店の窓を叩く風の音に混じり、聞こえてくるメジロの鳴き声。
ついこの間まで雪が降っていたというのに、もう春の鳥が鳴いている。
月日の流れとは早いものだ、最近は特にそう感じる。
光陰流水の如し、人生は朝露の如し。
どちらも月日が流れるのは早い、人生を大切にしろという意味の言葉だが、それには僕も同意見だ。
人間より少々長生きである僕だが、人生を大切にする為、つまりは心を豊かにする為努力している。
その努力とは?
もちろん、本を読むことだ。
本を読む事、新しいなにかを知る事で心は豊かになる。
日々その努力を続けている僕の心とても豊かだといえる。
今読んでいるのは、『その前夜』というロシアの物語だ。
この話は以前に外の世界の演劇で見たことのある話だ。
あの演劇は自体、とても素晴らしいものだったが、劇中に歌われた歌も素晴らしかった。
確か出だしは……
「い~のち短し、こ~いせよおと~め~、あ~かきくち~びる、あ~せぬ~まに~」
ガシャン
何かが割れるような音に、歌を止める。
誰かに下手な歌を聞かれていたのだろうか?
少々の気恥ずかしさを感じつつ、読んでいた本を閉じ、音が鳴った方へと視線を向ける。
いつも通りの昼間なのに薄暗い店内、所狭しと並べられた物、物、物。
そこに人影は無く、窓ガラスを割られた風でも無い。
変わった所といえば……あれか?
先ほどの破壊音の犯人と思われるのは、中板の外れた棚と、その棚から投げ出されたと思われる小箱。
どうやら、僕の読書の時間を中断した犯人は、棚の寿命のようだ。
僕は本を勘定台の上に置き、中板の外れた棚に歩み寄る。
この棚との付き合いは長く、この店を開いた時からなので、もう20年以上になる。
大して重いものを乗せていなかったのに壊れるなんて情け無いと叱るよりも、今日までよく頑張ってくれたと褒めるべきだろう。
「さて、被害のほどは?」
外れた中板を取り除き、棚に視線を向ける。
中板は……割れていない。
棚自体も……しっかりとしている。
中板が落ちた原因は、湿気の性かパッキリと割れている棚受のようだ。
このくらいならすぐに直る。
棚受けさえ作り直してやればまた、今までのように商品を支えてくれることだろう。
「それよりも、問題はこっちか」
地面に放り出された小箱を持ち上げる。
さて、この小箱の中身は何だっただろうか?
僕は記憶を探りつつ、小箱の蓋を開く。
……ああ、そうだった。
この箱の中身は、十年ほど前に手に入れたペアグラス。
なかなかにお洒落な形が気に入っていたのだが、箱の中身の半分は記憶どおりの形で鎮座しており、もう半分は記憶と程遠いアバンギャルドな姿で箱の中に散らばっていた。
お気に入りが割れてしまい、不運と見るべきか、片方は無事に残っていて幸運と見るべきか……
手を切らないように気をつけながらガラスの破片を摘み上げる。
前衛的なガラス片も置物としてはなかなかに見所はあるかもしれないが、とてもグラスとはいえない代物。
飲み物を注いだとしてもすぐにこぼれてしまうだろう。
さて、このグラスともいえない様なガラス片をどうしようか。
すべての物には神が宿る。
無事なグラスにも、中板が落ちた棚にも、そしてこの割れたグラスにもだ。
そして、歳月と共に宿った神の力が物に宿ってゆく。
長い年月を経て力をつけた物が妖怪化したものを付喪神という。
この店に並んでいる商品の中にも、いずれは付喪神へと変質する事もあるだろう。
しかし、壊れてしまった物が付喪神に成る事は殆ど無い。
不完全な物には不完全な力しか宿らないからだ。
少々の破損なら問題は無い。
中板が落ちた棚等がそうだが、少し手を加えてやればまた完全な姿に戻り、力を宿し始めるだろう。
しかし、このグラスは先ほどの棚と違い完全に壊れてしまっている。
もし、一度溶かして以前と同じ形に作り直したとしても、以前と同じ神は宿らないだろう。
覆水盆に帰らず。
溢した水を一生懸命掬ったとしても、もう別の水なのだ
道具もまた然り、完全に壊れてしまったものは元には戻らない。
創り直すか、捨ててしまうか、このまま置いておくか。
古道具屋としては、道具とも呼べないものを置いておくのはおかしいだろう。
だからといって一度拾ったものを捨ててしまうのは僕の矜持が許さない。
