夜。
火鉢で炭火が熾(おこ)り、妖夢が神妙な顔をして火箸で灰をかき混ぜている。
金網の上で膨れつつある餅を横目に見ながら、幽々子は不意に側に座る妖忌に話題を振った。
「寒くないかしら」
「炭を足しましょうか」
「違うわよ。貴方が寒くないかと思ったの」
もぞもぞとこたつの中にさらに下半身を潜り込ませる幽々子。
どういう風の吹き回しだろうか。
今まで、幽々子が彼の着るものに気を配ることなど一度もなかった。
無論、妖忌はみすぼらしいものを身にまとっているわけではない。
いつもと同じ、枯れ草色の装束だ。背には白玉楼の紋が描かれている。
格別、身だしなみにおかしなところなどない。
幽々子の言っていることが分からず、彼は首を横に振った。
「そのようなことはありませぬ」
しかし彼の返事など、主は完全に無視した。
「妖夢~。今度買い物に出たときに服も一着見繕ってきてくれるかしら」
「私がですか?」
と妖夢は目を丸くする。
「いえ。ですから、そのようなことは不要と」
「いいから。お代は私が払うから、安物なんか買ってこないでよ。そうね……遠出に耐えられるような旅装束みたいなのがいいわね」
勝手にどんどんと話を進めていく幽々子。
「旅装束って……師匠が出かけられるんですか?」
話についていけない妖夢は目を白黒させている。それもそうだ。妖忌がここ白玉楼から遠くに出かけたことなど滅多にない。
だが、妖忌はぎょっとした。
自分に旅装束を与えるとは何事だろうか。
まさにこれから、誰にも知られることなく出奔の準備を整えようとしているその矢先に。
「そんなこと誰も言ってないわよ。ただ、長旅にだって耐えられるくらいに丈夫な服を買ってきなさいって言っているだけよ。ねえ?」
幽々子が流し目でこちらを見た。
その表情からは、彼女が何を考えているのか読み取れない。
全てを見通しているのか、それともただの天然で言っているだけなのか。
どちらとも取れる目つきだ。
妖忌にはただ、黙っていることしか出来なかった。
桜が花開き、咲き誇り、そして散っていく。
それに合わせるかのように、妖忌の旅の準備は完了した。
夜明け前に沐浴を済ませ、彼は身支度を整える。
別れは告げない。
恩顧賜ルモ未ダ報ヘズ
老境至ルモ未ダ冥頑不霊
以ツテ恥トナシココニ白玉楼庭番ノ職ヲ辞スコトヲ願ヒ奉ル
願ワクハ無何有郷ニ帰臥シ
鳥獣ヲ友トシ草木ヲ隣人トスル日々ヲ過ゴサン
タダ応無所住而生其心ニ至ラント欲ス
自分でもいささか冗長に過ぎると思いつつも、以上の文をしたため主の眠る部屋の前に置いてきた。
恐らく幽々子は全てを知っていたのだろう。
改めて、一見昼行灯に見える彼女が垣間見せる洞察の深さに恐れ入る。
草鞋を強く結び、彼は外に出る。
夜明け前の清涼な空気。
妖忌はこの時刻が好きだった。
世界の全てがまだ眠っていて、やがて来る朝を待っている。
一切が静止してしまったような中、自分だけが覚めて天地の真中に立つという感覚。
かつて覚者たる釈迦が在った境地とは、かくの如きものかと思う。
大小を腰に歩き始める。
服装は、幽々子に与えられた立派な旅装束だ。背にはもう、白玉楼のものであることを示す紋所はない。
これも、幽々子なりの気遣いなのかと一人考える。
遠い異国では、そして異国の風習を守る紅魔館では、家屋敷に仕えている妖精に着るものを与えると、それが馘首のしるしだと聞く。
ならば、この服は彼女なりの手向けなのか。
次第に暁に染まっていく空の下、妖忌は庭をゆっくりと歩いていく。
二度と再び見ることのないであろう庭だ。
丹念に、丁寧に、じっくりと彼は庭の木々を見、心の中で別れを告げていく。
日々携わっていた仕事のときと同じように。
美しい庭だ。
己が仕事を誇りに思うには、十分すぎるほどの素晴らしい庭だった。
剪定する立場から、それを見て回る立場になって初めて思った。
何と広い庭だろうか。これほど広大な庭を、今まで自分はたった一人で司っていたというのか。
――よくぞ、成し遂げたり――
胸のうちに感慨が湧き上がるのを感じたが、形にはならなかった。
そして、彼女を見つけた。
妖夢が通り道にいた。
分かれ道のない一本道の真ん中に立っていた。
身支度を整え、背には二本の刀を差している。
表情のない仮面のような顔で、妖夢はこちらを見ていた。
おどおどとした臆病さがにじみ出ている今までの見慣れた顔ではなく、一度も見たことのない顔がそこにあった。
抜刀すれば切っ先が届くほどの位置で、妖忌は立ち止まった。
それを迎える妖夢。
