※この作品は、作品集95「the Fairytale of the Girls 1st.」の続編となっております。
無音の砲声が鳴り響いたことを、少数の者だけが理解していた。
飾り気のない真っ白な衣装を、レミリア・スカーレットは好んでいた。
五百年を生きた吸血鬼ともあれば、世の人々の通俗的なイメージとして幾重にも布地を重ねた豪奢なドレスに身を包むのが似合いとされそうなものだが、そのような見方に迎合する必要を彼女は感じない。そもそもが、外見は十歳やそこらの童女である彼女が豪奢なドレスを着こんだところで、童の微笑ましい背伸びにしか見えぬという理由も確かにあるのだが。
四百年ほども昔、彼女はその身にまとった純白を朱に染め、紅い悪魔の異名をもって囁かれた。今となってはその小食さゆえ、「食事」の際にいつもこぼして服を真っ赤にしてしまうから、という何とも締まらない理由がその名の所以になってしまっているが、昔は――吸血鬼が外界の伝説そのままの悪魔として語られていたかつては、スカーレット・デビルは恐怖そのものの代名詞であったのだ。
レミリア自身はそうした呼び名の由来の変遷を、苦笑と共に受け入れていた。
誇り高き夜の貴族は世のすべてを戯れとして受け取るだけの余裕を備える。この国に古来から住まう鬼どもであれば、「粋」という言葉で表現するだろう。
いかに幼く見えようと、彼女はやはり五百年を生きた吸血鬼であった。
十年以上も昔のことを、レミリア・スカーレットは思い出す。
外の世界からこの幻想郷に異動してきたばかりのあの頃。
そのときスカーレットの一族は、当主であるレミリアの父を筆頭に、分家・眷属も含め三十名近くが系譜に名を連ねていた。
レミリアは、父とはあまり折り合いが良くなかった。というより、はっきり険悪だった。
運命を操作するとまでいわれたレミリア、あらゆるものを破壊するフランドールの姉妹は、音に聞こえたスカーレット一族の中でも際立った力を有しており、危険視されていたのが最大の理由だった。
父は齢五百年足らずにして早くも自身を超えてしまった娘に、肉親としての情よりもスカーレットの当主として嫉視、あるいは畏怖をも覚えていたのだろう。必要以上に当主として肩肘を張り、誇り高き吸血鬼として見栄を重視する父の姿は滑稽であり、哀れでもあった。
彼女自身は当主の地位にさしたる興味はなかった。真の強者は執着を持たない。ただ存在することによって君臨し、睥睨する。あるいは父は、娘の持つ天性の覇者の資質にこそ恐怖していたのかも知れない。
恐怖は暴走に変わり、やがて幻想郷全土の征服という野心に転じる。
レミリアにして見れば笑えぬ喜劇、無様の極みと称すべき事態ではあった。他者を従属させるにいちいち力を用いるなど、彼女の価値観からすれば笑止の限りだ。そのようなことをせずとも、真の強者、真の貴族には自然と他者が従ってくる。弱者とは踏みにじり支配するものではなく、庇護し治めるべき対象だ。
――生まれついての強者であり、同族の中でも際立って強大であったレミリアには、ついに父の心境を理解することができなかったのだ。
一応、補足するならば、父を含むスカーレットの一族が特に弱く卑小だったわけではない。
事実彼らは、幻想郷侵略を開始してほんの一週間の間にいくつかの妖怪の集落を攻め落とし、天狗の群れとも互角に渡り合った。必要以上の殺戮を好まず、降伏した者に対してはまず寛大といってよい処遇を約束し、勇ましく戦った敵には称賛を惜しまなかった。力量といい器量といい、一族を統べるにまず不足ない存在ではあった。
ただ、レミリア・スカーレットが、その父よりさらに高い場所にいた、それだけのことだ。
彼女は父の引き起こした戦争を「雅に欠ける」の一言で斬って捨て、留守居役という名目で紅魔館に事実上幽閉されていた。連日のように届けられる戦勝の報を、他人事のような醒めた視線で眺めていた。
運命を操るとまでいわれるレミリア・スカーレット。
その所以は、無数の糸で織られた運命という名の現実を解析し、自身の望む最適の一糸を手繰り寄せることにある。幼い外見からは想像もできぬほど多くのものが彼女には見えていたし、その未来も予見できていた。
その眼が見るところ、幻想郷の征服などまさしく破滅への暴走でしかなかった。
父の力は正当に評価していたし、一族の者どもの実力も知っている。しかしそれでも、幻想郷に住まう強者が牙を剥けば、行き着く先は極彩色の敗北しかありえなかった。
レミリアの読みでは、一ヶ月後には侵攻が停滞し、ほどなく総力戦に移行。この地に満足な兵站の根拠地を持たない一族は防戦に転じ、半年後に最終決戦という名の軍事的冒険に追い込まれて半数の吸血鬼が死亡、父の首と引き換えに講和が結ばれる。
それで終幕、というのが彼女の結論だった。
請われれば既定の事実を語るかのようにその過程を説明できたであろう彼女の読みは、しかし現実となることはなかった。
運命を操るとまでいわれたレミリア・スカーレット。
しかしその彼女ですら、侵略開始からわずかに十日後、侵攻に参加した吸血鬼すべてが一夜にして皆殺しになるなどとは予見できなかった。
あまりに唐突で冷酷なその終焉をもたらしたのは、当時十歳にもならぬ人間の小娘。この地を守護する博麗の巫女、その務めを継いだばかりの童女であった。
それからしばしのときを――吸血鬼の尺度からすれば瞬きほどの時間を、紅魔館はひっそりと過ごした。
鏖殺された一族。主だった部下のほとんども、塵一つ残さず消滅させられた父と運命を共にしていた。わずかに残ったのは館の食客でありレミリア個人の友人でもあったパチュリー・ノーレッジ、そして館の守備を仕切っていた紅美鈴(彼女はその昔、レミリアが生まれて間もない頃から守役としてつき従っていた)、妖精のメイドたち。やがて、十六夜咲夜なる異能を備えた人間の娘がそこに加わった。
静かで穏やかな日々に、レミリアは満足していた。父のような野心とは無縁だったし、その報復を考えたこともない。もとよりそんな情愛に充ち溢れた父子ではなかった。
その身に有り余る力と狂気を孕んだ妹が頭痛の種となることもあったが、それでも可愛い妹のこと、長ずれば父どころか自分すらも凌ぐ誇り高き吸血鬼となるであろうことを彼女は疑わなかった。
ただ、生まれて初めて彼女の予見を覆した博麗の巫女、父を含む吸血鬼の群れを一夜にして殲滅した童女についての興味は失われなかった。
紅霧異変を引き起こしたのは、それが理由の一つでもある。
あの博麗の巫女が、十年前に一切の容赦も微塵の呵責もなくスカーレット一族を殺戮した怪物が、お遊びの決闘ともいうべきスペルカード・ルールなるものを制定した。
