どかんと一撃、破壊音が館を震わせた。
その後にしんと静寂がしみわたる。
紫色の少女は、読んでいた本から目を離した。
そういえば昨日の夕食の席で、門番がとっておきの新作の御札を大事そうに懐に入れていたことを思い出す。
せっかくの新作は、門番本体とともにはかなく散ったようだ。
「本当に頼りないのね……」
本にしおりを挟むと、図書館に備え付けられた仮眠用のベッドから身を起こす。
起きがけに、ひとつ小さく咳をする。
ふう、とため息をついて、少女は図書館の入口を見つめた。
紫色の瞳は、大好きな読書を邪魔されたのでご機嫌斜め。
淡い紫色のネグリジェにナイトキャップ。こぼれて流れるこれも紫色の髪が、気だるげに揺れる。
戸棚に向かい、来客用のティーカップとティースプーンを用意する。
砂糖はいつも3つ。その不敵な態度に似合わず、彼女は甘党だった。
鈴を鳴らしてメイドを呼ぼうとして、少女は手にした鈴をテーブルに戻した。
図書館の扉が勢いよく開け放たれたから。
「よう、今日も来たぜ」
「ようこそ。歓迎はしないけど」
「そりゃないぜ。歓迎してくれよ」
「猫イラズはどこかにないかしら」
はは、と苦笑して、不法侵入者は箒を本棚に立てかけ、つば広の黒い帽子を脱ぐ。
さもすっきりしたように、彼女は目を細めてふるふると頭を大きく振る。
波打つ金の糸が、彼女の香りを運んできた。
「あれ、パチェは紅茶に3つも砂糖を入れたっけ?」
「宗旨替えよ。悪い?」
「太るぞ?」
「……魔理沙はどうなのよ」
「私はいつも駆け回っているからな。ま、紅茶は遠慮なくご馳走になるぜ」
テーブルの上の呼び鈴は、侵入者の手によって鳴らされた。
S T E P B Y S T E P
ここ最近のヴワル魔法図書館は、黒白の魔法使いの来訪に悩まされていた。
存在しないはずの稀覯本、禁書、珍書の数々に魔法使いが魅了されないはずがない。
いくら門番が管理者が止めても聞かないわがままな魔法使いは、図書室の本を散らかしては勝手に持って行く。
管理者もメイド長も、その後始末にため息しきりである。
そして今日も、魔法使いは知識の宝庫を徘徊する。
ひとしきり本を流し読み、あさって、一冊を管理者が座る大きな机の上に置く。
「なあパチェ、この植物図鑑だけどさ」
「それは禁書よ。持ってかないで」
「そりゃないぜ」
「そもそもそこに載っている草はこの幻想郷には存在しない。読んでも魔理沙には役に立たないわ」
「じゃあ何でここにこんな本があるんだよ」
「知識がここにあることの意味を問うても無駄よ」
「じゃあパチェもそうなのか? 何しろ名前自体が知識っていうしな」
「魔理沙は魔理沙が今この時にここにいる意味がわかるの?」
「レミリアあたりなら知ってそうだぜ」
「何でも運命で片付けるのは思考の放棄よ。感心しないわ」
「何だよ、教えてくれよ」
「自分の存在の意味くらい自分で探しなさいな」
「ちぇっ」
魔理沙がわざとらしく頬を膨らませてすねたふりをする。
それを完全に無視して、パチュリーは読みかけの本に目を戻した。
今では読むことができないはずの、失われた古代の文字。
パチュリーの瞳は、まるで蝶が舞うようにそれを読み解いていく。
この難解な魔導書のために、1箇月をかけて他の本を引きに引いて入念な準備をしたのだ。
この至福の時を邪魔されてなるものか。
「退屈じゃないか?」
「そうでもないわ」
「退屈だぜ」
「……」
「……」
「……」
「たーいーくーつーだーぜー」
「……」
徹底した無視に、やがて魔理沙は机を離れてどこかに歩いていった。
「勝手に本や物をいじらないで」
返答はない。訝しげに思いつつも、瞳は文字を離すことができなかった。
それが、油断だった。
「なんと、この霧雨魔理沙、パチェのぱんつを発見したぜ」
「なっ……!」
「洗濯物はため込んじゃいけないぜ。ほうほうドロワーズ以外も持ってるんだな。何と、これはくまさんじゃないか」
「ち、ちょっ…… 魔理沙!」
ベッドの脇の籠をあさる魔理沙に駆け寄り、力いっぱい押しのける。
「おわっ」とベッドの上に倒れ込んだ魔理沙が、勢い余って反対側に転げ落ちた。
「何してんのよ!」
「何ってそりゃパチェの趣味を確かめ」
「ばかっ!」
「いいなこれ。私は毎日何かしらで箒に乗るから持ってるのはドロワーズだけだが、パチェがこんなかわいいぱんつを持ってるなんて知らなかったぜ」
起き上がった魔理沙の両手でびろんと広げられる純白のぱんつ。
柔らかい綿生地、おなかのところに小さな紫色のリボンがあるだけのシンプルな作り。
パチュリーの密かなお気に入り。
「魔理沙……!」
紫の瞳の色が瞬間に深くなった。
少女の眼前の空中に、忽然と魔導書が現れた。
何もしないのにページが狂い踊りめくられていく。
「パ、パチェ落ち着けよ!」
「落ち着けるものですか! 許さないから!」
パチュリーの右手に掲げられた御札から、緑色の閃光があふれ流れた。
瞬く間に図書館中を差し尽くす。
「わ、わ、わ、パチェ、待って、く」
寸前で箒を握り締めた。
またがる間もなく弾幕は発動した。
「土・金符『エメラルドメガリス』!」
「うっわいきなりそれかよっ!」
光り輝く大小の緑の奔流がまだ飛び立てない魔理沙の周囲を取り囲み……
消滅した。
「こほっ、こほっ」
「……パチェ?」
急に動き、いきなり大きな魔法を使ったことで、身体にかなりの負担がかかったのだろう。突然の喘息の発作に集中を欠いた魔法はその力を失った。
パチュリーは咳き込みながらうずくまってしまう。
「パチェ、大丈夫か?」
「……」
「ちょっと待ってろ。今水持ってく」
「出てって」
「……え?」
「出てってよ」
「パ、パチェ」
