「おはよう、蓮子」
私が声をかけると、蓮子たちは嬉しそうに手を振った。
「おはよう、メリー」
「おはよう、メリー」
蓮子と蓮子はまったく同じ動作で長椅子の隣を空けて、私に座るよう促した。
「どっちの隣に座ればいいのよ」
「別に、どっちでもいいんじゃない?」
二人の蓮子はまさに瓜二つで、どうにも選ぶところがない。強いて言うなら、今「どっちでもいい」と言ったほうの蓮子はお気に入りの黒い帽子を被っているが、もう一人は被っていなかった。
「だめだめ。絶対だめ」帽子を被っていない蓮子が慌てて遮った。「私の隣はだめよ。メリーが座るのはそっちの私の隣だもん」
「じゃあなんで、椅子を空けたのよ」
「しょうがないわよ。伝統だもの」
なにが伝統なのかよくわからないが、とりあえず言われるがままに帽子を被った蓮子の隣に座った。
なんか、喉が渇いたわね。
「すみません、紅茶を……」
私がウェイターに注文しようとした瞬間、非帽子の蓮子が無理やり割り込んできた。
「紅茶はだめ! 飲むヨーグルトをお願いします」
「え? ちょっと!」
ウェイターは首をかしげながら、カウンターの奥に戻っていった。
私は隣の蓮子に向けて抗議した。
「なんで勝手に頼むのよ! 私ヨーグルトなんて飲む気分じゃないわ」
「私に言われても……」帽子蓮子は困ったように、非帽子蓮子に目をやった。
「そもそも、私をこの店に呼び出したのはどっちの蓮子なの? いいかげん他の客にも思われてるわよ、『こいつらまたカフェで変な議論してるよ』って」
「いやまあ、それはそれで、別の伝統というか」
「呼び出したのは私よ」非帽子蓮子が言った。「私がメリーと私をここへ呼んだのも、メリーがヨーグルトを飲まなきゃいけないのも、全部同じ理由なの。つまりそれは、この宇宙の均衡調整であり、永遠の連鎖反応であり、こんがらがったメビウスの輪であり、言うなれば……」
「伝統?」
「そう!」非帽子蓮子は持っていたケーキフォークを私に向けた。「連綿と受け継がれてきた伝統なのよ」
「フォークを人に向けるのも伝統? 行儀が悪いわよ」
「もちろん、伝統よ」
非帽子蓮子はそう言って、ショートケーキをサイコロ状に切り分ける作業に戻った。
これは話にならない。私は隣に座っている蓮子に話しかけた。こっちのほうがなんだか〝まとも〟に見えるからだ。
「で……なんで蓮子が二人いるの?」
帽子蓮子は困ったように非帽子蓮子を見た。奇行続きの彼女を私もちらりと見てみたが、今度は白目を剥いて私たちを無視している。きっと伝統のひとつだろう。
自分が説明するしかないと諦めたのか、帽子蓮子はたどたどしく話しはじめた。
「私もよくわかってないんだけど、その……あっちの私が言うにはね、どうも彼女は『未来から来た私』らしいのよ」
そんなことだろうと思った。「そんなことだろうと思ったわ」
帽子蓮子は泣きそうな顔で私にすがりついてきた。「メリーは私が〝あんなの〟になっちゃってもいいの⁉︎」
私は未来から来たという蓮子のほうを見た。ちょうど、自分の左右の髪の毛を鼻の下で結び終えたところだった。
非帽子蓮子は真面目な顔をして言った。「驚かせてごめんね、メリー。そっちの私が言うとおり、私は未来から来た宇佐見蓮子なの」
「それはまた、どうして」
そう言うと、非帽子蓮子は悲しそうな顔をして、そっと拳を前に突き出した。
飲むヨーグルトを持ってきたウェイターが驚いて足早に去っていく。
一分ほどそのままだった。
「……あ、私もってこと?」
私はようやく非帽子蓮子の意図に気付いて、同じように拳を突き出した。
非帽子蓮子は指をチョキに変え、私のグーを挟み込んだ。
「負けました。……で、私が過去へ来た理由なんだけど」
「待って、今の儀式はなに?」
非帽子蓮子は、キッと険しい目つきになった。「まだわからないの? すべては伝統なのよ。それこそが、私が過去へやってきた理由なの」
「伝統、伝統って、さっきからいったい……」
非帽子蓮子はまた白目を剥いてしまった。
「メリーが来る前に、私も少し説明されたんだけど」
同時に帽子蓮子が話しだす。どうやら白目を剥くのは『今は自分のターンではない』の意思表示らしい。
