1.
マエリベリー・ハーンにメリーというあだ名をつけたのは私だ。
ならば、私は彼女と親しい仲の人間であると言えるはずだ。
メリーが事あるごとにすぐ私を頼ってきて、助言してあげることが私の役割だということも判断材料の一因となり得るだろう。
相談は強い口調になることも珍しくはなかったが、彼女が得心しないことはなかった。
同時に、私の見方が反故にされることもなかった。
要するに、彼女の言動には宇佐見蓮子という同期生の私見が混在していたはずだった。
だから、彼女が不満気な面持ちをしていれば、それが何に起因する事柄かなんてことはすぐに分かるし、彼女の好き物や嫌い物も大概は理解していた。
新しいブラウスも、カフェに並んだ紅茶の品種も。
彼女に我慢する素振りなんて見られなかった。
快活な笑顔で、
「ありがとう、蓮子」と言ってくれる彼女を見守ることが至福であった。
それに昼夜を惜しまず徹していられるというのは、やはり格別の感情が彼女にあったものからだと言える。
それで、私はメリーの親友であると自負していた。
あるいは、彼女の身内に近しい何かであると錯覚するくらいには。
何故、所々の文言に過去形態を用いているかと言えば、それは彼女の挙動の変化に理由があったからだ。
2.
近頃、どうもメリーの様子がおかしい。
平生と変わらない挨拶に対しても、背中をぽんと強めに押してやっても。
彼女は誰の仕業であるかくらい分かるはずなのに、これを酷く嫌うようになった。
「触らないで!」という澆薄にも尖鋭な言葉。
軽蔑を暗喩する細い眼差しに。
私の好意は散り散りに引き裂かれてしまった。
逡巡して後ずさりした拍子に、メリーと周囲とを比較することができた。
ところが、彼女の造形は溶け込んでいない。
その日は、上手くこれを表現することができなかった。
喩えるなら、周囲を正常と仮定するとして彼女はまさにその逆であった。
彼女だけが、固有の劇場を身に纏っているようにも感ぜられた。
下手な表現を貫くなれば、ドラマの撮影現場を見せられているかのような。
詰まるところ、彼女が異様にも浮いて見えたのである。
メリーは私を拒絶し、私は彼女の視界からしばらく離れることにした。
ただ、この日を境として私と彼女とが絶縁したかと言えばそうではない。
私にそのつもりがないのなら、彼女もきっとそうに違いないと信じていたからである。
であるから、私はメリーがどのようであっても受容しようと考えていた。
たとえそれが、一方的な希望になってしまったとしても。
3.
春の嵐も過ぎ去った夜の時分。
私は彼女が隣にいないカフェを満喫してから家路についた。
その道すがら、街の灯りの届かない路地裏を横切った。
すると、そこにメリーがいたのである。奥まった闇の内で屈み込んでいるではないか。
薄暗がりが災いして気味の悪い思いもしたが、私は彼女の名を呼んでみることにした。
彼女はぴくりと肩を動かすと、上半身をいびつにも傾けて立ち上がった。
背中は丸まっており、呼びかけに対しての返答はなかった。
「何をしてるの?」という質問に対して、彼女はようやく応じてくれた。
「車に、猫がはねられちゃって」
「残念だったわね。それで、猫は?」
そう私が尋ねると、彼女はくるりと反転した。
建屋から溢れる月輪の光は、その佇まいを露わにした。
私はその形状を彼女であると認識していたばかりに、絶句を余儀なくされた。
小さな亡骸を抱える彼女は、優しくも醜い有り様で。
ラベンダー色のワンピースは鮮やかな紅緋で平素の清潔感を失っている。
何よりも、私が舌端に表すことができなくなってしまったのは、彼女の長いブロンドから滴る鮮血だ。
両頬には獣の毛が無造作に散らかっている。
細く尖った双眸は、なさがら捕食者のそれ。
少しばかり開かれた口唇はぬらりとした赤い糸を引いており、彼女が周囲と異なる者であることを暗喩していた。
4.
