耳の奥で、風の音が響いていた。
ごうごうと唸りをあげる激しい風鳴りが私の耳の中で暴れている。ベッドの直ぐ横の窓から外を見てみたけど、今日は風が強いようには見えない。木々はしんと揺れず、湖の水面は穏やか。雲もゆっくりと流れて、何を急ぐこともしてはいない。
それでも風の音が聞こえている、聴こえる。
そうだ、彼女に会いに行こう。いつも来るのを待つばかりだから、今日は私が会いに行こう。そう思ったら居ても立ってもいられなくて家を飛び出した。扉に体当たりをした勢いそのままに外に出て、やっぱり急ぐのはいけないなと考え直す。
彼女はとっても、とっても速いから、私が全速力を出しても追い付ける筈ない。そしたらきっと入れ違いになってしまって、私は彼女が通り過ぎたこともわからないに違いない。だから、どんなに早く彼女に会いたくても、ゆっくり歩いて、周りに目を向けるべきだ。彼女が通りかかった時に私を見付けてくれる為にも。
弾き出した結論に満足して、私はゆっくりと歩きだした。湖を凍らせながら歩いて、身形を整える。と言っても寝癖を直して服の埃を払う程度だけど。湖を渡りきって、さてどこに行こうかなと少し考えた。
とりあえず人里に行ってみよう。どうせ山の方に行っても彼女には会えないのだ。犬耳の天狗に怒られて追い返されてしまうだけなのだ。だから彼女がいると思われる所を回ってみようと思ったのだ。
さんさんと昼の太陽が降り注ぐ小道をぽてぽての歩きながら耳の風鳴りに耳を傾ける。ごうごうという音の中に私の心臓の音が混ざってどくどくと言っている。なんだかとても安心できる音だ。
そうして自分の音を聞いていたら、程無くして里に到着した。だが、今日はどこかで騒ぎが起きているという事もなさそうだ。そもそも彼女はネタにならないから里にはあまり来ない筈だ。彼女の新聞は妖怪を特集する事の方が多いのだから、当然といえば当然でもある。そう言えばそうだったなー、と思い返して。神社に行ってみることにした。彼女が神社に行くのは昼過ぎと相場が決まっている。見上げれば、太陽は半分と半分の半分の半分を過ぎた所にいる。ところで相場ってなんだろう。
近くのお店からいい匂いがしている。そっか、お昼過ぎなんだ。少しお腹が減ったかもしれない。朝から何も食べてないもの。何か食べたいな。
いつもなら、里では客引きの声とか色や匂いにぐるぐるされてしまって、家に帰りたくなってしまうけど、今日はなんだか違う。風の音が私をすっぽりと包んで、喧騒を遠くに押しやっている。窓を一枚挟んで景色を見ているような、不思議な感覚。それが少し怖い。
声をかけられた。潰れている声に振り向くと、寺子屋の先生の慧音が立っている。いつもの柔らかな笑顔で、今日は寺子屋に来ないのか? と聞いてきた。最近私が頑張って九九を覚えようと頑張っているのを頑張ってしているのを言っているのだろう。
九九はなんてもう諦めた。算数は私には難し過ぎる、と言う私の声は耳を塞いだ時のようにくぐもっていて、頭に直接響いた。声を出している間は周りの声は更に遠くなる。小波のような雑音の中から慧音の声を拾うのは難しい。意識を集中させて、雑音ん頭から追い出す。
慧音は、そうか、と言って苦笑した。仕方がないなと言いたげな慧音に口を尖らせる。九九が覚えられないのは私の頭が悪いんじゃない。こんな意味のない物を覚えさせる方がおかしい。
笑っている慧音に、彼女の居場所を聞いてみようとも思ったが、やめた。今日は自分力で彼女を探そう。彼女に会ってぎゅってしてもらうまでは他人の力なんか借りないって、今決めた。
慧音にさよならをして、里を抜けて神社の方に向かう。硝子越しの景色は無色で透明。風の音が私の後ろをついて来る。ごうごう、ごうごう、実態の無い風は架空の木の葉を巻き上げて、私を取り巻く。鼻唄を歌ってみると、くぐもった自分の声だけが反響した。合間にどくどくと、心臓の音が混じる。
