「…………参ったわね」
「どうされたのですか、紫様」
「……」
悄然と佇む主の隣に控える式神が、一人。
返答がないことをいぶかしんだのか、とりあえず彼女は手に持った茶と盆を、その隣に置いた。
「何か、考え事でしょうか」
「ええ、ま、そうとも言えるわ」
縁側に直接置かれたそのお茶を手に取り、味わうかのように軽く口をつける。
彼女の中で思考は何度も交錯し、そしてあるいは、心ここにあらず。
当然のように、結論は最初からひとつしか無いことは明らかだった。
もちろん、それを納得できるかできないかということは、まるで別の問題ではあるが。
「そう、あなたの言うとおりなのよ。冷静に、そして迅速に。全ての事態に先んじて考えておかなければならない。そうね、まさに懸案事項と言えるかしら」
「そのお言葉ですと、博麗の巫女に関わることですか?」
八雲紫その人が心配していることはただ一つ、幻想郷の存在だけ。その事実は日々傍に仕えている式神であればこそ、藍は重々承知していた。彼女にとってみれば他のすべては些事でしかなく、すべてはその存続を中心に考えるためのコマとして扱われる。
そのためのキーとなるものが、一つは幻想郷すべてを覆う博霊大結界、そしてもう一つが楽園を守る巫女――当代、博麗霊夢の存在であった。紫の内心の心配をよそに自らの重要性を理解していない、藍はそう霊夢のことを評価していた。同時に、代替わりするまでのしばらくの間は、主の心労のタネの第一候補であり続けるということも。
「霊夢?」
「ええ。紫様がそのような顔で考え事をされているときは、大体霊夢絡みの話題でしたので」
「あら、私いつもそんなに分かりやすかったかしら」
くすくす、と軽く笑みを浮かべる。茶の隣に置かれた薄味の煎餅に手を伸ばし、言葉をつづけた。
「そういうことじゃないわ。少なくとも博霊の巫女としては、及第点をあげてもいいと私は思っているのよ。その意味で今の『霊夢』は、十分素質もあるから」
「……それでは、まさか」
霊夢に関わらない話題で紫を悩ませる問題といえば、幻想郷そのものの問題ただ一つしかない。
「…………」
八雲の名を与えられているとは言え、藍は自らの存在はいわば、主のための計算装置でしかないと自認していた。家族や友人として必要とされたのではなく、紫の力を補助するための触媒としての式神の価値。だから、主が必要としていない時には、その隣に存在する必要がない。
紫が考え事に集中している今、隣で邪魔をすることは彼女の存在意義に反している。
「私は下がります。御用がありましたら、なんなりとお呼びください」
「藍」
「、はい」
呼び止められ、振り返る。
「私は、あなたの存在を確かな数値として計算に入れているわ」
「……紫様?」
「要素が増えれば増えるほど、確かに面白い話にはなるのよ。思いもよらない出来事っていうものは、確かに思いもよらない展開を見せるわ。でも同時に、不確定な事実も増えていく。どちらに転ぶか分からないほどのリスク。私は、万が一にも幻想郷を危機にさらすわけにはいかないの」
紫は、藍に視線を向けることもなく語り続ける。
まるで、彼女に伝えるのではなく、自らに言い聞かせることを目的としているかのように。
「そうね。あなたには言っておく必要があるかしら。……問題は、月なのよ」
「月といえば……、ここ数ヶ月の偵察、ですか」
毎月満月の晩に湖に映る月と現実の月の境界を操ることにより、紫は月に踏み入れることは可能であった。
「そうね。でもそれは、異常がなければただそれだけの話だったのよ」
後ろを振り返る。
その紫の視線の先に、藍の姿は映っていない。夜に唯一の明かりをもって光る天体、月だけを捉え。
「私とて反省はするわよ? かつての私は確かに、油断という名の麻薬に侵されていた。私が作ったこの幻想郷ほどの完成度を、まさか他の誰かが完成させていたなんて思ってもみなかったわ」