私はメリーと一緒にいようと思った。少なくとも、私という個人に対して正常を装ったことに違いはない。
逃げ出したくはなかったのだ。
だので、彼女の同意を経て近場に亡骸を埋めに行くことにした。
繁華街から離れた小さな公園。その一角に立つ桜木の根元を、私が素手で掘ってあげた。
ひやりとして、それでいてじっとりとした土の感覚が爪に潜り込んで皮膚を刺激した。
その間のメリーはというと、ずっと月輪が浮かぶ夜空を見上げていた。
時折けたけたと笑う彼女に背筋が震えることもあったが、そのたびに心に喝を入れて「大丈夫?」と声をかけてみた。
そうすると、笑い声はぴたりと止んで静寂が訪れる。
「楽しかったの」
「何が?」
「色々と。想像していて」
「悲しいんじゃないの?」
「ちっとも。空には眼がたくさんあるもの」
「……星だと思う」
「無数のニューロンが綺麗な模様を描いてる」
「だから、星座じゃなくて?」
「眼よ。監視者が私達をじっと視てる」
「それも、幻想郷?」
「違う。この世界で今起きてることよ」
「……そう」
ぴちゃぴちゃ。
ちらっとメリーの様子をうかがうと血糊を拭っては、口に運んでいる様子だった。
だから、間違っても「怖い」なんて自分から言い出すことはできなかった。
埋葬を終えた後のこと。
気の緩みだろうか。いや、もしくは克己心を見失ってしまったのかもしれない。
「美味しい?」
こう、メリーに尋ねてしまっていた。
だって、水道で洗い流して来ればいいだけの汚れを。
彼女はずっと、大事そうに、丁寧に、拭っては舌に落としていたから。
「ええ。クランベリーソースは別に、嫌いじゃないから」
「それは――」
血だとは言えなかった。
貴女が今、爪先から垂らしているものは。
その優しさがメリーにとっての毒になるとは知らずに。
「蓮子も欲しい?」
「今は、いい」
「じゃあ、貴女も私を視る側なのね?」
彼女の眼は猜疑に駆られているようで、マルベリーの瞳は私を確実に捉えていた。
気を逸らそうとして、こんなことをふっかけてみた。
「ねぇ。今度、どこかいかない?」
「……誰と。貴女と、一緒に?」
「そう。私達、最近一緒に出かけてないでしょ。たまには思い切っちゃおうー……とか」
無理な冗談と作った笑顔で精一杯の交流を試みる。
メリーはべっとりと赤く染まったブロンドに手櫛を通すと、
「どこ」
「じゃあ、海と山どっち行きたい?」
「……海は駄目。塩化ナトリウムは身体によくないわ」
「山にする?」
「その方がいい。森の茂みは監視の眼を巻けるから」
明後日の休みに行こうとメリーに伝えると、私は彼女を残して公園から去ることにした。
よく筋道を立てられたものだと、内心ほっとしていた。
でも、何故安心してしまうのだろう、と疑問を投げかけてみる。
何をもっての安心なのだろう。
自分の身が救われたことの安心か。
メリーが許可してくれたことに対する安心か。
それでもきっと、距離を間違えれば拒絶されたことだろう。
恐怖と不幸を結び付けないように。
縁石の上を渡り切ることを小さな達成感に置換してみた。
「……ァァァァァァァ……ァァアアアアアッ! 嫌よッ! 視ないで! 嫌! 嫌嫌嫌嫌嫌ッ!!」
物静かな夜の街を、メリーの声が占拠する。
それは泣いてるようにも聞こえたし、吠えてるようにも聞こえた。
私は知らないふりがしたくて、両手で耳を塞ぐことにした。
5.
――相対性精神学のマエリベリー・ハーン?
――アレはヤバいよ。相手にしない方がいい。障害入ってるわ。
――精神学って自分に返ってくることあるしね。キツかったんじゃない?