そうすると、一度溶かして、別の物へと作り変えることになる。
それはもう、ペアグラスとは呼べない物に成るだろうが、これは仕方の無いことだろう。
さて、このガラス片を創りかえるとなると、一度溶かさねばならない。
しかし、ストーブでは温度が足りないだろうし、手元に八卦炉は無い。
はてさて、どうしたものやら。
僕は取り合えず、ガラス片を別の箱に入れ、無事なほうのグラスを別の棚にしまう。
―――カランカラン
来客を告げるドアベルの音。
僕はガラス片の入った箱を、壊れていない棚の上に置き、入り口の方へ顔を向けた。
店内に入ってきたのは、白い洋服を着て、大きなトランクを持った黒髪の女性。
珍しい人物が随分と珍しい格好でやって来たものだ。
「やあ、いらっしゃい九代目」
彼女の名は稗田阿求。
さまざまな知識と資料を持つ稗田家の当主だ。
調べ物をするのに彼女の家へお邪魔したことは何度かあるが、彼女がこの店に顔を出した事は数えるほどしかない。
「お久しぶりですね。店主殿」
「ああ、ひさしぶりだね、幻想郷縁起が完成したとき以来かな?」
彼女は百数十年ごとに転生を行い、幻想郷縁起を作成するために生まれ代わっている。
今代の幻想郷縁起を編纂するに当たり、僕もインタビューや香霖堂目録の貸し出しを行うなどの形で彼女に協力したのだ。
まぁ、出来上がった幻想郷縁起の僕の項目、特に香霖堂の商品項目で少々もめたりはしたのだが、それも今となってはいい思い出だ。
「あのときは大変でしたね。店主殿は私の紹介文に、なかなか納得してくれないので困りましたよ」
「人の店の商品の事を『買っても役に立たない』やら、『買うだけ無駄』なんて書かれて納得するほうがおかしいだろう。今からでも遅くは無い、書き直してはどうだい」
「あらあら、でも幻想郷縁起は由緒正しい歴史書ですので間違った事は書けません。店主殿こそいい加減諦めてはどうですか?」
「どうやら、幻想郷縁起を書き直してもらうには、僕の店の商品に対する君の意識を変える必要があるわけだね。よろしい、ならばもう一度この店の商品の素晴らしさについて語ることにしよう。まずはこのテレビジョンからだ。これは遠くの景色を映し出すための道具だ。しかし、残念ながらそのような景色は写ったことがない。だがそれだけでこれを価値の無い道具だと考えるのはいささか早計というものだ。物事は多角的に見てこそ始めてその真価が見えてくる。このテレビジョンで言えば以前に人や遠くの風景を写していたということが重要に―――」
「くすくすくす……」
阿求は口元に手をあて、堪え切れないといった風に笑っている。
僕は何かおかしな事を言っただろうか?
「店主殿、貴方は求聞持の能力を持つ私に同じ話をするのですか?以前にも一字一句同じ事を言っていますよ」
はて、そうだっただろうか?
いや、一度見た物を忘れない程度の能力を持つ彼女のことだ、過去の僕は同じ話をしたのだろう。
だからといって、このまま香霖堂の酷い説明が後世に残るのを指を咥えて見ている訳にも行くまい。
「温故知新という言葉を知っているかい?一度見聞きした事でも時や状況が変わればまた新しい発見があるという言葉だよ。 一度聞いた話をもう一度聞くというのは決して無駄なことなんかじゃない。もう一度聞けば僕の言葉に感動し、 香霖堂の道具の素晴らしさを後世に伝えたくなるかもしれないよ?」
「ふふふ、相変わらず貴方は負けず嫌いですね」
「負けず嫌いとは心外な。それではまるで僕が聞き分けの無い駄々っ子のみたいじゃないか。僕は誰よりも僕の正しさを信じているだけだよ」
「それを一般的に負けず嫌いって言うんですよ」
「おや、そうなのかい?そんな事ははじめて聞いたよ。どこの辞書にそんなことが書いてあったか知らないけど、その辞書の『負けず嫌い』の項目を『信念を持った人』に書き換えておくことをお勧めするよ」
「はいはい、機会があればそうしておきますね」
どうやら彼女も納得してくれた様で何よりだ。
それでは引き続き、香霖堂の商品がいかに素晴らしいかを……
「っと。そういえば今日は何の用があって来たんだい?商品を買ってくれるのなら大歓迎だよ」
「ああ、忘れていました。今日はお世話になった皆さんに挨拶をしてきたんですよ。そして、最後の場所が此処なんです」
「挨拶?」
新年の挨拶だろうか?
