つい先ほどまで、元気に鳴いていたはずの蝉がぽろりと木から落ちるのを見たことがある。
空に腹を向け、手足を完全に硬直させ、もはや声帯を震わせる事をしなくなった彼は、その瞬間ただの蛋白質の塊になり果てた訳だ。
でも、例えば、このけたたましい蝉時雨の中、彼を悼む為だけに鳴く一匹が存在したなら、それは彼にとって幸せな事なのだろうか?
それ以上考えるのはやめた。下らない事だし、そもそも私の柄じゃない。
距離を詰める事は、相手の心の、見たくない深淵にまで土足で踏み入る事だ。
そんな事せずとも、適当に誰とも上手くやっていければそれでいい。誰も特別にせず、誰の特別にもならず。たとえ軽薄と思われても、それが一番楽な生き方だから。
咥え煙草の火がいつの間にか消えていた。もう一度火をつける気にもならなくて、私はそれを灰皿の中に投げ落とした。
◆ ◆ ◆
色々と忙しい事が重なってたせいで、こうやって神社を訪れるのはだいたい一週間ぶりくらいの事だった。
私はあまり砂利を散らさないよう、そっと境内に降り立ち、母屋へと向かう。
普段なら縁側に差し掛かったあたりで、「取材に来てあげました!」って家主の名を呼ぶのだけど、ここでは、敢えてそれをしない事にしている。
そっちのほうが、私にとっても、彼女にとっても、優しいからだ。
下駄を脱いで、縁側に足をかけた。すると障子の向こうでずるずると、何かが畳をこすっている音が微かに聞えた。
確かこれを最初に聞いたのが一年くらい昔。すでに聞き慣れてしまったその音に、あんまり無理はしないでいいのにと、私は軽く溜息をついた。
ゆっくりと障子が開く。
「あら、文じゃない。いらっしゃい」
「わざわざ出迎えてくれなくても、こっちから行きましたのに。歩くだけでも、相当辛いでしょう」
私を迎えてくれた霊夢の膝から下の肉は存在していなかった。あのすらりと伸びた、華奢で美しい脚の代わりに、今は樫の無骨な義足が嵌められている。
痛々しいが、しかしこれも、すでに見慣れてしまった姿だ。
「たまには縁側でのんびりするのもいいかなって、丁度そう思ってたところだったのよ。文は付き合ってくれるわよね。あ、それとも何か特別な用事があったりするのかしら?」
「いや、特には。単に暇を潰しに来ただけです」
そう言うと、彼女は「そっかぁ」と嬉しそうに顔を輝かせた。年相応な、無垢な笑顔だった。
「じゃ、ちょっと待っててね。お茶淹れてくるから」
「あ、いいですよ。私が淹れますから。霊夢さんはそこでのんびりしといてください」
台所まで、結構距離がある事は知っていた。
足を引き摺って建物の中に戻ろうとする霊夢を、やや強引に留め、代わりに私が中に入る。
勝手知ったる他人の家。
襖を二回開いて突き当たりを右に行ったところに博麗神社の台所はある。部屋の隅には蜘蛛の巣が張り、長く誰も触れていないらしい食器類がほこりを被る。
手入れの行き届かぬこの部屋は酷い寂寥感に満ちていた。
私は棚から茶缶を手に取り、一年前と比べて等級の落ちた煎茶を、一さじ掬い出す。
水を入れたやかんを火にかけた。沸騰するまで多少の時間があったから。私は、ぼんやりとこの一年の事を回想していた。
霊夢の脚がああなってしまった理由。
原因は、端的に述べれば事故だったのだという。
それも、状況を聞いた妖怪の殆どが、あり得ないと驚くような。
その日霊夢は、人里の郊外で、ちょっとした妖怪退治を請け負ったのだという。
何の不安要素もない仕事のはずだったし、事実霊夢はほぼ完璧に仕事をこなした。
しかし、弱小の妖怪が死に臨んで放った、普段なら絶対に当たるはずのない一撃は、どういう訳か莫大な偶然を伴っていた。
霊夢がいくら強くとも、その肉体は脆い人間のそれだ。ふくらはぎはあえなく爆ぜ、骨は粉々になって飛び散ったのだという。
永遠亭で私が見たのは、緊急手術が終わった後の、全身麻酔で昏睡する彼女だった。すっかり短くなってしまった右脚には、何重にも包帯が巻かれていた。
出血は大きかったが、処置が早かった事もあってどうにか命は取り留める事ができた。
しかし、吹き飛んだ右脚の損傷は余りに激しくて、結合はもはや不可能だった。
