++ title: バックダンサーズたちの贋作森の冒険
++ sub: a blindness
+ /-
とある土地の調査をするようお師匠様から命令が下った。
長話を要約すると、その土地上の構造物をまるっと囲いたいそうだ。なぜそんなことをするのか、摩多羅隠岐奈はいくつかの理由を懇切丁寧に説明したけれど、長話だったので大部分を聞き逃してしまった。でもまあ、僕たちの側には強いて知っておく動機はないのである。
この神の思考を完全に理解しようと努力するなど無価値なことだと承知していたので、僕は適当にうなずいておくことにした。
さっきから僕と里乃はずっとひざまずいて、こうべをたれている。二時間ほどこの姿勢のままだ。いいかげん首まわりが疲れてきた。
「……(中略)……と、言うわけだ。二人とも理解したか?」
長話をようやく終えた後、摩多羅神は最後にこう言った。
「私も行きたい」
その一言で、賢い里乃は何かを察したようだ。
足元に置いていた分厚い書物を取り上げて、お師匠様に献上した。それはカラフルな色彩で、のっぺりした質感の本だった。いわゆる現代の雑誌だ。里乃はどこでこれを手に入れたのだろうか。
「こちらにその土地の情報誌を用意しております」
「ほう? よこせ」
隠岐奈様は雑誌をとりあげて、ぱらぱらとページをめくってゆく。
僕たちはしばらくその様子を静観した。
……くそぅ、里乃め。余計なことを。はやく終わらないかなぁ。
「近くに忍者のラーメンがあるぞ」
「忍者? はて。そんなものありましたっけ?」
里乃が首をかしげる。
「かの有名な寓話があるだろ。ほら。あれだよあれ。屋台のラーメン店が」
「あー」
そこで僕は今日、はじめて声をあげた。
「あの漫画ですね。忍者の」
「そうそれ。忍者の」
「最後戦争になるやつ」
「そうそう。よく憶えていた。舞はかしこいなぁ」
お師匠様が僕をほめる。照れる僕。
里乃は黙したままじっと頭を伏せている。いつも思っていることだけど、なに考えてんだろうな。
「どうも連載が終わったらしいじゃないか」
「とっくの昔に終わってますよ」
「ふむ」
ふたたび思案する隠岐奈様。
あ。しまったな。話が長引きそうだ。
「連載終了で思い出したが、そういえば、こないだの会議の件はどうなったんだ? そもそもあれは……(中略)……だし、そう言うこともあるだろうから……(中略)……ともあれ……(中略)……なんだ。お前たちには私とその土地を調べてもらいたい。他の勢力の介入があるかもしれんが、まあ気にするなよ。蹴散らしといて」
「「……おおせのままに」」
僕たちは深く一礼して、お師匠様の前から退いた。
ふぃー! やっと終わった!
+ -/
廃墟探検の雑記を物語る前に、僕について説明しておこうと思う。
僕の名は丁礼田舞。後戸の神ことお師匠様の部下で、お師匠様を世話する二童子の一人で、竹担当の方だ。忘れっぽい茗荷担当は爾子田里乃という。趣味はダンス。日課はダンス。仕事もダンス。楽しいダンス三昧の毎日だ。
お師匠様が異変を起こして幻想郷を騒がせたのはつい先日のこと。隠然を生活の旨とする僕たちは、なるべく目立たぬよう、日がな任務をこなしていた。
「お前たち。どうせ何も考えてないだろうから言っておくけどさ、外の世界に出るのはなかなか難しいことなんだぞ」
……していたはずなんだけど、お師匠様がまた妙なことを言い出したのだった。
どうも妖怪のお偉いさんに異変騒ぎのお詫びも兼ねて挨拶にいくそうだ。
粗品が欲しいとのこと。それも珍しい粗品が。
「そーなんですか?」
店の奥でくつろいでいるお師匠様に、人里の娘に扮した里乃が問う。
現在、僕たちが滞在しているのは幻想郷の人里。その中の、とある茶屋だ。そこはお師匠様が懇意にしているお店で、真っ当な人間ではない僕たちが出入りしていても、見て見ぬ振りをしてくれる。まあ僕たちも一応、人間なんだけどね。
「うん」
摩多羅神はうなずいて(しかし説明はせず)、扉から一匹の少女をとりだしてみせた。ロープで簀巻きにされて転がされている小柄な少女の顔を、僕たちは見たことがあった。
「そこで今回はこれ。“チルノ”を使おうと思います」
拉致ってきたらしい。
簀巻きで寝苦しいだろうに、チルノは気持ちよさそうに眠っている。
「妖精を人里に持ち込んじゃっていいんですか?」
「すぐに帰すからいいんじゃない?」
疑問形でいいの。
「そんなことよりもだな、私の欲しいハコはなかなか手に入らないものなんだ。だったのだが、それがかの地、九州にあることがこの前の調査でわかった。九州の方で例大祭が開かれているのはもちろん知っているよな?」
「へえ。そうだったんですか。知りませんでした」
と里乃。
「いやさっぱり」
と僕。
「……。……うむ」
ちょっと残念そうな顔をするお師匠様。
お師匠様のよくわからない説明を頑張って解釈してみたところ、理由は不明だが、その祭りではなぜかこのチルノを主役の座に据えていることが判明した。忘れ去られたものが引き寄せられる幻想郷だが、チルノという幻想郷内部の幻想像を愛し続ける熱烈な信奉者が“外”にいることは紛れもない事実。だが、チルノという妖精が忘却された“外”があるのもやはり事実。
「……なるほど。わかりましたよお師匠様。このチルノをよすがに、幻想郷内部で、私たちにとって都合のいい“外”となる幻想の像を作る。そうすることで移動するのですね」
里乃が話を総括する。
「移動した“気になる”。そう、さすがは里乃。だがすこし違う。我々がむかうのは、そこからもう一段階深く沈んだところだ。古く残滓となった幻想の土地。ヒトの空想を繰って、さらなる欠落した空白を引きずり出さなければならない」
床に転がされたチルノを中心に、魔法陣が展開されてゆく。
お師匠様はその光をじっとみつめ、やがて一本の細い糸をつまみ上げた。
まばたきのうちにその糸の厚みが増し、やがて扉へと変換される。きっと概念だか次元だかをいじったのだろう。
「ここかな?」
扉の向こうに、夏の強い日差しで照らされた森が見えた。
+
茹だるような暑さと、焼けつく太陽の日差しが、僕たちを苛んでくる。
そこはとても古い樹海で、肥大した樹にコンクリート建造物が呑まれるほどだった。栄えていたであろう人工の都市の痕跡はほとんど朽ちてしまっている。妙に蒸し暑いのは上空に薄い幕があるためだ。あの幕のせいで大気の熱が逃げていきづらいのだろう。
空間は、さながら巨大な温室のように締めきられている。
「暑い」
空を見上げて、お師匠様が呟く。
「ですねー。水筒とか持って来ればよかった」
眩しい太陽に目を細めている里乃も、じっとりと汗ばんでいる。
「たまには外に出て視察も良いと考えていたんだけどな、少々難儀そうだ」
同意見だ。
「では、早々に調査を切り上げますか?」
土地については事前に調査している。外部からの干渉が無いことは確認済みだ。その上、この土地を観測できた知性体はなかった。したがって、森の中に僕たちにとっての敵対勢力はないはず。野獣や弱い魍魎くらいはいてもおかしくないと思うけど。
「いいや、調べておく。何もいないのは流石におかしい。異常があって然るべき土地なんだよ」
「どういうことです?」
「エラーを期待しているだけさ。……おぉそうだ。舞。里乃。私はちょっとラーメン食べてくるから、二人で森の中を調査しておいてくれないか」
「え!? ラーメンなら僕も食べたいんですけど……」
「承知しました」
お師匠様は真面目な顔をして頷くと、さっさと扉の向こうへ消えてしまった。
なんということだ。堂々とサボったのだ。僕は開いた口が塞がらない。
「……ずるい。僕も食べたい」
「命令でしょ」
「でも暑くてやる気がでないよ」
こんな文明のなさげな土地なんて、暑いだけで少しも利点はないだろうに。
なぜ里乃は愚痴もこぼさずこんな任務に従順でいられるのだろうか。やってらんないや。
「じゃあ、はやく“箱”を探さして帰らなきゃね」
里乃が呟く。
「“箱”?」
僕が問い返すと、里乃は信じられない阿呆でも見たような顔をした。
「舞。まさかお師匠様の話を聞いてなかったの? ここにきた目的は、“箱”を探すためでしょ。異変騒ぎのお詫びをするための」
あれ。そうだっけ……。
うん。
そうだったそうだった。そういえば、そんな話だった気がする。
僕としたことが。お師匠様の話が退屈なあまり、話の要点を聞きそびれていたようだ。
里乃がいてくれて助かったよ。
「ああ、そうだったね。僕たちはこの“ハコ”の土地を囲う象徴となる、箱を用意しなきゃいけないんだ」
「え? “ハコ”の土地?」
驚く里乃。
やれやれ。里乃も話を聞いてないじゃんか。
「ふふん。わかったぞ。僕たちの話を繋げてみれば話は見えてくる。お師匠様がお土産に用意しようとしているのは、壺中天か、それに類するものなのさ。その“ハコ”の中にこの森を封じ込める気なんだ。スノードームみたいなものね。わざわざこの“ハコ”の土地で箱を探すわけだから、きっと他所よりもずっと縁起が良いものに違いない。ちゃんとしたものを見つけないと」
僕が言うと、里乃は得心いったような顔をした。
「なるほどねー」
「なるほどなー」
二人でうなずき合う。
情報の擦り合わせって大切だなぁ。
+
「……にしても、森、か。どうみても森よね。ここ。元々学校があっただなんて信じられないわ」
朽ちた廃墟を見上げて、里乃が呟く。
森の中は無音なので、彼女の声はよく通った。
「普通は七人の妖怪たちが統治しているんでしょ」
「七不思議ね」
里乃が僕の言葉を訂正する。
この学校において対抗勢力となりうる妖怪がいるとしたら、その七不思議の伝承にまつわる存在だろう。
というわけで、里乃と僕とであらかじめこの土地にまつわる怪談の情報を収集しておいたのだった。
