(神奈子様、何をしているんだろう)
薄っすらと開いた瞼の間から見える狭い視界の中で、布団に横たわる自分を見下ろしているのは間違いなく神奈子だ。早苗の枕元に腰を下ろし、何をするでもなくじっと見下ろしている。
(トイレに起きたのが2時頃だったかなぁ。その後一度眠ったと思うけど…今3時頃?)
深夜ふと目を覚ましたら、枕元に神様がいました。
そんな、昔話か何かのような状況なのだ。
驚いて飛び起きなかったのが自分でも不思議だが、寝ぼけた頭で判断力が鈍っていたのだろうか。
(こんな時間になんだろう?何をしにきたんだろう)
夜這い…耳年増な頭の奥からそんな言葉が這い上がってくる。いやいや何を寝ぼけた事を、と、その単語は押し殺すが、得体の知れない期待と不安で、早苗の鼓動は速まっていった。
どうされました神奈子様? 起き上がってそう聞けばこの特異な状況は解消されるだろう。けれど早苗は、事態を明らかにする事よりも、この先の神奈子の行動を知る事を望んだ。
しかしながら、思春期の乙女として真正面から寝顔を観察され続けるのにはいささか恥じらいがある。
「ん…ぅん…」
寝言と言えばこれだろうという演出で、早苗は仰向けから横向きに寝相を変えた。
顔を横に向けたので神奈子の姿が視界から外れてしまったが、全神経を耳に集中し神奈子の動きを探る。
(…何をされちゃうんだろう)
ドキドキと心臓の音が五月蝿い。
瞼の裏に浮かぶ神奈子の凛々しい横顔と、これから自分が進む見えない未来への期待に、いくらか残っていた眠気はいつの間にかすっ飛んでいた。
早苗の体感で30分が経過する頃。
早苗は待った。ひたすら身動き一つせず、逆に不自然だろうかとも思いつつ、じっと待った。けれど、ほとんど何も起こらなかった。
何一つ聞き逃すまいと耳をすませ続けているが、神奈子はほとんど身動きをしない。
一度だけ、多分指の背でだろうが、神奈子が早苗の頬を撫でた。
早苗は全身に電気が流れて髪の毛が逆立つような感覚を味わったが、それ以上神奈子は何もしなかった。
あれほど喧しかった心臓の鼓動は、いつの間にか聞こうとしても聞こえなくなっていて、興奮もすっかり冷めてしまった。それと入れ替わりに、淡い眠気がじわりじわりと頭全体に広がっていく。
(私の寝顔を見に来ただけなのかなぁ…)
たまたま今日は気分のいい夜で、特に意味もなくこんな事をしているのかもしれない。
(そういえば小さい頃におたふく風邪にかかって…あの時もずっとそばにいてくれたなぁ。諏訪子様も一緒にいてくれたっけ…?)
しだいに緩やかになっていく意識の中で、過去の記憶が、霧に映した映像のようにぼんやりと蘇る。
大丈夫かい? 神奈子と諏訪子が心配そうに、自分を覗き込んでいた…ような気がする。
(あれ…今のは夢でみた光景だったっけ…?)
普段よく一緒にいるせいか、神奈子と諏訪子の事はしばしば夢に見る。
ひょっとして、神奈子が枕元にいると思っているのも今しがたに見た夢なのだろうか。半分寝たままの頭が、夢と現実をごっちゃにしてしまっただけで、現実には誰も枕元にいないのだろうか。
しかし、再び夢と現の境界を越えつつある早苗には、もはや現実を確かめる力は無く、それを確かめようとする意識自体、いつの間にか途絶えていた。
「昨日のあれ…夢だったのかな?」
黄金の朝日に照らされる見慣れた和室には、布団から出られないまま眠い目を擦る自分だけがいて、神奈子の姿は何処にも無い。
「ん…」
神奈子の指が触れた頬に手をやる。
夢にしては妙にはっきりと感触が残っていた。
自分の体に鳥肌がたった感じだってよく覚えている。
夢か現実かなど、神奈子本人に聞けばはっきりする話ではあるのだが、
「けどもし夢だったら、なんだか恥ずかしいし…」
頬をなでられてドキドキする夢なんて、なぜそんな夢を見たのかと笑われそうな気がする。
まぁ夢なら夢でいいし、現実なら現実でいいか、と結局実に無難な結論に落ち着いた。
それにあんまりポヤポヤしていると、祝詞を読む時間が無くなる。
東風谷家の敷地内にはミシャグジ神の社叢があり、毎朝夜にそこで祝詞を読む事を両親から義務づけられているのだ。学校のある平日だろうと、それは例外ではない。
それに、通常であれば早苗が祝詞を読みあげる頃には神奈子と諏訪子が姿を現すから、昨晩の出来事が夢でないのなら、神奈子が何か言うかもしれない。
「よいてこしょー」
早苗は地方独特の掛け声とともに、小学生の頃から使っているお気に入りの毛布を体から引き剥がした。
東風谷家に代々伝わる青を基調とした独特の巫女装束。着慣れたその巫女装束を身に纏った早苗が祠の前で祝詞をあげている。
