打ち寄せる波の音。地平の果てまで広がる白群青。幻想郷には無い、海と呼ばれる場所に私はいた。
「………」
寄せては引く波が、私の素足を浸してさらう。こちらへおいでと手招いている。
波の動きに合わせて、私の足は深みに向かって緩やかに動く。足首、ふくらはぎ、膝、太ももと水面の下に沈んでいく。骨の芯に刺さるような冷たさと、肌を包み込むような生温さ。感覚がぼやけている。
「──、──」
海底から、誰かが私を呼んでいるような気がした。声は聞こえない。けれど喉から絞り出すような、悲しい声が縋り付いてくる。
行かなくちゃ……。
柔らかな砂を踏んで、声のする方へ、海の中に──
鳥の囀りが耳に届いて目を覚ました。瞼を持ち上げると、障子越しに朝陽が射し込んで部屋の中を柔らかく照らしている。
上体を起こし、掛け布団を剥いだ。寝間着がはだけて素足が露わになっている。
私は手を伸ばして膝下辺りに触れてみた。自分の手の感触がはっきりと感じられて、ほっと安堵の息が漏れる。
妙に現実味のある夢ね……。
砂を踏む感触や足に張り付く水に濡れた布の不快さは、こうして手で触れて現実の自身を確認せずにはいられないくらいだった。
とはいえ夢は夢であり、何か意味があるにしろないにしろ、現状ではどうする事も出来ない。何かしらの異変が起きる前触れであっても、それに対して今の私が出来る事はない。
ふあ、とあくびをして立ち上がり、布団を畳んで押入れにしまうと、普段の巫女服に着替えて寝室を出て朝食の準備に向かった。
「海ぃ?」
縁側で一休みしていたら暇潰しを求め魔理沙がやって来たので、二人でお茶をすすって煎餅を齧っていると「何か面白い事はないか?」と魔理沙が言うので、気になる事と言えば……と昨夜の夢の話をした。
「なんか意味深だな」
「そうかしら」
「霊夢が気になると思ったなら何かあるんだろう。海、海か……」
魔理沙は顎に手を当てぶつぶつと独りごちている。随分熱心に考えてるなあ、と横目て眺めながらお茶をすすっていると、しばらくして魔理沙がこっちを向いた。
「こういうのは外から来た奴に聞こうぜ」
「結局人任せなのね」
「そう言うなって。ほら、行くぞ」
魔理沙が立ち上がり、私の手をぐいっと引っ張る。こうなった彼女は止まらないので、私は小さく息をついて「はいはい」と重い腰を上げた。
魔理沙に連れられて訪れたのは、厳かに聳える紅い城壁──紅魔館だった。
門の隣の壁にもたれて眠りこけている門番の横を通り、魔理沙に連れられるまま紅魔館の地下に広がる大図書館へとやって来た。
「おーい、パチュリー」
高い高い天井付近まで納められた本の間を抜けて開けた空間に出ると、本が積み上げられた中にずっしりと鎮座する書斎机に向かうパチュリーが気だるそうに顔を上げ、眠そうな眼で魔理沙を睨め付けた。
「また本を盗みに来たの?」
「借りてるだけ──じゃなくて、今日は霊夢の用で来たんだ」
「あら霊夢、いらっしゃい」
「私と態度が違い過ぎないか?」
私に微笑みを向けるパチュリーに、魔理沙が眉を顰める。
「コソ泥と客人は別よ」
「失礼な、私だって客人だぜ」
「それで、霊夢の用って?」
魔理沙の言葉を聞き流し、パチュリーは何用かと尋ねてきた。魔理沙は「無視かよ」と不貞腐れつつも、私達が彼女の許を訪れた訳を説明した。
「海の夢ねえ……」
パチュリーはイスの背もたれに体を預け、顎に手を当てて天を仰いだ。私と魔理沙は書斎机のそばにある来客用ソファに腰掛け、振る舞われた紅茶を飲んで渇いた喉を潤していた。
パチュリーは少し考えてからふむ、とこちらを向いて一言。
「霊夢、あなた疲れてるんじゃない?」
至ってシンプルな答えに、魔理沙がガクッと大仰に肩を落とした。
「なんだよ、それだけか?」