その心理も実力もまことに計り難く、底知れない。ならばそのお遊びの決闘、お遊びの異変に乗ってやるのもよい。
……彼女は今でも覚えている。
運命を操るとまでいわれたレミリア・スカーレット。
その彼女が生涯初めて敗北を認めた、あの瞬間を。
もとより事態の落とし所について、レミリアは運命を操ると謳われた知性でもって考えてはいた。仮にかの巫女の実力が期待外れであったとしてもそれはそれでよし、適当に遊んで適当な条件で矛を収めてもいい。期待通りのものであった場合は――自身の首を差し出して部下の助命を請うというのも一つの選択肢。そう考えていた。
だが、博麗霊夢は生来の強者であったレミリア・スカーレットのさらに上をいった。
お遊びのスペルカード・ルール。命の奪い合いよりも見た目の美しさと創意工夫を楽しむことを本分とするそのルールは、対戦者に敗北を認めさせることが唯一の勝利条件となる。
ただし、スペルカード黎明期たるこの時期、その前提はよく理解されているとは言いがたかった。ありていにいうならば、勢いあまって対戦者を殺してしまってもそれはそれでれっきとした決着、と考える者が多かった。
実のところ、そうした思考はレミリアにすらあった(自分の首を差し出して事態を治めることを当然の選択肢に考えていた理由でもある)。いざ博麗の巫女と相対したとき、彼女は人体など容易くちぎれ飛ぶほどの威力を乗せた弾丸を雨霰と放ったのである。レミリアにして見れば、わざわざ力を弾幕の形にしているのだからそれでよかろう、という解釈だった。
だが、博麗の巫女は桁が違った。あらゆる弾が素通りしていくかのような無力感。にも関わらず、煌びやかな法術の弾幕がレミリアを撃つ。我の攻撃が意味をなさず、彼の敵手の攻撃のみが威を持つ。それでいて、それらの攻撃は実に的確に破壊力を落とし、手傷を負うことはない。完全にして絶妙の手加減。
レミリア・スカーレットは理解した。自分はこの巫女にとって、手加減して然るべき相手なのだと。勝負の体裁を成しているのは、スペルカード・ルールという縛りがあるが故。 最強クラスの大妖を一般の人妖の領域に引き下げるその決闘法は、レミリアを縛る以上に巫女の天才を制限していた。
強者はさらなる強者を知る。レミリアは生まれて初めて自分より格上の存在というものを知った。博麗霊夢はレミリアに敗北を認めさせた。
その気になれば館ごと住人を消し飛ばせるだけの実力を備えながら、結局あの巫女は誰ひとり殺すことなく異変を終わらせたのだった。
以降の日々は、まるで楽しい祭のようなものだった。
様々な異変があり、多くの人妖と知り合った。
博麗神社の宴会で、紅魔館のパーティーで、レミリア・スカーレットは博麗霊夢と親しみ、時には肩を並べて異変を解決した。
口に出すのは無粋の極み故、それと表したことはないが、かの巫女は確かにレミリアの友人であり、格上と認める天才であった。
今、その友人がその生涯の最期を迎えつつあり、一つの望みをあらわにした。
ならば我は友として、誇り高き吸血鬼として、その想いに正面から答えよう。
運命は囁く。それはまさしく破滅への暴走だと。かの怪物に勝てるものなどこの世にいない。あれに限っては殺し合いという言葉はなく、片殺しにしかならないと。
だが、それがどうしたというのだ。
弱者を踏みにじるは無様の極み。
強者に挑むは戦の嗜み。
友に応えるは我が誇り。
一体何の不都合がある。
レミリア・スカーレットは翼を震わせた。
――ドアがノックされ、典雅な雰囲気のメイドと、どこかのんびりとした雰囲気の門番が入室してくる。そしてもう一人、昨日この館を訪れた招かれざる客人も。
メイドと門番は、平素と変わらぬ物腰だった。すなわち、主と決めた永遠に幼い紅き月に、地獄の底までつき従うことを当然とする態度。
「館内のすべての妖精メイドには、事後の一切は言い含めてあります」
囁くような声で、完全にして瀟洒な従者はいった。
「十六夜咲夜、並びに紅美鈴。両名とも、お嬢様にお供致します」
「ついてくるなら免職だ――といっても無駄か」
レミリアは苦笑した。
「当然ですわ。狗は首輪を外されても主の後ろについて回るもの」
「まあ、あの巫女とは何だかんだで縁がありますし」
すました顔の咲夜とは対照的に、美鈴は朗らかですらある。悪魔の館の門番らしからぬこの門番は、親しみやすいと人里でも評判の(本当に悪魔の下僕かといいたくなる評判ではある)人柄だが、本質的には咲夜以上に徹底した武人肌だ。判断・行動のすべてにおいて命のやり取りを当然の前提として考えている価値観は、レミリアに近いものがある。得意とするのは無手の武芸故、スペルカード・ルール下の決闘こそ不得手にしているが、本物の闘争となればこれほど心強い味方はいない。
「本来なら、一対一で戦うのが筋というものなんだけどね」
レミリアは肩をすくめる。二人の忠節はこの上なく嬉しいが、それだけが不満でもあった。
「そりゃ無理だぜ」
その場にいた最後の一人が口をはさんだ。
「適当に手を抜かれて、死なない程度に返り討ちにされるのが落ちだ。つまり、今までと変わらん」
「わかっている。口惜しい事なれど、この身一つでは到底あれには及ばない。戦にすらならないし、応えることもかなわない」
本当に悔しそうに、レミリアはいった。
「だから私はお前の口車に乗ろう。ヘマをしてくれるなよ、――魔理沙」
それは静かに、着実に始まっていた。
森から鳥の囀りが失せた。
川からは魚が姿を消した。
獣たちは何かに脅えるように巣穴に籠り、灰色の雲が吹き荒ぶ大気に流されて行く。
人妖たちの多くは口々に囁き合った。
この幻想郷それ自体が、近く消え逝く巫女を儚んでいるのだろうと。
たしかに、そう噂されても当然の一面はあった。
幻想郷の守護者、異変解決の専門家、そして調和の守り手たる博麗の巫女。
歴代最強の天才にして、幾多の人妖の敬愛を集めた少女。
事実彼女の代になって、幻想郷は多くの転換点を迎えた。
かつて吸血鬼事変を起こし、以後も何かと忌避されてきた紅魔館が毎月のパーティーに人妖を招き、広く親しむようになったのもそうだし、冥界はいまや桜の名所として知らぬ者はない。
迷いの竹林では永遠亭がその長い沈黙を破って衆目に姿をさらし、やがてそこに住まう名医が人里にも頼りにされるようになった。
閉鎖的な山は新参の神を迎え入れ、徐々にだが来訪者に門戸を開きつつある。
百数十年ぶりに鬼が姿を現し、ついには天界にも出入りして呑めや歌えの宴会を開く。
忌み嫌われていたはずの地底の妖怪までもがしばしば地上に出てくるようになり、人里近くには宝船から転じたとされる寺が「縁起がいい」として信仰を集め始めている。
故に多くの人妖は噂しあった。かの巫女こそはまさしく幻想郷に愛された少女。