いや、年が明けてもう一月以上たっているし、そもそも彼女が新年の挨拶をするためにこの店を訪れたことなど無い。
彼女もそろそろいい年だし、誰かと婚約でもしたのだろうか?
「皆様のご尽力により、幻想郷縁起を纏め上げることができ、転生の儀式の準備も済みました。つきましては、今後生まれるであろう十代目もよろしくご引き回しの程をお願いします」
そう言って彼女はペコリと頭を下げた。
幻想郷縁起を編纂するために生まれる御阿礼の子。
彼らは皆短命で、30歳まで生きた者は居ないという。
きっと目の前の阿求もそうなのだろう。
初めて出会った時は、まだあどけなさが残る少女だったのだが、今では立派な女性だ。
つまり、彼女はもうすぐ……
何時の間にこんなにも時間が経っていたのだろう。
時の流れに自分だけ取り残されてしまったような心細さを感じる。
ああ、そうだった。
これは人里に住んでいた時にいつも感じていたものだ。
いつも僕を残して先に逝ってしまう人間。
何時までも変わらない僕に対する妬みと恐怖の混じったような視線。
それが嫌でこんな辺鄙なところに移り住んだというのに……
「そんな顔をしないでください。分かっていた事ですから」
彼女の言う通り、分かっていた。
分かっていながら気づかないフリをしていただけだ。
阿求も霊夢も魔理沙もきっと僕を置いて先に逝ってしまう。
「大丈夫ですよ。妖怪や貴方達は待っていてくれるのでしょう?」
「……ああ、待っているよ。百年でも二百年でも」
人間に置いて行かれるのは寂しい事だが、人との繋がりを捨てきることが出来ないからこんな所に住んでいるのだ。
きっとそれはこれからも変わらないだろう。
それは、僕と人間の絆。
「それに悲しいことばかりじゃありません。私がやるべきことはやってしまいましたから、
後の人生はすべて余興。今まで出来なかったことを楽しむんです。悲しんでいる暇なんてありません」
本当に、心の底から楽しそうに笑う彼女。
「ほらどうですか?初めて洋服を着てみたんですが似合っていますか?」
両手を広げ、その場でクルリと回る彼女。
その服装はいつもの書生風の着物と袴ではなく、白いワンピース。
その姿は清楚でいながら、いつもより活発なイメージ受ける。
頭に麦藁帽子でも被せてやり、太陽の畑に立たせれば、さぞや絵になることだろう。
「ああ、よく似合っているよ」
「ふふふ、ありがとうございます」
そうだ、彼女がこんなに明るい表情をしているのに、僕が暗い表情をしていても何も始まらない。
それよりも僕がするべきは、彼女が残りの人生を楽しむための協力をする事だろう。
「それにしても、新しい事に挑戦する一環で洋服を着たのかい?僕はてっきり、いい年して何時までも振袖を着るのが辛くなったからだと思ってたよ」
「まぁひどい、いい年をして、ず~~~っと独り身の店主殿にそんなことを言われるなんて心外です」
「ははは……これは一本とられたよ」
「ふふふ……でも、連れ合いはともかく、一度くらい恋はしてみたいと思ってたんですよ」
楽しげな笑い声。
これでいいはずだ。
「ほぅ、君くらいの器量よしなら引く手数多だろう。誰か良い人は居なかったのかい?」
「何度かお見合いの話もあったのですが、生憎と縁が無かったようなので」
人間の里の名家の当主で、この通り整った容姿をしているのだ、言い寄ってくる者もさぞや多かっただろう。
しかし、誰にだって相手を選ぶ権利というものはある。
その結果が、逝かず後家と呼ばれるようなものだとしても、それは彼女の選択だろう。
「良かったら、君の好みのタイプを聞かせて貰えないか。人間の知り合いは多くないが、もしかしたら僕も協力できるかもしれない」
「好みのタイプですか?そうですね、私はあまり運動や弾幕ごっこが得意ではないので、インドア派の方がいいですね」
確かに彼女は運動が得意そうには見えないし、弾幕ごっこに参加しているという話も聞かない。
いや、そもそも普通の人間は弾幕ごっこに参加したりはしない。
僕の周りの人間が特殊なだけだろう。
「それから、私は本が好きなので読書家の方がいいですね」
以前に見せてもらった稗田家の蔵書量はたいしたもので、そのすべてに目を通しているのだとしたら、彼女はたいした読書家だろう。
「それから一番大事なのは……人間よりもずっと長生きである事ですね」
「……え?」
彼女の言葉にドキリとする。
いったい彼女は何を言っているんだ?