「海は生命の源よ。そこに呼ばれて行くなんて、入水と代わらないじゃない」
「別に疲れてないけど」
夢見の気持ち悪さに少し気だるさを感じたけれど、夢を見る前は普段と何ら変わりなく、特別疲れるような事はなかった。
「特に異変も起きてないしな。暇を持て余してるくらいだろ」
否定する私に魔理沙が同意する。「じゃあ……」とパチュリーは別の見解を口にした。
「その夢自体が、異変の前触れなんじゃないの?」
「あんま当てになんなかったな」
頭の後ろで手を組んでぼやく魔理沙と並んで紅魔館の門を出ると、午睡から目覚めた門番に声を掛けられた。
「早かったですね」
「なんだ、起きてたのかよ」
美鈴は魔理沙の悪態に苦笑した。
「コソ泥なら門前払いですけど、霊夢さんが一緒でしたからね」
「どいつもこいつも対応が違い過ぎないか?」
「日頃の行いでしょ」
魔理沙の悪行は周知の事実なので、自業自得だとこれ見よがしにため息をついた。
「そうだ。なあ美鈴、お前最近どんな夢見た?」
「夢ですか?」
美鈴は「そうですねぇ……」と言って、ぽつりと。
「咲夜さんに叱られる夢はよく見ますね」
「それは多分夢じゃないわね……」
へらりと笑う美鈴の服には、よくよく目を凝らすと至る所に繕った跡が見受けられた。……本人が気付いているかどうかは触れず、私達は美鈴に見送られて紅魔館を後にした。
「ゆっくり休めよー」
神社に戻って一休みし、陽が傾いてくると魔理沙はそう言って自分の住処に帰って行った。
夕飯の準備をして、一人でもそもそと空腹を満たし、片付けや入浴を済まして床についた。
布団の中で薄闇に浮かぶ天井を眺め、瞼を閉じる。徐々に意識がぼやけていき、覚醒の境界を跨いで眠りの中へ落ちて行った。
「………」
遥か遠くに聞こえていた幻聴のような波音が近付いて、私は目を開いた。
広い白群青の水平線に、白い満月が半身を沈めている。
まただ。
昨夜と同じ海に私はいた。
寄せては引く波が素足を濡らす。骨の軋む冷たさと、肌を包み込む生温さ。痛みと気持ち良さに思考が麻痺していく。
「──、────」
聞こえた。形にならない声。悲しい苦しいと必死に訴えている。昨夜より海面に近い場所で。
行かなくちゃ。
波に引かれて声のする方へ。海の中へ歩みを進める。
あんなに悲しんでいるのに……。
波音しかないこの場所は、あまりにも静か過ぎる。
誰も、何も、この声に応えてくれるものはないから──私が行かなくちゃ。
胸の辺りまで身を浸すと、急に息が詰まった。突き刺すような体内の冷たさに、器官が一切の活動を拒んでいる。
苦しい、痛い。
それなのに皮膚は蕩けるような気持ち良さに、水に溶けて体から力が抜けていく。
小さな飛沫を上げて、私は海の中に倒れ込んだ。
「───っ!!」
弾かれたように起き上がり、私は肩で息をして必死に酸素を取り込んだ。
荒い呼吸が徐々に落ち着くと首筋に触れる。体内に流れ込んだ海水のひりつく感覚が喉にへばり付いていた。
「……なんなのよ」
感覚が昨日よりも鋭敏になっている。曖昧さがはっきりと輪郭を持ち始めていた。
「ああっ、もう!」
私は思い切り頭を振って、掛け布団を乱暴に跳ね除けると、ドスドスと床を鳴らしながら台所に向かった。
人里へ買出しに出掛けた際、見知った顔に会った。
「こんにちは霊夢」
「慧音……」
慧音は両手いっぱいに荷物を抱えていた。袋から書物や毛糸の束が覗いている。
「編み物でもするの?」
「ああ、寺子屋の生徒達と、里で参加者を募ってな。霊夢も来るか?」
「私はいいわ。……ところで、一つ聞きたいんだけど」
「なんだ?」
小首を傾げ、私の言葉を待つ慧音。歴史の編纂者である彼女なら、何か知らないかと思ったけれど──。
「いえ、なんでもないわ」
「? そうか?」
不思議そうにきょとんとする慧音に別れを告げて、私は帰路についた。
