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テントの中に這って入ると、ニックは幸福だった。きょうは朝からいい気分だったのだが、いまの気持は格別だった。これですべての準備が終った。この野営の支度だけが残っていたのだが、それも終った。しんどい旅だったから、かなり疲れている。が、それも終った。キャンプの支度も終った。これで落ち着いた。これでもう、邪魔は入らないはずだ。そこはキャンプには申し分のない場所だった。彼はそこに、申し分のない場所に、いた。自分でこしらえた、自分の家にいた。いまさらのように、空腹を覚えた。
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藁苞(わらづと)の中からは微かに甘い匂いが香っていた。傍らに立っていた啓吉の祖父がうなずきかけると産婆は藁苞を川に浮かべた。箱舟は流れを下り始めた。御山からもたらされた清い水は飲み込まんばかりの勢いで一艘の包みを運んでいった。
祖父が軽い咳をした。そして深呼吸。啓吉は繋いでいた手を放して川の流れに沿って歩き始めた。後ろを祖父がついてくる。産婆は手を合わせて何ごとか呟いている。
――あの子どうなるの?
と啓吉は訊ねた。祖父はしばらくしてから答えた。
あれは遊びにやったんだよ。
でも動かないじゃん。
今はな。しばらくしたらまた戻ってくる。
うそ。啓吉は振り返らずに呟いた。戻ってこない。死んじゃったんでしょ。
いいや死んでない。
死んだよ。ぼく見てたもん。あの婆ちゃんが濡れた雑巾を使って――。
啓吉。
語気を強めて祖父が呼びかけてきた。少年は振り返った。祖父は火のついていない煙管(きせる)を右手に持って先端の火皿にじっと視線を落としていた。
……難しい話じゃないんだ。祖父は云う。あれはそもそも生まれてきはしなかった。だから死ぬこともない。巡り合わせが悪かったんだよ。こっちには遊びにきたんだね。少しのあいだ。
啓吉は答えなかった。川のせせらぎに耳を澄ませていた。昨夜に漏れ聞こえてきた産婆の言葉が頭の奥でがんがん鳴っていた。
――おきますか。もどしますか。
繰り返し。繰り返し。
戻しますか。
……啓吉は知らんだろうが、と祖父は歩きながら云った。お前の父ちゃんには昔、五人、――いや四人の兄ちゃんや姉ちゃんがいた。だが二十(はたち)まで育ってくれたのはあいつだけだった。それでもうちは恵まれているほうだ。今年のような日照りでもとりあえず明日の食事に困ることはないし。薬師さんを呼ぶ金があるのだからな。
啓吉は祖父に連れられて屋敷に戻った。床の間に飾ってある神様の前に正座し手を合わせて拝んだ。それは木で作った一尺ほどの長さの棒だった。先端に目鼻が彫りこんであり梅と桜の模様が描かれた着物が着せてあった。それが四体ある。うち一体は馬頭の形で突き出した鼻と尖がった耳が生やされていた。
家の中は静かだった。昼下がりで炊事の音もない。啓吉は拝むふりをして横目でこっそり祖父を見た。刻まれた皺や髭に混じってあばたの跡があった。すでに彼自身は酒造りをやっていないはずなのに身体には今もなお麹(こうじ)の匂いが染みついていた。
啓吉は祖父に訊ねた。おしら様って何の木で出来てるの?
杉だな。
他の家もそうなの?
多くは桑だ。お蚕(かいこ)をやっとるから。――うちは酒だ。だから杉を使う。
ああ。樽に使ってる。
そうだ。
じゃあうちの神様はきっとお酒好きだね。爺ちゃんみたいに。
……そうだな。
その日はじめて祖父は笑ってくれた。
◇
おいこら梅。――梅ってば。
と声がした。屋根裏で晩酌をしながら本を読んでいた美宵は眉間にしわを寄せた。小袖についた埃を払いながら低い声で返事する。
その呼び方やめてくれない。
なんで。梅。悪くない名前だろ。別に好くもないけど。
私は嫌なの。美宵って呼べ。
ぜんっぜん似合わねェ。
うるさいな。
梯子を登ってきたのは床に引きずりそうなほど髪を伸ばした少女だった。毛先は汚れていて使いすぎた箒のようにくるんと曲がっており枝毛だらけだった。頭のてっぺんで団子にしていたがそれでも長さが余って背中のみならず身体の前面をも半ば覆ってしまいそうなほどの量の髪は身体の一部というよりも新手の衣装のようだった。
美宵は暑苦しげに少女の髪を手でぱしっとはたいてから云った。
――で、何の用。
蔵にまた鼠が入り込んでる。
それくらい自分で何とかしなさいよ、紫蘇。あんたの持ち場でしょ。
鼠だけは嫌だ。前に依代をかじられて以来トラウマだ。
美宵はひとつ大きく溜め息をつき本を閉じて起き上がった。そして音を立てないように梯子を降りた。蔵に向かう道中で紫蘇が訊ねてきた。
――そういや今度は何の本読んでたんだ。
漢書。
どの話?
枕中記。
ああ。沈既済の。
そ。
なんでまた。
お昼に婆さんが黍粥を炊いてたからつい思い出して。
まつさんの粥か。前にお供えしてくれたことがあったけどあれは美味かった。
そうね。
結末は? 夢落ちってことしか覚えてねェや。
美宵はしばらく考えてから返事した。
……夢から覚めると主人公の盧生は道士と出逢った当日に戻っていた。寝る前に火にかけられていた粥がまだ煮立ってさえいなかった。一瞬のうちに人生の栄枯盛衰を体験した盧生は道士に枕を返して云った。“先生は私の欲を払ってくださった”と。彼は感謝して故郷に帰っていった。――黄粱の一炊、邯鄲の夢の出来事ね。
人間は何を教訓にこんな話を語り伝えるんだろうな。
さぁね。でも長生きしてると少しは分かることもある。
例えば。
美宵は答えずに蔵の中に入ると紫蘇に合図を送った。紫蘇はうなずいて指先から煙を出して鼠がこじ開けた壁の穴に吹き込んだ。穴の近くの壁面を拳でゴンゴンと叩いた。かたかたと音がしたかと思うと煙に燻された鼠が別の穴から脱兎のごとく飛び出してきた。待ち構えていた美宵は裸足で鼠を勢いよく踏みつぶす。柔らかくも致命的な感触が足の裏を通じて伝わってくる。悲鳴はなかった。余韻もない。小さな命がまたひとつ喪われただけだ。
◇
あんがと。紫蘇は云った。こんど何か礼をする。
うん。
お江戸、――じゃねェや東京なら巡査に持っていったら一匹五銭で買い取ってくれるんだと。
鼠を捕って天丼を食おう、か。
梅はどうせ酒手に使っちまうだろ。
あーね。
美宵は死骸の尻尾をつまみながら答えた。
――さっきの話の続きだけど。
ああ。
あの話から得られるのは教訓じゃないと思うの。
どういうこった。
感慨なのよ。
かんがい。
ええ。
もう少し嚙み砕いてくれよ。
要するに人間の命の儚さを思い出させるための物語なのよ。命は軽くはない。――ただ儚い。誰もが心の底では感じ取ってる事実をしみじみとした感慨をもって心に染み込ませてくれる魔法なの。ただの教訓には持ちえない物語だけが備えている特別な力。――なんてことを考えるようになったわけ。
ふーん、と生返事をして紫蘇は押し黙った。彼女は伸びすぎた赤紫色の髪を両手の爪でぐしぐしと梳きながら酒蔵のあちこちを見渡していた。やがて腐れ縁の蔵ぼっこは云った。……気にしてるのか。あの子のこと。
美宵は死骸を窓から外に放り出して呟いた。
かもね。
今ごろは海にたどり着いてるんだろか。
その前に山の天狗に拾われて晩餐の向付(むこうづけ)になってるんじゃないかな。殊に嬰児(えいじ)の肉は奴らには絶品らしい。
夢も希望もないこと云いっこなしだぜ。
その可能性がいちばん高そうだもの。
お前はお前ら兄弟姉妹の中じゃいちばん根暗だな。
引きこもりのあんたに云われたくない。
二人が互いの胸倉をつかみ合ったとき蔵の戸が開いた。啓吉だった。啓吉の視線は二人を素通りして蔵の中を眺め渡した。目が充血して赤くなっていた。目の下に疲労の跡があった。彼は首を傾げてから戸を閉めた。何もいなかったよ、父ちゃん、と声がくぐもって聞こえた。
美宵と紫蘇は顔を見合わせた。美宵が肩をすくめると紫蘇は首を振った。
……まだしばらくは黍粥が振る舞われそうだな。
ええそうね。
黍粥(きびがゆ)はまだ煮立っていなかった。
客が引けた店内。行灯(あんどん)の明かりは最小限に落とされ薄明りの中で山吹色の粥を火にかけている美宵の姿はまるで猪肉を煮ている山姥の風情だった。炊事の炎という原初の明かりを頼りに美宵は粥が煮立つのを待ちながら書見をしていた。
「なんだい、――今宵はえらく暗いじゃないか」
引き戸を開けて入ってきた伊吹萃香はそう云ってどっかと席に腰かけた。手首や髪に括りつけられた分銅の鎖がじゃらんと音を立てて店の床に着地する。
美宵は本を閉じて笑みを浮かべる。そして呼びかける。
「余り物ですよ」
「構わん」
「まだ降りますか」
「ああ。今年の秋雨は長引くねぇ」
「客足が遠のいて困ります」
「気の毒なこった」小鬼は料理も出ぬうちから自前の盃(さかずき)で一杯やり始めた。その盃は店のものより一回りも二回りも大きくマッコウクジラの晩酌にでも使われそうな代物だった。「――でもそれだけ私の取り分が増えるってもんだろ?」
「お代はちゃんと払ってくださいよ」
聞いているのかいないのか萃香は曖昧なうなずきで応えた。
「で、――なんだいこの、ほの甘い香りは。なんか煮てるのか」
「ええ。黍を」
「きび?」
「はい。黍と、それと常連さんに分けてもらった南瓜(かぼちゃ)で」
「黍粥かァ。……酒にはあまり合いそうにないが」
美宵は出来合いの品の給仕を終えると粥をお玉でかき混ぜ始めた。「……黍は胃の働きを助けるんですよ。うちの常連の皆さん、歳月が経つにつれて食事よりもお酒の量ばかり増えてて心配なんです」
「生々しい話だなァ」
「ええまあ。滋養に好いかなと思って試作中なんです」
「そういうことなら私が味見してやろうか」
「是非」
萃香が身を乗り出して鍋をのぞき込んだ。「しかしほんとに黄色いな。トウモロコシが“唐黍”なんて呼ばれてる理由が好く分かる。たまァに店の横手で寂しく横たわってるゲロみたいだぞこれは」
美宵はお品書きの板で萃香の頭をはたいた。
「……二度とうちでそんな汚い言葉を使わないでください」
「はいはい」口の中を片付けぬ間に手に持った箸で鍋を指しながら彼女は云う。「前にも作ったことがあるのかい、それ」
「見たことがあるだけです。うちの店主のお婆さんのそのまたお婆さんが作ってたんです」
「ほう」
「あのころは今以上に小さな子どもがトリツバサになっていましたし少しでも栄養のあるものを食べさせたかったのでしょうね」
「ああ」萃香は煮物の里芋を箸でつまみ上げて見入った。「そうさな。私はあの時分は地底とかいろんな場所をふらふらしていたからあまりこの里のことは知らんが」
美宵は小鬼の所作を目をそらさずに見守っていた。酒吞童子は里芋をじっくりと噛みしめていた。彼女が美宵の手料理をここまで味わって食べているところを見たのはそれが初めてだった。
萃香はつぶやいた。「…………なぁ」
「はい」
「黍が仕上がるまでの間でいいからさ。何か昔の話をしてくれないかな」
「昔の」
「この家のことさ。――確かお前さん、店が始まる前からこの家に棲んでるんだろ」
「ええ」
「酒の肴に余り物だけじゃ興が乗り切らないんだよ。特にこんな長雨の夜はね」
美宵は店の入り口の引き戸に目を向けた。雨音は続いていた。往来は下駄の歯を丸ごと飲みこんでしまいそうなくらいにぬかるんでいるはずだった。とろ火にかけている鍋の中の黍と南瓜の香り。遠雷。萃香の分銅のじゃらんという音。鬼はいつの間にか姿勢を少しばかり正していた。
美宵は萃香に目を戻した。
「……つまらない話ですよ」
「いいんだよ。酒の席の話なんて皆つまらない。一炊の夢みたいなもんさ」
美宵はもみあげの先端を右手の人差し指に巻きつける仕草をした。それから息をひとつ大きく吐き出すと萃香から差し出された盃を受け取った。
子供達が大八車に群がって遊んでいる。その中には啓吉もいる。顔が真っ赤に染まっている。草履が湿った土を抉りたてる。彼は荷車を引く役を務めており他の子供達は荷台に乗って遊覧気分に洒落込もうとしていた。だが車は地に根をおろしたように動かない。暮れ鈍る夏の宵口の光は弱々しく雲は黒々として空を覆い始めていたが遊びに夢中な彼らは気づいていなかった。
汗まみれになってふうふう云っている啓吉の背中に子供達は次々と言葉を投げつけた。
――ほうらもっと頑張れよ。
やいお坊ちゃんたら。まだ寝ていたほうが好かったんじゃないか。
あの“なまり”の兎、ほんとなら俺たちのもんだったのに。仮病つかってまんまとせしめやがって。
――やっぱり止めましょうよ無茶だわ。
そう声を差し挟んだのは啓吉の近所に住む女の子だった。
だったら瑠璃子さんだけ降りてろよ。
と眉のきれいな少年が足をぶらぶらさせながら挑発する。
あらそう分かったわ。降りてやる。
瑠璃子が降りると大八車は少しだけ前進した。が、すぐに止まった。
見たか。
みたー。
少し動いたな。
瑠璃子さんが降りたとたんにがったん動いたぞ。
女の子のくせに重いんだ。
お転婆だー。
荷車に残った少年達がこれまた囃し立てる。まあひどいわ、と云って瑠璃子は両の袂(たもと)で紅潮した頬を隠す。小休止して振り向いた啓吉と瑠璃子の目が逢う。二人は見つめあう。しかしその時間はあまりに一瞬で他の子供達が気づくことはない。
◇
坊っちゃんたら可哀そうに。
美宵がそう呟くと姉の牡丹(ぼたん)は肩をすくめてみせた。
子供ならよくあることでしょう。仲間外れなんて。
それにしたって、――ねぇ。まだ快気祝いからそんな経ってないのに。
じれったそうに様子を見守っている妹の柏(かしわ)がその場を飛び跳ねながら云う。
――そもそも“なまり”の兎って何さっ。
鉛で出来た兎の人形だよ馬鹿。美宵が答える。坊ちゃんが厩別家の婆ちゃんからお見舞いで貰ったんだ。
なんのお見舞いだっけ。赤もがさ?
そ。麻疹(はしか)だよ。それでおもちゃを貰えたから他の子供達が妬んでる。
ほほう。
お坊は命定めに打ち克って生き残ったんだし――。姉の牡丹は溜め息をつく。それくらいのご褒美があってもいいと思うんだけどねぇ。子供ときたらまったくしょうがない。
美宵は薄く笑った。――姉さんは子供が嫌いだもんね。
嫌いじゃないの。苦手なのよ。
啓二郎さんの兄弟姉妹もほぼ全員はしかにかかってたなぁ。うち一人は頭にまで悪い気がまわって息ができなくなって、それで……。
双子もいたわねそういえば。そっくりの。珍しかったから好く覚えてる。
いたわ。ある日煙のように消えちゃった。天狗にさらわれたのかな。
弟が一人いたけど勘当されて。最後の一人はどうして亡くなったんだっけ。記憶が曖昧だわ。
川で遊んでいて溺れたのよ。河童の仕業だって騒ぎになって。
ああそうね。そうだった。
やっぱり姉さん苦手なんじゃなくて嫌いなんでしょ。
失敬な。
――あァもうじれったい。わたし、ちょっと行ってくる。
妹の柏はひと声叫ぶと腕を振り回しながら子供達の方へと駆け出した。
◇
啓吉の代わりを申し出てくれた少女はそのほか全員を乗せた大八車をいとも簡単に動かした。
先ほどまで囃し立てていた少年達が頬を紅潮させながら声を上げる。
さっすが柏さんだ。
なんで誰も呼ばなかったんだよ。
力仕事ならやっぱこいつだよな。
こいつとか呼ぶなよ。投げ飛ばされちまうぞ。
啓吉は柏さんの背中を見つめていた。蒸し暑い初夏なのに彼女の着物には汗の染みひとつも浮かんでいない。
柏さんは二人にだけ聞こえるくらいに声を低めて云った。
――坊っちゃんさぁ。
うん。
もっと強くなってくれんといかんよ。
わかってる。
じゃないとわたしも気が休まらないんだよね。
どういうこと。
あんたこそは末永く生きてほしいんだよ。わたしは。
…………。
啓吉の隣には瑠璃子が座っていた。二人の小指が触れ合っていた。
◇
屋敷の前まで戻ってきたとき怒鳴り声がした。啓吉の父親の啓二郎だった。彼は子供達を急き立てて下ろすと勝手に大八車を持ち出しやがってと説教を始めた。子供らは黙ってにやにやしながら聞いていた。啓吉は左右をこっそりと見た。柏さんの姿は消えていた。代わりに奥の間に飾ってあるはずの小さなおしら様の木像が大八車の上にちょこんと乗っかっていた。
啓吉は身体をずらしてそれを隠そうとしたが父は目ざとく見つけた。その時の父の様子の変化を啓吉はその後も何度も反芻しては思い返すことになった。目が見開かれて口が半開きになった。顔が青ざめたようにも見えた。しかしそれは本当に一瞬ですぐに表情は怒りのそれに差し戻された。
父が再度口を開きかけたところで大粒の雨滴が葉桜に踊り落ちて地を点々と染めた。荷車を叩く雨粒の音はひと際するどく銃声のように響いた。
分家の少年達は顔を見合わせて声をそろえた。雨が降るからかあいろ……。
待ちなさいと父が呼びかけたが少年達はこれ幸いとそれぞれの家へと駆け戻ってしまった。
啓二郎は頭をかいた。
――とりあえず二人とも、中に入りなさい。
瑠璃子が礼を云って屋敷に駆け込んだ。同じく入ろうとする啓吉の服の袖を父はつかんだ。
木像を指して父は云う。
――アレはどういうことだ。
知らないよ。
知らないなんてあるものか。お前が持ち出したんだろ。
してない。いつの間にかあったんだ。
足が生えて勝手に歩き出したとでも云うつもりか。
分かんないよ。濡れるから早く入ろうよ。
父は夕立にも構わずに木像にじっと視線を注いでいた。それから袂で包んで取り上げると啓吉を追い立てながら屋敷に戻った。説教には母も同席した。病み上がりで無茶をするなといった内容だった。父は腕組みをして胡坐をかき母は正座して両手を膝に添えていた。啓吉は思わず背筋が伸びていた。いつもとは違うな、と思った。説教にしてはあまりに切実だった。だがその理由は分からなかった。父と母はしょっちゅう互いに目を見交わした。そして飾ってある四つの木像に時おり視線を配るのだった。
◇
雨が上がると瑠璃子は礼を云って帰っていった。見送りに出ていった親子の背中を美宵達は目で追った。
……啓二郎に邪魔された。柏が腕を組んでぼやく。せっかく楽しく遊んでいたのにさ。
美宵と牡丹は念のため釘を刺しておいたが妹はまるで聞いていないようだった。
翌朝になって啓二郎が高熱を出して寝込んだ。うわ言のように巫女様を呼んでくれと彼は繰り返した。妻が女中を遣いにやって昼前には博麗の巫女がやってきた。二十歳の近い女性で紅白の衣装のためか彼女だけ周りの空間から浮き上がって見えた。美宵に牡丹、それに柏は梁に座りながら息を殺してその姿に見入った。
巫女は黒蜜の髪を指でよけて耳を露わにすると啓二郎の言葉を聞き届けた。それから立ち上がってこちらを真っすぐに見据えてきた。三人は蛇に睨まれた蛙のごとくぎゅっと身を寄せ合う。糸をぴんと張ったような沈黙が続く。外からひらひらと舞いこんでくる梢の音さえも遠のいた。
ふと博麗の巫女は表情を緩めた。それから家族や下女らに向き直り穏やかな声でこう告げた。
――これは家の神様の仕業ですね。
家人らは顔を見合わせた。
巫女は続ける。悪夢にうなされて熱が出たのでしょう。せっかく子供達と楽しく遊んでいたのに台無しにするとはけしからん、とこんな具合で“ごせ”を焼いたのですね。神とて興に乗じて遊ばされる時があるものです。詫び言をすれば許してくださることでしょう。
啓吉の母であるなつは胸に手を当てて奥の間に通じる襖をかえりみた。そこには四柱のおしら様が飾られているはずだった。巫女は家人の目を盗んで再び美宵達を見上げると唇の端をクイと上げてみせた。それから詫び言を札に認(したた)めて柱に貼りつけ家人に見送られて山に帰っていった。
◇
――柏ァ!
という大声とともに長兄の鯨(くじら)が妹に拳骨を一発喰らわした。柏は悲鳴を上げて屋根裏から階下へと転げ落ちた。美宵と牡丹はそろって身をすくめた。啓二郎が快復したその夜の出来事だ。
兄は高下駄を履いた足を組んで大仰に咳払いした。鯨という名前なのに馬の耳を生やしており鯨飲馬食もかくやという大酒呑みの大食漢でその夜もお供えされた酒と煮物で晩酌しているところだった。怒った彼を目の前にすると三姉妹は誰も敵わない。牡丹の切れ長の目尻も垂れ下がり美宵の取り澄ました瞳も濁り切り柏の剽軽(ひょうきん)な眉は綺麗な“へ”の字を描いた。
鯨は煮物を飲みこんでから厳かに云った。散々口を酸っぱくして云い聞かせてきただろうが。――えエっ? もう俺達の時代は終わった。力を弄して人を惑わすな。ただ見届けようってな。
そうは云っても鯨兄ィ、と引っ繰り返ったままの柏。坊っちゃんが可哀そうだよ。いじめられておまけに啓二郎にまで叱られて。赤もがさであんな苦しそうにしてたの、兄さんだって見てたでしょ?
ああ見てたさ。だが耐えねばならん。
納得いかないね。
それに啓二郎だが。兄は声を低めた。……本当に怒っているように見えたのか。説教のとき。
そりゃね。
柏はふくれっ面でそう答えた。
代わりに牡丹が唇に人差し指を当てながら答える。
……懇々と説き聞かせるような感じだったわね。特に後半は。
ほれ見ろ。
美宵は首を傾げた。――どういうこと?
怖いのさ。
こわい?
啓坊(けいぼう)がいつなんどき事故に巻き込まれるか。あるいは妖怪に喰われるか。はたまた賢者にこき使われる羽目になるのか。いつ自分の兄弟姉妹みたいにある日忽然と姿を消しちまうかって気が気でしょうがないわけだ。
――うちは呪われてるからなァ。
柏が冗談めかして云ったが鯨のひと睨みで笑みを引っ込めた。彼はまた一杯と酒を飲み干した。
……俺達は無力だ。鯨はつぶやいた。一昨年は輝子が消えた。その前は修平だ。残されたのは啓坊だけだ。決まって最後に残った一人だけが家を継ぐ。何もできなかったし誰も助けてやれなかった。残った俺達はせめて見守ってやらにゃならん。それが俺達のお役目だからだ。これからの時代、人は人の力で強くなる。――俺達はもうお呼びじゃない。お役御免だ。下手をこくと巫女に退治されるところだったんだぞ。
柏は床で寝返りを打った。美宵も押し黙っていた。牡丹は素知らぬ顔で鏡で白粉の乗り具合を確かめていた。美宵は会話を盗み聞きしている蔵ぼっこの紫蘇の姿を目の端で捉えていた。鼠が出入りする穴から彼女の伸びすぎた髪が覗いていた。
……そんなの厭だな。柏がぼそっと言葉を紡ぐ。そんなの厭だ。
鯨は無言で晩酌を続けた。
なつが作った煮物はその日の夜も格別の出来だった。
店の引き戸を開けるとすでに小鬼が晩酌をおっ始めているところだった。マミゾウは入口のところで立ち止まり店内をぐるりと見回した。
「……妙に暗いのう」
「この時期はいつも行灯の明かりを落としてるんです」本から顔を上げた美宵が云った。「たまにはこんな春の深更(しんこう)も好いものでしょう? 風情があって」
「弔いかね」
「ええまあ。……そうですね」
ふむ、と鼻を鳴らして化け狸の大将は椅子に腰かけた。ふかふかとした巨大な尻尾を尻に敷いてしまったので姿勢を変えて座りなおす。それから煙管を取り出して火を点けようとしたが漂ってきた薫香に誘われて動きを止めた。
「この匂いは黍粥かのう」
「ええ。よくお分かりに」
萃香が箸を止めて口を挟む。「煮物に負けず劣らずの絶品だぁ」
「そりゃ楽しみじゃのう」
「出来上がるまでに時間が掛かるのが難点だけどな。寝ちまいそうになる」
「なに。邯鄲の夢ほど濃密な時間にはならんて」
「そりゃね」
マミゾウは美宵が手元に隠した本を煙管の火皿で指した。
「時に“邯鄲の夢”といえばその本、芥川龍之介じゃろ。それなら『黄粱夢』も載っておろう」
美宵は視線を脇にそらしたがすぐに戻した。
「……これまたお分かりになるのですね」
「儂ほど人間とよろしくやってきた妖怪は他におらんからな」
萃香が笑う。「好く云うね金貸し婆さん」
「黙らっしゃい」とマミゾウ。「――じゃがおぬしは座敷わらし。ある意味では儂以上に人間のことを知っておるじゃろうな」
「そうかもしれませんね」
萃香が口いっぱいに里芋を頬張ってから云う。「ああそうだ。昨日の話は面白かったよ」
「昨日の話じゃと」
萃香と美宵からひと通りの事情を聞いたマミゾウは尻尾をひと振るいした。
「ほほう興味深い話じゃのう」
「私が地底に潜ってた時代の話だよ。あン時はいろいろと嫌気が差してて」
「儂も佐渡にいたからその頃の幻想郷のことは噂でしか知らんの」
「だから面白いのさ」
「美宵殿さえ好ければ続きを聞かせてもらいたいもんじゃのう」
美宵は頬を膨らませる。「……こんな時だけ畏まって“殿”なんて付けちゃって」
煮物のお代わりのため椀を差し出しながら萃香が訊ねた。
「――そういや昨日はなんで川流しの話から始めたんだ」
「その夜に黍粥が出たからですね」と美宵。「啓吉さんを慰めるために好物を出そうってお婆ちゃんが」
「啓吉の坊っちゃんが何歳くらいの話かのう。それは」
「十二か、十三か……」
「瑠璃子さんと荷馬車の話のときは」
「八歳くらいの時分だったと」
「なんだ前後が逆なのか」
「私が思い出した順に喋っているので」
マミゾウは微笑んだ。「よいよい。そんなもんじゃ。酒の席の昔語りなんぞ」
「というか、お前さん以外にもここに座敷わらしがいたなんて驚きだよ」
「今は私しか居ませんけどね」
「ふーん……」
萃香は箸を置いて両手を合わせる。マミゾウから手渡された煙管の火皿に黄燐マッチで火を点ける。火皿に赤い蛍がぽっと灯る。美宵は魅せられたようにその灯を見つめる。
「……どうした?」
「思い出した話があります」
「おうおう。興味がある。話してくれ」
「では――」
「――その前にひとつ」
マミゾウが美宵の本を指して云った。
「なぁおぬし、……『黄粱夢』の結末はどう思ったかの」
「結末?」
「芥川龍之介は故事として伝えられる基(もと)の話から意図的に結末を大きく変えて換骨奪胎しとる」
「ああ……」
「なんだそりゃ。私は知らんぞ」
萃香のために美宵が朗読する。「……盧生は、じれったそうに呂翁の語(ことば)を聞いていたが、相手が念を押すと共に、青年らしい顔をあげて、眼をかがやかせながら、こう云った。“夢だから、なお生きたいのです。あの夢のさめたように、この夢もさめる時が来るでしょう。その時が来るまでの間、私は真に生きたと云えるほど生きたいのです。あなたはそう思いませんか”」
朗読を聞きながら萃香は唇の端を歪めて微かにうなずいた。
「――なるほど当代の人間らしい結びの語だ」
「小鬼のおぬしはこっちの方が好みかの」
「どうかな。こんな人間ばかりになったら私ら妖怪は憮然と腕組みして酒を呑むしかない」
ほっほっほ、とマミゾウは笑った。それから美宵に目配せした。
「私には……」美宵は声量を落として云った。「私にはまだ分からない。分からないというか、今はまだ話したくないというか」
化け狸もうなずく。「――そうか。あい分かった。話の邪魔をしたのう」
「いえ……」
それから美宵は再び話し始めた。
今宵の黍粥はまだ煮立っていない。
駅の終点で降りてからはひたすら歩きだった。啓吉は大学で定められた角帽に着物、そして袴という出で立ちで未舗装の道を歩いていった。袴はほつれが目立ち裾は土埃で汚れていたが啓吉はそのままで通していた。田んぼの畔(あぜ)で談笑しながら休息をとっていた百姓達がこちらを見てすげ笠を振った。啓吉もはにかんだ笑顔でそれに応えた。
途中で道を間違えて山麓に再び出てしまい故郷に帰りついたときにはすでに夕刻だった。目印まで含めて正確に覚えているはずの復路は啓吉の侵入を拒もうとするかのようにいつの間にか彼を元いた場所へと誘(いざな)った。足が棒のようになり息が乱れた。散切り頭だった髪を今は伸ばしているので浮いてきた汗で前髪が肌に貼りついていた。
郷を一望できる峠にたどり着き啓吉は一年ぶりの故郷を眺め渡した。まだ出穂(しゅっすい)の始まっていない水稲の青々とした葉を夕陽がタンジェリンの色彩に染め上げておりそよ風に揺られてざあざあと鳴る音が啓吉の立っている場所まで舞い上がってきた。ひぐらしが鳴いている。家路についた農夫が引く荷馬車が見える。羊雲が悠々と泳いでいる。
啓吉は深呼吸した。手ぬぐいで額を拭いた。すでに汗は乾き始めていた。
……こりゃあ道草を食わされたのは却って正解だったかもしれんぞ。
彼は独り言をこぼした。それからもう一度深呼吸して振り返ると視線の先に少女が一人いた。
ごきげんよう。
と彼女は云った。
ご、ごきげんよう。啓吉はかろうじてそう云った。……君、どうした。迷子か。
あなた、――まさか外から入ってきたの?
少女は啓吉の質問を無視してそう云った。最初に目についたのは昔の時分にお遍路などで使われていた巨大な笠だった。盛夏というのに長袖のついた鈍色の外套を着込んでおり畢竟成仏と筆書きされた朱色の前掛けを付けていた。少女の立っている位置は記憶が確かならば郷を見守ってくださっている地蔵菩薩の祠があったはずだった。地蔵が鎮座していたはずの積み石の上に小さな女の子がぽつんと両手を合わせて立っている。
啓吉は唾を飲みこんだ。……外もなにも。俺はこの郷の出身だ。――君はここで何してるんだ。
私はお留守番。
留守番?
ええ。普段ここに立ってる子が彼岸に用事で。それで代役ね。
女の子は唇に指をあてて笑った。
あなた名前は?
奥野田啓吉。
ああ――。少女は手のひらを打ち鳴らした。そっか。見たことあると思った。啓吉の坊っちゃんか。
覚えがないな君のことは。
昔はよくお供えしてくれたねぇ。黍のお団子おいしかったな。なつさん、――お母ちゃんは元気してる? ……そっかそっかァ。それで郷にうまく帰ってくることができたわけだ。
なあちょっと――。
今は学生なの?
ああ。うん。
お上りさんなわけだ。
そう、なるのかな。
少女はお遍路笠を脇に抱えて啓吉の周囲をぐるぐると周った。
――随分くたびれてるのね。それに髪も伸ばしちゃってどうしたの。
学校じゃこれが流行りなんだよ。別に“金がないから新調できない”ってわけじゃない。ぴかぴかの洋服なんかで人の価値は測れないんだ。わざと学帽を汚してる奴だっているし下駄を履いてる奴もいる。
都会は変わってるのね。
ああ面白いよ。
でも卒業したらいい加減こっちに身を落ち着けた方がいいわよ。
なんで。
帰ってこられなくなるかもしれないから。
啓吉は来た道を振り返って笑ってみせた。……迷いに迷って野垂れ死にってか。
そうじゃなくて。少女は首を振る。――あなたが郷のことを忘れてしまうの。
忘れる?
彼女はうなずく。きれいに。――さっぱりと。
そんなことあるはずないだろう。
忠告はしたわよ。
啓吉は故郷の全景をもう一度眺め渡した。陽は沈みかけていた。農夫の姿はすでになかった。忘れていた飢えや渇きが今になって喉と胃に焼けつくようだった。生家の酒と煮物が恋しかった。彼は人差し指と中指で喉仏をさすりながら女の子が今しがた述べた話のことを考えた。
……確かに昔から変なことは沢山あったよ。
彼は呟くように云った。
人が突然いなくなることもあった。俺の兄さんや妹達はいつの間にか煙みたいに姿を消した。金持ちだった豪家が一夜で夢みたいに財産を失くしちまうことだってあった。叔父さんの家がそうだ。――でもこの故郷(ふるさと)を忘れたことは一度だってなかったよ。本当はしばらく忘れて生きようと思って出てきたのにな。
女の子は黙してうなずいた。
◇
久方ぶりに帰ってきた啓吉のその話を美宵達は梁の上から聞いていた。啓二郎がそれはお地蔵様の化身じゃないかと驚いてみせた。母親のなつは煮物と黍粥のお代わりを椀によそいながら蛮殻(ばんから)に着崩した服装の息子を熱心に眺めていた。今ではたった一人残った息子だった。それでも立派に育ってくれた我が子だった。美宵は幾分か寂しくなった食卓を見下ろしていた。啓吉の祖父はすでに昨年に消えていた。
食事のあと頃合いをみて啓二郎は息子に縁談の話を持ちかけた。相手は瑠璃子だった。
啓吉の弟になるはずだった赤子は名づけられないままに遊びにやられた。
その夜は父母や女中がおらず祖父と二人で過ごしていた。祖父は珍しく饒舌だった。晩酌を控えるよう求める家人がいないからだ。祖父が煙管を吸うとき火皿に蛍のような光が灯る。啓吉はその光を魅入られたように見つめる。頼りなくも線香花火のように優しい灯が昔から好きだった。
祖父の昔話で覚えているのは啓二郎の兄弟や姉妹のことだった。河童にさらわれたという兄は他の子供達と一緒に川で遊んでいた。郷の辺りは下流で緩やかであり見知った魚しか泳いでいない。それで誰が云いだしたのか探検しようという話になり川を遡って彼らはずんずんと山に分け入ってしまった。やがて彼らは滝を見つけた。巨人の腰かけのようにごろごろと大きな石が散らばる河原もあった。滝壺の傍には神様の祠があり両開きの戸がついていて中が見えないようになっていた。
男の子達は普段から意地の張り合いをしていたがとうとう滝壺に飛び降りる度胸試しを始めた。啓二郎の兄は嫌がったというが引き下がるわけにはいかなかった。彼は最後に跳んだ。大変な水しぶきが上がった。砲弾が直撃したかのようだった。他の子供らは引っ繰り返ったり頭をかばってその場にうずくまったりした。巻き上げられた清い水が嵐のように降ってきた。びしょ濡れになった彼らが恐る恐る顔を上げたとき啓二郎の兄の姿はすでになかった。
彼は二度と浮かび上がってこなかった。
啓二郎にはまた双子の姉がいた。仲の好いという言葉では片づけられないほどいつも一緒にいた。郷の小道に駆け出しては鞠を蹴って遊んだり祭りでもないのに踊りを踊ったりした。目の二つある颱風(たいふう)と云って近所の人びとは笑ったものだった。彼女らはやってはいけないと云われたことを片っ端からやってしまう子でありお蚕を野に放して死なせてしまったり酒蔵にある発酵中の麹(こうじ)を汚れた手で味見して台無しにしてしまったりした。その度に祖父からきつい説教と拳骨が飛んできたが二人は一向に反省しなかった。祖母は双子の娘を殊の外に可愛がっており彼女のとりなしで祖父は手を引っ込めざるを得なかった。祖母には逆らえなかったのだ。
ある夏の日に二人は遊びに出かけたまま帰ってこなかった。彼女達の兄、――河童にさらわれたという噂の現場を見にいくのだと道往く人に話したのだという。彼は当然二人を止めようとしたがその時には二人は野分のような勢いで走り去ってしまっていた。
二人の捜索が打ち切られたとき祖母は心労のあまり倒れた。
語り終えたとき祖父はいつもの癖で煙立つ火皿の先を見つめていた。双子を喪ってからというもの酒だけではなく煙草の量も増えた。全体が金属で出来た延べ煙管を吹かすようになっていた。吸い終えると音を立てないよう静かに灰を落とした。カンカンと音を打ち立てると祖母に叱られたからだった。
……あいつらは。祖父は火の絶えた煙管に目を落としながら云った。ほんとうに蛍のようだったなぁ。
ほたる?
魅入られていたらいつの間にか消えておった。幻だ。今にもまた“ぽっ”と灯ってくれそうな気がしてわしらは暗闇をじいっと見つめておったんだ。わしはなんとか目をそらすことができたよ。――でもお婆ちゃんは最期の刻まで暗いところから目を離すことができなかった。見逃したくなかったんだなぁ……。
そう述べてなおも彼は火の灯らぬ火皿を見つめているのだった。
座敷わらしの四人は年に一度は外出する。奥野田家の面々が普請のために一家総出で手伝いに出ることが度々あるのだがその際に弁当や水筒などを持参する。そうした容器に宿ってこっそりと外に出るのだった。
急な呼び出しね。歩きながら牡丹が云った。場所はどこ。
九天の滝壺。
鯨の答えに柏が呻きを漏らす。
――御山の中じゃん。嫌だなあ。虫に刺される。
刺されるわけないだろ。実体がないんだから。
刺されなくてもかゆくなってくるんだよ。
ならお前だけ留守番してれば好かったんだ。
それはやだ。たまにはお日様の下を堂々と歩きたい。あと皆にも会いたい。
美宵は深呼吸して御山の空気を吸い込んだ。そして云った。……静かだね。妖怪の姿を見かけないなんて珍しい。天狗はもっと上の方だからともかく河童や山童もいないなんて――。
話している途中で遠くから地響きが伝わってきた。晴れの日に落ちた雷のようにそれは長い残響を辺り一帯にぶちまけ木々までが怯えているようにざわざわと梢を鳴らした。四人は思わず立ち止まって空を眺めた。
鯨が鼻を鳴らして云った。……去年に聞いただろ。天狗は御山争いの真っ最中だ。鬼がいなくなった後の覇権を握ろうと殺しあってる。この分だと決着はまだまだ付かないらしいな。
身を屈めた柏が涙目になりながら首を左右に動かし視線を走らせた。……なんでよりによってそんな時にこんな場所へ集めるんだよう。
緊張感を持ってもらいたいからだろ。お前らは影響されやすいからな。百聞は一見に如かず。こんなおっかない場所に連れてこられたら少しは気も引き締まるだろうって賢者様のありがたい配慮だよ。
鯨兄さんだって普段はぼけっと酒を呑んでお供えをかっ食らってるだけの癖に。
――うるさいぞ梅。
梅って呼ぶな。美宵って云え。
牡丹が小袖で口元を隠して笑った。……その“美宵”って名前、ずいぶん気に入ってるのね。
放っといてよ。
“梅”がそんなに嫌?
――松竹梅のいちばん下じゃん。なんか気分が悪くなる。
別に慶事の象徴には変わりないじゃない。本来はその三つに上も下もないのよ。
でも嫌なの。
困った奴だ。
困った姉さんだァ。
うるさいよ二人とも。
◇
滝壺にある祠のそばにはすでに郷の家々の座敷わらし達が集まっていた。鬼火や天狗風を警戒して声は低めていたがなかなか賑わっていた。小柄な彼らが鞠のように動き回りながら遊んだり世間話に興じている様は実に姦(かしま)しい光景だった。
あらあの子――。厩別家の女わらしを指さしながら牡丹が云う。なんかお洒落というか。雰囲気が変わったわね。
鯨がまたも鼻を鳴らす。大学に行った娘さんに付いていったんだと。都会かぶれしてんだな。
この前にあいつと話したよ。柏が後を継ぐ。――何かにつけて“好くってよ、知らないわ”とか訳の分からんことを口にするんだ。都会の流行りなのかな。“あらいやだ”なんて気取りくさりやがって。
ふぅん……。
牡丹は人差し指を唇に当ててじっとその子を見つめていた。
祠の戸が開いて二人の少女が奥から出てきた。
座敷わらし達は一斉に静まった。だがすぐにまた騒ぎ出した。
――誰だあいつら。
ああ代替わりか。
何年ぶりでしょうね。
前の二人はどうなった。
棄てられたんだろう。
死んだわけ?
記憶を消されて家に送り返されたんじゃないのか。
そんな話あったか?
いや聞いてないね。
あんたの家だろ。
俺ンちはさらわれたんじゃなくて喰われたんだよ。
はいはい静粛に。
紅梅色のドレスを身にまとった少女が手を打ち鳴らす。
全員そろってる?