記録に残っていたのは、「地蔵の森」と「踏切の怪」の二つで、残り五つはわからない。妖の情報は口伝のみで継承されて、書物には記されなかったのかもしれない。
「こんなに大きな学び舎なのに5つも空席があるだなんて、逆に驚きだよ。みんな夢がないね」
「現実的なんじゃない」
「いいや違うね。周囲の人間に同調するだけで、見て見ぬ振りするのが得意なんだ。世はこんなにも不思議で溢れているというのに」
七不思議の顛末はこうだ。「地蔵の森」という名の雑木林は拓かれて、寂れたカフェと庭園へ変貌していた。「踏切の怪」は単なる地形の問題。事故があったそうだけども、きちんと供養されていた。つまり残念ながら、怪談の全てに綺麗なオチがついていたのだった。
つまんない。ピクニックであれ散歩であれ冒険であれ、やっぱり不思議がなければつまらないと僕は思う。最初からすべて分かってしまえば、動く気力すら湧いてこないだろう。僕にとっては、予測不可能なイベントこそ人生の醍醐味だというのに。
……とっとと調査を終わらせて、人里に帰ってお団子でも食べよう。
お師匠様から頂戴した映像の情報、雑木林時代の「地蔵の森」と建造物があった時代の「地蔵の森」から、座標にあたりをつけて里乃と二人で道を適当に進んでみる。
ごろごろとした大きなコンクリートの破片を避けながら進んでいく道中、木の上にタコとも猿ともつかない生物の輪郭(?)が見え隠れしていたので驚いた。
どうも木の葉を見る角度で、そのように見えてしまうらしい。気のせいだとは思うけど、気を抜いていると襲いかかってくるかもしれないな。
「とても古い土地ね。舞は気づいてる? この森の樹。樹っぽいけど動きがない。静止してるの」
「舞台のセットみたいだね」
「書き割りだよ」
それは、この土地にやってきた時に気がついていた違和感の一つだった。これだけ大量の木の葉があるというのに、それらは葉擦れをせず、音を出さない。樹木は書き割りみたく動かないのだ。したがって森は痛いくらい無音。不気味だ。
ためしに近くに落ちている石ころを拾い上げて、よく観察してみる。
一見してただの石ころだ。触った感覚も普通の石ころ。なんだけども、一度地面に置いて再びそれを握ってみると、なんとさっきまで握っていた時と形状が変わっているんだなこれが。びっくり。
きっと映像思念のこびりついた土地が、どうにかして生命“っぽい”機構を獲得したから、こういった現実ではありえないようなことが起きるのだろう。
そういうのはお師匠様の扉を経由して渡った世界ではよく見る光景だ。オリジナルである「一次創作」の生物の定義から、大なり小なりズレてしまった「二次創作」の幻想生命体。遠目から見れば生物なんだけど、理論の細部を注視すればデコボコで、ともすれば生物としてありえないほどの齟齬さえ孕んでいる。こういうのを図形でいうところの、フラクタル構造というんだっけ。
「樹の外観の幽霊ってところかな」
僕は石ころをポケットの中に入れた。
「観測者は人でしょう。元々は学校だったんだし」
「意識的に造られたものではないと思うけど」
「栄養源は人間たちの無意識の……いや、常識か」
その白い鳥居を見つけたのは、そんな風にどうでもいいことを駄弁っている最中だった。
ニセモノの森の中で、妙に存在感のある鳥居を見つけた。島木のつややかな色艶といいまるで新品同様の柱の質感といい、なぜか目立つ。コンクリートは劣化して樹に呑まれてひしゃげているのに、この鳥居だけ朽ちていないのが不思議だ。まるでついさっき建造されたかのような……。
「学内に神社があるなんて情報あったっけ?」
里乃が呟く。
「さあね。藩主の墓があるとは聞いていたけど」
「不思議ねぇ」
何のためにそこにあるのかわからない鳥居。空白の額束。何を祀っているのかもわからない。
こいつはイレギュラーだぞ。オリジナルからどのように漂流すれば、白い鳥居なんて構造物があらわれるんだろう。この鳥居という形は神に祈るためのものだし、とすると神様という概念が絡んでくるはずだ。
ちょっとわくわくしてきた。
「鳥居は内と外を仕切るもの。それが本当に神様なのかどうかは知らないけど、ここから先は“誰かさん”の領域なんでしょうね」
「土地に巣食った妖怪が勝手に作ったのかもよ?」
「いや、でも、おかしいな、そんなはずは……」
そんなはずはない。
里乃の言う通りだ。人間たちの“学校はかくあるべし”という常識だけから組み上がった二次創作物が、高度な思考をもつはずがない。まして“鳥居で区切る”なんて行動を閃くはずがない。そもそもそんな知識を得るツテがないのだから。
つまり、ありえない。
「ちょっと、怖くなってきたな。ねえ舞。戻ってお師匠さまのとこに行こうよ。一緒にラーメン食べよ?」
里乃の方は青い顔をしている。
「いやいや。サボってるのがバレちゃうよ。面白そうじゃん。この先に何があるか見てみようよ」
再び歩き出そうとした僕の手を、里乃が掴む。
「戻りましょう。怖いよ。迂闊に行動すると帰れなくなるかもしれないよ?」
「臆病だなぁ」
せっかく面白そうな不確定要素を見つけたというのに。つまんないや。
「だったらじゃんけんしよう。僕が勝ったら先に進もう」
「いいけど……」
僕は右手でチョキを出した。
里乃の右手はパーだった。
だけど、左手でグーを出していた。
「うん。私の勝ちね。戻ろう」
「ちょっと待って。ずるくない!?」
里乃は僕の肩を掴むと、信じられない力で引っ張り始めた。
なんという強力な力だ。野獣もかくやというほどのパワー。意地でも連れて帰るつもりらしい。そうはさせるもんか。
僕は里乃の手を振り払った。
「ふんだ。帰りたければ里乃だけで帰ればいーじゃん。せっかくこんな面白そうなところにこれたんだ。僕はもっと満喫していくからねー」
里乃は何か言いたそうな顔をしていたけれど、僕は振り返らずに、鳥居の下まで歩いた。
近づけば近づくほど白い神木の質感が伝わってくる。
でもきっと、これは記号なのだ。由来がなければただの記号。そう。他になんの意味もない。そもそもこの空間は人間たちの空想をお師匠様がこねて製作したものなのだし、その人間が鳥居の神聖さなんて信じていなかったのだから、この鳥居に意味なんてない。ニセモノなのだから、何も怖がる必要はないのだ。
おそるおそる、その下をくぐってみる。
「ほ、ほらね。どうって事ないじゃんか」
まったく。里乃は心配のしすぎなんだ。いつも消極的で何もしないくせに。きっと内心では踏ん反り返っているくせに。そんなだから、なかなか外に出られないんだよ。
「里乃もこっちにきてみなよ。どうってことないさ」
僕は得意な顔をして、里乃の方を振り返った。
里乃はいなくなっていた。
+
「里乃ー? どこー? 隠れてるのー?」
鳥居は結界。内と外の区切りを示すサインなのだと、いつかお師匠様が言っていた。内は聖域。魔物はこの内側にはいってこれない。
おかしいな。人間なら関係ない話だと、思っていたのだけども。
「ちょっとやめてよー。里乃ー? 謝るから出てきてよ。どこにいるの? 里乃ー?」
早歩きで森の中を彷徨い続けている。
僕は里乃がいなくなってからすぐ、鳥居をくぐりなおして元の道を引き返していた。
のだけど、ついぞ相方と出会うことはなかった。
まさか彼女が隠れたとは思えない。そういうタチの悪いいたずらをする性格でないことぐらい、ちゃんと彼女のことは知っているつもりだ。
じゃあ、やっぱり、僕は遭難してしまったのだろう。
「里乃ー……。うぅ、おかしいな。こんなはずじゃ……」
森の形状は変化しない。だけど歩いて視点がずれるたび、書き割りの森の色彩は変化している。
その色はどこか硬質な人工物に似ていた。乱雑に砕いた水晶の欠片のように、森らしき色が点滅して、変幻して、そして視界の隅へ消えていく。僕が焦れば焦るほど、森の景色から目が離せなくなってくる。
「やだなぁ」
ここはどうにも、妙に無機的で、そして嘘みたく綺麗だ。
目がまわる。
よろめきながら道を進んでいると、目の前にあったはずの樹の輪郭が変遷して、やがて少女の外見へ変わった。
里乃っぽいシルエットだけれど、あれは、幻だろうか。
「━━━迷子ですか?」
「ひぃ!?」
里乃の輪郭が里乃の声のまま言葉を発したので、悲鳴をあげそうになった。
「そ、そうだけど、君、だれ? ちょっと森の出口まで道案内してもらえますか?」
「難しい頼みごとですね。それは可能とも言えるし、不可能とも言えます」
「どういうこと?」
「この森に出口などない。などと、あなたは心のどこかで考えているかもしれませんね。その場合は不可能となります。あなたがそのように設定してしまうからです」
女の影法師が大げさに肩を竦めてみせる。悲しげなジェスチャーだ。
里乃の輪郭なので余計に不気味だ。
「いや、あのですね。そんなこと言われると、逆に、うっかり考えてしまうんですけど」
「でしょう?」
影法師がうなずく。
「この界は、原典の信用という契約により成立している森です。構造的にはかなり脆い。例えばほら、あなたのその足元をよく見てごらん。ハリボテみたいでしょう。のっぺりとしていませんか?」
言われて、僕は自分の足元を見下ろした。
僕の両足が踏んでいるのは樹木に覆われた土の道だ。
だけど、言われてみれば、妙にのっぺりとしている。気がする。
そうだ。影法師の言う通り、この大地にはリアルな質感がないのだ。
思えば森の樹々がニセモノだというのなら、樹木が土に根を下ろしている必要はない。とすれば僕が踏みしめているこの土くれだって、もしかすると土っぽい何かなのかもしれないし、ひょっとすると“ニセモノ”なんじゃないか。
「━━━その通りです」
僕が抱いた疑念を、影法師が肯定する。
━━━ドボンッ!!
