白と黒とそれらが複雑に交じり合ったような統一感のない灰色。見上げた空は一面モノクロで覆われている。そんな中、遥か遠くでその隙間から漏れ出た陽の光が、天から神でも舞い降りてくるのではないだろうかと思えるような神々しさを見せていた。
「ひもじい……」
思っていたことが口に出た。それもこれも全部この鬱々とした雨雲のせいだ。きっとそうに違いない。そう考えると余計に空腹感が増してくる。
最後に満腹になるまで食べたのは一体どれ程前のことだろう。何十年……それよりももっと前かも知れない。小傘は記憶の中、遠い過去へと思いを馳せる。が、
ぽつり。
それを邪魔するように雨粒が腕に当たる。
ぽつり。ぽつり。ぽつり。
雨粒の落ちる間隔が瞬く間に短くなっていく。今までサボっていた雨雲が自分の仕事を思い出したのか、突然の大雨。気持ちは沈む一方である。
小傘は傘越しに恨めしそうに空を見上げ――
「うぅ、ひもじい……」
――もう一度、呟いた。
地上を覆いつくす雨音のノイズ。普段は忙しなく飛回る鳥や、賑やかにはしゃぎ回る人の子も、今では身を潜めてしまっている。一見ひっそりとした印象を与える景色とは打って変わって、世界は雨音が五月蝿いほどに耳の奥を揺さぶっていた。
小傘は雨脚の強まる中、人里の上空をふらふらと当てもなく飛び回る。
誰か驚いてくれる人……もとい、驚かせ甲斐のある人はいないだろうか。そんなことを考えるが、見える影は少ない。
「おや、あれは……」
ふと、見覚えのある人影を視界の隅に見つけた。赤と白の巫女服。もしかしなくても以前に小傘が驚かせようとした博麗神社の巫女だった。
「あの時は失敗したけど、今度こそ……」
決意を言葉に変え、小傘は巫女姿の女性に近づこうとし、思い止まる。
驚かせる?
どうやって?
以前やったように弾幕勝負?
……あの時は痛かったなぁ。
小傘はもう一度巫女を見た。
「あれ?」
見ると、巫女は傘を忘れたのか、民家の軒先で憂鬱そうな顔で空を仰いでいる。
「雨宿りかしら。雨雲の出てる日に傘を持ち歩かないなんて間抜けねぇ。傘があることのありがたさを思い知ると良いわ」
そして小傘は閃いた。
そうだ、私が傘に化ければ良いじゃない。きっと喜んで私をさして帰るわ。そしたら途中で妖怪に戻ってあの巫女を驚かせてやろう。きっとそれはもう、腰を抜かして驚くに違いない。うん、完璧かつ素晴らしいアイデアだわ。
小傘は満面の笑みを浮かべると、躍る心を抑えて巫女へと近づいた。
――※――
「はぁ……」
こぼれた溜息は辺り一面に反響する雨音に掻き消された。鼓膜を揺らす雑音は大きくなるばかりで、一向に止む気配を見せない。この分では夕方までにやむのは期待できないだろう。
紙の破けた傘を修理に出した帰りに雨に濡れるのも些か間抜けな話だなと、霊夢は自分の事ながらそう思った。
ここからなら香霖堂へ行って霖之助さんから傘を借りたほうが良いかも知れない。と、霊夢が思い始めた時だった。隣で『ぱしゃっ』と水の跳ねる音。見ると、紫色の傘が一本、不自然に地面に落ちている。
「……」
霊夢は無言で辺りを確認するが、人影は見当たらない。もう一度傘を見る。どこかで目にしたような傘だ。それこそ、以前宝船を追いかけて行った時に途中で出くわした化け傘を髣髴とさせるような……そこまで思い返して、もう一度傘に目をやる。どこからどう見てもあのときの化け傘に思えて仕方がない。
「はぁ……」
霊夢はまた溜息を吐いた。自分が差して帰っている途中で妖怪の姿に戻って驚かせるつもりなのだろうか。
訝しげな顔で霊夢は傘を拾い上げる。空と傘を交互に見て再び溜息。
「背に腹は変えられないわね」
まぁ、途中で元に戻ろうものなら痛い目を見せれば良いだけだろう。そう思いながら霊夢は傘を開いた。
開かれたそれはボロボロで、所々に虫食いの穴があり、その小さな穴越しに薄っすらと光が見えていた。
「やれやれ……」
呟くと激しい雨の中へと足を一歩踏み出す。地面に溜まった水が音を立てて靴の周囲で跳ねる。