「ねぇ、店主殿。御阿礼の子の寿命は普通の人よりもずっと短いんです。だから普通の人が愛する人に当たり前に与えてあげられるものを、私は与えることが出来ない。子供だって産む時間があるのか分からないんです」
阿求は僕の傍までゆっくりと歩み寄る。
「だから私が好きになる人は、人間よりも長生きな人。私が先に死んでしまうのを、人間だから自分よりも先に死ぬのは当たり前の事だって納得してくれる人。 そして、先立つ私を百年後の未来でもずっと待っていてくれる人。そんな人が私のタイプです」
そして、彼女は僕の右手をそっと握った。
「ねぇ、霖之助さん。どうか私と共に、残してゆく悲しみと、残される悲しみに耐えてもらえませんか?」
ずっと独りでいるのは寂しいですから、と小さな声で呟き、弱々しく微笑む彼女。
彼女に握られている右手が熱い。
心臓の音がやけに耳につく。
僕は……どうするべきなんだ?
縋る様な彼女の目を見ていると、思わず分かったと頷いてしまいそうになる。
彼女のことは決して嫌いではないし、どちらかと言えば好意を持っているだろう。
だからといって愛しているかと聞かれれば、甚だ疑問だ。
そんな心持で彼女の気持ちに答えていいものだろうか?
いや、違う!
彼女はそんなものを求めてはいないのではないか?
嘘でもいい、死ぬまでの間好きだといってくれる相手を、死に際に、百数十年後にまた会おうと言って送り出してくれる相手を求めているだけじゃないのか?
だが、同情心で彼女と付き合えばいいのか?
それとも、僕には関係ないといって彼女の願いを無視すればいいのか?
僕は……
「……残念。振られてしまいましたか」
許すように、責めるように呟く彼女。
いつの間にか離されていた右手。
自由になったはずの手は、握られていたときよりもずっと重く感じる。
「……すまない」
「謝らないでください。この残念だという気持ちも、胸の痛みも、悔しさも全部私のものです。貴方にだって渡しません」
やさしい微笑を浮かべたまま、まっすぐに僕を見つめる彼女。
「それにこんな事で謝っていては、これから頭を下げっぱなしになりますよ」
「……えっと、それはどういう意味だい?」
「言ったじゃないですか、私には悲しんでる暇なんて無いって。私の目的は恋人を作ることではなくて、恋をすることですよ。だから、何度だってアタックしますから覚悟しておいて下さいね」
彼女の言葉がゆっくりと僕の頭に染み込んで来る。
笑ったままの彼女の顔。
理解すると同時に僕の喉からこぼれだす笑い声。
「ふっ、ははははは……。普通は、一度告白して振られたらあきらめるものじゃないのかい?」
「もしも明日世界が終わるなら、私は今日リンゴの木を植えるだろう。店主殿、人間はあきらめの悪い生き物なんだって事を知っていましたか?」
ああ、そうだった。
僕は知っていたはずだ。
弾幕ごっこに負けてボロボロになった霊夢や魔理沙が、立ち上がり、また向かっていくのを何度も何度も見ていた。
何度負けてもあきらめない彼女たちを見て、人間のすごさを思い知らされていたのに、さっきまですっかり忘れていた。
「ははは……。今、思い出したよ。君たち人間にはいつも驚かされてばかりだ」
「理解していただけたようで何よりです。さて、それでは稗田阿求108の魅力の1つ、"紅茶を入れるのが上手"を見せるとしましょう」
そう言ってトランクを机の上に持ち上げる。
「それはなんだい?」
「これですか?」
パチリ、パチリとトランクの留め金をはずし中身を見せてくれる。
服に、櫛に、本に、筆記用具に、紅茶の缶に、レコードに……
「私の生活必需品です。此処まで持ってくるのはなかなか大変でした」
そんなものを此処に持ち込んで何をするつもりなのだろう?
「……もしかして君は此処に泊まるつもりじゃないだろうね」
「もしかしなくても泊まるつもりですよ。これからもよろしくお願いしますという挨拶をしに来たんですから。あ、レコードかけてもいいですか?」
「僕の負けだ。好きにしてくれ」
いつも新しい驚きを僕に与えてくれる人間達。
この楽しげな驚きがある限り、僕はずっと彼女たちが訪ねて来るのを此処で待ち続けるのだろう。
百年後も二百年後も。
紅茶の香りと、幻楽団の演奏に包まれた香霖堂で。
ついこの間まで雪が降っていたというのに、もう春の鳥が鳴いている。
月日の流れとは早いものだ、最近は特にそう感じる。
光陰流水の如し、人生は朝露の如し。
どちらも月日が流れるのは早い、人生を大切にしろという意味の言葉だが、それには僕も同意見だ。
人間より少々長生きである僕だが、人生を大切にする為、つまりは心を豊かにする為努力している。
その努力とは?
