それはにとりが普段どおり作業中のことだった。
すぅ――と、風の切る音が聞こえた。
そんな音を立てて空を翔る友人を、にとりは一人しか知らない。
「お久しぶりです、にとり。奇遇ですね、こんなところで会うなんて」
「こんなところって、ここは私の家だよ。奇遇も何も文、あんたが訪ねてきたんじゃないか」
断りもなく家に上がりこんできた文に対して、にとりは作業の手を止めず肩越しに言った。
久しぶりというのは、言われてみればそうかも知れない、とにとりは思う。
「そんなことより、ほらこれ、見てくださいよ」
そういって文は何かを取り出す。
にとりは作業の手を止めて、文の方を見た。
文が取り出したのは小さな透明のビンだ。
中には何やら透明な液体が少しだけ入っている。
「何だい、それは」
「シャボン液です。新聞配達に行ったら里の子供たちが分けてくれました」
「ふーん……で?」
「相変わらずノリが悪いですね、にとりは……。ほら、一緒にやりませんか?」
文は笑顔でストローを差し出してくる。
「……まあいいけど、ね」
あまり乗り気ではなかったが、たまにはこういうのも悪くはないのだろう。
にとりはストローを受け取ると、文の後ろをついて歩く。家から出てすぐのところにある切り株が、二人のお決まりの場所だった。
その切り株を椅子代わりにして、文はビンの蓋を開ける。
「では、にとりからどうぞ」
そういってビンが差し出された。
「………………」
別に自分がやりたいと言い出したことではないのだが、などと思いながら、けれどそんなことをこだわっても仕方がないのだとも、にとりは思った。
これは遊びなのだ。子供じみた遊びで、結局は二人一緒に遊ぶのだから。順番なんて、それこそどうでもいいことなのだろう。
にとりは手に持ったストローをビンの口に差し込み、先端をシャボン液にひたす。
そうしてストローを自分の口に持っていく――。
ふぅ――と、強く息を吹く。
にとりが咥えたストローの先から、小さなシャボン玉がいくつも勢いよく飛び出していく。
そうして風に乗り、ふわふわと浮かんでいくシャボン玉を見上げながら、文は言った。
「やっぱり、にとりは上手いですね」
「まあ、河童だからね」
だから水に関することは得意なのだ、と。
それは実際のところ、あまり関係のない話ではあったが。
「では次は私の番です」
そういって文はビンにストローを差し入れて、それを咥える。
ふぅ――と、文はゆっくりと少しずつ息を吐いていく。
そうすると、今度は一つの大きなシャボン玉が出来上がる。
絶妙な息づかいで作られたそれは、重そうに、けれどゆっくり空へと浮かんでいく。
風に吹かれて、形を何度も変えながら、ふわふわと。
「……文も相変わらずだね」
「風に愛された天狗ですから」
そういって二人は笑う。
それからは、ストロー一本で大小様々なシャボン玉を作ったり、二人の作ったシャボン玉を合体させたりして遊んでいた。
しばらくそうしていると、不意ににとりが呟くように言う。
「どうせなら、あの巫女と一緒にやればいいのにさ」
最近外の世界から山に引っ越してきた――名前は確か、早苗とか言っただろうか。
にとりは知っている。文が彼女に、特別な思いを抱いている、ということを。
――それが恋心かどうかまでは、分からないけれど。
少なくとも親愛の情を持っていることは、確かだ。
「あやや? にとりは楽しくありませんか?」
「いや、こういうのもたまには悪くないけどね……だからこそ、だよ」
――楽しいからこそ、そういうことは好きな相手とするべきだ。
それは友達としての、にとりからの忠告だった。
「心遣いはありがたいけど、私はにとりと一緒にやりたいと思ったからここに来たのですよ?」
そう言われてしまうと、これ以上は何も言えなくなってしまう。
だからにとりはまたシャボン玉を飛ばした。
浮かんでいくシャボン玉をじっと見つめる。やがてそれは壊れて消えてしまうけれど。
――パシャリ。
シャボン玉の壊れた音――ではない。
