濃い霧が立ちこめる川に小さな舟が浮かんでいた。誰も乗っていない舟は固定されていて岸から離れることはないが、上下に揺れる様子から川の流れは激しいようだ。霧のせいで幅は見えないものの、見えたところで特定できる物でもないだろう。なぜならここは、三途の川だからだ。
少し暗い印象のあるところだが、だからといって必ずしもその印象に合わせた人を配属するわけではない。現に川のほとりでは、渡し守である小野塚小町が今日も今日とてのん気に朗らかな寝顔を見せている。
ふと、顔のあたりに羽が降ってきた。くすぐるように鼻から頬を滑る感触は、たまたま眠りが浅くなっていた彼女にとっては薄くでも目を開くのに充分な刺激だった。細くぼんやりとした視界のほんの隅っこに映ったのは先ほどの真っ黒な羽と、直後に涙。
「きゃん! いっ……たぁ~~~~~~~い!!」
小町は額を襲った痛みに思わず跳び起きた。間を置かず、二つに結んだ髪を振るように周囲を見回して突如自分を襲った痛みの原因を特定にかかった。しかし、川岸には水鳥の一羽もいない。
「まったくなんだっていうんだい。人が貴重な睡眠をとってるのを邪魔するなんて許せないね」
許せない、とは言いつつも面倒になったのかその場に腰を下ろして黒い羽を拾い、しばらく眺めていた。その向こう側に焦点を合わせると舟を結んである杭に黒いものが乗っていて、目を凝らせばどうやら烏のようだった。見覚えがあったらしく、小さくあっ、と声を出し、持っていたものを投げるように立ち上がった。
「このいたずら天狗! 射命丸文っ! いるんでしょ、出てきなよ」
「あ、名前を覚えてもらえたようですね。ふむ、それにしても意外と早くばれてしまいました。もう少しその可愛らしい寝顔を見たかったんですが」
少し風が強くなった。同時に、文と呼ばれた烏天狗の少女は地上まで降りてきてカメラを顔の前に構えると、小さな四角いガラス越しに小町を眺めた。小町が意に介するそぶりはない。
「起こさせておいてよく言うよ。……ちょいといたずらと烏使いがひどいんじゃない?」
「いえいえそんなことは。この子には、お昼寝中の死神を丁重に起こすようにお願いしただけですから」
「やっぱりつつかせたんじゃないか! 痛かったよ、あれは」
「それぐらいはご愛嬌だってことで」
赤くなっている額を指しての抗議もどこふく風、むしろそれは文を楽しませる結果となってしまっている。そして、クチバシで丁重に起こした烏はいつのまにか文の肩にいて小町の熱視線を受け、居心地が悪そうに身を丸くした。
「そういえば今日はどうしたんだい? わざわざこんなところまで……」
小町は思い出したように言葉を発して、言い終わる前に考え込んだ。三途の川を見て文を見て、得心したように手のひらを打った。
「自殺か」
「違います。って、前もしましたよねこんなやりとり」
「じゃあ、取材かい?」
「今日はプライベートです。まあ、『上手な説教の受け方』なんてコラムぐらいなら作っても良いですよ。とうとう文々。新聞も彼岸に進出ですか~。配達お願いしますね」
「いや、いい。全力で遠慮するよ。そんなのが四季様の目に触れたらどうなるやらわかったものじゃないよ。それにしたって、あたいに何の用だい? これでも仕事中なんだ」
勤務中らしい赤毛の死神はあくびを噛み潰して文を見た。非難めいた言葉に対し、いつも明るく愛想のいい顔にそこまでの不快さは感じられない。
「……今日はいないわよね」
辺りに軽く目を配り、文が一歩小町に近付いて後ろに回していた手をすっと前に持ってくると、束ねた青い花が現れた。
「おお、マンネンロウじゃないか。料理に使うならありがたくいただくから、その時は呼んでおくれ」
「その時があればお呼びしますが、あいにくそんな予定はしばらくありませんね」
いいから受け取っておきなさい、と左手に花を握らせた。もらった方はどうも腑に落ちない感は否めないが、花をもらって嬉しくないわけもなく、花に笑顔を寄せて香りを楽しんでいる。おおかた香辛料にする算段だろう。一通り楽しんだ後はちり紙に包んで懐にそっとしまった。
「いやあ、花をもらうなんてそうそうないから妙に嬉しいね。なんの気まぐれか知らないけど、ありがとう」
照れくさそうに頬をかく。もはや烏につつかれたことなど一片もこだわっていない、というよりも忘れてしまっているのだろう。が、まだ額は赤い。
「喜んでもらえて何よりです。……閻魔様がいないのがなによりだけど」
「何か言った?」
「いえ、そうやって喜んでいるところは少女のようで可愛らしいな、と」
「やめてよ、こんなのつかまえて少女なんて。からかってるのかい?」
「ふふっ。ただ単にすこぶる機嫌が良いだけです」
自分でも驚くぐらい、と付け足した。
小町は表情が良く変わる。起きたときは仏頂面、次は照れ笑い、かと思えば眉尻を下げて不審そうな心配そうな面持ちである。風車のようにくるくると回る様子が楽しい。また回って、今度は思案顔だ。
「それにしても、もらってばかりじゃ悪いし何かお返ししないとねえ」