もちろん、本を読むことだ。
本を読む事、新しいなにかを知る事で心は豊かになる。
日々その努力を続けている僕の心とても豊かだといえる。
今読んでいるのは、『その前夜』というロシアの物語だ。
この話は以前に外の世界の演劇で見たことのある話だ。
あの演劇は自体、とても素晴らしいものだったが、劇中に歌われた歌も素晴らしかった。
確か出だしは……
「い~のち短し、こ~いせよおと~め~、あ~かきくち~びる、あ~せぬ~まに~」
ガシャン
何かが割れるような音に、歌を止める。
誰かに下手な歌を聞かれていたのだろうか?
少々の気恥ずかしさを感じつつ、読んでいた本を閉じ、音が鳴った方へと視線を向ける。
いつも通りの昼間なのに薄暗い店内、所狭しと並べられた物、物、物。
そこに人影は無く、窓ガラスを割られた風でも無い。
変わった所といえば……あれか?
先ほどの破壊音の犯人と思われるのは、中板の外れた棚と、その棚から投げ出されたと思われる小箱。
どうやら、僕の読書の時間を中断した犯人は、棚の寿命のようだ。
僕は本を勘定台の上に置き、中板の外れた棚に歩み寄る。
この棚との付き合いは長く、この店を開いた時からなので、もう20年以上になる。
大して重いものを乗せていなかったのに壊れるなんて情け無いと叱るよりも、今日までよく頑張ってくれたと褒めるべきだろう。
「さて、被害のほどは?」
外れた中板を取り除き、棚に視線を向ける。
中板は……割れていない。
棚自体も……しっかりとしている。
中板が落ちた原因は、湿気の性かパッキリと割れている棚受のようだ。
このくらいならすぐに直る。
棚受けさえ作り直してやればまた、今までのように商品を支えてくれることだろう。
「それよりも、問題はこっちか」
地面に放り出された小箱を持ち上げる。
さて、この小箱の中身は何だっただろうか?
僕は記憶を探りつつ、小箱の蓋を開く。
……ああ、そうだった。
この箱の中身は、十年ほど前に手に入れたペアグラス。
なかなかにお洒落な形が気に入っていたのだが、箱の中身の半分は記憶どおりの形で鎮座しており、もう半分は記憶と程遠いアバンギャルドな姿で箱の中に散らばっていた。
お気に入りが割れてしまい、不運と見るべきか、片方は無事に残っていて幸運と見るべきか……
手を切らないように気をつけながらガラスの破片を摘み上げる。
前衛的なガラス片も置物としてはなかなかに見所はあるかもしれないが、とてもグラスとはいえない代物。
飲み物を注いだとしてもすぐにこぼれてしまうだろう。
さて、このグラスともいえない様なガラス片をどうしようか。
すべての物には神が宿る。
無事なグラスにも、中板が落ちた棚にも、そしてこの割れたグラスにもだ。
そして、歳月と共に宿った神の力が物に宿ってゆく。
長い年月を経て力をつけた物が妖怪化したものを付喪神という。
この店に並んでいる商品の中にも、いずれは付喪神へと変質する事もあるだろう。
しかし、壊れてしまった物が付喪神に成る事は殆ど無い。
不完全な物には不完全な力しか宿らないからだ。
少々の破損なら問題は無い。
中板が落ちた棚等がそうだが、少し手を加えてやればまた完全な姿に戻り、力を宿し始めるだろう。
しかし、このグラスは先ほどの棚と違い完全に壊れてしまっている。
もし、一度溶かして以前と同じ形に作り直したとしても、以前と同じ神は宿らないだろう。
覆水盆に帰らず。
溢した水を一生懸命掬ったとしても、もう別の水なのだ
道具もまた然り、完全に壊れてしまったものは元には戻らない。
創り直すか、捨ててしまうか、このまま置いておくか。
古道具屋としては、道具とも呼べないものを置いておくのはおかしいだろう。
だからといって一度拾ったものを捨ててしまうのは僕の矜持が許さない。
そうすると、一度溶かして、別の物へと作り変えることになる。
それはもう、ペアグラスとは呼べない物に成るだろうが、これは仕方の無いことだろう。
さて、このガラス片を創りかえるとなると、一度溶かさねばならない。
しかし、ストーブでは温度が足りないだろうし、手元に八卦炉は無い。
はてさて、どうしたものやら。
