――――メリーと別れてから、もう十五分が過ぎた。
そのあいだ私は何をする訳でもなく、月明かりに照らされた洋館の前で、中にいる彼女の帰りを待ち続けている。
暇を潰せそうな物はないかと周囲を見渡しても、ここにあるのは廃墟の街並みと、どこまでも広がっている鬱蒼とした山だけだ。
あぁ、暇だ。暇すぎる。おまけに、さっきから立ちっぱなしで足も痛い。
「この調子だと、しばらくは帰ってきそうにないわね……」
待ちくたびれたので、帽子を枕がわりに芝生へ寝転がってみる。
手を伸ばして大きく背伸びをすると、夜空に数え切れないほどの星々が帯状に連なっているのが見えた。
「おぉ、天の川!! で、あれが確か白鳥座……って、あれ? さそり座だっけ?」
大学の図書室で文献を漁っていた時に写真で見たことはあったけど、実際に自分の目で見るのは今回が初めてだった。
つい夢中になって、うろ覚えの星座を探し始めてみたものの、
「やっぱりダメ……退屈だわ…………」
速攻で飽きた。
よくよく考えてみたら、星座もロクに覚えてないのに、いつまでもこんなことが続く訳がない。
そもそも、なぜ私がこんなところで非効率な時間を過ごすハメになってしまったのか――――
『もしも何か見つけたら、お互いすぐに教えること。じゃあね、蓮子。また後で』
十六分と三十二秒前、メリーは嬉しそうにそう言うと、目を輝かせたまま私を置いて、さっさと洋館の中に消えてしまった。
たまたま今回は、大学の食堂に置いてあった雑誌がきっかけを作ってくれた、と言えば聞こえがいい。
しかし実際のところは、
『ねぇ蓮子、あなた今度の土曜は予定入ってないって言ってたわよね? それなら、ここ行ってみない? ほら、人外の山中に忘れられた謎の廃墟を訪ねて、だって』
『でも、別に何か謂われがある訳じゃないんでしょ? 廃墟ってぐらいだから、単に人が住んでたってだけで』
『甘いわねぇ。こういう所にこそ、私たちが知らない世界に続いてる境界があるんだから』
『そんなもん?』
『そんなもん。じゃ、きまりー』
と、わりと軽いノリで決めてしまったようなものだ。
メリーがいつにも増して乗り気なのは、秘封倶楽部の活動が久しぶりだったせいもあるんだと思う。私だって、メリーにいつも聞かされてる『境界を超えた世界』を見れるんじゃないか、っていう期待があった。
だけどそれが今回、裏目に出てしまったのは間違いない。
廃墟に足を踏み入れた途端に、メリーはあちこちを走り回って、私はついて行くのがやっとだった。
それでも、やっぱり一緒に行動すればよかったと、今さらながら思う。
だって、あの洋館の中でメリーだけが不思議な体験を独占してるかと思うと…………あぁ、なんてズルい!!
「ねぇ、メリー!! 何か変わったことはあった? おーい!! 聞こえてるー!?」
いてもたってもいられなくなって、洋館の中をさまよっているメリーに向かって、大声で彼女の名前を呼んだ。
「そんなに大声出さなくても聞こえてるわよー!!」
頭上からメリーの声が聞こえる。
伸び放題の蔦に侵蝕された壁を見上げると、ガラスのない二階の窓から彼女が手を振っていた。
「ねぇ、一緒に行動した方がいいんじゃない?」
「またそんなこと言ってぇ、本当はひとりでいるのが怖いんでしょう?」
メリーが窓のふちに身を乗り出して、顔の下から懐中電灯をあてて冗談ぽく笑う。何をやってるんだ。
「違う違う!! そうじゃなくって!!」
「ほらほら、あんまり時間がないんだから蓮子はあっちをお願いね。何か変なものを見つけたら、ちゃんと教えてよー」
そう言うとすぐに、また部屋の奥に消えてしまった。
「あ……ちょっと!! 違うんだってば!! メリー!!」
それからしばらく待ってみたけど結局、彼女からの返事が返ってくることはなかった。
あの調子だと当分は戻ってこない。それなら、ひとりでここにいたって過ごすだけ時間の無駄だ。
「っこいしょ……っと」
お尻についた草を払って立ち上がり、向こうに見える廃墟の街並みへと足を進める。
