「とりあえず、貴女には門番を辞めてもらうわ」
気だるい訳ではなく、さりとて調子がいいわけでもない紅美鈴の午後は、メイド長である十六夜咲夜のそんな一言から始まった。
◆◆◆◆◆◆◆◆
最近の自分はぜんぜんなっていない。それが彼女、紅美鈴の正直な感想だった。
何がなっていないのか。決まっている、門番の仕事だ。
当然の話であるが、門番は自分が守護する館に押し入ろうとする者を通さない。通さないのだが、結果はどうだろうか。
まず、何がおかしいかと言えば通さない事が当たり前である門番の仕事が、勝率で表されていると言う点である。
全体で見れば7割強の勝率。これが霧雨魔理沙とアリス・マーガトロイドに限定されればその勝率は4割にまで落ち込む。さらにこれを魔理沙のみに限定すれば、その勝率はなんと2割半ばまでという酷い有様だ。
たまにやってくる身の程知らずな人間、妖怪はすべて紅美鈴以下門番隊に全て倒されている。つまり、魔理沙とアリスさえ除いてしまえば彼女は門番としての役割を十分に果たしているのだ。事実、博麗霊夢と霧雨魔理沙が彼女の守護する紅魔館に攻め入るまでは、赤毛の龍が守護している時に攻め入るのは自殺行為である、とまで言われていた。
アリスの方はまだいい。彼女は押し入りではあるものの淑女的な態度を通し、ヴワル魔法図書館でも基本的にはその場で本を読む。もし読みきれなくても、図書館の主人たるパチュリーに許可を得て、しっかりと返しに来る。そのために、十六夜咲夜もパチュリー・ノーレッジも門番さえ突破すれば黙認と言う態度を取っている。防衛率もやや格上と言う事を考えれば悪くはない数値である。
問題は霧雨魔理沙だ。彼女は弾をばら撒き魔砲をぶっぱなし門を突き破って突破する。さらに本をかっぱらっていくため、パチュリーからも苦情が出てくる。当然、館の中も少なからず荒れてしまっているため、美鈴達は各所の苦情に耐えながら泣く泣く門を修復する日が続いていた。
屈強にして鉄壁と謳われた門番隊は、いまや紅魔館一肩身の狭い部署と成り下がっていた。
敵に進入は許す、他の部署から文句を言われるでは当然士気が落ちる。それでも有象無象に一片たりとも遅れを取らないのは、流石は紅魔館の誇る門番隊だと言えるが、その分対アリス・魔理沙の勝率は落ち込むばかりである。特に最近では、赤毛の龍がいたとしても魔理沙への防衛率は1割を切るか切らないかという場所で低迷している。
館のメイドや厨房、司書なんかはいつ門番隊の勝率が1割を切るのか賭けている人間までいる。門番隊は言い返したい気持ちとは裏腹に、その低迷する勝率が返す言葉を作らせない。
親しみの美鈴に対し威厳の咲夜の差もあってか、今では十六夜咲夜率いるメイド隊こそが紅魔館の守護者である、などと豪語する者もいるのだ。
美鈴自身はこんな言葉など気にしない。気にするのは尊敬する咲夜の叱責だけである。しかし、自分の部下達が悔しそうに俯きながら拳をわななかせている姿を見ると、とてもではないがやるせなくなった。
気合を入れて心機一転、今後一度も魔理沙を通さずと意気込みながら突破された、今日の午後の事である。
紅魔館の主、永遠に紅い幼き月、レミリア・スカーレットから直々に呼び出されたのは。
「失礼します」
言いながら、美鈴は紅に染まっている大きな扉を叩いた。
この先に繋がる部屋は、赤が基準の色に割り当てられているステンドグラスを一面に敷いたレミリア専用のカフェだ。ここに入る事が許されている人物はごく少数。当主たるレミリア・スカーレットにその妹のフランドール・スカーレット、当主の友人であるパチュリー・ノーレッジと完璧なる従者、十六夜咲夜。そして最後に悪魔の従者として咲夜の次に権限と実力を持つ紅美鈴である。
確かに気軽にとは言えないが入る事を許される身ではあるが、美鈴の場合その意味合いが大きく異なる。少なくとも彼女はそう思っていた。
この紅魔館にはたとえ何があろうとも絶対不可侵の場所がいくつかある。それはレミリアの寝室と、いくつかのカフェテラスだ。こればかりはレミリアが名指しで許した者意外は進入できない。前にこの事を知らない新人のメイドがカフェテラスに侵入し、その場でレミリアに八つ裂きにされていた事もある。
フランドールとパチュリーは言うに及ばず、咲夜は主従の関係ながらもそれを遥かに超えた信頼関係があるのは誰から見ても明らかだ。しかし、美鈴はというとレミリアとはあくまで主と僕の関係であるし、咲夜ほど親しいどころか外勤のため殆ど顔をあわせない。精々が咲夜不在の時にレミリアを起こしに行くくらいだ。とてもではないが気軽に話せるような仲ではない。
体が緊張で固まりながらも、出来うる限り背筋を伸ばし従者然とする。相手が自分の主であるのならば、やってやりすぎという事は無い。
「入りなさい」
扉の向こうから入室の許可を下す声がした。咲夜の声ではない。レミリアが直接言ったのだ。
紅魔館の門より数倍軽いはずの扉は、美鈴に門の何倍も重くのしかかる。扉を開けて漂う紅茶の香りは、普段であればリラックスできるはずなのに、その香りこそが当主の存在を知らしめて余計緊張させた。
「紅魔館門番隊総隊長紅美鈴、召集に応じただ今参りました」
咲夜に徹底的に仕込まれた気を付けと礼を行い、テラスの中を見た。優雅に紅茶を嗜んでいるレミリアに、その斜め後ろで待機している咲夜。ここ数年の紅魔館の日常的風景だ。
「もっと寄りなさい。話し辛いじゃない」
「す、すみません」
美鈴は慌てて動き、咲夜の反対側に位置付ける。つまり、レミリアの斜め後ろ。どこに行くのかと見ていた咲夜が、レミリアに聞こえない程度にため息をついた。
「あなたは私を馬鹿にしてるの? 話があるって言ってるんだから正面に回るのは当然でしょ」
「ごめ、ごめんなさいっ」
埃を立てないように静かに、しかし出来うる限り急いで正面に回る。レミリアの正面に位置していた椅子に、とっさに座ろうとしてしまったが何とか留まる。その程度の冷静さが残っていた事に内心ほっとした。
「少し落ち着いて深呼吸なさい。緊張してるのかどうだか知らないけど、これじゃろくに話もできないじゃない」
すみません、と言いかけて止めた。謝ってばかりいるのも緊張している証拠だ。
「分かりました」
深く二度の深呼吸、それで緊張を取り払い落ち着きを取り戻した。
「それで、その、あのぅー。ご用向きは何なんでしょうか?」
緊張を取りすぎて今度は不安に駆られる失態を犯しながらも、細々とした声で切り出す。なんとなく使用する単語が変だった気もするけど、後悔後に立たず今更取り下げるのも変であるためそのまま通す。
「咲夜」
「はい」
主従が短いやり取りをし、咲夜が一歩前に出てくる。
「美鈴、とりあえず貴女には門番を辞めてもらうわ」
頭を、ハンマーで殴られるような衝撃が襲った。その衝撃たるやメイドの変わりにレミリアを起こしに行って、たまたま機嫌が悪かったらしくいきなり壁に埋め込まれた時よりも遥かに効いた。
言い訳が出来ようはずもない。門番の役割を果たしてないと自覚しているのに、私は悪くないなどと言い訳できようはずがあるだろうか。
そう、死人に口無し敗者に栄光無し職業に貴賎無しなこの世の中で役割を果たせなかった自分など最早無駄飯ぐらいの役立たずなのである。
だけど、最後に、最後に一言だけ、自分は精一杯やりました今までありがとうございましたと言いたかった。
紅魔館での思い出が走馬灯のように駆け巡る。あぁ、良い事ばかりだったわけじゃないのに、こうして終わりの時を迎えると思いだせるのは美しい事ばかりなんだなぁ、と思った。思わず涙が溢れても、それを誰かが咎められよう筈が無い。
「――つまり貴女はこれから」
「咲夜、咲夜」
「何ですかお嬢様。今彼女にこれからの業務の説明をしているのですが」
「なんでかしらないけど、この子泣いてるわよ」
言われて、美鈴のこれからやら門番隊の穴埋めやらが色々記載されている紙から顔を上げる。正面では、美鈴が少しだけ眉をしかめて体中の水分が無くなるんじゃないかという勢いで泣いていた。
「ちょっと、美鈴。美鈴!」
その光景に多少引きながらも、美鈴を呼ぶ。一度で返事しないあたり、どこか夢の世界の住人になっていたのだろうか。
「あ……ハイ」
音を立てて、垂れた鼻水を啜る美鈴。レミリアはそれを見て顔をしかめた。残りの紅茶なんて飲めたもんじゃない。
「すみません、長らくお世話になりました。今まで雇ってくれてありがとうございます。これから顔をあわせる事も少なくなると思いますけど、その時は話し相手くらいにはなってくださいね」
「何を自己完結してるのよ貴女は。話は最後まで聞きなさい」
「え、でも門番はクビですよね」
「クビじゃなくて異動。貴女どこから私の話を聞いてなかったの?」
「えっと、門番を辞めてもらうわ、って所からさっぱり」
美鈴の言葉に、咲夜は頭を抱えてため息をついた。レミリアはそんな二人の様子を見て面白そうに笑っている。
「『とりあえず』門番を辞めてもらうのよ。別に紅魔館から追放するって言ってるわけじゃないわ」
「でも私、最近門番の仕事なってませんし」
「あのねぇ」
ここまで沈黙を保ってきたレミリアが声を発した。
「多分魔理沙の事を言ってるんだろうけどそれは大きな間違いよ。あいつはあれでも咲夜やパチェ、条件付とは言え私とフランにも勝ってるのよ? 毎度毎度貴女が勝てるとは思ってないし、期待もしてない。まぁ確かに、最近は以前に比べて酷い所が目立つけど魔理沙が相手ならそんなものじゃない、程度よ。当然褒めはしないけど、咎めるつもりも無いわ」
一瞬、慰めているのかとも思ったが、それも違うらしい。レミリアの顔には微かにではあるが、苦虫を噛み潰したような表情が張り付いていた。弾幕ごっこ――所詮遊びとはいえ、負けたことを屈辱と取っている。
公に口には出さないが、精進なさいとは言えても負けるなと言えないのが本音だろう。
美鈴は安堵のため息を、二人には聞こえないように漏らす。当然これからも負けないように日々努力を続けていく気だが、さしあたって紅魔館をクビになるという最悪の事態だけは免れた。
紅魔館を放逐されて生きていけないわけではないが、その後どう生きるか彼女には及びもつかない。すでにこの場所で働く事は、生きがいに近いものになっている。
「それにね、貴女は自分を過小評価してるようだから言っておくけど、貴女に出て行かれるとこちらからしても大きな痛手なのよ。お嬢様たちを抜いて魔理沙や霊夢なんかと戦えるレベルにいるのは私と貴女だけ。たとえ門番としてじゃなくても、貴女がいなくなったら困るのはこっちなの」
レミリアに付け加えるようにして、咲夜が言う。不謹慎ではあるが、自分は必要とされていると思うと胸が一杯だった。
「えっと、ありがとうございます。それで私は何をすればいいんでしょうか」
「フランドールお嬢様専属の従者よ」
「専属……って今更ですか?」
咲夜が来てからは、レミリアの従者即ち咲夜となっているが、その前でもレミリア専属のメイドは数名いた。尤も、レミリアが起きる時のみ美鈴の仕事になっていたが。寝起きで機嫌の悪いレミリアのかんしゃくに耐えられるだけの実力を持った者が美鈴しか居なかったためである。
パチュリーにも使い魔という形であるが、専属の従者はいる。となれば、フランドールにも専属の従者が居て当然のはずである。
「フランお嬢様のメイドはローテーションを組んでるの。これはパチュリー様から聞いた話で私は知らないんだけど、フランお嬢様は気に入ったメイドだと力加減を誤って壊しちゃうらしいわ」
誤って壊してしまう。その言葉を聴いて、美鈴は背筋が寒くなるのを感じた。
体感したわけではなく人伝いに聞いただけだが、フランドールの能力はありとあらゆるものを破壊すると言う。彼女に破壊されたとは、普通に肉体を破壊されたと見るべきか、それとも他の何かを破壊されたと見るべきか。正直知りたくない話だ。
「それで、貴女にして欲しい事はフランお嬢様が外に出るときのみ傍に控えている事。そしてフランお嬢様が何かを破壊しようとしたときに、それを阻止する事」
「ってそんなの無理ですよ! 本気で暴れられたら私なんて一瞬で粉々ですよ!」
「別に本気になったフランお嬢様を止めろって言ってるわけじゃないわよ。ちょっと力加減を誤ったときに、それを打ち消す事。そうでなければ力加減を誤りそうになった時に怒るか諭すかする事」
言い終えると、これが貴女が抜けた後の門番のローテーション。目を通して組み直しなさい、と言って手元に持っていた紙が渡される。
紙に目を通していたが、頭の中に文字が全く入ってこなかった。放心しているのと変わりない。
正直、激務である。門番から主人一家の従者とは栄転もいいところだが、同時に命がけの仕事でもある。どちらの方が良かったかはさておき、これからの仕事を舐めてかかったら死んでもおかしくないだろう。
諸手を上げて喜べず、さりとて拒否の言葉を出せるはずもなく、心此処に在らずながらも辛うじて扉の外に出た。
閉まった扉が叩いた音は、入るときよりも遥かに乾いた音だった。
美鈴が部屋を出て行って数分、レミリアは今丁度一息入れ終わった後だ。泣いたり喜んだり放心したり、彼女の百面相は見ていて楽しかったが、同時に疲れもした。この館には彼女以上に感情豊かな者は居ないだろう。
レミリアが今考えているのは、美鈴の事であり咲夜の事である。大事な妹を美鈴に預けて良いものか、今でも不安が残る。彼女は能力的には文句なしなのだが、如何せん性格に問題がある。激情家たれとまでは言わないが、もうちょっとどうにかなる部分はあるだろう。
咲夜も、何故美鈴を推薦したのだろうか。もうちょっと任せられそうな人物はいるだろうに。たとえばいつぞやの半人半獣だったか、名前は確かハクタクと言っただろうか。八雲の狐も面倒見が良さそうだ。後は、魔の森の人形遣い。多少口数が少なくはあるが、知識と言う点においてパチュリーに大きな不覚を取るとは思えない。月の兎もなかなかのものだったと記憶している。
「納得いかないという顔ですわね」
咲夜が主の表情を汲み取り、新しく紅茶を注ぎながら言う。砂糖スプーン2杯とミルクを忘れない。
「ええ。正直に言わせてもらうわ。フランを任せるには、美鈴はあまりにも頼りない。他にも人材が居ないわけじゃないのに、なんでわざわざ彼女なの?」
「あら、お嬢様。それはあの子を過小評価しすぎですわよ。こと人を育てるという部分において、彼女以上の人材はなかなか居ませんわ」
レミリアは悪戯っぽい笑みを浮かべる咲夜に眉を潜めた。理解できない。レミリアの率直な感想だ。
今回急だって話が進んだのは、フランドールを封じておくのも限界が近いとパチュリーから切り出されたからだ。フランドールは魔理沙と霊夢が来てから人間と外の世界を知り、出たいという欲求が強くなった。それだけならばまだ良かったのだが、咲夜はともかく殆ど外に出なかったレミリアが、最近頻繁に外に出歩いている。フランドールはそれを見てずるいと感じるようになってもそれは仕方が無い事だろう。かんしゃくの回数が増え、パチュリーが抑えるのもそろそろ限界である。
そこで出された苦肉の策が、フランが外に出るときに従者をつれて歩く事である。条件としてやり過ぎを抑えるか若しくは打ち消す事ができるほどの実力者であり、彼女を言い咎める事が出来る常識人でなおかつ世話焼き。また力加減を教える事が出来る人材であればベスト。
つまりこの度の従者とは、同時にフランドールの教育係である。
そこで誰が良いかと考えはじめた所で、咲夜が当然といわんばかりに美鈴を推した。これにはレミリアどころかパチュリーも渋い顔をしたが、咲夜は彼女が一番と譲らなかった。
まぁ、ダメであれば代えてしまえばいいだけの話。そう思ってレミリアは承諾したが、今になって不安が募ってきたと言う訳だ。
「本当なら咲夜にやってもらうのが一番なのに」
「ですから、お嬢様は彼女を過小評価しすぎですわ。美鈴ほどフランお嬢様の教育係に向いている人物はいませんし、私ほどフランお嬢様の教育係に向いていない人物も居ませんよ」
咲夜の話を聞きながら、紅茶を混ぜる。二重の混沌はやがて混ざり合い、一つとなる。
ミルクティーほど簡単にいってくれればいいのに。そんな思いを出さずにはいられなかった。
「そんな事ないでしょ。咲夜だったら安心して任せられる」
「私がフランお嬢様の教育をするには、優しくなさすぎます。美鈴のような優しさと陽気さが、人を育てるんですよ。知識は二の次です」
「ずいぶんはっきりと断言するのね」
「はい。人を見る目で人間に敵う者はありませんわ。そうでなければ人間は後世に何も残せませんから」
完璧で瀟洒なメイドは、時に妖怪や悪魔では及びもつかないことを知っている。それこそ、たかが20年そこらしか生きていないのに何故これほど色々な事を知っているのだろうかと思えるほどに。
やはり主の顔からそれを汲み取ったのか、咲夜は応えて見せた。
「生き急ぐ事ができるのは人間だけの特権ですよ」
成る程。思わず納得する。
まあ、いい。咲夜はレミリアが知る限り最も信頼できる相手である。彼女が自分たちに無い目と耳を持っていると言うならば、それを信じるのもいいだろう。
取り合えず、放置しすぎてぬるくなってしまった紅茶の代えを要求しなくては。そんなことを考えながら、レミリアは紅茶を傾けた。
◆◆◆◆◆◆◆◆
地下室の空気は、とりわけ心地よさを感じられるものではなかった。普段、昼夜を関わらず外にいるからか、この湿気の多さは酷く気になる。もしかしたら気分が重いからそう感じるのかもしれない。
パチュリー様ならなんとかできるかもしれない、と考えてすぐにその考えを取り消した。最近はただでさえフランドールや魔理沙で気苦労の耐えないあの人に、これ以上の苦労を強いるのは酷く躊躇われる。元々人外というカテゴリーにおいて最も脆弱な種族で、その中でも脆弱な体をしているのだ。無理をさせられるはずがない。
地下室の湿気を吸って張りを失った紙の束に目を落とす。一枚目に記されていたのは、門番に対する記述だった。
美鈴が抜ける事による戦力の減少と、それを補う部隊の配属と舞台番号が明記されていた。どうやら美鈴が居ない間は、アリスと魔理沙は表向き客人という扱いになるらしい。これ以上戦力が減ると他の侵入者撃退に支障が出るからとの事だ。咲夜は美鈴が思っていた以上に自分を高く買ってくれていたらしく、その事がなんだかむず痒かった。
一応しっかりと目を通したが、彼女には咲夜が発案した物以上の配属変更が思い浮かばなかった。というよりも、どうがんばっても自分にはこれほどのものは思い浮かばないだろう、と美鈴は考える。このあたりは、さすが曲者揃いの紅魔館をたった一年で、しかも人間の身で掌握した人だ。実力があり頭も切れる。知恵という一点においてはパチュリーも劣る事を認めざるを得ないだろう。
門番隊に自分の転属と部隊の配置転換を伝えた時、部隊の皆が涙ながらに美鈴の昇進を祝い、脱退を悲しんでくれて泣きながら抱き合ったのは彼女たちだけの秘密である。
自分の中の美しい思い出を噛み締めながら、紙を捲る。二枚目、三枚目にはフランドールについての事、そして注意事項が書かれている。
まず、ありとあらゆるものを破壊する程度の能力について、咲夜とパチュリーの見解が予想も込みで書かれていた。
誰にでも共通する事だが、能力は常に発動されているわけではない。発動する意思を持っていなければ、それは決して発動される事は無いのだ。とはいえ、手足のような感覚で使えてしまう能力は無自覚に出てくる事も少なくない。当然、フランドールの弾幕も通常の状態であれば『恐ろしく強力な攻撃』なだけである。それだけで脅威なのは否定しようのない事実であるが。
咲夜とパチュリーによれば、フランドールの能力の方向はとても曖昧らしい。時を『止める』といった方向性、運命を『見る』といった方向性、『昼と夜の』境界を曖昧にするといった方向性。そんな能力の向きを、フランドールは恐らく理解できていないという。しかし能力自体が、破壊する、とある程度具体的な為に方向が曖昧ながらも扱えるらしい。逆に、何を壊すか分からないという怖さもあるが。
これに対し咲夜が考えた対抗策とは、力を正面から受け止めず横から叩き潰すという方法だった。
単純な威力で、フランドールに勝るものはこの幻想郷に存在しない。ただでさえ強力な力に破壊するという付加効果まであるのだから。そもそも正面から受け止められる存在がいない。
ならばどうするか、力のベクトルを無理矢理変えてしまえばいい。一方向に集中された力とは、正面以外から力が加われば脆いものだ。それが容易いかは別にして。
大変困難な方法であるが、可か不可かで問われれば美鈴は可と応える。前例もある。あの大妖怪、八雲紫や博麗霊夢はいつもそのような戦い方をしていた。あれをまねればいい。弾幕ごっこを行うのならばともかく、何かがあったときに横から打ち消すくらいならやって見せよう。咲夜の信頼に応えるためにも。
問題は万が一本気になられた時だ。美鈴にとって一番問題である三枚目には、フランドールが所有する各種スペルカードが細かい説明と共に書かれている。
それを見た美鈴の感想はただ一言。規格外。
嫉妬すら覚える事適わない圧倒的な力に物を言わせた物量の嵐。僅か一秒でも留まれば逃げ場を失うか、圧倒的な威力に骨も残さず粉砕される。どのスペルカードも極悪極まりない。接近戦において速さ、力、威力全てに自信を持つ美鈴でさえ逃げ出したくなるような内容ばかりだ。
第一何だ、この追い討ちのような殴り書きは。一人憤慨する。
『スペルカードを使われたらあきらめて粉砕されなさい。腕一本でも残してくれると研究に役立って吉』
『瀟洒に根性でなんとかなさいな』
瀟洒に根性でとはどんなんだ、と。パチュリーに至っては既に心遣いすら感じられない。
幻想郷最強の破壊力。そして恐らく、実力でも幻想郷最強の部類。さらに自分は相手の人格すら知らない。長い間地下に閉じ込められていた人物が人格者だと思えるほど、美鈴は楽観的ではない。
自然と肩が重くなるのも詮無き事だろう。
美鈴は正面にそびえる大きな鉄の扉を見る。実は、さっきからずっとここにいた。
その扉を叩こうとしても、恐怖心が先立ちどうしても入る事が躊躇われていたからだ。
「いつまでそうしているの? 入ってきなさい」
扉の向こうから響く声に、思わず肩を竦ませる。扉の奥にいる悪魔の妹はとっくに気付いていた。
「しつれいしまーす」
小声で、しかし失礼ではない程度に大きく声を出す。中に居たのは、レミリア・スカーレットによく似た小さい女の子だった。
豪奢な部屋の中心にテーブルを構え、右にはフランドールが座り左の椅子は空いている。小さな体には椅子が大きすぎ、届かぬ足を振っている。
金色の髪に七枚羽の翼、そしてあどけない顔。そして可愛らしい声と、外観上はどうみても普通の少女。少なくとも好んで破壊をするようには見えない。恐怖心を先行させ、自分勝手なフランドール像を作っていた事を美鈴は密かに恥じた。
「早く早く。そこに座ってちょうだい」
「え? でも……」
「いいから座るの」
美鈴から見て左、フランドールの正面に位置する椅子に腰掛ける。
普通、従者は主と席を共にしないものだと思っていたが、この場合はどうなのだろうかと思った。主が指定した以上は、反発する事はむしろ失礼なのだろうと自分を納得させる。
「貴女はだあれ? 新しいメイドじゃないわよね。だって今までのメイド、そんな服着てなかったもの」
「私は紅美鈴といいます。一応、この館の門番隊隊長を勤めさせてもらってます」
隊長という言葉に、フランドールは目を輝かせる。
「門番! だったら私と弾幕ごっこしない?」
「丁重にお断りさせて頂きます」
即答した。フランドールがいかにも不満ですといった顔をするが、これだけは譲れない。まだ死にたくない。
「ところで、フランお嬢様。よく私があそこに居たと分かりましたね」
「ここは私の陣地よ? 誰かが扉の前に立っていれば分からないわけないじゃない」
美鈴も自分の陣地と言える門周辺に誰かがいればすぐに分かる。確かに、誰かがいれば気付かないはずがない。美鈴よりレベルの高いフランドールならば気付いて当然だろう。
「いつ入ってくるかな、と思ってたのにずっと扉の前で立ってるんだもん。私飽きちゃった」
「すみません~」
今更になって羞恥心がこみ上げてきた。外限定ではあるが、これから使える主に、とんだ失態を見せてしまった。顔の一つや二つ赤くなるというものだ。
「それで、門番の貴女は何をしに来たのかしら」
「何を、って……。え? 聞いてません?」