月面戦争で敗北した記憶。あのとき受けた屈辱と反省、そして技術力の違い。
「でも、それはただ、全てを手に入れようとした傲慢さが失敗を導いたのよ。失うことを覚悟すれば、ずさんな計画ですら私の当時の目的は達成できる。その程度の存在でしかない、こちらも、あちらも」
「しかし、それは机上の空論ではないでしょうか。紫様のおっしゃる通り、この地は、失うわけにはいきません。賭けるためのチップとして計算できないはずです」
そういう意味において、幻想郷は、唯一の希望であり、そして唯一の弱点でもある。
「そうなのよね」
視線を向けた先にある、彼女に忠実な式神の表情が、言いようのない不安を表していた。
その心中を察するに、紫は軽く笑いが込み上げてきた。
確かに藍は信頼に値する存在ではあるが、どこか一つ抜けている。
「大丈夫よ、少なくとも私から向こうをどうこうしようというつもりはないわ。どんなに計算したとしても、あれは手に入るものが労力の割に圧倒的に少ない。あなたの言うとおり、賭けに値する存在ではない」
「では、紫様? なぜ、月のことで心配をなさっているのですか」
「それはね」
視線を月から逸らす。
「こちらから手出ししなくても、向こうがやる気満々だから、仕方ないじゃない」
その返事に、藍は継げる言葉はなく。
「内乱でも戦争でも内紛でも、勝手に好きにやればいいと思うわ。でも、それでこちらに迷惑はかけないでもらいたいということよ」
再び藍に背を向け、温度が下がった湯呑を再び手に取る。
「問題は、どちらが勝とうと負けようと、穢れとされた月の民がこの地に追放されること。私が作り上げた幻想郷という枠を、軽く吹き飛ばすことのできる力のもった宇宙人が、この地にやってくる。ここはもう、彼らの入り込める枠は埋まってるのに」
「……枠、ですか」
「そう。もう宇宙人が許容される枠はない。あの竹林にいる賢者も、それが分かっているからこそこの地を永住の逃亡先とした。押し入り強盗もいいところね。私とて、庇を貸して母屋を取られるつもりはなかったのだけれど。その時になってようやく、異変は異変として誰の目にも明らかになる。それも、博霊の巫女程度では解決なんてとてもできないレベルで」
少しずつ、藍の中にも紫が持つ危機感が浸透していく。ある意味で天災ともいえるこのトラブル、月面における新勢力の発生。もちろんのこと、今はまだそれは対岸の火事でしかないが。
「紫様は、どうされるおつもりですか」
「そう簡単に名案が浮かんだら苦労はしないわ。だからこそ参ったと言っていたのよ」
しかし、その表情には、まるで対処が出来ないという意味は含まれていなかった。
「あの時、私が単独で月に行った時に比べて、この幻想郷は充実していることが救いね。博霊の巫女、黒白の魔法使い見習い、吸血鬼、冥界の管理人、そして月からの逃亡者。これほどの有象無象を揃えておいて、何もできないわけがないわ」
――最も、結論は、最初から一つしかない。
月の持つ力は、少なくとも紫のそれよりも格上な事実は明らかだ。まずは、それを認めよう。
くだらないプライドなぞ、どこかに捨てておけばいい。
目的は、本当の意味で月とこの地の境界を設けること。
厄介事は近づけなければ、問題は起こらない。
「そうね、主役は彼女らに譲りましょう。私はただ指揮棒を振るうだけで十分」
檜舞台を用意するのが、紫の仕事。
「まずは手始めに、月面へのアプローチから。――藍」
「はっ」
「吸血鬼たちに、情報をある程度流しなさい。彼女たちだけで月に行くことができるように、あなたの持つ知恵と知識を、確かに伝えること」
「了解しました」
吸血鬼は、その無謀な願望を同時に充足させることができる。
「そして、幽々子にはその監視を。最も、彼女のことだからその程度のレベルで気がつかれてしまうでしょうね。百聞は一見にしかず、天性の勘のよさも問題だわ。でも、この場合はそのほうがありがたいわね。一応、月の都を警戒させないため、とでも理由を取りつくろってちょうだい」