――何。教授がキレて出禁にしたって話、お前知らないの?
翌々日の午前。
日の出が早まりだしたこともあって、不思議と目覚めはよかった。
待ち合わせの時間はメールで送っておいたが、メリーはちゃんと電車の時間にやってきた。
態度は元に戻っていて何かよそよそしく、周囲に怯えている様子だった。
この場合の元というのは、いつのことを切り取ればいいのだろう。
私を拒絶した日の彼女のことで適してるのだろうか。
それとも、これは誤用であって実際には「ねぇ、蓮子」と話しかけてくれていた、あの頃の彼女のことを指し示すのだろうか。
結局、朝の挨拶にも応じる気配はなく、メリーはただ私の後ろをついてくるばかりだった。
電車を乗り継いで、バスに乗り換えると車内には運転手と私達だけになった。
最後方席に二人で座っていたのだが、なぜか人一人分の距離が詰められない。
ちょっと手を伸ばせば、メリーの指先はそこにあるのに。
――触らないで!
その言葉の棘から受けた傷は未だ癒えていない。
拒絶されて絶縁したら、私はどうなってしまうのだろうか。
次のバス停で別行動になるのか。それとも、食べられてしまうのか。
不意に彼女の手首に目をやると、いくつもの赤い線が残されていた。
凹凸のある生々しい外傷だった。
「まだ春は先みたいね。最近、幻想郷はどんな感じ?」
「……見えなくなった」
「見えないって何よ、それ」
メリーは車窓に流れる枝垂れ桜の並木から目を離そうとしなかった。
聞き返しにも、応じてはくれなかった。
幻想郷が見えないとはどういうことだろう。
興味がなくなってしまった。だとしても、嫌でも見えるものだったのではないか。
力が衰えた。この筋の方がしっくり来る。そもそも制御できる能力ではなかった。
仮に後者だった場合、時系列を追うと彼女の心身の異常に説明がつきそうだ。
二つの流れがある。
一つ目は、メリーが力を失って自暴自棄になった。この場合、幻想郷に類似した何かを幻視しようと無理をしている。でも、だとしたらあの晩の出来事に説明がつかない。本能的に吐瀉するはずだ。
二つ目は、メリーが自暴自棄になって力を失ってしまった。この場合、なぜ自暴自棄になってしまったのかが理解できないけど、あの晩のことならば合点がいく。でも、ああまで精神状態を変異させるものって――。
6.
「お客さん……大丈夫、お客さん。お連れさん、先に出ちゃいましたけど?」
「え」
気づけば、老年の運転手が後ろを振り返って私を気にかけている。
窓辺にもたれかかっていたはずのメリーの姿は、もうない。
左右の窓から人影を探してみたものの、彼女を捉えることはできなかった。
「おじさん、あの子どっち行った?」
「外人さんなら、沢の方へ下ってったよ」
私は現金を手渡すと、降車してすぐさま彼女の名を呼び続けた。
幸か不幸か、観光地にもならないような場所で降りてしまったらしい。
沢に下る階段は一本だが、いくつかの踊り場を経由しているせいで最下までの見渡すことができない。
「メリー! メリー! いたら返事して。お願い、メリー!」
木造の階段を勢いよく駆け下りた。
高地に来たこともあって、肌へ当たる風が冷たい。
おまけに、丸坊主の枝木は鋭利で頬を何箇所か掠めた。
なんで。なんで貴女は一人で考え込んでしまったの。
私、ずっと一緒にいたのに。離れてなんかいなかった。
ずっと、貴女が満足するまで遠くで見守ってるつもりだった。
なのに、なんでこんな……。
八分目くらいの踊り場で、ようやく地上に人影を視認することができた。
その足取りは一定で、まっすぐ沢を目指している。
「お願い。ねぇ、待ってよ。メリー!」
そこで、ようやくメリーは足を止めて開口した。
しかし、それは蓮子が想像していたものとは異なる返答だった。