山口家の連中が来てないぞ。
ああそいつらなら。松竹色のこれまた西洋風のドレスを着た少女が答える。――解任されたらしいよ。今ごろは里の外だ。どっかの神社でお焚き上げされてるかもね。知らないけど。
なんでだ。
詳しいことは僕も聞かされてないなァ。
座敷わらし達が再びわめき出す。
――庇(かば)ったな。
だから人間に入れ込みすぎるなと云ったんだ。
惜しい奴らを亡くしたわね。
寂しくなるなァ。
二人の少女は微笑みながらその騒ぎを聞いていた。紅梅色の童子がコホンと咳払いして続きを話す。
……私達の前任からも聞いてると思うけど巫女が新しく結界を張ったわ。
結界ならもうあるだろ。
それとは別だよ。同じ論理結界だけど目的が違う。
外にはもう出られないの?
それは教えられないわ。
まァ僕達も詳しくは知らされてないだけなんだけどね。
ぶっちゃけすぎよ、まったく。
座敷わらし達はもう遊んだりよそ見をしてはいなかった。その場に正座して二童子の話に耳を傾けていた。遠くからまた地響きが伝わってきた。座敷わらし達が一斉に身を縮みこませる。二童子は顔を見合わせてからまた戻した。
松竹色の童子が口を開く。そろそろ片が付くころだ。御山もまた日常を取り戻す。――だからといって君達の仕事には何ら変わるところはない。継続して監視に務め人里の動きは逐一報告すること。
お焚き上げされたくなかったら隠し立てはしないことね。
……反抗するわけじゃないけどさァ。
美宵の隣に座っていた柏が手を挙げて質問する。
郷の人間は普通に暮らしてるだけだよ。多少の出入りはあったけど。なんで私らが間諜の真似事みたいなことしないといけないわけよ。
今までは平穏無事だったけどこれからは違うんだってさ。
なんで。
いずれ分かるよ。人間の数がもっと増えればね。
二人はそれ以上は何も云わなかった。
集会は解散となったが鯨が帰ろうとしなかった。他の座敷わらし達が去ったのを確認してから彼は二童子に声をかけた。
……舞。それに里乃か?
戸を開けようとしていた二人はさっと振り返った。目が見開かれている。
――あれ。名前云ったっけ?
どうして知ってるの。私達のこと。
鯨は細い息を漏らした。――ああ。やはり。
美宵に牡丹、それに柏は立ち尽くしていた。
双子の少女は首を傾げるばかりだった。
詮無いことだ。鯨は呟いて首を振った。……本当に詮無いことだな。
「今夜は何だか仄暗いですねぇ」
恒例の文句と共に店に入ってきたのは射命丸文だった。美宵が会釈すると鴉天狗は指で輪っかを作って左右に揺する仕草をした。美宵はうなずいて煮物と酒を提供した。その夜の先客はマミゾウで萃香はいなかった。マミゾウから美宵の昔話のあらましを聞いた文は特にメモをとる素振りも見せずフンフンとうなずきながら煮物を口にしていた。
話し終えたマミゾウが訊ねる。
「そういや話の中で御山争いのことが出ておったがおぬしはそん時は何をしていたんじゃ?」
天狗の少女は顔をしかめた。「……すみませんがノーコメントで好いですか」
「なぜ」
「何故もなにも話したくないんです。あの時代のことは」
「そうか。ならいい。――御山争いのことはともかく今の一連の話は記事にはせんのか。こういう類の話は天狗の新聞にはあまり向いておらんのかのう」
「向かないと云いますか……」文は左腕で頬杖をつきながら右手に持った一合枡を傾ける。「失礼ながら人間の話は概して辛気臭いんですよ。何でもないようなありふれた出来事を大袈裟な悲劇として書き立てたくはないんです。要するに気が滅入るだけの話は願い下げですね」
「よく云いよるわ。おぬしの新聞ならお涙頂戴の作り話の一つや二つ朝飯前じゃろ。前にも儂ら化け狸を貶める記事を書き散らしてくれおったがまさか忘れたとは云うまいな」
「私は事実を一部伏せて書くことはありますが捏造は断じてしませんよ。大体それを云うならあなただって付喪神を通じて新聞報道は偏向が酷いだの捏造まみれだの風評被害をばらまいてくれたじゃないですか」
酒の勢いも手伝って席を立ち胸倉をつかみ合った二人を美宵は全力で止めた。
「ま、まァ記事にするかどうかはともかく――」文は咳払いして手帳を取り出す。「せっかくなので書き留めておきましょうか。何某啓吉さんのご尊父様が啓二郎さんで。その啓二郎さんの兄が河童にさらわれたという話だと」
「ええ」
「で、双子の姉もいましたがある日二人とも忽然と姿を消した。もう一人の兄弟は麻疹で幼くして亡くなった」
「啓二郎さんにはもう一人、弟がいました。金遣いが荒くなって後に勘当されましたが」
「ふむ」と文。「息子の啓吉さんにもご兄弟はいたわけですよね。もちろん」
「ええ。兄と妹が一人ずつ。弟も生まれたはずでしたがその夜のうちにトリツバサになりました」
「その兄上と妹君は?」
美宵は射命丸のことをじっと見つめた。「……妹さんのことなら天狗のあなたならもしかしたらご存知かもしれませんよ」
「というと?」
「それを今夜お話ししようと思っていたんです」
文は万年筆を指で器用に三回転させた。
「――それで今のこのお店の、えー……――鯢呑亭の店主は啓吉さんの?」
「息子さん、ですね」
「あやや。頭がちょっとこんがらがってきました」
「そんな難しいお話ではありませんよ」美宵は柔らかに微笑んで云った。「最後に遺されたのはこの店と、私と、――そしてあの人だけなんですから。それさえ覚えておいて頂ければ」
文とマミゾウは横目で互いを見た。それから各々の煮物の椀やお猪口に視線を戻した。
「今夜の分の黍粥はまだ炊けていません」美宵は鍋に視線を落として云った。「好ければ文さんも続きを聞いていってください」
「ええ聞きましょう。記事にはしないと思いますが」
「記事のことは別にいいんです」美宵は顔を上げた。「ただこれだけは申し上げておきたいのですが」
「何です?」
「彼らは確かにただの人間でした。儚くてひどく脆い人びとでした。それでも一人ひとりが独自の死を迎えました。何故ならその誰もが独自の生を歩んだからです。たとえ生まれたその日に命を絶たれた赤子でも変わりはありません」
射命丸文は微笑んだまま然りとも否とも答えなかった。
好く晴れた夏の暑い日には郷の往来をつむじ風が舞うことが度々あった。御山から吹き降りてきた強い風が渦を巻き起こすのだと代々伝えられており天狗様の機嫌がたいそう好いのだろうと家族や近所の者は笑いあった。野分の季節でも水害や風害がほとんどないのは御山が郷を護ってくださっているからであり天狗や河童は山の神の使いであるとも。だから彼らの領域を決して侵してはならないと。郷と御山の境界を踏み越えてはならないと。奥野田なつはそう聞かされて育った。
なつはその日、娘の輝子に編物を教えていた。ゆくゆくは近所の娘と同じように機織りも習わせるつもりだった。夫の啓二郎や息子の啓吉は男衆とともに酒造のため蔵にこもっている。暑さのいや増した日照り続きで井戸の水も涸れようかと近所の人びとは話していた。
もう暑いのはこりごり。
輝子は棒針を放り出してその場に寝転んでしまった。なつは娘の腿をぴしゃりと叩いてはしたないと叱った。厩別家の長女はすでに稲藁でかごを編むことまでやっているのだという。あなたも少しは見習いなさいとなつは娘の尻に向かって呼びかけた。
こんな暑いのが悪いんだい。
“だい”ってまた男みたいな言葉遣いを――。
やだやだ。あたしもお蔵の仕事を手伝いたい。だってあそこなら家の中より涼しいもの。
だめよ輝ちゃん。あれは男の仕事なの。
男々ってなにさ。ならあたしも男の子に生まれたら好かったんだ。
なんてこと云うの。
男だったらあのとき修平兄ちゃんを助けることができたかもしれないのに。
なつは黙りこくって棒針を膝の上に置いた。輝子が顔だけを恐るおそるこちらに向けた。なつは首を振った。口を開きかけたとき頭に手ぬぐいを巻いた啓吉が縁側から顔を出して呼びかけてきた。
――母ちゃん。父ちゃんが呼んでる。急いで来てくれって。
なつは短く返事して立ち上がった。啓吉が先に駆けていく。部屋を出る前に障子に手をかけて振り返る。輝子は両脚をばたばた揺らしながらカルタで遊んでいる。溜め息をつきかけて止める。そして無言で歩いていく。
◇
蔵ぼっこの紫蘇は酒蔵の匂いから逃げるように外に出てきた。蔵のそばではおしら様の長男が朝日を吸っていた。一本せがむと彼は無言で手渡してきた。紫蘇は指の腹で口紙を潰した。鯨が差し出した黄燐マッチの火を移そうとした。
鯨が云う。――もっとこっちに近づけてくれ。お前の密林みたいな髪に燃え移るだろ。
わあったよ。
二人はその場に腰を落とし恥じらいもクソもない姿勢で煙草を吸いながら青空に煙を溶かした。
空を見上げながら鯨が訊ねてくる。
――蔵を護らなくてもいいのか。万が一火事になるかもしれんぞ。
別にいいだろ。火の不始末なら知らせてやらんでもないが。
いい加減な奴だな。
お前なんかにそれを云われたらこの世の終わりだよ。
紫蘇は煙草を口の端にくわえた。
苦笑いを浮かべて鯨が訊ねる。――そういや啓坊は?
誰だよ。
啓吉の坊っちゃんだよ。
ああ頑張って手伝ってる。不器用だけどな。
そうか。身体弱いのに無茶をされたら心配だ。
何をそんな心を痛める必要がある。
この家の大事な跡取りだからな。
紫蘇はくわえた煙草を奥歯を使ってぶらぶら上下させた。
……お前ら兄弟姉妹が護るのはあくまで家だろ。人じゃない。入れ込みすぎると消されるぜ。
跡を継ぐものがいないと困る。この屋敷はけっこう気に入ってるんだ。
金なら持ってんだから養子でもなんでも候補はいくらでもいるだろ。分家から入れるのでもいい。
鯨は首を振った。
うちの問題だけじゃないのにな。分からん奴らだよ。
煙草から立ち昇る煙を眺めながら鯨が呟く。
――俺は情けない兄貴だよ。それは身に沁みて分かってる。
紫蘇は答えなかった。
鯨は続ける。お役目とはいえ辛いもんだ。啓坊は霊感が強いのか俺達のことをしょっちゅう見つけてくれる。見た記憶は忘れても想い出の感触は身体の中に残ってる。だからあの年になっても笑顔で話しかけてくれるんだ。――“はじめまして。どこかでお会いしましたか”ってな。
…………。
そんな善い子に“俺は君と君の家族が何か企んでいないか監視しているんだよ”なんて口が裂けても云えるもんじゃない。昔はこんなことなかった。あまり昔は好かったなんて感傷的なことを口にしたくないんだが御一新の前はもっと俺達と人間の関係は緩やかだった。緩やかな分だけ血が流れるようなこともあったがこんなに窮屈じゃなかった。それが今じゃ柏の奴の言葉を借りれば間諜の真似事さ。
賢者様には逆らえんね。
……俺はお前が羨ましいよ。
隣の芝生か。
かもしれん。だが少なくともお前は自由だ。蔵さえ護っていれば好いんだからな。
紫蘇は再び沈黙した。云い返すのが面倒だったからだ。この話もかつて何度耳にしたことだろう。
◇
二人が三本目の朝日に火を点けたとき表通りの土埃が少しばかり舞い上がったかと思うと急激に勢いを増した。時計とは反対の向きに渦を巻いて黄土色のカーテンを形づくりやがて一陣のつむじ風となった。暑い日で人びとは家の中にこもるか田んぼに出ており二人の他に人影はなかった。吸いかけの煙草を指の間に挟んだまま紫蘇と鯨は立ち上がった。
――こりゃまた珍しいなァ。
天狗様の機嫌が好いのだろう。
二人が並んでつむじ風を鑑賞しながら話をしていると玄関の戸が開いて輝子が飛び出してきた。歓声とも悲鳴ともつかない女児らしい高い声を上げながら彼女は両手を振り回して喜んでいた。
輝子は恐るおそるといった感じで風のほうへと向かっていった。紫蘇は以前にも彼女が小さなつむじ風に自ら入って遊んでいたことを思い出した。その時は服や髪が砂まみれになってなつに大層叱られていた。だから輝子は近くで観察するに留めていた。
だがつむじ風は輝子が近づいたとたん獲物を捉えた蛇のようにゆっくりとした動作で少しずつ移動を始めた。まるで意思があるかのようだった。紫蘇の指から煙草がぽろりと滑り落ちた。隣にいた鯨が銅鑼のような大声を上げて輝子を呼びながら駆け出す。
だがあまりに遅すぎた。
つむじ風の端が着物の袖に触れた瞬間、――輝子の身体は凧(たこ)か何かのように抵抗もなく浮き上がり大空へと勢いよく吸い込まれた。悲鳴を上げる猶予さえない。あっという間の出来事だった。突進した鯨は上空ではなく真横に跳ね飛ばされて蔵の壁に激突した。
少女の姿が見えなくなったとき風は止んだ。
あとには遠くの雑木林から響いてくる蝉の音色だけが残された。
輝子が男言葉を使いだしたのは長男の修平が姿を消してからしばらく後のことだった。
修平は春も間近というある霧深い晩冬の朝にいなくなった。御山に囲まれた盆地に身を潜めているこの里は季節の変わり目になると決まって濃い霧が出た。稲作の始まりにはまだ日にちがあり冬の終わりには今少しの辛抱が必要だった。
早起きした修平は輝子を連れて外に出た。そして家のすぐそばを流れている柳の運河に係留してあるたらい舟へと向かった。霧深い早朝はまだ妖怪や悪霊の類が夜更かしならぬ朝更かしをしている頃合いで御山から郷に降りてくることもあるという。蔵ぼっこの紫蘇も寝つきが悪く夜通し起きていた。ようやくうつらうつらとし始めたとき物音がして子供達が外に出ていくのに気がついたのだった。
蔵の窓から紫蘇は子供らの様子を観察していた。輝子が見ているそばで修平がたらい舟に乗りこもうとしている。壇ノ浦の合戦に臨む武士(もののふ)のような気迫だったが彼はまだ十になったばかりだった。見よう見まねでたらい舟を繋ぎとめている荒縄を外せるはずもなく悪戦苦闘していた。
当時の柳の運河はまだ拡張もされておらず水深も浅かった。日照りが続いた夏には伏流水のごとく干上がることもあった。運河とは名ばかりで川幅は狭く蛇の背骨のように曲がりくねっていた。凡下の舟で荷を運ぶのはまず無理だった。
それで修平のご先祖様が酒蔵で使っている樽をたらいに加工して浮かべてみたところ思いのほかうまくいった。樽に使われている杉は水分をよく吸収する。迷いの竹林の竹から作られた頑丈な箍(たが)が杉の膨張をしっかりと受け止める。円形の構造は衝撃に強く小回りも利いた。
やがて奥野田家のたらい舟はいろんな荷を運ぶようになった。
春先になり種蒔きの季節が近づくと土壌の地力を回復させるために沢山の肥料が必要になる。そのため雪解けにより増水した運河に肥(こえ)を満載したたらい舟の軍団が浮かべられて決戦の地、――すなわち下流の田畑へと流されるようになった。壇ノ浦のごとき荘厳とした陣容だったが載せられている肥の正体は化学肥料の類ではなく下肥(しもごえ)だった。要するに“し尿”である。
汚い話のように思われるが実際に汚かった。
何はともあれ天下の往来を汲み取り人が中身をこぼしながら練り歩くのに比べて肥舟(こえぶね)はずっと衛生的でスマートだった。そのためにたらい舟の製作やその賃貸は奥野田家や厩別家にとって第二の大事な収入源になった。年によっては本業である酒造やお蚕よりも儲かった。
稼業を邪魔された汲み取り人が回収したてのし尿を密かに屋敷に投げ込んできて大騒ぎになったこともあった。しかし綺麗好きの牡丹を除いた鯨・美宵・柏の連合軍が一斉に反撃して以降、嫌がらせはぴたりと止んだ。奥野田家と下肥を巡る知られざる源平合戦の詳細は今回の話とは関係ないので割愛する。
時代が下り“柳の川”はいつしか名前を変えて“運河”が後ろに付くようになった。
◇
たらい舟と格闘している修平と傍で見ている輝子に近づく赤い影があった。紫蘇は二度、三度とまばたきした。見た目は西洋風のハイカラな外套を着こんだ少女だった。外套は前の襟がぴっちり閉じられており胸元から口に至るまでを覆い隠している。紫蘇は唇をなめた。脈拍が早くなり唾を思わず飲みこんだ。小火が出たときに音で家人を起こすための鉄棒を右手で握りしめた。
――こんな早くにおはようさん。赤い少女は声をかけた。何してるの。
兄妹はそろって固まった。
娘は立ち止まった。両手を顔の高さに挙げてひらひらと振ってみせた。
怪しいもんじゃないよ。ちょっと気になっただけ。
……お姉さん誰? 修平が震える声で訊ねた。外から来た人?
そうね。最近きた。というか引っ越してきたの。
なんでまたこんな田舎に。
外套の上で深紅の瞳が細められた。……向こうに居場所がなくなったから、かな。
居場所? 家出してきたの?
似たようなもんだ。
それよりさ、と少女は腕を組んだ。
その舟に乗りたいなら私が縄を外してあげようか。
いいの?
親御さんが危ないからっていつも乗せてくれないんだろ?
修平はうなずいた。
じゃあ冒険だ。可愛い子供には旅をさせろとよく云うしね。
奥野田家の長男は躍り上がって喜んだ。
――ありがと。これで楽園を探しに行けるよ。
楽園?
本居さんチで借りた本に書いてあったんだ。海の向こうに楽園の島があってね。そこに成る実を食べたら幸せになれるんだってさ。
坊やは字が読めるのかい?
もちろん!
――母ちゃんにお布団で読んでもらったんでしょ。
輝子がツッコミを入れる。
修平はうるさいと云って黙らせる。
……その実を食べたいってことは坊やはいま幸せじゃないって感じてるわけだ。
修平は首を振った。違うよ。爺ちゃんや婆ちゃんのお土産にするんだ。――俺の叔父さんや叔母さん達はみぃんな俺が生まれる前にどっかに往っちゃった。それで爺ちゃんも婆ちゃんもすごく辛い思いをしてんだ。婆ちゃんはずっと寝込んでるし爺ちゃんは煙草ばっか吸っていつも難しい顔してる。――だからさ、その幸せの実を食べたら元気になってくれるかなって。
赤い外套の少女は縄を解く手を止めて身じろぎした。
…………殊勝な子だね。でもその島の話を最後までちゃんと聞いてたの?
読んだよ。その実を食べたら他のことがどうでも好くなるんでしょ。
まさにその通り。何もかも顧みなくなり快楽の奴隷になる。イタケーの屈強な兵士でさえひと口食べれば故郷で待つ妻子のことさえ忘れてしまう。要するに呆けてしまうんだ。
今だって半分呆けてるよ。そんなら笑ってくれたほうがいいじゃん。
少女が微かにうなずくのが見えた。蔵から観察している紫蘇もいつの間にか鉄棒を握りしめる手の力を緩めていた。
縄が解かれた。修平はさっそく乗りこんだ。出航の前に少女は念を押すように云った。
……今さらだけど本気でそんなたらいで楽園の島にたどり着けると思ってるの?
だって近くに島があるもん。里の外に。
外に? 島が?
霧の湖に浮かんでる島だよ。あそこにたどり着けるのは霧の出てるときだけなんだ。
ああ。あの洋館の廃墟があるとこか。
本に書かれてたのはきっとあそこのことなんだよ。
…………。
少女は首を振った。髪に結ばれたリボンが蝶の羽のように踊る。
……なあ。やっぱり出航は取りやめだ。
え?
あそこに行っちゃいけない。――あそこは楽園なんかじゃない。
やだよ。ここまでやってくれたのにそりゃないよ。
――大切なことを教えてあげる。赤い少女は指が喰いこむほどに強く少年の肩を握った。この世界の“ロータスイーター”は坊やのような人間のことじゃないんだ。いや何も知らされずに平和に暮らせてるんならあるいは坊や達もまたロートパゴス族の一部なのかもしれん。――とにかく禁じられた果実に手を出すのは止めるんだ。そして愛すべき我が家に戻るんだ。そうすればオデュッセウスのような波乱万丈の冒険はできないかもしれないが少なくとも彼と同じように家族のもとに帰り着くことはできる。
修平が唇を結んで唾を飲み下すのが分かった。彼はしばらく黙っていたが観念したのか力を抜いた。少女が目を細めて外套の下で微笑んだ。そして修平の頭をなでた。
――好い子だね。
少女は修平の手を取って通りに戻るための階段を上りかけた。しかし階段は点々とこぼれたし尿のためにひどく滑りやすくなっていた。そして少女の履いている欧風のブーツは草鞋(わらじ)よりも見目は麗しいが実用性には劣っていた。
少女は派手にすっ転んで頭を階段の角にぶつけた。その拍子に首がぽろんとあっけなく落ちた。まるで最初から首が胴体と繋がっていなかったかのようだったが事実そうだった。生首は鞠のように弾んで運河に落ちた。修平と輝子と蔵から見ていた紫蘇は同時に悲鳴を上げた。修平は後ろに引っ繰り返ってたらい舟の中に落ち輝子は家に逃げ帰り紫蘇は蔵の窓に取りつくために積み上げていた薪の山から落っこちた。
紫蘇が起き上がったときには修平はたらい舟ごと消えていた。妖怪の少女の胴体もない。すぐに追いかけようとしたが蔵の戸は頑丈な南京錠で施錠されており開かなかった。続いて煙になって窓から外に出ようとしたが気が動転していて変化(へんげ)ができなかった。そうこうするうちに輝子に叩き起こされた家族や下女らが騒ぎ始めた。紫蘇は密林のような髪を両手の爪でがりがりと搔きながら蔵の中を走り回ることしかできなかった。
少年は楽園へと旅立ちその後の消息は杳(よう)として知れない。
炉の煙突から煙が上がり始めると啓吉は絞り出すように息を吐き出してあばら家の壁に身をもたせかけた。火葬屋の少女はこちらを振り返ったが手を貸すことをしなければ声をかけてくることもない。それが今の彼にはありがたかった。彼は青空に昇っていく煙の行方を目で追った。煙は上がり続けて空に溶けていったが青雲はあくまで色彩を変えずに泳いでいた。海に垂らされた一滴の墨汁のように取るに足らない出来事だった。
お仏が上がりましたという火葬屋の少女の声に会葬者は炉のそばに集まった。少女の手にある白紙に一寸くらいの石灰が横たわっていた。人びとの口からほうっと息が漏れた。マッチ棒のように小さな骨は指だった。穴の空いた歯も見つかった。虫歯で痛がっていたその歯だった。少女が竹箸で炉の中を掻きまわしてようやく喉仏を見つけた。ひときわ大きな頭蓋骨の欠片も。それらのすべてを人びとは箸で拾い上げて骨箱に納めた。
骨上げが終わると啓吉はあばら家のそばに敷かれていた筵(むしろ)に腰をおろした。黒縮緬を着た一人の女が彼の肩にそっと手をかけてきた。厩別家の一人娘で啓吉と歳は同じだった。彼女は少女の時分に山男にさらわれ奇跡的に助け出されて里に戻ってきた過去があった。啓吉は彼女にうなずいてから先に行ってくれと促した。娘はためらいがちに手を離してから他の会葬者とともに奥野田家の墓に向かった。
妻の瑠璃子は焼き場には来なかった。啓吉や彼の親族が家で休んでいるよう押しとどめたからだ。
◇
石塔を倒して穴に骨箱を入れ元通りに立たせる。それから柄杓で水をかける。皆が瞑目合掌する。一同が引き上げると焼き場には啓吉と火葬屋の少女だけが残された。
少女は四ヶ華を片づけた。房状に切れ込みを入れた銀紙を竹ひごに巻きつけたもので葬儀の度に使い回されているため元の色彩は喪われ鈍色にくすんでいた。
筵に腰かけてうな垂れている啓吉のそばに少女が立つ。
はやく戻りませんと。
ああ。
会食の席が用意してあるのでしょう。
君は来ないのか。
私は里の皆さんには受け容れられませんから。
なんで君のような子供に里はこんな仕事をやらせているのだろう。
それが決まりでしょう。この仕事を務めるのは今はもう私しかいませんから。
両親は?
とうに亡くなりましたよ。
そうか。婆さんの時分は世話になったな。
…………。
まさかご両親も君が焼いたのか。
ええ。少女はうなずいた。――でも失敗してしまいました。薪も空気も足りなくて火力が出なかったんです。雲にしがみついたみたいな恰好で二人とも真っ黒になってしまって。それが私の初めてのお勤めです。もう失敗はこりごりだと思いました。それからは一度もしくじっていません。
啓吉は顔を上げて呟いた。……薄々は知っていたんだ。俺の娘だけが特別なはずはないよな。
何の話です?
父さんや母さんがなんであんなに俺を家から出したがらなかったのかこれで分かったよ。大学に行けることになったときも最初は猛反対された。爺さんの助け船がなかったら俺は何も学べないまま冬眠している熊みたいにこの巣穴に押しこめられたままだったろう。
都会ですか。羨ましいですね。
今ではどこか別の世界のことのように遠く感じるよ。向こうの恩師や友人からの便りはない。そもそも俺が出した手紙自体が届いていないのかもしれん。名前どころか顔さえもう何人かは思い出せないんだ。卒業してまだ数年も経ってないのに。
啓吉は立ち上がって腰に手を当てて背筋を伸ばした。
そして呟いた。……この里は、――この世界は何かおかしい。
火葬屋の少女は頭(かぶり)を振った。
あまり不用意なことを仰らないほうが好いですよ。
啓吉は振り返って彼女を見た。
少女は続けて云う。――私は里から離れて暮らしていますから色んな噂が入ってくるんです。これからの時代はもう人が突然消えることは減っていくだろう。でもそれは私達人間が夜の往来を自由に歩けるようになったことを意味しない。壁に耳あり障子に目あり、です。
俺達は監視されてるのか。
恐らくは。たぶん今も。――この会話も。
いつからなんだ。
数百年前から。
啓吉は目をきつく閉じて息を吸いそして吐いた。それから周囲を見渡した。冬の焼き場は不気味なほどに静かだった。少女の微かな息遣いがそよ風のように耳をかすめゆく他に音はない。足を踏みかえて大地の感触を確かめる。
火葬屋の少女は目を閉じていた。
……私の両親が亡くなったのも多分知りすぎたからなんだと思います。森や山の声に耳を傾けすぎてしまったんです。ですから私はあまり夜更かしをしないようにしているんです。夕陽が沈んだらもうここは彼らの世界ですから。
彼らの世界。
啓吉は少女の言葉を腹の奥で繰り返した。
「記事にはしませんと申し上げましたが」鴉天狗の少女は云った。「新聞に載せないとまでは云ってませんので」
「それで店の広告を?」
「ええ」
美宵は文々。新聞(人間の里版)の最新号を広げて総ての記事にざっと目を通した。隅々まで確認したが鯢吞亭の文字はどこにもない。
「人間向けの広告ではありません」顔を上げた美宵を右手で制しながら文は続ける。「妖怪専用の蚕喰鯢呑亭の宣伝をするのに人間の文字で書くわけがないでしょう。端っこのところに天狗文字が書いてあるのが分かりますか?」
「この干からびたミミズがのたくったみたいな?」
「ミミ――」文は顔をしかめて咳払いした。「……要するに妖怪向けの広告ですよ。それも人間の里版を好んで購入する妖怪。すなわち人里と関わりが深く人間の文化に理解のある訓練された購読者が対象です。同じ広告を本紙に載せたら大挙してやってきて収拾がつかなくなりますからね」
「なるほど」美宵はうなずいた。「どうしてそこまでして下さるんです?」
文は一合枡から顔を上げて鴉を思わせる真っ赤な瞳を美宵に向けた。
「……何だかんだでお世話になってますからね。この店には」
美宵は腰に両手を当てた。「そんなこと云って。どうせまた何か企んでいらっしゃるんでしょう?」
「疑われるとは哀しいねェ」
文は低い声でそう云った。
美宵は新聞を握る力を強めた。「……あなたもマミゾウさんも萃香さんも大切なお客さんです」新聞を丁寧に畳んで続ける。「――でも時どき怖くなるんです。私は所詮ただの座敷わらしです」
「ただの――?」
「あなた達に比べたら取るに足らない存在ってことですよ」
「ああ」
「ですからあなた達が腹の底で何を考えていらっしゃるのか分かった試しがないんです。前にも申し上げましたが私の望みはこのお店とこの屋敷、――もう屋敷とすら呼べない代物ですが、――この家を守ることなんです。皆さんのお相手をするのが楽しいのは事実です。でも不安になるのもまた事実なんです」
「それなら安心しなさい。我々にとってもこの店の存在は貴重だし。利害は一致している」
「私、――以前に聞いたことがあるんです」
「何を」
美宵は新聞から顔を上げて文を見返した。「ただの噂です。この里の支配権を巡って妖怪達がしのぎを削っていると。自分達の勢力圏を少しでも広げるために種族間で駆け引きをしているとかそんな噂です。……鬼に天狗に化け狸、――尋常でない力を持った皆さんがこぞってこの店を訪れるのは本当にただ飲み食いをしたいだけなんだろうかってつい考えてしまうんです」
「その説は一部は正しい。――でも事実の総ての側面を捉えているわけではない」
文はこちらを向いていなかった。煮物を片づけるのに集中していた。
「あなたが語った昔話に結界の話が出てきたけどあれが張られて以来、この世界は大きく変わった」
「ええ。それは、――本当に身をもって実感しましたよ」
「それ以前には実に沢山の人間が妖怪との関わりの中で命を落としていた。七人いた兄弟姉妹のうち一人しか成人できなかったことも珍しくない。死と消失が今よりずっと身近に感じられた。でもあの結界が張られて以降、啓吉さんの一族ではっきり“妖怪の仕業で”姿を消した者はいる?」
美宵はしばらく考えこんだ。「――……いない、と思います。事故や変死、病死はありましたが」
「大事な例外を忘れてる」文は続ける。「啓吉さんご本人の最期はどうでした?」
美宵は思わず叫び声を上げそうになった。
「…………なんでそんなことが分かるんです?」
「昨日までの話の流れを聞いていたら何となくね」
「…………」
「啓吉さんはひと際に感受性の強い方だったようですね。それに大学で外の世界のことを学んだ。ご自分の家族にもたらされてきた怪異を厭というほど見せつけられた。愛する我が子もまた妖怪の仕業かどうかはともかく何人も亡くすことになった。それで彼を始めとした人びとは思ったことでしょう。このまま黙って妖怪どもに税金を納め続ける意味がどこに――」
「もういいです」
文は黙った。
美宵は呟いた。「……止めてください」
文は首を振った。
◇
翌日の夜になってさっそく新しい客がやってきた。
山彦と夜雀の二人。漆黒の衣装に身を包み目にはサングラス。ギグケースに入ったエレキギターで武装していた。美宵は唖然として見ているしかなかった。
「ライブ帰りでさ」美宵がひと通りの案内を終えると山彦の方が訊ねてもないことを話し出した。「盛り上って小金も入ったしぱーっと騒ごうと思って」
「店のことはどちらで?」
「お寺が取ってる新聞に載ってたの」
「煮物が超絶に美味いって本当?」と夜雀。「レシピ教えてくれたら代わりにウナギのタレの製法を伝授してやってもいいわよ。うちの屋台の自慢なの」
「変わらぬその旨さ。秘伝の製法って奴ねー」
「まァ昔はウナギじゃなくて別のもん焼いてたんだけどね」
ライブの興奮状態が続いているせいか二人は実に騒がしかった。酒は落ち着いてから出すことにして残り物の煮物を給仕すると二人は抱き合って喜び絶賛してくれた。美宵の口からへへへと笑い声が漏れた。
「ああ。そうそう」
酒が入り始めたころになって幽谷響子が云った。
「この店ってさ、料理だけじゃなくて店主さんのお話も見逃せないって新聞にあったんだけど」
「私は店主じゃないよ。――というかそんなことまで書かれてたわけ?」
「そうよ」
「気分じゃないんだけどなぁ」
「いいじゃない夜は永いしさ。代わりにもっと注文するから」
黍粥を待ちながら家の昔話をかいつまんで語ってやると二人は実に興味深そうに聞いていた。適当に聞き流されると思っていただけに美宵も徐々に乗り気になった。
ひと通り話し終えると響子が口を開いた。
「……そのうま、うま――」
「厩別家?」
「そう。その厩別家の娘さん。山男にさらわれたって?」
「ええ」
「でも戻ってきた」
「そう」
「何だか聞いたことがあると思った。私もその時分は御山に住んでいたもの」
美宵は鍋から顔を上げた。「……知ってるの。あの子を?」
「多分ね」
「それなら私も心当たりがあるかも」ミスティア・ローレライが続いて手を挙げる。「啓吉坊やのお爺さん。それらしき人と会ってたかもしれない。確証はないけど」
美宵は帳台の後ろで足を踏みかえた。鴉天狗の少女の顔が脳裏をよぎった。口を開きかけては閉じてまた開いた。鍋をかき回す手が止まっていた。
「その話……」
「うん?」
「好かったらその話、二人とも順番に話してもらえないかな」
「いいよ。御礼にね」
響子がうなずくとミスティアも続く。「偶然ってあるもんだねぇ」
美宵は深呼吸して山彦の話に聞き入った。
厩別家の畑では胡瓜(きゅうり)を作らない。収穫した胡瓜を川で洗っていた娘が行方不明になったからだ。目撃者の証言から山男にさらわれたのだろうと人びとは噂しあった。彼は雪どけの季節になると麓の近くまで降りてきて魚を釣るのだという。
◇
さらわれた娘の兄や志願した男衆が救出の準備を終えそれぞれ鉄砲を担いで御山へと分け入った。山彦の響子はその道中で彼らと出逢った。娘の兄があまりに大声で喚き散らしながら山や谷、沢を登っていくので響子も負けじと山彦を返しているうちに彼らのことが気に入ってしまい姿を見せることにした。
そんなに大声張り上げてると天狗や河童に追い返されちゃうよ。
説得の末にようやく彼らは鉄砲を下ろした。響子は案内を買って出た。
山男ってあの毛むくじゃらの大きいやつ?
娘の兄はうなずいた。――ああ。たぶんそいつだ。
何の用?
彼は唇の皮を爪で引っ掻く仕草をした。……取引だ。塩と引き換えに山魚を交換するんだよ。
そんなことのためにこんな山奥まで?
年に一回の祭りでね。どうしても山の渓流で取れる上質な魚が要るんだ。
ふぅん。
響子は納得して案内を続けた。道中の沢で山男と知り合いの山姥を見つけた。響子は彼らの背中に隠れて小声で云った。――あなた達で話してきて。私は隠れてるから。
なぜ。
あいつとはあんまり仲が好くないの。よそ者嫌いですぐ刃物を振りかざしてくるから。
それなら俺達だって同じだろう。
響子は彼が腰から提げている皮袋を指さした。
塩を分けてあげれば話くらいはできるんじゃない? 交遊は嫌いだけど交渉には応じるから。
男達はどうにか話をまとめたようだった。山姥に連れられてさらに奥へと登っていった。響子はその場で待っていた。流れに逆らうように泳いでいる鮎を岩場に腰かけて見守っていた。それにも飽きて視線を移すと山の奥のほうで黒煙が上がっているのが見えた。天狗達が争っているのかもしれない。まだ小競り合いの段階だが結界が正式に張られた折りには本格的な闘争に発展する可能性もあった。
響子はため息をついて独りごちた。……何だかな。誘いに乗ったのは間違いだったかな。
再び川面に視線を移したとき銃声がした。響子は思わず山彦した。すぐに我に返って立ち上がった。男達が駆け下りてきた。後ろに見知らぬ娘を連れていた。ひどく怯えた様子で呼吸が荒かった。
――村田を使っちまった。すぐずらかろう。案内を頼む。
娘の兄の言葉に響子はこくこくとうなずくしかなかった。
◇
娘を励ましながら男達は必死に山を下りた。娘は履物がなく裸足であり長くは歩けなかった。そこで男達が順番に背負うことになったがいくらもしないうちに体力の限界がきた。
視界の隅に黒い門柱が映った。響子は足を止めた。ぜえぜえと息を吐きながら兄が云う。
なんだ。なんで止まる?
あそこで休憩しよう。
男達と娘は茫然と周囲を見回した。
――山の奥にこうも見事な……。
庭の四方に咲き乱れた紅白の花はどれも手入れが行き届いていた。指で触れれば柔らかに反発してきそうなほど花弁は瑞々しく生気に溢れている。暗い顔をしていた娘の表情も和らいだ。裏の牛舎や厩には十にも及ぼうかという家畜が飼われており糞の一つも見当たらないほど清掃されていた。牛馬の総てが立派な体躯を誇っており健康的で鳴き声はあくまで高らかだった。
ここは小楽土だな、と男の一人が呟いた。
屋敷に上がる前から鉢には火が起こされており鉄瓶の中で茶が湧かされていた。里には決してもたらされることのない新茶の味わいだった。男達と娘はようやくひと息ついて掃除の行き届いた部屋を見渡す。
……いったいここは何なのだ。
知り合いの家だよ。響子は澄まして答える。いや住んでるわけじゃなくて管理してるだけかもしれないけど。普段は留守なんだ。だから勝手に使わせてもらってる。
その知り合いも妖怪なのか。
化け猫だね。
おいおい大丈夫かよ。別の男が腰を浮かす。せっかく山男を退治して凱旋しようってところで全員化け猫に喰われちまうなんてオチ、俺ァごめんだぜ。
響子は無言で男を見た。それから娘の兄に視線を移した。彼は相棒を肘で思いきり小突くと響子から目をそらしゆっくりと口を開く。……すまん。やむを得ないことだった。
殺したの?
分からんがあの銃創ではまず助からないだろう。
…………嘘をついたのね。取引のためなんて云って私を騙して――。
それについては本当にすまないと思ってるよ。兄は低い声で応える。――ただ分かってほしいんだ。俺達はもうご祖先様のような退治屋ではない。しかしだからといって妖怪どもに黙って大切な家族を奪われるのを座して待つほど阿呆なつもりでもないんだ。時代は変わったんだよ。
響子は男達を真っすぐに見ていた。沈黙が部屋を覆った。娘は再び震え出した。
自分でも驚くほど透明な声で響子は云った。
……お前達のような人間が増えるから私はこんな世界に来る羽目になったんだ。
彼女は立ち上がっていた。
お前らのような人間ばかりになるから私は……。
その先は続けられなかった。胸をトンカチでぶん殴られたかのような衝撃とともに彼女は後ろに引っ繰り返っていた。畳に赤い血だまりが染みこんでいった。響子は目を開いた。煙を上げている銃口が視界に映った。銃把を握った兄の姿も。
――案内に感謝する。悪いな。
彼はそう云い残すと他の男や妹を連れて屋敷を出ていった。
娘は何度もこちらを振り返っては何か云いたげにしていた。響子は倒れたままその背中を見送った。
◇
――何やってんのあんた。人んちの座敷を血で汚しやがって。
化け猫の橙が両手を腰に当てて云った。響子は無言で身体を起こした。火鉢の中で崩れた灰をぼうっと見つめていた。火は絶えていた。部屋は寒かった。
……どうしたの。山彦。あんた泣いてんの?
別に。響子は袖で目尻を拭った。何でもないよ。
人間を入れたのね。
いや……。
嘘つけ。銃声がした。馬も怯えてる。
響子は答えなかった。
橙はため息をつくと散らかった部屋を片づけ始めた。……湯呑みが三つほどなくなっているわね。あいつら持って帰ったのか。
……なんでこんなことになったんだろ。
何の話?
私はあいつらを危ない目に遭わせようとかそんな気はなかった。ずっと人と共に生きてきたつもりよ。
そうね。
外ではもう用無し。だから“いっそのこと”って誘いに乗ったのにこっちもご覧の有様よ。
響子は火箸で灰をかき混ぜながら続ける。
……ねぇ。
なに。
新しい結界の話は本当?
ええ。
問題はすべて解決するの?
そう聞いてるよ。橙は掃除を続けながら淡々と答える。ご主人様の話の受け売りだけどね。
――妖怪は人間を襲わなくなる。人間は妖怪を退治しなくなる。そういう話?