この日より霊夢は、義足と杖に頼る生活を余儀なくされる事となる。
ふと気がつくと、やかんはぷくぷく泡を立て始めていた。
私はそれを横目に、ざっと台所を見渡した。
あの日の欠損が霊夢に残した、負の遺産の大きさを、この台所は如実に物語っている。
それは、かつては神社に勝手に集まる妖怪を見れば、めんどくさそうに溜息をついていた彼女が、しかし今日、私の来訪をあれほど喜んでくれた理由を残酷なまでに明け透けにしてしまうもので……。
調理器具や調味料の位置はこの前見た時と殆ど変わっていなかった。どうやら、ここ一週間で神社を訪れた人妖は私だけらしい。
◆ ◆ ◆
急須と湯呑を二つ。それと山から持ってきた羊羹を適当な大きさに切ってお盆に載せる。
緩やかに吹く風に、縁側でちりんちりんと風鈴が鳴っていた。
夏日。南天に上がる太陽の光は割ときついけど、風があるから日陰はそれなりに快適だ。
「お茶、持ってきましたよ」
「ありがと。助かったわ」
お盆を置くと、霊夢はどういうわけか目を輝かせていた。視線の先には私が持ってきた羊羹があった。
「これ、いただいちゃっていいの?」
「ええ、どうぞ遠慮なく。少々私の舌には甘過ぎる代物でして、霊夢さんが全部食べてくれれば、彼も本懐を果たしたと満足がると思いますよ」
この間見た時と比べて、霊夢は少し痩せたらしい。
元々肉付きの良い方ではなかったけれど、あばらが肌に浮いているのが、巫女服の上からでもそれとなく分かった。
体が不自由になったせいで、あまり彼女が包丁を握らなくなったというのも、痩せた一つの理由ではあるけれど。
でも、それ以上に重要で致命的な理由があった。つまりは単純に彼女の収入が少なくなったという事だ。
彼女に持ち込まれる妖怪退治の依頼は目に見えて減っていた。
霊夢のあの超人的な戦闘能力は、その実彼女が生まれ持った驚異的なバランス感覚によって支えられているものだった。しかしそれが右脚の欠損によって失われた。
あの芸術的な回避技術を、もはや彼女は披露する事ができない。
戦闘能力の低下は、そのまま博麗の巫女に対する信頼の低下へと直結していた。
いや、しかし仕事が少なくなった程度で済んでいれば、まだましな方だったのだろう。
もはや、闘えない普通の少女となってしまった霊夢に、興味を失ってしまった知り合いが、結構な数いた。
まあもっとも、妖怪ってのは、だいたいそんなものなんだろうから、彼女たちの気持ちを理解する事はできた。
彼女らというのは基本移り気だし、そもそも人間と言う奴をあまり高く評価していない。
今までの霊夢が特別過ぎたんだって言われれば、まったくその通りですねって頷くしかないのだけど。
しかし、たとえ妖怪がそうでも、親しかった人間がいたはずで。
でも、これもまた少々事情が難儀らしくて。
例えば無二の親友であった霧雨魔理沙。しかし彼女は、おそらくここ半年の間、一度も神社を訪ねる事をしていない。
とんがり帽子で表情を隠すようにしながら、霊夢に対する本音を吐露する彼女を見たことがある。
「あんな霊夢の姿を見るのは、辛いから……」彼女が言う。
「私が余計な事をしなければ……」彼女がそう言葉を続ける。
その時私は初めて知ったのだけれど、あの日、妖怪退治の依頼を斡旋したのは他ならない魔理沙だったのだという。
負い目を感じたまま、再会した時どういう声をかけたらいいのか分からないまま、どういう表情で接したらいいか戸惑ったまま、顔を合わせるすら事できず、ずるずる時間だけが過ぎて行く。
多分、魔理沙だけじゃなく、霊夢と特に親しかった連中は、皆がそういう気持ちでいるんだろうと思う。
なんにしろ、今私の隣で羊羹をほおばって、幸せそうな顔してる霊夢は、欠損の理不尽な代償として、ここ一週間ずっとひとりぼっちでいた。脚が痛むのを我慢しながら。
何となく、不憫だなと思った。誰も彼も。
だからかもしれない、ぽろっと言葉が漏れてしまったのは。
「霊夢さん……無理して巫女、続けなくてもいいんですよ。次代は、我々がどうにかしますから」
博麗の巫女を引退すればいい。
そしたら、神社でひとりぼっちで暮らす必要もなくなる。