「残念だけど今回は諦めるかなぁ……せっかく貴重な体験ができると思ったんだけど……」
どれぐらいの時間が残っているんだろうと、帽子のつばを上げて、星の散らばった空を見る。
時刻は――午後八時ジャスト。下山して汽車に乗ることを考えれば、確かにメリーの言う通り時間の余裕はない。
とは言うものの、この広い敷地のどこから調べたらいいんだろうか。
「それにしても……こんな便利の悪いところに建てなくてもいいのに。何か理由でもあったのかな」
人の匂いがしない寂れた石畳の街路を歩きながら、礼儀正しく並んだ無数の廃屋に目を配る。
この場所が人々に見捨てられてから、ずいぶんと長い時間が過ぎてるってことは、さすがに私でも理解できる。
「まさに――死んだ街、ね」
だけど、なぜこの場所から人がいなくなったのか、その理由を私は知らなかった。
ここの由来については、例の雑誌にも詳しく触れられておらず、ただ何かの療養施設だったとだけ書かれていた。
人の目を避けるように山の中へ建てられた無数の建築物も、かつて人がいた頃は、きっと美しい姿だったんだろう。
崩れ落ちたテラスや折れた柱はどこか西洋っぽい雰囲気が漂っているし、噴水に溢れているのが枯葉じゃなく水なら、きっと素敵に違いない。
何より、月明かりに晒された廃墟の面影は、私たちが住んでる世界とは違う何かを感じさせる。
「この広さだと全部を回るのは、さすがに辛いか…………」
とりあえず、どこから見て回ろうかと噴水のへりに腰をおろす。
あっちに見える変な形をした塔まで歩いてみるか、それとも山の上まで続いてる階段を登ってみるか。
「さて、どうしたものやら」
「にゃあ」
「…………にゃあ?」
ひとりごとのつもりだったのに、返事が返ってきた。
どうやら声の主は、あの建物の角にいるらしい。姿は見えないけど、甘い声は夜風に乗って、はっきりと耳に届く。
寄り道する時間はない。ないんだけど……あんな声で誘われたら、ついその顔見たさに足を進めてみたくなった。
「ほらほら、怖くないよー」
警戒されないように近づいて、そっと角をまがる。
すると――――
ちりん
鈴の音と同時に、いきなり後ろから強い風が吹いた。
とっさに目を閉じ、もういちど目を開けると、私の帽子が風に流されて夜空を舞っていた。
それを目で追いかけながら――帽子が落ちた先の景色に息を飲む。
不思議な場所だった。
骨組みだけのビニールハウスのような建物に、上からガラス被せたような姿はどことなく植物園を思わせる。
透き通った室内には見たこともない草木がひしめき合い、南国に生えてるような木が天井を突き破っていた。
建物の周りに散らばっているガラスの破片は、月光にきらきらと反射してどこか別世界のようにも見える。
「…………なに、あれ」
いったい誰がいつ、何の目的であんな物を建てたのか。
うまく言えないけど、明らかに他の場所とは空気の重さが違う。正直に言えば、どこか薄気味の悪い場所だった。
「あ、そうだ。帽子…………」
ふと我に返り、落ちた帽子を拾い上げようと手を伸ばす。
「はい、もう落としちゃダメだよ」
私より先に、誰かの手が帽子に触れる。
顔を上げると、見たことのない女の子が目の前に立っていた。
ほんの少しつり上がった、丸くて大きな瞳と黒い髪。
小さな手には、赤くて長い爪が伸びている。
頭の上には、メリーが被ってるのとよく似た緑色の帽子が乗っていた。もしかして流行ってるのだろうか。
「…………ありがとう」
あまりに突然な出来事に頭がまっ白になり、それしか言うことができなかった。
それでも女の子は、赤いスカートの両端をつまんで少し持ち上げると、ゆっくり膝を曲げて挨拶してくれた。
「どういたしましてー。じゃあねー」
そう言って照れくさそうに笑うと、あの朽ちたガラスの建物にむかって、逃げるように走って行く。
「あ……ちょっと待って!」
「だめー」
即答だった。でも負けない。だって、まだ聞きたいことはたくさんある。
名前は? どこからきたの? なぜこんなところに?
