『西行妖』
西行妖(さいぎょうあやかし)は妖怪桜である。もとよりそうだったわけではないが、いつのころからか人を死に誘う妖力をもつようになった。
もっとも、西行妖じたいに殺意があるわけではむろんない。ただその咲き誇る花を観るだけで、人が勝手に死を選ぶだけの話であった。
それはまぁ、それなりに厄介な話ではあったから、人々はこの桜に近づかぬよう申し合わせた。
されど、掟があればそれを破り、「のぼるな危険」と鉄塔に書いてあればそれに登りたくなるのは人情というものだ。
しかもその先にあるのが絶景の桜だというのだから、観に行くなというのがどだい無理な話で、犠牲者は減るどころかむしろ増えたほどだった。
そこである一族が結界を張り、容易に人が近づけぬようにした。すなわち西行寺の族である。
彼らは死霊術(ネクロマンシー)をなりわいにしていたので、常人よりは死に近しく、したがって西行妖の魔性からも逃れえたのだ。
おかげで、うかつに花見に来て西行妖の肥やしとなる輩は減ったものの、西行寺の一族に対しては『西行妖の花を独占している』という悪評がささやかれた。いつ、どこにでも、暇人はいるものらしい。
それを気にしたわけでもあるまいが、西行寺家は年に一度、『西行妖が満開に咲き誇った日』のみ、花見を解禁することにした。
人々、といってもごく少数の好事家は喜びいさんで駆けつけ、大いに妖怪桜の花吹雪を堪能した。
もっとも、そのまま生きて帰途につける者はほとんどいなかったので、年々人出は減り続け、数年後にはほんの二、三人しか訪れないようになっていた。
そんなある年の『解禁日』。ひとりの少年が、結界を訪れた。
「見れば」西行寺の者は困惑した。「まだ二十歳にもなるまいに。なぜ、死に急ぐ?」
少年は微笑をたたえたまま答えず、体躯に似合わぬ太刀二振りを引っさげ、西行妖のもとへ向かった。
「さても奇特な!」興味を引かれた西行寺の娘のひとりが、彼の後を追った。「花を肴に風流するには、まだまだ骨がなさそうなのに」
彼女が様子をうかがうと、少年は早くも双剣を抜いていた。
「あの剣で、みずから始末をつけようというのかしら?」
そう思ったが、少年はじっと動かず、西行妖を見上げている。
やがて風が起こり、花びらが吹雪いた。
桜色の視界が晴れると、少年は――二人になっていた。
「なんと?」
少女が不思議がるあいだに、二人の少年はおのおの太刀をとると、激しく斬り結びはじめた。
数十合の撃ち合いの果て、倒れたのは、短いほうの剣をもった側だった。
面妖にも、その屍はゆらゆらと崩れ、ぼんやりと霞む影となり、生き残った側の少年にまとわりついた。
「ようやく」少年はつぶやいた。「あるべき形となったか」
「いやいや」少女は思わず歩み出て、異議をとなえた。「どういうことかしら?」
それというのは、と少年は驚きもせずにいった。「私は生来、相反するふたつの魂をもっていました」
「と、いうと?」
「大まかにいえば、良心と邪心です。そのため『私たち』はつねに己どうしで争い、傷つけあってきました。このままでは共倒れです。そこで私は、決着をつけようと思いました」
「それで?」
「ごらんのとおり、死を誘う妖怪桜に相対しました。すると『奴』は、私から分離しました。死にたくなかったのでしょうね。しかし」
と、少年は己に従う霊を指した。「いまやこのとおり敗残し、霊体となったのです」
「なるほどね。正義は、勝ったってことかしら?」
まさか、と少年は微笑んだ。「むしろ、私のほうが邪悪ですもの」
「ああ」西行寺の娘はうなずいた。「もっともなことだわ」
ところで、と少女はもちかけた。「あなたはこれからどうするのかしら? よければ、ここで働くといい」
「反魂香に慣れてしまうと、腕が落ちそうではありますが」なかば逡巡しつつ、「とはいえ、すでに半分は死んでいますからねぇ」なかば妥協して、少年は了承した。
ひときわ枝が鳴り花が乱れ、ざわざわと桜吹雪が舞った。
