「暑いわね……」
妖怪の山を流れる河原のほとり。樹齢三百歳を裕に越えそうな大木の陰に座って一人、私――古明地さとりは、そう呟いた。
私は根っからのインドア派である。何の用事も無ければ、ペットとの戯れや料理、裁縫で1日を潰してしまう位に、家の中が大好きだ。
歩くのが嫌。疲れるのが嫌。まして太陽の陽射しを浴びるなんてもってのほか、と、ペット達にいつも溢している。
買い出しもお燐に任せきりで、私自身が地霊殿から外出する事など、旧都の定期会議を除けば、本当に珍しい事であった。
――では、そんな私が何故、今日はこんな遠出をしているのか。
勿論、来たくて来た訳ではない。
どちらかと言えば寧ろ、外には出たくなかったのが本音である。
今も現在進行形で、地霊殿に帰ってごろ寝でもしたいのが本音である。
「お姉ちゃーん!」
だけど私は――どうしても断れなかった。
「お姉ちゃんも一緒に水浴びしようよー! 凄く気持ち良いよー?」
妹の純粋な好意を、どうしても裏切れなかったのだ。
よたよた。よたよた。
私は川の岸へ近づき、水面からひょっこりと顔を出すこいしの白い肌を見る。
水泳で冷えたせいか、単に私の記憶力が乏しいのか、その肌は昔より……ずっと白んでる気がした。
「悪いけど、お姉ちゃんは遠慮させて貰うわ」
「海苔ワルいなぁ。お燐から聞いた言葉を引用するなら、けえわいって奴だよ?」
――また、お燐がくだらない事をこいしに教えたようね。
噂好きな自分のペットと感化されやすい妹に呆れて、私は小さく嘆息する。
「私が泳げない事、知ってるでしょ?」
私はじとーっと妹の顔を睨んだ。
私が昔お風呂で溺れた時、一番近くで見ていたのがこいしだ。知らない訳がない。
「だから……ね?」
にんまりとこいしは微笑んだ。
「私が水の中でだっこするってどう?」
「ぶっ!? ごほっごほっ!」
私は思わず口に含んでいた麦茶を吹き出してしまった。
「え、遠慮するわ」
「ぶー」
姉妹が水中で身体をピタリとくっ付けるなんて……流石にまずい。色々と。
私が嫌がるのを見て、こいしは不満げに唇を尖らせながら、また、水の中に沈んでいった。
騒がしかった周囲の世界が、あっという間に静寂に包まれていく。
また……一人ぼっちの世界が、始まった。
◆
――お姉ちゃん、一緒に山へピクニックに行こうよ!
そう提案されたのが、今朝の事。
考える猶予も与えられないまま、外へ引っ張り出された私は、今こうして、真夏の森林で死にかけている。
久しぶりの陽射しは、灼熱地獄よりも暑い……とは流石に言い過ぎか。
しかしそうでなくとも、木々の作りだした自然のクーラーへ逃げ込まなければならない程度に、今日の陽射しが強烈なのは確かである。
楽しそうに一人で水遊びをするこいしの姿を、額に滲んだ汗をタオルケットで拭いながら、私は無言で見つめた。
その間、こいしの目に私の姿が映る事は無かった。
只の、一度も。
◆
「見て見て、でっかい魚捕まえたよー!」
50cmはありそうな大物を胸に抱えて、こいしは嬉しそうに笑った。
「にとりに教えて貰った捕り方は凄いなぁ~。今まで沢山挑戦してきたけど、こんなに大きなのが捕れたの、初めてなんだよ」
「ふふっ……それは良かったわね」
こんなに嬉しそうなこいしを見るのは、いつ以来だろうか。