「私が大学でヒモの研究をしてるのは知ってるよね? 少し前まで、統一理論界は〝ヒモ〟と〝ループ〟で激しく争ってたの。今はヒモが一応の勝利を収めたけど、ループ理論のすべてが棄却されたわけじゃなくて、時間の量子化については可能性世界理論とも興味深い繋がりが……」
「ねえ蓮子。その話長くなる?」
今のは私の声を真似た非帽子蓮子。
「……とにかく、私は来週の土曜にひょんなことからタイムマシンを完成させてしまうらしいのよ」
「思ったより近い未来でびっくりしたわ」
「それで私はやってきたのよ。この宇宙の夢と伝統を保守するために、ね――」非帽子蓮子は白目のままそう言った。
帽子蓮子は心底悲痛そうに話を続ける。
「一般的に、未来から来た人間が過去を変えるとタイムパラドックスが起こると言われているの。過去と未来の繋がりに齟齬が生まれて、その小さな歪みが時空全体に広がってしまう。具体的にはよくわかってないんだけどね。本当はなにも起こらず、別の歴史として分岐していくだけかもしれない。でも、もしそうじゃなかったら……」
帽子蓮子は宇宙が終わる瞬間を想像したのか、頬を引きつらせて笑った。
「私はそれを阻止するためにやってきたのよ」非帽子蓮子が小刻みに自分の喉を叩きながら変な声で言った。「私もそこの私と同じ。一週間前に未来の私からこの話を聞かされて、この一連の伝統を託されたの。私だって必死なのよ。すべての伝統を完璧に受け継がなければ、過去の私が見せられた歴史と今の私が行う歴史が食い違うわけだから。もしかしたらその瞬間、この宇宙そのものが崩壊してしまうかもしれない。今この瞬間はメリーにとっての現在であり、私にとっての過去であり、宇佐見蓮子にとっての未来」彼女はサングラスを三つ取り出し、全部重ねて装着した。「もうわかってるわよね、過去の私。あなたは今日ここで見たすべてを受け継がなくてはならないの。タイムパラドックスを防ぐために。あなたが世界を救うのよ!」
私はストローでヨーグルトを飲みながら、二人の宇佐見蓮子に降りかかる災難を憂えた。いったいどうして、こんな面倒なことになってしまったのだろう。
実際のところ、論理的に考えていけばタイムパラドックスが本当に起こるのか、すべての元凶が誰なのかがわかりそうな気もしたのだが、私は飲むヨーグルトの予想外のおいしさに驚き、考えるのをやめた。
「……じゃあ、そういうことだから。私はあれで未来へ帰ります」
非帽子蓮子は店の外を指差した。
「ま、まさかタイムマシンって、あそこに駐めてある――」
駐車場に駐めてあったデロリアンが爆発した。
黒焦げになった車からもくもくと煙が上がり、周囲の客たちは大混乱に陥っている。
「爆破も伝統らしいのよ……。本物のタイムマシンはこっち」
そう言いながらピーと笛ラムネを吹く非帽子蓮子の周囲に、正八胞体形の半透明な膜が現れた。
「待って……私、上手くできる自信がない! こんな伝統、受け継ぎたく……受け継げる気がしないわ!」
「大丈夫。きっと上手くいくよ。私もやったんだから。今あなたはこう考えてるわよね。『タイムパラドックスなんて本当は起こらないかもしれない。私がこの頭のおかしい伝統を断ち切ってやる!』って。でも、そうはならないの。なぜなら……」
非帽子蓮子は帽子蓮子の不意を突き、彼女の帽子を奪い取った。
「やった! やっと取り返せたわ!」
帽子を奪われた蓮子は呆気に取られ、タイムマシンとともにこの時空から消えつつある蓮子に向けて怒鳴りつけた。「あっこら私! 私の帽子返せ‼︎」
「これがあなたに受け継ぐ最後の伝統よ! じゃあね〜! ピーッピピピピピ――」
笛ラムネ越しの高笑いがタイムマシンとともに遠ざかり、やがて彼女は、この世界から消えた。
「ねえ蓮子、本当に行くの?」
一週間後、私は大学の研究室でヨーグルトを飲みながら訊いた。
「行くよ。誰がなんと言おうとも。あの帽子はお気に入りなのよ。絶対に私から取り返してやるんだ!」
すごく不毛だわ。私は別に止めないけどね。「そう。頑張ってね」
非帽子蓮子は親指を立てて、伝統を伝えに行った。
私が声をかけると、蓮子たちは嬉しそうに手を振った。