ええ。二者のバランスが崩れれば結界もまた崩れる。
これで平和になるんだね。
多分。
……そっか。響子は火箸を置いた。もう少しだけ、――我慢してみるかな。
橙は答えなかった。
◇
厩別家の者達が持ち帰った朱色の美しい湯呑みは湯を注ぐだけで極上の茶が出来上がる不思議な道具だった。その茶を飲んでひと晩眠ると軽い病ならたちどころに治ってしまうという。それ以降、厩別家は富に恵まれるようになり子宝にも恵まれ奥野田家に次いで里の長者となった。
しかしそれからしばらくして他の多くの家々と同じ運命を辿った。
◇
響子は山を登ってくる人影を見かけた。
昨今ではもう珍しくなかった。食料を求めて枯れ木のように瘦せ細った者が幾人も山に分け入ってくるからだ。その努力の多くは徒労に終わる。御山のほとんどは天狗風と火球によって吹き飛ばされ焼き尽くされていた。山菜どころか虫の一匹さえ見つけるのは容易ではない。天狗の御山争いはまだ続いていた。響子は黒く焦げた枝に座って新たな一人の犠牲者を静かに出迎えた。
女は顔を上げた。二人の目が合った。響子の口からああ、という嘆息が漏れた。
――あんたか。
山彦の……。
ええ。久しぶりね。
何か。食べ物。もしくは水の出るところはありませんか。
響子は首を振った。
女はそれで最後の力を絞り切ったらしかった。糸巻の芯棒のように細い両脚が折れてその場にうずくまる。木々の灰が舞い上がって服にまとわりつく。
死ぬ前に教えてほしいんだけど。響子は訊ねる。あなたの兄貴はどうなったの。
彼女は声を絞り出す。……餓えて死にました。まだ墓を掘れていないんです。
お墓が必要なの? 響子は鼻を鳴らす。人間同士で互いの肉を喰い合ってるんでしょ。
…………。
山彦は枝から飛び降りて女の胸倉をつかんだ。
……お前達の、自業自得よ。女を揺さぶりながら響子は続ける。人間は増長しすぎた。お前達は数を増やし過ぎたのよ。大人しく私ら妖怪を怖れて喰われ続けていればこんな悲惨なことには――。
響子は息を飲んで押し黙った。自分の口に手のひらを当てた。
女はすでに事切れていた。
◇
……それで。橙は湯呑みを置いて訊ねた。死体はどうしたの?
埋めてきた。その場に。
すぐ掘り返されるわよ。人間が餓えているのと同じように妖怪だってどいつもこいつも缶詰には飽き飽きしてる。死臭を嗅ぎ当てるのばかり得意になってるからね。
それでもいい。響子は首を振る。結局は私も他の奴らと同類なんだ。
あんたはこの期に及んでさえ誰もさらっちゃいないし喰らってもいないじゃない。
だから何よ。同じよ。……人間から疎まれ、無視され、やがては憎むようになっちゃった。
響子は割れそうなくらい力を込めて湯呑みを握っていた。
……他の奴らと同じになっちゃったの。
橙はそれには答えずに話題を変えた。
――これからどうするの。
分からない。もう何もかもどうでもいい。
そんなこと云ってたらあんた消えちゃうわよ。
じゃあどうしろって。――仏門にでも入れと?
割といいんじゃない。妖怪専用のお寺とか出来るかもよ。
笑い話ね。響子はようやく顔を上げた。――橙はどうするの。というかあんたのご主人様はいったい何をしてるの。
対応策を練ってるよ。こんな状況いつまでも放っておけるはずないもの。
期待はしないわ。もう。
分かってる。
響子は湯呑みを置いて立ち上がった。
じゃあ、……行くね。
悪いわね。力になれなくて。あんたを裏切ってしまった。
頭を下げようとした橙の肩を響子はつかんだ。
――今までありがとう。ここがなかったら私はとっくに死んでた。
式の少女はうなずいた。
響子は屋敷を出て行った。それから二度と迷い家を訪れることはなかった。
老いたその男は家族がみな寝静まった後も煙管(きせる)で煙草を吹かしていた。照明は落とされており書斎は仄暗い。彼が煙を吸いこむ度に火皿に蛍のような明かりが光った。灯っては消えて。消えては灯る。暗がりの中で舞う蛍を彼は毎晩のように目で追いかけていたのだった。
しかしその夏の夜は違った。彼は煙管を取り落として激しく咳き込んだ。唾液に血の味が混じっていた。いくど咳をしようとも痰が絡み砂利を噛みしめたような音が出た。咳がおさまると彼は目を閉じて自身の呼吸の音に耳を傾ける。長く細い息を吐く。それからうなり声を上げて立ち上がる。
肌寒いほどに涼しい夏の夜だった。外に出た彼は一匹の蛍を見つけた。蛍は明滅を繰り返しながら柳の運河を下流へと流れていった。その蛍は彼が長い人生の中で見てきたものの中でもひと際に強い光を放っているようだった。あくまで目に優しく。されど視線を誘う。秋の夜長に浮かぶ銀色の満月のようだった。その蛍の周りに一匹また一匹と新たな光が惹きつけられる。彼らは運河を下っていく。
老いた男は咳をしながら蛍の群れの後を追いかけた。境界を越えて夜の森へと足を踏み入れていった。まだ里の外縁に壁や門がなかった時代だった。
◇
炙り焼きで雑味を落とす。山椒を加えた特製の“たれ”に浸す。そして出汁を煮込んだ野菜スープと一緒に味わってもらう。お客さんが笑顔を見せたら次は雀酒の出番となる。
ミスティア・ローレライは屋台でその日の最初の客を出迎えた。リグル・ナイトバグが席につく。友人の妖怪少女は指に留まった蛍を人差し指で愛でながら無言でうなずいた。ミスティアもうなずいて串に刺した炙り肉にスープを添えて出した。リグルはまるで哀悼を表するかのように目を閉じてゆっくり味わって食べた。
雀酒を一杯飲み干してから蟲の妖怪は口を開いた。……名残り惜しいね。これが最後になるのか。
まだそう決まったわけじゃないでしょ。ミスティアは肉を焼きながら答える。これからずっと缶詰生活なんて本当に冗談じゃない。
でも外からは滅多に入ってこなくなるし里の連中も原則襲えなくなるんでしょ。絶望的だ。
――私が云いたいのはそう悲観的になる必要はないってこと。
リグルは頬杖をつく。……そういえばルーミアは?
さあね。ヤケを起こして外界に出てないといいけど。
あの子の素材を見る目は確かだったからなぁ。
ショックでしょうね。
――ねえミスティア。
なに。
ご新規さんだ。
ミスティアは手を止めた。人間だった。それも老人だ。彼はふらふらと夢遊病者のように歩いてきた。二人の妖怪が呆然と見ている前で男はまるで昔馴染みの客のようにリグルの隣に座った。
彼は二人の顔を交互に見た。二人も見返した。
老人は口を開いた。――ここは何かね。
ミスティアは答えた。屋台よ。見れば分かる通り。
お嬢さんがやっとるのかい。
そうよ。
なんとまあ。
彼は笑おうとしたが激しく咳きこんだ。盛り台に血が飛び散った。ミスティアは顔をしかめリグルは腰を浮かせた。
……すまん。と彼は云った。すまなかった。
ねえお客さん。悪いけどここにはあなたの口に合う料理はないの。
酒はあるかね。
雀酒なら。
すずめ?
竹の中で発酵させたお酒よ。この店の特製なの。
それはいい。
無粋で悪いけどお代はあるの?
ああそうか。持ってないな。すまん。
私がおごるよ、とリグル。人間がミスティアのをどう評価するのか気になる。
老人は竹筒から酒を飲んだ。ミスティアはお盆で顔の下半分を隠していたが男は咳き込まなかった。竹筒を置いて吐息を漏らした。
……美味いなァ。
ミスティアは微笑んだ。――それは好かった。
今まで飲んだ酒でいちばんだよ。
嬉しいわね。
好い酒は好い夢を視せるんだ。
そうなの。私達は夢を滅多に視ないから知らなかったわ。
老人の頭が前後に揺れ始めた。……邯鄲の夢だ。
ん?
思えば夢のようだったよ。
何が。
何もかもだ。
ミスティアはリグルと目を合わせた。蟲の妖怪は肩をすくめた。
お客さんの云うことは今いち好く分からないわね。
うちも酒を造っているんだ。
あらそうなの。
老人は語った。……酒なんてお蚕といっしょでみんな自家製のを造っていたんだがね。うちはひと手間加えていた。それで里で一番の名酒になった。外でも一目置かれていた。昔はね。
そのひと手間って?
老人は雀酒をもう一杯口にした。――女将さんは“富士見酒”を知っとるかね?
さあね。うち以外の酒には疎くて。
昔は灘(なだ)で造られた酒を船で江戸まで運んでおったんだ。下り酒だな。江戸で売れ残った酒は再び上方に戻される。そうやって運ばれとるうちに波で好い具合に揺られて吉野杉の香りが酒に移る。味はまろやかに香りは豊かに。その酒が古都では大いに人気を集めた。――“富士を見て帰ってきた酒はたいそう美味い”とな。
それで富士見なのね。
ああ。
それがお客さんの造ってる酒とどういう関係が?
うちの屋敷の前にそれほど大きくはない運河が流れとるんだが。
ええ。
あるとき下流に渡すために酒樽を舟に乗せて運ぼうとしたんだ。だがいつまで経っても目的の場所まで流れ着いてこない。はてなと思って待っておったら同じ酒樽が上流からどんぶらこっこと流れてきた。最初のときより随分古びていたが樽に刻んだ番号は確かに同じだった。
オチが見えたわね。
ああ。まさに奇跡の味わいだった。今の奥野田家があるのはあの酒のおかげだ。
リグルがわずかに身を乗り出す。……実に面白い話だね。そのお酒に名前、――銘はあるの?
もちろん。
なんて?
――“美宵(みよい)”だ。
ミスティアはまた微笑んだ。
好い名前ね。
彼はこくこくとうなずいた。目蓋がゆっくりと閉じられた。竹筒を置いて盛り台に突っ伏した。
老人は永い吐息を漏らして呟いた。
……まい。さとの……。
彼は動かなくなった。
ミスティアとリグルは止めていた息を吐き出した。それから再び顔を見合わせた。リグルが彼の顔に耳を近づけた。使いの蛍の一匹を首筋に留まらせた。しばらく目を閉じていた。
リグルは目を開いて云った。
……――死んでる。
ミスティアは無言でうなずいた。彼の竹筒に替えの雀酒を注いだ。そして遺体の手に握らせた。
◇
ルーミアがやってきたのは老人を筵に横たえたときだった。
――それどうしたの。新しい食材?
いや……。
バラそうか?
ミスティアはルーミアと遺骸とを交互に見た。
そもそも材料にならないわよ。煙草の臭いで分かるでしょ。
ああうん。ルーミアは今更のように鼻をつまむ。肺どころか肉にまで煙が染みこんでそうだ。
煙草は駄目だな私も、とリグル。天狗の連中ならグルメにするだろうけど。
固そうだし屋台で出すのは論外ね。
じゃあどうするの。
人間の流儀に従って埋葬するとか……。
なんか勿体ないよね。
ルーミアはリグルの肩に留まっている蛍を指さした。
その妖怪蛍に喰わせれば?
ミスティアは手を挙げた。
賛成。
……煙草は蟲達も苦手なんだけどな。
その辺の成り損ないのエサにするよかマシでしょ。
まあそうだね。分かった。
リグルは頭上に手を掲げて光弾を一発放った。森のあちこちの水場から蛍が集まってきた。無数の蛍が明滅を繰り返しながら夜空を舞い上がる様は星々の数が二倍に増えて瞬いているかのようだった。成虫の蛍は通常ほとんど食事をしない。ごく一部の個体が肉を貪り寿命を伸ばす。人間の肉ならばさらに妖蟲に成り上がる。
老人の肉体は妖怪蛍にすっかり覆われた。蛍光色に怪しく光る蛍の群れが人型を形づくる。まるで捕食されているのではなくこれから新しい生まれ変わりを遂げようとしているかのように見えた。
蛍のように淡い光に魅入られ続けた彼の人生。それは彼自身が蛍となることで幕を閉じた。
男が握っていた延べ煙管をミスティアは拾い上げた。年月を経て重ねられた無数の傷を仔細に観察する。それから息をひとつ吐いて放り捨てる。
その夜もまた雨だった。引き戸を開ける音に美宵は顔を上げた。入ってきたのは三人の妖怪だった。うち一人は車椅子に座っていて犬耳を生やした少女がそれを押している。三人目の少女は血のように紅い外套を羽織っている。美宵はあっと声を上げた。
「ん?」
「いえ、なんでも……」
車椅子に乗った少女が口を開く。
「蚕喰鯢吞亭で間違いないかしら」
「ええ」
「好かった。迷わずに来れて。赤蛮奇さんのおかげね」
「酒を一杯おごる約束、忘れないでね」
「もちろん」
犬耳の少女が云う。「ここって車椅子用の席はあるかしら」
「あーごめんなさい。対面かお座敷しかなくて」
「そう。姫は大丈夫?」
「平気平気」
赤蛮奇が鼻を鳴らす。「今どきバリアフリーに関心がないなんて遅れてる店だね」
「むっ」美宵は眉をひそめる。「悪うございましたね」
今泉影狼はわかさぎ姫を軽々と抱き起こして座敷に運び上げた。それから云った。「天狗の新聞の人里出張版ね、読んだわ。半信半疑で怖かったけど姫がどうしても行ってみたいってうるさいから」
「それで人の少なそうな雨の夜にご来店ってわけね」
「ええ」
「昨夜も二人、広告を読んだお客さんが来てくれたわ。里と関わりのある妖怪って思ってたよりも多かったのね」
「私と姫は違うの。赤蛮奇さんが人間に紛れて暮らしてるのよ」
「ははあ」
赤蛮奇はお冷で喉を潤した。「……ここって昔はもっと立派なお屋敷が建ってた気がするんだけど私の記憶違いかな。少なくともこんなこじんまりとしてなかった。隣に立派な酒蔵もあった」
「つ、――つくづく失礼なお客さんですねぇ……」
「別に嫌味を云ってるんじゃない。これくらいの狭さの方が私は落ち着く」
「それフォローになってませんよね?」
「まあ天井が低いと……」赤蛮奇は外套の襟を指で下げて首を飛ばしてみせた。だが少し上昇しただけで梁におでこをぶつけてしまった。「イテテ、……こうなるから屋根だけは高いほうがいい」
美宵はその光景を見守りながら舌で唇をなめた。それから三人に煮物と酒を出した。
頃合いを見計らって美宵は赤蛮奇に声をかけた。
「ねえ。ずっと昔、店のそばの運河で行方不明になった男の子を知ってる?」
「え。なに。何だって?」
デュラハンは酒に弱いらしくとうに出来上がって茹でダコのようになっていた。わかさぎ姫は着物の前をはだけてくつろいでおり影狼は泣き上戸になって飯台に突っ伏しワンワンと鳴いていた。
美宵はあきらめずに続けた。「……たぶんあなたのはずよ。貸本。たらい舟。ロータスの実」
「あ……、ああ」赤蛮奇はゆっくりと目を見開いた。「あの子か」
「やっぱり……」
「あんたここにずっと住んでる妖怪なのか」
「妖怪。妖怪ね」美宵は目を伏せて笑った。「その時はまだ神様の端くれだったわ」
「まあ詮索はしないけどさ。――あの子のことがどうしたって?」
「その後の話が聞きたいの。どうなったのか」
赤蛮奇は赤ら顔ながらも鋭い目つきを向けてきた。
「その話をするなら二人の酔いを少し醒まさないとな……」
美宵はうなずいて水を用意しに奥へ戻った。
わかさぎ姫が見つけたのは一艘のたらい舟だった。中には男の子が一人乗っていた。人里から霧の湖まで流れ着いたらしかった。彼は湖に浮かぶ島まで向かうのだと云い張って聞かなかった。ひとまず岸まで曳航して説得することにした。やがて赤蛮奇が追いつき友人の今泉影狼もやってきた。妖怪三人に囲まれても男の子は怯えてはいなかった。
大した度胸ね。影狼が腰に手を当てて嘆息する。君はあの島に何が住み着いてるか知ってるの?
彼は首を振った。
でしょうね。
何がいるの、と男の子。夢を三つまで叶えてくれるランプの魔人?
この子はいったい何を云ってるわけ?
赤蛮奇が鼻で笑う。貸本屋で外国の物語を何冊も読んだんだとさ。
人魚が口を出す。――あなたは私達が怖くないの?
男の子が首を振る。
三人は顔を見合わせて微妙な表情をする。
…………そりゃ確かに私達は下級だし。
地味だし。
別に平和に暮らせればそれでいいし。
人間に害意はないけど。
でも妖怪としての沽券にかかわるよねこの反応は。
――だってさ。お姉さん達カッコいいじゃん。
三人は視線を男の子に戻して口をそろえた。
……カッコいい?
彼は姫に指先を向ける。――お姉さんはマーメイド。
次に影狼。――こっちのお姉さんはウェアウルフ。
最後に赤蛮奇。――それにデュラハン。
彼は目をきらきらさせて握りこぶしを作る。――みんな本で読んだよ。海の向こうの妖怪さんでしょ?
わかさぎ姫は両手を頬に当てた。赤蛮奇は爪でこめかみをかいた。影狼は犬耳を手で押さえた。
……そ、その反応は予期してなかったわね。
とわかさぎ姫。
お姉さん達と友達になれるかな。
それは、……どうかなぁ。
と赤蛮奇。
君にはまだ分からないかもしれないけど、と影狼。――この世界にはルールがあるの。それを破ってはいけないのよ。私達みたいな弱い妖怪なら尚更それに従わないといけない。
ルールって?
里の人間とは仲好くしてはならない。もっと云うなら怖がらせないといけない。
なんでさ。
そうしないと私達は消えてしまうからよ。
分からない。男の子は首を振る。そんなの理不尽じゃない? 仲好くしたいのに出来ないなんて。
影狼は犬歯で唇を噛んだ。
……そうね。あなたの云う通りかもしれない。
だったらさ。
でもね。だめなの。人間と深く関わった妖怪は古今東西の物語でたいてい悲惨な最期を迎えるのよ。だからその障害を踏み越えてでも友達になりたいのなら君が“特別な人間”になるか。もしくは――。
――突然、寒気を感じて三人の妖怪は振り返った。湖畔の波打ち際に一人浮いている新たな少女の姿を見て全身から力が抜けた。へなへなと腰を抜かして仲好くその場にへたり込んだ。
影狼が震える声でつぶやく。…………もしくは、――そんな障害なんてものともしないほど強い妖怪と友達になるか。
――ごきげんよう。
少女は紅い瞳を爛々と輝かせて云った。月光に洗われる湖の上で白銀のドレスをまとった幼い少女が佇んでいる様はそれだけで絵画の題材になりそうだった。
……人間に下っ端妖怪が三匹。屋敷の近くでわいわい騒がれて興が削がれちゃったわね。どう落とし前をつけさせてやろうかしら。
流行り病にかかったように震えながら何も云えないでいる三人を尻目に男の子は飛び跳ねるように騒ぐ。
――ヴ、ヴァンパイアだ。本物だ!
あら。こっちの世界にも私を知ってる人間がいるなんて驚きね。
本で読んだんだよ!
私を恐れないの?
ちょっと怖いけど。でもやっぱりスゴいや。
……生意気な子供ね。少女は笑った。いいわ。そんなに命知らずなら私の屋敷に招待してあげる。ちょうど転送が終わったところなのよ。
吸血鬼は三人に視線を移した。
あなた達も来なさい。
わかさぎ姫が震えながら云う。――ど、どうしてなんですか。
安心しなさいよ食べたりしないから。入ったばかりでこの世界のことをあまりよく知らないの。お茶でも飲みながら楽しくお喋りしましょう。
影狼は耳も尻尾もすっかり垂らしていた。
あのぉ、せっかくのお誘い大変ありがたいんですけど……。
嬉しいなら来るべきよ。それともツェペシュの末裔たる私の招待をはねつける気?
いえ、――いえ滅相もありません!
好い子ね。
◇
つい先日までその洋館は廃墟のはずだった。湖に棲んでいるわかさぎ姫でさえ知らないうちにそれは深紅の尖塔がそびえ立つ屋敷へと一夜で姿を変えていた。
和やかな会食の席でこの世界には存在しなかった酒が振る舞われた。カベルネ・ソーヴィニヨンの赤ワインだった。安心して、と吸血鬼は愉しげにワイングラスを掲げる。血は入ってないから。
彼女はこの世界を支配する壮大な計画を打ち明けてきた。弱小妖怪達を次々に部下にして支配圏を広げていく腹積もりなのだという。その部下の中にわかさぎ姫ら三人が含まれていることは云うまでもなかった。
有事の際は吸血鬼に味方する代わりに彼女の庇護を受ける。
ほとんど無理やり結ばされた誓約を条件に三人はようやく解放された。
三人が席を立ったときも男の子は吸血鬼の少女から視線を離さなかった。口をわずかに開けてその姿に見とれているようだった。赤蛮奇は彼の瞳が鈍い赤色に染まっているのを見て取った。だが今さらどうにもできなかった。
男の子は屋敷に残ることになった。
あの子はどうなるんだろ。
屋敷からの帰り道、影狼は不安げにささやいた。
赤蛮奇は絨毯の模様を見つめながら云う。
吸血鬼に魅了された人間の末路なんて決まってるよ。
◇
数十年が経った。蹶起(けっき)した吸血鬼は缶詰生活で弱り切った妖怪達に戦争を仕掛けた。影狼やわかさぎ姫、赤蛮奇は戦うふりをして逃亡しずっと隠れていたので戦闘の詳しい経過は後で新聞で知った。吸血鬼は敗れた。そして新しいルールが追加されることになった。結界が張られてからというものずっと妖怪達を悩ませ続けてきた問題にひとつの決着が見られたわけだ。
世界に平和が戻った。
だが男の子は影狼達の前に帰ってこなかった。
赤蛮奇はある日人里に買い物にやってきた紅魔館のメイドと話をしたことがある。あんた以外にも人間の従者はかつていたことがあるのかと。
詳しい話は聞かされていないわね。メイドは曖昧にうなずいた。いるにはいたのでしょうけど。お嬢様は気が変わりやすいし部下に求める能力の基準も高いから。使い物にならないと判断なさったのならすぐお暇を与えるでしょうね。残念だけど。
赤蛮奇は目を閉じた。それからゆっくりと開いた。
で、――お役御免になった人間はどうなるの?
メイドは透明な声で答えた。それを私に云わせる気?
赤蛮奇は無言で首を振った。メイドに別れを告げて雑踏に消える背中を見送った。ロータスの楽園か、と口の中で呟いた。人間に紛れるため日中はいつもの外套ではなく紅色の着物を着ていた。その時ばかりは人間の恰好がとてつもなく窮屈に感じたことを後になって何度も思い出すことになった。
久々に湖畔に顔を出すとわかさぎ姫が影狼に向かって何やら熱心に話をしている。
どうしたのさ。
わかさぎ姫はいつになく真剣だった。――実はある団体に参加しないかってお誘いがきてるの。
団体?
私達のような弱小妖怪って、もっとこう、……何というか、――団結すべきじゃないかしら。
何なの急に。
影狼が後を引き継ぐ。あー、つまりね。何か起こってから行動を始めても絶対に手遅れになる。だから自分達の大切な居場所を守るためには普段から連絡を取り合っておいた方が好いってこと。もう大人しい妖怪達のほとんどに回覧されてる。
赤蛮奇はガリ版刷りのチラシを受け取った。
……草の根妖怪ネットワーク、ねぇ。
真面目に好い提案だと思うのよね、とわかさぎ姫。天狗、神様、化け狸、そして吸血鬼、……我が侭な妖怪同士の争いにこれ以上巻き込まれないようにするためにも中立の第三世界の構築が求められてるの。まさに新世紀のバンドン会議よ!
熱心ね。世間話するだけの会合にならないといいけど。
もちろん赤蛮奇さんも参加してくれるわよね?
……私は遠慮しとくよ。
あらどうして。
応援はしてる。でも気が進まないんだ。
そう。……気が変わったら教えてね。歓迎するから。
赤蛮奇はうなずいた。湖の島にそびえ立つ紅い屋敷に視線を向けた。それから湖畔に目を移した。波の穏やかな初夏の昼下がりだった。風に吹かれて葦の葉が揺れている。彼女の紅い髪もまたそよいでいる。赤蛮奇は薬指で首の傷跡をなぞった。両手で抱くようにして外套の襟をかき寄せた。
赤蛮奇らが語り終えて美宵が口を開こうとしたとき新しい来客があった。引き戸が開かれた途端に家の柱を揺らすような笑い声が転がりこんできた。二人の妖怪、――もとい神様だった。
「そろそろあなた達が来る頃合いだと思ってたところです」
美宵の言葉に茶髪の少女がうんうんとうなずく。頬は紅潮してすでに出来上がっているようだ。
「げっ、――例の双子じゃん」
「行こっか」
「そうね。勘定お願い」
草の根の三人が立ち上がる。美宵は礼を云って勘定を済ませる。
去り際に引き戸に手をかけたまま赤蛮奇が云う。
「……あの子が消えた日付、ちゃんと覚えてる?」
「ええ」
「じゃあ私らの分の線香も上げといて」
「一度会っただけの子供にどうしてそこまで……」
「あの頃の私ら野良妖怪の気持ちは同じ立場の奴にしか分からんよ」
「…………」
赤蛮奇は振り返ることなく続ける。「都落ちした武者みたいにみずぼらしい有様でこの世界に逃げこんだんだ。恐れるにしろ憧れるにしろ何かしらの関心を向けてもらえるのは気分の好いことだよ。無関心にされるのがいちばん堪えるからね」
「この時間だと開いてるのがここしかなさそうだから来たんだけどさ」
依神女苑がへらへらと笑いながらそう云った。猫背に頬杖。指に挟むはチャンセラー社の高級煙草であるトレジャラー。赤熱した灰を二本指で上品に落とす。
「なるほどしみったれた店ねぇ」
「悪かったですね」美宵は煮物を提供しながら答える。「というかあなた、お寺で修行していたのでは」
「とっくに出てってやったわよ」
「思ったより早かったですね。――お姉さんは天人の方と暴れまわっていたはずですが」
紫苑は煮物にがっつきながら指を天井に向けた。
「上に戻ったのよ」女苑が補足する。「追放が解けたの」
「最凶最悪の双子再び、――ってことですか」
「そうね。――ところでこの店にピンドンはないの?」
「ぴ、……なんですって」
「ピンドン。ピンクのしゅわしゅわ。ドンペリのロゼよ」
「そんな横文字のお酒なんて取り扱ってませんよ」
「つまらないわね」
「あ、――女苑。店の外面は貧相だけど料理はすっごい美味しいよ」
紫苑の言葉に女苑は箸を手に取り鯢呑亭自慢の里芋を口にする。目を閉じて咀嚼し飲み込むと箸を置いた。そして一端(いっぱし)の料理評論家のようにわざとらしく間を空けた。
「…………フグの懐石だの松坂牛のすき焼きだの何だの。高いモンはバブルの時分から散々いろいろ食べてきたけれど」疫病神は云う。「この店のなんてことない煮物がいちばん美味しいわね」
「ええそうでしょ」
「――なんて云うと思った?」
「は?」
「さすがにそこまではないわね。百円の粗品より十万円の逸品の方が美味いに決まってる」
「この野郎」美宵は帳台に両手を突いて身を乗り出した。「――そこは“金ってのは一体何なんだろうな”って哲学っぽく〆るところでしょ!」
「私は料理の価値を値段で決めるの。込められた想いだとか店の伝統だとか曖昧なものは信じない」
「さ、さすが疫病神ね……」
酒癖の悪い親父のように女苑は持論を語る。「お金は人類最大の発明品よ。なぜなら宗教や思想と違ってお金に善悪はないもの。清貧なんて言葉はやせ我慢の嘘っぱちよ。結局のところ貧すれば貧するほど心も貧しくなる。みんなそれを分かってない」
美宵は溜め息をつく。「……昔から変わってませんね。あなたは」
「昔? この店に来たのはこれが初めてよ」
「いえ来たはずですよ。あなたも。……そしてお姉さんも」
女苑は紫苑と顔を見合わせた。だが紫苑はすぐに肩をすくめて煮物の処理に戻った。
「悪いわね。覚えてないし人違いじゃないかしら」女苑は二本目のトレジャラーに火をつける。「私達は金持ちのお屋敷にしか興味がないの。場末の飲み屋に用はないわ」
「昔はここも相応に立派な屋敷だったんですよ」
「ああそういうこと。この里にもずいぶん世話になったから一軒一軒いちいち覚えてられないのよ」
美宵は無言で店の奥に引っ込み萃香謹製の酒虫(しゅちゅう)漬け酒を瓶に詰め込んだ。
女苑は首を傾げる。「……これは?」
「この店いちばんのお酒ですよ。どんな酒豪の方でも酩酊間違いなしです」
「ふうん」
「それで先ほどの話ですが。本当に何も覚えていらっしゃらないのですか」
「しつこいわよ」
「……今度は私がお話しする番ということですね」
美宵は一冊の本を奥から取り出しながら嘆息した。
それは『雨月物語』だった。
叔父の話を父も祖父もほとんどしなかった。叔父と云っても河童にさらわれた方ではない。もう一人、啓吉がまだ幼い時分に祖父から勘当を云い渡された男がいた。父・啓二郎の弟であり祖父の三男だった。長兄が滝壺に消え双子の姉も野分のようにいなくなり祖母が寝たきりになってしまうとその後の二人の兄弟の道は分かれた。
啓二郎は神も仏も信じなくなり稼業を任されるとひたすらに倹約に励んだ。家の神の祭日であるおしら遊びにも加わらず祖父から毎年のように叱責が飛んだ。なつと結婚して産んだ修平と輝子が相次いで姿を消すとますます信仰から遠ざかった。
しかし倹約家だからといって吝嗇(りんしょく)というわけでもなく酒蔵で働いている男衆の一人が将来のために金を貯めていることを知ると好い心がけだと云ってその日の賃金を倍にしてやった。それからというもの父は倹約家という以上に当世の奇人・変人と親しまれるようになった。
一方の叔父は父とは真逆に信心深い性格になり家を出て厩別家に行ってからも里から離れた博麗神社に足しげく通った。もし寺があれば頭を丸めて仏門に入っていたに違いなかった。結婚しても子供を作ろうとしなかったのは生まれても自分の兄弟姉妹と同じように姿を消してしまうと信じていたからだ。
父と叔父は不思議と衝突しなかった。だが仲の好い兄弟というわけでもなかった。あまりに反対の考え方を身につけたせいで互いに干渉しないようになり同じ家にいても相手をいないものとして扱った。唯一二人が打ち解けたのは夕食の席に煮物が出されたときだった。酒の製造法が家の男達に語り伝えられてきたのと同じように煮物のレシピもまた啓吉の祖母であるまつ、母のなつ、そして妻の瑠璃子へと伝えられてきたものだった。父と叔父はその夜の煮物の感想を云い合うときだけ昔日のような兄弟に戻った。だが叔父が分家に行ってからはそれもなくなった。
◇
月の明るい夜だった。啓二郎が窓辺で書見をしていると部屋に人の気配を感じた。上方の着物に簪(かんざし)で着飾った娘が枕元に座っていた。着物は白茶地に水色の雲ぼかし、そのぼかしに点々と浮かべるようにして秋草が配されており月の夜長にぴったりの訪問着だった。金くくりに金鉤、色糸刺繍に紋箔も重ねられており田舎の長者にすぎない啓二郎は見ているだけで目眩がした。髪の色も稲穂の平原を思わせる黄金色でこの世の者ではないことはひと目で分かった。
誰だ狐か。それとも狸か。
啓二郎が訊ねると娘は袖を口に当てて笑った。
私は銭の精。
なんだと。
あなたがこの里でいちばんお金の価値を分かってると聞いてね。少し話をしてみたいと思ったの。
男は本に栞を挟んで机に置いた。そして妻がこしらえてくれた丹前の袖に両手を入れてその場に胡坐をかいた。彼は間を空けてから口を開いた。……ケチな奴なら僕以外にも何人かいるだろう。
単なる吝嗇家なら相手しないわよ、と娘。――この前に下男の日銭を倍にしてやったでしょ。
ああ。……あれか。
あれが“分かってる”ってことよ。感心したわ。富んでおごらぬはまさに大聖の道。口さがない連中は金持ちのことを決まって愚かで邪悪な人種だと決めつけようとするけどそれは間違いよ。富める者には天の時を詠(よ)み地の利を活かす才覚が備わっている。――あなた呂尚(りょしょう)は知ってる?
太公望か? 古代の清国の。
そうよ。彼は斉に封じられたけどその地は農業に不適だった。だから産業を興して斉を強国へと育て上げる下地を作った。さらに斉に仕えた管仲(かんちゅう)は鮑叔(ほうしゅく)の補佐を受けて内政改革に邁進した。商業を大いに振興し不正には厳罰をもってあたった。まず何より民生の安定こそ第一であり政治は二の次だと彼は主君の桓公に説いたそうよ。倉廩(そうりん)実(み)ちて則ち礼節を知り、衣食足りて則ち栄辱を知る。――まさに金言ね。
啓二郎は背を丸めて唇から漏れる苦笑が娘に聞こえないようにした。それから顔を上げて云った。……なるほど君が昨今の人間に対して云ってやりたい言葉を八ヶ岳のように腹の中に溜めこんでいることは伝わってきたよ。
まだ云い足りないわね。
お次のありがたい助言は?
千金の子は市に死せず。富貴の人は王者と愉しみを同じうす。
司馬遷だったか。
そうよ。娘は鈴のように笑った。興が乗ってきたようだった。――私もそれなりに長いこと生きてきたわ。ついこの前までは外の世界にいた。外は恐慌があったせいで財を軽んじて名を重んじる奴ばかり増えてきたわ。貧しい中にこそ意義を見つけようと必死でね。それでつまらない戦争にばかり乗り出して町を破壊し人を傷つけて国を傾かせようとしてるのよ。賢人とか呼ばれる奴の多くは金銭の徳を唱えない。その時点で二流だと私は思ってる。
啓二郎はじっと話に聞き入った。里の外からの便りが途絶えがちになり国が今どうなっているのか誰も知らない。そのことを問いただそうとしたが銭の精の興を削ぐような真似もしたくはなかった。そこで彼は別の話を持ち出すことにした。
――少し疑問があるんだが。
ええ何?
君は清貧という言葉が反吐が出るほど嫌いだろうが、……それでもこの里には冬の寒さにも布団一枚で起き伏し夏の暑さにも着たきりの衣を洗うゆとりさえなく朝夕一膳の粥で満足するような生活を送りながら不平不満のひとつもこぼさない有徳の者もいる。このような働き者が報われないのは果たして仏教でいう前業のせいなのかあるいは儒教でいう天命のせいなのか僕には分からない。分からないというか納得できなかったんだ。それで弟とは違って僕は神も仏も信じられなくなった。どうして僕だけが消えずに今も生きているのか。どうして僕は兄や双子の姉とは違い大人になるまで成長して子宝に恵まれたのか。僕が生かされている意味はなんだ?
啓二郎はそこまでを早口で云い終えると沈黙した。
銭の精は肩をすくめてみせた。……さぁね。私はお金のことしか分からないから。
そうか。
あなたはまだ物事を善悪で測りすぎているわね。
…………。
例えば金銭は非情のものよ。そこには善も悪もないの。富貴の道にもコツがあって巧みな奴は金をしこたま集めて下手な輩は瓦が割れるよりも容易く金を失うわ。二者の間にあるのはただ技量の差のみで前世の行いは関係がない。徳や不徳もね。水が低い方へと流れるのと同じで自然の摂理なわけ。
啓二郎は猫背を止めて居住まいを正した。
……じゃあ、僕が今も生きているのは自然の摂理であって何ら特別な意味はないのか。
そう考えた方が却って気楽じゃない?
…………そうかな。そうかもしれない。彼は笑った。だが今の話を弟は決して認めないだろうな。
そうね。見事に突っぱねられたわ。
啓二郎は思わず立ち上がりかけた。
――あいつとも話したのか。
ええ。あなたと違ってお話にならなかったけど。
どうしてわざわざそんなことを。
――どちらに憑りつこうか決めかねてたの。
は?
で、あなたのことが気に入ったから今回は見逃してあげる。
啓二郎は今度こそ立ち上がって彼女の肩をつかもうとした。だが娘は即座に天井へと浮き上がってその動きをかわした。いつの間にか粗末な着物をまとったもう一人の娘が隣に姿を現していた。
云っとくけど巫女に通報しようなんて思わないことね。
娘は腕を組んでこちらを見下ろしながら云う。
――私らは最凶最悪の双子よ。対策もばっちりなんだから。
彼が何も云えないでいると二人の娘は姿を消した。
そこで目が覚めた。朝だった。啓二郎は部屋の中を呆然と見渡すしかなかった。
◇
啓二郎の弟はそれから人が変わった。昼間から飲み歩くようになり金遣いが荒くなり神社へのお参りをきっぱりと絶った。帰宅するのは夜遅くであり泥のように大いびきをかいて眠りこむと昼過ぎまで目覚めなかった。迎え酒をして里に繰り出し大声を上げながら食事処に突入し大枚をはたいて飲み明かした。厩別家の財貨はみるみるうちに先細りその代わりに叔父の身体はぶくぶくと太り始めた。まるで硬貨をそのまま笊(ざる)にあけ麺汁(めんつゆ)につけて飲みこんでいるかのように見事な対照だった。馴染みの参拝客が来なくなり心配した当代の巫女が家まで様子を見に行ったが妖怪の仕業だという確たる証拠を何もつかめなかった。
家族の者に相談されて啓吉の祖父は重い腰を上げた。息子と直接会って話をした。しかし啓二郎と幼い啓吉が見たのは憮然とした表情で帰ってきた老人の姿だった。
勘当された直接の原因は蕩尽(とうじん)ではなかった。奥野田家に金の無心に来たときも祖父は叩き出すだけで罰することはしなかった。彼はある日ついに一線を越えた。その時分は稗田家の八代目が次なる代のために転生の儀を行っている最中だった。いよいよ大詰めという段階で里の者は誰も稗田家の屋敷には近づかなかった。その晩ひどく酔っ払った叔父は道に迷った末にもよおしてしまい手近な家の塀で立ち小便をした。その塀が稗田家の屋敷であることは云うまでもなく夜番をしていた使用人に取り押さえられた。
祖父はそれ以上、――放蕩息子をかばうことはできなかった。
やがて破滅の季節が訪れた。美宵はその時代のことを、――その時代から始まる数十年間のことをほとんど覚えていない。正しくは記憶こそあるのだがそこに伴うべき感情が欠落していた。誰にでも思い出したくない時期はあるものだが美宵を含めた多くの妖怪、――そして多くの里の人間にとってはその時代がまさにそうだった。
その日、美宵は空っぽの茶碗を手に転がしていた。埃や古い蜘蛛の巣がこびりついていた。何年も前に刻まれたヒビがあった。その瑕がどうして出来たのか彼女は知っていた。柱につけられた瑕も。ちゃぶ台に刻まれた瑕も。座敷わらし達はみな知っていた。
妹の柏が隣に座った。彼女の身体の輪郭が透けて見えていた。梁に勢いよく腰かけても今や音は出ない。埃が舞い上がることはない。だから家族の誰も気づかない。子ども達でさえ。
美宵は彼女の方を見ることもなく話しかけた。
……紫蘇はどうしてる?
引きこもってる。髪で全身隠してタコみたいだった。
そう。まだ消えてないなら安心ね。
姉さんそれ本気で云ってる?
美宵は首を振って梁から飛び降り屋敷の外に出た。寒さに思わず身震いした。季節は確かに夏だった。空は厚い黒雲に覆われ風などまったく吹いていないかのように晴れ渡ることはなかった。しばらく辺りを歩いた。田畑に作物はない。この時期だと水稲は出穂が間近で青々とした葉が田園を埋めているはずだった。今は干されてひび割れた土壌が骸をさらすばかりだ。
往来に人影はなく家々の塀にもたれかかるようにして亡くなっている餓死者の遺体が見受けられた。死臭に群がる蝿さえいなかった。時おり大八車を引いて歩いている若い娘の姿を見かけることもある。大抵は遺体を山積みに載せている。美宵は一度彼女に近づいて話しかけたことがある。
……どこに持っていくの。
火葬屋に決まってるでしょ。
本当?
ええ。――もしかして疑ってる? 外の妖怪に売りさばいているとでも?
多少は。
彼女は視線を落とした。紅色の作業着に付着した腐敗液を見つめていた。
……私は確かにあっち側だけど。彼女は顔を上げて云う。今も昔もここで生きてる。これからだってそう。向こうにはもう居場所がないからね。今さら生き方を変えるつもりはないしそうするくらいなら一生クソ不味い缶詰で暮らすよ。
美宵は微かにうなずいた。それを何度か繰り返した。そして道を開けた。彼女もそれ以上は何も云わずに荷車の音をコトコトと響かせながら歩いていった。
◇
屋敷に戻って門を潜ろうとしたとき悲鳴が上がった。下女や瑠璃子の声だった。玄関で下男に取り押さえられている男の姿があった。勘当された叔父だった。その隣には啓二郎が横たわっていた。両手で腹をおさえてもがいていた。指の隙間から鮮血が噴き出して血だまりが広がっていった。傍には赤い血でべったりと濡れた包丁が落ちていた。餓鬼のように瘦せこけた叔父は地面に広がっていく兄の血を舌を伸ばして啜っていた。
家の奥には柏が両腕をだらんと垂らしてその光景を見守っていた。
美宵は彼女の肩をつかんだ。――何があったの。
あいつが啓二郎を刺した。
刺した?
