※当SSではクーリングオフが効きません。予めご了承下さい。
また、若干グロテスクな表現が含まれております。
昔の話をしよう。それからでも遅くは無いだろう
■
昔々ある所に、一匹の人食い妖怪が居ました。
一見可愛らしい少女の姿をしていますが、その実恐ろしい力を持っていて、服は
縄張りにしている森の奥深くへ踏み込んだ人間を見つけては取って食う、それは残忍な妖怪でした。
彼女は今日も獲物を探して、テリトリーをふよふよと飛び回っていました。
程無くして少女は、森の入り口の方面から人間の臭いを嗅ぎ付けました。
少女は嬉々として臭いの元を辿って行きました。
辿り着いた場所は、同じ様な形の木や植物が生い茂る一帯でした。ここはたまに獲物を深追いした猟師や、
木の実等を採りに来た人間が、迷い込んだまま出られなくなる、天然の迷路でした。
少女は地面に降りると、足音を殺して歩き始めました。
まだ獲物の姿は見えませんが、既にその呼吸音や心音まで捉えていました。
獲物は、岩の上に座って休んでいるようでした。予想に反して困っているような素振りは無く、
まるでピクニックにでも来たかのようにのんびりと水筒を呷っていました。
傍らには弓と矢筒が置いてあるので、どうやら猟師のようです。
少女はその落ち着き払った態度を見て悪戯心が湧き、ぐるりと獲物の後ろへ回り込むと、ゆっくりと距離を詰めて行きました。
そして獲物のすぐ側まで近付くと、素早くその両目を手で覆いました。
「うわっ!?」
「だーれだ?」
昔、人間がやっていた事を思い出して、自分も試したくなったのです。
獲物の反応は予想以上のもので、少女は愉快でした。
「ああ、驚いた。誰だい?こんな所で。この辺は稀に妖怪なんかが出て危ないんだ。
子供は早く帰った方が良い。道に迷ったのなら案内してあげるから」
少女は益々愉快になって、クスクスと笑いました。
今から食べられるとも知らずに暢気に話す獲物が、可笑しくて堪りません。
少女は目隠しを止めて、獲物の正面に立ちました。
「そう、私は今とっても困ってるの。道は分かるけど、お腹ペコペコでもう動けない程よ」
獲物は狐にでも抓まれたように、ぽかんと口を開けて固まっていました。
私が妖怪だと気付いた?少女は獲物の反応をいぶかしみました。
人間の中でも勘が鋭い者や、微弱ながら霊力のある者等は、見た目が人間に近い妖怪でも一目で正体を見抜いてしまう事があります。
もっとも正体がばれたとして、少女には何の問題もありませんでした。
どの道ここまで近付いてしまえば、人間が逃げ切る事など不可能です。
寧ろ怖がってくれた方が面白いし、何より味が良くなる事を少女は知っていました。
しかし獲物は怖がる風でも無く、おもむろに懐を探ると、小さな紙袋を取り出しました。
そして袋を開けると、中から仔犬の掌程の、琥珀色に輝く平べったい物を取り出すと、少女に手渡しました。
「…何これ?宝石?」
「べっこう飴を知らないのかい?食べてごらん、美味しいから」
少女は、実は獲物が自分の正体に気付いていて、毒を盛ろうとしているのでは無いかとも疑いましたが、
匂いを嗅いでも怪しい感じはありません。何よりにこにこしながらこっちを見ている獲物の顔には、まるで殺気というものがありませんでした。
少女は恐る恐るそれを口に運びました。
「ん……!」
それは、今まで味わった事の無い美味しさでした。優しく滑らかな舌触りと、純粋な甘味。
肉とは全く異なる美味しさです。
「気に入ったかい?」
少女はこくこくと頷きました。噛み砕くなど勿体無くて出来ません。いつまでも舐めていたいくらいでした。
男は満足気に笑うと、紙袋の方も差し出しました。
「それならこれもあげるよ。何、大した物じゃ無いから遠慮する事は無い。」
「ほんろに!?」
飴が飛び出しそうになって、少女は慌てて口を押さえました。
「ああ。ところで僕はもう行くが、本当に道は分かるんだね?」
少女は勢い良く頷きましたが、実の所このべっこう飴という美味しい物がまだ食べられるという嬉しさで頭が一杯で、
男の言う事などロクに聞いてはいませんでした。
男はちょっと不安そうな顔をしながらも、弓と矢筒を拾って、木々の間へと消えて行きました。
少女は男の姿が見えなくなるまで、ぶんぶんと手を振っていました。
「あっ」
少女が男を食い損ねた事に気付いたのは、自分のねぐらに帰って、三つ目の飴を口に入れた瞬間でした。
まあいいか、こんなに美味しい物をくれたんだし――と少女は自分を納得させました。
そんな少女の思考に反抗するように、お腹がきゅううう、と鳴りました。
べっこう飴はとても美味しいのですが、人食い妖怪である少女のお腹の足しにはなりませんでした。
「お腹減ったなぁ…人間が居ると良いけど」
最後に人間を食べたのは十日前でした。
少女の小さな身体なら、一週間は食べずとも平気ですが、流石に十日となると焦り始めます。
日も暮れかかった森の中を人間がそうそう都合良くうろついているとは思えませんでしたが、何せお腹が鳴っています。
少女はねぐらを後にして、薄暗い森の中をふらふらと彷徨い始めました。
◆
「ふーふっふっふっふふふっふー♪ふーふっふっふっふふふっふー♪ふふっふふー♪」
上機嫌に鼻歌を歌いながら、少女は森を徘徊していました。
昨夜は、運良く足を挫いて動けなくなっている人間を見つける事が出来たので、これ幸いと適当に脅して食べたのでした。
満腹の少女は、何か面白い事は無いものかと特に当ても無く飛んでいました。
すると、どこからともなく漂って来た微かな甘い匂いが、少女の鼻をくすぐりました。
もしやと思った少女は、急いでその匂いの元へと飛んで行きました。
男はすぐに見つかりました。獲物でも探しているのか、弓と矢筒を背に、辺りを見回しつつザクザクと歩いています。
少女は昨日と同じ様に、地面に降りて近付きました。
「こんにちわ、おにーさん」
少女が声をかけると、男は弾かれた様に振り向きました。少女の姿を認めると、ほっと安堵の表情を浮かべて、
「やあ、君か。ここらは妖怪が出ると言っただろう。危ないから早くお帰り」
と、相変わらず的外れな忠告を投げかけました。少女はクスクス笑って言いました。
「病気で寝込んでいるお母さんの為に、薬草を摘まないといけないの。それにこの森の事なら、きっと貴方より詳しいわ」
人間を油断させる為に、この手の嘘はつき慣れています。男は呆れ半分といった顔で、そうかいと呟きました。
「お母さんの具合は悪いのかい?血を吐いたりとかは?」
「うーん、そういうのは無いけど、風邪をこじらせちゃって。それよりお兄さんこそ、こんな森の奥で何をやってるの?