僕は取り合えず、ガラス片を別の箱に入れ、無事なほうのグラスを別の棚にしまう。
―――カランカラン
来客を告げるドアベルの音。
僕はガラス片の入った箱を、壊れていない棚の上に置き、入り口の方へ顔を向けた。
店内に入ってきたのは、白い洋服を着て、大きなトランクを持った黒髪の女性。
珍しい人物が随分と珍しい格好でやって来たものだ。
「やあ、いらっしゃい九代目」
彼女の名は稗田阿求。
さまざまな知識と資料を持つ稗田家の当主だ。
調べ物をするのに彼女の家へお邪魔したことは何度かあるが、彼女がこの店に顔を出した事は数えるほどしかない。
「お久しぶりですね。店主殿」
「ああ、ひさしぶりだね、幻想郷縁起が完成したとき以来かな?」
彼女は百数十年ごとに転生を行い、幻想郷縁起を作成するために生まれ代わっている。
今代の幻想郷縁起を編纂するに当たり、僕もインタビューや香霖堂目録の貸し出しを行うなどの形で彼女に協力したのだ。
まぁ、出来上がった幻想郷縁起の僕の項目、特に香霖堂の商品項目で少々もめたりはしたのだが、それも今となってはいい思い出だ。
「あのときは大変でしたね。店主殿は私の紹介文に、なかなか納得してくれないので困りましたよ」
「人の店の商品の事を『買っても役に立たない』やら、『買うだけ無駄』なんて書かれて納得するほうがおかしいだろう。今からでも遅くは無い、書き直してはどうだい」
「あらあら、でも幻想郷縁起は由緒正しい歴史書ですので間違った事は書けません。店主殿こそいい加減諦めてはどうですか?」
「どうやら、幻想郷縁起を書き直してもらうには、僕の店の商品に対する君の意識を変える必要があるわけだね。よろしい、ならばもう一度この店の商品の素晴らしさについて語ることにしよう。まずはこのテレビジョンからだ。これは遠くの景色を映し出すための道具だ。しかし、残念ながらそのような景色は写ったことがない。だがそれだけでこれを価値の無い道具だと考えるのはいささか早計というものだ。物事は多角的に見てこそ始めてその真価が見えてくる。このテレビジョンで言えば以前に人や遠くの風景を写していたということが重要に―――」
「くすくすくす……」
阿求は口元に手をあて、堪え切れないといった風に笑っている。
僕は何かおかしな事を言っただろうか?
「店主殿、貴方は求聞持の能力を持つ私に同じ話をするのですか?以前にも一字一句同じ事を言っていますよ」
はて、そうだっただろうか?
いや、一度見た物を忘れない程度の能力を持つ彼女のことだ、過去の僕は同じ話をしたのだろう。
だからといって、このまま香霖堂の酷い説明が後世に残るのを指を咥えて見ている訳にも行くまい。
「温故知新という言葉を知っているかい?一度見聞きした事でも時や状況が変わればまた新しい発見があるという言葉だよ。 一度聞いた話をもう一度聞くというのは決して無駄なことなんかじゃない。もう一度聞けば僕の言葉に感動し、 香霖堂の道具の素晴らしさを後世に伝えたくなるかもしれないよ?」
「ふふふ、相変わらず貴方は負けず嫌いですね」
「負けず嫌いとは心外な。それではまるで僕が聞き分けの無い駄々っ子のみたいじゃないか。僕は誰よりも僕の正しさを信じているだけだよ」
「それを一般的に負けず嫌いって言うんですよ」
「おや、そうなのかい?そんな事ははじめて聞いたよ。どこの辞書にそんなことが書いてあったか知らないけど、その辞書の『負けず嫌い』の項目を『信念を持った人』に書き換えておくことをお勧めするよ」
「はいはい、機会があればそうしておきますね」
どうやら彼女も納得してくれた様で何よりだ。
それでは引き続き、香霖堂の商品がいかに素晴らしいかを……
「っと。そういえば今日は何の用があって来たんだい?商品を買ってくれるのなら大歓迎だよ」
「ああ、忘れていました。今日はお世話になった皆さんに挨拶をしてきたんですよ。そして、最後の場所が此処なんです」
「挨拶?」
新年の挨拶だろうか?
いや、年が明けてもう一月以上たっているし、そもそも彼女が新年の挨拶をするためにこの店を訪れたことなど無い。
彼女もそろそろいい年だし、誰かと婚約でもしたのだろうか?
