向日葵が風に揺れる。辺り一面を埋め尽くす黄金の花が風にそよいで、細波のような葉擦れの音が耳に心地よい。
人間たちが暮らす里から遠く離れた場所にある、視界を埋め尽くす黄色が眩しい草原。
太陽の畑と呼ばれる向日葵畑で、風見幽香は向日葵と同じように風をその身に受けていた。
手には愛用の日傘。スカートの裾を風になぶられながら、微動だにせずに佇んでいる。
目を閉じ、口元に微かな笑みを浮かべているその姿は、花が大好きな可憐な少女のようで。
事実、向日葵たちがそよぐ音に合わせてハミングをしている彼女はすこぶる機嫌が良いようだった。
「楽しそうだねぇ。花の妖怪さん」
「ええ。楽しいわね。わざわざ私を訪ねてきてくれるお客様が久しぶりに現れたんですもの」
突然虚空から投げかけられた声に驚くことなく、幽香は歌うような口調で言葉を返した。
「ありゃ、気付いてたの?」
意外そうな声。依然として声の主の姿は見えない。
幽香は心底愉しげにくすくすと笑い声を漏らす。
「もちろん。人の目は誤魔化せても、草花の知覚までは欺けないわ。
この子たちは目や耳を持たない代わりに、人間で言う第六感が発達してるの。
あなたが半刻ほど前にこの太陽の畑にやってきた時点で私に教えてくれたわ」
「ほうほう、なるほどねえ。そんじゃ、姿を隠してる意味もないね」
途端、幽香の前方の空間に、靄のようなものが現れた。
靄は渦巻きながら集束していき、やがて人の形を象り始める。
背丈はかなり小さい。人間の子供と同程度だろう。
ただ一つ、人間と明らかに違う点は頭に大きな角が生えていることだろうか。
腰に瓢箪を下げた角のある童女は、周りに咲く向日葵のような屈託のない笑顔で言った。
「はじめまして。私は伊吹の萃香。萃香でいいよ」
「風見幽香。私も幽香でいいわ、小さな鬼さん」
日傘の下で幽香も微笑を浮かべた。溌剌とした萃香の笑顔とは違い、淑やかさを感じさせる笑みだった。
手の中でくるくると日傘を回して弄びながら、幽香は言葉を紡ぐ。
「それで、今日はどういう用件でここへ?」
「ん~、別にこれといって理由はないんだけどねぇ」
「あらあら、そうなの?」
「何か暇つぶしになることはないかなーってふらふら飛んでたら、この向日葵畑を見っけてさ。
こりゃいい景色だと思って近づいたら、気持ち良さそうに鼻歌を歌ってる幽香に気付いて」
「で、ずっと私を観察していたわけね」
「そゆこと」
悪びれる様子もなくからからと萃香は笑う。
その様を微笑みながら見つめる幽香の瞳には、愉悦が滲んでいた。
風見幽香の名を聞けば、並みの妖怪はそれだけで竦んでしまう。
数多の妖怪が畏怖の念を抱く大妖、風見幽香を前にして、この鬼はなんと図太い神経をしているのだろう。
初対面とはいえ、幽香の力がわからぬほどの「なまくら」とは思えない。
つまり、この鬼は自分を恐れてはいないのだ――――――そう思うと、幽香は背筋がぞくぞくした。
それは純粋な悦び。
風見幽香は、孤高の強者であるがゆえに、自らを恐れない勇者を好ましく思う。
「覗きは感心しないわね。今度やったらお仕置きしてあげるから、そのつもりでいなさいな」
「あはははは、お仕置きは御免こうむりたいねぇ。なに、私の覗き見なんて可愛いもんさ。
私一人で見て、私一人で楽しんでるだけだからね。
どこぞの天狗は写真まで撮って、それを新聞に載っけて幻想郷中にばらまいちまうんだから」
「ああ、そういえばそんなのもいたわね」
若干視線を上にずらし、宙を見つめて記憶を辿る。
いつだったか、少し前の花の異変で幽香と弾幕勝負をしたあの鴉天狗のことだろう。
