さっき食べた朝ご飯を覚えていない。
さとりさまが作って下さったものなのに。
何が言いたいかというと、私は相当忘れっぽい。
そのうち親友のお燐や、主人のさとりさまのことも忘れてしまうのだろうか。ぼんやりと思った。
「ねえお燐さんや」
「ん?なんだいお空さんや」
「今日の朝ごはんなんだったかのう」
「えーっと、確か玉子かけご飯と焼き魚だったかな。今日のは、結構な焼き加減だったねえ」
そういえばそうだったかな。玉子かけご飯はあったかもしれない。おぼろげに思い出す。長いテーブルを小さく使ってとった朝食。さとりさまは、みんなが食べているのを見ているだけでお腹がいっぱいだと苦笑して何も食べなかった。玉子美味しいのに。
「なんかさ、私っていろんなこと忘れるよね」
ベッドの枕を抱き寄せる。やわらかくて、顔を埋めると安心した。視界が真っ暗になった。瞼の裏に浮かべる。お燐の顔、さとりさまの顔、まだ忘れてない。
「今更かい」
「そのうちお燐のことも忘れるのかな」
「別に気にやしないよ」
あんまりな言い方だったので、思わず枕から顔を上げた。
お燐は薄ピンクのネグリジェを着て、隣のベッドでごろごろしていて、本当に気にしてないようだった。私なら、もしお燐に忘れられたらかなしいと思う。そのときは死体になってお燐と仲良くしよう。
お燐はうつ伏せになると、顎を枕に乗せて、壁の染みを眺めながら言った。
「お空、別にあんたの忘れ癖は今に始まったことじゃない。でもあたいやさとり様のことは一度だって忘れたこと無いじゃないか。だから余計な心配はしなくて大丈夫だって」
「そうかなあ」
今日忘れていないことは、明日忘れるかもしれない。さっき食べた朝食を忘れたように。忘れたということすらも、忘れるかもしれない。
「そうそう」
お燐はなげやりにうなずいた。
「馬鹿なことは忘れて、明日に備えて寝るんだね」
お燐は布団を被って寝る体勢に入った。 延々と喋っていると朝になってしまうので、こうなったらお互い黙るのが礼儀だ。
このあいだの、私が暴走し、お燐が地上に怨霊を開放した騒ぎで、私たちには謹慎が言い渡された。その内容は同じ部屋で寝ることで、相互監視とさとり様はいっていたけど、正直意味がないと思う。だって親友なのだから、監視も何もあったもんじゃない。もしかしたら、さとりさまが気を使ってくださったのかな。
隣から、安らかな寝息が聞こえ始めた。私もそれにならうことにした。
歩くたびに、記憶がこぼれていく。私の頭はいっぱいのコップだ。大事なことは底の方に沈殿しているけれど、なにがきっかけでこぼれるかは分からない。
『三歩歩けば忘れる』
色々な人が私にそういった。たぶん言ったことがない人の方が少ないかもしれない。本当に三歩で忘れるのかな。自分では三十歩くらいまではもつ自信があるけれど。
「ねえ、もっと出力上げてよ」
「あ、ごめんなさい」
壁に嵌め込まれたガラス窓ごしに黒いショートカットの河童が睨んでいた。
間欠泉地下センター最下層の温度を上げるのが私の仕事だ。長細い穴の底で、見上げる空は小さい。壁はひび割れに金色の絵の具を流し込んだみたいな模様をしていた。暇なときにはその模様で、ぼんやりと結果のないあみだくじをする。
河童のセンター長は私がぼんやりしているとどやすのが仕事のようだった。
「今日のノルマまであと三十万キロジュールあるんだから、しっかりしてよね!」
センター長はぷりぷりと怒ってみせた。あまり迫力はない。
「センター長は、今朝何を食べたか覚えてますか」
ふと気になったことを聞いた。ちなみに私は覚えてない。
「なにをいきなり、お空じゃないんだからそんなこと覚えてるって。確か……」
最初は余裕の顔だったセンター長だが、次第に顔から自信が消えていく、頭をひねって思い出そうとしていた。黒いショートカットがゆらゆらと揺れる。
