博麗霊夢は人間である。
普通の人間なので、精霊のように自然に湧いたりしないし、木の股から生まれてきたりもしない。きちんと両親がいて、愛の結晶として生を受けた。
未だに半人前ではあるが、神社を管理するには十分だろうということで一人暮らしをしている。管理と言ってもたいした仕事はない。こまめに掃除をして、魔物がやってきたら追い払う。それだけだ。
だから今日も霊夢は境内の掃除に勤しんでいた。ただし今は秋。落ち葉の季節。桜の春に並ぶ厳しい季節だ。せっかく掃いてもすぐに新しい落ち葉が増える。キリがない。
「……やっぱり、みんなこの境内を掃除するのが面倒だっただけなのかな」
親を含め、もう何年も身内に会っていない。みんな一体何をしているのか。唯一つ言えるのは、誰も霊夢の掃除の手伝いをする気はない、ということだけだ。
「毎日毎日、いい加減飽きるわよね」
そう愚痴を言いつつも箒の手は休めない。もうすっかり体に染み込んでしまったのだ。思えば物心つく頃には既に境内の掃除をしていたような気がする。そうか、自分は掃除をするためだけに育てられた最終神社清掃巫女なのだ。なんてことだ。
「まあいいか」
馬鹿馬鹿しい。頭の悪い妄想は忘れることにした。そして、入れ違いに大切なことを思い出す。
もう、お米の備蓄がない。
別に一食ぐらい米なしでもいいのだが、やはり白いご飯に味噌汁の組み合わせは捨てがたい。漬物がついていれば万々歳だ。
大至急なんとかしなくてはならない。霊夢は符で掃きかけの落ち葉を縛する空へ飛び立った。
~§~
そろそろ夕方というところで、ようやく霊夢は神社に戻ってきた。手には一俵の米俵。もちろん少女の細腕で持ち上がれるものではなく、いろいろと面倒な術式で浮力を与えている。
さて、無事兵糧を確保したところでぱっぱと掃除を済ませて夕飯の支度を──と思っていたのだが、境内の隅に集めておいた落ち葉の山が消えている。
「風が出てきたから飛ばされたのかしら──そんなわけないじゃない。ちゃんと縛しておいたし」
それに散ったのなら辺りは落ち葉だらけのはず、境内は霊夢が掃いたときのまま、それなりに綺麗なままだ。
──あれだけの時間が経過して、掃いたときのまま?
そんな馬鹿な。落ち葉は今も落ち続けている。そのままということは有り得ない。
では誰かが代わりに掃除してくれた? 誰が? 掃除といえば咲夜だが、彼女は絶対に仕事以外の労働はしない。好意でならばしてくれるかもしれないが、残念ながら霊夢に対する評価はやや低い。では妖夢か? 彼女は庭師だ。この程度軽々済ませてしまうに違いない。ただ問題が一つ。霊界とここの結界が完全に修復されてしまったのでそう簡単に来れないということだ。
などと考えてみたところで、神社を掃除して得をする人など誰もいないことに気がついた。しょっちゅう来る魔理沙なら美観を保つために──と思うことはあるかもしれないが行動することはまずない。仮に動いても逆に掃除の手間を増やしてしまうだけだ。それどころか神社の存続も危うくなる可能性が。
「やめた。どうでもいいわ」
本当にどうでもいい。中に浮いたままの米俵を押して、縁側へ。
──家の中からかすかに話し声がする。
ひとりは魔理沙だろう。彼女は我が物顔で人の家に上がってくる。ある夏の暑い日には、取って置きの氷菓子を全部食べられてしまったこともある。今なら世界を滅ぼせる。本当にそう思えた。
では相手は誰だ?まさか外に聞こえるような独り言を言ったりはしないだろう。
「魔理沙、誰が来て──」
固まった。
「よっ、邪魔してるぜ」
黒いとんがり帽子に黒い服。何故か白いエプロンをつけた魔法使い。霧雨魔理沙。
お行儀悪くあぐらをかいたその先に、もう一人誰かが座っている。
びしっと背筋の伸びた隙のない姿勢。紅と白の着物。銀髪。そして顔に刻まれた深いしわ。それでいて周りを和ませる穏やかな空気をまとった女性。それは、霊夢がよく知る人物であった。
「おかえりなさい、霊夢。何処に行っていたのですか?」
「お、おばあちゃん……!」
霊夢はまだ硬直している。口を動かすだけで精一杯だ。