それはカメラのシャッターを切る音だった。
にとりが文の方を振り向くと、彼女は慌てて視線を上に向けて言った。
「いいシャボン玉が撮れましたね」
「……今絶対私のこと撮ったよね」
「いいえ、シャボン玉です」
「…………まあ、いいけどね」
にとりにとって、文に写真を撮られることは、今に始まったことではない。今更気にするような話でもなかった。
それからまた、にとりと文はシャボン玉を飛ばす。
きらきらと光を反射しながら、シャボン玉は様々な色に変化していく。
浮かびは消えて、またストローに息を吹いては浮かんでいった。
しばらくそうして繰り返し遊んでいると、にとりはふと文が何かを口ずさんでいることに気付く。
――シャボン玉飛んだ。
――屋根まで飛んだ。
――屋根まで飛んで。
――壊れて消えた。
「その歌、知ってるよ。最近の歌だよね」
「最近……まあ、まだ出来てから百年は経っていないでしょうけど」
「それなら、最近だ」
少なくとも、妖怪であるにとりの基準ではそうだった。
「シャボン玉って……まるで、人間みたいだよね」
にとりは言ってしまってから、失言だと気付く。
けれどそれを気にした様子もなく、文は言う。
「そうですね……でも最近の人間は、シャボン玉って雰囲気でもないですが」
「あはは、確かにね。あの博麗の巫女とか、変な魔法使いとか――」
「あやや、にとりは知らないんですね? 意外と早苗さんも、色々規格外なところがあるんですよ」
「ん? 確かこないだまでは文、『博麗の巫女と比べるとどうにも普通で、話題性に乏しく面白みがない』とか言ってたような……」
「いやー、あれは迂闊でしたね。実に早計でした。じっくり話してみると、これがなかなかにおかしい人で――」
そういって、文はしばらく早苗の話をした。
にとりはそれを聞きながら、何度も笑い声をあげる。
話している文が楽しそうで――。
話に出てくる早苗がおかしくて――。
――けれど。
――文の語るそんな日々の思い出も、結局はシャボン玉に過ぎないのだと、にとりは思わずにいられない。
にとりにとって、その事実自体は些細なことだった。
しかし、文にとっては――。
「――にとり? 聞いてますか?」
「ん……ああ、ごめん」
にとりは正直に謝った。
途中から、話が耳に入らなくなっていた。
「全く……そんなこと、にとりが悩むことじゃないでしょうに」
文は嘆息しながら言う。
確かに文の言うとおり、それはにとりの問題ではなかった。にとりが考えることでは、本来ないのであろう。
けれど――それでも文のことは、やはり心配だった。
「そうはいうけどね。文はやっぱり、そのことをまだどこか甘く考えていると思うよ。人間と妖怪では、時間の流れ方が違うんだ」
「そんなこと、分かっていますよ」
「分かってないよ。分かっていたら、今こんなところにいるはずがないんだ」
――本当に分かっているのなら、文はここではなく、早苗のところに行くべきなのだ。
にとりはそう思っている。
この、人間にとって貴重な時間を。
この、妖怪にとって冗長な時間と同じように扱っては――きっと後悔する。
「にとりの言い分も分かります、分かるけど、ですね――」
「けど、何さ」
文は一呼吸置いて、口を開く。
「この恋が終わったときに……慰めてくれるのは、貴方しかいないじゃないですか」
そんなことを、文は言った。
――それほどに、文にとって、にとりは特別なのだ、と。
「何言ってるんだよ、全く……」
呆れたように、肩をすくめるにとり。
――二人の仲において、それはあまりにも今更な話だ。
「時間が限られているからと、片方を疎かにするのは愚か者のすることである……ですよ」
「――それもまた、射命丸曰く、かい?」
そういってにとりはからかうように笑う。
それに対して、少し頬をふくらませるように文は言った。
「別にいいでしょう、にとりと違って私は新聞記者なんだから」
「私だって、別に悪いとは言ってないけどねぇ」
にやにやと、にとりは意地悪な笑みを浮かべていた。
