幻想郷に海はないというけれど、私にはそれが、小ざかしい妖怪たちのついた嘘としか思えない。
なぜならば。
「ほら、ここに」
うつむき加減の白蓮は、そっと目をあげて私を見た。
そのおとがいに指をあて、あごの線をつたって、耳にかかる髪を払い上げる。
ゆるやかにうねる髪の房は、彼女の頬を洗う引き波だ。
「神子さん?」
私はわざと、彼女の目を見ない。耳の付け根から耳朶の裏まで、ひと息に指を通わせる。少し力をいれて、ひっかくように髪をかき出すと、白蓮の肩から腕がぶるっと震えた。
「くすぐったい……」
髪に埋もれていた耳の全体があらわになる。
美しい彼女の、ただひとつ醜い場所。
人はよく、こんなところを晒して往来を歩けるものだ。
波打ち際の岩礁のようなその凹凸を、指でなぞる。満ちていく潮のように、細かな起伏のひとつひとつに、流し込んでいく。心に細かな泡が立つ。私もまた、彼女に打ち寄せるあたたかな時間に沈んでいく。
淡いため息が聞こえた。期待しているようでも、諦めているようでもあった。
豊かな亜麻色の髪に指をつきたて、握りこむように指を抜く。指の股を髪が流れる。
流れ落ちる。
追いかけるようにして鼻先を埋めた。鼻腔をくぐるその奥で、ひそやかな香気が裂けて広がり、動物的に何かを求める。
たまたまそこにいる、私であるとか。
「ほらね」
「え?」
白蓮が首をかしげた。半開きの唇の奥で、舌がぐっと盛り上がる。
岸に近づいた波のようだ。
波頭がくずれて、なだれる。白い前歯にせき止められ、口惜しげに戻っていく赤い波。あたりの音がまったく聞こえなくなる。
耳あてを外す。
魔女は私を、ためらわず見ている。真っ直ぐ、強く、私の耳を。
ひどく恥ずかしい。
畳を膝でにじり寄る。彼女の瞳はほんのわずかに揺れて私を追う。背中からのしかかりあごをのせると、白蓮の肩が私の喉元にめりこむ。彼女はどこもかしこも柔らかい。それにくらべれば、私はまるでむき出しのままうろついている骨とかわらない。
裸の耳を、白蓮のそれに重ねる。
固くてやわらかい起伏が、鍵穴のようにぴたり合う。
「聞こえますか?」
すぐ目の前の細い首が、律儀に頷いた。
何が聞こえるというのだろう。私は、急に苦々しく思った。この人は、やはり理想に過ぎる。
彼女はまたいずれ闇に沈むかもしれない。誰にも助けられないだろう。
「神子さん。本当はもう、酔いはさめていらっしゃるでしょう?」
その声は、くっつけあった耳から頭蓋へ伝わる。音と振動が混濁して、どちらの発した問いなのか、わからなくなる。
同じことを感じたのか、白蓮はかすかに笑った。
「酔っていなくても、いいの? 私が、酔わずにこんなことをしているとしたら?」
耳元で囁きかけて、白蓮と間近に見つめあう。凪に映った夜のような瞳だ。夜と海は、どちらが広大なのだろう。
「だとしたら、許しません」
口元にまだ笑みが残っている。私と彼女は半身ずつ持ち寄ってぴったり密着している。水面の下に隠れて、彼女の丘陵があり、海溝があり、浅瀬がある。手のひらでそのかたちを確かめていると、本格的に白蓮が笑い出した。
「もう! 困るじゃありませんか。殿方なら、突き飛ばしてしまうところなのに」
「あら。まんざらでもないかと思ってました」
私の胸を手で押しのけるようにして畳に倒れる。その髪に埋もれるようにして、隣に横たわった。
まだひくひく笑っている。
私の片方の耳は畳でつぶれ、彼女の耳はすぐ前にある。
「こんなところ、誰かに見られたら気まずいわね」
まるで耳がしゃべったみたいだ。
「寺なら、特に誰が?」
「そうね……。村紗かしら」
「へえ。あの舟幽霊。もっとクールなタイプかと思ってましたよ」
「敏感なところがあるの」
畳にくっつけた耳で、私は時計回りに進んでいく夜の音を聴く。
里の若者が、心臓の病で死んだ。
彼は仙人にあこがれ、私に弟子入りを志願した。それでいて白蓮の寺に通い、おそれず妖怪たちと接した。
天狗をだまして商売をしようとし、あやうく殺されかけた。里では夜な夜な飲んでさわいで、店の立て看板をすり替えたり、牛の尻尾に火をつけて往来を走らせたり、悪ふざけを繰り返した。
聞けば神社に出向いて、巫女に結界の外へ出してくれるよう、頼んだこともあるという。
「俺は水神の息子だから、一度海が見たいんだ」
そんな大法螺を吹いて。