「はい」
冥界の友人はおそらく、紫の危惧していることを瞬時に理解するだろう。
そして同時に、最後の保険として動いてくれるだろうということも。
「竹林の宇宙人たちには情報が漏れないように。まだ彼女たちの出番ではないわ。……以上よ」
「それでは、紫様」
「いってらっしゃいな。道中気をつけて」
その言葉を背に、その優秀な式神は姿を消す。
此度の戦いは、はじめから敗北が決定づけられているもの。
敵の敵は味方。こちらから余計な手出しをすることで、向こうが一枚岩になってもらうこと、それが目的。
加えてこちらの敗北を手に、完全に月との関係の境界を完全に断ち切ることが可能となる。
そう、あのときの賢者の罠もうまく作用するだろう。
「もちろん、月の都が手に入れば面白いと思うけれど」
所詮それは希望的観測にすぎないことは理解している。
第一の目的は、幻想郷を守るということ。
とはいえ、はじめから負けるつもりでいくこともない。
その大きなカギを握るのは、やはり。
「……いつだってあの子に左右されるのね、この地は」
右手を動かし、不気味な境界を発生させる。
「さてそれでは、私も私の仕事を始めましょう。まずは、あの巫女を鍛えるところから」
その身が境界の隙間に飲み込まれる。
そしてそこにはただ、静寂が支配する迷い家だけがあった。
かすかに、猫の鳴き声が風に乗っていた。
早速ですが、誤字らしきものを・・・
>>天性の勘のよさも問題だわ。でも、この場合はそのほうがありがちわね。
>>天性の勘のよさも問題だわ。でも、この場合はそのほうがありがたいわね。
かな?
巷では其処が不評だったりしますが、私個人としては読み手が自由に解釈出来る余地があるという点で面白いと思っています。矛盾点のようなものもあるので悩まされますが。
この作品のようなバックストーリーがあったとしても面白いと思いますよ。
『』で括ることで何か意味があるように思わせながら、それ以降は触れないのは不思議でした。
もしかすると他に書いている作品に『霊夢』である意味を持つ設定があるのでしょうか……?(※発見できず)
作品同士の世界観を繋げるのは好きなのですが、本作との関係で言えば無意味さに肩を落としてしまいます。
この他にも違和感を覚える文章がいくつかあったのも気になりました。
>毎月満月の晩に~~可能であった。
>「あの時、私が単独で月に行った時に比べて
>「こちらから手出ししなくても、向こうがやる気満々だから、仕方ないじゃない」
月の内紛については紫の行動に端を発しているはずです。
第一次月面戦争に参加した、月に行ったのが八雲紫ただひとりという設定もどうかと思います。しかし――
>「問題は、どちらが勝とうと負けようと、穢れとされた月の民がこの地に追放されること。
>敵の敵は味方。こちらから余計な手出しをすることで、向こうが一枚岩になってもらうこと、それが目的。
>第一の目的は、幻想郷を守るということ。
……なるほど。
これらの台詞などを読んで、原作と異なる設定でも受け入れられるようになりました。
穢れを纏った月の民が地上に落とされる事について、それを脅威に思うのは納得です。
このあたりのテーマは自分も書いてみたいと思うほどに魅力的でした。
それと、失うことを覚悟すれば互いに相手の領地を侵すことが出来ると理解している発言も良かったです。
後書きにある、異変を解決するのが月側という見方には私も賛成ですね。
>儚月抄のあの土下座を見てどうにも釈然としなかったもんで
どうしてこの場面を書かなかったのかが疑問です。
そこであなたが引っかかったのは、そのシーンこそ最も補完が必要だったからなのではありませんか?
前提を追加修正する事によって間接的な補完を行なうにしても、まだ要素と場面が不足しているように思います。