それとの別れを物言わぬ草木すらも惜しんでいるのだと。
――無音の砲声が鳴り響いたことを、少数の者だけが理解していた。
「つまり貴方は、私に臣下としての義務も医師としての本分も忘れろと、そういいたいわけね」
八意永琳の声は、殊更に冷酷に響いた。
本来、月人、そして蓬莱人とはそういうものではあった。有り余る知識に持て余す寿命を備えているが故、必然的に感情が摩耗している。否、情が死滅しているわけではないにせよ、それが現れる機会が命儚き地上人に比べ著しく少ない。
永琳はしかし、その中でも希少種だった。月の都の創設に関わった最古参の月人の一人でありながら――あるいはそれ故にだろうか、彼女はその内に余人には想像もつかないほどの激情を宿している。
禁忌を犯して蓬莱の秘薬を造り上げてしまった事実と、それを飲んでしまった輝夜への忠節が、その最たるものだ。
「わかりやすくいうならそうなる」
と、黒白の魔法使いはさらりと答えた。
「綺麗な表現を使ってもいいんだがな。つまり――我らが友に応えてやって欲しい、と」
「随分物騒な友だこと」
からからと笑ったのは蓬莱山輝夜。
心底楽しそうなその表情に、永琳は複雑な表情になる。
このところ、竹林の不死姫はいたく不機嫌であった。その理由は今さら問うまでもない、博麗霊夢である。
貴い身分にある者の通弊として、輝夜は自分の好意を拒絶されることに馴れていなかった。お姫様の我が侭といってしまえばそれまでだが、やむを得ざる一面もある。精一杯といっていい好意を「やめとくわ」の一言で片づけられて、快い気分になる者は少数派であろう。
永琳はいうまでもなく、輝夜もまたその永きにわたる生涯において、数々の別れを経験してきた。
親しい者との別離など、それこそ星の数ほどにある。
特に、地上における養父母、この国に伝わる物語でいうところの竹取翁とその妻が亡くなったときの彼女の嘆きようは深かった。
かの老夫妻は、人生経験という面では地上どころか月面でも屈指の永琳が驚愕するほどに善良で、素朴な人柄だった。竹林で拾った得体の知れない娘を我が子同然に育て、惜しみない愛情を注いだのだ。長じた輝夜が貴族どころか時の帝にまで見初められ、庶民の身分から一気に貴族同然の暮らしに成り上がった後も、夫妻は世間一般の良識や親としての濁りない情愛を維持し続けた。
ただの好奇心で禁忌の薬を飲み、罪人として地上に追われた蓬莱山輝夜――理屈の上では紛れもない破綻者であった輝夜が、人間らしい慈しみや余裕をいまだ失っていない理由はそこにある。かの優しい養父母と過ごした日々こそが、今の彼女を作った。その点において、八意永琳はかつて見下していた地上人の在り様について、一種の敬意すら抱いたほどである。
永琳は今なお明確に記憶している。
養父を亡くし、ほどなくして養母をも失ったとき、輝夜は月の姫ではなく彼らの愛娘として咽び泣いた。墓石にすがりついて泣きわめき、物も食わず眠りもせずに嘆き続けたのだった。
月にいた頃の彼女からは想像もつかないその姿。月人本来の価値観からすれば、地上の穢れに冒されてしまったから、ということになろうが、仮にそのような意見を口にする者がいれば永琳は迷わず抹殺するだろう。
その後も輝夜は変わらなかった。月の姫としての気高さと、優しい老父母の愛娘としての健やかな感覚を持ち続けた。
俗人に親しむなんてありえないわ、などとうそぶきながら、本質的に情が深い彼女は幾度となく地上人と知り合い、友誼を結び、そして別れてきた。涙を流すことはなかったが、その裏でひっそりと悲しみ続けてきた彼女の胸の内を、永琳は知っている。永い付き合いなのだ、わからぬはずがない。
しかし、それらの別離を繰り返しながら、輝夜が蓬莱の薬を差し出したことは、かつてなかった。永遠の姫は、永遠の利と苦を共に知り抜いている(かの物語において時の帝に蓬莱の薬を残したのは、彼女特有の笑えない悪戯の一環だった)。
先日、博麗霊夢に対してそれを行ったのは、彼女となら永遠を共有できるのではないかという淡い期待があったからだ。臣下として共に在る永琳、格好の暇つぶし相手である妹紅とはまた違った、気ままに酒を呑み語り合える存在として、博麗霊夢を見込んでいた。
その期待が、共に歩もうという遠まわしな好意が、にべもなく断られたのだ。
不機嫌にもなろうし、落ち込みもしよう。
ただし、輝夜を思いやるのとは別の部分で、永琳は永く生きた月人として別の視点も持ち合わせていた。
あの巫女は、何物にも縛られることはない。
余人の好意、友誼、親愛、あるいは悪意や憎悪。それらとはまったく別の場所に独り佇んでいる。
それは輝夜どころか、ある意味で永琳以上に人間からかけ離れた在り様だ。
人間としてはあまりにも規格外なその力。妖怪と比しても桁外れの天才。
そして、博麗の巫女としての義務。
人と妖の永き歴史において、ほんのたまにだがあのような怪物が生まれ出る。
何物とも違いすぎ、何物とも交わることなき、あらゆる概念から浮遊した孤高。
月の頭脳と謳われた永琳自身、似たような立場にあったから、それがわかるのだ。ただ、彼女には月人の長の一人として親しむべき同胞がおり、仰ぐべき主として輝夜がいた。彼女には博麗霊夢ほど孤独に完成された個体ではなかった。それだけのことであった。
「湿っぽい別れなんざ、所詮私たちには似合わん。せいぜい派手な花火を打ち上げてやりたいんだ」
「命がけの花火ね。幾人の命が咲いて散るのやら」
「そうならんように、私も動いている」
「頼もしすぎて涙が出そうだわ」
「あら、私は楽しくて涙が出そうよ?」
久方ぶりに楽しげな主を見て、永琳はため息をついていた。
輝夜はまことに楽しそうだった。
この、悪ぶってはいても本質的にお人好しな姫は、間違いなく本気なのだ。本気で、この魔法使いの口車に乗ろうとしている。
数百年の永遠を打ち破ってくれたあの巫女と、最期に戯れる機会を――久方ぶりに友人と呼べる間柄となった巫女との別れを、ただ嘆いて迎えるのではなくなったその事実を、無邪気に喜んでいる。
「一応、申し上げますが」
臣下としての、最低限の義務として永琳は口にした。
「私たちとて、不老不死ではあっても不滅ではないのですよ、姫。時の流れすら存在せぬ異界に封じられ、次に目覚めたときは人も妖も、月すらも滅びた恒河沙の果て、そんなことになってもおかしくはありません」
「永の暇の退屈しのぎと考えれば上等じゃない。そのときは、国生みの神話でもなぞって見るとしましょう」
輝夜はいっそ、堂々といってのけた。まさしく、永遠と須臾を操る蓬莱の姫にしかいえない台詞であった。
永琳は再びため息をつく。
主の決定が下されたならば、彼女には取るべき道は一つしかない。何とも頭痛のする現実であって、正直この場で魔理沙を叩き出したいという誘惑はかなり大きかった。
