その日、妖怪の山は清々しいまでの晴天であった。
天狗達は障害物の無い太陽の熱にうんざりしながらも世話しなく山を警備して、または何か別の用事をもってして飛び回っていた。
そんな暑い季節、滝の麓に二つの影があった。丁度木陰になり水飛沫が届かぬ位置、河童と白狼天狗が向かい合って将棋を打っている。
その河童、河城にとりは気づかれぬよう、相手の顔をちらりと覗き見た。
ほんの少し前、初めて顔を合わせた白狼天狗だった。ほとんどを山の”中”で過ごしていたにとりは、まだ山の”外”の天狗と交流が浅い。その白狼天狗が何故自分と将棋を?と疑問にも思ったが、断る理由は無い。ついでに言えば、将棋は好きな方である。にとりは二つ返事で頷いた。
ただ、確かに初めて会うはずだが、どうにもこの白狼天狗を――犬走椛と言ったか――知っている気がしてならない。
結局思い出す事が出来ず、にとりは盤に視線を落とした。
パチン、
木製の盤に木製の駒が置かれる。それを見て、にとりは「ふむ」と頷いた。
椛は相変わらず難しい顔をしている。必死に盤を見て、ひたすらに頭を動かしているようだった。
互いに無言のまま向き合い、長い時間が経過していた。
やがてにとりの手が動く。一つの駒をつまみ、パチン、と進めた。
「……う」
椛はそれを見て小さくうめいた。それを聞いて、にとりはほんの少し微笑んだ。
手持ちの駒と盤とを交互に、世話しなく視線を動かしていた。
何となく。
向かい合って打っているのは自分であるが、椛は何か別のものと戦っている。にとりはそんな錯覚を覚えた。勝負とは言え、将棋にここまで鬼気迫っていることにも疑問をもっていた。それとも天狗とはこういうものなのだろうか、にとりはひたすら首を傾げるばかりである。
椛の頬を、汗が伝って落ちるのが見えた。目は真剣。その顔を、やはり何処か懐かしく思っていると、椛が口を開いた。
「……そうだ、いつもここで……」
「え?」
一人言だろうか、にとりの返しに椛は反応を見せなかった。
すっ、と椛が駒を動かす。
パチン
………
……
…
* * *
「で、お前の負けだ」
「……あっ!」
椛は小さく声をあげた。
目の前に座った男はケラケラと高く笑う。幾分悔しそうに盤を睨む椛の頭を、男はクシャクシャと撫でまわす。
「何故負けたか考えるも、新しい戦略を考えるも自由だ」
どっこいせーと男が立ち上がる。そのまま襖の向こうに消えていくのを確認してから、椛は盤の上に崩れ落ちた。盤の上に並んでいた駒がボロボロと畳に転げ落ちる。
椛は山で仲間の天狗と将棋を打つことがあまり無かった。そこに特に理由は無い。ただ上司の烏天狗とは二度とやりたくないな、とは思っていた。あれは強すぎる。
ふと、たまたま視線が捕らえた駒を摘み上げ、それに描かれた字を何気なく読み上げた。
「歩」
摘む指から力を抜くと、ころりと掌から転げ落ち、それを興味無さ気に視線で追う。
何処に視線を向けるわけでもなく、ただボウっとしていると、かすかに雨の音が聞こえてくる。それと一緒に、カーン、カーンと言う木工作業の音。
やがて駒を片付けようと、ゆっくりと上体を起こす。少し遠くに転がってしまった駒に手を伸ばしたところで、左足に痛みが走った。
目を向けると、細い板を添えて包帯でぐるぐる巻きになった左足が悲鳴をあげていたようだった。
椛は己の迂闊さを今一度噛み締め、ほんの数日前の出来事を思い出した。
*
妖怪の山。
椛は滝にいた。その滝から突き出た、激流にも耐えうる岩の上。そこが彼女の居場所だった。水飛沫を背中に、椛は妖怪の山の麓を見渡せるこの場所を気に入っていた。
胡坐をかき、愛用の盾と剣を脇に置き、今日も侵入者がいないか麓を見る。
その日は少し雨が強い日であった。しばらく同じ天気が続いている為、台風でも近づいているのだろうか?と思考していた。
そこに黒い羽がはらりと落ちてきたのを視界に納め、椛は顔を上げる。そこには上司の烏天狗がいた。
「あやややや。雨中お勤めご苦労様です椛さん」
「文さん。どうしました?」
文は楓型の扇で口元を隠しながら、空を指差した。
「こんな天気が続いて、上流の水かさが増えてます。椛さんはいつもここにいたのを思い出しまして、ご忠告を」
「はぁ。確かに流木なんかが流れてきたら大変ですね。わかりました、移動しま―」
ゴッ
耳元で鈍い音がした。一瞬、時が止まったような気がした。
ゆっくり進む世界で、少し驚いた表情の文が物凄い速度でカメラを取り出したのを確かに見た。
突如流れてきた流木と共に滝を落下しながら、椛が最後に聞いたのは雨の音でも滝の音でもなく、「あやややや」と言う声とシャッター音だった。
*
結果、椛は妖怪の山からそこそこの場所まで流されたらしい。
そこで近くの里の人間に発見され、その人間の家で看護を受けている。どうにも左足が折れてしまったようだった。流木が直撃した位置は特に何とも無い。妖怪、変なところが頑丈で変なところが脆いものだ。
椛がこの家に来てから二日が経過していた。外の雨を思い出し、やはり近いうちに台風でも来るのだろうと再度思う。
ジャラジャラと駒を片付けながら、ふと引っくり返した盤に視線を落とした。そこには不思議な模様が刻まれている。盤だけではない。駒は勿論、椛がいる部屋の木製品全てにそれは刻まれていた。
全てあの男が作ったものだそうだ。模様はその印である。
「手先が器用なんだな……」
精巧に作られたそれに、感嘆の溜息を漏らす。
しかし椛は男の名前は知らなかった。男もまた椛の名前を知らないはずだ。名乗っていないから。
男は必要以上のことを探ろうとはしなかった。椛もまた、その方が下手な嘘をつかずに済むのでホッとしていた。しかし傷の治りの早さは誤魔化せない。まだ痛みはあるものの、骨自体は大分回復している。もう二、三日で完治してしまうだろう。
この世の中、人間と妖怪は仲がいいとはとても言えない。日々妖怪が人間を喰い、人間は妖怪を退治している。
