歴史というものは編纂する者の視点によって大きく左右されるものだ。
私の友人は日頃そのことをよく口にする。
それゆえに歴史の編纂に携わる者はその重責に耐えねばならず、軽々しくも歴史を書に著すなどといってはいけない。
歴史というものは、筋書きのない演劇を観ている客が後々それを思い出すためにつけた備忘録のようなもので、その内容は個々に様々であり真と偽が入り乱れるものである、と。
その友人は今、私の傍らで寝息を立てて眠っている。
***
私の歴史はいささか冗長ではある。
しかし、このような体になるまではそこらの村娘と変わらぬ毎日を送っていた。
平和な、言ってしまえば抑揚のない生活までいちいち話していたら夜が明けてしまう。
幼い頃の話などは退屈に余るものだろうから簡潔にまとめるのが上策だろう。
私の歴史、つまるところ私の人生は決して光差すものではなかった。
生まれながらの醜顔は父と母を遠ざけ、乳母ですら私を疎んじた。
それでも私が家にいられたのは、彼らに一欠片の良心があったからだと思われる。
思えばそれが私にもたらされた唯一の奇跡であり、また全ての罪業の始まりでもあった。
幼少の頃、私の家を一人の陰陽師が訪ねてきたことがある。
その陰陽師は私の父と母にこう告げて帰った。
「この家には忌み子がいる。家に置いては良くないことが起きるだろう」
陰陽師の言うことは絶対であった時代。
私は半ば強制的に里の分家に移された。それでも私は親を恨まなかった。
むしろ、感謝したいくらいであった。
主家で冷遇されていた私だったが、分家では上手く馴染めたからだ。
とりわけ分家のあった里では身分による格差が特になかったことも奏功し、遊び友達に不自由することもなかった。
分家筋の人間、私の親族は決して優しい人間ではなかったが、私を邪険にすることなく自由にさせていた。
私の境遇を知ってか知らずか、大抵のことに目をつむってくれていた。
そのおかげか私の毎日は昔のそれと一転していた。
日が昇れば里の子供達と遊び、日が暮れれば家に戻る。
そんな楽しい生活を私は送っていた。
主家の姉妹が蝶よ花よと育てられていた中で、私だけが奔放に生きていたのだ。
そんな生活が数年続いた。
そして私の歴史の中で、唯一無二の転回点が訪れる。
それは夏が終わり、秋という季節がやってきてからのこと。
ある日私は、父がとある貴族の娘に求婚をし、断られたという噂を聞いた。
その話を聞いた私は親族の連中を問いただす。
「どういうことですか? 父が求婚をして断られたというのは本当なのですか?」
「あぁ、実際には貴族の娘でなく、農民の娘という話らしい。よくも家名に泥を塗ってくれたものだ」
「農民の娘。その者はどこにいるのです。教えてください」
その当時、女はかく在れといわれた姿から程遠かった私は本当に直情的だった。
親族から聞いた場所は主家からさほど遠くない山にあり、私はその農家の娘の顔を拝んでやろうとそこに向かった。
忘れもしない十五夜。憎き月の姫との邂逅の日。
農家の娘はカグヤと呼ばれていた。
私がかの山に着いた頃には、既に農家は立派な庄屋になっており、カグヤはその中に閉じこもっていた。
家の周りは近衛の者が昼夜を問わず警備していたため、私は近くの竹林で夜が来るのを待った。
闇夜に乗じて家に忍び込む、そのはずだった。
その夜、私は家の物陰から見てしまう。
夜空に煌々と輝く巨大な月。
その月から下り来る、月の従者たち。
不思議な牛車で天を駆け、地に足をつけずに歩く彼らを、近衛とそれから私は微動だにすることもできずにただ眺めていた。
手も足も少しも動かすことはできない。
目蓋を閉じようとしても、目じりが少し震える程度しか動かない。
ただ細く息をしながら、家から出てくるあの姫を見ているに過ぎなかった。
それが彼らの力によるものだということは、知る由もなかった。