「けほっ…… 邪魔よ! 今すぐ出てって!」
しゃがみこんで叫び声、すぐにまた咳き込む。紫の髪が苦しそうに乱れる。
魔理沙はパチュリーを数瞬見やり、すぐにきびすを返した。
漆黒の帽子をかぶり、図書館を出る。
もしかしたら、帽子をいつもより少しだけ深くかぶっていたかもしれなかった。
その日の図書館の扉は、ゆっくりと開いた。
目を向けるまでもなく、先に声がかけられた。
「パチュリーさま、お食事の用意ができました」
「……あら、もうそんな時間かしら」
「陽もとうに沈みましたよ。本日はどちらで?」
「今日は調子もいいし、食卓に行くわ。ありがとう、咲夜」
しおりを挟んだ魔道書を携えて、パチュリーは少し大き目の椅子から下りる。
食事の時くらい、と何度口をすっぱくしても止めない彼女に、時と食卓を司るメイド長は心の奥でそっとため息をついた。
口をついて出たのは全然関係ないことだった。
「そういえば、最近魔理沙が来ませんね」
「……そうね」
全く関心がなさそうに、パチュリーは歩き出す。
少し急ぎ足でパチュリーに追いついた咲夜は、うやうやしく扉を押し開ける。
「最後に来てからもう十数日になりますよ」
「そうだったかしら」
「あれだけ来ていたのに…… 何か、あったんですか?」
「知らないわ」
こういう時に平静に答える心の準備はできていた。
まさかあの一件を言う訳にはいかない。
「いいんじゃないかしら? 咲夜も門番も仕事が減って」
「その代わり、フランドールさまのご機嫌が芳しくありません」
「そういえばいい遊び相手だったわね…… 魔理沙の家に行ってみたら?」
「まさかフランドールさまの遊び相手を求めるわけにもいきませんわ」
「それもそうね」
そのまましばし、廊下を歩く二人の足音だけが響く。
その静寂の中、ふとパチュリーは気付いた。
食卓には、当然フランドールもいることに。
「……こほ」
「パチュリーさま?」
「けほっ。何かやっぱり調子があんまりよくないみたい」
「白湯などお飲みになりますか?」
「そうね、とりあえず今日はやっぱり部屋でいただくことにするわ。ごめんなさいね」
レミリアはともかくフランドールに質問攻めにされるのはまっぴらである。
パチュリーは、返事も待たずにくるりと部屋に戻っていったのであった。
数日後。
パチュリーが入浴を済ませて浴場から出てくると、赤い髪が洗面台の前で踊っていた。
髪をとかしていた彼女が、鏡越しにパチュリーに微笑みかける。
この館の門番だ。
「パチュリー様、いらっしゃいましたか」
くしを置き、快活に笑う。
くすんだ緑色の異国風の衣装。
半袖からすらりと伸びた二の腕は、パチュリーの繊細なそれとは比べものにならない力を繰り出すことができる。
単純な力比べならば、吸血鬼のレミリアにもそうは劣るまい。
確か気功法と言ったか、今度関連する資料を読んでみるのもいいかしらと一瞬思いつき、そしてそういえば半年ほど前にそう思ってすぐに忘れてしまっていたことをパチュリーは思い出した。今日のこの思いつきもまたすぐに忘れてしまうことだろう。
「お加減はいかがですか」
「いいお湯だったわ」
「いえ、パチュリー様ですよ。最近食卓にいらっしゃらないものですから、余りすぐれないのかと」
心配そうな顔。
結局パチュリーは、最後に魔理沙が来た日から一度も食卓についていない。
咲夜のみならずレミリアも、時々訪れては具合を尋ねている。
面々がそれなりに気にしているのだった。
悪くはない、との答に、門番はまたにっこりと笑った。
そして、ふと思いついたようにパチュリーに尋ねた。
「そういえばパチュリー様、最近あの人間の魔法使いが来ませんね」
「……そうね」
「何かあったんでしょうか?」
「知らないわ」
「前回、思い起こせば20日ほど前、私はあの憎き人間の魔法使いから不覚にも門を守るという勤めを果たせませんでした。けれども、今度こそはと再起を誓い、また新しい術を開発したんですよ」
「それはよかったわね」
また同じ結果になるんじゃないかしら、とのパチュリーの心の声を聞く術を門番は持ち合わせていないかった。
彼女は懐からまた新しい赤い御札を出し、何とかに説法ですが、などとわけのわからないことを言いつつ、その効果を説明し始めたのだった。
くしゅん、と小さくくしゃみをして、パチュリーはベッドに深くもぐりこむ。
門番が半刻も説明を続けたので、パチュリーはすっかり湯冷めをしてしまったのだ。
まあそもそも話が長引いたのは、パチュリーがこらえきれずに弾幕の何たるかを講釈したことと大いに関係があるのだが、今ごろあの門番は咲夜からきついお叱りを受けていることだろう。
「やれやれだわ」
ひとりごち、パチュリーは魔導書のページをめくる。
咲夜に止められてはいるが、それで止まるような愛書家ではない。
風邪とは、労わられながらゆっくりと本を読める絶好の機会ではないか。
けれども、身体の奥から湧き出つつある熱っぽさは、すぐにパチュリーの集中力を溶かしていった。
抵抗もままならず、まぶたが震え、紫色の瞳が潤んで揺れていく。
“……何でみんな魔理沙のことを私に訊くの”
呟きは枕に吸い込まれ、意識も闇に飲み込まれた。
羽根ペンが紙の上を走る音だけが空気にしみこんでいく。
この日も、図書館は静かであった。
十日ほど経って、ようやくパチュリーの体調もよくなった。
机に座って魔導書を繰りつつノートに物書きをするパチュリーに、小悪魔がカーディガンをそっと羽織らせる。
「病み上がりですからご無理をなさらずに」
「ありがとう」
それでもペンは止まることなく、読み終えたこの魔導書に足りない記述を補完する。
フィスタンダンティラスという古の偉大な魔導師が著したものらしい。