なぜ彼女がここにいるのか、彼は知らない。
そして彼女もまた、なぜ自分がここにいるのかを言わない。
一息、妖夢の胸が動いて息を吸い込む。
「お供を」
そして、頭だけで一礼。
「不要」
妖忌は間髪入れずに答えた。
それに臆すことなく、妖夢は頭を上げた。
まっすぐに、彼を至近距離から見据えた。
こちらを見つめるその瞳。
二人の視線がぶつかり合う。
ようやく、見ることが叶った。
師匠をしっかりと見据え、その言葉を待つ弟子の姿を。
今までのように恐れつつ目を合わさないのではなく、何があろうとも退かない不退転の心意気をたたえた妖夢を。
ただ一つの心残りが晴れた。
これならば心配はいらない。確かに最初は頼りなかろう。庭師の役など務まらないように感じるかもしれない。
だが、時が解決する。
自分が伐り残したあの枝の如く、やがては全体に和する見事な枝振りを見せることだろう。
大成の相が顔に出ているのを、妖忌は確かに見て取った。
「だが。その気遣い、かたじけなし」
そっと、妖夢の肩に妖忌は手をかけた。
妖夢に触れることなどどれほどぶりか。最後に触れたのは、まだずっと彼女が幼い頃のことだった。
触ってみて、初めて気づいた。
何と華奢な体であろうか。
男とは明らかに違う、肉の薄く骨の細い少女の肩だった。
この細身で、日々あれだけの鍛錬に耐えていたのか。
思いが胸を詰まらせ、言葉が思うように出てこなかった。
「良い庭師となれ。
立派な剣客となれ。
そしてこれからも、白玉楼と幽々子様に忠義を尽くせ」
それから、何と言っていいものか分からずに、
「以上」
とだけ。
妖夢は、口を真一文字に閉じ、目をしっかと見開いてその言葉を聞いていた。
泣くのを、こらえているように見えた。
妖忌にそれ以上の言葉は、浮かんでこなかった。
口を閉じ、横を通り過ぎる。
妖夢は立ち止まったまま何もしなかった。
歩を進める彼の耳に、彼女の声が届いた。
妖夢は、立ったままで泣いていた。
嗚咽が聞こえる。
息を詰まらせ、しゃくりあげ、それでも懸命に涙を流すまいとこらえていた。
振り向かなくても分かる。
臆病で、気弱で、泣き虫だった妖夢は、やはり臆病で、気弱で、泣き虫なままだった。
それでも、必死で涙を見せまいと耐えている。
握りこぶしが、目をこすって涙をぬぐう。
別れに際して、涙など流していないように見せようと。
初めて。
初めて妖忌は、口に出した言葉を翻した。
自分の決めた約束を破った。
初めて彼は、「以上」と告げた後に言葉を続けた。
「お前を、誇りに思う」
本心から告げた。
告げなければならなかった。
師匠との今生の別れに立会い、はなむけを渡した弟子に、そう告げなければならなかった。
お前は自分の誇りだ、と。
どのようなことが今まであったとしても、それは揺るぐことはなかった。
今ここにいる妖夢は、妖忌の誇りだった。
師として弟子を誇りと思う。これほどの至福が他にあろうか。
妖夢の泣き声が止んだ。
「また会おうぞ」
それだけを言い残し、妖忌は再び歩き出した。
最後まで、彼は振り返って己の弟子を、そして己の長年仕えた白玉楼を再び目にすることはなかった。
無限に続くが如き階段を下り、ようやく妖忌は雲海を望む場所に来た。
結界の外、現世に出た。
雄大に広がる白雲はまさに大洋を思わせ、所々から白銀の山の頂が小島のように顔を覗かせている。
しばし、そこに佇む。
茜色に染まる空。
暁を告げる鳥たちの群。
そして、空と同じ色に変わる雲。
眩しいほどの光が、世界に到来した。
朝日が昇ってくる。
たった一つの太陽が、遍く世界の全てを照らし出す。
「まさに、絶景かな」
我知らず合掌。
これからの旅の安全を祈願する。
――ねえ、妖忌――
不意に、幽々子の声が聞こえたような気がした。
気配を探るが、どこにも彼女の気配は感じられない。
そうだ。幽々子はここにはいない。
今頃は白玉楼の座敷。開け放たれたふすまから外を見ていることだろう。
いつもと変わりなく、美しく優雅に。
春風が花を散らし、風は「美味礼賛」「食前方丈」と墨痕鮮やかに書かれた掛け軸を揺らしているに違いない。
桜の花びらが、はらりと彼女の着物にかかる。
着物の模様になることを望むかのように。
――あなたにとって、剣とはどんなものなのかしら――
たしかに、幽々子の声が聞こえた。
彼女に従う死を告げる揚羽蝶が運んだ声か、それとも風の精の仕業か。
ならば答えよう。
妖忌は背筋を伸ばし、自信に満ちた声で告げる。
「剣とは、とらえられぬものにございまする」