「早苗、おはようー」
いつもと同じく、その早苗の背後から諏訪子の声がかかった。
早苗は祝詞を中断して立ち上がった。
諏訪子と神奈子はいつも、祝詞の途中で現れる。どうせなら終わるまで待てばいいのだが、二神はそれを嫌がった。
『そんな偶像よりも、私達を優先しなさい!』という我侭である。
早苗は、そういう子供っぽさを不愉快だとは思わず、むしろ、神様ともあろう方々が可笑しな事だ、と好いていた。
「おはようございます。諏訪子様、神奈子様」
深く頭を下げながら、ゆっくりと、簡素な言葉に深い敬意の念を込めて挨拶を返す。
早苗が顔を上げると、祠につながる短い石段を降りた辺りにケロケロと手を振る諏訪子がいた。しかし、いつも諏訪子と一緒に現れるはずの神奈子の姿が今日に限って見えない。
「あれ?諏訪子様あのう、神奈子様はどちらに…?」
「神奈子は、ほれ、大宮の諏訪神社だよ」
大宮の、と聞いて早苗は「あ」、と声を漏らす。
「今日はあちらの注連縄を奉る日でしたね…」
なんで忘れていたのかと早苗は内心ため息を吐いた。
諏訪から南南西に数十キロ、飯田市にある大宮諏訪神社。
数ヶ月前、その大宮諏訪神社で何者かの悪意によって神木に巻いた注連縄が切り落とされるという事件があり、新聞でも取りあげられていた。神奈子がたいそう渋い顔をしていたのを、早苗はよく覚えている。
そして今日が新しい注連縄が神木にかかる日で、大きな神事の際には神奈子が出張っていくのだ。
神奈子はそういう日の夜はたいてい現地の地方神とノミニュケーションしてくるので、そうなると今日中に早苗と神奈子が顔を合わす事はなさそうだった。
「今日は神奈子様には会えませんね…」
「神奈子に用でもあったかい?」
「そうではないのですが…昨日の晩、枕元に神奈子様がいらしたような気がして」
「枕もとにぃ?幽霊でもあるまいし、何やってんだ神奈子は」
「あ、いえ、私の夢だったのかもしれません。あんまりよく覚えてないんですよ。今朝会えば神奈子様がその事について何か仰るかなぁと思ったんですけど…」
「ふぅん。気にする事ないんじゃないかい?神奈子はたまに酔狂な事をするからねぇ。まぁ夢だったなら、早苗が神奈子の事ばっかり考えてるってことさ」
「そ、そんな事ないです…や、という事もないですけど…お二人の事は良く考えますし…もう、変な言い方をしないでください」
「私は早苗の夢には出してもらえなかったのかねぇ。悲しいねぇ」
「ですからっ、夢かどうかも…」
頬をなでられてドキドキした、などと口にしないで正解だった。
諏訪子にからかわれながら、早苗は心底そう思った。
この日、諏訪には神がいなかった。けれど諏訪の人々は昨日と何一つ変わらぬ普段通りの生活を送り、そんな事には微塵も気づいていない。もはや神の在不在などは、人間達にとってなんら影響のない事だ。
諏訪に存在する全ての人間のうちたった一人早苗だけが、いつもなら神があぐらをかいている諏訪の空を、 今日は寂しく思っていた。
(神奈子様、今日もいらっしゃるかな)
日付が変わる頃、早苗は寝床につきながら神奈子の事を考えていた。
大宮諏訪神社に出張している事を考えれば、神奈子は明け方まであちらの地方神と飲んでいるかもしれないし、そもそも昨晩の事は夢だったのかもしれない。けれど早苗は、昨日の事が現実であればいいと思っていたし、今晩も神奈子が現れてて自分の頬を撫でてくれればいいと思っていた。
(もちろん、諏訪子様の事だって考えていますよ。お休みなさい、諏訪子様)
自分の社にいるであろう諏訪子の顔を思い浮かべる。
敬愛している神の事、明日の嫌いな数学の授業、お気に入りの毛布の匂い、肌に擦れるパジャマの感触、背中に感じる敷布団の心地よさ…早苗の脳はしだいに思考を定められなくなっていき、そして静かに眠りへ落ちていった。
みしり、畳が鳴った。
その音を聞いて目が覚めたのか、目が覚めかけていたからその音を聞けたのか、それはさだかではないが、早苗はたしかに音を聞いた…ような気がした。
(…神奈子様?…宴会では…夢?…今何時…)
覚醒した直後で考えがまとまらない。
音源を確認するために目を開こうとするが、体がまだ半分寝ているのか瞼は少ししか開かず、とりあえず瞼の隙間からは光が入ってこないので今はまだ夜だろう、という事はおぼろげに思考できた。
けれど起き上がろうという気力はまったく生まれてこず、後十数秒の間に外からの刺激が何もなかったなら、早苗は再び眠っていただろう。
しかし、毛布の上のおいた早苗の手の甲に何かが触れて、暗くなっていく早苗の意識を明るみに引っ張りあげた。
(え…神奈子様…帰ってきた?)
