ふと死にたくなる瞬間がある。
別に何か悲しいことがあった訳でもなく、忙しさのあまり何もかも放り出してしまいたくなった訳でもなく、過去を振り返って自分というものがどうしようもなくやるせなくなった訳でもなく、叱りつけられて我ながらどうしようもないやつだとくじけそうになった訳でもなく、なく、なく、とにかくそういったマイナスのなにがしかがあったという訳でもなく。
ただ、何でもないような瞬間に、不意にその衝動はやってくるのだった。
その日は仕事も終え書見も終え、持て余した時間をなんとなく団子でもほおばりながら私室で過ごしていた。
その何でもない時間に、あまりにも平坦に、するりとその考えは鎌首をもたげるのだった。
(ああ、死にたい)
それはやっぱり悲しい訳でもなく、放り出してしまいたいわけでもなく、やるせない訳でもなく、くじけそうな訳でもなく、ただポンと湧き出たような死にたみだった。
私の感情や考えやはたまた生理的状態とは何らのつながりも持たないような、空間に点を打ったような唐突さで、死にたみが私の胸の中にあった。
あった。
そう、それはどこかから湧いたとか降ってきたとかいうものではなく、何の脈絡もなくそこに突然現れ、そしてしばらくの間、居座るのだった。
それでも私の胸の裡にあるということは、どうしたって私の心が生み出したものに違いはないのだけれど、しかし私にはその唐突な死にたみの所以もわからなければ、その意味も分かりはしないのだった。
(死にたいな)
私は死にたみを抱えながら、団子をまた一口ほおばった。
兎たちのこねてはついた団子は、甘さという点ではやや物足りない。物足りないのだけれど、何度も噛んでいるうちに自然と甘みが出てくる。その甘みはやっぱり物足りないような気もするのだけれど、しかしもぐもぐと噛んでいるうちにこれはこれでよいような気がしてくる。
もっぱら歯ごたえを楽しむものなのではないだろうかというくらい、もちもちとした歯ごたえは良い。ムニムニ、もちもちとした歯ごたえが、歯に、顎に、心地よい。
そうしてやはり、なんだか曖昧に甘い。
ごくりと飲み下したころには、またもう一つつまもうかなと思うくらいなのだから、この団子の甘さというもは、計算されたものではないにせよ、うまい具合にできている。
(しかし、死にたい)
そう、しかし死にたいのだ。
団子は美味しい。されど死にたい。
いや、団子と死にたみとの間には関連性も相関性もあったっものではないだろうけれど、しかし死にたい死にたいと思いながら団子をほおばるのはなんだか不思議に思えたし、死にたい死にたいと思いながら次の団子をつまむのは奇妙に感じられた。
それでもやっぱり私は次の団子をつまんでいたし、その曖昧な甘さを口の中でもちもちムニムニとあじわっていた。
そうして団子が腹に落ちたところで、茶をすする。
茶は、兎たちが焙じたほうじ茶だ。夏はこれを熱い湯で淹れて、氷で冷まして飲むに限る。
兎たちは遊び半分に焙じて暇をつぶせるし、私はほうじ茶のさっぱりとした味わいに涼を得る。
ウィン・ウィンというやつだ。
しかしこの冷やしほうじ茶というやつは、面白いものだ。
茶の葉を育て、摘み取り、蒸して、揉んで、また揉んで、干して、切って、形を整えてやった緑茶を、さらに焙じて、抽出して、更には氷で冷やしてやるというのだから、頭から考えると阿呆ほど手間がかかっている。
そのくせ、味わいというものは極々さっぱりとしていて、渋みや苦みは全然なく、ただ香ばしさと甘さばかりが抽出される。いや、そのくせというよりは、それだけしてやったからというべきなのだろうか。
月の様々がそぎ落としていくことで洗練されていったことに比べて、地上では手間を積み上げていくことで価値を生み出しているところがあるように思う。それが実際的価値であるにしろ、思想的価値であるにせよ。
そうしてさっぱりとしたのど越しを楽しんで、ふうと一息つくと、思わず声にも漏れる。
「ああ、死にたい」
「その割にはご満悦だね」
返事が返るとは思わず、思わず振り向くと、私のものとは違うふわふわとした柔らかな耳が鼻先をくすぐり、思いのほかすぐそばに甘ったるい子供のような体臭が感じ取れた。
(あ、死にたい)
いまの死にたみはその子供臭い体臭に魅力を感じてしまう自分のサガに対してだが。
私がそのふわふわに目を奪われている隙に、細っこい手がするりと伸びて、私の団子を横から掠め取った。
「フムン。別に団子がまずいという訳でもなし。といって格別うまいわけでもなし。するとそろそろお茶が怖いかな?」
「飲みたきゃどうぞ」
湯飲みを押しやれば、かさついたところもない唇が吸い付き、するりと琥珀色の液体を飲み下した。