もうずっと、こいしは家に居着かず、フラフラとした暮らしばかりをしている。ハッキリとした年月は覚えていないが、最初の頃は必死で後を追ってい私が諦め出す位に、長く、面と顔を合わせていないのは確かだ。
「ねぇ、お姉ちゃん。どうして泣いてるの?」
「――え?」
しかし、私がこいしの事を想わぬ日など、一日とて無かった。
私が後を追わなくなったのは――別にこいしへの愛が薄れたとか、そんな理由ではなく、ただ悲しかったからである。
ずっと一緒に生き、支えあってきた唯一の家族。心の底から愛している唯一の妹。
そんな可愛くて堪らない妹の心に、自分がいないという現実を、受け止めきれなかったのだ。
「何でもないの……ごめんね、こいし」
だけど今この時は、こいしが笑ってくれている。
私に笑いかけてくれている。
勿論、その笑顔は明日にはまた放浪してしまうのだろうけど……充分だった。
私の心に広がった靄を払うのに、こいしの笑顔は充分過ぎる程……目映かった。
「こいし……そのにとりって娘とは、友達なの?」
「うん、大の仲良し!」
間髪を入れず、こいしは即答した。その迷いの無さに、何故だか心がズキリと痛む。
「一緒に遊んでるとね、色んな事教えてくれるの。知らない事を沢山、沢山。
あっ、勿論にとりだけじゃないよ! 雛も椛も文も、皆色んな事を教えてくれるわ。
今なら私、お姉ちゃんよりもお利口さんかも、だね~♪」
「そう……ね」
うつむき、私は軽く唇を噛んだ。
こいしの現状を、何故か素直に喜べない。嬉しいはずなのに。孤独だったこいしに友達が出来て、ホッとしているはずなのに――。
「こいし……」
「何?」
「えっ……あ、その……」
続きの言葉が出ない。「地霊殿に戻って来て」という、十文字にも満たない言葉が、喉に引っ掛かる。
私はこいしの心を読む事が出来ない。私が心を読めない相手は――こいしだけ。
自らの願いにどんな回答をするか予想出来ないのは――こいしだけである。
私は断られる願いなど頼んだりしない。何故なら心が読めるから。
私は自分を嫌っている者と話そうとしない。何故なら心が読めるから。
私は好きな者の気持ちを無視したりしない。
何故なら――心が読めるから。
結局、私は第三の目に頼りきって暮らしていたのだ。
常に相手の心を読んで、なるべく自分の傷付かないように、生きる。
そんな都合の良い暮らしを、何百年も続けてきたのである。
ひどく自分勝手で、閉鎖的な……暮らしを。何百年も。
表情やしぐさから相手の気持ちをくみ取ろうだなんて、私は考えた事も無かった。
考えた事も無い事が出来ないのは、至極当然である。
こいしが心の目を閉じた時――猛烈な不安に襲われたのは、謂わば必然的な事だったのだ。
だって一番理解しなくてはならない妹の心が、部屋の灯りでも消したかの様に……突然分からなくなったのだから。
「今日のお姉ちゃんなんか変だよ? 何? 言いたい事があるならちゃんと直接言って?」
「う、うん……こ、こ、こここ……」
こいしの心を少しでも理解したいと思い、必死で後を追ったが、結局はこの有り様。
こんなにも近くにいるのに、妹の気持ちが全く分からない。
自分の事を好いているのかさえ……分からない。
そんな姉は……本当にあの娘の姉だと言えるだろうか。
家族だと言えるだろうか。
言える訳がない。いや、許されない。
私はこいしの姉を名乗る資格なんて――有していない。
――ねぇ、こいし。今あなたは楽しい? 私と一緒にいて、幸せ?