「聞いてたらこんなこと聞かないわよ」
「ですよねぇ。えっと、レミリアお嬢様からの外出許可が出たんで……」
「ほんと!?」
目を輝かせながら、フランドールが聞いてきた。その勢いに思わず気圧される。
「何を着ていこうかなーっ。かわいい服たくさんあるのに、見せる機会がほとんどないんだもの」
「あぁっ! 話を最後まで聞いてくださいっ。それでですね、外にいる間は私が付き添う事になったんで挨拶に来ました」
「そうなの? まあ、どっちでもいいや。ええと、メイ、メィ……」
「美鈴です」
「分かってるっ。発音が難しいのよ。そうねえ、貴女は中国! そう呼ぶわ」
「は? ええと、中国って」
「前にパチェが教えてくれた外の世界に、貴女みたいな服を着てる国があったの。だから貴女にはその国の名前をあげる」
フランドールは、自分の思いつきにどうだ参ったか、としたり顔をしている。
美鈴は少し思考を巡回させ、それでもいいかという結論に至った。たとえどんな呼ばれかただったとしても、フランドールの笑顔に変えられる訳がない。
要は愛称のようなものだ。それを主から貰えるんだから喜ぶ事はあっても否定することはない。それに、中々格好いい。僭越ではあるが一国家と同じ名を呼ばれるというのは。
私は幻想郷だ。私は中国だ。中々良い。美鈴は思わず首肯する。
中には名前すら覚えず門番としか言わないような者も居る。捨てる神あれば拾う神ありだ。
「ねえ中国、今すぐ出れる?」
「はい、準備は整ってますよ。多分すぐに出たいだろうな、と思っていきなり外出すると言われても大丈夫なようにしてあります」
「よぉし。お外ってどんな所かしら。あ、言っちゃダメよ。これから楽しむところなんだから」
「分かってますよ、フランお嬢様」
美鈴は小さく笑い、応える。
こうしてみてみれば、何のことはない、見た目通りの――実年齢は別にして――ただの少女だ。恐れるところはあるかもしれないが、今のところ忌避するような部分は見当たらない。
洋服棚を漁るフランドールを、まるで保護者のように見る。美鈴は、まるでこちらの方が天職である気すらしてきていた。
「うん、これに決めた」
「じゃあお手伝いしますね」
「お願いね」
フランドールが選んだ服は、薄いオレンジ色。夕方に映える事を配慮しての事だろう。
脱ぎ散らかされた服を回収しながら、選ばれた服を着せていく。その無邪気な姿に自然と笑顔がもれる。
ふと、頭の中に先ほどの書類の文面が蘇る。圧倒的な破壊力を自覚しないで行使できるとは、一体どのような事なのだろうか。
(何も起こらなければいいんですけどねぇ)
そんなことを考えながら、美鈴は笑顔の中に少し苦笑を混ぜた。
外は美鈴の予想通り、夕方だった。と言ってもあと一刻ほどで完全に日が沈むのだが。
自分自身吸血鬼ではないので、どれほどの太陽光が悪いのか予想も付かないが、レミリアが日が高い時に頻繁に出かけている事を考えると、まさか夕日でいきなり灰になるとは考えにくい。勿論、フランドールの調子が悪くなれば即刻館の中に退避するつもりでいたが。
今日のところは、とりあえず紅魔館周辺のみにしようと美鈴は考えている。何かがあればすぐにパチュリーが駆けつけられる距離と言うと、精々が湖畔の中腹あたりまでが限界だ。これ以上離れては如何に咲夜が時を止めて駆けつけようとも手遅れになる可能性が出てくる。
尤も、そんな心配がないからこそ咲夜が連れ添っていないのだろうが。
「さあフランお嬢様。この門をくぐれば外になります」
「楽しみね」
フランドールが、門番を担当している者に早く、と急かしている。
美鈴はそんなフランドールを横目で見ながら、自分を慕ってくれている門番隊に手を振った。今日が始めての仕事だとどこからか聞きつけたらしく――他の警備に当たっている者を除き、非番のものまでが全員揃っている。思わず胸が熱くなった。
門が年季の入った重い音を立てて少しずつ開いていく。その門の開きに比例して、フランドールの目は輝いていった。
夕方ではあるが、吸血鬼の目に闇など関係ない。それに、もし視界が人間の見るような夜の闇に覆われていたとしても、フランドールには十分な輝きを放っているように見えていただろう。
「凄いわ、中国。お外ってこんなに広いのね」
「こんなもんじゃありませんよ。外には行けども行けども終わりはありません」
「凄い、本当に凄いわ!」
フランドールの気持ちに連動して、羽と手足が小刻みに上下する。
憧れた枠の外の世界はどれほど輝いて見えただろうか。美鈴には予想も付かない。
「なにやってるの、早く行きましょ! 遅いわよ」
「待ってくださいフランお嬢様。約束覚えてます? 今日は泉の中腹あたりまでですよ」
「えー。いいじゃない、もっと遠くへ行っても。私、霊夢や魔理沙の所に行ってみたいわ」
「ダメですって。取り合えず今回は様子見ですよ。それに遠くまで行ってご飯までに帰れなくなったらどうするんです? レミリアお嬢様とパチュリー様がフランお嬢様のお話を待ってるんですよ? ご飯までに帰らなかったら、きっと二人ともすごく心配しますから」
フランドールは明らかに不満そうな、というか拗ねた顔をするが、レミリアの名前を出されたら従うより他あるまい。なにより敬愛する姉が自分のことで心配する姿など見たいはずはないだろう。
「はぁい。しょうがないから、今日は中国だけで許してあげる。ほら、ご飯までそう時間があるわけじゃないんだから早く行きましょうよ」
「了解です、フランドールお嬢様」
空と世界を噛み締めるように飛んでいくフランドールの後に続き、美鈴も飛ぶ。
ふと、美鈴は後ろを振り返った。そこには、数多くの門番隊が整列し、美鈴とフランドールを見送っていた。
「……行ってきます」
そんな彼女たちに、美鈴は言葉と敬礼を残す。
『行ってらっしゃいませッ! フランドールお嬢様、美鈴隊長!』
息の揃った声、そして敬礼。まるで礼を覚えたのはこの日の為と言わんばかりの、気合の入った言葉だった。
フランドールは彼女たちに手を振っている。美鈴は、敬礼を続けていた。
美鈴が敬礼を下げると、それと同時に彼女たちの敬礼も下がった。
「いい子たちねー」
いつの間にか横に来ていたフランドールが言う。
「ええ、本当に。私の部下にしておくには勿体無い娘たちばかりですよ」
美鈴は同意しながら、気恥ずかしそうにはにかんだ。
「あんた誰よ」
目の前で両腕を組んでいる少女が、多少高い位置から見下ろしながら言う。さも傲慢であると言わんばかりに。
大して見下ろされる側は、大人の女と少女の二人組み。少女は憤慨し今にも飛び掛りそうな顔をしているのに対し、隣に寄り添う中華風の女性は哀れを誘うほど戸惑っている。フランドールと美鈴だ。
フランドールは始めての外にとにかくはしゃいだ。とはいっても、所詮は紅魔館周辺のみ。あるものは正面の野原か、森林のどちらか。寝転がり静と風情を取るには良いかも知れないが、長く眺めているには向かない。
幸いにして、フランドールは泉に興味を示した。吸血鬼は流れる水の上を通れないのでは、と美鈴は思ったがフランドールはそれを普通に無視している。
フランドールは隙あらば泉の中に飛び込もうとし、美鈴は何度もそれを抑えた。濡れたフランドールを持って帰ろうものなら、レミリアと咲夜に全殺しの目にあうのは想像に難くない。むしろはっきり想像できすぎて嫌だ。
結果、フランドールに意識を持っていきすぎて、正面に気が回らなかった。
飛んできたのは、子供の身の丈ほどもありそうなつらら。3本飛んできたそれを、美鈴は苦もなく叩き割る。
氷を扱える者の心当たりなど、片手で数えられるほどしかいない。が、誰かなど知らないし関係ない。こうしていきなり仕掛けてくると言う事は、悪意ないし敵意がある。
「よくもあたいの湖で暴れてくれたわね。おかげで蛙が全部逃げちゃったじゃない」
凍てつく冷気を身に纏い、背に氷柱の翼を持つ妖精、チルノが怒りも露わに睨み下ろす。ちなみに子供が虚勢を張っている様で全く怖くない。
「あんた、たしかあの館の門番よね。一体何のようよ」
チルノは目を三白眼にしたまま、美鈴から少し視線をずらした。そこには彼女と同じくらいの年の頃の少女が居る。
「あんた誰よ」
チルノは嘲りの表情を作った――やはり可愛らしいだけだったが。その言葉と態度に、フランドールの顔が一気に曇る。
フランドールの顔が曇った事に気をよくしたのか、続いて鼻で笑って見せた。
「その乳臭いのは」
きっとこの場に他の誰かが居れば、全員が間違いなくお前もだと言っていただろう。その方が幾分美鈴も救われていた。しかし、今は誰も居ない。
隣に立っているだけで怒気が体を貫いた。その力の余波だけで、視界が紅に染まる。
チルノがその力の奔流に気付いていないのは明らかだった。これだけの力に気付いている者ならば、動揺がまったく無い事などありえない。例えるならば、西行寺の姫やスキマ妖怪ですらさっさと戦線離脱するほど。
やや腰を溜めて、すぐに動ける状態を作る。何があっても即座に対応できるように。
「そんな顔したってぜんぜん怖くないわよ。言いたい事があるなら言ってみなよ」
「ばーか! あほー! 乳臭いのはお前だー!」
力が一気に抜けた。体に溜まっていた力が逃げ場を失い、体が軽くつんのめる。
対してチルノには、それで十分なダメージだったらしい。先ほどのフランドールの表情がそのまま移り、チルノの勝者の笑みもそのまま移っている。
「なんだとっ! そんなひらひらした変な服着ちゃってさぁ!」
「へん、いーだろー! お姉様に貰ったんだよー! お前なんかに貸してあげないもんね!」
後はもう意味もなにもない罵詈雑言の嵐。きっと本人たちも全く意味を分からずに言っているだろう。
あぁ、そう言えば。美鈴は思う。
(フランお嬢様には同じ年頃の相手なんて居なかったな)
実年齢500歳に届こうかという少女なれど、そもそも回りは自分の言う事を聞く人間ばかり。唯一対等に話せる存在のレミリアとて決して友達ではない。本当は、こういう相手が必要だったのではないだろうか。狂っているのではなく、知らないだけだったのではないだろうか。
「あたいが本気になったらお前なんかボコボコだ!」
「やってみなさいよ! 返り討ちにしてやるわ」
ぶっ。美鈴が吹く。いつのまにやらヒートアップした口げんかは、弾幕ごっこにまで発展しそうになっていた。
「喰らえっ!」
「はい待ったぁ!」
フランドールが作り出した火球を、横合いから思い切り蹴り飛ばす。返す刀でチルノが作り出したつららも全て砕いた。
「何で邪魔するのよぉ」
「ダメですって! 私が吼えますよ」
「吼えるの?」
「吼えます」
「すでに吼えてんじゃない」
チルノに指摘されるが、そんなのは知った事ではない。仕事の第一が破壊させないという部分にある手前、大々的に破壊行動を取らせるわけにはいかない。それに、いくらチルノが奮闘した所でフランドールの足元にも及ばないだろう。
さらに美鈴の心情から言えば、チルノはフランドールの初めての友達である。友達を壊させる訳にはいかない。
「フランお嬢様、あかんとです!」
「それ、どこの言葉?」
「あんたちょっと落ち着きなさいよ」
実際、自分でも良く分からなかったが。瑣末な事なので捨て置く。
乱入したはいいが、こんな状態が長く続くわけが無い。美鈴が言いよどんでいると二人は再び相手に意識を集中しだす。今度は言葉も無い。展開は完全に弾幕ごっこに傾いている。
フランドールとチルノ、両者が同時に弾幕を展開する。初手、この時点で既に勝負にならない。彼女らの弾幕には、既に倍以上の数と質の差があるのだ。
放たれた弾丸、それを危険度の高い順に破壊していく。遠く全てに及ばないが、チルノが死なない程度までなら弾幕を薄くする事が出来る。
美鈴には既に二人の言葉すら耳に入らない。それほど集中しなければ、フランドールの球は打ち消せなかった。密かに舌打ちする。完全に侮っていたと。
美鈴が知る最も強い存在であるレミリアですら、こんな真似は出来ない。球数はさほどではないが、威力が違いすぎる。数よりもその威力に押されて、段々追いつかなくなっていく。
チルノの顔にも焦りが見えてきた。自分の限界を容易く打ち破り、技も何も無い、純粋な力のみで全てを砕く。このままでは負ける。それを悟り、泉の水面ぎりぎりまで急下降、追ってくる弾幕を縫って急上昇。フランドールより少し上の、数歩分離れた場所に位置する。
それを十分に目で追い、動こうとしたフランドールの動きが急に止まった。
足に、泉の水で作られた鎖が絡みついている。強度はさほどではないし、一度使えば二度と通用しない戦法ではあるが、それは逆に一度ならば十分有用な技であることも示している。
チルノが薄く笑う。手に掲げるはスペルカード。勝負勘が告げた勝機を寸分たりとも逃がす事無く、スペルカードを宣言する。
が。
「なかなかやるじゃない」
フランドールが銃の形に似せた指を、真下に向けた。そう、氷の鎖を泉ごと狙って。
たった一発きりの弾丸。スペルカードですらない一撃。だが、破壊の特性を持った最強の一撃。
放たれる弾丸。多くの鎖は、弾丸に触れる事すらあたわず消滅していく。拒むものすら存在することができないその弾丸は、泉に突き刺さった。
爆裂。凶悪な破壊の力、その力はただの一発であるにも関わらず、半径数百メートルに渡って数十メートルの高さまで打ち上げた。
美鈴は知った。否応にも。これが『ありとあらゆるものを破壊する』力であると。触れる事あたわず、及ぶ事あたわず、知る事すらあたわない、幻想郷最強の力の一角。
フランドールがゆっくりとスペルカードを取り出すのが見える。それを見て、美鈴は凍りついた。もしスペルカードに破壊の力を付与されたら、一体どれほどの力になるのであろうか。
「わ゛ーーーーー!!!」
思い切り叫ぶ。チルノとフランドール両者とも予想外の人物の予想外の行動で一瞬動きが凍りつく。
息を小さく吐く。足場は要らない。何故ならば、己が気に硬度を持たせそこに足を置く事が彼女には可能だからだ。
左足に重心を置き、右足を高速でチルノに突き出す。しかし、距離は十分にあり美鈴の足は届かない。このままであれば、届かない。
左足と同じく右足に気を練る。今度は硬度を持たせるのではなく、螺旋状に荒れ狂う力を演出して。打ち抜くは大『気』。空気の中に存在する気を蹴りぬき、己が力を伝えさせる。予想だにしない攻撃は、なんの抵抗もなくチルノの鳩尾に吸い込まれていった。
蛙が潰れたような声をあげて、チルノが一言。
「ぐぅ……、卑怯者」
「職務に忠実だと言って下さい」
なんとなく、本当になんとなく髪を払う。気分の問題だ。
フランドールはそんな様子を呆然と眺めていた。恐らく起こった事が理解できていなかったのだろう。
「……あのさ、中国」
「はい、フランお嬢様」
「酷くない?」
「ちゃんと手加減しましたよ。気絶しただけです」
「いや、不意打ちが」
「職務に忠実ですから」
「……そうかなぁ」
納得のいかない表情でフランドールがうめいた。美鈴も同意であるが、こればかりは何にも変えられない。
もし、フランドールの力が直進型であった場合、幻想郷を包む結界すら破壊しかねない。
「それよりほら、そろそろご飯の時間ですよ。レミリアお嬢様にご報告しないと」
「うん。けど、あれ大丈夫かしら」
「大丈夫でしょう。さほど強く蹴ってませんし」
言いながら、軽く視線を流した。先には氷の上でうずくまっているチルノがいる。意識を失う前に作ったのだろう。無意識ながらも吐かれる呪詛がさりげなく怖かった。
「ほら、行きましょうフランお嬢様」
軽く背中を押しながら急かす。浮いているために体重を感じさせない体は、何の抵抗もなく動いた。
「分かったわよぅ。もー、急かさないでったら」
フランドールが自分の力で推力をとり、紅魔館へと向かう。美鈴も後を追った。
背後から聞こえてきた「絶対泣かす」という言葉は、とりあえず聞かなかったことにしておいた方が幸せだろう。
◆◆◆◆◆◆◆◆
今日一日の仕事を終え、自分の主人が眠りについた頃に十六夜咲夜はやっと自室に戻ってきた。
着ていた服を脱ぎ捨てて、バスローブに着替える。休みと言えるものはなく、あったとしてもそれを有用に使う事など無いので、私服と呼べるものはこの一着だけだ。どこに出かけるにしてもメイド服さえあれば事足りる。
これから風呂に入り、その後すぐ就寝。とはいえ昼前には博麗神社につかなければいけないので、それを考えて起きなければいけない。日の出まであと半刻もないので寝れたとしても2刻がいい所だ。
換えの下着を持ってバスルームに向かおうとしたところで、ドアを叩く音が聞こえた。
「開いてるわよ」
簡潔に告げる。これから風呂に入ると言う事で多少不機嫌な声になったかもしれないが、それは咲夜の知った事ではない。
静かに、というよりもおっかなびっくりドアが開けられる。これだけで咲夜は相手が美鈴だと判断した。
持っていた下着をベッドの上に投げ捨て、代わりに紅茶の準備をする。今日尋ねてくるだろう事は予想していたので、既にティーセットは置いてある。
「しつれいしまーす」
部屋に入ってきた美鈴が、咲夜を見て罰が悪そうな顔をする。咲夜がバスローブに着替えていると言う事は、既に一日の仕事を終えて休むときであると誰もが知っている。
さらに言えば、咲夜が最も仕事をこなしている事を知らない人間はいない。
「気にしなくていいわよ」
やはり簡潔に告げた。
咲夜の言葉は極端に短く、その言葉の中に十全を込める。それで理解できない人間には何も言わない。無駄は咲夜が嫌うところの一つである。
立ち尽くしている美鈴に、椅子を指差した。美鈴が座ったかどうかも確かめずに、あらかじめ沸騰したお湯を入れてあるポットを手に取る。
「フランお嬢様の事でしょう?」
「やっぱり分かりますか」
「そりゃあねぇ。絶対に来ると確信してた訳じゃないけど、多分来るでしょうねくらいには思ってたから」
喋っている間に入れた紅茶を美鈴に差し出す。普段より幾分いい加減な入れ方ではあるが、それなりの味は出ているはずだ。
紅茶を出すと言う事の目的は、その香りで心を落ち着かせる事ではない。お茶を飲むと言う動作を間に挟む事により、高揚した精神を常時に引き戻す。相対する空気というのは、そんな僅かなもので簡単に動く。
「適当にお茶を飲みながらでいいから話してみなさい。時間は気にしなくていいわよ」
「いえ、でも悪いかなと……」
「私は気にしなくていいと言ったの。それを気にするかしないかは相手次第。ただ、私は二度言わないわよ」
美鈴は謝罪するべきか感謝するべきか迷っている様子だったが、なんとなくどちらもふさわしくない気がしたのか取り合えずの言葉を言う。
「その、ありがとうございます」
美鈴は何を語るか迷っているようだった。或いは道筋立てようとしているのか。尤も、咲夜はそのどちらも期待していない。
今日あったことが咲夜の予想通りであれば、ある程度支離滅裂になるのは覚悟している。
「その、フランお嬢様なんですけど、確かに力が強力なのは分かりますが、それは狂っているとかじゃなくて何も知らないだけじゃないでしょうかと思ったんですけど。友達を壊す危険まで持ってた訳ですから、自分の能力の危険を理解して制御できるまで外に出せなかったのは分かりますけど」
話しているうちに自分でもよく分からなくなり、やがて手が加わり始める。
「覚えていくべきことがたくさんあると思うんです。それも他人に押し付けられるようなものじゃなくて、自分から望んで覚えるものが。力が強いって言う事はそれに依存しすぎるって言う事でもありますし」
「それで、つまり私にどうすればいいんでしょう、と?」
紅茶を嗜みながら、美鈴の言葉をさえぎりぎみに言う。実際、その通りであったのだろう。美鈴は顔を傾けた。
「全てが上手く行く筈が無いのよ。ただフランお嬢様を監督するために貴女をつけたんじゃないってことは、薄々ながらも気付いているでしょ? 貴女は今日、一体何をしたのかしら」
美鈴とはさほど長い付き合いではない。しかし、短くもなければ薄い付き合いでもない。大体の行動は予想できる。
紅魔館を揺るがすほどの爆発と水しぶきで、やはりという感想を持たずには居られなかった。咲夜が思うに。
「貴女、フランお嬢様を怒らなかったでしょう」
返事はない。ただ頭は上下に振れる。
「従うだけが従者じゃない。寄り添うだけが人じゃない。黙認するだけが優しさじゃない。間違いを正す事は必要よ。そして、相手から見ても間違いを正してくれる相手と言うのは必要なのよ。それは響きあっていると言う事だから」
「咲夜さんのように、できればいいんでしょうか?」
「馬鹿ね。何のために貴女をフランお嬢様に付けたと思ってるの? 私は実力と威厳で尊敬を取ったのよ。貴女は何で何を取ったのか考えてみなさい。メイドは私に従っているのだけど、門番隊は貴女を慕っているの。この差は大きいわよ」
一旦紅茶に口をつけ、喉を潤す。冷めてお世辞にも美味しいと言えるものではなかったが、これで十分だ。
「紅美鈴にしか出来ない事をすればいいの。私は貴女にそれを期待してるんだから」
言い終えて、語りすぎたと少し反省する。どうも彼女には世話を焼きたくなってしまう。年寄りみたいな事を、と心の中で苦笑した。
優しくしすぎてしまったし、少し怖がらせてバランスを取ろうか。そんな悪戯心が芽生えた。
「まぁ、よく従者から外してくれって言わなかったとは思うわ。貴女は知らないと思うけど、前にも同じようなことを考えたのよ。その時は十数人でフランお嬢様の従者を務める形にして。結局、姉妹ゲンカを目撃したその娘たちが辞退して終わったけど。その娘たちの一人が迂闊に「ずっと閉じ込めておけばいい」なんて口を滑らすもんだからね」
美鈴は少し涙目になっていた。その表情は否応無しに被虐心をそそる。
くすり、と咲夜が笑う。それは決して綺麗な笑みなどではない。
「そ、それでどうなったんですか?」
「あら、わざわざ言うほどのものかしら。想像に難くないと思うんだけど。そうねぇ、結局パチュリー様も加わって楽に死ねなくなったんだけど、細部まで聞きたいならいくらでも語ってあげるわよ」
勢いよく美鈴の首が振られる。否定の形で。
咲夜は自分の作戦が成功した事に密かに満足し、心の中で笑った。
「まぁ、結局の所」
空になったティーカップに、新たに紅茶を注ぐ。ついでに美鈴のティーカップにも注いた。長時間入れすぎて渋みの強すぎるものではあるが、飲めないことは無い。
「何から何にまで意味をつけること自体が既に意味の無い事よ。意味が欲しいなら、知ってる事を伝える事から始めなさい」
不味い紅茶に口をつけた美鈴が、眉をひそめる。色を見れば不味い事など分かりきっているのに。律儀な娘である。
同じように口をつけて、やはり咲夜も眉をひそめた。
「私が話せるのはこれだけ。さあ、もうすぐ夜が明けるわ。今日もフランお嬢様についてなくちゃいけないんだから、貴女ももう寝なさい」
「咲夜さんは私以上に仕事をこなしてるのに付き合ってくれて、ありがとうございました。どこまでできるか分かりませんけど、出来るだけやってみます」
それでいいのよ。声には出さず言う。
美鈴は軽く会釈だけを部屋に残して、出て行った。部屋には不味い紅茶とその香り、そして静寂だけが残っている。尤も、その静寂もあと一刻もすれば喧騒に変わるだろう。紅魔館の朝は不定期だ。
紅美鈴。彼女にはがんばって貰わねばならない。
咲夜には誰にも言っていない――それこそ自分の主にも語っていない事が、一つだけあった。
こればかりは咲夜が手を貸す訳にも行かない。美鈴自身が手に入れなければならない。咲夜にできるのは、精々背を押すだけである。
短く嘆息し、体重を背もたれに預ける。これから風呂に入ったとしても、満足に寝ることは出来ないだろう。尤も、寝ている間は時を止めていればいいので、大した問題にはならないが。
彼女の時間は無限である。
が、永遠ではない。吐き違えてはいけない。無限と永遠は違うのだ。自分は、十六夜咲夜は吐き違えてはいけない。
全く、先を考えるのも楽ではない。咲夜は再び、今度は長く嘆息した。
◆◆◆◆◆◆◆◆
昨日と同じようにフランドールの着替えを手伝い、やはり今日も外に出た。
チルノとケンカをして印象的には最悪に近い初日であったが、フランドールが漏らす愚痴の中に楽しげなものが混ざっていたあたりそれは必ずしも悪い部分ばかりではなかっただろう。
「今日はどこまで行っていいの?」
「どこまででも付き合いますよ。昨日、太陽光が当たってもある程度平気なことは分かりましたし」
「やったっ。じゃあ、お花がたくさんあるところがいいわ」