まだ、私はか弱き人間の小娘だったからだ。
**
「お久しぶりね。エイリン」
カグヤの前でかしずく女は彼女にそう呼ばれた。
「お久しゅう御座います。姫」
エイリンは下を向いたまま答える。
「イナバの者たちも出迎えご苦労様」
微笑をたたえながら、カグヤは周囲の兎たちを見回す。
じっくりと、まるでその者達の力量を測るが如く。
そして何やら思案すると、まるで彼女は今思い出したかのように手をぽんと打ちエイリンに向き直る。
「エイリン、貴女はまだ私の従者なのかしら?」
あくまで笑顔を崩さずに彼女はそう尋ねた。
エイリンと呼ばれた女は目を閉じたまま、透き通るような声で答える。
「私はカグヤ姫様に永遠と須臾の誓いを立てる者。未来永劫、姫様の従者に御座います」
「あらそうだったかしら。じゃあエイリン、貴女は私のお願いを聞いてくれるのね」
「何なりと」
「私、月に戻りたくないわ」
その言葉がエイリンに届く前に、エイリンの真後ろに控える数羽のイナバがカグヤに対して攻撃をしかける。
ある者は短刀を手に、ある者は薙刀を手に、またある者は火砲を構えて飛び掛る。
そして彼らの殺意がカグヤに届く前に、エイリンは彼らを絶命させた。
「上出来よ、エイリン。じゃあ次のお願いはね…」
きゃっきゃとはしゃぐカグヤの前に立ちふさがるエイリン。
その手はイナバの血に濡れ、月光によって赤々と輝いていた。
先ほどまで随伴していた部下に手をかけたことをエイリンは下唇を強く噛んで耐える。
カグヤはそんなことをまるで気にも留めずに次の命令を下す。
「エイリン、誰一人としてイナバを生きて月に返しては駄目」
御意、とエイリンが答えるや否や、あちらこちらで兎たちの断末魔が上がる。
どれだけ鮮血が飛び散り、肉片が砕け散ろうとも近衛の者もその後ろに隠れる少女もただ見ているだけだった。
近衛の者が木偶人形のごとく立ち尽くす中を、一つの影が風のように駆け抜ける。
そしてその影が通った後には兎の屍が累々と積み上がっていった。
その様相はとても静かな地獄絵図。
エイリンという名の女が、ただただ一方的に兎を屠殺していく。
兎といえど、姿形は人間そのもの。
それらが全て無形の肉塊になっていく様を凝視しなければならない少女。
年端もいかぬ少女は正視に耐えず、そのままの姿で失神していた。
**
私はあの後、気絶しているところを近衛の者に起こされた。
家屋の裏で倒れているところを発見されたようで、その頃には既にカグヤとエイリンはその場を去ったということだ。
二人は動かない近衛の者に危害を加えることなく、彼らをそのままにしていったらしい。
ただ、二人は立ち去る際に薬壷を一つ、残していったそうだ。
その壷にはカグヤから竹取の老夫婦に宛てた手紙が添えられていた。
育ててもらった恩に対する礼と、去ってしまった非礼に対する謝罪。
簡潔な手紙ではあったが老夫婦は何十年ぶりかに声を上げて涙を流したそうだ。
しかし、それは私にはどうでもよいことであった。
私が興味を抱いたのは壷の中身がどのようなものであったかだ。
手紙の最後にそれについての記述があった。
それによれば、壷の中には蓬莱の薬と呼ばれる禁薬が詰められているとのことだった。
蓬莱の薬とは、飲めばたちまち不老不死の体となり、未来永劫に生きながらえ続けることができる。
竹取の老夫婦は手紙があればそれで十分、その壷は帝に委ねると言ったため、近衛の者は早急に帝にそれを届けた。
これらのことは正史にもあることで、およそ誰でも知り及んでいることだ。
逃走した二人の行方は誰にも分からず、カグヤ姫に一矢報いるつもりでいた私は途方に暮れていた。
いや仮にカグヤ姫の前に立ちふさがったとしても、次に首が落ちるのは間違いなく私だろう。
私のような細腕の小娘が、あのエイリンという従者に力で勝てるはずもない。
