼と化すだろう。先程の一瞬の感覚を思い出し、じっとりと汗が浮かんだ掌を握りしめながら、俺の反応を楽しむように微笑を浮かべている八雲紫を睨む。煮ても焼いても喰えなさそうなこいつのことだ、間違いなく、俺の出方を待っているのだろう。
妖刀か。……面白い。この程度のじゃじゃ馬、即座に扱いこなせねば西行妖を斬るなど夢の果てだ。
転がった楼観を持ち上げ下緒を腰にしめた所で、満足したように一度頷いた八雲紫が残った長脇差を差し出してくる。
「逆に、こちらは楼観に比べれば幾分か扱い易いはずよ」
今度はうってかわって、装飾が一切無い白木の美しい脇差しである。
受け取り慎重に柄を握ると、楼観とは異なりこちらはぴんと緊張が張りつめた。そのまま扱っても危険はないと判断し、すらりと抜き放つと、音がないはずのこの空間で白楼が、夜光を反射し甲高い音に変える。
「迷津を解き絶つ霊刀。銘を白楼」
左手に納まった白楼の感触を確かめながら、先程、躊躇った楼観を握り、勢いをつけて抜き放つ。意識を絞り、俺の霊気を吸い尽くそうと獰猛に牙を剥く本性を押さえ込むと、完全に制御下に置く。
利き手の楼観、逆の白楼。それぞれが激しい自己主張を繰り返しながらも、まるで長年連れ添った恋女房のようにしっくりと俺の掌に収まった。
分かる。この刀たちの使い方が。どのように使われたがっているのか。どのような生き場を求めているか。霊気を巡らせた歓喜の胎動から、全てを感じ取ることが出来る。
「すぐにいける、魂魄妖忌?」
その問いに、獣のような笑みを返すことで答える。
微笑しながら八雲紫の指が再び虚空をなぞると、今度は俺たちの足下が落ちた。
先程、刀を取り出した極彩色の亜空間に取り込まれたかと思うと、一瞬後には視界が回復する。
眼前に、巨木の樹皮があった。見慣れたはずの今にも剥がれ落ちそうな、ひからびてひび割れた樹皮ではなく、瑞々しくどこまでも果てしなく続いている若々しい木肌。
落下の浮遊感に体制を整えながら、俺は頬を引きつらせる。すぐにいくとは、文字通り直下直行か。確かに、離れた間合いから挑めば先程の俺のように容易く迎撃されてしまうだろうが、だからといってこれはないだろう。
一言くらい説明しろと軽く毒づきながら、落下の勢いを乗せて着地地点、西行妖の根に斬りつける。
新入りの二刀は想像以上に秀逸で、ぎっしり水分と妖気が詰まった根を地面ごとなますのように切り分けた。
直後、西行妖から巻き起こった衝撃波で身体を飛ばされながらも、俺は確信した。いくら永きを生きた西行妖といえど、その存在は妖以上でも妖以下でもない。そこには人間と同じように意志があり、感情があり、それらがあれば間違いなくつけいる隙もある。
いける。あの誘導弾は速度を稼ぐ為に一度、対象から距離をとる。これだけ間合いが近ければそう易々と当たるまい。
空中で姿勢を立て直し、後方への運動を殺しつつ着地する。戦闘の場に宙を選べば、全方位からの射撃に対応しなければならないし、移動に際していちいち霊力を消費する。それなら、前方後方上方に気を払うだけですみ、かつ脚で移動が可能な地面を選択したほうが賢い。
そして猛進。距離が開けばそれだけ西行妖の優位となる。倒れるつもりなどさらさらないが、倒れるのなら西行妖ごと道連れだ。
詰まる間合い。唯でさえ巨大な樹木が見る見るうちに大きくなる。目指すはその根本、その幹。
今宵、何の理由もなく無辜なる命が一瞬にして無数に奪われた。昨日、事態の解決を見て喜びを露わにしていた領民を思い、歯を軋ませる。
城下、初代西行寺が命をなげうってまで封じた功績が認められ、ときの御門より賜った領地。森を拓き川を灌漑し、決して軽くない労役を課せられながらも笑顔を絶やすことなく街を興してきたもの達。今日までの西行寺を彩る城下が、今は見る影もない。
そして、魂魄が護るべき西行寺はその血を絶やす寸前にまで追い込まれている。
この、目の前の西行妖によって!
さあ、数多の命を貪った妖怪桜よ。領民の恨み、屋敷のものの悔い、お舘様の無念、思い知るがいい!