パチュリーの見立てでは、充実した良書であるが、いくつかの記述には齟齬があり、いくつかの問題は解明されており、いくつかの部分で脱漏があるように思えた。
知識を司る彼女の意味はまさにここにある。
彼女はこうして古の知を集積し、管理し、さらに練成して残していく。
そのまま数刻の時が過ぎ、彼女は、もう幾度もそうしてきたように、今日の日付と、そして知を表す自らの名を、ノートの最後に刻んだのだった。
「……ふう」
ひとつ大きく息をつき、傍らのティーカップに手を伸ばす。
すっかり冷めてしまった紅茶はストレート、執筆をする時はいつも、この最後に味わう苦味が彼女を現実の世界へと引き戻してくれるのだった。
羽根ペンをペン立てに差し、インク瓶の蓋を閉める。
何気ない所作のひとつひとつに、充実感が残り香を添える。
少しだけ昂った心をなだめるように、パチュリーは両の手のひらでうっすらと朱の差した頬を包む。
手に隠れる前の彼女の顔は、少しだけ微笑みを刻んでいた。
そのままひとり呆として数刻。
いつの間にか陽が傾いてきていることに気付き、パチュリーは立ち上がる。
立ち上がって、別に何をする予定もないことに気付く。
また椅子に身体を預けた。
知識を司る彼女のことである。当然に今自分に訪れているこの状態がどういうものであるかは、十分に理解している。
けれども、その果てのない空間に収まった無限の蔵書に囲まれて、愛書家はついぞそんなことを思うことはなかった。
いや、思いたくはなかった。
それは、パチュリーの自己認識に関わることであったから。
「……退屈だわ」
声に出してみて、百年以上自分が積み重ねてきた認識が他ならぬ自分の一言で無に帰され、パチュリーは顔をしかめる。
目を擦り、ひとつ伸びをし、苦い紅茶をまた口にした。
そんなことをしても時間に花が添えられるわけもない。
パチュリーは手持ち無沙汰に、見慣れた部屋の中を見回してみる。
ふと、少し離れた仮眠用ベッドに目が止まる。
その傍に置かれた籠は空っぽ。
言われたからではないが、あれから洗濯物をためることはなくなっていた。
無言でベッドに歩み寄り、腰掛ける。
紫色の髪が物憂げに、何事かを囁いたように思えた。
それに答えたわけではないけれど、かつて枕に吸い込まれた呟きは、今度はかき消えることはなかったのだった。
「……もう怒ってないから、来たっていいのに」
魔法は、発動した。
突然、空気に魔力が満ちた。尋常ではない気配にはっとしてパチュリーは振り返る。
そこには本棚があるだけ。
「外かしら?」
その方角は館の門。
びりびりと震えたぎる魔力の奔流。その色をパチュリーは知っていた。
まだ大して生きてもいないくせに生意気にも「恋」などと知った風な名を御札につけた、黒白の魔法使いの色。
魔力の波動は星の光のようなきらめきと鋭さを備えて駆け巡る。
その流れを追おうとして夢中になりかけ、パチュリーはぶんぶんと首を振る。
戸棚からティーカップとティースプーンを取り出した。忘れていない、砂糖は3つ。
そして素早くテーブルの呼び鈴を鳴らす。今なら咲夜が来るはずだ。
図書館の扉が勢いよく開け放たれた。
「よう、来たぜ」
「遅かったわね」
「何かあの門番がいろいろと工夫してきてな。ちょっとばかし苦戦したぜ」
「珍しいこともあるものね。あなたが苦戦するなんて」
「ちょっとばかしだけだぜ」
「お座りなさいな。お茶は今来るわ」
「お待たせいたしました、パチュリーさま」
いきなり現れた咲夜に、魔理沙がびくっとして身を引いた。
咲夜はそれを見て瀟洒に微笑んだ。
「いいかげん慣れなさいな、魔理沙」
「私の周りではそんなしょっちゅう時間は止まらないぜ」
「それはそうかもしれないわね」
「まあ紅茶は遠慮なくいただくぜ」
手荷物を床に、自分はどっかと机の前のソファに腰を落とし、魔理沙はようやく一息ついた。
「あの門番も来るたびに何か工夫しているな。妖怪にしては珍しい努力家だぜ」
「当館の門番の技量の進歩に一番貢献しているあなたには、上司としてお礼を言わなければならないかしら」
「だったらもう少し歓迎してくれてもいいんじゃないか?」
「その代わりに館の修繕費を請求するわ」
「ちぇっ」
久しぶりだからというわけでもないだろうが、咲夜と魔理沙の会話が弾む。
パチュリーは、魔理沙が持ってきた荷物が気になっていた。
いつも魔理沙は手ぶらか空の袋しか持ってこない。
もちろんそれは本を詰めてのお持ち帰り用。
「魔理沙、その荷物は何なの?」
「おおパチュリー、よくぞ訊いてくれたぜ」
大袈裟に両手を広げると、魔理沙は中身をあさる。
取り出したのは、何かの植物だった。
白い花をつけ、濃い緑色の葉のふちは紫色。
根っこについたままの土を袋で包んであった。
「どうだパチュリー、採ってきたぜ」
「え……?」
眼前に突き出されたそれを、パチュリーはまじまじと見詰める。
何か妙な臭いがして、パチュリーは眉をひそめた。どこかで見たような気がする。
咲夜もそれを覗き込み、しばし首をひねる。
「あっ」
「あっ」
一瞬だけパチュリーが早かったのは面目躍如。
「それって…… あの図鑑の」
「そうだぜ。香霖に訊いたら、ドクダミというらしいな」
「でもパチュリーさま、ドクダミは幻想郷にはありません。私がかつていた……」
「魔理沙、境界を越えたのね」
得意げに頷き、魔理沙はさらに荷物をあさる。
「割れてたら門番を恨むぜ…… よし」
出したのは乾燥させた茶葉が入った瓶だった。
「ドクダミ茶…… かしら?」
「そうだぜ。自生地を探すのに手間取っちまってな」
「それはそうよ。向こうの世界を知らないのに、買うならともかく自前でなんて……」
「行ってみたら結構生えてたぜ」