剣とはすなわち我が生そのもの。
殺々三昧、活々三昧。
活殺共に刃の内にあり。
此れ自らの全てなれば、如何にして一つところにとらえられようか。
その答えに、幽々子は嬉しそうに微笑んだような気がした。
風が吹き、幻をかき消す。
問いの答えが、彼を導く。
初めて、彼は理解した。
我が剣はとらえられぬもの。
そして我の挑んだ天地もまた、とらえられぬもの。
とらえられぬものにて、とらえられぬものを斬ろうとしていた。
――何ということか。この身は天地と同じだったのか――
斬るのではない。
共に在るのだ。
答えが出た。
ようやく、覚ることが出来た。
――最後の最後までのお心遣い。心より感謝致す――
惑いの霧が晴れ、目の前が速やかに明るくなっていく。
「今ぞ――――得たり」
広がる世界に向かって、妖忌は足を踏み出していく。
この二本の足がどこへ導こうと、恐れることはない。
自分と世界はここに一つなのだ。どうして恐れることがあろう。
彼は自分が、二度と腰の刀を抜くことはないであろうと知った。
もうその必要はないのだ。
もはや迷いも恐れも不安もなく、五臓六腑を満たすのは爽やかな充足感のみ。
身は朝の雲の如く軽く、心は朝の空の如く晴れやかだった。
――我只今具足し 六根尽く清浄也――
〈完〉
テラカッコヨス。
最高です、ありがとうございました。
お見事也。
妖忌の想いも、それを包む周りの人々の心も解るし、話の流れとしても素晴らしいと思います。語彙のセンスも良いし、自分なりの世界を紡ごうというその姿勢にも感心致します。
ただ……文章の繋がりが悪い。短文の連続で、文章の流れが淀んでおり、引き込まれる事が出来ませんでした。
ウェブにおける表現方法として句点で改行するという手法はありですが、レイアウトを意識しすぎて一行に収めるために単調になったのでしょうか。骨太な文体とストーリーなだけに、その手法は似合わない気がします。
偉そうな事を言って申し訳ないのですが、期待の表れだと思ってくだされば幸いです。
妖忌旅立ちの前に、妖夢編を一本入れてもいいくらいに。
あとやっぱり描写が単調というか、言い方は悪くなりますが少し短絡的すぎるかなぁと。
この話ではかえってそれが妖忌の「らしさ」を出している部分もありましたが、一文毎に流れを切られては読む方も疲れてしまいます。
あれもこれも書きたかったんだろうなぁ、という思いがひしと伝わってきますが、そのどれもが混ざって濁って、結果不明瞭に。
話の流れ(文章ではなく)や前後の関係、後への伏線等その辺りをはっきりと決めて書けばもっといいものになると思うだけに、勿体無いという思いが強く。
あと、やっぱり中編から後編は切る必要はなかったんじゃないかとも。
私はこれでいいと思うというか、むしろこれ"が"いいと思うんだけど。
語り過ぎはかえって無粋だっていう感性は古いのかな?
とはいえツッコミが入るって事は隙があるって事な訳で、じゃあ満点ではないのかな?
妖忌って確かいきなり行方不明になったんじゃ?
>近藤さん
2本目でも書きましたが、妖夢編も蛇足になるだけだと思います。番外編としてなら良いかも知れませんが、本編に挿入すれば一貫した妖忌視点がブッた切られてちぐはぐになるだけかと。
たろひさんと近藤さんの指摘はどうにも一般化できる技術的なものではなく、受け取る側の感性との折り合いの度合いの話になっていると感じます。お二方が「足りていない」「行き過ぎている」と感じられる幾つかの文体や表現は、たまたま私には全て絶妙でした。7人目の名無しさんにとっても恐らくそうだったのではないでしょうか。その7人目の方は遠慮?されているようですが、私は私の感性にぴったり合致したので100点を入れさせていただきます。
文章が少なかったのかもしれませんが、私としては雰囲気に魅せられたのだと思います。
淡々とした語りで妖忌を描く地の文が、かえって鮮明に思い悩む老境の人間を鮮明に想像させました。
パート1の紫様との会話はうさんくささがでてて良かったです。
パート2の冒頭で掛川宿の某先生を連想してしまったのは狙い通りだったのでしょうかw
パート3の最後。幽々子の問いによって剣とは何かを悟るシーンも胸が震えました。慧音の伏線もありましたし。
なによりも、妖夢の涙をこらえる姿がとてもいじらしく、妖忌の一言をどれほど嬉しく思えたかを考えるとまた胸を打たれます。
今作を読み終えたばかりですが、次回作を期待しています。
でも嫌いじゃありません。好きです