地面が音を立ててめくり上がり、そこから木の根が迫り上がって俺の脚を絡め取ろうとするが、瞬く間に寸断される。俺を死に誘おうと無数の蝶がばらまかれるが、俺に触れる前に全てが耳障りな音を立てて消えていく。
八雲紫。
何がしがない結界師だ。この西行妖相手に自身を護りながら他人を庇いきるなど、希代の結界師でもなしえないことだ。宙に浮かび、残像すら浮かびそうな勢いで印を結び続ける隻影を盗み見る。隻腕となってもその戦闘能力は計り知れない。
背後はまるで問題ない。この偉大な妖怪が西行寺についている以上、俺の成すべきはただ一つ。
駆け様、楼観を鞘に収め、利き手に白楼を持ち直し、頭を左手に握りしめる。
応えろ。そして刻みつけろ。
全力で霊力を流し込むと、歓喜に白楼が震えた。瞬く間に短い刀身を蒼銀に輝く強い光で鎧い、その長さを五尺にも六尺にも伸ばしていく。
今や物干し竿と化した白楼を担ぎ、大地が震えるほどに踏み込んで、西行妖に向けて逆袈裟に振り下ろした。
西行妖が纏う妖気と白楼とが正面から激突し、目がくらむほどの火花を散らす。少しでも気を緩めれば、剣どころか体ごとはじき飛ばされてしまいそうな妖気の圧力に俺は歯を食いしばる。
拮抗する力と力。俺が更に踏み込めば、木の根が盛り上がりそれを阻む。体ごとねじ込めば、西行妖が妖気で押し返す。
一進一退。盛り上がる背筋。浮き上がる汗。早春の肌寒い空気に、荒げた息が白む。
力業なら、より妖力の大きい西行妖が有利か。一旦離れ、しきり直そうとした所に怜悧な響きを持った八雲紫の声が場を制した。
「西行妖を斬りなさい、魂魄妖忌」
それを合図として、西行妖の周囲に巡らされた可視できる程、濃厚な妖気が揺らぎ、薄らいでいく。
初めて、西行妖に感情らしき感情を見て取ることが出来た。風のない夜に梢を揺らし、根が這う大地を蠢動させる。
いける。今一度、白楼を担ぎ直し丹田に気を練ると、薄まった妖気の層を全力で俺は突っ切る。
妖気との摩擦で肌に無数の裂傷が生まれる。妖気そのものが意志を持って俺に絡みつき動きを阻もうとする。
だが、俺の意志を絆すものは何もない。ただ一つ、己が決意の元に、全力で手の内の白楼を振り下ろす。
ひときわ眩しい火花が上がると同時に、確かな感触が俺の手元に伝わった。全力で白楼を振り抜き、人が手を繋いで十人連なっても囲いきれないほどの巨木を、一刀のもとに半ばまで両断。封印されていた時の姿からは想像できないほどに瑞々しい木肌と年輪が外気に晒された。
いける。もう一太刀で完全に切り落としてくれる。下におろした白楼を持ち上げるのももどかしく、俺はそのまま白楼を手放すと、納刀された楼観の柄を握り回り込みながら鞘走らせた。
これで終わる。今宵、繰り広げられた悪夢も、長き西行寺の確執も、全てが幕引きとなる。さあ、西行妖よ、その呪われた生に終焉を告げてやろう。
鯉口から滑りぎらりと肌を現す楼観は、霊気を帯びて架空の刀身を作り上げた白楼と異なり、食い込む樹木のより確かな感触を俺に伝えてきた。
終わった。
俺が後方にはじき飛ばされたのは、そう確信した瞬間だった。何が起きたかも理解できず、受け身もそこそこに地面に叩き付けられ、勢いで激しく転げ回る。
朦朧とする頭を振りながら膝をつき立ち上がると、そこに蝶が襲いかかった。奇跡的に取り落とさなかった楼観を振るい、辛うじて身体に触れる直前でたたき落とすが、怒り狂ったかのような西行妖からの反撃は容赦なく続く。無秩序にばらまかれたかのように見える美しい蝶が、ゆっくりとだが確実に軌道を変え、俺に向かって殺到する。