「そうそう」
魔理沙が口を開いた。霊夢の祖母に話しかける。
「この前のことなんだけどさ、霊夢の奴が──」
霊夢は硬直から解けた。
それと同時に、白い座布団──もとい博麗アミュレットが顔面にヒット。倒れる魔理沙。
「まったくもう。何か変なこと言ってた?」
初老の女性は袖を口にあて、ころころと笑った。
「変なことは言ってませんよ。面白いことならたくさん聞かせてくれましたけど」
遅かったか。元凶に殺意のこもった視線を向ける。しかし当の魔理沙は畳に転がりばたばた暴れていた。符がべったり張り付いて剥がれないらしい。張り付くような術を施した覚えはないのだが……。まあ、結果オーライ。
「おばあちゃん、魔理沙の言うことなんて信じちゃ駄目よ」
「そうですか。ではこれから気をつけますよ」
絶対気をつけるつもりなどないだろう。その態度。
まあ、それはいつものことなのでいいとして──
「今日はどうしたの? 何か用」
「用? それはもちろん、可愛い孫の顔を見に来たんですよ」
「なっ──」
ボンッ! と霊夢の顔が真っ赤に染まる。
「ふふふ、霊夢は可愛いですねぇ」
「な、なな、何言ってるのよ! ほら魔理沙! あんたも何か言って……」
昨日の敵は今日の友。助けを求めて振り向いてみれば、そこに転がる少女の死体──になりかけの物体。ぐったりと横たわり、時々ぴくぴくと手足を痙攣させている。
「あ、ごめん」
べりっと剥がすと魔理沙はバネ仕掛けの人形のように飛び起きた。
「ぜーはーぜーはーぜーはー……し、死ぬかと思った。マジで」
「ごめんねー」
ごめんで済めば世の中に争いごとは起きない。
「まったく、私は長生きする予定なんだぜ。こんなところで幽霊とお友達になってたまるか」
「なら吸血鬼はどうかしら」
『うわっ!?』
二人の間にひょっこり現れた幼い少女。頭をすっぽり覆った帽子にフリルでいっぱいのドレス。背中に揺れる蝙蝠のような羽。吸血鬼の少女、レミリア・スカーレットその人だった。
「あらあら、随分と可愛らしいお客さまだこと」
おや、とレミリアは首をかしげた。霊夢と魔理沙、いつもの二人に加えて、今日はもう一人見慣れない人間がいる。レミリアはスカートをつまんで会釈した。
「さり気なく育ちのよさを見せ付けれくれるわね」
「別に見せ付けてるわけではないけど。霊夢、この人は誰? 紹介してくれないの?」
「霊夢のばあちゃんだぜ」
答えたのは魔理沙だった。
「先々代のここの管理者だ」
「ここの……へぇ、長く生きてそうね」
老人が珍しいのか、頭のてっぺんから足の先までしげしげと眺めている。確かに珍しい。吸血鬼がこの姿になるにはそれこそ気の遠くなるような年月が必要であり、人間は年老いる前に何らかの病や事故──魔物に襲われるなどして命を落とす。
「お嬢ちゃん、私は幾つに見えるかしら?」
うーん、と天井を見上げる。力ある吸血鬼なら万年単位で生きる。人間はどうだっただろうか。少なくとも吸血鬼よりは確か短命だったはずだが。
「千歳ぐらい?」
「おほほ、それでは私は仙人になってしまいますよ」
間違ったらしい。それもかなりのスケールで。
「じゃあ五千?」
「逆だぜ」
「うー」
その後もひと悶着あったりしたのだが、レミリアはすっかりおばあさんを気に入ってしまったようで、隣に陣取って離れなくなってしまった。紅魔館の大人──もちろん精神的な年齢での話だ──で近しい者は咲夜ぐらいしかいない。それでも彼女はまだ十代か二十代といったところ。まだまだ若い。
「おばあさん、それでねそれでね」
「慌てなくても大丈夫よ。ちゃんと聞いてあげますから」
親しい相手の前では見た目相応の子供っぽさを見せることもある彼女だが、今日はいつもに増して幼い。いつもの貫禄はどこへやら、ただのおばあちゃんっ子だ。
「……」
対照的に霊夢は不機嫌だ。じゃれあう二人を前にぶすっとしている。
「霊夢、せっかくばあちゃんが来たんだから嘘でも楽しそうにしたらどうだ」
「嘘でもってのは失礼じゃないの? それに嫌がってるわけじゃないわよ」