「気にせずとも結構ですが」
「あたいの気が済まないね。もらいっぱなしなのは渡し賃と給料だけっていうのが主義なんだ」
「幻想郷の渡し守横領疑惑ですか……これはなかなか、二面の隅っこぐらいの記事にはなりそうですね」
小町はぱっちりとした目をさらに大きくし、誤解だと言わんばかりに大柄な身体を使って弁明を始めた。いわく、給料泥棒なのは否定できないかもしれないが渡し賃はきちんと納めており、たまにうっかり忘れそうになっても上司が親切に叩いてでも出させてくれるということらしい。最後に、決して汚職をしたことはない、と胸を張った。
大仰な身振りを一種のショーのように見物していると、ふと感じる。小石一つで水面に何重も輪をつくるように、自分の一言で人妖に揺さぶりをかけるのは愉快なものだ。その振れ幅の大きい、例えば正面の能天気な死神などはまったく興味が尽きない、と。
ぴたっ、と小町の動きが止まった。その息は切れている。
「ふう……とにかく、話題が逸れちゃったけど、あたいは、せっかちなんだ。どうせ返すなら早いほうがいい。天狗だって、そうそうヒマじゃない、だろう?」
「確かにそうですし、くれるというのなら有難くもらいますよ」
「じゃあちょっと一緒に来て。なあに、ほんのすぐそこさ」
「できるだけ変ではないものを期待します。変なものならネタにできるので、それはそれでいいんですけどね」
二人が一歩進むと、ただそれだけで見渡す限りは花に燃えていた。そう、いつかの異変のときに初めて会った場所がやはりあのときの様に彼岸花が咲き乱れ、きっと人間では知覚できないであろう微かな毒の香りも覚えのあるものだった。
文は懐かしむように目を細めた。そもそも、迷ったか、それこそ自殺志願者でもない限りこの一帯に近付くことはない。この花は生きる希望を思い出させるために咲いているのだ。つまり、妖怪の山から来ることができるとはいえ、ここを訪れるのは物好きでしかなく、文も滅多にはここに姿を現さない。
小町を探すと、情熱的な髪も瞳もこの背景では目を引くものではなく、むしろ身に纏う薄藍色がその存在を確かにしていた。
「一瞬何が起こったのかと思ったら、便利なものですね、その能力。」
「そうだろう、そうだろう。仕事以外でそんなに使わないんだけど割と便利だよ」
「ズボラなサボり魔にはぴったりなんじゃないですか」
「ははっ、違いない」
嫌味を言ってみたが花びらほどの軽さで笑い飛ばされた。その笑い飛ばした本人はというと、深紅を縫うようにさまよっていた足を止めて前に屈んだ。人さし指で何本かに触れ、やがてその内一つの茎に親指も加えて添えた。
「ごめんよ。死後の船旅はサービスするから」
小指の太さにも満たないものをわざわざ大鎌で刈りとる姿は神妙な表情に輪をかけて滑稽だった。そのままなるべく何もない地面に鎌を置いて立ち上がり、裾についた土を落とした。
「花の霊も運ぶんですか?」
「いや、そんなことはないけど命なんて平等なものだ。めぐりめぐって、いつかこいつだった奴を渡す日が来るかもしれない。もしそうなったらサービスするって話さ」
「うーん、彼岸方面のシステムはもっと調査しないといけないわね。……今度は取材できても宜しいでしょうか」
「好きにしな。でも、あたいは良くわからないよ。死神なんてそっちでいう哨戒天狗ぐらいの下っ端だからね」
「だとすればまったくもって取材のし甲斐が無いですね、残念」
「あいつらはそんなに天狗事情を知らされて無いのかい? まあそっちの社会の話は興味が無いし、とにかくほら、お返しだよ」
文は握手をするように差し出されながら花を受け取った。色の通り燃えるのだろうか、と思わせるくらいに自分よりも温かかった。それが不思議で注視していると、どこからか数粒の水滴が花弁を弾ませて、露となった。
「なんだか手が冷たいような……って、今まで霧で誤魔化されていたけどよく見たら結構な濡れ烏じゃないか! 道理で冷えてるはずだ」
「あーー、そういえば濡れていましたね。霧が濃かったので飛んでいる内に水滴がついてしまった、といったところでしょう。良くある事です」
「風を起こせばどうにかなったんじゃない?」
「あの時は辺り一帯どの風も湿気でいっぱいでしたから。かといって、乾かすために今吹かせると、折角の美しい光景が地面だけの殺風景になりますし」
「竜巻でも起こす気!?」
どうやら花が温かいのではなく文が冷えていたようだ。掌中の熱は既に失われているが、包み込むように小町が手を離そうとしないので寒さは感じない。小町はうつむいたり天を仰いだりとせわしなく考えをめぐらせている様子だった。
「確か舟に手ぬぐいがあったはずだからさっきのところに戻ろう。ないよりは良いでしょ」
「悪いですよ。そんな、人間じゃあるまいし風邪なんかひきません。霧でこんな風になるのは慣れっこです」
「あ、そういえば風邪を操る程度の能力だっけ?」
「……いえ、断じて違います。病気ではなく空気の流れの風です」