弾幕の腕はなかなかのものだったが口八丁で、人当たりの良さそうな笑顔の裏に狡猾さが見え隠れしていた。
本気で戦ってみたいと思わなくはなかったものの、幽香はああいう手合いが大がつくほど嫌いだった。
真剣勝負に小細工などを仕込まれては興醒めだ。力と力を正々堂々ぶつけあってこその勝負である。
同じ嘘を吐くにしても、白黒カラーの魔法使い―――名前は忘れた―――あの人間のような相手なら好感も持てる。
口八丁なのは同じだが、弾幕勝負に際しては馬鹿正直にも真っ向から挑んできた人間の魔法使い。
スペルカードを勝手に模倣するなど、手癖も悪いようだが、戦いそのものに対する姿勢は何処までも真っ直ぐで。
幽香を熱くさせるだけの魅力が、あの人間には確かにあった。
「ま、今度からはちゃんと声かけるからさ。安心してよ」
「ぜひそうして頂戴。礼儀正しいお客様は歓迎するわ」
「いやいや今日だって別に誰かを覗き見するつもりでふらふらしてたわけじゃないんだよ。いやホントだって。
久しぶりに大掃除をするだかで霊夢に神社を追い出されちゃってさ。
私も手伝うって言ったんだけど、霊夢ってば『酔っ払いは要らんからどっか行け』って。失礼しちゃうよね」
口を尖らせ、身振り手振りを交えて霊夢の真似をする萃香。
あまり似ていないその口真似に、幽香は思わず吹きだした。
「あの子も変なところで見栄を張るのね。素直に手伝ってもらえばいいのに」
「でしょー? 私ってこう見えて結構力あるからさ、重い物とか運ぶのに役に立つと思うんだけどなー」
萃香は「むー」と腕を曲げて力瘤を作るポーズをして見せる。
華奢な体から伸びる細腕は、いくら力を込めても力瘤なんて出てこない。
だが、いくら身なりが華奢で小柄な童女だろうと、萃香はれっきとした鬼なのだ。
鬼は怪力無双と昔から相場が決まっている。
曰く、その拳は大地を割り、山を砕く。
幻想郷における『最強の人間の敵』とまで謳われた剛の者。それが鬼だ。
今、幽香の目の前で滑稽な姿勢で力んでいる姿からは想像すらできないが。
「ま、仕方ないからとりあえず今日は適当に時間潰すつもりなんだ。
大掃除がいつまでかかるのか知らないけど、一日あれば終わるでしょ。なんてったって、あの霊夢だし」
「そうね、あのものぐさでぐうたらな霊夢だものね」
「絶対に途中で飽きるか、もしくは面倒くさくなってやめるに決まってるんだから」
萃香と幽香。会ったばかりの二人は、互いの巫女に対する認識に共感を覚え、くすくすと笑い合う。
「霊夢はそもそも掃除があんまり得意じゃないっていうか、ぶっちゃけ好きじゃないんだよねー。境内の掃除もおざなりだし」
「ひどい言われ様ね、あの子。私も同意見だけれど」
口元に手を当て、幽香は苦笑を浮かべた。
最後に神社へ行ったのはいつのことだっただろう。
いつぞやの宴会か。暇つぶしに弾幕勝負を申し込んだ時か。どちらにせよ、随分前のことのような気がする。
現に、最近神社に住み着いたらしいこの小さな鬼と、今初めて顔を合わせたのだから。
今度久しぶりに宴会に顔でも出してみようかしら、と幽香は思った。
美味い酒を一本手土産に持っていけば、少なくとも霊夢は文句を言うまい。
その時、やや強い一陣の風が二人の間を通り過ぎた。
向日葵たちが大きく揺れ、葉擦れのさざめきが一瞬大きくなる。
幽香は髪が乱れないように軽く手で抑えつつ、西の空を見遣った。
太陽はだいぶ傾いている。じきに空が茜色に染まり始めるだろう。
花と共に生き、花と共に暮らす幽香は、日が落ちると早々に眠りにつくことも多い。
今日も何事もなく一日が過ぎたのであったなら、さっさと寝てしまっていただろう。