「ええと、かっぱ巻きか、きゅうりごはんだと思うんだけど…」
「覚えてないんですか。じゃあ昨日も、おとといも、」
「まあ、そういうことになるのかな。どうしたの、そんなに切羽詰まっちゃって。どうでもいいじゃんそんなこと。あっそうだ!昨日作った発明品なら覚えてるんだけど――」
しばらくセンター長は訳の分からない発明品について熱く語った。知らないカタカナ言葉が沢山出てきて、何を言っているのかさっぱりわからなかった。
どうでもいいことは忘れる。お燐はどうでもよくない。さとりさまもどうでもよくないし、地霊殿のみんなもどうでもよくない。
でも忘れていた、さとりさまが作ったごはんも決してどうでもよくなかった。お燐と出会ったあの日も、さとりさまに拾われたあの日も。どうでもいい思い出なんて無い。忘れたくない。でも……
警告音が鳴り、はっとした。発電施設が過剰な熱量に耐えかねて悲鳴を上げたのだ。ぼんやりしている間に、私はノルマの何倍もの働きをしていたらしい。
玄関を開けるとお燐が待ち構えていた。エントランスに向かう廊下で、ぼうっとこっちを見て立っていた。今は真冬だ。こんなところにいれば体が冷えるだろうに。
「どうしたの?こんなところで」
「いや、えっと、お空の帰りがあんまり遅いから。さとり様は大丈夫っていったんだけど」
お燐は珍しくしどろもどろだった。心配させたみたいだ。情けないことに、私にはそれが少し嬉しかった。
「ちょっとお仕事に気合入っちゃった」
腕をまくってみせると、お燐はあからさまな半目になった。信じてない様子だ。
「どうせまたぼさっとしてたんじゃないの」
「バレた?」
お燐は肩をすくめた。
「わかるさ、あんたのことだからね。どうせまたアホなこと悩んでたんでしょ」
「うぐっ、アホじゃないし…」
「悩んでるんなら、さとり様に話してみたらどうだい。心の問題ならさ」
お燐はそう言うと、エントランスの方にひっこんだ。なんだか元気がなかった。お燐にも悩みはあるのかな。言ってくれれば一緒に考えるのだけど。
私がさとりさまの部屋に押しかけると、一旦私を椅子に座らせて、さとりさまは私に温かい紅茶を淹れてくださった。色は透き通る琥珀色で、砂糖がたくさん入っていて、甘い、私好みの紅茶だった。心がすこし鎮まるのを感じる。
「例えば、あなたは目の前にあるものを忘れますか?」
さとりさまは、心を読んで前置きもなしに切り出す。
目の前の、小さい丸テーブルを挟んで座るさとりさまを今私は忘れるだろうか。それはないだろう。
「いいえ、でも目の前に無いものは忘れます」
そういうことが言いたいわけではないと、気持ちが前のめりになる。 私は大切なものを忘れたくない。心を見透す第三の目を睨んだ。
「多少の忘却は自然なことですよ。お空は少しそれが多いだけです。治そうとするのは悪いことではありませんが」
「そうなんでしょうか…」
思い出す、遠い日のこと。
お燐と初めて会った日。お燐はあろうことか私を捕食しようとした。突然岩陰から飛びついてきたお燐は、地獄烏の私の私の首に食らいつこうとした。私も必死になって、空に逃げた。もみあいになりながらも私がなんとか空中へ飛ぶと、お燐は私の腹にしがみついていた。腹を食い破られる覚悟をしたが、どうやら小さく震えていて、高いのが怖いようだった。
面白くなった私は、曲芸飛行を始めた。お燐を足でしっかりと支えると、縦横無尽に飛んだ。思いつく軌道はすべて試した。
最初は怖がっていたお燐だけど、だんだんと楽しくなってきたようで、暫くすると私にスピードを上げるようせがんだ。
私も楽しくなって、ぐんぐんとスピードを上げた。気がつくと二人は友達になっていた。