慧音がいくら幻想郷の事に通暁していても、そもそも幻想郷には海が無いのだから聞くだけ無駄だろうし、慧音は人間に寄り添い過ぎる嫌いがあるから変に心配かけるのも気が引けた。
「海……」
そういえば──と私は足を止めて振り返り、遠くに見える山を見据える。
外から来たあいつなら、何か知ってるかもしれない。
ふわりと浮かび上がり、私は妖怪の山に構える守矢神社へ向かった。
「早苗ーっ、いるーっ?」
境内に降り立った私は声を張って適当に呼び掛けた。するとどこからか「はーい!」と返事があって、足音が近付いてきた。
「どちら様──あ、霊夢さんでしたか。どうされました?」
本殿の裏手からやって来た早苗に、私は二日続いた海の夢の話をした。
「へーっ、海の夢ですか」
「何か知らない?」
「それは吉夢ですよ!」
「きちむぅ……?」
ちゃんと話を聞いていたのかと訝る私に、早苗は嬉々として熱弁を振るった。
「綺麗な海は心の安定、そこに入っていくのは自分と向き合う──つまり自分の日頃の行いを正せとのお告げですよ! 巫女としての姿勢を改めるチャンスですよ、霊夢さん!」
「全然吉夢じゃないし、行いを正せだの姿勢を改めろだの、喧嘩売ってんの?」
目を細めて鋭く睨み付けると、早苗は「違いますよ~」と軽薄に笑った。
「霊夢さんの夢なんですから、霊夢さんがそう思ってるんですって」
「思ってないわよ、そんな面倒な事」
「無意識下の話ですよ。心当たりありませんか? 誰かに何か言われたとか」
「ないわね」
華扇にあれこれ言われたり魔理沙に軽口を言われたりなんて日常茶飯事だから気に留める事でもないし、参拝客がいなくても温泉客が入湯料として賽銭を納めていくし、妖精や妖怪が入り浸っているのもいつもの事だ。特別変わった事は何も起きてない。
「そうですか……言われてみれば霊夢さんが今のスタンスを改めようなんて考える訳ないですよねー」
「その通りだけど……あんたに言われるとムカつくわね」
「私は日々守矢神社のためにと努力してますからね」
「それは構わないけど、面倒事だけは起こさないでよね。こっちが尻拭いさせられるんだから」
今まで守矢神社の面々が起こした騒動を思い返し、私はこれ見よがしに大きなため息をついた。
「大丈夫ですよ。神奈子様が上手くやってくれてますから」
「頼んだわよ」
そう言って守矢神社を後にしようと地面を蹴って浮かび上がる。早苗は暢気に「また遊びに来て下さいね~」と大きく手を振っていた。
結局、外から来た連中は何も知らなかった。もし夢が続くようなら、あいつに聞くしかない。
私は地平線の向こうに沈む夕陽を眺めて憂鬱な気分になった。
もうすぐ夜が訪れる。厭な予感がした。
薄闇の中、私は部屋の隅で膝を抱えて目の前に敷かれた布団を見つめていた。
夢を見ない方法。眠らなければいいだけの話だ。
満腹になると眠くなるので食事はあまり取らなかった。酒を飲むのも本を読むのも睡魔を誘うので、私はただじっとしていた……というより、体が重だるくて身じろぎ出来なかった。
いつも寝る時間を過ぎた辺りから、体がだるくて瞼が重い。何度も意識が飛びそうになった。どうしても私を寝かせたいらしい。
「なんなのよ……」
睡魔を追い払うように何度も頭を振ったり腕をつねったりする。揺れや痛みの感覚はもう夢の中に行っているみたいだった。
ドサッと体が崩れ落ちる音がした。視界はとっくに閉じていて、次に目を開いた時には、私は白く綺麗な海辺に立っていた。
波が足をさらう。今日は随分引きが強い。私は誘われるまま海に入っていく。
蕩けて溶けて海水と一つになる感覚。痛くて苦しいのに、怖いくらい気持ちいい。
ザブン、と──私の体は海中に沈んだ。恐る恐る目を開けると、どこまでも続く底無しの闇の中に、金色に輝く波打つ髪の女が浮かんでいた。