すぐそばに、気配を感じる。
今日も来てくれた、眠気と高揚感の入り混じった「にへぇ」という喜びを感じていると、ふいに手の甲に触れていた感触が消えた。
早苗は動かない。次に起こる事を待つ。
昨日のようにこれ以上は何もないかもしれない…それも十分にありえた。
けれど今日はそこでは終わらなかった。手の甲のさっきと同じ箇所に、今度は何かもっとやわらかいものが触れる。
二度目の接触は先ほどよりさらに短くすぐに感触は消えたが、それが消える瞬間、『ちゅ』という小さな音と共に、暖かく吐息を思わせる艶かしい風がふわりとなでた。
(神奈子様の…お口…?)
神奈子に何をされたのか、今何が起こったのか、だんだんと頭の霧が晴れていく。
(神奈子様のお口が…私の手に…)
理解の地平が晴れ上がった時、早苗の頭で神社の本坪鈴がカランカランと鳴り響いた。
(キスっ。神奈子様が私の手にキス!)
嬉しいとかドキドキするとか、そういう感情はもはや感じられなかった。
神奈子にキスをされたという事実が巨大な津波となって早苗の感性を押し流して、早苗の意識は次に何が起こるかのみに向けられる。
今度は昨晩のごとく頬に何かが当たった。
接触点を基点にして全身に痺れが広がっていく。
鋭敏になった早苗の触覚が触れているのは唇ではないと判断した。
先ほどの手の甲への触れ合いと同じ用に、最初のその感触はしばらくして消えた。
さっきと同じならば、次に起こることはないことは決まっている…。
ちゅっ
そして予想通りのことが起こった。
早苗の脳髄で、豊穣した五穀がライスシャワー。
しかし不思議と思考は明らかになって、早苗は理性を取り戻していった。
あるいは波が大きくなりすぎて、小さな早苗の世界には影響を及ぼさなくなったのかもしれない。地球に生きる者が、銀河の世界を実感できないように。
早苗は素直に驚いていた。神奈子の口付けを頬に受けただけで自分の感情にこれほどの影響を受けるとは。
(なんだろう…)
巫女として一人の人間として神を信仰してきたが、それ以外の個人的な感情の有無についてはあまり考えたことがない。
早苗の唇に何かが触れて、また早苗の意識を今この瞬間に引き戻す。頬の感触はいつのまにか消えていた。
今あるこの感触が唇から消えたら、きっとその次には…。
(どうしようかな)
妙に冷静になっている自分がなんだかおかしかった。
はて、他人に唇を許した事はあったろうか。少なくとも物心ついて以来は一度も無かったと思う。
(…一度くらいあってもいいのにね)
我ながら悲しかったが、それはさておき相手が神様なら初めての経験としてはこれ以上申し分ないだろう。感情面については…それはよくわからないけれど、きっと後からついてくるだろう。
そして唇から一回目の感触が消えた。
(…!)
早苗は覚悟を決めた。自然と唇に力が入り、無意識に少しばかり突き出してしまう。キスの後、今までの自分は何か変わってしまうのだろうか。いやそれは大げさか。
早苗は、全感覚を唇に注いでその瞬間を待った。
一秒。
二秒。
三秒。
四秒。
五秒。
そして次の瞬間。
ベチィッ!!
「痛ぁ!」
突然、デコピンを食らったような痛みがオデコを襲った。多分、その通りデコピンをくらったのだろう。
「!?!?」
驚いてたまらず起き上がる。
周りはまだ真っ暗でほとんど何も見えないが、布団のそばに人の影があるのは見えた。
「な、なんで…」
涙目で訴えかける。
「なんで、じゃないよバカチン」
聞こえてきたのは神奈子の声ではない。早苗は何が起こっているのか理解できなかった。
階段を上っていると思ったら下りていた、そんな気分だ。
「す…諏訪子…様…」
間違いなく、そこに見える影の主は諏訪子だった。
そんな馬鹿な、神奈子様はどこに…。
思考を空回りさせて数秒後、やっと早苗は状況を理解する事ができた。
…と、この時は確かに思っていた。
(そ、そっか、神奈子様と一緒に諏訪子様もきてたんだ)
後日早苗はこの出来事を思い返して、人間の思い込みは怖いと心底思ったという。
「す、諏訪子様もいらしたのですね…」
その発言の直後、明らかに部屋の空気が冷たくなった。
「………。早苗。私しかいないんだけど。ここには。最初から。ずっと」
「………へ?」
刻み込まれていく諏訪子の言葉を反芻してやっと、早苗はたった一つの真実にたどり着いた。
階段を下りていると思ったら、上っていた。けどもっとよく周りを見回してみたら、そもそも階段なんてどこにもなかったのだ。
「早苗、最初っから起きてたよね。なんか鼻息が荒くなっていたし」
鼻息が!