「来ないで。視ないで。触らないで。私、貴女の眼が好きになれない。私は黙っていたけど、貴女はそれを隠そうとしなかった。貴女は、知らないうちに誰かを傷つけた自覚があるの?」
「……そんな、こと」
「私に会うのはなんのため。幻想郷の話が聞きたいから? でも、残念ね。今の私には見えないのよ。どう? これで満足した? 私は貴女の飾り細工にはなれない!」
すると、メリーは頭を押さえて上体を揺らし始めた。
ブロンドは乱れ、ナイトキャップは振り落とされてしまった。
それは木々のざわめきよりも不自然で、ここに来てもなお異常に映った。
「……ァァアアアアアッ! 嫌ッ! 嫌嫌嫌嫌ッ!!」
ポーチを草むらへ投げると、メリーはそのまま走り出してしまった。
私はそれを追いかけて階段を下った。
道中、打ち捨てられたメリーの所持品が目に飛び込んできた。
ポーチの近くには薬瓶が転がっていた。
推察通りと言えばそのなのかもしれないが、私は無性に心が苦しくて仕方なくなった。
真意は分からない。それはメリーの内に留まったままのこと。
でも、それが本当に私がつけた傷なのだとしたら、彼女の親友という私の自負とはなんだったのだろう。
彼女のことの何を理解していたのだろう。
もし私が好きだと思っているから、彼女が好きと言っていたのだとすれば。
もし私が嫌いだと思っているから、好きなのに彼女が拒んでいたのだとすれば。
「……そうじゃない」
違うかもしれない。
先に拒絶したのは私だ。私がメリーのことを嫌と言ったんだ。
だからメリーは私のことを思って、好きなのに拒んだ。
だとしたら、あの晩のけだものを造ったのは私だ。
私は今現在も彼女の心を切り裂く加害者なんだ。
それなのに私は耳を塞いで、彼女の悲鳴の意味を知ろうともしなかった。
彼女は自分を犠牲にしてまで、私に合わせてくれたのに。
顔面に吹き付ける風が冷たくて仕方なかった。
荒れた呼吸から、発声が難しくなっているものだと思っていた。
でも実際の私は涙で顔をぐしゃぐしゃに濡らしていて、彼女の背中に抱きついて咽んでいただけだった。
「お願い……メリー。話を、聞いて……頼むから」
入水を始ていた彼女を追いかけてきたこともあり、足は今にも感覚を失いそうなくらい沢の水に浸っていた。
「もう嫌ッ! アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
荒げた声と同調するかのように、彼女の鋭利な爪は私の両腕を掻き毟っていた。
皮を削ぎ取られ、肉を抉られそうな勢いだ。
悲鳴もあげたくなった。だけど、声をあげたらきっと私は自分本位なままなんだ。
そう言い聞かせて、私は滅茶苦茶になりながらもメリーに想いを告げた。
「貴女は飾り細工なんかじゃない……。幻想郷が見たいから、貴女を選んだんじゃない。私の言うことを聞いてくれなくても、不思議な世界が見えなくても……私は、マエリベリー・ハーンが好きだったの。人の名前を馬鹿にしてごめんなさい。人の見た目を馬鹿にしてごめんなさい。あんなこと言わせて。ごめんなさい……ごめんなさい……」
私は大切なモノを失った。同時に自分が不器用なことも知った。
失ったモノは返ってこない。時間は常に右へしか動かない。左には転じない。
変わってしまったことがあったとして、元に戻すのは不変とは違うということだけは忠告しなければならないだろう。
元に戻す前の元がそこにはあって、既に変わってしまっているのだから。
貴女がどんなに足掻いたとしても、不変に還ることはできないのである。
「ねぇ、蓮子」と。
耳の奥を幻聴が刺激したような気がした。
涙で歪んだ視界の中、桜の花弁がゆっくりと水底に沈んでいった。
(了)
マエリベリー・ハーンにメリーというあだ名をつけたのは私だ。