しかしその一方で、月の頭脳と謳われた聡明な頭脳は、黒白の魔法使いの口車について、忙しく分析を行っていた。
確率論的にはまったく馬鹿げている。
論理的には不可能ではない、というのが救い。
学術的な面から考えると――癪に障るが、興味深くはある。
「で、どうだ。頼まれてくれるか、永琳」
いつも通りの図々しい声音でいってくる魔理沙の顔が、実に憎たらしい。しかし、この眼の奥に、真摯と称するのもはばかられる光があることに、永琳は気づいていた。
この魔法使いはいつもそうだ。
悪ぶっていてもあざとくはあっても、彼女は決して外れない。生まれ育ち、あるいは師事した相手の教育がよほどよかったのか、小気味よいほど真っすぐな気性だ。何とも困ったことに、八意永琳はそうした人間がまったく嫌いではなかった。タイプは全く違うが、何故かあの竹取翁とその老妻を思い出させる。
「蔵からそれらしい文献を漁っておくわ。明日にもうどんげに届けさせる」
最後にもう一つため息をついて、永琳はいった。
砲声の残響はいや増すばかりであった。
ただし、多くの人妖は何も気づかぬままに日を過ごしていた。
それは果たして幸せなことであったろうか、あるいはそれほどに幻想郷が平和に馴れていた証といえたかも知れない。
少数の人妖だけが、それに気付いていた。
一定以上に鋭く、一定以上に力を持っていて、何よりあの巫女についてよく知る者たちのみが。
そして一度気づいてしまえば、無視することも忘れることもできようはずがなかった。
それは徐々に近づいてくる遠雷の響きにも似ていたし、屋根に降り積もる深雪の静けさにも似ていた。
崩れ落ちる寸前の櫓を見上げる気分に似てもいただろうし、堤を超えんばかりに溢れた大河の泥水を眺める気分と似てもいただろう。
故に、だからこそ。
気づいた少数の者どもは、その時に備えて牙を磨き始めた。
およそ幻想郷に生きる人妖すべてにとって、風見幽香の名は脅威そのものであった。
天狗や吸血鬼のような名の知れた妖怪ではない。八雲紫のような卓絶した異能を持ち合わせているわけでもない。
目に見える力といえば、花を咲かせること、それだけ。
そうでありながら、純粋な身体能力、妖力によってのみ、幻想郷最強の一角に数えられているのが、風見幽香という妖怪であった。
それに向けられる畏れは、ある意味で他の誰よりも大きい。
天狗にせよ吸血鬼にせよ、優れた能力と引き換えに何らかの種族的欠点を持ち合わせている。
八雲紫の境界を操る能力も、事前に何らかの術式や道具を用意していれば、あるていど対処のしようはある。
しかし、単純にして明快なパワーをこそ唯一無二の武器とする風見幽香には、そうした隙がない。性根はどうしようもなくひねくれているくせに、用いる手段は徹頭徹尾正統派なのだ。正統派は陳腐と言い換えることもできるが、陳腐とはどのような局面でも有効であるからこそ多用されるのである。
生まれは平凡なれど、ただ純粋な力、別の表現をするならば才能でもって最強の名を冠せられ、恐れられる風見幽香の生き様は、博麗霊夢に通じるものがあったろう。
だから数年前、博麗霊夢がスペルカード・ルールなるお遊びの決闘法を創った時は、思わず苦笑したものだ。
自分の手足を縛るような真似をするとは、よほど退屈をしているらしい。
正直なところ幽香はそう思ったし、それが事実を突いているだろうとも確信していた。
最強クラスの妖怪をただの人間の領域に引き下げるスペルカード・ルール。謳われる実力主義の否定。しかしその根元には、博麗霊夢という怪物をその他すべての人妖の領域にまで引き下げる、そんな目的があったのではないか。
あの巫女は、自らルールの枠を設けることで、その制限の中においてのみ「全力を出す」ことを願った。それが所詮はお遊び、戯言でしかないことを誰よりも承知しながら、そうせざるを得なかった……
今、お気に入りの花畑に佇みながら、彼女ははるか遠くの高台に鎮座する博麗神社を眺めていた。
最初は何事かと思った。
二日目には蝋燭の最後の煌めきかとも思った。
三日目以降は、正直恐怖すら抱いた。
博麗の社を中心として渦巻き続ける、異様なまでの重圧。
並の人妖では感じ取ることもできないだろう。いや、力ある人妖でも、あの娘の近くに長くいて、あの娘の天才を感じ続けていた者でなければわかるはずがない。余計な知恵や言葉を持たない獣や草木の方が、よほど素直に生物の本能としてそれを悟ることができる。
完全に統御されつつも膨れ上がり続ける巨大な気配。身の丈十尺の巨獣が息を殺して佇んでいるかの如き、底知れぬ存在感。
特大の稲光が瞬いて、次に来る大音声の雷鳴を待ち受けるときのような、そんな感覚。
フラワー・マスターたる風見幽香の影響下にある花々ですら、怯えて蕾を震わせるようだ。
「――まったく、とんでもないわねぇ」
日傘をくるくると回しながら、幽香は楽しげに呟く。
今更に戯れに飽きた? いや、戯れは所詮虚構であることに気づいてしまったの? 本当、困った娘だわ。
恐怖がないわけではない。いや、恐怖を知らない愚か者が、幻想郷最強に数えられるはずもない。恐怖を楽しめるからこその最強者なのだ。
他の人妖たちとは違い、博麗霊夢の死期を知らされて以降も、幽香はかの巫女へ見舞いに訪れるようなことはしなかった。多くの物好きどもが様々な延命手段を持ちかけ、それを軒並み断られたと聞いても、まぁそうでしょうねと納得しただけだった。
付き合いも長く、一種の共感めいた部分を持っていたからこそ、そう思えた。
きっとあの娘はいついつまでもどこどこまでも超然と、独り在ることを望むだろうと。だからいちいち見舞いの言葉をかけたりはしなかったし、延命手段など考えたこともない。
……正確を期すならば、あのすべてが変わってしまった宴会の日から五日後の夕刻、一度だけ神社を訪れはした。もっと正確にいうなら、社の近くまで散歩に行って、遠目に巫女の姿を確認してそのまま帰ったのだが。幽香にして見ればあくまで散歩のついでであって、それ以外の何かに基づく故ではない。少なくとも本人はそれ以外の事実を認めるつもりはない。
巫女は全く完全に予想通り、いつもの巫女だった。
呆れるほどに哀しいほどにいつも通りだった。
幽香がかつて争い、負かされた、あのときの姿のままだった。
だったら、自分もそうあろう。物好きどもに倣うなど、この風見幽香に限ってはあってはならない。
自分にできることはただ一つ、古くからの知己として彼女を見送り、綺麗に咲かした花を手向けにしてやることくらい。
かの巫女の棺に飾るにはどの花がいいだろうか。そう思いつつ、具体的にその光景をイメージすることが何故か難しい。そのことに、幽香は気づいてはいた。