早苗は愕然とした。まったくそんな自覚は無かったのだ。思考は冷静なつもりだったのに、身体は正直だったということか。認めたくないものだ。
「……いえ…」
「起きてたよね」
「……はい、起きてました」
興奮して鼻息を荒くしたまま馬鹿みたいに寝たふりを続ける自分と、意地の悪い笑顔でそれを見下ろす諏訪子。その光景を思い描いて、早苗は死にたくなった。
「寝たふりしてるから悪戯してみたんだけど、最後あの後どうなるかは分かってたよね」
「……まぁ」
「なんで止めなかったの。ちゅうしてもよかったの?」
「……いえ、まぁ…どうでしょう…」
「それとねぇ」
そして次の瞬間、諏訪子の言葉責めは最高潮に達した。
「私を誰と勘違いしていたの?」
「……さぁ……誰でしょうか…」
ハァ…、諏訪子があきれた様子でため息を吐いた。
アイドルの写真にキスしているところを母親に目撃されたような、そんな羞恥心が途切れる事なく吹き荒れてさらに早苗の心をボロボロにした。
「今朝の話を思い出して、早苗の可愛い寝顔を見にきたのに…ああ、本当に悲しいねぇ。早苗の心に私はいないのかねぇ」
「そ、そんな」
初めこそは恥ずかしさもあいまって諏訪子に申し訳なさを感じていた。
だがしだいに、早苗の胸に小さな黒い波紋が広がり始めた。自分は己の純情にしたがって行動しただけで、その淡い想いを邪な念で弄んだのは諏訪子様じゃないか。それをなんで責められなければならないのか。
醜態はすべて諏訪子のせいじゃないかと、怒りの波動が早苗を動かす。
「も、もう、諏訪子様の馬鹿! あああ馬鹿だなんて言ってすみません。でも馬鹿っ。ひどいです!」
早苗はがばっと頭まで布団を被り、諏訪子に背を向けて不貞寝をした。
くっくっく、と諏訪子がしかたないねという様子で笑う声が聞こえる。
「悪かったよ。けれどねぇ。私は最後に止めたけど、神奈子なら止めなかったよ。あいつは例え悪戯でも、したいと思ったら本当にやる。人間にはいくつか取り返しのつかない事があるけれど、早苗くらいの年の女の子にはちゅうの思い出もその一つなんだからね。もっと大事にしなきゃだめだよ」
「…諏訪子様はお古いのです。今時の女の子はキスくらいたくさんしてます」
拗ねた声で早苗が言い返すと、その腰の辺りを諏訪子がぽんぽんと毛布の上から叩いて、ゆっくりと擦り始めた。
そうされると、早苗は腹立たしかった気分が急激に削り取られていくように感じた。これが神やすりか。
「私は早苗の話をしているんだよ。世の中が変わったからって、お前が自分の乙女心を変える必要はないんだからね」
「私は…神様となら、いいかなって思ったんです」
神奈子様となら、と言わなかったのは早苗のとっさの機転だったが、例え相手が諏訪子だったとしても、やはりキスを許していたのでは、と思う。
「そりゃ光栄だ」
早苗は、背を向けた自分の後頭部に、諏訪子が口付けをしたのを感じる。
鼓動の高鳴りも興奮も感じず、ただ安心そこにがあった。
「さて、私はもういくよ。神奈子も今頃は酔いつぶれてイビキをかいているだろう。お休み早苗」
「あ…諏訪子様も、お休みなさい」
慌てて起き上がって、諏訪子に顔を向ける。
「やれやれ、やっと顔を向けてくれたかい。悪戯してわるかったね。じゃあまた」
そう言って諏訪子は、月明かりを受けて微量に光るカーテンにすっと消えた。カーテンも、閉じられた窓も、何一つ音を立てなかった。
ぼふり、と放心したように布団に倒れこむ。
(諏訪子様、ほんとに私の寝顔を見に来ただけだったんだ…)
暇な事だと、苦笑する。
(ちょっとだけしてみたかったなあ、キス)
クラスの友人が、自慢げにキスの経験を語っていた事を思い出す。
(…そう言えば、いつしたとか、どこでしたとか、全部ちゃんと覚えてたなあぁ)
数をこなしている子でも、やはり一回一回の経験はしっかり覚えているのだろうか。
早苗くらいの年頃にとってその思い出は貴重なものだ、そう語った諏訪子の言葉は、やはり間違いないのかもと思う。
いつか自分もするのだろうか。相手は誰だろう。どんな気持ちになるんだろう。
あれこれと考えているうちに、意識が暗闇に溶けていった。
みしり、畳がなった。
(…また)
この際、寝顔を見に来るのはもう勝手にしてくれればいい。