「あの男も、」
私が妖怪だと知ったら、殺しに来るだろうか。言葉は続かなかった。その時自分はどうするか。考えたくも無かった。
妖怪の山から出た事の無い椛であったが、人間の善悪程度はわかる。見ず知らずの自分を助けてくれた人間を殺す事など、したくは無い。無論、殺される事も。
「怖い顔して、どうした」
「!」
椛が顔を上げると、丁度男が入ってきたようだった。
椛の顔を見ると人当たりの良さそうな笑顔になる。
「飯。歩けるか?持ってくるか?」
「あ、ああ。ありがとう、歩ける」
椛はやはり木製の杖を手に立ち上がり、男のあとについていった。
廊下を通り、客間に抜ける。そこには二人分の食事が用意されていた。男の家はそれなりに大きかったが、一人暮らしのようだった。ありとあらゆる場所に男の作った木製の家具が並んでいる。
向かい合う形で食事をとっていると、男が急に口を開いた。
「妖怪の山、知ってるか?俺はいろんな場所を見て回るのが好きでな。いつかあそこに行ってみたいものだ」
椛は箸を止めた。
顔を上げるといつもの男の顔がある。本気で言っているのか冗談で言っているのか判断が出来ず、怪訝な表情で返す。
「……何故、あのような危険な場所に?」
「さて、なぁ。未踏の地への好奇心か」
「あそこは!」
椛はつい身を乗り出し、声をあげる。男の驚いた顔を見て冷静になり、姿勢を正した。
一度咳払い、それでもなるべく強い口調で告げる。
「あそこは好奇心で訪れる様な場所ではないだろう。入ったら最後、妖怪に……」
「曰く、踏み入れてはならぬ山」
「……?」
「曰く、生きては戻れぬ山」
「だからっ」
「そんな事は承知の上なのさ。余計行きたくなるだけさ」
男は言い切った。椛は、言葉を飲み込むしかなかった。
その日は、もうそれ以上の会話はなかった。結局何故男は妖怪の山に入りたがるのか、わからないままだった。
妖怪である椛には、わかり得ぬことだった。
*
パチン
「どうだ?」
「……参りました」
椛は盤を睨みながら呟く。男は満足そうに一度頷くと、いつも通り立ち上がる。
普段ならそのまま部屋を立ち去るのだが、その日は違った。
椛の足を見て、口を開く。
「もう大丈夫なのか?」
「え……あ、ああ。もう杖も無しに立てる」
「……そろそろ行くのか?」
「!」
椛はこのまま置手紙でも残して立ち去る気でいた。薄情かも知れないが、怪我が治った以上はここに留まる理由は無い。
返答に困りまごつく椛の様子を見て取って、男は「ちょっと待ってろ」と姿を消した。
次戻ってきたときには、椛の元々着ていた服を持っていた。洗濯され、小奇麗になっている。
「あ……」
男は何も言わず部屋を出て行ってしまった。
椛はほんの少し寂しい顔をする。その理由は自分でもわかりかねた。恩か情か、それが何か判断する術をまるで持っていなかった。
自分の服を広げると、破れていただろう部分は縫われていた。慣れた手つきで着替え、椛は部屋を出る。廊下、土間、玄関に抜けるまで雨音しかしなかった。ここ数日を普段と言っていいものかわからないが、普段はあの男が何かを作っている音がしたものだ。
玄関にあった高下駄を履き、椛は少し下駄の感覚に違和感を覚えつつ外に出る。
男は外にいた。開いた傘を片手、閉じた傘を片手に立っていた。
「下駄は壊れていたから俺が真似して作った。どうだ?」
「……ああ、ありがとう。よく、馴染むよ」
「傘は?」
「いや……」
「そうか」
すると男は上着のポケットから何か取り出し、ひょいと投げてきた。
椛がそれを受け取ると、それは例の模様の入った将棋の駒だった。
「何かの縁だ。やるよ」
「……ありがとう」
椛は「歩」の駒を大切そうに握り締めると、男に向き直る。
雨で目元にひっついた前髪も払わずに口を開く。
「妖怪の、山は、」
「それ以上言うな。こればっかりはどうしようもない」
椛はまた言葉を飲み込むしかなかった。
ほんの少し悔しそうに俯き、歩を進める。男の横を通り過ぎたところで、背中に声がかかった。
「負けたままってのも何だ、気が向いたらまた打とう」
「……はい。いつか必ず、約束です……!」
「ああ……約束だ」
ザアア
一際雨が強くなる。
男が振り向くとそこにはもう誰もいなかった。目を細め、遠くの妖怪の山を見る。
「約束……か」
*
「あや?椛さん。ご無事でしたか」
「……おかげさまで」
「そんな目をしないでください。決して見捨てたわけではありません。椛さんのがんじょ……身体能力の高さを持ってすれば、あの程度は大事に到らないと信じていました」
「……それはどうも」
カラカラと笑う烏天狗に挨拶もそこそこ、留守にしてしまった数日間の様子を聞く。
文の目にはここ最近、山に大きな動きは無いらしい。
余談であるが事故とは言え無断で見張りを留守にしてしまった件については文が上司の天狗に説明してくれたらしい。それと同時に流木に直撃した瞬間の写真がついた屈辱的な新聞も出回っているので感謝の言葉は言わなかったが。
この嵐ともいえる天候の中、ほとんどの河童や天狗は見張りを中止しているようだった。こんな天候ではただでさえ少ない侵入者も来ないだろうという判断である。
それでも椛は滝の前までふらりと飛んでいった。荒れている滝は椛のお気に入りの場所を飲み込んでしまい、座っての見張りは出来そうに無い。
「何か気になることでも?」
ふらりと文が飛んできた。椛は口を開きかけて、その手荷物を見て言葉を飲む。
それは椛の剣と盾だった。
その視線に気づいた文が、それを差し出す。
「白狼天狗はこれを持ってないとしっくりきませんからねぇ。どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
「それで、先の質問ですが」
椛は今度は口を噤んだ。ここ数日、何処にいたかは誰にも説明していない。