今、そんな憂鬱な日々を消し飛ばすかの如き物々しい大気が、博麗神社に渦巻いている。
それも、一日ごと、一刻ごとに密度を増している。
何とも呆れた現実だ。どこの半死人があれほどの存在感を発するというのだ。
博麗霊夢は消えようとしているのではなく、今からまさにその天才の全盛期を迎えようとしているのではないか。
よろしい、大いによろしい。では付き合って差し上げましょう。貴方の相手ができるのは、私を含めてこの幻想郷に数える程度。ならばその有資格者の一人として、古き友人の一人として、私は貴方に殉じてあげる。
貴方の寿命はあと十日? それとも一週間? きっとそのとき、貴方の天才は完成する。完成された才能が、終焉に向けて加速する。
ならばそのとき、私は貴方の前に立ちましょう。この素敵な宣戦布告を受け取って。
頭上を雲が、恐ろしいほどの勢いで流れていく。
くるり、くるりと日傘を回しながら、風見幽香は飽きることなくその場に佇んでいた。
――幻想郷のあらゆる場所で、あらゆる人妖の間で、似たような会話が交わされていた。
近く没するであろう巫女を悼む、不安と悲哀に満ちた声が交わされていた。
彼女を知る一部の者たちのみが、無音の砲声を聞き取っていた。
湖のほとりの紅い館で。迷いの竹林に築かれた屋敷で。向日葵の咲き誇る花畑で。あるいは冥界、地底、妖怪の山、守矢の社、人里、命蓮寺、天界で。
より高くより深く響き続ける残響を、聞き続けていた。
そして、魔法の森ではアリス・マーガトロイドが霧雨魔法店を訪れていた。
彼女が魔理沙の家を訪れるのは、そう珍しいことではない。
同じ魔法の森の住人、同じ魔法使いということで、それなりに交流がある。
完全な種族としての魔法使いであるアリスにとって、あくまで人間として魔法を極めんとする魔理沙は異色で、複雑な存在だった。正直な話、回り道をし過ぎている感がどうにも拭えない。
魔力を己の身に取り込み、それを糧とする「種族としての魔法使い」にとって、魔法を使うこととは呼吸することとほぼ同義だ。というより、生命活動それ自体が魔法の産物といってすらよいだろう。
それに対し、あくまで人間である霧雨魔理沙は、魔力の満ちたキノコを採取し、調合し、各種の魔法薬や道具を仕立て上げることで魔法を実現する。
回り道とはそういうことだ。
アリス・マーガトロイドが片手を振るだけで実現できる行為に、霧雨魔理沙はいちいち薬や道具を介さねばならない。
何度もそれとなく進めてみたのだが、魔理沙はその度にはぐらかし続けてきた。
人間であり続けることに何らかの意味――例えば尊厳や道徳、倫理、あるいは宗教的信条――を有しているとはとても思えないのだが、しかし確実にこだわり続けている。
アリスはそこに呆れつつ、感心もしていた。草の根に大樹の枝葉を接ぎ足すような無茶をしながら、霧雨魔理沙は昂然と前を向く。幾多の人形を同時に操るアリスの技巧は幻想郷に知らぬ者とてないが、豪快極まる魔理沙の光熱の術式も、実は繊細さにおいてアリスに劣るものではない。脆弱な人間の身でも高位妖怪に匹敵する出力を叩き出すために、かなりの工夫を凝らしている。
それは強さであると同時に脆さでもある。ありていにいうと、ひどく危うい。いかに意志がくじけずにいようとも、人間はしょせん人間。大樹の枝葉を積み過ぎた草の根は、いずれ千切れて朽ち果てよう。
誰にも話したことはないが、手のかかる妹を見ているような感情すらアリスは抱いていた。
この日も、霧雨魔法店の扉に手をかけた彼女の脳裏にあったのは、ある種の危惧であった。
この幻想郷で幾人かが気づいているであろう、あの博麗神社に渦巻く無形の大気。その中心に座すであろうあの旧友。自分の精一杯の誘いをいつも通りの口調で断ってくれた、大馬鹿巫女。
かの巫女は今、至近に迫る死と、高まり続ける自身の存在とを天秤に掛けながら、何を思うのか。
霧雨魔理沙は、何を思っているのか。
小耳にはさんだところによると、彼女はここ数日、幻想郷中を飛び回っているという。
自分と博麗霊夢と、共通の知り合いの所に押しかけては何事か持ちかけているらしい。昨日の朝は地底に潜り、昼には白玉楼へ行って、夕刻には妖怪の山へ向かう姿が見かけられたとか。
一体、何が始まっているというのだ。
――いや、正直なところ、アリス・マーガトロイドには粗方の見当がついてしまっていた。
魔理沙を知っているのと同じくらいの深さで、霊夢のこともまたアリスはよく知っている。
魔界の神すら凌駕してのけたあの巫女の天才を知っている。
たしかにあのとき、魔界の神もまたお遊びの範疇として対峙していたが、博麗霊夢もまたお遊びの範疇として同程度に、あるいはそれ以上に力を落としていた。その上で、勝利して見せたのだ。いつもと同じように。
本気になった博麗霊夢に勝てる存在などこの世にはいない。
この星が自転するのと同じように、博麗霊夢はただそこに在る。
自転を止めるため地面を支えようとする莫迦はいない。無駄だと誰もがわかっている。
博麗霊夢はそういうものだと、アリス・マーガトロイドはつつがなく理解していた。
本気を出すまでもないから、本気を出せる相手がいないから、常に手を抜く。その倦怠と退屈を、理解していた。
それが今、消え逝く命とともにタガが外れたように、すべてが溢れかけている。
――頼むから、お願いだから。
早まった真似はしないで。
祈るような気分で、アリスは扉を開け放つ。
途端に感じたのは、いいようのない異臭だった。
家屋の中に篭っていたのは毒々しい色合いの煙。まだらというのもおこがましい無数の色が入り混じった、それでいて奇妙に透明感のある煙だった。
「魔理沙……?」
アリスは声をかける。
部屋の中央に据え置かれたテーブル。
無数のメモと、積み重なった本と、各種の機具と、得体の知れない粉末や液体に囲まれた黒白の魔法使い。
彼女は手元のノートに一心不乱にペンを走らせ続けていた。
悪夢か何かを見ているような心地で歩み寄り、横から覗きこむ。
瞬間、慄然とした。
魔理沙の横顔ははっきりと憔悴していた。異様な迫力に満ちていた。
書き散らされているのは、外の世界の人間が見れば数学の公式とでも見間違うだろう。
しかし、アリスは気付いていた。
幽鬼の如き有様で書き殴るように綴られているそれは、恐ろしく高度で緻密な魔法の術式だ。
天蓋操作、位相転換、空間連続体、想念転移、精物融合、あるいはそれに類する何事か。
霧雨魔理沙が目指し積み上げてきた術と法の極み。
言葉を失ったアリスは、凝然とテーブルの上を見渡した。
常人ならばほんの一粒舐めただけで絶命するだろう各種のキノコ。以前魔理沙が「こいつはさすがに現時点では使い物にならん」と戸棚の奥に放り込んでいたのを見た覚えがある。