それからさとりさまに出会うまでは長い道のりだった。何度も獲物がなくて飢え死にしそうになったし、鬼の屋台で盗みをはたらいて殺されかけたこともあった。そのたびに二人で協力して乗り越えた。お燐が飢えそうになったときは、私が片足を差し出した。私が鬼に追いかけられた時は、お燐が囮になった。種族は違えど、いつも一緒だった。
確かめる思い出。 忘れていなかった。 胸の奥が暖かくなる。
でもそれは、目の前で起こっていることじゃない。
「私にはさとりさまの言うことはわかりません」
「今はそれでいいのです。そう遠くない日、きっと理解するでしょう。私が手伝えるのはここまでです」
さとりさまは温かい目をしていた。私は冷めた紅茶を一口飲んだ。
わかる日が来る、開き直るということだろうか。わからない。私のあたまは出来がよくないから。
「お空は賢いですよ。私が保証します」
「そんなことないです」
こんなことを悩む時点でで私のおつむは良くないだろう。それでも、主としての贔屓目でも、嬉しかった。さとりさまに褒められると何だってしたくなる。地上を滅ぼすことだって躊躇はしない。
「それはやめてください」
困ったように微笑んだ。たしかにさとりさまはそんなこと命令しないだろう。ごめんなさい。第三の目をじっと見つめて謝った。
「わかればいいんです。さて、そろそろ夕飯の準備をします」
「わかりました。相談に乗ってくださったこと、ありがとうございます」
言わなくても伝わるけど、感謝は口に出したかった。
紅茶を飲み干して私は立ち上がる。さとりさまが部屋を出るのにここにいる訳にはいかないだろう。
ふらふらと地霊殿を出て、目的もなく飛び回った。
気が付くと私は、地霊殿からも旧都からも離れた、地底のすみっこの岩場へと降り立っていた。寝転がると、背中に感じる冬の岩肌が固く冷たい。首を回すと、大小様々な黒い岩が転がっている。生の気配はない。静寂が質量を持っていた。
誰も来ない場所なので、昔さとりさまには内緒で人化の修行をしたとき、お燐とここに篭った。いまここに来て思い出したけれど、もう随分前のことだった。
まぶたを閉じて暗闇の奥を見つめる。
鮮明に、ここでお燐と修行をした日々が思い浮かぶ。焼却炉から盗み出した死体を食べて妖力を高め、ひたすら二本足で立つ感覚をイメージした。私には前足なんて無いし、しかも片足が無かったので余計に難しかった。それでも頑張った。お燐は足もあったし、器用なのですぐに出来てしまった。今では飄々としているけど、最初はものすごい勢いでよろこんで、ぴょんぴょんと岩肌を駆け回った。慣れない足で動きまわるものだから、すぐに転んで涙目になった。
なかなかできなかった私は焦った。お燐は一生懸命コツを説明して私を励ました。頭を重くしろとか、身体を枝分かれさせろとか、言っていることはよくわからなかったけど、お燐の声が折れかけた私を再起させた。きっとあの励ましがなければ私は一生ただの地獄烏だっただろう。
さとりさまに初めて人型の姿を見せた時は目を丸くして驚いた。読んでいた本を取り落とすくらいに。あんな姿はもう一生見れるかどうか。
暗闇の中で、額にぽつんと小さい感触。少し遅れて、その一点からひんやりとした感覚が広がる。雪が降ってきた。
あとどれくらいすれば、私を覆い尽くすほどに積もるだろうか。
「お空」
お燐の声が上から降ってきた。目を開くと、怒ったような、困ったような、変な顔のお燐が居た。
「なにやってんのさ」
わたしは何をやっているんだろう。自分でもよく分からない。確かめたかったのだろうか。忘れていること、覚えていること。
「修行」
「まだ悩んでるのかい」
「うん」
「ほんと、しょうがないやつだねえ。お空は」
一息つくと、お燐は言った。
「忘れるなんて、あるわけないだろう。こんなに近くにいたら、忘れようがないさ」
お燐は、まっすぐと私を見ていた。共にここで修行をしたあのときのように。下から見上げるお燐は大きかった。