文はそんなにとりを見て、何かを言おうとするけれど、結局何も思いつかず、仕方なく諦める。
そうしてふと――沈黙する。
静かに、風だけが流れていく。それから遅れて、かすかな香りがやってきた。――風に揺れた緑の香りだ。
吹かれて、揺れて、かすかに香る緑。
ずっとここにあったはずのそれに、二人は沈黙の中で初めて気がつく。
その沈黙を、先に破ったのは文だった。
「……これでもにとりには、感謝しているんですよ」
「何だい、急に改まって?」
「茶化さないで聞いてくださいよ。……ほら、このカメラ、覚えてます?」
「まあ、それくらいはさすがに、ね。何たって、私が作ったんだから」
――そして一体何度修理したことか。
「私はこのカメラで、色々なものを撮ってきました。それこそ今まで何枚撮ったかなんて、分からないくらい沢山」
文は続ける。
「そうして撮ってきた写真の一つ一つは、それこそシャボン玉みたいに消えてしまうはずだった一瞬一瞬を、そこに確かに残しているのです」
――その写真を見れば、当時の思い出は蘇る。
今では消えてしまったシャボン玉が、けれど確かに、そこにはあるのだ、と。
「確かに私たち妖怪から見れば、人間の一生はそれこそシャボン玉みたいなものでしょうけど……だったら私はそれをこのカメラで撮って、ずっとずっと、いつまでも残していけたらいいなと、そう思うんですよ」
そう言って笑う文が、にとりには少し眩しく思えた。
にとりは帽子を少し深く被りなおしながら、口を開く。
「……そういう、ものかな」
「……分かりません。本当はただ強がっているだけなのかも知れない。けど、報道に携わることになって、にとりが餞別にこのカメラをくれて。もしそれらが全て必然だったのだとしたら――」
――あるいはそれこそが、射命丸文のここにいる意味なのかもしれない。
そういって、純粋に笑う文。
それが、やっぱりにとりには、少し眩しくて。
「……頑張れよ」
静かに、独り言を呟くように、ただそれだけを言う。
文は一瞬目を丸くするが、すぐに笑顔に戻って、言った。
「はい、頑張ります。……だから、全てが終わったら、そのときはよろしくお願いしますね?」
「――任せとけよ、親友」
そんなことを言い合って、どちらからともなく笑い声を上げる。
気恥ずかしさを誤魔化すように、空にまたシャボン玉が舞った。
七色に輝くそれらは、撫でるような風でさえ壊れてしまうほどに、脆い。
けれどそれらの輝きを、文が残すというのなら。
文がそれらをずっと、覚えているというのなら。
――それらの短い生涯にも、きっと意味はあるはずだ。
にとりはそんなことを、シャボン玉を吹いている文の顔を見ながら思う。
「……ん、どうしました?」
「いや……シャボン玉を吹いてるときの文の顔って、少し間抜けだよね」
「そんなのにとりだって、同じでしょうに」
「あはは、それもそうだ。……同じだね、きっと」
「……?」
文は首をかしげたが、にとりはそれ以上何も言わない。
ふわりふわりと、シャボン玉が宙に浮かんでいた。
「――そういえば、文のライバルみたいな子は、最近どうしてるんだい?」
「はたてですか? 彼女は相変わらず、ですね。そういえばにとりはまだ彼女と会ったことがないんでしたっけ?」
「うん、そうだね。文との話に何回か出てきたくらいだよ」
「それなら今度紹介しますね。面白い子なので、きっとにとりも気に入ると思いますよ?」
「そうかい? それは楽しみだね」
気付けばシャボン液の残りもわずかになっていた。
まもなく、この遊びもお開きになるだろう。
「――ではそろそろ終わりにしますか」
「んー、そうだね」
「付き合わせてしまって悪かったですね。にとり、何か作業中だったのでしょう?」
「別に大したことじゃないよ。それに、案外楽しかったし」
「そうですか。それなら良かったです」
文はそういいながら、手早く片付けを済ませていた。
「ではにとり、また会いましょう。以前みたいに、たまには『文々。新聞』の方も、よろしくお願いしますね? ――では」