聞けば分かる。きっとこいしは答えてくれる。
でも――聞けない。こいしの回答が不安で――聞けない。
「お姉ちゃん……また泣いてる」
こいしの小さな手が、私の頬に触れて、囁く様に、問う。
「私みたいな無神経な奴って……やっぱり嫌い?」
「そ、そんな事――」
――そんな事ない。私はこいしが好き。大好き。世界で一番愛している。
なのに、なのに――。
「ごめんね……無理やり、こんな所まで連れ出して」
「こ、こいしぃ……」
違う。違う、違う。本当は嬉しかったの。嬉しくて堪らなかったの。
だけどきっと、もうこいしの心に、私はいない。
こいしの心は、新しい友達の事でいっぱいに埋まっている。
それが辛い。悲しい。こいしとまた離れるのが――怖くて堪らないの。
「……バイバイ、お姉ちゃん」
「ま、ま……っ」
――待って。
心の中で思うのはこんなに簡単なのに――。
どうして――口にする事は難しいんだろう。
◆
こいしの逃がしたさっきの魚が、ポチャリと、水面を跳ねる。
――そう言えば、地底に移り住む前は、よく二人で魚捕りをして遊んだっけ。
懐かしいなぁ……全ての事が。
日の暮れるまで遊び、二人で、同じ布団に横になったあの頃。
私達は――お互いの全てを理解していた。
あの時はまだ、第三の目の力は弱かったけど……私達は確かに、理解し合っていたのだ。
まるで、一心同体の様に。
「こいし……」
切なくて、名前を呼ぶ。
「戻って来てよ……こいし」
妹の名前を、涙を流しながら、呼ぶ。
「もう一人にしないでよ……こいしぃ……」
想いを込めて、最愛の妹の名前を、呼ぶ。
しかし私の小さな声では……遠くにいるあの子に届かない。
もう決して……届かない。
――どこで、間違ったのかな……。
冷たい大木に寄りかかって、私は静かに目を閉じた。
滴が頬を伝っているのは……きっと、暑い陽射しのせいだけではない。
◆
「雛お姉ちゃん~」
その時、ふと、どこからか少女の声が聞こえた。
「にとりちゃん? どうしたの?」
「えっとね~、うっへっへっへ」
間の抜けた少女の声はどことなくこいしを連想させて、私を和ませる。
と思っていたら――
「大好きだぞこのやろーっ」
「ひにゃぁっ!?」
雛と呼ばれた少女の悲鳴と共に、どさりと地に何かが倒れる音がした。
音のした方を向く勇気は無いが、恐らく、にとりという少女が雛さんを押し倒したんだろう。
「ににににとり、こ、これは一体何のまにぇなの!?」
混乱した雛さんの悲鳴や問いやらがこちらまで届いてくる。
その余りの慌てぶりに、私は思わず一人で笑ってしまった。
「良いじゃないのさー。誰も居ないんだしー」
「だからってどうしてこんな事――」
私にもあんな勇気があればな、と心内で感心していると、にとりさんがズキリと来る一言を言った。
「いくら好きでも、その思いを形にしなきゃ伝わらないじゃないか。
お姉ちゃん、今私に愛されてる事がわかるでしょう? それなら私の大勝利♪
私はいかなる時、いかなる場所でも、この純粋な思いをお姉ちゃんにぶつけるよ。
だって私、お姉ちゃんの事が好きなんだもん」
――ああ、そうか。想いを伝えるなんて、実に簡単な事なんだ。
にとりさんの言葉で、漸く分かった。
――想った事を、そのまま口に出せば良いんだわ。
本当に、私はどこまでも馬鹿だったらしい……。
――日の暮れるまで遊んだ、あの頃みたいに、自分に正直になれば良いんだわ。
私は立ち上がり、にとりさん達の前に姿を現した。
「ありがとうございます! 貴方達のおかげで、私、大切な事に気付けました!」
「ひゅいっ!?」
「え、ええ……。それは良かったわ」
相手の心なんて、分からなくて当然。寧ろ、分かる方がおかしいのである。
私は第三の目を持ったせいで、大切な事を忘れていた。