だが、生憎今日はありふれた平凡な一日ではなかった。
珍しい客人が太陽の畑を訪れ、新たな知己を得ることができた。
その新しい友人に優しく微笑みかけ、幽香は言った。
「ところで、萃香」
「ん、なに?」
「あなた、この後の予定はあるのかしら」
萃香は腕組みをしてしばらく考え込んだ後、
「ないね」
と清々しく破顔一笑した。
その答えに、幽香は満足そうに頷く。
「それなら今夜は私と一杯どうかしら。この太陽の畑で」
「お? 幽香もいけるクチかい?」
「それなりにね。鬼のあなたほど呑める自信はないけれど。お近づきのしるしに一杯やるのも悪くないでしょう?」
「いいねえ。そういうお誘いなら大歓迎さ」
「決まりね」
こうして今宵、花の妖怪と小さな鬼は酒を酌み交わすことになった。
今日知り合った二人の、ささやかな宴席。
神社で行われる宴会のような賑やかさはないだろうが、それはきっと楽しい一時に違いない。
酒の肴になりそうなものを調達してくると言って萃香が何処かへ飛び立った後。
空の色が橙色から茜色になりはじめ、赤く染まった向日葵たちに囲まれながら。
夕暮れの涼風に身を任せ幽香は軽やかにステップを踏む。
手の中でくるくると傘を回し、時には自分自身の身体も回転させながら、四季のフラワーマスターは舞い踊る。
伊吹萃香。あの小さな鬼は風見幽香を恐れていない。
そういえば、強い者を見ると力比べしたくなるのは鬼の性だと聞いたことがある。
ひょっとしたら元からそのつもりで向こうから近づいてきたのかもしれない。
偶然を装って、あたかも通りすがりのような気安さで。
だが、仮にそうだとして今宵酌み交わす約束をした酒が不味くなることなどあり得るだろうか。
「鬼、か。面白いわね」
あの鬼と勝負する時のことを想像すると、口元が自然と綻ぶのを感じる。
鬼は嘘を嫌う。騙し討ちなどもってのほか。
ならば、あの鬼が自分に勝負を挑んでくるにしても、それは正面きっての真っ向勝負に他ならない。
さぞや愉しい戦いになるだろう。
スペルカードの縛りがなければ、お互い五体満足ではいられないかもしれない。考えただけで背筋がうずく。
萃香は当然強いだろうが、勝つ自信はもちろんある。
風見幽香が幻想郷最強を自負するのは過信でも妄想でもない。
厳然たる事実として、幽香は幻想郷の妖怪の頂点に君臨している。
その自分を恐れずに戦いを挑んでくる者を、どうして嫌いになれよう。
あの博麗の巫女も白黒の魔法使いもそうだ。
彼女たちと戦う時、幽香は言い知れぬ昂揚感を感じる。
それはまさに花を愛でるように。
水をやりすぎて枯らしてしまわないように。
風見幽香は、自らに挑む者たちをいとおしむ。
ふと、足を止め、幽香は青黒く染まった東の空を見上げた。
「――――――ああ。今夜は満月だったわね。そういえば」
ぼんやりと浮かぶ白い月。
思いつきで宴席を設けたが、存外時機をものにしたようだ。
萃香には悪いが、酒の肴を探しに行く必要もなかったかもしれない。
満月という夜空の華を肴に呑むだけで、酒は充分に美味いのだから。
◇おまけ◇
作中より抜粋。
「ま、仕方ないからとりあえず今日は適当に時間潰すつもりなんだ。
大掃除がいつまでかかるのか知らないけど、一日あれば終わるでしょ。なんてったって、あの霊夢だし」
「そうね、あのものぐさでぐうたらな霊夢だものね」
「絶対に途中で飽きるか、もしくは面倒くさくなってやめるに決まってるんだから
霊夢はそもそも掃除があんまり得意じゃないっていうか、ぶっちゃけ好きじゃないんだよねー。境内の掃除もおざなりだし」