狩りならもっと良い場所が幾らでもあるでしょう?
「…僕は狩りをしに来ているんじゃ無いんだ。いや、狩りもするが、それはついでだ」
男の声が少し小さくなりました。
「狩りで無いなら、何してたの?貴方の言う通り、ここはたまに出るらしいわよ」
こわぁい人食い妖怪が――と精一杯の低い声で言いましたが、残念ながらその様子はお世辞にも怖いとは言えません。
男は苦笑しながら答えました。
「探し物だよ。大切なものをこの森でなくしたんだ。ずっとそれを探している」
少し寂しげなその言葉に、少女は首を傾げました。
「失くしたものって、何?」
「僕以外の人間にとっては何の価値も無いものさ。それより、適当に座ってべっこう飴でも食べないか?」
少女は、ぱあっと目を輝かせました。
二人は小さな岩に並んで腰掛け、べっこう飴を舐めながら色々な話をしました。
男は人間の冒険譚や笑い話を、少女は薬草や山菜が生えている場所の事等を話しました。
やがてお互いに話題が尽きて会話が途切れた時、ふいに少女が尋ねました。
「お兄さん、妖怪に出遭った事はあるの?」
男は少し面食らった様でしたが、間を置かず答えました。
「何度かね。でも幸いにして、まだ危険な妖怪に遭った事は無いが」
「ふーん……ねぇ、人食い妖怪ってどんな姿をしているのかしら」
「…話に聞く限りでは、返り血に染まったボロボロの服を着て常に血腥い息を漂わせ、鋸の様な鋭い歯と爪を持った、
それは恐ろしい風貌をしているそうだ」
「へー、そーなのかー……でも、実はそれが真っ赤な嘘で、本当は私みたいな可愛い女の子の姿をしているとしたら?」
男は束の間キョトンとした表情を浮かべて、次の瞬間には腹を抱えて笑っていました。
怖がらせるつもりで言った少女には何がなんだか解りません。
「ああ可笑しい。君のような可愛らしい子供じゃ、例え人食いでも何も怖くないじゃないか」
「だから、そう思わせて油断した所をパクっと」
「あっはっは、面白いね。でも君は人食いと言うよりは幽霊向きだ」
むぅ、と少女は頬を膨らませました。男は明らかに少女の話を冗談だと思っています。
そんな少女を見て何を思ったのか、男はぽんぽんと少女の頭に触れてから立ち上がり、懐から例の袋を取り出しました。
「ごめんごめん、気を損ねたなら謝るよ。これはお詫びだ。お母さんにも食べさせてあげなさい」
現金なもので、少女はすぐに機嫌を直して袋を受け取りました。
男が弓と矢筒を取り上げたので、少女がまたねと声をかけると、男は片手をあげて応え、里の方へと帰って行きました。
「全く、人間の癖に私を馬鹿にして……次に会ったら食べてやる」
誰も居なくなった森の中で、少女は誰にとも無く言い訳するようにひとりごちました。
◆
それから少女は、毎日のように男を探しては会いに行きました。
元々妖怪が出没するとあって立ち入る者の少ない森なので、男が森に居ればすぐに見つけられるようになりました。
男からは、常にべっこう飴の甘い匂いが漂っていたのです。
森へ入れば必ず顔を会わせる少女に、男は特に不思議がる様子も無く、やあと挨拶をするだけでした。
そうして他愛も無い話をして、最後にべっこう飴を貰い、別れるというサイクルを繰り返す内、少女はべっこう飴を貰う事よりも、男と会う事それ自体を楽しみにしていました。表情豊かに悲喜交々の話をする男の顔を見ていると、暖かく、それでいて胸が締め付けられるような、奇妙な感覚に襲われるのです。それは不快な感覚では無く、寧ろもっと味わっていたいと思えるものだったので、少女はより熱心に男を探すようになりました。
その感覚を何と呼ぶのか、少女が知るのはそれから間も無くの事です。
冷たい雨の降るある日の事。少女はしばらく食事を採っていない事に気付きました。その割には食欲がありませんでしたが、何しろ食べなければ死んでしまいます。少女の記憶では、最後に人間を食べたのは2週間近くも前でした。
このままだとじきに空も飛べなくなってしまいます。少女は重い身体に鞭打って森へと飛び立ちました。
◆
「行きなさいよ」
雷鳴が轟き、雨粒があらゆるものを激しく叩きつける中、少女は震える声で言いました。
その顔は苦しげに歪み、喘息持ちのようにぜいぜいと肩で息をしています。
少年は傷ついた右腕を押さえ、少女の声よりも激しく震えていました。歯の鳴る音が、雨音を飛び越えて少女の耳を打っています。
「早く行きなさいよ…殺すわよ」
ひっ、と声をあげると、少年は慌てて立ち上がり、駆け出そうとしましたが、ぬかるんだ地面に足を取られて派手に転びました。
少女が無言で腕を振るうと、側にあった大木が真っ二つにへし折れ、少年の足をかすめて地面に激突しました。
「早く行けえっ!」
少年は半狂乱になって、泥や木の根に足を取られながらも一目散にその場を去りました。
がっくりと膝をつき、懺悔するように身体を折って、少女は呻きました。
「ぐ…う、ぐ、うえぇ…」
こみ上げる吐気は、少年を襲ってからずっと少女の身体に居座っています。
今まで当たり前に行なって来た人間を食べるという行為が、今の少女には途轍もなくおぞましい事のように感じられて、
振りかぶった腕はすんでの所で軌道を変え、少年の腕をかする程度に止まりました。
そこから滴る血を見ると、益々吐気は強くなり、まともに立っていられない程でした。