ありのままの相手を受け入れるという……一番大切な事を。
「こいし、ごめんね……お姉ちゃん、間違ってた」
私の問いに何と答えようと、それはこいしの意思。姉である私が、あの娘の意思を拒絶する事自体――間違ってた。
私は、こいしの全てを受け入れなきゃ駄目だったんだ。
ありのままの、こいしを。たった一人の、お姉ちゃんとして。
――もう迷わない。
そう、心に決めて、私は走り出した。
世界で一番大好きな妹、古明地こいしと会う為に。
◆
「お、お姉ちゃぁん……」
「よしよし。勇気出したのにね。頑張って行動に移したのにね」
◆
「……こいし。そこに、いるんでしょ?」
地底の洞窟の、天井近くまで上に昇った所にある、秘密の場所。
私とこいしだけが知っている秘密の場所に、私は訪れた。
「お姉ちゃん……こいしに謝らないといけないわ。沢山沢山、謝らないといけないわ。
こいしに言いたい事が沢山あるから、お姉ちゃんに……こいしの顔を見せて欲しいの」
風が吹き抜け、ヒューヒューと音を発てていく。下に広がる旧都の灯りは、まるで星々の輝きの様に綺麗だ。
この場所から見る景色は、いつ見ても変わらない。あの頃から。あの日から。
初めて地底に訪れた……あの日から。
別に当てずっぽうで、この場所に来た訳ではない。
不思議と、心の中にこの場所のビジョンが浮かんだのである。
まるで……私の事を呼びよせるかの様に。
そして今、私は確信した。
こいしが……私の立つ場所の、すぐ傍にいる事を。
そのこいしを受け入れる様に、私は両腕を開いて、笑った。
「もう、一人ぼっちになんてさせないから……ずっとずっと、傍にいるから。
また……お姉ちゃんと一緒に暮らしましょ?」
「お姉ちゃん!」
突然、胸に重みがかかる。
忘れもしない、この重み……小さな頃から抱き続けてきた、たった一人の妹の身体だ。
優しく抱き締め、その透明な髪を解かしてやると、だんだん、その輪郭がハッキリとなり始めた。
その輪郭の中が、ゆっくりと鮮やかに着色されていき、遂に……ずっと見たかった顔が、そこに浮かぶ。
最愛の妹"古明地こいし"の顔が、私を、見つめる。
「本当に……また一緒に住んで良いの?」
「……えっ!?」
予想外の言葉、予想外の顔に、戸惑いを隠せない。
こいしは泣いていた。真っ赤な顔で、涙を一杯両目に浮かべて……泣いていた。
「あ、当たり前でしょ? どこに妹を家にいれない姉がいるのよ」
「だって私……お姉ちゃんに沢山迷惑かけた、から……。絶対、私の事嫌いになったと思って……」
私の胸の中で、子供みたいに泣きじゃくるこいし。
あれ? 何だか、おかしい。私が予想していたのと、違う。
「そ、そんな訳ないじゃない。お姉ちゃんはこいしの事が大好きなのよ、世界で一番愛しているのよ。
こいしの方こそ、私が嫌いだから家出みたいな真似を――」
「ち、違うよ! 心を閉じてから、お姉ちゃんが私をあんまり構ってくれなくなったから……その……」
恥ずかしそうに、私の胸へ顔を埋めながら……こいしは言った。
「私をもっと見てて欲しくて、私だけを見て欲しくて……逃げちゃったの。
私を追い掛けてる間は……お姉ちゃんが、私だけを見ててくれる、から……」
「~~~~!?」
予想外の理由に……クラクラと目が回る。
確かに、心が読めなくなったこいしと、どう接すれば良いか分からなくて困ったけれど、それにしたって……家出はやりすぎだ。
まぁ、そんな所がとてもこいしらしいし、そう言うちょっと発想がおかしな所も……私は大好きなのだけれど。
「私もお姉ちゃんも……お互い大好きっこだったんだね」
「心を読む事に慣れていたからこそのすれ違い、ね……。
これからは、何でも正直に話しましょう。
言いたい事があったら言って、聞きたい事があったら聞く。