(あるいは西行妖も)桜の渦の中に立ちながら、西行寺の少女はぼんやり思った。
善人よりは悪人のほうが好きなのかもしれぬ、と。
『死蝶霊』
死蝶霊は、冥界の嬢・西行寺幽々子の使い魔である。
生前は蝶の精であり、辺境の花畑を優雅に舞っていたものだった。
その挙措は倣岸にして不遜であり、この世で己ほどに美しく、華麗な舞を演じられる者はいまい、と自負していた。
「笑止な」
と、彼女の驕りをあざ笑ったのは、蟲の元締めである蛍妖リグル。
「何が可笑しいのです?」
「なるほど君の舞は華麗で優雅だ。しかし」
私はかつて、死を招く桜の下で舞う姫を観た、とリグル。
「その幽玄さ、霊妙さはことばにあらわせぬ。しょせん君はことばで語れるていど。彼女に比べれば、君ははサナギにすらなれていないといえよう」
蝶の精は大いに憤り、ならばひとつその娘とやらと勝負してくれる、と彼女が住まう地へむかった。
その当人はちょうど、庭師に剣術の手習いを受けている最中。
「お嬢様はあいかわらず刃先が定まりませんな」
「心が広いのだから仕方が無いわ」
「そういう問題でもないのですがね」
そういうところへ蝶の精がやってきて、舞の勝負をしようと申し出たのである。
「ああ、ちょうどいい退屈しのぎじゃない?」
「そうやって、また稽古を反故になさるのですね」
あきれ気味の庭師を放っておいて、少女は桜のもとへむかった。
「さて、それじゃひとさし」
少女は舞いはじめた。
が、一見、まるで動いていないかのよう。
しかし徐々に、観る者を惹きつけていく、それは舞であった。
蝶精は見惚れるあまり、
まばたきも忘れ、
呼吸も忘れ、
心の動きすらも――
「それまで」
庭師の大喝が響いた。
「あら」少女は目を伏せた。「また、いざなってしまうところだったわね」
あやうく死の淵から立ち戻った蝶の精は、尻餅をつき、身を震わせるばかりだった。
「勝敗は」庭師がいった。「定めるまでもないようで……」
そうね、とつぶやいて、少女は蝶精に微笑みかけた。
「また、いつでもおいでなさい」
怖くなければね、と彼女は小声で付け加えた。
それが、彼女――西行寺幽々子と、蝶精の出会いであった。
これを縁に、蝶精は幽々子のしもべとなり、仕えるようになった。
もとより、彼女の舞を会得せんがためである。
といっても、この師匠は他人に教えるような甲斐性はなかったから、ひたすら身をもって盗むしかなかったのであるが。
やがて歳月は過ぎ四季はめぐり、永い時を経て、蝶精は師におとらぬわざを得るにいたった。
「よくやったわね」
師匠――というわりには何を教えたわけでもないが――に褒められ、蝶の精ははなはだ喜んだ。
「じゃあ、観せてもらおうかしら。精魂こめた、あなたの舞を」
「心得ました」
そこで蝶精は長年学んだ舞の精髄を披露した。
まさにそれは幽雅にして華霊、観る者をして忘我に至らせる舞であった。
ぱち、ぱち、ぱち。
「如何でしたか」
舞を終えた彼女が呼びかけたとき、
――師は、幽々子は、息絶えていた。
驚愕した蝶精は、漸く悟った。彼女が、死を望んでいたことを。
「いずれは、こうなる定めであったのだろう」
ひどく疲れた声の庭師がやってきて、西行寺の娘の頬を撫でた。
「気に病むことはない――お嬢様は亡くなったが、新たに化生する。幽霊となって」
それこそが、と庭師。「この方の、望みでもあった」
「私は」蝶精はつぶやいた。「この方以外に、舞を観てほしくはありません」
よかろう、と庭師は抜刀した。
「冥界は」衝撃。
「暖かいと聞く」地面。
それは朗報だ、と蝶精はぼんやりと思った。
やがて亡霊の姫として化生した幽々子のかたわらに、つねに死蝶の霊が寄り添うようになるのだが、それはみな、のちの話ではある。
『魂魄 妖忌』
魂魄妖忌は幽人であった。すなわち半ば幽霊で、半ばは人間であったのだ。
西行寺家に庭師として十年ばかり仕えたある日のこと、休暇をもらってぶらりと現世へ物見遊山に出かけた。