結局少女は、死ぬ程お腹を空かせているにも関わらず、獲物を逃がしてしまったのです。
やがて少女は亡霊の如く宙に浮かぶと、憔悴しきったままねぐらへと戻りました。
闇の中、少女は膝を抱えて考えました。
何故突然人間が食べられなくなったのか。
何故人間を襲おうとすると、あの男の顔が浮かぶのか。
独りとは、こんなにも寂しいものだったか。
思考がぐるぐるじりじりと頭の中を廻り続け、やがて外が明るくなって来た頃、少女は昔に聞いた母の言葉を思い出しました。
『いいかい、よくお聞き。我々にとって人間は餌であり天敵だ。決して人間に心を許してはならない。
決して情をもってはならない。特にお前は男に注意おし。奴等は稀に病気を運んで来る。
その病気にかかると一匹の人間に執着するようになり、その人間に会わないと胸が苦しくなる。
やがて人間を襲う事に罪悪感と恐怖を抱き始め、食事もままならなくなる。そうして衰弱して死んでいくのさ。
この病気にかかったら最後、どんな薬も効きはしない。執着を抱いた人間を食い殺すしか、治す方法は無いんだ。
いいかい、くれぐれも人間と関係を持つような事をするんじゃないよ。そうすれば、この病気にはかからない。
――病気の名前?それはね……』
「……思い出した」
つい最近まで人間をただの餌としか思っていなかった少女は、母の話を心に留める事はありませんでした。
あんなに美味しい物を自分から食べなくなるだなんて、とても信じられなかったのです。
そうして軽々しく人間と仲良くなって、人間が食べられなくなっている現実。
少女は得体の知れない感情が身体中を満たして行くのを感じました。ぎり、と爪を噛み、
「ころさなくちゃ」
臓腑の底から、幽鬼のように呟くと、ただ一人の人間を求め、少女はねぐらを飛び立ちました。
◆
「やあ」
妖怪の耳をもってしてやっと聞こえる程度の声量である事を除けば、男の挨拶はいつもと何ら変わりありません。
少女はまともに返事も出来ず、ただ呆然と立ち尽くしていました。
あれだけ猛々しく身体の中を廻っていた何かは、今や完全に冷え切って、何処かへ引っ込んでしまいました。
「運が悪かったよ。連日の雨で地盤が緩んでいたんだろう……お陰で、この様だ」
男の腹の半分と右腕と両足は、落石と思しき岩に押し潰されていました。
周囲の地面には血が滲み、激しい雨の中でも鉄の臭いが強く漂っています。
ごほ、と男が咳き込むと、その口から赤黒い血がどろりと流れ出ました。
少女は全身の血が逆流した様な錯覚を覚えました。目の前がどんどん白くなって、何も考えられません。
「――誰か、誰か呼ばないと」
「待てっ……待ってくれ。僕はもう、長くはもたない。その前に話したい事がある」
混乱の極みにあった少女を現実へ引き戻したのは、蚊の鳴く様な男の声でした。
急速に視界を取り戻した少女は慌てて男の傍らに駆け寄り、その顔を覗き込みました。
蝋の様に白い顔と小刻みに震える血塗れの唇が、もう殆ど猶予が無い事を否が応にも少女に悟らせました。
男は少女と反対の方に顔を向け、口の中の血を吐き出してから言いました。
「ありがとう…一つ、確認したいんだが」
男は大きく息を吐くと、少女の眼を見て言いました。
「君は妖怪だね?」
そう驚かなくても良いだろう……そうだな、初めて会った時から違和感はあった。
森の中でも特に迷いやすい場所だというのに、君は焦る素振りも無かった。
この森の全体を把握するのに、僕等は五年もかかったのに、君のような子供が迷わずに居られるというのはおかしいと思ったんだ。
はっきりと疑いを抱いたのは二度目だ。君自身は意識していなかったのかも知れないが、君からは強い血の臭いがした。
君の言う、病気の母のものかと思ったが、風邪をこじらせただけで喀血も無いと言う。
そこで気付いたんだ。君がつい先程、『食事』をして来たんじゃ無いかと……。
……そうだね、普通は逃げ出すだろう。だが僕は、それでも森に入らねばならなかった。
なぁ、確かこれも二度目に会った時に話した。探し物があると言ったろう。
もう随分前だが、僕には妹が居た。この森に遊びに行って、そのまま帰って来なかった。
滑稽な話だよ。妹が消えたのは十年近くも前だ。それ以来、僕は毎日の様に森へ入った。
親の居ない僕に残された唯一人の家族だったんだ。これから独りへ生きて行かねばならないのかと思うと、
何もせずに居る事など耐えられなかった。半ば自棄になっていたんだ。
妹を探している途中で妖怪に襲われても、別にそれで良いと思った。
そうして今までずっと妹を、妹の痕跡を探し続けていた。幸か不幸か、妖怪には出会わなかった。
君に会うまではね――
全くもって狂気の沙汰だ、と男は宙に向かって呟きました。
そしてもう一度少女の瞳を見ると、益々聞き取りにくくなった声で言いました。
「僕がいつもべっこう飴を持ち歩いていたのはね、妹に供えるつもりだったんだ。妹はあれが大好きだった。
妹に関する何らかの痕跡を見つけられたら、そこに供えるつもりだった。
だから、君にあげたんだよ」
数瞬の間を置いて、少女は男の言わんとする事を悟りました。
「そう、服や髪の色は違うが、君はまるで妹の生き写しだ。それは残酷な程にね……」
「じゃあ、私が妖怪だと解ってからも会い続けたのは――」
