ある山の山麓の深まった場所に、小さな、本当に小さな祠が在った。そこに祀られているのは、小さな人形。日本人形でもなければ、仏蘭西人形でもなく、独逸人形でもなければ、伊太利亜人形でもない。誰が造ったのかも解らない人形がそこに存在した。
ある人間は、自分の息子が大きな事故をしてしまい、亡くなるのも時間の問題だろうと薬師に告げられ、悲しみのあまりにこの祠にやってきて、彼についている事故の災難を取り除いてくれるようにお願いしたそうだ。数日後、その息子は意識を取り戻したそうな。その人間が頼んだお願いは本当に叶ってしまい、それからは『身代わりの人形』と噂されて、何かことあるごとに人間がその人形を訪ねてはお願い事をしていったそうだ。そうしているうちに、人形が古くなっていく。ただ、古くなっていくのではなく、所々が砕けたり、服が破けていったりするのだ。人間たちはそれを可哀想に思い、その人形を修復してあげたり、新しい服を繕ってしてあげた。だが、それをした人間には決まって、災いが降り立った。人間たちはそれ以降『呪いの人形』と云うようになり、今までお願い事をしていった人間たちは祀ることをやめ、次第にそのこと自体が忘れ去られていった。
しかし、それでも人間に降りかかる災いは自然と無くなり、不思議と人間たちは平穏に日々を生活することが出来た。しかし、それに人間たちは気付かない。一人の人間の厄災を取り除けば、その人形は朽ちていき、そうこうしているうちに腕がもげ、更に多くの人間の厄を取り除けば、次には足が朽ちる。しかし、そこに向かってくる人間など一切居なかった。厄災を取り除く人形と云う存在、厄災を振り掛ける人形と云う存在は一切人間の記憶から消えてしまった。それでも、朽ち果てていく人形は淡々と人間の厄災を取り除く。何れ自分が壊れることを解していながらも、それを顧ずに厄を引き受ける。一体この事実に誰が気付くのだろうか。無論誰も気付かないのだ。
†
気付けばその祠は朽ちたり。人形も朽たり。両腕両脚は粉々に砕け、服なぞは布切れとなりはてつ。そのやうを御神は見守らせたまへたり。御神が仰せらるるは
「われ、いかにさあるか。忌み嫌われたりしつるのを」
「吾、俗世に災ひをさけたく申す。わろしことなりとわかつが、俗世は吾が見る場所でありつ。これいかにかあるか」
「汝が志、有り難し。しかれば、汝を一族にせむ」
†
一切の興味を失われたその場所には、現在神が住んでいる。祠は立て替えられ、その存在を再認識させることは無かったものの、一人の人間が気遣って作ってくれたそうな。なんでも、転生を繰り返し数百と生きている人間が、過去の文献からこの場所に訪ね、小さな立派な祠を建てたそうだ。それ以外の人間はやはりこの場所の存在は一切忘れてしまっているという。ただ、今日の風習として、雛流しという行事を行なっているという。川に雛人形を流し、厄を払う、というのだ。もしかしたら、それが始まったのも、彼女の存在が誰かの中に生きているからかもしれない。
ただ、その神様『鍵山雛』もその風習を真似て、自分の集めている厄をそれに載せて一緒に流すという。それと同時に人形の供養も一緒に行なうそうだ。いずれにしても、その人形が神様となり、今現在も人間たち、私たちの厄災を取り除いてくれることを改めて感謝しなければ行けない。そうやって私たちは安全な生活を営んでいるのだから。
ある人間は、自分の息子が大きな事故をしてしまい、亡くなるのも時間の問題だろうと薬師に告げられ、悲しみのあまりにこの祠にやってきて、彼についている事故の災難を取り除いてくれるようにお願いしたそうだ。数日後、その息子は意識を取り戻したそうな。その人間が頼んだお願いは本当に叶ってしまい、それからは『身代わりの人形』と噂されて、何かことあるごとに人間がその人形を訪ねてはお願い事をしていったそうだ。そうしているうちに、人形が古くなっていく。ただ、古くなっていくのではなく、所々が砕けたり、服が破けていったりするのだ。人間たちはそれを可哀想に思い、その人形を修復してあげたり、新しい服を繕ってしてあげた。だが、それをした人間には決まって、災いが降り立った。人間たちはそれ以降『呪いの人形』と云うようになり、今までお願い事をしていった人間たちは祀ることをやめ、次第にそのこと自体が忘れ去られていった。
しかし、それでも人間に降りかかる災いは自然と無くなり、不思議と人間たちは平穏に日々を生活することが出来た。しかし、それに人間たちは気付かない。一人の人間の厄災を取り除けば、その人形は朽ちていき、そうこうしているうちに腕がもげ、更に多くの人間の厄を取り除けば、次には足が朽ちる。しかし、そこに向かってくる人間など一切居なかった。厄災を取り除く人形と云う存在、厄災を振り掛ける人形と云う存在は一切人間の記憶から消えてしまった。それでも、朽ち果てていく人形は淡々と人間の厄災を取り除く。何れ自分が壊れることを解していながらも、それを顧ずに厄を引き受ける。一体この事実に誰が気付くのだろうか。無論誰も気付かないのだ。
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気付けばその祠は朽ちたり。人形も朽たり。両腕両脚は粉々に砕け、服なぞは布切れとなりはてつ。そのやうを御神は見守らせたまへたり。御神が仰せらるるは
「われ、いかにさあるか。忌み嫌われたりしつるのを」
「吾、俗世に災ひをさけたく申す。わろしことなりとわかつが、俗世は吾が見る場所でありつ。これいかにかあるか」
「汝が志、有り難し。しかれば、汝を一族にせむ」
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一切の興味を失われたその場所には、現在神が住んでいる。祠は立て替えられ、その存在を再認識させることは無かったものの、一人の人間が気遣って作ってくれたそうな。なんでも、転生を繰り返し数百と生きている人間が、過去の文献からこの場所に訪ね、小さな立派な祠を建てたそうだ。それ以外の人間はやはりこの場所の存在は一切忘れてしまっているという。ただ、今日の風習として、雛流しという行事を行なっているという。川に雛人形を流し、厄を払う、というのだ。もしかしたら、それが始まったのも、彼女の存在が誰かの中に生きているからかもしれない。
ただ、その神様『鍵山雛』もその風習を真似て、自分の集めている厄をそれに載せて一緒に流すという。それと同時に人形の供養も一緒に行なうそうだ。いずれにしても、その人形が神様となり、今現在も人間たち、私たちの厄災を取り除いてくれることを改めて感謝しなければ行けない。そうやって私たちは安全な生活を営んでいるのだから。
起承転結と伝えたいテーマがしっかりした作品を次からお願いしたい。
特にこだわりがなければ、改行や文章の配置にもうちょっと気を遣ってみてはどうでしょうか。
描写が若干作者さんの一人飲み込みになってる感じです。あとちょっと読点が多いかも。
でも厄災を取り除いて下さい、て思っちゃうあたりが人間かなぁ
最近は道端の祠(神道、仏教を問わず)や地蔵様って見かけなくなったのが淋しい