「まあ細かいことは良いじゃない。それよりも、何をどう言っても寒いだろう? さっきから水を飛ばそうとして羽根を動かしてるみたいだし」
「無意識ですね。それと、これは撥水性が高いので問題も心配も必要ありません」
「逆にそこ以外はびしょ濡れなんでしょ。見てて寒いったらありゃしない」
「意外と平気なものですよ。冷えやすい手は体温の高い誰かさんが握っていますし、これぐらいならすぐに乾いてしまうでしょう」
まるで天気でも予報するように言う。しかし、そんな強気な口先とは裏腹に温度を失いつつある体はそれを取り戻そうと震えた。気づかれまいと全身を強張らせたものの伝わってしまったようで、小町は一瞬呆れたかと思うと、悪戯を思いついた時のような変に得意げな顔を見せた。
「強情だなあ。そんなに意地でも拭かないって言うんならこっちにも意地がある」
「拭かないとは言ってませんよ、洗って返さないと失礼だし、かといってそれは面倒なので使いたくないというだけで。先ほども言ったとおり、こんなのはすぐに乾くに決まっ……」
小町は、掴んだままの手をそのまま引いてすかさず逆の手を文の背中に回し、冷え切った体を覆うように包み込んだ。そのせいで文の発した言葉は最後まではっきりと空気を震わせることはなく、布越しのくぐもったものにとどまった。そして、文の小柄な帽子は先の拍子に転がり落ちたようで、同じように落ちかけた烏がその上に着地した。
「何のつもりですか。それと、帽子が落ちてしまいました」
「目の前で寒そうに震えている烏天狗をほっとくほど薄情じゃあないんでね。あんたが言ったんだよ、あたいがあったかいって。あと、帽子は後で拾えばいいじゃないか」
「確かにそう言いましたが、温かいですが、そういう問題ではなくこのままだとあなたも濡れてしまいますよ」
「心配してもらえてありがたいねえ。でも商売柄水っ気は普段から多いから、それこそ慣れっこだよ」
「冷えますよ?」
「体だけは昔からやたらと頑丈よ。他に反論は?」
「……恥ずかしいのよ」
何とか絞り出したといったような、しかしいくばくかの威圧を含んだ声が出た。眉をひそめて上目ながら非難をこめて睨むと、困ったように肩をすくめる動作が返ってきた。
「今日は来たときから機嫌が良さそうかと思えば今はたいそう斜めだなんて、今の季節のお天道さまみたいだねえ」
「急にこんなことになれば誰でも驚きます。誰のせいだと思っているんですか」
それから文は黙りこくって、やがて諦めたように半ば投げやりに顎をひいた。とっさに隙間をつくろうと割りこませた腕は押し付けようにも、赤い贈り物を折るまい散らすまいと画策するために力を入れることもできないでいた。あるいはそれを肯定と捉えられていたのかもしれない。
「仕事柄会うのが幽霊ばかりってのもあるんだろうけど、なんだか人肌恋しくてね。それとも嫌だった?」
「……もしそうなら今頃特大のつむじ風で吹き飛ばしていますよ」
「それはおっかない話だねえ」
「誰かれ構わずこういうことするんですね、きっと」
「まさか! 少しぐらい気がなきゃ、こんなことするもんか。さすがにそこまで遊び人じゃない」
「閻魔様にはするのでは?」
「あー……、四季様はダメだ。いや、一回はふざけて抱きついてみたこともある。そうしたらどうだ、初心な反応なんて期待しちゃいけない。眉一つ動かさずに、小町あなたは少し大きすぎる、人の進路を妨げないことが今のあなたに積める善行です、だって。ひどい言い草だと思わないかい?」
はあ、そうですね、と返そうにも苦しい姿勢だったので、楽な状態にしようと文は身じろいだ。すると、離れると思ったのだろうか小町は腕をさらに寄せた。そのため再び鼻っ面を着物に押しつける羽目になり息苦しくなる。このままでは埒が開かない、というよりもまず窒息の恐れがあるため、とりあえず繋いだままの手に力を込めて拘束を緩めることにした。
「きゃん! ちょっと、いたた、待って、……折れる、折れる!」
「ぷはっ。まったく、大袈裟ですね。これは私が窒息しかけたお返しです。加減を考えてください、加減を」
「わ、悪かったよ。でも、そっちだって加減を考えておくれ。こっちは体が資本なんだ」
「体だけは頑丈だと、先刻自分で言っていましたよ」
抵抗により小町の抱擁は緩くなり身動きがとれるようになったので、繋いだ手を中心に腕の中で反転して背中を預けるようにもたれた。一方の小町は、痛そうにはしているものの手をほどく気配は無い。
「さっきはちょっとだけすみません。体勢を変えないと辛かったんです。とにかく、これはこれである程度快適なので逃げませんよ。どうせ私が乾くまではこうしているつもりなんでしょうから。」
「じゃあ、逃げないなら遠慮なく」
そう言うと、小町は身体を寄せ、文の耳に頬をつけるようにして顎を肩に置いた。妙に収まりが良かったので、もしかしたらこの居心地のいい肩をたくさんの烏が取りあっているのかもしれないと思わず考えたが、脳裏の文が烏にまみれていくあたりで想像をやめておいた。