さとりさまの言葉を思い出す。目の前にあるものは忘れない。そうかもしれない。いつだって大切なことは目の前にある。理解できたのかはわからなかったけど、きっと忘れない。妙な自信が胸の奥から湧いてくるのを感じた。お燐の言葉には不思議な力があった。
「そうかな」
気が付くと、私は憑物が落ちたような気持ちだった。止まっていた血流が心に流れ込むような、そんな感じがした。
本当に、お燐にはいつも助けてもらってばかりだ。
「お燐、顔赤いよ。大丈夫?」
「うぇ!?ええと、それはお空が変なこと言わせるから……そうだ!だいたいお空がこっ恥ずかしい悩み抱えてるのが悪い!こんなことを今更!」
「えー、ひどいなあ」
顔を真っ赤にしたお燐に、自然に力が抜けて、笑顔が浮かぶのを感じた。
「さあ、」
お燐は私に促した。
「今日の晩ごはんはハンバーグだ」
私は立ち上がろうとして、少し不安になった。
「明日になったら、今日食べたハンバーグも忘れるかな」
ハンバーグは私の好物だ。さとりさまも腕によりをかけるだろう。でも、食べ物のことはまた忘れるかもしれない。それがとても心苦しい。
「それはないね」
お燐は自信に満ち溢れた顔だった。私にはそれが不思議だった。
「なんで?」
「今日のハンバーグは特別製だからさ」
特別なハンバーグ。目玉焼きが乗っているとか、ソースが美味しいとかしか浮かばないけど。
降り注ぐ雪を背景にして、お燐が手を差し出した。
「あんたも一緒につくるんだよ」
私はお燐の手を取った。温かい体温を感じる。
立ち上がると、私たちは地霊殿に帰るために歩きだした。きっと、二人とも歩きたい気分だった。
今でもハンバーグの味は鮮明に覚えている。もちろん、それをみんなで食べたことも。
さとりさまが作って下さったものなのに。
何が言いたいかというと、私は相当忘れっぽい。
そのうち親友のお燐や、主人のさとりさまのことも忘れてしまうのだろうか。ぼんやりと思った。
「ねえお燐さんや」
「ん?なんだいお空さんや」
「今日の朝ごはんなんだったかのう」
「えーっと、確か玉子かけご飯と焼き魚だったかな。今日のは、結構な焼き加減だったねえ」
そういえばそうだったかな。玉子かけご飯はあったかもしれない。おぼろげに思い出す。長いテーブルを小さく使ってとった朝食。さとりさまは、みんなが食べているのを見ているだけでお腹がいっぱいだと苦笑して何も食べなかった。玉子美味しいのに。
「なんかさ、私っていろんなこと忘れるよね」
ベッドの枕を抱き寄せる。やわらかくて、顔を埋めると安心した。視界が真っ暗になった。瞼の裏に浮かべる。お燐の顔、さとりさまの顔、まだ忘れてない。
「今更かい」
「そのうちお燐のことも忘れるのかな」
「別に気にやしないよ」
あんまりな言い方だったので、思わず枕から顔を上げた。
お燐は薄ピンクのネグリジェを着て、隣のベッドでごろごろしていて、本当に気にしてないようだった。私なら、もしお燐に忘れられたらかなしいと思う。そのときは死体になってお燐と仲良くしよう。
お燐はうつ伏せになると、顎を枕に乗せて、壁の染みを眺めながら言った。
「お空、別にあんたの忘れ癖は今に始まったことじゃない。でもあたいやさとり様のことは一度だって忘れたこと無いじゃないか。だから余計な心配はしなくて大丈夫だって」
「そうかなあ」
今日忘れていないことは、明日忘れるかもしれない。さっき食べた朝食を忘れたように。忘れたということすらも、忘れるかもしれない。
「そうそう」
お燐はなげやりにうなずいた。
「馬鹿なことは忘れて、明日に備えて寝るんだね」
お燐は布団を被って寝る体勢に入った。 延々と喋っていると朝になってしまうので、こうなったらお互い黙るのが礼儀だ。