霊夢は神社へと続く道を歩き出した。
――※――
ぽっ、ぽっ、ぽっ……雨が落ち。当たり。弾ける。
言葉はなく、聞こえるのは雨音と一人分の足音。五月蝿いはずなのに、時が止まってしまったかのような静けささえ覚える。
小傘はどのタイミングで妖怪に戻ろうかと考え始める。幸い、巫女は自分の正体には気づいていない様に見える。これなら絶対に驚かせる事が出来るに違いない。
それにしても、こうして人に道具として使ってもらうなんて一体いつ以来だろう。巫女の手から伝わってくる暖かさが妙に心地良い。それが嬉しくて、もし今、自分が妖怪の姿をしていたらにやけた顔になっていたかも知れない。そう思った。
反響する雨音、体に当たってはじける雨音、濡れた地面を踏み鳴らす足音、それらは一定のリズムで繰り返される。
あれほど五月蝿いと感じたそれらも、今は耳心地の良いものなっていた。
小傘は無性に鼻歌を口ずさみたくなったが、そうすると巫女に正体がばれてしまうので我慢した。
無言の時間は続く。
ふと、いつ驚かせるか考えていたのをすっかり忘れていたことに気づく。と同時に、もうしばらくこのままでも良いかなと思い、再び思考停止。小傘はただぼんやりとモノクロの天井を眺めた。相変わらず不景気な色合いだが、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
自然と瞼が落ちる。意識が深い場所へと沈んでいく感覚をぼんやりと感じながら、小傘はそのまま目を閉じた。
そして意識は雨音も届かないどこか遠くへと――
――※――
「……」
霊夢は風呂上りの濡れた髪をタオルで拭きながら玄関を眺めていた。そこには紫色の和傘が一つ一丁ハジキで陰干しされている。
自身の予想とは裏腹に、何事もなく神社へと辿り着いた。自分の思い過ごしだったのだろうかと思ったりもしたが、傘からは確かに妖怪の気配が感じ取れる。
その後、食事を摂り、洗濯を済ませ、雑事を片付け、後は寝るだけとなっても、一向に傘が行動を起こすような気配はない。
霊夢は傘に残った水滴を拭き取ると、傘を閉じ、縁側の風通しの良い場所へ吊るした。
「一体何なのかしらね」
ぼやいてみて、ふと、これだとまるで異変が起こるのを期待しているみたいではないかと、霊夢はばつが悪そうに頭を掻いた。
「あ~、寝よ。寝よ」
思考を振り切るように口にして、霊夢は部屋の中へと入る。
障子を閉めようとして、もう一度傘を見た。それは湿気った風に吹かれ、微かに振り子のように揺れていた。
障子は閉じられた――
――※――
体を撫でられる感触がくすぐったかった。
いつの間にか寝てしまっていたようだ。小傘が目を覚ますと、そこには見知らぬ光景が広がっていた。どうにか今の状況を整理してみる。どうやらここは神社で、巫女に濡れた体を乾拭きしてもらっている最中らしい。
自分を風通しの良い場所に吊るすと、巫女は独り言を呟いて寝室へと入っていく。
巫女が手入れの仕方を知っていたことに感心しつつ、すっかり驚かせるタイミングを逃してしまったなと思った。
静まり返った縁側で、小傘は妖怪の姿へと戻った。
見上げた空は、未だに無数の涙を地上へと零し続けている。
「はぁ、どうしようかなぁ」
呟いてみるが答えが返ってくるはずもない。あれほど驚かせたかった巫女も、道具として丁寧に扱ってもらった今では、とてもそんな気分にはなれなかった。
「驚かせ損ねちゃったなぁ」
そう口にしたときだった。
「ふーん。やっぱり驚かせるつもりだったのね」
「ひゃああああああああああ」
突如、後ろからかけられた声に思わず腰を抜かした。
「って、あんたが驚いてどうすんのよ」
振り返ると、巫女が呆れた顔をして立っている。
「い、いきなり後ろから声をかけられたら誰だって驚くわよ! ……はっ、今度からこうやって驚かせれば良いのね!」
「今時そこまで大げさに驚くやつなんてそうはいないわよ」
巫女は溜息を吐いてこちらを見る。
「……」
「……」