そっと、そよ風が二人のわずかな隙間をすり抜けて小町の鼻先に黒髪がかかった。くすぐったいのでどけようと手に取ると、湿っているせいかしっとりと柔らかく、それでいて梳く指がひっかかるようなことは無かった。指の腹を滑る感触が黒染めの絹糸のようで、手櫛を通してはぼうっと夢中になっていた。
髪に触れられているのも構わずに手元で揺れる彼岸花をしばらく眺めていた文は、真横を一瞥してから誰に宛てるでもなく、ぽつりと呟いた。実際は後ろの死神に宛てて。
「この花に似ていますね」
頭の頂近くで二つに結った髪の少し癖のある具合は花びらに。なにより、いやでも目を引く紅。やっぱり似ている、と文は思う。非常食になるところまで似ているかはわからないが。
「……ん? ああ、あたいのことか。よくわからないが、そう言うのなら似ているのかもしれない。でも、良くも悪くもこんなに華やかじゃないよ」
「そうですか? どちらかというと私にとっては小町さんの方が華やかで魅力的ですけどね」
文は耳元が、正しくは自分の耳に密着している頬が熱くなっていくのを感じた。すると、濡れ羽色の絹糸が小町の手のひらからこぼれた。さらさらと重力に従って流れる様子にはもう、水の重さは感じられない。
「そんな率直に、真顔で……やめておくれ、恥ずかしいじゃないか。あたいはこう見えてもそういうのはからきしなんだ」
「いきなり抱き寄せてくる方の言い分ではないですね」
今、文が隣を覗き込めば、髪や瞳どころか全てが朱に染まった小町を見ることができただろう。しかし、そうさせまいとしたのか、小町は少しだけ離れて文の首筋から肩にかけて額をもぐりこませた。触れたところがとても熱を持っていたのが文に伝わり、二人に挟まれた翼が窮屈そうにだが火照った顔をあおいでいた。
「悪いねえ」
「温めてもらっていたのでこれでお互い様です」
集まっていた血はまだ元に戻っていなかったが小町は羽ばたきを制し、文のシャツに手を伸ばした。
「……お、もう乾いてるね。本当に意外と早いもんだ。これならもう大丈夫だろう」
心なしか早口にまくしたてると腕を解いて素早く距離をとった。そして、文の方に視線をやろうとはせず、手持ち無沙汰に束ねた髪の位置を調整している。一方で文は急に外気にさらされたような心持ちがして肌寒いような錯覚を覚えた。意識しないままに二の腕をさする。
「別に、もう少しあのままでも構わなかったんですよ?」
「そうだねえ、名残惜しくないといえばまあ嘘になるが、あいにくとそろそろ時間でね。もうちょっとしたら四季様が来る頃合になる」
「時計なんて持っているんですか」
「ああ持ってるとも! 腹時計だけど、ね」
口角を上げて自慢の腹時計を数回たたく。その拍子に空腹を知らせる腹時計の間抜けな鐘が鳴ったのでばつの悪そうな苦笑いを浮かべた。それがいかにもおかしかったので思わず文も口元を綻ばせた。
「そうですか。そういうことなら今日のところは退散します。私もあの方には会いたくありません」
「そうだろうね、四季様に進んで会いたがる輩は今までにいた試しがない」
「私も全く見かけたことがありませんね。……それでは、そろそろ帰ります。では、また次の機会に」
烏を肩に文は扇を取りだして一振り、地を蹴って浮き上がり、つられて唐紅の花びらが舞い踊った。いささか高度を上げてから、背を向けようか逡巡するその間に小町を盗み見た。わりと離れてしまったからなのか、たくさん頬張れそうな口を遠目にもよく動かしていた。
「また今度会えるのを楽しみにしてるよ、文!」
彼女は声の距離も操れるのかもしれない。文にはすぐ側で聞こえたように感じられた。
小町はしばらく文の影が消えるまで手を振っていたが、いなくなったのを確認するとその場に胡坐をかいて座った。近くにおいてあるはずの、長年慣れ親しんだ死神のシンボルを手探りしていると角ばったものにあたった。視界に収めてみれば周囲のものとは異なる朱塗りの赤色が転がっていた。両端には飾り紐と、それに通されたように毛綿がついていた。小町は拾い上げて四方から観察し、おもむろに頭に乗せた。だが、まとめられた髪の間にはあと少しというところで収まらず前後に傾ぐので、結局は手元に落ち着いた。
「帽子を忘れていくなんてそそっかしいねえ。仕方ないから渡し守だけに、渡しにいくかってね。おっ、今あたい上手いこと言った?」
小箱のような帽子の角をなぞっては知らず知らずに顔の締まりがなくなる。誰かに見られたら馬鹿にされることは間違いないと、小町は頬をさすって思う。確かに、なんということはないただ忘れ物を届けるだけの行為に心躍らせるのはなるほど、馬鹿らしい光景かもしれない。
その内に気持ちがはやって体中が急かされるようにむず痒くなったので、拳を高く上げて精一杯の伸びをした。そして、そのまま惰性で背中を地に着けた。
「今日は説教が早く終わる日だといいねえ!」
そうして瞼をおろす。今日また会いに行ったらどんな顔をするだろうか。そんなことをまぶたの裏に思い描きながら、長丁場となるであろう上司のお小言に備えて、ほんの少しだけ、仮眠をとることにした。