憑き物が落ちたかのように私はうな垂れ、分家のある里に戻ることにした。
御伽噺の世界に迷い込んだかのような数日間から、私はいつもの日常に帰ることにしたのだった。
しかし、私の人生の歯車は既に壊れていた。
里に戻った私が見たものは、あの夜の殺戮と同等の衝撃を私に与えた。
分家、私の帰るべき住処が無かったのだ。
無い、という表現には少し語弊があったかもしれない。
確かに家屋と呼ばれる木造建築物はあった。
無かったのは中身。
血が繋がっていないとはいえ、家族だった人達。
家の近くまで来た私は辺りの剣呑な雰囲気に急かされ、走った。
近隣の住民は私を見るなり、哀れむような悲壮な表情を向ける。
私の胸は不安でかき乱され、走る足ががくがくと震え始める。
震える膝を叩きながら門の敷居をくぐった先の庭には大勢の野次馬たちがひしめいていた。
皆一様に鼻を押さえて、同じところを指差していた。
背の低い私は彼らが何を見ているのかを確かめるために、その人ごみを掻き分けて前に進む。
途中、履物が片方脱げてしまったが気にも留めず、這いつくばって進む。
そして、野次馬達の前に進み出た私は庭から家を見た。
雨戸という雨戸が閉め切られていて、そのうちの一枚が木槌で壊されていた。
まだ昼過ぎで日も高いというのに、家の中は真っ暗だった。
その暗闇の中で白い布が何枚も天井から垂れ下がっていた。
その光景はおぞましく、異様だった。
布は人間だったものを包んでいた。
私の家族だった人間を包んでいた。
私の歴史に闇が堕ちてきた日のことだ。
月人が起こした一連の事件にはその後、竹取事変という名がつけられた。
残念ながらその名前は世に定着しなかったようだが、それらのことは語られぬ歴史となって残った。
正史の一部には竹取事変についての記述がある。
その最後はこのようにまとめられていた。
富士の頂より煙立ち昇る、と。
帝の勅命で蓬莱の薬は富士の山頂にて焼き棄てられ、その煙が高く高く立ち昇ったのだ、と。
しかし、その記述はあくまで歴史である。
先も述べた様に歴史とは真偽交わるものである。
正史を綴った者が語る、富士の煙は決して焼けた薬が放つ煙ではなかった。
なぜそんなことを私が言えるのか。
当然だ。
その場に私がいたからだ。
真実を話すのであるならば、その煙、その狼煙こそが私の不死の証だ。
分家の家族を失った私は主家に戻る決意をする。
いや、それしか私に生きる術はなかったのだ。
仲の良かった里の者は私を腫れ物扱いし始めた。
当然だろう、理由も定かではない一家心中するような家の娘を誰が引き取ろうと思うものか。
他人だからこそ築くことのできる関係もあるということだ、何ら不思議なことではない。
私はそう自分を諭して里を去り、主家に戻った。
しかし、待ち受けていたものは過酷な現実と運命の両者だった。
カグヤへの求婚は実父の立場をたちまち危うくし、家門は没落の一途を辿っていたのだ。
多妻を認められていたとはいえ、正妻であった実母は求婚をよく思わず実父と疎遠になった。
私の兄弟姉妹は全員が別の家に奉公に出されたと聞いた。
しかし、私は知っていた。
およそ家事の一つもしてこなかったような子供が奉公に出されたということが何を意味をするのかを。
彼らの行く末について私は何も感じなかった。
むしろ、好都合とさえ考えた。
子はかすがいという諺の通り、私は実父母の仲を取り持とうとする。
今ではただ一人となった実子である私が主家に戻ることで、一家三人仲良くやれると信じていた。
私が夢想する家族がまさに実現する、そう固く信じていたのだった。
しかしすでに、主家は私の居られるような場所ではなかったのだ。
何食わぬ顔で姿を見せた私を、あろうことか父は斬り伏せようとしたのだ。
分家で一家心中があったことは主家にも伝わっていた。
私は一家心中のうちの一人に数えられていたのだ。