「会いに来ていたのは君の方だがね、その通りだ。君と妹を重ねていた。最近は君に会う為に森へ入っていたぐらいだ。
もう、疲れたんだよ。妹の幻想を追い続ける事が。それを探せと命じ続ける自分に従う事が。
僕は心のどこかで、こうなる事を望んでいた気がする……」
男は二三度大きく咽ると、苦しそうに喘ぎながらも喋り続けました。
「き…君が、どういう経緯で、どういう理由でそんな姿をしているのか、最早どうでも良い事だ……ただ僕は、これは天命だと思う。
こ、こんな愚かな男の、…最後の願いを、聞いてくれないか……」
少女は両手でぎゅっと男の手を握り、静かに頷きました。その手は既に氷の様に冷たくなっていました。
男は緩やかな微笑みを浮かべ、少女の手を僅かな力で握り返すと、こう呟きました。
「僕を、食べてくれ」
「……何を、言ってるの……?」
「無理は承知だ。でも、どうか頼む。このまま無為に死んで行くより、君の血肉となる方がずっと納得出来る……。
この十年間の結末がこれでは、僕は本当に……ただの狂人になってしまう……どうか……」
少女はじっと、最早言葉にならぬ言葉をうわ言の様に呟く男の顔を見つめて居ました。
紙巻煙草を一本灰にする位の時間が経った後、少女は固く握っていた手を離しました。
そして寄り添う様に、男の耳に唇が触れる程に顔を寄せ、
「大丈夫。気にしないで」
男の首に手を添え、
「私はその為に来たんだもの」
ぐ、と力を込め、
「……さよなら」
「……――……」
男の最後の言葉は、骨の砕ける音にかき消されました。
◆
自らの腕に爪を食い込ませ、掻き毟りながら嗚咽をあげて、少女は獣の如く男の臓腑を貪りました。
その肉を引き裂く度に、その腸を噛み千切る度に、少女は自らの心臓に牙を突き立てる様な痛みに襲われました。
しかし同時に感じるその味はこの上も無く甘美で、そう感じる自分がどうしようもなく浅ましく思えて、
少女は哭き続けました。
そうして自らの心と身体を激しく傷付け、狂った様に叫び続けながらも、少女は食べる事を止められません。
「ッがあぁあああああああっ!!!」
身体中を満ちる行き場の無い力に任せて振るった腕は、男を潰した岩を二つまとめて粉砕しました。
そうして表れた男の残りの部分も、張り裂けそうな胸の痛みを無視して食べ続けました。
自らの腕に、胸に、頬に爪を立て、地面を叩き、木々を薙ぎ倒して、身体を血に染めながら男の骨を噛み砕くその姿は、
いつか男の言った人食い妖怪の姿そのものでした。
やがて雨が止んで日が沈み、周囲が闇に包まれた頃、身体中に充満した魔力によって完全に回復した少女は、
同様に元通り修復された夜の様に黒い服に身を包み、闇に紛れる様にねぐらへと帰りました。
何から身を隠したかったのかは、少女にも解りませんでした。
「思い出した」
ずっと探していた言葉を見つけて、少女は呟きました。
「自業自得だ」
少女はごろんと仰向けに寝転がりました。
「もう、人間はいいや」
お腹一杯だし、と呟いた少女は、今まで空っぽだった自分の中の何かが満たされているのを感じていました。
その満腹感が、安らかな深い眠りを誘い、少女は眼を瞑ってその誘いに身を任せました。
意識が閉じる間際、少女はあの男と一緒になっていたらどうなっていたのだろう、と考えました。
そうしたら、あんな事には――――。
◆
その後、少女がどうなったのかは誰も知りません。
ただ、人食い妖怪の噂は、いつの間にかぱったりと途絶えていました。
その代わり、稀に森深くへと迷い込んだ者が、黒い服を着た少女に助けられるという噂が流れました。
その噂は長く言い伝えられる内に伝説となり、黒い服の少女は森の守り神として末永く祀られる事となりました。
おしまい
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また、若干グロテスクな表現が含まれております。
昔の話をしよう。それからでも遅くは無いだろう
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昔々ある所に、一匹の人食い妖怪が居ました。
一見可愛らしい少女の姿をしていますが、その実恐ろしい力を持っていて、服は
縄張りにしている森の奥深くへ踏み込んだ人間を見つけては取って食う、それは残忍な妖怪でした。
彼女は今日も獲物を探して、テリトリーをふよふよと飛び回っていました。
程無くして少女は、森の入り口の方面から人間の臭いを嗅ぎ付けました。
少女は嬉々として臭いの元を辿って行きました。
辿り着いた場所は、同じ様な形の木や植物が生い茂る一帯でした。ここはたまに獲物を深追いした猟師や、
木の実等を採りに来た人間が、迷い込んだまま出られなくなる、天然の迷路でした。
少女は地面に降りると、足音を殺して歩き始めました。
まだ獲物の姿は見えませんが、既にその呼吸音や心音まで捉えていました。
獲物は、岩の上に座って休んでいるようでした。予想に反して困っているような素振りは無く、
まるでピクニックにでも来たかのようにのんびりと水筒を呷っていました。
傍らには弓と矢筒が置いてあるので、どうやら猟師のようです。
少女はその落ち着き払った態度を見て悪戯心が湧き、ぐるりと獲物の後ろへ回り込むと、ゆっくりと距離を詰めて行きました。