少し暗い印象のあるところだが、だからといって必ずしもその印象に合わせた人を配属するわけではない。現に川のほとりでは、渡し守である小野塚小町が今日も今日とてのん気に朗らかな寝顔を見せている。
ふと、顔のあたりに羽が降ってきた。くすぐるように鼻から頬を滑る感触は、たまたま眠りが浅くなっていた彼女にとっては薄くでも目を開くのに充分な刺激だった。細くぼんやりとした視界のほんの隅っこに映ったのは先ほどの真っ黒な羽と、直後に涙。
「きゃん! いっ……たぁ~~~~~~~い!!」
小町は額を襲った痛みに思わず跳び起きた。間を置かず、二つに結んだ髪を振るように周囲を見回して突如自分を襲った痛みの原因を特定にかかった。しかし、川岸には水鳥の一羽もいない。
「まったくなんだっていうんだい。人が貴重な睡眠をとってるのを邪魔するなんて許せないね」
許せない、とは言いつつも面倒になったのかその場に腰を下ろして黒い羽を拾い、しばらく眺めていた。その向こう側に焦点を合わせると舟を結んである杭に黒いものが乗っていて、目を凝らせばどうやら烏のようだった。見覚えがあったらしく、小さくあっ、と声を出し、持っていたものを投げるように立ち上がった。
「このいたずら天狗! 射命丸文っ! いるんでしょ、出てきなよ」
「あ、名前を覚えてもらえたようですね。ふむ、それにしても意外と早くばれてしまいました。もう少しその可愛らしい寝顔を見たかったんですが」
少し風が強くなった。同時に、文と呼ばれた烏天狗の少女は地上まで降りてきてカメラを顔の前に構えると、小さな四角いガラス越しに小町を眺めた。小町が意に介するそぶりはない。
「起こさせておいてよく言うよ。……ちょいといたずらと烏使いがひどいんじゃない?」
「いえいえそんなことは。この子には、お昼寝中の死神を丁重に起こすようにお願いしただけですから」
「やっぱりつつかせたんじゃないか! 痛かったよ、あれは」
「それぐらいはご愛嬌だってことで」
赤くなっている額を指しての抗議もどこふく風、むしろそれは文を楽しませる結果となってしまっている。そして、クチバシで丁重に起こした烏はいつのまにか文の肩にいて小町の熱視線を受け、居心地が悪そうに身を丸くした。
「そういえば今日はどうしたんだい? わざわざこんなところまで……」
小町は思い出したように言葉を発して、言い終わる前に考え込んだ。三途の川を見て文を見て、得心したように手のひらを打った。
「自殺か」
「違います。って、前もしましたよねこんなやりとり」
「じゃあ、取材かい?」
「今日はプライベートです。まあ、『上手な説教の受け方』なんてコラムぐらいなら作っても良いですよ。とうとう文々。新聞も彼岸に進出ですか~。配達お願いしますね」
「いや、いい。全力で遠慮するよ。そんなのが四季様の目に触れたらどうなるやらわかったものじゃないよ。それにしたって、あたいに何の用だい? これでも仕事中なんだ」
勤務中らしい赤毛の死神はあくびを噛み潰して文を見た。非難めいた言葉に対し、いつも明るく愛想のいい顔にそこまでの不快さは感じられない。
「……今日はいないわよね」
辺りに軽く目を配り、文が一歩小町に近付いて後ろに回していた手をすっと前に持ってくると、束ねた青い花が現れた。
「おお、マンネンロウじゃないか。料理に使うならありがたくいただくから、その時は呼んでおくれ」
「その時があればお呼びしますが、あいにくそんな予定はしばらくありませんね」
いいから受け取っておきなさい、と左手に花を握らせた。もらった方はどうも腑に落ちない感は否めないが、花をもらって嬉しくないわけもなく、花に笑顔を寄せて香りを楽しんでいる。おおかた香辛料にする算段だろう。一通り楽しんだ後はちり紙に包んで懐にそっとしまった。
「いやあ、花をもらうなんてそうそうないから妙に嬉しいね。なんの気まぐれか知らないけど、ありがとう」
照れくさそうに頬をかく。もはや烏につつかれたことなど一片もこだわっていない、というよりも忘れてしまっているのだろう。が、まだ額は赤い。
「喜んでもらえて何よりです。……閻魔様がいないのがなによりだけど」
「何か言った?」
「いえ、そうやって喜んでいるところは少女のようで可愛らしいな、と」
「やめてよ、こんなのつかまえて少女なんて。からかってるのかい?」
「ふふっ。ただ単にすこぶる機嫌が良いだけです」
自分でも驚くぐらい、と付け足した。
小町は表情が良く変わる。起きたときは仏頂面、次は照れ笑い、かと思えば眉尻を下げて不審そうな心配そうな面持ちである。風車のようにくるくると回る様子が楽しい。また回って、今度は思案顔だ。
「それにしても、もらってばかりじゃ悪いし何かお返ししないとねえ」
「気にせずとも結構ですが」
「あたいの気が済まないね。もらいっぱなしなのは渡し賃と給料だけっていうのが主義なんだ」
「幻想郷の渡し守横領疑惑ですか……これはなかなか、二面の隅っこぐらいの記事にはなりそうですね」