地面から、足が抜け落ちた。太ももが飲み込まれると、腰も、胸と頭も簡単に沈んでしまう。光が消えて、そして暗闇になる。森の土壌は水面のように、するりと、僕の身体を飲み込んでしまったのだった。
+
…………
………
……
…
「……舞? 舞!? しっかりして!」
耳元でキンキンと悲鳴じみた声がして、僕は目を開いた。
閉じていた目を開けば、当たり前の話だけど、太陽の日差しと不思議な森の光景が視界に映り込んできた。それから里乃の顔もあった。
「ん? あれ? なんで?」
目をこすりながら起きあがる。
「ああ、もう! 舞のせいで私もくぐっちゃったじゃないの! 鳥居! どうしよう。うぅぅ……。大丈夫よね。ここ出られるよね……!?」
里乃が恨みがましい目つきでこちらを見てくる。
「えっと……。僕は、どうしてたの?」
「鳥居をくぐった瞬間、気絶したの。憶えてない?」
とすると、さっきまで僕は夢を見ていたことになる。
はずだと思う。夢だよね?
「憶えてないや……。別にお礼なんか言わないよ? ほっとけばよかったのに」
里乃が軽蔑の眼差しをむけてきた。
「……ねぇ舞。私が飢え死にしかけたら舞が食べ物役になってね」
「いやだ」
起きあがって、変わらない森の光景を眺めてみる。
遭難者が一人から二人に増えただけで現状は変わらない。むしろ里乃がこっちにきてしまったので状況は悪化しているように思える。まったくこれだから里乃は。
どうしよう。
こうなったらお師匠様の助けを待つしかないのでは。
「舞。とりあえず鳥居をくぐって元の道を引き返しましょう。ここは不気味だし」
「やだよ。僕はさっきまで来た道を引き返してたから遭難したんだよ?」
「という夢をみたんでしょ。もう。舞はすぐ突っ走っちゃうからよくないの」
里乃は肩をすくめて、一人で勝手に鳥居をくぐり、結界の外へ出ていってしまった。
「あ”! 待ってよ! 待てってば!」
僕は大急ぎで追いかけて、里乃の右手を捕まえた。
勝手に行動しないでもらいたい。
「ふふ。あら? どうしたの、舞? 手なんか繋いじゃって。まさか怖いの?」
里乃がからかってくるけど、事はそう簡単なものじゃないんだ。
「あのね。よく聞いて。僕はさっきまで夢の中でこの森を彷徨っていたんだよ」
「そう。夢に見るほど怖かったのね。ふふふ」
なんで上機嫌なんだろう。
「森で道を見失ったらむやみに動きまわらず、その場で助けを待ったほうがいいって聞いたことがあるよ。この鳥居って目印にはなる」
「遭難するほど歩いてないじゃない。ほら、とりあえず戻ってみましょうよ。一本道なんだし。私がついてるわ」
里乃が手を引っ張るので、僕は渋々従ってしまった。
普通は逆なんだけどなぁ。
かくして僕たちは元の来た道を引き返し、歩き続けて目をまわし、そして件の影法師と再会したのであった。
+
「やばいやばいやばいやばいッ!」
影法師を見かけた瞬間、僕たちはまわれ右をして、全力で逃げだした。
不思議な形をした樹と樹の間を、息を切らしながら走る。
必死に足を動かしながら背後を振り返れば、影法師が四本の腕を振り回して追いかけてくるのが見えた。今回の影法師の姿は里乃と僕の姿をミキサーにかけて、ぐっしゃぐっしゃに混ぜたような輪郭をしていた。もはや怪物と形容する他にない。
「ど、どどど、どうしよう。やっこさん、こっちを取って喰いそうな勢いだよ!」
僕が叫んだからなのか、影法師からニョキッと凶悪な牙が生えた。
……やっぱりだッ。あいつ、僕たちをあの牙で食べる気なんだッ!
「ふふ。おしまいね。……なにもかも」
一方、里乃はというと、走りながら落ち込むという器用な真似を披露していた。
里乃の情けなさに悪態をつきながらもう一度、後ろを振り返ってみる。
影法師は明らかに速さを増していて、こちらに追いつこうとしていた。よく見れば足も四本あるではないか。
「ひぃぃ! 里乃! 落ち込んでる場合じゃないだろ! 逃げきれないよ! どうにかしなきゃぁ」
「いいよ。もう無理っぽいよ、舞。ここは大人しく諦めましょう。まあ、私たちは大人じゃないんだけども。……はぁ。つくづく嫌な人生だったな」
「とか言いつつ逃げてるじゃん!」
もう! この人ときたら!
嫌なことなんて大体ころっと忘れてるくせに!
「とにかくあの影の話を聞いちゃダメなんだ。なんだかよくわからないけど、二人とも気絶してしまったら一貫の終わりだよ。ラーメンも食べられない」
“ラーメン”と聞いて、ウツむいていた里乃の顔が跳ね上がった。
「だったら戦うしかないね!」
「やっぱり里乃も食べたかったんでしょ!」
僕はスペルカードを握りしめ、里乃はスペルカードを掲げて、決闘遊戯を宣言する。
「「狂舞:テングオドシ!!」」
二人分の光芒が絡みあって、これっぽっちも避ける気の無い影法師に直撃する。
直撃した瞬間、まばゆい光で影法師の輪郭が霞んで、花火のように舞った。
そこへすかさず二人分の呪符を叩き込む。手応えはあったような気はするが、
「倒した?」
強い光でぼやけていた輪郭は、攻撃がおさまった途端に元に戻った。
いや、元に戻ったのではない。明らかに先ほどよりも大きな体をしている。
ぐわんっ、とバケモノの腕の一振りで近くの樹木が抉られて、倒れてきた樹木が僕たちを襲いかかってきた。
僕はすんでのところで倒木を躱し、里乃ともつれ合いながら転がって、近くの木の後ろに隠れた。
「あ、そっか。強い光を受けたら影も濃くなるのは道理だよね。まいったなぁ」
「もう、舞ったら。呑気に分析している場合じゃないでしょ」
「でも、もう、どうにもならないよ」
もう逃げきれない。おしまいだ。
辞世の句でも考えておくべきだった。
「お師匠様と別れた地点は近くよ。逃げられたらお師匠様が助けてくれるかもね」
と、里乃の冷静な指摘がはいる。
影法師はもはや牙を生やすだけでは飽き足らず、ぬらぬらとした舌のようなものを垂らしている。
人間の面影などほとんどないわけだが、……さて。こんな相手からどうやって逃げろと。
「光弾で足止めはできるみたいだけどさ」
「影かどうかはわからないけど、影のような性質があるのは確かね。もっと強い光があれば消滅させるぐらいはできたかもだけど、」
「でもまあ、今の僕たちにそんな火力なんてあるわけない」
「ということは?」
「逃げきれるかどうかの根性勝負だ」
「そういうことになる」
「しかたないなぁもう」
僕たちはもう一度スペルカードを掲げて攻撃を宣言した。
「「弾舞:二つ目の台風!!」」
+
それは手に汗握る熱い戦いだった……訳ではなく、スペルカードでごまかしながらずっと逃げ続けていた。
バケモノの攻撃に被弾しながらも這々の体でなんとか逃げのびて、お師匠様と別れた地点までたどりつく。
そこでぱたりと倒れた。
「ごくろう」
扉の向こうからお師匠様があらわれた。
扉をまたいで登場したお師匠様は、どこか満足そうだ。
「どうしたお前たち、そんなボロボロになって」
「……うぅぅ。ラーメン、美味しかったですか?」
顔をあげて、恨めしげにお師匠様を見上げる。
いくらなんでもタイミングが良すぎるんじゃないか。
まるで僕たちがここまでたどり着くのを待っていたかのようだ。
「うん。ちゃんとお前たちの分も用意してあるぞ」
「よかったじゃない、舞」
里乃は嬉しそうに微笑んでいる。まあ、お土産を用意してくれたことは僕だって嬉しいのだけども。
……なんで助けてくれなかったんだろう。
「すみません。箱は見つけられませんでした」
「そうか。まあいいよ。私も探してみるから」
「それとですねお師匠様。先ほどヘンテコなバケモノに襲われまして……」
僕はお師匠様に白い鳥居を見つけてからの経緯を話した。
色彩どころか形状まで変化する不思議な森。
不気味な白い鳥居。
彷徨い続けていると、突然話しかけてきた里乃の輪郭。
「……ほう?」
話を聞いて、お師匠様の目がきらりと光る。
「鳥居は知らないし、そんな妖が出るとも聞いていないな。捕まえてペットにする?」