暖簾のように顔を覆い隠す髪の隙間から覗く女の口が開閉する。
「──、────」
女がこちらに向かって手を伸ばす。腕は所々鱗に覆われていて、白い月明かりに照らされてきらきらと光っていた。
「────、────」
私の体が女に吸い寄せられるように沈んでいく。私達の距離が近付くにつれて、女は嬉しそうに笑う。伸ばした腕の鱗がひらひらと剥がれていく。
あ──。
揺らめく髪の隙間から、女の脚部が見えた。そこにあったのは、魚そのものの半身だった。
そうか……。
女の指先が目と鼻の先にある。その腕にはもう鱗は無く、珠のように滑らかな肌が微かに光って見えた。
私、このまま……。
女の向こうにある底無しの闇に引きずり込まれる。そう思った時だった。
「──!?」
不意に襟を引っ張られて、柔らかい温もりに包まれた。
首を捻ると、紫が私を抱いたまま恐ろしい形相で眼下の女を睨み付けていた。
紫が口を開くと、海中にもかかわらずその声ははっきりと聞こえた。
「貴女の居場所はここじゃない。大人しく自分の幻想へ帰りなさい」
氷のように冷たく鋭い言葉に、女は寂しげに伸ばした手を引っ込めた。
紫は私を抱いたまま海面へ浮上していく。ちらと振り返ると、女は恨めしげに私達の事をじっと見つめていた。
目を開くと見慣れた天井が視界に飛び込んできた。辺りを見回すと、布団の中から見る景色があった。
体を起こして目を遣ると、開け放たれた障子の外の縁側で紫が月を見上げていた。
「紫」
私の呼び掛けに紫が振り返る。
「おはよう、霊夢」
全て見透かしているような穏やかな微笑みは、いつもながら気に喰わない。
どうせ知っているのだからと、私は単刀直入に尋ねた。
「アレはなんだったの?」
私の問いに紫は「さあ」と言って、私の足を見遣った。
「対価を持たず、悲劇すら演じられなかった女の亡霊かしらね」
「何それ」
紫はそれ以上語る事なく、立ち上がってこちらに歩み寄ってきた。
私の隣に来てしゃがみ込むと、手を伸ばして私の頬に触れる。
「もう夢に悩まされる事はないから、安心しなさい」
「……そう」
腑に落ちないけれど、紫は恐らくこれ以上何も語らないだろう。何より──私の頬を撫でる紫の手付きが少し乱暴で、内心すごく怒っているようだったから、聞くに聞けなかった。
「疲れてるでしょう? 眠るといいわ」
「……そうする」
私は布団に横になって目を閉じた。さらさらと髪を梳く指先の感触が心地好くて、私はすぐに眠りについた。数日分の眠りを取り戻すような深い深い眠りの中で、冷たい指の感触が私の不安な気持ちをずっと拭っていた。
境内を箒がけしていたら、箒に乗った魔理沙がやって来て、空からふわりと降りてきた。
「よう霊夢。例の夢だけどな──」
「それならもう解決したわよ」
魔理沙は「なんだ」とつまらなそうにぼやいた。
「異変じゃなかったのか」
「そんな大それたもんじゃないわよ」
紫が出張ってきた時点でまあまあ危なかったのかもしれないけれど、魔理沙に言うと質問攻めを受けそうだったので黙っていた。
「関係ありそうな本を見つけたんだけどなぁ」
魔理沙は帽子を脱いで、その中から一冊の本を取り出した。色彩豊かで珍しい形の本だった。
「何それ?」
「外の世界の子供向けの本だよ。タイトルは、えーっと……」
魔理沙が本の題名を読み上げて大雑把に内容を語った。それを聞いて私は紫の言葉の意味をようやく理解した。
声の無い彼女には、たとえ悲劇だったとしても、舞台に上がり演じる資格すら無かったのだ。
目を閉じてあの海に立つ。波の音に混ざって聞こえていた女の声音を、私は思い出す事が出来なかった。
「………」
寄せては引く波が、私の素足を浸してさらう。こちらへおいでと手招いている。