そう言い残し、次の瞬間には風を切る音だけがそこにはあった。
――全く、何をそんなに急いでいるのやら。
「……ああ、シャボン玉を残すのか」
そう呟いて、にとりは文のことを考える。
――妖怪が、人間に恋をするなんて。
「やっぱり、馬鹿だとは思うけどね。……まあ、恋の一つも出来ない私に言えたことじゃないか」
にとりは自嘲的に笑う。
「どこかに落ちてないもんかね、恋ってのはさ。――いや、逆か。こっちが落ちるんだっけ?」
――恋とは、気付いたときには落ちているものだ。
射命丸曰く、そういうものだと、新聞で読んだ覚えがにとりにはあった。
無意識のうちに、自覚なく、落ちるもの。
そこに個人の自由意志は介在しないというのなら。
彼女は一体、誰に恋をさせられているというのだろう。
にとりは、すでに誰もいなくなった虚空に問いかける。
――羨ましいね、全く。
にとりは両手を天高く伸ばし、ぐっと背筋を伸ばす。
「んー……っと。……さて、それじゃあ私も作業の方に戻るとするかな」
にとりはそう呟くと、自分の家へと、ゆっくり歩いていく。
そうして、にとりは思う。
文の歩む道が、どれほどに辛く困難な道だとしても、それをただ応援するのが自分の役割なのだろう。
そしていつか、傷ついて彼女が帰ってきたときには、一緒に酒を呑んで慰めてやるのだ。
にとりに出来ることは、きっとその程度でしかなく。
けれどその程度の役割を、文がにとりに望むのいうのなら――。
――任せておけと、そう言ってやるのが親友の役目に、違いないのだろう。
すぅ――と、風の切る音が聞こえた。
そんな音を立てて空を翔る友人を、にとりは一人しか知らない。
「お久しぶりです、にとり。奇遇ですね、こんなところで会うなんて」
「こんなところって、ここは私の家だよ。奇遇も何も文、あんたが訪ねてきたんじゃないか」
断りもなく家に上がりこんできた文に対して、にとりは作業の手を止めず肩越しに言った。
久しぶりというのは、言われてみればそうかも知れない、とにとりは思う。
「そんなことより、ほらこれ、見てくださいよ」
そういって文は何かを取り出す。
にとりは作業の手を止めて、文の方を見た。
文が取り出したのは小さな透明のビンだ。
中には何やら透明な液体が少しだけ入っている。
「何だい、それは」
「シャボン液です。新聞配達に行ったら里の子供たちが分けてくれました」
「ふーん……で?」
「相変わらずノリが悪いですね、にとりは……。ほら、一緒にやりませんか?」
文は笑顔でストローを差し出してくる。
「……まあいいけど、ね」
あまり乗り気ではなかったが、たまにはこういうのも悪くはないのだろう。
にとりはストローを受け取ると、文の後ろをついて歩く。家から出てすぐのところにある切り株が、二人のお決まりの場所だった。
その切り株を椅子代わりにして、文はビンの蓋を開ける。
「では、にとりからどうぞ」
そういってビンが差し出された。
「………………」
別に自分がやりたいと言い出したことではないのだが、などと思いながら、けれどそんなことをこだわっても仕方がないのだとも、にとりは思った。
これは遊びなのだ。子供じみた遊びで、結局は二人一緒に遊ぶのだから。順番なんて、それこそどうでもいいことなのだろう。
にとりは手に持ったストローをビンの口に差し込み、先端をシャボン液にひたす。
そうしてストローを自分の口に持っていく――。
ふぅ――と、強く息を吹く。
にとりが咥えたストローの先から、小さなシャボン玉がいくつも勢いよく飛び出していく。
そうして風に乗り、ふわふわと浮かんでいくシャボン玉を見上げながら、文は言った。
「やっぱり、にとりは上手いですね」
「まあ、河童だからね」
だから水に関することは得意なのだ、と。
それは実際のところ、あまり関係のない話ではあったが。
「では次は私の番です」
そういって文はビンにストローを差し入れて、それを咥える。
ふぅ――と、文はゆっくりと少しずつ息を吐いていく。