ならば、私は彼女と親しい仲の人間であると言えるはずだ。
メリーが事あるごとにすぐ私を頼ってきて、助言してあげることが私の役割だということも判断材料の一因となり得るだろう。
相談は強い口調になることも珍しくはなかったが、彼女が得心しないことはなかった。
同時に、私の見方が反故にされることもなかった。
要するに、彼女の言動には宇佐見蓮子という同期生の私見が混在していたはずだった。
だから、彼女が不満気な面持ちをしていれば、それが何に起因する事柄かなんてことはすぐに分かるし、彼女の好き物や嫌い物も大概は理解していた。
新しいブラウスも、カフェに並んだ紅茶の品種も。
彼女に我慢する素振りなんて見られなかった。
快活な笑顔で、
「ありがとう、蓮子」と言ってくれる彼女を見守ることが至福であった。
それに昼夜を惜しまず徹していられるというのは、やはり格別の感情が彼女にあったものからだと言える。
それで、私はメリーの親友であると自負していた。
あるいは、彼女の身内に近しい何かであると錯覚するくらいには。
何故、所々の文言に過去形態を用いているかと言えば、それは彼女の挙動の変化に理由があったからだ。
2.
近頃、どうもメリーの様子がおかしい。
平生と変わらない挨拶に対しても、背中をぽんと強めに押してやっても。
彼女は誰の仕業であるかくらい分かるはずなのに、これを酷く嫌うようになった。
「触らないで!」という澆薄にも尖鋭な言葉。
軽蔑を暗喩する細い眼差しに。
私の好意は散り散りに引き裂かれてしまった。
逡巡して後ずさりした拍子に、メリーと周囲とを比較することができた。
ところが、彼女の造形は溶け込んでいない。
その日は、上手くこれを表現することができなかった。
喩えるなら、周囲を正常と仮定するとして彼女はまさにその逆であった。
彼女だけが、固有の劇場を身に纏っているようにも感ぜられた。
下手な表現を貫くなれば、ドラマの撮影現場を見せられているかのような。
詰まるところ、彼女が異様にも浮いて見えたのである。
メリーは私を拒絶し、私は彼女の視界からしばらく離れることにした。
ただ、この日を境として私と彼女とが絶縁したかと言えばそうではない。
私にそのつもりがないのなら、彼女もきっとそうに違いないと信じていたからである。
であるから、私はメリーがどのようであっても受容しようと考えていた。
たとえそれが、一方的な希望になってしまったとしても。
3.
春の嵐も過ぎ去った夜の時分。
私は彼女が隣にいないカフェを満喫してから家路についた。
その道すがら、街の灯りの届かない路地裏を横切った。
すると、そこにメリーがいたのである。奥まった闇の内で屈み込んでいるではないか。
薄暗がりが災いして気味の悪い思いもしたが、私は彼女の名を呼んでみることにした。
彼女はぴくりと肩を動かすと、上半身をいびつにも傾けて立ち上がった。
背中は丸まっており、呼びかけに対しての返答はなかった。
「何をしてるの?」という質問に対して、彼女はようやく応じてくれた。
「車に、猫がはねられちゃって」
「残念だったわね。それで、猫は?」
そう私が尋ねると、彼女はくるりと反転した。
建屋から溢れる月輪の光は、その佇まいを露わにした。
私はその形状を彼女であると認識していたばかりに、絶句を余儀なくされた。
小さな亡骸を抱える彼女は、優しくも醜い有り様で。
ラベンダー色のワンピースは鮮やかな紅緋で平素の清潔感を失っている。
何よりも、私が舌端に表すことができなくなってしまったのは、彼女の長いブロンドから滴る鮮血だ。
両頬には獣の毛が無造作に散らかっている。
細く尖った双眸は、なさがら捕食者のそれ。
少しばかり開かれた口唇はぬらりとした赤い糸を引いており、彼女が周囲と異なる者であることを暗喩していた。
4.