あの男が妖怪の山に来る様な、そんな予感がした。来るのならば、せめて自分が追い返そう。他の妖怪に任せては間違いなく殺してしまう。
してその事を文に告げるべきかどうか迷った。彼女は妖怪の山では珍しく人間を頭から嫌っているわけではないが、それでも上位三本に確実に入る実力を持っている烏天狗だ。今まで数多くの人間を屠ってきているのもまた事実である。
椛は、文に告げなかった。
「……いえ。私は、ここが落ち着くのです」
「こんな嵐の中ですか?構いませんが、また滝に飲まれたりしないでくださいね」
文はそう言って去る、椛はそう思っていた。しかし文はまだ椛を観察するような目で見ていた。
椛が「何か?」と口を開く前に、文がぽつりと呟いた。
「それではここ数日、何処にいました?」
「……!」
文の目が鋭くなったのがわかった。
人間に手当てしてもらっていた。そう素直に言えばいい。しかし椛の口は動かなかった。文はそんな事を怒るような妖怪ではない。それはわかっている。
椛は初めて文を恐ろしく思った。恐らく嘘をついても真実は隠せるものの、嘘をついているということはバレてしまうだろう。何故文がここまで恐ろしい目つきをするのか、それがわからず戸惑った。
そしてあろう事か、バレるとわかっている嘘をついた。
「ふ、麓の、洞窟にいました。左足が折れてしまっていたので、治癒するまで、そこに、」
「……そうですか」
文は椛の左足に触れた。椛はただ恐れ、動く事が出来なかった。
何度かペタペタと触れると、文が顔をあげた。その顔は、
「あやや、もう大丈夫ですか?」
少し心配そうな、優しい文だった。
椛は緊張が解け、肩を撫で下ろす。一度頷くと文は一度椛の頭を撫でた。
「何よりです。では、先ほども言いましたが滝に飲まれませんようお気をつけて」
椛が言葉を返す前に、文はふらりと飛んでいってしまった。心配してくれたのだろうか、椛は自然と笑みが浮かぶのを自覚した。そしてそれを噛み殺す。改めて椛は滝に背を向け、麓を見下ろした。
じっと。出来れば何事も無く時間が過ぎて欲しかった。
しかし男が麓に現れるまで、そう時間はかからなかった。
*
「何で……!」
椛は少し苛立たしく思う。妖怪の山に侵入した人間は今まで一人も帰していない。来れば死ぬとわかっているはずだ。
なのに男は来た。そしてその腰に刀を提げているのを見て、椛は溜息をついた。
――まだ麓の川である。椛は滝から離れ、男に気づかれない程度の距離まで近づいていった。
己の千里眼が間違いであって欲しいと思ったのは初めてだ。しかし近づいてみると、やはりあの男であった。
椛は咳払いを一つ、男に向けて声を発した。
「止まれ」
姿は現さない。それでも男は足を止めた。
顔は真っ直ぐ向いているが、視線を左右に動かしている。右足をほんの少し前に出し、刀にそっと手を触れていた。いつでも抜刀できるようにだろう。
戦う気である。
山の妖怪と。
椛はいつもの調子で言葉を続けた。
「これより先は妖怪の領域だ。人間よ、立ち去れ」
男はハッとして構えを解いた。今度は首を左右に動かし、辺りを見回す。
「この声、お前――」
「これは警告だ。人間……っ!」
椛は背を向け、駆けた。椛は逃げた。男がこの後に取る行動が見たくなくて。
ひたすら、跳ぶ様に山を登り、滝の麓まで来たところで足を止めた。この程度で息が切れるなど普段はありえないことだが、喉が冷たく、酷く痛むほど呼吸が荒くなっていた。
男が引き返せば、自分も何事も無かったかのように山に戻れる。そう、そうしたら文に将棋の対局を頼もう。そして勝てるまでとは言えず、上達が見込めたらあの男の元へ行こう。今度こそ、勝とう。結局自分は一勝も出来なかった。だから、今度は絶対に勝たなくてはいけない。
気づいたら、呼吸は落ち着いていた。
もしくは、それほどの時間椛はうずくまっていた。
椛は、立ち上がった。
奥歯を強く噛み締め、振り向いた。
男が、いた。
*
雨は酷く強くなっていた。地面を叩きつける雨音と、それにも負けない勢いで流れ落ちてくる滝の音。
その他に、金属音が響いた。
それは互いに無言のまま始まった。椛の剣と、男の刀が打ち響き合う。
椛の警告を持ってしても男は来た。ならば、これ以上の言葉は無粋である。男もまた、何も言わなかった。
椛は元々山の警備をする役目を持っているので、それなりに訓練されている。それでも男は強かった。何度も椛の剣を避け、打ち込んでくる。
互いに力量が互角だとするのならば、やはり先に崩れるのは男であった。人間と妖怪の体力の差、男の持つ刀はすぐに切っ先が下がり始めた。
金属と金属の擦れ合う嫌な音がした。
椛の一閃が、男の刀を二本に叩き折った。
男はふらりとよろめく。椛はそのまま剣を突き刺そうと顔を上げる。
目が合った。
「お待ちなさい!」
声と同時に、椛と男の間に風が生まれた。二人が突然の風に目を瞑った刹那、文がそこに現れた。
文は椛に背を向け、男と向き合う形で立っている。
「貴方には椛がお世話になりました。出来ればここで命を散らせて欲しくない。立ち去って頂けませんか?」
「……」
男は黙っていた。椛もまた、口を開かない。
ほんの少しの沈黙。男は椛を見て、微笑んだ。その口が、声を発さず動く。
す
ま
な
い
文が怪訝な顔で椛の顔を窺う。
後は早かった。
文が振り返った瞬間、男が折れた刀を構えて、文か椛かはわからなかったが、突き出してきた。
椛は文を押しのけ、男の手首ごと刀を叩き落した。返す刀で袈裟に薙ぎ払った。
男の体は胸から真っ二つになり、滝のすぐそばに、グシャリと落ちた。
*
「……すみません、椛さん。余計な事をしました」
「……いえ」
椛は振り向かなかった。
ただ男の亡骸の前に立っている。文の位置からは表情が窺えなかった。
文がどう声をかけていいか迷っていると、椛が振り向かないまま先に口を開く。
「文さん、何故私が彼にお世話になったと?」