食料を恵んでくれって押しかけてきたの。啓二郎が断った。それであいつが刺したんだ。
美宵は唇を噛んだ。……なんて馬鹿なことを。
あいつらのせいだ。
どうしたの。
見てたんだ。――何もかもぜんぶあいつらのせいだ。
柏は外に出て行った。
次に視線を移したとき啓二郎はすでに動かなくなっていた。下男が怒号を上げて叔父の後頭部を殴りつけた。そこへ啓吉が臨時に結成された自警団の務めを終えて帰ってきた。彼はひょろ長い芋や雑穀が詰め込まれた麻袋を取り落として家族のもとへ駆け寄った。膝を突いて父親に呼びかけた。下女に命じて瑠璃子を家の奥へと下がらせた。妻は身重の身体を引きずるようにして泣きながら歩いていった。
美宵は壁に身をもたせかけた。それでも体重を支えきれずにずるずると腰を下ろしその場に座りこんだ。視線が玄関から天井そして家のあちこちへと移っていきおしら様の木像が飾ってある床の間で留まった。木像はすでに二柱しかなかった。美宵は首を振った。三角に折った両膝に顔を埋めて目を閉じた。
◇
……この里はもう駄目ね。屋根瓦に腰かけて煙管を吹かしながら女苑は呟いた。そろそろ外に戻りましょうか。
傍をふよふよと漂っている紫苑が両手で黒猫のぬいぐるみを抱きながら応える。
まァ賛成だけどさ。
ん、どうしたの。
前と違って新しい結界が張られてるんでしょ。通り抜けられるかな。
今なら弱まってるから私達なら余裕でしょ。外の世界は楽園よ。ピラミッドみたいにどんどんお金が積み上がってるしオリンピックだって開かれる。ああ、――夢のようね。
今度こそお腹いっぱい食べられるかな。
女苑は肘で姉の脇腹を突いた。姉さんは私に任せてどーんと構えていれば好いのよ。
今回はアテが外れたじゃないの。
誰だって予測できないわよこんなの。私だって楽園と聞かされて――。
――ただで出られると思うなよ。
虫食いだらけの着物をまとった少女が屋根に上がってきた。髪はぼさぼさ。頬の白粉が剥がれて顔がまだら模様になっていた。着物の裾を手の甲が白くなるほど握りしめながら近づいてきた。
こンの寄生虫どもがッ!
女苑は首をこくりと傾けて煙管を唇から離した。細く長い煙を吐き出しながら白い首筋をさらして微笑みを浮かべる。紫苑は目つきをまったく変えることな妹のそばに寄り添う。
疫病神は口を開いた。……云いたいことはそれだけ?
それだけよ。少女は答える。――あとはこれで充分だから。
云うが早いか血に濡れた包丁を振りかざして飛びかかってきた。紫苑の眼が一瞬、青い炎に包まれた。群青色の髪が白く輝いて浮き上がった。彼女が指を一振りすると少女は弾き返され瓦を転がって地面に墜落した。女苑は立ち上がって屋根の端に歩み寄りそこに腰かけた。
……寄生虫は誰だって同じことよ。疫病神は目を細めて呟いた。多かれ少なかれどんな妖怪も神様も人間の存在に依って生きてる。変えることのできない私達の“自然の摂理”よ。それを無視してやれ人間を襲わないだのやれ妖怪を退治しないだの無理を押し通すからこんなことになるのよ。妖怪は弱り果て人間は数が増えすぎた。――私達はこんな結末を認めない。自分らしく生きるためならいくらでも抜け穴を見つけて潜り抜けてやるわ。
地面に這いつくばった座敷わらしは顔を上げなかった。
ねえ。あなた。紫苑がそっと声をかける。……偉そうなこと云ってるけどさ。女苑も心の底では多分罪悪感を沈ませてると思うわよ。私達だってこんなの予想してなかったもの。
姉さん余計なこと云わないでよ。
とにかく分かってほしいのよ。紫苑は妹の声を無視して続ける。この子はずっと一線を越えないようにしてきたし今回もそのつもりだった。財産を失くすことで執着から解放されて前よりも穏やかに人生を歩めるようになった人間だっていたわ。私達は己の本分を果たしただけ。それを分かっていたからこそあなたも止めなかったんでしょう? まさかこんな飢饉が起こるなんて誰にも――。
――もういい! 少女は大地に拳を叩きつけた。――……もう、聞きたくない。
そうね。……ごめんなさい。
紫苑は後ろに下がった。女苑が鼻をスンと鳴らして立ち上がる。
もう行くわ。――さよなら。
座敷わらしがそこでようやく顔を上げた。姉妹を睨みつけながら呟く。
それでも、……私はあんた達を許さない。
女苑は腕を組んだまま目を閉じた。そして云った。
――分かってるわよ。
酔い潰れた女苑が金貨の山に押しつぶされる悪夢を見てうなされている間に美宵は店の片づけを始めた。紫苑が女苑の財布から代金を抜き取り勘定を済ませる。そして妹を背負って店を出て行った。引き戸を開けた際にこちらを見て会釈した。美宵はうなずいた。
紫苑が云う。「私達を止めようとした座敷わらしはあなたの妹?」
「そんなところですね」
「この店にはもういないの?」
「ええ」
「そう。残念ね。話したいことがあったのに」
「少し、……遅すぎましたね」
紫苑は首をこくりと縦に振って戸を閉めた。
◇
店を閉めようとしたときまた来客があった。本日で三組目だ。
玄関先で美宵は二人を出迎えた。
「あちゃあ、――もう店じまい?」
天狗の少女が訊ねる。
「出直そうか」
と河童。
「いいですよ。まだ残りはありますから」
美宵は人間の姿が周囲にないことを確かめてから二人を招き入れた。
客は姫海棠はたてと河城にとり。鬼の酒はお断り、と口を揃えて釘を刺してきたので美宵は苦笑した。
煮物や酒を提供しながら美宵は話を振ろうと口を開いた。だがはたてが右手を上げて制してきた。「……あなたが訊ねたいことは分かるつもり」
「というと?」
「消息が知りたいんでしょう。つむじ風にさられわた娘の行方」
「あと滝壺で行方不明になった男の子」とにとり。「私達なら知ってるんじゃないかって」
美宵は正直にうなずいた。「……ええ。でもどうしてそのことを」
「文から聞いたの」
「私は化け狸の大将から」
「それなら――」
「――ごめんなさいね。食事をしにきただけでその人間についてはあまり知らないの」
「右に同じ」
「そう、ですか」
「文の奴からは何も話さなかったの?」
「ええ」
「あいつらしいわね」
「あの時代のことはあまり話したくないと仰っていました」
「……それは私も同じよ」
美宵は帳台に体重を預けて前かがみになった。
「何があったんですか。輝子ちゃん達の行方、断片的にでも分かりませんか」
天狗の少女は携帯電話をいじりながら語る。「……つまらない話よ。それに血なまぐさい話」
「構いません」
「…………昔は御山争いといえば天狗の実力者同士の小競り合い程度の意味しかなかったのよ。少なくとも山全体を焼き尽くすような総力戦を意味してはいなかった。多分あなたが想像もできないくらいたくさんの天狗が死んだ。その死に様も今じゃ考えられないくらいに残酷だった」
「どうしてそんな惨たらしいことになったんです?」
「さぁね」はたては首を振る。「多分この人里で大勢が死んだのと同じ理由じゃないかしら。天狗の数が増えすぎたのよ。もうこの世界の他にどこへも行き場がなかったから。御山広しといえども国中の天狗が集まってよろしくやっていけるほどその恵みは万能じゃない。私や文が属していた白峯方はたまたま勝ち残った。それだけの話よ」
「ではさらわれた人間はどうなったんです?」
はたては携帯電話を閉じた。だが顔は上げなかった。
「新しい結界が張られることは以前から知らされていたわ」彼女は低い声で云う。「里の人間を害してはならないことはそれより前から暗黙の了解だった。……でもね、総ての天狗がそこまでお利口なら御山争いは起こってない。一部の天狗が、――戦いに敗れて御山を追い出された奴が、……生き残るために破れかぶれの行動に出たとしても私は驚かないわね」
美宵は乗り出していた半身を元に戻した。
「……それでは。あの子は」
「ええ。まあ。ぼんやりと伝え聞いた話だと。たぶん、……そう長くは苦しまなかったはず」
美宵が何も云えないでいると天狗は河童の少女を肘で小突いた。
「私の話は終わり。義理は果たした。次はにとりの番」
「ええ……」
「私にだけ気まずい想いさせるつもり?」
「そういうわけじゃないけどさ。私らだって似たり寄ったりだよ。あの頃の話なんて」
「だからこそよ」
にとりは詰まったような唸り声を喉の奥から出して酒を一気に飲み干した。
「女将さんは缶詰のことは知ってるよね」
「ええ」
「あれは私ら河童の工場で作ってるんだ。原料は云うまでもないがあの頃はまだ安定したサプライチェーンが確立されてなかった。今より遥かに血の気が盛んな妖怪だって多かったし上から課されたノルマも尋常じゃなかった。生産を絶やさないためにはどこか別の場所から原料を調達してこないといけなかったんだよ」
「今ので、……もう大体は分かりました」
「察しが好くて助かる」河童の少女は椅子にもたれて汗を拭いた。「……気休めにしかならないかもしれないけど。処理は一瞬で終わるよ。痛みを感じる暇もない。その点では我々の技術を信頼してほしいな」
「本当に気休めですね」
「ああ」
沈黙が店の中に漂い始めたが天狗の少女が話を引き継ぐ。
「争いが終わって余裕ができてから」とはたて。「ようやく大天狗は、――じゃなかった大天狗様は人里にも目を向けるようになったわ。それでひとまず食料支援から始めたの。人間はあまりに脆くて儚いから我々が陰から支えてやる必要があるってね」
「食料支援ってあの土くれの塊のことですか」
「天狗の麦飯ね。まァ見た目はよろしくないけど霊験あらたかよ」
「確かに栄養は豊富のようでしたが」
「食料のことだけじゃない。天狗は風害から。河童は水害から里を守ってる。望もうと望まざろうと私達はもう別々に生きるわけにはいかない。分かたれし家は建つこと能(あた)わず、ね」
「私も今さらどうこう云いたいわけじゃないんです。ただ……」
はたてはうなずいた。「……複雑な気持ち?」
「ええ。少しだけ」
天狗と河童の少女二人は立ち上がり礼を述べて勘定を済ませ店を出て行った。美宵は食器を洗い清潔な布巾で拭いて定められた場所に戻した。日めくりカレンダーを一枚破り取り裏返して帳台に置く。鉛筆を手に取り明日の営業に足りない材料を箇条書きにしていく。
美宵は店の中をゆっくりと見渡してから明かりを落とした。奥の座敷に音を立てないようにして移動し店主の男が安らかに寝息を立てていることを確認する。奥の間にはおしら様の木像が一柱だけ残っている。美宵は古びた杉の像とその左右でぽっかりと口を開けている空間を交互に見る。それから屋根裏に戻る。かつて身にまとっていた小袖を敷き布団の代わりにして横になり目を閉じる。
美宵が黍粥をお玉でかき混ぜながら書見をしていると萃香が引き戸を開けて入ってくる。
お久、と手を挙げて彼女は席に座る。
続いてマミゾウ、そして射命丸文が入ってくる。同じように席につく。
美宵は手を止めて微笑む。「久しぶりに揃いましたね。皆さん」
「邪魔したくなくてのう」とマミゾウ。「少しは助けになったかね」
「店の広告、あなたの発案だったのですか」
「いんや。私ら三人さ」と萃香。「コイツは最初、嫌がったがね」
「美宵さんを落ち込ませるだけだと思ったんです」と文。「墓を掘り返すようなことはしたくなかった」
「最初に仰ったとおり記事になるような話ではありませんでした」
「まったくそうね」
「でも最後には広告に同意なさったんですね」
文は一合枡に注がれた透明な命の雫に目を注いでいた。
「あなたがまだ過去に囚われているように見えたから」
「そう、でしょうか」
「私にはそう見えた」
美宵はそれには答えずに店の引き戸に目を向けた。秋の長雨は今宵も続いている。だが先ほど看板をすげ替えたとき空は明るかった。明日はお客さんが増えるだろう。人間の客も。そして妖怪も。美宵は今まで落としていた行燈の明かりを強めた。三人の顔を順番に眺めて口を開く。
「……昔話も今宵が最後です」
三人の妖怪はうなずいて各々の盃や枡を傾け合う。
「乾杯」
「妖怪に」
「人間に」
美宵は後に続く。「……この世界に」
啓吉と瑠璃子の間には四人の子が生まれた。男の子と女の子が二人ずつ。最初の娘は三歳にもならないうちに流行り病で亡くなる。次の二人は若くして消え去る。最後の子供は平均の四十週を大きく超過して六十週を過ぎてもなお生まれてこず瑠璃子は寝たきりになる。赤ん坊は出たがらなかった。産婆は夜を通して付き添った。啓吉は書斎で腕を組んでじっと待った。赤ん坊が生まれたときが瑠璃子が末期の息を吐き出したときだった。
瑠璃子の葬儀が終わったとき啓吉は一日中里の道を歩き回っていた。美宵達は黙って彼の背中を見つめていた。その夜に啓吉は母親のなつに頼んで煮物の作り方を教わる。理由は云わなかった。彼は無言で里芋を切り分け鍋を火にかけ調味料を正確に測って入れる。
啓吉の娘は都会の女学校に行った。それに牡丹が付いていこうとした。
前から都会に行ってみたかったの。
と彼女は云った。おしら様の木像を捨てて娘の鞄に宿るのだという。柏は止めようとした。二度と戻れなくなると。戻ってこられなくてもいいと姉は云い切った。
――すっかり影響されたわね。柏が牡丹の肩をつかんで云った。姉さんは私達を見捨てるんだ。
もっと広い世界を見たいって思うのがそんなにいけないこと?
今の生活にうんざりしただけでしょ。
牡丹はしばらく間を空けてから妹の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
……ええ。そうよ。
柏が飛びかかり二人は屋根裏から階下に転がり落ちた。音はない。揉みあう二人の怒鳴り声が昇ってくるだけだ。酒蔵から紫蘇がのっそりと入ってきて二人を引き離す。
階下に降りた鯨が腕組みをして云った。行きたいなら行け。俺は止めはせんよ。
牡丹が服の埃を払いながら立ち上がる。
ありがとう。
後悔はしないな?
……最後におしら遊びをしてもらったのはいつ?
さぁな。
白粉を塗ってもらったのは? 着物を着せ替えてもらったのは?
…………。
私達はもう用無しなのよ。
だがお役目があるだろう。
スパイごっこのこと? ――クソ喰らえだわ。
鯨は腕組みを解いて小さな笑い声を立てた。そして屋根裏に戻った。
最後に牡丹は美宵に向けて云った。……好かったらさ、一緒に来ない?
さっさと行っちまいなさいよ。
あらそう。
牡丹は笑おうとしていた。目蓋が震えていた。
啓吉の娘は、――そして牡丹は帰ってこなかった。便りも絶え果てた。
奥野田家を除いた里の人びとは彼女の存在そのものを忘れていた。
やがて時間が経つうちに家の下女や男衆も彼女の記憶を喪った。
啓吉を除いた他の親族もそれに続いた。
◇
外で大きな戦争があり啓吉の上の息子は出征することになった。隠れ里のようになっていたはずの里の家々に次から次へと赤紙が届いた。若者のおよそ三分の一が外の世界へと旅立つことになった。里はにわかに騒がしくなった。
真っ先に不審がったのは鯨だった。
郵送なんてありえない。召集令状は役場から直接手渡しされるのが決まりのはずだ。
でもちゃんと角印は押してあったぜ、と紫蘇。間違いなく本物だ。
じゃあこれは何なの。
美宵の言葉に続いて柏が呟く。……そもそもこの里に役場なんてないじゃん。
美宵の兄は長いあいだ考えていたようだった。
翌朝になって彼は口を開いた。俺が行こう。
今度は柏だけでなく美宵も止めた。
鯨は二人の肩に手を置いた。――俺は牡丹とは違う。必ず戻ってくる。もう何もしないまま酒を飲んで待つのにも飽き飽きしてたんだ。長兄として少しは役に立たないとな。
押し問答の末にかならず帰ってくることを約束して柏は引き下がった。
夜になって美宵は家の外に兄を呼び出した。
兄さん。ねぇ、――役に立ちたいだなんて嘘でしょ。
何を云い出すんだ。
ただの自殺願望を英雄志願にすり替えてるだけよ。
…………。
兄妹は蛍の舞い散る柳の運河の道沿いを歩いた。美宵は後ろに手を組んでおり兄は指で唇の皮をつまんでは引っ張る仕草を繰り返していた。歩き続けながら彼は語りかけてきた。
多分、……あの赤紙は片道切符だ。
何を根拠にそんな――。
新しい結界が張られてからもうどれくらい経つ? 里はいつの間にかすっかり大きくなったが外に出た人間は一人たりとも帰ってこなかった。妖怪に襲われたわけじゃない。だが人は消え続けている。神隠しの逆だ。達者でいるにせよ彼岸へ渡っているにせよお偉いさん方はどうにかして人間の数を減らしたいらしい。
……でもそれも兄さんの想像でしょ。
かもな。引きこもっていると好からぬことにばかり考えが及ぶ。
――そこまで自覚してるのに往っちゃうわけ?
鯨はうなずいた。……最期にせめて、一度で好いから大切な家族の死に目に会いたいんだ。
気持ちは分かるけど。――でも私は反対だってことは忘れないで。
梅は昔から強情だもんな。
――梅って呼ばないで。
兄は再び肩に手を置いてきた。美宵はその手を振り払った。
……さよならは、云わないから。
ああ。
◇
戦死公報も小さな箱もない。出征した若者達はそのまま還ってこなかった。
人びとの想い出からも消えた。
鯨からの便りは届かなかった。
それから破滅の季節が始まった。分厚く日光を通さないがしかし雨をもたらさない雲が年中立ち込め作物は実らなくなった。柳の運河は地脈が尽きたかのように涸れ果てそれは井戸水も同じだった。
まず啓二郎が弟に刺されて死亡した。なつも後を追うようにして餓えと赤痢による衰弱で息を引き取った。瑠璃子は産褥で命を落とした。
厩別家は鍋にした毒茸にあたって全滅した。その前日、庭に出てきた大蛇を殺して焼いて食べていたことから蛇の祟りではないかと噂された。用事で外に出ており鍋を口にしなかった娘が一人だけ生き残った。彼女は食料を探しに御山に往きそのまま戻らなくなった。
酒は買い手がつかなくなった。そもそも原料となる米がないのだ。下女や男衆は全員暇をやるしかなくなった。屋敷は静まり返った。啓吉は一人生き残った息子とともに生活を立て直していった。届けられた天狗の麦飯で餓えを満たし河童の清水で渇きを癒した。
豊作の年が訪れて人びとが息をつけるようになると啓吉のもとに生き残った里の男達が何人か集まるようになった。彼らが訪れると啓吉は息子を奥に下がらせて話を聞かせないようにした。だが美宵と柏、それに紫蘇は違った。
里の男らは啓吉に訴えた。俺達も外に出ようと。あんたがその音頭をとってくれと。啓吉は最初のうち首を横に振っていた。俺達の問題はこの土地を離れたところで変えられるものではない、と訴えを退けた。彼らは日を改めて食い下がってきた。――外の生活が一筋縄ではいかないことは分かってる。でもここに暮らし続けて妖怪に喰われたり餓えて死ぬのは金輪際ごめんだ。俺にはたった一人残った娘がいる。あんただって息子が大事だろう。
客間はしばらく沈黙で満たされた。啓吉はあぐらをかいたまま目を閉じていた。眉間に苦悩のしわが浮かんでいた。美宵と柏は息を止めて彼の決断を待った。
…………もう何をしても手遅れだと思うが。啓吉は口を開いた。それでも、――俺達が行動することで何かを変えられるかもしれない。
それが答えだった。
その日の夜に美宵の制止を振り切って妹は彼の前に姿を現した。
柏は坊っちゃんと呼びかけた。
啓吉は無言で布団から起き上がって呟いた。……ようやく、俺の番か。
――ちがう。柏は激しく首を振ってからうつむく。そうよね。……覚えてるはずないか。
君は。
あなたの友達。荷車に乗せて遊んであげた。他にもたくさん。ずっと一緒だった。
啓吉は頭を下げた。……すまない。思い出せない。
いいの。それでも。
柏は彼の手を取った。啓吉の手は実際の年よりもずっと老けこんで見えた。
……あなたに、考え直してもらいたいの。
昼間の会話のことを柏は持ち出した。啓吉は決意を改めようとはしなかった。
――本当に俺のことをずっと見守ってきてくれたのなら。分かってくれるだろう。
彼は静かに語った。
……人生は打ちのめされることの連続で。哀しいことばかりだ。昔、俺は運よく大学に通うことができた。そこで自分が生かされている意味を探そうと思ったんだ。答えだけなら本の中に沢山用意されていた。ある教えではそれこそが神様から与えられた試練なのだと書いてあった。またある教えはその障碍(しょうがい)にめげずに徳を積むことが道を開く鍵なんだと主張していた。俺はそのどれもが違う気がしていた。これこそはと没入して読み漁った哲学書も何冊かある。魔法にかけられたみたいに夜を徹して読んだよ。――しかしどんなに優れた魔法も三日経つと解けていた。
啓吉はひと息入れて続ける。
……それで最近になってやっと分かった。俺はこの時を待っていたんだ。
答える柏の声は掠れていた。……死ぬために生きてきたって、そう云いたいの?
ああ。
啓吉は微笑んだ。
一度だけ俺は聖書も読んだことがある。内容はあまり覚えていないがひとつだけはっきり記憶に残ってる物語があった。出埃及(エジプト)記だ。そこに出てくるモオセが神の啓示を受け人びとを引き連れて埃及を脱出する。だが葦の海で追い詰められる。それでモオセはどうしたか。――海を割ったんだ。奇跡を起こしてな。そして彼らは約束の地を目指した。
柏が笑い声を上げた。泣き笑いだった。
……自分にそんな奇跡が起こせると思ってんの? あの結界を破ることができるような?
そういうことじゃない。男は首を振る。大事なのは“彼らが黙ってなかった”ということだ。
柏はかけるべき言葉を失いうつむいた。
◇
……で、梅。お前はどうするんだ。
もはや使われていない酒蔵で紫蘇が訊ねてきた。
私は――。美宵はすでに心に決めていたことを伝えた。――私は、自分の役目を果たすよ。この家を、……この場所を守らないといけないから。
そうか。
反対しないの?
それがお前の本分なんだろ。なら邪魔はせんよ。
素っ気なく答える紫蘇に美宵は礼を述べた。
◇
明け方、双子の童子が美宵に伴われて奥野田家の門前に現れた。
柏は彼女らをひと目見ただけで何が起ころうとしているのか悟ったようだった。顔を歪めて美宵の胸倉をつかみ上げてきた。涙の滲んだ瞳の奥で火花が散った。
――この、裏切り者……!
裏切り者はどっちよ。美宵は怯まずに答える。お役目を忘れたの?
――取り込み中悪いんだけどさ。
丁礼田舞が素振りでもするように手に持った笹を揺らしながら云った。
ここで間違いないんだよね?
さっさと仕事を済ませちゃいましょう。
と爾子田里乃。
還りはどれを使うんだっけ?
北に四百三十。東に二百五。
了解。
柏の制止を振り払って二童子は屋敷に上がりこみ啓吉の枕元に立った。彼は最初から目を覚ましていた。一晩中起きていたのかもしれなかった。
部屋に飛び込もうとする柏を紫蘇が後ろから羽交い絞めにする。美宵はその横に立って二人の童子が笹と茗荷を振って踊るさまを眺めていた。啓吉は童子と美宵達を交互に見た。彼は微笑みを浮かべた。二童子の動きが一瞬止まったがすぐに踊りを再開した。催眠にかけられたかのように啓吉の顔から徐々に生気が失せていき踊りが終わるころには彼は動かなくなっていた。
美宵は腹の底に溜まっていた息を吐き出した。紫蘇が解放すると柏はその場に膝を突いて泣きじゃくった。
仕事を終えた舞は啓吉の目蓋を閉じると遺体にお疲れさまと声をかけて立ち上がった。
……じゃ、また何かあったら報告よろしくね。
いや――。美宵は首を振る。これが最初で、……最後よ。
へえそう。
この人が初めてじゃないのよね。里乃が遺骸の肩をそっと叩きながら云った。この里から指導者を出すわけにはいかないの。徒党を組んで逃げ出すこともね。それがお師匠様の、――あの方々の方針だから。許してちょうだいね。
屋敷の門前で二童子は回れ右し深々とお辞儀した。そしてその場から立ち去ろうとしたとき後ろから柏が飛びかかろうとした。だが舞の背中から生まれた扉がバタンと開いて座敷わらしを跳ね飛ばした。柏はその場に転がった。舞の扉から出てきたのは狩衣を身にまとった金髪の少女だった。
――こらこら。うちの丁礼田に何をする。最近やっと使い物になってきたんだぞ。
お師匠様。
なんだ。
僕の背中を使うのはできれば止めてほしいのですが。
生意気を云うな。それより今回こそはちゃんと私の鼓(つづみ)なしでも踊れたのだろうな。
問題ありません。里乃が答える。眠るように亡くなりました。
ならいい。前みたいに抜け殻にしたら承知しないからな。
はい。お師匠様。
美宵は柏を助け起こそうとしたが手は振り払われた。
柏は震えながらも賢者に向かって声を張り上げた。
坊っちゃんを返せ。舞ちゃんと里乃ちゃんを返せ。――みんなを返してよ!
“分をわきまえろ間諜風情が”と云ってやりたいところだけど――。少女は後戸の縁に頬杖をつき微笑んで云った。あまりに酷だから少し教えてやろう。私は他の連中みたいに過保護じゃない。何もかも総てはこの世界を守るためなんだ。
世界。なにが世界よ。そんなの――。
お前の目から見ればどれほど愚かしく思えようとも最善の手は打たれ続けてきた。今日も空は目に痛いほどに青く星は月よりも増して煌々と輝いている。心配せずともいい。これからこの世界はますます色彩豊かで活気に満ちた場所となるだろう。そのための布石はすでに打たれている。
ぜんぶ必要な犠牲だったってこと……?
驕ってはいかんぞ。賢者は答える。“犠牲”ではない。――人の死は例外なく“自然の成り行き”だ。
柏は怒号を上げて少女に突進した。賢者は鼻を鳴らすと座敷わらしの拳を楽々とかわして胸倉を引っ掴みその勢いを利用して扉の奥へと投げ入れた。柏の怒りの声が悲鳴に染まりそれも遠ざかって聞こえなくなった。
……やれやれ再教育が必要だな。少女は扉の取っ手に手をかけて云った。お騒がせしてしまったようだ。
美宵は手を前に差し伸ばした姿勢のままずっと固まっていた。
か、柏は? ――あの子はどうなるんです?
心配せずともお焚き上げにはせんよ。人手不足だからな。記憶を消して別の家に宿らせるさ。
…………。
――もう会うこともないだろうから礼を云わせてくれ。どれほど強大な妖怪を相手どるよりも徒党を組んだ人間のほうが何十倍もこの世界にとっては危険なんだ。情に流されずによくやってくれた。お前達のことは覚えておくよ。
彼女は手を振ってから扉を勢いよく閉めた。ぐふっと呻き声を上げる舞の背中を里乃がさすってやる。双子の童子は何も云えないでいる美宵と紫蘇に会釈して立ち去ってしまった。あとには座敷わらしと、蔵ぼっこと、――そしてたった一人を除いて空っぽになってしまった屋敷だけが取り残された。
……これからどうするんだ。
紫蘇が隣に立って云う。美宵は自分の手のひらを見つめる。
どうしようか。彼女は呟いた。……本当にどうしようか。
私に聞かれても困る。
――どうしよう。
美宵は門柱にもたれかかって何度も同じ言葉を繰り返した。
どうしよう。どうしよう。どうしよう……。
幼い少年が父親を呼んでいる声が屋敷から聞こえてきた。
美宵はふらつきながら声のする方へと歩いていった。紫蘇は二童子が消えていった道の向こうをぼんやりと眺めていた。それから美宵の後を追って屋敷に戻った。
その時間帯はまだ蚕喰鯢吞亭は開いていない。
人間向けの宵の刻。
美宵は人の常連客に初めて黍粥を振る舞った。塩と和風だしで味付けしたシンプル極まりない味わい。だが酒と煮物で膨らんだ腹に〆の一品としては悪くない好評ぶりだった。常連の人びとは心なしか口数少なく粥を味わった。
「懐かしい味だァ」と大工の頭が云った。「小せェころに似たような粥をお袋が作ってくれたよ」
何人かが同意してうなずいた。
美宵は曖昧な笑みを浮かべて礼を述べる。しばらく黙りこんでいたが意を決して彼らに問いかける。
「……皆さんが食べていたそれは、本当に皆さんのお母様がお作りになったものでしょうか」
「ああ。間違いないぜ」
「お粥ですらない、土の塊のような何かだったりは」
「おいおい美宵ちゃん」材木屋の主人が徳利を傾けながら笑う「酔っ払い親父だからってあまり阿呆のように思わないでほしいもんだ。ばっちり覚えてるよ。むしろここ最近のことよりもそうしたガキん頃の想い出の方が印象に残ってるくらいだぞ」
「――それって要するにボケが始まってるってことじゃねェか」
大工の言葉に一同は大笑いする。美宵もそれに合わせて笑う。だが声はうまく出てこなかった。
◇
秋の長雨は終わり収穫の時期は過ぎて冬の足音が聴こえてきた。
その夜。蚕喰鯢吞亭の最初の客は萃香だった。
小鬼はその日、酒はほどほどに控えて煮物やら刺身やら野菜炒めやらを注文しては港町の定食屋か何かのように黙々と食べていた。そしてその日の釣果を確認するかのように何気ない調子で訊ねてきた。
「――啓吉の坊っちゃんが生命力やら精神力やらを吸い取られて亡くなった後のことなんだが」
「ええ」
「屋敷はそれからどうなった」
「取り壊されました。買い手がつかなくて。子供一人が暮らしていくにはあまりに広すぎましたし。門や壁の建設の際の区画整理で昔からあるたくさんの家屋がなくなりました。馴染みの座敷わらしの皆もその時にほとんど姿を消しました。あるいは姿形も記憶もなくして生まれ変わったのかもしれません」
「じゃあお前さんは――」萃香は唇の端を歪めて云った。「“家”という何よりも守りたいもののために心無い決断を下し続けた結果、――ついにはその家そのものを失うことになったわけだ」
美宵は力なく笑ってみせた。「…………本当に皮肉なことです」
「生き残った子は孤児、か」
「ええ。私はあの子に付いていきました。紫蘇とはその時に別れました」
「この店は」
「あの子が懸命に働いて土地を一部取り戻したんです。それで鯢吞亭を始めました」
「ずいぶんと頑張ったんだなァ」
萃香はそれを聞いてからようやく盃に酒を注いだ。右手に持った盃を掲げて乾杯の意思を示した。美宵も自分のお猪口でそれに応える。
「……やはりあの時代のことは、――今の人間はほとんど覚えていないみたいです」
「語り継げる人間がみんな死んだからか」
「違うと思います。うちの店主は健在ですし。他にも生き残った人間は沢山います」
「じゃあどうして」
美宵は注がれた酒にじっと視線を注いでいた。「私達座敷わらしが一斉に偽の記憶を植えつけたからです」
「ああ……」
「そうでなくとも皆さんは無意識に思い出さないようにしているのかもしれません」
「あまりに辛い記憶だからか」
「ええ」
「みんな都合の悪いことは忘れちまうもんだね。お前さん達が酔わせるまでもなく」
美宵はお猪口を大切な宝物か何かのように両手で持っていた。
「……この世界に棲んでいる人は、――私も、人間も、妖怪も、神様でさえも、皆ずっと酔っ払っているんじゃないかって思うときがあります」
「どういう意味だい?」
「外から隔絶されたこの世界で覚めない夢を繰り返し見続けているんです。もはやお酒を呑むまでもありません。素面(しらふ)ではたどり着けない場所ですから。一度ロオタスの実を口にしたらそれまで。――美しき宵の日々にただ浸り続けているのだと」
萃香は波に揺られる船のように盃をぐるりと回した。
「……昔、私の知り合いはここを揺りかごだって表現してたね。そういや」
「否定したいわけじゃないんです」美宵はうなずいて続ける。「ただの感慨です」
「ああ分かるよ」
何だか今宵は一人で飲みたい気分だな、と云って萃香は早めに切り上げて席を立った。
去り際に彼女は訊ねてきた。
「……そういや化け狸の大将が話してた本のことだが」
「本、ですか」
「“邯鄲の夢”の結末を改変した奴だよ」
「『黄粱夢』ですね」
「あの結末に対するあんたの答え。まだ決まってないのかい?」
「…………」
美宵は目を閉じる。心の奥で言の葉を諳んじる。
“夢だから、なお生きたいのです”
――少女は徳利からお猪口に酒を注ぐ。
“あの夢のさめたように、この夢もさめる時が来るでしょう”
――ひと息に飲み干す。
“その時が来るまでの間、私は真に生きたと云えるほど生きたいのです”
――長い吐息を漏らす。
“あなたはそう思いませんか”
美宵は口を開く。「私は……」
◇
「ご無事ですかお師匠様?」
仰向けに倒れ伏した摩多羅隠岐奈の顔を覗き込みながら舞が訊ねた。里乃があらあらと云いながら横倒しになって車輪を空転させている車椅子を引き起こす。ずり落ちて顔に被さっていた冠を手で払いのけて隠岐奈は呟く。
「おい爾子田。椅子よりも先に私を起こすべきだろう」
「ごめんなさい」
「丁礼田も見てないで手を貸してくれ」
「はぁい」
「なんてポンコツな野分達だ」
車椅子に座りなおした隠岐奈は額をさする。舞が差し出した絆創膏を貼って光弾が突然飛び出してきた後戸を点検する。
「北に三百二十。西に八十。なんだ八ヶ岳か」
二童子が揃って首を傾げる。
「天狗の御山ですか」
「前に鴉天狗の記者が殴りこんできましたね。そういえば」
「宣戦布告だー」
「お師匠様が目立ちたがって存在を公になさったせいです」
隠岐奈は里乃の頭をぽかりと叩く。「――ひと言余計だ」それから扉を隙間なくぴったりと閉める。
「……誰かが私の力を勝手に借りて命名決闘に利用しているようだ」
「それってヤバいんじゃないですか」
「もしかしなくても大ピンチなのでは」
隠岐奈は人差し指であごをさすってみせた。笑みを浮かべて何度かうなずく。
里乃が横から顔を覗きこんでくる。「……お師匠様。ずいぶん興が乗ったお顔ですね」
「いやはや……」隠岐奈は目を閉じて云った。「怪我の功名とはこのことだ。姿をさらした甲斐があったな。臆せず後戸を利用し返してくるとは見上げたものだ。――やはり障碍の民とはこうでなくては」
舞がつられて笑う。「またお師匠様が訳の分からないこと云ってる」
「丁礼田。それに爾子田。誇りに思いなさい。お前達の献身は無駄ではなかった」
「僕達はご命令されたことをやってるだけですよ」
「誇りに思えって云われても今いちピンと来ないです」
「それでもいいよ」
隠岐奈は両腕を差し伸ばして二童子の頭をかき抱き自身の胸に引き寄せた。舞と里乃は目を見開いて主人の顔を見上げていた。
摩多羅神は繰り返した。「……それでいいんだ」
◇
蚕喰鯢呑亭の閉店時間になり美宵は看板を付け替えるために外に出た。
声がした。美宵は振り向いた。
声の主は云った。「――酔いはまだ醒めないか?」
「…………ええ」美宵は微笑んで云った。「まだよ」
「そりゃ好かった」
紫蘇はそう云った。
席につくと紫蘇は鯢呑亭自慢の煮物を口にする。
「……細部は多少違うが」彼女はうなずく。「あの時の味のままだな」
「ええ」
「お前があの子に教えたのか」
「そうよ」
「鯨に牡丹、柏の消息は?」
美宵は首を振る。
「そうか。あいつらのことだから達者にしていると思うが」
「私はそう信じてる」
「婆さんの黍粥はまだあるか」
「うん」
「じゃあそれも、――ああいや」
紫蘇は急に席を立つ。
美宵は首をひねる。「どうしたの」
「たまにはこっちに来い。私が給仕する」
蔵ぼっこはそう述べて帳台を回りこんだ。豊かすぎる長髪をあちこちに引っかけて悪態をつきながら。云われるがままに美宵は交代して席につく。紫蘇は煮物と黍粥、そして酒を振る舞う。
「さあ召し上がれ」
美宵は半笑いの表情で云う。「突然なによ」
「いいから食え。肩の力を抜け」
分かったわよ、と答えて美宵は食べる。ゆっくりと味わって咀嚼する。
しばらくしてから紫蘇が訊ねてくる。
「……後悔したことはあるか」
「ないと云いたいけど」美宵は箸を置いて云う。「正直、……分からない」
「お前達がやってきたのは――」
紫蘇は咳払いして云い直す。
「私達がやってきたのはこの世界を作り替えるお手伝いだ。幻想で酔わせ真実に蓋をする。私達がバラまいた幻想はこの里を覆いつくしてしまった。この店の名前みたいにな。時には非情な決断を下さざるを得ないときもあった。多くの同胞がその重責に耐えきれずに落伍していった。――それだけのことをやってのけたってのに今やってるのは場末の呑み屋で一期一会の出逢いと別れを繰り返すだけの毎日だ。誰の記憶にも残らないまま。何千回もの“はじめまして”を繰り返してな」
「なにが……」美宵は席から腰を浮かせ低い声で呟いた。「なにが云いたいのよ」
紫蘇は一度、うつむいた。それから顔を上げて云った。
「……お前は本当に頑張ったよ」
そして中身の残った酒瓶の口を差し出してきた。
美宵は盃を掲げた姿勢のまま固まった。それにとくとくと清い酒が注がれていくのを静かに見守っていた。涙がひと筋、酔いで紅潮した頬を流れ落ちていった。後から後からそれはあふれ出た。つがれた酒を呑もうとしたが手が震え喉が塞がって吞めなかった。盃を置いて片手で目元を覆った。クジラを象った帽子がずり落ちた。嗚咽を上げている美宵を紫蘇は黙って見つめ続けていた。
◇
紫蘇は手を挙げた。「……じゃ、またいずれな」
「ええ」美宵は答える。「ありがと」
「ごちそうさま」
腐れ縁の少女は下ろされた夜の帳(とばり)の奥をゆっくりとふらつきながら歩いていった。その背中が見えなくなるまで美宵はじっと立っていた。白く濁った息を吐き出した。酒が恋しくなるような冬の近しい夜だった。ちょっぴり呑み直そうかな、と呟いて振り返り店の看板から“蚕喰”と書かれた木札をそっと外した。残るは鯢呑亭という筆文字に鯨の意匠。
視線を上げればそこには店があった。彼女の家があった。美宵はお腹のところで手を重ねて古びた戸の黒ずみから瓦の一枚一枚についた瑕(きず)に至るまで丹念に眺めていった。彼女は流れ星に祈りを込めるかのように両手の指を組み合わせた。そして呟いた。
――たとえ一炊の夢でも、これが一炊の命でも……。
美宵は目を開いた。願いを乗せた吐息を夜空に溶かして前へと歩き出した。そして店の戸を閉めてそっと明かりを消したのだった。
(引用元)
Ernest Hemingway:Big Two-Hearted River, Hemingway's first collection;In Our Time, Boni & Liveright, 1925.
高見浩 訳(邦題『二つの心臓の大きな川』),短篇集『われらの時代・男だけの世界』所収,新潮文庫,1995年。
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In Our Lotusland
テントの中に這って入ると、ニックは幸福だった。きょうは朝からいい気分だったのだが、いまの気持は格別だった。これですべての準備が終った。この野営の支度だけが残っていたのだが、それも終った。しんどい旅だったから、かなり疲れている。が、それも終った。キャンプの支度も終った。これで落ち着いた。これでもう、邪魔は入らないはずだ。そこはキャンプには申し分のない場所だった。彼はそこに、申し分のない場所に、いた。自分でこしらえた、自分の家にいた。いまさらのように、空腹を覚えた。
――アーネスト・ヘミングウェイ『二つの心臓の大きな川』より。
Table of Contents
01 一炊の命
02 山吹色の粥
03 荷車とおしら様
04 灯の憧憬
05 帰郷
06 蛍のように
07 集会
08 独自の生
09 つむじ風
10 ロオタスの実
11 煙
12 事実と真実
13 山の挽歌
14 好き夢
15 草結び
16 フェアリー・テイル・オブ・ロータス・ランド
17 銭金論
18 財禍の女神
19 簒奪者
20 風の行方
21 美しき宵に
22 背中の扉
23 エピローグ 楽園の酔夢、あるいは酔夢の楽園
02 山吹色の粥
03 荷車とおしら様
04 灯の憧憬
05 帰郷
06 蛍のように
07 集会
08 独自の生
09 つむじ風
10 ロオタスの実
11 煙
12 事実と真実
13 山の挽歌
14 好き夢
15 草結び
16 フェアリー・テイル・オブ・ロータス・ランド
17 銭金論
18 財禍の女神
19 簒奪者
20 風の行方
21 美しき宵に
22 背中の扉
23 エピローグ 楽園の酔夢、あるいは酔夢の楽園
01 一炊の命
藁苞(わらづと)の中からは微かに甘い匂いが香っていた。傍らに立っていた啓吉の祖父がうなずきかけると産婆は藁苞を川に浮かべた。箱舟は流れを下り始めた。御山からもたらされた清い水は飲み込まんばかりの勢いで一艘の包みを運んでいった。
祖父が軽い咳をした。そして深呼吸。啓吉は繋いでいた手を放して川の流れに沿って歩き始めた。後ろを祖父がついてくる。産婆は手を合わせて何ごとか呟いている。
――あの子どうなるの?