「おはよう、メリー」
「おはよう、メリー」
蓮子と蓮子はまったく同じ動作で長椅子の隣を空けて、私に座るよう促した。
「どっちの隣に座ればいいのよ」
「別に、どっちでもいいんじゃない?」
二人の蓮子はまさに瓜二つで、どうにも選ぶところがない。強いて言うなら、今「どっちでもいい」と言ったほうの蓮子はお気に入りの黒い帽子を被っているが、もう一人は被っていなかった。
「だめだめ。絶対だめ」帽子を被っていない蓮子が慌てて遮った。「私の隣はだめよ。メリーが座るのはそっちの私の隣だもん」
「じゃあなんで、椅子を空けたのよ」
「しょうがないわよ。伝統だもの」
なにが伝統なのかよくわからないが、とりあえず言われるがままに帽子を被った蓮子の隣に座った。
なんか、喉が渇いたわね。
「すみません、紅茶を……」
私がウェイターに注文しようとした瞬間、非帽子の蓮子が無理やり割り込んできた。
「紅茶はだめ! 飲むヨーグルトをお願いします」
「え? ちょっと!」
ウェイターは首をかしげながら、カウンターの奥に戻っていった。
私は隣の蓮子に向けて抗議した。
「なんで勝手に頼むのよ! 私ヨーグルトなんて飲む気分じゃないわ」
「私に言われても……」帽子蓮子は困ったように、非帽子蓮子に目をやった。
「そもそも、私をこの店に呼び出したのはどっちの蓮子なの? いいかげん他の客にも思われてるわよ、『こいつらまたカフェで変な議論してるよ』って」
「いやまあ、それはそれで、別の伝統というか」
「呼び出したのは私よ」非帽子蓮子が言った。「私がメリーと私をここへ呼んだのも、メリーがヨーグルトを飲まなきゃいけないのも、全部同じ理由なの。つまりそれは、この宇宙の均衡調整であり、永遠の連鎖反応であり、こんがらがったメビウスの輪であり、言うなれば……」
「伝統?」
「そう!」非帽子蓮子は持っていたケーキフォークを私に向けた。「連綿と受け継がれてきた伝統なのよ」
「フォークを人に向けるのも伝統? 行儀が悪いわよ」
「もちろん、伝統よ」
非帽子蓮子はそう言って、ショートケーキをサイコロ状に切り分ける作業に戻った。
これは話にならない。私は隣に座っている蓮子に話しかけた。こっちのほうがなんだか〝まとも〟に見えるからだ。
「で……なんで蓮子が二人いるの?」
帽子蓮子は困ったように非帽子蓮子を見た。奇行続きの彼女を私もちらりと見てみたが、今度は白目を剥いて私たちを無視している。きっと伝統のひとつだろう。
自分が説明するしかないと諦めたのか、帽子蓮子はたどたどしく話しはじめた。
「私もよくわかってないんだけど、その……あっちの私が言うにはね、どうも彼女は『未来から来た私』らしいのよ」
そんなことだろうと思った。「そんなことだろうと思ったわ」
帽子蓮子は泣きそうな顔で私にすがりついてきた。「メリーは私が〝あんなの〟になっちゃってもいいの⁉︎」
私は未来から来たという蓮子のほうを見た。ちょうど、自分の左右の髪の毛を鼻の下で結び終えたところだった。
非帽子蓮子は真面目な顔をして言った。「驚かせてごめんね、メリー。そっちの私が言うとおり、私は未来から来た宇佐見蓮子なの」
「それはまた、どうして」
そう言うと、非帽子蓮子は悲しそうな顔をして、そっと拳を前に突き出した。
飲むヨーグルトを持ってきたウェイターが驚いて足早に去っていく。
一分ほどそのままだった。
「……あ、私もってこと?」
私はようやく非帽子蓮子の意図に気付いて、同じように拳を突き出した。
非帽子蓮子は指をチョキに変え、私のグーを挟み込んだ。
「負けました。……で、私が過去へ来た理由なんだけど」
「待って、今の儀式はなに?」
非帽子蓮子は、キッと険しい目つきになった。「まだわからないの? すべては伝統なのよ。それこそが、私が過去へやってきた理由なの」
「伝統、伝統って、さっきからいったい……」
非帽子蓮子はまた白目を剥いてしまった。
「メリーが来る前に、私も少し説明されたんだけど」
同時に帽子蓮子が話しだす。どうやら白目を剥くのは『今は自分のターンではない』の意思表示らしい。