「……推測です。裁縫道具も無い洞窟で服なんて縫えませんし、まして下駄なんて作れやしません」
「あ……」
「それにこの嵐の中、いくら椛さんでも普段は滝の前で待機なんてしませんよ。その人が来る事までわかっていたのでしょう?」
「……さすが文さんですね。凄い洞察力です」
「決め手は勘ですけどね」
くるりと、椛が振り返った。雨でびしょ濡れの中、彼女が泣いているのかどうかなんて判断は、文には出来なかった。
クスリと、椛が笑みを漏らした。
「哀れ、ですよね」
「……」
「こんなに赤く染まって」
「……」
「野に埋もれて」
「椛……」
「哀れですよね」
椛は天を仰いだ。雨はどんどんと強くなっていく。先ほどから雷も聞こえてきていた。
ふいに、何かの音が大きくなるのを感じた。椛は気づいてか気づいていないのか、目を閉じてそこにじっとしている。
ハッと文は顔を上げる。上流の河が氾濫したのか、多量の滝が、河の水が流れ落ちてきていた。
文はすぐに椛に駆け寄り、手を引っ張りその場を離れる。一瞬後、溢れた滝は椛と文の立っていた場所を、男の亡骸を飲み込んだ。
二人は滝から少し離れた位置に座り込む。椛は虚ろな瞳で河を眺めていた。その手に何か、木片のようなものを握り締めているのが文に見えたが、それが何かはわからなかった。椛がポツリと呟く。
「文さん」
「はい」
「私、哀しいです。初めて、こんな事思いました」
「……はい」
「文さん」
「はい」
「いつか、人と、殺すとか、殺されるとか、そういうのが無くなる日が、来る、でしょうか」
「……はい」
「文さん」
「はい」
「私に……しょ、しょうぎ、を、おしえ、てっ、くだっ……さっ……!」
ザアア
あとは全て、雨音が消した。文は目を瞑り、静かに頷いた。
人間の業も、妖怪の罪も、全てを流してくれとは言わない。けれどせめて、椛の涙ぐらいは流していって貰えないだろうか。文はただ椛の横に寄り添う。それぐらいしか出来なかったから。
豪雨は長い間続いた。
妖怪の山だけではなく、幻想郷全体を覆っていたようだった。
太陽も顔を出せぬ日々が続き、やがて久しく太陽を見たかと思うと「博麗大結界が張られた」と、そんなことを耳にした。
人と妖怪が殺しあう世の中は、
終わったのだった。
* * *
…
……
………
「これで、にとりさんの負けです」
「……あ!」
にとりが小さく声をあげた。椛は満足そうに頷くと、やれやれと額の汗を拭った。
にとりは何度か盤を見直していたようだが、すぐに負けを認めた。そしてほんのり微笑む。
「負けました。自信あったんですが、お強いですね白狼天狗様」
「椛でいいですよ」
椛も微笑み返し、駒を片付ける。
そこににとりはずい、と椛に顔を近づけた。
「ところで、何故私なんかと将棋を?」
にとりの質問に、椛は一瞬悲しそうな顔をした。
しかしすぐに滝の上を指差す。
「先日、私の上司の烏天狗さんが下駄をにとりさんに作っていただき、その出来の良さに感動してました」
「あ!もしかして射命丸さんですか?」
「はい。私も下駄を見せていただくと、とても素晴らしいものでした。……本当に、びっくりしました」
にとりは自分の作品を褒められて笑顔になる。
「この盤も、駒も、にとりさんがお作りになられたんですね」
「はい!」
「文さんの下駄を見て、本当に驚きました。目を、疑いました……」
「? もみじ、さん?」
椛はポロポロと涙をこぼしていた。それを見て、にとりは戸惑う。
しかし椛はそんなこと気にもせず、盤をゆっくりと引っくり返す。ある一点を見つめているようだった。
そして袖から、何か木片のようなものを取り出した。差し出されているようで、にとりはそれを受け取る。
形は将棋の駒だった。表面は色あせ何と書かれていたがわからないが、手触りで「歩」ではないかと思う。
「!」
裏面の手触りに、にとりは駒を裏返す。
そこに刻まれている見慣れた模様に、目を見開いた。
「これ……」
「約束したんです……」
「え?」
「ずっとずっと昔、また、貴方と……」
「……あ」
椛が顔を上げる。それは初めて見る、懐かしい笑顔だった。
にとりはふと、自分の頬に指を這わす。そこで初めて、自分も泣いていることに気がついた。
何処か遠い遠い昔、自分は椛と会っていたのだろうか。
何処か遠い遠い昔、自分は椛と約束したのだろうか。
忘れてしまった申し訳なさと、何かわからない、胸に込み上げてくる、嬉しさ。
椛は涙を流しながらも笑顔だった。長い長い月日を待ち続けていた。
にとりは涙を流しながらも笑顔だった。涙の理由はわからず、何が可笑しいのかもわからない。ただただ嬉しかった。
その日、妖怪の山は清々しいまでの晴天であった。
天狗達は障害物の無い太陽の熱にうんざりしながらも世話しなく山を警備して、または何か別の用事をもってして飛び回っていた。
そんな暑い季節、滝の麓に二つの影があった。丁度木陰になり水飛沫が届かぬ位置、河童と白狼天狗が向かい合って涙を流しながら微笑んでいた。
犬走椛は
かつて男と最後に会った場所で
河城にとりと
再会した。
天狗達は障害物の無い太陽の熱にうんざりしながらも世話しなく山を警備して、または何か別の用事をもってして飛び回っていた。
そんな暑い季節、滝の麓に二つの影があった。丁度木陰になり水飛沫が届かぬ位置、河童と白狼天狗が向かい合って将棋を打っている。
その河童、河城にとりは気づかれぬよう、相手の顔をちらりと覗き見た。
ほんの少し前、初めて顔を合わせた白狼天狗だった。ほとんどを山の”中”で過ごしていたにとりは、まだ山の”外”の天狗と交流が浅い。その白狼天狗が何故自分と将棋を?と疑問にも思ったが、断る理由は無い。ついでに言えば、将棋は好きな方である。にとりは二つ返事で頷いた。
ただ、確かに初めて会うはずだが、どうにもこの白狼天狗を――犬走椛と言ったか――知っている気がしてならない。