波の動きに合わせて、私の足は深みに向かって緩やかに動く。足首、ふくらはぎ、膝、太ももと水面の下に沈んでいく。骨の芯に刺さるような冷たさと、肌を包み込むような生温さ。感覚がぼやけている。
「──、──」
海底から、誰かが私を呼んでいるような気がした。声は聞こえない。けれど喉から絞り出すような、悲しい声が縋り付いてくる。
行かなくちゃ……。
柔らかな砂を踏んで、声のする方へ、海の中に──
鳥の囀りが耳に届いて目を覚ました。瞼を持ち上げると、障子越しに朝陽が射し込んで部屋の中を柔らかく照らしている。
上体を起こし、掛け布団を剥いだ。寝間着がはだけて素足が露わになっている。
私は手を伸ばして膝下辺りに触れてみた。自分の手の感触がはっきりと感じられて、ほっと安堵の息が漏れる。
妙に現実味のある夢ね……。
砂を踏む感触や足に張り付く水に濡れた布の不快さは、こうして手で触れて現実の自身を確認せずにはいられないくらいだった。
とはいえ夢は夢であり、何か意味があるにしろないにしろ、現状ではどうする事も出来ない。何かしらの異変が起きる前触れであっても、それに対して今の私が出来る事はない。
ふあ、とあくびをして立ち上がり、布団を畳んで押入れにしまうと、普段の巫女服に着替えて寝室を出て朝食の準備に向かった。
「海ぃ?」
縁側で一休みしていたら暇潰しを求め魔理沙がやって来たので、二人でお茶をすすって煎餅を齧っていると「何か面白い事はないか?」と魔理沙が言うので、気になる事と言えば……と昨夜の夢の話をした。
「なんか意味深だな」
「そうかしら」
「霊夢が気になると思ったなら何かあるんだろう。海、海か……」
魔理沙は顎に手を当てぶつぶつと独りごちている。随分熱心に考えてるなあ、と横目て眺めながらお茶をすすっていると、しばらくして魔理沙がこっちを向いた。
「こういうのは外から来た奴に聞こうぜ」
「結局人任せなのね」
「そう言うなって。ほら、行くぞ」
魔理沙が立ち上がり、私の手をぐいっと引っ張る。こうなった彼女は止まらないので、私は小さく息をついて「はいはい」と重い腰を上げた。
魔理沙に連れられて訪れたのは、厳かに聳える紅い城壁──紅魔館だった。
門の隣の壁にもたれて眠りこけている門番の横を通り、魔理沙に連れられるまま紅魔館の地下に広がる大図書館へとやって来た。
「おーい、パチュリー」
高い高い天井付近まで納められた本の間を抜けて開けた空間に出ると、本が積み上げられた中にずっしりと鎮座する書斎机に向かうパチュリーが気だるそうに顔を上げ、眠そうな眼で魔理沙を睨め付けた。
「また本を盗みに来たの?」
「借りてるだけ──じゃなくて、今日は霊夢の用で来たんだ」
「あら霊夢、いらっしゃい」
「私と態度が違い過ぎないか?」
私に微笑みを向けるパチュリーに、魔理沙が眉を顰める。
「コソ泥と客人は別よ」
「失礼な、私だって客人だぜ」
「それで、霊夢の用って?」
魔理沙の言葉を聞き流し、パチュリーは何用かと尋ねてきた。魔理沙は「無視かよ」と不貞腐れつつも、私達が彼女の許を訪れた訳を説明した。
「海の夢ねえ……」
パチュリーはイスの背もたれに体を預け、顎に手を当てて天を仰いだ。私と魔理沙は書斎机のそばにある来客用ソファに腰掛け、振る舞われた紅茶を飲んで渇いた喉を潤していた。
パチュリーは少し考えてからふむ、とこちらを向いて一言。
「霊夢、あなた疲れてるんじゃない?」
至ってシンプルな答えに、魔理沙がガクッと大仰に肩を落とした。
「なんだよ、それだけか?」
「海は生命の源よ。そこに呼ばれて行くなんて、入水と代わらないじゃない」
「別に疲れてないけど」
夢見の気持ち悪さに少し気だるさを感じたけれど、夢を見る前は普段と何ら変わりなく、特別疲れるような事はなかった。