咲夜に微笑みかけ、魔理沙は改めてパチュリーの方に向き直る。
葉を裏返したり花弁を覗き込んだりしていたパチュリーは、何を慌てることもないのに居住まいを正した。
「パチェ、このお茶は喘息に効くらしいんだ。毎晩寝る前に飲むといいらしい」
「え……?」
「他にも強心とか、いろんな効用があるらしいぜ。パチェは身体があんまり強くないだろ。飲んでくれると嬉しいぜ」
「そのためにわざわざ境界を越えて……?」
「あのスキマ妖怪には苦労したぜ」
悪戯っぽく笑う魔理沙に、どういう顔をしたらいいのかわからない。
ああきっと今絶対に変な顔をしている。
「さ、咲夜」
「何でしょう?」
「咲夜はこのお茶を知ってるの?」
「ええ、存じております。向こうの世界では健康品として比較的人気があったものですわ」
「なら…… ほら、やっぱりせっかくだから淹れてくれないかしら?」
「かしこまりました」
「パチェ、寝る前でいいって言ったんだが」
「い、今飲みたいの」
「今淹れてまいります」
咲夜の姿が瞬時にかき消え、後に残された二人。久しぶりに、二人きり。
卓上時計の時を刻む音が、妙に大きく聞こえる。
「あの」
「なあ」
同時に口を開いてしまい、また押し黙る。
咲夜に言ってこの時計の音を止めてもらわないと。
沈黙を破るのは、やはり魔理沙だった。
「だーっ、こういうのは何かこそばゆいぜ。苦手だぜ」
大声にびっくりしたパチュリーをおいて、魔理沙は椅子から身を外す。
「この前は悪かったな、パチェ」
「な……」
「ちょっとやりすぎたのは謝るぜ。悪かった」
「え、ま、魔理沙。私だって」
「パチェが怒るのも無理ないさ。ごめんな、パチェ」
頭を下げた魔理沙に自分が当惑しているのがわかる。
けれど、こういう時にどうしたらいいかくらいはパチュリーは当然知っている。
わかっている。
「魔理沙、私も」
言いかけて、魔理沙の手が目に入った。
かさかさに荒れて、とても少女のものとは見えない手。
およそ魔法使いは色々な物をいじるので、肌にいい職業とは言いがたいけれど。
もしかして、このドクダミなる植物をいじりすぎて、こうなってしまったのだろうか。
無言で身を翻し、ベッドの傍らのナイトテーブルへ。
不思議そうに見やる魔理沙を手招きしつつ、引き出しを開けた。
取り出した瓶には乳白色のクリーム。
「痛々しくて見ていられないわ。手を出しなさい」
「え、いいぜこんなの。職業病だぜ」
「よくないわ。出しなさい」
「うう」
「咲夜特製よ。メイドたちの激務を支えている。効果は保証するわ」
おずおずと差し出された手にクリームを塗り込んだ。
何度も何度も薄く伸ばして、よく染み込んでいくように。
この小さい手のひらが、元気になるように。
何度も、何度も。
「なあ、パチェ」
「何よ」
「かたっぽだけやりすぎじゃないかと思うぜ」
はっとして魔理沙を見る。
もしかして同じ手だけを。ずっと。
はは、とばつの悪そうな顔をして、魔理沙がうつむく。
パチュリーがそれに耐えられるはずもなく、やっぱりうつむく。
ベッドに腰掛けて、うつむく二人。
「お待たせいたしました、パチュリーさま…… あ」
時を司る割にはタイミングの悪い咲夜の登場であった。
ようやく落ち着いたパチュリーは、自分の場所である机に腰を落とした。
咲夜が淹れてきたドクダミ茶を口にする。
「ぐ」
「あ、パチェ…… 遅かったか」
「パチュリーさま、ドクダミ茶は少々苦いかと」
「少々どころじゃないわね……」
「でも、身体にはいいぜ」
「良薬口に苦しとはこのことかしら」
まずそうに、パチュリーはドクダミ茶をまた口に運ぶ。
魔理沙がそれを見て、嬉しそうに笑った。
それにつられて、パチュリーも微笑んだ。
お茶は、苦かったけれど。
「ああ、私の意味が少しだけわかったぜ」
「え?」
「いや、こっちの話だぜ。気にしないでくれ」
「そ、そう」
「とりあえずパチェが元気に笑えるように、私はいろいろ探してみることにするぜ」
「え、え」
「そうやってパチュリーさまに変な薬を飲ませたら承知しませんからね」
「月の薬師よりはましなものを作るぜ」
「どうでしょうかねぇ」
「あ、あの、魔理沙」
急に立ち上がったパチュリーに、二人の視線が注がれる。
パチュリーの声は、もう決してかき消えない。
「ありがとう。うれしいわ」
「……照れるぜ」
「……照れないでよ」
「しょうがないだろ。慣れてないんだから」
「私だって慣れてないわ」
そんな二人を眺め、咲夜は穏やかに微笑む。
そっとその場を去ろうと力を発動させる瞬間、床に落ちていた袋を見つけた。
丁寧に折り畳まれていたそれを拾い、開ける。
「あっ、さ、咲夜それは……」
慌てて止めようとする魔理沙の手は空振り。
中から一枚、はらりと落ちたもの。
「あ、あらまあ、これは」
「あの、それはだな、この前に間違えて持って行ってしまって、返す機会がなくて」
柔らかい綿の生地、おなかのところに小さな紫色のリボンがあるだけのシンプルな作りの、ぱんつ。
「……魔理沙」
「パチェ、これはだな」
「信じられない」
「いや、だからその…… ちゃんと洗ったから」
「そういう問題じゃないわ!」
その後、ぼろぼろになってふらふらと館から飛び去る黒白の魔法使いがいたとかいなかったとか。
さらにその後、この館の裏庭に、白い花を咲かせる深緑色の植物が植えられ、妙な臭いを撒き散らすようになったとかならなかったとか。
これは、魔法を手にする二人が手を取り合ってともに歩く、ほんの少し前の物語。
その後にしんと静寂がしみわたる。
紫色の少女は、読んでいた本から目を離した。
そういえば昨日の夕食の席で、門番がとっておきの新作の御札を大事そうに懐に入れていたことを思い出す。