「やあれ怖い怖いと。ドクダミ茶でもなし、はてさて月の兎は何が怖いのかしら」
「別に何も怖くないわ」
強いて言うならば、平気な顔して人の団子をつまみ、茶をすするこの因幡が怖かった。
永遠亭の誰よりも幼い顔をして、それでいて恐ろしく重い時の積み重ねを経てきたこの兎が。
「怖くもないのに死にたいの?」
にたにたと底意地の悪い笑みを投げかけてくるてゐに、私は少しの間、論理的な反駁を試みようというまさしく無駄な試みを模索したが、無駄は無駄だった。
結局のところ精神衛生的に最もよろしいのは、この柔らかな頬を眺めて悪戯っぽい笑みと極力好意的に脳内変換することだった。
「そうね。死にたいわ」
「悲しくないのに死にたいの?」
「そうね。死にたいわ」
「辛くないのに死にたいの?」
「そうね。死にたいわ」
「満たされているから死にたいの?」
「そう――なのかしら」
流されるままについつい答えそうになったけれど、しかし、それはどういうことなのだろうか。
悲しくて死にたくなるのはわかる。辛くて死にたくなるのもわかる。
しかし、満たされているから死にたくなるというのはどういう理屈だろうか。
「そうなんじゃないの」
「満たされてたら、普通死にたくないんじゃないの」
「そうでもないんじゃないの」
ぽかんとして眺めると、この小悪魔はにたにたと笑いながら私を見つめ返した。
「悲しいの?」
「悲しくないわ」
「放り出したいの?」
「放り出したいわけじゃないわ」
「やるせないの」
「やるせなくないわ」
「くじけそうなの」
「それこそ、まさか」
兎は笑った。
「マイナスがないなら、プラスしかないよ。ゼロはないんだ」
「プラスなら生きたいじゃないの」
「マイナスで生きたい時もある」
そうかもしれなかった。
そうでないのかもしれなかった。
私が存在しないゼロの上でマイナスとプラスに困惑していると、小さな手が私の頬を撫でた。
「なんでもない瞬間に死にたくなるのはね、満たされたままで終わりたいからさ」
兎の足は、幸運の象徴なのだという。
柔らかな感触がずっと続けばいいと思うと同時に、成程、私は不意の衝動に襲われるのだった。
ああ、死にたい。
別に何か悲しいことがあった訳でもなく、忙しさのあまり何もかも放り出してしまいたくなった訳でもなく、過去を振り返って自分というものがどうしようもなくやるせなくなった訳でもなく、叱りつけられて我ながらどうしようもないやつだとくじけそうになった訳でもなく、なく、なく、とにかくそういったマイナスのなにがしかがあったという訳でもなく。
ただ、何でもないような瞬間に、不意にその衝動はやってくるのだった。
その日は仕事も終え書見も終え、持て余した時間をなんとなく団子でもほおばりながら私室で過ごしていた。
その何でもない時間に、あまりにも平坦に、するりとその考えは鎌首をもたげるのだった。
(ああ、死にたい)
それはやっぱり悲しい訳でもなく、放り出してしまいたいわけでもなく、やるせない訳でもなく、くじけそうな訳でもなく、ただポンと湧き出たような死にたみだった。
私の感情や考えやはたまた生理的状態とは何らのつながりも持たないような、空間に点を打ったような唐突さで、死にたみが私の胸の中にあった。
あった。
そう、それはどこかから湧いたとか降ってきたとかいうものではなく、何の脈絡もなくそこに突然現れ、そしてしばらくの間、居座るのだった。
それでも私の胸の裡にあるということは、どうしたって私の心が生み出したものに違いはないのだけれど、しかし私にはその唐突な死にたみの所以もわからなければ、その意味も分かりはしないのだった。
(死にたいな)
私は死にたみを抱えながら、団子をまた一口ほおばった。
兎たちのこねてはついた団子は、甘さという点ではやや物足りない。物足りないのだけれど、何度も噛んでいるうちに自然と甘みが出てくる。その甘みはやっぱり物足りないような気もするのだけれど、しかしもぐもぐと噛んでいるうちにこれはこれでよいような気がしてくる。
もっぱら歯ごたえを楽しむものなのではないだろうかというくらい、もちもちとした歯ごたえは良い。ムニムニ、もちもちとした歯ごたえが、歯に、顎に、心地よい。
そうしてやはり、なんだか曖昧に甘い。
ごくりと飲み下したころには、またもう一つつまもうかなと思うくらいなのだから、この団子の甘さというもは、計算されたものではないにせよ、うまい具合にできている。
(しかし、死にたい)
そう、しかし死にたいのだ。
団子は美味しい。されど死にたい。