このあいだの、私が暴走し、お燐が地上に怨霊を開放した騒ぎで、私たちには謹慎が言い渡された。その内容は同じ部屋で寝ることで、相互監視とさとり様はいっていたけど、正直意味がないと思う。だって親友なのだから、監視も何もあったもんじゃない。もしかしたら、さとりさまが気を使ってくださったのかな。
隣から、安らかな寝息が聞こえ始めた。私もそれにならうことにした。
歩くたびに、記憶がこぼれていく。私の頭はいっぱいのコップだ。大事なことは底の方に沈殿しているけれど、なにがきっかけでこぼれるかは分からない。
『三歩歩けば忘れる』
色々な人が私にそういった。たぶん言ったことがない人の方が少ないかもしれない。本当に三歩で忘れるのかな。自分では三十歩くらいまではもつ自信があるけれど。
「ねえ、もっと出力上げてよ」
「あ、ごめんなさい」
壁に嵌め込まれたガラス窓ごしに黒いショートカットの河童が睨んでいた。
間欠泉地下センター最下層の温度を上げるのが私の仕事だ。長細い穴の底で、見上げる空は小さい。壁はひび割れに金色の絵の具を流し込んだみたいな模様をしていた。暇なときにはその模様で、ぼんやりと結果のないあみだくじをする。
河童のセンター長は私がぼんやりしているとどやすのが仕事のようだった。
「今日のノルマまであと三十万キロジュールあるんだから、しっかりしてよね!」
センター長はぷりぷりと怒ってみせた。あまり迫力はない。
「センター長は、今朝何を食べたか覚えてますか」
ふと気になったことを聞いた。ちなみに私は覚えてない。
「なにをいきなり、お空じゃないんだからそんなこと覚えてるって。確か……」
最初は余裕の顔だったセンター長だが、次第に顔から自信が消えていく、頭をひねって思い出そうとしていた。黒いショートカットがゆらゆらと揺れる。
「ええと、かっぱ巻きか、きゅうりごはんだと思うんだけど…」
「覚えてないんですか。じゃあ昨日も、おとといも、」
「まあ、そういうことになるのかな。どうしたの、そんなに切羽詰まっちゃって。どうでもいいじゃんそんなこと。あっそうだ!昨日作った発明品なら覚えてるんだけど――」
しばらくセンター長は訳の分からない発明品について熱く語った。知らないカタカナ言葉が沢山出てきて、何を言っているのかさっぱりわからなかった。
どうでもいいことは忘れる。お燐はどうでもよくない。さとりさまもどうでもよくないし、地霊殿のみんなもどうでもよくない。
でも忘れていた、さとりさまが作ったごはんも決してどうでもよくなかった。お燐と出会ったあの日も、さとりさまに拾われたあの日も。どうでもいい思い出なんて無い。忘れたくない。でも……
警告音が鳴り、はっとした。発電施設が過剰な熱量に耐えかねて悲鳴を上げたのだ。ぼんやりしている間に、私はノルマの何倍もの働きをしていたらしい。
玄関を開けるとお燐が待ち構えていた。エントランスに向かう廊下で、ぼうっとこっちを見て立っていた。今は真冬だ。こんなところにいれば体が冷えるだろうに。
「どうしたの?こんなところで」
「いや、えっと、お空の帰りがあんまり遅いから。さとり様は大丈夫っていったんだけど」
お燐は珍しくしどろもどろだった。心配させたみたいだ。情けないことに、私にはそれが少し嬉しかった。
「ちょっとお仕事に気合入っちゃった」
腕をまくってみせると、お燐はあからさまな半目になった。信じてない様子だ。
「どうせまたぼさっとしてたんじゃないの」
「バレた?」
お燐は肩をすくめた。
「わかるさ、あんたのことだからね。どうせまたアホなこと悩んでたんでしょ」
「うぐっ、アホじゃないし…」
「悩んでるんなら、さとり様に話してみたらどうだい。心の問題ならさ」
お燐はそう言うと、エントランスの方にひっこんだ。なんだか元気がなかった。お燐にも悩みはあるのかな。言ってくれれば一緒に考えるのだけど。