そりゃ、博麗でなくなるという事は、今まで見たく特別扱いはされなくなるって事だけど、それでも、こんな今晩の食事にすら苦労する生活よりずっとマシだろうから。
「心配してくれてるのかしら。でも、大丈夫、一人でも結構どうにかできるものなのよ。蓄えも少しだけどまだ残ってるし」
でも、まだ熱いお茶を一口ごくりとやって、羊羹を流しこんだ霊夢はそう返した。
視線は青空に向いたまま、彼女は言葉を続けた。
「それに、どっちにしろ、私、もうちょっとで死ぬしね」
強く風が吹いた。穏やかな笑みを浮かべる彼女の長い黒髪が、ふっと舞い上がった。
◆ ◆ ◆
『――四肢を切断するほどの傷を負った人間は、あまり長くは生きる事できないのです』
霊夢本人が言ったとおり、実は彼女の寿命は残り少ない。
ついでに言えば、今の霊夢の置かれている立場は、客観的に見てとても残酷なものだった。
はっきり言ってしまえば、彼女は死を望まれている。
「博麗の巫女が闘えなくなった」。郷の秩序を根本から揺るがしかねないこの事件を、多くの妖怪たちは非常に大きな問題として扱った。
幻想郷の有力者達が集う会議で、博麗の代替わりが提案されたのは、むしろ自然な事だったのだろう。
個人的には、それはもっとも妥当で正当で、一番誰もが不幸せにならない選択だと思った。
なにしろ、霊夢が博麗で無くなれば――すなわち、“妖怪化”という選択が可能になれば――彼女が生き延びる方法などいくらでもあるのだから。
紅魔館の吸血鬼は、「霊夢が人間やめるなら私が引き取る」と真っ先に名乗りを上げた。吸血鬼化すれば寿命は勿論、右脚の欠損ですら、ファッション程度の軽い意味しか有さなくなる。
我々妖怪の山も、霊夢を天狗として山に迎え入れる案が既に固まっていた。元博麗となれば、政治的にも色々おいしいという事で、この案は天魔様の決裁までぽんぽんと速やかに判子が進んだ。
しかし、そんな提案を全て拒否したのは、他ならぬ博麗霊夢本人だったという。
残りの寿命云々は知らされていなくとも、勘のいい彼女の事、多分その時には、すでに余命いくばくもない事を悟っていたんだと思う。
まあ、なんにしろ、彼女は最後まで博麗である事を望み、どうせあと数年なんだから、もうしばらくこの立場にいさせてと、妖怪の有力者達を説き伏せたのだった。
長くても数年なら、とりあえずは居座る事を認めてもいいかと、幾つかの紛糾した議論を経てそんな結論が出された。
ただ、今でも不思議に思う。博麗の巫女って決して楽な役割じゃないんだから、素直に辞めてしまえばよかったじゃないかと。そっちのほうが絶対に幸せになれたのに。
「どうしてですか?」
尋ねる機会は、きっともう多くないから……思いきって私はそれをしてみた。少しの考えてるような時間を挟んで、霊夢が口を開く。
「まあ、分かっちゃいるのよ。郷の事考えれば、私はさっさと身を引くべきだってね。うん、私の我が儘。理解はしてる。
でも、今まで、ずっと博麗やってきたんだしね。私はそれ以外の生き方、知らないからさ」
「霊夢さんなら、きっと神社の外でも、すぐに新しい生き方を見つける事できますよ」
「私はそれほど器用な人間じゃないし、それにさっきも言ったけど、私、もうすぐ死ぬからね。内臓とか既にボロボロなはずなのよ。
でも、それでも人間である事を辞めず、人間として死ぬ事を選ぶなら、最後は、ものごころついた時からずっと住んでるこの博麗神社で、ものごころついたとき時からずっとやってる博麗の巫女として死ねたらいいと思う」
「霊夢さんにとって、博麗ってそこまで価値のある物なのですか?」
「博麗として今まで平等に生きてきた。特別に誰かを好きになる事はできなかったけど、誰も嫌いにならずに生きる事ができた。
特別何かを残せた人生じゃないけど、それだけは、誇ってもいいのかなって思うから、そのままの私で死ねたらきっと素敵なんだろうなって」
終始、彼女は穏やかなあの表情を崩す事はなかった。悟ったような表情でもあった。
どうやら、彼女にとってもう死は恐ろしい物ではないらしい。そして、近いうちに、彼女はこの神社でひっそり息を引き取るんだろう。
確約された未来。彼女の望んだ未来。ただ、一瞬だけ瞳にちらついた、あの縋るような色は、一体なんだったんだろうか?