私はメリーと一緒にいようと思った。少なくとも、私という個人に対して正常を装ったことに違いはない。
逃げ出したくはなかったのだ。
だので、彼女の同意を経て近場に亡骸を埋めに行くことにした。
繁華街から離れた小さな公園。その一角に立つ桜木の根元を、私が素手で掘ってあげた。
ひやりとして、それでいてじっとりとした土の感覚が爪に潜り込んで皮膚を刺激した。
その間のメリーはというと、ずっと月輪が浮かぶ夜空を見上げていた。
時折けたけたと笑う彼女に背筋が震えることもあったが、そのたびに心に喝を入れて「大丈夫?」と声をかけてみた。
そうすると、笑い声はぴたりと止んで静寂が訪れる。
「楽しかったの」
「何が?」
「色々と。想像していて」
「悲しいんじゃないの?」
「ちっとも。空には眼がたくさんあるもの」
「……星だと思う」
「無数のニューロンが綺麗な模様を描いてる」
「だから、星座じゃなくて?」
「眼よ。監視者が私達をじっと視てる」
「それも、幻想郷?」
「違う。この世界で今起きてることよ」
「……そう」
ぴちゃぴちゃ。
ちらっとメリーの様子をうかがうと血糊を拭っては、口に運んでいる様子だった。
だから、間違っても「怖い」なんて自分から言い出すことはできなかった。
埋葬を終えた後のこと。
気の緩みだろうか。いや、もしくは克己心を見失ってしまったのかもしれない。
「美味しい?」
こう、メリーに尋ねてしまっていた。
だって、水道で洗い流して来ればいいだけの汚れを。
彼女はずっと、大事そうに、丁寧に、拭っては舌に落としていたから。
「ええ。クランベリーソースは別に、嫌いじゃないから」
「それは――」
血だとは言えなかった。
貴女が今、爪先から垂らしているものは。
その優しさがメリーにとっての毒になるとは知らずに。
「蓮子も欲しい?」
「今は、いい」
「じゃあ、貴女も私を視る側なのね?」
彼女の眼は猜疑に駆られているようで、マルベリーの瞳は私を確実に捉えていた。
気を逸らそうとして、こんなことをふっかけてみた。
「ねぇ。今度、どこかいかない?」
「……誰と。貴女と、一緒に?」
「そう。私達、最近一緒に出かけてないでしょ。たまには思い切っちゃおうー……とか」
無理な冗談と作った笑顔で精一杯の交流を試みる。
メリーはべっとりと赤く染まったブロンドに手櫛を通すと、
「どこ」
「じゃあ、海と山どっち行きたい?」
「……海は駄目。塩化ナトリウムは身体によくないわ」
「山にする?」
「その方がいい。森の茂みは監視の眼を巻けるから」
明後日の休みに行こうとメリーに伝えると、私は彼女を残して公園から去ることにした。
よく筋道を立てられたものだと、内心ほっとしていた。
でも、何故安心してしまうのだろう、と疑問を投げかけてみる。
何をもっての安心なのだろう。
自分の身が救われたことの安心か。
メリーが許可してくれたことに対する安心か。
それでもきっと、距離を間違えれば拒絶されたことだろう。
恐怖と不幸を結び付けないように。
縁石の上を渡り切ることを小さな達成感に置換してみた。
「……ァァァァァァァ……ァァアアアアアッ! 嫌よッ! 視ないで! 嫌! 嫌嫌嫌嫌嫌ッ!!」
物静かな夜の街を、メリーの声が占拠する。
それは泣いてるようにも聞こえたし、吠えてるようにも聞こえた。
私は知らないふりがしたくて、両手で耳を塞ぐことにした。
5.
――相対性精神学のマエリベリー・ハーン?
――アレはヤバいよ。相手にしない方がいい。障害入ってるわ。
――精神学って自分に返ってくることあるしね。キツかったんじゃない?
――何。教授がキレて出禁にしたって話、お前知らないの?