どうにか事態を理解しようと、楼観を振るい弾道から身をかわして防戦に徹しながら周囲に注意を向けたその間隙を縫って、凄まじい速度で地面に衝突した何かが足下を揺らし、俺の横を通り過ぎていった。そして勢いは止まらず、その何かはそのまま西行妖に叩き付けられる。
幹に釘付けとなったのは、後方で宙にあったはずの八雲紫その人。露出の少ない肌は愚か、衣服の所々が切り裂かれ、そこから真紅の液体を滲ませている。
後ろで何かあったのか。振り返ろうとしたその矢先、背筋を駆け上る悪寒に俺はその場を飛び退ると、抜け様、入れ替わった身体の位置に渾身の楼観を叩き付ける。
甲高い金属音が闇夜を切り裂いた。
新手か。いくら西行妖に集中していたとはいえ、背後に回られておきながら、妖気霊気は勿論のこと、気配すらまるで感じられなかった。寸前で攻撃に気づいたのは、唯の運と勘に過ぎない。
西行妖からばらまかれる蝶や霊気弾に的を絞らせないよう懸命に立ち位置を変えながら、挟撃を恐れて更に後ろに下がる。
どうする、八雲紫を救って退くか!? だが、彼奴らを放置すればそれだけ被害の数が増える。それに、領土一帯が西行妖に掌握されている以上、退く所などどこにも――
「魂魄妖忌! 斬りなさい! 彼女はもう――」
八雲紫の悲鳴に近い絶叫は、途上で遮られる。幹から伸びた枝が剣となり針となり彼女の全身を刺し貫くと、まき散らした鮮血ごとほかの無数の枝が彼女を絡め取り、周囲を取り囲んだ。姿が見えなくなるくらいに枝が絡まったあと、最後にその枝が崩れるようにどろりと融けて樹皮となり、八雲紫のあった場所は大きな瘤となった。
だが、俺には目の前の事実からほかに気を回す余裕などまるでなかった。両手から力が抜け、膝が震え、意識が目の前の現実を全力で否定する。
「……お嬢……?」
微風にそよぐ栗色の髪。鬢は似合わないからと、いつも下げたままでいた。子供の気質がいつまでたっても抜けないとお舘様などはよく嘆いていたが、俺はそんなお嬢の髪が好きだった。
強い意志を秘めた鳶色の瞳。いつもくりくりと動いて、苦しい時も悲しい時も他人には弱い所を見せない。だが、俺は知っている。哀しみを堪える時、お嬢の瞳は決まって美しく揺れる。そのくせこちらから目をそらさず、頑なに認めようとしないのだ。
見るものに安堵と勇気を与える顔。昔は憂いが多かったが、この頃はよく笑うようになった。特に八雲紫と出会ったであろうこの数週、気負った所もあったが、お嬢の顔は概ね笑顔に満ちていた。
「……お嬢……」
野放図に乱れる髪。力無くよどんだ瞳。半開きの口に緩んだ頬。垂れ下がった腕には、血の滴る鉄扇が握られている。
殺気がないどころか、あれだけ輝きに満ちていたお嬢の身体からは生気そのものが感じられない。
嫌に口が渇いた。背筋に汗が浮かび、熱する皮膚の表層と反比例して、身体の芯が凍えて震える。
そうなのか?
解かれた封印。一瞬で奪われた無辜なる無数の命。蘇った人外と西行妖。
その発端がそうだというのか?
違うなら、そうといってくれ! 違うと、いつものようにぴょんと跳ねて、逃げるようにからかうように否定してくれ!
「お嬢!」
お嬢の足下が地を離れ、浮き上がる。こちらには一瞥すらくれず、一直線に西行妖へと向かうお嬢を追って、俺は走る。
吸い込まれる様に、小さくなっていくお嬢。いや、錯覚ではない。西行妖に近づけば近づくほど、お嬢の身体は虚像の様に揺らいぎ薄らいでいく。
駄目だ! 行くな! 行かないでくれ! 俺はあなたと共にある! 何でもいい、この惨劇が、誰の仕業でも構わない! だから俺だけを置いて行かないでくれ!
俺は、あなたを護りたいんだ!