フランドールの要望を聞いて、行き先を考える。確かひまわり畑がある場所があったな、と思ったがすぐに止めた。確かあそこには強力な妖怪がいたと覚えている。
まあ、何処であると場所を特定しなくても、花が咲き乱れる場所くらいいくらでもあるだろう。ひまわり畑には劣るかもしれないが、探さずともいくらでも見つけられる。
昨日と同じように門番隊に見送られ――流石に数は劣るが――紅魔館を出る。今日は日差しが強いため、日傘を差していく。
場所は美鈴が考えるまでもなかった。フランドールは縦横無尽に飛び回り、気になるものがあってはすぐさま飛びつく。
そんな時間を過ごして一刻半ほど。フランドールは芝が短く生い茂る木陰で休んでいた。
「あぁ、面白いわ」
「見た事ないものばかりですもんね」
「本当に外の世界って広いのね。こんなに飛び回ったのに、まだ魔理沙の家も見てないわ」
にこにこと笑いながら、フランドール。
「けど、もうお腹が空いちゃった。帰るのが面倒ね」
「それでしたら大丈夫ですよ」
美鈴は持っていたバスケットをフランに見せる。もう一つ、鉄の筒も。
「お昼ご飯を咲夜さんから預かってますよ。ここは景色もいいですし、お昼ご飯を食べましょう」
「さすが咲夜、準備がいいわね。それで、その筒はなんなの?」
「これですか?」
美鈴はもっていた鉄の筒を掲げる。
「なんだか、中に紅茶が入ってるらしいです。咲夜さんが言うには、中身は暖かいままらしいですよ。元々外の世界の道具で、どこかで売ってたのを買ってきたらしいですけど」
「ふぅん。あったかいままだなんて信じがたいけど、咲夜が言うならそうなんでしょ。人間って変なもの作るわね」
「ですよねぇ。便利だからどうでもいいですけど」
フランドールは、鉄の筒をまじまじと見つめる。美鈴も初めて見せられた時は同じ事をしていた。鉄の塊に熱い液体を注ぐだけで熱いままだなんて信じられない。なにしろ、中に熱いものが入ってるのに触っても熱くないのだ。
フランドールも、かつて美鈴がやったように鉄の筒に触る。不思議そうな顔をした。
「熱くないわ」
「ええ。でも中は熱いですよ」
「うそだぁ」
フランドールの前で、鉄の筒の蓋を開ける。この蓋、そのままコップになっており、しかも二つついている。
鉄の筒を傾ければ、そこから琥珀色の液体が湯気を立てて流れる。香りは完全に紅茶のものだ。
「本当にあったかいわ。不思議ねぇ」
「不思議ですねぇ」
「美味しいし」
「咲夜さんですからねぇ」
まったりと、紅茶を飲みながら過ごす。
一息ついてからバスケットの蓋を開けて、中身のサンドイッチを取り出す。綺麗な三角形に揃えられているそれらは、どれも咲夜が手を凝らしたものだ。
「これも美味しいのよね」
「咲夜さんが来てから大分食糧事情が変わりましたからね」
「人間って凄いわ。なんでパンに何かを挟もうとか思うのかしら。しかもこれ、ハムと卵とレタスが一緒に入ってるのよ。信じられないわ」
美鈴もフランドールも、喋りながらも咀嚼していく。軽く焼かれたパンを使ったサンドイッチは、実に美味である。こんな美味しい物を食べてしまうと、二度と人間をそのまま食べようとは思えなくなる。
厨房は今でも咲夜にしごかれているが、未だに咲夜を超える料理を作れる者はいない。戦闘以外の全てにおいて紅魔館ナンバー1を名乗るその姿は、正に完璧と呼ぶにふさわしい。一昔前に、油で揚げただけの肉が出てきてきたことが夢のようだ。このまま夢になってくれることを切に願う。
「もうおなかいっぱいだわ」
「フランお嬢様は小食ですね」
「貴女がたくさん食べ過ぎるのよ」
姉と比べればいくらか健啖ではあるものの、元々体が小さいのだから入る量にも限度がある。既に大人の体格であり、しかも肉体労働をしている美鈴とは比べるべくもない。
フランドールの残したサンドイッチを軽々と食べ終える。食べ終わった時点で腹八分なのを考えると、咲夜はそこまで考えて作っていたのだろう。
食後の紅茶も終え、一息をつく。フランドールがゆっくりしている内に、昼食の片付けも済ませた。
木陰で転がりながら足をぱたぱたと上下させていたフランドールは、その視界に入る虫に興味を引かれた。花の蜜を吸っている蜂である。
辺りを不規則に飛ぶ蜂を、フランドールは目で追った。やがて追うだけでは我慢しきれなくなったのだろう、日傘を手にとって蜂の近くに寄っていった。
美鈴はフランドールの後をついて行くべきかと考えたが、しばらく思考し不要だと判断する。さほど早くない蜂であれば、フランドールが蜂を追ってどこかに行ってもすぐに見つけられる。危険に合う事もないだろう。もしフランドールが危機に陥るような事態になれば、それは美鈴の命の危機でもある。美鈴が気にしてどうにかなる状況ではない。
それよりも、と辺りを見回す。紅魔館の近くには咲いていない花を探した。
咲夜は色々な花でお茶を作る事ができ、またそれを半ば趣味のような形で行っている。何かがない限り紅魔館を出ない咲夜に花を持って帰れば、喜んでもらえるのではないかと考えた。
幸い、かどうかは分からないが、最近四季の花が一斉に咲いた。今であればどの季節の花も手に入る。結構昔に同じような事があった気もするが、覚えていないのであれば大事でもないだろう。特別気にする事でもない。
近くに冬の花が咲いているのに気がついた。白く儚い、氷のような花。冬でも門番やら警備やらでしょっちゅう外にいる美鈴ですら、殆どお目にかかれなかった花だ。きっと咲夜は一度も見た事がないに違いない。そう思って、花に手を伸ばす。
最初に感じたのは衝撃だった。暴力的な音の壁が体に衝突する。続いて爆音が耳を叩き、最後に音ではない衝撃が美鈴を僅かに吹き飛ばした。
そこまできて、やっと近くで爆発が起きたのだと気付く。犯人など考えるまでもない。間違いなくフランドールだ。
「フランお嬢様!」
叫び、数分前までフランドールが居た場所に駆けつける。爆心地はすぐに見つかった。
野原には不自然なクレーターができていて、その中心には服を煤けさせたフランドールが佇んでいる。背後を向いているため、表情は見えなかった。
「あぁ、中国」
つまらなそうに、美鈴の呼びかけに応える。振り向かれた顔は能面のような、およそ生を持つ存在のものには見えない。絵の中の生物の方がよほど生気を感じるだろう。
それを見て、美鈴は思い知った。自分は失敗をしてしまったと。
離れるべきではなかった。傍で見守っているべきだった。そうすれば違う未来を用意できた筈である。しかし、その未来は既に消え去ってしまった。自分の失策によって。
「蜂、最初は面白かったの。けどすぐに鬱陶しくなった。もういらないから追い払ったのに、向かってくるんだもの。だから壊しちゃった」
弁解でもなんでもなく、ただありのままを淡々と述べる。
美鈴は息を短く吸い、吐く。覚悟を決めなければならない。これは自分のミスである。ミスは取り返さなければならない。
この失敗は、取り返せる類の失敗だ。少なくともそう信じなければならない。信じなければ成功への道すら開かない。
「いけません、フランお嬢様」
「なにがいけないのかしら。私は要らないものを捨てただけよ」
「要らないからといって、捨てるものだからといって安易に壊してはいけません」
「なんで? 私の能力は壊す事に特化しているもの。それは私の存在意義と同意なんじゃないかしら」
「存在意義? それはフランお嬢様が勝手な言い訳をしているだけです。レミリアお嬢様は運命を操れるから、その能力で全ての運命に干渉しているんですか? 違いますよね。誰もそんな事はしません。破壊できるから? 私だってこれくらいできますよ。魔理沙だってパチュリー様だって、レミリアお嬢様だってこれくらいできます。みんな壊す事ができたって壊したりはしません。何かができると言う事は、同時にそれをやらないと言う事も考えなくちゃいけないんです」
一羽の蝶が、たどたどしい軌道で飛んでいる。恐らくさっきの爆発で羽を焼かれたのであろう、左右非対称の羽は、二度と元に戻る事はない。
美鈴は静かに指を出す。蝶はやっと休める場所を見つけ、静かに指先に止まった。
「この蝶はもう満足に蜜を集める事もできません。近いうちに死ぬでしょう。フランお嬢様は、この蝶を愛でる事だってできたんです」
ほろり。蝶が指先から落ちた。爆風に焼かれた虫が、長く生きていられるはずがない。美鈴は心の中で、この蝶に詫びた。
「私に、私にどうしろって言うのよ!」
フランドールが絶叫する。完全な怒りではなく、目尻に微かに涙が溜まっている。
彼女は、或いは既に分かっていたのかもしれない。自分は、やってはいけないのだと。ただ、誰かに行ってほしかっただけなのかもしれない。
フランドールの絶叫は続いた。
「私が触れればなんでも壊せる! なんでも壊れる! 私にはそういう能力があって、私はそういう存在なんでしょうが! 壊さないなんてできるわけないじゃない! 勝手に壊れていくのよ、全てが! さあ、どうしろっていうの!」
手を強く握り締めすぎ、血が滴っていた。涙はやがて決壊し、止めどなく溢れ瞳を濡らす。
きっと――彼女はこうして悩んだ事は一度きりではない。何度も、気に入ったメイドが壊れた時に、好きな服が壊れた時に、同じように悩んだんだろう。そして能力の制御の仕方も知らずに、自分を壊しながら我慢する。
きっと、そんなことしかできなかったのだ。
「言われて何かをするのは簡単です。だから、私は言いません。フランお嬢様が考えてください。考えた上で壊すと言うなら、私は何も言いません。ただ、壊せるからと言って壊して、壊したいからと言って壊していけばいずれ何も無くなりますよ。壊したものの中に、フランお嬢様が望むものもあったかもしれないのに。考えてください、フランお嬢様。決断してください、フランお嬢様。私は、フランお嬢様が決めたとおりにします」
見上げるフランドールの視線に、美鈴は自分の視線を絡めた。瞳は、酷く揺らいでいる。
こんな目を、美鈴は知っていた。やりたい事があっても、できない。できると信じられず、自分に自信がもてない。自分が引いてしまった枠の外に出れずに、ひたもがく目だ。
まるで、紅美鈴自身の目だった。なんとなく、どことなく自信の持てない自分の目だった。
ここである。美鈴はそう感じる。ここで、私は進まなくてはいけない。
「大丈夫ですよ、フランお嬢様。お嬢様は、望むとおりの自分になれます。私が、フランお嬢様の望まない未来など創らせません」
「そんなの……触れれば何でも壊れちゃうわ」
「壊れる前に止めて見せます」
「中国だって簡単に壊れちゃうわ」
「壊れませんよ、約束します」
「壊さなかったとしても、何も手に入れられないもの。誰も寄ってこない」
「フランお嬢様が手に入れられないなら、私が手に入れます。それに、お嬢様がなんであろうと寄ってくるやつは寄ってきますよ。魔理沙がいい例です」
「貴女は……」
フランドールが嗚咽しながら、問いかける。すがるように、頼るように。
何と問われようと、どんな答えを望まれようと、美鈴の答えは一つしかない。
「中国は、私とずっと一緒に居てくれる?」
「命尽きるまで……、否、命尽きてもフランお嬢様に寄り添う事を誓います」
涙を枯らすことができないフランドールが、美鈴に抱きついた。美鈴はそれを優しく受け止め、包み込む。
彼女たちは、今より主従となる。
レミリアと咲夜のように。
◆◆◆◆◆◆◆◆
次の日より、フランドールの力の制御が始まった。結果だけ先に言えば、実にあっけなく終わった。
フランドールの力を、美鈴の能力で制御する。その感覚を覚えていき、力は恐るべき速さで制御されていった。
元々才能はあったのだろう。今では能力の制御など思いのままだ。今までそれを阻害していたのは、恐らくフランドールの精神状態である。
常に自分の存在意義と苛立ちに苛まれ、集中する事ができなかった。だが、フランドールを落ち着かせる役目を美鈴が果たし、元々持っていた才能が芽吹いた。元より能力は意思一つで制御できる安易なものであった事もある。
自分に自信を持てるようになったフランドールは、今まで以上に活発になった。友人と言える相手も、少数ではあるがいる。相変わらずチルノとは罵り合ってはいるが。
そうして、数週間が過ぎた。
「意外だわ」
テラスから外をのぞいているレミリアは、そう一人ごちた。先ほどから誰に言うでもなく、そればかりを繰り返している。手に持っている紅茶は、口をつけてもいないのに既に冷めている。
視線の先には、フランドールがいる。フランドールは肩車をねだり、肩に乗ると左右に暴れ困らせていた。相手は言うまでもない、元門番の紅美鈴だ。
「意外だわ」
再び、繰り返す。
レミリアは、絶対に美鈴は早いうちに従者を辞退してくると思っていたのだが、予想は大きく裏切られた。それも良い方に。悪く裏切られた場合には、冥界にすら行けないように殺してやるとまで思っていたのだが、それすら馬鹿馬鹿しくなる。
「言った通りでしたでしょう?」
透き通る声がレミリアの耳に届いた。確認するまでもない。咲夜だ。
「本当ね。これは、あの娘の評価を改めないといけないわ」
僅か数日でフランドールの信頼を手にし、数週間で今まで散々手を焼かれた能力さえ制御させてみせた。これが自覚して行った事だとしたら、驚嘆せざるをえない。
なにしろ、今ではレミリアよりも美鈴に甘えるほどだ。何度か本気で殺意が沸いたのは、仕方がないことだろう。美鈴が寝ているうちに首を掻っ捌こうかと思ったことさえある。姉離れはかくも寂しいものだ。
「咲夜は、ここまで予想していたのかしら」
「そうですねぇ……。時間と信頼度は予想の多少上を行ってますけど、それ以外はおおよそ予定通りですわ」
「まったく、咲夜には感服するよ」
手を小さく振り、降参と言う。
全ての能力に共通するが、能力は万能ではない。例えば今回の場合、運命を見ようとしても予想だにしない場合であればそもそも見る事すら思いつかない。扱うのは所詮不完全な生物だ。能力を生物が不完全に貶めていると言ってもいい。
レミリアは、美鈴という選択肢を考えすらしなかった。問いのない事の答えは、当然出てこない。因無くして果は非ず。
「今回ばかりは侮りすぎた私の完敗ね。全部順調だし」
「だといいんですけど」
咲夜がぽつりと漏らした言葉に、レミリアは疑問符を浮かべる。
「まだ何か気になる事でもあるの」
「まぁ、一つだけ。大丈夫だと思いますけどね」
「なら大丈夫でしょ」
「あら、随分簡単に引き下がりますね」
「運命を見るまでもなく、咲夜が言うなら信じるわよ」
それよりも、と机を叩く。叩くといっても真似事だけで本当に叩いたわけではないが、なんとなくぺちぺちという音を想像した。
咲夜は笑いながら、冷めた紅茶を回収した。中身を捨ててすぐに新しく注ぐ。言わずとも理解する。流石、咲夜。
新しい紅茶に口をつけながら、フランドールを見る。相変わらず美鈴とべたべたしている。多少苛立ち、紅茶を音を立て飲む。
「あらお嬢様、はしたないですわ」
「いいじゃない。フランがあっちにつきっきりなんだから、咲夜がかまってよぅ」
小さく飛んで、咲夜に抱きついた。咲夜はティーセットを静かにテーブルに置き、レミリアを抱きとめる。
頭を撫でられたレミリアが、小さく喉を鳴らした。悪魔もたまには甘えたくなるのである。
咲夜は、レミリアに笑いかけながらも小さく、本当に小さく言った。本来漏らすつもりはなかった言葉を。
「あの娘、フランお嬢様の狂気を侮ってなければいいけど」
レミリアにその言葉の内容までは聞こえなかった。聞こえていたが、知らないフリをしているだけかもしれないが。尤も、そのどちらだったとしても彼女には既に意味のないことだっただろう。あとはただ咲夜と美鈴、そしてフランドールを信じるだけだ。
だから、レミリアはこう言った。
「咲夜、抱いている時に他の女を想うのは反則よ」
「それは想いをはせる殿方に言ってくださいな」
やはり笑顔で、さらりとかわす。紅魔館のメイドはかくも難攻不落である。
頬を膨らませたフランドールは、やり場のない怒りをとりあえず転がっている石に向けた。涙目になり、頭をさすりながら。
当然怒りはそんなもので解消されるはずもなく、地団駄を踏む。
(そりゃそうですよねぇ)
と思いながら美鈴も自分の頭を撫でていた。やはり涙目になりながら、なさけない顔をする。
美鈴とフランドールは、いつものように二人で飛んでいた。最近は当てもなくふらふらしている事が多い。今日も例に漏れずにいたら、急に頭上から巨大な氷が降ってきた。ご丁寧に二つ。
低空で飛んでいた事、二人で談笑していた事、やや曇っていた事全てが災いし、脳天に激突した。視界が点滅するほどの威力があったのだ、涙も出る。
完全に不意打ちを喰らった二人を見て、チルノが笑っていた。以前の「絶対泣かす」が今頃になって実行されたのだ。何度か接触しているにも関わらず、このタイミングで仕掛けてくるとは、まったくやられたとしか言いようがない。誰かの入れ知恵もあったのかもしれない。
フランドールは怒り、チルノを追いかけようとしたが衝撃で上手く飛べず、結局すぐに逃げたチルノを捕まえられなかった。
この経緯で、やり場のない怒りを納められず当たるものを探している。それでも、物を壊さないのは大きな進歩である。以前ならば一帯を全て破壊していただろう。その進歩に微笑む。泣いているので結局泣き笑いだが。
「子供が子供が泣いている~。わーわー怒って泣いている~」
急に、綺麗な歌声が響いてきた。まあ、内容は酷く腹立たしいものではあるが。
「……あんた誰よ。顔出しなさい」
フランドールはふくれっ面で言う。見回して見える位置にないというのは、結構なストレスだ。
「ここよ」
声の方を追う。さっきまで何もなかった木にもたれかかった少女が、横目で見下ろしながら言っていた。
いや、何もなかった訳ではない。恐らく最初からその位置にいたのだ。あまりに自然であったために、気付く事ができなかっただけだ。美鈴は彼女を、少なくとも名前は知っていた。ミスティア・ローレライ。幻想郷一の歌師。
「わーわー泣かないでくれない? 私の歌が響かないじゃない」
「わーわーなんて泣いてない!」
「泣いてるのは否定しないのねぇ」
くすくすと笑う。特に悪気があるわけではないだろうが、彼女は悪戯っぽすぎる。
「うるさい。あんたなんか叩き潰してやる」
「弾幕ごっこでもする? 勝つのは私だけどね」
「中国、手出し無用よ」
「あんた、中国って名前だったの」
「いや、違うんだけどね。色々と事情があるのよ」
ミスティアは、美鈴の言葉に頷きもせずに木の枝から飛び立つ。フランドールも同時に、高度を取った。
「フランお嬢様、加減を……」
「忘れないわよ」
一言だけ答える。美鈴もさほど心配しているわけではないが、一応釘だけは刺しておくべきだ。
「なに? 私とやるってのに手加減でもするっての?」
「あんたが私を本気にさせられるんなら考えてやるよ」
言葉の終わりと同時に、フランドールの体が爆ぜた。視覚では追いつかないほどの動きで、半円形にミスティアの後方へと飛び去る。途中で弾丸をばら撒きながら。
これで縦の動きは封じた。であれば、残りの動きは左右のみ。それを見越しての攻撃であり、フランドールは背後に回った後左右にも弾を撒く。だが、フランドールの予想は完全に外れた。
ミスティアは殆ど動かずに、弾幕を避けた。それこそ、弾の方から避けているのではないかと錯覚するほどに。ミスティアには余裕の笑みが浮かんでいる。
「あんたの弾は風を叩きすぎだねぇ! そんなんじゃいくら撃っても当たらないよ!」
美鈴はその言葉で、彼女の秘密に気付いた。鳥は常に羽ばたいて飛んでいるのではなく、風に乗って飛ぶのだ。フランドールの攻撃は確かに強力ではあるが、それだけに大気を巻き込んでいる。ミスティアは風に乗っていれば何もせずとも当たらない。
フランドールも多少は考えた戦い方をするが、その力が圧倒的であったために戦法を必要としなかった。戦法という一点において他者に大きく劣る。フランドールは、まだ緩急の使い方を知らない。
風に乗る戦い方をするミスティアは、正にフランドールの天敵と言えた。フランドールの攻撃は絶対に当たらないだろう。
「言ってくれるじゃない!」
叫びながら、巨大な弾丸を発射する。大きなものであれば、避けきる前に当たると思ったのだろう。しかしそれは間違いである。大きければ大きいほど、早ければ早いほど大気を巻きミスティアを早く移動させる。
最初、ミスティアが放っていた弾はフランドールの弾に飲まれていた。だが戦っているうちに、ミスティアも美鈴と同じ事を思い至ったのだろう。通常の弾は撃たずに、鳥形の弾を撃ち始める。
鳥形の弾は、ミスティアと同じくフランドールの弾を掻い潜った。弾をばら撒きながら進んでくる鳥を見て、フランドールは自分の劣勢を悟る。しかし、これを押し返す方法はどうしても思いつかなかった。
鳥は風に乗りながらも、最短でフランドールに向かっている。上下左右に避ければ鳥は通過していくが、同時に前にも進めずじりじりと押されていった。
フランドールも気付いているだろう。数多くの鳥は次第に軌道を修正して、確実に自分を追い詰めていると。
焦りが思考を阻め、突破口を見出せない。それがまた焦りを呼ぶ悪循環が続き、フランドールはついに殆ど身動きができなくなっていた。
そして、一羽の鳥がフランドールの頬を掠める。焼けるような焦燥が、フランドールの中の何かを焦した。
「惜しいっ」
ミスティアが叫ぶ。その顔は、既に勝利の快感に浸っていた。
そんなものは、次の瞬間に打ち砕かれる事になるとも知らずに。
フランドールの攻撃が突如止む。ミスティアは不審に思いながらも、鳥を放った。フランドールは動かず、複数の鳥はまっすぐ彼女へと飛んでいく。
美鈴は寒気を覚える。フランドールに弾が当たるかと危惧しての事ではない。視界が紅い。この感覚を、美鈴は知っていた。
これは破壊の感覚であると、美鈴は知っていた。しかし、威圧感は以前の幾倍も強力。
ミスティアの勝利を告げるはずだった鳥は、フランドールに届く前に消滅した。否、破壊された。ミスティアは、それをまったく理解できなかった。
「あは、あははははは、あははははははははははははははは!」
全てを喰らうかのように、フランドールが哂った。いや、既に喰らい始めているのかもしれない。周囲に存在する全ては、彼女の哂いだけで破壊されつつある。全ては色を失い、そして紅く染まる。
紅い世界と真紅の咆哮を聞いて、美鈴は気付いた。これは本来存在するはずのないフランドールであると。
彼女は全てを壊していったが、同時に壊したくないものまで壊していた。だから自分を抑制した。溢れでる、止める事ができなかったその力の方向を無意識に変えて。標的を自分に変えて。破壊され、開いた隙間に彼女は居座っている。狂気を孕んだフランドールが。
その哂い声が告げていた。これこそが狂気であると。
ひゅうッ――美鈴の喉から空気が漏れる。この世界は、ただ呼吸をするだけで気力を必要とする。手足など、満足に動くはずがなかった。
フランドールの手には、一枚のカードが握られていた。模様すら見る事ができなかったそれは、すぐに炎と共に弾けとんだ。
手が掲げられ、そこに破壊の具現が現れる。一本の剣は、恐ろしく巨大で剣である事を疑いたくなる滑稽な剣は、破壊した大気を飲み込みながら構えられた。フランドールに剣の心得などないが、この剣の前ではそんなものは無意味であると嘲笑せざるをえない。なにしろ、破壊された大気の隙間を埋めようとさらに大気が集まり、結果的に剣を中心に巨大な渦が出来上がっているのだ。こんな得物に心得があったところでなんだというのだ。振り下ろせば、それだけで全てが終わる。
ゆっくりと、フランドールは進む。哂いを止めずに、ミスティアの前へと。ミスティアが動く事など、フランドールは考えていない。そして、その考えは正しい。
恐怖に顔を引きつらせたミスティアは、ただ正面の悪魔と剣を見つめ続けた。確定した、自分の存在が消える未来を知って。
破壊を冠する一撃が、何よりも厳かに振り下ろされた。
美鈴の体が、自分の意とは無関係に駆け出す。何かを考えての事ではなく、義務感が働いたわけでもない。ただ、約束があったから。少しの過去と一瞬の現在と、なにより遥かなる未来全てに繋がる約束が、フランドールと共に生きる約束が体を動かした。
被っていた帽子が風圧で飛ぶ。帽子にいつも隠してある数枚のスペルカードを鷲掴みにして、炎の剣に立ち向かう。手の中の一枚が弾けとんだ。
――震!