魔法使いの間ですら禁書扱いされている魔導書。あれはパチュリーが門外不出の秘蔵の書だと一度だけ表紙を見せてくれた。
どこで調達してきたのか、一級の学者が使用する類の機材、何らかの機械まで並んでいた。
部屋中に積み重なるガラクタ――日頃から魔理沙が強盗まがいの手管で調達し蒐集してきた書物、道具、それらすべてが今、一定の意志をもって整然と並んでいる。
霧雨魔理沙が必要としたとき、必要な物を、必要なだけ消費する、そのためにこれらは貯め込まれ続けた。
そして今、霧雨魔理沙は自らの人生で築き集め積み上げ続けたすべてを使い尽くそうとしている。
「魔理沙……」
アリスは呼びかける。
諦観と、絶望の入り混じった声音で。
黒白の魔法使いはそこで初めて気づいたように、顔を上げた。
まさに魔女と称するに相応しい有様でありながら――驚くべきことに、あるいは恐るべきことに――そこに浮かんでいたのはあくまでいつも通りの、痛ましいほどひたむきに前を向く少女の表情だった。
「よう、いつ来たんだ? でも悪いな、ご覧の有様で茶も出せそうにない」
アリスを透過して、ここにいない誰かに語りかけるように。
宿題が終わりかけている子供のような、溌剌とした声で。
その瞬間、アリスはすべての説得を放棄した。
霧が深い、早朝だった。
博麗の巫女が最期の望みを口にしたそのときから、実に十日という時間が経過している。何が起こるということもなく過ぎ去った、その時間。
霧雨魔理沙は自室の姿見の前で一人服装を整え、箒に手にした。
ランプの明りを吹き消し、最後に己の姿を確認する。
帽子の角度が悪い気がして、被り直した。
もう一度鏡を確認し、不敵に笑う。よし、いつも通り。
「何を一人でにやついているのかしら」
背後から、呆れたような声。
いつの間に起き出していたのか、アリス・マーガトロイドもまたすでに寝衣から着替えていた。彼女はずっと、泊まり込みで魔理沙の手伝いをしてくれていた。食事や風呂の支度までしてくれたのは、正直ありがたかった。
「私も付き合うわよ」
宣言するように、アリスは言った。
「物好きだな、お前」
「ええ。自分でも呆れるわ、本当」
いいながら、アリスの手指が微かに動く。
途端、部屋の物陰から、あるいは戸棚の上から、はたまた窓を開けて、十体近くの人形が現れて彼女の周囲に漂う。
上海人形、蓬莱人形、仏蘭西人形、露西亜人形、倫敦人形……アリス・マーガトロイドが己の手足として創造し使役する人形群。
「でも、わかってる? まだあんたは未完成。せいぜい三割か四割といったところよ」
「十分だ。後は実戦で完成させる」
「……事の重大性をわかってるのかいないのか……」
頭に手を当ててアリスは呻く。
お互い様だぜ、と魔理沙は笑った。
二人連れ立って、魔法の森を飛び立つ。
不思議と心は凪いでいた。
浮き立つものがないとはいわないが、それでも奇妙にフラットだ。
木々の上を飛んでいたとき、妖夢と顔を合わせた。
「よう、時間通りだな」
「当然です」
そういって微笑する半人半霊の庭師の腰には、いつもの通り二振りの刀が差されている。
柄の部分が真新しい拵えになっていることに、二人は目ざとく気付いていた。
「まことに、人も妖も度し難し。進んで地獄に飛び込むとは何と物好きな」
唐突に背後から声をかけられて、魔理沙とアリスは空中であるにもかかわらず飛び上りかけた。振り返った先に、白玉楼の主である亡霊嬢が扇で口元を隠しつつ微笑んでいる。
「先に出ようとしていたのは幽々子様ではありませんか。しかも私に黙って」
と、妖夢がこぼす。
「あなたは庭師、私は冥界の主。御霊を悔いなく送ることは我が本懐なれど、庭師は白玉楼の草木を整えるのが本分ではなくて?」
「通常の庭師であれば、まさに。されど私は剣術指南役も兼ねておりますれば、未熟なれども主の矛として果てるが本望にございます」
魂魄妖夢は宣誓するように告げた。
「そして、我が友の願いをかなえること、これもまた我が本懐なればこそ」
物好きばかりだ。
魔理沙とアリスは顔を見合せて笑った。
幽々子と妖夢も応じて笑う。
そしてその表情のまま、ついでのように幽々子は眼下の一点を指示した。
「さてさて、枯れ木も山の賑わい。この世で一等強い巫女に立ち向かう、悪い悪い妖怪さんの群れ。さしあたり、あそこにもその一団がいてよ?」
扇が指し示す先に、仰々しい輿を中心とした一団がしずしずと道を歩んでいる。先頭を行くは背筋をぴんと伸ばした月兎。周囲を和風の装束で着飾った妖怪兎が固めている。輿のすぐ傍には、赤と青の特徴的な衣装をまとった薬師の姿が見えた。
博麗神社への道のりは長い。幻想郷と外界の境目、つまりは幻想郷の隅に在るから当然だが。
人数を増した一行は、誰が言い出したわけでもないが、ゆっくりと進む。
湖の近くで出会ったのは瀟洒な従者に日傘を差された紅い悪魔。門番と、図書館の魔女も当然のように控えている。フランドールは、と聞くと、置いてきた、との答えが返ってきた。多分あの娘は、これから起こることをよくわかっていない。幸いなことに。我が自慢の妹は、その能力の質の割に、荒事の経験があまりないからね。
鴉天狗を筆頭とした妖怪の山の面子。まあ、特ダネの機会ではありますし、と文は笑った。それに、あの巫女をずっと追いかけ続けた新聞記者としての、最期の礼儀のようにも思うのですよ。
秋の姉妹神や厄神などはともかくとして、犬走椛に河城にとりまでもが同道していることについては、文は道中珍しいほどにしつこく帰るように諭していたが、あなたがそれをいいますか、という普段は忠実そのものの椛の一言に黙ってしまっていた。
久々の戦だ、腕が鳴るね、と言い放ったのは八坂神奈子と洩矢諏訪子。中央神話に語られる軍神と、土着神の頂点は、さすがに落ち着き払っていた。唯一気遣わしげだったのは、当然のようについてきている東風谷早苗に対してだったが、当人は悠然と、現人神に相応しい貫録すらまとわせて佇んでいた。
地霊殿の主たる古明地姉妹とそのペットたる烏と猫。この期に及んでもなお、危ないと思ったらすぐに逃げるようにとくどいほどに念を押している。どこでも似たようなやり取りがあるらしい。
対照的だったのは星熊の鬼で、いつものように杯を傾けながら、堂々たる戦など久しぶりだと猛っていた。まさに伝承に語られる鬼そのままの思考と振舞であった。
社に向かう一行は膨れ続ける。
命蓮寺の聖白蓮を筆頭とした一行。巻き込んで悪いな、と魔理沙がいうと、何を水くさい、と白蓮は笑った。そして、やや芝居がかった口調で、迷える衆生を救うも御仏の道、と付け加えた。