そう、別に祖母が嫌いなわけではない。小さい頃はよく面倒を見てもらったし、今でも好きだ。ただ、いつもはべたべたしてきてうっとおしいレミリアでも、いざ取られてみると妙に腹立たしい。そういうわけだ、認めたくはないが。
「霊夢。今日は何か変」
「変じゃない」
お子様にまで見抜かれた。ショックだ。
「やっぱり変だぜ」
「うるさいよ」
少し風に当たろう。どうもペースが崩されっぱなしだ。実に不本意、納得いかない。
ガサッ
障子に手をかけたところで、なにやら草の擦れ合う音がした。
「また誰か来たか。今度は幽霊? レミリアを連れ戻しに来たメイド? まさかあの悪魔じゃないでしょうね」
そっと開けて辺りを伺う。そこには──誰もいなかった。
「なんだ、風か」
いつもどおりの何もない境内。夕日を浴びてより赤く染まった枯葉が、せっかく掃除したそこを容赦なく蹂躙している。
「霊夢もお嬢ちゃんぐらいのときは可愛かったのよ。私の膝に座って──」
「あーっ! あーっ! もういいでしょ!」
レミリアの首根っこを引っ掴み、そのままずりずりと引きずる。
「まったく、仕方ない奴だぜ」
苦笑しながら魔理沙も立ち上がった。立てかけてあった箒を取り、廊下に出る。
「邪魔者は帰るぜ。仲良く水入らずで過ごすんだな」
「一言多い!」
懐から取り出すは博麗アミュレット。魔理沙は慌てて外へ飛び立つ。先ほどの窒息地獄は相当きつかったらしい。
「まだお茶も出してもらってないのに……」
レミリアは大いに不満そうだったが、霊夢が台所に向かうと慌てて部屋を飛び出した。彼女は知っている。台所には対スカーレット姉妹秘密兵器が格納されていることを。
あの吸血鬼をも退ける魔法のアイテム。それは倉庫の古文書を解読して作り上げた──特製にんにくと鮫の皮の最上級おろし金。ひと擦りすれば強烈な臭いが周囲を覆い包み、例え数千年の刻を生きるロードヴァンパイアでも泣きながら逃げ出すこと必至!
ただし博麗神社も一週間にんにく臭さがとれないのが難点か。
「あれは吸血鬼でなくても死ぬわよね」
にんにくを擦らずに済んだことを、霊夢は神に感謝した。
さて、邪魔者は消えた、これでようやくのんびりできる。どうしようか。せっかく祖母が来てくれたのだし。
「それでは私も帰ろうかしら」
「えっ、もう帰っちゃうの!?」
祖母はどっこいしょと腰をあげた。
「今日は顔を見に来ただけだから。また近いうちに遊びに来ますよ」
それに巫女ではない私が居たら神様が怒りますからね、と付け加える。それではしょっちゅうここにやってきてお泊りまでする魔理沙やレミリアはどうなるのか。しかし今の霊夢はそこまで頭が回らなかった。
祖母は縁側に腰を下ろし、草履を履いている。
待って、せっかく会えたのに。子供の頃みたいに甘えさせて。話を聞かせて。手料理を食べさせて。それにそれに──
「一人だと寂しいかい?」
「そ、そんなわけないじゃない! やっと静かになって清々するわ!」
売り言葉に買い言葉。思わず強がりを言ってしまってから大後悔。
「それなら大丈夫ですね。ではまた今度。涼しくなってきましたから、風邪を引かないよう気をつけるんですよ」
「……うん、おばあちゃんも」
神社には霊夢だけが残された。がらんとした居間。いつもどおりの部屋。いつもどおり──のはずなのに。
「静かだな……」
ここはこんなにも広くて、何もないところだったのか。
すでに日は沈んでしまった。もうすぐ夕飯の時間。作らないと……。
「えーいっ!」
ばちんっ!
……痛い。思いっきりの張り手。頬に赤い紅葉ができているに違いない。違いないけれど……これで気弱な自分とはおさらば、いつもの自分に戻ろう。
よし、夕飯だ。いい機会だし久々に真面目に料理を作ってみよう。おばあちゃんが昔教えてくれば肉じゃがなんてどうだろう。
「えーっと、じゃがいもにニンジンに。あら、豚がない。うーん……。あっ、これでいいか。何の肉か分からないけど」
めそめそしている暇などない。私は博麗霊夢。この神社の主。実感はないけど大事な務めを持つ人間。さあ、気合入れて──じゃがいも剥くぞ!