己の拳と、炎の剣の腹が激突する。破山砲。美鈴が持つスペルカードの中で、最も突撃力に優れた技である。しかし、それを持ってしても剣は揺るぎもしない。逆に少しずつ美鈴の拳が破壊されていた。
ぎぢり、脳に雑音が混ざる。それが自分の歯軋りの音である事にすら、今は構っていられない。
剣とミスティアの間に割り込み、二枚のスペルカードを同時に弾けさせた。華厳明星と、彩光乱舞。華厳明星で作り出された巨大な弾に、彩光乱舞で描かれる極彩の渦がまとわりつく。それを、自分の右腕が壊れるのも無視して思い切り掌底を叩き込んだ。
この程度では、剣に均衡を保つ事すらできない。しかし、振り下ろされる時間は確実に遅くなる。その間に、美鈴は剣に流れる気に干渉した。フランドールの扱う気の流れは、嫌というほど知っている。
右腕の骨が粉々になるのを音で知った。血肉が弾け飛ぶのを目で知った。もう原型をとどめていない右腕は動かす事などできないはずなのに、それでも彼女は揺るがなかった。
破壊の力の向きを、多数に分散させる。自分のスペルカード、大気、剣自身にまでも。遥か力は及ばなくても、できることはある。自分の持つこの能力は、汎用性であればスキマ妖怪にすら劣る事はない。
剣はどんどん力を失い、痩せるように細っていく。あと少し、あと数秒もあれば剣を消滅できる。
しかし、その数秒は限りなく遠かった。
剣はついに美鈴の複合スペルカードを突き破り、彼女の右肩から右腿を切り裂いた。
突然、本当に突然フランドールの意識は正常に戻った。あまりに急で、自分が何をしていたか知るのにすら手間取る程に。
顔に手を当てる。何故か湿っぽかった。手を離し見てみると、そこには血液が手の平全てに付着している。彼女には少なくとも自覚できるような痛みは存在せず、これだけ出血する怪我があるとは思い難い。
視界に、紅が飛んだ。飛び散った赤は、気に入っている服を染める。
飛び散る赤を追ってみた。先には、見慣れているはずの美鈴が、見慣れない姿でそこにいる。
突き出されたボロボロの腕は、骨すら露出している。彼女がいつも着てる服は原型を知る事すら難しく、その殆どが今は存在しない。
そして美鈴は、空ろな目で血を吐きながら、右半身が無残に切り裂かれていた。
悲鳴を上げたつもりでいたが、それは声となる事はなかった。美鈴の姿がフランドールの喉を詰まらせる。
掲げられていた腕は力を失い垂れた。それとほぼ同時に、美鈴の体は墜落する。
フランドールはその光景を見ている事しかできなかった。美鈴の後ろにいたミスティアも動く事ができず、ただ視線を追わせるばかり。
数秒もせずに大地に抱かれた美鈴は、仰向けに倒れてそれっきり、指すら動かさずに沈黙する。開かれている瞳は、いつも自分を見ていた瞳は、今は何も見ていない。
なぜ、動かないのだろうか。なぜ、彼女は落ちたのだろうか。分からない。
いつも自分に笑いかけてくれた彼女は、笑いかけてくれない。いつも自分を見ていた瞳は、今は何も映していない。いつも自分を抱いてくれた腕は、動かす事すらできない。
いつか、壊れないと言っていた美鈴は、壊れてしまった。もう動かない。
涙は出なかった。いつかのように溢れてくれれば、幾分救われたかもしれないのに。まるで罪を刻み込ませるかのように、泣かせてくれない。
やっと、愚かな自分に気付いた。美鈴を壊したのは、確かに自分であると。
同時に、自分は最も失ってはいけないものを失ってしまった事を知った。それを自覚してしまった心の中には、もう何もなかった。
心が冷え切るのを感じる。美鈴を傷つける自分すら抑える事ができなかった己など、もう持っている意味はない。
美鈴を見る。近づきたかったが、伝える言葉も伝えていい言葉も持ち合わせていない自分が寄っていいはずがない。
ただ、最後に一言だけ。
「……うそつき」
最後の我が侭だけを虚空に残して、フランドールはその場を離れた。
「……うそつき」
そんな、消え入りそうな微かな言葉を聞いた。目は殆ど見えていないけれど、何かを見る努力だけはしてみる。
滲んだ景色の中に一つだけ、やけにはっきりと見えるものを見つけた。少女は無表情だ。けど美鈴には、彼女は泣いているように見えた。少しだけ残った意識の中で、彼女には泣き止んでもらわなくちゃいけないと思った。
動こうとしたけれど、体はまったく言う事を聞かない。そもそも、体がある感覚すら無いのだから動かしてみようとする事が既に滑稽かもしれなかった。
少女が立ち去る。待って。そう言いたかったが、口が動かない。心が痛んだ。
嗚呼、何故私はこんなにも何もできないんだろう。震える心で、そう微かに自問する。
「――、――!」
誰かが何かを言っているのだろうか。声は聞こえている筈なのに、理解はできなかった。
ただ、あの少女が幸せに在ってくれればいいと、それだけを神に願う。
「――中国――!」
理解できないはずの言葉なのに、何故かその単語だけは酷く正確に聞き取れた。ただその単語だけで、心と意識が一斉に覚醒する。
「ねぇちょっとあんた! 中国であってたっけ? なんか違うみたいな事言ってたけど……。ああもう、中国! ねえ中国! 生きてるんなら返事しなさいよ!」
「――あ」
口の中に溜まった何かを吐き出しながら、それだけをやっと口にする。
「あぁ良かった。生きてた」
先ほどより僅かばかりではあるが、見えるようになった目で声の主を捉えた。鳥の少女、ミスティア・ローレライを。
彼女が呼んでくれた事に感謝しながら、美鈴は気を操った。体に流れる気は乱れきっている。なけなしの気を使って気を正常化しさらに止血、そして活力に回した。同時に体に走る激痛に思わず意識を失いそうになる。乱れそうになった気を何とか押さえ、顔を苦悶に歪めながらも体を起こす。
「あんた、動いて大丈夫なの?」
「大丈夫」
本当は言えるほど大丈夫ではなかったが、取り合えずそれだけ答えた。他の答えを用意して無理矢理押さえつけられるわけにはいかない。
フランドールは泣いていた。涙を流さず、声もあげなかったがそれでも泣いていた。他の誰にも分からなくても、美鈴にだけは分かる。
彼女を泣かせたままにして、自分は何をしていたのだ。美鈴は自問する。自分は下らなくも、愚かしくも願ったのだ。願っていいことではない。願って適えばそれでよしとできることではない。それをよりにもよって。
「神に願うなんて」
「え?」
ミスティアが反応したが、取り合えず無視する。答える気力も無い。
このまま座ってなどいられない。立ち上がろうと両手に力を入れようとしたが、右手がまったく動かない事に気がついた。一瞬だけ落胆し、左腕に力を入れて立ち上がる。立ち上がって、右足にも力が入らない事に気がついた。気付いたときには既に遅く、体は地面に吸い込まれていく。
「ちょっ、危ない!」
「……ありがとう」
ミスティアに体を支えられ、なんとか持ちこたえる。これでまた倒れたら、今度は立ち上がる自信はない。素直に感謝する。
「あんた、むちゃくちゃだよ! こんな調子で動こうだなんて。誰か呼んでくるから、それまで大人しくしてて!」
「それは、できない」
ミスティアの手を振り払う。実際は、彼女の手を振り払えるほどの力などこもっていなかっただろうが、ミスティアは素直に手をどけてくれた。
歩けない事は分かっている。多少苦痛ではあるが、体を浮遊させる。いつものような軽やかさはなく、数センチ浮くのが限界だった。
「なんで、あんた死ぬ気!? 生きてるのだって不思議なくらいでしょ!」
「大丈夫、体は頑丈だから。それに、私はやるべきことをやってない。命より、もっと大切なものを手放したままだから」
何か反論しようとしたのだろう、息を吸ったミスティアは、その息を声にする事はなかった。
ミスティアの問いを確認するまでもなく、美鈴は進む。行き先はわかっている。フランドールの読み慣れたな気は、どんなに遠くからでも感じられる。
「頑張れ、中国!」
背後からかけられた予想外の言葉に、美鈴は振り返る。ミスティアは目を硬く閉じ、手を握り締めながら言った。
「私にはあんたが命をかけるほどなにがしたいか分からないけど、私じゃあんたを止めらんない。だから、頑張れ中国! 応援するから、その代わり」
ミスティアの翼から放たれた風が、美鈴の背を押した。体を支える優しい風は、どこまでも美鈴を乗せて行くだろう。
「絶対生きて帰りなさいよッ!」
「当然」
最早振り返らず、約束だけを残す。
美鈴は幾分か脱力し、風に流された。
ついこのあいだ訪れた野原の、ついこのあいだ作られたクレーターの中心。そこにフランドールはいた。
美鈴には背を向けているために、背後に誰かがいるのに気付かない。いや、もしかしたら正面にいても気付かなかったかもしれない。そんな事を思わせるほど、彼女の存在は希薄だった。
美鈴は自分を運んでくれた風に最後の感謝をして、下りる。思わず倒れそうになったが、なんとか踏みとどまれた。
「フランお嬢様」
答えはない。聞こえていないのか、もしかしたら意識すらないのかもしれない。
ゆっくりと歩み寄る。右足を踏み込む度に体が傾き、ただ歩くという動作さえ億劫だった。それでもなんとか、フランドールの後ろに立つ事ができた。右足は、もう一歩たりとも動かす事ができない。
佇むフランドールを、背後から優しく包み込む。そして、囁く。
「フランお嬢様」
僅かに、しかし初めてフランドールに反応があった。フランドールの体が震えるのを、美鈴は全身で感じる。
「――あ、ぁ」
「私はここにいますよ、フランお嬢様」
「嘘、なん……で」
「約束。したじゃないですか。だから、私は今ここにいるんです」
「あ……あぁ、ああぁ」
フランドールの瞳に、涙が溜まる。それを阻害するものはなく、溢れる涙は頬を伝い美鈴の手に落ちた。
「ごめ……、わたし、ごめんなさいぃ」
「謝らなくていいですよ。謝るのは、全てに失敗してしまった時だけでいいです」
「だってぇ、わたし……、ちゅうごっ……」
涙と嗚咽は、普通に話す事さえ許さない。しかし、それでいい。彼女の持つ感情には、その優しさが必要だ。
「大丈夫です。私はまだここにいることができるんですから。だから、泣かないで下さい」
「そんな……むりぃ。だって、ちゅうごっ……、きてくれたっ」
自分を抱きしめている腕を握り、フランドールは泣く。何を言葉にすればいいのかさえ分からない。ただ、美鈴が生きていてくれたことが、ここに来てくれた事が何より嬉しかった。
「わたしっ、まけないからぁ! もうにどとっ! じぶんにぃ、まけないからぁ!」
強く、強く。美鈴の手を握り締める。感覚の無い右手から、感覚のある左手から、それらは強く美鈴に響いた。
「だから――ありがとう」
振り向いたフランドールは美鈴に抱きつき、泣いた。声を上げて泣いた。どこまでも伝わる声を出して、感情のままに泣き続けた。
美鈴はフランドールを抱きながら、やり遂げる事のできた自分を誇った。自分を抱いているフランドールを抱き返して、ここまで意地を張ってくれた体に感謝する。
神になんて任せなくてよかった。任せていれば、自分はきっと諦めたのだから。あらがったからこそこ、こうしてフランドールの温もりを感じていられるのだから。
そう思いながら、美鈴はこんどこそ意識を手放した。
◆◆◆◆◆◆◆◆
「まったく、あなたも大概頑丈ね」
「はは、頑丈だけが取り柄ですから」
咲夜が呆れながらも感心して言うと、美鈴は乾いた笑い声を出した。
「それで、体はもういいのね」
「はい。まだ少し違和感はありますけど、それは体を動かしてなかったからですし。パチュリー様ももう完治してるはずだって言ってました」
美鈴が大泣きしたフランドールに担がれて紅魔館に帰ってきたのは、今から一週間前の事だ。体の3割以上が破壊され、血も体に殆ど残っていない状態で助かったのは奇跡に近い。あえて言うならば、パチュリーの喘息が止まっていたのが決めてだった。
あの時は大変だった。思わず咲夜はうめいた。フランドールは泣き叫びレミリアは怒り狂う。堪忍袋の緒が切れた咲夜が、悪魔姉妹をそろって気絶させた事には、異常事態に慣れている紅魔館の住人たちも流石に閉口した。
ちなみに、美鈴を暗殺しようとしたレミリアをフランドールが発見しそのまま姉妹ゲンカになり、咲夜にひっぱたかれて泣きながら引きずられていくという事件が起きたが、美鈴はその事を知らない。以降、咲夜は密かに悪魔も黙る鬼メイドと囁かれているが、それはまあ、咲夜にも美鈴にもあまり関係の無い事だ。
「それで、まぁ、私にとってはこれが本題なんだけど」
「なんでしょう」
「貴女、明日から私の補佐につきなさい」
美鈴は一瞬、言葉の意味を理解できず間抜けな顔をする。すぐに咲夜が不快そうな顔をしたので直したが。
本来ならば喜ぶべきところである。咲夜の補佐につく、それは咲夜が最も実力を認めているという事だからだ。しかし、美鈴は少し考え、淀みなく答えた。
「すみません。そのお話、辞退させてください」
咲夜は、美鈴の目を見る。これがその場の勢いで言っているのであれば、すぐに異動させるつもりでいた。だが、美鈴の目には意思が強く宿っている。恐らく、本人が思っている以上に強い意志が宿っている。
「理由くらいは、私に聞く権利はあるわよね」
「私は門番です。だから、私はその話を受ける事ができません」
美鈴の答えを聞いて、咲夜は嘆息する。さほど落胆は感じられなかった。予想の範疇ではあったのだろう。
「――仕方がないわね。いいわ、今日から通常業務に戻りなさい」
「はい。失礼します」
言い、退室した。自分ひとりしかいなくなった部屋で、咲夜は再び嘆息する。先ほどよりも深く。
元々、大きな期待をしていたわけではないが、やはり期待を裏切られるというのは堪える。彼女が紅美鈴として成長してくれた事で良しとするべきなのだが。
今回の話は、ただ何かにつけて暴れだすフランドールをなんとかするという話ではなかった。少なくとも、咲夜にとっては。
彼女が本当に欲していたもの。それは自分の後続だった。後継者と言っても大きな間違いはないだろう。
自分はあと40年もしないうちにレミリアの傍に立てなくなる。そして、60を待たずにこの世からいなくなるだろう。そうなった時に最も心残りになるのは、自分がいなくなったあとの紅魔館だ。今のメイドたちには、悪いが安心して任せられるとは言いがたい。
そこで、咲夜は美鈴に目をつけた。彼女ならば自分と同じ形でなくても、きっと良い紅魔館を作っていってくれるだろう。そんな期待があった。
実際、美鈴は咲夜の期待通りに成長していったと言える。咲夜の模倣をするわけではなく、あくまで自分を通し人を慕わせる良い人間に。
ただ一つの懸念は、彼女は門番を選ぶのではないだろうかという事だった。咲夜の予感は当たってしまい、結果後続を失う形となってしまった。
もし救いがあるとすれば、それは美鈴の成長が自分の予想の遥か上を行った事だろう。もしこのまま継続が見つからなかったとしても、美鈴がいれば上手くまわしてくれるにちがいない。
相変わらず後続は探さなければならないが、もういままでほど急ぐ必要は無い。これからは、もう少しゆっくりできるだろう。
だが、一言だけ彼女に言うのであれば。
「――馬鹿」
かつて美鈴がいた空間に向かって、咲夜は言う。彼女は期待を裏切ったのだ、これくらいの暴言は許されて然るべしである。
最後の愚痴を空に叩き込み、咲夜も部屋から出た。
やはり外の空気は気持ちがいい。思い切り空気を吸い、ついでにストレッチをしながら全身で風を感じた。しばらく使っていなかった体は、思った以上に骨が鳴る。
一通りストレッチを終えて、美鈴は自分の定位置、つまり門の前に位置した。やっぱり自分にはここが似合っている。満足し、思わず頷く。
先ほどの咲夜との話、あれは自分でも驚くほど簡単に結果が出た。そして、それ以上の答えを出せない自分がいた。
昔、美鈴は自分の門番としての意義を考えた事があった。自分は何を守っているのだろう。紅魔館か、お嬢様か、それとも、他の何かか。門の前に立ちながら、ずっと考えていた。同じ季節が訪れても考え、それを何十回と繰り返しても、答えを見つける事はできなかった。さらに何十回も季節は巡り、やがてそんな問いを課した事さえ忘れていた。
若かった自分に苦笑する。あれから幾度の時が巡っただろうか。最早思い出すことさえ叶わない。だが、それでもいいと美鈴は思っている。答えは既に見つけたのだから。
「やー、中国」
頭上から軽快な声がした。美鈴が知る限り、自分を中国と呼ぶ者は二人しかいない。だれが呼んだかは、すぐにわかった。
「どうしたの、今日は。何か用でも?」
「それ、本気? あんたの様子を見に来たにきまってんじゃない」
「ああ、そうか。心配かけたね。大丈夫、この通り元気だから」
「そりゃよかった。あのまま死なれたんじゃ、私だって目覚めが悪いもん」
美鈴の近くまで下りてきて、空気の椅子に座るミスティア。相変わらずの活発そうな容姿で、どこか安心した。
「あの娘は大丈夫なの? ほら、あんたがフランお嬢様って言ってた」
「うん、大丈夫。今は元気がありすぎるくらいだからねぇ」
ミスティアから話を振ってきてくれた事に、美鈴は少し安堵した。フランドールへの恐怖心は抜けていないだろうが、少なくとも嫌悪感は持っていないだろうと、その程度は期待できる。
いつか、友達になってくれればいいと思う。その程度ならば、願ってもいいだろう。
「あぁ、そうだ」
ふと、美鈴は思い出した。色々あって言いそびれていたが、結構重要な話だ。
「貴女に二つ、言わなきゃいけない事があったんだ」
「なに?」
「一つ目は、私の名前は紅美鈴っていう事。それで、もう一つが重要なんだけど」
一拍置いて、続ける。
「私を中国って呼んでいいのは、フランお嬢様だけだよ」
言って、美鈴は不敵に笑う。
しばしきょとんとしていたミスティアだが、やがて意味を汲み取り笑った。
「成る程。じゃあ、あんたは美鈴ね。覚えておくわ。記憶力には自信が無いけど」
「まぁ、余裕があれば覚えといて」
不敵な笑みを一瞬にして苦笑に変えられた。その事にさらに苦笑する。
「ところで、なんか向こうから黒いのが飛んできてるけど」
「ありゃあ、今日は千客万来だ。来なくてもいいのが混ざってるけど」
ミスティアが指した方向には、確かに黒い塊が高速で飛んできている。ここに来るまで、そう間はないだろう。
「手伝おうか?」
「ううん、平気。今は誰にも負ける気がしないから」
美鈴が答えると、ミスティは空気の椅子から下りて距離をとった。邪魔にならないようにとの配慮だろう。
先ほどより強めに体をほぐす。こうして準備をしていれば、魔理沙はすぐにここへつくだろう。
相手はあの魔砲使い、幻想郷有数の強力な魔法を持つ相手だ。だというのに、美鈴は負ける気がまったくしなかった。今まで何度も負けた相手であっても、今の自分ならばきっと勝利を収める事ができる。
箒に乗った魔法使いは、美鈴の姿を確認すると風を巻き上げながら停止する。
「おお、門番が復活してるぜ」
「ここは通行止めだよ」
「その台詞も久しぶりだな。なんていうか、お前じゃないと張り合いがない」
「そりゃどうも」
――私の名前は紅美鈴
「それじゃあ、今日も一発ぶちかますぜ」
箒がはためく。透明に近い魔力が、箒に収縮されているのが視覚でも確認できた。これこそが魔理沙の速さの秘密である。
尤も、以前までは恐れていたそれも、今日は不思議とどうにでもなりそうだった。
――紅魔館の門番です
「それじゃあ、今日も一発お帰り願いましょうか」
体に熱い熱を感じる。炎のように燃えさかる感覚は初めてで、これの止め方を美鈴は知らない。止める必要もない。
熱に浮かされながら、震脚。今までにない力の流れをはっきりと感じた。
――そして
さあ、思い知るがいい。答えを手に入れた私は強い。
今までのように腑抜けてはいられない。そうでなければこの門を守護する資格はない。あっても自分は許せない。
新たな意志を持って、美鈴は踏み出す。自分が今日始めて、門番になったのを強く自覚して。
美鈴は、これから続く未来への一歩を踏み出した。
――紅魔館の人たちの幸せを守るのが仕事です
気だるい訳ではなく、さりとて調子がいいわけでもない紅美鈴の午後は、メイド長である十六夜咲夜のそんな一言から始まった。
◆◆◆◆◆◆◆◆
最近の自分はぜんぜんなっていない。それが彼女、紅美鈴の正直な感想だった。
何がなっていないのか。決まっている、門番の仕事だ。
当然の話であるが、門番は自分が守護する館に押し入ろうとする者を通さない。通さないのだが、結果はどうだろうか。
まず、何がおかしいかと言えば通さない事が当たり前である門番の仕事が、勝率で表されていると言う点である。
全体で見れば7割強の勝率。これが霧雨魔理沙とアリス・マーガトロイドに限定されればその勝率は4割にまで落ち込む。さらにこれを魔理沙のみに限定すれば、その勝率はなんと2割半ばまでという酷い有様だ。
たまにやってくる身の程知らずな人間、妖怪はすべて紅美鈴以下門番隊に全て倒されている。つまり、魔理沙とアリスさえ除いてしまえば彼女は門番としての役割を十分に果たしているのだ。事実、博麗霊夢と霧雨魔理沙が彼女の守護する紅魔館に攻め入るまでは、赤毛の龍が守護している時に攻め入るのは自殺行為である、とまで言われていた。
アリスの方はまだいい。彼女は押し入りではあるものの淑女的な態度を通し、ヴワル魔法図書館でも基本的にはその場で本を読む。もし読みきれなくても、図書館の主人たるパチュリーに許可を得て、しっかりと返しに来る。そのために、十六夜咲夜もパチュリー・ノーレッジも門番さえ突破すれば黙認と言う態度を取っている。防衛率もやや格上と言う事を考えれば悪くはない数値である。
問題は霧雨魔理沙だ。彼女は弾をばら撒き魔砲をぶっぱなし門を突き破って突破する。さらに本をかっぱらっていくため、パチュリーからも苦情が出てくる。当然、館の中も少なからず荒れてしまっているため、美鈴達は各所の苦情に耐えながら泣く泣く門を修復する日が続いていた。
屈強にして鉄壁と謳われた門番隊は、いまや紅魔館一肩身の狭い部署と成り下がっていた。
敵に進入は許す、他の部署から文句を言われるでは当然士気が落ちる。それでも有象無象に一片たりとも遅れを取らないのは、流石は紅魔館の誇る門番隊だと言えるが、その分対アリス・魔理沙の勝率は落ち込むばかりである。特に最近では、赤毛の龍がいたとしても魔理沙への防衛率は1割を切るか切らないかという場所で低迷している。
館のメイドや厨房、司書なんかはいつ門番隊の勝率が1割を切るのか賭けている人間までいる。門番隊は言い返したい気持ちとは裏腹に、その低迷する勝率が返す言葉を作らせない。
親しみの美鈴に対し威厳の咲夜の差もあってか、今では十六夜咲夜率いるメイド隊こそが紅魔館の守護者である、などと豪語する者もいるのだ。
美鈴自身はこんな言葉など気にしない。気にするのは尊敬する咲夜の叱責だけである。しかし、自分の部下達が悔しそうに俯きながら拳をわななかせている姿を見ると、とてもではないがやるせなくなった。
気合を入れて心機一転、今後一度も魔理沙を通さずと意気込みながら突破された、今日の午後の事である。
紅魔館の主、永遠に紅い幼き月、レミリア・スカーレットから直々に呼び出されたのは。
「失礼します」
言いながら、美鈴は紅に染まっている大きな扉を叩いた。