「お嬢ーーーーーーーーー!」
西行妖が、咲いた。
お嬢の姿が遂に掻き消え、入れ違う様に膨らんだ数多の蕾が、柔らかく音もなく一斉に開いた。
陰惨たる殺戮の嘆きを受けた月が放つ陰の光を一身に受けて、視界を埋め尽くさんばかりに、天を覆い隠さんばかりに、雲の様に霞の様に咲き広がる古今無双の西行櫻。
俺はその姿に見惚れた。唯、立ちつくし、言葉を失ってその櫻を見上げていた。
在るだけで、人を誘い惑わす妖艶の櫻。魔性などという言葉は所詮、俺たちが主体になってつけたに過ぎない妄評で、この人外を呼称するには到底足りない。
完全なまでに圧倒的で、揺るぎない雄姿に、終焉がここに来たことを俺は悟った。俺程度のちっぽけな存在に、あの妖は倒せない。誰も、あの櫻には届かない。
蝶が、放たれる。赤、青、紫、橙、黄、藍、緑、他、無数の蝶が、西行妖から放たれる。
余りにも美しいその光景に、俺は膝を落とす。
もう、どうでもいい。早く終わりにしてくれ。
俺も、皆の元に連れて行ってくれ。
一匹の蝶が二匹に四匹に分裂し、瞬く間に視界は蝶で埋め尽くされた。この世のものとは思えぬ雄大な夜桜に、儚く瞬く夜光の蝶。見納めには悪くない光景だ。
天を仰いでそっと目を閉じ、その瞬間を待つ。ゆっくりとゆっくりと、蝶はこちらに向かっていることだろう。触れればそれで終わりだ。苦痛も恐怖もない。静かに静かに、この長い生涯に幕が下りる。
母上、お舘様、俺も今、そちらに行きます。
『やれやれ、助けてやろうかね。まったくだらしないたらありゃしない』
あとどれくらいだろう。漠然と自分の死が訪れるまでの時間を数えていた俺の意識に割り込んで、よく通る低い女性の声が聞こえてきた。
『ほらほら、蝶が来るよ。しゃんとしな』
いや、聞こえてきたわけではない。耳が捕らえる音は相変わらず、夜風にそよぐ枝木の音のみだ。この声は直接、俺の脳に響いている。西行寺が好んで使う念話の術ともどこか違う。
少し、意識を死の願望から遠ざけてみると、背後に微かな気配があった。
だが、それがどうしたというのだ。もう、俺には何も残っていない。ただ一人の少女すら守り通すことが出来なかった俺に、何が出来るというのだ。
何も反応を見せずただうずくまっている俺の頭に伝わった随分と呆れた調子の嘆息と共に、頬が巻き起こる風を感じた。
と、一瞬後に俺の聴覚は轟々という風切り音に支配される。
『……全く、本当にしようのない子だねぇ。あんた男だろ?』
また、お節介焼きが来たのか。もう、捨て置いてくれ。俺が生きる理由など、何処にもないのだ。
領民が嘆いた時、俺に何が出来た? お舘様が苦境に立った時、俺に何が出来た? 八雲紫が取り込まれた時は? そして、お嬢がいなくなった時に俺は、何が出来た?
何が当代一の荒武者だ。こんな間抜けなど、何処をどう探しても、そうそういるものではない。
『苦痛を耐え忍んでこんな奴を待ってる紫の気が知れないねぇ。よくもまあ、こんな腑抜けに希望を託したもんだよ』
もう何もかも諦めて、楼観すら取り落とそうとした俺の手が、その言葉に反応した。
今、何といった?
八雲紫は。
「……八雲紫は……生きているのか……?」
『ああ、生きてるさ。今も西行妖の責め苦に耐えながら、あんたの助けを待っている』
八雲紫が……、俺を待っている? こんな俺を、まだ誰かが待つというのか?
『紫は絶対に諦めない。だから、あんたも諦めるんじゃないよ』
喉からこぼれかけた疑問の声を飲み込む。懊悩は全て胸へ、力は全て手に、諦めて閉じた目を、今一度開く。
こんな俺がこの刀を振るう意味は、まだ残っているのか?
『一度だけ、好機を作ってやる。それで紫を助け出せ。あいつを解放すれば、全てが治まる』
「……信じて、良いんだな?」
まだ、こんな俺を奮い立たせてくれるものがいるというのか?