「特に異変も起きてないしな。暇を持て余してるくらいだろ」
否定する私に魔理沙が同意する。「じゃあ……」とパチュリーは別の見解を口にした。
「その夢自体が、異変の前触れなんじゃないの?」
「あんま当てになんなかったな」
頭の後ろで手を組んでぼやく魔理沙と並んで紅魔館の門を出ると、午睡から目覚めた門番に声を掛けられた。
「早かったですね」
「なんだ、起きてたのかよ」
美鈴は魔理沙の悪態に苦笑した。
「コソ泥なら門前払いですけど、霊夢さんが一緒でしたからね」
「どいつもこいつも対応が違い過ぎないか?」
「日頃の行いでしょ」
魔理沙の悪行は周知の事実なので、自業自得だとこれ見よがしにため息をついた。
「そうだ。なあ美鈴、お前最近どんな夢見た?」
「夢ですか?」
美鈴は「そうですねぇ……」と言って、ぽつりと。
「咲夜さんに叱られる夢はよく見ますね」
「それは多分夢じゃないわね……」
へらりと笑う美鈴の服には、よくよく目を凝らすと至る所に繕った跡が見受けられた。……本人が気付いているかどうかは触れず、私達は美鈴に見送られて紅魔館を後にした。
「ゆっくり休めよー」
神社に戻って一休みし、陽が傾いてくると魔理沙はそう言って自分の住処に帰って行った。
夕飯の準備をして、一人でもそもそと空腹を満たし、片付けや入浴を済まして床についた。
布団の中で薄闇に浮かぶ天井を眺め、瞼を閉じる。徐々に意識がぼやけていき、覚醒の境界を跨いで眠りの中へ落ちて行った。
「………」
遥か遠くに聞こえていた幻聴のような波音が近付いて、私は目を開いた。
広い白群青の水平線に、白い満月が半身を沈めている。
まただ。
昨夜と同じ海に私はいた。
寄せては引く波が素足を濡らす。骨の軋む冷たさと、肌を包み込む生温さ。痛みと気持ち良さに思考が麻痺していく。
「──、────」
聞こえた。形にならない声。悲しい苦しいと必死に訴えている。昨夜より海面に近い場所で。
行かなくちゃ。
波に引かれて声のする方へ。海の中へ歩みを進める。
あんなに悲しんでいるのに……。
波音しかないこの場所は、あまりにも静か過ぎる。
誰も、何も、この声に応えてくれるものはないから──私が行かなくちゃ。
胸の辺りまで身を浸すと、急に息が詰まった。突き刺すような体内の冷たさに、器官が一切の活動を拒んでいる。
苦しい、痛い。
それなのに皮膚は蕩けるような気持ち良さに、水に溶けて体から力が抜けていく。
小さな飛沫を上げて、私は海の中に倒れ込んだ。
「───っ!!」
弾かれたように起き上がり、私は肩で息をして必死に酸素を取り込んだ。
荒い呼吸が徐々に落ち着くと首筋に触れる。体内に流れ込んだ海水のひりつく感覚が喉にへばり付いていた。
「……なんなのよ」
感覚が昨日よりも鋭敏になっている。曖昧さがはっきりと輪郭を持ち始めていた。
「ああっ、もう!」
私は思い切り頭を振って、掛け布団を乱暴に跳ね除けると、ドスドスと床を鳴らしながら台所に向かった。
人里へ買出しに出掛けた際、見知った顔に会った。
「こんにちは霊夢」
「慧音……」
慧音は両手いっぱいに荷物を抱えていた。袋から書物や毛糸の束が覗いている。
「編み物でもするの?」
「ああ、寺子屋の生徒達と、里で参加者を募ってな。霊夢も来るか?」
「私はいいわ。……ところで、一つ聞きたいんだけど」
「なんだ?」
小首を傾げ、私の言葉を待つ慧音。歴史の編纂者である彼女なら、何か知らないかと思ったけれど──。
「いえ、なんでもないわ」
「? そうか?」
不思議そうにきょとんとする慧音に別れを告げて、私は帰路についた。
慧音がいくら幻想郷の事に通暁していても、そもそも幻想郷には海が無いのだから聞くだけ無駄だろうし、慧音は人間に寄り添い過ぎる嫌いがあるから変に心配かけるのも気が引けた。