だけど忍び込むなら静かにやってくれ。起こすな。ええかげんにせいよ。
眠りを邪魔されていささか凶暴になった早苗の脳がそうぼやいた。
だがその言葉が口に届く頃には、大分理性のオブラートがかかっていた。
「諏訪子様…私もう眠たいですよぅ…」
神奈子は宴会で不在なのだし、おおかた暇人の諏訪子が時間を置いてまた寝顔を見に来たのだろうと、そう思ったのだが。
「え…なんで諏訪子がでてくるの」
諏訪子とはまったく違う声が、早苗の耳に飛び込んだ。
驚いた早苗が身体を起して目をこすり声の元を探すと、諏訪子の身長よりも大分高い影が、布団の横に立っていた。
「…神奈子様!失礼しました…。で、でもなんで…」
神奈子は寝起きである早苗のいささか言葉足らずな問いかけには答えず、突っ立ったまま、歯を食いしばって何か唸っているようだ。
暗闇の中、かなり怖い。
「うー…うー…うー」
「か、神奈子様?今日は大宮のほうで宴か…」
最後まで言い切らないうちに突然神奈子が早苗に襲いかかり、早苗は布団に押し倒されてしまった。
「早苗の馬鹿!何で諏訪子がでてくるんだい!早苗の心にさえ私の居場所はないのかぁー!」
「きゃぁぁ!?か、神奈子様!?…うっ、お酒臭い!」
押し倒されて無理やり羽交い絞めにされた早苗の鼻腔を、神奈子の全身から発せられるアルコールの匂いが襲った。
これはまずい、絡み酒だ。早苗の顔がげっそりとする。
神奈子は基本的にはザルだが、時に調子にのってお酒に飲み込まれると、絡みグセをだすのである。
「あんたの寝顔を早く見たいと思って無理して帰ってきたらこの仕打ちかっ。そりゃあんまりじゃないかぇ!」
「違います先ほど諏訪子様がいらしたのです、だから…」
「嘘をつくんじゃないよ、こんな時間に諏訪子が何の用だい!早苗は私のことなんてこれっぽっちも考えてないんでしょう!」
「嘘じゃないですよ!神奈子様だってこんな時間にきてるじゃないですか」
「私はあんたの寝顔を見に来たっていってるだろ!話を聞いてないのかい!やっぱり私の事なんてどうでもいいんだ!」
(か、会話が成立しないっ…!)
しかし早苗はこの年にしてすでに酔っ払いの対処を会得していた。これも神様の教育の賜物である。
ふう、と精神を落ち着かせる。…同時に、神奈子への憧憬もいくらか無くなっ気もしたが。
ぎゃーぎゃーと騒ぐ神奈子の勢いに引きずられることなく、一切を無視して、早苗は淡々と話す。
「神奈子様、昨日の晩もここにいらしてましたよね」
「なにぃっ神奈子ってのはどこのどいつだ!私だって昨日は早苗の寝顔を見に来ていたのに!」
「私にとって、神奈子様は神奈子様以外におりませんよ。神奈子様は神奈子様ただ一人、掛け替えのない神奈子様です」
「神奈子、神奈子…。おぁ、そうだ、私も神奈子だ」
「はい。神奈子様は神奈子様だけですよ」
「…そう…だったかね…」
「昨日は寝たふりをしてましたけど、ほんとは起きていたのです。神奈子様何しにきたのかなって、それを朝がたに聞こうと思っていたのですが、神奈子様はもう大宮にいってしまっていて」
「だから寝顔を見に来たってなんども言ってっ…」
「ありがとうございます。その後に話の流れで昨晩こんなことがありましたと諏訪子様にお話をしたのです。そんな事があったから、今日は諏訪子様も気まぐれで私の所へきたのでしょう。だから神奈子様がここにきた時、私はまた諏訪子様がやってきたと思ったのです」
「うー…早苗、起きてたんだ」
「はい」
「何で寝たふりをしてたのさー」
「神奈子様があんな時間にくるからです。何をしにきたのかと、ドキドキしてたのです」
「むー…そっか…」
そう言って神奈子は急に静かになった。早苗を羽交い絞めにしていた腕の力も、だんだんと抜けていく。
「あー」
一言呻いて、神奈子は早苗から体を離し、ごろんと仰向けになった。それでも肩と肩はほとんど触れ合う距離だが。
「醒めた。すまないね。飲みすぎたよ」
「よく大宮から戻ってこれましたね」
「向こうを出るときはまだシラフだったんだがね。無理に飛んだから余計に酒が回ったのかも」
「今日はもうお戻りにならないかと…」
「そのつもりだったんだがね」
「…………」
大きくも無い布団に一緒に横たわる二人の間に、むずがゆい沈黙が流れた。
なぜわざわざ帰ってきたのかについては、神奈子自身が先ほど力説している。