そういう発想になるかー。
「危ない気がするんですけども……」
「案ずるな。聞くところ、その不可思議な影法師とやらは森の中にいるモノを惑わして襲うのだろう。ならば簡単だ。最初から森の中にいなければ良い」
お師匠様は新たに扉を作って、くいっと親指で示した。
扉のむこう側には、幻想郷の人里、茶屋の座敷が見える。
大きな座卓の上には、美味しそうなラーメンが三つ並んで、白い湯気をたてていた。
+
「……この森は、人々の現実に対する認識を集めて作り上げた場所だ。
元の学校が森で覆われているのは、学校側が手入れを怠っていたからだ。古い樹々がおいしげり敷地の何倍も広く見せていた。だからこそ森は、実際の敷地面積の何倍も大きい。
もしも怪談話のいくつかが流行していたとしたら、そういういたずらをする妖怪がいてもおかしくはなかっただろう。
だが、学校に妖怪がいるという認識が少しもなかったのだから、この森の中には当然ながら妖怪はいない。それっぽい幻影はいたかもしれないけどな。事実、調査の段階で、妖怪がいるという前提に生きている人間は一人もいなかった。つまりだ。この森の中に妖怪はいないことになる。妖怪もどきみたいなものはいたかもしれないが」
座布団の上に正座して、里乃とお師匠様と三人でラーメンを啜っている。
座卓の上に小さめの扉がいくつも作られて、開かれた戸の内側から森の様子を眺めることができる。シュールだけど、殺風景な後戸の国よりかはマシだ。
「でもいましたよ」
「怖かったですねー」
ボロボロになった服は取り替えて、体についた泥も落としてきた。
「……ん。里乃。この道をまっすぐでいいの?」
「そうです」
扉は僕たちが進んだルートを通りに移動して、森を探索している。
そして僕たちはラーメンを食べながらそれを眺める、と。なんと。快適極まりないじゃないか。
最初からこうすればよかったのだ。
すこしして白い鳥居を発見。お師匠様は「おや」と呟いた。
「そうなんですよお師匠様。こいつだけ色が変化してないんです。目立つでしょう」
憶えた映像記憶を憶えた当時の完全なまま想起できるような人間など、そうはいまい。
したがって、普通は輪郭や質感がぼやけてしまうはずだと思う。のだけど。
「触覚はどうだった。形状は変化していたか」
「あ。私、触りましたよ」
里乃が手をあげる。
「質感はしっかりした木材で、ひんやりしてました」
「つまり、“鳥居はひんやりしている”という認識があったと。……こいつはきっと、一個人にとっての幻想だろうね」
ははぁ。とすると、そいつは見えない構造物が見えた上で、それをさも当然のものと思い、普通の人間と同じように生活していたのか。だいぶネジが飛んでいる奴に違いないぞ。
「次いで、鳥居の形状を見てみるとだ。二人とも。どこか見覚えがない?」
扉のむこうにある鳥居をじっと見つめてみると、確かに見覚えがあるような気がしてきた。
「あぁ、博麗神社の前にある、あの鳥居ですか」
「その通り。我々の調査に干渉しうる人物でありながら、博麗神社の鳥居の形状をこうも鮮明に記憶していられる人物となると限られてくるよな。私には一人しか思い浮かばんよ。そう、スキマの彼奴さ」
スキマ妖怪といえば幻想郷に結界を敷いた大妖怪。八雲紫様に他ならない。確かに、境界を操る賢者様なら外にいても不思議ではないだろうし、お師匠様が幻想郷内部から調査を施した時に干渉して、サンプルとして紛れ込んでしまったのかもしれない。
「さてはお師匠様。これ触れてはいけない話なのでは」
「厄ネタですね」
「見なかったことにしよう」
三人でうなずき合った。
「しかしだな、でかしたぞ二人とも。……クク。つまりその影法師を使役できたとすれば、彼奴のトンデモパワーの一端が手に入るかもしれんのだろう。これは愉快。ほれ。酒とツマミを持ってこさせよ」
お師匠様も得意気である。
扉は鳥居をくぐり抜けて、さらなる探索を試みる。
「舞。もう一度、影法師の特徴を言ってみなさい」
「はい、お師匠様。……えっとですねー」
里乃の輪郭を纏ってあらわれたこと。
里乃の声をしていたこと。
僕の問いかけに否定も肯定しなかったこと。
里乃と二人で見たときは、途中から牙が生えて、化け物じみた姿をしていたこと。
「僕に、この森が偽物と考えるようしむけてきたんですよね」
「それが影法師の特徴か。観測者に自分の正体を推測させることによって、なんらかの糧を得ているのかもしれないな」
お師匠様の話を傾聴しながら、僕は酒杯を仰いだ。
「ぷはーっ。なるほど」
「なるほどー。美味しいですねこのお酒」
お師匠様がヒントをくれたおかげで、影法師の正体が掴めてきた気がするぞ。
「おそらくだな、つまりこの影法師の性質は……」
「待ってくださいお師匠様! 僕も! 僕も影法師の正体がなんとなくわかりましたよ!」
「ええ、私も。聞いてくださいお師匠様」
酒がはいれば、僕たちの推理も火車のごとく加速してゆく。
「えー。私が推理パートやりたいのに……」お師匠様がふてくされた。「……いいや。やはり推理パートは冒険したものの特権だろうからな。よかろう。申してみよ」
寛大にもお師匠様の許しが下った。すでにほろ酔い状態である。
僕と里乃は互いにうなずき合って、正解と思われる言葉を述べた。
「私が思うにですね、きっとあの怪物めは森を象徴する怪物だったのです!」
「正体を推測すればするほど変幻してしまう性質を持っているから、きっと退治なんてできませんよ!」
「しかも賢者様の考えから生じた怪物なんですから、きっと目からビームを撃ってくるに違いありませんね」
「しかもなんと口から火を吹きます」
「えっとえっと、他にはですね、百八つの奥義を隠し持っておりましてね」
「波動玉なる気功の妙技が繰り出されるのです」
「口から」
「いや目よ」
「口から!!」
「目!!」
何を言っているのだろうか里乃は。
口から波動玉が出た方がかっこいいに決まっているじゃないか!
それに目から波動玉が出ても視界が塞がれて不便極まりないというのに、意味わからない。
僕はいったん冷静になるために酒杯を仰いだ。
「おーいー。私の杯が空いているぞー」
「ははっ。ただいまっ」
酩酊気分でお師匠様の酌をしていると、ポケットの中が変に熱を持っていることに気がついた。手を入れてみると、森の中で拾った石がほんのり温もりを持っているではないか。
「あ。お師匠様これ。森の中で拾った石です」
「えー。見せてー。……って、なんだこれ。ただのコンクリートの破片じゃないか」
お師匠様が手のひらの上で石ころを転がしている。
「すごいんですよこれ。いちど床に置いて、もう一回握ったら形状が変わってるんです」
「へえ、なかなか面白そう……」
ーーヒヤリと、背筋に冷たい悪寒が走って、僕はふと顔をあげた。
僕は開きっぱなしの扉のむこうに、少女の輪郭が立っていることに気がついた。
典雅な日傘を片手にかついで佇んでいる。ちょうど両目に当たる部分が赤く爛々と輝いており、口に相当する部分からは、チロチロと火炎の舌が見えた。
ぱたん
扉は閉ざされた。
「あ、あの……」
今、扉のむこうに賢者さまがいたような気がするんだけども。
「見なかったことにしよう」
お師匠様が言った。
「いや、ですが、さっきのって、」
「ちょ、やめなさい。だから見なかったことにしようって」
それはまさしく僕たちが想像した通りの怪物の姿だったのだ。
里乃と僕の顔がさっと青ざめる。
「もしかすると、」
「おい」
「僕の考えが正しければ、あの影法師はお師匠様の扉を簡単に破壊できるような怪物なのでは……」
「やめろって」
「もしかすると考えさせれば考えさせるほど強くなる。きっとまだ見ぬトンデモない能力を隠し持っているに違いないのでは……」
「二人とも何をしている。そこまでだ。考えるのをやめなさい」
「ですがお師匠様! 怖いんです! 聞いてください!」
ドンドン! ドンドン!