長い階段を登った先には鮮やかな朱塗りの鳥居が立っている。今日も巫女はお茶を飲んでいるのだろう。パッと見、境内には誰もいないようだ。話し声を聞こえない。耳を澄ませると、やっぱり風の音だけが聞こえた。
むう、どうやらはずれみたいだ。少し落胆。彼女が行きそうな場所といえば紅魔館に白玉楼、永遠亭、あとは畑か山とか私には縁遠い場所。白玉楼は遠すぎるし永遠亭には中々行かないから、紅魔館に行こう、魔法の森の上を通って。
神社から自前の羽を奮わせて湖方面へ飛んでいると、進行方向から黒い飛行物体が近付いてきた。結構なスピードを出している、恐らく魔理沙は一直線にこちらに向かって来る。
ふと、悪戯をしてやろうと思い至った。高度を落として、背の高い木の影に隠れる。魔理沙がこちらに近付いてきているのを確認してから、大きくて薄い氷の壁を作った。幅は私が手を広げて四人は入れるくらいだ。透明度を重視して作った氷の壁は向こうの景色が綺麗に透けて見えている。硝子窓は薄さも中々の物で、近付かなければここに壁があるとは思わないだろう、という自信があった。即興で作ったにしては上々の出来だ。
逸る気持ちを抑えながら様子を窺う。少し離れた所に立てた窓に魔理沙は突っ込んで来た。そこに罠があるなんて知るよしもない魔理沙は勿論減速なんてしてない。箒の先か窓に当たると、大きな破砕音と共に氷の壁は壊れた。砕けた破片が細やかに光を反射しながら森に落ちていく。きらきらと光る氷は綺麗だ。魔理沙は急ブレーキをかけて空中で止まると、暫く辺りを見回していた。氷だとは気付かなかったようで、魔理沙は首を傾げながら太陽の畑の方へ飛んでいってしまった。
やったね、悪戯大成功。普段ならここで名乗りをあげて弾幕ごっこと洒落込むのだけど、今はそんなことしてる暇なんてない。息を潜めていた木の影から飛び出す。魔理沙の後ろ姿を見送って、紅魔館に向けて再出発した。
紅魔館は今日も紅かった。たまには紅以外の色にしてみればいいのに。その門の前で緑のお姉さんがいじけて地面に“の”の字を量産している。分かりやすいいじけ方だなあ、と思いながら近くに寄ってみると、美鈴は、どうして魔理沙さんも文さんも門を無理矢理に突破するんでしょうか、と半泣きで呟いている。このままだと私のアイデンティティーがどうのこうのと言って鬱いでいる美鈴に声をかけてみると、気の抜けた返事が返ってきた。
あまりにしょぼくれているので元気出せよと肩を叩いてあげる。魔理沙は最早礼儀として門をぶち破るし、彼女はまず門を通らない。別に行き先も目的も決まってるから体を張って止める必要は無いとは言え、来客の取り次ぎすらさせてくれないと門番のいる意味がなくなってしまう。不法に押し入る輩だって防げてないんだし。美鈴は、ちゃんと客として来てくれるならいいのに、と鬱々しく呟いた。全くその通りだと思う。
門番さんに許しを得て、館の中を彷徨いてみる。仕事中のメイド妖精達とは何人もすれ違ったが、館の住人には会わない。まあ、彼女も今日はここにはいないんだろうと見当付けて、永遠亭に向かってみる事にした。
自主反省中なのか逆立ち屈伸をしている美鈴にさよならをして、竹林の方に向かう。完全に反対側だ。さっき寄っておけば良かったな。ちらりと空を見上げると、太陽は半分と半分の半分まで下りてきていた。今日は時間が経つのが早い。今日中に彼女に会えるのかと少し心配になった。
竹林を気儘にぶらつく。好き勝手に竹が生えている間を縫って行くと、夜でもないのに歌っている雀がいた。どうやら酔っ払っているみたいだ。まだ日も落ちていないというのにこの不良雀は陽気に歌いながら私に絡んできた。どこに行くのだ、と聞かれたから、兎の家だと答えるとミスチーは、ついてくー夜の帳がふんだららー、と歌いながら後ろをついてきた。風音が聞こえなくなるから止めて欲しいとも思ったけど、気付けば私も一緒に歌ってた。二人で陽気に歌いながら竹の林を歩いて行った。