疑問はいくらでも湧いてくる。
「だいじょうぶ! ぜったい変なことしないから!!」
力いっぱいに力説して女の子の後を追う。
なんか誤解されそうなことを言ってしまった気がするけど、そこは気にしない。
「だって、知らない人についてっちゃダメって言われてるもん」
女の子が振り向いて立ち止まり、小さく舌を出してまたすぐに走りだす。
それにしても足が速い。追いつくどころか、いくら私が全力で走っても、どんどん引き離されてしまう。
「ちょ、ちょっと待ってよ!!」
「あはははは、こっちこっち!!」
そう言うと、女の子はガラスの館にそびえる大きな門の上を軽々と飛び越えて、そのまま建物の中に消えてしまった。
なんとか頑張って追いつこうとしたけど、やっぱり捕まえるには無理がある。
「なんであんなに……すばしっこいかなぁ…………」
ようやく女の子が逃げ込んだ場所までたどり着いて、肩で息をしたまま立ち止まる。
改めて門の外から建物の中を見ると、これでもかというほどの草木が一面に生い茂り、見たこともないような大きな葉っぱが、ガラスのない窓から吹き込む風に体を揺らしていた。
「ねぇ、ちょっと! 教えて欲しいことがあるんだけど!!」
門のむこうに消えた女の子に向かって、力いっぱいに叫んでみる。
「いるんでしょ? もしもーし!!」
いつまで待っても返事はない。もしかして、どこかに隠れてるんだろうか。
仕方なしに、ゆっくりと門を開いて建物の中に足を進めると、吹き抜けの室内にガラスを踏む音が響き渡る。
だけど、不思議と怖いとは思わなかった。
意味のない天窓から降り注ぐ月の光。
蜘蛛の巣みたいに張り巡らされた通路。
見たことのない観葉植物と、鮮やかな色をした不思議な形の果実。
建物の中にある大きな池と、その中央にある祭壇みたいな場所に据えられた巨大な天体望遠鏡。
どこからともなく聞こえてくるピアノの音。
しばらく歩き続けてわかったのは、この植物園みたいな場所は、見た目と比べて居心地がよいことだった。
室内を照らす月明かりは適度に明るくて、流れる風は適度に暖かい。
きっと、枝葉の擦れる音でも聴きながらお茶でも飲めば、さぞおいしいだろう――――そんなことを考えながら、目の前に覆い被さる葉っぱをかき分けて進むと、ピアノの音がだんだんと大きくなり、やがて目の前の視界が唐突に広がった。
演奏者のいないグランドピアノと、まっ白なテーブルと洒落たガーデンチェア。向こうには、大きなとさかを揺らすオレンジ色の鳥が歩いている。
ちりん
ガラスの踏む音と、どこかで聞いた鈴の音。
振り向くと、そこには私とあまり年の変わらない、さっきの女の子とは別の少女が立っていた。
「素敵でしょ? 私のお気に入りなの」
そう言ってほほえんだ彼女の、レースをあしらった紫色のワンピースが風に揺れる。
現実味のない幻を見ているようだった。
赤いリボンのついたナイトキャップから流れ落ちる金髪は、ふわりと宙に舞って甘い香りを私の元まで運んでくる。
シルクのグローブに包まれた彼女のしなやかな手には、まるで月明かりでも避けるかのように、派手なフリルで飾られたパラソルが握られていた。
彼女が歩くと、鈴の音色が軽やかに響く。どうやらさっき聞こえたのは、パラソルの柄についてる鈴の音らしい。
やがて少女が私の横まで来ると、彼女はパラソルを閉じてテーブルを指差した。
「あそこでお茶にしましょう。あなたも疲れたんじゃなくて?」
「…………あなた、誰?」
私の質問に答える代わりに、彼女は笑顔で会釈すると、そのまま歩き出してイスに腰かけた。
訳がわからない。
私は女の子を追いかけてここに来たはずで、それはなぜかっていうと、こんな廃墟に人がいるはずがなくって、その理由が知りたくて、だけど女の子はいなくて、それで――――
「こっちにいらっしゃいな」
呆然とその場に立っていると、彼女が手招きして私を呼び寄せる。
確かに、ここで棒立ちになっていても意味はない。
言われるまま、頬杖をつきながら月を眺める彼女の元へと歩き出す。
「ほら、月がきれいよ」
「え?」
気がつくと、ガラスの壁一面に大きな月が映っていた。大型のスクリーンで見るように、無数の衝突痕までハッキリと見える。
ますます訳がわからず、頭の中で色々な疑問がぐるぐると回ったまま、テーブルに腰をおろす。
「いらっしゃい。ようこそ幻想園へ」
「幻想園?」
「まぁ……私が勝手にそう呼んでるだけなんですけどね」
笑いながら彼女は、赤い布地に金箔で縁取られたメニューを、テーブルの上に広げて見せてくれた。