結局思い出す事が出来ず、にとりは盤に視線を落とした。
パチン、
木製の盤に木製の駒が置かれる。それを見て、にとりは「ふむ」と頷いた。
椛は相変わらず難しい顔をしている。必死に盤を見て、ひたすらに頭を動かしているようだった。
互いに無言のまま向き合い、長い時間が経過していた。
やがてにとりの手が動く。一つの駒をつまみ、パチン、と進めた。
「……う」
椛はそれを見て小さくうめいた。それを聞いて、にとりはほんの少し微笑んだ。
手持ちの駒と盤とを交互に、世話しなく視線を動かしていた。
何となく。
向かい合って打っているのは自分であるが、椛は何か別のものと戦っている。にとりはそんな錯覚を覚えた。勝負とは言え、将棋にここまで鬼気迫っていることにも疑問をもっていた。それとも天狗とはこういうものなのだろうか、にとりはひたすら首を傾げるばかりである。
椛の頬を、汗が伝って落ちるのが見えた。目は真剣。その顔を、やはり何処か懐かしく思っていると、椛が口を開いた。
「……そうだ、いつもここで……」
「え?」
一人言だろうか、にとりの返しに椛は反応を見せなかった。
すっ、と椛が駒を動かす。
パチン
………
……
…
* * *
「で、お前の負けだ」
「……あっ!」
椛は小さく声をあげた。
目の前に座った男はケラケラと高く笑う。幾分悔しそうに盤を睨む椛の頭を、男はクシャクシャと撫でまわす。
「何故負けたか考えるも、新しい戦略を考えるも自由だ」
どっこいせーと男が立ち上がる。そのまま襖の向こうに消えていくのを確認してから、椛は盤の上に崩れ落ちた。盤の上に並んでいた駒がボロボロと畳に転げ落ちる。
椛は山で仲間の天狗と将棋を打つことがあまり無かった。そこに特に理由は無い。ただ上司の烏天狗とは二度とやりたくないな、とは思っていた。あれは強すぎる。
ふと、たまたま視線が捕らえた駒を摘み上げ、それに描かれた字を何気なく読み上げた。
「歩」
摘む指から力を抜くと、ころりと掌から転げ落ち、それを興味無さ気に視線で追う。
何処に視線を向けるわけでもなく、ただボウっとしていると、かすかに雨の音が聞こえてくる。それと一緒に、カーン、カーンと言う木工作業の音。
やがて駒を片付けようと、ゆっくりと上体を起こす。少し遠くに転がってしまった駒に手を伸ばしたところで、左足に痛みが走った。
目を向けると、細い板を添えて包帯でぐるぐる巻きになった左足が悲鳴をあげていたようだった。
椛は己の迂闊さを今一度噛み締め、ほんの数日前の出来事を思い出した。
*
妖怪の山。
椛は滝にいた。その滝から突き出た、激流にも耐えうる岩の上。そこが彼女の居場所だった。水飛沫を背中に、椛は妖怪の山の麓を見渡せるこの場所を気に入っていた。
胡坐をかき、愛用の盾と剣を脇に置き、今日も侵入者がいないか麓を見る。
その日は少し雨が強い日であった。しばらく同じ天気が続いている為、台風でも近づいているのだろうか?と思考していた。
そこに黒い羽がはらりと落ちてきたのを視界に納め、椛は顔を上げる。そこには上司の烏天狗がいた。
「あやややや。雨中お勤めご苦労様です椛さん」
「文さん。どうしました?」
文は楓型の扇で口元を隠しながら、空を指差した。
「こんな天気が続いて、上流の水かさが増えてます。椛さんはいつもここにいたのを思い出しまして、ご忠告を」
「はぁ。確かに流木なんかが流れてきたら大変ですね。わかりました、移動しま―」
ゴッ
耳元で鈍い音がした。一瞬、時が止まったような気がした。
ゆっくり進む世界で、少し驚いた表情の文が物凄い速度でカメラを取り出したのを確かに見た。
突如流れてきた流木と共に滝を落下しながら、椛が最後に聞いたのは雨の音でも滝の音でもなく、「あやややや」と言う声とシャッター音だった。
*
結果、椛は妖怪の山からそこそこの場所まで流されたらしい。
そこで近くの里の人間に発見され、その人間の家で看護を受けている。どうにも左足が折れてしまったようだった。流木が直撃した位置は特に何とも無い。妖怪、変なところが頑丈で変なところが脆いものだ。
椛がこの家に来てから二日が経過していた。外の雨を思い出し、やはり近いうちに台風でも来るのだろうと再度思う。
ジャラジャラと駒を片付けながら、ふと引っくり返した盤に視線を落とした。そこには不思議な模様が刻まれている。盤だけではない。駒は勿論、椛がいる部屋の木製品全てにそれは刻まれていた。
全てあの男が作ったものだそうだ。模様はその印である。
「手先が器用なんだな……」
精巧に作られたそれに、感嘆の溜息を漏らす。
しかし椛は男の名前は知らなかった。男もまた椛の名前を知らないはずだ。名乗っていないから。
男は必要以上のことを探ろうとはしなかった。椛もまた、その方が下手な嘘をつかずに済むのでホッとしていた。しかし傷の治りの早さは誤魔化せない。まだ痛みはあるものの、骨自体は大分回復している。もう二、三日で完治してしまうだろう。
この世の中、人間と妖怪は仲がいいとはとても言えない。日々妖怪が人間を喰い、人間は妖怪を退治している。
「あの男も、」
私が妖怪だと知ったら、殺しに来るだろうか。言葉は続かなかった。その時自分はどうするか。考えたくも無かった。
妖怪の山から出た事の無い椛であったが、人間の善悪程度はわかる。見ず知らずの自分を助けてくれた人間を殺す事など、したくは無い。無論、殺される事も。
「怖い顔して、どうした」
「!」
椛が顔を上げると、丁度男が入ってきたようだった。
椛の顔を見ると人当たりの良さそうな笑顔になる。
「飯。歩けるか?持ってくるか?」
「あ、ああ。ありがとう、歩ける」
椛はやはり木製の杖を手に立ち上がり、男のあとについていった。
廊下を通り、客間に抜ける。そこには二人分の食事が用意されていた。男の家はそれなりに大きかったが、一人暮らしのようだった。ありとあらゆる場所に男の作った木製の家具が並んでいる。