亡き者が冥土の迎えとなってやってきたと、錯乱した父に私の言葉は届かなかった。
私は泣きながら逃げた。
行く当てもないままに、私は走った。
見知った町は全て避け、方々に辿りついた先は富士という山の麓だった。
麓の茶屋で食べ物を漁る中で、私は茶屋の主人と旅人の話を偶然にも盗み聞いた。
何でも竹取事変で帝に送られた蓬莱の薬壷が、富士の頂上で焼かれるというものだ。
もはや死ぬしかないと思われていた私にはまさに僥倖だった。
その話を聞いた私は迷わず富士の山を登る。
体中にあざができようが、飢えで意識が朦朧としようが構わなかった。
盗み聞いた話によれば、帝の命で富士に来た従者は数人でさしたる武器も持っていなかった。
私は茶屋の裏口に立てかけてあった薪割りようの鉈を持ち出していた。
帝の密命で動く人間ならば容赦をしている場合ではなかった。
不意打ちにつぐ不意打ちで消耗させ、寝首を掻いた。
体中についた返り血は黒く乾き、夜の闇に溶け込んでいた。
最後の一人は薬壷を持っている男だったため、わざと生かして頂上まで運ばせた。
体力のない私にとって素焼きの壷は重荷だったからだ。
そして、男が頂上で薬壷に火をかける直前で、私は男の背後に立つ。
本当に綺麗な月夜だった。
これまでのことがなかったならば、月見の一つでもして安穏と過ごしていただろう。
しかし、今となっては満月ほど憎いものはなかった。
その満月を縦に割るように、私は両手で鉈を振り上げる。
血で刃が赤く染まったそれは、鈍く輝いていた。
私の背後には満天の星空と、そこに浮かぶ円月。
月光は私の姿に影を作り、その影に男は気づき振り向く。
「え?」
壷の中に火を放とうとした男は火打石を持ったままで固まる。
逆光で私の表情がよく見えなかったのだろう、眉間にしわを寄せていた。
その眉間目掛けて私は躊躇無く、鉈を振り下ろした。
鈍い音とともに男は崩れ落ち、私以外の人間がその場からいなくなった。
そして私は奪った蓬莱の薬を飲み干し、従者の亡骸全てに火を放った。
私以外誰もいない山の頂で、轟々と猛る炎。
それでもなお、私を満たすものは何一つない。
薬は私に何も変化をもたらさない。
そもそも私は蓬莱の薬に何を期待していたのか。
私が心より欲していたのは、永遠を生きるための薬ではなく、今ここで身を朽ち果てさせる薬ではなかったのか。
私は躊躇わずに炎に飛び込んだ。
猛火が私の身を包み、焦がしていく。
それまで従者の亡骸を覆っていた炎が全て私にめがけて押し寄せる。
この人間こそ、焼き滅ぼしてしまわねばならないという滅却の意思を持ったが如く。
着ていた衣服は灰になり、浴びた返り血も蒸発し、それでも私の体は燃え尽きない。
やがて炎は煙を生み、その煙は天へと昇り立つ。
私は強く願った。
月まで届け、月まで届け、と。
私から家族を奪ったあの憎き姫の元へ届け。
そして私の怒りを知れ、嘆きを知れ、と。
やがて、火勢は衰え、富士の頂には不死の少女が一人残された。
それが私、藤原妹紅である。
元の名を棄て、自身も紅の炎に染まれと願い、私が私につけた終わりの名だ。
***
「妹紅……」
名前を呼ぶ声で私は我に返った。
気がつけば辺りが明るくなり始めていた。
山の向こうが朝焼けに染まっていた。
膝の上で眠る友人は何やら寝言を言っているようだが聞き取れない。
私は辺りを見回してみるが、誰もいない。
「誰かに話をしていたような気がしたんだが」
私の独白は誰にも届いてはいないようだ。
「大体、私は自分のことを誰かに話すなんてことは嫌いだものな」
それでも、鬱積した過去を清算するには誰かに話すのが一番だと知っている。
もしかしたら、私はここ幻想郷とは違う、どこか別の世界の住人に語っていたのかもしれない。
「だとしたら、そいつは不幸な奴だな」