~§~
ざぁぁぁぁぁ──
赤や黄色の落ち葉が風に吹かれ舞い上がった。
「おやおや、風が強くなってきましたね」
早く帰った方がよさそうだ。霊夢にあんなことを言っておきながら、自分がひいてしまったのでは元も子もない。少し歩の進みを速めよう。
──ただ、その前に。
ぱっと後ろを振り返ると、一人の少女が立っていた。綺麗な金髪に白と青のドレス。手には分厚い魔道書を抱えている。
「私に何か用ですか? もし話があるのなら私の家に来ますか? ここは少し寒くて」
少女は押し黙り、何も喋らない。ただ、女性の姿をじっと見つめていた。青い綺麗な瞳。ゆらゆら揺れる。その表情は必死に泣きそうになるのを堪えているかのようだ。
「お嬢さん?」
少女が何かをつぶやく。それと同時に張力の限界に達し、ぽろりと一滴涙がこぼれた。慌ててぎゅっと目をつぶる。でもそれは逆効果。一気に涙が溢れ、頬を伝って地面に落ちてゆく。
「──ッ!」
人間には認識できない叫び声と共に、突如弾ける衝撃波。少女はそれに乗り、空の向こうへと飛び去ってしまった。女性から逃げるように。
もうもうと撒き上がる木の葉。女性は少女の飛び去った空を見上げる。
「ようやく会えました。少し見ない間に随分大きくなったのですね……。前は逆に本に抱かれてるようでしたのに」
再開の喜びに混じる、同じ時を過ごすことができない寂しさ。
「昔の知り合いに会えて嬉しかったですよ──アリス」
風はどんどん強くなる。
女性は──かつての博麗霊夢は、いつまでも空を見上げていた。
普通の人間なので、精霊のように自然に湧いたりしないし、木の股から生まれてきたりもしない。きちんと両親がいて、愛の結晶として生を受けた。
未だに半人前ではあるが、神社を管理するには十分だろうということで一人暮らしをしている。管理と言ってもたいした仕事はない。こまめに掃除をして、魔物がやってきたら追い払う。それだけだ。
だから今日も霊夢は境内の掃除に勤しんでいた。ただし今は秋。落ち葉の季節。桜の春に並ぶ厳しい季節だ。せっかく掃いてもすぐに新しい落ち葉が増える。キリがない。
「……やっぱり、みんなこの境内を掃除するのが面倒だっただけなのかな」
親を含め、もう何年も身内に会っていない。みんな一体何をしているのか。唯一つ言えるのは、誰も霊夢の掃除の手伝いをする気はない、ということだけだ。
「毎日毎日、いい加減飽きるわよね」
そう愚痴を言いつつも箒の手は休めない。もうすっかり体に染み込んでしまったのだ。思えば物心つく頃には既に境内の掃除をしていたような気がする。そうか、自分は掃除をするためだけに育てられた最終神社清掃巫女なのだ。なんてことだ。
「まあいいか」
馬鹿馬鹿しい。頭の悪い妄想は忘れることにした。そして、入れ違いに大切なことを思い出す。
もう、お米の備蓄がない。
別に一食ぐらい米なしでもいいのだが、やはり白いご飯に味噌汁の組み合わせは捨てがたい。漬物がついていれば万々歳だ。
大至急なんとかしなくてはならない。霊夢は符で掃きかけの落ち葉を縛する空へ飛び立った。
~§~
そろそろ夕方というところで、ようやく霊夢は神社に戻ってきた。手には一俵の米俵。もちろん少女の細腕で持ち上がれるものではなく、いろいろと面倒な術式で浮力を与えている。
さて、無事兵糧を確保したところでぱっぱと掃除を済ませて夕飯の支度を──と思っていたのだが、境内の隅に集めておいた落ち葉の山が消えている。
「風が出てきたから飛ばされたのかしら──そんなわけないじゃない。ちゃんと縛しておいたし」
それに散ったのなら辺りは落ち葉だらけのはず、境内は霊夢が掃いたときのまま、それなりに綺麗なままだ。
──あれだけの時間が経過して、掃いたときのまま?