向かい合う形で食事をとっていると、男が急に口を開いた。
「妖怪の山、知ってるか?俺はいろんな場所を見て回るのが好きでな。いつかあそこに行ってみたいものだ」
椛は箸を止めた。
顔を上げるといつもの男の顔がある。本気で言っているのか冗談で言っているのか判断が出来ず、怪訝な表情で返す。
「……何故、あのような危険な場所に?」
「さて、なぁ。未踏の地への好奇心か」
「あそこは!」
椛はつい身を乗り出し、声をあげる。男の驚いた顔を見て冷静になり、姿勢を正した。
一度咳払い、それでもなるべく強い口調で告げる。
「あそこは好奇心で訪れる様な場所ではないだろう。入ったら最後、妖怪に……」
「曰く、踏み入れてはならぬ山」
「……?」
「曰く、生きては戻れぬ山」
「だからっ」
「そんな事は承知の上なのさ。余計行きたくなるだけさ」
男は言い切った。椛は、言葉を飲み込むしかなかった。
その日は、もうそれ以上の会話はなかった。結局何故男は妖怪の山に入りたがるのか、わからないままだった。
妖怪である椛には、わかり得ぬことだった。
*
パチン
「どうだ?」
「……参りました」
椛は盤を睨みながら呟く。男は満足そうに一度頷くと、いつも通り立ち上がる。
普段ならそのまま部屋を立ち去るのだが、その日は違った。
椛の足を見て、口を開く。
「もう大丈夫なのか?」
「え……あ、ああ。もう杖も無しに立てる」
「……そろそろ行くのか?」
「!」
椛はこのまま置手紙でも残して立ち去る気でいた。薄情かも知れないが、怪我が治った以上はここに留まる理由は無い。
返答に困りまごつく椛の様子を見て取って、男は「ちょっと待ってろ」と姿を消した。
次戻ってきたときには、椛の元々着ていた服を持っていた。洗濯され、小奇麗になっている。
「あ……」
男は何も言わず部屋を出て行ってしまった。
椛はほんの少し寂しい顔をする。その理由は自分でもわかりかねた。恩か情か、それが何か判断する術をまるで持っていなかった。
自分の服を広げると、破れていただろう部分は縫われていた。慣れた手つきで着替え、椛は部屋を出る。廊下、土間、玄関に抜けるまで雨音しかしなかった。ここ数日を普段と言っていいものかわからないが、普段はあの男が何かを作っている音がしたものだ。
玄関にあった高下駄を履き、椛は少し下駄の感覚に違和感を覚えつつ外に出る。
男は外にいた。開いた傘を片手、閉じた傘を片手に立っていた。
「下駄は壊れていたから俺が真似して作った。どうだ?」
「……ああ、ありがとう。よく、馴染むよ」
「傘は?」
「いや……」
「そうか」
すると男は上着のポケットから何か取り出し、ひょいと投げてきた。
椛がそれを受け取ると、それは例の模様の入った将棋の駒だった。
「何かの縁だ。やるよ」
「……ありがとう」
椛は「歩」の駒を大切そうに握り締めると、男に向き直る。
雨で目元にひっついた前髪も払わずに口を開く。
「妖怪の、山は、」
「それ以上言うな。こればっかりはどうしようもない」
椛はまた言葉を飲み込むしかなかった。
ほんの少し悔しそうに俯き、歩を進める。男の横を通り過ぎたところで、背中に声がかかった。
「負けたままってのも何だ、気が向いたらまた打とう」
「……はい。いつか必ず、約束です……!」
「ああ……約束だ」
ザアア
一際雨が強くなる。
男が振り向くとそこにはもう誰もいなかった。目を細め、遠くの妖怪の山を見る。
「約束……か」
*
「あや?椛さん。ご無事でしたか」
「……おかげさまで」
「そんな目をしないでください。決して見捨てたわけではありません。椛さんのがんじょ……身体能力の高さを持ってすれば、あの程度は大事に到らないと信じていました」
「……それはどうも」
カラカラと笑う烏天狗に挨拶もそこそこ、留守にしてしまった数日間の様子を聞く。
文の目にはここ最近、山に大きな動きは無いらしい。
余談であるが事故とは言え無断で見張りを留守にしてしまった件については文が上司の天狗に説明してくれたらしい。それと同時に流木に直撃した瞬間の写真がついた屈辱的な新聞も出回っているので感謝の言葉は言わなかったが。
この嵐ともいえる天候の中、ほとんどの河童や天狗は見張りを中止しているようだった。こんな天候ではただでさえ少ない侵入者も来ないだろうという判断である。
それでも椛は滝の前までふらりと飛んでいった。荒れている滝は椛のお気に入りの場所を飲み込んでしまい、座っての見張りは出来そうに無い。
「何か気になることでも?」
ふらりと文が飛んできた。椛は口を開きかけて、その手荷物を見て言葉を飲む。
それは椛の剣と盾だった。
その視線に気づいた文が、それを差し出す。
「白狼天狗はこれを持ってないとしっくりきませんからねぇ。どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
「それで、先の質問ですが」
椛は今度は口を噤んだ。ここ数日、何処にいたかは誰にも説明していない。
あの男が妖怪の山に来る様な、そんな予感がした。来るのならば、せめて自分が追い返そう。他の妖怪に任せては間違いなく殺してしまう。
してその事を文に告げるべきかどうか迷った。彼女は妖怪の山では珍しく人間を頭から嫌っているわけではないが、それでも上位三本に確実に入る実力を持っている烏天狗だ。今まで数多くの人間を屠ってきているのもまた事実である。
椛は、文に告げなかった。
「……いえ。私は、ここが落ち着くのです」
「こんな嵐の中ですか?構いませんが、また滝に飲まれたりしないでくださいね」
文はそう言って去る、椛はそう思っていた。しかし文はまだ椛を観察するような目で見ていた。
椛が「何か?」と口を開く前に、文がぽつりと呟いた。
「それではここ数日、何処にいました?」
「……!」
文の目が鋭くなったのがわかった。