照れ隠しにも似た私の苦笑は朝靄にかすれて霧散していった。
私の友人は日頃そのことをよく口にする。
それゆえに歴史の編纂に携わる者はその重責に耐えねばならず、軽々しくも歴史を書に著すなどといってはいけない。
歴史というものは、筋書きのない演劇を観ている客が後々それを思い出すためにつけた備忘録のようなもので、その内容は個々に様々であり真と偽が入り乱れるものである、と。
その友人は今、私の傍らで寝息を立てて眠っている。
***
私の歴史はいささか冗長ではある。
しかし、このような体になるまではそこらの村娘と変わらぬ毎日を送っていた。
平和な、言ってしまえば抑揚のない生活までいちいち話していたら夜が明けてしまう。
幼い頃の話などは退屈に余るものだろうから簡潔にまとめるのが上策だろう。
私の歴史、つまるところ私の人生は決して光差すものではなかった。
生まれながらの醜顔は父と母を遠ざけ、乳母ですら私を疎んじた。
それでも私が家にいられたのは、彼らに一欠片の良心があったからだと思われる。
思えばそれが私にもたらされた唯一の奇跡であり、また全ての罪業の始まりでもあった。
幼少の頃、私の家を一人の陰陽師が訪ねてきたことがある。
その陰陽師は私の父と母にこう告げて帰った。
「この家には忌み子がいる。家に置いては良くないことが起きるだろう」
陰陽師の言うことは絶対であった時代。
私は半ば強制的に里の分家に移された。それでも私は親を恨まなかった。
むしろ、感謝したいくらいであった。
主家で冷遇されていた私だったが、分家では上手く馴染めたからだ。
とりわけ分家のあった里では身分による格差が特になかったことも奏功し、遊び友達に不自由することもなかった。
分家筋の人間、私の親族は決して優しい人間ではなかったが、私を邪険にすることなく自由にさせていた。
私の境遇を知ってか知らずか、大抵のことに目をつむってくれていた。
そのおかげか私の毎日は昔のそれと一転していた。
日が昇れば里の子供達と遊び、日が暮れれば家に戻る。
そんな楽しい生活を私は送っていた。
主家の姉妹が蝶よ花よと育てられていた中で、私だけが奔放に生きていたのだ。
そんな生活が数年続いた。
そして私の歴史の中で、唯一無二の転回点が訪れる。
それは夏が終わり、秋という季節がやってきてからのこと。
ある日私は、父がとある貴族の娘に求婚をし、断られたという噂を聞いた。
その話を聞いた私は親族の連中を問いただす。
「どういうことですか? 父が求婚をして断られたというのは本当なのですか?」
「あぁ、実際には貴族の娘でなく、農民の娘という話らしい。よくも家名に泥を塗ってくれたものだ」
「農民の娘。その者はどこにいるのです。教えてください」
その当時、女はかく在れといわれた姿から程遠かった私は本当に直情的だった。
親族から聞いた場所は主家からさほど遠くない山にあり、私はその農家の娘の顔を拝んでやろうとそこに向かった。
忘れもしない十五夜。憎き月の姫との邂逅の日。
農家の娘はカグヤと呼ばれていた。
私がかの山に着いた頃には、既に農家は立派な庄屋になっており、カグヤはその中に閉じこもっていた。
家の周りは近衛の者が昼夜を問わず警備していたため、私は近くの竹林で夜が来るのを待った。
闇夜に乗じて家に忍び込む、そのはずだった。
その夜、私は家の物陰から見てしまう。
夜空に煌々と輝く巨大な月。
その月から下り来る、月の従者たち。
不思議な牛車で天を駆け、地に足をつけずに歩く彼らを、近衛とそれから私は微動だにすることもできずにただ眺めていた。
手も足も少しも動かすことはできない。
目蓋を閉じようとしても、目じりが少し震える程度しか動かない。
ただ細く息をしながら、家から出てくるあの姫を見ているに過ぎなかった。
それが彼らの力によるものだということは、知る由もなかった。