閉じたはずの扉から、強いノック音が鳴る。
きっと扉の向こう側に影法師の化け物がいるのだろう。
僕たちを食べようと狙っているに違いないのだ。
「や、やっぱりだ……。僕の想像があたっていたんだ……ッ」
「はぁ。おしまいね。もう、何もかも……」
「ええい!! 黙らんかい!!!」
すると、どうしたことだろうか。
お師匠様は力強く立ち上がると、ちょうど手に握りしめていたコンクリート製の石を天へとかざし、ヌヌンと一念。
高らかに宣言したのである。
「ハイ! 化け物もあの空間も丸ごともうこの石に封印されましたー。
この話はやめよう。ハイ! やめっ!」
了
++ sub: a blindness
+ /-
とある土地の調査をするようお師匠様から命令が下った。
長話を要約すると、その土地上の構造物をまるっと囲いたいそうだ。なぜそんなことをするのか、摩多羅隠岐奈はいくつかの理由を懇切丁寧に説明したけれど、長話だったので大部分を聞き逃してしまった。でもまあ、僕たちの側には強いて知っておく動機はないのである。
この神の思考を完全に理解しようと努力するなど無価値なことだと承知していたので、僕は適当にうなずいておくことにした。
さっきから僕と里乃はずっとひざまずいて、こうべをたれている。二時間ほどこの姿勢のままだ。いいかげん首まわりが疲れてきた。
「……(中略)……と、言うわけだ。二人とも理解したか?」
長話をようやく終えた後、摩多羅神は最後にこう言った。
「私も行きたい」
その一言で、賢い里乃は何かを察したようだ。
足元に置いていた分厚い書物を取り上げて、お師匠様に献上した。それはカラフルな色彩で、のっぺりした質感の本だった。いわゆる現代の雑誌だ。里乃はどこでこれを手に入れたのだろうか。
「こちらにその土地の情報誌を用意しております」
「ほう? よこせ」
隠岐奈様は雑誌をとりあげて、ぱらぱらとページをめくってゆく。
僕たちはしばらくその様子を静観した。
……くそぅ、里乃め。余計なことを。はやく終わらないかなぁ。
「近くに忍者のラーメンがあるぞ」
「忍者? はて。そんなものありましたっけ?」
里乃が首をかしげる。
「かの有名な寓話があるだろ。ほら。あれだよあれ。屋台のラーメン店が」
「あー」
そこで僕は今日、はじめて声をあげた。
「あの漫画ですね。忍者の」
「そうそれ。忍者の」
「最後戦争になるやつ」
「そうそう。よく憶えていた。舞はかしこいなぁ」
お師匠様が僕をほめる。照れる僕。
里乃は黙したままじっと頭を伏せている。いつも思っていることだけど、なに考えてんだろうな。
「どうも連載が終わったらしいじゃないか」
「とっくの昔に終わってますよ」
「ふむ」
ふたたび思案する隠岐奈様。
あ。しまったな。話が長引きそうだ。
「連載終了で思い出したが、そういえば、こないだの会議の件はどうなったんだ? そもそもあれは……(中略)……だし、そう言うこともあるだろうから……(中略)……ともあれ……(中略)……なんだ。お前たちには私とその土地を調べてもらいたい。他の勢力の介入があるかもしれんが、まあ気にするなよ。蹴散らしといて」
「「……おおせのままに」」
僕たちは深く一礼して、お師匠様の前から退いた。
ふぃー! やっと終わった!
+ -/
廃墟探検の雑記を物語る前に、僕について説明しておこうと思う。
僕の名は丁礼田舞。後戸の神ことお師匠様の部下で、お師匠様を世話する二童子の一人で、竹担当の方だ。忘れっぽい茗荷担当は爾子田里乃という。趣味はダンス。日課はダンス。仕事もダンス。楽しいダンス三昧の毎日だ。
お師匠様が異変を起こして幻想郷を騒がせたのはつい先日のこと。隠然を生活の旨とする僕たちは、なるべく目立たぬよう、日がな任務をこなしていた。
「お前たち。どうせ何も考えてないだろうから言っておくけどさ、外の世界に出るのはなかなか難しいことなんだぞ」
……していたはずなんだけど、お師匠様がまた妙なことを言い出したのだった。
どうも妖怪のお偉いさんに異変騒ぎのお詫びも兼ねて挨拶にいくそうだ。
粗品が欲しいとのこと。それも珍しい粗品が。
「そーなんですか?」
店の奥でくつろいでいるお師匠様に、人里の娘に扮した里乃が問う。
現在、僕たちが滞在しているのは幻想郷の人里。その中の、とある茶屋だ。そこはお師匠様が懇意にしているお店で、真っ当な人間ではない僕たちが出入りしていても、見て見ぬ振りをしてくれる。まあ僕たちも一応、人間なんだけどね。
「うん」
摩多羅神はうなずいて(しかし説明はせず)、扉から一匹の少女をとりだしてみせた。ロープで簀巻きにされて転がされている小柄な少女の顔を、僕たちは見たことがあった。
「そこで今回はこれ。“チルノ”を使おうと思います」
拉致ってきたらしい。
簀巻きで寝苦しいだろうに、チルノは気持ちよさそうに眠っている。
「妖精を人里に持ち込んじゃっていいんですか?」
「すぐに帰すからいいんじゃない?」
疑問形でいいの。
「そんなことよりもだな、私の欲しいハコはなかなか手に入らないものなんだ。だったのだが、それがかの地、九州にあることがこの前の調査でわかった。九州の方で例大祭が開かれているのはもちろん知っているよな?」
「へえ。そうだったんですか。知りませんでした」
と里乃。
「いやさっぱり」
と僕。
「……。……うむ」
ちょっと残念そうな顔をするお師匠様。
お師匠様のよくわからない説明を頑張って解釈してみたところ、理由は不明だが、その祭りではなぜかこのチルノを主役の座に据えていることが判明した。忘れ去られたものが引き寄せられる幻想郷だが、チルノという幻想郷内部の幻想像を愛し続ける熱烈な信奉者が“外”にいることは紛れもない事実。だが、チルノという妖精が忘却された“外”があるのもやはり事実。
「……なるほど。わかりましたよお師匠様。このチルノをよすがに、幻想郷内部で、私たちにとって都合のいい“外”となる幻想の像を作る。そうすることで移動するのですね」
里乃が話を総括する。
「移動した“気になる”。そう、さすがは里乃。だがすこし違う。我々がむかうのは、そこからもう一段階深く沈んだところだ。古く残滓となった幻想の土地。ヒトの空想を繰って、さらなる欠落した空白を引きずり出さなければならない」
床に転がされたチルノを中心に、魔法陣が展開されてゆく。
お師匠様はその光をじっとみつめ、やがて一本の細い糸をつまみ上げた。
まばたきのうちにその糸の厚みが増し、やがて扉へと変換される。きっと概念だか次元だかをいじったのだろう。
「ここかな?」
扉の向こうに、夏の強い日差しで照らされた森が見えた。
+
茹だるような暑さと、焼けつく太陽の日差しが、僕たちを苛んでくる。
そこはとても古い樹海で、肥大した樹にコンクリート建造物が呑まれるほどだった。栄えていたであろう人工の都市の痕跡はほとんど朽ちてしまっている。妙に蒸し暑いのは上空に薄い幕があるためだ。あの幕のせいで大気の熱が逃げていきづらいのだろう。
空間は、さながら巨大な温室のように締めきられている。
「暑い」
空を見上げて、お師匠様が呟く。
「ですねー。水筒とか持って来ればよかった」
眩しい太陽に目を細めている里乃も、じっとりと汗ばんでいる。
「たまには外に出て視察も良いと考えていたんだけどな、少々難儀そうだ」
同意見だ。
「では、早々に調査を切り上げますか?」
土地については事前に調査している。外部からの干渉が無いことは確認済みだ。その上、この土地を観測できた知性体はなかった。したがって、森の中に僕たちにとっての敵対勢力はないはず。野獣や弱い魍魎くらいはいてもおかしくないと思うけど。
「いいや、調べておく。何もいないのは流石におかしい。異常があって然るべき土地なんだよ」
「どういうことです?」
「エラーを期待しているだけさ。……おぉそうだ。舞。里乃。私はちょっとラーメン食べてくるから、二人で森の中を調査しておいてくれないか」
「え!? ラーメンなら僕も食べたいんですけど……」
「承知しました」
お師匠様は真面目な顔をして頷くと、さっさと扉の向こうへ消えてしまった。
なんということだ。堂々とサボったのだ。僕は開いた口が塞がらない。
「……ずるい。僕も食べたい」
「命令でしょ」
「でも暑くてやる気がでないよ」
こんな文明のなさげな土地なんて、暑いだけで少しも利点はないだろうに。
なぜ里乃は愚痴もこぼさずこんな任務に従順でいられるのだろうか。やってらんないや。
「じゃあ、はやく“箱”を探さして帰らなきゃね」
里乃が呟く。
「“箱”?」
僕が問い返すと、里乃は信じられない阿呆でも見たような顔をした。
「舞。まさかお師匠様の話を聞いてなかったの? ここにきた目的は、“箱”を探すためでしょ。異変騒ぎのお詫びをするための」
あれ。そうだっけ……。
うん。
そうだったそうだった。そういえば、そんな話だった気がする。
僕としたことが。お師匠様の話が退屈なあまり、話の要点を聞きそびれていたようだ。
里乃がいてくれて助かったよ。
「ああ、そうだったね。僕たちはこの“ハコ”の土地を囲う象徴となる、箱を用意しなきゃいけないんだ」
「え? “ハコ”の土地?」
驚く里乃。
やれやれ。里乃も話を聞いてないじゃんか。
「ふふん。わかったぞ。僕たちの話を繋げてみれば話は見えてくる。お師匠様がお土産に用意しようとしているのは、壺中天か、それに類するものなのさ。その“ハコ”の中にこの森を封じ込める気なんだ。スノードームみたいなものね。わざわざこの“ハコ”の土地で箱を探すわけだから、きっと他所よりもずっと縁起が良いものに違いない。ちゃんとしたものを見つけないと」
僕が言うと、里乃は得心いったような顔をした。
「なるほどねー」
「なるほどなー」
二人でうなずき合う。
情報の擦り合わせって大切だなぁ。
+
「……にしても、森、か。どうみても森よね。ここ。元々学校があっただなんて信じられないわ」
朽ちた廃墟を見上げて、里乃が呟く。
森の中は無音なので、彼女の声はよく通った。
「普通は七人の妖怪たちが統治しているんでしょ」