「海……」
そういえば──と私は足を止めて振り返り、遠くに見える山を見据える。
外から来たあいつなら、何か知ってるかもしれない。
ふわりと浮かび上がり、私は妖怪の山に構える守矢神社へ向かった。
「早苗ーっ、いるーっ?」
境内に降り立った私は声を張って適当に呼び掛けた。するとどこからか「はーい!」と返事があって、足音が近付いてきた。
「どちら様──あ、霊夢さんでしたか。どうされました?」
本殿の裏手からやって来た早苗に、私は二日続いた海の夢の話をした。
「へーっ、海の夢ですか」
「何か知らない?」
「それは吉夢ですよ!」
「きちむぅ……?」
ちゃんと話を聞いていたのかと訝る私に、早苗は嬉々として熱弁を振るった。
「綺麗な海は心の安定、そこに入っていくのは自分と向き合う──つまり自分の日頃の行いを正せとのお告げですよ! 巫女としての姿勢を改めるチャンスですよ、霊夢さん!」
「全然吉夢じゃないし、行いを正せだの姿勢を改めろだの、喧嘩売ってんの?」
目を細めて鋭く睨み付けると、早苗は「違いますよ~」と軽薄に笑った。
「霊夢さんの夢なんですから、霊夢さんがそう思ってるんですって」
「思ってないわよ、そんな面倒な事」
「無意識下の話ですよ。心当たりありませんか? 誰かに何か言われたとか」
「ないわね」
華扇にあれこれ言われたり魔理沙に軽口を言われたりなんて日常茶飯事だから気に留める事でもないし、参拝客がいなくても温泉客が入湯料として賽銭を納めていくし、妖精や妖怪が入り浸っているのもいつもの事だ。特別変わった事は何も起きてない。
「そうですか……言われてみれば霊夢さんが今のスタンスを改めようなんて考える訳ないですよねー」
「その通りだけど……あんたに言われるとムカつくわね」
「私は日々守矢神社のためにと努力してますからね」
「それは構わないけど、面倒事だけは起こさないでよね。こっちが尻拭いさせられるんだから」
今まで守矢神社の面々が起こした騒動を思い返し、私はこれ見よがしに大きなため息をついた。
「大丈夫ですよ。神奈子様が上手くやってくれてますから」
「頼んだわよ」
そう言って守矢神社を後にしようと地面を蹴って浮かび上がる。早苗は暢気に「また遊びに来て下さいね~」と大きく手を振っていた。
結局、外から来た連中は何も知らなかった。もし夢が続くようなら、あいつに聞くしかない。
私は地平線の向こうに沈む夕陽を眺めて憂鬱な気分になった。
もうすぐ夜が訪れる。厭な予感がした。
薄闇の中、私は部屋の隅で膝を抱えて目の前に敷かれた布団を見つめていた。
夢を見ない方法。眠らなければいいだけの話だ。
満腹になると眠くなるので食事はあまり取らなかった。酒を飲むのも本を読むのも睡魔を誘うので、私はただじっとしていた……というより、体が重だるくて身じろぎ出来なかった。
いつも寝る時間を過ぎた辺りから、体がだるくて瞼が重い。何度も意識が飛びそうになった。どうしても私を寝かせたいらしい。
「なんなのよ……」
睡魔を追い払うように何度も頭を振ったり腕をつねったりする。揺れや痛みの感覚はもう夢の中に行っているみたいだった。
ドサッと体が崩れ落ちる音がした。視界はとっくに閉じていて、次に目を開いた時には、私は白く綺麗な海辺に立っていた。
波が足をさらう。今日は随分引きが強い。私は誘われるまま海に入っていく。
蕩けて溶けて海水と一つになる感覚。痛くて苦しいのに、怖いくらい気持ちいい。
ザブン、と──私の体は海中に沈んだ。恐る恐る目を開けると、どこまでも続く底無しの闇の中に、金色に輝く波打つ髪の女が浮かんでいた。
暖簾のように顔を覆い隠す髪の隙間から覗く女の口が開閉する。
「──、────」