「……ねぇ、私が死んだら、文は泣いてくれるかしら?」
「それは期待しない方がいいです。自分で言うのもなんですが、冷血には定評のある射命丸ですよ」
ええ、冷血だからこそ、他の誰彼と違って、私はあなたとこうやって平然と接する事できるのです。
誰にでも笑顔を振り撒くけれど、心の深いところは分かっていても絶対に触れない、狡猾な鴉だから。
「私は、文が泣いてくれれば嬉しいけどなぁ」
「言ったじゃないですか。期待しないでくださいって。私、ここ百年で涙流した事一回もないんですよ」
「そうかぁ、残念」
霊夢は笑っていたけど、冗談で言ったんじゃない事なら分かっていて、でも私は鈍感な振りをした。
こういう雰囲気は、何となく苦手だった。
他人の領域に、私は土足で入り込んじゃ絶対にいけないのだ。それは後で巨大な後悔となって跳ね返ってくるから。
ごまかすようにポケットから煙草を一本取り出し、マッチで火をつけた。はぁ、と煙を吐きだす。
ゆったりと紫煙が立ち昇るっていた。
「ねぇ文。あんたそれをよく吸ってるけど、煙草っておいしいのかしら?」
霊夢が尋ねる。
「あんまり、おいしいものでもないですよ。安物ですし」
「ちょっと吸ってみたい」
「よしといた方がいいですよ、多分霊夢さんが思ってるほどいいものじゃないです」
「いいから」
なかば強引にひったくった煙草を、霊夢は躊躇いなく口元に運ぶ。
そして、すうと、一気に吸い込む事をした。
「ん……!? けほっ! けほ! けほ!」
煙が灰に入ったらしい。
目を真丸に見開いて、霊夢はやっぱりというか、激しく咳きこんでいた。
「ほら、言わんこっちゃない」
苦笑するように眺める私と、目の端にうっすら涙を浮かべ小さく呻く霊夢。
「うーん、ちょっと合わないかも。安物じゃなかったら、おいしいのかしら、煙草って」
「まあ、その辺は好き好きですけど、それなりに味は変わりますね」
「文はそういうの、吸わないの?」
「あんまりですね。舶来物ってすごい高いんですよ。人里の商店で一応売ってるんですけど、一箱の値段が牛一頭分くらいですかね」
「あら、それは暴利ね」
「でしょ。出せない事もないですけど、さすがに馬鹿らしいかなって」
じわじわと灰がフィルターを侵蝕していく様が面白いらしくて、霊夢の視線は煙草の先っぽに向かっていた。
指先でとんとんとやるといいですよと教えると、落ちた灰が風の中散っていった。
「ねぇ、例えばだけど、その煙草、誰かから贈られたら文は吸う?」
「ん? まあ、はい。頂いたなら、せっかくですし」
「嬉しいと思う?」
「うーん、まあそうですね。多分、嬉しいと思いますよ。でもそんな事聞いて一体どうするんです?」
「いや、別に、ちょっと聞きたかっただけ」
そう言って、霊夢は、やめればいいのにもう一回煙草を咥えた。
ごほごほと、案の定再び激しくむせる。
「……やっぱり美味しくない」
ちょっと表情を不機嫌にして、霊夢は私に、半分くらいまで燃え朽ちたそれを突き返した。
「あと何年かして、大人になればおいしく感じるかもですよ」
まあ、千年生きてる私があんまりおいしく感じないんだから、多分これは詭弁なんだろうけど。
「大人かぁ。ちょっと想像できないなぁ」
「二十歳の誕生日には、お祝いしてあげますよ、盛大に。昔なら将軍家とか、そんな血統の人しか着れなかったような、すごい着物を貸してあげます。ばっちりお化粧もして、髪の毛も整えて、最高の記念写真を撮ってあげます。そして、菊の紋章の入った煙草……下賜されたはいいけど、なんとなくもったいなくて吸えずにいたやつなんですが、それの封を切りたいと思います。二人で一緒に吸えたら、きっと素敵ですね」
「それまで、私が生きてるとも限らないんだけどね」
「なぁに、結構、人間の体って丈夫なものですよ」
「そうかなぁ……」
無責任な言葉だとは思ったんだけど、でも彼女は満更でもないように見えたから、まあ、とりあえず、いいんだと思う。
もし、本当に二十歳の誕生日がきたら、出来る限り祝ってあげようと、珍しく他人の為真剣に考えてる自分がいた。
「まあでも、楽しみにはしてるわ。次は咳きこまないといいな」