と啓吉は訊ねた。祖父はしばらくしてから答えた。
あれは遊びにやったんだよ。
でも動かないじゃん。
今はな。しばらくしたらまた戻ってくる。
うそ。啓吉は振り返らずに呟いた。戻ってこない。死んじゃったんでしょ。
いいや死んでない。
死んだよ。ぼく見てたもん。あの婆ちゃんが濡れた雑巾を使って――。
啓吉。
語気を強めて祖父が呼びかけてきた。少年は振り返った。祖父は火のついていない煙管(きせる)を右手に持って先端の火皿にじっと視線を落としていた。
……難しい話じゃないんだ。祖父は云う。あれはそもそも生まれてきはしなかった。だから死ぬこともない。巡り合わせが悪かったんだよ。こっちには遊びにきたんだね。少しのあいだ。
啓吉は答えなかった。川のせせらぎに耳を澄ませていた。昨夜に漏れ聞こえてきた産婆の言葉が頭の奥でがんがん鳴っていた。
――おきますか。もどしますか。
繰り返し。繰り返し。
戻しますか。
……啓吉は知らんだろうが、と祖父は歩きながら云った。お前の父ちゃんには昔、五人、――いや四人の兄ちゃんや姉ちゃんがいた。だが二十(はたち)まで育ってくれたのはあいつだけだった。それでもうちは恵まれているほうだ。今年のような日照りでもとりあえず明日の食事に困ることはないし。薬師さんを呼ぶ金があるのだからな。
啓吉は祖父に連れられて屋敷に戻った。床の間に飾ってある神様の前に正座し手を合わせて拝んだ。それは木で作った一尺ほどの長さの棒だった。先端に目鼻が彫りこんであり梅と桜の模様が描かれた着物が着せてあった。それが四体ある。うち一体は馬頭の形で突き出した鼻と尖がった耳が生やされていた。
家の中は静かだった。昼下がりで炊事の音もない。啓吉は拝むふりをして横目でこっそり祖父を見た。刻まれた皺や髭に混じってあばたの跡があった。すでに彼自身は酒造りをやっていないはずなのに身体には今もなお麹(こうじ)の匂いが染みついていた。
啓吉は祖父に訊ねた。おしら様って何の木で出来てるの?
杉だな。
他の家もそうなの?
多くは桑だ。お蚕(かいこ)をやっとるから。――うちは酒だ。だから杉を使う。
ああ。樽に使ってる。
そうだ。
じゃあうちの神様はきっとお酒好きだね。爺ちゃんみたいに。
……そうだな。
その日はじめて祖父は笑ってくれた。
◇
おいこら梅。――梅ってば。
と声がした。屋根裏で晩酌をしながら本を読んでいた美宵は眉間にしわを寄せた。小袖についた埃を払いながら低い声で返事する。
その呼び方やめてくれない。
なんで。梅。悪くない名前だろ。別に好くもないけど。
私は嫌なの。美宵って呼べ。
ぜんっぜん似合わねェ。
うるさいな。
梯子を登ってきたのは床に引きずりそうなほど髪を伸ばした少女だった。毛先は汚れていて使いすぎた箒のようにくるんと曲がっており枝毛だらけだった。頭のてっぺんで団子にしていたがそれでも長さが余って背中のみならず身体の前面をも半ば覆ってしまいそうなほどの量の髪は身体の一部というよりも新手の衣装のようだった。
美宵は暑苦しげに少女の髪を手でぱしっとはたいてから云った。
――で、何の用。
蔵にまた鼠が入り込んでる。
それくらい自分で何とかしなさいよ、紫蘇。あんたの持ち場でしょ。
鼠だけは嫌だ。前に依代をかじられて以来トラウマだ。
美宵はひとつ大きく溜め息をつき本を閉じて起き上がった。そして音を立てないように梯子を降りた。蔵に向かう道中で紫蘇が訊ねてきた。
――そういや今度は何の本読んでたんだ。
漢書。
どの話?
枕中記。
ああ。沈既済の。
そ。
なんでまた。
お昼に婆さんが黍粥を炊いてたからつい思い出して。
まつさんの粥か。前にお供えしてくれたことがあったけどあれは美味かった。
そうね。
結末は? 夢落ちってことしか覚えてねェや。
美宵はしばらく考えてから返事した。
……夢から覚めると主人公の盧生は道士と出逢った当日に戻っていた。寝る前に火にかけられていた粥がまだ煮立ってさえいなかった。一瞬のうちに人生の栄枯盛衰を体験した盧生は道士に枕を返して云った。“先生は私の欲を払ってくださった”と。彼は感謝して故郷に帰っていった。――黄粱の一炊、邯鄲の夢の出来事ね。
人間は何を教訓にこんな話を語り伝えるんだろうな。
さぁね。でも長生きしてると少しは分かることもある。
例えば。
美宵は答えずに蔵の中に入ると紫蘇に合図を送った。紫蘇はうなずいて指先から煙を出して鼠がこじ開けた壁の穴に吹き込んだ。穴の近くの壁面を拳でゴンゴンと叩いた。かたかたと音がしたかと思うと煙に燻された鼠が別の穴から脱兎のごとく飛び出してきた。待ち構えていた美宵は裸足で鼠を勢いよく踏みつぶす。柔らかくも致命的な感触が足の裏を通じて伝わってくる。悲鳴はなかった。余韻もない。小さな命がまたひとつ喪われただけだ。
◇
あんがと。紫蘇は云った。こんど何か礼をする。
うん。
お江戸、――じゃねェや東京なら巡査に持っていったら一匹五銭で買い取ってくれるんだと。
鼠を捕って天丼を食おう、か。
梅はどうせ酒手に使っちまうだろ。
あーね。
美宵は死骸の尻尾をつまみながら答えた。
――さっきの話の続きだけど。
ああ。
あの話から得られるのは教訓じゃないと思うの。
どういうこった。
感慨なのよ。
かんがい。
ええ。
もう少し嚙み砕いてくれよ。
要するに人間の命の儚さを思い出させるための物語なのよ。命は軽くはない。――ただ儚い。誰もが心の底では感じ取ってる事実をしみじみとした感慨をもって心に染み込ませてくれる魔法なの。ただの教訓には持ちえない物語だけが備えている特別な力。――なんてことを考えるようになったわけ。
ふーん、と生返事をして紫蘇は押し黙った。彼女は伸びすぎた赤紫色の髪を両手の爪でぐしぐしと梳きながら酒蔵のあちこちを見渡していた。やがて腐れ縁の蔵ぼっこは云った。……気にしてるのか。あの子のこと。
美宵は死骸を窓から外に放り出して呟いた。
かもね。
今ごろは海にたどり着いてるんだろか。
その前に山の天狗に拾われて晩餐の向付(むこうづけ)になってるんじゃないかな。殊に嬰児(えいじ)の肉は奴らには絶品らしい。
夢も希望もないこと云いっこなしだぜ。
その可能性がいちばん高そうだもの。
お前はお前ら兄弟姉妹の中じゃいちばん根暗だな。
引きこもりのあんたに云われたくない。
二人が互いの胸倉をつかみ合ったとき蔵の戸が開いた。啓吉だった。啓吉の視線は二人を素通りして蔵の中を眺め渡した。目が充血して赤くなっていた。目の下に疲労の跡があった。彼は首を傾げてから戸を閉めた。何もいなかったよ、父ちゃん、と声がくぐもって聞こえた。
美宵と紫蘇は顔を見合わせた。美宵が肩をすくめると紫蘇は首を振った。
……まだしばらくは黍粥が振る舞われそうだな。
ええそうね。
02 山吹色の粥
黍粥(きびがゆ)はまだ煮立っていなかった。
客が引けた店内。行灯(あんどん)の明かりは最小限に落とされ薄明りの中で山吹色の粥を火にかけている美宵の姿はまるで猪肉を煮ている山姥の風情だった。炊事の炎という原初の明かりを頼りに美宵は粥が煮立つのを待ちながら書見をしていた。
「なんだい、――今宵はえらく暗いじゃないか」
引き戸を開けて入ってきた伊吹萃香はそう云ってどっかと席に腰かけた。手首や髪に括りつけられた分銅の鎖がじゃらんと音を立てて店の床に着地する。
美宵は本を閉じて笑みを浮かべる。そして呼びかける。
「余り物ですよ」
「構わん」
「まだ降りますか」
「ああ。今年の秋雨は長引くねぇ」
「客足が遠のいて困ります」
「気の毒なこった」小鬼は料理も出ぬうちから自前の盃(さかずき)で一杯やり始めた。その盃は店のものより一回りも二回りも大きくマッコウクジラの晩酌にでも使われそうな代物だった。「――でもそれだけ私の取り分が増えるってもんだろ?」
「お代はちゃんと払ってくださいよ」
聞いているのかいないのか萃香は曖昧なうなずきで応えた。
「で、――なんだいこの、ほの甘い香りは。なんか煮てるのか」
「ええ。黍を」
「きび?」
「はい。黍と、それと常連さんに分けてもらった南瓜(かぼちゃ)で」
「黍粥かァ。……酒にはあまり合いそうにないが」
美宵は出来合いの品の給仕を終えると粥をお玉でかき混ぜ始めた。「……黍は胃の働きを助けるんですよ。うちの常連の皆さん、歳月が経つにつれて食事よりもお酒の量ばかり増えてて心配なんです」
「生々しい話だなァ」
「ええまあ。滋養に好いかなと思って試作中なんです」
「そういうことなら私が味見してやろうか」
「是非」
萃香が身を乗り出して鍋をのぞき込んだ。「しかしほんとに黄色いな。トウモロコシが“唐黍”なんて呼ばれてる理由が好く分かる。たまァに店の横手で寂しく横たわってるゲロみたいだぞこれは」
美宵はお品書きの板で萃香の頭をはたいた。
「……二度とうちでそんな汚い言葉を使わないでください」
「はいはい」口の中を片付けぬ間に手に持った箸で鍋を指しながら彼女は云う。「前にも作ったことがあるのかい、それ」
「見たことがあるだけです。うちの店主のお婆さんのそのまたお婆さんが作ってたんです」
「ほう」
「あのころは今以上に小さな子どもがトリツバサになっていましたし少しでも栄養のあるものを食べさせたかったのでしょうね」
「ああ」萃香は煮物の里芋を箸でつまみ上げて見入った。「そうさな。私はあの時分は地底とかいろんな場所をふらふらしていたからあまりこの里のことは知らんが」
美宵は小鬼の所作を目をそらさずに見守っていた。酒吞童子は里芋をじっくりと噛みしめていた。彼女が美宵の手料理をここまで味わって食べているところを見たのはそれが初めてだった。
萃香はつぶやいた。「…………なぁ」
「はい」
「黍が仕上がるまでの間でいいからさ。何か昔の話をしてくれないかな」
「昔の」
「この家のことさ。――確かお前さん、店が始まる前からこの家に棲んでるんだろ」
「ええ」
「酒の肴に余り物だけじゃ興が乗り切らないんだよ。特にこんな長雨の夜はね」
美宵は店の入り口の引き戸に目を向けた。雨音は続いていた。往来は下駄の歯を丸ごと飲みこんでしまいそうなくらいにぬかるんでいるはずだった。とろ火にかけている鍋の中の黍と南瓜の香り。遠雷。萃香の分銅のじゃらんという音。鬼はいつの間にか姿勢を少しばかり正していた。
美宵は萃香に目を戻した。
「……つまらない話ですよ」
「いいんだよ。酒の席の話なんて皆つまらない。一炊の夢みたいなもんさ」
美宵はもみあげの先端を右手の人差し指に巻きつける仕草をした。それから息をひとつ大きく吐き出すと萃香から差し出された盃を受け取った。
03 荷車とおしら様
子供達が大八車に群がって遊んでいる。その中には啓吉もいる。顔が真っ赤に染まっている。草履が湿った土を抉りたてる。彼は荷車を引く役を務めており他の子供達は荷台に乗って遊覧気分に洒落込もうとしていた。だが車は地に根をおろしたように動かない。暮れ鈍る夏の宵口の光は弱々しく雲は黒々として空を覆い始めていたが遊びに夢中な彼らは気づいていなかった。
汗まみれになってふうふう云っている啓吉の背中に子供達は次々と言葉を投げつけた。
――ほうらもっと頑張れよ。
やいお坊ちゃんたら。まだ寝ていたほうが好かったんじゃないか。
あの“なまり”の兎、ほんとなら俺たちのもんだったのに。仮病つかってまんまとせしめやがって。
――やっぱり止めましょうよ無茶だわ。
そう声を差し挟んだのは啓吉の近所に住む女の子だった。
だったら瑠璃子さんだけ降りてろよ。
と眉のきれいな少年が足をぶらぶらさせながら挑発する。
あらそう分かったわ。降りてやる。
瑠璃子が降りると大八車は少しだけ前進した。が、すぐに止まった。
見たか。
みたー。
少し動いたな。
瑠璃子さんが降りたとたんにがったん動いたぞ。
女の子のくせに重いんだ。
お転婆だー。
荷車に残った少年達がこれまた囃し立てる。まあひどいわ、と云って瑠璃子は両の袂(たもと)で紅潮した頬を隠す。小休止して振り向いた啓吉と瑠璃子の目が逢う。二人は見つめあう。しかしその時間はあまりに一瞬で他の子供達が気づくことはない。
◇
坊っちゃんたら可哀そうに。
美宵がそう呟くと姉の牡丹(ぼたん)は肩をすくめてみせた。
子供ならよくあることでしょう。仲間外れなんて。
それにしたって、――ねぇ。まだ快気祝いからそんな経ってないのに。
じれったそうに様子を見守っている妹の柏(かしわ)がその場を飛び跳ねながら云う。
――そもそも“なまり”の兎って何さっ。
鉛で出来た兎の人形だよ馬鹿。美宵が答える。坊ちゃんが厩別家の婆ちゃんからお見舞いで貰ったんだ。
なんのお見舞いだっけ。赤もがさ?
そ。麻疹(はしか)だよ。それでおもちゃを貰えたから他の子供達が妬んでる。
ほほう。
お坊は命定めに打ち克って生き残ったんだし――。姉の牡丹は溜め息をつく。それくらいのご褒美があってもいいと思うんだけどねぇ。子供ときたらまったくしょうがない。
美宵は薄く笑った。――姉さんは子供が嫌いだもんね。
嫌いじゃないの。苦手なのよ。
啓二郎さんの兄弟姉妹もほぼ全員はしかにかかってたなぁ。うち一人は頭にまで悪い気がまわって息ができなくなって、それで……。
双子もいたわねそういえば。そっくりの。珍しかったから好く覚えてる。
いたわ。ある日煙のように消えちゃった。天狗にさらわれたのかな。
弟が一人いたけど勘当されて。最後の一人はどうして亡くなったんだっけ。記憶が曖昧だわ。
川で遊んでいて溺れたのよ。河童の仕業だって騒ぎになって。
ああそうね。そうだった。
やっぱり姉さん苦手なんじゃなくて嫌いなんでしょ。
失敬な。
――あァもうじれったい。わたし、ちょっと行ってくる。
妹の柏はひと声叫ぶと腕を振り回しながら子供達の方へと駆け出した。
◇
啓吉の代わりを申し出てくれた少女はそのほか全員を乗せた大八車をいとも簡単に動かした。
先ほどまで囃し立てていた少年達が頬を紅潮させながら声を上げる。
さっすが柏さんだ。
なんで誰も呼ばなかったんだよ。
力仕事ならやっぱこいつだよな。
こいつとか呼ぶなよ。投げ飛ばされちまうぞ。
啓吉は柏さんの背中を見つめていた。蒸し暑い初夏なのに彼女の着物には汗の染みひとつも浮かんでいない。
柏さんは二人にだけ聞こえるくらいに声を低めて云った。
――坊っちゃんさぁ。
うん。
もっと強くなってくれんといかんよ。
わかってる。
じゃないとわたしも気が休まらないんだよね。
どういうこと。
あんたこそは末永く生きてほしいんだよ。わたしは。
…………。
啓吉の隣には瑠璃子が座っていた。二人の小指が触れ合っていた。
◇
屋敷の前まで戻ってきたとき怒鳴り声がした。啓吉の父親の啓二郎だった。彼は子供達を急き立てて下ろすと勝手に大八車を持ち出しやがってと説教を始めた。子供らは黙ってにやにやしながら聞いていた。啓吉は左右をこっそりと見た。柏さんの姿は消えていた。代わりに奥の間に飾ってあるはずの小さなおしら様の木像が大八車の上にちょこんと乗っかっていた。
啓吉は身体をずらしてそれを隠そうとしたが父は目ざとく見つけた。その時の父の様子の変化を啓吉はその後も何度も反芻しては思い返すことになった。目が見開かれて口が半開きになった。顔が青ざめたようにも見えた。しかしそれは本当に一瞬ですぐに表情は怒りのそれに差し戻された。
父が再度口を開きかけたところで大粒の雨滴が葉桜に踊り落ちて地を点々と染めた。荷車を叩く雨粒の音はひと際するどく銃声のように響いた。
分家の少年達は顔を見合わせて声をそろえた。雨が降るからかあいろ……。
待ちなさいと父が呼びかけたが少年達はこれ幸いとそれぞれの家へと駆け戻ってしまった。
啓二郎は頭をかいた。
――とりあえず二人とも、中に入りなさい。
瑠璃子が礼を云って屋敷に駆け込んだ。同じく入ろうとする啓吉の服の袖を父はつかんだ。
木像を指して父は云う。
――アレはどういうことだ。
知らないよ。
知らないなんてあるものか。お前が持ち出したんだろ。
してない。いつの間にかあったんだ。
足が生えて勝手に歩き出したとでも云うつもりか。
分かんないよ。濡れるから早く入ろうよ。
父は夕立にも構わずに木像にじっと視線を注いでいた。それから袂で包んで取り上げると啓吉を追い立てながら屋敷に戻った。説教には母も同席した。病み上がりで無茶をするなといった内容だった。父は腕組みをして胡坐をかき母は正座して両手を膝に添えていた。啓吉は思わず背筋が伸びていた。いつもとは違うな、と思った。説教にしてはあまりに切実だった。だがその理由は分からなかった。父と母はしょっちゅう互いに目を見交わした。そして飾ってある四つの木像に時おり視線を配るのだった。
◇
雨が上がると瑠璃子は礼を云って帰っていった。見送りに出ていった親子の背中を美宵達は目で追った。
……啓二郎に邪魔された。柏が腕を組んでぼやく。せっかく楽しく遊んでいたのにさ。
美宵と牡丹は念のため釘を刺しておいたが妹はまるで聞いていないようだった。
翌朝になって啓二郎が高熱を出して寝込んだ。うわ言のように巫女様を呼んでくれと彼は繰り返した。妻が女中を遣いにやって昼前には博麗の巫女がやってきた。二十歳の近い女性で紅白の衣装のためか彼女だけ周りの空間から浮き上がって見えた。美宵に牡丹、それに柏は梁に座りながら息を殺してその姿に見入った。
巫女は黒蜜の髪を指でよけて耳を露わにすると啓二郎の言葉を聞き届けた。それから立ち上がってこちらを真っすぐに見据えてきた。三人は蛇に睨まれた蛙のごとくぎゅっと身を寄せ合う。糸をぴんと張ったような沈黙が続く。外からひらひらと舞いこんでくる梢の音さえも遠のいた。
ふと博麗の巫女は表情を緩めた。それから家族や下女らに向き直り穏やかな声でこう告げた。
――これは家の神様の仕業ですね。
家人らは顔を見合わせた。
巫女は続ける。悪夢にうなされて熱が出たのでしょう。せっかく子供達と楽しく遊んでいたのに台無しにするとはけしからん、とこんな具合で“ごせ”を焼いたのですね。神とて興に乗じて遊ばされる時があるものです。詫び言をすれば許してくださることでしょう。
啓吉の母であるなつは胸に手を当てて奥の間に通じる襖をかえりみた。そこには四柱のおしら様が飾られているはずだった。巫女は家人の目を盗んで再び美宵達を見上げると唇の端をクイと上げてみせた。それから詫び言を札に認(したた)めて柱に貼りつけ家人に見送られて山に帰っていった。
◇
――柏ァ!
という大声とともに長兄の鯨(くじら)が妹に拳骨を一発喰らわした。柏は悲鳴を上げて屋根裏から階下へと転げ落ちた。美宵と牡丹はそろって身をすくめた。啓二郎が快復したその夜の出来事だ。
兄は高下駄を履いた足を組んで大仰に咳払いした。鯨という名前なのに馬の耳を生やしており鯨飲馬食もかくやという大酒呑みの大食漢でその夜もお供えされた酒と煮物で晩酌しているところだった。怒った彼を目の前にすると三姉妹は誰も敵わない。牡丹の切れ長の目尻も垂れ下がり美宵の取り澄ました瞳も濁り切り柏の剽軽(ひょうきん)な眉は綺麗な“へ”の字を描いた。
鯨は煮物を飲みこんでから厳かに云った。散々口を酸っぱくして云い聞かせてきただろうが。――えエっ? もう俺達の時代は終わった。力を弄して人を惑わすな。ただ見届けようってな。
そうは云っても鯨兄ィ、と引っ繰り返ったままの柏。坊っちゃんが可哀そうだよ。いじめられておまけに啓二郎にまで叱られて。赤もがさであんな苦しそうにしてたの、兄さんだって見てたでしょ?
ああ見てたさ。だが耐えねばならん。
納得いかないね。
それに啓二郎だが。兄は声を低めた。……本当に怒っているように見えたのか。説教のとき。
そりゃね。
柏はふくれっ面でそう答えた。
代わりに牡丹が唇に人差し指を当てながら答える。
……懇々と説き聞かせるような感じだったわね。特に後半は。
ほれ見ろ。
美宵は首を傾げた。――どういうこと?
怖いのさ。
こわい?
啓坊(けいぼう)がいつなんどき事故に巻き込まれるか。あるいは妖怪に喰われるか。はたまた賢者にこき使われる羽目になるのか。いつ自分の兄弟姉妹みたいにある日忽然と姿を消しちまうかって気が気でしょうがないわけだ。
――うちは呪われてるからなァ。
柏が冗談めかして云ったが鯨のひと睨みで笑みを引っ込めた。彼はまた一杯と酒を飲み干した。
……俺達は無力だ。鯨はつぶやいた。一昨年は輝子が消えた。その前は修平だ。残されたのは啓坊だけだ。決まって最後に残った一人だけが家を継ぐ。何もできなかったし誰も助けてやれなかった。残った俺達はせめて見守ってやらにゃならん。それが俺達のお役目だからだ。これからの時代、人は人の力で強くなる。――俺達はもうお呼びじゃない。お役御免だ。下手をこくと巫女に退治されるところだったんだぞ。
柏は床で寝返りを打った。美宵も押し黙っていた。牡丹は素知らぬ顔で鏡で白粉の乗り具合を確かめていた。美宵は会話を盗み聞きしている蔵ぼっこの紫蘇の姿を目の端で捉えていた。鼠が出入りする穴から彼女の伸びすぎた髪が覗いていた。
……そんなの厭だな。柏がぼそっと言葉を紡ぐ。そんなの厭だ。
鯨は無言で晩酌を続けた。
なつが作った煮物はその日の夜も格別の出来だった。
04 灯の憧憬
店の引き戸を開けるとすでに小鬼が晩酌をおっ始めているところだった。マミゾウは入口のところで立ち止まり店内をぐるりと見回した。
「……妙に暗いのう」
「この時期はいつも行灯の明かりを落としてるんです」本から顔を上げた美宵が云った。「たまにはこんな春の深更(しんこう)も好いものでしょう? 風情があって」
「弔いかね」
「ええまあ。……そうですね」
ふむ、と鼻を鳴らして化け狸の大将は椅子に腰かけた。ふかふかとした巨大な尻尾を尻に敷いてしまったので姿勢を変えて座りなおす。それから煙管を取り出して火を点けようとしたが漂ってきた薫香に誘われて動きを止めた。
「この匂いは黍粥かのう」
「ええ。よくお分かりに」
萃香が箸を止めて口を挟む。「煮物に負けず劣らずの絶品だぁ」
「そりゃ楽しみじゃのう」
「出来上がるまでに時間が掛かるのが難点だけどな。寝ちまいそうになる」
「なに。邯鄲の夢ほど濃密な時間にはならんて」
「そりゃね」
マミゾウは美宵が手元に隠した本を煙管の火皿で指した。
「時に“邯鄲の夢”といえばその本、芥川龍之介じゃろ。それなら『黄粱夢』も載っておろう」
美宵は視線を脇にそらしたがすぐに戻した。
「……これまたお分かりになるのですね」
「儂ほど人間とよろしくやってきた妖怪は他におらんからな」
萃香が笑う。「好く云うね金貸し婆さん」
「黙らっしゃい」とマミゾウ。「――じゃがおぬしは座敷わらし。ある意味では儂以上に人間のことを知っておるじゃろうな」
「そうかもしれませんね」
萃香が口いっぱいに里芋を頬張ってから云う。「ああそうだ。昨日の話は面白かったよ」
「昨日の話じゃと」
萃香と美宵からひと通りの事情を聞いたマミゾウは尻尾をひと振るいした。
「ほほう興味深い話じゃのう」
「私が地底に潜ってた時代の話だよ。あン時はいろいろと嫌気が差してて」
「儂も佐渡にいたからその頃の幻想郷のことは噂でしか知らんの」
「だから面白いのさ」
「美宵殿さえ好ければ続きを聞かせてもらいたいもんじゃのう」
美宵は頬を膨らませる。「……こんな時だけ畏まって“殿”なんて付けちゃって」
煮物のお代わりのため椀を差し出しながら萃香が訊ねた。
「――そういや昨日はなんで川流しの話から始めたんだ」
「その夜に黍粥が出たからですね」と美宵。「啓吉さんを慰めるために好物を出そうってお婆ちゃんが」
「啓吉の坊っちゃんが何歳くらいの話かのう。それは」
「十二か、十三か……」
「瑠璃子さんと荷馬車の話のときは」
「八歳くらいの時分だったと」
「なんだ前後が逆なのか」
「私が思い出した順に喋っているので」
マミゾウは微笑んだ。「よいよい。そんなもんじゃ。酒の席の昔語りなんぞ」
「というか、お前さん以外にもここに座敷わらしがいたなんて驚きだよ」
「今は私しか居ませんけどね」
「ふーん……」
萃香は箸を置いて両手を合わせる。マミゾウから手渡された煙管の火皿に黄燐マッチで火を点ける。火皿に赤い蛍がぽっと灯る。美宵は魅せられたようにその灯を見つめる。
「……どうした?」
「思い出した話があります」
「おうおう。興味がある。話してくれ」
「では――」
「――その前にひとつ」
マミゾウが美宵の本を指して云った。
「なぁおぬし、……『黄粱夢』の結末はどう思ったかの」
「結末?」
「芥川龍之介は故事として伝えられる基(もと)の話から意図的に結末を大きく変えて換骨奪胎しとる」
「ああ……」
「なんだそりゃ。私は知らんぞ」
萃香のために美宵が朗読する。「……盧生は、じれったそうに呂翁の語(ことば)を聞いていたが、相手が念を押すと共に、青年らしい顔をあげて、眼をかがやかせながら、こう云った。“夢だから、なお生きたいのです。あの夢のさめたように、この夢もさめる時が来るでしょう。その時が来るまでの間、私は真に生きたと云えるほど生きたいのです。あなたはそう思いませんか”」
朗読を聞きながら萃香は唇の端を歪めて微かにうなずいた。
「――なるほど当代の人間らしい結びの語だ」
「小鬼のおぬしはこっちの方が好みかの」
「どうかな。こんな人間ばかりになったら私ら妖怪は憮然と腕組みして酒を呑むしかない」
ほっほっほ、とマミゾウは笑った。それから美宵に目配せした。
「私には……」美宵は声量を落として云った。「私にはまだ分からない。分からないというか、今はまだ話したくないというか」
化け狸もうなずく。「――そうか。あい分かった。話の邪魔をしたのう」
「いえ……」
それから美宵は再び話し始めた。
今宵の黍粥はまだ煮立っていない。
05 帰郷
駅の終点で降りてからはひたすら歩きだった。啓吉は大学で定められた角帽に着物、そして袴という出で立ちで未舗装の道を歩いていった。袴はほつれが目立ち裾は土埃で汚れていたが啓吉はそのままで通していた。田んぼの畔(あぜ)で談笑しながら休息をとっていた百姓達がこちらを見てすげ笠を振った。啓吉もはにかんだ笑顔でそれに応えた。
途中で道を間違えて山麓に再び出てしまい故郷に帰りついたときにはすでに夕刻だった。目印まで含めて正確に覚えているはずの復路は啓吉の侵入を拒もうとするかのようにいつの間にか彼を元いた場所へと誘(いざな)った。足が棒のようになり息が乱れた。散切り頭だった髪を今は伸ばしているので浮いてきた汗で前髪が肌に貼りついていた。
郷を一望できる峠にたどり着き啓吉は一年ぶりの故郷を眺め渡した。まだ出穂(しゅっすい)の始まっていない水稲の青々とした葉を夕陽がタンジェリンの色彩に染め上げておりそよ風に揺られてざあざあと鳴る音が啓吉の立っている場所まで舞い上がってきた。ひぐらしが鳴いている。家路についた農夫が引く荷馬車が見える。羊雲が悠々と泳いでいる。
啓吉は深呼吸した。手ぬぐいで額を拭いた。すでに汗は乾き始めていた。
……こりゃあ道草を食わされたのは却って正解だったかもしれんぞ。
彼は独り言をこぼした。それからもう一度深呼吸して振り返ると視線の先に少女が一人いた。
ごきげんよう。
と彼女は云った。
ご、ごきげんよう。啓吉はかろうじてそう云った。……君、どうした。迷子か。
あなた、――まさか外から入ってきたの?
少女は啓吉の質問を無視してそう云った。最初に目についたのは昔の時分にお遍路などで使われていた巨大な笠だった。盛夏というのに長袖のついた鈍色の外套を着込んでおり畢竟成仏と筆書きされた朱色の前掛けを付けていた。少女の立っている位置は記憶が確かならば郷を見守ってくださっている地蔵菩薩の祠があったはずだった。地蔵が鎮座していたはずの積み石の上に小さな女の子がぽつんと両手を合わせて立っている。
啓吉は唾を飲みこんだ。……外もなにも。俺はこの郷の出身だ。――君はここで何してるんだ。
私はお留守番。
留守番?
ええ。普段ここに立ってる子が彼岸に用事で。それで代役ね。
女の子は唇に指をあてて笑った。
あなた名前は?
奥野田啓吉。
ああ――。少女は手のひらを打ち鳴らした。そっか。見たことあると思った。啓吉の坊っちゃんか。
覚えがないな君のことは。
昔はよくお供えしてくれたねぇ。黍のお団子おいしかったな。なつさん、――お母ちゃんは元気してる? ……そっかそっかァ。それで郷にうまく帰ってくることができたわけだ。
なあちょっと――。
今は学生なの?
ああ。うん。
お上りさんなわけだ。
そう、なるのかな。
少女はお遍路笠を脇に抱えて啓吉の周囲をぐるぐると周った。
――随分くたびれてるのね。それに髪も伸ばしちゃってどうしたの。
学校じゃこれが流行りなんだよ。別に“金がないから新調できない”ってわけじゃない。ぴかぴかの洋服なんかで人の価値は測れないんだ。わざと学帽を汚してる奴だっているし下駄を履いてる奴もいる。
都会は変わってるのね。
ああ面白いよ。
でも卒業したらいい加減こっちに身を落ち着けた方がいいわよ。
なんで。
帰ってこられなくなるかもしれないから。
啓吉は来た道を振り返って笑ってみせた。……迷いに迷って野垂れ死にってか。
そうじゃなくて。少女は首を振る。――あなたが郷のことを忘れてしまうの。
忘れる?
彼女はうなずく。きれいに。――さっぱりと。
そんなことあるはずないだろう。
忠告はしたわよ。
啓吉は故郷の全景をもう一度眺め渡した。陽は沈みかけていた。農夫の姿はすでになかった。忘れていた飢えや渇きが今になって喉と胃に焼けつくようだった。生家の酒と煮物が恋しかった。彼は人差し指と中指で喉仏をさすりながら女の子が今しがた述べた話のことを考えた。
……確かに昔から変なことは沢山あったよ。
彼は呟くように云った。
人が突然いなくなることもあった。俺の兄さんや妹達はいつの間にか煙みたいに姿を消した。金持ちだった豪家が一夜で夢みたいに財産を失くしちまうことだってあった。叔父さんの家がそうだ。――でもこの故郷(ふるさと)を忘れたことは一度だってなかったよ。本当はしばらく忘れて生きようと思って出てきたのにな。
女の子は黙してうなずいた。
◇
久方ぶりに帰ってきた啓吉のその話を美宵達は梁の上から聞いていた。啓二郎がそれはお地蔵様の化身じゃないかと驚いてみせた。母親のなつは煮物と黍粥のお代わりを椀によそいながら蛮殻(ばんから)に着崩した服装の息子を熱心に眺めていた。今ではたった一人残った息子だった。それでも立派に育ってくれた我が子だった。美宵は幾分か寂しくなった食卓を見下ろしていた。啓吉の祖父はすでに昨年に消えていた。
食事のあと頃合いをみて啓二郎は息子に縁談の話を持ちかけた。相手は瑠璃子だった。
06 蛍のように
啓吉の弟になるはずだった赤子は名づけられないままに遊びにやられた。
その夜は父母や女中がおらず祖父と二人で過ごしていた。祖父は珍しく饒舌だった。晩酌を控えるよう求める家人がいないからだ。祖父が煙管を吸うとき火皿に蛍のような光が灯る。啓吉はその光を魅入られたように見つめる。頼りなくも線香花火のように優しい灯が昔から好きだった。
祖父の昔話で覚えているのは啓二郎の兄弟や姉妹のことだった。河童にさらわれたという兄は他の子供達と一緒に川で遊んでいた。郷の辺りは下流で緩やかであり見知った魚しか泳いでいない。それで誰が云いだしたのか探検しようという話になり川を遡って彼らはずんずんと山に分け入ってしまった。やがて彼らは滝を見つけた。巨人の腰かけのようにごろごろと大きな石が散らばる河原もあった。滝壺の傍には神様の祠があり両開きの戸がついていて中が見えないようになっていた。
男の子達は普段から意地の張り合いをしていたがとうとう滝壺に飛び降りる度胸試しを始めた。啓二郎の兄は嫌がったというが引き下がるわけにはいかなかった。彼は最後に跳んだ。大変な水しぶきが上がった。砲弾が直撃したかのようだった。他の子供らは引っ繰り返ったり頭をかばってその場にうずくまったりした。巻き上げられた清い水が嵐のように降ってきた。びしょ濡れになった彼らが恐る恐る顔を上げたとき啓二郎の兄の姿はすでになかった。
彼は二度と浮かび上がってこなかった。
啓二郎にはまた双子の姉がいた。仲の好いという言葉では片づけられないほどいつも一緒にいた。郷の小道に駆け出しては鞠を蹴って遊んだり祭りでもないのに踊りを踊ったりした。目の二つある颱風(たいふう)と云って近所の人びとは笑ったものだった。彼女らはやってはいけないと云われたことを片っ端からやってしまう子でありお蚕を野に放して死なせてしまったり酒蔵にある発酵中の麹(こうじ)を汚れた手で味見して台無しにしてしまったりした。その度に祖父からきつい説教と拳骨が飛んできたが二人は一向に反省しなかった。祖母は双子の娘を殊の外に可愛がっており彼女のとりなしで祖父は手を引っ込めざるを得なかった。祖母には逆らえなかったのだ。
ある夏の日に二人は遊びに出かけたまま帰ってこなかった。彼女達の兄、――河童にさらわれたという噂の現場を見にいくのだと道往く人に話したのだという。彼は当然二人を止めようとしたがその時には二人は野分のような勢いで走り去ってしまっていた。
二人の捜索が打ち切られたとき祖母は心労のあまり倒れた。
語り終えたとき祖父はいつもの癖で煙立つ火皿の先を見つめていた。双子を喪ってからというもの酒だけではなく煙草の量も増えた。全体が金属で出来た延べ煙管を吹かすようになっていた。吸い終えると音を立てないよう静かに灰を落とした。カンカンと音を打ち立てると祖母に叱られたからだった。
……あいつらは。祖父は火の絶えた煙管に目を落としながら云った。ほんとうに蛍のようだったなぁ。
ほたる?
魅入られていたらいつの間にか消えておった。幻だ。今にもまた“ぽっ”と灯ってくれそうな気がしてわしらは暗闇をじいっと見つめておったんだ。わしはなんとか目をそらすことができたよ。――でもお婆ちゃんは最期の刻まで暗いところから目を離すことができなかった。見逃したくなかったんだなぁ……。
そう述べてなおも彼は火の灯らぬ火皿を見つめているのだった。
07 集会
座敷わらしの四人は年に一度は外出する。奥野田家の面々が普請のために一家総出で手伝いに出ることが度々あるのだがその際に弁当や水筒などを持参する。そうした容器に宿ってこっそりと外に出るのだった。
急な呼び出しね。歩きながら牡丹が云った。場所はどこ。
九天の滝壺。
鯨の答えに柏が呻きを漏らす。
――御山の中じゃん。嫌だなあ。虫に刺される。
刺されるわけないだろ。実体がないんだから。
刺されなくてもかゆくなってくるんだよ。
ならお前だけ留守番してれば好かったんだ。
それはやだ。たまにはお日様の下を堂々と歩きたい。あと皆にも会いたい。
美宵は深呼吸して御山の空気を吸い込んだ。そして云った。……静かだね。妖怪の姿を見かけないなんて珍しい。天狗はもっと上の方だからともかく河童や山童もいないなんて――。
話している途中で遠くから地響きが伝わってきた。晴れの日に落ちた雷のようにそれは長い残響を辺り一帯にぶちまけ木々までが怯えているようにざわざわと梢を鳴らした。四人は思わず立ち止まって空を眺めた。
鯨が鼻を鳴らして云った。……去年に聞いただろ。天狗は御山争いの真っ最中だ。鬼がいなくなった後の覇権を握ろうと殺しあってる。この分だと決着はまだまだ付かないらしいな。
身を屈めた柏が涙目になりながら首を左右に動かし視線を走らせた。……なんでよりによってそんな時にこんな場所へ集めるんだよう。
緊張感を持ってもらいたいからだろ。お前らは影響されやすいからな。百聞は一見に如かず。こんなおっかない場所に連れてこられたら少しは気も引き締まるだろうって賢者様のありがたい配慮だよ。
鯨兄さんだって普段はぼけっと酒を呑んでお供えをかっ食らってるだけの癖に。
――うるさいぞ梅。
梅って呼ぶな。美宵って云え。
牡丹が小袖で口元を隠して笑った。……その“美宵”って名前、ずいぶん気に入ってるのね。
放っといてよ。
“梅”がそんなに嫌?
――松竹梅のいちばん下じゃん。なんか気分が悪くなる。
別に慶事の象徴には変わりないじゃない。本来はその三つに上も下もないのよ。
でも嫌なの。
困った奴だ。
困った姉さんだァ。
うるさいよ二人とも。
◇
滝壺にある祠のそばにはすでに郷の家々の座敷わらし達が集まっていた。鬼火や天狗風を警戒して声は低めていたがなかなか賑わっていた。小柄な彼らが鞠のように動き回りながら遊んだり世間話に興じている様は実に姦(かしま)しい光景だった。
あらあの子――。厩別家の女わらしを指さしながら牡丹が云う。なんかお洒落というか。雰囲気が変わったわね。
鯨がまたも鼻を鳴らす。大学に行った娘さんに付いていったんだと。都会かぶれしてんだな。
この前にあいつと話したよ。柏が後を継ぐ。――何かにつけて“好くってよ、知らないわ”とか訳の分からんことを口にするんだ。都会の流行りなのかな。“あらいやだ”なんて気取りくさりやがって。
ふぅん……。
牡丹は人差し指を唇に当ててじっとその子を見つめていた。
祠の戸が開いて二人の少女が奥から出てきた。
座敷わらし達は一斉に静まった。だがすぐにまた騒ぎ出した。
――誰だあいつら。
ああ代替わりか。
何年ぶりでしょうね。
前の二人はどうなった。
棄てられたんだろう。
死んだわけ?
記憶を消されて家に送り返されたんじゃないのか。
そんな話あったか?
いや聞いてないね。
あんたの家だろ。
俺ンちはさらわれたんじゃなくて喰われたんだよ。
はいはい静粛に。
紅梅色のドレスを身にまとった少女が手を打ち鳴らす。
全員そろってる?
山口家の連中が来てないぞ。
ああそいつらなら。松竹色のこれまた西洋風のドレスを着た少女が答える。――解任されたらしいよ。今ごろは里の外だ。どっかの神社でお焚き上げされてるかもね。知らないけど。
なんでだ。
詳しいことは僕も聞かされてないなァ。
座敷わらし達が再びわめき出す。
――庇(かば)ったな。
だから人間に入れ込みすぎるなと云ったんだ。
惜しい奴らを亡くしたわね。
寂しくなるなァ。
二人の少女は微笑みながらその騒ぎを聞いていた。紅梅色の童子がコホンと咳払いして続きを話す。
……私達の前任からも聞いてると思うけど巫女が新しく結界を張ったわ。
結界ならもうあるだろ。
それとは別だよ。同じ論理結界だけど目的が違う。
外にはもう出られないの?