早苗は気恥ずかしくなって、毛布をひっぱり上げて鼻元まで顔を隠した。
ちらりと顔を横に傾けると、暗闇のなかすぐ隣に神奈子のすらりとした口元が見える。そのまま目線をあげると、あお 向けのまま天井を見上げる神奈子の顔全体が見えた。
不意に神奈子が少し首を傾け早苗の瞳を見つめ返したので、慌てて早苗は天井に向き直った。
「注連縄打ちは、ど、どうでしたか?」
「…うん、立派な注連縄だったよ」
返事までの一瞬の沈黙に、早苗は自分の動揺を見透かして笑う神奈子の姿を感じた。
「逞しくて力強くて…ちょっとやそっとじゃ千切れない、一昔前とは比べ物にならないほど良い注連縄だ」
「神様が喜んでくれて、職人の方も誇らしいですよ」
「受け継いだ技術をしっかりと編みこんだんだろう。人間はすごいよ。受け継いで、さらに強くして…」
神奈子は一度、そこで言葉を切った。そしてため息交じりの言葉が続く。
「だがなぜ、信仰は受け継いでくれないのだ」
しまったやぶ蛇だったと、早苗は後悔した。先の一瞬の沈黙は、自分を笑ったのではなかったのかもしれない。
「あいつらめ、打ちの間中、慰労会で振舞われる寿司の事ばかり気にして儀式の意味になんか一切気をはらっちゃいない。ま、それはそれで私の気質に良く似ているのだが」
くっくっく、と笑う神奈子の顔のは、人間達への愛おしさといくらかの寂しさがこもっているように見えた。
「神奈子様…」
慰めるすべを持たない早苗は、ただ神奈子の名を呼ぶことしかできなかった。
「早苗や、こっちを向いておくれ」
「え…」
神奈子が体を横に向け、肩肘を突いて顔を支えながらそういった。
早苗もモゾモゾと姿勢を変えて神奈子と向き合う。
深夜に一つ屋根の下で同じ布団の中、こんな間近で向かい合うとは。そうやって一瞬は高まり始めた早苗の気持ちだが、見つめる神奈子の深い瞳にその興奮を吸い込まれ、不安定にたゆたう。
「私の瞳をまっすぐに見てくれるのは今や早苗一人になってしまった。…今に始まったことじゃないけどさ」
「…諏訪子様もいらっしゃるじゃないですか」
「諏訪子…諏訪子か」
「なんです…?」
神奈子が妙に含んだ言い方をするので、早苗は何かあったのかと不安になった。
「諏訪子は、私ほど寂しがってはいないよ」
「そんな事、ないと思いますけれど」
「諏訪子はこの変化を当たり前の事だと考えているんじゃないかな」
「そんな…。諏訪子様だって、寂しがっていますよ」
「自分が寂しい事も含めて受け入れているんだよ」
「…どういう…」
はっきりとは意味が理解できない。
早苗のその不安が顔に表れたのか、神奈子は安心させるように早苗の頬をなでた。
「…遠い昔にお前たちの祖先が私たちを創った。いや想ったというべきか。自分達を取り巻く未知の自然と向き合うために、少しでも理解しやすいよう、自分達に似せて私たちを創り想った…なら、自然を理解できたとき私達はもう必要ないんじゃないかい?そうやって、人間達が私達を忘れることそれ自体が自然の流れだと、諏訪子はそう考えているのさ」
「そん…そんな事、駄目ですよ。私は嫌ですよ」
否定したいという必死な思いだけが、つたない言葉になって口から飛び出した。
訴える早苗の瞳を神奈子の瞳が微笑みで返す。
「うん。私も嫌だ。けど…実のところ諏訪子のような感じ方が自然なようだ。他の神も似たような意見を持っている」
「そう…なのですか…?」
「私は変わり者らしいよ。私は一度住処を追われているから、きっとそのせいかもしれない。その時に住む場所がないことがどれほど辛いか身にしみた。将来を考える事もできない、腰をすえて何かを創ることも成す事もできない。明日を考えるだけで精一杯…。あの時以来、私はある部分では並の神様よりもよっぽど臆病になってしまったのかもしれない。軍神が聞いて呆れるねぇ」
こんな時どんな言葉を返せばいいのか、早苗は黙って神奈子を手握ることしかできなかった。
握った手を神奈子が握り返してくれて、早苗は少し安心する。それを感じてしまって、こんな時でさえ神奈子に支えられるだけの自分が情けなくもあった。。
「出雲を追われた時でさえ、私にはまだ今より信仰があった。だがもし今信仰の大地まで無くしたなら、その時私はどこへ行けばいい?消え行くしかないのか?それを考えると、私は恐ろしくてたまらない。こればかりは、諏訪子も分かってくれないらしい」