そんな馬鹿な。落ち葉は今も落ち続けている。そのままということは有り得ない。
では誰かが代わりに掃除してくれた? 誰が? 掃除といえば咲夜だが、彼女は絶対に仕事以外の労働はしない。好意でならばしてくれるかもしれないが、残念ながら霊夢に対する評価はやや低い。では妖夢か? 彼女は庭師だ。この程度軽々済ませてしまうに違いない。ただ問題が一つ。霊界とここの結界が完全に修復されてしまったのでそう簡単に来れないということだ。
などと考えてみたところで、神社を掃除して得をする人など誰もいないことに気がついた。しょっちゅう来る魔理沙なら美観を保つために──と思うことはあるかもしれないが行動することはまずない。仮に動いても逆に掃除の手間を増やしてしまうだけだ。それどころか神社の存続も危うくなる可能性が。
「やめた。どうでもいいわ」
本当にどうでもいい。中に浮いたままの米俵を押して、縁側へ。
──家の中からかすかに話し声がする。
ひとりは魔理沙だろう。彼女は我が物顔で人の家に上がってくる。ある夏の暑い日には、取って置きの氷菓子を全部食べられてしまったこともある。今なら世界を滅ぼせる。本当にそう思えた。
では相手は誰だ?まさか外に聞こえるような独り言を言ったりはしないだろう。
「魔理沙、誰が来て──」
固まった。
「よっ、邪魔してるぜ」
黒いとんがり帽子に黒い服。何故か白いエプロンをつけた魔法使い。霧雨魔理沙。
お行儀悪くあぐらをかいたその先に、もう一人誰かが座っている。
びしっと背筋の伸びた隙のない姿勢。紅と白の着物。銀髪。そして顔に刻まれた深いしわ。それでいて周りを和ませる穏やかな空気をまとった女性。それは、霊夢がよく知る人物であった。
「おかえりなさい、霊夢。何処に行っていたのですか?」
「お、おばあちゃん……!」
霊夢はまだ硬直している。口を動かすだけで精一杯だ。
「そうそう」
魔理沙が口を開いた。霊夢の祖母に話しかける。
「この前のことなんだけどさ、霊夢の奴が──」
霊夢は硬直から解けた。
それと同時に、白い座布団──もとい博麗アミュレットが顔面にヒット。倒れる魔理沙。
「まったくもう。何か変なこと言ってた?」
初老の女性は袖を口にあて、ころころと笑った。
「変なことは言ってませんよ。面白いことならたくさん聞かせてくれましたけど」
遅かったか。元凶に殺意のこもった視線を向ける。しかし当の魔理沙は畳に転がりばたばた暴れていた。符がべったり張り付いて剥がれないらしい。張り付くような術を施した覚えはないのだが……。まあ、結果オーライ。
「おばあちゃん、魔理沙の言うことなんて信じちゃ駄目よ」
「そうですか。ではこれから気をつけますよ」
絶対気をつけるつもりなどないだろう。その態度。
まあ、それはいつものことなのでいいとして──
「今日はどうしたの? 何か用」
「用? それはもちろん、可愛い孫の顔を見に来たんですよ」
「なっ──」
ボンッ! と霊夢の顔が真っ赤に染まる。
「ふふふ、霊夢は可愛いですねぇ」
「な、なな、何言ってるのよ! ほら魔理沙! あんたも何か言って……」
昨日の敵は今日の友。助けを求めて振り向いてみれば、そこに転がる少女の死体──になりかけの物体。ぐったりと横たわり、時々ぴくぴくと手足を痙攣させている。
「あ、ごめん」
べりっと剥がすと魔理沙はバネ仕掛けの人形のように飛び起きた。
「ぜーはーぜーはーぜーはー……し、死ぬかと思った。マジで」
「ごめんねー」
ごめんで済めば世の中に争いごとは起きない。
「まったく、私は長生きする予定なんだぜ。こんなところで幽霊とお友達になってたまるか」
「なら吸血鬼はどうかしら」
『うわっ!?』
二人の間にひょっこり現れた幼い少女。頭をすっぽり覆った帽子にフリルでいっぱいのドレス。背中に揺れる蝙蝠のような羽。吸血鬼の少女、レミリア・スカーレットその人だった。
「あらあら、随分と可愛らしいお客さまだこと」