小町はぱっちりとした目をさらに大きくし、誤解だと言わんばかりに大柄な身体を使って弁明を始めた。いわく、給料泥棒なのは否定できないかもしれないが渡し賃はきちんと納めており、たまにうっかり忘れそうになっても上司が親切に叩いてでも出させてくれるということらしい。最後に、決して汚職をしたことはない、と胸を張った。
大仰な身振りを一種のショーのように見物していると、ふと感じる。小石一つで水面に何重も輪をつくるように、自分の一言で人妖に揺さぶりをかけるのは愉快なものだ。その振れ幅の大きい、例えば正面の能天気な死神などはまったく興味が尽きない、と。
ぴたっ、と小町の動きが止まった。その息は切れている。
「ふう……とにかく、話題が逸れちゃったけど、あたいは、せっかちなんだ。どうせ返すなら早いほうがいい。天狗だって、そうそうヒマじゃない、だろう?」
「確かにそうですし、くれるというのなら有難くもらいますよ」
「じゃあちょっと一緒に来て。なあに、ほんのすぐそこさ」
「できるだけ変ではないものを期待します。変なものならネタにできるので、それはそれでいいんですけどね」
二人が一歩進むと、ただそれだけで見渡す限りは花に燃えていた。そう、いつかの異変のときに初めて会った場所がやはりあのときの様に彼岸花が咲き乱れ、きっと人間では知覚できないであろう微かな毒の香りも覚えのあるものだった。
文は懐かしむように目を細めた。そもそも、迷ったか、それこそ自殺志願者でもない限りこの一帯に近付くことはない。この花は生きる希望を思い出させるために咲いているのだ。つまり、妖怪の山から来ることができるとはいえ、ここを訪れるのは物好きでしかなく、文も滅多にはここに姿を現さない。
小町を探すと、情熱的な髪も瞳もこの背景では目を引くものではなく、むしろ身に纏う薄藍色がその存在を確かにしていた。
「一瞬何が起こったのかと思ったら、便利なものですね、その能力。」
「そうだろう、そうだろう。仕事以外でそんなに使わないんだけど割と便利だよ」
「ズボラなサボり魔にはぴったりなんじゃないですか」
「ははっ、違いない」
嫌味を言ってみたが花びらほどの軽さで笑い飛ばされた。その笑い飛ばした本人はというと、深紅を縫うようにさまよっていた足を止めて前に屈んだ。人さし指で何本かに触れ、やがてその内一つの茎に親指も加えて添えた。
「ごめんよ。死後の船旅はサービスするから」
小指の太さにも満たないものをわざわざ大鎌で刈りとる姿は神妙な表情に輪をかけて滑稽だった。そのままなるべく何もない地面に鎌を置いて立ち上がり、裾についた土を落とした。
「花の霊も運ぶんですか?」
「いや、そんなことはないけど命なんて平等なものだ。めぐりめぐって、いつかこいつだった奴を渡す日が来るかもしれない。もしそうなったらサービスするって話さ」
「うーん、彼岸方面のシステムはもっと調査しないといけないわね。……今度は取材できても宜しいでしょうか」
「好きにしな。でも、あたいは良くわからないよ。死神なんてそっちでいう哨戒天狗ぐらいの下っ端だからね」
「だとすればまったくもって取材のし甲斐が無いですね、残念」
「あいつらはそんなに天狗事情を知らされて無いのかい? まあそっちの社会の話は興味が無いし、とにかくほら、お返しだよ」
文は握手をするように差し出されながら花を受け取った。色の通り燃えるのだろうか、と思わせるくらいに自分よりも温かかった。それが不思議で注視していると、どこからか数粒の水滴が花弁を弾ませて、露となった。
「なんだか手が冷たいような……って、今まで霧で誤魔化されていたけどよく見たら結構な濡れ烏じゃないか! 道理で冷えてるはずだ」
「あーー、そういえば濡れていましたね。霧が濃かったので飛んでいる内に水滴がついてしまった、といったところでしょう。良くある事です」
「風を起こせばどうにかなったんじゃない?」
「あの時は辺り一帯どの風も湿気でいっぱいでしたから。かといって、乾かすために今吹かせると、折角の美しい光景が地面だけの殺風景になりますし」
「竜巻でも起こす気!?」
どうやら花が温かいのではなく文が冷えていたようだ。掌中の熱は既に失われているが、包み込むように小町が手を離そうとしないので寒さは感じない。小町はうつむいたり天を仰いだりとせわしなく考えをめぐらせている様子だった。
「確か舟に手ぬぐいがあったはずだからさっきのところに戻ろう。ないよりは良いでしょ」
「悪いですよ。そんな、人間じゃあるまいし風邪なんかひきません。霧でこんな風になるのは慣れっこです」
「あ、そういえば風邪を操る程度の能力だっけ?」
「……いえ、断じて違います。病気ではなく空気の流れの風です」
「まあ細かいことは良いじゃない。それよりも、何をどう言っても寒いだろう? さっきから水を飛ばそうとして羽根を動かしてるみたいだし」
「無意識ですね。それと、これは撥水性が高いので問題も心配も必要ありません」