彼の葬儀は、生き方の騒々しさに比して、実に簡素なものだった。参列者も意外なほど少ない。つるんでいた仲間が二人三人、あとは里の顔役がまばらにやってきて、いずれも長居はしなかった。
なぜか、私が呼ばれた。里に出ていた布都から話が来て、行ってみると、裕福な商家をいとなむ彼の両親は、深々と頭をさげて私を迎えた。
「せがれがよく、貴女様のことを話していましたもので……」
一応、寺のやり方で設えてあるものの、白蓮もまた葬儀を取り仕切るため呼ばれたわけではないらしかった。それでも彼女は頼まれてもいない経を読み、帰ろうとするところを引き止められた。料理が出たものの白蓮は酒を断り、仕方なく私も残った。
「あなたの分まで飲んだから……」
そう言いがかりをつけて、酔ったからと絡んでいると、本当に酒が回った。若者の両親は離れの部屋を用意してくれた。仙人になったからとて酒色に強くなるわけではない、それは別の修行だと、ぬけぬけと言ってのけたのは青娥である。
「神子さんの酔いがさめたなら、私はもう帰ろうかしら」
天井を仰いだ白蓮の、すっきりした鼻の根元には、悪戯っぽい小じわが浮かんでいる。
「夜があけてからでいいでしょう。ご両親も、きっと休んでいる。妖怪相手ではないのです、挨拶もなしに帰るわけにもいかないでしょ?」
「ほんと。人間は、面倒ですわね」
使われていない部屋の畳のにおいが鼻をつく。ランプに照らされて、何の変哲もない天井の梁を、人間をやめた二人で見上げている。
「あの青年はね。あなたのことを慕っていたのですよ」
白蓮は首をちょっと起こして、私を見た。
「まさか……。まだ子供でしたよ」
「暮れには十七になるところでした。もう大人の男だ。女に惚れても、おかしくない」
嘘をついた。
死んだ若者が肉の欲を抱いていたのは本当だが、それは私にだ。
面と向かって言いはしなかったが、私から見れば明らかだった。ただそれは、欲というにはあまりにも素朴で、単純で、生まれたばかりのようにしがらみがなくて――。
「……それならどうして、神子さんがそんな顔をしているの?」
眩しいくらいに、懐かしかったのだ。
人肌の影が、私を覆う。
影の中心で、穏やかな眼差しがにぶく光を反射していた。仰向けになった私の頬に、ひんやりした指が触れてくる。
潮が寄せる。波が砕ける。
「なんでもない。ちょっと眩暈がしただけです」
「そう」
豊かな腰がゆっくりうねると、女の歯車がかちりとかみ合う。法衣の衣擦れの下で、白蓮の欲望が呼吸していた。私はそれを聴いていた。
もう何度も聴いてきた。そのたび彼女の欲は色彩を変える。ふくよかで重々しく、底が見透かせない。二十に届かず死んだ人間とは比べ物にならない。
喉元にこみあげた青黒い嫌悪を、飲み下す。
おなじなのだろうか?
「お茶でもいれましょうか」
腰を上げかけた白蓮の手をつかむ。不思議そうにしている彼女の肩にすがって、その瞳をのぞきこんだ。
凪の海に映る夜。
おぼろにそこに映る私は、ただの私だった。何も背負っていない。何も求めていない。
「なんですか?」
「いやあ」
私は頭をかいた。首の後ろに浮いた汗を、こっそりぬぐった。
「口づけでもしてみようかと思いましてね」
「あら」
白蓮は口に手をあてて、目を丸くした。
「タイミングとしては悪くないと思ったんですが。雰囲気づくりが、足りませんでしたかね」
盆に伏せられていた湯呑み茶碗を、白蓮はこつりこつりと卓にのせ、竹筒に入って置かれていた冷たい茶をそそいでいる。水の音がやけにはっきり、夜に響いた。
「困った方。神子さんは、女性がお好きなの?」
「いえいえ。あなただからこそですよ」
「まあ。口ばっかり」
背中を丸めてくすくす笑っている。
「罪なこと。やはり、あなたは封印しておくべきでしたね」
私は身を起こし、服を撫で付けて居住まいを正した。どうぞ、と笑顔で差し出された湯呑みを両手で受け取る。
「あっ」
迂闊だった。
手を前に差し出して、私は身動きがとれなくなっていた。
おそらく、呪法がかけられていたのだろう。解除するのは難しくないが、そのためには一瞬でも潜らねばならない。
彼女に。あの深淵に。
やむなし。
即座に腹をきめる。ただの悪戯だろうということすら、考えが及んでいなかった。
意識をまとめる。研ぎ澄ます。
暖かい雲のような感触が、ふわりと私の耳をつつんだ。
魔女は膝立ちになって私の前にそびえていた。左右から私の頭を持ち上げるように、耳ごと手でくるんでいた。
耳に触れられるのは嫌だ。
怖い。
怖い!