沈黙。こういう時にどう話せば良いのか、うまく言葉が見つけられずに目を伏せた。
「ねぇ……」
巫女が口を開く。小傘は顔を上げて巫女の顔を見た。
「今日は助かったわ。ありがとう」
巫女は微笑みながらそう言った。それはあまりにも突然の不意打ちで、捨てられた自分が道具として誰かに感謝されるなんて想像できただろうか……。必死に平静さを装おうとするが、どうしてもにやけてしまう口元を見られるのが嫌で、思わず顔を逸らした。
驚かせ損なった筈なのに、何故か満腹な気分だった。
「別に助けようと思ったわけじゃないわ」
照れ臭くて、後ろを向いたまま小傘はそう言った。
「そう、ところで、傘を修理に出してて、うちには傘が一本もないのよねぇ」
「ふ、ふーん、それで……」
「修理が終わるまでうちに居てくれると助かるのよねぇ」
小傘はゆっくりと振り返る。
「私で良いの?」
「他に誰がいるのよ」
「ぇ……っと……」
「霊夢よ。博麗霊夢」
巫女が名乗る。それに続けて小傘も名乗った。
「私は小傘。多々良小傘」
――※――
「何だ何だ? 霊夢、また妙なのに懐かれてるな」
黒い三角帽が印象的な少女は面白そうにそう言った。
雨の降る境内、里へ出かけようと外へ出た霊夢と小傘の前に二人の客人。
「魔理沙……それにアリスまで。二人して何の用よ。また異変でも見つけたわけ? それとも今から起こすのかしら?」
「いいや、野暮用さ。そしたら面白い光景が見えたからな」
やたら饒舌な魔理沙と呼ばれた少女の後ろで、何故かじっとりと羨ましそうな視線をこちらへ向けているのがアリスなのだろう。
「霊夢~。遊びに来てやったわ」
ふと、また別の客人の声。妖怪の間では有名な人物なので、小傘にもそれが誰かはすぐに分かった。
「何よレミリア。あんたも来たの……吸血鬼なんだから雨の日くらいおとなしくしてなさいよ」
霊夢が面倒臭そうに言う。
「あら、せっかく来てあげたのにずいぶんな物言いね。まっ、霊夢だから許してあげるわ。そんなことより……」
レミリアは小傘を睨みつけた。
「そこの化け傘、霊夢の隣は私のものよ。今すぐ私と換わりなさい」
ふわり。傘が地面に落ちる。
落としたのは今までレミリアの横で傘を差していたメイドだった。
「お嬢様は私と傘に入るのはお嫌なのですね」
メイドはわざとらしく両手を顔に当てる。
遮るものがなくなった雨は、流水を苦手とする吸血鬼の上に容赦なく降り注いだ。
「痛い、痛い痛い。咲夜! 雨! 雨が体に当たって……」
「でも、お嬢様は私と一緒では……」
「良い。全然良いわ。むしろ咲夜じゃなきゃ駄目ね。だから早く傘……」
そう言いながら、レミリアの手は落ちた傘へと伸びる。が、その手が傘を握ることはなかった。
いつの間に傘を拾ったのだろうか。気がつけば咲夜と呼ばれたメイドは何事も無かったかのように、晴れ晴れとした顔でレミリアの横に立って傘を差していた。
レミリアが恨めしそうな視線をこちらを向けていた。
「……何やってんのよ」
呆れながら言う霊夢の腕に小傘は自分の腕を絡めると、
「ささっ、あんなのは放って置いて早く行きましょう。霊夢さん」
そう言って引っ張った。
「ちょっと、そんなにくっ付いたら歩き難いじゃない」
「何言ってるんですか。くっつかないと霊夢さんが濡れてしまうじゃないですか」
弾む声に足取りは軽い。
腕を伝う温もりを感じながら小傘は思った。もう少し、この雨が続きますように。
願わくは……そう、願わくはもう暫くの間、この幸福を――
――せめて、この雨が上がるまでは。
博麗神社
咲夜さんw梅雨の時期と相まって面白かったです
うん、これはよいものですね!
咲夜さん容赦ないなw
雨上がりの空のように綺麗にまとまっていて良かったです。
あと、咲夜さん何やってんですか。
素敵なお話ありがとうございました
純粋に傘として使ってもらうことを嬉しがってる小傘可愛いです。
物を大事に扱うと恩返しがあるんだな~。
ありがとうございました。
真摯な小傘ちゃんが愛らしい!