「逆にそこ以外はびしょ濡れなんでしょ。見てて寒いったらありゃしない」
「意外と平気なものですよ。冷えやすい手は体温の高い誰かさんが握っていますし、これぐらいならすぐに乾いてしまうでしょう」
まるで天気でも予報するように言う。しかし、そんな強気な口先とは裏腹に温度を失いつつある体はそれを取り戻そうと震えた。気づかれまいと全身を強張らせたものの伝わってしまったようで、小町は一瞬呆れたかと思うと、悪戯を思いついた時のような変に得意げな顔を見せた。
「強情だなあ。そんなに意地でも拭かないって言うんならこっちにも意地がある」
「拭かないとは言ってませんよ、洗って返さないと失礼だし、かといってそれは面倒なので使いたくないというだけで。先ほども言ったとおり、こんなのはすぐに乾くに決まっ……」
小町は、掴んだままの手をそのまま引いてすかさず逆の手を文の背中に回し、冷え切った体を覆うように包み込んだ。そのせいで文の発した言葉は最後まではっきりと空気を震わせることはなく、布越しのくぐもったものにとどまった。そして、文の小柄な帽子は先の拍子に転がり落ちたようで、同じように落ちかけた烏がその上に着地した。
「何のつもりですか。それと、帽子が落ちてしまいました」
「目の前で寒そうに震えている烏天狗をほっとくほど薄情じゃあないんでね。あんたが言ったんだよ、あたいがあったかいって。あと、帽子は後で拾えばいいじゃないか」
「確かにそう言いましたが、温かいですが、そういう問題ではなくこのままだとあなたも濡れてしまいますよ」
「心配してもらえてありがたいねえ。でも商売柄水っ気は普段から多いから、それこそ慣れっこだよ」
「冷えますよ?」
「体だけは昔からやたらと頑丈よ。他に反論は?」
「……恥ずかしいのよ」
何とか絞り出したといったような、しかしいくばくかの威圧を含んだ声が出た。眉をひそめて上目ながら非難をこめて睨むと、困ったように肩をすくめる動作が返ってきた。
「今日は来たときから機嫌が良さそうかと思えば今はたいそう斜めだなんて、今の季節のお天道さまみたいだねえ」
「急にこんなことになれば誰でも驚きます。誰のせいだと思っているんですか」
それから文は黙りこくって、やがて諦めたように半ば投げやりに顎をひいた。とっさに隙間をつくろうと割りこませた腕は押し付けようにも、赤い贈り物を折るまい散らすまいと画策するために力を入れることもできないでいた。あるいはそれを肯定と捉えられていたのかもしれない。
「仕事柄会うのが幽霊ばかりってのもあるんだろうけど、なんだか人肌恋しくてね。それとも嫌だった?」
「……もしそうなら今頃特大のつむじ風で吹き飛ばしていますよ」
「それはおっかない話だねえ」
「誰かれ構わずこういうことするんですね、きっと」
「まさか! 少しぐらい気がなきゃ、こんなことするもんか。さすがにそこまで遊び人じゃない」
「閻魔様にはするのでは?」
「あー……、四季様はダメだ。いや、一回はふざけて抱きついてみたこともある。そうしたらどうだ、初心な反応なんて期待しちゃいけない。眉一つ動かさずに、小町あなたは少し大きすぎる、人の進路を妨げないことが今のあなたに積める善行です、だって。ひどい言い草だと思わないかい?」
はあ、そうですね、と返そうにも苦しい姿勢だったので、楽な状態にしようと文は身じろいだ。すると、離れると思ったのだろうか小町は腕をさらに寄せた。そのため再び鼻っ面を着物に押しつける羽目になり息苦しくなる。このままでは埒が開かない、というよりもまず窒息の恐れがあるため、とりあえず繋いだままの手に力を込めて拘束を緩めることにした。
「きゃん! ちょっと、いたた、待って、……折れる、折れる!」
「ぷはっ。まったく、大袈裟ですね。これは私が窒息しかけたお返しです。加減を考えてください、加減を」
「わ、悪かったよ。でも、そっちだって加減を考えておくれ。こっちは体が資本なんだ」
「体だけは頑丈だと、先刻自分で言っていましたよ」
抵抗により小町の抱擁は緩くなり身動きがとれるようになったので、繋いだ手を中心に腕の中で反転して背中を預けるようにもたれた。一方の小町は、痛そうにはしているものの手をほどく気配は無い。
「さっきはちょっとだけすみません。体勢を変えないと辛かったんです。とにかく、これはこれである程度快適なので逃げませんよ。どうせ私が乾くまではこうしているつもりなんでしょうから。」
「じゃあ、逃げないなら遠慮なく」
そう言うと、小町は身体を寄せ、文の耳に頬をつけるようにして顎を肩に置いた。妙に収まりが良かったので、もしかしたらこの居心地のいい肩をたくさんの烏が取りあっているのかもしれないと思わず考えたが、脳裏の文が烏にまみれていくあたりで想像をやめておいた。
そっと、そよ風が二人のわずかな隙間をすり抜けて小町の鼻先に黒髪がかかった。くすぐったいのでどけようと手に取ると、湿っているせいかしっとりと柔らかく、それでいて梳く指がひっかかるようなことは無かった。指の腹を滑る感触が黒染めの絹糸のようで、手櫛を通してはぼうっと夢中になっていた。