そうすると、今度は一つの大きなシャボン玉が出来上がる。
絶妙な息づかいで作られたそれは、重そうに、けれどゆっくり空へと浮かんでいく。
風に吹かれて、形を何度も変えながら、ふわふわと。
「……文も相変わらずだね」
「風に愛された天狗ですから」
そういって二人は笑う。
それからは、ストロー一本で大小様々なシャボン玉を作ったり、二人の作ったシャボン玉を合体させたりして遊んでいた。
しばらくそうしていると、不意ににとりが呟くように言う。
「どうせなら、あの巫女と一緒にやればいいのにさ」
最近外の世界から山に引っ越してきた――名前は確か、早苗とか言っただろうか。
にとりは知っている。文が彼女に、特別な思いを抱いている、ということを。
――それが恋心かどうかまでは、分からないけれど。
少なくとも親愛の情を持っていることは、確かだ。
「あやや? にとりは楽しくありませんか?」
「いや、こういうのもたまには悪くないけどね……だからこそ、だよ」
――楽しいからこそ、そういうことは好きな相手とするべきだ。
それは友達としての、にとりからの忠告だった。
「心遣いはありがたいけど、私はにとりと一緒にやりたいと思ったからここに来たのですよ?」
そう言われてしまうと、これ以上は何も言えなくなってしまう。
だからにとりはまたシャボン玉を飛ばした。
浮かんでいくシャボン玉をじっと見つめる。やがてそれは壊れて消えてしまうけれど。
――パシャリ。
シャボン玉の壊れた音――ではない。
それはカメラのシャッターを切る音だった。
にとりが文の方を振り向くと、彼女は慌てて視線を上に向けて言った。
「いいシャボン玉が撮れましたね」
「……今絶対私のこと撮ったよね」
「いいえ、シャボン玉です」
「…………まあ、いいけどね」
にとりにとって、文に写真を撮られることは、今に始まったことではない。今更気にするような話でもなかった。
それからまた、にとりと文はシャボン玉を飛ばす。
きらきらと光を反射しながら、シャボン玉は様々な色に変化していく。
浮かびは消えて、またストローに息を吹いては浮かんでいった。
しばらくそうして繰り返し遊んでいると、にとりはふと文が何かを口ずさんでいることに気付く。
――シャボン玉飛んだ。
――屋根まで飛んだ。
――屋根まで飛んで。
――壊れて消えた。
「その歌、知ってるよ。最近の歌だよね」
「最近……まあ、まだ出来てから百年は経っていないでしょうけど」
「それなら、最近だ」
少なくとも、妖怪であるにとりの基準ではそうだった。
「シャボン玉って……まるで、人間みたいだよね」
にとりは言ってしまってから、失言だと気付く。
けれどそれを気にした様子もなく、文は言う。
「そうですね……でも最近の人間は、シャボン玉って雰囲気でもないですが」
「あはは、確かにね。あの博麗の巫女とか、変な魔法使いとか――」
「あやや、にとりは知らないんですね? 意外と早苗さんも、色々規格外なところがあるんですよ」
「ん? 確かこないだまでは文、『博麗の巫女と比べるとどうにも普通で、話題性に乏しく面白みがない』とか言ってたような……」
「いやー、あれは迂闊でしたね。実に早計でした。じっくり話してみると、これがなかなかにおかしい人で――」
そういって、文はしばらく早苗の話をした。
にとりはそれを聞きながら、何度も笑い声をあげる。
話している文が楽しそうで――。
話に出てくる早苗がおかしくて――。
――けれど。
――文の語るそんな日々の思い出も、結局はシャボン玉に過ぎないのだと、にとりは思わずにいられない。
にとりにとって、その事実自体は些細なことだった。
しかし、文にとっては――。
「――にとり? 聞いてますか?」
「ん……ああ、ごめん」
にとりは正直に謝った。
途中から、話が耳に入らなくなっていた。
「全く……そんなこと、にとりが悩むことじゃないでしょうに」
文は嘆息しながら言う。
確かに文の言うとおり、それはにとりの問題ではなかった。にとりが考えることでは、本来ないのであろう。