「七不思議ね」
里乃が僕の言葉を訂正する。
この学校において対抗勢力となりうる妖怪がいるとしたら、その七不思議の伝承にまつわる存在だろう。
というわけで、里乃と僕とであらかじめこの土地にまつわる怪談の情報を収集しておいたのだった。
記録に残っていたのは、「地蔵の森」と「踏切の怪」の二つで、残り五つはわからない。妖の情報は口伝のみで継承されて、書物には記されなかったのかもしれない。
「こんなに大きな学び舎なのに5つも空席があるだなんて、逆に驚きだよ。みんな夢がないね」
「現実的なんじゃない」
「いいや違うね。周囲の人間に同調するだけで、見て見ぬ振りするのが得意なんだ。世はこんなにも不思議で溢れているというのに」
七不思議の顛末はこうだ。「地蔵の森」という名の雑木林は拓かれて、寂れたカフェと庭園へ変貌していた。「踏切の怪」は単なる地形の問題。事故があったそうだけども、きちんと供養されていた。つまり残念ながら、怪談の全てに綺麗なオチがついていたのだった。
つまんない。ピクニックであれ散歩であれ冒険であれ、やっぱり不思議がなければつまらないと僕は思う。最初からすべて分かってしまえば、動く気力すら湧いてこないだろう。僕にとっては、予測不可能なイベントこそ人生の醍醐味だというのに。
……とっとと調査を終わらせて、人里に帰ってお団子でも食べよう。
お師匠様から頂戴した映像の情報、雑木林時代の「地蔵の森」と建造物があった時代の「地蔵の森」から、座標にあたりをつけて里乃と二人で道を適当に進んでみる。
ごろごろとした大きなコンクリートの破片を避けながら進んでいく道中、木の上にタコとも猿ともつかない生物の輪郭(?)が見え隠れしていたので驚いた。
どうも木の葉を見る角度で、そのように見えてしまうらしい。気のせいだとは思うけど、気を抜いていると襲いかかってくるかもしれないな。
「とても古い土地ね。舞は気づいてる? この森の樹。樹っぽいけど動きがない。静止してるの」
「舞台のセットみたいだね」
「書き割りだよ」
それは、この土地にやってきた時に気がついていた違和感の一つだった。これだけ大量の木の葉があるというのに、それらは葉擦れをせず、音を出さない。樹木は書き割りみたく動かないのだ。したがって森は痛いくらい無音。不気味だ。
ためしに近くに落ちている石ころを拾い上げて、よく観察してみる。
一見してただの石ころだ。触った感覚も普通の石ころ。なんだけども、一度地面に置いて再びそれを握ってみると、なんとさっきまで握っていた時と形状が変わっているんだなこれが。びっくり。
きっと映像思念のこびりついた土地が、どうにかして生命“っぽい”機構を獲得したから、こういった現実ではありえないようなことが起きるのだろう。
そういうのはお師匠様の扉を経由して渡った世界ではよく見る光景だ。オリジナルである「一次創作」の生物の定義から、大なり小なりズレてしまった「二次創作」の幻想生命体。遠目から見れば生物なんだけど、理論の細部を注視すればデコボコで、ともすれば生物としてありえないほどの齟齬さえ孕んでいる。こういうのを図形でいうところの、フラクタル構造というんだっけ。
「樹の外観の幽霊ってところかな」
僕は石ころをポケットの中に入れた。
「観測者は人でしょう。元々は学校だったんだし」
「意識的に造られたものではないと思うけど」
「栄養源は人間たちの無意識の……いや、常識か」
その白い鳥居を見つけたのは、そんな風にどうでもいいことを駄弁っている最中だった。
ニセモノの森の中で、妙に存在感のある鳥居を見つけた。島木のつややかな色艶といいまるで新品同様の柱の質感といい、なぜか目立つ。コンクリートは劣化して樹に呑まれてひしゃげているのに、この鳥居だけ朽ちていないのが不思議だ。まるでついさっき建造されたかのような……。
「学内に神社があるなんて情報あったっけ?」
里乃が呟く。
「さあね。藩主の墓があるとは聞いていたけど」
「不思議ねぇ」
何のためにそこにあるのかわからない鳥居。空白の額束。何を祀っているのかもわからない。
こいつはイレギュラーだぞ。オリジナルからどのように漂流すれば、白い鳥居なんて構造物があらわれるんだろう。この鳥居という形は神に祈るためのものだし、とすると神様という概念が絡んでくるはずだ。
ちょっとわくわくしてきた。
「鳥居は内と外を仕切るもの。それが本当に神様なのかどうかは知らないけど、ここから先は“誰かさん”の領域なんでしょうね」
「土地に巣食った妖怪が勝手に作ったのかもよ?」
「いや、でも、おかしいな、そんなはずは……」
そんなはずはない。
里乃の言う通りだ。人間たちの“学校はかくあるべし”という常識だけから組み上がった二次創作物が、高度な思考をもつはずがない。まして“鳥居で区切る”なんて行動を閃くはずがない。そもそもそんな知識を得るツテがないのだから。
つまり、ありえない。
「ちょっと、怖くなってきたな。ねえ舞。戻ってお師匠さまのとこに行こうよ。一緒にラーメン食べよ?」
里乃の方は青い顔をしている。
「いやいや。サボってるのがバレちゃうよ。面白そうじゃん。この先に何があるか見てみようよ」
再び歩き出そうとした僕の手を、里乃が掴む。
「戻りましょう。怖いよ。迂闊に行動すると帰れなくなるかもしれないよ?」
「臆病だなぁ」
せっかく面白そうな不確定要素を見つけたというのに。つまんないや。
「だったらじゃんけんしよう。僕が勝ったら先に進もう」
「いいけど……」
僕は右手でチョキを出した。
里乃の右手はパーだった。
だけど、左手でグーを出していた。
「うん。私の勝ちね。戻ろう」
「ちょっと待って。ずるくない!?」
里乃は僕の肩を掴むと、信じられない力で引っ張り始めた。
なんという強力な力だ。野獣もかくやというほどのパワー。意地でも連れて帰るつもりらしい。そうはさせるもんか。
僕は里乃の手を振り払った。
「ふんだ。帰りたければ里乃だけで帰ればいーじゃん。せっかくこんな面白そうなところにこれたんだ。僕はもっと満喫していくからねー」
里乃は何か言いたそうな顔をしていたけれど、僕は振り返らずに、鳥居の下まで歩いた。
近づけば近づくほど白い神木の質感が伝わってくる。
でもきっと、これは記号なのだ。由来がなければただの記号。そう。他になんの意味もない。そもそもこの空間は人間たちの空想をお師匠様がこねて製作したものなのだし、その人間が鳥居の神聖さなんて信じていなかったのだから、この鳥居に意味なんてない。ニセモノなのだから、何も怖がる必要はないのだ。
おそるおそる、その下をくぐってみる。
「ほ、ほらね。どうって事ないじゃんか」
まったく。里乃は心配のしすぎなんだ。いつも消極的で何もしないくせに。きっと内心では踏ん反り返っているくせに。そんなだから、なかなか外に出られないんだよ。
「里乃もこっちにきてみなよ。どうってことないさ」
僕は得意な顔をして、里乃の方を振り返った。
里乃はいなくなっていた。
+
「里乃ー? どこー? 隠れてるのー?」
鳥居は結界。内と外の区切りを示すサインなのだと、いつかお師匠様が言っていた。内は聖域。魔物はこの内側にはいってこれない。
おかしいな。人間なら関係ない話だと、思っていたのだけども。
「ちょっとやめてよー。里乃ー? 謝るから出てきてよ。どこにいるの? 里乃ー?」
早歩きで森の中を彷徨い続けている。
僕は里乃がいなくなってからすぐ、鳥居をくぐりなおして元の道を引き返していた。
のだけど、ついぞ相方と出会うことはなかった。
まさか彼女が隠れたとは思えない。そういうタチの悪いいたずらをする性格でないことぐらい、ちゃんと彼女のことは知っているつもりだ。
じゃあ、やっぱり、僕は遭難してしまったのだろう。
「里乃ー……。うぅ、おかしいな。こんなはずじゃ……」
森の形状は変化しない。だけど歩いて視点がずれるたび、書き割りの森の色彩は変化している。
その色はどこか硬質な人工物に似ていた。乱雑に砕いた水晶の欠片のように、森らしき色が点滅して、変幻して、そして視界の隅へ消えていく。僕が焦れば焦るほど、森の景色から目が離せなくなってくる。
「やだなぁ」
ここはどうにも、妙に無機的で、そして嘘みたく綺麗だ。
目がまわる。
よろめきながら道を進んでいると、目の前にあったはずの樹の輪郭が変遷して、やがて少女の外見へ変わった。
里乃っぽいシルエットだけれど、あれは、幻だろうか。
「━━━迷子ですか?」
「ひぃ!?」
里乃の輪郭が里乃の声のまま言葉を発したので、悲鳴をあげそうになった。
「そ、そうだけど、君、だれ? ちょっと森の出口まで道案内してもらえますか?」
「難しい頼みごとですね。それは可能とも言えるし、不可能とも言えます」
「どういうこと?」
「この森に出口などない。などと、あなたは心のどこかで考えているかもしれませんね。その場合は不可能となります。あなたがそのように設定してしまうからです」
女の影法師が大げさに肩を竦めてみせる。悲しげなジェスチャーだ。
里乃の輪郭なので余計に不気味だ。
「いや、あのですね。そんなこと言われると、逆に、うっかり考えてしまうんですけど」
「でしょう?」
影法師がうなずく。
「この界は、原典の信用という契約により成立している森です。構造的にはかなり脆い。例えばほら、あなたのその足元をよく見てごらん。ハリボテみたいでしょう。のっぺりとしていませんか?」
言われて、僕は自分の足元を見下ろした。
僕の両足が踏んでいるのは樹木に覆われた土の道だ。
だけど、言われてみれば、妙にのっぺりとしている。気がする。
そうだ。影法師の言う通り、この大地にはリアルな質感がないのだ。
思えば森の樹々がニセモノだというのなら、樹木が土に根を下ろしている必要はない。とすれば僕が踏みしめているこの土くれだって、もしかすると土っぽい何かなのかもしれないし、ひょっとすると“ニセモノ”なんじゃないか。
「━━━その通りです」
僕が抱いた疑念を、影法師が肯定する。
━━━ドボンッ!!