そんな当たり前だけど、かけがえのない暮らしを……大切にして――」
「うふふ~♪」
私の言葉を聞いて、こいしはイタズラっぽく笑った。
ああ……何だか嫌な予感。
「じゃあ、じゃあ、ちゃんと正直に答えてね?」
「……う、うん」
目を細めて、互いの鼻先がぶつかる位、こいしが顔を近付ける。
「お姉ちゃんは、私の事好き?」
「えっ…!? そ、そんな当たり前の事――」
「ダメ。正直に答えるのがルールです」
「う、うぅ……」
――言うしかない。
真っ赤な顔のまま……眼光を鋭くし、私は遂に意を決した。
「こ、こここいししの事がすすっすきゅぅ……」
……無理だった。
「私はお姉ちゃんの事が好きだよ。大好き!」
えへへ~、と照れ臭そうに笑いながら、こいしは言った。
何と純粋で、ストレートな言葉だろう。可愛すぎて失神しそうだ。
あぁ……また体温が上がってしまう。
「やっぱり……本当は私の事、嫌いなんだね……」
こいしはうつ向いて、悲しげにそう漏らした。
馬鹿。私の馬鹿。一体何をやっているんだろう……これでは結局、同じ失敗の繰り返しじゃないか。
「ち、違うわ! お姉ちゃんは……私は……こ、こいしの事が……」
もう何も悩む必要なんて――無い。
「こいしの事が大好きなのよぉ!」
――大好きなのよー、なのよー、のよぉ……。
洞窟内に反響する位、大きな声を出してしまった。
こんなに大きな声を出したのは……生まれて初めてである。
何だか、妙に気持ちが良い。
息が乱れて、喉がじんじんと痛むのに、嫌悪感はまるで感じなかった。
「ふふっ、旧都の皆に聞こえちゃったかもよぉ~?」
こいしがまた、イタズラっぽく笑う。
「別に良いわ」
微笑して、私はこいしの頬に軽くキスをした。
「私がこいしを好きだというは……たとえ天地が逆転しても、変わらない事実だからね」
顔を紅潮させたまま、こいしは私にキスされた場所を押さえて、問う。
「本当に……好き?」
「好きよ」
「大好き?」
「大好きよ」
「世界で一番好き?」
「世界で一番好きよ」
「……私も好き」
「そう……」
思考が、熱でトロトロに溶けていく。何も考えられなくなっていく。
私もこいしも、無言のままに、互いの顔を見つめ合った。
こいしの顔は、ルビーの様に真っ赤だ。そしてそれは、きっと私の顔も同じ。
何だか……とんでもない禁忌を犯している様な、そんな気分である。
「お姉ちゃん……顔真っ赤だよ?」
「こ、こいしだって……」
今までの悩みが、全部勘違いだったなんて。全部想いのすれ違いだったなんて……本当に、馬鹿らしい。
簡単な事だ。一緒に生きるなんて、簡単な事なのだ。
手を取り合い、目を見つめ合って……二人で同じ道をいく。
ただ、それだけで良い。
ただそれだけで、幸せ。
「――お姉ちゃん、静かに!」
「むぐっ!」
突然こいしが私を押し倒し、掌で私の口を栓した。状況を理解出来ないまま、こいしに乱暴されるかもしれないと期待し……じゃ、じゃなくて、不安がる私の視界に、馴染みのある顔が2つ飛び込んできた。
土蜘蛛の少女"黒谷ヤマメ"さんと、桶に入った鶴瓶落としの少女"キスメ"さんである。
さっきまで私達がいた場所に着地して、キョロキョロと世話しなく首を動かす二人。
どうやら、何かを探している様だ。
「おっかしいなぁ。確かにさとりの悲鳴が聞こえたんだけど……」
――探しているのは、私だった。
さっきの声は、やっぱり結構遠くまで響いていたらしい。
さっきはああ言ったものの、自分の告白が多数の者に聞かれたかもしれない、と思うと……やっぱり恥ずかしくて死にそうだ。
「…………ない…?」
「聞き間違いなんかじゃないってば。土蜘蛛の身体能力、舐めないで欲しいねぇ」
「…………たい」
「早く帰って夕飯にしたいのは私だって同じさ。でも、ピンチの友人を見捨てて喰うメシが、美味い訳ないだろ?」