四季の花を支配するフラワー・マスター。幻想郷最強の一角に数えられる風見幽香は、いつの間にか当然のように列に加わっていた。さながら散歩に行くとでもいうような、いつものように移りゆく花を追いかけるような、軽い足取りだ。彼女ほど普段通りの態度を取れている者は、さすがにいないだろう。
人里の守護者に、その親友でもある自称健康マニアの焼鳥屋。自分は最強だから心配ないと叫ぶ氷の妖精。不良天人と、それにつき従う竜宮の使い。仕事をさぼってきたのか陽気な死神までいたし、どうしたことか楽園の閻魔その人までいた。
一行は博麗神社につながる階段を上る。歩く者もおり、飛ぶ者もおり、しかしその速度だけが示し合わせたように一定。
その歩調が、境内の入口、鳥居の前でふと止まった。
鳥居のすぐ前に、空間に開いた隙間に腰かけた境界の支配者が浮かんでいる。
「自分たちが何をしようとしているか、わかった上でこの先を目指すのかしら?」
紫は問いかけた。右隣には自らの式である九尾の狐。左隣には式の式である猫又の少女を従えている。鳥居の上には伊吹の鬼の姿まであり、眼下を睥睨していた。返答次第では力づくでも目の前の一団を叩き返す、そう無言で物語っている。
「いかな理由があれど、博麗の巫女に手出しをすること罷りならぬ。そこに例外はない。それも理解していて?」
いいながら、紫の妖気が陽炎のように揺らめいていく。まさに幻想郷最強の筆頭に名を挙げられる八雲の大妖、そう誰もが了解せざるを得ない強烈な波動であった。
レミリアが嘲るように口元を歪めた。幽香が満面の笑みとともに日傘をたたむ。勇儀がげふ、と酒臭い息を吐いてから杯を放り投げる。
にわかに殺気立った一同の中から、ただ一人、霧雨魔理沙が進み出た。
箒から降り立ち、紫を真っ向からに睨みつける。
「委細承知の上。それがわからんであいつの友達を名乗れるか」
黒白の魔女は息を吸い込み、決定的な一言を叩きつけた。
「連れ添った友達を、盛大な花火で送ってやろうっていうんだ。何が悪い!」
束の間、八雲の大妖と普通の魔法使いは視線を合わせた。
両者の間には、千年以上の年齢の差と、生まれついての絶対的な生物学的差異があった。一方は神に等しいとまでいわれる能力を持って生まれ、一方は平凡な道具屋の娘として生を受けた。前者はその先天的な力を縦横に駆使して幻想の生きる別世界を創造し、後者は脆弱な土台にひたすら術と知識を積み上げて生き抜いてきた。
にも関わらず、このとき、並いる人妖はそれぞれ瞠目していた。迷いなく胸を張る黒白の魔法使いの姿が、境界の支配者と同じほどに眩く揺るがない、その事実に。
ややあってから、不意に魔理沙が肩をすくめ、おどけたように口を開いた。
「白々しい芝居もそこまでにしようぜ、紫? お前も私たちと特に違いがあるとも思わないんでな」
「……この私が、五十年も生きていない娘に見透かされるとはねえ」
紫もまた、相好を崩す。
年寄りた老婆のようでもあり、あるいは我が子の巣立ちを見届ける母のようでもあった。
「ふん、最初から素直に出ればいいものを」
「あいにくと、世には必要な形式とか通過儀礼とかいうものがあるのよ」
「そんなものか。私にはわからんな」
「貴方はそれでいい。それでこそ、という気もするし。認めるにはいささか癪だけれど」
八雲の大妖は若干の諦観をにじませた声音で告げた。
「ならば行きなさい。今この時をもって、今代の博麗はその務めを終えたことを宣言する。次代の博麗と結界の守りは、八雲の名にかけて保証するわ」
すべての枷はここに外された。
博麗の巫女として定められた少女、怪物的な天才を持ちながらそれを解放することのなかった娘を縛るものは、何もない。
そしてこの場には、解き放たれた少女と全力で向かい合うことを決した物好きどもが顔を並べていた。
ふわりと紫は地面に降り立ち、魔理沙の横に並ぶ。藍と橙は無言で、萃香はにやりと笑ってから、その後ろに続いた。周囲の人妖は呆れたようにその様を見つつも、納得したように視線を交わし合う。そう、まさにこれより始まる祭において、この二人こそが並び立つに相応しい。
普通の魔法使いと境界の妖怪を先頭にして、人妖の一団は社へと足を踏み入れる。日はいつしか南中に昇っていた。
照りつける陽光の中、霧雨魔理沙が大音声を発した。
「博麗の巫女、否、我らが友、霊夢に告げる!」
八雲紫がそれに続く。
「我ら幻想郷の人妖、積年の汝との友誼に報いるべく、ここに集った!」
レミリア・スカーレットが傲然と胸を張る。
「例えこの身が一握りの土と化したとて、我はここに誓おう。友との語らいの中で果てたことに一片の悔いはなしと」
そして、その場に集ったすべての人妖の声が唱和した。襲うことと退治されること、争うのではなく戦うことを本能の一部に刻みつけられた幻想のものとして。そして目の前の社の主であった友人の望みに応えるために。
「この楽しき日々の終りに、我らが友と戦望むものなり!」
幻想郷に住まうすべての人妖が等しく親しんだ社の戸が、勢いよく開かれた。
奥から進み出た少女は、まず呆れたように頭を振った。
――この救いがたい物好きどもが。
耳聡い何人かが、そんな呟きを鼓膜に拾い、そしてそれがどうしたと胸を張る。
博麗霊夢は最後の何かをふっきるようにため息を漏らし、そして誰もが見惚れる笑みを浮かべて見せた。
「刻、三日後払暁、所、無名の丘! 各自、最後にもう一度よくよく考えなおした上で、それでなお意志を変えないという莫迦だけが来なさい!」
その布告が響き渡った直後、一瞬の静寂が落ちた。
そして次に、爆発的な歓声、あるいは笑い声が充ちた。
「今さら何を言ってやがる」「あんた私らなめてるでしょ」「ふん、さいきょーのあたいに吠え面かかされるのはあんたなんだからね!」「才能の差が力量の差ではないことを教えてやるさね」「枯木も山の賑わいといいますし」「誰が枯木だコラ」「勝負、勝負、勝負! いい言葉だねぇ、まったく」「あああちょっと後悔してきたかも。何でこんな戦い好きの連中と一緒に」「お前もその一員だろうが」
もはや誰が何を言っているのかわからない。
見る者が見れば、毎度の宴会とどこが違うのかと首を傾げただろう。
三日後、幻想郷始まって以来とされる最強最高の天才が初めて牙を剥く。
三日後、おそらくは空前絶後の闘争が幕を開ける。
三日後、この場にいる何人か、あるいは全員が、永遠にいなくなるかも知れない。
にも関わらず、彼女たちはどこまでも彼女たちであった。
数日後には確実にいなくなってしまう友人との別れを、幻想郷の住人らしく殺伐とした、それでいて賑やかな価値観をもって迎えようとしていた。
博麗霊夢の生涯は、ここに終章を迎える。
次回も本当に楽しみにしています。
これがどんな結末に向かうのか楽しみで仕方がない
期待しています
さぁ…どうなる!?