おや、とレミリアは首をかしげた。霊夢と魔理沙、いつもの二人に加えて、今日はもう一人見慣れない人間がいる。レミリアはスカートをつまんで会釈した。
「さり気なく育ちのよさを見せ付けれくれるわね」
「別に見せ付けてるわけではないけど。霊夢、この人は誰? 紹介してくれないの?」
「霊夢のばあちゃんだぜ」
答えたのは魔理沙だった。
「先々代のここの管理者だ」
「ここの……へぇ、長く生きてそうね」
老人が珍しいのか、頭のてっぺんから足の先までしげしげと眺めている。確かに珍しい。吸血鬼がこの姿になるにはそれこそ気の遠くなるような年月が必要であり、人間は年老いる前に何らかの病や事故──魔物に襲われるなどして命を落とす。
「お嬢ちゃん、私は幾つに見えるかしら?」
うーん、と天井を見上げる。力ある吸血鬼なら万年単位で生きる。人間はどうだっただろうか。少なくとも吸血鬼よりは確か短命だったはずだが。
「千歳ぐらい?」
「おほほ、それでは私は仙人になってしまいますよ」
間違ったらしい。それもかなりのスケールで。
「じゃあ五千?」
「逆だぜ」
「うー」
その後もひと悶着あったりしたのだが、レミリアはすっかりおばあさんを気に入ってしまったようで、隣に陣取って離れなくなってしまった。紅魔館の大人──もちろん精神的な年齢での話だ──で近しい者は咲夜ぐらいしかいない。それでも彼女はまだ十代か二十代といったところ。まだまだ若い。
「おばあさん、それでねそれでね」
「慌てなくても大丈夫よ。ちゃんと聞いてあげますから」
親しい相手の前では見た目相応の子供っぽさを見せることもある彼女だが、今日はいつもに増して幼い。いつもの貫禄はどこへやら、ただのおばあちゃんっ子だ。
「……」
対照的に霊夢は不機嫌だ。じゃれあう二人を前にぶすっとしている。
「霊夢、せっかくばあちゃんが来たんだから嘘でも楽しそうにしたらどうだ」
「嘘でもってのは失礼じゃないの? それに嫌がってるわけじゃないわよ」
そう、別に祖母が嫌いなわけではない。小さい頃はよく面倒を見てもらったし、今でも好きだ。ただ、いつもはべたべたしてきてうっとおしいレミリアでも、いざ取られてみると妙に腹立たしい。そういうわけだ、認めたくはないが。
「霊夢。今日は何か変」
「変じゃない」
お子様にまで見抜かれた。ショックだ。
「やっぱり変だぜ」
「うるさいよ」
少し風に当たろう。どうもペースが崩されっぱなしだ。実に不本意、納得いかない。
ガサッ
障子に手をかけたところで、なにやら草の擦れ合う音がした。
「また誰か来たか。今度は幽霊? レミリアを連れ戻しに来たメイド? まさかあの悪魔じゃないでしょうね」
そっと開けて辺りを伺う。そこには──誰もいなかった。
「なんだ、風か」
いつもどおりの何もない境内。夕日を浴びてより赤く染まった枯葉が、せっかく掃除したそこを容赦なく蹂躙している。
「霊夢もお嬢ちゃんぐらいのときは可愛かったのよ。私の膝に座って──」
「あーっ! あーっ! もういいでしょ!」
レミリアの首根っこを引っ掴み、そのままずりずりと引きずる。
「まったく、仕方ない奴だぜ」
苦笑しながら魔理沙も立ち上がった。立てかけてあった箒を取り、廊下に出る。
「邪魔者は帰るぜ。仲良く水入らずで過ごすんだな」
「一言多い!」
懐から取り出すは博麗アミュレット。魔理沙は慌てて外へ飛び立つ。先ほどの窒息地獄は相当きつかったらしい。
「まだお茶も出してもらってないのに……」
レミリアは大いに不満そうだったが、霊夢が台所に向かうと慌てて部屋を飛び出した。彼女は知っている。台所には対スカーレット姉妹秘密兵器が格納されていることを。
あの吸血鬼をも退ける魔法のアイテム。それは倉庫の古文書を解読して作り上げた──特製にんにくと鮫の皮の最上級おろし金。ひと擦りすれば強烈な臭いが周囲を覆い包み、例え数千年の刻を生きるロードヴァンパイアでも泣きながら逃げ出すこと必至!