まだ、私はか弱き人間の小娘だったからだ。
**
「お久しぶりね。エイリン」
カグヤの前でかしずく女は彼女にそう呼ばれた。
「お久しゅう御座います。姫」
エイリンは下を向いたまま答える。
「イナバの者たちも出迎えご苦労様」
微笑をたたえながら、カグヤは周囲の兎たちを見回す。
じっくりと、まるでその者達の力量を測るが如く。
そして何やら思案すると、まるで彼女は今思い出したかのように手をぽんと打ちエイリンに向き直る。
「エイリン、貴女はまだ私の従者なのかしら?」
あくまで笑顔を崩さずに彼女はそう尋ねた。
エイリンと呼ばれた女は目を閉じたまま、透き通るような声で答える。
「私はカグヤ姫様に永遠と須臾の誓いを立てる者。未来永劫、姫様の従者に御座います」
「あらそうだったかしら。じゃあエイリン、貴女は私のお願いを聞いてくれるのね」
「何なりと」
「私、月に戻りたくないわ」
その言葉がエイリンに届く前に、エイリンの真後ろに控える数羽のイナバがカグヤに対して攻撃をしかける。
ある者は短刀を手に、ある者は薙刀を手に、またある者は火砲を構えて飛び掛る。
そして彼らの殺意がカグヤに届く前に、エイリンは彼らを絶命させた。
「上出来よ、エイリン。じゃあ次のお願いはね…」
きゃっきゃとはしゃぐカグヤの前に立ちふさがるエイリン。
その手はイナバの血に濡れ、月光によって赤々と輝いていた。
先ほどまで随伴していた部下に手をかけたことをエイリンは下唇を強く噛んで耐える。
カグヤはそんなことをまるで気にも留めずに次の命令を下す。
「エイリン、誰一人としてイナバを生きて月に返しては駄目」
御意、とエイリンが答えるや否や、あちらこちらで兎たちの断末魔が上がる。
どれだけ鮮血が飛び散り、肉片が砕け散ろうとも近衛の者もその後ろに隠れる少女もただ見ているだけだった。
近衛の者が木偶人形のごとく立ち尽くす中を、一つの影が風のように駆け抜ける。
そしてその影が通った後には兎の屍が累々と積み上がっていった。
その様相はとても静かな地獄絵図。
エイリンという名の女が、ただただ一方的に兎を屠殺していく。
兎といえど、姿形は人間そのもの。
それらが全て無形の肉塊になっていく様を凝視しなければならない少女。
年端もいかぬ少女は正視に耐えず、そのままの姿で失神していた。
**
私はあの後、気絶しているところを近衛の者に起こされた。
家屋の裏で倒れているところを発見されたようで、その頃には既にカグヤとエイリンはその場を去ったということだ。
二人は動かない近衛の者に危害を加えることなく、彼らをそのままにしていったらしい。
ただ、二人は立ち去る際に薬壷を一つ、残していったそうだ。
その壷にはカグヤから竹取の老夫婦に宛てた手紙が添えられていた。
育ててもらった恩に対する礼と、去ってしまった非礼に対する謝罪。
簡潔な手紙ではあったが老夫婦は何十年ぶりかに声を上げて涙を流したそうだ。
しかし、それは私にはどうでもよいことであった。
私が興味を抱いたのは壷の中身がどのようなものであったかだ。
手紙の最後にそれについての記述があった。
それによれば、壷の中には蓬莱の薬と呼ばれる禁薬が詰められているとのことだった。
蓬莱の薬とは、飲めばたちまち不老不死の体となり、未来永劫に生きながらえ続けることができる。
竹取の老夫婦は手紙があればそれで十分、その壷は帝に委ねると言ったため、近衛の者は早急に帝にそれを届けた。
これらのことは正史にもあることで、およそ誰でも知り及んでいることだ。
逃走した二人の行方は誰にも分からず、カグヤ姫に一矢報いるつもりでいた私は途方に暮れていた。
いや仮にカグヤ姫の前に立ちふさがったとしても、次に首が落ちるのは間違いなく私だろう。
私のような細腕の小娘が、あのエイリンという従者に力で勝てるはずもない。