翌々日の午前。
日の出が早まりだしたこともあって、不思議と目覚めはよかった。
待ち合わせの時間はメールで送っておいたが、メリーはちゃんと電車の時間にやってきた。
態度は元に戻っていて何かよそよそしく、周囲に怯えている様子だった。
この場合の元というのは、いつのことを切り取ればいいのだろう。
私を拒絶した日の彼女のことで適してるのだろうか。
それとも、これは誤用であって実際には「ねぇ、蓮子」と話しかけてくれていた、あの頃の彼女のことを指し示すのだろうか。
結局、朝の挨拶にも応じる気配はなく、メリーはただ私の後ろをついてくるばかりだった。
電車を乗り継いで、バスに乗り換えると車内には運転手と私達だけになった。
最後方席に二人で座っていたのだが、なぜか人一人分の距離が詰められない。
ちょっと手を伸ばせば、メリーの指先はそこにあるのに。
――触らないで!
その言葉の棘から受けた傷は未だ癒えていない。
拒絶されて絶縁したら、私はどうなってしまうのだろうか。
次のバス停で別行動になるのか。それとも、食べられてしまうのか。
不意に彼女の手首に目をやると、いくつもの赤い線が残されていた。
凹凸のある生々しい外傷だった。
「まだ春は先みたいね。最近、幻想郷はどんな感じ?」
「……見えなくなった」
「見えないって何よ、それ」
メリーは車窓に流れる枝垂れ桜の並木から目を離そうとしなかった。
聞き返しにも、応じてはくれなかった。
幻想郷が見えないとはどういうことだろう。
興味がなくなってしまった。だとしても、嫌でも見えるものだったのではないか。
力が衰えた。この筋の方がしっくり来る。そもそも制御できる能力ではなかった。
仮に後者だった場合、時系列を追うと彼女の心身の異常に説明がつきそうだ。
二つの流れがある。
一つ目は、メリーが力を失って自暴自棄になった。この場合、幻想郷に類似した何かを幻視しようと無理をしている。でも、だとしたらあの晩の出来事に説明がつかない。本能的に吐瀉するはずだ。
二つ目は、メリーが自暴自棄になって力を失ってしまった。この場合、なぜ自暴自棄になってしまったのかが理解できないけど、あの晩のことならば合点がいく。でも、ああまで精神状態を変異させるものって――。
6.
「お客さん……大丈夫、お客さん。お連れさん、先に出ちゃいましたけど?」
「え」
気づけば、老年の運転手が後ろを振り返って私を気にかけている。
窓辺にもたれかかっていたはずのメリーの姿は、もうない。
左右の窓から人影を探してみたものの、彼女を捉えることはできなかった。
「おじさん、あの子どっち行った?」
「外人さんなら、沢の方へ下ってったよ」
私は現金を手渡すと、降車してすぐさま彼女の名を呼び続けた。
幸か不幸か、観光地にもならないような場所で降りてしまったらしい。
沢に下る階段は一本だが、いくつかの踊り場を経由しているせいで最下までの見渡すことができない。
「メリー! メリー! いたら返事して。お願い、メリー!」
木造の階段を勢いよく駆け下りた。
高地に来たこともあって、肌へ当たる風が冷たい。
おまけに、丸坊主の枝木は鋭利で頬を何箇所か掠めた。
なんで。なんで貴女は一人で考え込んでしまったの。
私、ずっと一緒にいたのに。離れてなんかいなかった。
ずっと、貴女が満足するまで遠くで見守ってるつもりだった。
なのに、なんでこんな……。
八分目くらいの踊り場で、ようやく地上に人影を視認することができた。
その足取りは一定で、まっすぐ沢を目指している。
「お願い。ねぇ、待ってよ。メリー!」
そこで、ようやくメリーは足を止めて開口した。
しかし、それは蓮子が想像していたものとは異なる返答だった。