この先に繋がる部屋は、赤が基準の色に割り当てられているステンドグラスを一面に敷いたレミリア専用のカフェだ。ここに入る事が許されている人物はごく少数。当主たるレミリア・スカーレットにその妹のフランドール・スカーレット、当主の友人であるパチュリー・ノーレッジと完璧なる従者、十六夜咲夜。そして最後に悪魔の従者として咲夜の次に権限と実力を持つ紅美鈴である。
確かに気軽にとは言えないが入る事を許される身ではあるが、美鈴の場合その意味合いが大きく異なる。少なくとも彼女はそう思っていた。
この紅魔館にはたとえ何があろうとも絶対不可侵の場所がいくつかある。それはレミリアの寝室と、いくつかのカフェテラスだ。こればかりはレミリアが名指しで許した者意外は進入できない。前にこの事を知らない新人のメイドがカフェテラスに侵入し、その場でレミリアに八つ裂きにされていた事もある。
フランドールとパチュリーは言うに及ばず、咲夜は主従の関係ながらもそれを遥かに超えた信頼関係があるのは誰から見ても明らかだ。しかし、美鈴はというとレミリアとはあくまで主と僕の関係であるし、咲夜ほど親しいどころか外勤のため殆ど顔をあわせない。精々が咲夜不在の時にレミリアを起こしに行くくらいだ。とてもではないが気軽に話せるような仲ではない。
体が緊張で固まりながらも、出来うる限り背筋を伸ばし従者然とする。相手が自分の主であるのならば、やってやりすぎという事は無い。
「入りなさい」
扉の向こうから入室の許可を下す声がした。咲夜の声ではない。レミリアが直接言ったのだ。
紅魔館の門より数倍軽いはずの扉は、美鈴に門の何倍も重くのしかかる。扉を開けて漂う紅茶の香りは、普段であればリラックスできるはずなのに、その香りこそが当主の存在を知らしめて余計緊張させた。
「紅魔館門番隊総隊長紅美鈴、召集に応じただ今参りました」
咲夜に徹底的に仕込まれた気を付けと礼を行い、テラスの中を見た。優雅に紅茶を嗜んでいるレミリアに、その斜め後ろで待機している咲夜。ここ数年の紅魔館の日常的風景だ。
「もっと寄りなさい。話し辛いじゃない」
「す、すみません」
美鈴は慌てて動き、咲夜の反対側に位置付ける。つまり、レミリアの斜め後ろ。どこに行くのかと見ていた咲夜が、レミリアに聞こえない程度にため息をついた。
「あなたは私を馬鹿にしてるの? 話があるって言ってるんだから正面に回るのは当然でしょ」
「ごめ、ごめんなさいっ」
埃を立てないように静かに、しかし出来うる限り急いで正面に回る。レミリアの正面に位置していた椅子に、とっさに座ろうとしてしまったが何とか留まる。その程度の冷静さが残っていた事に内心ほっとした。
「少し落ち着いて深呼吸なさい。緊張してるのかどうだか知らないけど、これじゃろくに話もできないじゃない」
すみません、と言いかけて止めた。謝ってばかりいるのも緊張している証拠だ。
「分かりました」
深く二度の深呼吸、それで緊張を取り払い落ち着きを取り戻した。
「それで、その、あのぅー。ご用向きは何なんでしょうか?」
緊張を取りすぎて今度は不安に駆られる失態を犯しながらも、細々とした声で切り出す。なんとなく使用する単語が変だった気もするけど、後悔後に立たず今更取り下げるのも変であるためそのまま通す。
「咲夜」
「はい」
主従が短いやり取りをし、咲夜が一歩前に出てくる。
「美鈴、とりあえず貴女には門番を辞めてもらうわ」
頭を、ハンマーで殴られるような衝撃が襲った。その衝撃たるやメイドの変わりにレミリアを起こしに行って、たまたま機嫌が悪かったらしくいきなり壁に埋め込まれた時よりも遥かに効いた。
言い訳が出来ようはずもない。門番の役割を果たしてないと自覚しているのに、私は悪くないなどと言い訳できようはずがあるだろうか。
そう、死人に口無し敗者に栄光無し職業に貴賎無しなこの世の中で役割を果たせなかった自分など最早無駄飯ぐらいの役立たずなのである。
だけど、最後に、最後に一言だけ、自分は精一杯やりました今までありがとうございましたと言いたかった。
紅魔館での思い出が走馬灯のように駆け巡る。あぁ、良い事ばかりだったわけじゃないのに、こうして終わりの時を迎えると思いだせるのは美しい事ばかりなんだなぁ、と思った。思わず涙が溢れても、それを誰かが咎められよう筈が無い。
「――つまり貴女はこれから」
「咲夜、咲夜」
「何ですかお嬢様。今彼女にこれからの業務の説明をしているのですが」
「なんでかしらないけど、この子泣いてるわよ」
言われて、美鈴のこれからやら門番隊の穴埋めやらが色々記載されている紙から顔を上げる。正面では、美鈴が少しだけ眉をしかめて体中の水分が無くなるんじゃないかという勢いで泣いていた。
「ちょっと、美鈴。美鈴!」
その光景に多少引きながらも、美鈴を呼ぶ。一度で返事しないあたり、どこか夢の世界の住人になっていたのだろうか。
「あ……ハイ」
音を立てて、垂れた鼻水を啜る美鈴。レミリアはそれを見て顔をしかめた。残りの紅茶なんて飲めたもんじゃない。
「すみません、長らくお世話になりました。今まで雇ってくれてありがとうございます。これから顔をあわせる事も少なくなると思いますけど、その時は話し相手くらいにはなってくださいね」
「何を自己完結してるのよ貴女は。話は最後まで聞きなさい」
「え、でも門番はクビですよね」
「クビじゃなくて異動。貴女どこから私の話を聞いてなかったの?」
「えっと、門番を辞めてもらうわ、って所からさっぱり」
美鈴の言葉に、咲夜は頭を抱えてため息をついた。レミリアはそんな二人の様子を見て面白そうに笑っている。
「『とりあえず』門番を辞めてもらうのよ。別に紅魔館から追放するって言ってるわけじゃないわ」
「でも私、最近門番の仕事なってませんし」
「あのねぇ」
ここまで沈黙を保ってきたレミリアが声を発した。
「多分魔理沙の事を言ってるんだろうけどそれは大きな間違いよ。あいつはあれでも咲夜やパチェ、条件付とは言え私とフランにも勝ってるのよ? 毎度毎度貴女が勝てるとは思ってないし、期待もしてない。まぁ確かに、最近は以前に比べて酷い所が目立つけど魔理沙が相手ならそんなものじゃない、程度よ。当然褒めはしないけど、咎めるつもりも無いわ」
一瞬、慰めているのかとも思ったが、それも違うらしい。レミリアの顔には微かにではあるが、苦虫を噛み潰したような表情が張り付いていた。弾幕ごっこ――所詮遊びとはいえ、負けたことを屈辱と取っている。
公に口には出さないが、精進なさいとは言えても負けるなと言えないのが本音だろう。
美鈴は安堵のため息を、二人には聞こえないように漏らす。当然これからも負けないように日々努力を続けていく気だが、さしあたって紅魔館をクビになるという最悪の事態だけは免れた。
紅魔館を放逐されて生きていけないわけではないが、その後どう生きるか彼女には及びもつかない。すでにこの場所で働く事は、生きがいに近いものになっている。
「それにね、貴女は自分を過小評価してるようだから言っておくけど、貴女に出て行かれるとこちらからしても大きな痛手なのよ。お嬢様たちを抜いて魔理沙や霊夢なんかと戦えるレベルにいるのは私と貴女だけ。たとえ門番としてじゃなくても、貴女がいなくなったら困るのはこっちなの」
レミリアに付け加えるようにして、咲夜が言う。不謹慎ではあるが、自分は必要とされていると思うと胸が一杯だった。
「えっと、ありがとうございます。それで私は何をすればいいんでしょうか」
「フランドールお嬢様専属の従者よ」
「専属……って今更ですか?」
咲夜が来てからは、レミリアの従者即ち咲夜となっているが、その前でもレミリア専属のメイドは数名いた。尤も、レミリアが起きる時のみ美鈴の仕事になっていたが。寝起きで機嫌の悪いレミリアのかんしゃくに耐えられるだけの実力を持った者が美鈴しか居なかったためである。
パチュリーにも使い魔という形であるが、専属の従者はいる。となれば、フランドールにも専属の従者が居て当然のはずである。
「フランお嬢様のメイドはローテーションを組んでるの。これはパチュリー様から聞いた話で私は知らないんだけど、フランお嬢様は気に入ったメイドだと力加減を誤って壊しちゃうらしいわ」
誤って壊してしまう。その言葉を聴いて、美鈴は背筋が寒くなるのを感じた。
体感したわけではなく人伝いに聞いただけだが、フランドールの能力はありとあらゆるものを破壊すると言う。彼女に破壊されたとは、普通に肉体を破壊されたと見るべきか、それとも他の何かを破壊されたと見るべきか。正直知りたくない話だ。
「それで、貴女にして欲しい事はフランお嬢様が外に出るときのみ傍に控えている事。そしてフランお嬢様が何かを破壊しようとしたときに、それを阻止する事」
「ってそんなの無理ですよ! 本気で暴れられたら私なんて一瞬で粉々ですよ!」
「別に本気になったフランお嬢様を止めろって言ってるわけじゃないわよ。ちょっと力加減を誤ったときに、それを打ち消す事。そうでなければ力加減を誤りそうになった時に怒るか諭すかする事」
言い終えると、これが貴女が抜けた後の門番のローテーション。目を通して組み直しなさい、と言って手元に持っていた紙が渡される。
紙に目を通していたが、頭の中に文字が全く入ってこなかった。放心しているのと変わりない。
正直、激務である。門番から主人一家の従者とは栄転もいいところだが、同時に命がけの仕事でもある。どちらの方が良かったかはさておき、これからの仕事を舐めてかかったら死んでもおかしくないだろう。
諸手を上げて喜べず、さりとて拒否の言葉を出せるはずもなく、心此処に在らずながらも辛うじて扉の外に出た。
閉まった扉が叩いた音は、入るときよりも遥かに乾いた音だった。
美鈴が部屋を出て行って数分、レミリアは今丁度一息入れ終わった後だ。泣いたり喜んだり放心したり、彼女の百面相は見ていて楽しかったが、同時に疲れもした。この館には彼女以上に感情豊かな者は居ないだろう。
レミリアが今考えているのは、美鈴の事であり咲夜の事である。大事な妹を美鈴に預けて良いものか、今でも不安が残る。彼女は能力的には文句なしなのだが、如何せん性格に問題がある。激情家たれとまでは言わないが、もうちょっとどうにかなる部分はあるだろう。
咲夜も、何故美鈴を推薦したのだろうか。もうちょっと任せられそうな人物はいるだろうに。たとえばいつぞやの半人半獣だったか、名前は確かハクタクと言っただろうか。八雲の狐も面倒見が良さそうだ。後は、魔の森の人形遣い。多少口数が少なくはあるが、知識と言う点においてパチュリーに大きな不覚を取るとは思えない。月の兎もなかなかのものだったと記憶している。
「納得いかないという顔ですわね」
咲夜が主の表情を汲み取り、新しく紅茶を注ぎながら言う。砂糖スプーン2杯とミルクを忘れない。
「ええ。正直に言わせてもらうわ。フランを任せるには、美鈴はあまりにも頼りない。他にも人材が居ないわけじゃないのに、なんでわざわざ彼女なの?」
「あら、お嬢様。それはあの子を過小評価しすぎですわよ。こと人を育てるという部分において、彼女以上の人材はなかなか居ませんわ」
レミリアは悪戯っぽい笑みを浮かべる咲夜に眉を潜めた。理解できない。レミリアの率直な感想だ。
今回急だって話が進んだのは、フランドールを封じておくのも限界が近いとパチュリーから切り出されたからだ。フランドールは魔理沙と霊夢が来てから人間と外の世界を知り、出たいという欲求が強くなった。それだけならばまだ良かったのだが、咲夜はともかく殆ど外に出なかったレミリアが、最近頻繁に外に出歩いている。フランドールはそれを見てずるいと感じるようになってもそれは仕方が無い事だろう。かんしゃくの回数が増え、パチュリーが抑えるのもそろそろ限界である。
そこで出された苦肉の策が、フランが外に出るときに従者をつれて歩く事である。条件としてやり過ぎを抑えるか若しくは打ち消す事ができるほどの実力者であり、彼女を言い咎める事が出来る常識人でなおかつ世話焼き。また力加減を教える事が出来る人材であればベスト。
つまりこの度の従者とは、同時にフランドールの教育係である。
そこで誰が良いかと考えはじめた所で、咲夜が当然といわんばかりに美鈴を推した。これにはレミリアどころかパチュリーも渋い顔をしたが、咲夜は彼女が一番と譲らなかった。
まぁ、ダメであれば代えてしまえばいいだけの話。そう思ってレミリアは承諾したが、今になって不安が募ってきたと言う訳だ。
「本当なら咲夜にやってもらうのが一番なのに」
「ですから、お嬢様は彼女を過小評価しすぎですわ。美鈴ほどフランお嬢様の教育係に向いている人物はいませんし、私ほどフランお嬢様の教育係に向いていない人物も居ませんよ」
咲夜の話を聞きながら、紅茶を混ぜる。二重の混沌はやがて混ざり合い、一つとなる。
ミルクティーほど簡単にいってくれればいいのに。そんな思いを出さずにはいられなかった。
「そんな事ないでしょ。咲夜だったら安心して任せられる」
「私がフランお嬢様の教育をするには、優しくなさすぎます。美鈴のような優しさと陽気さが、人を育てるんですよ。知識は二の次です」
「ずいぶんはっきりと断言するのね」
「はい。人を見る目で人間に敵う者はありませんわ。そうでなければ人間は後世に何も残せませんから」
完璧で瀟洒なメイドは、時に妖怪や悪魔では及びもつかないことを知っている。それこそ、たかが20年そこらしか生きていないのに何故これほど色々な事を知っているのだろうかと思えるほどに。
やはり主の顔からそれを汲み取ったのか、咲夜は応えて見せた。
「生き急ぐ事ができるのは人間だけの特権ですよ」
成る程。思わず納得する。
まあ、いい。咲夜はレミリアが知る限り最も信頼できる相手である。彼女が自分たちに無い目と耳を持っていると言うならば、それを信じるのもいいだろう。
取り合えず、放置しすぎてぬるくなってしまった紅茶の代えを要求しなくては。そんなことを考えながら、レミリアは紅茶を傾けた。
◆◆◆◆◆◆◆◆
地下室の空気は、とりわけ心地よさを感じられるものではなかった。普段、昼夜を関わらず外にいるからか、この湿気の多さは酷く気になる。もしかしたら気分が重いからそう感じるのかもしれない。
パチュリー様ならなんとかできるかもしれない、と考えてすぐにその考えを取り消した。最近はただでさえフランドールや魔理沙で気苦労の耐えないあの人に、これ以上の苦労を強いるのは酷く躊躇われる。元々人外というカテゴリーにおいて最も脆弱な種族で、その中でも脆弱な体をしているのだ。無理をさせられるはずがない。
地下室の湿気を吸って張りを失った紙の束に目を落とす。一枚目に記されていたのは、門番に対する記述だった。
美鈴が抜ける事による戦力の減少と、それを補う部隊の配属と舞台番号が明記されていた。どうやら美鈴が居ない間は、アリスと魔理沙は表向き客人という扱いになるらしい。これ以上戦力が減ると他の侵入者撃退に支障が出るからとの事だ。咲夜は美鈴が思っていた以上に自分を高く買ってくれていたらしく、その事がなんだかむず痒かった。
一応しっかりと目を通したが、彼女には咲夜が発案した物以上の配属変更が思い浮かばなかった。というよりも、どうがんばっても自分にはこれほどのものは思い浮かばないだろう、と美鈴は考える。このあたりは、さすが曲者揃いの紅魔館をたった一年で、しかも人間の身で掌握した人だ。実力があり頭も切れる。知恵という一点においてはパチュリーも劣る事を認めざるを得ないだろう。
門番隊に自分の転属と部隊の配置転換を伝えた時、部隊の皆が涙ながらに美鈴の昇進を祝い、脱退を悲しんでくれて泣きながら抱き合ったのは彼女たちだけの秘密である。
自分の中の美しい思い出を噛み締めながら、紙を捲る。二枚目、三枚目にはフランドールについての事、そして注意事項が書かれている。
まず、ありとあらゆるものを破壊する程度の能力について、咲夜とパチュリーの見解が予想も込みで書かれていた。
誰にでも共通する事だが、能力は常に発動されているわけではない。発動する意思を持っていなければ、それは決して発動される事は無いのだ。とはいえ、手足のような感覚で使えてしまう能力は無自覚に出てくる事も少なくない。当然、フランドールの弾幕も通常の状態であれば『恐ろしく強力な攻撃』なだけである。それだけで脅威なのは否定しようのない事実であるが。
咲夜とパチュリーによれば、フランドールの能力の方向はとても曖昧らしい。時を『止める』といった方向性、運命を『見る』といった方向性、『昼と夜の』境界を曖昧にするといった方向性。そんな能力の向きを、フランドールは恐らく理解できていないという。しかし能力自体が、破壊する、とある程度具体的な為に方向が曖昧ながらも扱えるらしい。逆に、何を壊すか分からないという怖さもあるが。
これに対し咲夜が考えた対抗策とは、力を正面から受け止めず横から叩き潰すという方法だった。
単純な威力で、フランドールに勝るものはこの幻想郷に存在しない。ただでさえ強力な力に破壊するという付加効果まであるのだから。そもそも正面から受け止められる存在がいない。
ならばどうするか、力のベクトルを無理矢理変えてしまえばいい。一方向に集中された力とは、正面以外から力が加われば脆いものだ。それが容易いかは別にして。
大変困難な方法であるが、可か不可かで問われれば美鈴は可と応える。前例もある。あの大妖怪、八雲紫や博麗霊夢はいつもそのような戦い方をしていた。あれをまねればいい。弾幕ごっこを行うのならばともかく、何かがあったときに横から打ち消すくらいならやって見せよう。咲夜の信頼に応えるためにも。
問題は万が一本気になられた時だ。美鈴にとって一番問題である三枚目には、フランドールが所有する各種スペルカードが細かい説明と共に書かれている。
それを見た美鈴の感想はただ一言。規格外。
嫉妬すら覚える事適わない圧倒的な力に物を言わせた物量の嵐。僅か一秒でも留まれば逃げ場を失うか、圧倒的な威力に骨も残さず粉砕される。どのスペルカードも極悪極まりない。接近戦において速さ、力、威力全てに自信を持つ美鈴でさえ逃げ出したくなるような内容ばかりだ。
第一何だ、この追い討ちのような殴り書きは。一人憤慨する。
『スペルカードを使われたらあきらめて粉砕されなさい。腕一本でも残してくれると研究に役立って吉』
『瀟洒に根性でなんとかなさいな』
瀟洒に根性でとはどんなんだ、と。パチュリーに至っては既に心遣いすら感じられない。
幻想郷最強の破壊力。そして恐らく、実力でも幻想郷最強の部類。さらに自分は相手の人格すら知らない。長い間地下に閉じ込められていた人物が人格者だと思えるほど、美鈴は楽観的ではない。
自然と肩が重くなるのも詮無き事だろう。
美鈴は正面にそびえる大きな鉄の扉を見る。実は、さっきからずっとここにいた。
その扉を叩こうとしても、恐怖心が先立ちどうしても入る事が躊躇われていたからだ。
「いつまでそうしているの? 入ってきなさい」
扉の向こうから響く声に、思わず肩を竦ませる。扉の奥にいる悪魔の妹はとっくに気付いていた。
「しつれいしまーす」
小声で、しかし失礼ではない程度に大きく声を出す。中に居たのは、レミリア・スカーレットによく似た小さい女の子だった。
豪奢な部屋の中心にテーブルを構え、右にはフランドールが座り左の椅子は空いている。小さな体には椅子が大きすぎ、届かぬ足を振っている。
金色の髪に七枚羽の翼、そしてあどけない顔。そして可愛らしい声と、外観上はどうみても普通の少女。少なくとも好んで破壊をするようには見えない。恐怖心を先行させ、自分勝手なフランドール像を作っていた事を美鈴は密かに恥じた。
「早く早く。そこに座ってちょうだい」
「え? でも……」
「いいから座るの」
美鈴から見て左、フランドールの正面に位置する椅子に腰掛ける。
普通、従者は主と席を共にしないものだと思っていたが、この場合はどうなのだろうかと思った。主が指定した以上は、反発する事はむしろ失礼なのだろうと自分を納得させる。
「貴女はだあれ? 新しいメイドじゃないわよね。だって今までのメイド、そんな服着てなかったもの」
「私は紅美鈴といいます。一応、この館の門番隊隊長を勤めさせてもらってます」
隊長という言葉に、フランドールは目を輝かせる。
「門番! だったら私と弾幕ごっこしない?」
「丁重にお断りさせて頂きます」
即答した。フランドールがいかにも不満ですといった顔をするが、これだけは譲れない。まだ死にたくない。
「ところで、フランお嬢様。よく私があそこに居たと分かりましたね」
「ここは私の陣地よ? 誰かが扉の前に立っていれば分からないわけないじゃない」
美鈴も自分の陣地と言える門周辺に誰かがいればすぐに分かる。確かに、誰かがいれば気付かないはずがない。美鈴よりレベルの高いフランドールならば気付いて当然だろう。
「いつ入ってくるかな、と思ってたのにずっと扉の前で立ってるんだもん。私飽きちゃった」
「すみません~」
今更になって羞恥心がこみ上げてきた。外限定ではあるが、これから使える主に、とんだ失態を見せてしまった。顔の一つや二つ赤くなるというものだ。
「それで、門番の貴女は何をしに来たのかしら」
「何を、って……。え? 聞いてません?」
「聞いてたらこんなこと聞かないわよ」
「ですよねぇ。えっと、レミリアお嬢様からの外出許可が出たんで……」
「ほんと!?」
目を輝かせながら、フランドールが聞いてきた。その勢いに思わず気圧される。
「何を着ていこうかなーっ。かわいい服たくさんあるのに、見せる機会がほとんどないんだもの」
「あぁっ! 話を最後まで聞いてくださいっ。それでですね、外にいる間は私が付き添う事になったんで挨拶に来ました」
「そうなの? まあ、どっちでもいいや。ええと、メイ、メィ……」
「美鈴です」
「分かってるっ。発音が難しいのよ。そうねえ、貴女は中国! そう呼ぶわ」
「は? ええと、中国って」
「前にパチェが教えてくれた外の世界に、貴女みたいな服を着てる国があったの。だから貴女にはその国の名前をあげる」
フランドールは、自分の思いつきにどうだ参ったか、としたり顔をしている。
美鈴は少し思考を巡回させ、それでもいいかという結論に至った。たとえどんな呼ばれかただったとしても、フランドールの笑顔に変えられる訳がない。
要は愛称のようなものだ。それを主から貰えるんだから喜ぶ事はあっても否定することはない。それに、中々格好いい。僭越ではあるが一国家と同じ名を呼ばれるというのは。
私は幻想郷だ。私は中国だ。中々良い。美鈴は思わず首肯する。
中には名前すら覚えず門番としか言わないような者も居る。捨てる神あれば拾う神ありだ。
「ねえ中国、今すぐ出れる?」
「はい、準備は整ってますよ。多分すぐに出たいだろうな、と思っていきなり外出すると言われても大丈夫なようにしてあります」
「よぉし。お外ってどんな所かしら。あ、言っちゃダメよ。これから楽しむところなんだから」
「分かってますよ、フランお嬢様」
美鈴は小さく笑い、応える。
こうしてみてみれば、何のことはない、見た目通りの――実年齢は別にして――ただの少女だ。恐れるところはあるかもしれないが、今のところ忌避するような部分は見当たらない。
洋服棚を漁るフランドールを、まるで保護者のように見る。美鈴は、まるでこちらの方が天職である気すらしてきていた。
「うん、これに決めた」
「じゃあお手伝いしますね」
「お願いね」