けれど――それでも文のことは、やはり心配だった。
「そうはいうけどね。文はやっぱり、そのことをまだどこか甘く考えていると思うよ。人間と妖怪では、時間の流れ方が違うんだ」
「そんなこと、分かっていますよ」
「分かってないよ。分かっていたら、今こんなところにいるはずがないんだ」
――本当に分かっているのなら、文はここではなく、早苗のところに行くべきなのだ。
にとりはそう思っている。
この、人間にとって貴重な時間を。
この、妖怪にとって冗長な時間と同じように扱っては――きっと後悔する。
「にとりの言い分も分かります、分かるけど、ですね――」
「けど、何さ」
文は一呼吸置いて、口を開く。
「この恋が終わったときに……慰めてくれるのは、貴方しかいないじゃないですか」
そんなことを、文は言った。
――それほどに、文にとって、にとりは特別なのだ、と。
「何言ってるんだよ、全く……」
呆れたように、肩をすくめるにとり。
――二人の仲において、それはあまりにも今更な話だ。
「時間が限られているからと、片方を疎かにするのは愚か者のすることである……ですよ」
「――それもまた、射命丸曰く、かい?」
そういってにとりはからかうように笑う。
それに対して、少し頬をふくらませるように文は言った。
「別にいいでしょう、にとりと違って私は新聞記者なんだから」
「私だって、別に悪いとは言ってないけどねぇ」
にやにやと、にとりは意地悪な笑みを浮かべていた。
文はそんなにとりを見て、何かを言おうとするけれど、結局何も思いつかず、仕方なく諦める。
そうしてふと――沈黙する。
静かに、風だけが流れていく。それから遅れて、かすかな香りがやってきた。――風に揺れた緑の香りだ。
吹かれて、揺れて、かすかに香る緑。
ずっとここにあったはずのそれに、二人は沈黙の中で初めて気がつく。
その沈黙を、先に破ったのは文だった。
「……これでもにとりには、感謝しているんですよ」
「何だい、急に改まって?」
「茶化さないで聞いてくださいよ。……ほら、このカメラ、覚えてます?」
「まあ、それくらいはさすがに、ね。何たって、私が作ったんだから」
――そして一体何度修理したことか。
「私はこのカメラで、色々なものを撮ってきました。それこそ今まで何枚撮ったかなんて、分からないくらい沢山」
文は続ける。
「そうして撮ってきた写真の一つ一つは、それこそシャボン玉みたいに消えてしまうはずだった一瞬一瞬を、そこに確かに残しているのです」
――その写真を見れば、当時の思い出は蘇る。
今では消えてしまったシャボン玉が、けれど確かに、そこにはあるのだ、と。
「確かに私たち妖怪から見れば、人間の一生はそれこそシャボン玉みたいなものでしょうけど……だったら私はそれをこのカメラで撮って、ずっとずっと、いつまでも残していけたらいいなと、そう思うんですよ」
そう言って笑う文が、にとりには少し眩しく思えた。
にとりは帽子を少し深く被りなおしながら、口を開く。
「……そういう、ものかな」
「……分かりません。本当はただ強がっているだけなのかも知れない。けど、報道に携わることになって、にとりが餞別にこのカメラをくれて。もしそれらが全て必然だったのだとしたら――」
――あるいはそれこそが、射命丸文のここにいる意味なのかもしれない。
そういって、純粋に笑う文。
それが、やっぱりにとりには、少し眩しくて。
「……頑張れよ」
静かに、独り言を呟くように、ただそれだけを言う。
文は一瞬目を丸くするが、すぐに笑顔に戻って、言った。
「はい、頑張ります。……だから、全てが終わったら、そのときはよろしくお願いしますね?」
「――任せとけよ、親友」
そんなことを言い合って、どちらからともなく笑い声を上げる。
気恥ずかしさを誤魔化すように、空にまたシャボン玉が舞った。
七色に輝くそれらは、撫でるような風でさえ壊れてしまうほどに、脆い。
けれどそれらの輝きを、文が残すというのなら。