そして獲物のすぐ側まで近付くと、素早くその両目を手で覆いました。
「うわっ!?」
「だーれだ?」
昔、人間がやっていた事を思い出して、自分も試したくなったのです。
獲物の反応は予想以上のもので、少女は愉快でした。
「ああ、驚いた。誰だい?こんな所で。この辺は稀に妖怪なんかが出て危ないんだ。
子供は早く帰った方が良い。道に迷ったのなら案内してあげるから」
少女は益々愉快になって、クスクスと笑いました。
今から食べられるとも知らずに暢気に話す獲物が、可笑しくて堪りません。
少女は目隠しを止めて、獲物の正面に立ちました。
「そう、私は今とっても困ってるの。道は分かるけど、お腹ペコペコでもう動けない程よ」
獲物は狐にでも抓まれたように、ぽかんと口を開けて固まっていました。
私が妖怪だと気付いた?少女は獲物の反応をいぶかしみました。
人間の中でも勘が鋭い者や、微弱ながら霊力のある者等は、見た目が人間に近い妖怪でも一目で正体を見抜いてしまう事があります。
もっとも正体がばれたとして、少女には何の問題もありませんでした。
どの道ここまで近付いてしまえば、人間が逃げ切る事など不可能です。
寧ろ怖がってくれた方が面白いし、何より味が良くなる事を少女は知っていました。
しかし獲物は怖がる風でも無く、おもむろに懐を探ると、小さな紙袋を取り出しました。
そして袋を開けると、中から仔犬の掌程の、琥珀色に輝く平べったい物を取り出すと、少女に手渡しました。
「…何これ?宝石?」
「べっこう飴を知らないのかい?食べてごらん、美味しいから」
少女は、実は獲物が自分の正体に気付いていて、毒を盛ろうとしているのでは無いかとも疑いましたが、
匂いを嗅いでも怪しい感じはありません。何よりにこにこしながらこっちを見ている獲物の顔には、まるで殺気というものがありませんでした。
少女は恐る恐るそれを口に運びました。
「ん……!」
それは、今まで味わった事の無い美味しさでした。優しく滑らかな舌触りと、純粋な甘味。
肉とは全く異なる美味しさです。
「気に入ったかい?」
少女はこくこくと頷きました。噛み砕くなど勿体無くて出来ません。いつまでも舐めていたいくらいでした。
男は満足気に笑うと、紙袋の方も差し出しました。
「それならこれもあげるよ。何、大した物じゃ無いから遠慮する事は無い。」
「ほんろに!?」
飴が飛び出しそうになって、少女は慌てて口を押さえました。
「ああ。ところで僕はもう行くが、本当に道は分かるんだね?」
少女は勢い良く頷きましたが、実の所このべっこう飴という美味しい物がまだ食べられるという嬉しさで頭が一杯で、
男の言う事などロクに聞いてはいませんでした。
男はちょっと不安そうな顔をしながらも、弓と矢筒を拾って、木々の間へと消えて行きました。
少女は男の姿が見えなくなるまで、ぶんぶんと手を振っていました。
「あっ」
少女が男を食い損ねた事に気付いたのは、自分のねぐらに帰って、三つ目の飴を口に入れた瞬間でした。
まあいいか、こんなに美味しい物をくれたんだし――と少女は自分を納得させました。
そんな少女の思考に反抗するように、お腹がきゅううう、と鳴りました。
べっこう飴はとても美味しいのですが、人食い妖怪である少女のお腹の足しにはなりませんでした。
「お腹減ったなぁ…人間が居ると良いけど」
最後に人間を食べたのは十日前でした。
少女の小さな身体なら、一週間は食べずとも平気ですが、流石に十日となると焦り始めます。
日も暮れかかった森の中を人間がそうそう都合良くうろついているとは思えませんでしたが、何せお腹が鳴っています。
少女はねぐらを後にして、薄暗い森の中をふらふらと彷徨い始めました。
◆
「ふーふっふっふっふふふっふー♪ふーふっふっふっふふふっふー♪ふふっふふー♪」
上機嫌に鼻歌を歌いながら、少女は森を徘徊していました。
昨夜は、運良く足を挫いて動けなくなっている人間を見つける事が出来たので、これ幸いと適当に脅して食べたのでした。
満腹の少女は、何か面白い事は無いものかと特に当ても無く飛んでいました。
すると、どこからともなく漂って来た微かな甘い匂いが、少女の鼻をくすぐりました。
もしやと思った少女は、急いでその匂いの元へと飛んで行きました。
男はすぐに見つかりました。獲物でも探しているのか、弓と矢筒を背に、辺りを見回しつつザクザクと歩いています。
少女は昨日と同じ様に、地面に降りて近付きました。
「こんにちわ、おにーさん」
少女が声をかけると、男は弾かれた様に振り向きました。少女の姿を認めると、ほっと安堵の表情を浮かべて、
「やあ、君か。ここらは妖怪が出ると言っただろう。危ないから早くお帰り」
と、相変わらず的外れな忠告を投げかけました。少女はクスクス笑って言いました。
「病気で寝込んでいるお母さんの為に、薬草を摘まないといけないの。それにこの森の事なら、きっと貴方より詳しいわ」
人間を油断させる為に、この手の嘘はつき慣れています。男は呆れ半分といった顔で、そうかいと呟きました。
「お母さんの具合は悪いのかい?血を吐いたりとかは?」
「うーん、そういうのは無いけど、風邪をこじらせちゃって。それよりお兄さんこそ、こんな森の奥で何をやってるの?