振り払おうとした首はしかし、ぴくりとも動かなかった。
紅い唇が正面で、咲きかけのつぼみのように綻んでいる。上下の歯の先端がすばやく噛み合い、舌の先がちろりと燃え上がった。
つめたい、無機質ともとれる顔の中で、唇だけが動いていた。私を飲み込もうとしているようであり、何かを吐き出そうとしているようにも見える。
きこえますか?
そう読み取れた。母親の叱責を待ちうける子供みたいに、白蓮は不安げにしている。
手から湯呑みが落ちて畳に転がる。はじめから茶など入っていなかった。
きこえます。
私も、そう答えたつもりだ。
耳の中で、白蓮の指が蠢動する。小さな羽虫が群れて飛ぶような音が、塞がれた耳に溜まりはじめる。それは彼女の、あるいは私の血のせせらぎだろうか……。どんどん音量を増し、密度を上げ、合流する。だくだくとあふれ、かさを増し、私の中の、大小の起伏を満たす。濃密な原始の絞り汁に、あらゆるものが押し流されていく。心のほら穴や内臓の林はそっくり沈み、やがて被捕食者の弱々しい感情が、物陰からそろりと顔を出す。
自由になった腕を、私は白蓮の腰にまわして、そっと引き寄せた。耳をふさいでいた手が離れる。
弾力のある彼女はしかし、腕の中で妙に実感がなかった。だから遠慮なく力を込めた。
ため息が、また聞こえた。
「ですから、困ります……」
黒く生ぬるい、目的のない女。
彼女は海だ。
砂浜であり、底流であり、潮溜まりであり、汽水であり。
服に隠された下には入り江もあるだろう。
そういうことを言えばさすがに怒るだろうから、私は口をつぐんでいた。
小刻みな息が前髪を叩くのを、じっと感じていた。
まどろんで、ふと目覚めると、白蓮は床の間の柱に背をあずけて目を閉じていた。
障子に夜が白む。
毛布を彼女の膝にかけると、死者と両親に暇乞いをすませ、私は屋敷を出た。
青く沈んだ里に明かりはなく、山の方を見上げると、大いなる薄明が、透き通るひだになって押し寄せてきている。
(おせっかいめ)
蹴飛ばした小石は、無人の往来を音高く転がり、油屋の木戸にぶつかって止まる。
夜は粛々と私を無視して立ち去ろうとしていた。
幻想郷に海はある。
海よ私の欲を聞け。
<了>
クラゲは触ると痛いんだよね。
うめぇ
相当うねっててナイスです
神子攻めなはずなのに肉がともなったディープでハダカな圧をかけてくる
さすがの白蓮・ザ・ブラックマジック
雰囲気の勝利。文章力の勝利。そして神子様と白蓮さんの勝利。お見事。
底の知れない海、ふわふわと漂う海月。神子さんの喩えがすごくしっくりきました。この二人のお話をもっと見てみたいなあ、と思ってみたり。
何度も読み返す作品のひとつになりそうです。
ありがとうございました。
こんな底の見えない海じゃ、溺れてしまうんじゃないだろうか…
まさに深いお話でした
やはり神子と白蓮の相性はいいですね。
文章力に圧倒されて溺れてしまいそうになりました。
あー、よかった。
百合っていうかと坊やと母親みたい
海の響きをなつかしむ
コクトー
この艶めかしさ・・・ありがとうございました
分からないままこの点数で。
お言葉いろいろ、ありがとうございます。
きっと相性がいいと信じているので、ひじみこ、みこひじ? 増えればいいなあ。
迚も詩的で美しいです。鹿路様のSSの中でも二番目に好きな作品となりました。
素敵な作品を読ませて戴きまして本当にありがとうございました。