二人で何気無い会話をしている様だ。しかし、傍目にはヤマメさんが一人で話し続けている様に見える。
どうやら、彼女の耳がずば抜けて良いという話は、決して嘘でないらしい。
聴力さえ良ければキスメさんの言葉を理解出来るのかと言えば、それは違うのだけれど。
「…………して」
「こ、ここでかい? ほら、どうせすぐに家へ帰るんだし――」
「…………嫌い」
「うぇっ!?」
ヤマメさんの顔が、カァッ、と赤くなる。
分かりやすい人だ。そして、嘘が吐けない人である。
彼女が万人に好かれる理由は、そこの所にあるのだろう。
「し、仕方ない奴だねぇ……本当に」
真っ赤な顔で頭をポリポリと掻き、ヤマメさんは、入ってる桶ごとキスメさんの身体を持ち上げて、
「…………?」
「馬鹿……好きな奴以外に、こんな事してやらないよ」
その小さな唇に、そっと自分のものを重ねた。
「あ……あ……」
瞬間、私は硬直。そして紅潮。私の上に乗っているこいしも、反応は同じだった。
密着したこいしの小さな胸から、加速していく心臓の音が、伝わる。
「…………んっ」
十秒程のキスを終えて、ヤマメさんが唇を離すと、キスメさんは名残惜しそうに、彼女の胸へ抱き着いた。
まさにラブラブ(お燐曰く、最近の若者言葉らしい)。
橋姫でなくとも、妬ましくなる位、ラブラブな光景である。
「分かった分かった。もう家に帰るから、ね? この続きは……家に帰ってからたっぷりしてあげるよ」
家で一体何をするのか、心を読もうかとも思ったけれど……この小説がそそわに公開出来なくなってしまうかもしれないので、止めておく。
二人が去り、再び、世界は私とこいしだけとなった。
こいしの胸の鼓動は、未だその興奮を冷ませずにいる。
トクントクン。と、テンポ良く、私の胸の上で、リズムを刻んでいる。
「キス、してたね……」そう、こいしが呟いた。
「うん」と、私はそれに答える。
「女の子同士、だよね……」
「うん」
「好き合ってるから、だよね……」
「うん」
「好きなら……別に、関係ないよね?」
こいしの、ライトグリーンの髪が、顔にかかる。一層顔を近付けて、こいしは、問うた。
「血の繋がった姉妹でも……別に、良いよね?」
返答する前に、私の口はこいしに塞がれた。
その、穢れを知らない、桃色の唇によって。
ほんの刹那な時間の触れ合いを終えて、互いの唇が、離れる。
心を読まずとも、こいしの思っている事は、理解出来た。
キスだけでは――物足りない。満たされない。
そんな感情を、胸に抱いている。
そしてそれは……私だって、同じこと。
「キスなんて……久しぶり、だね……」
「……うん」
トクントクン。心臓の拍動する音が、耳障りだ。
身体の中が――ひどく熱い。
「もしかして、変に意識とかしちゃってる?」
悪戯っぽい笑みで、こいしはそう尋ねた。
ここは、姉として……ガツンと一発否定すべきなのだろうけど。
この私に、そんな度胸がある訳もなくて――
「……こいしは、どうなの?」と、イニシアチブを妹に譲ってしまうのだった。
「私は……意識してるよ。無意識なんかじゃ、ない。
今のキスは……好き合ってる、いや、愛し合ってる人達のキスだと……私は意識してた。
お姉ちゃんだって、そうでしょ?」
またこいしは、私の返事を待たずに、強く唇を押し当てた。
舌を入れられて、熱い唾液を交換し合い……クタリと、床に力無く倒れた。
ああ……なんて、ひどい娘だろう。
問わなくても分かっている癖に……わざわざ問いかけ、私の反応を楽しんでいるのだ。
私を困らせて、楽しんでいるのである。
読めない筈の私の心は、肌と肌を伝わって、もう既に……こいしの腕の中にあった。
「次は……どうしよっか」
――次、次……次? キスの次、って…?