「私が大学でヒモの研究をしてるのは知ってるよね? 少し前まで、統一理論界は〝ヒモ〟と〝ループ〟で激しく争ってたの。今はヒモが一応の勝利を収めたけど、ループ理論のすべてが棄却されたわけじゃなくて、時間の量子化については可能性世界理論とも興味深い繋がりが……」
「ねえ蓮子。その話長くなる?」
今のは私の声を真似た非帽子蓮子。
「……とにかく、私は来週の土曜にひょんなことからタイムマシンを完成させてしまうらしいのよ」
「思ったより近い未来でびっくりしたわ」
「それで私はやってきたのよ。この宇宙の夢と伝統を保守するために、ね――」非帽子蓮子は白目のままそう言った。
帽子蓮子は心底悲痛そうに話を続ける。
「一般的に、未来から来た人間が過去を変えるとタイムパラドックスが起こると言われているの。過去と未来の繋がりに齟齬が生まれて、その小さな歪みが時空全体に広がってしまう。具体的にはよくわかってないんだけどね。本当はなにも起こらず、別の歴史として分岐していくだけかもしれない。でも、もしそうじゃなかったら……」
帽子蓮子は宇宙が終わる瞬間を想像したのか、頬を引きつらせて笑った。
「私はそれを阻止するためにやってきたのよ」非帽子蓮子が小刻みに自分の喉を叩きながら変な声で言った。「私もそこの私と同じ。一週間前に未来の私からこの話を聞かされて、この一連の伝統を託されたの。私だって必死なのよ。すべての伝統を完璧に受け継がなければ、過去の私が見せられた歴史と今の私が行う歴史が食い違うわけだから。もしかしたらその瞬間、この宇宙そのものが崩壊してしまうかもしれない。今この瞬間はメリーにとっての現在であり、私にとっての過去であり、宇佐見蓮子にとっての未来」彼女はサングラスを三つ取り出し、全部重ねて装着した。「もうわかってるわよね、過去の私。あなたは今日ここで見たすべてを受け継がなくてはならないの。タイムパラドックスを防ぐために。あなたが世界を救うのよ!」
私はストローでヨーグルトを飲みながら、二人の宇佐見蓮子に降りかかる災難を憂えた。いったいどうして、こんな面倒なことになってしまったのだろう。
実際のところ、論理的に考えていけばタイムパラドックスが本当に起こるのか、すべての元凶が誰なのかがわかりそうな気もしたのだが、私は飲むヨーグルトの予想外のおいしさに驚き、考えるのをやめた。
「……じゃあ、そういうことだから。私はあれで未来へ帰ります」
非帽子蓮子は店の外を指差した。
「ま、まさかタイムマシンって、あそこに駐めてある――」
駐車場に駐めてあったデロリアンが爆発した。
黒焦げになった車からもくもくと煙が上がり、周囲の客たちは大混乱に陥っている。
「爆破も伝統らしいのよ……。本物のタイムマシンはこっち」
そう言いながらピーと笛ラムネを吹く非帽子蓮子の周囲に、正八胞体形の半透明な膜が現れた。
「待って……私、上手くできる自信がない! こんな伝統、受け継ぎたく……受け継げる気がしないわ!」
「大丈夫。きっと上手くいくよ。私もやったんだから。今あなたはこう考えてるわよね。『タイムパラドックスなんて本当は起こらないかもしれない。私がこの頭のおかしい伝統を断ち切ってやる!』って。でも、そうはならないの。なぜなら……」
非帽子蓮子は帽子蓮子の不意を突き、彼女の帽子を奪い取った。
「やった! やっと取り返せたわ!」
帽子を奪われた蓮子は呆気に取られ、タイムマシンとともにこの時空から消えつつある蓮子に向けて怒鳴りつけた。「あっこら私! 私の帽子返せ‼︎」
「これがあなたに受け継ぐ最後の伝統よ! じゃあね〜! ピーッピピピピピ――」
笛ラムネ越しの高笑いがタイムマシンとともに遠ざかり、やがて彼女は、この世界から消えた。
「ねえ蓮子、本当に行くの?」
一週間後、私は大学の研究室でヨーグルトを飲みながら訊いた。
「行くよ。誰がなんと言おうとも。あの帽子はお気に入りなのよ。絶対に私から取り返してやるんだ!」
すごく不毛だわ。私は別に止めないけどね。「そう。頑張ってね」
非帽子蓮子は親指を立てて、伝統を伝えに行った。
不条理が過ぎる。笑いました・よかったです。
最初の蓮子と最後の蓮子の帽子はどうなるんでしょうか
不条理で面白かったです