「その時は正しい吸い方を教えてあげますよ」
咥えた殆ど燃えくさしの煙草は、しかし不思議と少し甘く感じた。
紫煙が夏の青空に溶けていった。義足を嵌めた右脚を軽く崩した霊夢は、遠くで白くたなびく飛行機雲を見ているようだった。
「ねぇ、文、また来てくれるよね、ここまで。私がまだ生きてるうちにさ」
「そのつもりでは、いますよ」
そのときの、彼女の曖昧な笑顔は、未だ強く記憶に焼きついている。
◆ ◆ ◆
博麗霊夢の訃報が届いたのは、あの青空の下紫煙をくゆらせた、僅か三日後の事だった。
布団の中、冷たくなっていた霊夢を最初に見つけたのは魔理沙だったらしい。
ようやく心の整理がついて、友として近くにいる事を決意した矢先の事だったという。
葬儀の準備が既に始まっている博麗神社。出迎えてくれた魔理沙は、本当は号泣したいだろうに、とんがり帽子を深めにかぶり、唇を噛み、気丈にも平静を装うとしているみたいだった。
「最後まで、よくしてくれたお礼にだってな……」
魔理沙が手渡してくれたのは小さな箱だった。
英字で銘柄が刻まれていた。それで私は理解をした。無意識にぎゅっと拳を握りしめていた。
魔理沙が詳しく聞かせてくれたところによると、霊夢は二日前に人里の道具屋を訪れていたらしい。
右脚が酷く痛むらしくて、ふらつきながら義足をずるずる引き摺り、脂汗をいっぱい浮かべながら彼女が欲したのは、小さな一箱の舶来煙草。
殆ど鬼気迫る彼女の表情に困惑する店主の前に置かれたのは、ぎっしりと中身の詰まった重い巾着袋だったという。
霊夢は生活に余裕のある少女ではなかった。
その巾着袋の中身は、それこそ神社にあった全ての財産をかき集めて用意したものに違いなかった。
『私は最後まで博麗として、平等であり続ける事ができた。それをさせてくれた皆には心から感謝しているわ。
ただね、もう一つだけ我が儘を聞いて欲しいの。最後の最後の瞬間くらいは、誰か一人を贔屓しちゃってもいいよね?』
どうやら死の前日に書かれたらしい遺言状。
綴られていた、幻想郷の格面々に向かっての丁寧な謝辞の一番最後にそんな一節を見つけて。
思わず舌打ちをしていた。
くそ……くそ……。こんなの、あんまりにも滑稽がすぎるじゃないか。
『私が死んだら、文は泣いてくれるかしら?』
あの鈴のような声が、頭の中を強烈に反響した。
まったく、あなたは言ったじゃないか……平等な博麗のまま死にたいって。
まったく、私は言ったじゃないか……射命丸文は冷血な鴉だって。
感情を上手くごまかせない、今の顔を誰かに見られるのが嫌だったから、私はその場をそっと去った。
あの時一緒に煙草を吸った縁側には、幸いというか誰もいなくて、私はそこに座り込む。あの日みたいな、夏日だった。
よくよく見れば、煙草の小箱には折りたたまれた紙切れが挟まっていて。
私はそれを手に取り、記されていた文字に目を通す。
『ごめんね。二十歳の誕生日、楽しみにしてたんだけど、無理になっちゃってごめん。でも私のかわりに、文がおいしく吸ってくれれば、嬉しいな』
ああ、これだから、人の心の中に踏み入るのは嫌なんだ。
だって、失った時。顔が、すごく情けなくなるから。
ああ、でも、認めるよ。ほんとはさ、私も楽しみだったんだ。
きっとけほけほ咳きこむあなたをからかったり、やっぱりあんまり美味しくないってごちるあなたの声を聞いたり。
楽しみだった。楽しみで仕方がなかった。ねぇ、あなたもそうだったんでしょ? 霊夢。
そんな日、絶対に来ないって分かってたのに、二人して、未来に真剣に希望を持ったんだ。
小箱の封を切った。
一本咥えて、火をつける。霊夢がやってたみたいに、おもいっきり吸いこむ。きつめの煙が喉を刺した。
肺が苦しくてけほけほと咳きこむ。
「だから、言ったじゃない……こんなの、あんまり美味しくなんだって」
多分、今までの生涯で一番長く感じた一本だった。
正直なところ、味は涙と鼻水が酷かったからよく分からなかった。
『期待するなって、言ってたじゃない』
もし彼女が隣にいれば、そうやって笑顔でからかってくれたんだろうか?