人間に手当てしてもらっていた。そう素直に言えばいい。しかし椛の口は動かなかった。文はそんな事を怒るような妖怪ではない。それはわかっている。
椛は初めて文を恐ろしく思った。恐らく嘘をついても真実は隠せるものの、嘘をついているということはバレてしまうだろう。何故文がここまで恐ろしい目つきをするのか、それがわからず戸惑った。
そしてあろう事か、バレるとわかっている嘘をついた。
「ふ、麓の、洞窟にいました。左足が折れてしまっていたので、治癒するまで、そこに、」
「……そうですか」
文は椛の左足に触れた。椛はただ恐れ、動く事が出来なかった。
何度かペタペタと触れると、文が顔をあげた。その顔は、
「あやや、もう大丈夫ですか?」
少し心配そうな、優しい文だった。
椛は緊張が解け、肩を撫で下ろす。一度頷くと文は一度椛の頭を撫でた。
「何よりです。では、先ほども言いましたが滝に飲まれませんようお気をつけて」
椛が言葉を返す前に、文はふらりと飛んでいってしまった。心配してくれたのだろうか、椛は自然と笑みが浮かぶのを自覚した。そしてそれを噛み殺す。改めて椛は滝に背を向け、麓を見下ろした。
じっと。出来れば何事も無く時間が過ぎて欲しかった。
しかし男が麓に現れるまで、そう時間はかからなかった。
*
「何で……!」
椛は少し苛立たしく思う。妖怪の山に侵入した人間は今まで一人も帰していない。来れば死ぬとわかっているはずだ。
なのに男は来た。そしてその腰に刀を提げているのを見て、椛は溜息をついた。
――まだ麓の川である。椛は滝から離れ、男に気づかれない程度の距離まで近づいていった。
己の千里眼が間違いであって欲しいと思ったのは初めてだ。しかし近づいてみると、やはりあの男であった。
椛は咳払いを一つ、男に向けて声を発した。
「止まれ」
姿は現さない。それでも男は足を止めた。
顔は真っ直ぐ向いているが、視線を左右に動かしている。右足をほんの少し前に出し、刀にそっと手を触れていた。いつでも抜刀できるようにだろう。
戦う気である。
山の妖怪と。
椛はいつもの調子で言葉を続けた。
「これより先は妖怪の領域だ。人間よ、立ち去れ」
男はハッとして構えを解いた。今度は首を左右に動かし、辺りを見回す。
「この声、お前――」
「これは警告だ。人間……っ!」
椛は背を向け、駆けた。椛は逃げた。男がこの後に取る行動が見たくなくて。
ひたすら、跳ぶ様に山を登り、滝の麓まで来たところで足を止めた。この程度で息が切れるなど普段はありえないことだが、喉が冷たく、酷く痛むほど呼吸が荒くなっていた。
男が引き返せば、自分も何事も無かったかのように山に戻れる。そう、そうしたら文に将棋の対局を頼もう。そして勝てるまでとは言えず、上達が見込めたらあの男の元へ行こう。今度こそ、勝とう。結局自分は一勝も出来なかった。だから、今度は絶対に勝たなくてはいけない。
気づいたら、呼吸は落ち着いていた。
もしくは、それほどの時間椛はうずくまっていた。
椛は、立ち上がった。
奥歯を強く噛み締め、振り向いた。
男が、いた。
*
雨は酷く強くなっていた。地面を叩きつける雨音と、それにも負けない勢いで流れ落ちてくる滝の音。
その他に、金属音が響いた。
それは互いに無言のまま始まった。椛の剣と、男の刀が打ち響き合う。
椛の警告を持ってしても男は来た。ならば、これ以上の言葉は無粋である。男もまた、何も言わなかった。
椛は元々山の警備をする役目を持っているので、それなりに訓練されている。それでも男は強かった。何度も椛の剣を避け、打ち込んでくる。
互いに力量が互角だとするのならば、やはり先に崩れるのは男であった。人間と妖怪の体力の差、男の持つ刀はすぐに切っ先が下がり始めた。
金属と金属の擦れ合う嫌な音がした。
椛の一閃が、男の刀を二本に叩き折った。
男はふらりとよろめく。椛はそのまま剣を突き刺そうと顔を上げる。
目が合った。
「お待ちなさい!」
声と同時に、椛と男の間に風が生まれた。二人が突然の風に目を瞑った刹那、文がそこに現れた。
文は椛に背を向け、男と向き合う形で立っている。
「貴方には椛がお世話になりました。出来ればここで命を散らせて欲しくない。立ち去って頂けませんか?」
「……」
男は黙っていた。椛もまた、口を開かない。
ほんの少しの沈黙。男は椛を見て、微笑んだ。その口が、声を発さず動く。
す
ま
な
い
文が怪訝な顔で椛の顔を窺う。
後は早かった。
文が振り返った瞬間、男が折れた刀を構えて、文か椛かはわからなかったが、突き出してきた。
椛は文を押しのけ、男の手首ごと刀を叩き落した。返す刀で袈裟に薙ぎ払った。
男の体は胸から真っ二つになり、滝のすぐそばに、グシャリと落ちた。
*
「……すみません、椛さん。余計な事をしました」
「……いえ」
椛は振り向かなかった。
ただ男の亡骸の前に立っている。文の位置からは表情が窺えなかった。
文がどう声をかけていいか迷っていると、椛が振り向かないまま先に口を開く。
「文さん、何故私が彼にお世話になったと?」
「……推測です。裁縫道具も無い洞窟で服なんて縫えませんし、まして下駄なんて作れやしません」
「あ……」
「それにこの嵐の中、いくら椛さんでも普段は滝の前で待機なんてしませんよ。その人が来る事までわかっていたのでしょう?」
「……さすが文さんですね。凄い洞察力です」
「決め手は勘ですけどね」
くるりと、椛が振り返った。雨でびしょ濡れの中、彼女が泣いているのかどうかなんて判断は、文には出来なかった。
クスリと、椛が笑みを漏らした。
「哀れ、ですよね」
「……」
「こんなに赤く染まって」
「……」
「野に埋もれて」
「椛……」
「哀れですよね」
椛は天を仰いだ。雨はどんどんと強くなっていく。先ほどから雷も聞こえてきていた。
ふいに、何かの音が大きくなるのを感じた。椛は気づいてか気づいていないのか、目を閉じてそこにじっとしている。