それは教えられないわ。
まァ僕達も詳しくは知らされてないだけなんだけどね。
ぶっちゃけすぎよ、まったく。
座敷わらし達はもう遊んだりよそ見をしてはいなかった。その場に正座して二童子の話に耳を傾けていた。遠くからまた地響きが伝わってきた。座敷わらし達が一斉に身を縮みこませる。二童子は顔を見合わせてからまた戻した。
松竹色の童子が口を開く。そろそろ片が付くころだ。御山もまた日常を取り戻す。――だからといって君達の仕事には何ら変わるところはない。継続して監視に務め人里の動きは逐一報告すること。
お焚き上げされたくなかったら隠し立てはしないことね。
……反抗するわけじゃないけどさァ。
美宵の隣に座っていた柏が手を挙げて質問する。
郷の人間は普通に暮らしてるだけだよ。多少の出入りはあったけど。なんで私らが間諜の真似事みたいなことしないといけないわけよ。
今までは平穏無事だったけどこれからは違うんだってさ。
なんで。
いずれ分かるよ。人間の数がもっと増えればね。
二人はそれ以上は何も云わなかった。
集会は解散となったが鯨が帰ろうとしなかった。他の座敷わらし達が去ったのを確認してから彼は二童子に声をかけた。
……舞。それに里乃か?
戸を開けようとしていた二人はさっと振り返った。目が見開かれている。
――あれ。名前云ったっけ?
どうして知ってるの。私達のこと。
鯨は細い息を漏らした。――ああ。やはり。
美宵に牡丹、それに柏は立ち尽くしていた。
双子の少女は首を傾げるばかりだった。
詮無いことだ。鯨は呟いて首を振った。……本当に詮無いことだな。
08 独自の生
「今夜は何だか仄暗いですねぇ」
恒例の文句と共に店に入ってきたのは射命丸文だった。美宵が会釈すると鴉天狗は指で輪っかを作って左右に揺する仕草をした。美宵はうなずいて煮物と酒を提供した。その夜の先客はマミゾウで萃香はいなかった。マミゾウから美宵の昔話のあらましを聞いた文は特にメモをとる素振りも見せずフンフンとうなずきながら煮物を口にしていた。
話し終えたマミゾウが訊ねる。
「そういや話の中で御山争いのことが出ておったがおぬしはそん時は何をしていたんじゃ?」
天狗の少女は顔をしかめた。「……すみませんがノーコメントで好いですか」
「なぜ」
「何故もなにも話したくないんです。あの時代のことは」
「そうか。ならいい。――御山争いのことはともかく今の一連の話は記事にはせんのか。こういう類の話は天狗の新聞にはあまり向いておらんのかのう」
「向かないと云いますか……」文は左腕で頬杖をつきながら右手に持った一合枡を傾ける。「失礼ながら人間の話は概して辛気臭いんですよ。何でもないようなありふれた出来事を大袈裟な悲劇として書き立てたくはないんです。要するに気が滅入るだけの話は願い下げですね」
「よく云いよるわ。おぬしの新聞ならお涙頂戴の作り話の一つや二つ朝飯前じゃろ。前にも儂ら化け狸を貶める記事を書き散らしてくれおったがまさか忘れたとは云うまいな」
「私は事実を一部伏せて書くことはありますが捏造は断じてしませんよ。大体それを云うならあなただって付喪神を通じて新聞報道は偏向が酷いだの捏造まみれだの風評被害をばらまいてくれたじゃないですか」
酒の勢いも手伝って席を立ち胸倉をつかみ合った二人を美宵は全力で止めた。
「ま、まァ記事にするかどうかはともかく――」文は咳払いして手帳を取り出す。「せっかくなので書き留めておきましょうか。何某啓吉さんのご尊父様が啓二郎さんで。その啓二郎さんの兄が河童にさらわれたという話だと」
「ええ」
「で、双子の姉もいましたがある日二人とも忽然と姿を消した。もう一人の兄弟は麻疹で幼くして亡くなった」
「啓二郎さんにはもう一人、弟がいました。金遣いが荒くなって後に勘当されましたが」
「ふむ」と文。「息子の啓吉さんにもご兄弟はいたわけですよね。もちろん」
「ええ。兄と妹が一人ずつ。弟も生まれたはずでしたがその夜のうちにトリツバサになりました」
「その兄上と妹君は?」
美宵は射命丸のことをじっと見つめた。「……妹さんのことなら天狗のあなたならもしかしたらご存知かもしれませんよ」
「というと?」
「それを今夜お話ししようと思っていたんです」
文は万年筆を指で器用に三回転させた。
「――それで今のこのお店の、えー……――鯢呑亭の店主は啓吉さんの?」
「息子さん、ですね」
「あやや。頭がちょっとこんがらがってきました」
「そんな難しいお話ではありませんよ」美宵は柔らかに微笑んで云った。「最後に遺されたのはこの店と、私と、――そしてあの人だけなんですから。それさえ覚えておいて頂ければ」
文とマミゾウは横目で互いを見た。それから各々の煮物の椀やお猪口に視線を戻した。
「今夜の分の黍粥はまだ炊けていません」美宵は鍋に視線を落として云った。「好ければ文さんも続きを聞いていってください」
「ええ聞きましょう。記事にはしないと思いますが」
「記事のことは別にいいんです」美宵は顔を上げた。「ただこれだけは申し上げておきたいのですが」
「何です?」
「彼らは確かにただの人間でした。儚くてひどく脆い人びとでした。それでも一人ひとりが独自の死を迎えました。何故ならその誰もが独自の生を歩んだからです。たとえ生まれたその日に命を絶たれた赤子でも変わりはありません」
射命丸文は微笑んだまま然りとも否とも答えなかった。
09 つむじ風
好く晴れた夏の暑い日には郷の往来をつむじ風が舞うことが度々あった。御山から吹き降りてきた強い風が渦を巻き起こすのだと代々伝えられており天狗様の機嫌がたいそう好いのだろうと家族や近所の者は笑いあった。野分の季節でも水害や風害がほとんどないのは御山が郷を護ってくださっているからであり天狗や河童は山の神の使いであるとも。だから彼らの領域を決して侵してはならないと。郷と御山の境界を踏み越えてはならないと。奥野田なつはそう聞かされて育った。
なつはその日、娘の輝子に編物を教えていた。ゆくゆくは近所の娘と同じように機織りも習わせるつもりだった。夫の啓二郎や息子の啓吉は男衆とともに酒造のため蔵にこもっている。暑さのいや増した日照り続きで井戸の水も涸れようかと近所の人びとは話していた。
もう暑いのはこりごり。
輝子は棒針を放り出してその場に寝転んでしまった。なつは娘の腿をぴしゃりと叩いてはしたないと叱った。厩別家の長女はすでに稲藁でかごを編むことまでやっているのだという。あなたも少しは見習いなさいとなつは娘の尻に向かって呼びかけた。
こんな暑いのが悪いんだい。
“だい”ってまた男みたいな言葉遣いを――。
やだやだ。あたしもお蔵の仕事を手伝いたい。だってあそこなら家の中より涼しいもの。
だめよ輝ちゃん。あれは男の仕事なの。
男々ってなにさ。ならあたしも男の子に生まれたら好かったんだ。
なんてこと云うの。
男だったらあのとき修平兄ちゃんを助けることができたかもしれないのに。
なつは黙りこくって棒針を膝の上に置いた。輝子が顔だけを恐るおそるこちらに向けた。なつは首を振った。口を開きかけたとき頭に手ぬぐいを巻いた啓吉が縁側から顔を出して呼びかけてきた。
――母ちゃん。父ちゃんが呼んでる。急いで来てくれって。
なつは短く返事して立ち上がった。啓吉が先に駆けていく。部屋を出る前に障子に手をかけて振り返る。輝子は両脚をばたばた揺らしながらカルタで遊んでいる。溜め息をつきかけて止める。そして無言で歩いていく。
◇
蔵ぼっこの紫蘇は酒蔵の匂いから逃げるように外に出てきた。蔵のそばではおしら様の長男が朝日を吸っていた。一本せがむと彼は無言で手渡してきた。紫蘇は指の腹で口紙を潰した。鯨が差し出した黄燐マッチの火を移そうとした。
鯨が云う。――もっとこっちに近づけてくれ。お前の密林みたいな髪に燃え移るだろ。
わあったよ。
二人はその場に腰を落とし恥じらいもクソもない姿勢で煙草を吸いながら青空に煙を溶かした。
空を見上げながら鯨が訊ねてくる。
――蔵を護らなくてもいいのか。万が一火事になるかもしれんぞ。
別にいいだろ。火の不始末なら知らせてやらんでもないが。
いい加減な奴だな。
お前なんかにそれを云われたらこの世の終わりだよ。
紫蘇は煙草を口の端にくわえた。
苦笑いを浮かべて鯨が訊ねる。――そういや啓坊は?
誰だよ。
啓吉の坊っちゃんだよ。
ああ頑張って手伝ってる。不器用だけどな。
そうか。身体弱いのに無茶をされたら心配だ。
何をそんな心を痛める必要がある。
この家の大事な跡取りだからな。
紫蘇はくわえた煙草を奥歯を使ってぶらぶら上下させた。
……お前ら兄弟姉妹が護るのはあくまで家だろ。人じゃない。入れ込みすぎると消されるぜ。
跡を継ぐものがいないと困る。この屋敷はけっこう気に入ってるんだ。
金なら持ってんだから養子でもなんでも候補はいくらでもいるだろ。分家から入れるのでもいい。
鯨は首を振った。
うちの問題だけじゃないのにな。分からん奴らだよ。
煙草から立ち昇る煙を眺めながら鯨が呟く。
――俺は情けない兄貴だよ。それは身に沁みて分かってる。
紫蘇は答えなかった。
鯨は続ける。お役目とはいえ辛いもんだ。啓坊は霊感が強いのか俺達のことをしょっちゅう見つけてくれる。見た記憶は忘れても想い出の感触は身体の中に残ってる。だからあの年になっても笑顔で話しかけてくれるんだ。――“はじめまして。どこかでお会いしましたか”ってな。
…………。
そんな善い子に“俺は君と君の家族が何か企んでいないか監視しているんだよ”なんて口が裂けても云えるもんじゃない。昔はこんなことなかった。あまり昔は好かったなんて感傷的なことを口にしたくないんだが御一新の前はもっと俺達と人間の関係は緩やかだった。緩やかな分だけ血が流れるようなこともあったがこんなに窮屈じゃなかった。それが今じゃ柏の奴の言葉を借りれば間諜の真似事さ。
賢者様には逆らえんね。
……俺はお前が羨ましいよ。
隣の芝生か。
かもしれん。だが少なくともお前は自由だ。蔵さえ護っていれば好いんだからな。
紫蘇は再び沈黙した。云い返すのが面倒だったからだ。この話もかつて何度耳にしたことだろう。
◇
二人が三本目の朝日に火を点けたとき表通りの土埃が少しばかり舞い上がったかと思うと急激に勢いを増した。時計とは反対の向きに渦を巻いて黄土色のカーテンを形づくりやがて一陣のつむじ風となった。暑い日で人びとは家の中にこもるか田んぼに出ており二人の他に人影はなかった。吸いかけの煙草を指の間に挟んだまま紫蘇と鯨は立ち上がった。
――こりゃまた珍しいなァ。
天狗様の機嫌が好いのだろう。
二人が並んでつむじ風を鑑賞しながら話をしていると玄関の戸が開いて輝子が飛び出してきた。歓声とも悲鳴ともつかない女児らしい高い声を上げながら彼女は両手を振り回して喜んでいた。
輝子は恐るおそるといった感じで風のほうへと向かっていった。紫蘇は以前にも彼女が小さなつむじ風に自ら入って遊んでいたことを思い出した。その時は服や髪が砂まみれになってなつに大層叱られていた。だから輝子は近くで観察するに留めていた。
だがつむじ風は輝子が近づいたとたん獲物を捉えた蛇のようにゆっくりとした動作で少しずつ移動を始めた。まるで意思があるかのようだった。紫蘇の指から煙草がぽろりと滑り落ちた。隣にいた鯨が銅鑼のような大声を上げて輝子を呼びながら駆け出す。
だがあまりに遅すぎた。
つむじ風の端が着物の袖に触れた瞬間、――輝子の身体は凧(たこ)か何かのように抵抗もなく浮き上がり大空へと勢いよく吸い込まれた。悲鳴を上げる猶予さえない。あっという間の出来事だった。突進した鯨は上空ではなく真横に跳ね飛ばされて蔵の壁に激突した。
少女の姿が見えなくなったとき風は止んだ。
あとには遠くの雑木林から響いてくる蝉の音色だけが残された。
10 ロオタスの実
輝子が男言葉を使いだしたのは長男の修平が姿を消してからしばらく後のことだった。
修平は春も間近というある霧深い晩冬の朝にいなくなった。御山に囲まれた盆地に身を潜めているこの里は季節の変わり目になると決まって濃い霧が出た。稲作の始まりにはまだ日にちがあり冬の終わりには今少しの辛抱が必要だった。
早起きした修平は輝子を連れて外に出た。そして家のすぐそばを流れている柳の運河に係留してあるたらい舟へと向かった。霧深い早朝はまだ妖怪や悪霊の類が夜更かしならぬ朝更かしをしている頃合いで御山から郷に降りてくることもあるという。蔵ぼっこの紫蘇も寝つきが悪く夜通し起きていた。ようやくうつらうつらとし始めたとき物音がして子供達が外に出ていくのに気がついたのだった。
蔵の窓から紫蘇は子供らの様子を観察していた。輝子が見ているそばで修平がたらい舟に乗りこもうとしている。壇ノ浦の合戦に臨む武士(もののふ)のような気迫だったが彼はまだ十になったばかりだった。見よう見まねでたらい舟を繋ぎとめている荒縄を外せるはずもなく悪戦苦闘していた。
当時の柳の運河はまだ拡張もされておらず水深も浅かった。日照りが続いた夏には伏流水のごとく干上がることもあった。運河とは名ばかりで川幅は狭く蛇の背骨のように曲がりくねっていた。凡下の舟で荷を運ぶのはまず無理だった。
それで修平のご先祖様が酒蔵で使っている樽をたらいに加工して浮かべてみたところ思いのほかうまくいった。樽に使われている杉は水分をよく吸収する。迷いの竹林の竹から作られた頑丈な箍(たが)が杉の膨張をしっかりと受け止める。円形の構造は衝撃に強く小回りも利いた。
やがて奥野田家のたらい舟はいろんな荷を運ぶようになった。
春先になり種蒔きの季節が近づくと土壌の地力を回復させるために沢山の肥料が必要になる。そのため雪解けにより増水した運河に肥(こえ)を満載したたらい舟の軍団が浮かべられて決戦の地、――すなわち下流の田畑へと流されるようになった。壇ノ浦のごとき荘厳とした陣容だったが載せられている肥の正体は化学肥料の類ではなく下肥(しもごえ)だった。要するに“し尿”である。
汚い話のように思われるが実際に汚かった。
何はともあれ天下の往来を汲み取り人が中身をこぼしながら練り歩くのに比べて肥舟(こえぶね)はずっと衛生的でスマートだった。そのためにたらい舟の製作やその賃貸は奥野田家や厩別家にとって第二の大事な収入源になった。年によっては本業である酒造やお蚕よりも儲かった。
稼業を邪魔された汲み取り人が回収したてのし尿を密かに屋敷に投げ込んできて大騒ぎになったこともあった。しかし綺麗好きの牡丹を除いた鯨・美宵・柏の連合軍が一斉に反撃して以降、嫌がらせはぴたりと止んだ。奥野田家と下肥を巡る知られざる源平合戦の詳細は今回の話とは関係ないので割愛する。
時代が下り“柳の川”はいつしか名前を変えて“運河”が後ろに付くようになった。
◇
たらい舟と格闘している修平と傍で見ている輝子に近づく赤い影があった。紫蘇は二度、三度とまばたきした。見た目は西洋風のハイカラな外套を着こんだ少女だった。外套は前の襟がぴっちり閉じられており胸元から口に至るまでを覆い隠している。紫蘇は唇をなめた。脈拍が早くなり唾を思わず飲みこんだ。小火が出たときに音で家人を起こすための鉄棒を右手で握りしめた。
――こんな早くにおはようさん。赤い少女は声をかけた。何してるの。
兄妹はそろって固まった。
娘は立ち止まった。両手を顔の高さに挙げてひらひらと振ってみせた。
怪しいもんじゃないよ。ちょっと気になっただけ。
……お姉さん誰? 修平が震える声で訊ねた。外から来た人?
そうね。最近きた。というか引っ越してきたの。
なんでまたこんな田舎に。
外套の上で深紅の瞳が細められた。……向こうに居場所がなくなったから、かな。
居場所? 家出してきたの?
似たようなもんだ。
それよりさ、と少女は腕を組んだ。
その舟に乗りたいなら私が縄を外してあげようか。
いいの?
親御さんが危ないからっていつも乗せてくれないんだろ?
修平はうなずいた。
じゃあ冒険だ。可愛い子供には旅をさせろとよく云うしね。
奥野田家の長男は躍り上がって喜んだ。
――ありがと。これで楽園を探しに行けるよ。
楽園?
本居さんチで借りた本に書いてあったんだ。海の向こうに楽園の島があってね。そこに成る実を食べたら幸せになれるんだってさ。
坊やは字が読めるのかい?
もちろん!
――母ちゃんにお布団で読んでもらったんでしょ。
輝子がツッコミを入れる。
修平はうるさいと云って黙らせる。
……その実を食べたいってことは坊やはいま幸せじゃないって感じてるわけだ。
修平は首を振った。違うよ。爺ちゃんや婆ちゃんのお土産にするんだ。――俺の叔父さんや叔母さん達はみぃんな俺が生まれる前にどっかに往っちゃった。それで爺ちゃんも婆ちゃんもすごく辛い思いをしてんだ。婆ちゃんはずっと寝込んでるし爺ちゃんは煙草ばっか吸っていつも難しい顔してる。――だからさ、その幸せの実を食べたら元気になってくれるかなって。
赤い外套の少女は縄を解く手を止めて身じろぎした。
…………殊勝な子だね。でもその島の話を最後までちゃんと聞いてたの?
読んだよ。その実を食べたら他のことがどうでも好くなるんでしょ。
まさにその通り。何もかも顧みなくなり快楽の奴隷になる。イタケーの屈強な兵士でさえひと口食べれば故郷で待つ妻子のことさえ忘れてしまう。要するに呆けてしまうんだ。
今だって半分呆けてるよ。そんなら笑ってくれたほうがいいじゃん。
少女が微かにうなずくのが見えた。蔵から観察している紫蘇もいつの間にか鉄棒を握りしめる手の力を緩めていた。
縄が解かれた。修平はさっそく乗りこんだ。出航の前に少女は念を押すように云った。
……今さらだけど本気でそんなたらいで楽園の島にたどり着けると思ってるの?
だって近くに島があるもん。里の外に。
外に? 島が?
霧の湖に浮かんでる島だよ。あそこにたどり着けるのは霧の出てるときだけなんだ。
ああ。あの洋館の廃墟があるとこか。
本に書かれてたのはきっとあそこのことなんだよ。
…………。
少女は首を振った。髪に結ばれたリボンが蝶の羽のように踊る。
……なあ。やっぱり出航は取りやめだ。
え?
あそこに行っちゃいけない。――あそこは楽園なんかじゃない。
やだよ。ここまでやってくれたのにそりゃないよ。
――大切なことを教えてあげる。赤い少女は指が喰いこむほどに強く少年の肩を握った。この世界の“ロータスイーター”は坊やのような人間のことじゃないんだ。いや何も知らされずに平和に暮らせてるんならあるいは坊や達もまたロートパゴス族の一部なのかもしれん。――とにかく禁じられた果実に手を出すのは止めるんだ。そして愛すべき我が家に戻るんだ。そうすればオデュッセウスのような波乱万丈の冒険はできないかもしれないが少なくとも彼と同じように家族のもとに帰り着くことはできる。
修平が唇を結んで唾を飲み下すのが分かった。彼はしばらく黙っていたが観念したのか力を抜いた。少女が目を細めて外套の下で微笑んだ。そして修平の頭をなでた。
――好い子だね。
少女は修平の手を取って通りに戻るための階段を上りかけた。しかし階段は点々とこぼれたし尿のためにひどく滑りやすくなっていた。そして少女の履いている欧風のブーツは草鞋(わらじ)よりも見目は麗しいが実用性には劣っていた。
少女は派手にすっ転んで頭を階段の角にぶつけた。その拍子に首がぽろんとあっけなく落ちた。まるで最初から首が胴体と繋がっていなかったかのようだったが事実そうだった。生首は鞠のように弾んで運河に落ちた。修平と輝子と蔵から見ていた紫蘇は同時に悲鳴を上げた。修平は後ろに引っ繰り返ってたらい舟の中に落ち輝子は家に逃げ帰り紫蘇は蔵の窓に取りつくために積み上げていた薪の山から落っこちた。
紫蘇が起き上がったときには修平はたらい舟ごと消えていた。妖怪の少女の胴体もない。すぐに追いかけようとしたが蔵の戸は頑丈な南京錠で施錠されており開かなかった。続いて煙になって窓から外に出ようとしたが気が動転していて変化(へんげ)ができなかった。そうこうするうちに輝子に叩き起こされた家族や下女らが騒ぎ始めた。紫蘇は密林のような髪を両手の爪でがりがりと搔きながら蔵の中を走り回ることしかできなかった。
少年は楽園へと旅立ちその後の消息は杳(よう)として知れない。
11 煙
炉の煙突から煙が上がり始めると啓吉は絞り出すように息を吐き出してあばら家の壁に身をもたせかけた。火葬屋の少女はこちらを振り返ったが手を貸すことをしなければ声をかけてくることもない。それが今の彼にはありがたかった。彼は青空に昇っていく煙の行方を目で追った。煙は上がり続けて空に溶けていったが青雲はあくまで色彩を変えずに泳いでいた。海に垂らされた一滴の墨汁のように取るに足らない出来事だった。
お仏が上がりましたという火葬屋の少女の声に会葬者は炉のそばに集まった。少女の手にある白紙に一寸くらいの石灰が横たわっていた。人びとの口からほうっと息が漏れた。マッチ棒のように小さな骨は指だった。穴の空いた歯も見つかった。虫歯で痛がっていたその歯だった。少女が竹箸で炉の中を掻きまわしてようやく喉仏を見つけた。ひときわ大きな頭蓋骨の欠片も。それらのすべてを人びとは箸で拾い上げて骨箱に納めた。
骨上げが終わると啓吉はあばら家のそばに敷かれていた筵(むしろ)に腰をおろした。黒縮緬を着た一人の女が彼の肩にそっと手をかけてきた。厩別家の一人娘で啓吉と歳は同じだった。彼女は少女の時分に山男にさらわれ奇跡的に助け出されて里に戻ってきた過去があった。啓吉は彼女にうなずいてから先に行ってくれと促した。娘はためらいがちに手を離してから他の会葬者とともに奥野田家の墓に向かった。
妻の瑠璃子は焼き場には来なかった。啓吉や彼の親族が家で休んでいるよう押しとどめたからだ。
◇
石塔を倒して穴に骨箱を入れ元通りに立たせる。それから柄杓で水をかける。皆が瞑目合掌する。一同が引き上げると焼き場には啓吉と火葬屋の少女だけが残された。
少女は四ヶ華を片づけた。房状に切れ込みを入れた銀紙を竹ひごに巻きつけたもので葬儀の度に使い回されているため元の色彩は喪われ鈍色にくすんでいた。
筵に腰かけてうな垂れている啓吉のそばに少女が立つ。
はやく戻りませんと。
ああ。
会食の席が用意してあるのでしょう。
君は来ないのか。
私は里の皆さんには受け容れられませんから。
なんで君のような子供に里はこんな仕事をやらせているのだろう。
それが決まりでしょう。この仕事を務めるのは今はもう私しかいませんから。
両親は?
とうに亡くなりましたよ。
そうか。婆さんの時分は世話になったな。
…………。
まさかご両親も君が焼いたのか。
ええ。少女はうなずいた。――でも失敗してしまいました。薪も空気も足りなくて火力が出なかったんです。雲にしがみついたみたいな恰好で二人とも真っ黒になってしまって。それが私の初めてのお勤めです。もう失敗はこりごりだと思いました。それからは一度もしくじっていません。
啓吉は顔を上げて呟いた。……薄々は知っていたんだ。俺の娘だけが特別なはずはないよな。
何の話です?
父さんや母さんがなんであんなに俺を家から出したがらなかったのかこれで分かったよ。大学に行けることになったときも最初は猛反対された。爺さんの助け船がなかったら俺は何も学べないまま冬眠している熊みたいにこの巣穴に押しこめられたままだったろう。
都会ですか。羨ましいですね。
今ではどこか別の世界のことのように遠く感じるよ。向こうの恩師や友人からの便りはない。そもそも俺が出した手紙自体が届いていないのかもしれん。名前どころか顔さえもう何人かは思い出せないんだ。卒業してまだ数年も経ってないのに。
啓吉は立ち上がって腰に手を当てて背筋を伸ばした。
そして呟いた。……この里は、――この世界は何かおかしい。
火葬屋の少女は頭(かぶり)を振った。
あまり不用意なことを仰らないほうが好いですよ。
啓吉は振り返って彼女を見た。
少女は続けて云う。――私は里から離れて暮らしていますから色んな噂が入ってくるんです。これからの時代はもう人が突然消えることは減っていくだろう。でもそれは私達人間が夜の往来を自由に歩けるようになったことを意味しない。壁に耳あり障子に目あり、です。
俺達は監視されてるのか。
恐らくは。たぶん今も。――この会話も。
いつからなんだ。
数百年前から。
啓吉は目をきつく閉じて息を吸いそして吐いた。それから周囲を見渡した。冬の焼き場は不気味なほどに静かだった。少女の微かな息遣いがそよ風のように耳をかすめゆく他に音はない。足を踏みかえて大地の感触を確かめる。
火葬屋の少女は目を閉じていた。
……私の両親が亡くなったのも多分知りすぎたからなんだと思います。森や山の声に耳を傾けすぎてしまったんです。ですから私はあまり夜更かしをしないようにしているんです。夕陽が沈んだらもうここは彼らの世界ですから。
彼らの世界。
啓吉は少女の言葉を腹の奥で繰り返した。
12 事実と真実
「記事にはしませんと申し上げましたが」鴉天狗の少女は云った。「新聞に載せないとまでは云ってませんので」
「それで店の広告を?」
「ええ」
美宵は文々。新聞(人間の里版)の最新号を広げて総ての記事にざっと目を通した。隅々まで確認したが鯢吞亭の文字はどこにもない。
「人間向けの広告ではありません」顔を上げた美宵を右手で制しながら文は続ける。「妖怪専用の蚕喰鯢呑亭の宣伝をするのに人間の文字で書くわけがないでしょう。端っこのところに天狗文字が書いてあるのが分かりますか?」
「この干からびたミミズがのたくったみたいな?」
「ミミ――」文は顔をしかめて咳払いした。「……要するに妖怪向けの広告ですよ。それも人間の里版を好んで購入する妖怪。すなわち人里と関わりが深く人間の文化に理解のある訓練された購読者が対象です。同じ広告を本紙に載せたら大挙してやってきて収拾がつかなくなりますからね」
「なるほど」美宵はうなずいた。「どうしてそこまでして下さるんです?」
文は一合枡から顔を上げて鴉を思わせる真っ赤な瞳を美宵に向けた。
「……何だかんだでお世話になってますからね。この店には」
美宵は腰に両手を当てた。「そんなこと云って。どうせまた何か企んでいらっしゃるんでしょう?」
「疑われるとは哀しいねェ」
文は低い声でそう云った。
美宵は新聞を握る力を強めた。「……あなたもマミゾウさんも萃香さんも大切なお客さんです」新聞を丁寧に畳んで続ける。「――でも時どき怖くなるんです。私は所詮ただの座敷わらしです」
「ただの――?」
「あなた達に比べたら取るに足らない存在ってことですよ」
「ああ」
「ですからあなた達が腹の底で何を考えていらっしゃるのか分かった試しがないんです。前にも申し上げましたが私の望みはこのお店とこの屋敷、――もう屋敷とすら呼べない代物ですが、――この家を守ることなんです。皆さんのお相手をするのが楽しいのは事実です。でも不安になるのもまた事実なんです」
「それなら安心しなさい。我々にとってもこの店の存在は貴重だし。利害は一致している」
「私、――以前に聞いたことがあるんです」
「何を」
美宵は新聞から顔を上げて文を見返した。「ただの噂です。この里の支配権を巡って妖怪達がしのぎを削っていると。自分達の勢力圏を少しでも広げるために種族間で駆け引きをしているとかそんな噂です。……鬼に天狗に化け狸、――尋常でない力を持った皆さんがこぞってこの店を訪れるのは本当にただ飲み食いをしたいだけなんだろうかってつい考えてしまうんです」
「その説は一部は正しい。――でも事実の総ての側面を捉えているわけではない」
文はこちらを向いていなかった。煮物を片づけるのに集中していた。
「あなたが語った昔話に結界の話が出てきたけどあれが張られて以来、この世界は大きく変わった」
「ええ。それは、――本当に身をもって実感しましたよ」
「それ以前には実に沢山の人間が妖怪との関わりの中で命を落としていた。七人いた兄弟姉妹のうち一人しか成人できなかったことも珍しくない。死と消失が今よりずっと身近に感じられた。でもあの結界が張られて以降、啓吉さんの一族ではっきり“妖怪の仕業で”姿を消した者はいる?」
美宵はしばらく考えこんだ。「――……いない、と思います。事故や変死、病死はありましたが」
「大事な例外を忘れてる」文は続ける。「啓吉さんご本人の最期はどうでした?」
美宵は思わず叫び声を上げそうになった。
「…………なんでそんなことが分かるんです?」
「昨日までの話の流れを聞いていたら何となくね」
「…………」
「啓吉さんはひと際に感受性の強い方だったようですね。それに大学で外の世界のことを学んだ。ご自分の家族にもたらされてきた怪異を厭というほど見せつけられた。愛する我が子もまた妖怪の仕業かどうかはともかく何人も亡くすことになった。それで彼を始めとした人びとは思ったことでしょう。このまま黙って妖怪どもに税金を納め続ける意味がどこに――」
「もういいです」
文は黙った。
美宵は呟いた。「……止めてください」
文は首を振った。
◇
翌日の夜になってさっそく新しい客がやってきた。
山彦と夜雀の二人。漆黒の衣装に身を包み目にはサングラス。ギグケースに入ったエレキギターで武装していた。美宵は唖然として見ているしかなかった。
「ライブ帰りでさ」美宵がひと通りの案内を終えると山彦の方が訊ねてもないことを話し出した。「盛り上って小金も入ったしぱーっと騒ごうと思って」
「店のことはどちらで?」
「お寺が取ってる新聞に載ってたの」
「煮物が超絶に美味いって本当?」と夜雀。「レシピ教えてくれたら代わりにウナギのタレの製法を伝授してやってもいいわよ。うちの屋台の自慢なの」
「変わらぬその旨さ。秘伝の製法って奴ねー」
「まァ昔はウナギじゃなくて別のもん焼いてたんだけどね」
ライブの興奮状態が続いているせいか二人は実に騒がしかった。酒は落ち着いてから出すことにして残り物の煮物を給仕すると二人は抱き合って喜び絶賛してくれた。美宵の口からへへへと笑い声が漏れた。
「ああ。そうそう」
酒が入り始めたころになって幽谷響子が云った。
「この店ってさ、料理だけじゃなくて店主さんのお話も見逃せないって新聞にあったんだけど」
「私は店主じゃないよ。――というかそんなことまで書かれてたわけ?」
「そうよ」
「気分じゃないんだけどなぁ」
「いいじゃない夜は永いしさ。代わりにもっと注文するから」
黍粥を待ちながら家の昔話をかいつまんで語ってやると二人は実に興味深そうに聞いていた。適当に聞き流されると思っていただけに美宵も徐々に乗り気になった。
ひと通り話し終えると響子が口を開いた。
「……そのうま、うま――」
「厩別家?」
「そう。その厩別家の娘さん。山男にさらわれたって?」
「ええ」
「でも戻ってきた」
「そう」
「何だか聞いたことがあると思った。私もその時分は御山に住んでいたもの」
美宵は鍋から顔を上げた。「……知ってるの。あの子を?」
「多分ね」
「それなら私も心当たりがあるかも」ミスティア・ローレライが続いて手を挙げる。「啓吉坊やのお爺さん。それらしき人と会ってたかもしれない。確証はないけど」
美宵は帳台の後ろで足を踏みかえた。鴉天狗の少女の顔が脳裏をよぎった。口を開きかけては閉じてまた開いた。鍋をかき回す手が止まっていた。
「その話……」
「うん?」
「好かったらその話、二人とも順番に話してもらえないかな」
「いいよ。御礼にね」
響子がうなずくとミスティアも続く。「偶然ってあるもんだねぇ」
美宵は深呼吸して山彦の話に聞き入った。
13 山の挽歌
厩別家の畑では胡瓜(きゅうり)を作らない。収穫した胡瓜を川で洗っていた娘が行方不明になったからだ。目撃者の証言から山男にさらわれたのだろうと人びとは噂しあった。彼は雪どけの季節になると麓の近くまで降りてきて魚を釣るのだという。
◇
さらわれた娘の兄や志願した男衆が救出の準備を終えそれぞれ鉄砲を担いで御山へと分け入った。山彦の響子はその道中で彼らと出逢った。娘の兄があまりに大声で喚き散らしながら山や谷、沢を登っていくので響子も負けじと山彦を返しているうちに彼らのことが気に入ってしまい姿を見せることにした。
そんなに大声張り上げてると天狗や河童に追い返されちゃうよ。
説得の末にようやく彼らは鉄砲を下ろした。響子は案内を買って出た。
山男ってあの毛むくじゃらの大きいやつ?
娘の兄はうなずいた。――ああ。たぶんそいつだ。
何の用?
彼は唇の皮を爪で引っ掻く仕草をした。……取引だ。塩と引き換えに山魚を交換するんだよ。
そんなことのためにこんな山奥まで?
年に一回の祭りでね。どうしても山の渓流で取れる上質な魚が要るんだ。
ふぅん。
響子は納得して案内を続けた。道中の沢で山男と知り合いの山姥を見つけた。響子は彼らの背中に隠れて小声で云った。――あなた達で話してきて。私は隠れてるから。
なぜ。
あいつとはあんまり仲が好くないの。よそ者嫌いですぐ刃物を振りかざしてくるから。
それなら俺達だって同じだろう。
響子は彼が腰から提げている皮袋を指さした。
塩を分けてあげれば話くらいはできるんじゃない? 交遊は嫌いだけど交渉には応じるから。
男達はどうにか話をまとめたようだった。山姥に連れられてさらに奥へと登っていった。響子はその場で待っていた。流れに逆らうように泳いでいる鮎を岩場に腰かけて見守っていた。それにも飽きて視線を移すと山の奥のほうで黒煙が上がっているのが見えた。天狗達が争っているのかもしれない。まだ小競り合いの段階だが結界が正式に張られた折りには本格的な闘争に発展する可能性もあった。
響子はため息をついて独りごちた。……何だかな。誘いに乗ったのは間違いだったかな。
再び川面に視線を移したとき銃声がした。響子は思わず山彦した。すぐに我に返って立ち上がった。男達が駆け下りてきた。後ろに見知らぬ娘を連れていた。ひどく怯えた様子で呼吸が荒かった。
――村田を使っちまった。すぐずらかろう。案内を頼む。
娘の兄の言葉に響子はこくこくとうなずくしかなかった。
◇
娘を励ましながら男達は必死に山を下りた。娘は履物がなく裸足であり長くは歩けなかった。そこで男達が順番に背負うことになったがいくらもしないうちに体力の限界がきた。
視界の隅に黒い門柱が映った。響子は足を止めた。ぜえぜえと息を吐きながら兄が云う。
なんだ。なんで止まる?
あそこで休憩しよう。
男達と娘は茫然と周囲を見回した。
――山の奥にこうも見事な……。
庭の四方に咲き乱れた紅白の花はどれも手入れが行き届いていた。指で触れれば柔らかに反発してきそうなほど花弁は瑞々しく生気に溢れている。暗い顔をしていた娘の表情も和らいだ。裏の牛舎や厩には十にも及ぼうかという家畜が飼われており糞の一つも見当たらないほど清掃されていた。牛馬の総てが立派な体躯を誇っており健康的で鳴き声はあくまで高らかだった。
ここは小楽土だな、と男の一人が呟いた。
屋敷に上がる前から鉢には火が起こされており鉄瓶の中で茶が湧かされていた。里には決してもたらされることのない新茶の味わいだった。男達と娘はようやくひと息ついて掃除の行き届いた部屋を見渡す。
……いったいここは何なのだ。
知り合いの家だよ。響子は澄まして答える。いや住んでるわけじゃなくて管理してるだけかもしれないけど。普段は留守なんだ。だから勝手に使わせてもらってる。
その知り合いも妖怪なのか。
化け猫だね。
おいおい大丈夫かよ。別の男が腰を浮かす。せっかく山男を退治して凱旋しようってところで全員化け猫に喰われちまうなんてオチ、俺ァごめんだぜ。
響子は無言で男を見た。それから娘の兄に視線を移した。彼は相棒を肘で思いきり小突くと響子から目をそらしゆっくりと口を開く。……すまん。やむを得ないことだった。
殺したの?
分からんがあの銃創ではまず助からないだろう。
…………嘘をついたのね。取引のためなんて云って私を騙して――。
それについては本当にすまないと思ってるよ。兄は低い声で応える。――ただ分かってほしいんだ。俺達はもうご祖先様のような退治屋ではない。しかしだからといって妖怪どもに黙って大切な家族を奪われるのを座して待つほど阿呆なつもりでもないんだ。時代は変わったんだよ。
響子は男達を真っすぐに見ていた。沈黙が部屋を覆った。娘は再び震え出した。
自分でも驚くほど透明な声で響子は云った。
……お前達のような人間が増えるから私はこんな世界に来る羽目になったんだ。
彼女は立ち上がっていた。
お前らのような人間ばかりになるから私は……。
その先は続けられなかった。胸をトンカチでぶん殴られたかのような衝撃とともに彼女は後ろに引っ繰り返っていた。畳に赤い血だまりが染みこんでいった。響子は目を開いた。煙を上げている銃口が視界に映った。銃把を握った兄の姿も。
――案内に感謝する。悪いな。
彼はそう云い残すと他の男や妹を連れて屋敷を出ていった。
娘は何度もこちらを振り返っては何か云いたげにしていた。響子は倒れたままその背中を見送った。
◇
――何やってんのあんた。人んちの座敷を血で汚しやがって。
化け猫の橙が両手を腰に当てて云った。響子は無言で身体を起こした。火鉢の中で崩れた灰をぼうっと見つめていた。火は絶えていた。部屋は寒かった。
……どうしたの。山彦。あんた泣いてんの?
別に。響子は袖で目尻を拭った。何でもないよ。
人間を入れたのね。
いや……。
嘘つけ。銃声がした。馬も怯えてる。
響子は答えなかった。
橙はため息をつくと散らかった部屋を片づけ始めた。……湯呑みが三つほどなくなっているわね。あいつら持って帰ったのか。
……なんでこんなことになったんだろ。
何の話?
私はあいつらを危ない目に遭わせようとかそんな気はなかった。ずっと人と共に生きてきたつもりよ。
そうね。
外ではもう用無し。だから“いっそのこと”って誘いに乗ったのにこっちもご覧の有様よ。
響子は火箸で灰をかき混ぜながら続ける。
……ねぇ。
なに。
新しい結界の話は本当?
ええ。
問題はすべて解決するの?
そう聞いてるよ。橙は掃除を続けながら淡々と答える。ご主人様の話の受け売りだけどね。
――妖怪は人間を襲わなくなる。人間は妖怪を退治しなくなる。そういう話?
ええ。二者のバランスが崩れれば結界もまた崩れる。
これで平和になるんだね。
多分。
……そっか。響子は火箸を置いた。もう少しだけ、――我慢してみるかな。
橙は答えなかった。
◇
厩別家の者達が持ち帰った朱色の美しい湯呑みは湯を注ぐだけで極上の茶が出来上がる不思議な道具だった。その茶を飲んでひと晩眠ると軽い病ならたちどころに治ってしまうという。それ以降、厩別家は富に恵まれるようになり子宝にも恵まれ奥野田家に次いで里の長者となった。
しかしそれからしばらくして他の多くの家々と同じ運命を辿った。
◇
響子は山を登ってくる人影を見かけた。
昨今ではもう珍しくなかった。食料を求めて枯れ木のように瘦せ細った者が幾人も山に分け入ってくるからだ。その努力の多くは徒労に終わる。御山のほとんどは天狗風と火球によって吹き飛ばされ焼き尽くされていた。山菜どころか虫の一匹さえ見つけるのは容易ではない。天狗の御山争いはまだ続いていた。響子は黒く焦げた枝に座って新たな一人の犠牲者を静かに出迎えた。
女は顔を上げた。二人の目が合った。響子の口からああ、という嘆息が漏れた。
――あんたか。
山彦の……。
ええ。久しぶりね。
何か。食べ物。もしくは水の出るところはありませんか。
響子は首を振った。
女はそれで最後の力を絞り切ったらしかった。糸巻の芯棒のように細い両脚が折れてその場にうずくまる。木々の灰が舞い上がって服にまとわりつく。
死ぬ前に教えてほしいんだけど。響子は訊ねる。あなたの兄貴はどうなったの。
彼女は声を絞り出す。……餓えて死にました。まだ墓を掘れていないんです。
お墓が必要なの? 響子は鼻を鳴らす。人間同士で互いの肉を喰い合ってるんでしょ。
…………。
山彦は枝から飛び降りて女の胸倉をつかんだ。
……お前達の、自業自得よ。女を揺さぶりながら響子は続ける。人間は増長しすぎた。お前達は数を増やし過ぎたのよ。大人しく私ら妖怪を怖れて喰われ続けていればこんな悲惨なことには――。
響子は息を飲んで押し黙った。自分の口に手のひらを当てた。
女はすでに事切れていた。
◇
……それで。橙は湯呑みを置いて訊ねた。死体はどうしたの?