「もし、貴方さま」
山中を歩いているさなか、ふとそう呼び止められた。
振り向くと、女が立っていた。
ひどく憔悴しているな、と思ったのも道理、女は、幽霊であった。
「何か御用かな」
「お待ちしておりました。ずっと」
「と、いうと?」
「すでに十年は昔のことです。貴方さまはあの時分、まだ人間でした」
言われて、妖忌は思い出した――当時もやはりこんなふうに山中を歩いていたとき、女に呼び止められ、しばしその家で厄介になったことを。
「そうか……あのときの、娘か。だが」
「ええ。私もあのときは生きていました。しかし」
ほどなくして寿命が尽きたのです、と女はさばさばといった。
「ならば、冥界に行けば良いものを」少なくとも、こんなひと気のない山の中よりは賑やかだし、だいいち暖かいというのに。
「ええ……でも、私はここが気に入っていますので」
「そうか」
「しかし」
見れば、女は子を抱いていた。
「――その子は」
「私の死後に生まれたせいで、半ばは幽霊ですけれど」
「連れてゆけ、というのだな」
できましたら、と女はいった。
「重荷だからか」
どうでしょう、と女は答えた。「でもどうあれ、幽霊に子育てなど、できようはずもありません」
それはそうだ、と妖忌は思った。
「名はなんという」
つけていません、と女はいった。「必要ありませんでしたから」
「お前の、名だ」
女はしばし黙りこくった。
「忘れたのですね」
「すまんな」
ひどい人、と女はほのかに笑った。
(この笑みには)
魂魄妖忌は想った。憶えがあるな、と。
妖忌がその子を連れ帰って育てたのか、そしてそれが当代の庭師の親なのかどうか、知る者はいない。
だが一説にはいう――後年、白玉楼を去った妖忌が、かの山中で目撃された、と。
そのときの彼が、単身であったのか、はたまた誰か……たとえば女の霊をともなっていたのか? これまた、歴史は沈黙するばかりで、何も答えてはくれない。
西行妖(さいぎょうあやかし)は妖怪桜である。もとよりそうだったわけではないが、いつのころからか人を死に誘う妖力をもつようになった。
もっとも、西行妖じたいに殺意があるわけではむろんない。ただその咲き誇る花を観るだけで、人が勝手に死を選ぶだけの話であった。
それはまぁ、それなりに厄介な話ではあったから、人々はこの桜に近づかぬよう申し合わせた。
されど、掟があればそれを破り、「のぼるな危険」と鉄塔に書いてあればそれに登りたくなるのは人情というものだ。
しかもその先にあるのが絶景の桜だというのだから、観に行くなというのがどだい無理な話で、犠牲者は減るどころかむしろ増えたほどだった。
そこである一族が結界を張り、容易に人が近づけぬようにした。すなわち西行寺の族である。
彼らは死霊術(ネクロマンシー)をなりわいにしていたので、常人よりは死に近しく、したがって西行妖の魔性からも逃れえたのだ。
おかげで、うかつに花見に来て西行妖の肥やしとなる輩は減ったものの、西行寺の一族に対しては『西行妖の花を独占している』という悪評がささやかれた。いつ、どこにでも、暇人はいるものらしい。
それを気にしたわけでもあるまいが、西行寺家は年に一度、『西行妖が満開に咲き誇った日』のみ、花見を解禁することにした。
人々、といってもごく少数の好事家は喜びいさんで駆けつけ、大いに妖怪桜の花吹雪を堪能した。
もっとも、そのまま生きて帰途につける者はほとんどいなかったので、年々人出は減り続け、数年後にはほんの二、三人しか訪れないようになっていた。
そんなある年の『解禁日』。ひとりの少年が、結界を訪れた。
「見れば」西行寺の者は困惑した。「まだ二十歳にもなるまいに。なぜ、死に急ぐ?」
少年は微笑をたたえたまま答えず、体躯に似合わぬ太刀二振りを引っさげ、西行妖のもとへ向かった。
「さても奇特な!」興味を引かれた西行寺の娘のひとりが、彼の後を追った。「花を肴に風流するには、まだまだ骨がなさそうなのに」