突然、神奈子が早苗の手を離し、起き上がった。
「あ…神奈子様…?」
コホンと咳払いをして、弱々しく笑った。
「早苗や、今晩の私はたいそう酔っ払っている。今話したのは酔っ払いの戯言だ。あまり本気にするのではないよ」
酔っている様子など微塵も感じさせずそう語る神奈子の姿、普段の猛々しさにはまったく見せなかったその脅えに、早苗は堪らなくなった。
起き上がって、もう一度、両手で強く神奈子の手を握る。
「神奈子様。他の誰が神奈子様を忘れても、私は神奈子様を想い続けます。それ以上何もできないけど、最後の一人になっても、絶対に私の信仰は消えません。神奈子様のいない空は寂しすぎるのです。神様のいない世界なんて私には耐えられません。ですから…」
早苗は何とかして神奈子の力になりたかった。けれども一人の人間でしか無い自分にそんな大それた力は無いと気づかされ、結局ただただ懇願の言葉が溢れていった。
「早苗」
神奈子が一言と呼んだ名前は、しっかりと早苗の耳に届いた。
「…はい」
神奈子は身を捻って半ば早苗にのしかかるような体勢になった。
早苗のすぐ目の前に、神奈子の瞳がある。早苗の頬が紅潮していく。
母性本能をくすぐる様な弱った微笑み、早苗は初めて、神奈子がそんな表情をしているのを見た。
神奈子は早苗に体重がかからないようしっかりと両手で上半身を支えてはいるが、その手から力を抜いた時、早苗は神奈子の半身を支えられずに二人は布団に倒れこむだろう。
神奈子はそっと、早苗の首筋に口をやった。
「今日はお前を抱いて眠りたい。明日の朝、一人で目を覚ましたくない」
耳元で囁かれる神奈子の声に、早苗は強い陶酔が体に広がるのを感じる。
「はい…。神奈子様…」
「心配しないでおくれ早苗。すべては一夜限りの酔狂。神がこのように弱くあろうはずがない」
「神奈子様は…絡み酒ですから…酔うているのですよ」
少しずつ神奈子の体重が早苗の細い身体にかかり、そのまま、早苗は抵抗することなくその身を横たえていった。
「早苗…」
神奈子は早苗に覆いかぶさったまま、一度強く早苗を抱きしめ、その鎖骨のくぼみから首筋にかけて吸い付くような口付けをしながら、早苗の匂いを堪能していた。
「神奈子様…」
初めて感じる快感に、どうしようもなく早苗の身体から力が抜けていく。熱い心地よさに意識がにじむ。その意識の中で、神奈子の言葉がこだまのように響いて聞こえた。
「なぁ早苗、私にとって今の世は晩秋のように感じられる。今でさえ寒いのに、きっとこれからもっとひどくなるだろう。けれど早苗、お前だけは私の春なんだよ。こうしてお前の側にいると私はとても暖かい。信仰が消えていくこの世に、なぜ早苗のように力のある風祝が生まれた?なぜ今更?私はお前が生まれた時、きっとこの先に何か大きな変化があるのだと思ったよ。自然がすることには大なり小なり必ず何か仕組みがある。自然の権現である我等がそう言うのだから間違いない」
神奈子が添い寝するように姿勢を変え、早苗はそのまま神奈子の豊満な胸元に顔を抱き寄せられた。
早苗の鼻腔を、甘いようでありながらどこかお茶の葉の透き通った渋みを感じさせる、不思議な香りが満たす。
神の胸には催眠効果がある、いつか神奈子がそう言っていたような…と、早苗は溶けかけた意識の中で思い出していた。
「それともこれも一つの流れなのか? 私は今まで信仰が薄れていくのをただ指をくわえて眺めていた。諏訪子や他の神はこれを自然だと考えているし、臆病者の私は一人では理から抜け出す事ができなかった。けれど今なら、早苗が共にいてくれるなら私は何かをやれるかもしれない。そんな気持ちにさせてくれるお前が、なぜこの時に生まれた…? 我々はただ消えていくのではないのかい…? 別の違う道があるのかい…?」
一つでも多く神奈子の言葉を理解したいと早苗は思った。けれど神奈子の神おっぱいの力は否応無く早苗を現の向こうへと引きずりこみ、結局その語りの半分も記憶に留めておく事ができなかった。
翌朝、早苗は布団に身体を起してぷくーっと頬を膨らませた。
「…さっさと帰っちゃうなんて、ずるいですよ。自分だけ満足して…」
早苗が目を覚ました時、すでに神奈子はいなかった。