女がこちらに向かって手を伸ばす。腕は所々鱗に覆われていて、白い月明かりに照らされてきらきらと光っていた。
「────、────」
私の体が女に吸い寄せられるように沈んでいく。私達の距離が近付くにつれて、女は嬉しそうに笑う。伸ばした腕の鱗がひらひらと剥がれていく。
あ──。
揺らめく髪の隙間から、女の脚部が見えた。そこにあったのは、魚そのものの半身だった。
そうか……。
女の指先が目と鼻の先にある。その腕にはもう鱗は無く、珠のように滑らかな肌が微かに光って見えた。
私、このまま……。
女の向こうにある底無しの闇に引きずり込まれる。そう思った時だった。
「──!?」
不意に襟を引っ張られて、柔らかい温もりに包まれた。
首を捻ると、紫が私を抱いたまま恐ろしい形相で眼下の女を睨み付けていた。
紫が口を開くと、海中にもかかわらずその声ははっきりと聞こえた。
「貴女の居場所はここじゃない。大人しく自分の幻想へ帰りなさい」
氷のように冷たく鋭い言葉に、女は寂しげに伸ばした手を引っ込めた。
紫は私を抱いたまま海面へ浮上していく。ちらと振り返ると、女は恨めしげに私達の事をじっと見つめていた。
目を開くと見慣れた天井が視界に飛び込んできた。辺りを見回すと、布団の中から見る景色があった。
体を起こして目を遣ると、開け放たれた障子の外の縁側で紫が月を見上げていた。
「紫」
私の呼び掛けに紫が振り返る。
「おはよう、霊夢」
全て見透かしているような穏やかな微笑みは、いつもながら気に喰わない。
どうせ知っているのだからと、私は単刀直入に尋ねた。
「アレはなんだったの?」
私の問いに紫は「さあ」と言って、私の足を見遣った。
「対価を持たず、悲劇すら演じられなかった女の亡霊かしらね」
「何それ」
紫はそれ以上語る事なく、立ち上がってこちらに歩み寄ってきた。
私の隣に来てしゃがみ込むと、手を伸ばして私の頬に触れる。
「もう夢に悩まされる事はないから、安心しなさい」
「……そう」
腑に落ちないけれど、紫は恐らくこれ以上何も語らないだろう。何より──私の頬を撫でる紫の手付きが少し乱暴で、内心すごく怒っているようだったから、聞くに聞けなかった。
「疲れてるでしょう? 眠るといいわ」
「……そうする」
私は布団に横になって目を閉じた。さらさらと髪を梳く指先の感触が心地好くて、私はすぐに眠りについた。数日分の眠りを取り戻すような深い深い眠りの中で、冷たい指の感触が私の不安な気持ちをずっと拭っていた。
境内を箒がけしていたら、箒に乗った魔理沙がやって来て、空からふわりと降りてきた。
「よう霊夢。例の夢だけどな──」
「それならもう解決したわよ」
魔理沙は「なんだ」とつまらなそうにぼやいた。
「異変じゃなかったのか」
「そんな大それたもんじゃないわよ」
紫が出張ってきた時点でまあまあ危なかったのかもしれないけれど、魔理沙に言うと質問攻めを受けそうだったので黙っていた。
「関係ありそうな本を見つけたんだけどなぁ」
魔理沙は帽子を脱いで、その中から一冊の本を取り出した。色彩豊かで珍しい形の本だった。
「何それ?」
「外の世界の子供向けの本だよ。タイトルは、えーっと……」
魔理沙が本の題名を読み上げて大雑把に内容を語った。それを聞いて私は紫の言葉の意味をようやく理解した。
声の無い彼女には、たとえ悲劇だったとしても、舞台に上がり演じる資格すら無かったのだ。
目を閉じてあの海に立つ。波の音に混ざって聞こえていた女の声音を、私は思い出す事が出来なかった。
真相へ近づいていく距離感
とてもよかったです
他人の見た夢の話をちゃんと聞いてくれるパチュリーや早苗がいい奴でした
霊夢が事件を解決するのでもなく、ただ傍観者のように夢を見て、はかなげに怪異が去っていく様が良かったと思います。