いや今回も惹き込まれてしまいました
続きが待てないのは楽しみでもあるが辛い
次回がどうなるか期待!
あぁぁぁこれから出勤なのに手が止められないっ…!!
続編期待age
それはともかく
>>無名の丘
スーさん涙目www
最終章楽しみにしてます
霊夢スキーにとってはたまらないストーリーだなぁw
ところで、この文章量ならば横書きじゃなく一般的な縦書きが相応しいと思った。
ブラウザで読むよりも本にした方が読みやすい。
仕様上の問題なのでどうしようもなく、あくまで個人的な拘りを述べてみる。
文章はうまいと思うのでよくあるありがちなものになるか、それとも凄い作品になるかは分からないけれど
比較的よくある題材をどう料理してくれるのか期待を込めてこの点数で
願わくば完結まで読み終えた上で、気持ちよく満点が入れられます様に・・・
・・・多分満点じゃ足りなくなるんだろうなぁ
この霊夢さんには是非とも満足して笑いながら生を全うしていってほしい
それが故か読み進める程に霊夢が人間離れな存在、他の追随を許さない神様同然に思えてしまう。
もうアンタが博霊の御神体で良いよ霊夢さん……。
兎にも角にも続きを心待ちにしてます。
楽しむための戦い、遊びのための弾幕、それが根底にあるから、東方という雰囲気がある。
それがなくなったらそれは東方とは言えない。
ですが、このお話は血みどろの展開になりそうなのに、どこまでも東方の雰囲気が出てるんです。
それを可能にした作者様に乾杯。
後は、このお話をひたすらに楽しむだけです。
厨二なお話は大好きだああああああああああああ!
次回が楽しみだ。
さてどうなろうことか…!
続き期待しています!
「こちら射命丸、霊夢はまだ発見できない」的な
終章、首を長くしてお待ちしてます。
そんな続きを楽しみにそして期待をして待っています。
最高の作品を裸になって(筋トレ的な意味で)に待ってますぞww
凡人である自分的には努力の人である魔理沙に頑張って欲しい所。
ここまで絶対的な強さを強調した「本気」になった霊夢と
戦って死者が出ないのか。
そしてこれだけのキャラを出して各人見せ場を作れるのか。
さらに文章で表現するのが困難な戦闘描写をあの人数分、
読者に飽きさせずに書ききれるのか。
色々課題は山積みだと思うけど頑張って下され。
未完作品は採点しない主義なのでフリーレスで。
>>「刻、三日後払暁、所、無名の丘!
メディスン「さあ、スーさん。急いで引越しの準備をしないと……」
霖之助「ああ、埋もれている貴重な外の道具たちが……」
そういえば、幻想郷の名うての実力者たちが集まる中、射命丸を除いた書籍組の描写が無いのは今後の伏線ですかね。
戦闘能力こそないものの、
巫女服や装備品の支給で異変解決の事実上の支援者である「香霖堂」の森近霖之助、
おそらくはこの一大騒動を歴史として後世に書き連ねる役目を負うであろう「求聞史紀」の稗田阿求、
非力な妖精とはいえ、公式で博麗神社の最も近所に住む「三月精」、
そして霊夢を含む幻想郷の実力者に対して事実上は完全勝利を唯一収めている「儚月抄」の綿月姉妹(月にいるから蚊帳の外になっても仕方ないけど)
次回の完結編にて、どのような行動を起こすのか目が離せません。
終章を思う存分書いてくれ、どんな話になっても文句は無い!
たとえ鬱展開でも厨二病バトル展開でも、貴方の上手な文章ならきっと楽しめるはずだ
7th fallの描く博麗霊夢にワクワクゾクゾクする
何て言ったらいいのかわからないけど、存在感だけで武者震いするような感じ
文章の完成度の高さが半端ない
台詞の完成度も半端ない
続きが気になるというより、なんだか嬉しくなってしまった
そしてまだ話の途中なのに、なぜか満足感がある
理由がわかった
こいつら、かっこいいんだ
完結編で出てくるのを期待しております
語彙と言葉遣い、台詞回しのクオリティwwwwヤバスwwww
すっげぇ考えられて書かれている事が端々から伝わってきます。
頼むから幻想郷最大スケールの金字塔に仕立ててくれ。
それだけの内容のはずなのに、腹の底からワクワクとゾクゾクが湧き上がってくる。
たとえ次回、私のお気に入りキャラが殺されても、おそらく私は何一つ文句は言えないほどに話に引き込まれていることでしょう。
wktk
こういうお話の魔理沙は半端ねえな
自分には真似できない描写。
じっくりあせらず、でもなるべく早くお願いします。
続編に期待します。
これ以上の評価は致しかねる
豊富な語彙と多彩な表現に裏打ちされた精緻で頑強な文章力。
この場所で、これほど読むのが気持ちいい作品に出会えたのは初めてです。
続きに期待しています
一刻も早く続きがこないと、wktkが原因でオレが死ぬぞ!!
早く続きが見たい・・・