「皆様のご尽力により、幻想郷縁起を纏め上げることができ、転生の儀式の準備も済みました。つきましては、今後生まれるであろう十代目もよろしくご引き回しの程をお願いします」
そう言って彼女はペコリと頭を下げた。
幻想郷縁起を編纂するために生まれる御阿礼の子。
彼らは皆短命で、30歳まで生きた者は居ないという。
きっと目の前の阿求もそうなのだろう。
初めて出会った時は、まだあどけなさが残る少女だったのだが、今では立派な女性だ。
つまり、彼女はもうすぐ……
何時の間にこんなにも時間が経っていたのだろう。
時の流れに自分だけ取り残されてしまったような心細さを感じる。
ああ、そうだった。
これは人里に住んでいた時にいつも感じていたものだ。
いつも僕を残して先に逝ってしまう人間。
何時までも変わらない僕に対する妬みと恐怖の混じったような視線。
それが嫌でこんな辺鄙なところに移り住んだというのに……
「そんな顔をしないでください。分かっていた事ですから」
彼女の言う通り、分かっていた。
分かっていながら気づかないフリをしていただけだ。
阿求も霊夢も魔理沙もきっと僕を置いて先に逝ってしまう。
「大丈夫ですよ。妖怪や貴方達は待っていてくれるのでしょう?」
「……ああ、待っているよ。百年でも二百年でも」
人間に置いて行かれるのは寂しい事だが、人との繋がりを捨てきることが出来ないからこんな所に住んでいるのだ。
きっとそれはこれからも変わらないだろう。
それは、僕と人間の絆。
「それに悲しいことばかりじゃありません。私がやるべきことはやってしまいましたから、
後の人生はすべて余興。今まで出来なかったことを楽しむんです。悲しんでいる暇なんてありません」
本当に、心の底から楽しそうに笑う彼女。
「ほらどうですか?初めて洋服を着てみたんですが似合っていますか?」
両手を広げ、その場でクルリと回る彼女。
その服装はいつもの書生風の着物と袴ではなく、白いワンピース。
その姿は清楚でいながら、いつもより活発なイメージ受ける。
頭に麦藁帽子でも被せてやり、太陽の畑に立たせれば、さぞや絵になることだろう。
「ああ、よく似合っているよ」
「ふふふ、ありがとうございます」
そうだ、彼女がこんなに明るい表情をしているのに、僕が暗い表情をしていても何も始まらない。
それよりも僕がするべきは、彼女が残りの人生を楽しむための協力をする事だろう。
「それにしても、新しい事に挑戦する一環で洋服を着たのかい?僕はてっきり、いい年して何時までも振袖を着るのが辛くなったからだと思ってたよ」
「まぁひどい、いい年をして、ず~~~っと独り身の店主殿にそんなことを言われるなんて心外です」
「ははは……これは一本とられたよ」
「ふふふ……でも、連れ合いはともかく、一度くらい恋はしてみたいと思ってたんですよ」
楽しげな笑い声。
これでいいはずだ。
「ほぅ、君くらいの器量よしなら引く手数多だろう。誰か良い人は居なかったのかい?」
「何度かお見合いの話もあったのですが、生憎と縁が無かったようなので」
人間の里の名家の当主で、この通り整った容姿をしているのだ、言い寄ってくる者もさぞや多かっただろう。
しかし、誰にだって相手を選ぶ権利というものはある。
その結果が、逝かず後家と呼ばれるようなものだとしても、それは彼女の選択だろう。
「良かったら、君の好みのタイプを聞かせて貰えないか。人間の知り合いは多くないが、もしかしたら僕も協力できるかもしれない」
「好みのタイプですか?そうですね、私はあまり運動や弾幕ごっこが得意ではないので、インドア派の方がいいですね」
確かに彼女は運動が得意そうには見えないし、弾幕ごっこに参加しているという話も聞かない。
いや、そもそも普通の人間は弾幕ごっこに参加したりはしない。
僕の周りの人間が特殊なだけだろう。
「それから、私は本が好きなので読書家の方がいいですね」
以前に見せてもらった稗田家の蔵書量はたいしたもので、そのすべてに目を通しているのだとしたら、彼女はたいした読書家だろう。
「それから一番大事なのは……人間よりもずっと長生きである事ですね」
「……え?」
彼女の言葉にドキリとする。
いったい彼女は何を言っているんだ?