永遠亭は時間が凍っているような場所だ。いつ行っても大した変わりは無く、いつ来ても大した変化は無い。それでも少しずつ、少しずつ変わっていく。そんな場所。
重厚な門の前にレイセンとてゐが並んで座っているのが見えた。周りには人影はない。なんとなく私とミスチーは二人から離れた藪に隠れる。流石にミスチーはもう歌ってはいない。私も自分の口にばってん指を当てて息を潜めた。そうして様子を見ると、なんだか二人はとても良い雰囲気だ。
位置的にレイセンの顔は窺えないが対するてゐが笑顔なのだから、きっと笑顔だ。兎が何か言うのに頷いて、兎は応える。二匹の距離はきっと一番近くで、幸せな距離。二匹が今考えてるのはお互いの事だけ、そんなの明白過ぎる。
だって、きっと二人も私と同じだから。彼女と話してる時の私が、今のてゐとおんなじように幸せな笑みを浮かべてるって簡単に想像がつく。そう思うと気恥ずかしくて、顔が熱くなる。やばい、顔真っ赤だ。あー、暑い暑い。隣が物凄く静かなのでちょっと見てみると、ミスチーは俯いて肩を震わせていた。トンガリ耳が朱に染まってる。大方私と似たようなことを考えているんじゃなかろうか。
突然、ミスチーが何か呟いてどこかへ飛んで行ってしまう。何て言ったかは分からない、人の名前みたいだったけど。行動が突発的で引き留める暇もなかった。視線を戻すと二人は笑いさざめきあっている。何を話しているのかは分からない、知る必要も無いだろう。
私も離れることにした。二人の邪魔をするのも野暮ってものだ。それに、…………彼女はきっとここにはいない。そんな感じがする。結構捜しているのに見付かんないのは、正直寂しい。彼女は一体どこにいるのだろう。太陽の畑の方を見に行ってみようか。ふう、と息を吐いて、竹の林の隙間から空を見上げる。少し風が出てきたみたいだ。笹が不定期に揺れている。ざっと、空気が変わった、気がした。
くあぅ、と鴉が啼いた。
耳を素通りして直接脳を揺らすようにクリアな声が、私に後ろに注意を向けさせる。振り返れば、一羽の鴉が黒い瞳で私を見ている。何を言うか、何を伝えるか、私には分からないが、視線はしっかりと私を捉えている。私も見返した。息の詰まる沈黙。耳の風の音に被せるように風が動く。竹がしなってざあざあと凪がれる。それを合図に鴉は飛び立った。
待って、叫びを飲み込んでその後ろを追いかける。何故かそうしなきゃいけないのだと思った。鴉は先導するかのように低空飛行で竹林を抜けていく。飛び方が静かで、静か過ぎて竹のざわめきの方が五月蝿いくらいだ。なのに意外と早い。息を切らしながら追いかけるには、私の足は少し頼り無い。
竹が切れると鴉はスピードを上げた。走りでは追い付かなくなって、羽に力を込めた。心臓の音が五月蝿い。風の音が聞こえない。軽く悪態を吐いて、山に向かって飛ぶ鴉を追いかけた。木々の海に赤い太陽が沈んで行くのを横目に、里の上空を通過する。
この鴉はどこに向かっているのか。山に帰ってるだけではないのか、と今更不安に思う。だが鴉は途中で高度を下げた。一緒に下りていくと、果たして私に馴染み深い湖だった。中央辺りでホバリングしている鴉を見ても、何も言いはしない。
高揚と焦燥が去った後には気だるい疲れしか残らない。足元に氷を張って腰を降ろした。先導してくれた鴉も隣に座る。風が私の青の髪をくすぐって通り過ぎていくのを静かに見つめて、ただ待つことにした。耳の奥の風と実際に吹いている風が混ざって私の周囲を回る、取り囲む。