埋めてきた。その場に。
すぐ掘り返されるわよ。人間が餓えているのと同じように妖怪だってどいつもこいつも缶詰には飽き飽きしてる。死臭を嗅ぎ当てるのばかり得意になってるからね。
それでもいい。響子は首を振る。結局は私も他の奴らと同類なんだ。
あんたはこの期に及んでさえ誰もさらっちゃいないし喰らってもいないじゃない。
だから何よ。同じよ。……人間から疎まれ、無視され、やがては憎むようになっちゃった。
響子は割れそうなくらい力を込めて湯呑みを握っていた。
……他の奴らと同じになっちゃったの。
橙はそれには答えずに話題を変えた。
――これからどうするの。
分からない。もう何もかもどうでもいい。
そんなこと云ってたらあんた消えちゃうわよ。
じゃあどうしろって。――仏門にでも入れと?
割といいんじゃない。妖怪専用のお寺とか出来るかもよ。
笑い話ね。響子はようやく顔を上げた。――橙はどうするの。というかあんたのご主人様はいったい何をしてるの。
対応策を練ってるよ。こんな状況いつまでも放っておけるはずないもの。
期待はしないわ。もう。
分かってる。
響子は湯呑みを置いて立ち上がった。
じゃあ、……行くね。
悪いわね。力になれなくて。あんたを裏切ってしまった。
頭を下げようとした橙の肩を響子はつかんだ。
――今までありがとう。ここがなかったら私はとっくに死んでた。
式の少女はうなずいた。
響子は屋敷を出て行った。それから二度と迷い家を訪れることはなかった。
14 好き夢
老いたその男は家族がみな寝静まった後も煙管(きせる)で煙草を吹かしていた。照明は落とされており書斎は仄暗い。彼が煙を吸いこむ度に火皿に蛍のような明かりが光った。灯っては消えて。消えては灯る。暗がりの中で舞う蛍を彼は毎晩のように目で追いかけていたのだった。
しかしその夏の夜は違った。彼は煙管を取り落として激しく咳き込んだ。唾液に血の味が混じっていた。いくど咳をしようとも痰が絡み砂利を噛みしめたような音が出た。咳がおさまると彼は目を閉じて自身の呼吸の音に耳を傾ける。長く細い息を吐く。それからうなり声を上げて立ち上がる。
肌寒いほどに涼しい夏の夜だった。外に出た彼は一匹の蛍を見つけた。蛍は明滅を繰り返しながら柳の運河を下流へと流れていった。その蛍は彼が長い人生の中で見てきたものの中でもひと際に強い光を放っているようだった。あくまで目に優しく。されど視線を誘う。秋の夜長に浮かぶ銀色の満月のようだった。その蛍の周りに一匹また一匹と新たな光が惹きつけられる。彼らは運河を下っていく。
老いた男は咳をしながら蛍の群れの後を追いかけた。境界を越えて夜の森へと足を踏み入れていった。まだ里の外縁に壁や門がなかった時代だった。
◇
炙り焼きで雑味を落とす。山椒を加えた特製の“たれ”に浸す。そして出汁を煮込んだ野菜スープと一緒に味わってもらう。お客さんが笑顔を見せたら次は雀酒の出番となる。
ミスティア・ローレライは屋台でその日の最初の客を出迎えた。リグル・ナイトバグが席につく。友人の妖怪少女は指に留まった蛍を人差し指で愛でながら無言でうなずいた。ミスティアもうなずいて串に刺した炙り肉にスープを添えて出した。リグルはまるで哀悼を表するかのように目を閉じてゆっくり味わって食べた。
雀酒を一杯飲み干してから蟲の妖怪は口を開いた。……名残り惜しいね。これが最後になるのか。
まだそう決まったわけじゃないでしょ。ミスティアは肉を焼きながら答える。これからずっと缶詰生活なんて本当に冗談じゃない。
でも外からは滅多に入ってこなくなるし里の連中も原則襲えなくなるんでしょ。絶望的だ。
――私が云いたいのはそう悲観的になる必要はないってこと。
リグルは頬杖をつく。……そういえばルーミアは?
さあね。ヤケを起こして外界に出てないといいけど。
あの子の素材を見る目は確かだったからなぁ。
ショックでしょうね。
――ねえミスティア。
なに。
ご新規さんだ。
ミスティアは手を止めた。人間だった。それも老人だ。彼はふらふらと夢遊病者のように歩いてきた。二人の妖怪が呆然と見ている前で男はまるで昔馴染みの客のようにリグルの隣に座った。
彼は二人の顔を交互に見た。二人も見返した。
老人は口を開いた。――ここは何かね。
ミスティアは答えた。屋台よ。見れば分かる通り。
お嬢さんがやっとるのかい。
そうよ。
なんとまあ。
彼は笑おうとしたが激しく咳きこんだ。盛り台に血が飛び散った。ミスティアは顔をしかめリグルは腰を浮かせた。
……すまん。と彼は云った。すまなかった。
ねえお客さん。悪いけどここにはあなたの口に合う料理はないの。
酒はあるかね。
雀酒なら。
すずめ?
竹の中で発酵させたお酒よ。この店の特製なの。
それはいい。
無粋で悪いけどお代はあるの?
ああそうか。持ってないな。すまん。
私がおごるよ、とリグル。人間がミスティアのをどう評価するのか気になる。
老人は竹筒から酒を飲んだ。ミスティアはお盆で顔の下半分を隠していたが男は咳き込まなかった。竹筒を置いて吐息を漏らした。
……美味いなァ。
ミスティアは微笑んだ。――それは好かった。
今まで飲んだ酒でいちばんだよ。
嬉しいわね。
好い酒は好い夢を視せるんだ。
そうなの。私達は夢を滅多に視ないから知らなかったわ。
老人の頭が前後に揺れ始めた。……邯鄲の夢だ。
ん?
思えば夢のようだったよ。
何が。
何もかもだ。
ミスティアはリグルと目を合わせた。蟲の妖怪は肩をすくめた。
お客さんの云うことは今いち好く分からないわね。
うちも酒を造っているんだ。
あらそうなの。
老人は語った。……酒なんてお蚕といっしょでみんな自家製のを造っていたんだがね。うちはひと手間加えていた。それで里で一番の名酒になった。外でも一目置かれていた。昔はね。
そのひと手間って?
老人は雀酒をもう一杯口にした。――女将さんは“富士見酒”を知っとるかね?
さあね。うち以外の酒には疎くて。
昔は灘(なだ)で造られた酒を船で江戸まで運んでおったんだ。下り酒だな。江戸で売れ残った酒は再び上方に戻される。そうやって運ばれとるうちに波で好い具合に揺られて吉野杉の香りが酒に移る。味はまろやかに香りは豊かに。その酒が古都では大いに人気を集めた。――“富士を見て帰ってきた酒はたいそう美味い”とな。
それで富士見なのね。
ああ。
それがお客さんの造ってる酒とどういう関係が?
うちの屋敷の前にそれほど大きくはない運河が流れとるんだが。
ええ。
あるとき下流に渡すために酒樽を舟に乗せて運ぼうとしたんだ。だがいつまで経っても目的の場所まで流れ着いてこない。はてなと思って待っておったら同じ酒樽が上流からどんぶらこっこと流れてきた。最初のときより随分古びていたが樽に刻んだ番号は確かに同じだった。
オチが見えたわね。
ああ。まさに奇跡の味わいだった。今の奥野田家があるのはあの酒のおかげだ。
リグルがわずかに身を乗り出す。……実に面白い話だね。そのお酒に名前、――銘はあるの?
もちろん。
なんて?
――“美宵(みよい)”だ。
ミスティアはまた微笑んだ。
好い名前ね。
彼はこくこくとうなずいた。目蓋がゆっくりと閉じられた。竹筒を置いて盛り台に突っ伏した。
老人は永い吐息を漏らして呟いた。
……まい。さとの……。
彼は動かなくなった。
ミスティアとリグルは止めていた息を吐き出した。それから再び顔を見合わせた。リグルが彼の顔に耳を近づけた。使いの蛍の一匹を首筋に留まらせた。しばらく目を閉じていた。
リグルは目を開いて云った。
……――死んでる。
ミスティアは無言でうなずいた。彼の竹筒に替えの雀酒を注いだ。そして遺体の手に握らせた。
◇
ルーミアがやってきたのは老人を筵に横たえたときだった。
――それどうしたの。新しい食材?
いや……。
バラそうか?
ミスティアはルーミアと遺骸とを交互に見た。
そもそも材料にならないわよ。煙草の臭いで分かるでしょ。
ああうん。ルーミアは今更のように鼻をつまむ。肺どころか肉にまで煙が染みこんでそうだ。
煙草は駄目だな私も、とリグル。天狗の連中ならグルメにするだろうけど。
固そうだし屋台で出すのは論外ね。
じゃあどうするの。
人間の流儀に従って埋葬するとか……。
なんか勿体ないよね。
ルーミアはリグルの肩に留まっている蛍を指さした。
その妖怪蛍に喰わせれば?
ミスティアは手を挙げた。
賛成。
……煙草は蟲達も苦手なんだけどな。
その辺の成り損ないのエサにするよかマシでしょ。
まあそうだね。分かった。
リグルは頭上に手を掲げて光弾を一発放った。森のあちこちの水場から蛍が集まってきた。無数の蛍が明滅を繰り返しながら夜空を舞い上がる様は星々の数が二倍に増えて瞬いているかのようだった。成虫の蛍は通常ほとんど食事をしない。ごく一部の個体が肉を貪り寿命を伸ばす。人間の肉ならばさらに妖蟲に成り上がる。
老人の肉体は妖怪蛍にすっかり覆われた。蛍光色に怪しく光る蛍の群れが人型を形づくる。まるで捕食されているのではなくこれから新しい生まれ変わりを遂げようとしているかのように見えた。
蛍のように淡い光に魅入られ続けた彼の人生。それは彼自身が蛍となることで幕を閉じた。
男が握っていた延べ煙管をミスティアは拾い上げた。年月を経て重ねられた無数の傷を仔細に観察する。それから息をひとつ吐いて放り捨てる。
15 草結び
その夜もまた雨だった。引き戸を開ける音に美宵は顔を上げた。入ってきたのは三人の妖怪だった。うち一人は車椅子に座っていて犬耳を生やした少女がそれを押している。三人目の少女は血のように紅い外套を羽織っている。美宵はあっと声を上げた。
「ん?」
「いえ、なんでも……」
車椅子に乗った少女が口を開く。
「蚕喰鯢吞亭で間違いないかしら」
「ええ」
「好かった。迷わずに来れて。赤蛮奇さんのおかげね」
「酒を一杯おごる約束、忘れないでね」
「もちろん」
犬耳の少女が云う。「ここって車椅子用の席はあるかしら」
「あーごめんなさい。対面かお座敷しかなくて」
「そう。姫は大丈夫?」
「平気平気」
赤蛮奇が鼻を鳴らす。「今どきバリアフリーに関心がないなんて遅れてる店だね」
「むっ」美宵は眉をひそめる。「悪うございましたね」
今泉影狼はわかさぎ姫を軽々と抱き起こして座敷に運び上げた。それから云った。「天狗の新聞の人里出張版ね、読んだわ。半信半疑で怖かったけど姫がどうしても行ってみたいってうるさいから」
「それで人の少なそうな雨の夜にご来店ってわけね」
「ええ」
「昨夜も二人、広告を読んだお客さんが来てくれたわ。里と関わりのある妖怪って思ってたよりも多かったのね」
「私と姫は違うの。赤蛮奇さんが人間に紛れて暮らしてるのよ」
「ははあ」
赤蛮奇はお冷で喉を潤した。「……ここって昔はもっと立派なお屋敷が建ってた気がするんだけど私の記憶違いかな。少なくともこんなこじんまりとしてなかった。隣に立派な酒蔵もあった」
「つ、――つくづく失礼なお客さんですねぇ……」
「別に嫌味を云ってるんじゃない。これくらいの狭さの方が私は落ち着く」
「それフォローになってませんよね?」
「まあ天井が低いと……」赤蛮奇は外套の襟を指で下げて首を飛ばしてみせた。だが少し上昇しただけで梁におでこをぶつけてしまった。「イテテ、……こうなるから屋根だけは高いほうがいい」
美宵はその光景を見守りながら舌で唇をなめた。それから三人に煮物と酒を出した。
頃合いを見計らって美宵は赤蛮奇に声をかけた。
「ねえ。ずっと昔、店のそばの運河で行方不明になった男の子を知ってる?」
「え。なに。何だって?」
デュラハンは酒に弱いらしくとうに出来上がって茹でダコのようになっていた。わかさぎ姫は着物の前をはだけてくつろいでおり影狼は泣き上戸になって飯台に突っ伏しワンワンと鳴いていた。
美宵はあきらめずに続けた。「……たぶんあなたのはずよ。貸本。たらい舟。ロータスの実」
「あ……、ああ」赤蛮奇はゆっくりと目を見開いた。「あの子か」
「やっぱり……」
「あんたここにずっと住んでる妖怪なのか」
「妖怪。妖怪ね」美宵は目を伏せて笑った。「その時はまだ神様の端くれだったわ」
「まあ詮索はしないけどさ。――あの子のことがどうしたって?」
「その後の話が聞きたいの。どうなったのか」
赤蛮奇は赤ら顔ながらも鋭い目つきを向けてきた。
「その話をするなら二人の酔いを少し醒まさないとな……」
美宵はうなずいて水を用意しに奥へ戻った。
16 フェアリー・テイル・オブ・ロータス・ランド
わかさぎ姫が見つけたのは一艘のたらい舟だった。中には男の子が一人乗っていた。人里から霧の湖まで流れ着いたらしかった。彼は湖に浮かぶ島まで向かうのだと云い張って聞かなかった。ひとまず岸まで曳航して説得することにした。やがて赤蛮奇が追いつき友人の今泉影狼もやってきた。妖怪三人に囲まれても男の子は怯えてはいなかった。
大した度胸ね。影狼が腰に手を当てて嘆息する。君はあの島に何が住み着いてるか知ってるの?
彼は首を振った。
でしょうね。
何がいるの、と男の子。夢を三つまで叶えてくれるランプの魔人?
この子はいったい何を云ってるわけ?
赤蛮奇が鼻で笑う。貸本屋で外国の物語を何冊も読んだんだとさ。
人魚が口を出す。――あなたは私達が怖くないの?
男の子が首を振る。
三人は顔を見合わせて微妙な表情をする。
…………そりゃ確かに私達は下級だし。
地味だし。
別に平和に暮らせればそれでいいし。
人間に害意はないけど。
でも妖怪としての沽券にかかわるよねこの反応は。
――だってさ。お姉さん達カッコいいじゃん。
三人は視線を男の子に戻して口をそろえた。
……カッコいい?
彼は姫に指先を向ける。――お姉さんはマーメイド。
次に影狼。――こっちのお姉さんはウェアウルフ。
最後に赤蛮奇。――それにデュラハン。
彼は目をきらきらさせて握りこぶしを作る。――みんな本で読んだよ。海の向こうの妖怪さんでしょ?
わかさぎ姫は両手を頬に当てた。赤蛮奇は爪でこめかみをかいた。影狼は犬耳を手で押さえた。
……そ、その反応は予期してなかったわね。
とわかさぎ姫。
お姉さん達と友達になれるかな。
それは、……どうかなぁ。
と赤蛮奇。
君にはまだ分からないかもしれないけど、と影狼。――この世界にはルールがあるの。それを破ってはいけないのよ。私達みたいな弱い妖怪なら尚更それに従わないといけない。
ルールって?
里の人間とは仲好くしてはならない。もっと云うなら怖がらせないといけない。
なんでさ。
そうしないと私達は消えてしまうからよ。
分からない。男の子は首を振る。そんなの理不尽じゃない? 仲好くしたいのに出来ないなんて。
影狼は犬歯で唇を噛んだ。
……そうね。あなたの云う通りかもしれない。
だったらさ。
でもね。だめなの。人間と深く関わった妖怪は古今東西の物語でたいてい悲惨な最期を迎えるのよ。だからその障害を踏み越えてでも友達になりたいのなら君が“特別な人間”になるか。もしくは――。
――突然、寒気を感じて三人の妖怪は振り返った。湖畔の波打ち際に一人浮いている新たな少女の姿を見て全身から力が抜けた。へなへなと腰を抜かして仲好くその場にへたり込んだ。
影狼が震える声でつぶやく。…………もしくは、――そんな障害なんてものともしないほど強い妖怪と友達になるか。
――ごきげんよう。
少女は紅い瞳を爛々と輝かせて云った。月光に洗われる湖の上で白銀のドレスをまとった幼い少女が佇んでいる様はそれだけで絵画の題材になりそうだった。
……人間に下っ端妖怪が三匹。屋敷の近くでわいわい騒がれて興が削がれちゃったわね。どう落とし前をつけさせてやろうかしら。
流行り病にかかったように震えながら何も云えないでいる三人を尻目に男の子は飛び跳ねるように騒ぐ。
――ヴ、ヴァンパイアだ。本物だ!
あら。こっちの世界にも私を知ってる人間がいるなんて驚きね。
本で読んだんだよ!
私を恐れないの?
ちょっと怖いけど。でもやっぱりスゴいや。
……生意気な子供ね。少女は笑った。いいわ。そんなに命知らずなら私の屋敷に招待してあげる。ちょうど転送が終わったところなのよ。
吸血鬼は三人に視線を移した。
あなた達も来なさい。
わかさぎ姫が震えながら云う。――ど、どうしてなんですか。
安心しなさいよ食べたりしないから。入ったばかりでこの世界のことをあまりよく知らないの。お茶でも飲みながら楽しくお喋りしましょう。
影狼は耳も尻尾もすっかり垂らしていた。
あのぉ、せっかくのお誘い大変ありがたいんですけど……。
嬉しいなら来るべきよ。それともツェペシュの末裔たる私の招待をはねつける気?
いえ、――いえ滅相もありません!
好い子ね。
◇
つい先日までその洋館は廃墟のはずだった。湖に棲んでいるわかさぎ姫でさえ知らないうちにそれは深紅の尖塔がそびえ立つ屋敷へと一夜で姿を変えていた。
和やかな会食の席でこの世界には存在しなかった酒が振る舞われた。カベルネ・ソーヴィニヨンの赤ワインだった。安心して、と吸血鬼は愉しげにワイングラスを掲げる。血は入ってないから。
彼女はこの世界を支配する壮大な計画を打ち明けてきた。弱小妖怪達を次々に部下にして支配圏を広げていく腹積もりなのだという。その部下の中にわかさぎ姫ら三人が含まれていることは云うまでもなかった。
有事の際は吸血鬼に味方する代わりに彼女の庇護を受ける。
ほとんど無理やり結ばされた誓約を条件に三人はようやく解放された。
三人が席を立ったときも男の子は吸血鬼の少女から視線を離さなかった。口をわずかに開けてその姿に見とれているようだった。赤蛮奇は彼の瞳が鈍い赤色に染まっているのを見て取った。だが今さらどうにもできなかった。
男の子は屋敷に残ることになった。
あの子はどうなるんだろ。
屋敷からの帰り道、影狼は不安げにささやいた。
赤蛮奇は絨毯の模様を見つめながら云う。
吸血鬼に魅了された人間の末路なんて決まってるよ。
◇
数十年が経った。蹶起(けっき)した吸血鬼は缶詰生活で弱り切った妖怪達に戦争を仕掛けた。影狼やわかさぎ姫、赤蛮奇は戦うふりをして逃亡しずっと隠れていたので戦闘の詳しい経過は後で新聞で知った。吸血鬼は敗れた。そして新しいルールが追加されることになった。結界が張られてからというものずっと妖怪達を悩ませ続けてきた問題にひとつの決着が見られたわけだ。
世界に平和が戻った。
だが男の子は影狼達の前に帰ってこなかった。
赤蛮奇はある日人里に買い物にやってきた紅魔館のメイドと話をしたことがある。あんた以外にも人間の従者はかつていたことがあるのかと。
詳しい話は聞かされていないわね。メイドは曖昧にうなずいた。いるにはいたのでしょうけど。お嬢様は気が変わりやすいし部下に求める能力の基準も高いから。使い物にならないと判断なさったのならすぐお暇を与えるでしょうね。残念だけど。
赤蛮奇は目を閉じた。それからゆっくりと開いた。
で、――お役御免になった人間はどうなるの?
メイドは透明な声で答えた。それを私に云わせる気?
赤蛮奇は無言で首を振った。メイドに別れを告げて雑踏に消える背中を見送った。ロータスの楽園か、と口の中で呟いた。人間に紛れるため日中はいつもの外套ではなく紅色の着物を着ていた。その時ばかりは人間の恰好がとてつもなく窮屈に感じたことを後になって何度も思い出すことになった。
久々に湖畔に顔を出すとわかさぎ姫が影狼に向かって何やら熱心に話をしている。
どうしたのさ。
わかさぎ姫はいつになく真剣だった。――実はある団体に参加しないかってお誘いがきてるの。
団体?
私達のような弱小妖怪って、もっとこう、……何というか、――団結すべきじゃないかしら。
何なの急に。
影狼が後を引き継ぐ。あー、つまりね。何か起こってから行動を始めても絶対に手遅れになる。だから自分達の大切な居場所を守るためには普段から連絡を取り合っておいた方が好いってこと。もう大人しい妖怪達のほとんどに回覧されてる。
赤蛮奇はガリ版刷りのチラシを受け取った。
……草の根妖怪ネットワーク、ねぇ。
真面目に好い提案だと思うのよね、とわかさぎ姫。天狗、神様、化け狸、そして吸血鬼、……我が侭な妖怪同士の争いにこれ以上巻き込まれないようにするためにも中立の第三世界の構築が求められてるの。まさに新世紀のバンドン会議よ!
熱心ね。世間話するだけの会合にならないといいけど。
もちろん赤蛮奇さんも参加してくれるわよね?
……私は遠慮しとくよ。
あらどうして。
応援はしてる。でも気が進まないんだ。
そう。……気が変わったら教えてね。歓迎するから。
赤蛮奇はうなずいた。湖の島にそびえ立つ紅い屋敷に視線を向けた。それから湖畔に目を移した。波の穏やかな初夏の昼下がりだった。風に吹かれて葦の葉が揺れている。彼女の紅い髪もまたそよいでいる。赤蛮奇は薬指で首の傷跡をなぞった。両手で抱くようにして外套の襟をかき寄せた。
17 銭金論
赤蛮奇らが語り終えて美宵が口を開こうとしたとき新しい来客があった。引き戸が開かれた途端に家の柱を揺らすような笑い声が転がりこんできた。二人の妖怪、――もとい神様だった。
「そろそろあなた達が来る頃合いだと思ってたところです」
美宵の言葉に茶髪の少女がうんうんとうなずく。頬は紅潮してすでに出来上がっているようだ。
「げっ、――例の双子じゃん」
「行こっか」
「そうね。勘定お願い」
草の根の三人が立ち上がる。美宵は礼を云って勘定を済ませる。
去り際に引き戸に手をかけたまま赤蛮奇が云う。
「……あの子が消えた日付、ちゃんと覚えてる?」
「ええ」
「じゃあ私らの分の線香も上げといて」
「一度会っただけの子供にどうしてそこまで……」
「あの頃の私ら野良妖怪の気持ちは同じ立場の奴にしか分からんよ」
「…………」
赤蛮奇は振り返ることなく続ける。「都落ちした武者みたいにみずぼらしい有様でこの世界に逃げこんだんだ。恐れるにしろ憧れるにしろ何かしらの関心を向けてもらえるのは気分の好いことだよ。無関心にされるのがいちばん堪えるからね」
「この時間だと開いてるのがここしかなさそうだから来たんだけどさ」
依神女苑がへらへらと笑いながらそう云った。猫背に頬杖。指に挟むはチャンセラー社の高級煙草であるトレジャラー。赤熱した灰を二本指で上品に落とす。
「なるほどしみったれた店ねぇ」
「悪かったですね」美宵は煮物を提供しながら答える。「というかあなた、お寺で修行していたのでは」
「とっくに出てってやったわよ」
「思ったより早かったですね。――お姉さんは天人の方と暴れまわっていたはずですが」
紫苑は煮物にがっつきながら指を天井に向けた。
「上に戻ったのよ」女苑が補足する。「追放が解けたの」
「最凶最悪の双子再び、――ってことですか」
「そうね。――ところでこの店にピンドンはないの?」
「ぴ、……なんですって」
「ピンドン。ピンクのしゅわしゅわ。ドンペリのロゼよ」
「そんな横文字のお酒なんて取り扱ってませんよ」
「つまらないわね」
「あ、――女苑。店の外面は貧相だけど料理はすっごい美味しいよ」
紫苑の言葉に女苑は箸を手に取り鯢呑亭自慢の里芋を口にする。目を閉じて咀嚼し飲み込むと箸を置いた。そして一端(いっぱし)の料理評論家のようにわざとらしく間を空けた。
「…………フグの懐石だの松坂牛のすき焼きだの何だの。高いモンはバブルの時分から散々いろいろ食べてきたけれど」疫病神は云う。「この店のなんてことない煮物がいちばん美味しいわね」
「ええそうでしょ」
「――なんて云うと思った?」
「は?」
「さすがにそこまではないわね。百円の粗品より十万円の逸品の方が美味いに決まってる」
「この野郎」美宵は帳台に両手を突いて身を乗り出した。「――そこは“金ってのは一体何なんだろうな”って哲学っぽく〆るところでしょ!」
「私は料理の価値を値段で決めるの。込められた想いだとか店の伝統だとか曖昧なものは信じない」
「さ、さすが疫病神ね……」
酒癖の悪い親父のように女苑は持論を語る。「お金は人類最大の発明品よ。なぜなら宗教や思想と違ってお金に善悪はないもの。清貧なんて言葉はやせ我慢の嘘っぱちよ。結局のところ貧すれば貧するほど心も貧しくなる。みんなそれを分かってない」
美宵は溜め息をつく。「……昔から変わってませんね。あなたは」
「昔? この店に来たのはこれが初めてよ」
「いえ来たはずですよ。あなたも。……そしてお姉さんも」
女苑は紫苑と顔を見合わせた。だが紫苑はすぐに肩をすくめて煮物の処理に戻った。
「悪いわね。覚えてないし人違いじゃないかしら」女苑は二本目のトレジャラーに火をつける。「私達は金持ちのお屋敷にしか興味がないの。場末の飲み屋に用はないわ」
「昔はここも相応に立派な屋敷だったんですよ」
「ああそういうこと。この里にもずいぶん世話になったから一軒一軒いちいち覚えてられないのよ」
美宵は無言で店の奥に引っ込み萃香謹製の酒虫(しゅちゅう)漬け酒を瓶に詰め込んだ。
女苑は首を傾げる。「……これは?」
「この店いちばんのお酒ですよ。どんな酒豪の方でも酩酊間違いなしです」
「ふうん」
「それで先ほどの話ですが。本当に何も覚えていらっしゃらないのですか」
「しつこいわよ」
「……今度は私がお話しする番ということですね」
美宵は一冊の本を奥から取り出しながら嘆息した。
それは『雨月物語』だった。
18 財禍の女神
叔父の話を父も祖父もほとんどしなかった。叔父と云っても河童にさらわれた方ではない。もう一人、啓吉がまだ幼い時分に祖父から勘当を云い渡された男がいた。父・啓二郎の弟であり祖父の三男だった。長兄が滝壺に消え双子の姉も野分のようにいなくなり祖母が寝たきりになってしまうとその後の二人の兄弟の道は分かれた。
啓二郎は神も仏も信じなくなり稼業を任されるとひたすらに倹約に励んだ。家の神の祭日であるおしら遊びにも加わらず祖父から毎年のように叱責が飛んだ。なつと結婚して産んだ修平と輝子が相次いで姿を消すとますます信仰から遠ざかった。
しかし倹約家だからといって吝嗇(りんしょく)というわけでもなく酒蔵で働いている男衆の一人が将来のために金を貯めていることを知ると好い心がけだと云ってその日の賃金を倍にしてやった。それからというもの父は倹約家という以上に当世の奇人・変人と親しまれるようになった。
一方の叔父は父とは真逆に信心深い性格になり家を出て厩別家に行ってからも里から離れた博麗神社に足しげく通った。もし寺があれば頭を丸めて仏門に入っていたに違いなかった。結婚しても子供を作ろうとしなかったのは生まれても自分の兄弟姉妹と同じように姿を消してしまうと信じていたからだ。
父と叔父は不思議と衝突しなかった。だが仲の好い兄弟というわけでもなかった。あまりに反対の考え方を身につけたせいで互いに干渉しないようになり同じ家にいても相手をいないものとして扱った。唯一二人が打ち解けたのは夕食の席に煮物が出されたときだった。酒の製造法が家の男達に語り伝えられてきたのと同じように煮物のレシピもまた啓吉の祖母であるまつ、母のなつ、そして妻の瑠璃子へと伝えられてきたものだった。父と叔父はその夜の煮物の感想を云い合うときだけ昔日のような兄弟に戻った。だが叔父が分家に行ってからはそれもなくなった。
◇
月の明るい夜だった。啓二郎が窓辺で書見をしていると部屋に人の気配を感じた。上方の着物に簪(かんざし)で着飾った娘が枕元に座っていた。着物は白茶地に水色の雲ぼかし、そのぼかしに点々と浮かべるようにして秋草が配されており月の夜長にぴったりの訪問着だった。金くくりに金鉤、色糸刺繍に紋箔も重ねられており田舎の長者にすぎない啓二郎は見ているだけで目眩がした。髪の色も稲穂の平原を思わせる黄金色でこの世の者ではないことはひと目で分かった。
誰だ狐か。それとも狸か。
啓二郎が訊ねると娘は袖を口に当てて笑った。
私は銭の精。
なんだと。
あなたがこの里でいちばんお金の価値を分かってると聞いてね。少し話をしてみたいと思ったの。
男は本に栞を挟んで机に置いた。そして妻がこしらえてくれた丹前の袖に両手を入れてその場に胡坐をかいた。彼は間を空けてから口を開いた。……ケチな奴なら僕以外にも何人かいるだろう。
単なる吝嗇家なら相手しないわよ、と娘。――この前に下男の日銭を倍にしてやったでしょ。
ああ。……あれか。
あれが“分かってる”ってことよ。感心したわ。富んでおごらぬはまさに大聖の道。口さがない連中は金持ちのことを決まって愚かで邪悪な人種だと決めつけようとするけどそれは間違いよ。富める者には天の時を詠(よ)み地の利を活かす才覚が備わっている。――あなた呂尚(りょしょう)は知ってる?
太公望か? 古代の清国の。
そうよ。彼は斉に封じられたけどその地は農業に不適だった。だから産業を興して斉を強国へと育て上げる下地を作った。さらに斉に仕えた管仲(かんちゅう)は鮑叔(ほうしゅく)の補佐を受けて内政改革に邁進した。商業を大いに振興し不正には厳罰をもってあたった。まず何より民生の安定こそ第一であり政治は二の次だと彼は主君の桓公に説いたそうよ。倉廩(そうりん)実(み)ちて則ち礼節を知り、衣食足りて則ち栄辱を知る。――まさに金言ね。
啓二郎は背を丸めて唇から漏れる苦笑が娘に聞こえないようにした。それから顔を上げて云った。……なるほど君が昨今の人間に対して云ってやりたい言葉を八ヶ岳のように腹の中に溜めこんでいることは伝わってきたよ。
まだ云い足りないわね。
お次のありがたい助言は?
千金の子は市に死せず。富貴の人は王者と愉しみを同じうす。
司馬遷だったか。
そうよ。娘は鈴のように笑った。興が乗ってきたようだった。――私もそれなりに長いこと生きてきたわ。ついこの前までは外の世界にいた。外は恐慌があったせいで財を軽んじて名を重んじる奴ばかり増えてきたわ。貧しい中にこそ意義を見つけようと必死でね。それでつまらない戦争にばかり乗り出して町を破壊し人を傷つけて国を傾かせようとしてるのよ。賢人とか呼ばれる奴の多くは金銭の徳を唱えない。その時点で二流だと私は思ってる。
啓二郎はじっと話に聞き入った。里の外からの便りが途絶えがちになり国が今どうなっているのか誰も知らない。そのことを問いただそうとしたが銭の精の興を削ぐような真似もしたくはなかった。そこで彼は別の話を持ち出すことにした。
――少し疑問があるんだが。
ええ何?
君は清貧という言葉が反吐が出るほど嫌いだろうが、……それでもこの里には冬の寒さにも布団一枚で起き伏し夏の暑さにも着たきりの衣を洗うゆとりさえなく朝夕一膳の粥で満足するような生活を送りながら不平不満のひとつもこぼさない有徳の者もいる。このような働き者が報われないのは果たして仏教でいう前業のせいなのかあるいは儒教でいう天命のせいなのか僕には分からない。分からないというか納得できなかったんだ。それで弟とは違って僕は神も仏も信じられなくなった。どうして僕だけが消えずに今も生きているのか。どうして僕は兄や双子の姉とは違い大人になるまで成長して子宝に恵まれたのか。僕が生かされている意味はなんだ?
啓二郎はそこまでを早口で云い終えると沈黙した。
銭の精は肩をすくめてみせた。……さぁね。私はお金のことしか分からないから。
そうか。
あなたはまだ物事を善悪で測りすぎているわね。
…………。
例えば金銭は非情のものよ。そこには善も悪もないの。富貴の道にもコツがあって巧みな奴は金をしこたま集めて下手な輩は瓦が割れるよりも容易く金を失うわ。二者の間にあるのはただ技量の差のみで前世の行いは関係がない。徳や不徳もね。水が低い方へと流れるのと同じで自然の摂理なわけ。
啓二郎は猫背を止めて居住まいを正した。
……じゃあ、僕が今も生きているのは自然の摂理であって何ら特別な意味はないのか。
そう考えた方が却って気楽じゃない?
…………そうかな。そうかもしれない。彼は笑った。だが今の話を弟は決して認めないだろうな。
そうね。見事に突っぱねられたわ。
啓二郎は思わず立ち上がりかけた。
――あいつとも話したのか。
ええ。あなたと違ってお話にならなかったけど。
どうしてわざわざそんなことを。
――どちらに憑りつこうか決めかねてたの。
は?
で、あなたのことが気に入ったから今回は見逃してあげる。
啓二郎は今度こそ立ち上がって彼女の肩をつかもうとした。だが娘は即座に天井へと浮き上がってその動きをかわした。いつの間にか粗末な着物をまとったもう一人の娘が隣に姿を現していた。
云っとくけど巫女に通報しようなんて思わないことね。
娘は腕を組んでこちらを見下ろしながら云う。
――私らは最凶最悪の双子よ。対策もばっちりなんだから。
彼が何も云えないでいると二人の娘は姿を消した。
そこで目が覚めた。朝だった。啓二郎は部屋の中を呆然と見渡すしかなかった。
◇
啓二郎の弟はそれから人が変わった。昼間から飲み歩くようになり金遣いが荒くなり神社へのお参りをきっぱりと絶った。帰宅するのは夜遅くであり泥のように大いびきをかいて眠りこむと昼過ぎまで目覚めなかった。迎え酒をして里に繰り出し大声を上げながら食事処に突入し大枚をはたいて飲み明かした。厩別家の財貨はみるみるうちに先細りその代わりに叔父の身体はぶくぶくと太り始めた。まるで硬貨をそのまま笊(ざる)にあけ麺汁(めんつゆ)につけて飲みこんでいるかのように見事な対照だった。馴染みの参拝客が来なくなり心配した当代の巫女が家まで様子を見に行ったが妖怪の仕業だという確たる証拠を何もつかめなかった。
家族の者に相談されて啓吉の祖父は重い腰を上げた。息子と直接会って話をした。しかし啓二郎と幼い啓吉が見たのは憮然とした表情で帰ってきた老人の姿だった。
勘当された直接の原因は蕩尽(とうじん)ではなかった。奥野田家に金の無心に来たときも祖父は叩き出すだけで罰することはしなかった。彼はある日ついに一線を越えた。その時分は稗田家の八代目が次なる代のために転生の儀を行っている最中だった。いよいよ大詰めという段階で里の者は誰も稗田家の屋敷には近づかなかった。その晩ひどく酔っ払った叔父は道に迷った末にもよおしてしまい手近な家の塀で立ち小便をした。その塀が稗田家の屋敷であることは云うまでもなく夜番をしていた使用人に取り押さえられた。
祖父はそれ以上、――放蕩息子をかばうことはできなかった。
19 簒奪者
やがて破滅の季節が訪れた。美宵はその時代のことを、――その時代から始まる数十年間のことをほとんど覚えていない。正しくは記憶こそあるのだがそこに伴うべき感情が欠落していた。誰にでも思い出したくない時期はあるものだが美宵を含めた多くの妖怪、――そして多くの里の人間にとってはその時代がまさにそうだった。
その日、美宵は空っぽの茶碗を手に転がしていた。埃や古い蜘蛛の巣がこびりついていた。何年も前に刻まれたヒビがあった。その瑕がどうして出来たのか彼女は知っていた。柱につけられた瑕も。ちゃぶ台に刻まれた瑕も。座敷わらし達はみな知っていた。
妹の柏が隣に座った。彼女の身体の輪郭が透けて見えていた。梁に勢いよく腰かけても今や音は出ない。埃が舞い上がることはない。だから家族の誰も気づかない。子ども達でさえ。
美宵は彼女の方を見ることもなく話しかけた。
……紫蘇はどうしてる?
引きこもってる。髪で全身隠してタコみたいだった。
そう。まだ消えてないなら安心ね。
姉さんそれ本気で云ってる?
美宵は首を振って梁から飛び降り屋敷の外に出た。寒さに思わず身震いした。季節は確かに夏だった。空は厚い黒雲に覆われ風などまったく吹いていないかのように晴れ渡ることはなかった。しばらく辺りを歩いた。田畑に作物はない。この時期だと水稲は出穂が間近で青々とした葉が田園を埋めているはずだった。今は干されてひび割れた土壌が骸をさらすばかりだ。
往来に人影はなく家々の塀にもたれかかるようにして亡くなっている餓死者の遺体が見受けられた。死臭に群がる蝿さえいなかった。時おり大八車を引いて歩いている若い娘の姿を見かけることもある。大抵は遺体を山積みに載せている。美宵は一度彼女に近づいて話しかけたことがある。
……どこに持っていくの。
火葬屋に決まってるでしょ。
本当?
ええ。――もしかして疑ってる? 外の妖怪に売りさばいているとでも?
多少は。
彼女は視線を落とした。紅色の作業着に付着した腐敗液を見つめていた。
……私は確かにあっち側だけど。彼女は顔を上げて云う。今も昔もここで生きてる。これからだってそう。向こうにはもう居場所がないからね。今さら生き方を変えるつもりはないしそうするくらいなら一生クソ不味い缶詰で暮らすよ。
美宵は微かにうなずいた。それを何度か繰り返した。そして道を開けた。彼女もそれ以上は何も云わずに荷車の音をコトコトと響かせながら歩いていった。
◇
屋敷に戻って門を潜ろうとしたとき悲鳴が上がった。下女や瑠璃子の声だった。玄関で下男に取り押さえられている男の姿があった。勘当された叔父だった。その隣には啓二郎が横たわっていた。両手で腹をおさえてもがいていた。指の隙間から鮮血が噴き出して血だまりが広がっていった。傍には赤い血でべったりと濡れた包丁が落ちていた。餓鬼のように瘦せこけた叔父は地面に広がっていく兄の血を舌を伸ばして啜っていた。
家の奥には柏が両腕をだらんと垂らしてその光景を見守っていた。
美宵は彼女の肩をつかんだ。――何があったの。
あいつが啓二郎を刺した。
刺した?
食料を恵んでくれって押しかけてきたの。啓二郎が断った。それであいつが刺したんだ。
美宵は唇を噛んだ。……なんて馬鹿なことを。
あいつらのせいだ。
どうしたの。
見てたんだ。――何もかもぜんぶあいつらのせいだ。
柏は外に出て行った。
次に視線を移したとき啓二郎はすでに動かなくなっていた。下男が怒号を上げて叔父の後頭部を殴りつけた。そこへ啓吉が臨時に結成された自警団の務めを終えて帰ってきた。彼はひょろ長い芋や雑穀が詰め込まれた麻袋を取り落として家族のもとへ駆け寄った。膝を突いて父親に呼びかけた。下女に命じて瑠璃子を家の奥へと下がらせた。妻は身重の身体を引きずるようにして泣きながら歩いていった。
美宵は壁に身をもたせかけた。それでも体重を支えきれずにずるずると腰を下ろしその場に座りこんだ。視線が玄関から天井そして家のあちこちへと移っていきおしら様の木像が飾ってある床の間で留まった。木像はすでに二柱しかなかった。美宵は首を振った。三角に折った両膝に顔を埋めて目を閉じた。
◇
……この里はもう駄目ね。屋根瓦に腰かけて煙管を吹かしながら女苑は呟いた。そろそろ外に戻りましょうか。
傍をふよふよと漂っている紫苑が両手で黒猫のぬいぐるみを抱きながら応える。
まァ賛成だけどさ。
ん、どうしたの。
前と違って新しい結界が張られてるんでしょ。通り抜けられるかな。
今なら弱まってるから私達なら余裕でしょ。外の世界は楽園よ。ピラミッドみたいにどんどんお金が積み上がってるしオリンピックだって開かれる。ああ、――夢のようね。
今度こそお腹いっぱい食べられるかな。
女苑は肘で姉の脇腹を突いた。姉さんは私に任せてどーんと構えていれば好いのよ。
今回はアテが外れたじゃないの。
誰だって予測できないわよこんなの。私だって楽園と聞かされて――。
――ただで出られると思うなよ。
虫食いだらけの着物をまとった少女が屋根に上がってきた。髪はぼさぼさ。頬の白粉が剥がれて顔がまだら模様になっていた。着物の裾を手の甲が白くなるほど握りしめながら近づいてきた。
こンの寄生虫どもがッ!