「ひどい言われ様ね、あの子。私も同意見だけれど」
◆◇◆◆◇◆◆◇◆◆◇◆◆◇◆
その頃の博麗神社。
「ふ、ふ、ふぇ――――――ふぇっくしょい!」
「うわっ、汚いな。掃除してる傍から汚さないでくれよ。ったく、勘弁してくれ」
「う、うるさいわね。仕方ないでしょ、急に鼻がむずむずし出したんだから」
「誰かが噂でもしてるんじゃないのか」
「人気者は辛いわねぇ」
「お前のそういう無闇に前向きなところは見習いたいな。というか、なんで私がお前ん家の大掃除を手伝ってるんだ」
「丁度いいタイミングであんたが来たからでしょ。恨むなら運の悪い自分か神様にして頂戴」
「おいおい、巫女が神様に責任転嫁していいのかよ。罰当たりにもほどがあるぜ」
「うっさい。ぐちぐち言ってる暇があったら手を動かしなさい」
「へいへいわかったよ。ところで、萃香のやつは何処いったんだ? 掃除とか力仕事とかはあいつの能力と相性が良さそうだが」
「やっぱりあんたもそう思う? 私も追い出した後で気付いたのよ。
自分から手伝うって言ってたし、心ゆくまでこき使ってやればよかったわ。普段はのんべえのただ飯喰らいなんだし」
「………ちょっと萃香に同情するぜ」
以上。素敵な巫女と普通の魔法使いの掃除中の会話より。
◆◇◆◆◇◆◆◇◆◆◇◆◆◇◆
人間たちが暮らす里から遠く離れた場所にある、視界を埋め尽くす黄色が眩しい草原。
太陽の畑と呼ばれる向日葵畑で、風見幽香は向日葵と同じように風をその身に受けていた。
手には愛用の日傘。スカートの裾を風になぶられながら、微動だにせずに佇んでいる。
目を閉じ、口元に微かな笑みを浮かべているその姿は、花が大好きな可憐な少女のようで。
事実、向日葵たちがそよぐ音に合わせてハミングをしている彼女はすこぶる機嫌が良いようだった。
「楽しそうだねぇ。花の妖怪さん」
「ええ。楽しいわね。わざわざ私を訪ねてきてくれるお客様が久しぶりに現れたんですもの」
突然虚空から投げかけられた声に驚くことなく、幽香は歌うような口調で言葉を返した。
「ありゃ、気付いてたの?」
意外そうな声。依然として声の主の姿は見えない。
幽香は心底愉しげにくすくすと笑い声を漏らす。
「もちろん。人の目は誤魔化せても、草花の知覚までは欺けないわ。
この子たちは目や耳を持たない代わりに、人間で言う第六感が発達してるの。
あなたが半刻ほど前にこの太陽の畑にやってきた時点で私に教えてくれたわ」
「ほうほう、なるほどねえ。そんじゃ、姿を隠してる意味もないね」
途端、幽香の前方の空間に、靄のようなものが現れた。
靄は渦巻きながら集束していき、やがて人の形を象り始める。
背丈はかなり小さい。人間の子供と同程度だろう。
ただ一つ、人間と明らかに違う点は頭に大きな角が生えていることだろうか。
腰に瓢箪を下げた角のある童女は、周りに咲く向日葵のような屈託のない笑顔で言った。
「はじめまして。私は伊吹の萃香。萃香でいいよ」
「風見幽香。私も幽香でいいわ、小さな鬼さん」
日傘の下で幽香も微笑を浮かべた。溌剌とした萃香の笑顔とは違い、淑やかさを感じさせる笑みだった。
手の中でくるくると日傘を回して弄びながら、幽香は言葉を紡ぐ。
「それで、今日はどういう用件でここへ?」
「ん~、別にこれといって理由はないんだけどねぇ」
「あらあら、そうなの?」
「何か暇つぶしになることはないかなーってふらふら飛んでたら、この向日葵畑を見っけてさ。
こりゃいい景色だと思って近づいたら、気持ち良さそうに鼻歌を歌ってる幽香に気付いて」
「で、ずっと私を観察していたわけね」
「そゆこと」
悪びれる様子もなくからからと萃香は笑う。