いや、団子と死にたみとの間には関連性も相関性もあったっものではないだろうけれど、しかし死にたい死にたいと思いながら団子をほおばるのはなんだか不思議に思えたし、死にたい死にたいと思いながら次の団子をつまむのは奇妙に感じられた。
それでもやっぱり私は次の団子をつまんでいたし、その曖昧な甘さを口の中でもちもちムニムニとあじわっていた。
そうして団子が腹に落ちたところで、茶をすする。
茶は、兎たちが焙じたほうじ茶だ。夏はこれを熱い湯で淹れて、氷で冷まして飲むに限る。
兎たちは遊び半分に焙じて暇をつぶせるし、私はほうじ茶のさっぱりとした味わいに涼を得る。
ウィン・ウィンというやつだ。
しかしこの冷やしほうじ茶というやつは、面白いものだ。
茶の葉を育て、摘み取り、蒸して、揉んで、また揉んで、干して、切って、形を整えてやった緑茶を、さらに焙じて、抽出して、更には氷で冷やしてやるというのだから、頭から考えると阿呆ほど手間がかかっている。
そのくせ、味わいというものは極々さっぱりとしていて、渋みや苦みは全然なく、ただ香ばしさと甘さばかりが抽出される。いや、そのくせというよりは、それだけしてやったからというべきなのだろうか。
月の様々がそぎ落としていくことで洗練されていったことに比べて、地上では手間を積み上げていくことで価値を生み出しているところがあるように思う。それが実際的価値であるにしろ、思想的価値であるにせよ。
そうしてさっぱりとしたのど越しを楽しんで、ふうと一息つくと、思わず声にも漏れる。
「ああ、死にたい」
「その割にはご満悦だね」
返事が返るとは思わず、思わず振り向くと、私のものとは違うふわふわとした柔らかな耳が鼻先をくすぐり、思いのほかすぐそばに甘ったるい子供のような体臭が感じ取れた。
(あ、死にたい)
いまの死にたみはその子供臭い体臭に魅力を感じてしまう自分のサガに対してだが。
私がそのふわふわに目を奪われている隙に、細っこい手がするりと伸びて、私の団子を横から掠め取った。
「フムン。別に団子がまずいという訳でもなし。といって格別うまいわけでもなし。するとそろそろお茶が怖いかな?」
「飲みたきゃどうぞ」
湯飲みを押しやれば、かさついたところもない唇が吸い付き、するりと琥珀色の液体を飲み下した。
「やあれ怖い怖いと。ドクダミ茶でもなし、はてさて月の兎は何が怖いのかしら」
「別に何も怖くないわ」
強いて言うならば、平気な顔して人の団子をつまみ、茶をすするこの因幡が怖かった。
永遠亭の誰よりも幼い顔をして、それでいて恐ろしく重い時の積み重ねを経てきたこの兎が。
「怖くもないのに死にたいの?」
にたにたと底意地の悪い笑みを投げかけてくるてゐに、私は少しの間、論理的な反駁を試みようというまさしく無駄な試みを模索したが、無駄は無駄だった。
結局のところ精神衛生的に最もよろしいのは、この柔らかな頬を眺めて悪戯っぽい笑みと極力好意的に脳内変換することだった。
「そうね。死にたいわ」
「悲しくないのに死にたいの?」
「そうね。死にたいわ」
「辛くないのに死にたいの?」
「そうね。死にたいわ」
「満たされているから死にたいの?」
「そう――なのかしら」
流されるままについつい答えそうになったけれど、しかし、それはどういうことなのだろうか。
悲しくて死にたくなるのはわかる。辛くて死にたくなるのもわかる。
しかし、満たされているから死にたくなるというのはどういう理屈だろうか。
「そうなんじゃないの」
「満たされてたら、普通死にたくないんじゃないの」
「そうでもないんじゃないの」
ぽかんとして眺めると、この小悪魔はにたにたと笑いながら私を見つめ返した。
「悲しいの?」
「悲しくないわ」
「放り出したいの?」
「放り出したいわけじゃないわ」
「やるせないの」
「やるせなくないわ」
「くじけそうなの」
「それこそ、まさか」
兎は笑った。
「マイナスがないなら、プラスしかないよ。ゼロはないんだ」
「プラスなら生きたいじゃないの」
「マイナスで生きたい時もある」
そうかもしれなかった。
そうでないのかもしれなかった。
私が存在しないゼロの上でマイナスとプラスに困惑していると、小さな手が私の頬を撫でた。
「なんでもない瞬間に死にたくなるのはね、満たされたままで終わりたいからさ」
兎の足は、幸運の象徴なのだという。
柔らかな感触がずっと続けばいいと思うと同時に、成程、私は不意の衝動に襲われるのだった。
ああ、死にたい。
はじめはネガティブな意味だった『死にたい』が最後はポジティブに使われているところに優曇華の変化を感じました
発作とも思える自分の心境の理由がわかり優曇華が満足したようで何よりでした
途中まで誰の一人称かよく分かんなかったのが気になります