ハッと文は顔を上げる。上流の河が氾濫したのか、多量の滝が、河の水が流れ落ちてきていた。
文はすぐに椛に駆け寄り、手を引っ張りその場を離れる。一瞬後、溢れた滝は椛と文の立っていた場所を、男の亡骸を飲み込んだ。
二人は滝から少し離れた位置に座り込む。椛は虚ろな瞳で河を眺めていた。その手に何か、木片のようなものを握り締めているのが文に見えたが、それが何かはわからなかった。椛がポツリと呟く。
「文さん」
「はい」
「私、哀しいです。初めて、こんな事思いました」
「……はい」
「文さん」
「はい」
「いつか、人と、殺すとか、殺されるとか、そういうのが無くなる日が、来る、でしょうか」
「……はい」
「文さん」
「はい」
「私に……しょ、しょうぎ、を、おしえ、てっ、くだっ……さっ……!」
ザアア
あとは全て、雨音が消した。文は目を瞑り、静かに頷いた。
人間の業も、妖怪の罪も、全てを流してくれとは言わない。けれどせめて、椛の涙ぐらいは流していって貰えないだろうか。文はただ椛の横に寄り添う。それぐらいしか出来なかったから。
豪雨は長い間続いた。
妖怪の山だけではなく、幻想郷全体を覆っていたようだった。
太陽も顔を出せぬ日々が続き、やがて久しく太陽を見たかと思うと「博麗大結界が張られた」と、そんなことを耳にした。
人と妖怪が殺しあう世の中は、
終わったのだった。
* * *
…
……
………
「これで、にとりさんの負けです」
「……あ!」
にとりが小さく声をあげた。椛は満足そうに頷くと、やれやれと額の汗を拭った。
にとりは何度か盤を見直していたようだが、すぐに負けを認めた。そしてほんのり微笑む。
「負けました。自信あったんですが、お強いですね白狼天狗様」
「椛でいいですよ」
椛も微笑み返し、駒を片付ける。
そこににとりはずい、と椛に顔を近づけた。
「ところで、何故私なんかと将棋を?」
にとりの質問に、椛は一瞬悲しそうな顔をした。
しかしすぐに滝の上を指差す。
「先日、私の上司の烏天狗さんが下駄をにとりさんに作っていただき、その出来の良さに感動してました」
「あ!もしかして射命丸さんですか?」
「はい。私も下駄を見せていただくと、とても素晴らしいものでした。……本当に、びっくりしました」
にとりは自分の作品を褒められて笑顔になる。
「この盤も、駒も、にとりさんがお作りになられたんですね」
「はい!」
「文さんの下駄を見て、本当に驚きました。目を、疑いました……」
「? もみじ、さん?」
椛はポロポロと涙をこぼしていた。それを見て、にとりは戸惑う。
しかし椛はそんなこと気にもせず、盤をゆっくりと引っくり返す。ある一点を見つめているようだった。
そして袖から、何か木片のようなものを取り出した。差し出されているようで、にとりはそれを受け取る。
形は将棋の駒だった。表面は色あせ何と書かれていたがわからないが、手触りで「歩」ではないかと思う。
「!」
裏面の手触りに、にとりは駒を裏返す。
そこに刻まれている見慣れた模様に、目を見開いた。
「これ……」
「約束したんです……」
「え?」
「ずっとずっと昔、また、貴方と……」
「……あ」
椛が顔を上げる。それは初めて見る、懐かしい笑顔だった。
にとりはふと、自分の頬に指を這わす。そこで初めて、自分も泣いていることに気がついた。
何処か遠い遠い昔、自分は椛と会っていたのだろうか。
何処か遠い遠い昔、自分は椛と約束したのだろうか。
忘れてしまった申し訳なさと、何かわからない、胸に込み上げてくる、嬉しさ。
椛は涙を流しながらも笑顔だった。長い長い月日を待ち続けていた。
にとりは涙を流しながらも笑顔だった。涙の理由はわからず、何が可笑しいのかもわからない。ただただ嬉しかった。
その日、妖怪の山は清々しいまでの晴天であった。
天狗達は障害物の無い太陽の熱にうんざりしながらも世話しなく山を警備して、または何か別の用事をもってして飛び回っていた。
そんな暑い季節、滝の麓に二つの影があった。丁度木陰になり水飛沫が届かぬ位置、河童と白狼天狗が向かい合って涙を流しながら微笑んでいた。
犬走椛は
かつて男と最後に会った場所で
河城にとりと
再会した。
えー、男とにとりの関係や何で男が山に入りたかったのかはちょっとよくわかりませんでした。ああ読解力の無い自分が情けない……。
ただ雰囲気と描写がとても好みなのでこの点数で。
最後に、重箱の角をつつく指摘なのですが……将棋は「指す」といいます。
ではでは。
それだけに、もったいないなあと思います。話の肉付けが圧倒的に足りてない気が。
男=にとりなのが何故かわからないし、男が山に入った理由今一わかりませんでした。
椛にあれだけ言われたのに、わざわざ嵐の日を選んで山に入っていくあたり、何か特別な理由があったんでしょうか。
ラストシーン、椛はにとりと再開して涙を流していますが、ここも軽く見えてしまいます。
男に椛の情が移るのは分かりますが、その過程なりなんなりをもう少し描写してくれないと、読者は中々入り込めないのでは。
この辺を書き込んでいけば、殺陣や再開のシーンがもっと素晴らしいものになると思います。
話の構成や、紋様の伏線はうまいなあと思いました。紋様は帽子のあのマークでしょうか? 中々あれを使うってのは思いつかないと思います。
関係ないですが、石鹸屋の「ナイト・オブ・マウント」はいい曲ですよね。
ただやっぱり説明不足なところが多かったかと
あと完全に個人的にですが文が椛に敬語なのは違和感が
よって次に期待ということを含めこの点数で
文章を書く上での、盛り上がりにする山の部分をご存知なんだなという印象を受けました。
が、やはり内容的につじつまの合わないつっこみどころが多すぎるかなと。
あと、河童と天狗って妖怪の山では階級の上下があるんでしたっけ?
HPでの改良版が楽しみです。