「ねぇ、店主殿。御阿礼の子の寿命は普通の人よりもずっと短いんです。だから普通の人が愛する人に当たり前に与えてあげられるものを、私は与えることが出来ない。子供だって産む時間があるのか分からないんです」
阿求は僕の傍までゆっくりと歩み寄る。
「だから私が好きになる人は、人間よりも長生きな人。私が先に死んでしまうのを、人間だから自分よりも先に死ぬのは当たり前の事だって納得してくれる人。 そして、先立つ私を百年後の未来でもずっと待っていてくれる人。そんな人が私のタイプです」
そして、彼女は僕の右手をそっと握った。
「ねぇ、霖之助さん。どうか私と共に、残してゆく悲しみと、残される悲しみに耐えてもらえませんか?」
ずっと独りでいるのは寂しいですから、と小さな声で呟き、弱々しく微笑む彼女。
彼女に握られている右手が熱い。
心臓の音がやけに耳につく。
僕は……どうするべきなんだ?
縋る様な彼女の目を見ていると、思わず分かったと頷いてしまいそうになる。
彼女のことは決して嫌いではないし、どちらかと言えば好意を持っているだろう。
だからといって愛しているかと聞かれれば、甚だ疑問だ。
そんな心持で彼女の気持ちに答えていいものだろうか?
いや、違う!
彼女はそんなものを求めてはいないのではないか?
嘘でもいい、死ぬまでの間好きだといってくれる相手を、死に際に、百数十年後にまた会おうと言って送り出してくれる相手を求めているだけじゃないのか?
だが、同情心で彼女と付き合えばいいのか?
それとも、僕には関係ないといって彼女の願いを無視すればいいのか?
僕は……
「……残念。振られてしまいましたか」
許すように、責めるように呟く彼女。
いつの間にか離されていた右手。
自由になったはずの手は、握られていたときよりもずっと重く感じる。
「……すまない」
「謝らないでください。この残念だという気持ちも、胸の痛みも、悔しさも全部私のものです。貴方にだって渡しません」
やさしい微笑を浮かべたまま、まっすぐに僕を見つめる彼女。
「それにこんな事で謝っていては、これから頭を下げっぱなしになりますよ」
「……えっと、それはどういう意味だい?」
「言ったじゃないですか、私には悲しんでる暇なんて無いって。私の目的は恋人を作ることではなくて、恋をすることですよ。だから、何度だってアタックしますから覚悟しておいて下さいね」
彼女の言葉がゆっくりと僕の頭に染み込んで来る。
笑ったままの彼女の顔。
理解すると同時に僕の喉からこぼれだす笑い声。
「ふっ、ははははは……。普通は、一度告白して振られたらあきらめるものじゃないのかい?」
「もしも明日世界が終わるなら、私は今日リンゴの木を植えるだろう。店主殿、人間はあきらめの悪い生き物なんだって事を知っていましたか?」
ああ、そうだった。
僕は知っていたはずだ。
弾幕ごっこに負けてボロボロになった霊夢や魔理沙が、立ち上がり、また向かっていくのを何度も何度も見ていた。
何度負けてもあきらめない彼女たちを見て、人間のすごさを思い知らされていたのに、さっきまですっかり忘れていた。
「ははは……。今、思い出したよ。君たち人間にはいつも驚かされてばかりだ」
「理解していただけたようで何よりです。さて、それでは稗田阿求108の魅力の1つ、"紅茶を入れるのが上手"を見せるとしましょう」
そう言ってトランクを机の上に持ち上げる。
「それはなんだい?」
「これですか?」
パチリ、パチリとトランクの留め金をはずし中身を見せてくれる。
服に、櫛に、本に、筆記用具に、紅茶の缶に、レコードに……
「私の生活必需品です。此処まで持ってくるのはなかなか大変でした」
そんなものを此処に持ち込んで何をするつもりなのだろう?
「……もしかして君は此処に泊まるつもりじゃないだろうね」
「もしかしなくても泊まるつもりですよ。これからもよろしくお願いしますという挨拶をしに来たんですから。あ、レコードかけてもいいですか?」
「僕の負けだ。好きにしてくれ」
いつも新しい驚きを僕に与えてくれる人間達。
この楽しげな驚きがある限り、僕はずっと彼女たちが訪ねて来るのを此処で待ち続けるのだろう。
百年後も二百年後も。
紅茶の香りと、幻楽団の演奏に包まれた香霖堂で。
さて、ジャズとウィスキーを飲む準備を始めますかね
霖之助は元から人間じゃない組の中でも、人の中で生活した事がある側なんですよね。
願わくば、彼女の願いが叶いますように。
シリアスなんだけれども、何処か明るい幻想郷に俺も行きたい!
ベネ・・・!!
この一文よりも先に全く同じ反応をしてしまった
良いですね、このあっきゅんは
あっきゅんマジガンガレ