彼女が様子をうかがうと、少年は早くも双剣を抜いていた。
「あの剣で、みずから始末をつけようというのかしら?」
そう思ったが、少年はじっと動かず、西行妖を見上げている。
やがて風が起こり、花びらが吹雪いた。
桜色の視界が晴れると、少年は――二人になっていた。
「なんと?」
少女が不思議がるあいだに、二人の少年はおのおの太刀をとると、激しく斬り結びはじめた。
数十合の撃ち合いの果て、倒れたのは、短いほうの剣をもった側だった。
面妖にも、その屍はゆらゆらと崩れ、ぼんやりと霞む影となり、生き残った側の少年にまとわりついた。
「ようやく」少年はつぶやいた。「あるべき形となったか」
「いやいや」少女は思わず歩み出て、異議をとなえた。「どういうことかしら?」
それというのは、と少年は驚きもせずにいった。「私は生来、相反するふたつの魂をもっていました」
「と、いうと?」
「大まかにいえば、良心と邪心です。そのため『私たち』はつねに己どうしで争い、傷つけあってきました。このままでは共倒れです。そこで私は、決着をつけようと思いました」
「それで?」
「ごらんのとおり、死を誘う妖怪桜に相対しました。すると『奴』は、私から分離しました。死にたくなかったのでしょうね。しかし」
と、少年は己に従う霊を指した。「いまやこのとおり敗残し、霊体となったのです」
「なるほどね。正義は、勝ったってことかしら?」
まさか、と少年は微笑んだ。「むしろ、私のほうが邪悪ですもの」
「ああ」西行寺の娘はうなずいた。「もっともなことだわ」
ところで、と少女はもちかけた。「あなたはこれからどうするのかしら? よければ、ここで働くといい」
「反魂香に慣れてしまうと、腕が落ちそうではありますが」なかば逡巡しつつ、「とはいえ、すでに半分は死んでいますからねぇ」なかば妥協して、少年は了承した。
ひときわ枝が鳴り花が乱れ、ざわざわと桜吹雪が舞った。
(あるいは西行妖も)桜の渦の中に立ちながら、西行寺の少女はぼんやり思った。
善人よりは悪人のほうが好きなのかもしれぬ、と。
『死蝶霊』
死蝶霊は、冥界の嬢・西行寺幽々子の使い魔である。
生前は蝶の精であり、辺境の花畑を優雅に舞っていたものだった。
その挙措は倣岸にして不遜であり、この世で己ほどに美しく、華麗な舞を演じられる者はいまい、と自負していた。
「笑止な」
と、彼女の驕りをあざ笑ったのは、蟲の元締めである蛍妖リグル。
「何が可笑しいのです?」
「なるほど君の舞は華麗で優雅だ。しかし」
私はかつて、死を招く桜の下で舞う姫を観た、とリグル。
「その幽玄さ、霊妙さはことばにあらわせぬ。しょせん君はことばで語れるていど。彼女に比べれば、君ははサナギにすらなれていないといえよう」
蝶の精は大いに憤り、ならばひとつその娘とやらと勝負してくれる、と彼女が住まう地へむかった。
その当人はちょうど、庭師に剣術の手習いを受けている最中。
「お嬢様はあいかわらず刃先が定まりませんな」
「心が広いのだから仕方が無いわ」
「そういう問題でもないのですがね」
そういうところへ蝶の精がやってきて、舞の勝負をしようと申し出たのである。
「ああ、ちょうどいい退屈しのぎじゃない?」
「そうやって、また稽古を反故になさるのですね」
あきれ気味の庭師を放っておいて、少女は桜のもとへむかった。
「さて、それじゃひとさし」
少女は舞いはじめた。
が、一見、まるで動いていないかのよう。
しかし徐々に、観る者を惹きつけていく、それは舞であった。
蝶精は見惚れるあまり、
まばたきも忘れ、
呼吸も忘れ、
心の動きすらも――
「それまで」
庭師の大喝が響いた。
「あら」少女は目を伏せた。「また、いざなってしまうところだったわね」
あやうく死の淵から立ち戻った蝶の精は、尻餅をつき、身を震わせるばかりだった。
「勝敗は」庭師がいった。「定めるまでもないようで……」
そうね、とつぶやいて、少女は蝶精に微笑みかけた。
