雪舞う冬も終わりを迎え、季節はまもなく春。
幻想郷の一角にある湖の湖畔では氷精チルノと冬の妖怪レティ=ホワイトロックの別れが訪れようとしていた。
「レティ、やっぱりもう行っちゃうの?」
「ええ、もう水も温んできたし、風の臭いも変わってきたわ。今すぐではないけど、もう少ししたらお別れね。」
「…っ やだ…」
「チルノ…」
チルノの目に涙が溢れる。
いつものことなのに、わかっているはずなのに、
それでも涙が止まらなかった。
レティは、わずかに寂しげな表情を浮かべ、しかしすぐに微笑んで
「また、次の冬に会えるわ。その時はまた一緒に遊びましょうね。」
と、チルノの涙をやさしく拭って言った。
その夜、泣き疲れて眠ってしまったチルノを見守りながら、レティも少しずつまどろみ始めた時、どこからともなく、瞬く間もなく、その少女は現れた。
「こんばんは」
「…こんばんは」
「初めまして」
「…初めまして」
「…」
「…」
「ここはどこなのかしら。」
「湖岸の洞窟の中だけど。」
「ねぇ」
「…何かしら」
「あなた、もうすぐ消えてしまうの?」
「え?」
なぜ
この少女は私が消えてしまうことを知っているのか
「境界」
「境界?」
「そう、境界が近づいている。」
「…そうね。 もうすぐ私は境界の向こう側に渡ることになるんでしょうね。」
「…」
「…」
永遠とも思える一瞬の後、少女は言った。
「あなたの境界をずらしてあげる。」
どれほどの時間がたったのだろうか
いつのまにか眠ってしまっていたようだ。
膝元にはチルノがすやすやと寝息を立てている。
涙の跡が頬に残っているが、その寝顔はとても健やかなものだった。
洞窟のなかは朝の光がうっすらと差込み、昨日と変わっていないように見えた。
そして、
あの少女は、いなくなっていた。
「どうしたのレティ」
「え? …いえ、大した事はないわ。」
「ふーん」
あの日から数日後、日差しはますます柔らかくなり、空気も日に日に緩んできた。
にもかかわらず、数日前まであれほどはっきり感じていた別れの予感が、何だかとても漠然とした頼りないものになってしまったかのような、妙な心持ちをレティは覚え始めていた。
「嬉しい」
「え…」
「だって、レティ、全然お別れするように感じないもん。まるで、ずっと、ずっと一緒にいられるような気がするんだよ。」
「チルノ…」
チルノの様子は目に見えて元気になっていった。
それは、見栄や意地をはっているのではなく、純粋に嬉しさのあまり元気が涌き出ているように見えた。
その夜、レティは満足げな笑みを浮かべて眠っているチルノを眺めつつ、あの少女のことを考えていた。
あの少女は境界をずらすといった。
わたしの境界はずらされたのか
何と何の境界をずらされたのか
そして、
境界をずらされたわたしは
湖岸に桜が咲き始めた。
色とりどりの花が咲き乱れた。
大地は緑につつまれた。
虫たちがせわしなく動きはじめた。
今まで見たことのない世界。
はなやかであざやかな世界。
チルノは喜んで私にこの新しい世界を教えてくれた。
「レティ~っ! ほら、あれがチューリップって言うんだよ」
「ええ、赤や黄色や紫の花がとても綺麗ね。」
「でしょでしょっ で、それが菜の花で…って、アブラムシがついてる~
えい、フロストコラムス!」
「チルノ、むやみに生き物を凍らせちゃ駄目よ」
「うう~」
ようやくチルノも疲れてきたのか、湖畔縁の木陰で休むことになった。
若葉からの木漏れ日が、目にまぶしかった。
「レティ、春も素敵でしょう。」
「… チルノは大丈夫なの?暑さとか」
「このくらいなら何とか。けど、夏は地獄だけどね。」
「溶けちゃったりしない?」
「しないしない」
そして、とりとめのない会話が途切れるのを待って、
レティは言った。
「チルノ、よく聞いて。私は今から博麗神社に行ってくるわ。」
「え…?」
チルノは唐突なレティの言葉に虚を突かれ、ぽかんとした表情でレティを眺めた。
「いい?今の私はどこかおかしいの。本当はもうここにいてはいけないはずなのに。」
「そっ… そんなことない! レティはぜんぜんおかしくなんてない!」
「チルノ。わかっているでしょう。もう今は春なんだって。私は冬にしかいられないって。」
「でも! レティはここにいるじゃない! こうやって元気にいるじゃない!」
ほとんど泣き叫ぶように、懇願するように、チルノは反発した。
「チルノ… 実はね。冬が終わりそうな時に私はある少女に境界をずらされたの。」
「きょう… かい?」
「そうよ。冬が終わり、春になったら、私が旅立たなければならない境界。それをずらされたの。だから、私は春になってもここに居なければならないの。」
『居なければならない。』 それは、つまり、レティは…
「嫌っ! そんなの嫌! レティは私といて嬉しくないの? そんなにお別れがしたいの?」
「チルノ! それは違う!」
「違わない! そんなの許さない!絶対、博麗神社になんか行かせないんだから!」
チルノはめちゃめちゃに髪を振り乱し、レティの手を振り解き、顔をくしゃくしゃにしながら、
「ダイヤモンドブリザード!」
と叫んだ。
「レティ… レティ… どうして…?!」
「…やっぱりね。 私は冬の妖怪ではなくなっていたのよ…」
チルノのダイヤモンドブリザードを受け、レティは倒れていた。
本当なら、直撃しても寒気と冷気の相性上、大した怪我になるはずはなかった。
しかし、今のレティは、本来ありえないはずの満身創痍の状態になっていた。
「レティッ! ごめん! こんなつもりじゃなかったのに!誤るから、もう邪魔しないから、だから死なないで!お願い! レティッ!」
「…大丈夫よ… 」
「レティ… レティ…」
「…チルノ… お願い… 聞いてくれる?」
「うん…! うん! 何でも聞くよ! だから…」
「そう… チルノは良い子ね…」
「レティ!」
そして、
レティはいつかのように微笑みながら
「博麗神社に行って来てくれる?」
と、チルノの涙をやさしく拭って言った。