狩りならもっと良い場所が幾らでもあるでしょう?
「…僕は狩りをしに来ているんじゃ無いんだ。いや、狩りもするが、それはついでだ」
男の声が少し小さくなりました。
「狩りで無いなら、何してたの?貴方の言う通り、ここはたまに出るらしいわよ」
こわぁい人食い妖怪が――と精一杯の低い声で言いましたが、残念ながらその様子はお世辞にも怖いとは言えません。
男は苦笑しながら答えました。
「探し物だよ。大切なものをこの森でなくしたんだ。ずっとそれを探している」
少し寂しげなその言葉に、少女は首を傾げました。
「失くしたものって、何?」
「僕以外の人間にとっては何の価値も無いものさ。それより、適当に座ってべっこう飴でも食べないか?」
少女は、ぱあっと目を輝かせました。
二人は小さな岩に並んで腰掛け、べっこう飴を舐めながら色々な話をしました。
男は人間の冒険譚や笑い話を、少女は薬草や山菜が生えている場所の事等を話しました。
やがてお互いに話題が尽きて会話が途切れた時、ふいに少女が尋ねました。
「お兄さん、妖怪に出遭った事はあるの?」
男は少し面食らった様でしたが、間を置かず答えました。
「何度かね。でも幸いにして、まだ危険な妖怪に遭った事は無いが」
「ふーん……ねぇ、人食い妖怪ってどんな姿をしているのかしら」
「…話に聞く限りでは、返り血に染まったボロボロの服を着て常に血腥い息を漂わせ、鋸の様な鋭い歯と爪を持った、
それは恐ろしい風貌をしているそうだ」
「へー、そーなのかー……でも、実はそれが真っ赤な嘘で、本当は私みたいな可愛い女の子の姿をしているとしたら?」
男は束の間キョトンとした表情を浮かべて、次の瞬間には腹を抱えて笑っていました。
怖がらせるつもりで言った少女には何がなんだか解りません。
「ああ可笑しい。君のような可愛らしい子供じゃ、例え人食いでも何も怖くないじゃないか」
「だから、そう思わせて油断した所をパクっと」
「あっはっは、面白いね。でも君は人食いと言うよりは幽霊向きだ」
むぅ、と少女は頬を膨らませました。男は明らかに少女の話を冗談だと思っています。
そんな少女を見て何を思ったのか、男はぽんぽんと少女の頭に触れてから立ち上がり、懐から例の袋を取り出しました。
「ごめんごめん、気を損ねたなら謝るよ。これはお詫びだ。お母さんにも食べさせてあげなさい」
現金なもので、少女はすぐに機嫌を直して袋を受け取りました。
男が弓と矢筒を取り上げたので、少女がまたねと声をかけると、男は片手をあげて応え、里の方へと帰って行きました。
「全く、人間の癖に私を馬鹿にして……次に会ったら食べてやる」
誰も居なくなった森の中で、少女は誰にとも無く言い訳するようにひとりごちました。
◆
それから少女は、毎日のように男を探しては会いに行きました。
元々妖怪が出没するとあって立ち入る者の少ない森なので、男が森に居ればすぐに見つけられるようになりました。
男からは、常にべっこう飴の甘い匂いが漂っていたのです。
森へ入れば必ず顔を会わせる少女に、男は特に不思議がる様子も無く、やあと挨拶をするだけでした。
そうして他愛も無い話をして、最後にべっこう飴を貰い、別れるというサイクルを繰り返す内、少女はべっこう飴を貰う事よりも、男と会う事それ自体を楽しみにしていました。表情豊かに悲喜交々の話をする男の顔を見ていると、暖かく、それでいて胸が締め付けられるような、奇妙な感覚に襲われるのです。それは不快な感覚では無く、寧ろもっと味わっていたいと思えるものだったので、少女はより熱心に男を探すようになりました。
その感覚を何と呼ぶのか、少女が知るのはそれから間も無くの事です。
冷たい雨の降るある日の事。少女はしばらく食事を採っていない事に気付きました。その割には食欲がありませんでしたが、何しろ食べなければ死んでしまいます。少女の記憶では、最後に人間を食べたのは2週間近くも前でした。
このままだとじきに空も飛べなくなってしまいます。少女は重い身体に鞭打って森へと飛び立ちました。
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「行きなさいよ」
雷鳴が轟き、雨粒があらゆるものを激しく叩きつける中、少女は震える声で言いました。
その顔は苦しげに歪み、喘息持ちのようにぜいぜいと肩で息をしています。
少年は傷ついた右腕を押さえ、少女の声よりも激しく震えていました。歯の鳴る音が、雨音を飛び越えて少女の耳を打っています。
「早く行きなさいよ…殺すわよ」
ひっ、と声をあげると、少年は慌てて立ち上がり、駆け出そうとしましたが、ぬかるんだ地面に足を取られて派手に転びました。
少女が無言で腕を振るうと、側にあった大木が真っ二つにへし折れ、少年の足をかすめて地面に激突しました。
「早く行けえっ!」
少年は半狂乱になって、泥や木の根に足を取られながらも一目散にその場を去りました。
がっくりと膝をつき、懺悔するように身体を折って、少女は呻きました。