『選択の余地はあるのかい? それに、嘘かどうかは見ていれば分かるはずだよ』
ああ、つくづく、今日はこういう境遇に縁がある。どいつもこいつも勝手に話を進めて、俺が決定に関わる機会など一度としてありはしない。
良いだろう。出たとこ勝負、上等だ。思う存分、俺を使うがいい。せめて、あのでかぶつを道連れにして、一つでも多くの命を助け出してやる。
八雲紫が俺を信じたというのならば、俺も全てを信じよう。あらん限りに力を全て振り絞って、それに応えよう。
もうこれ以上、誰も死なせない。
『一度だけだ。それを逃せばいくら紫でも保たないからね』
その声を合図にそよりと、足下に小さなつむじ風がまいたかと思うと、一瞬後に炸裂音を残響させて颶風が一直線に蝶の驟雨を切り裂いた。西行妖まで真一文字に道を造った風は直線上の蝶を全てかき消し、太い幹に叩き付ける。
『きっちり決めるんだよ!』
風を追って、俺も走る。枝に幹に呑みこまれた八雲紫を解放する為に。今も生きる一つの生命を助ける為に。
俺が白楼で薙いだあれほどに深い傷は、すでに跡形もなくすっかり消えていた。とすれば、一太刀か、それに近い速度でかつ、どれだけの深度にいるか分からない八雲紫を傷つけない様に、表皮だけ切開して救出しなければならない。
途方もないことだ。だが、決して俺は独りではない。こんな俺を護り肩を並べてくれた八雲紫が、今も生きている。そして、その俺の背後をまた、護ってくれるものがいる。
やれる。やってみせる。だから、待っていろ八雲紫。今、助ける。
八雲紫が納まる瘤を目指して跳躍、俺に群がっては風に弾ける蝶を横目で流し、楼観を浅く構え、撫でる様に表皮のみを切り裂く。
その傷の快癒が始まるより早く、二の太刀を水平に入れる。同時に分身を出して前の太刀を再生すると共に、袈裟懸けにもう一太刀。
三の太刀を入れてはそれまでの太刀を再生し、四の太刀を入れてはそれまでの太刀を再生し、膨大な消費霊力に目を霞ませながら血を吐きながら、西行妖の快癒速度を上回ってひたすら表皮を削り続ける。
永遠の様な一瞬を以て赤茶けた木肌から、淡く乳白色に輝く面が姿を現した。と同時に、俺の役目が終わったことを悟る。
さあ、俺が成せぬ事でもお前ならと信じて助け出したんだ。結果を出せよ、八雲紫。
膜が音もなく弾けた。
男が女の小脇に抱えられて飛ぶなど、武門としての恥を公開しているようなものだが、上手く身体が動かないのだから仕方がない。霞む視界が捕らえるのは、ぼんやりと浮かぶ蝶と、白を基調としていたはずがすっかり紅く染まった八雲紫の姿だけ。
そして、そのまま俺の身体は軽々と上空に放り投げられる。確かに隻腕の八雲紫が腕を使うには俺が邪魔だ。ぞんざいな扱いも致し方なかろう。
「神代の終わりを告げるもの、とこしえの息吹を止めるもの」
そのかわり、
「神苑の境は目の前にありて見ること触れること能わず。然れば、其は常にそこにありて息づき根を下ろす」
これで全てを終わらせられなければ、
「掛けまくも畏き岩戸に在らせられる日の本の大神よ、此の処に鎮まり陽を隠し夜を照らす陰の円の大神よ、今昔より語り継がれし数多の忌籠りよ」
例え地獄に落ちても、這い上がってお前の素っ首、叩ききってくれる。
「慎み敬いも申さく、八雲紫はここに、今一度の神隠しを願い給う。幣なるは我が血肉、我が血潮、我が生命。種種の味物を捧げ奉り拝み奉る」
だから、終わらせてくれ、八雲紫。お嬢の為に、皆の為に。
「此処に境ひきて弥遠の安き穏ひを与え守り恵み給えと、かしこみかしこみて申す。――結界、神隠れの封――!」
一瞬だけ、一際眩しい光が視界を埋め尽くす。
体勢を立て直し、辛うじて着地した俺の鼻先を小さな一枚の花びらが横切った。
大量の霊力放出でくらむ頭を持ち上げると、闇夜にたゆたう無数の蝶がゆっくりと薄らいで、そこから姿を現したのは、夜風に花を散らす西行妖。
栄花を極めた現世の隠り世、西行妖の花弁が一つ一つ、ゆっくりとゆっくりと音もなく綻びて、風に流れて散っていく。
生者必滅。余りにも儚い、一夜限りの謳歌。蝶が消えた今、光源は思い出したかのようにぽつりと現れたの月と、闇にちりばめられた星達だけ。
そんな月夜の下、綿のような櫻の雲から、ひらりひらりと、花びらが落ちてくる。
終わったのだろうか。半ば自失しながら、その幻影の如き幻想に魅入る。
本当に勝ったのか、その確信が持てぬまま足を一歩踏み出すと、散る花びらの数に比例して、中空に朧気な輪郭が浮かび上がってくることに気がついた。
まさか……。
期待と不安が混淆して混乱を生む。混乱を来したまま、俺は更に一歩、足を進める。
まさか、まさか……。
「……お嬢……?」
初めこそ薄い朝靄のような影でしかなかった外郭が、次第にはっきりしたものとなる。
そこに消えた人。追いすがった俺を振りきっていなくなってしまった人。祈る気持ちを抱き、願う気持ちを胸に俺はもう一度、口にする。
「お嬢!」
もう、見間違えようがなかった。未だ背後に西行妖を映すくらい姿は薄いが、赤子の頃から見てきたこの俺が見間違えるはずがない。
手も届きそうな所で消えてしまった。死んだものと思っていた。西行妖に殺されたものだと思っていた。それがまさか、生きていたとは!