ざりっ、と頭に着けていた物が取られる。混ざっていた筈の二つの風の片方はそのまま泡のように消えて、質量のある方だけが残る。そっと振り返れば、今日散々捜した彼女が呆れ顔で立っていた。
「それで、貴女はこれまた何を被っているんです?」
そう言う彼女の、文の手には黒いカチューシャみたいな両先端が円い物を持っていた。本当は円い所から紐みたいなのが出てたけど、邪魔だったから取ってしまった。
「ヘッドホンっていうんだって。こーりんのお店においてあったんだけど、役にたたないからってもらったんだ。似合うかな?」
「どうでしょう。カチューシャにしては重いし耳も塞がれてしまい、不便かと」
真剣に考えているらしい文は、沈み際の夕陽に照らされて赤い。でも眼と大きな翼は変わらず真っ黒だ。
「えへへ、あや~」
「え、ちょっ、チルノさん?」
文だ。文だ文だ文だ。ぎゅっと距離を詰めると彼女は酷く慌てながらもちゃんと抱き止めてくれる。一杯に文で、幸せ一杯。
「今日は来てみたらチルノさんがいなかったので、幻想郷中回ってしまいましたよ」
「う、ごめんね。起きたらなんかすっごく文に会いたくなっちゃってずっとさがしてたの」
嬉しいこと言ってくれますね、と文は赤く染まった顔を朱に染めてそっぽを向きながら抱き締め返してくれた。今日ずっと会いたかった文に会えたからいつもの三倍増しで文が可愛い。悪戯心にくすぐられ、ニヤニヤと意地悪く笑う。
「文、照れてる?」
「照れてません、照れてないです! …………もう、捜した私の気持ちも知らないで。ところで、今日は髪を結ってないんですね」
ヘッドホンをカチューシャ代わりに髪を上げると、円いのが邪魔で結べなかった。その後、ヘッドホンをしているのを忘れて風の音がすると言って騒いでたんだけど。そうなんだ、と頷くと文は私の青い髪に手を差し込んで漉きながら笑った。今日一日の苦労を全て吹き飛ばすような、綺麗な笑顔で。
「なんだか新鮮で良いですね。私は、いつもの方が好きですけど」
今度は私が赤くなる番のようだ。血がぐわーっと上がっていって視界が歪む。頭から湯気をだしながら、彼女の胸に顔を埋めて視線から逃げる。
「あれ、チルノさん照れてます?」
「照れてない、照れてないもん! …………好きって、かんたんに言うなよな」
口ではじゃれるような文句を言いつつ、彼女と目を合わせる。こつん、と額がぶつかって、彼女の体温がじんわりと私を侵していく。文は頬を薄紅に染めて、潤んだ瞳に私を映している。彼女の瞳に映った私も似たような表情をしていた。どちらともなく距離を詰める。彼女の熱い吐息が、私の唇に触れて、柔らかな感触が。
「んっ…………」
漏らした声がどちらのものかなんてどうでも良いことを考えながら、熱い唇に触れていた。触れているところから溶けてしまうような、そんな熱情が私を揺らす。もっと、もうちょっとだけ、近くに行きたい。同時に、これ以上は止めておいた方がいいとどこかで思う。彼女の服の端を掴む手が微かに震えていた。
触れていたのは何秒のことか、私には良く判らないけど、彼女はしてきた時と同じようにそっと離れた。体も少し離して、代わりに手を絡ませて顔を赤らめたままにっこりと笑った。
「ふふっ、それで今日何をしていたのかは、勿論話してくれるんですよね?」
「うん、もっちろん!」
「それじゃあ、そろそろ日も暮れますし、ご飯を食べながらにしましょうか」
大きく頷いて、文と繋いだ手を握り返す。今日のご飯をどうするとか、今日何をしていたとか、そんな事を話しながら山に向かう。ふと、ヘッドホンの円い所を耳に当てると、
耳の奥で、風の音が響いていた。
タイトルとタグにヘッドホンと付いてたから何時登場するのかなと思ってたらすで登場してたんですねw
文チル、良いものだ…
これで九九できないとか嘘だろ…
雰囲気はよく出ていてよかったと思います