私がさとりさまの部屋に押しかけると、一旦私を椅子に座らせて、さとりさまは私に温かい紅茶を淹れてくださった。色は透き通る琥珀色で、砂糖がたくさん入っていて、甘い、私好みの紅茶だった。心がすこし鎮まるのを感じる。
「例えば、あなたは目の前にあるものを忘れますか?」
さとりさまは、心を読んで前置きもなしに切り出す。
目の前の、小さい丸テーブルを挟んで座るさとりさまを今私は忘れるだろうか。それはないだろう。
「いいえ、でも目の前に無いものは忘れます」
そういうことが言いたいわけではないと、気持ちが前のめりになる。 私は大切なものを忘れたくない。心を見透す第三の目を睨んだ。
「多少の忘却は自然なことですよ。お空は少しそれが多いだけです。治そうとするのは悪いことではありませんが」
「そうなんでしょうか…」
思い出す、遠い日のこと。
お燐と初めて会った日。お燐はあろうことか私を捕食しようとした。突然岩陰から飛びついてきたお燐は、地獄烏の私の私の首に食らいつこうとした。私も必死になって、空に逃げた。もみあいになりながらも私がなんとか空中へ飛ぶと、お燐は私の腹にしがみついていた。腹を食い破られる覚悟をしたが、どうやら小さく震えていて、高いのが怖いようだった。
面白くなった私は、曲芸飛行を始めた。お燐を足でしっかりと支えると、縦横無尽に飛んだ。思いつく軌道はすべて試した。
最初は怖がっていたお燐だけど、だんだんと楽しくなってきたようで、暫くすると私にスピードを上げるようせがんだ。
私も楽しくなって、ぐんぐんとスピードを上げた。気がつくと二人は友達になっていた。
それからさとりさまに出会うまでは長い道のりだった。何度も獲物がなくて飢え死にしそうになったし、鬼の屋台で盗みをはたらいて殺されかけたこともあった。そのたびに二人で協力して乗り越えた。お燐が飢えそうになったときは、私が片足を差し出した。私が鬼に追いかけられた時は、お燐が囮になった。種族は違えど、いつも一緒だった。
確かめる思い出。 忘れていなかった。 胸の奥が暖かくなる。
でもそれは、目の前で起こっていることじゃない。
「私にはさとりさまの言うことはわかりません」
「今はそれでいいのです。そう遠くない日、きっと理解するでしょう。私が手伝えるのはここまでです」
さとりさまは温かい目をしていた。私は冷めた紅茶を一口飲んだ。
わかる日が来る、開き直るということだろうか。わからない。私のあたまは出来がよくないから。
「お空は賢いですよ。私が保証します」
「そんなことないです」
こんなことを悩む時点でで私のおつむは良くないだろう。それでも、主としての贔屓目でも、嬉しかった。さとりさまに褒められると何だってしたくなる。地上を滅ぼすことだって躊躇はしない。
「それはやめてください」
困ったように微笑んだ。たしかにさとりさまはそんなこと命令しないだろう。ごめんなさい。第三の目をじっと見つめて謝った。
「わかればいいんです。さて、そろそろ夕飯の準備をします」
「わかりました。相談に乗ってくださったこと、ありがとうございます」
言わなくても伝わるけど、感謝は口に出したかった。
紅茶を飲み干して私は立ち上がる。さとりさまが部屋を出るのにここにいる訳にはいかないだろう。
ふらふらと地霊殿を出て、目的もなく飛び回った。
気が付くと私は、地霊殿からも旧都からも離れた、地底のすみっこの岩場へと降り立っていた。寝転がると、背中に感じる冬の岩肌が固く冷たい。首を回すと、大小様々な黒い岩が転がっている。生の気配はない。静寂が質量を持っていた。
誰も来ない場所なので、昔さとりさまには内緒で人化の修行をしたとき、お燐とここに篭った。いまここに来て思い出したけれど、もう随分前のことだった。
まぶたを閉じて暗闇の奥を見つめる。