「私だって、目を覚ました時に神奈子様のお顔を見たかったのに」
神奈子は自分だけ早苗と二人きりの朝を堪能して、早苗のことはほったらかしにしてさっさとどこかへ行ってしまったようだ。あるいはこれも、「昨夜の事は一時の夢なんだよ」という神奈子のメッセージなのかもしれないが。
それはさておき、次に神奈子と顔をあわせた時に自分はどうすればいいのかと早苗は眉を寄せた。
早苗は神奈子の事を、何者にも屈しない雄々しい神だと思っていた。いや実際基本的な性質はその通りなのだろう。けれど、その陰には酷く人間臭い弱々しい一面もあった。
それを知った今、自分に何ができるのだろう。
「…そういうことじゃないよね」
そんな事を考えるのは違うと、早苗は思う。
諏訪に鎮座し人間達を見守る勇ましい諏訪の軍神、それが八坂神奈子。
多少不思議な力があるとはいえ、一介の人間に過ぎない自分が神奈子に何かしてあげようと考える事など、思い上がりに違いない。
自分はただ、神様の側にいて神の意思に従えばよいのだ。時々お酒に酔ったときにでも、愚痴を聞かせてもらえればいい。
けれど一つだけ、例え神様に命令されても止められないことがある。
神様を想う事、それだけは、自分は一生涯止められないだろうと思う。思い上がりでもなんでもなく、一人間として自分は神を愛しているのだと、早苗は再確認した。人間としてのその感情だけは、神様にも干渉させない。
「よいてこしょ」
早苗は立ち上がり、大あくびをかきながら背伸びをした。
早く着替えて、朝の祝詞を挙げねばならない。
「早苗、おはようー」
祝詞を読む早苗の背後から諏訪子の声がかかった。
早苗はいつも通り、振り返って深々と頭を下げた。
「おはようございます」
ゆっくりと、視線を上げる。
祠につながる階段の下には、すわすわと手をふる諏訪子と、その隣には眠そうな顔をした神奈子がいた。
「…おはよう、早苗」
「神奈子様、お疲れのようですね」
「昨日の夜は無理に大宮から帰ってきたからねぇ…」
「もう少しゆっくりとお休みになっていればよかったのです」
「…む…」
朝方一人でさっさと帰ってしまった事への皮肉は、しっかりと神奈子に伝わったようだ。ごまかすようにポリポリと頬をかきながらそっぽを向く神奈子。
一人その出来事を知らない諏訪子だけは、いつもの様子だ。
「早苗こそ寝不足なんじゃないかい? 神奈子め、酔っ払ったまま早苗の寝床に忍び込んだそうじゃないか。まぁ私も人の事いえないけどね」
「…ええ、難儀しましたよ。神奈子様は絡み酒で」
「ああ、悪かったね。しかし酔うていたせいかあんまり記憶がない。早苗が良い匂いだったのは覚えてるんだが」
「早苗に何してんだお前ー!」
「あはは、羽交い絞めにされただけですよ」
あれはやはり一夜かぎりの逢瀬だったのだと、早苗は神奈子の意図を理解したが、感情はやはり残念がった。
大地が在り、天が在り、そして天と大地の間に神が在る。そのどれもが、人間にはとても太刀打ちできないほど強大で、この光景は不変なものに違いない。もしそのどれかが欠ける時は、その時はきっと人間の世界も終わりを迎えるか、とうに消えさっていると思っていた。
けれど早苗は、気づいた。
自分以外の人間達には神様が見えていない。神が無くても、人間達の世界は続いていく。
変わらないと信じていた世界が、ガラガラと音をたてて崩れてしまった。
多くの人間達にとって、世界はいつまでも変わらず目の前にあるもので、それが当たり前の常識だ。けれど自分の場合は違うのだ。私の見ている世界は、いつかは欠けてしまうかもしれない柱を含んでいる。
私の世界を守るために、私は常識に囚われてはいけない。
神奈子の浮かぶ空を見上げながら、早苗は恐ろしくなった。
前回の諏訪子の想い、今回の神奈子の想い。それぞれの考え方を上手く作りこんでいて、思わず分社を建てたくなりました。
よいてこしょーでにやっときて、神やすりで爆笑させてもらいました。
一度、神おっぱいを体験してみたいです。
>酔ういているのですよ
誤字ですかね。
あと早苗さんは性別という常識に捕らわれてない辺りさすがですねw
良かったです。
KASAさんの作品は心理描写が秀逸ですね
読んでいて目が離せなくなります
諏訪子様とイチャイチャしてもいいんですよ!