「お好きなのをどうぞ」
開いたメニューの中には、紅茶やコーヒー、ワインにビール――――おおよそ私が思いつくようなものは、何ひとつなかった。
ただ『溶ける魚』だとか『百頭女』みたいな、訳のわからない単語が流れるような筆跡で、きれいに綴られている。
それ以前に、こんなところでメニューを出して何の意味があるんだろうか。
「えーと……どれを頼んでいいものやら……正直、よくわからないので…………」
とりあえず曖昧に答えると彼女は、御免なさい、と謝ってメニューを取り下げた。
「私が選んで構わないかしら?」
そう言うと彼女は、パラソルを手にして軽く柄を揺らす。
ちりん
「お呼びですか」
また後ろで聞き慣れない声がする。
現れたのは、男物の給仕服を着た長身の女性だった。
理知的な表情は、どこか近寄りがたい雰囲気が漂っていたけど、お決まりですか、と声をかけてくれた彼女の笑顔は、意外にも穏やかだった。
テーブルを挟んで向かいに座っていた少女は、何が楽しいのか給仕服の女性を見ると、苦笑しながら彼女にメニューを手渡した。
「彼女に『つづき』と、私には『おわり』を。それにしても……よく似合ってるわね」
「慣れない服は着心地がいまひとつです。それに、こんなところを霊夢や魔理沙たちに見られたら、連中にどう説明すればいいのやら…………」
困った顔をしてメニューを受け取る。
「あら、弁解なんて必要ないわよ。多感な年頃の女の子には、きっと喜ばれると思うわ。あなたも、そう思わない?」
「え? えぇ……まぁ……」
いきなり話題を振られても困る。
ただ、確かに綺麗だな、とは思った。肩まで伸びた柔らかな金髪は、どこか月光に輝いているようにも見えるし、長身に見合うだけのスタイルは羨ましくもある。
歌劇なんかでよく男装の麗人がもてはやされるけど、少女が言った喜ばれるというのは、あれに近い感情のことだろうか。
「では、すぐにお持ちしますので、しばらくお待ち下さい」
女性は諦めたように軽いため息をつくと、ふたたび樹園の奥に姿を消した。
「さて」
少女は私のほうを見て、どうしましょうか、と首をかしげる。
「何か聞きたいことがあったんじゃないかしら?」
「あ、そうだ!! 誰かここに来ませんでしたか? 黒髪できれいな目の女の子なんだけど――――」
「いるわよ」
「え?」
「目の前に」
私は、彼女にからかわれてるのだろうか。
いつのまにか、彼女は膝の上でおとなしく座っている黒猫の背中をなででいる。
「いましたっけ? 猫」
「いたかもしれないし、いなかったかもしれない」
優しい手つきにおとなしくしていた猫は、私に気がつくとテーブルの上に飛び乗って、小さな足で膝の上までやってきた。
それを見た少女は、なぜか少し驚いた顔をする。
「珍しいわね。普段あまり知らない人には近づかないんだけど」
「そうなんですか? こんなに人なつっこいのに――――ねぇ?」
つやのある綺麗な毛並みは、触れてみるとふわふわして気持ちがいい。首の周りをくすぐってあげると、気持ちよさそうに目を閉じる。声をかけると、顔をあげて同じように返事をくれるのが、どうしようもなくかわいかった。
「怖くない?」
「何がですか?」
「しっぽ」
「しっぽ?」
ふたつあった。
「別にひとつでもふたつでも、この子が悪いわけでもないし」
「そう」
テーブルに肘をついて手を組む彼女の言葉は、少し嬉しそうだった。
「我が心の庭にただひとりいる人――――私もあなたに、聞きたいことがあるの。あなたには、ここがどういう風に見えるのかしら」
「…………よくわからない。気持ち悪さと美しさが混じった、まるで夢でも見てるような……不思議なところ」
「当たらずしも遠からず、と言ったところね」
そう言うと少女は席を立って、ガラスの壁に向かってゆっくりと歩きだす。
「ここが例えどこであっても、あなたにとっては……街の神秘と憂鬱でさえ、疑いようのない現実のひとつ」
遠くを見る彼女の眼差しは、どこか哀しそうに見える。
「ここは、どこなんでしょうか?」
「劣化した楽園、時間の墓場……なんでもいいわ。どのみち、与えられるべき名前は、もう何もないんだから」
少女の言葉に続いて、私の後ろから給仕服の女性が声をかける。
「しかし、本来の意味を無くした対象に、何か別の意味を見つけることができれば、ふたたび名前は与えられる。あるいは、ここもそういった場所なのかもしれません」
片手に乗せた銀色のトレイには、青磁のカップとティーポットが乗っていた。たぶん『つづき』と『おわり』を持ってきたんだろう。