「来ないで。視ないで。触らないで。私、貴女の眼が好きになれない。私は黙っていたけど、貴女はそれを隠そうとしなかった。貴女は、知らないうちに誰かを傷つけた自覚があるの?」
「……そんな、こと」
「私に会うのはなんのため。幻想郷の話が聞きたいから? でも、残念ね。今の私には見えないのよ。どう? これで満足した? 私は貴女の飾り細工にはなれない!」
すると、メリーは頭を押さえて上体を揺らし始めた。
ブロンドは乱れ、ナイトキャップは振り落とされてしまった。
それは木々のざわめきよりも不自然で、ここに来てもなお異常に映った。
「……ァァアアアアアッ! 嫌ッ! 嫌嫌嫌嫌ッ!!」
ポーチを草むらへ投げると、メリーはそのまま走り出してしまった。
私はそれを追いかけて階段を下った。
道中、打ち捨てられたメリーの所持品が目に飛び込んできた。
ポーチの近くには薬瓶が転がっていた。
推察通りと言えばそのなのかもしれないが、私は無性に心が苦しくて仕方なくなった。
真意は分からない。それはメリーの内に留まったままのこと。
でも、それが本当に私がつけた傷なのだとしたら、彼女の親友という私の自負とはなんだったのだろう。
彼女のことの何を理解していたのだろう。
もし私が好きだと思っているから、彼女が好きと言っていたのだとすれば。
もし私が嫌いだと思っているから、好きなのに彼女が拒んでいたのだとすれば。
「……そうじゃない」
違うかもしれない。
先に拒絶したのは私だ。私がメリーのことを嫌と言ったんだ。
だからメリーは私のことを思って、好きなのに拒んだ。
だとしたら、あの晩のけだものを造ったのは私だ。
私は今現在も彼女の心を切り裂く加害者なんだ。
それなのに私は耳を塞いで、彼女の悲鳴の意味を知ろうともしなかった。
彼女は自分を犠牲にしてまで、私に合わせてくれたのに。
顔面に吹き付ける風が冷たくて仕方なかった。
荒れた呼吸から、発声が難しくなっているものだと思っていた。
でも実際の私は涙で顔をぐしゃぐしゃに濡らしていて、彼女の背中に抱きついて咽んでいただけだった。
「お願い……メリー。話を、聞いて……頼むから」
入水を始ていた彼女を追いかけてきたこともあり、足は今にも感覚を失いそうなくらい沢の水に浸っていた。
「もう嫌ッ! アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
荒げた声と同調するかのように、彼女の鋭利な爪は私の両腕を掻き毟っていた。
皮を削ぎ取られ、肉を抉られそうな勢いだ。
悲鳴もあげたくなった。だけど、声をあげたらきっと私は自分本位なままなんだ。
そう言い聞かせて、私は滅茶苦茶になりながらもメリーに想いを告げた。
「貴女は飾り細工なんかじゃない……。幻想郷が見たいから、貴女を選んだんじゃない。私の言うことを聞いてくれなくても、不思議な世界が見えなくても……私は、マエリベリー・ハーンが好きだったの。人の名前を馬鹿にしてごめんなさい。人の見た目を馬鹿にしてごめんなさい。あんなこと言わせて。ごめんなさい……ごめんなさい……」
私は大切なモノを失った。同時に自分が不器用なことも知った。
失ったモノは返ってこない。時間は常に右へしか動かない。左には転じない。
変わってしまったことがあったとして、元に戻すのは不変とは違うということだけは忠告しなければならないだろう。
元に戻す前の元がそこにはあって、既に変わってしまっているのだから。
貴女がどんなに足掻いたとしても、不変に還ることはできないのである。
「ねぇ、蓮子」と。
耳の奥を幻聴が刺激したような気がした。
涙で歪んだ視界の中、桜の花弁がゆっくりと水底に沈んでいった。
(了)
うへえ
手に汗握る展開ですが、結局何だったのかよくわからないまま終わってしまったようにも感じてそこは残念でした