せっかくの新作は、門番本体とともにはかなく散ったようだ。
「本当に頼りないのね……」
本にしおりを挟むと、図書館に備え付けられた仮眠用のベッドから身を起こす。
起きがけに、ひとつ小さく咳をする。
ふう、とため息をついて、少女は図書館の入口を見つめた。
紫色の瞳は、大好きな読書を邪魔されたのでご機嫌斜め。
淡い紫色のネグリジェにナイトキャップ。こぼれて流れるこれも紫色の髪が、気だるげに揺れる。
戸棚に向かい、来客用のティーカップとティースプーンを用意する。
砂糖はいつも3つ。その不敵な態度に似合わず、彼女は甘党だった。
鈴を鳴らしてメイドを呼ぼうとして、少女は手にした鈴をテーブルに戻した。
図書館の扉が勢いよく開け放たれたから。
「よう、今日も来たぜ」
「ようこそ。歓迎はしないけど」
「そりゃないぜ。歓迎してくれよ」
「猫イラズはどこかにないかしら」
はは、と苦笑して、不法侵入者は箒を本棚に立てかけ、つば広の黒い帽子を脱ぐ。
さもすっきりしたように、彼女は目を細めてふるふると頭を大きく振る。
波打つ金の糸が、彼女の香りを運んできた。
「あれ、パチェは紅茶に3つも砂糖を入れたっけ?」
「宗旨替えよ。悪い?」
「太るぞ?」
「……魔理沙はどうなのよ」
「私はいつも駆け回っているからな。ま、紅茶は遠慮なくご馳走になるぜ」
テーブルの上の呼び鈴は、侵入者の手によって鳴らされた。
S T E P B Y S T E P
ここ最近のヴワル魔法図書館は、黒白の魔法使いの来訪に悩まされていた。
存在しないはずの稀覯本、禁書、珍書の数々に魔法使いが魅了されないはずがない。
いくら門番が管理者が止めても聞かないわがままな魔法使いは、図書室の本を散らかしては勝手に持って行く。
管理者もメイド長も、その後始末にため息しきりである。
そして今日も、魔法使いは知識の宝庫を徘徊する。
ひとしきり本を流し読み、あさって、一冊を管理者が座る大きな机の上に置く。
「なあパチェ、この植物図鑑だけどさ」
「それは禁書よ。持ってかないで」
「そりゃないぜ」
「そもそもそこに載っている草はこの幻想郷には存在しない。読んでも魔理沙には役に立たないわ」
「じゃあ何でここにこんな本があるんだよ」
「知識がここにあることの意味を問うても無駄よ」
「じゃあパチェもそうなのか? 何しろ名前自体が知識っていうしな」
「魔理沙は魔理沙が今この時にここにいる意味がわかるの?」
「レミリアあたりなら知ってそうだぜ」
「何でも運命で片付けるのは思考の放棄よ。感心しないわ」
「何だよ、教えてくれよ」
「自分の存在の意味くらい自分で探しなさいな」
「ちぇっ」
魔理沙がわざとらしく頬を膨らませてすねたふりをする。
それを完全に無視して、パチュリーは読みかけの本に目を戻した。
今では読むことができないはずの、失われた古代の文字。
パチュリーの瞳は、まるで蝶が舞うようにそれを読み解いていく。
この難解な魔導書のために、1箇月をかけて他の本を引きに引いて入念な準備をしたのだ。
この至福の時を邪魔されてなるものか。
「退屈じゃないか?」
「そうでもないわ」
「退屈だぜ」
「……」
「……」
「……」
「たーいーくーつーだーぜー」
「……」
徹底した無視に、やがて魔理沙は机を離れてどこかに歩いていった。
「勝手に本や物をいじらないで」
返答はない。訝しげに思いつつも、瞳は文字を離すことができなかった。
それが、油断だった。
「なんと、この霧雨魔理沙、パチェのぱんつを発見したぜ」
「なっ……!」
「洗濯物はため込んじゃいけないぜ。ほうほうドロワーズ以外も持ってるんだな。何と、これはくまさんじゃないか」
「ち、ちょっ…… 魔理沙!」
ベッドの脇の籠をあさる魔理沙に駆け寄り、力いっぱい押しのける。
「おわっ」とベッドの上に倒れ込んだ魔理沙が、勢い余って反対側に転げ落ちた。
「何してんのよ!」
「何ってそりゃパチェの趣味を確かめ」
「ばかっ!」
「いいなこれ。私は毎日何かしらで箒に乗るから持ってるのはドロワーズだけだが、パチェがこんなかわいいぱんつを持ってるなんて知らなかったぜ」
起き上がった魔理沙の両手でびろんと広げられる純白のぱんつ。
柔らかい綿生地、おなかのところに小さな紫色のリボンがあるだけのシンプルな作り。
パチュリーの密かなお気に入り。
「魔理沙……!」
紫の瞳の色が瞬間に深くなった。
少女の眼前の空中に、忽然と魔導書が現れた。
何もしないのにページが狂い踊りめくられていく。
「パ、パチェ落ち着けよ!」
「落ち着けるものですか! 許さないから!」
パチュリーの右手に掲げられた御札から、緑色の閃光があふれ流れた。
瞬く間に図書館中を差し尽くす。
「わ、わ、わ、パチェ、待って、く」
寸前で箒を握り締めた。
またがる間もなく弾幕は発動した。
「土・金符『エメラルドメガリス』!」
「うっわいきなりそれかよっ!」
光り輝く大小の緑の奔流がまだ飛び立てない魔理沙の周囲を取り囲み……
消滅した。
「こほっ、こほっ」
「……パチェ?」
急に動き、いきなり大きな魔法を使ったことで、身体にかなりの負担がかかったのだろう。突然の喘息の発作に集中を欠いた魔法はその力を失った。
パチュリーは咳き込みながらうずくまってしまう。
「パチェ、大丈夫か?」
「……」
「ちょっと待ってろ。今水持ってく」
「出てって」
「……え?」
「出てってよ」
「パ、パチェ」
「けほっ…… 邪魔よ! 今すぐ出てって!」
しゃがみこんで叫び声、すぐにまた咳き込む。紫の髪が苦しそうに乱れる。
魔理沙はパチュリーを数瞬見やり、すぐにきびすを返した。
漆黒の帽子をかぶり、図書館を出る。