これ以上の結末はない。西行妖は再度、封印され、死んだと思ったお嬢が帰ってくるのだ!
俺は両手を広げ、お嬢を迎え入れる。さあ、お嬢、祝いましょう。失ったものは余りにも多い。だが、今は訪れた平穏を祝いましょう。
「幽々子」
喜色を湛えて見上げる俺の横に、いつの間にか八雲紫が立っていた。完全に不意をつかれて横を見るも、俺は八雲紫の視界にはないらしい。俺のことは一瞥すらせず、八雲紫は西行妖を、お嬢を見つめている。
お嬢を見上げる八雲紫の姿はまさしく満身創痍で、傷がない所など探しても見つかりそうにない。着衣は所々が皮膚ごと切り裂かれ、枝が貫通した箇所は白の布地に真紅の花を咲かせている。淡い花びらのような唇からは血の筋が形の良い顎に向かって幾筋も垂れ下がり、そして、肩口から覗く左腕の傷痕が、目を背けるほどに痛々しかった。
だが、顔色は蒼白で、脚は引きずられ、片腕すらなくした八雲紫の表情には寸毫の揺らぎもなく、ただ瞳だけが力強い意志を秘めてお嬢を貫いていた。
「紫……」
逆に、八雲紫を見下ろすお嬢の瞳は、感情に揺れていた。幼い頃より時折、垣間見せたあの苦痛に耐えるときの瞳。突き放すような八雲紫の視線と、縋るようなお嬢の視線が真っ向から衝突している。
しょうと流れた風が大地に散った花びらを巻き上げ、お嬢と八雲紫の髪を絡めて彼方へと運んでいく。
「……幽々子。西行妖と深く繋がったあなたなら、どうすればいいか分かるわね?」
声は習い事の生徒を諭すような、そんな程度の軽いもの。だが、鼓膜を振るわせた声音と脳に届いた意味との差に背筋を凍らす。
その言葉に、大きく表情をゆがめたお嬢が、やがてこくりと小さく頷いた。
頷いた。その意味を、理解した。
止めなければならない。そう本能的に直感した俺の肩が八雲紫に叩かれた。
脚が、地面に根を張ったかのように動かなくなった。腕が、膠で固められたかのように硬直した。呼吸と瞬き、それ以外の身動きが、一切封じられた。わずかな声すら絞り出すことを許されない。
そんな俺の前で、八雲紫がお嬢に何かを投げてよこした。重い音を立ててお嬢の手に握られたのは、俺が取り落とした白楼。
再び、二人の視線が交錯する。深く大きく、もう一度、お嬢は頷き、そして何もかもを理解して、その上で微笑む。
優しい優しい、全てを受け入れた笑顔。釈迦のような仏のような、全てを悟りきった笑顔。
「ありがとう、紫」
駄目だ。
駄目だ、止めなければならない。
「ごめんなさい、妖忌」
こんな哀しみだけを背負わせて逝かせてはならない。
あなたが謝らなければいけないことなど、一つもないのだ。例え、誰があなたをどれだけ誹ろうと、俺はそれからあなたを護ってみせる。
あなたが謝らなければならないことなど、一つもないのだ!