混乱した心を読み取る様に、こいしは私の服の中に手を忍ばせて、すぅーっと、お腹の上に指を走らせた。
「ひぁん……っ!?」
うっかり出たヘンテコな悲鳴を聞いて、こいしは嬉しそうに、本当に嬉しそうに、笑った。
この娘は……超のつくサディストだ、と、私は思った。
「うふふ。そしてお姉ちゃんは、ペタのつくマゾヒストだね」
手で腹をまさぐりながら、そんな事を聞くこいし。
こんな楽しそうな顔は、今まで見たことがない。
それを喜ぶべきか、呆れるべきかは……分からないけれど。
「ねぇ、次はどうされたいのー?」
「ひゃ、ひゃめなひゃい、こいひ! お姉ひゃんやっへ、しゃしゅがに……んんっ!」
お腹から腋へ、腋からお腹へ。指が往復する。
くすぐったくて、気持ち良くって、まともに喋る事が出来ない。
そんな息も絶え絶えな私の耳元で、こいしは囁く。
「質問を……変えてあげるね。お姉ちゃんは私に……どこを、触られたいの?」
「ハァ……ハァ……ど、どこを……?」
「何だか疼いている場所を、正直に言えば良いんだよ。
その疼きを、私が取ってあげるから♪」
……分かってる癖に。全部、分かっている癖に……こいしは聞いてるんだ。
私に、その場所を言わせる為に、聞いてるんだ。
ああ……恥ずかしくて、死にそう。でも、言わなきゃ。言わなくちゃダメなんだ。
正直に話す……それが、私達のルールだから。
「ち、乳房を……」
「それどこ? 難しい言葉分かんない」
仕方ない。ルールだから、仕方ない。
そう自分に言い聞かせて、私は口にする。
「む、胸を……」
「胸の……どこ?」
こいしの悪戯っぽい笑みが、私を刺す。
恥ずかしい……そんな目で見ないで欲しい。
本当に、恥ずかしくて死にそうだ……。
拍動し過ぎて、心臓が破裂してしまいそう……。
――なのに。
「ち、ち、……」
「ち?」
――恥ずかしいのに、何だか、何だか。
「ち、ち、く……ちく……」
「ちーくー……?」
何だかとても―――。
「ちく――」
「あっ、さとり様見つけた~!」
「クビキリサイクル!?」
突然、私のペットである空に、顔を覗き込まれた。
その存在に気付いてたろうこいしは、真っ赤な顔の私を見つめて、ニヤニヤと笑っている。
この、ペタサディストめ。
「うにゅ、クビキリサイクルって?」
「な、何でもないのよ!? そう、何でもないの!
たまたまこいしと散歩をしていたら、たまたま二人一緒に転んで、たまたまこんな風にこいしがのし掛かっちゃったの!
なんという偶然なのかしらぁ! そうよね、そうよねこいし!?」
こいしは清々しい位の笑顔で、サラリと言う。
「そうだよ、お空。私の手がお姉ちゃんの服の中に突っ込んであるのも、たまたまなんだよ~?」
このエクササディストめ。
お空は、どうして私がこんなに焦っているかも分からずに、ペタンと床に座り込んだ。
「うにゅ~、もうお腹がペコペコだよぉ~! 早く帰ってご飯にしようよ、さとり様ぁ~!」
全く、お空は本当に可愛い奴である。
見つかったのがお空で良かったと、私はほっと胸を撫で下ろし、立ち上がる。
そう言えば、『今日の夜は皆でご飯を食べよう』と言ったのは私だった。
久しぶりに皆で食事が出来ると、空は大変喜んでいたから、文句を言うのも無理はない。
「お燐はもう帰ってる?」
「昼からずーっと料理作ってる。今日の料理は、期待しても良いかもだよ~?
「へぇ、それは楽しみね」
こいしはまだ、意地の悪い笑みを浮かべていた。
さっきのキスも、言葉も……全部ただのイタズラだったのだろうか。
もし、そうなら……ちょっと傷つく。
私は。
私は、真剣に。
私は、真剣にこいしの事を――
「お姉ちゃん」
不意に呼ばれて、顔を上げる。その瞬間、視界が真っ暗になった。
こいしの顔が、視界を覆ったのである。
抱き着く様に、私の唇に強く自分の唇を押し当てて、こいしは優しく微笑んだ。
「今度は、邪魔が入らない所で……しようね」
トクンと、胸がざわめく。
カァッと、胸が熱くなる。
久しぶりの地上よりも、
容赦ない太陽の陽射しよりも、
こいしという存在の方が、
もっともっと
私にとって灼熱だった。
>>海苔ワルイなぁ。
誤字でしょうか?
「お燐から面白い言葉教えて貰ったけど、『ノリ』ってどういう漢字書くんだろ?」
って感じで間違えてる設定です。
分かりにくかったですね……すいません。
今はそれしか言えない。