文がそれらをずっと、覚えているというのなら。
――それらの短い生涯にも、きっと意味はあるはずだ。
にとりはそんなことを、シャボン玉を吹いている文の顔を見ながら思う。
「……ん、どうしました?」
「いや……シャボン玉を吹いてるときの文の顔って、少し間抜けだよね」
「そんなのにとりだって、同じでしょうに」
「あはは、それもそうだ。……同じだね、きっと」
「……?」
文は首をかしげたが、にとりはそれ以上何も言わない。
ふわりふわりと、シャボン玉が宙に浮かんでいた。
「――そういえば、文のライバルみたいな子は、最近どうしてるんだい?」
「はたてですか? 彼女は相変わらず、ですね。そういえばにとりはまだ彼女と会ったことがないんでしたっけ?」
「うん、そうだね。文との話に何回か出てきたくらいだよ」
「それなら今度紹介しますね。面白い子なので、きっとにとりも気に入ると思いますよ?」
「そうかい? それは楽しみだね」
気付けばシャボン液の残りもわずかになっていた。
まもなく、この遊びもお開きになるだろう。
「――ではそろそろ終わりにしますか」
「んー、そうだね」
「付き合わせてしまって悪かったですね。にとり、何か作業中だったのでしょう?」
「別に大したことじゃないよ。それに、案外楽しかったし」
「そうですか。それなら良かったです」
文はそういいながら、手早く片付けを済ませていた。
「ではにとり、また会いましょう。以前みたいに、たまには『文々。新聞』の方も、よろしくお願いしますね? ――では」
そう言い残し、次の瞬間には風を切る音だけがそこにはあった。
――全く、何をそんなに急いでいるのやら。
「……ああ、シャボン玉を残すのか」
そう呟いて、にとりは文のことを考える。
――妖怪が、人間に恋をするなんて。
「やっぱり、馬鹿だとは思うけどね。……まあ、恋の一つも出来ない私に言えたことじゃないか」
にとりは自嘲的に笑う。
「どこかに落ちてないもんかね、恋ってのはさ。――いや、逆か。こっちが落ちるんだっけ?」
――恋とは、気付いたときには落ちているものだ。
射命丸曰く、そういうものだと、新聞で読んだ覚えがにとりにはあった。
無意識のうちに、自覚なく、落ちるもの。
そこに個人の自由意志は介在しないというのなら。
彼女は一体、誰に恋をさせられているというのだろう。
にとりは、すでに誰もいなくなった虚空に問いかける。
――羨ましいね、全く。
にとりは両手を天高く伸ばし、ぐっと背筋を伸ばす。
「んー……っと。……さて、それじゃあ私も作業の方に戻るとするかな」
にとりはそう呟くと、自分の家へと、ゆっくり歩いていく。
そうして、にとりは思う。
文の歩む道が、どれほどに辛く困難な道だとしても、それをただ応援するのが自分の役割なのだろう。
そしていつか、傷ついて彼女が帰ってきたときには、一緒に酒を呑んで慰めてやるのだ。
にとりに出来ることは、きっとその程度でしかなく。
けれどその程度の役割を、文がにとりに望むのいうのなら――。
――任せておけと、そう言ってやるのが親友の役目に、違いないのだろう。
作品本編自体は俺にとって腹八分目の食べ応え。
ただ何と言うかな、物語の奥行きというか、残された想像の余地を噛みしめると
丁度良い腹具合になるというか、そんなお話ですね。
シャボン玉遊びに興じようと訪れた文に、最初は自分もにとりと同様唐突なものを感じたのですが、
「ま、そういった気分になる時もあるよね」のような気分に自ずとさせてくれるストーリー展開はお見事。
それにしてもにとりはいい娘さんだなぁ。彼女を見ていると昔流行った唄のフレーズが思い出されるんですよね。
いつか文に『その時』が訪れたとしても、何も言わずに付き合ってあげるんだろうな。
サンキュ、にとり。みたいな感じでね。
それ以降、この歌、特に二番の歌詞を聞くと悲しい気持ちになっちゃって仕方ない。
なので、シャボン玉に儚い命である人間を重ねるという文の見方にはすごく共感です。
いい作品を危うく見逃すところだった