女苑は首をこくりと傾けて煙管を唇から離した。細く長い煙を吐き出しながら白い首筋をさらして微笑みを浮かべる。紫苑は目つきをまったく変えることな妹のそばに寄り添う。
疫病神は口を開いた。……云いたいことはそれだけ?
それだけよ。少女は答える。――あとはこれで充分だから。
云うが早いか血に濡れた包丁を振りかざして飛びかかってきた。紫苑の眼が一瞬、青い炎に包まれた。群青色の髪が白く輝いて浮き上がった。彼女が指を一振りすると少女は弾き返され瓦を転がって地面に墜落した。女苑は立ち上がって屋根の端に歩み寄りそこに腰かけた。
……寄生虫は誰だって同じことよ。疫病神は目を細めて呟いた。多かれ少なかれどんな妖怪も神様も人間の存在に依って生きてる。変えることのできない私達の“自然の摂理”よ。それを無視してやれ人間を襲わないだのやれ妖怪を退治しないだの無理を押し通すからこんなことになるのよ。妖怪は弱り果て人間は数が増えすぎた。――私達はこんな結末を認めない。自分らしく生きるためならいくらでも抜け穴を見つけて潜り抜けてやるわ。
地面に這いつくばった座敷わらしは顔を上げなかった。
ねえ。あなた。紫苑がそっと声をかける。……偉そうなこと云ってるけどさ。女苑も心の底では多分罪悪感を沈ませてると思うわよ。私達だってこんなの予想してなかったもの。
姉さん余計なこと云わないでよ。
とにかく分かってほしいのよ。紫苑は妹の声を無視して続ける。この子はずっと一線を越えないようにしてきたし今回もそのつもりだった。財産を失くすことで執着から解放されて前よりも穏やかに人生を歩めるようになった人間だっていたわ。私達は己の本分を果たしただけ。それを分かっていたからこそあなたも止めなかったんでしょう? まさかこんな飢饉が起こるなんて誰にも――。
――もういい! 少女は大地に拳を叩きつけた。――……もう、聞きたくない。
そうね。……ごめんなさい。
紫苑は後ろに下がった。女苑が鼻をスンと鳴らして立ち上がる。
もう行くわ。――さよなら。
座敷わらしがそこでようやく顔を上げた。姉妹を睨みつけながら呟く。
それでも、……私はあんた達を許さない。
女苑は腕を組んだまま目を閉じた。そして云った。
――分かってるわよ。
20 風の行方
酔い潰れた女苑が金貨の山に押しつぶされる悪夢を見てうなされている間に美宵は店の片づけを始めた。紫苑が女苑の財布から代金を抜き取り勘定を済ませる。そして妹を背負って店を出て行った。引き戸を開けた際にこちらを見て会釈した。美宵はうなずいた。
紫苑が云う。「私達を止めようとした座敷わらしはあなたの妹?」
「そんなところですね」
「この店にはもういないの?」
「ええ」
「そう。残念ね。話したいことがあったのに」
「少し、……遅すぎましたね」
紫苑は首をこくりと縦に振って戸を閉めた。
◇
店を閉めようとしたときまた来客があった。本日で三組目だ。
玄関先で美宵は二人を出迎えた。
「あちゃあ、――もう店じまい?」
天狗の少女が訊ねる。
「出直そうか」
と河童。
「いいですよ。まだ残りはありますから」
美宵は人間の姿が周囲にないことを確かめてから二人を招き入れた。
客は姫海棠はたてと河城にとり。鬼の酒はお断り、と口を揃えて釘を刺してきたので美宵は苦笑した。
煮物や酒を提供しながら美宵は話を振ろうと口を開いた。だがはたてが右手を上げて制してきた。「……あなたが訊ねたいことは分かるつもり」
「というと?」
「消息が知りたいんでしょう。つむじ風にさられわた娘の行方」
「あと滝壺で行方不明になった男の子」とにとり。「私達なら知ってるんじゃないかって」
美宵は正直にうなずいた。「……ええ。でもどうしてそのことを」
「文から聞いたの」
「私は化け狸の大将から」
「それなら――」
「――ごめんなさいね。食事をしにきただけでその人間についてはあまり知らないの」
「右に同じ」
「そう、ですか」
「文の奴からは何も話さなかったの?」
「ええ」
「あいつらしいわね」
「あの時代のことはあまり話したくないと仰っていました」
「……それは私も同じよ」
美宵は帳台に体重を預けて前かがみになった。
「何があったんですか。輝子ちゃん達の行方、断片的にでも分かりませんか」
天狗の少女は携帯電話をいじりながら語る。「……つまらない話よ。それに血なまぐさい話」
「構いません」
「…………昔は御山争いといえば天狗の実力者同士の小競り合い程度の意味しかなかったのよ。少なくとも山全体を焼き尽くすような総力戦を意味してはいなかった。多分あなたが想像もできないくらいたくさんの天狗が死んだ。その死に様も今じゃ考えられないくらいに残酷だった」
「どうしてそんな惨たらしいことになったんです?」
「さぁね」はたては首を振る。「多分この人里で大勢が死んだのと同じ理由じゃないかしら。天狗の数が増えすぎたのよ。もうこの世界の他にどこへも行き場がなかったから。御山広しといえども国中の天狗が集まってよろしくやっていけるほどその恵みは万能じゃない。私や文が属していた白峯方はたまたま勝ち残った。それだけの話よ」
「ではさらわれた人間はどうなったんです?」
はたては携帯電話を閉じた。だが顔は上げなかった。
「新しい結界が張られることは以前から知らされていたわ」彼女は低い声で云う。「里の人間を害してはならないことはそれより前から暗黙の了解だった。……でもね、総ての天狗がそこまでお利口なら御山争いは起こってない。一部の天狗が、――戦いに敗れて御山を追い出された奴が、……生き残るために破れかぶれの行動に出たとしても私は驚かないわね」
美宵は乗り出していた半身を元に戻した。
「……それでは。あの子は」
「ええ。まあ。ぼんやりと伝え聞いた話だと。たぶん、……そう長くは苦しまなかったはず」
美宵が何も云えないでいると天狗は河童の少女を肘で小突いた。
「私の話は終わり。義理は果たした。次はにとりの番」
「ええ……」
「私にだけ気まずい想いさせるつもり?」
「そういうわけじゃないけどさ。私らだって似たり寄ったりだよ。あの頃の話なんて」
「だからこそよ」
にとりは詰まったような唸り声を喉の奥から出して酒を一気に飲み干した。
「女将さんは缶詰のことは知ってるよね」
「ええ」
「あれは私ら河童の工場で作ってるんだ。原料は云うまでもないがあの頃はまだ安定したサプライチェーンが確立されてなかった。今より遥かに血の気が盛んな妖怪だって多かったし上から課されたノルマも尋常じゃなかった。生産を絶やさないためにはどこか別の場所から原料を調達してこないといけなかったんだよ」
「今ので、……もう大体は分かりました」
「察しが好くて助かる」河童の少女は椅子にもたれて汗を拭いた。「……気休めにしかならないかもしれないけど。処理は一瞬で終わるよ。痛みを感じる暇もない。その点では我々の技術を信頼してほしいな」
「本当に気休めですね」
「ああ」
沈黙が店の中に漂い始めたが天狗の少女が話を引き継ぐ。
「争いが終わって余裕ができてから」とはたて。「ようやく大天狗は、――じゃなかった大天狗様は人里にも目を向けるようになったわ。それでひとまず食料支援から始めたの。人間はあまりに脆くて儚いから我々が陰から支えてやる必要があるってね」
「食料支援ってあの土くれの塊のことですか」
「天狗の麦飯ね。まァ見た目はよろしくないけど霊験あらたかよ」
「確かに栄養は豊富のようでしたが」
「食料のことだけじゃない。天狗は風害から。河童は水害から里を守ってる。望もうと望まざろうと私達はもう別々に生きるわけにはいかない。分かたれし家は建つこと能(あた)わず、ね」
「私も今さらどうこう云いたいわけじゃないんです。ただ……」
はたてはうなずいた。「……複雑な気持ち?」
「ええ。少しだけ」
天狗と河童の少女二人は立ち上がり礼を述べて勘定を済ませ店を出て行った。美宵は食器を洗い清潔な布巾で拭いて定められた場所に戻した。日めくりカレンダーを一枚破り取り裏返して帳台に置く。鉛筆を手に取り明日の営業に足りない材料を箇条書きにしていく。
美宵は店の中をゆっくりと見渡してから明かりを落とした。奥の座敷に音を立てないようにして移動し店主の男が安らかに寝息を立てていることを確認する。奥の間にはおしら様の木像が一柱だけ残っている。美宵は古びた杉の像とその左右でぽっかりと口を開けている空間を交互に見る。それから屋根裏に戻る。かつて身にまとっていた小袖を敷き布団の代わりにして横になり目を閉じる。
21 美しき宵に
美宵が黍粥をお玉でかき混ぜながら書見をしていると萃香が引き戸を開けて入ってくる。
お久、と手を挙げて彼女は席に座る。
続いてマミゾウ、そして射命丸文が入ってくる。同じように席につく。
美宵は手を止めて微笑む。「久しぶりに揃いましたね。皆さん」
「邪魔したくなくてのう」とマミゾウ。「少しは助けになったかね」
「店の広告、あなたの発案だったのですか」
「いんや。私ら三人さ」と萃香。「コイツは最初、嫌がったがね」
「美宵さんを落ち込ませるだけだと思ったんです」と文。「墓を掘り返すようなことはしたくなかった」
「最初に仰ったとおり記事になるような話ではありませんでした」
「まったくそうね」
「でも最後には広告に同意なさったんですね」
文は一合枡に注がれた透明な命の雫に目を注いでいた。
「あなたがまだ過去に囚われているように見えたから」
「そう、でしょうか」
「私にはそう見えた」
美宵はそれには答えずに店の引き戸に目を向けた。秋の長雨は今宵も続いている。だが先ほど看板をすげ替えたとき空は明るかった。明日はお客さんが増えるだろう。人間の客も。そして妖怪も。美宵は今まで落としていた行燈の明かりを強めた。三人の顔を順番に眺めて口を開く。
「……昔話も今宵が最後です」
三人の妖怪はうなずいて各々の盃や枡を傾け合う。
「乾杯」
「妖怪に」
「人間に」
美宵は後に続く。「……この世界に」
22 背中の扉
啓吉と瑠璃子の間には四人の子が生まれた。男の子と女の子が二人ずつ。最初の娘は三歳にもならないうちに流行り病で亡くなる。次の二人は若くして消え去る。最後の子供は平均の四十週を大きく超過して六十週を過ぎてもなお生まれてこず瑠璃子は寝たきりになる。赤ん坊は出たがらなかった。産婆は夜を通して付き添った。啓吉は書斎で腕を組んでじっと待った。赤ん坊が生まれたときが瑠璃子が末期の息を吐き出したときだった。
瑠璃子の葬儀が終わったとき啓吉は一日中里の道を歩き回っていた。美宵達は黙って彼の背中を見つめていた。その夜に啓吉は母親のなつに頼んで煮物の作り方を教わる。理由は云わなかった。彼は無言で里芋を切り分け鍋を火にかけ調味料を正確に測って入れる。
啓吉の娘は都会の女学校に行った。それに牡丹が付いていこうとした。
前から都会に行ってみたかったの。
と彼女は云った。おしら様の木像を捨てて娘の鞄に宿るのだという。柏は止めようとした。二度と戻れなくなると。戻ってこられなくてもいいと姉は云い切った。
――すっかり影響されたわね。柏が牡丹の肩をつかんで云った。姉さんは私達を見捨てるんだ。
もっと広い世界を見たいって思うのがそんなにいけないこと?
今の生活にうんざりしただけでしょ。
牡丹はしばらく間を空けてから妹の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
……ええ。そうよ。
柏が飛びかかり二人は屋根裏から階下に転がり落ちた。音はない。揉みあう二人の怒鳴り声が昇ってくるだけだ。酒蔵から紫蘇がのっそりと入ってきて二人を引き離す。
階下に降りた鯨が腕組みをして云った。行きたいなら行け。俺は止めはせんよ。
牡丹が服の埃を払いながら立ち上がる。
ありがとう。
後悔はしないな?
……最後におしら遊びをしてもらったのはいつ?
さぁな。
白粉を塗ってもらったのは? 着物を着せ替えてもらったのは?
…………。
私達はもう用無しなのよ。
だがお役目があるだろう。
スパイごっこのこと? ――クソ喰らえだわ。
鯨は腕組みを解いて小さな笑い声を立てた。そして屋根裏に戻った。
最後に牡丹は美宵に向けて云った。……好かったらさ、一緒に来ない?
さっさと行っちまいなさいよ。
あらそう。
牡丹は笑おうとしていた。目蓋が震えていた。
啓吉の娘は、――そして牡丹は帰ってこなかった。便りも絶え果てた。
奥野田家を除いた里の人びとは彼女の存在そのものを忘れていた。
やがて時間が経つうちに家の下女や男衆も彼女の記憶を喪った。
啓吉を除いた他の親族もそれに続いた。
◇
外で大きな戦争があり啓吉の上の息子は出征することになった。隠れ里のようになっていたはずの里の家々に次から次へと赤紙が届いた。若者のおよそ三分の一が外の世界へと旅立つことになった。里はにわかに騒がしくなった。
真っ先に不審がったのは鯨だった。
郵送なんてありえない。召集令状は役場から直接手渡しされるのが決まりのはずだ。
でもちゃんと角印は押してあったぜ、と紫蘇。間違いなく本物だ。
じゃあこれは何なの。
美宵の言葉に続いて柏が呟く。……そもそもこの里に役場なんてないじゃん。
美宵の兄は長いあいだ考えていたようだった。
翌朝になって彼は口を開いた。俺が行こう。
今度は柏だけでなく美宵も止めた。
鯨は二人の肩に手を置いた。――俺は牡丹とは違う。必ず戻ってくる。もう何もしないまま酒を飲んで待つのにも飽き飽きしてたんだ。長兄として少しは役に立たないとな。
押し問答の末にかならず帰ってくることを約束して柏は引き下がった。
夜になって美宵は家の外に兄を呼び出した。
兄さん。ねぇ、――役に立ちたいだなんて嘘でしょ。
何を云い出すんだ。
ただの自殺願望を英雄志願にすり替えてるだけよ。
…………。
兄妹は蛍の舞い散る柳の運河の道沿いを歩いた。美宵は後ろに手を組んでおり兄は指で唇の皮をつまんでは引っ張る仕草を繰り返していた。歩き続けながら彼は語りかけてきた。
多分、……あの赤紙は片道切符だ。
何を根拠にそんな――。
新しい結界が張られてからもうどれくらい経つ? 里はいつの間にかすっかり大きくなったが外に出た人間は一人たりとも帰ってこなかった。妖怪に襲われたわけじゃない。だが人は消え続けている。神隠しの逆だ。達者でいるにせよ彼岸へ渡っているにせよお偉いさん方はどうにかして人間の数を減らしたいらしい。
……でもそれも兄さんの想像でしょ。
かもな。引きこもっていると好からぬことにばかり考えが及ぶ。
――そこまで自覚してるのに往っちゃうわけ?
鯨はうなずいた。……最期にせめて、一度で好いから大切な家族の死に目に会いたいんだ。
気持ちは分かるけど。――でも私は反対だってことは忘れないで。
梅は昔から強情だもんな。
――梅って呼ばないで。
兄は再び肩に手を置いてきた。美宵はその手を振り払った。
……さよならは、云わないから。
ああ。
◇
戦死公報も小さな箱もない。出征した若者達はそのまま還ってこなかった。
人びとの想い出からも消えた。
鯨からの便りは届かなかった。
それから破滅の季節が始まった。分厚く日光を通さないがしかし雨をもたらさない雲が年中立ち込め作物は実らなくなった。柳の運河は地脈が尽きたかのように涸れ果てそれは井戸水も同じだった。
まず啓二郎が弟に刺されて死亡した。なつも後を追うようにして餓えと赤痢による衰弱で息を引き取った。瑠璃子は産褥で命を落とした。
厩別家は鍋にした毒茸にあたって全滅した。その前日、庭に出てきた大蛇を殺して焼いて食べていたことから蛇の祟りではないかと噂された。用事で外に出ており鍋を口にしなかった娘が一人だけ生き残った。彼女は食料を探しに御山に往きそのまま戻らなくなった。
酒は買い手がつかなくなった。そもそも原料となる米がないのだ。下女や男衆は全員暇をやるしかなくなった。屋敷は静まり返った。啓吉は一人生き残った息子とともに生活を立て直していった。届けられた天狗の麦飯で餓えを満たし河童の清水で渇きを癒した。
豊作の年が訪れて人びとが息をつけるようになると啓吉のもとに生き残った里の男達が何人か集まるようになった。彼らが訪れると啓吉は息子を奥に下がらせて話を聞かせないようにした。だが美宵と柏、それに紫蘇は違った。
里の男らは啓吉に訴えた。俺達も外に出ようと。あんたがその音頭をとってくれと。啓吉は最初のうち首を横に振っていた。俺達の問題はこの土地を離れたところで変えられるものではない、と訴えを退けた。彼らは日を改めて食い下がってきた。――外の生活が一筋縄ではいかないことは分かってる。でもここに暮らし続けて妖怪に喰われたり餓えて死ぬのは金輪際ごめんだ。俺にはたった一人残った娘がいる。あんただって息子が大事だろう。
客間はしばらく沈黙で満たされた。啓吉はあぐらをかいたまま目を閉じていた。眉間に苦悩のしわが浮かんでいた。美宵と柏は息を止めて彼の決断を待った。
…………もう何をしても手遅れだと思うが。啓吉は口を開いた。それでも、――俺達が行動することで何かを変えられるかもしれない。
それが答えだった。
その日の夜に美宵の制止を振り切って妹は彼の前に姿を現した。
柏は坊っちゃんと呼びかけた。
啓吉は無言で布団から起き上がって呟いた。……ようやく、俺の番か。
――ちがう。柏は激しく首を振ってからうつむく。そうよね。……覚えてるはずないか。
君は。
あなたの友達。荷車に乗せて遊んであげた。他にもたくさん。ずっと一緒だった。
啓吉は頭を下げた。……すまない。思い出せない。
いいの。それでも。
柏は彼の手を取った。啓吉の手は実際の年よりもずっと老けこんで見えた。
……あなたに、考え直してもらいたいの。
昼間の会話のことを柏は持ち出した。啓吉は決意を改めようとはしなかった。
――本当に俺のことをずっと見守ってきてくれたのなら。分かってくれるだろう。
彼は静かに語った。
……人生は打ちのめされることの連続で。哀しいことばかりだ。昔、俺は運よく大学に通うことができた。そこで自分が生かされている意味を探そうと思ったんだ。答えだけなら本の中に沢山用意されていた。ある教えではそれこそが神様から与えられた試練なのだと書いてあった。またある教えはその障碍(しょうがい)にめげずに徳を積むことが道を開く鍵なんだと主張していた。俺はそのどれもが違う気がしていた。これこそはと没入して読み漁った哲学書も何冊かある。魔法にかけられたみたいに夜を徹して読んだよ。――しかしどんなに優れた魔法も三日経つと解けていた。
啓吉はひと息入れて続ける。
……それで最近になってやっと分かった。俺はこの時を待っていたんだ。
答える柏の声は掠れていた。……死ぬために生きてきたって、そう云いたいの?
ああ。
啓吉は微笑んだ。
一度だけ俺は聖書も読んだことがある。内容はあまり覚えていないがひとつだけはっきり記憶に残ってる物語があった。出埃及(エジプト)記だ。そこに出てくるモオセが神の啓示を受け人びとを引き連れて埃及を脱出する。だが葦の海で追い詰められる。それでモオセはどうしたか。――海を割ったんだ。奇跡を起こしてな。そして彼らは約束の地を目指した。
柏が笑い声を上げた。泣き笑いだった。
……自分にそんな奇跡が起こせると思ってんの? あの結界を破ることができるような?
そういうことじゃない。男は首を振る。大事なのは“彼らが黙ってなかった”ということだ。
柏はかけるべき言葉を失いうつむいた。
◇
……で、梅。お前はどうするんだ。
もはや使われていない酒蔵で紫蘇が訊ねてきた。
私は――。美宵はすでに心に決めていたことを伝えた。――私は、自分の役目を果たすよ。この家を、……この場所を守らないといけないから。
そうか。
反対しないの?
それがお前の本分なんだろ。なら邪魔はせんよ。
素っ気なく答える紫蘇に美宵は礼を述べた。
◇
明け方、双子の童子が美宵に伴われて奥野田家の門前に現れた。
柏は彼女らをひと目見ただけで何が起ころうとしているのか悟ったようだった。顔を歪めて美宵の胸倉をつかみ上げてきた。涙の滲んだ瞳の奥で火花が散った。
――この、裏切り者……!
裏切り者はどっちよ。美宵は怯まずに答える。お役目を忘れたの?
――取り込み中悪いんだけどさ。
丁礼田舞が素振りでもするように手に持った笹を揺らしながら云った。
ここで間違いないんだよね?
さっさと仕事を済ませちゃいましょう。
と爾子田里乃。
還りはどれを使うんだっけ?
北に四百三十。東に二百五。
了解。
柏の制止を振り払って二童子は屋敷に上がりこみ啓吉の枕元に立った。彼は最初から目を覚ましていた。一晩中起きていたのかもしれなかった。
部屋に飛び込もうとする柏を紫蘇が後ろから羽交い絞めにする。美宵はその横に立って二人の童子が笹と茗荷を振って踊るさまを眺めていた。啓吉は童子と美宵達を交互に見た。彼は微笑みを浮かべた。二童子の動きが一瞬止まったがすぐに踊りを再開した。催眠にかけられたかのように啓吉の顔から徐々に生気が失せていき踊りが終わるころには彼は動かなくなっていた。
美宵は腹の底に溜まっていた息を吐き出した。紫蘇が解放すると柏はその場に膝を突いて泣きじゃくった。
仕事を終えた舞は啓吉の目蓋を閉じると遺体にお疲れさまと声をかけて立ち上がった。
……じゃ、また何かあったら報告よろしくね。
いや――。美宵は首を振る。これが最初で、……最後よ。
へえそう。
この人が初めてじゃないのよね。里乃が遺骸の肩をそっと叩きながら云った。この里から指導者を出すわけにはいかないの。徒党を組んで逃げ出すこともね。それがお師匠様の、――あの方々の方針だから。許してちょうだいね。
屋敷の門前で二童子は回れ右し深々とお辞儀した。そしてその場から立ち去ろうとしたとき後ろから柏が飛びかかろうとした。だが舞の背中から生まれた扉がバタンと開いて座敷わらしを跳ね飛ばした。柏はその場に転がった。舞の扉から出てきたのは狩衣を身にまとった金髪の少女だった。
――こらこら。うちの丁礼田に何をする。最近やっと使い物になってきたんだぞ。
お師匠様。
なんだ。
僕の背中を使うのはできれば止めてほしいのですが。
生意気を云うな。それより今回こそはちゃんと私の鼓(つづみ)なしでも踊れたのだろうな。
問題ありません。里乃が答える。眠るように亡くなりました。
ならいい。前みたいに抜け殻にしたら承知しないからな。
はい。お師匠様。
美宵は柏を助け起こそうとしたが手は振り払われた。
柏は震えながらも賢者に向かって声を張り上げた。
坊っちゃんを返せ。舞ちゃんと里乃ちゃんを返せ。――みんなを返してよ!
“分をわきまえろ間諜風情が”と云ってやりたいところだけど――。少女は後戸の縁に頬杖をつき微笑んで云った。あまりに酷だから少し教えてやろう。私は他の連中みたいに過保護じゃない。何もかも総てはこの世界を守るためなんだ。
世界。なにが世界よ。そんなの――。
お前の目から見ればどれほど愚かしく思えようとも最善の手は打たれ続けてきた。今日も空は目に痛いほどに青く星は月よりも増して煌々と輝いている。心配せずともいい。これからこの世界はますます色彩豊かで活気に満ちた場所となるだろう。そのための布石はすでに打たれている。
ぜんぶ必要な犠牲だったってこと……?
驕ってはいかんぞ。賢者は答える。“犠牲”ではない。――人の死は例外なく“自然の成り行き”だ。
柏は怒号を上げて少女に突進した。賢者は鼻を鳴らすと座敷わらしの拳を楽々とかわして胸倉を引っ掴みその勢いを利用して扉の奥へと投げ入れた。柏の怒りの声が悲鳴に染まりそれも遠ざかって聞こえなくなった。
……やれやれ再教育が必要だな。少女は扉の取っ手に手をかけて云った。お騒がせしてしまったようだ。
美宵は手を前に差し伸ばした姿勢のままずっと固まっていた。
か、柏は? ――あの子はどうなるんです?
心配せずともお焚き上げにはせんよ。人手不足だからな。記憶を消して別の家に宿らせるさ。
…………。
――もう会うこともないだろうから礼を云わせてくれ。どれほど強大な妖怪を相手どるよりも徒党を組んだ人間のほうが何十倍もこの世界にとっては危険なんだ。情に流されずによくやってくれた。お前達のことは覚えておくよ。
彼女は手を振ってから扉を勢いよく閉めた。ぐふっと呻き声を上げる舞の背中を里乃がさすってやる。双子の童子は何も云えないでいる美宵と紫蘇に会釈して立ち去ってしまった。あとには座敷わらしと、蔵ぼっこと、――そしてたった一人を除いて空っぽになってしまった屋敷だけが取り残された。
……これからどうするんだ。
紫蘇が隣に立って云う。美宵は自分の手のひらを見つめる。
どうしようか。彼女は呟いた。……本当にどうしようか。
私に聞かれても困る。
――どうしよう。
美宵は門柱にもたれかかって何度も同じ言葉を繰り返した。
どうしよう。どうしよう。どうしよう……。
幼い少年が父親を呼んでいる声が屋敷から聞こえてきた。
美宵はふらつきながら声のする方へと歩いていった。紫蘇は二童子が消えていった道の向こうをぼんやりと眺めていた。それから美宵の後を追って屋敷に戻った。
23 エピローグ 楽園の酔夢、あるいは酔夢の楽園
その時間帯はまだ蚕喰鯢吞亭は開いていない。
人間向けの宵の刻。
美宵は人の常連客に初めて黍粥を振る舞った。塩と和風だしで味付けしたシンプル極まりない味わい。だが酒と煮物で膨らんだ腹に〆の一品としては悪くない好評ぶりだった。常連の人びとは心なしか口数少なく粥を味わった。
「懐かしい味だァ」と大工の頭が云った。「小せェころに似たような粥をお袋が作ってくれたよ」
何人かが同意してうなずいた。
美宵は曖昧な笑みを浮かべて礼を述べる。しばらく黙りこんでいたが意を決して彼らに問いかける。
「……皆さんが食べていたそれは、本当に皆さんのお母様がお作りになったものでしょうか」
「ああ。間違いないぜ」
「お粥ですらない、土の塊のような何かだったりは」
「おいおい美宵ちゃん」材木屋の主人が徳利を傾けながら笑う「酔っ払い親父だからってあまり阿呆のように思わないでほしいもんだ。ばっちり覚えてるよ。むしろここ最近のことよりもそうしたガキん頃の想い出の方が印象に残ってるくらいだぞ」
「――それって要するにボケが始まってるってことじゃねェか」
大工の言葉に一同は大笑いする。美宵もそれに合わせて笑う。だが声はうまく出てこなかった。
◇
秋の長雨は終わり収穫の時期は過ぎて冬の足音が聴こえてきた。
その夜。蚕喰鯢吞亭の最初の客は萃香だった。
小鬼はその日、酒はほどほどに控えて煮物やら刺身やら野菜炒めやらを注文しては港町の定食屋か何かのように黙々と食べていた。そしてその日の釣果を確認するかのように何気ない調子で訊ねてきた。
「――啓吉の坊っちゃんが生命力やら精神力やらを吸い取られて亡くなった後のことなんだが」
「ええ」
「屋敷はそれからどうなった」
「取り壊されました。買い手がつかなくて。子供一人が暮らしていくにはあまりに広すぎましたし。門や壁の建設の際の区画整理で昔からあるたくさんの家屋がなくなりました。馴染みの座敷わらしの皆もその時にほとんど姿を消しました。あるいは姿形も記憶もなくして生まれ変わったのかもしれません」
「じゃあお前さんは――」萃香は唇の端を歪めて云った。「“家”という何よりも守りたいもののために心無い決断を下し続けた結果、――ついにはその家そのものを失うことになったわけだ」
美宵は力なく笑ってみせた。「…………本当に皮肉なことです」
「生き残った子は孤児、か」
「ええ。私はあの子に付いていきました。紫蘇とはその時に別れました」
「この店は」
「あの子が懸命に働いて土地を一部取り戻したんです。それで鯢吞亭を始めました」
「ずいぶんと頑張ったんだなァ」
萃香はそれを聞いてからようやく盃に酒を注いだ。右手に持った盃を掲げて乾杯の意思を示した。美宵も自分のお猪口でそれに応える。
「……やはりあの時代のことは、――今の人間はほとんど覚えていないみたいです」
「語り継げる人間がみんな死んだからか」
「違うと思います。うちの店主は健在ですし。他にも生き残った人間は沢山います」
「じゃあどうして」
美宵は注がれた酒にじっと視線を注いでいた。「私達座敷わらしが一斉に偽の記憶を植えつけたからです」
「ああ……」
「そうでなくとも皆さんは無意識に思い出さないようにしているのかもしれません」
「あまりに辛い記憶だからか」
「ええ」
「みんな都合の悪いことは忘れちまうもんだね。お前さん達が酔わせるまでもなく」
美宵はお猪口を大切な宝物か何かのように両手で持っていた。
「……この世界に棲んでいる人は、――私も、人間も、妖怪も、神様でさえも、皆ずっと酔っ払っているんじゃないかって思うときがあります」
「どういう意味だい?」
「外から隔絶されたこの世界で覚めない夢を繰り返し見続けているんです。もはやお酒を呑むまでもありません。素面(しらふ)ではたどり着けない場所ですから。一度ロオタスの実を口にしたらそれまで。――美しき宵の日々にただ浸り続けているのだと」
萃香は波に揺られる船のように盃をぐるりと回した。
「……昔、私の知り合いはここを揺りかごだって表現してたね。そういや」
「否定したいわけじゃないんです」美宵はうなずいて続ける。「ただの感慨です」
「ああ分かるよ」
何だか今宵は一人で飲みたい気分だな、と云って萃香は早めに切り上げて席を立った。
去り際に彼女は訊ねてきた。
「……そういや化け狸の大将が話してた本のことだが」
「本、ですか」
「“邯鄲の夢”の結末を改変した奴だよ」
「『黄粱夢』ですね」
「あの結末に対するあんたの答え。まだ決まってないのかい?」
「…………」
美宵は目を閉じる。心の奥で言の葉を諳んじる。
“夢だから、なお生きたいのです”
――少女は徳利からお猪口に酒を注ぐ。
“あの夢のさめたように、この夢もさめる時が来るでしょう”
――ひと息に飲み干す。
“その時が来るまでの間、私は真に生きたと云えるほど生きたいのです”
――長い吐息を漏らす。
“あなたはそう思いませんか”
美宵は口を開く。「私は……」
◇
「ご無事ですかお師匠様?」
仰向けに倒れ伏した摩多羅隠岐奈の顔を覗き込みながら舞が訊ねた。里乃があらあらと云いながら横倒しになって車輪を空転させている車椅子を引き起こす。ずり落ちて顔に被さっていた冠を手で払いのけて隠岐奈は呟く。
「おい爾子田。椅子よりも先に私を起こすべきだろう」
「ごめんなさい」
「丁礼田も見てないで手を貸してくれ」
「はぁい」
「なんてポンコツな野分達だ」
車椅子に座りなおした隠岐奈は額をさする。舞が差し出した絆創膏を貼って光弾が突然飛び出してきた後戸を点検する。
「北に三百二十。西に八十。なんだ八ヶ岳か」
二童子が揃って首を傾げる。
「天狗の御山ですか」
「前に鴉天狗の記者が殴りこんできましたね。そういえば」
「宣戦布告だー」
「お師匠様が目立ちたがって存在を公になさったせいです」
隠岐奈は里乃の頭をぽかりと叩く。「――ひと言余計だ」それから扉を隙間なくぴったりと閉める。
「……誰かが私の力を勝手に借りて命名決闘に利用しているようだ」
「それってヤバいんじゃないですか」
「もしかしなくても大ピンチなのでは」
隠岐奈は人差し指であごをさすってみせた。笑みを浮かべて何度かうなずく。
里乃が横から顔を覗きこんでくる。「……お師匠様。ずいぶん興が乗ったお顔ですね」
「いやはや……」隠岐奈は目を閉じて云った。「怪我の功名とはこのことだ。姿をさらした甲斐があったな。臆せず後戸を利用し返してくるとは見上げたものだ。――やはり障碍の民とはこうでなくては」
舞がつられて笑う。「またお師匠様が訳の分からないこと云ってる」
「丁礼田。それに爾子田。誇りに思いなさい。お前達の献身は無駄ではなかった」
「僕達はご命令されたことをやってるだけですよ」
「誇りに思えって云われても今いちピンと来ないです」
「それでもいいよ」
隠岐奈は両腕を差し伸ばして二童子の頭をかき抱き自身の胸に引き寄せた。舞と里乃は目を見開いて主人の顔を見上げていた。
摩多羅神は繰り返した。「……それでいいんだ」
◇
蚕喰鯢呑亭の閉店時間になり美宵は看板を付け替えるために外に出た。
声がした。美宵は振り向いた。
声の主は云った。「――酔いはまだ醒めないか?」
「…………ええ」美宵は微笑んで云った。「まだよ」
「そりゃ好かった」
紫蘇はそう云った。
席につくと紫蘇は鯢呑亭自慢の煮物を口にする。
「……細部は多少違うが」彼女はうなずく。「あの時の味のままだな」
「ええ」
「お前があの子に教えたのか」
「そうよ」
「鯨に牡丹、柏の消息は?」
美宵は首を振る。
「そうか。あいつらのことだから達者にしていると思うが」
「私はそう信じてる」
「婆さんの黍粥はまだあるか」
「うん」
「じゃあそれも、――ああいや」
紫蘇は急に席を立つ。
美宵は首をひねる。「どうしたの」
「たまにはこっちに来い。私が給仕する」
蔵ぼっこはそう述べて帳台を回りこんだ。豊かすぎる長髪をあちこちに引っかけて悪態をつきながら。云われるがままに美宵は交代して席につく。紫蘇は煮物と黍粥、そして酒を振る舞う。
「さあ召し上がれ」
美宵は半笑いの表情で云う。「突然なによ」
「いいから食え。肩の力を抜け」
分かったわよ、と答えて美宵は食べる。ゆっくりと味わって咀嚼する。
しばらくしてから紫蘇が訊ねてくる。
「……後悔したことはあるか」
「ないと云いたいけど」美宵は箸を置いて云う。「正直、……分からない」
「お前達がやってきたのは――」
紫蘇は咳払いして云い直す。
「私達がやってきたのはこの世界を作り替えるお手伝いだ。幻想で酔わせ真実に蓋をする。私達がバラまいた幻想はこの里を覆いつくしてしまった。この店の名前みたいにな。時には非情な決断を下さざるを得ないときもあった。多くの同胞がその重責に耐えきれずに落伍していった。――それだけのことをやってのけたってのに今やってるのは場末の呑み屋で一期一会の出逢いと別れを繰り返すだけの毎日だ。誰の記憶にも残らないまま。何千回もの“はじめまして”を繰り返してな」
「なにが……」美宵は席から腰を浮かせ低い声で呟いた。「なにが云いたいのよ」
紫蘇は一度、うつむいた。それから顔を上げて云った。
「……お前は本当に頑張ったよ」
そして中身の残った酒瓶の口を差し出してきた。
美宵は盃を掲げた姿勢のまま固まった。それにとくとくと清い酒が注がれていくのを静かに見守っていた。涙がひと筋、酔いで紅潮した頬を流れ落ちていった。後から後からそれはあふれ出た。つがれた酒を呑もうとしたが手が震え喉が塞がって吞めなかった。盃を置いて片手で目元を覆った。クジラを象った帽子がずり落ちた。嗚咽を上げている美宵を紫蘇は黙って見つめ続けていた。
◇
紫蘇は手を挙げた。「……じゃ、またいずれな」
「ええ」美宵は答える。「ありがと」
「ごちそうさま」
腐れ縁の少女は下ろされた夜の帳(とばり)の奥をゆっくりとふらつきながら歩いていった。その背中が見えなくなるまで美宵はじっと立っていた。白く濁った息を吐き出した。酒が恋しくなるような冬の近しい夜だった。ちょっぴり呑み直そうかな、と呟いて振り返り店の看板から“蚕喰”と書かれた木札をそっと外した。残るは鯢呑亭という筆文字に鯨の意匠。
視線を上げればそこには店があった。彼女の家があった。美宵はお腹のところで手を重ねて古びた戸の黒ずみから瓦の一枚一枚についた瑕(きず)に至るまで丹念に眺めていった。彼女は流れ星に祈りを込めるかのように両手の指を組み合わせた。そして呟いた。
――たとえ一炊の夢でも、これが一炊の命でも……。
美宵は目を開いた。願いを乗せた吐息を夜空に溶かして前へと歩き出した。そして店の戸を閉めてそっと明かりを消したのだった。
~ おしまい ~
(引用元)
Ernest Hemingway:Big Two-Hearted River, Hemingway's first collection;In Our Time, Boni & Liveright, 1925.
高見浩 訳(邦題『二つの心臓の大きな川』),短篇集『われらの時代・男だけの世界』所収,新潮文庫,1995年。
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感想は上手く言葉にできないけれど、このしんどい長旅の果てに美宵が申し分のない場所にいることを願わずにはいられない。
無力さというより無常さでしょうか。
喩え立場は神様の端くれであったとしても、人と同じ目線で家と共に歩む座敷童子で、それこそ他の妖怪のように秀でた能力を持たない者達であったからこそ、作中で醸し出された彼/彼女らのやや人間臭い感性に感情移入させられてしまったのでしょう。
だからこそ、長年連れ添った座敷童子も散り散りになる中で家を守る為に私を押し殺し、座敷童子としての御役目を果たす美宵が終盤描かれてからのその無常さに読んでいて胸が裂けるような思いをしたのです。
そこに至るまでに連綿と紡がれた二代以上に渡る物語の殆んどに自らの手で蓋をして、かつその悲哀を共有出来る人が誰も居なくなろうと尚も生き続ける美宵の姿は、序盤で枕中記と黄梁夢の違いというニュアンスで語られた事によってある程度の胸中は察すれど、そこまでの他の座敷童子達と仲睦まじくやってきた描写を書き連ねられていたからこそ、その対比に重苦しくのしかかられたと言っても過言ではありませんでした。故に、最後に現在の時間軸においてトリを飾るのが紫蘇であった事に救いを覚えたのだとも。
思うに、この物語が前半部分で座敷童子という客観的な視点で妖怪の被害の無情さを演出し、後半部分でその被害に関わった妖怪達が当事者目線でその一人一人の物語に救いを齎していたこの構成があった事によって、美宵の胸中にあった苦しみを取り除く――つまるところ、最初に引用されたヘミングウェイの『二つの心臓の大きな川』のニックと同じ自己救済が綺麗に為されていたのかもしれません。
後、この物語の中の一要素として欠かせないのはやはり人間目線での命に対する視点だったと思えます。
長命の妖怪達とは違って簡単に隣人や家族が喪われる世界で登場人物が何を思いどういう最期を遂げたのか、それを自然の摂理として受け容れる者や最後まで縋り続けた者、そして何も知らずに死んだ者と実に十人十色で。
でも彼等は誰も彼もがロータスイーター足り得ず、王道物語のなんでも成し得て苦境も乗り越えられる王道の主人公には成れやしないのです。
それでも啓吉はモーゼの奇跡を『大事なのは“彼らが黙ってなかった”ということだ』と評したように、それを行動に移す勇気に命を見出して夢の目醒めまでを精一杯生きる様を克明に映していたのがとても印象深かったものでした。
そしてそれが最後の美宵の意思表示へと通じ、最後の最後に涙を落としていたのが自己救済の終端となって、気持ち良く店を仕舞うラストに繋げてくれた事が読了後までの感情の持続を演出していたのが実に良かったのです。
時代的にそうあるべき描写表現への拘り、『枕中記』や『貧福論』や『オデュッセイア』といった作品を絡めて人の生について酷に克に描いた物語、そして『二つの心臓の大きな川』でもそうであったように読者に没入させる為に客観視点に徹した美的な描写といった特徴によって、この作品は本当に感情移入させる為の技術が巧みに用いられていた強烈なものでした。
この癖になるような重厚さが面白さに直結しており、胸を震わされる気分で一杯です。ありがとうございました。ご馳走様です、また来ます。