もしかしたら、帽子をいつもより少しだけ深くかぶっていたかもしれなかった。
その日の図書館の扉は、ゆっくりと開いた。
目を向けるまでもなく、先に声がかけられた。
「パチュリーさま、お食事の用意ができました」
「……あら、もうそんな時間かしら」
「陽もとうに沈みましたよ。本日はどちらで?」
「今日は調子もいいし、食卓に行くわ。ありがとう、咲夜」
しおりを挟んだ魔道書を携えて、パチュリーは少し大き目の椅子から下りる。
食事の時くらい、と何度口をすっぱくしても止めない彼女に、時と食卓を司るメイド長は心の奥でそっとため息をついた。
口をついて出たのは全然関係ないことだった。
「そういえば、最近魔理沙が来ませんね」
「……そうね」
全く関心がなさそうに、パチュリーは歩き出す。
少し急ぎ足でパチュリーに追いついた咲夜は、うやうやしく扉を押し開ける。
「最後に来てからもう十数日になりますよ」
「そうだったかしら」
「あれだけ来ていたのに…… 何か、あったんですか?」
「知らないわ」
こういう時に平静に答える心の準備はできていた。
まさかあの一件を言う訳にはいかない。
「いいんじゃないかしら? 咲夜も門番も仕事が減って」
「その代わり、フランドールさまのご機嫌が芳しくありません」
「そういえばいい遊び相手だったわね…… 魔理沙の家に行ってみたら?」
「まさかフランドールさまの遊び相手を求めるわけにもいきませんわ」
「それもそうね」
そのまましばし、廊下を歩く二人の足音だけが響く。
その静寂の中、ふとパチュリーは気付いた。
食卓には、当然フランドールもいることに。
「……こほ」
「パチュリーさま?」
「けほっ。何かやっぱり調子があんまりよくないみたい」
「白湯などお飲みになりますか?」
「そうね、とりあえず今日はやっぱり部屋でいただくことにするわ。ごめんなさいね」
レミリアはともかくフランドールに質問攻めにされるのはまっぴらである。
パチュリーは、返事も待たずにくるりと部屋に戻っていったのであった。
数日後。
パチュリーが入浴を済ませて浴場から出てくると、赤い髪が洗面台の前で踊っていた。
髪をとかしていた彼女が、鏡越しにパチュリーに微笑みかける。
この館の門番だ。
「パチュリー様、いらっしゃいましたか」
くしを置き、快活に笑う。
くすんだ緑色の異国風の衣装。
半袖からすらりと伸びた二の腕は、パチュリーの繊細なそれとは比べものにならない力を繰り出すことができる。
単純な力比べならば、吸血鬼のレミリアにもそうは劣るまい。
確か気功法と言ったか、今度関連する資料を読んでみるのもいいかしらと一瞬思いつき、そしてそういえば半年ほど前にそう思ってすぐに忘れてしまっていたことをパチュリーは思い出した。今日のこの思いつきもまたすぐに忘れてしまうことだろう。
「お加減はいかがですか」
「いいお湯だったわ」
「いえ、パチュリー様ですよ。最近食卓にいらっしゃらないものですから、余りすぐれないのかと」
心配そうな顔。
結局パチュリーは、最後に魔理沙が来た日から一度も食卓についていない。
咲夜のみならずレミリアも、時々訪れては具合を尋ねている。
面々がそれなりに気にしているのだった。
悪くはない、との答に、門番はまたにっこりと笑った。
そして、ふと思いついたようにパチュリーに尋ねた。
「そういえばパチュリー様、最近あの人間の魔法使いが来ませんね」
「……そうね」
「何かあったんでしょうか?」
「知らないわ」
「前回、思い起こせば20日ほど前、私はあの憎き人間の魔法使いから不覚にも門を守るという勤めを果たせませんでした。けれども、今度こそはと再起を誓い、また新しい術を開発したんですよ」
「それはよかったわね」
また同じ結果になるんじゃないかしら、とのパチュリーの心の声を聞く術を門番は持ち合わせていないかった。
彼女は懐からまた新しい赤い御札を出し、何とかに説法ですが、などとわけのわからないことを言いつつ、その効果を説明し始めたのだった。
くしゅん、と小さくくしゃみをして、パチュリーはベッドに深くもぐりこむ。
門番が半刻も説明を続けたので、パチュリーはすっかり湯冷めをしてしまったのだ。
まあそもそも話が長引いたのは、パチュリーがこらえきれずに弾幕の何たるかを講釈したことと大いに関係があるのだが、今ごろあの門番は咲夜からきついお叱りを受けていることだろう。
「やれやれだわ」
ひとりごち、パチュリーは魔導書のページをめくる。
咲夜に止められてはいるが、それで止まるような愛書家ではない。
風邪とは、労わられながらゆっくりと本を読める絶好の機会ではないか。
けれども、身体の奥から湧き出つつある熱っぽさは、すぐにパチュリーの集中力を溶かしていった。
抵抗もままならず、まぶたが震え、紫色の瞳が潤んで揺れていく。
“……何でみんな魔理沙のことを私に訊くの”
呟きは枕に吸い込まれ、意識も闇に飲み込まれた。
羽根ペンが紙の上を走る音だけが空気にしみこんでいく。
この日も、図書館は静かであった。
十日ほど経って、ようやくパチュリーの体調もよくなった。
机に座って魔導書を繰りつつノートに物書きをするパチュリーに、小悪魔がカーディガンをそっと羽織らせる。
「病み上がりですからご無理をなさらずに」
「ありがとう」
それでもペンは止まることなく、読み終えたこの魔導書に足りない記述を補完する。
フィスタンダンティラスという古の偉大な魔導師が著したものらしい。
パチュリーの見立てでは、充実した良書であるが、いくつかの記述には齟齬があり、いくつかの問題は解明されており、いくつかの部分で脱漏があるように思えた。
知識を司る彼女の意味はまさにここにある。