鮮明に、ここでお燐と修行をした日々が思い浮かぶ。焼却炉から盗み出した死体を食べて妖力を高め、ひたすら二本足で立つ感覚をイメージした。私には前足なんて無いし、しかも片足が無かったので余計に難しかった。それでも頑張った。お燐は足もあったし、器用なのですぐに出来てしまった。今では飄々としているけど、最初はものすごい勢いでよろこんで、ぴょんぴょんと岩肌を駆け回った。慣れない足で動きまわるものだから、すぐに転んで涙目になった。
なかなかできなかった私は焦った。お燐は一生懸命コツを説明して私を励ました。頭を重くしろとか、身体を枝分かれさせろとか、言っていることはよくわからなかったけど、お燐の声が折れかけた私を再起させた。きっとあの励ましがなければ私は一生ただの地獄烏だっただろう。
さとりさまに初めて人型の姿を見せた時は目を丸くして驚いた。読んでいた本を取り落とすくらいに。あんな姿はもう一生見れるかどうか。
暗闇の中で、額にぽつんと小さい感触。少し遅れて、その一点からひんやりとした感覚が広がる。雪が降ってきた。
あとどれくらいすれば、私を覆い尽くすほどに積もるだろうか。
「お空」
お燐の声が上から降ってきた。目を開くと、怒ったような、困ったような、変な顔のお燐が居た。
「なにやってんのさ」
わたしは何をやっているんだろう。自分でもよく分からない。確かめたかったのだろうか。忘れていること、覚えていること。
「修行」
「まだ悩んでるのかい」
「うん」
「ほんと、しょうがないやつだねえ。お空は」
一息つくと、お燐は言った。
「忘れるなんて、あるわけないだろう。こんなに近くにいたら、忘れようがないさ」
お燐は、まっすぐと私を見ていた。共にここで修行をしたあのときのように。下から見上げるお燐は大きかった。
さとりさまの言葉を思い出す。目の前にあるものは忘れない。そうかもしれない。いつだって大切なことは目の前にある。理解できたのかはわからなかったけど、きっと忘れない。妙な自信が胸の奥から湧いてくるのを感じた。お燐の言葉には不思議な力があった。
「そうかな」
気が付くと、私は憑物が落ちたような気持ちだった。止まっていた血流が心に流れ込むような、そんな感じがした。
本当に、お燐にはいつも助けてもらってばかりだ。
「お燐、顔赤いよ。大丈夫?」
「うぇ!?ええと、それはお空が変なこと言わせるから……そうだ!だいたいお空がこっ恥ずかしい悩み抱えてるのが悪い!こんなことを今更!」
「えー、ひどいなあ」
顔を真っ赤にしたお燐に、自然に力が抜けて、笑顔が浮かぶのを感じた。
「さあ、」
お燐は私に促した。
「今日の晩ごはんはハンバーグだ」
私は立ち上がろうとして、少し不安になった。
「明日になったら、今日食べたハンバーグも忘れるかな」
ハンバーグは私の好物だ。さとりさまも腕によりをかけるだろう。でも、食べ物のことはまた忘れるかもしれない。それがとても心苦しい。
「それはないね」
お燐は自信に満ち溢れた顔だった。私にはそれが不思議だった。
「なんで?」
「今日のハンバーグは特別製だからさ」
特別なハンバーグ。目玉焼きが乗っているとか、ソースが美味しいとかしか浮かばないけど。
降り注ぐ雪を背景にして、お燐が手を差し出した。
「あんたも一緒につくるんだよ」
私はお燐の手を取った。温かい体温を感じる。
立ち上がると、私たちは地霊殿に帰るために歩きだした。きっと、二人とも歩きたい気分だった。
今でもハンバーグの味は鮮明に覚えている。もちろん、それをみんなで食べたことも。
毎日がお空にとって大切な思い出になるといいなあ。
舌足らずな地の文が可愛い。
お空の気持ちをストレートに文章にしているからでしょうか。
心が揺さぶられました。
お空と、作者に感謝
じんわりきました
これぞおくうだという気がしました
非常に面白かったです
学ばせて頂きます。感謝!
とても暖かくてほっこりさせていただきました
私も見習いたいものです。
すごく良い
ありがとうございました