髪に触れられているのも構わずに手元で揺れる彼岸花をしばらく眺めていた文は、真横を一瞥してから誰に宛てるでもなく、ぽつりと呟いた。実際は後ろの死神に宛てて。
「この花に似ていますね」
頭の頂近くで二つに結った髪の少し癖のある具合は花びらに。なにより、いやでも目を引く紅。やっぱり似ている、と文は思う。非常食になるところまで似ているかはわからないが。
「……ん? ああ、あたいのことか。よくわからないが、そう言うのなら似ているのかもしれない。でも、良くも悪くもこんなに華やかじゃないよ」
「そうですか? どちらかというと私にとっては小町さんの方が華やかで魅力的ですけどね」
文は耳元が、正しくは自分の耳に密着している頬が熱くなっていくのを感じた。すると、濡れ羽色の絹糸が小町の手のひらからこぼれた。さらさらと重力に従って流れる様子にはもう、水の重さは感じられない。
「そんな率直に、真顔で……やめておくれ、恥ずかしいじゃないか。あたいはこう見えてもそういうのはからきしなんだ」
「いきなり抱き寄せてくる方の言い分ではないですね」
今、文が隣を覗き込めば、髪や瞳どころか全てが朱に染まった小町を見ることができただろう。しかし、そうさせまいとしたのか、小町は少しだけ離れて文の首筋から肩にかけて額をもぐりこませた。触れたところがとても熱を持っていたのが文に伝わり、二人に挟まれた翼が窮屈そうにだが火照った顔をあおいでいた。
「悪いねえ」
「温めてもらっていたのでこれでお互い様です」
集まっていた血はまだ元に戻っていなかったが小町は羽ばたきを制し、文のシャツに手を伸ばした。
「……お、もう乾いてるね。本当に意外と早いもんだ。これならもう大丈夫だろう」
心なしか早口にまくしたてると腕を解いて素早く距離をとった。そして、文の方に視線をやろうとはせず、手持ち無沙汰に束ねた髪の位置を調整している。一方で文は急に外気にさらされたような心持ちがして肌寒いような錯覚を覚えた。意識しないままに二の腕をさする。
「別に、もう少しあのままでも構わなかったんですよ?」
「そうだねえ、名残惜しくないといえばまあ嘘になるが、あいにくとそろそろ時間でね。もうちょっとしたら四季様が来る頃合になる」
「時計なんて持っているんですか」
「ああ持ってるとも! 腹時計だけど、ね」
口角を上げて自慢の腹時計を数回たたく。その拍子に空腹を知らせる腹時計の間抜けな鐘が鳴ったのでばつの悪そうな苦笑いを浮かべた。それがいかにもおかしかったので思わず文も口元を綻ばせた。
「そうですか。そういうことなら今日のところは退散します。私もあの方には会いたくありません」
「そうだろうね、四季様に進んで会いたがる輩は今までにいた試しがない」
「私も全く見かけたことがありませんね。……それでは、そろそろ帰ります。では、また次の機会に」
烏を肩に文は扇を取りだして一振り、地を蹴って浮き上がり、つられて唐紅の花びらが舞い踊った。いささか高度を上げてから、背を向けようか逡巡するその間に小町を盗み見た。わりと離れてしまったからなのか、たくさん頬張れそうな口を遠目にもよく動かしていた。
「また今度会えるのを楽しみにしてるよ、文!」
彼女は声の距離も操れるのかもしれない。文にはすぐ側で聞こえたように感じられた。
小町はしばらく文の影が消えるまで手を振っていたが、いなくなったのを確認するとその場に胡坐をかいて座った。近くにおいてあるはずの、長年慣れ親しんだ死神のシンボルを手探りしていると角ばったものにあたった。視界に収めてみれば周囲のものとは異なる朱塗りの赤色が転がっていた。両端には飾り紐と、それに通されたように毛綿がついていた。小町は拾い上げて四方から観察し、おもむろに頭に乗せた。だが、まとめられた髪の間にはあと少しというところで収まらず前後に傾ぐので、結局は手元に落ち着いた。
「帽子を忘れていくなんてそそっかしいねえ。仕方ないから渡し守だけに、渡しにいくかってね。おっ、今あたい上手いこと言った?」
小箱のような帽子の角をなぞっては知らず知らずに顔の締まりがなくなる。誰かに見られたら馬鹿にされることは間違いないと、小町は頬をさすって思う。確かに、なんということはないただ忘れ物を届けるだけの行為に心躍らせるのはなるほど、馬鹿らしい光景かもしれない。
その内に気持ちがはやって体中が急かされるようにむず痒くなったので、拳を高く上げて精一杯の伸びをした。そして、そのまま惰性で背中を地に着けた。
「今日は説教が早く終わる日だといいねえ!」
そうして瞼をおろす。今日また会いに行ったらどんな顔をするだろうか。そんなことをまぶたの裏に思い描きながら、長丁場となるであろう上司のお小言に備えて、ほんの少しだけ、仮眠をとることにした。
あやこまというのもいいかもしれぬ。
と、思っていた自分を殴り飛ばしたい。
会話の端々からお互いを想う気持ちが伝わってきてニヤニヤが止まりませんw
あやこまたまらん!