憑き物が落ちたかのように私はうな垂れ、分家のある里に戻ることにした。
御伽噺の世界に迷い込んだかのような数日間から、私はいつもの日常に帰ることにしたのだった。
しかし、私の人生の歯車は既に壊れていた。
里に戻った私が見たものは、あの夜の殺戮と同等の衝撃を私に与えた。
分家、私の帰るべき住処が無かったのだ。
無い、という表現には少し語弊があったかもしれない。
確かに家屋と呼ばれる木造建築物はあった。
無かったのは中身。
血が繋がっていないとはいえ、家族だった人達。
家の近くまで来た私は辺りの剣呑な雰囲気に急かされ、走った。
近隣の住民は私を見るなり、哀れむような悲壮な表情を向ける。
私の胸は不安でかき乱され、走る足ががくがくと震え始める。
震える膝を叩きながら門の敷居をくぐった先の庭には大勢の野次馬たちがひしめいていた。
皆一様に鼻を押さえて、同じところを指差していた。
背の低い私は彼らが何を見ているのかを確かめるために、その人ごみを掻き分けて前に進む。
途中、履物が片方脱げてしまったが気にも留めず、這いつくばって進む。
そして、野次馬達の前に進み出た私は庭から家を見た。
雨戸という雨戸が閉め切られていて、そのうちの一枚が木槌で壊されていた。
まだ昼過ぎで日も高いというのに、家の中は真っ暗だった。
その暗闇の中で白い布が何枚も天井から垂れ下がっていた。
その光景はおぞましく、異様だった。
布は人間だったものを包んでいた。
私の家族だった人間を包んでいた。
私の歴史に闇が堕ちてきた日のことだ。
月人が起こした一連の事件にはその後、竹取事変という名がつけられた。
残念ながらその名前は世に定着しなかったようだが、それらのことは語られぬ歴史となって残った。
正史の一部には竹取事変についての記述がある。
その最後はこのようにまとめられていた。
富士の頂より煙立ち昇る、と。
帝の勅命で蓬莱の薬は富士の山頂にて焼き棄てられ、その煙が高く高く立ち昇ったのだ、と。
しかし、その記述はあくまで歴史である。
先も述べた様に歴史とは真偽交わるものである。
正史を綴った者が語る、富士の煙は決して焼けた薬が放つ煙ではなかった。
なぜそんなことを私が言えるのか。
当然だ。
その場に私がいたからだ。
真実を話すのであるならば、その煙、その狼煙こそが私の不死の証だ。
分家の家族を失った私は主家に戻る決意をする。
いや、それしか私に生きる術はなかったのだ。
仲の良かった里の者は私を腫れ物扱いし始めた。
当然だろう、理由も定かではない一家心中するような家の娘を誰が引き取ろうと思うものか。
他人だからこそ築くことのできる関係もあるということだ、何ら不思議なことではない。
私はそう自分を諭して里を去り、主家に戻った。
しかし、待ち受けていたものは過酷な現実と運命の両者だった。
カグヤへの求婚は実父の立場をたちまち危うくし、家門は没落の一途を辿っていたのだ。
多妻を認められていたとはいえ、正妻であった実母は求婚をよく思わず実父と疎遠になった。
私の兄弟姉妹は全員が別の家に奉公に出されたと聞いた。
しかし、私は知っていた。
およそ家事の一つもしてこなかったような子供が奉公に出されたということが何を意味をするのかを。
彼らの行く末について私は何も感じなかった。
むしろ、好都合とさえ考えた。
子はかすがいという諺の通り、私は実父母の仲を取り持とうとする。
今ではただ一人となった実子である私が主家に戻ることで、一家三人仲良くやれると信じていた。
私が夢想する家族がまさに実現する、そう固く信じていたのだった。
しかしすでに、主家は私の居られるような場所ではなかったのだ。
何食わぬ顔で姿を見せた私を、あろうことか父は斬り伏せようとしたのだ。
分家で一家心中があったことは主家にも伝わっていた。
私は一家心中のうちの一人に数えられていたのだ。