その様を微笑みながら見つめる幽香の瞳には、愉悦が滲んでいた。
風見幽香の名を聞けば、並みの妖怪はそれだけで竦んでしまう。
数多の妖怪が畏怖の念を抱く大妖、風見幽香を前にして、この鬼はなんと図太い神経をしているのだろう。
初対面とはいえ、幽香の力がわからぬほどの「なまくら」とは思えない。
つまり、この鬼は自分を恐れてはいないのだ――――――そう思うと、幽香は背筋がぞくぞくした。
それは純粋な悦び。
風見幽香は、孤高の強者であるがゆえに、自らを恐れない勇者を好ましく思う。
「覗きは感心しないわね。今度やったらお仕置きしてあげるから、そのつもりでいなさいな」
「あはははは、お仕置きは御免こうむりたいねぇ。なに、私の覗き見なんて可愛いもんさ。
私一人で見て、私一人で楽しんでるだけだからね。
どこぞの天狗は写真まで撮って、それを新聞に載っけて幻想郷中にばらまいちまうんだから」
「ああ、そういえばそんなのもいたわね」
若干視線を上にずらし、宙を見つめて記憶を辿る。
いつだったか、少し前の花の異変で幽香と弾幕勝負をしたあの鴉天狗のことだろう。
弾幕の腕はなかなかのものだったが口八丁で、人当たりの良さそうな笑顔の裏に狡猾さが見え隠れしていた。
本気で戦ってみたいと思わなくはなかったものの、幽香はああいう手合いが大がつくほど嫌いだった。
真剣勝負に小細工などを仕込まれては興醒めだ。力と力を正々堂々ぶつけあってこその勝負である。
同じ嘘を吐くにしても、白黒カラーの魔法使い―――名前は忘れた―――あの人間のような相手なら好感も持てる。
口八丁なのは同じだが、弾幕勝負に際しては馬鹿正直にも真っ向から挑んできた人間の魔法使い。
スペルカードを勝手に模倣するなど、手癖も悪いようだが、戦いそのものに対する姿勢は何処までも真っ直ぐで。
幽香を熱くさせるだけの魅力が、あの人間には確かにあった。
「ま、今度からはちゃんと声かけるからさ。安心してよ」
「ぜひそうして頂戴。礼儀正しいお客様は歓迎するわ」
「いやいや今日だって別に誰かを覗き見するつもりでふらふらしてたわけじゃないんだよ。いやホントだって。
久しぶりに大掃除をするだかで霊夢に神社を追い出されちゃってさ。
私も手伝うって言ったんだけど、霊夢ってば『酔っ払いは要らんからどっか行け』って。失礼しちゃうよね」
口を尖らせ、身振り手振りを交えて霊夢の真似をする萃香。
あまり似ていないその口真似に、幽香は思わず吹きだした。
「あの子も変なところで見栄を張るのね。素直に手伝ってもらえばいいのに」
「でしょー? 私ってこう見えて結構力あるからさ、重い物とか運ぶのに役に立つと思うんだけどなー」
萃香は「むー」と腕を曲げて力瘤を作るポーズをして見せる。
華奢な体から伸びる細腕は、いくら力を込めても力瘤なんて出てこない。
だが、いくら身なりが華奢で小柄な童女だろうと、萃香はれっきとした鬼なのだ。
鬼は怪力無双と昔から相場が決まっている。
曰く、その拳は大地を割り、山を砕く。
幻想郷における『最強の人間の敵』とまで謳われた剛の者。それが鬼だ。
今、幽香の目の前で滑稽な姿勢で力んでいる姿からは想像すらできないが。
「ま、仕方ないからとりあえず今日は適当に時間潰すつもりなんだ。
大掃除がいつまでかかるのか知らないけど、一日あれば終わるでしょ。なんてったって、あの霊夢だし」
「そうね、あのものぐさでぐうたらな霊夢だものね」
「絶対に途中で飽きるか、もしくは面倒くさくなってやめるに決まってるんだから」
萃香と幽香。会ったばかりの二人は、互いの巫女に対する認識に共感を覚え、くすくすと笑い合う。