「――さようなら――」
細い頸に押し当てられた刃が大きく引かれ、瞬き一つした後に、夜空に真紅の徒花を咲かせる。
紅い紅い、どこまでも紅い彼岸花が花を散らす櫻を背に、濃く闇を落とす闇夜の下、盛大に花開いた。
我は眠る。
この闇の底のような檻で我は為す術もなく、我はただそこに在るのみだ。
何故にこの様なことになったのか、我には理解できない。
理解できないが故に、理解しようとする。だが、一方でやはり訝しむ。
何故に、この様なことになったのか。
我以外は泣いていた。
声もなく、ただ流れるがままに、我にはない涙というものを流していた。
何故、泣くのか。何故、我にこの様なことを強いたのか。
我は理解できない。我と我以外は、友ではなかったのか。
我は眠る。また、あの暖かい日射しの下に出られると信じて。
我は眠る。また、あの我以外と語らえる日が来ると信じて。
八.さくらさくら -八雲紫-
静寂に包まれた屋敷の庭園。住むものがいなくなった屋敷は無機物のように冷たく、そこにもとあった団欒のような柔らかい静寂はもう無い。
文字通り、言葉通りの静寂。沈黙。
そんな忘れ去られた屋敷の片隅、桜並木の奥にある、垂付きの荒縄に囲まれた巨木と向かい合うように、私は立っていた。顔は満開を喫した花々があったであろう枝先を向いたまま、微動だにしない。
桜を綻ばせるほどに温みを帯びた風は、住むものがいなくなった土地の空気を優しく循環させる。この陽気の下でなら、何もかも忘れて心地よく眠れるだろう。
何もかも忘れて、きっと安らかに。
「……斬ってくれても構わないわよ?」
所々にぽつぽつと葉を茂らせた西行妖だったが、この葉も枯れ落ちるを待つのみで、後ろに並ぶ桜並木とはまるで対称的だ。
西行妖の結界は完璧だ。幽々子の体をもって礎と為す限り、この結界がとぎれることはないだろう。
幽々子が眠り続ける限り、この西行妖もまた眠り続けることになる。咲くことも枯れることも許されぬ、輪の如き残酷な微睡みの中で、いつまでもいつまでも、眠り続けるのである。
さぁっと、そよぐ麦秋の風が私の髪を揺らした。
私は待っている。ゆりかごのようなその微睡みを想像しながら、鯉口がきられ踏み込みが轟くその瞬間を。
私は待っている。黄昏のようなその幕引きを瞑想しながら、白刃が閃き、己の体を断つその瞬間を。
だが、いつまで待ってもその瞬間は訪れない。空気はあくまで早春のそれだ。
暖かい陽光が、西行妖の枝の合間を縫って燦々と降り注ぐ。
「お嬢の友人を斬るわけにはいかんさ」
しばしの逡巡を挟んで、それが先程、自分が放った言葉に対する答えなのだと私はようやくたどり着いた。それどころか、自分が発した言葉すら忘れかけていたことに、私は少なからず驚きを覚えた。
「……此の期に及んで、私がまだ幽々子の友だと?」
何とも滑稽な話だと、思った。この巨木の根元に埋まっている人物と、その人物がここに埋まるように仕向けた私が友人同士?
ふざけた話だ。そのまま口に出してみたが、まさしくその通りだと思った。何処をどう間違えば、そんな言葉が出てくるというのだろう? 守るべき対象を失って、このもののふは心まで失ってしまったのだろうか?
友人、私たちの関係を表すには、余りにもかけ離れた言葉だ。笑いが止まらない。ああ、こんな愉快なのはいつぶりだろうか。もう、何でも話せてしまいそうなくらいに気分が良い。
「過程は下の下だったけれど、結果的にうまくいって良かったわ」
本当に気分が良い。堪えきれず、笑声を上げ肩を揺らし腹を抱える。
「本当は西行妖を滅ぼすつもりだったのだけれどね。結局、また元の木阿弥。でも、別にどうでもいいわ。私は西行妖を押しとどめることが出来ればそれで良いのだから」
そして、いつになく饒舌。面白いくらいに舌が回る。
「そう、過程は下の下。結果は中の下。幽々子が死ぬことも止む無しと、最初から心算がついていたの。あの子の命を使えば、西行妖を簡単に封じられるとね」
まったく、その通りだ。私は幽々子を、道具の一つとしか考えていなかった。あの子に対しての感情など、それ以外に一つもなかった。
「あの子のことは最初から、想定された被害の一つにしか数えていなかったのよ。保険の為に、私はあの子に近づいた。ただそれだけ。それ以上でもそれ以下でもないわ」
全部、吐露してしまおう。そうすれば、そうすれば。
「どう? これで少しはそのお人好しな目が醒めた?」
そうすれば、この侍は私を憎むだろう。そうすれば、この侍は私を恨むだろう。
そうすれば、きっと私は……。
「……なら、その涙の訳はどうやって説明する?」
動きを止めた私の道服が、たおやかに翻る。
再び西行妖を見上げる私の体は動かない。
「元の木阿弥……か」
お侍は近づくでもなく、ただ、私の後方から言葉だけを投げかけてくる。緩んだ気でお互いにお互いを辛うじて感知できるくらいの、つかず離れずといった距離。