彼女はこうして古の知を集積し、管理し、さらに練成して残していく。
そのまま数刻の時が過ぎ、彼女は、もう幾度もそうしてきたように、今日の日付と、そして知を表す自らの名を、ノートの最後に刻んだのだった。
「……ふう」
ひとつ大きく息をつき、傍らのティーカップに手を伸ばす。
すっかり冷めてしまった紅茶はストレート、執筆をする時はいつも、この最後に味わう苦味が彼女を現実の世界へと引き戻してくれるのだった。
羽根ペンをペン立てに差し、インク瓶の蓋を閉める。
何気ない所作のひとつひとつに、充実感が残り香を添える。
少しだけ昂った心をなだめるように、パチュリーは両の手のひらでうっすらと朱の差した頬を包む。
手に隠れる前の彼女の顔は、少しだけ微笑みを刻んでいた。
そのままひとり呆として数刻。
いつの間にか陽が傾いてきていることに気付き、パチュリーは立ち上がる。
立ち上がって、別に何をする予定もないことに気付く。
また椅子に身体を預けた。
知識を司る彼女のことである。当然に今自分に訪れているこの状態がどういうものであるかは、十分に理解している。
けれども、その果てのない空間に収まった無限の蔵書に囲まれて、愛書家はついぞそんなことを思うことはなかった。
いや、思いたくはなかった。
それは、パチュリーの自己認識に関わることであったから。
「……退屈だわ」
声に出してみて、百年以上自分が積み重ねてきた認識が他ならぬ自分の一言で無に帰され、パチュリーは顔をしかめる。
目を擦り、ひとつ伸びをし、苦い紅茶をまた口にした。
そんなことをしても時間に花が添えられるわけもない。
パチュリーは手持ち無沙汰に、見慣れた部屋の中を見回してみる。
ふと、少し離れた仮眠用ベッドに目が止まる。
その傍に置かれた籠は空っぽ。
言われたからではないが、あれから洗濯物をためることはなくなっていた。
無言でベッドに歩み寄り、腰掛ける。
紫色の髪が物憂げに、何事かを囁いたように思えた。
それに答えたわけではないけれど、かつて枕に吸い込まれた呟きは、今度はかき消えることはなかったのだった。
「……もう怒ってないから、来たっていいのに」
魔法は、発動した。
突然、空気に魔力が満ちた。尋常ではない気配にはっとしてパチュリーは振り返る。
そこには本棚があるだけ。
「外かしら?」
その方角は館の門。
びりびりと震えたぎる魔力の奔流。その色をパチュリーは知っていた。
まだ大して生きてもいないくせに生意気にも「恋」などと知った風な名を御札につけた、黒白の魔法使いの色。
魔力の波動は星の光のようなきらめきと鋭さを備えて駆け巡る。
その流れを追おうとして夢中になりかけ、パチュリーはぶんぶんと首を振る。
戸棚からティーカップとティースプーンを取り出した。忘れていない、砂糖は3つ。
そして素早くテーブルの呼び鈴を鳴らす。今なら咲夜が来るはずだ。
図書館の扉が勢いよく開け放たれた。
「よう、来たぜ」
「遅かったわね」
「何かあの門番がいろいろと工夫してきてな。ちょっとばかし苦戦したぜ」
「珍しいこともあるものね。あなたが苦戦するなんて」
「ちょっとばかしだけだぜ」
「お座りなさいな。お茶は今来るわ」
「お待たせいたしました、パチュリーさま」
いきなり現れた咲夜に、魔理沙がびくっとして身を引いた。
咲夜はそれを見て瀟洒に微笑んだ。
「いいかげん慣れなさいな、魔理沙」
「私の周りではそんなしょっちゅう時間は止まらないぜ」
「それはそうかもしれないわね」
「まあ紅茶は遠慮なくいただくぜ」
手荷物を床に、自分はどっかと机の前のソファに腰を落とし、魔理沙はようやく一息ついた。
「あの門番も来るたびに何か工夫しているな。妖怪にしては珍しい努力家だぜ」
「当館の門番の技量の進歩に一番貢献しているあなたには、上司としてお礼を言わなければならないかしら」
「だったらもう少し歓迎してくれてもいいんじゃないか?」
「その代わりに館の修繕費を請求するわ」
「ちぇっ」
久しぶりだからというわけでもないだろうが、咲夜と魔理沙の会話が弾む。
パチュリーは、魔理沙が持ってきた荷物が気になっていた。
いつも魔理沙は手ぶらか空の袋しか持ってこない。
もちろんそれは本を詰めてのお持ち帰り用。
「魔理沙、その荷物は何なの?」
「おおパチュリー、よくぞ訊いてくれたぜ」
大袈裟に両手を広げると、魔理沙は中身をあさる。
取り出したのは、何かの植物だった。
白い花をつけ、濃い緑色の葉のふちは紫色。
根っこについたままの土を袋で包んであった。
「どうだパチュリー、採ってきたぜ」
「え……?」
眼前に突き出されたそれを、パチュリーはまじまじと見詰める。
何か妙な臭いがして、パチュリーは眉をひそめた。どこかで見たような気がする。
咲夜もそれを覗き込み、しばし首をひねる。
「あっ」
「あっ」
一瞬だけパチュリーが早かったのは面目躍如。
「それって…… あの図鑑の」
「そうだぜ。香霖に訊いたら、ドクダミというらしいな」
「でもパチュリーさま、ドクダミは幻想郷にはありません。私がかつていた……」
「魔理沙、境界を越えたのね」
得意げに頷き、魔理沙はさらに荷物をあさる。
「割れてたら門番を恨むぜ…… よし」
出したのは乾燥させた茶葉が入った瓶だった。
「ドクダミ茶…… かしら?」
「そうだぜ。自生地を探すのに手間取っちまってな」
「それはそうよ。向こうの世界を知らないのに、買うならともかく自前でなんて……」
「行ってみたら結構生えてたぜ」
咲夜に微笑みかけ、魔理沙は改めてパチュリーの方に向き直る。
葉を裏返したり花弁を覗き込んだりしていたパチュリーは、何を慌てることもないのに居住まいを正した。
「パチェ、このお茶は喘息に効くらしいんだ。毎晩寝る前に飲むといいらしい」