「霊夢はそもそも掃除があんまり得意じゃないっていうか、ぶっちゃけ好きじゃないんだよねー。境内の掃除もおざなりだし」
「ひどい言われ様ね、あの子。私も同意見だけれど」
口元に手を当て、幽香は苦笑を浮かべた。
最後に神社へ行ったのはいつのことだっただろう。
いつぞやの宴会か。暇つぶしに弾幕勝負を申し込んだ時か。どちらにせよ、随分前のことのような気がする。
現に、最近神社に住み着いたらしいこの小さな鬼と、今初めて顔を合わせたのだから。
今度久しぶりに宴会に顔でも出してみようかしら、と幽香は思った。
美味い酒を一本手土産に持っていけば、少なくとも霊夢は文句を言うまい。
その時、やや強い一陣の風が二人の間を通り過ぎた。
向日葵たちが大きく揺れ、葉擦れのさざめきが一瞬大きくなる。
幽香は髪が乱れないように軽く手で抑えつつ、西の空を見遣った。
太陽はだいぶ傾いている。じきに空が茜色に染まり始めるだろう。
花と共に生き、花と共に暮らす幽香は、日が落ちると早々に眠りにつくことも多い。
今日も何事もなく一日が過ぎたのであったなら、さっさと寝てしまっていただろう。
だが、生憎今日はありふれた平凡な一日ではなかった。
珍しい客人が太陽の畑を訪れ、新たな知己を得ることができた。
その新しい友人に優しく微笑みかけ、幽香は言った。
「ところで、萃香」
「ん、なに?」
「あなた、この後の予定はあるのかしら」
萃香は腕組みをしてしばらく考え込んだ後、
「ないね」
と清々しく破顔一笑した。
その答えに、幽香は満足そうに頷く。
「それなら今夜は私と一杯どうかしら。この太陽の畑で」
「お? 幽香もいけるクチかい?」
「それなりにね。鬼のあなたほど呑める自信はないけれど。お近づきのしるしに一杯やるのも悪くないでしょう?」
「いいねえ。そういうお誘いなら大歓迎さ」
「決まりね」
こうして今宵、花の妖怪と小さな鬼は酒を酌み交わすことになった。
今日知り合った二人の、ささやかな宴席。
神社で行われる宴会のような賑やかさはないだろうが、それはきっと楽しい一時に違いない。
酒の肴になりそうなものを調達してくると言って萃香が何処かへ飛び立った後。
空の色が橙色から茜色になりはじめ、赤く染まった向日葵たちに囲まれながら。
夕暮れの涼風に身を任せ幽香は軽やかにステップを踏む。
手の中でくるくると傘を回し、時には自分自身の身体も回転させながら、四季のフラワーマスターは舞い踊る。
伊吹萃香。あの小さな鬼は風見幽香を恐れていない。
そういえば、強い者を見ると力比べしたくなるのは鬼の性だと聞いたことがある。
ひょっとしたら元からそのつもりで向こうから近づいてきたのかもしれない。
偶然を装って、あたかも通りすがりのような気安さで。
だが、仮にそうだとして今宵酌み交わす約束をした酒が不味くなることなどあり得るだろうか。
「鬼、か。面白いわね」
あの鬼と勝負する時のことを想像すると、口元が自然と綻ぶのを感じる。
鬼は嘘を嫌う。騙し討ちなどもってのほか。
ならば、あの鬼が自分に勝負を挑んでくるにしても、それは正面きっての真っ向勝負に他ならない。
さぞや愉しい戦いになるだろう。
スペルカードの縛りがなければ、お互い五体満足ではいられないかもしれない。考えただけで背筋がうずく。
萃香は当然強いだろうが、勝つ自信はもちろんある。
風見幽香が幻想郷最強を自負するのは過信でも妄想でもない。
厳然たる事実として、幽香は幻想郷の妖怪の頂点に君臨している。
その自分を恐れずに戦いを挑んでくる者を、どうして嫌いになれよう。