フランドールが選んだ服は、薄いオレンジ色。夕方に映える事を配慮しての事だろう。
脱ぎ散らかされた服を回収しながら、選ばれた服を着せていく。その無邪気な姿に自然と笑顔がもれる。
ふと、頭の中に先ほどの書類の文面が蘇る。圧倒的な破壊力を自覚しないで行使できるとは、一体どのような事なのだろうか。
(何も起こらなければいいんですけどねぇ)
そんなことを考えながら、美鈴は笑顔の中に少し苦笑を混ぜた。
外は美鈴の予想通り、夕方だった。と言ってもあと一刻ほどで完全に日が沈むのだが。
自分自身吸血鬼ではないので、どれほどの太陽光が悪いのか予想も付かないが、レミリアが日が高い時に頻繁に出かけている事を考えると、まさか夕日でいきなり灰になるとは考えにくい。勿論、フランドールの調子が悪くなれば即刻館の中に退避するつもりでいたが。
今日のところは、とりあえず紅魔館周辺のみにしようと美鈴は考えている。何かがあればすぐにパチュリーが駆けつけられる距離と言うと、精々が湖畔の中腹あたりまでが限界だ。これ以上離れては如何に咲夜が時を止めて駆けつけようとも手遅れになる可能性が出てくる。
尤も、そんな心配がないからこそ咲夜が連れ添っていないのだろうが。
「さあフランお嬢様。この門をくぐれば外になります」
「楽しみね」
フランドールが、門番を担当している者に早く、と急かしている。
美鈴はそんなフランドールを横目で見ながら、自分を慕ってくれている門番隊に手を振った。今日が始めての仕事だとどこからか聞きつけたらしく――他の警備に当たっている者を除き、非番のものまでが全員揃っている。思わず胸が熱くなった。
門が年季の入った重い音を立てて少しずつ開いていく。その門の開きに比例して、フランドールの目は輝いていった。
夕方ではあるが、吸血鬼の目に闇など関係ない。それに、もし視界が人間の見るような夜の闇に覆われていたとしても、フランドールには十分な輝きを放っているように見えていただろう。
「凄いわ、中国。お外ってこんなに広いのね」
「こんなもんじゃありませんよ。外には行けども行けども終わりはありません」
「凄い、本当に凄いわ!」
フランドールの気持ちに連動して、羽と手足が小刻みに上下する。
憧れた枠の外の世界はどれほど輝いて見えただろうか。美鈴には予想も付かない。
「なにやってるの、早く行きましょ! 遅いわよ」
「待ってくださいフランお嬢様。約束覚えてます? 今日は泉の中腹あたりまでですよ」
「えー。いいじゃない、もっと遠くへ行っても。私、霊夢や魔理沙の所に行ってみたいわ」
「ダメですって。取り合えず今回は様子見ですよ。それに遠くまで行ってご飯までに帰れなくなったらどうするんです? レミリアお嬢様とパチュリー様がフランお嬢様のお話を待ってるんですよ? ご飯までに帰らなかったら、きっと二人ともすごく心配しますから」
フランドールは明らかに不満そうな、というか拗ねた顔をするが、レミリアの名前を出されたら従うより他あるまい。なにより敬愛する姉が自分のことで心配する姿など見たいはずはないだろう。
「はぁい。しょうがないから、今日は中国だけで許してあげる。ほら、ご飯までそう時間があるわけじゃないんだから早く行きましょうよ」
「了解です、フランドールお嬢様」
空と世界を噛み締めるように飛んでいくフランドールの後に続き、美鈴も飛ぶ。
ふと、美鈴は後ろを振り返った。そこには、数多くの門番隊が整列し、美鈴とフランドールを見送っていた。
「……行ってきます」
そんな彼女たちに、美鈴は言葉と敬礼を残す。
『行ってらっしゃいませッ! フランドールお嬢様、美鈴隊長!』
息の揃った声、そして敬礼。まるで礼を覚えたのはこの日の為と言わんばかりの、気合の入った言葉だった。
フランドールは彼女たちに手を振っている。美鈴は、敬礼を続けていた。
美鈴が敬礼を下げると、それと同時に彼女たちの敬礼も下がった。
「いい子たちねー」
いつの間にか横に来ていたフランドールが言う。
「ええ、本当に。私の部下にしておくには勿体無い娘たちばかりですよ」
美鈴は同意しながら、気恥ずかしそうにはにかんだ。
「あんた誰よ」
目の前で両腕を組んでいる少女が、多少高い位置から見下ろしながら言う。さも傲慢であると言わんばかりに。
大して見下ろされる側は、大人の女と少女の二人組み。少女は憤慨し今にも飛び掛りそうな顔をしているのに対し、隣に寄り添う中華風の女性は哀れを誘うほど戸惑っている。フランドールと美鈴だ。
フランドールは始めての外にとにかくはしゃいだ。とはいっても、所詮は紅魔館周辺のみ。あるものは正面の野原か、森林のどちらか。寝転がり静と風情を取るには良いかも知れないが、長く眺めているには向かない。
幸いにして、フランドールは泉に興味を示した。吸血鬼は流れる水の上を通れないのでは、と美鈴は思ったがフランドールはそれを普通に無視している。
フランドールは隙あらば泉の中に飛び込もうとし、美鈴は何度もそれを抑えた。濡れたフランドールを持って帰ろうものなら、レミリアと咲夜に全殺しの目にあうのは想像に難くない。むしろはっきり想像できすぎて嫌だ。
結果、フランドールに意識を持っていきすぎて、正面に気が回らなかった。
飛んできたのは、子供の身の丈ほどもありそうなつらら。3本飛んできたそれを、美鈴は苦もなく叩き割る。
氷を扱える者の心当たりなど、片手で数えられるほどしかいない。が、誰かなど知らないし関係ない。こうしていきなり仕掛けてくると言う事は、悪意ないし敵意がある。
「よくもあたいの湖で暴れてくれたわね。おかげで蛙が全部逃げちゃったじゃない」
凍てつく冷気を身に纏い、背に氷柱の翼を持つ妖精、チルノが怒りも露わに睨み下ろす。ちなみに子供が虚勢を張っている様で全く怖くない。
「あんた、たしかあの館の門番よね。一体何のようよ」
チルノは目を三白眼にしたまま、美鈴から少し視線をずらした。そこには彼女と同じくらいの年の頃の少女が居る。
「あんた誰よ」
チルノは嘲りの表情を作った――やはり可愛らしいだけだったが。その言葉と態度に、フランドールの顔が一気に曇る。
フランドールの顔が曇った事に気をよくしたのか、続いて鼻で笑って見せた。
「その乳臭いのは」
きっとこの場に他の誰かが居れば、全員が間違いなくお前もだと言っていただろう。その方が幾分美鈴も救われていた。しかし、今は誰も居ない。
隣に立っているだけで怒気が体を貫いた。その力の余波だけで、視界が紅に染まる。
チルノがその力の奔流に気付いていないのは明らかだった。これだけの力に気付いている者ならば、動揺がまったく無い事などありえない。例えるならば、西行寺の姫やスキマ妖怪ですらさっさと戦線離脱するほど。
やや腰を溜めて、すぐに動ける状態を作る。何があっても即座に対応できるように。
「そんな顔したってぜんぜん怖くないわよ。言いたい事があるなら言ってみなよ」
「ばーか! あほー! 乳臭いのはお前だー!」
力が一気に抜けた。体に溜まっていた力が逃げ場を失い、体が軽くつんのめる。
対してチルノには、それで十分なダメージだったらしい。先ほどのフランドールの表情がそのまま移り、チルノの勝者の笑みもそのまま移っている。
「なんだとっ! そんなひらひらした変な服着ちゃってさぁ!」
「へん、いーだろー! お姉様に貰ったんだよー! お前なんかに貸してあげないもんね!」
後はもう意味もなにもない罵詈雑言の嵐。きっと本人たちも全く意味を分からずに言っているだろう。
あぁ、そう言えば。美鈴は思う。
(フランお嬢様には同じ年頃の相手なんて居なかったな)
実年齢500歳に届こうかという少女なれど、そもそも回りは自分の言う事を聞く人間ばかり。唯一対等に話せる存在のレミリアとて決して友達ではない。本当は、こういう相手が必要だったのではないだろうか。狂っているのではなく、知らないだけだったのではないだろうか。
「あたいが本気になったらお前なんかボコボコだ!」
「やってみなさいよ! 返り討ちにしてやるわ」
ぶっ。美鈴が吹く。いつのまにやらヒートアップした口げんかは、弾幕ごっこにまで発展しそうになっていた。
「喰らえっ!」
「はい待ったぁ!」
フランドールが作り出した火球を、横合いから思い切り蹴り飛ばす。返す刀でチルノが作り出したつららも全て砕いた。
「何で邪魔するのよぉ」
「ダメですって! 私が吼えますよ」
「吼えるの?」
「吼えます」
「すでに吼えてんじゃない」
チルノに指摘されるが、そんなのは知った事ではない。仕事の第一が破壊させないという部分にある手前、大々的に破壊行動を取らせるわけにはいかない。それに、いくらチルノが奮闘した所でフランドールの足元にも及ばないだろう。
さらに美鈴の心情から言えば、チルノはフランドールの初めての友達である。友達を壊させる訳にはいかない。
「フランお嬢様、あかんとです!」
「それ、どこの言葉?」
「あんたちょっと落ち着きなさいよ」
実際、自分でも良く分からなかったが。瑣末な事なので捨て置く。
乱入したはいいが、こんな状態が長く続くわけが無い。美鈴が言いよどんでいると二人は再び相手に意識を集中しだす。今度は言葉も無い。展開は完全に弾幕ごっこに傾いている。
フランドールとチルノ、両者が同時に弾幕を展開する。初手、この時点で既に勝負にならない。彼女らの弾幕には、既に倍以上の数と質の差があるのだ。
放たれた弾丸、それを危険度の高い順に破壊していく。遠く全てに及ばないが、チルノが死なない程度までなら弾幕を薄くする事が出来る。
美鈴には既に二人の言葉すら耳に入らない。それほど集中しなければ、フランドールの球は打ち消せなかった。密かに舌打ちする。完全に侮っていたと。
美鈴が知る最も強い存在であるレミリアですら、こんな真似は出来ない。球数はさほどではないが、威力が違いすぎる。数よりもその威力に押されて、段々追いつかなくなっていく。
チルノの顔にも焦りが見えてきた。自分の限界を容易く打ち破り、技も何も無い、純粋な力のみで全てを砕く。このままでは負ける。それを悟り、泉の水面ぎりぎりまで急下降、追ってくる弾幕を縫って急上昇。フランドールより少し上の、数歩分離れた場所に位置する。
それを十分に目で追い、動こうとしたフランドールの動きが急に止まった。
足に、泉の水で作られた鎖が絡みついている。強度はさほどではないし、一度使えば二度と通用しない戦法ではあるが、それは逆に一度ならば十分有用な技であることも示している。
チルノが薄く笑う。手に掲げるはスペルカード。勝負勘が告げた勝機を寸分たりとも逃がす事無く、スペルカードを宣言する。
が。
「なかなかやるじゃない」
フランドールが銃の形に似せた指を、真下に向けた。そう、氷の鎖を泉ごと狙って。
たった一発きりの弾丸。スペルカードですらない一撃。だが、破壊の特性を持った最強の一撃。
放たれる弾丸。多くの鎖は、弾丸に触れる事すらあたわず消滅していく。拒むものすら存在することができないその弾丸は、泉に突き刺さった。
爆裂。凶悪な破壊の力、その力はただの一発であるにも関わらず、半径数百メートルに渡って数十メートルの高さまで打ち上げた。
美鈴は知った。否応にも。これが『ありとあらゆるものを破壊する』力であると。触れる事あたわず、及ぶ事あたわず、知る事すらあたわない、幻想郷最強の力の一角。
フランドールがゆっくりとスペルカードを取り出すのが見える。それを見て、美鈴は凍りついた。もしスペルカードに破壊の力を付与されたら、一体どれほどの力になるのであろうか。
「わ゛ーーーーー!!!」
思い切り叫ぶ。チルノとフランドール両者とも予想外の人物の予想外の行動で一瞬動きが凍りつく。
息を小さく吐く。足場は要らない。何故ならば、己が気に硬度を持たせそこに足を置く事が彼女には可能だからだ。
左足に重心を置き、右足を高速でチルノに突き出す。しかし、距離は十分にあり美鈴の足は届かない。このままであれば、届かない。
左足と同じく右足に気を練る。今度は硬度を持たせるのではなく、螺旋状に荒れ狂う力を演出して。打ち抜くは大『気』。空気の中に存在する気を蹴りぬき、己が力を伝えさせる。予想だにしない攻撃は、なんの抵抗もなくチルノの鳩尾に吸い込まれていった。
蛙が潰れたような声をあげて、チルノが一言。
「ぐぅ……、卑怯者」
「職務に忠実だと言って下さい」
なんとなく、本当になんとなく髪を払う。気分の問題だ。
フランドールはそんな様子を呆然と眺めていた。恐らく起こった事が理解できていなかったのだろう。
「……あのさ、中国」
「はい、フランお嬢様」
「酷くない?」
「ちゃんと手加減しましたよ。気絶しただけです」
「いや、不意打ちが」
「職務に忠実ですから」
「……そうかなぁ」
納得のいかない表情でフランドールがうめいた。美鈴も同意であるが、こればかりは何にも変えられない。
もし、フランドールの力が直進型であった場合、幻想郷を包む結界すら破壊しかねない。
「それよりほら、そろそろご飯の時間ですよ。レミリアお嬢様にご報告しないと」
「うん。けど、あれ大丈夫かしら」
「大丈夫でしょう。さほど強く蹴ってませんし」
言いながら、軽く視線を流した。先には氷の上でうずくまっているチルノがいる。意識を失う前に作ったのだろう。無意識ながらも吐かれる呪詛がさりげなく怖かった。
「ほら、行きましょうフランお嬢様」
軽く背中を押しながら急かす。浮いているために体重を感じさせない体は、何の抵抗もなく動いた。
「分かったわよぅ。もー、急かさないでったら」
フランドールが自分の力で推力をとり、紅魔館へと向かう。美鈴も後を追った。
背後から聞こえてきた「絶対泣かす」という言葉は、とりあえず聞かなかったことにしておいた方が幸せだろう。
◆◆◆◆◆◆◆◆
今日一日の仕事を終え、自分の主人が眠りについた頃に十六夜咲夜はやっと自室に戻ってきた。
着ていた服を脱ぎ捨てて、バスローブに着替える。休みと言えるものはなく、あったとしてもそれを有用に使う事など無いので、私服と呼べるものはこの一着だけだ。どこに出かけるにしてもメイド服さえあれば事足りる。
これから風呂に入り、その後すぐ就寝。とはいえ昼前には博麗神社につかなければいけないので、それを考えて起きなければいけない。日の出まであと半刻もないので寝れたとしても2刻がいい所だ。
換えの下着を持ってバスルームに向かおうとしたところで、ドアを叩く音が聞こえた。
「開いてるわよ」
簡潔に告げる。これから風呂に入ると言う事で多少不機嫌な声になったかもしれないが、それは咲夜の知った事ではない。
静かに、というよりもおっかなびっくりドアが開けられる。これだけで咲夜は相手が美鈴だと判断した。
持っていた下着をベッドの上に投げ捨て、代わりに紅茶の準備をする。今日尋ねてくるだろう事は予想していたので、既にティーセットは置いてある。
「しつれいしまーす」
部屋に入ってきた美鈴が、咲夜を見て罰が悪そうな顔をする。咲夜がバスローブに着替えていると言う事は、既に一日の仕事を終えて休むときであると誰もが知っている。
さらに言えば、咲夜が最も仕事をこなしている事を知らない人間はいない。
「気にしなくていいわよ」
やはり簡潔に告げた。
咲夜の言葉は極端に短く、その言葉の中に十全を込める。それで理解できない人間には何も言わない。無駄は咲夜が嫌うところの一つである。
立ち尽くしている美鈴に、椅子を指差した。美鈴が座ったかどうかも確かめずに、あらかじめ沸騰したお湯を入れてあるポットを手に取る。
「フランお嬢様の事でしょう?」
「やっぱり分かりますか」
「そりゃあねぇ。絶対に来ると確信してた訳じゃないけど、多分来るでしょうねくらいには思ってたから」
喋っている間に入れた紅茶を美鈴に差し出す。普段より幾分いい加減な入れ方ではあるが、それなりの味は出ているはずだ。
紅茶を出すと言う事の目的は、その香りで心を落ち着かせる事ではない。お茶を飲むと言う動作を間に挟む事により、高揚した精神を常時に引き戻す。相対する空気というのは、そんな僅かなもので簡単に動く。
「適当にお茶を飲みながらでいいから話してみなさい。時間は気にしなくていいわよ」
「いえ、でも悪いかなと……」
「私は気にしなくていいと言ったの。それを気にするかしないかは相手次第。ただ、私は二度言わないわよ」
美鈴は謝罪するべきか感謝するべきか迷っている様子だったが、なんとなくどちらもふさわしくない気がしたのか取り合えずの言葉を言う。
「その、ありがとうございます」
美鈴は何を語るか迷っているようだった。或いは道筋立てようとしているのか。尤も、咲夜はそのどちらも期待していない。
今日あったことが咲夜の予想通りであれば、ある程度支離滅裂になるのは覚悟している。
「その、フランお嬢様なんですけど、確かに力が強力なのは分かりますが、それは狂っているとかじゃなくて何も知らないだけじゃないでしょうかと思ったんですけど。友達を壊す危険まで持ってた訳ですから、自分の能力の危険を理解して制御できるまで外に出せなかったのは分かりますけど」
話しているうちに自分でもよく分からなくなり、やがて手が加わり始める。
「覚えていくべきことがたくさんあると思うんです。それも他人に押し付けられるようなものじゃなくて、自分から望んで覚えるものが。力が強いって言う事はそれに依存しすぎるって言う事でもありますし」
「それで、つまり私にどうすればいいんでしょう、と?」
紅茶を嗜みながら、美鈴の言葉をさえぎりぎみに言う。実際、その通りであったのだろう。美鈴は顔を傾けた。
「全てが上手く行く筈が無いのよ。ただフランお嬢様を監督するために貴女をつけたんじゃないってことは、薄々ながらも気付いているでしょ? 貴女は今日、一体何をしたのかしら」
美鈴とはさほど長い付き合いではない。しかし、短くもなければ薄い付き合いでもない。大体の行動は予想できる。
紅魔館を揺るがすほどの爆発と水しぶきで、やはりという感想を持たずには居られなかった。咲夜が思うに。
「貴女、フランお嬢様を怒らなかったでしょう」
返事はない。ただ頭は上下に振れる。
「従うだけが従者じゃない。寄り添うだけが人じゃない。黙認するだけが優しさじゃない。間違いを正す事は必要よ。そして、相手から見ても間違いを正してくれる相手と言うのは必要なのよ。それは響きあっていると言う事だから」
「咲夜さんのように、できればいいんでしょうか?」
「馬鹿ね。何のために貴女をフランお嬢様に付けたと思ってるの? 私は実力と威厳で尊敬を取ったのよ。貴女は何で何を取ったのか考えてみなさい。メイドは私に従っているのだけど、門番隊は貴女を慕っているの。この差は大きいわよ」
一旦紅茶に口をつけ、喉を潤す。冷めてお世辞にも美味しいと言えるものではなかったが、これで十分だ。
「紅美鈴にしか出来ない事をすればいいの。私は貴女にそれを期待してるんだから」
言い終えて、語りすぎたと少し反省する。どうも彼女には世話を焼きたくなってしまう。年寄りみたいな事を、と心の中で苦笑した。
優しくしすぎてしまったし、少し怖がらせてバランスを取ろうか。そんな悪戯心が芽生えた。
「まぁ、よく従者から外してくれって言わなかったとは思うわ。貴女は知らないと思うけど、前にも同じようなことを考えたのよ。その時は十数人でフランお嬢様の従者を務める形にして。結局、姉妹ゲンカを目撃したその娘たちが辞退して終わったけど。その娘たちの一人が迂闊に「ずっと閉じ込めておけばいい」なんて口を滑らすもんだからね」
美鈴は少し涙目になっていた。その表情は否応無しに被虐心をそそる。
くすり、と咲夜が笑う。それは決して綺麗な笑みなどではない。
「そ、それでどうなったんですか?」
「あら、わざわざ言うほどのものかしら。想像に難くないと思うんだけど。そうねぇ、結局パチュリー様も加わって楽に死ねなくなったんだけど、細部まで聞きたいならいくらでも語ってあげるわよ」
勢いよく美鈴の首が振られる。否定の形で。
咲夜は自分の作戦が成功した事に密かに満足し、心の中で笑った。
「まぁ、結局の所」
空になったティーカップに、新たに紅茶を注ぐ。ついでに美鈴のティーカップにも注いた。長時間入れすぎて渋みの強すぎるものではあるが、飲めないことは無い。
「何から何にまで意味をつけること自体が既に意味の無い事よ。意味が欲しいなら、知ってる事を伝える事から始めなさい」
不味い紅茶に口をつけた美鈴が、眉をひそめる。色を見れば不味い事など分かりきっているのに。律儀な娘である。
同じように口をつけて、やはり咲夜も眉をひそめた。
「私が話せるのはこれだけ。さあ、もうすぐ夜が明けるわ。今日もフランお嬢様についてなくちゃいけないんだから、貴女ももう寝なさい」
「咲夜さんは私以上に仕事をこなしてるのに付き合ってくれて、ありがとうございました。どこまでできるか分かりませんけど、出来るだけやってみます」
それでいいのよ。声には出さず言う。
美鈴は軽く会釈だけを部屋に残して、出て行った。部屋には不味い紅茶とその香り、そして静寂だけが残っている。尤も、その静寂もあと一刻もすれば喧騒に変わるだろう。紅魔館の朝は不定期だ。
紅美鈴。彼女にはがんばって貰わねばならない。
咲夜には誰にも言っていない――それこそ自分の主にも語っていない事が、一つだけあった。
こればかりは咲夜が手を貸す訳にも行かない。美鈴自身が手に入れなければならない。咲夜にできるのは、精々背を押すだけである。
短く嘆息し、体重を背もたれに預ける。これから風呂に入ったとしても、満足に寝ることは出来ないだろう。尤も、寝ている間は時を止めていればいいので、大した問題にはならないが。
彼女の時間は無限である。
が、永遠ではない。吐き違えてはいけない。無限と永遠は違うのだ。自分は、十六夜咲夜は吐き違えてはいけない。
全く、先を考えるのも楽ではない。咲夜は再び、今度は長く嘆息した。
◆◆◆◆◆◆◆◆
昨日と同じようにフランドールの着替えを手伝い、やはり今日も外に出た。
チルノとケンカをして印象的には最悪に近い初日であったが、フランドールが漏らす愚痴の中に楽しげなものが混ざっていたあたりそれは必ずしも悪い部分ばかりではなかっただろう。
「今日はどこまで行っていいの?」
「どこまででも付き合いますよ。昨日、太陽光が当たってもある程度平気なことは分かりましたし」
「やったっ。じゃあ、お花がたくさんあるところがいいわ」
フランドールの要望を聞いて、行き先を考える。確かひまわり畑がある場所があったな、と思ったがすぐに止めた。確かあそこには強力な妖怪がいたと覚えている。
まあ、何処であると場所を特定しなくても、花が咲き乱れる場所くらいいくらでもあるだろう。ひまわり畑には劣るかもしれないが、探さずともいくらでも見つけられる。
昨日と同じように門番隊に見送られ――流石に数は劣るが――紅魔館を出る。今日は日差しが強いため、日傘を差していく。
場所は美鈴が考えるまでもなかった。フランドールは縦横無尽に飛び回り、気になるものがあってはすぐさま飛びつく。
そんな時間を過ごして一刻半ほど。フランドールは芝が短く生い茂る木陰で休んでいた。
「あぁ、面白いわ」
「見た事ないものばかりですもんね」
「本当に外の世界って広いのね。こんなに飛び回ったのに、まだ魔理沙の家も見てないわ」
にこにこと笑いながら、フランドール。
「けど、もうお腹が空いちゃった。帰るのが面倒ね」
「それでしたら大丈夫ですよ」
美鈴は持っていたバスケットをフランに見せる。もう一つ、鉄の筒も。