「ぐ…う、ぐ、うえぇ…」
こみ上げる吐気は、少年を襲ってからずっと少女の身体に居座っています。
今まで当たり前に行なって来た人間を食べるという行為が、今の少女には途轍もなくおぞましい事のように感じられて、
振りかぶった腕はすんでの所で軌道を変え、少年の腕をかする程度に止まりました。
そこから滴る血を見ると、益々吐気は強くなり、まともに立っていられない程でした。
結局少女は、死ぬ程お腹を空かせているにも関わらず、獲物を逃がしてしまったのです。
やがて少女は亡霊の如く宙に浮かぶと、憔悴しきったままねぐらへと戻りました。
闇の中、少女は膝を抱えて考えました。
何故突然人間が食べられなくなったのか。
何故人間を襲おうとすると、あの男の顔が浮かぶのか。
独りとは、こんなにも寂しいものだったか。
思考がぐるぐるじりじりと頭の中を廻り続け、やがて外が明るくなって来た頃、少女は昔に聞いた母の言葉を思い出しました。
『いいかい、よくお聞き。我々にとって人間は餌であり天敵だ。決して人間に心を許してはならない。
決して情をもってはならない。特にお前は男に注意おし。奴等は稀に病気を運んで来る。
その病気にかかると一匹の人間に執着するようになり、その人間に会わないと胸が苦しくなる。
やがて人間を襲う事に罪悪感と恐怖を抱き始め、食事もままならなくなる。そうして衰弱して死んでいくのさ。
この病気にかかったら最後、どんな薬も効きはしない。執着を抱いた人間を食い殺すしか、治す方法は無いんだ。
いいかい、くれぐれも人間と関係を持つような事をするんじゃないよ。そうすれば、この病気にはかからない。
――病気の名前?それはね……』
「……思い出した」
つい最近まで人間をただの餌としか思っていなかった少女は、母の話を心に留める事はありませんでした。
あんなに美味しい物を自分から食べなくなるだなんて、とても信じられなかったのです。
そうして軽々しく人間と仲良くなって、人間が食べられなくなっている現実。
少女は得体の知れない感情が身体中を満たして行くのを感じました。ぎり、と爪を噛み、
「ころさなくちゃ」
臓腑の底から、幽鬼のように呟くと、ただ一人の人間を求め、少女はねぐらを飛び立ちました。
◆
「やあ」
妖怪の耳をもってしてやっと聞こえる程度の声量である事を除けば、男の挨拶はいつもと何ら変わりありません。
少女はまともに返事も出来ず、ただ呆然と立ち尽くしていました。
あれだけ猛々しく身体の中を廻っていた何かは、今や完全に冷え切って、何処かへ引っ込んでしまいました。
「運が悪かったよ。連日の雨で地盤が緩んでいたんだろう……お陰で、この様だ」
男の腹の半分と右腕と両足は、落石と思しき岩に押し潰されていました。
周囲の地面には血が滲み、激しい雨の中でも鉄の臭いが強く漂っています。
ごほ、と男が咳き込むと、その口から赤黒い血がどろりと流れ出ました。
少女は全身の血が逆流した様な錯覚を覚えました。目の前がどんどん白くなって、何も考えられません。
「――誰か、誰か呼ばないと」
「待てっ……待ってくれ。僕はもう、長くはもたない。その前に話したい事がある」
混乱の極みにあった少女を現実へ引き戻したのは、蚊の鳴く様な男の声でした。
急速に視界を取り戻した少女は慌てて男の傍らに駆け寄り、その顔を覗き込みました。
蝋の様に白い顔と小刻みに震える血塗れの唇が、もう殆ど猶予が無い事を否が応にも少女に悟らせました。
男は少女と反対の方に顔を向け、口の中の血を吐き出してから言いました。
「ありがとう…一つ、確認したいんだが」
男は大きく息を吐くと、少女の眼を見て言いました。
「君は妖怪だね?」
そう驚かなくても良いだろう……そうだな、初めて会った時から違和感はあった。
森の中でも特に迷いやすい場所だというのに、君は焦る素振りも無かった。
この森の全体を把握するのに、僕等は五年もかかったのに、君のような子供が迷わずに居られるというのはおかしいと思ったんだ。
はっきりと疑いを抱いたのは二度目だ。君自身は意識していなかったのかも知れないが、君からは強い血の臭いがした。
君の言う、病気の母のものかと思ったが、風邪をこじらせただけで喀血も無いと言う。
そこで気付いたんだ。君がつい先程、『食事』をして来たんじゃ無いかと……。
……そうだね、普通は逃げ出すだろう。だが僕は、それでも森に入らねばならなかった。
なぁ、確かこれも二度目に会った時に話した。探し物があると言ったろう。
もう随分前だが、僕には妹が居た。この森に遊びに行って、そのまま帰って来なかった。
滑稽な話だよ。妹が消えたのは十年近くも前だ。それ以来、僕は毎日の様に森へ入った。
親の居ない僕に残された唯一人の家族だったんだ。これから独りへ生きて行かねばならないのかと思うと、
何もせずに居る事など耐えられなかった。半ば自棄になっていたんだ。
妹を探している途中で妖怪に襲われても、別にそれで良いと思った。