「まったく……からかわないの。あなたの為に泣いてるんだからさ、あなたはただ喜んどけばいいのよ」
ぐすぐすと、百年ぶりの嗚咽が漏れたけど、でも、もう堪えるのはやめる事にする。今は真摯に、私を特別扱いしてくれたあの少女をただただ悼もう。
若すぎる死を悔み。約束を破った彼女にどうして死んだのよと恨みごとを並べ続けよう。
風が吹いて、夏の空に灰が舞った。
◆ ◆ ◆
霊夢の葬儀はしめやかに執り行われた。もう何年も昔の事だ。
妖怪の山中腹。見晴らしの良い開けた一角。
小さな墓石が一つ。博麗霊夢はここで永遠の眠りについている。
生きていれば、今日で彼女は二十歳の誕生日。だから約束の通り、菊の紋章入りの煙草の封を墓石の前で切ってあげる。
ついでにマッチも一箱そなえてあげた。
ちなみに、半端なく辛口な煙草だからこれ。油断してげほげほと心配になるくらいの勢いで咳きこむ彼女を想像して、すこし笑ってみる
私も、ポケットから新品の箱を取り出し、封を切った。銘柄は、あの時霊夢が贈ってくれたのと同じやつだ。
咥え煙草しながら、うーん軽く背伸びをした。吸いこまれるような蒼穹は、あの時見た夏空と同じ色をしていた。
嫌いじゃないですこういうの。
私の涙腺がゆるいのはおそらく年のせいでしょう。
文が最後にあげた煙草、賞味期限切れてるんじゃないか
と少し水を差したい所はあれど、とても読みやすく清涼な話だった。
いったいどうやってだよw
なんかもうメインのストーリーよりこっちが気になって仕方なかった
きっと1940年代のラバウルとかで、九九式一号二〇粍機銃を素手で持って音速で飛び回り、米軍機相手に大立ち回りとかしてたんだろうなとか妄想したよ
しかもきっとカラスなだけに、あと二人、カラス天狗の戦友がいたはずだ
話が大分それたけど、この手のストーリーが大の苦手な自分でも、お話が大げさすぎないせいかさくっと読めた
死別は、かなしいです……
心の決心がついて訪ねてみたら既に冷たくなった後とか……
でも、良い作品でした
でも、話としては好きでした。
死に際に文のために生きた霊夢、素敵でした。
>>煙が灰に入ったらしい。
「肺」のご変換と思われます。
あやれいむの関係についてはあまり考えたことがなかったのですが、
なるほどこんな淡く張りつめていて脆いけれど中に一本芯のある繋がりは良いな、と思いました。
霊夢さんが優しくて、人間味あるあややが可愛い。
それがもう。大満足です。
霊夢の寂しさはいかほどだったのだろう
大好きです、感服しました。今なら芋虫歩きで町内一周しても恥ずかしくありません。
設定に、なにより文章に飲まれました。
やっぱり、個人的にはタバコをキャラクターに吸わせるのってあんまり好きじゃないですね。
自身が非喫煙者でタバコ嫌いだからでしょうが。