気負いもなく、ただお互いにいることだけが出来るくらいの穏やかな距離。
「初代と共に西行妖を封じたのは、お前だな?」
静かな庭に開かれたお気軽な法廷は、その気になれば偽ることは簡単で、しかし私は、彼の言葉に抗う術を持たなかった。
「……遠い昔の事よ……」
景色は移ろい、あの当時の面影はもうどこにも残っていない。深遠なる森は切り開かれて街となり、山より流れ出でる洋々たる川は流れを変え、田畑を潤している。
誰もいなくなった空の下、私と私の目の前にある西行妖だけが変わらない。
「もう、覚えている人は誰もいない。遠い遠い昔のお伽噺」
思い出すことを、意図的に避けていた。
思い出せば辛みだけだから、そこから逃げていた。それでも、遺された言葉は確実に私を縛る。だから、今と先だけを見てきた。
流れゆく時の流れにたゆたいながら、唯あるがままを受け入れ、そのまま諦めてきた。
「……お前の想いは受け継がれているよ」
ざっと、風に梢が強く揺れる。
私から語る言葉は既に尽きた。この何処までも優しくて残酷な尋問は、お侍がその気をなくすまで続けられる。
「……この屋敷はどうなる?」
「……この土地は西行妖の呪いを濃く浴びてしまった。もう、顕界に在ることを許されない」
「屋敷ごと、幽界に飛ばすのか?」
「ええ、西行妖ごとね」
西行妖の力も、死を基底とする幽界であれば弱まるだろう。顕界では五分の結界からも、その負担を取り除くことが出来る。
それで、終幕だ。西行寺の血が途絶えた今、共に幾とせを過ごした西行妖もここにある意味を失った。
それは、私の役目もここに消失したことを意味する。私の約束が、ここに消滅したことを意味する。
「ならば、俺も一緒に飛ばしてくれ」
「……分かり切ったことを言わせないで頂戴。生きた人間に冥土は踏めないわ」
「それなら死ぬさ。この命など欠片も惜しくはない」
「死せばその御霊は閻魔天の裁きにて浄化され、次の輪廻に入る。この世に留まる例外など万に一つしかない」
それは自分が全く無駄なことをいっているという、不思議な確信。
「……お前なら、可能だろう?」
このお侍もまた、こちら側の存在となった。
彼は禁忌を犯そうとしている。一度、死んだものはもう死を恐れない。それは当然だ。死んだものは既に死んでいるのだから。
彼は死んだのだ。あの瞬間に、彼はこちら側の存在となったのだ。
「お前なら、俺を不浄の霊としてこの世に縛り付けることが可能だろう?」
だが、ここで不可能だといえば終わる。この不幸の輪転はここで終結の目を見ることになる。
私が不可能だといえば、彼は再びあちら側の人間になる。その後に彼が何をしようが、それは彼の自由だ。私が関与すべきことではない。
不可能だといえば、悲哀の連鎖はそれで終わる。
「可能よ」
それだというのに、また繰り返そうとしている自分に呆れた。
足掻いて、遺されて、どれだけ思い知れば気が済むというのだろう。
嘆いて、叫んで、どれだけ背負えば気が済むというのだろう。
「……俺は屋敷に行っている。気が済んだら宜しく頼む」
返事を返す間もなく、背後の気配が遠のいていく。勿論、返事など返すつもりもなかった。
留まる鳥すらいない西行妖を見上げながら、私は思い返す。
――私、お友達って初めて持つんです。よろしくお願いします、八雲紫――
春の日差しを受けて陽気に包まれながら、私は思い返す。
――授業料……? これ、私が持ち歩いている扇子なんですけど。あの、これくらいしか出せるものが無くて……――
花開いた桜の香りを受けながら、私は思い返す。
――あなたっていつも寂しそうに笑うんですね。もっと、心から笑いませんか?――
私は一生、彼女のことを忘れないだろう。
彼女の無垢な笑顔は一生私を縛る鎖となる。私の身に心に打ち込まれる楔となる。
また一つ、悔恨を刻んで私は永い永い執行猶予期間を過ごすのである。
せめて、彼女の笑顔に縛られていよう、私は彼女を思い出す。
彼女がいつまでも、微睡みにいられるように、私は彼女を思い出す。
いつか、彼女のように微睡む日を待ちながら。
ほとけには 桜の花を たてまつれ
我が後の世を 人とぶらはば
「華胥の夢を、幽々子」
いや、最初の詠うようなテンポといい、紫様と妖忌とのガチバトルといい、とにかく惹かれました。
最初は長そうだから後にしようかなー、なんて思ってましたが、いや読んでよかった。
あと、途中で『妖夢』という単語が出てくるんですが、誤字でしょうか?
気になったのはそこだけです。
紫と初代にも、きっと長い物語があったのでしょうね。
最後の西行法師の句とあの言葉に言葉が出ません。
本当に素晴しい作品でした。
とても魅力的なキャラクターに仕上がっていると思います。
紫と妖忌のバトルというのも新鮮でした。
よって満点を。
でもまあ、やっぱり良いですねこういうの。
では失礼いたします。