あの博麗の巫女も白黒の魔法使いもそうだ。
彼女たちと戦う時、幽香は言い知れぬ昂揚感を感じる。
それはまさに花を愛でるように。
水をやりすぎて枯らしてしまわないように。
風見幽香は、自らに挑む者たちをいとおしむ。
ふと、足を止め、幽香は青黒く染まった東の空を見上げた。
「――――――ああ。今夜は満月だったわね。そういえば」
ぼんやりと浮かぶ白い月。
思いつきで宴席を設けたが、存外時機をものにしたようだ。
萃香には悪いが、酒の肴を探しに行く必要もなかったかもしれない。
満月という夜空の華を肴に呑むだけで、酒は充分に美味いのだから。
◇おまけ◇
作中より抜粋。
「ま、仕方ないからとりあえず今日は適当に時間潰すつもりなんだ。
大掃除がいつまでかかるのか知らないけど、一日あれば終わるでしょ。なんてったって、あの霊夢だし」
「そうね、あのものぐさでぐうたらな霊夢だものね」
「絶対に途中で飽きるか、もしくは面倒くさくなってやめるに決まってるんだから
霊夢はそもそも掃除があんまり得意じゃないっていうか、ぶっちゃけ好きじゃないんだよねー。境内の掃除もおざなりだし」
「ひどい言われ様ね、あの子。私も同意見だけれど」
◆◇◆◆◇◆◆◇◆◆◇◆◆◇◆
その頃の博麗神社。
「ふ、ふ、ふぇ――――――ふぇっくしょい!」
「うわっ、汚いな。掃除してる傍から汚さないでくれよ。ったく、勘弁してくれ」
「う、うるさいわね。仕方ないでしょ、急に鼻がむずむずし出したんだから」
「誰かが噂でもしてるんじゃないのか」
「人気者は辛いわねぇ」
「お前のそういう無闇に前向きなところは見習いたいな。というか、なんで私がお前ん家の大掃除を手伝ってるんだ」
「丁度いいタイミングであんたが来たからでしょ。恨むなら運の悪い自分か神様にして頂戴」
「おいおい、巫女が神様に責任転嫁していいのかよ。罰当たりにもほどがあるぜ」
「うっさい。ぐちぐち言ってる暇があったら手を動かしなさい」
「へいへいわかったよ。ところで、萃香のやつは何処いったんだ? 掃除とか力仕事とかはあいつの能力と相性が良さそうだが」
「やっぱりあんたもそう思う? 私も追い出した後で気付いたのよ。
自分から手伝うって言ってたし、心ゆくまでこき使ってやればよかったわ。普段はのんべえのただ飯喰らいなんだし」
「………ちょっと萃香に同情するぜ」
以上。素敵な巫女と普通の魔法使いの掃除中の会話より。
◆◇◆◆◇◆◆◇◆◆◇◆◆◇◆
とても良かったです。
何かを争うでもなく、ゆったりとした時間の中で話し合っている二人に強者としての
風格が漂っているように私には思いました。
面白かったです。
読みやすく、続きを読みたくなってくる文章でした。
>>煉獄さん
私もどうやって「萃」を出すのかわからなかったので、コピって辞書登録してしまいました。
雰囲気を楽しんでいただけたのなら幸いです。短いお話ですので、読後のカタルシスは得られないと思いますが……
>>16さん
私にはもったいないお言葉です。
この話の続きという形ではないかもしれませんが、
幽香の話はまた書きたいと思っております。次はもう少し長めのお話で。
いい空気だなと浸ったところに、ちょっと崩された。
貴重なご意見ありがとうございます。
自分としても、蛇足かもしれないという気持ちは正直ありました。
本来は噂→くしゃみという定番ネタを、試しに書いて見ようかと思って考えたものです。
ただ、本文の中にそのままぶち込むと流石にアレなので、おまけとしてくっつけた次第であります。
確かに、雰囲気の統一は重要かもしれませんね。以後、考慮いたします。