「また、いつでもおいでなさい」
怖くなければね、と彼女は小声で付け加えた。
それが、彼女――西行寺幽々子と、蝶精の出会いであった。
これを縁に、蝶精は幽々子のしもべとなり、仕えるようになった。
もとより、彼女の舞を会得せんがためである。
といっても、この師匠は他人に教えるような甲斐性はなかったから、ひたすら身をもって盗むしかなかったのであるが。
やがて歳月は過ぎ四季はめぐり、永い時を経て、蝶精は師におとらぬわざを得るにいたった。
「よくやったわね」
師匠――というわりには何を教えたわけでもないが――に褒められ、蝶の精ははなはだ喜んだ。
「じゃあ、観せてもらおうかしら。精魂こめた、あなたの舞を」
「心得ました」
そこで蝶精は長年学んだ舞の精髄を披露した。
まさにそれは幽雅にして華霊、観る者をして忘我に至らせる舞であった。
ぱち、ぱち、ぱち。
「如何でしたか」
舞を終えた彼女が呼びかけたとき、
――師は、幽々子は、息絶えていた。
驚愕した蝶精は、漸く悟った。彼女が、死を望んでいたことを。
「いずれは、こうなる定めであったのだろう」
ひどく疲れた声の庭師がやってきて、西行寺の娘の頬を撫でた。
「気に病むことはない――お嬢様は亡くなったが、新たに化生する。幽霊となって」
それこそが、と庭師。「この方の、望みでもあった」
「私は」蝶精はつぶやいた。「この方以外に、舞を観てほしくはありません」
よかろう、と庭師は抜刀した。
「冥界は」衝撃。
「暖かいと聞く」地面。
それは朗報だ、と蝶精はぼんやりと思った。
やがて亡霊の姫として化生した幽々子のかたわらに、つねに死蝶の霊が寄り添うようになるのだが、それはみな、のちの話ではある。
『魂魄 妖忌』
魂魄妖忌は幽人であった。すなわち半ば幽霊で、半ばは人間であったのだ。
西行寺家に庭師として十年ばかり仕えたある日のこと、休暇をもらってぶらりと現世へ物見遊山に出かけた。
「もし、貴方さま」
山中を歩いているさなか、ふとそう呼び止められた。
振り向くと、女が立っていた。
ひどく憔悴しているな、と思ったのも道理、女は、幽霊であった。
「何か御用かな」
「お待ちしておりました。ずっと」
「と、いうと?」
「すでに十年は昔のことです。貴方さまはあの時分、まだ人間でした」
言われて、妖忌は思い出した――当時もやはりこんなふうに山中を歩いていたとき、女に呼び止められ、しばしその家で厄介になったことを。
「そうか……あのときの、娘か。だが」
「ええ。私もあのときは生きていました。しかし」
ほどなくして寿命が尽きたのです、と女はさばさばといった。
「ならば、冥界に行けば良いものを」少なくとも、こんなひと気のない山の中よりは賑やかだし、だいいち暖かいというのに。
「ええ……でも、私はここが気に入っていますので」
「そうか」
「しかし」
見れば、女は子を抱いていた。
「――その子は」
「私の死後に生まれたせいで、半ばは幽霊ですけれど」
「連れてゆけ、というのだな」
できましたら、と女はいった。
「重荷だからか」
どうでしょう、と女は答えた。「でもどうあれ、幽霊に子育てなど、できようはずもありません」
それはそうだ、と妖忌は思った。
「名はなんという」
つけていません、と女はいった。「必要ありませんでしたから」
「お前の、名だ」
女はしばし黙りこくった。
「忘れたのですね」
「すまんな」
ひどい人、と女はほのかに笑った。
(この笑みには)
魂魄妖忌は想った。憶えがあるな、と。
妖忌がその子を連れ帰って育てたのか、そしてそれが当代の庭師の親なのかどうか、知る者はいない。
だが一説にはいう――後年、白玉楼を去った妖忌が、かの山中で目撃された、と。
そのときの彼が、単身であったのか、はたまた誰か……たとえば女の霊をともなっていたのか? これまた、歴史は沈黙するばかりで、何も答えてはくれない。
読み終えたあとのこの充実。最高