地面から、足が抜け落ちた。太ももが飲み込まれると、腰も、胸と頭も簡単に沈んでしまう。光が消えて、そして暗闇になる。森の土壌は水面のように、するりと、僕の身体を飲み込んでしまったのだった。
+
…………
………
……
…
「……舞? 舞!? しっかりして!」
耳元でキンキンと悲鳴じみた声がして、僕は目を開いた。
閉じていた目を開けば、当たり前の話だけど、太陽の日差しと不思議な森の光景が視界に映り込んできた。それから里乃の顔もあった。
「ん? あれ? なんで?」
目をこすりながら起きあがる。
「ああ、もう! 舞のせいで私もくぐっちゃったじゃないの! 鳥居! どうしよう。うぅぅ……。大丈夫よね。ここ出られるよね……!?」
里乃が恨みがましい目つきでこちらを見てくる。
「えっと……。僕は、どうしてたの?」
「鳥居をくぐった瞬間、気絶したの。憶えてない?」
とすると、さっきまで僕は夢を見ていたことになる。
はずだと思う。夢だよね?
「憶えてないや……。別にお礼なんか言わないよ? ほっとけばよかったのに」
里乃が軽蔑の眼差しをむけてきた。
「……ねぇ舞。私が飢え死にしかけたら舞が食べ物役になってね」
「いやだ」
起きあがって、変わらない森の光景を眺めてみる。
遭難者が一人から二人に増えただけで現状は変わらない。むしろ里乃がこっちにきてしまったので状況は悪化しているように思える。まったくこれだから里乃は。
どうしよう。
こうなったらお師匠様の助けを待つしかないのでは。
「舞。とりあえず鳥居をくぐって元の道を引き返しましょう。ここは不気味だし」
「やだよ。僕はさっきまで来た道を引き返してたから遭難したんだよ?」
「という夢をみたんでしょ。もう。舞はすぐ突っ走っちゃうからよくないの」
里乃は肩をすくめて、一人で勝手に鳥居をくぐり、結界の外へ出ていってしまった。
「あ”! 待ってよ! 待てってば!」
僕は大急ぎで追いかけて、里乃の右手を捕まえた。
勝手に行動しないでもらいたい。
「ふふ。あら? どうしたの、舞? 手なんか繋いじゃって。まさか怖いの?」
里乃がからかってくるけど、事はそう簡単なものじゃないんだ。
「あのね。よく聞いて。僕はさっきまで夢の中でこの森を彷徨っていたんだよ」
「そう。夢に見るほど怖かったのね。ふふふ」
なんで上機嫌なんだろう。
「森で道を見失ったらむやみに動きまわらず、その場で助けを待ったほうがいいって聞いたことがあるよ。この鳥居って目印にはなる」
「遭難するほど歩いてないじゃない。ほら、とりあえず戻ってみましょうよ。一本道なんだし。私がついてるわ」
里乃が手を引っ張るので、僕は渋々従ってしまった。
普通は逆なんだけどなぁ。
かくして僕たちは元の来た道を引き返し、歩き続けて目をまわし、そして件の影法師と再会したのであった。
+
「やばいやばいやばいやばいッ!」
影法師を見かけた瞬間、僕たちはまわれ右をして、全力で逃げだした。
不思議な形をした樹と樹の間を、息を切らしながら走る。
必死に足を動かしながら背後を振り返れば、影法師が四本の腕を振り回して追いかけてくるのが見えた。今回の影法師の姿は里乃と僕の姿をミキサーにかけて、ぐっしゃぐっしゃに混ぜたような輪郭をしていた。もはや怪物と形容する他にない。
「ど、どどど、どうしよう。やっこさん、こっちを取って喰いそうな勢いだよ!」
僕が叫んだからなのか、影法師からニョキッと凶悪な牙が生えた。
……やっぱりだッ。あいつ、僕たちをあの牙で食べる気なんだッ!
「ふふ。おしまいね。……なにもかも」
一方、里乃はというと、走りながら落ち込むという器用な真似を披露していた。
里乃の情けなさに悪態をつきながらもう一度、後ろを振り返ってみる。
影法師は明らかに速さを増していて、こちらに追いつこうとしていた。よく見れば足も四本あるではないか。
「ひぃぃ! 里乃! 落ち込んでる場合じゃないだろ! 逃げきれないよ! どうにかしなきゃぁ」
「いいよ。もう無理っぽいよ、舞。ここは大人しく諦めましょう。まあ、私たちは大人じゃないんだけども。……はぁ。つくづく嫌な人生だったな」
「とか言いつつ逃げてるじゃん!」
もう! この人ときたら!
嫌なことなんて大体ころっと忘れてるくせに!
「とにかくあの影の話を聞いちゃダメなんだ。なんだかよくわからないけど、二人とも気絶してしまったら一貫の終わりだよ。ラーメンも食べられない」
“ラーメン”と聞いて、ウツむいていた里乃の顔が跳ね上がった。
「だったら戦うしかないね!」
「やっぱり里乃も食べたかったんでしょ!」
僕はスペルカードを握りしめ、里乃はスペルカードを掲げて、決闘遊戯を宣言する。
「「狂舞:テングオドシ!!」」
二人分の光芒が絡みあって、これっぽっちも避ける気の無い影法師に直撃する。
直撃した瞬間、まばゆい光で影法師の輪郭が霞んで、花火のように舞った。
そこへすかさず二人分の呪符を叩き込む。手応えはあったような気はするが、
「倒した?」
強い光でぼやけていた輪郭は、攻撃がおさまった途端に元に戻った。
いや、元に戻ったのではない。明らかに先ほどよりも大きな体をしている。
ぐわんっ、とバケモノの腕の一振りで近くの樹木が抉られて、倒れてきた樹木が僕たちを襲いかかってきた。
僕はすんでのところで倒木を躱し、里乃ともつれ合いながら転がって、近くの木の後ろに隠れた。
「あ、そっか。強い光を受けたら影も濃くなるのは道理だよね。まいったなぁ」
「もう、舞ったら。呑気に分析している場合じゃないでしょ」
「でも、もう、どうにもならないよ」
もう逃げきれない。おしまいだ。
辞世の句でも考えておくべきだった。
「お師匠様と別れた地点は近くよ。逃げられたらお師匠様が助けてくれるかもね」
と、里乃の冷静な指摘がはいる。
影法師はもはや牙を生やすだけでは飽き足らず、ぬらぬらとした舌のようなものを垂らしている。
人間の面影などほとんどないわけだが、……さて。こんな相手からどうやって逃げろと。
「光弾で足止めはできるみたいだけどさ」
「影かどうかはわからないけど、影のような性質があるのは確かね。もっと強い光があれば消滅させるぐらいはできたかもだけど、」
「でもまあ、今の僕たちにそんな火力なんてあるわけない」
「ということは?」
「逃げきれるかどうかの根性勝負だ」
「そういうことになる」
「しかたないなぁもう」
僕たちはもう一度スペルカードを掲げて攻撃を宣言した。
「「弾舞:二つ目の台風!!」」
+
それは手に汗握る熱い戦いだった……訳ではなく、スペルカードでごまかしながらずっと逃げ続けていた。
バケモノの攻撃に被弾しながらも這々の体でなんとか逃げのびて、お師匠様と別れた地点までたどりつく。
そこでぱたりと倒れた。
「ごくろう」
扉の向こうからお師匠様があらわれた。
扉をまたいで登場したお師匠様は、どこか満足そうだ。
「どうしたお前たち、そんなボロボロになって」
「……うぅぅ。ラーメン、美味しかったですか?」
顔をあげて、恨めしげにお師匠様を見上げる。
いくらなんでもタイミングが良すぎるんじゃないか。
まるで僕たちがここまでたどり着くのを待っていたかのようだ。
「うん。ちゃんとお前たちの分も用意してあるぞ」
「よかったじゃない、舞」
里乃は嬉しそうに微笑んでいる。まあ、お土産を用意してくれたことは僕だって嬉しいのだけども。
……なんで助けてくれなかったんだろう。
「すみません。箱は見つけられませんでした」
「そうか。まあいいよ。私も探してみるから」
「それとですねお師匠様。先ほどヘンテコなバケモノに襲われまして……」
僕はお師匠様に白い鳥居を見つけてからの経緯を話した。
色彩どころか形状まで変化する不思議な森。
不気味な白い鳥居。
彷徨い続けていると、突然話しかけてきた里乃の輪郭。
「……ほう?」
話を聞いて、お師匠様の目がきらりと光る。
「鳥居は知らないし、そんな妖が出るとも聞いていないな。捕まえてペットにする?」
そういう発想になるかー。
「危ない気がするんですけども……」
「案ずるな。聞くところ、その不可思議な影法師とやらは森の中にいるモノを惑わして襲うのだろう。ならば簡単だ。最初から森の中にいなければ良い」
お師匠様は新たに扉を作って、くいっと親指で示した。
扉のむこう側には、幻想郷の人里、茶屋の座敷が見える。