そうして今までずっと妹を、妹の痕跡を探し続けていた。幸か不幸か、妖怪には出会わなかった。
君に会うまではね――
全くもって狂気の沙汰だ、と男は宙に向かって呟きました。
そしてもう一度少女の瞳を見ると、益々聞き取りにくくなった声で言いました。
「僕がいつもべっこう飴を持ち歩いていたのはね、妹に供えるつもりだったんだ。妹はあれが大好きだった。
妹に関する何らかの痕跡を見つけられたら、そこに供えるつもりだった。
だから、君にあげたんだよ」
数瞬の間を置いて、少女は男の言わんとする事を悟りました。
「そう、服や髪の色は違うが、君はまるで妹の生き写しだ。それは残酷な程にね……」
「じゃあ、私が妖怪だと解ってからも会い続けたのは――」
「会いに来ていたのは君の方だがね、その通りだ。君と妹を重ねていた。最近は君に会う為に森へ入っていたぐらいだ。
もう、疲れたんだよ。妹の幻想を追い続ける事が。それを探せと命じ続ける自分に従う事が。
僕は心のどこかで、こうなる事を望んでいた気がする……」
男は二三度大きく咽ると、苦しそうに喘ぎながらも喋り続けました。
「き…君が、どういう経緯で、どういう理由でそんな姿をしているのか、最早どうでも良い事だ……ただ僕は、これは天命だと思う。
こ、こんな愚かな男の、…最後の願いを、聞いてくれないか……」
少女は両手でぎゅっと男の手を握り、静かに頷きました。その手は既に氷の様に冷たくなっていました。
男は緩やかな微笑みを浮かべ、少女の手を僅かな力で握り返すと、こう呟きました。
「僕を、食べてくれ」
「……何を、言ってるの……?」
「無理は承知だ。でも、どうか頼む。このまま無為に死んで行くより、君の血肉となる方がずっと納得出来る……。
この十年間の結末がこれでは、僕は本当に……ただの狂人になってしまう……どうか……」
少女はじっと、最早言葉にならぬ言葉をうわ言の様に呟く男の顔を見つめて居ました。
紙巻煙草を一本灰にする位の時間が経った後、少女は固く握っていた手を離しました。
そして寄り添う様に、男の耳に唇が触れる程に顔を寄せ、
「大丈夫。気にしないで」
男の首に手を添え、
「私はその為に来たんだもの」
ぐ、と力を込め、
「……さよなら」
「……――……」
男の最後の言葉は、骨の砕ける音にかき消されました。
◆
自らの腕に爪を食い込ませ、掻き毟りながら嗚咽をあげて、少女は獣の如く男の臓腑を貪りました。
その肉を引き裂く度に、その腸を噛み千切る度に、少女は自らの心臓に牙を突き立てる様な痛みに襲われました。
しかし同時に感じるその味はこの上も無く甘美で、そう感じる自分がどうしようもなく浅ましく思えて、
少女は哭き続けました。
そうして自らの心と身体を激しく傷付け、狂った様に叫び続けながらも、少女は食べる事を止められません。
「ッがあぁあああああああっ!!!」
身体中を満ちる行き場の無い力に任せて振るった腕は、男を潰した岩を二つまとめて粉砕しました。
そうして表れた男の残りの部分も、張り裂けそうな胸の痛みを無視して食べ続けました。
自らの腕に、胸に、頬に爪を立て、地面を叩き、木々を薙ぎ倒して、身体を血に染めながら男の骨を噛み砕くその姿は、
いつか男の言った人食い妖怪の姿そのものでした。
やがて雨が止んで日が沈み、周囲が闇に包まれた頃、身体中に充満した魔力によって完全に回復した少女は、
同様に元通り修復された夜の様に黒い服に身を包み、闇に紛れる様にねぐらへと帰りました。
何から身を隠したかったのかは、少女にも解りませんでした。
「思い出した」
ずっと探していた言葉を見つけて、少女は呟きました。
「自業自得だ」
少女はごろんと仰向けに寝転がりました。
「もう、人間はいいや」
お腹一杯だし、と呟いた少女は、今まで空っぽだった自分の中の何かが満たされているのを感じていました。
その満腹感が、安らかな深い眠りを誘い、少女は眼を瞑ってその誘いに身を任せました。
意識が閉じる間際、少女はあの男と一緒になっていたらどうなっていたのだろう、と考えました。
そうしたら、あんな事には――――。
◆
その後、少女がどうなったのかは誰も知りません。
ただ、人食い妖怪の噂は、いつの間にかぱったりと途絶えていました。
その代わり、稀に森深くへと迷い込んだ者が、黒い服を着た少女に助けられるという噂が流れました。
その噂は長く言い伝えられる内に伝説となり、黒い服の少女は森の守り神として末永く祀られる事となりました。
おしまい
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ああ、しんどかった。次は思いっきりアホな話を書こうと思います。
いや、この話も十分アホですが。
こんなアホな私の作品を見て笑って下さる海よりも広い御心をお持ちの方は、
どうぞ次回も見てやって下さいませ。
後書き欄に空気の読めないルーミアがいるぞ!
クーリングオフがきかないってこういう意味かww
AAで他のの似たような作品とかなり印象が変わって個人的には良かった。