「お昼ご飯を咲夜さんから預かってますよ。ここは景色もいいですし、お昼ご飯を食べましょう」
「さすが咲夜、準備がいいわね。それで、その筒はなんなの?」
「これですか?」
美鈴はもっていた鉄の筒を掲げる。
「なんだか、中に紅茶が入ってるらしいです。咲夜さんが言うには、中身は暖かいままらしいですよ。元々外の世界の道具で、どこかで売ってたのを買ってきたらしいですけど」
「ふぅん。あったかいままだなんて信じがたいけど、咲夜が言うならそうなんでしょ。人間って変なもの作るわね」
「ですよねぇ。便利だからどうでもいいですけど」
フランドールは、鉄の筒をまじまじと見つめる。美鈴も初めて見せられた時は同じ事をしていた。鉄の塊に熱い液体を注ぐだけで熱いままだなんて信じられない。なにしろ、中に熱いものが入ってるのに触っても熱くないのだ。
フランドールも、かつて美鈴がやったように鉄の筒に触る。不思議そうな顔をした。
「熱くないわ」
「ええ。でも中は熱いですよ」
「うそだぁ」
フランドールの前で、鉄の筒の蓋を開ける。この蓋、そのままコップになっており、しかも二つついている。
鉄の筒を傾ければ、そこから琥珀色の液体が湯気を立てて流れる。香りは完全に紅茶のものだ。
「本当にあったかいわ。不思議ねぇ」
「不思議ですねぇ」
「美味しいし」
「咲夜さんですからねぇ」
まったりと、紅茶を飲みながら過ごす。
一息ついてからバスケットの蓋を開けて、中身のサンドイッチを取り出す。綺麗な三角形に揃えられているそれらは、どれも咲夜が手を凝らしたものだ。
「これも美味しいのよね」
「咲夜さんが来てから大分食糧事情が変わりましたからね」
「人間って凄いわ。なんでパンに何かを挟もうとか思うのかしら。しかもこれ、ハムと卵とレタスが一緒に入ってるのよ。信じられないわ」
美鈴もフランドールも、喋りながらも咀嚼していく。軽く焼かれたパンを使ったサンドイッチは、実に美味である。こんな美味しい物を食べてしまうと、二度と人間をそのまま食べようとは思えなくなる。
厨房は今でも咲夜にしごかれているが、未だに咲夜を超える料理を作れる者はいない。戦闘以外の全てにおいて紅魔館ナンバー1を名乗るその姿は、正に完璧と呼ぶにふさわしい。一昔前に、油で揚げただけの肉が出てきてきたことが夢のようだ。このまま夢になってくれることを切に願う。
「もうおなかいっぱいだわ」
「フランお嬢様は小食ですね」
「貴女がたくさん食べ過ぎるのよ」
姉と比べればいくらか健啖ではあるものの、元々体が小さいのだから入る量にも限度がある。既に大人の体格であり、しかも肉体労働をしている美鈴とは比べるべくもない。
フランドールの残したサンドイッチを軽々と食べ終える。食べ終わった時点で腹八分なのを考えると、咲夜はそこまで考えて作っていたのだろう。
食後の紅茶も終え、一息をつく。フランドールがゆっくりしている内に、昼食の片付けも済ませた。
木陰で転がりながら足をぱたぱたと上下させていたフランドールは、その視界に入る虫に興味を引かれた。花の蜜を吸っている蜂である。
辺りを不規則に飛ぶ蜂を、フランドールは目で追った。やがて追うだけでは我慢しきれなくなったのだろう、日傘を手にとって蜂の近くに寄っていった。
美鈴はフランドールの後をついて行くべきかと考えたが、しばらく思考し不要だと判断する。さほど早くない蜂であれば、フランドールが蜂を追ってどこかに行ってもすぐに見つけられる。危険に合う事もないだろう。もしフランドールが危機に陥るような事態になれば、それは美鈴の命の危機でもある。美鈴が気にしてどうにかなる状況ではない。
それよりも、と辺りを見回す。紅魔館の近くには咲いていない花を探した。
咲夜は色々な花でお茶を作る事ができ、またそれを半ば趣味のような形で行っている。何かがない限り紅魔館を出ない咲夜に花を持って帰れば、喜んでもらえるのではないかと考えた。
幸い、かどうかは分からないが、最近四季の花が一斉に咲いた。今であればどの季節の花も手に入る。結構昔に同じような事があった気もするが、覚えていないのであれば大事でもないだろう。特別気にする事でもない。
近くに冬の花が咲いているのに気がついた。白く儚い、氷のような花。冬でも門番やら警備やらでしょっちゅう外にいる美鈴ですら、殆どお目にかかれなかった花だ。きっと咲夜は一度も見た事がないに違いない。そう思って、花に手を伸ばす。
最初に感じたのは衝撃だった。暴力的な音の壁が体に衝突する。続いて爆音が耳を叩き、最後に音ではない衝撃が美鈴を僅かに吹き飛ばした。
そこまできて、やっと近くで爆発が起きたのだと気付く。犯人など考えるまでもない。間違いなくフランドールだ。
「フランお嬢様!」
叫び、数分前までフランドールが居た場所に駆けつける。爆心地はすぐに見つかった。
野原には不自然なクレーターができていて、その中心には服を煤けさせたフランドールが佇んでいる。背後を向いているため、表情は見えなかった。
「あぁ、中国」
つまらなそうに、美鈴の呼びかけに応える。振り向かれた顔は能面のような、およそ生を持つ存在のものには見えない。絵の中の生物の方がよほど生気を感じるだろう。
それを見て、美鈴は思い知った。自分は失敗をしてしまったと。
離れるべきではなかった。傍で見守っているべきだった。そうすれば違う未来を用意できた筈である。しかし、その未来は既に消え去ってしまった。自分の失策によって。
「蜂、最初は面白かったの。けどすぐに鬱陶しくなった。もういらないから追い払ったのに、向かってくるんだもの。だから壊しちゃった」
弁解でもなんでもなく、ただありのままを淡々と述べる。
美鈴は息を短く吸い、吐く。覚悟を決めなければならない。これは自分のミスである。ミスは取り返さなければならない。
この失敗は、取り返せる類の失敗だ。少なくともそう信じなければならない。信じなければ成功への道すら開かない。
「いけません、フランお嬢様」
「なにがいけないのかしら。私は要らないものを捨てただけよ」
「要らないからといって、捨てるものだからといって安易に壊してはいけません」
「なんで? 私の能力は壊す事に特化しているもの。それは私の存在意義と同意なんじゃないかしら」
「存在意義? それはフランお嬢様が勝手な言い訳をしているだけです。レミリアお嬢様は運命を操れるから、その能力で全ての運命に干渉しているんですか? 違いますよね。誰もそんな事はしません。破壊できるから? 私だってこれくらいできますよ。魔理沙だってパチュリー様だって、レミリアお嬢様だってこれくらいできます。みんな壊す事ができたって壊したりはしません。何かができると言う事は、同時にそれをやらないと言う事も考えなくちゃいけないんです」
一羽の蝶が、たどたどしい軌道で飛んでいる。恐らくさっきの爆発で羽を焼かれたのであろう、左右非対称の羽は、二度と元に戻る事はない。
美鈴は静かに指を出す。蝶はやっと休める場所を見つけ、静かに指先に止まった。
「この蝶はもう満足に蜜を集める事もできません。近いうちに死ぬでしょう。フランお嬢様は、この蝶を愛でる事だってできたんです」
ほろり。蝶が指先から落ちた。爆風に焼かれた虫が、長く生きていられるはずがない。美鈴は心の中で、この蝶に詫びた。
「私に、私にどうしろって言うのよ!」
フランドールが絶叫する。完全な怒りではなく、目尻に微かに涙が溜まっている。
彼女は、或いは既に分かっていたのかもしれない。自分は、やってはいけないのだと。ただ、誰かに行ってほしかっただけなのかもしれない。
フランドールの絶叫は続いた。
「私が触れればなんでも壊せる! なんでも壊れる! 私にはそういう能力があって、私はそういう存在なんでしょうが! 壊さないなんてできるわけないじゃない! 勝手に壊れていくのよ、全てが! さあ、どうしろっていうの!」
手を強く握り締めすぎ、血が滴っていた。涙はやがて決壊し、止めどなく溢れ瞳を濡らす。
きっと――彼女はこうして悩んだ事は一度きりではない。何度も、気に入ったメイドが壊れた時に、好きな服が壊れた時に、同じように悩んだんだろう。そして能力の制御の仕方も知らずに、自分を壊しながら我慢する。
きっと、そんなことしかできなかったのだ。
「言われて何かをするのは簡単です。だから、私は言いません。フランお嬢様が考えてください。考えた上で壊すと言うなら、私は何も言いません。ただ、壊せるからと言って壊して、壊したいからと言って壊していけばいずれ何も無くなりますよ。壊したものの中に、フランお嬢様が望むものもあったかもしれないのに。考えてください、フランお嬢様。決断してください、フランお嬢様。私は、フランお嬢様が決めたとおりにします」
見上げるフランドールの視線に、美鈴は自分の視線を絡めた。瞳は、酷く揺らいでいる。
こんな目を、美鈴は知っていた。やりたい事があっても、できない。できると信じられず、自分に自信がもてない。自分が引いてしまった枠の外に出れずに、ひたもがく目だ。
まるで、紅美鈴自身の目だった。なんとなく、どことなく自信の持てない自分の目だった。
ここである。美鈴はそう感じる。ここで、私は進まなくてはいけない。
「大丈夫ですよ、フランお嬢様。お嬢様は、望むとおりの自分になれます。私が、フランお嬢様の望まない未来など創らせません」
「そんなの……触れれば何でも壊れちゃうわ」
「壊れる前に止めて見せます」
「中国だって簡単に壊れちゃうわ」
「壊れませんよ、約束します」
「壊さなかったとしても、何も手に入れられないもの。誰も寄ってこない」
「フランお嬢様が手に入れられないなら、私が手に入れます。それに、お嬢様がなんであろうと寄ってくるやつは寄ってきますよ。魔理沙がいい例です」
「貴女は……」
フランドールが嗚咽しながら、問いかける。すがるように、頼るように。
何と問われようと、どんな答えを望まれようと、美鈴の答えは一つしかない。
「中国は、私とずっと一緒に居てくれる?」
「命尽きるまで……、否、命尽きてもフランお嬢様に寄り添う事を誓います」
涙を枯らすことができないフランドールが、美鈴に抱きついた。美鈴はそれを優しく受け止め、包み込む。
彼女たちは、今より主従となる。
レミリアと咲夜のように。
◆◆◆◆◆◆◆◆
次の日より、フランドールの力の制御が始まった。結果だけ先に言えば、実にあっけなく終わった。
フランドールの力を、美鈴の能力で制御する。その感覚を覚えていき、力は恐るべき速さで制御されていった。
元々才能はあったのだろう。今では能力の制御など思いのままだ。今までそれを阻害していたのは、恐らくフランドールの精神状態である。
常に自分の存在意義と苛立ちに苛まれ、集中する事ができなかった。だが、フランドールを落ち着かせる役目を美鈴が果たし、元々持っていた才能が芽吹いた。元より能力は意思一つで制御できる安易なものであった事もある。
自分に自信を持てるようになったフランドールは、今まで以上に活発になった。友人と言える相手も、少数ではあるがいる。相変わらずチルノとは罵り合ってはいるが。
そうして、数週間が過ぎた。
「意外だわ」
テラスから外をのぞいているレミリアは、そう一人ごちた。先ほどから誰に言うでもなく、そればかりを繰り返している。手に持っている紅茶は、口をつけてもいないのに既に冷めている。
視線の先には、フランドールがいる。フランドールは肩車をねだり、肩に乗ると左右に暴れ困らせていた。相手は言うまでもない、元門番の紅美鈴だ。
「意外だわ」
再び、繰り返す。
レミリアは、絶対に美鈴は早いうちに従者を辞退してくると思っていたのだが、予想は大きく裏切られた。それも良い方に。悪く裏切られた場合には、冥界にすら行けないように殺してやるとまで思っていたのだが、それすら馬鹿馬鹿しくなる。
「言った通りでしたでしょう?」
透き通る声がレミリアの耳に届いた。確認するまでもない。咲夜だ。
「本当ね。これは、あの娘の評価を改めないといけないわ」
僅か数日でフランドールの信頼を手にし、数週間で今まで散々手を焼かれた能力さえ制御させてみせた。これが自覚して行った事だとしたら、驚嘆せざるをえない。
なにしろ、今ではレミリアよりも美鈴に甘えるほどだ。何度か本気で殺意が沸いたのは、仕方がないことだろう。美鈴が寝ているうちに首を掻っ捌こうかと思ったことさえある。姉離れはかくも寂しいものだ。
「咲夜は、ここまで予想していたのかしら」
「そうですねぇ……。時間と信頼度は予想の多少上を行ってますけど、それ以外はおおよそ予定通りですわ」
「まったく、咲夜には感服するよ」
手を小さく振り、降参と言う。
全ての能力に共通するが、能力は万能ではない。例えば今回の場合、運命を見ようとしても予想だにしない場合であればそもそも見る事すら思いつかない。扱うのは所詮不完全な生物だ。能力を生物が不完全に貶めていると言ってもいい。
レミリアは、美鈴という選択肢を考えすらしなかった。問いのない事の答えは、当然出てこない。因無くして果は非ず。
「今回ばかりは侮りすぎた私の完敗ね。全部順調だし」
「だといいんですけど」
咲夜がぽつりと漏らした言葉に、レミリアは疑問符を浮かべる。
「まだ何か気になる事でもあるの」
「まぁ、一つだけ。大丈夫だと思いますけどね」
「なら大丈夫でしょ」
「あら、随分簡単に引き下がりますね」
「運命を見るまでもなく、咲夜が言うなら信じるわよ」
それよりも、と机を叩く。叩くといっても真似事だけで本当に叩いたわけではないが、なんとなくぺちぺちという音を想像した。
咲夜は笑いながら、冷めた紅茶を回収した。中身を捨ててすぐに新しく注ぐ。言わずとも理解する。流石、咲夜。
新しい紅茶に口をつけながら、フランドールを見る。相変わらず美鈴とべたべたしている。多少苛立ち、紅茶を音を立て飲む。
「あらお嬢様、はしたないですわ」
「いいじゃない。フランがあっちにつきっきりなんだから、咲夜がかまってよぅ」
小さく飛んで、咲夜に抱きついた。咲夜はティーセットを静かにテーブルに置き、レミリアを抱きとめる。
頭を撫でられたレミリアが、小さく喉を鳴らした。悪魔もたまには甘えたくなるのである。
咲夜は、レミリアに笑いかけながらも小さく、本当に小さく言った。本来漏らすつもりはなかった言葉を。
「あの娘、フランお嬢様の狂気を侮ってなければいいけど」
レミリアにその言葉の内容までは聞こえなかった。聞こえていたが、知らないフリをしているだけかもしれないが。尤も、そのどちらだったとしても彼女には既に意味のないことだっただろう。あとはただ咲夜と美鈴、そしてフランドールを信じるだけだ。
だから、レミリアはこう言った。
「咲夜、抱いている時に他の女を想うのは反則よ」
「それは想いをはせる殿方に言ってくださいな」
やはり笑顔で、さらりとかわす。紅魔館のメイドはかくも難攻不落である。
頬を膨らませたフランドールは、やり場のない怒りをとりあえず転がっている石に向けた。涙目になり、頭をさすりながら。
当然怒りはそんなもので解消されるはずもなく、地団駄を踏む。
(そりゃそうですよねぇ)
と思いながら美鈴も自分の頭を撫でていた。やはり涙目になりながら、なさけない顔をする。
美鈴とフランドールは、いつものように二人で飛んでいた。最近は当てもなくふらふらしている事が多い。今日も例に漏れずにいたら、急に頭上から巨大な氷が降ってきた。ご丁寧に二つ。
低空で飛んでいた事、二人で談笑していた事、やや曇っていた事全てが災いし、脳天に激突した。視界が点滅するほどの威力があったのだ、涙も出る。
完全に不意打ちを喰らった二人を見て、チルノが笑っていた。以前の「絶対泣かす」が今頃になって実行されたのだ。何度か接触しているにも関わらず、このタイミングで仕掛けてくるとは、まったくやられたとしか言いようがない。誰かの入れ知恵もあったのかもしれない。
フランドールは怒り、チルノを追いかけようとしたが衝撃で上手く飛べず、結局すぐに逃げたチルノを捕まえられなかった。
この経緯で、やり場のない怒りを納められず当たるものを探している。それでも、物を壊さないのは大きな進歩である。以前ならば一帯を全て破壊していただろう。その進歩に微笑む。泣いているので結局泣き笑いだが。
「子供が子供が泣いている~。わーわー怒って泣いている~」
急に、綺麗な歌声が響いてきた。まあ、内容は酷く腹立たしいものではあるが。
「……あんた誰よ。顔出しなさい」
フランドールはふくれっ面で言う。見回して見える位置にないというのは、結構なストレスだ。
「ここよ」
声の方を追う。さっきまで何もなかった木にもたれかかった少女が、横目で見下ろしながら言っていた。
いや、何もなかった訳ではない。恐らく最初からその位置にいたのだ。あまりに自然であったために、気付く事ができなかっただけだ。美鈴は彼女を、少なくとも名前は知っていた。ミスティア・ローレライ。幻想郷一の歌師。
「わーわー泣かないでくれない? 私の歌が響かないじゃない」
「わーわーなんて泣いてない!」
「泣いてるのは否定しないのねぇ」
くすくすと笑う。特に悪気があるわけではないだろうが、彼女は悪戯っぽすぎる。
「うるさい。あんたなんか叩き潰してやる」
「弾幕ごっこでもする? 勝つのは私だけどね」
「中国、手出し無用よ」
「あんた、中国って名前だったの」
「いや、違うんだけどね。色々と事情があるのよ」
ミスティアは、美鈴の言葉に頷きもせずに木の枝から飛び立つ。フランドールも同時に、高度を取った。
「フランお嬢様、加減を……」
「忘れないわよ」
一言だけ答える。美鈴もさほど心配しているわけではないが、一応釘だけは刺しておくべきだ。
「なに? 私とやるってのに手加減でもするっての?」
「あんたが私を本気にさせられるんなら考えてやるよ」
言葉の終わりと同時に、フランドールの体が爆ぜた。視覚では追いつかないほどの動きで、半円形にミスティアの後方へと飛び去る。途中で弾丸をばら撒きながら。
これで縦の動きは封じた。であれば、残りの動きは左右のみ。それを見越しての攻撃であり、フランドールは背後に回った後左右にも弾を撒く。だが、フランドールの予想は完全に外れた。
ミスティアは殆ど動かずに、弾幕を避けた。それこそ、弾の方から避けているのではないかと錯覚するほどに。ミスティアには余裕の笑みが浮かんでいる。
「あんたの弾は風を叩きすぎだねぇ! そんなんじゃいくら撃っても当たらないよ!」
美鈴はその言葉で、彼女の秘密に気付いた。鳥は常に羽ばたいて飛んでいるのではなく、風に乗って飛ぶのだ。フランドールの攻撃は確かに強力ではあるが、それだけに大気を巻き込んでいる。ミスティアは風に乗っていれば何もせずとも当たらない。
フランドールも多少は考えた戦い方をするが、その力が圧倒的であったために戦法を必要としなかった。戦法という一点において他者に大きく劣る。フランドールは、まだ緩急の使い方を知らない。
風に乗る戦い方をするミスティアは、正にフランドールの天敵と言えた。フランドールの攻撃は絶対に当たらないだろう。
「言ってくれるじゃない!」
叫びながら、巨大な弾丸を発射する。大きなものであれば、避けきる前に当たると思ったのだろう。しかしそれは間違いである。大きければ大きいほど、早ければ早いほど大気を巻きミスティアを早く移動させる。
最初、ミスティアが放っていた弾はフランドールの弾に飲まれていた。だが戦っているうちに、ミスティアも美鈴と同じ事を思い至ったのだろう。通常の弾は撃たずに、鳥形の弾を撃ち始める。
鳥形の弾は、ミスティアと同じくフランドールの弾を掻い潜った。弾をばら撒きながら進んでくる鳥を見て、フランドールは自分の劣勢を悟る。しかし、これを押し返す方法はどうしても思いつかなかった。
鳥は風に乗りながらも、最短でフランドールに向かっている。上下左右に避ければ鳥は通過していくが、同時に前にも進めずじりじりと押されていった。
フランドールも気付いているだろう。数多くの鳥は次第に軌道を修正して、確実に自分を追い詰めていると。
焦りが思考を阻め、突破口を見出せない。それがまた焦りを呼ぶ悪循環が続き、フランドールはついに殆ど身動きができなくなっていた。
そして、一羽の鳥がフランドールの頬を掠める。焼けるような焦燥が、フランドールの中の何かを焦した。
「惜しいっ」
ミスティアが叫ぶ。その顔は、既に勝利の快感に浸っていた。
そんなものは、次の瞬間に打ち砕かれる事になるとも知らずに。
フランドールの攻撃が突如止む。ミスティアは不審に思いながらも、鳥を放った。フランドールは動かず、複数の鳥はまっすぐ彼女へと飛んでいく。
美鈴は寒気を覚える。フランドールに弾が当たるかと危惧しての事ではない。視界が紅い。この感覚を、美鈴は知っていた。
これは破壊の感覚であると、美鈴は知っていた。しかし、威圧感は以前の幾倍も強力。
ミスティアの勝利を告げるはずだった鳥は、フランドールに届く前に消滅した。否、破壊された。ミスティアは、それをまったく理解できなかった。
「あは、あははははは、あははははははははははははははは!」
全てを喰らうかのように、フランドールが哂った。いや、既に喰らい始めているのかもしれない。周囲に存在する全ては、彼女の哂いだけで破壊されつつある。全ては色を失い、そして紅く染まる。
紅い世界と真紅の咆哮を聞いて、美鈴は気付いた。これは本来存在するはずのないフランドールであると。
彼女は全てを壊していったが、同時に壊したくないものまで壊していた。だから自分を抑制した。溢れでる、止める事ができなかったその力の方向を無意識に変えて。標的を自分に変えて。破壊され、開いた隙間に彼女は居座っている。狂気を孕んだフランドールが。
その哂い声が告げていた。これこそが狂気であると。
ひゅうッ――美鈴の喉から空気が漏れる。この世界は、ただ呼吸をするだけで気力を必要とする。手足など、満足に動くはずがなかった。
フランドールの手には、一枚のカードが握られていた。模様すら見る事ができなかったそれは、すぐに炎と共に弾けとんだ。
手が掲げられ、そこに破壊の具現が現れる。一本の剣は、恐ろしく巨大で剣である事を疑いたくなる滑稽な剣は、破壊した大気を飲み込みながら構えられた。フランドールに剣の心得などないが、この剣の前ではそんなものは無意味であると嘲笑せざるをえない。なにしろ、破壊された大気の隙間を埋めようとさらに大気が集まり、結果的に剣を中心に巨大な渦が出来上がっているのだ。こんな得物に心得があったところでなんだというのだ。振り下ろせば、それだけで全てが終わる。
ゆっくりと、フランドールは進む。哂いを止めずに、ミスティアの前へと。ミスティアが動く事など、フランドールは考えていない。そして、その考えは正しい。
恐怖に顔を引きつらせたミスティアは、ただ正面の悪魔と剣を見つめ続けた。確定した、自分の存在が消える未来を知って。
破壊を冠する一撃が、何よりも厳かに振り下ろされた。
美鈴の体が、自分の意とは無関係に駆け出す。何かを考えての事ではなく、義務感が働いたわけでもない。ただ、約束があったから。少しの過去と一瞬の現在と、なにより遥かなる未来全てに繋がる約束が、フランドールと共に生きる約束が体を動かした。
被っていた帽子が風圧で飛ぶ。帽子にいつも隠してある数枚のスペルカードを鷲掴みにして、炎の剣に立ち向かう。手の中の一枚が弾けとんだ。
――震!