「え……?」
「他にも強心とか、いろんな効用があるらしいぜ。パチェは身体があんまり強くないだろ。飲んでくれると嬉しいぜ」
「そのためにわざわざ境界を越えて……?」
「あのスキマ妖怪には苦労したぜ」
悪戯っぽく笑う魔理沙に、どういう顔をしたらいいのかわからない。
ああきっと今絶対に変な顔をしている。
「さ、咲夜」
「何でしょう?」
「咲夜はこのお茶を知ってるの?」
「ええ、存じております。向こうの世界では健康品として比較的人気があったものですわ」
「なら…… ほら、やっぱりせっかくだから淹れてくれないかしら?」
「かしこまりました」
「パチェ、寝る前でいいって言ったんだが」
「い、今飲みたいの」
「今淹れてまいります」
咲夜の姿が瞬時にかき消え、後に残された二人。久しぶりに、二人きり。
卓上時計の時を刻む音が、妙に大きく聞こえる。
「あの」
「なあ」
同時に口を開いてしまい、また押し黙る。
咲夜に言ってこの時計の音を止めてもらわないと。
沈黙を破るのは、やはり魔理沙だった。
「だーっ、こういうのは何かこそばゆいぜ。苦手だぜ」
大声にびっくりしたパチュリーをおいて、魔理沙は椅子から身を外す。
「この前は悪かったな、パチェ」
「な……」
「ちょっとやりすぎたのは謝るぜ。悪かった」
「え、ま、魔理沙。私だって」
「パチェが怒るのも無理ないさ。ごめんな、パチェ」
頭を下げた魔理沙に自分が当惑しているのがわかる。
けれど、こういう時にどうしたらいいかくらいはパチュリーは当然知っている。
わかっている。
「魔理沙、私も」
言いかけて、魔理沙の手が目に入った。
かさかさに荒れて、とても少女のものとは見えない手。
およそ魔法使いは色々な物をいじるので、肌にいい職業とは言いがたいけれど。
もしかして、このドクダミなる植物をいじりすぎて、こうなってしまったのだろうか。
無言で身を翻し、ベッドの傍らのナイトテーブルへ。
不思議そうに見やる魔理沙を手招きしつつ、引き出しを開けた。
取り出した瓶には乳白色のクリーム。
「痛々しくて見ていられないわ。手を出しなさい」
「え、いいぜこんなの。職業病だぜ」
「よくないわ。出しなさい」
「うう」
「咲夜特製よ。メイドたちの激務を支えている。効果は保証するわ」
おずおずと差し出された手にクリームを塗り込んだ。
何度も何度も薄く伸ばして、よく染み込んでいくように。
この小さい手のひらが、元気になるように。
何度も、何度も。
「なあ、パチェ」
「何よ」
「かたっぽだけやりすぎじゃないかと思うぜ」
はっとして魔理沙を見る。
もしかして同じ手だけを。ずっと。
はは、とばつの悪そうな顔をして、魔理沙がうつむく。
パチュリーがそれに耐えられるはずもなく、やっぱりうつむく。
ベッドに腰掛けて、うつむく二人。
「お待たせいたしました、パチュリーさま…… あ」
時を司る割にはタイミングの悪い咲夜の登場であった。
ようやく落ち着いたパチュリーは、自分の場所である机に腰を落とした。
咲夜が淹れてきたドクダミ茶を口にする。
「ぐ」
「あ、パチェ…… 遅かったか」
「パチュリーさま、ドクダミ茶は少々苦いかと」
「少々どころじゃないわね……」
「でも、身体にはいいぜ」
「良薬口に苦しとはこのことかしら」
まずそうに、パチュリーはドクダミ茶をまた口に運ぶ。
魔理沙がそれを見て、嬉しそうに笑った。
それにつられて、パチュリーも微笑んだ。
お茶は、苦かったけれど。
「ああ、私の意味が少しだけわかったぜ」
「え?」
「いや、こっちの話だぜ。気にしないでくれ」
「そ、そう」
「とりあえずパチェが元気に笑えるように、私はいろいろ探してみることにするぜ」
「え、え」
「そうやってパチュリーさまに変な薬を飲ませたら承知しませんからね」
「月の薬師よりはましなものを作るぜ」
「どうでしょうかねぇ」
「あ、あの、魔理沙」
急に立ち上がったパチュリーに、二人の視線が注がれる。
パチュリーの声は、もう決してかき消えない。
「ありがとう。うれしいわ」
「……照れるぜ」
「……照れないでよ」
「しょうがないだろ。慣れてないんだから」
「私だって慣れてないわ」
そんな二人を眺め、咲夜は穏やかに微笑む。
そっとその場を去ろうと力を発動させる瞬間、床に落ちていた袋を見つけた。
丁寧に折り畳まれていたそれを拾い、開ける。
「あっ、さ、咲夜それは……」
慌てて止めようとする魔理沙の手は空振り。
中から一枚、はらりと落ちたもの。
「あ、あらまあ、これは」
「あの、それはだな、この前に間違えて持って行ってしまって、返す機会がなくて」
柔らかい綿の生地、おなかのところに小さな紫色のリボンがあるだけのシンプルな作りの、ぱんつ。
「……魔理沙」
「パチェ、これはだな」
「信じられない」
「いや、だからその…… ちゃんと洗ったから」
「そういう問題じゃないわ!」
その後、ぼろぼろになってふらふらと館から飛び去る黒白の魔法使いがいたとかいなかったとか。
さらにその後、この館の裏庭に、白い花を咲かせる深緑色の植物が植えられ、妙な臭いを撒き散らすようになったとかならなかったとか。
これは、魔法を手にする二人が手を取り合ってともに歩く、ほんの少し前の物語。
かわいらしい二人の未来に幸あれ。
まさか図鑑からあの健康飲料に行き着く流れはとてもよくできてると思った
そしてオチ&その手前もGood Job!魔女二人に末広がりな幸多き未来あれ
魔理沙との自然な会話がものすごくツボに嵌りました
ただ私には、パチェと呼ぶのはレミリアのみというイメージがあったので
そこに違和感が。
そもそも、この設定ってどこにあったんだったかな・・