給仕服の女性がティーカップに中身を注ぐと、果物みたいな甘い匂いが周囲に充満する。
「ここは……差の眠る場所」
「さ?」
そう言って少女は、カップを手にすると静かに口をつけた。
「集団から弾かれた差は、今もここで失った名前を探して未来永劫眠り続ける。かつて謂われなき境界を引かれた者たちは、やがて自らで集団を形成し、放浪と労苦の果てにこの楽園を設けて安息の地としたわ。ここはある意味、私の存在が許される場所に、とてもよく似ている」
何を言っているのかよくわからない。
「私は、彼等の楽園を残しておきたいだけ。それなのに――――」
少女が外の景色に目を向けた。
私もカップをテーブルに置いて、膝の上で眠っていた猫をゆっくり地面に降ろすと、一緒に彼女の横へと並ぶ。
テラスの外からは、街の通りがよく見えた。
月明かりに照らされた白い建物と、そこを移動する無数の――――手も足も、顔すら見当たらない、ぼんやりとした人のような白い影と、赤い影。
赤い影は、その場から身動きすることもなく、どれもが白い影に取り囲まれていた。
「誰だって気持ちよく眠っているのを起こされれば、あまりいい気分ではないわ」
少女が給仕服の女性を流し見ると、彼女は申し訳なさそうに頭を下げた。
「ここに土足で踏み込んでは、くだらない落書きを残したり、そこに在るべき物を何も考えずに奪ってゆく。だから、私は――――」
それ以上は何も言わず、少女はカップを静かにテーブルの上に置く。
何かを思い出したのか、彼女の浮かべたほほえみは、どこか無機質で冷たかった。
ごちそうさま
その歪んだ口元を見た瞬間に、背筋に冷たいものが走る。
いつのまにか、カップを置いた彼女の視線は、私のほうに向けられていた。
「ところで、あなたは何の目的でここに?」
答えられなかった。
それを答えてしまうと、取り返しのつかないことになりそうな気がする。
「なぜ?」
少女がもういちど尋ねる。
彼女の言葉と同時に、全身から力が抜けて思わず地面に膝をつく。
番組の終わったテレビみたいに、ノイズが視界を埋めつくす。
しびれた体に感覚はない。体を自由に動かすことすらできなかった。
「…………飲み物の中に……何を?」
少女は答えない。見上げた彼女の曖昧な姿が、だんだんとぼやけて風景に溶ける。
「そろそろお別れの時間ね。ありがとう、楽しかったわ」
もう口を開くことも、物を見ることもできなかった。それでも、鈴のような美しい声だけはハッキリと耳に届く。
「また、どこかで会えるといいわね」
意識が遠くなる。聞こえたその言葉は、本当にそう言ったのかさえ疑わしい。
――――おやすみなさい、蓮子。よい夢を
最後に、自分の名前を呼ばれたような気がした。
§
心地よい枕木の揺れ。固いシートの感触。
そして、どこかで聞いた懐かしい声。
「もうすぐ着くわよ、そろそろ起きないと」
「んあっ!!」
「わっ!! いきなり大きな声ださないでよ。周りにも人がいるんだから」
目の前には、メリーが地図を広げて鉛筆で何かを書き記していた。
時折、汽車の揺れに合わせて彼女のトートバッグについた小さな鈴が、かわいらしい音を鳴らしている。
「なんか悪い夢でも見てた? さっきから、もの凄い顔でうなされてたけど」
「悪いかどうかはわからないけど、夢は見てた」
いかにも興味深そうな顔をして、メリーが私の顔をのぞき込む。
「ねぇ、どんな夢?」
「教えない」
「別に教えてくれたっていいじゃない、けち」
そう言うと、わざとらしくほっぺたを膨らませた。
確かにあの不思議な夢を、メリーに教えることはできる。
だけど、それを彼女に伝えてしまった私は、本当に今の私のままでいられるだろうか。
今こうして考えている私は本物なのか、偽物なのか。もしかして、夢の中にいた私が本物じゃないのか――そう考えると頭が痛くなる。
少し気晴らしでもしたほうがいいんだろうかと、流れる窓の景色に視線を移した時だった。
「ほら、見えたわよ。あれじゃない?」
そう言ってメリーが指差した場所には――――
変な形をした塔と、山肌に沿って尾根まで続いている階段。その向こうに見える、古びた洋館と無数の廃屋。
死んだ街は、夕暮れの中で久しぶりの来客を待ちわびている。
ちりん
傾いた夕陽の中に吸い込まれる鈴の音が、やけに耳についた。
どこか聞き覚えのある音は、もしかするとその答えを知っているのかもしれない。
私たちは、どこに行くのだろう。
《おわり そして つづき》