大きな座卓の上には、美味しそうなラーメンが三つ並んで、白い湯気をたてていた。
+
「……この森は、人々の現実に対する認識を集めて作り上げた場所だ。
元の学校が森で覆われているのは、学校側が手入れを怠っていたからだ。古い樹々がおいしげり敷地の何倍も広く見せていた。だからこそ森は、実際の敷地面積の何倍も大きい。
もしも怪談話のいくつかが流行していたとしたら、そういういたずらをする妖怪がいてもおかしくはなかっただろう。
だが、学校に妖怪がいるという認識が少しもなかったのだから、この森の中には当然ながら妖怪はいない。それっぽい幻影はいたかもしれないけどな。事実、調査の段階で、妖怪がいるという前提に生きている人間は一人もいなかった。つまりだ。この森の中に妖怪はいないことになる。妖怪もどきみたいなものはいたかもしれないが」
座布団の上に正座して、里乃とお師匠様と三人でラーメンを啜っている。
座卓の上に小さめの扉がいくつも作られて、開かれた戸の内側から森の様子を眺めることができる。シュールだけど、殺風景な後戸の国よりかはマシだ。
「でもいましたよ」
「怖かったですねー」
ボロボロになった服は取り替えて、体についた泥も落としてきた。
「……ん。里乃。この道をまっすぐでいいの?」
「そうです」
扉は僕たちが進んだルートを通りに移動して、森を探索している。
そして僕たちはラーメンを食べながらそれを眺める、と。なんと。快適極まりないじゃないか。
最初からこうすればよかったのだ。
すこしして白い鳥居を発見。お師匠様は「おや」と呟いた。
「そうなんですよお師匠様。こいつだけ色が変化してないんです。目立つでしょう」
憶えた映像記憶を憶えた当時の完全なまま想起できるような人間など、そうはいまい。
したがって、普通は輪郭や質感がぼやけてしまうはずだと思う。のだけど。
「触覚はどうだった。形状は変化していたか」
「あ。私、触りましたよ」
里乃が手をあげる。
「質感はしっかりした木材で、ひんやりしてました」
「つまり、“鳥居はひんやりしている”という認識があったと。……こいつはきっと、一個人にとっての幻想だろうね」
ははぁ。とすると、そいつは見えない構造物が見えた上で、それをさも当然のものと思い、普通の人間と同じように生活していたのか。だいぶネジが飛んでいる奴に違いないぞ。
「次いで、鳥居の形状を見てみるとだ。二人とも。どこか見覚えがない?」
扉のむこうにある鳥居をじっと見つめてみると、確かに見覚えがあるような気がしてきた。
「あぁ、博麗神社の前にある、あの鳥居ですか」
「その通り。我々の調査に干渉しうる人物でありながら、博麗神社の鳥居の形状をこうも鮮明に記憶していられる人物となると限られてくるよな。私には一人しか思い浮かばんよ。そう、スキマの彼奴さ」
スキマ妖怪といえば幻想郷に結界を敷いた大妖怪。八雲紫様に他ならない。確かに、境界を操る賢者様なら外にいても不思議ではないだろうし、お師匠様が幻想郷内部から調査を施した時に干渉して、サンプルとして紛れ込んでしまったのかもしれない。
「さてはお師匠様。これ触れてはいけない話なのでは」
「厄ネタですね」
「見なかったことにしよう」
三人でうなずき合った。
「しかしだな、でかしたぞ二人とも。……クク。つまりその影法師を使役できたとすれば、彼奴のトンデモパワーの一端が手に入るかもしれんのだろう。これは愉快。ほれ。酒とツマミを持ってこさせよ」
お師匠様も得意気である。
扉は鳥居をくぐり抜けて、さらなる探索を試みる。
「舞。もう一度、影法師の特徴を言ってみなさい」
「はい、お師匠様。……えっとですねー」
里乃の輪郭を纏ってあらわれたこと。
里乃の声をしていたこと。
僕の問いかけに否定も肯定しなかったこと。
里乃と二人で見たときは、途中から牙が生えて、化け物じみた姿をしていたこと。
「僕に、この森が偽物と考えるようしむけてきたんですよね」
「それが影法師の特徴か。観測者に自分の正体を推測させることによって、なんらかの糧を得ているのかもしれないな」
お師匠様の話を傾聴しながら、僕は酒杯を仰いだ。
「ぷはーっ。なるほど」
「なるほどー。美味しいですねこのお酒」
お師匠様がヒントをくれたおかげで、影法師の正体が掴めてきた気がするぞ。
「おそらくだな、つまりこの影法師の性質は……」
「待ってくださいお師匠様! 僕も! 僕も影法師の正体がなんとなくわかりましたよ!」
「ええ、私も。聞いてくださいお師匠様」
酒がはいれば、僕たちの推理も火車のごとく加速してゆく。
「えー。私が推理パートやりたいのに……」お師匠様がふてくされた。「……いいや。やはり推理パートは冒険したものの特権だろうからな。よかろう。申してみよ」
寛大にもお師匠様の許しが下った。すでにほろ酔い状態である。
僕と里乃は互いにうなずき合って、正解と思われる言葉を述べた。
「私が思うにですね、きっとあの怪物めは森を象徴する怪物だったのです!」
「正体を推測すればするほど変幻してしまう性質を持っているから、きっと退治なんてできませんよ!」
「しかも賢者様の考えから生じた怪物なんですから、きっと目からビームを撃ってくるに違いありませんね」
「しかもなんと口から火を吹きます」
「えっとえっと、他にはですね、百八つの奥義を隠し持っておりましてね」
「波動玉なる気功の妙技が繰り出されるのです」
「口から」
「いや目よ」
「口から!!」
「目!!」
何を言っているのだろうか里乃は。
口から波動玉が出た方がかっこいいに決まっているじゃないか!
それに目から波動玉が出ても視界が塞がれて不便極まりないというのに、意味わからない。
僕はいったん冷静になるために酒杯を仰いだ。
「おーいー。私の杯が空いているぞー」
「ははっ。ただいまっ」
酩酊気分でお師匠様の酌をしていると、ポケットの中が変に熱を持っていることに気がついた。手を入れてみると、森の中で拾った石がほんのり温もりを持っているではないか。
「あ。お師匠様これ。森の中で拾った石です」
「えー。見せてー。……って、なんだこれ。ただのコンクリートの破片じゃないか」
お師匠様が手のひらの上で石ころを転がしている。
「すごいんですよこれ。いちど床に置いて、もう一回握ったら形状が変わってるんです」
「へえ、なかなか面白そう……」
ーーヒヤリと、背筋に冷たい悪寒が走って、僕はふと顔をあげた。
僕は開きっぱなしの扉のむこうに、少女の輪郭が立っていることに気がついた。
典雅な日傘を片手にかついで佇んでいる。ちょうど両目に当たる部分が赤く爛々と輝いており、口に相当する部分からは、チロチロと火炎の舌が見えた。
ぱたん
扉は閉ざされた。
「あ、あの……」
今、扉のむこうに賢者さまがいたような気がするんだけども。
「見なかったことにしよう」
お師匠様が言った。
「いや、ですが、さっきのって、」
「ちょ、やめなさい。だから見なかったことにしようって」
それはまさしく僕たちが想像した通りの怪物の姿だったのだ。
里乃と僕の顔がさっと青ざめる。
「もしかすると、」
「おい」
「僕の考えが正しければ、あの影法師はお師匠様の扉を簡単に破壊できるような怪物なのでは……」
「やめろって」
「もしかすると考えさせれば考えさせるほど強くなる。きっとまだ見ぬトンデモない能力を隠し持っているに違いないのでは……」
「二人とも何をしている。そこまでだ。考えるのをやめなさい」
「ですがお師匠様! 怖いんです! 聞いてください!」
ドンドン! ドンドン!
閉じたはずの扉から、強いノック音が鳴る。
きっと扉の向こう側に影法師の化け物がいるのだろう。
僕たちを食べようと狙っているに違いないのだ。
「や、やっぱりだ……。僕の想像があたっていたんだ……ッ」
「はぁ。おしまいね。もう、何もかも……」
「ええい!! 黙らんかい!!!」
すると、どうしたことだろうか。
お師匠様は力強く立ち上がると、ちょうど手に握りしめていたコンクリート製の石を天へとかざし、ヌヌンと一念。
高らかに宣言したのである。
「ハイ! 化け物もあの空間も丸ごともうこの石に封印されましたー。
この話はやめよう。ハイ! やめっ!」
了
ものすごくホラーでしたね。二童子が逃げ惑うのを想像して笑いました。面白かったです。
話の流れも私には少し難解でしたが、読み進めていくうちに理解が深まり、とても楽しめました