己の拳と、炎の剣の腹が激突する。破山砲。美鈴が持つスペルカードの中で、最も突撃力に優れた技である。しかし、それを持ってしても剣は揺るぎもしない。逆に少しずつ美鈴の拳が破壊されていた。
ぎぢり、脳に雑音が混ざる。それが自分の歯軋りの音である事にすら、今は構っていられない。
剣とミスティアの間に割り込み、二枚のスペルカードを同時に弾けさせた。華厳明星と、彩光乱舞。華厳明星で作り出された巨大な弾に、彩光乱舞で描かれる極彩の渦がまとわりつく。それを、自分の右腕が壊れるのも無視して思い切り掌底を叩き込んだ。
この程度では、剣に均衡を保つ事すらできない。しかし、振り下ろされる時間は確実に遅くなる。その間に、美鈴は剣に流れる気に干渉した。フランドールの扱う気の流れは、嫌というほど知っている。
右腕の骨が粉々になるのを音で知った。血肉が弾け飛ぶのを目で知った。もう原型をとどめていない右腕は動かす事などできないはずなのに、それでも彼女は揺るがなかった。
破壊の力の向きを、多数に分散させる。自分のスペルカード、大気、剣自身にまでも。遥か力は及ばなくても、できることはある。自分の持つこの能力は、汎用性であればスキマ妖怪にすら劣る事はない。
剣はどんどん力を失い、痩せるように細っていく。あと少し、あと数秒もあれば剣を消滅できる。
しかし、その数秒は限りなく遠かった。
剣はついに美鈴の複合スペルカードを突き破り、彼女の右肩から右腿を切り裂いた。
突然、本当に突然フランドールの意識は正常に戻った。あまりに急で、自分が何をしていたか知るのにすら手間取る程に。
顔に手を当てる。何故か湿っぽかった。手を離し見てみると、そこには血液が手の平全てに付着している。彼女には少なくとも自覚できるような痛みは存在せず、これだけ出血する怪我があるとは思い難い。
視界に、紅が飛んだ。飛び散った赤は、気に入っている服を染める。
飛び散る赤を追ってみた。先には、見慣れているはずの美鈴が、見慣れない姿でそこにいる。
突き出されたボロボロの腕は、骨すら露出している。彼女がいつも着てる服は原型を知る事すら難しく、その殆どが今は存在しない。
そして美鈴は、空ろな目で血を吐きながら、右半身が無残に切り裂かれていた。
悲鳴を上げたつもりでいたが、それは声となる事はなかった。美鈴の姿がフランドールの喉を詰まらせる。
掲げられていた腕は力を失い垂れた。それとほぼ同時に、美鈴の体は墜落する。
フランドールはその光景を見ている事しかできなかった。美鈴の後ろにいたミスティアも動く事ができず、ただ視線を追わせるばかり。
数秒もせずに大地に抱かれた美鈴は、仰向けに倒れてそれっきり、指すら動かさずに沈黙する。開かれている瞳は、いつも自分を見ていた瞳は、今は何も見ていない。
なぜ、動かないのだろうか。なぜ、彼女は落ちたのだろうか。分からない。
いつも自分に笑いかけてくれた彼女は、笑いかけてくれない。いつも自分を見ていた瞳は、今は何も映していない。いつも自分を抱いてくれた腕は、動かす事すらできない。
いつか、壊れないと言っていた美鈴は、壊れてしまった。もう動かない。
涙は出なかった。いつかのように溢れてくれれば、幾分救われたかもしれないのに。まるで罪を刻み込ませるかのように、泣かせてくれない。
やっと、愚かな自分に気付いた。美鈴を壊したのは、確かに自分であると。
同時に、自分は最も失ってはいけないものを失ってしまった事を知った。それを自覚してしまった心の中には、もう何もなかった。
心が冷え切るのを感じる。美鈴を傷つける自分すら抑える事ができなかった己など、もう持っている意味はない。
美鈴を見る。近づきたかったが、伝える言葉も伝えていい言葉も持ち合わせていない自分が寄っていいはずがない。
ただ、最後に一言だけ。
「……うそつき」
最後の我が侭だけを虚空に残して、フランドールはその場を離れた。
「……うそつき」
そんな、消え入りそうな微かな言葉を聞いた。目は殆ど見えていないけれど、何かを見る努力だけはしてみる。
滲んだ景色の中に一つだけ、やけにはっきりと見えるものを見つけた。少女は無表情だ。けど美鈴には、彼女は泣いているように見えた。少しだけ残った意識の中で、彼女には泣き止んでもらわなくちゃいけないと思った。
動こうとしたけれど、体はまったく言う事を聞かない。そもそも、体がある感覚すら無いのだから動かしてみようとする事が既に滑稽かもしれなかった。
少女が立ち去る。待って。そう言いたかったが、口が動かない。心が痛んだ。
嗚呼、何故私はこんなにも何もできないんだろう。震える心で、そう微かに自問する。
「――、――!」
誰かが何かを言っているのだろうか。声は聞こえている筈なのに、理解はできなかった。
ただ、あの少女が幸せに在ってくれればいいと、それだけを神に願う。
「――中国――!」
理解できないはずの言葉なのに、何故かその単語だけは酷く正確に聞き取れた。ただその単語だけで、心と意識が一斉に覚醒する。
「ねぇちょっとあんた! 中国であってたっけ? なんか違うみたいな事言ってたけど……。ああもう、中国! ねえ中国! 生きてるんなら返事しなさいよ!」
「――あ」
口の中に溜まった何かを吐き出しながら、それだけをやっと口にする。
「あぁ良かった。生きてた」
先ほどより僅かばかりではあるが、見えるようになった目で声の主を捉えた。鳥の少女、ミスティア・ローレライを。
彼女が呼んでくれた事に感謝しながら、美鈴は気を操った。体に流れる気は乱れきっている。なけなしの気を使って気を正常化しさらに止血、そして活力に回した。同時に体に走る激痛に思わず意識を失いそうになる。乱れそうになった気を何とか押さえ、顔を苦悶に歪めながらも体を起こす。
「あんた、動いて大丈夫なの?」
「大丈夫」
本当は言えるほど大丈夫ではなかったが、取り合えずそれだけ答えた。他の答えを用意して無理矢理押さえつけられるわけにはいかない。
フランドールは泣いていた。涙を流さず、声もあげなかったがそれでも泣いていた。他の誰にも分からなくても、美鈴にだけは分かる。
彼女を泣かせたままにして、自分は何をしていたのだ。美鈴は自問する。自分は下らなくも、愚かしくも願ったのだ。願っていいことではない。願って適えばそれでよしとできることではない。それをよりにもよって。
「神に願うなんて」
「え?」
ミスティアが反応したが、取り合えず無視する。答える気力も無い。
このまま座ってなどいられない。立ち上がろうと両手に力を入れようとしたが、右手がまったく動かない事に気がついた。一瞬だけ落胆し、左腕に力を入れて立ち上がる。立ち上がって、右足にも力が入らない事に気がついた。気付いたときには既に遅く、体は地面に吸い込まれていく。
「ちょっ、危ない!」
「……ありがとう」
ミスティアに体を支えられ、なんとか持ちこたえる。これでまた倒れたら、今度は立ち上がる自信はない。素直に感謝する。
「あんた、むちゃくちゃだよ! こんな調子で動こうだなんて。誰か呼んでくるから、それまで大人しくしてて!」
「それは、できない」
ミスティアの手を振り払う。実際は、彼女の手を振り払えるほどの力などこもっていなかっただろうが、ミスティアは素直に手をどけてくれた。
歩けない事は分かっている。多少苦痛ではあるが、体を浮遊させる。いつものような軽やかさはなく、数センチ浮くのが限界だった。
「なんで、あんた死ぬ気!? 生きてるのだって不思議なくらいでしょ!」
「大丈夫、体は頑丈だから。それに、私はやるべきことをやってない。命より、もっと大切なものを手放したままだから」
何か反論しようとしたのだろう、息を吸ったミスティアは、その息を声にする事はなかった。
ミスティアの問いを確認するまでもなく、美鈴は進む。行き先はわかっている。フランドールの読み慣れたな気は、どんなに遠くからでも感じられる。
「頑張れ、中国!」
背後からかけられた予想外の言葉に、美鈴は振り返る。ミスティアは目を硬く閉じ、手を握り締めながら言った。
「私にはあんたが命をかけるほどなにがしたいか分からないけど、私じゃあんたを止めらんない。だから、頑張れ中国! 応援するから、その代わり」
ミスティアの翼から放たれた風が、美鈴の背を押した。体を支える優しい風は、どこまでも美鈴を乗せて行くだろう。
「絶対生きて帰りなさいよッ!」
「当然」
最早振り返らず、約束だけを残す。
美鈴は幾分か脱力し、風に流された。
ついこのあいだ訪れた野原の、ついこのあいだ作られたクレーターの中心。そこにフランドールはいた。
美鈴には背を向けているために、背後に誰かがいるのに気付かない。いや、もしかしたら正面にいても気付かなかったかもしれない。そんな事を思わせるほど、彼女の存在は希薄だった。
美鈴は自分を運んでくれた風に最後の感謝をして、下りる。思わず倒れそうになったが、なんとか踏みとどまれた。
「フランお嬢様」
答えはない。聞こえていないのか、もしかしたら意識すらないのかもしれない。
ゆっくりと歩み寄る。右足を踏み込む度に体が傾き、ただ歩くという動作さえ億劫だった。それでもなんとか、フランドールの後ろに立つ事ができた。右足は、もう一歩たりとも動かす事ができない。
佇むフランドールを、背後から優しく包み込む。そして、囁く。
「フランお嬢様」
僅かに、しかし初めてフランドールに反応があった。フランドールの体が震えるのを、美鈴は全身で感じる。
「――あ、ぁ」
「私はここにいますよ、フランお嬢様」
「嘘、なん……で」
「約束。したじゃないですか。だから、私は今ここにいるんです」
「あ……あぁ、ああぁ」
フランドールの瞳に、涙が溜まる。それを阻害するものはなく、溢れる涙は頬を伝い美鈴の手に落ちた。
「ごめ……、わたし、ごめんなさいぃ」
「謝らなくていいですよ。謝るのは、全てに失敗してしまった時だけでいいです」
「だってぇ、わたし……、ちゅうごっ……」
涙と嗚咽は、普通に話す事さえ許さない。しかし、それでいい。彼女の持つ感情には、その優しさが必要だ。
「大丈夫です。私はまだここにいることができるんですから。だから、泣かないで下さい」
「そんな……むりぃ。だって、ちゅうごっ……、きてくれたっ」
自分を抱きしめている腕を握り、フランドールは泣く。何を言葉にすればいいのかさえ分からない。ただ、美鈴が生きていてくれたことが、ここに来てくれた事が何より嬉しかった。
「わたしっ、まけないからぁ! もうにどとっ! じぶんにぃ、まけないからぁ!」
強く、強く。美鈴の手を握り締める。感覚の無い右手から、感覚のある左手から、それらは強く美鈴に響いた。
「だから――ありがとう」
振り向いたフランドールは美鈴に抱きつき、泣いた。声を上げて泣いた。どこまでも伝わる声を出して、感情のままに泣き続けた。
美鈴はフランドールを抱きながら、やり遂げる事のできた自分を誇った。自分を抱いているフランドールを抱き返して、ここまで意地を張ってくれた体に感謝する。
神になんて任せなくてよかった。任せていれば、自分はきっと諦めたのだから。あらがったからこそこ、こうしてフランドールの温もりを感じていられるのだから。
そう思いながら、美鈴はこんどこそ意識を手放した。
◆◆◆◆◆◆◆◆
「まったく、あなたも大概頑丈ね」
「はは、頑丈だけが取り柄ですから」
咲夜が呆れながらも感心して言うと、美鈴は乾いた笑い声を出した。
「それで、体はもういいのね」
「はい。まだ少し違和感はありますけど、それは体を動かしてなかったからですし。パチュリー様ももう完治してるはずだって言ってました」
美鈴が大泣きしたフランドールに担がれて紅魔館に帰ってきたのは、今から一週間前の事だ。体の3割以上が破壊され、血も体に殆ど残っていない状態で助かったのは奇跡に近い。あえて言うならば、パチュリーの喘息が止まっていたのが決めてだった。
あの時は大変だった。思わず咲夜はうめいた。フランドールは泣き叫びレミリアは怒り狂う。堪忍袋の緒が切れた咲夜が、悪魔姉妹をそろって気絶させた事には、異常事態に慣れている紅魔館の住人たちも流石に閉口した。
ちなみに、美鈴を暗殺しようとしたレミリアをフランドールが発見しそのまま姉妹ゲンカになり、咲夜にひっぱたかれて泣きながら引きずられていくという事件が起きたが、美鈴はその事を知らない。以降、咲夜は密かに悪魔も黙る鬼メイドと囁かれているが、それはまあ、咲夜にも美鈴にもあまり関係の無い事だ。
「それで、まぁ、私にとってはこれが本題なんだけど」
「なんでしょう」
「貴女、明日から私の補佐につきなさい」
美鈴は一瞬、言葉の意味を理解できず間抜けな顔をする。すぐに咲夜が不快そうな顔をしたので直したが。
本来ならば喜ぶべきところである。咲夜の補佐につく、それは咲夜が最も実力を認めているという事だからだ。しかし、美鈴は少し考え、淀みなく答えた。
「すみません。そのお話、辞退させてください」
咲夜は、美鈴の目を見る。これがその場の勢いで言っているのであれば、すぐに異動させるつもりでいた。だが、美鈴の目には意思が強く宿っている。恐らく、本人が思っている以上に強い意志が宿っている。
「理由くらいは、私に聞く権利はあるわよね」
「私は門番です。だから、私はその話を受ける事ができません」
美鈴の答えを聞いて、咲夜は嘆息する。さほど落胆は感じられなかった。予想の範疇ではあったのだろう。
「――仕方がないわね。いいわ、今日から通常業務に戻りなさい」
「はい。失礼します」
言い、退室した。自分ひとりしかいなくなった部屋で、咲夜は再び嘆息する。先ほどよりも深く。
元々、大きな期待をしていたわけではないが、やはり期待を裏切られるというのは堪える。彼女が紅美鈴として成長してくれた事で良しとするべきなのだが。
今回の話は、ただ何かにつけて暴れだすフランドールをなんとかするという話ではなかった。少なくとも、咲夜にとっては。
彼女が本当に欲していたもの。それは自分の後続だった。後継者と言っても大きな間違いはないだろう。
自分はあと40年もしないうちにレミリアの傍に立てなくなる。そして、60を待たずにこの世からいなくなるだろう。そうなった時に最も心残りになるのは、自分がいなくなったあとの紅魔館だ。今のメイドたちには、悪いが安心して任せられるとは言いがたい。
そこで、咲夜は美鈴に目をつけた。彼女ならば自分と同じ形でなくても、きっと良い紅魔館を作っていってくれるだろう。そんな期待があった。
実際、美鈴は咲夜の期待通りに成長していったと言える。咲夜の模倣をするわけではなく、あくまで自分を通し人を慕わせる良い人間に。
ただ一つの懸念は、彼女は門番を選ぶのではないだろうかという事だった。咲夜の予感は当たってしまい、結果後続を失う形となってしまった。
もし救いがあるとすれば、それは美鈴の成長が自分の予想の遥か上を行った事だろう。もしこのまま継続が見つからなかったとしても、美鈴がいれば上手くまわしてくれるにちがいない。
相変わらず後続は探さなければならないが、もういままでほど急ぐ必要は無い。これからは、もう少しゆっくりできるだろう。
だが、一言だけ彼女に言うのであれば。
「――馬鹿」
かつて美鈴がいた空間に向かって、咲夜は言う。彼女は期待を裏切ったのだ、これくらいの暴言は許されて然るべしである。
最後の愚痴を空に叩き込み、咲夜も部屋から出た。
やはり外の空気は気持ちがいい。思い切り空気を吸い、ついでにストレッチをしながら全身で風を感じた。しばらく使っていなかった体は、思った以上に骨が鳴る。
一通りストレッチを終えて、美鈴は自分の定位置、つまり門の前に位置した。やっぱり自分にはここが似合っている。満足し、思わず頷く。
先ほどの咲夜との話、あれは自分でも驚くほど簡単に結果が出た。そして、それ以上の答えを出せない自分がいた。
昔、美鈴は自分の門番としての意義を考えた事があった。自分は何を守っているのだろう。紅魔館か、お嬢様か、それとも、他の何かか。門の前に立ちながら、ずっと考えていた。同じ季節が訪れても考え、それを何十回と繰り返しても、答えを見つける事はできなかった。さらに何十回も季節は巡り、やがてそんな問いを課した事さえ忘れていた。
若かった自分に苦笑する。あれから幾度の時が巡っただろうか。最早思い出すことさえ叶わない。だが、それでもいいと美鈴は思っている。答えは既に見つけたのだから。
「やー、中国」
頭上から軽快な声がした。美鈴が知る限り、自分を中国と呼ぶ者は二人しかいない。だれが呼んだかは、すぐにわかった。
「どうしたの、今日は。何か用でも?」
「それ、本気? あんたの様子を見に来たにきまってんじゃない」
「ああ、そうか。心配かけたね。大丈夫、この通り元気だから」
「そりゃよかった。あのまま死なれたんじゃ、私だって目覚めが悪いもん」
美鈴の近くまで下りてきて、空気の椅子に座るミスティア。相変わらずの活発そうな容姿で、どこか安心した。
「あの娘は大丈夫なの? ほら、あんたがフランお嬢様って言ってた」
「うん、大丈夫。今は元気がありすぎるくらいだからねぇ」
ミスティアから話を振ってきてくれた事に、美鈴は少し安堵した。フランドールへの恐怖心は抜けていないだろうが、少なくとも嫌悪感は持っていないだろうと、その程度は期待できる。
いつか、友達になってくれればいいと思う。その程度ならば、願ってもいいだろう。
「あぁ、そうだ」
ふと、美鈴は思い出した。色々あって言いそびれていたが、結構重要な話だ。
「貴女に二つ、言わなきゃいけない事があったんだ」
「なに?」
「一つ目は、私の名前は紅美鈴っていう事。それで、もう一つが重要なんだけど」
一拍置いて、続ける。
「私を中国って呼んでいいのは、フランお嬢様だけだよ」
言って、美鈴は不敵に笑う。
しばしきょとんとしていたミスティアだが、やがて意味を汲み取り笑った。
「成る程。じゃあ、あんたは美鈴ね。覚えておくわ。記憶力には自信が無いけど」
「まぁ、余裕があれば覚えといて」
不敵な笑みを一瞬にして苦笑に変えられた。その事にさらに苦笑する。
「ところで、なんか向こうから黒いのが飛んできてるけど」
「ありゃあ、今日は千客万来だ。来なくてもいいのが混ざってるけど」
ミスティアが指した方向には、確かに黒い塊が高速で飛んできている。ここに来るまで、そう間はないだろう。
「手伝おうか?」
「ううん、平気。今は誰にも負ける気がしないから」
美鈴が答えると、ミスティは空気の椅子から下りて距離をとった。邪魔にならないようにとの配慮だろう。
先ほどより強めに体をほぐす。こうして準備をしていれば、魔理沙はすぐにここへつくだろう。
相手はあの魔砲使い、幻想郷有数の強力な魔法を持つ相手だ。だというのに、美鈴は負ける気がまったくしなかった。今まで何度も負けた相手であっても、今の自分ならばきっと勝利を収める事ができる。
箒に乗った魔法使いは、美鈴の姿を確認すると風を巻き上げながら停止する。
「おお、門番が復活してるぜ」
「ここは通行止めだよ」
「その台詞も久しぶりだな。なんていうか、お前じゃないと張り合いがない」
「そりゃどうも」
――私の名前は紅美鈴
「それじゃあ、今日も一発ぶちかますぜ」
箒がはためく。透明に近い魔力が、箒に収縮されているのが視覚でも確認できた。これこそが魔理沙の速さの秘密である。
尤も、以前までは恐れていたそれも、今日は不思議とどうにでもなりそうだった。
――紅魔館の門番です
「それじゃあ、今日も一発お帰り願いましょうか」
体に熱い熱を感じる。炎のように燃えさかる感覚は初めてで、これの止め方を美鈴は知らない。止める必要もない。
熱に浮かされながら、震脚。今までにない力の流れをはっきりと感じた。
――そして
さあ、思い知るがいい。答えを手に入れた私は強い。
今までのように腑抜けてはいられない。そうでなければこの門を守護する資格はない。あっても自分は許せない。
新たな意志を持って、美鈴は踏み出す。自分が今日始めて、門番になったのを強く自覚して。
美鈴は、これから続く未来への一歩を踏み出した。
――紅魔館の人たちの幸せを守るのが仕事です
極限にまで集約された日常活写と美鈴とフランの心情葛藤描写、
そして弾幕戦におけるスペルカード戦闘描写。
感想文を書くのが難しいくらいの大作であります。すごい、すばらしい!
ここまで格好良い美鈴を見たのは初めてだなぁ。
蜂を潰した後と、美鈴がみすちーを庇ってレーヴァテインの直撃を食らった時は泣いてしまいました、マジで。
いやはや、感動しました。次回作も期待しています。
実際、忘れられがちですが、美鈴は紅魔館でも屈指の実力者なんですよね。
一時期、中国と言う呼び名が有名になった事で弄られキャラ一直線の道を突っ走り、その結果、第2回東方最萌トーナメントで優勝するという事にもなった彼女ですが、そんな中国と言う名前が単なる弄るための呼び名でおわらなかった所もGJ!!
良い物読ませていただきました。
王道ストーリーの中での展開、楽しませていただきました。
やっぱり、美鈴はかっこよくあるべきです。ええ、そりゃもう。
この美鈴が1番自然に感じられますね(咲夜さん以上に強いとかはどうも苦手)
必要以上に強くしてないでカッコイイ美鈴を見たかったのでこの作品はドツボでした
(個人的には、これだけの作品なら長すぎとは感じませんでしたよ、のめりこめますからw)
最後にもう少しフランと美鈴の様子を読みたいと思いましたが
それは、この先の紅魔館に想いを馳せる楽しみにいたします。
フランの力についても心情についても、きちんと書き込まれていてすごいと思いました。
日ごろネタ扱いされる彼女だからこそ、このようにきちんと扱われている作品を見るとうれしくなるものですが、この作品はそれだけでなくきちんと作りこまれていますね。
感服しました。あなたの幻想郷に幸有れ。ってことで。
日常・戦闘描写ともに勢いが感じられて、
長さを気にせず一気に読めてしまいました。
あんた最高だよ!!1
感動しあmした
台無しと切なさ炸裂で100点連打してた。
美鈴……いや、中国の本気がびしびしと伝わってきました。
なんともイカス紅美鈴。咲夜さんも強いぜ!w
GJでした!
師匠と呼ばせてください。
紅美鈴なのだ。
紅魔館門番隊総隊長殿に敬礼。
時間を忘れてのめりこみました。
えぇ、時間を忘れて。
飯の時間返してくだちぃ(つд`)
視界がにじんで良く見えないよ!
キャラが皆良い味出てて、終わり方も綺麗でこの上なくツボつかれました。
素晴らしい話はどんなに長くても良いのです。読みたい衝動に文量なんか障害にはなりません多分。時間は……時…ははは、おかしいな、数字がぼやけて良く見えないや…orz
とにかくGJ!!
でもやはり美鈴と呼ぶべきなんでしょうね。その名を呼べるのはフランドールだけの特権ですから。
それぞれのキャラの絡み方も見事です。朝からいいもの読めました。
私の長年の矛盾が一瞬で氷解してしまいましたよ(何かは言わない)
あと、登場人物が皆生きてますね。美鈴やフランからちょい役のチルノまで。
感激・感動・驚嘆、どの言葉を使っても言い表せないくらい良かったデス(礼
久しぶりに涙流したよ。
美 鈴 カ ッ コ イ イ よ ! !
いくらでも繕える言葉だけでなく、行動で自分の想いを示してのけるというのがステキすぎ。
フランに対して媚びないのもカッコイイなぁ・・・惚れちゃいます(*ノノ)
いやぁ、成長話というのは本当にいいものですねぇ
等身大で頑張る格好良い美鈴、最高でした。
冒頭から妹様との対面までのどきどきとか、妹様との日常とか、弾幕戦とか…
見所たくさんで読み終わったときには、ああもうおしまいか、と。
おおよそSSの読了感としては最高級の感情を味わうことができました。
端役の使い方がとても良く、意味のないシーンがなかったように思えます。
次回作がとても楽しみです。
すばらしいと書くのも勿体無いの作品!
もう、感想など書く必要など無い!!
あんたは最高だ!
正直感動しました。いい作品をありがとう。これからも頑張ってください。
目を閉じればそこに、確かな1つの幻想郷がありました。
次回作、期待させてもらってもよろしいでしょうか?
素晴らしい幻想をありがとう!
また門番に戻っちゃうのが寂しいくらいです。
長さについては特に長すぎるという事は無いと思います。
次回作、期待してます。
最高でした
こんな素晴らしい紅魔館はそうそう見れるものではない……
フランと美鈴の絆。それから、姉であるレミリアと、咲夜の思いと……
ああどれも秀逸だ。そしてあるべき場所に戻り答えを見つけたとき、彼女はもう誰にも負けないでしょうね。
いいなぁ…こういう人たち…
綺麗で格好良いお話、有難う御座いました!
ものすごくよかったです(・ω・)b
もちっと早く読んどけばなぁ・・・と心残りではありますが
きっとこの美鈴はNomalからLunaticにレベルアップしてるんでしょうね(笑
違和感無く読めてよかったですよ。
いいお話ありがとうございました。
一人一人の心が、しっかりと描かれていて泣きました。
フラン様と紅鈴の組み合わせ、良かったでした。
中国の格好良さに惚れ、フランの優しさに涙し、二人の友愛の号泣しました。
ただひたすらに感動しました。
東方SSで泣いた事が無かったのに始めて泣きました。
有難う。
とにかく、かっこいいです。
フランも、こういうのもいいな~、
と思いました。
脇役の設定に多少弱い部分がありますが、それらを踏まえてもいい出来だと思いました。
素晴らしいです!
素晴らしい!
優しい姉的な存在で良かったです。
いつの日かフランお嬢様は素敵なレディーになれるでしょう。
そばに美鈴が咲いているのですから・・・・
カッコイイ美鈴をありがとう。
紅美鈴最高!!!
美鈴もフランも、素敵でした。
格好良い美鈴ってのは新鮮で良かったです。
フランはとっても可愛いし。
咲夜さんもカッコイイ。
中国がとてもかっこいいですね。情けない中国ばかり読んでいたので。
フランちゃんも可愛くて大好きです。
こういう美鈴の物語を待ち望んでいました。
大切な紅魔館の皆の為に門を守る。その為ならいくらでも強くなれる。本当に格好良かったです。感動しました!!
作るつもりもないとおっしゃっていた所も、充分魅力的でしたよ!
理想の紅魔館像なお話で、引き込まれるように読ませていただきました。
その紅魔館に触れられた事に感謝します。
ありがとうございました。
あぁ美鈴、なんといい女っぷり。
・・・同じようなことしか言ってない気がするけど。
ここのSSを読む度にどんどん好みのキャラが増えてきて大変です。
それでも一番は妹様だけどね!
今まで美鈴が主人公になる作品は避けてきましたが、
これはよかったです。すばらしいです。
さらっと咲夜もいい味だしてるし、レミリアもさらっとすごい考えてるし、フランは可愛いし
すごく面白かったです
こんな作品を読みたかったんです。ありがとう。
これはうめぇ。文句なし100点で。
二人はレミリアと咲夜にも負けないものを手に入れたと思います。
本当に暖かい良い話を読ませていただきました。
あんたは最高だ!
幼すぎず聡すぎず、キャラクタの芯がガチっと通っていたので
とても気持ちよく読むことができました。
素晴らしい作品だと思います。ありがとう。
人物、心理の描写が特に秀逸でした
高評価も納得
咲夜さんつええw
キャラが皆生き生きしてて良かった。