ただし博麗神社も一週間にんにく臭さがとれないのが難点か。
「あれは吸血鬼でなくても死ぬわよね」
にんにくを擦らずに済んだことを、霊夢は神に感謝した。
さて、邪魔者は消えた、これでようやくのんびりできる。どうしようか。せっかく祖母が来てくれたのだし。
「それでは私も帰ろうかしら」
「えっ、もう帰っちゃうの!?」
祖母はどっこいしょと腰をあげた。
「今日は顔を見に来ただけだから。また近いうちに遊びに来ますよ」
それに巫女ではない私が居たら神様が怒りますからね、と付け加える。それではしょっちゅうここにやってきてお泊りまでする魔理沙やレミリアはどうなるのか。しかし今の霊夢はそこまで頭が回らなかった。
祖母は縁側に腰を下ろし、草履を履いている。
待って、せっかく会えたのに。子供の頃みたいに甘えさせて。話を聞かせて。手料理を食べさせて。それにそれに──
「一人だと寂しいかい?」
「そ、そんなわけないじゃない! やっと静かになって清々するわ!」
売り言葉に買い言葉。思わず強がりを言ってしまってから大後悔。
「それなら大丈夫ですね。ではまた今度。涼しくなってきましたから、風邪を引かないよう気をつけるんですよ」
「……うん、おばあちゃんも」
神社には霊夢だけが残された。がらんとした居間。いつもどおりの部屋。いつもどおり──のはずなのに。
「静かだな……」
ここはこんなにも広くて、何もないところだったのか。
すでに日は沈んでしまった。もうすぐ夕飯の時間。作らないと……。
「えーいっ!」
ばちんっ!
……痛い。思いっきりの張り手。頬に赤い紅葉ができているに違いない。違いないけれど……これで気弱な自分とはおさらば、いつもの自分に戻ろう。
よし、夕飯だ。いい機会だし久々に真面目に料理を作ってみよう。おばあちゃんが昔教えてくれば肉じゃがなんてどうだろう。
「えーっと、じゃがいもにニンジンに。あら、豚がない。うーん……。あっ、これでいいか。何の肉か分からないけど」
めそめそしている暇などない。私は博麗霊夢。この神社の主。実感はないけど大事な務めを持つ人間。さあ、気合入れて──じゃがいも剥くぞ!
~§~
ざぁぁぁぁぁ──
赤や黄色の落ち葉が風に吹かれ舞い上がった。
「おやおや、風が強くなってきましたね」
早く帰った方がよさそうだ。霊夢にあんなことを言っておきながら、自分がひいてしまったのでは元も子もない。少し歩の進みを速めよう。
──ただ、その前に。
ぱっと後ろを振り返ると、一人の少女が立っていた。綺麗な金髪に白と青のドレス。手には分厚い魔道書を抱えている。
「私に何か用ですか? もし話があるのなら私の家に来ますか? ここは少し寒くて」
少女は押し黙り、何も喋らない。ただ、女性の姿をじっと見つめていた。青い綺麗な瞳。ゆらゆら揺れる。その表情は必死に泣きそうになるのを堪えているかのようだ。
「お嬢さん?」
少女が何かをつぶやく。それと同時に張力の限界に達し、ぽろりと一滴涙がこぼれた。慌ててぎゅっと目をつぶる。でもそれは逆効果。一気に涙が溢れ、頬を伝って地面に落ちてゆく。
「──ッ!」
人間には認識できない叫び声と共に、突如弾ける衝撃波。少女はそれに乗り、空の向こうへと飛び去ってしまった。女性から逃げるように。
もうもうと撒き上がる木の葉。女性は少女の飛び去った空を見上げる。
「ようやく会えました。少し見ない間に随分大きくなったのですね……。前は逆に本に抱かれてるようでしたのに」
再開の喜びに混じる、同じ時を過ごすことができない寂しさ。
「昔の知り合いに会えて嬉しかったですよ──アリス」
風はどんどん強くなる。
女性は──かつての博麗霊夢は、いつまでも空を見上げていた。
これがミスディレクショ(ry
大正解だったと思います。語らないことで多くを語る。切ない余韻に浸れる素晴らしい作品でした。
でも最後のアリスのとこはすばらしいです。
なるほど、納得です。
ひとつだけ誤字指摘を。
「おばあちゃんが昔教えてくれば肉じゃが」
素直じゃなさすぎるアリスがいいなあ。
最新作品集まで読み通した今なお、私の中での最高傑作です。
旧作の新解釈もお見事でした。