亡き者が冥土の迎えとなってやってきたと、錯乱した父に私の言葉は届かなかった。
私は泣きながら逃げた。
行く当てもないままに、私は走った。
見知った町は全て避け、方々に辿りついた先は富士という山の麓だった。
麓の茶屋で食べ物を漁る中で、私は茶屋の主人と旅人の話を偶然にも盗み聞いた。
何でも竹取事変で帝に送られた蓬莱の薬壷が、富士の頂上で焼かれるというものだ。
もはや死ぬしかないと思われていた私にはまさに僥倖だった。
その話を聞いた私は迷わず富士の山を登る。
体中にあざができようが、飢えで意識が朦朧としようが構わなかった。
盗み聞いた話によれば、帝の命で富士に来た従者は数人でさしたる武器も持っていなかった。
私は茶屋の裏口に立てかけてあった薪割りようの鉈を持ち出していた。
帝の密命で動く人間ならば容赦をしている場合ではなかった。
不意打ちにつぐ不意打ちで消耗させ、寝首を掻いた。
体中についた返り血は黒く乾き、夜の闇に溶け込んでいた。
最後の一人は薬壷を持っている男だったため、わざと生かして頂上まで運ばせた。
体力のない私にとって素焼きの壷は重荷だったからだ。
そして、男が頂上で薬壷に火をかける直前で、私は男の背後に立つ。
本当に綺麗な月夜だった。
これまでのことがなかったならば、月見の一つでもして安穏と過ごしていただろう。
しかし、今となっては満月ほど憎いものはなかった。
その満月を縦に割るように、私は両手で鉈を振り上げる。
血で刃が赤く染まったそれは、鈍く輝いていた。
私の背後には満天の星空と、そこに浮かぶ円月。
月光は私の姿に影を作り、その影に男は気づき振り向く。
「え?」
壷の中に火を放とうとした男は火打石を持ったままで固まる。
逆光で私の表情がよく見えなかったのだろう、眉間にしわを寄せていた。
その眉間目掛けて私は躊躇無く、鉈を振り下ろした。
鈍い音とともに男は崩れ落ち、私以外の人間がその場からいなくなった。
そして私は奪った蓬莱の薬を飲み干し、従者の亡骸全てに火を放った。
私以外誰もいない山の頂で、轟々と猛る炎。
それでもなお、私を満たすものは何一つない。
薬は私に何も変化をもたらさない。
そもそも私は蓬莱の薬に何を期待していたのか。
私が心より欲していたのは、永遠を生きるための薬ではなく、今ここで身を朽ち果てさせる薬ではなかったのか。
私は躊躇わずに炎に飛び込んだ。
猛火が私の身を包み、焦がしていく。
それまで従者の亡骸を覆っていた炎が全て私にめがけて押し寄せる。
この人間こそ、焼き滅ぼしてしまわねばならないという滅却の意思を持ったが如く。
着ていた衣服は灰になり、浴びた返り血も蒸発し、それでも私の体は燃え尽きない。
やがて炎は煙を生み、その煙は天へと昇り立つ。
私は強く願った。
月まで届け、月まで届け、と。
私から家族を奪ったあの憎き姫の元へ届け。
そして私の怒りを知れ、嘆きを知れ、と。
やがて、火勢は衰え、富士の頂には不死の少女が一人残された。
それが私、藤原妹紅である。
元の名を棄て、自身も紅の炎に染まれと願い、私が私につけた終わりの名だ。
***
「妹紅……」
名前を呼ぶ声で私は我に返った。
気がつけば辺りが明るくなり始めていた。
山の向こうが朝焼けに染まっていた。
膝の上で眠る友人は何やら寝言を言っているようだが聞き取れない。
私は辺りを見回してみるが、誰もいない。
「誰かに話をしていたような気がしたんだが」
私の独白は誰にも届いてはいないようだ。
「大体、私は自分のことを誰かに話すなんてことは嫌いだものな」
それでも、鬱積した過去を清算するには誰かに話すのが一番だと知っている。
もしかしたら、私はここ幻想郷とは違う、どこか別の世界の住人に語っていたのかもしれない。
「だとしたら、そいつは不幸な奴だな」
照れ隠しにも似た私の苦笑は朝靄にかすれて霧散していった。