厳寒も更に勢いを増してきた幻想郷。外には真白い雪が降り積もり、天然のカーペットを造り出している。
その雪に触れてみると指の隙間からサラサラと流れ落ち、まるで白い宝石のよう。
朝霜も屋敷のあちこちに降りていて、眩しいくらいに輝きを放っている。
ここ、永遠亭にも幻想郷の冬を痛感する季節が到来した。朝日が差し込み一面に広がった銀世界を照らす様は、嫌でもそれを知らせてくれる。
そんな光景のなか、私――鈴仙・優曇華院・イナバは、ホウキとチリトリを両手に携えて早朝の廊下を急ぐ。
冬の朝は何かと忙しい。炊事洗濯はもちろんのこと、炭をたいて各部屋の暖を確保したり、長い廊下の掃除、積もった雪の除雪など。
疲れて眠っている師匠も起こさなくてはならないし、ウサギたちも私が起こさなくては働き出さない。姫様は……徹夜で「てれびげぇむ」とかいうものをしているから問題ないよね。
とにかく目が回るほど忙しい。長い間こんな生活をしているとはいえ、流石に疲労の感も否めなくなってくる。
まぁ、疲労の原因は他にもあるけど。脳を横切った「むしろ根本」の人物を忘れるためにブンブンと首を振る。やっと忘れ去ったあと、まだ済ませていない雑用を片付けるため、外に流していた視線を廊下に戻して歩き出す。
――カチッ。
「え?」
瞬間、何かの作動音のような不吉な音が聞こえた。侵入者対策のトラップじゃない。もっと簡素なトラップだ。
そんな事を考えていれば、いつの間にか私の右足は一本のしめ縄によって宙に吊るされてしまった。
「きゃぁぁぁ!?」
思わず大声で叫んでしまう。それもそのはず、吊るされてしまえば引力の関係によりスカートの中が丸見えになるからだ。加えて右足だけバランスを崩す事により、スカートを押さえにくくするという小技まで使っている。
世界が上下反転し、頭に血が上りそうになる。誰か助けに来ないかと辺りを見回すが不運なことに誰も来てくれない。ウサギたちの気配すら感じることができない。まるで私を避けているかのように。
もしかして……いや、もしかしなくてもだ。
だいたい、こんなトラップを仕掛けるのは一人もとい一匹しかいない。あらかじめウサギたちに廊下を通らないようにする事くらい、あの子なら御茶の子さいさいだろう。彼女はそこまで狡猾な奴だ。
罠に引っ掛かった時点で抱いていた疑問は、だんだんと確信に変わっていく。同時に、彼女に対する怒りも湧いてきた。この後「どうやってお仕置きをしようか」という考えで頭は一杯になる。
だけどいよいよ頭に上がってきた血が判断力並びに思考力を失わせる。この体勢、意外とキツイ……。
何とか脱出しようと吊るされたままもがいてみるが、それは余計な体力を使わせるだけだった。ご丁寧に私の腕が届かないギリギリの長さで縄は吊るされている。大声で師匠を呼ぼうにも、彼女はまだご就寝中、しかも頭に上る血で声を出した瞬間に気絶してしまいそう。
なす術無くぶら下がっているだけの私の視界に、ピョコンと小さなウサギの耳が顔を出した。これ以上無いと言わんばかりの邪悪スマイルで此方を見つめている彼女――因幡てゐ。幼い容姿に似合わない妖艶な笑みを浮かべながら、私のほうへゆっくりと歩み寄る。
「いい格好だね、鈴仙。昨日の夜に仕掛けておいた甲斐があったってもんだよ」
いやらしい笑みを見せ付けるように、予め用意していたらしいサングラスを指先であげる。くぅ……読まれている。これじゃあ私の瞳も意味がない……。
「こ、こらぁてゐ! いい加減にしな……」
さい、と叫ぼうとしたが身体の血がだんだんと上ってきたので、それは阻まれた。恐らく、今の私を鏡で見たら真っ赤に染まった顔が映るかもしれない。
「うんうん。相変わらず元気でよろしい。でも、どっちが優位か分かっているのかなぁ?」
口元を更に歪めたてゐは、ピラピラと一枚の紙を見せ付ける。眼を凝らしてみると、どうやら何かの写真らしいが……
「あぁぁぁ!?」
無意識のうちに大声で叫んでしまった。それは、さっき私が罠に掛かった瞬間の写真だった。見事なまでにマヌケな姿を晒している。おまけにスカートの中まで見えてしまって……。
「か、かえしなさ」
全て言い終わる前に、頭に襲う激しい頭痛。遂に身体の血が脳に到達したようだ。気絶してしまいそうなところを、根性で堪える。
「コレは大事に保管しといてあげるよ。お師匠様へのエサにもなるからねぇ。あははははぁ~♪」
不気味な高笑いを廊下に残したまま、策略家のウサギは何処かへと去っていく。それと同時、私の意識は完全に上った血によって途切れてしまった。
「あと少し遅かったら危なかったわね」
私の顔色を覗き込むようにして診察している女性は、カルテに筆を走らせながらそう診断結果を出す。
「朝早くからすみません師匠……」
私が師匠と呼び慕う医師――八意永淋は私を安心させてくれるかに頬を緩まて、
「気にする事ないわ。どうせ昨日も徹夜だったもの」
徹夜だったとは思えないほど気丈な声で応えた。師匠の身体は大丈夫なのだろうか。最近はやたら熱心に新薬を研究しているようで、しかも彼女はそれについて一切話してくれない。詳細はよく分からないけれど、あまり無理はしないでほしいと思う。
師匠の事を心配していると、不意に響いた頭の鈍痛に額を抑える。薬のお陰で頭の血は治まって来たが、まだ痛みはある。しばらく休んでいたい気もするが、朝の雑用はまだ終わっていない。急いで終わらせないと……。
椅子から立ち上がりフラフラとした足取りで出口へと向かう私に、師匠が肩を掴みながら言った。
「こっ、こらこら!! まだ動いちゃダメよ! しばらく安静にしないと」
私の無理をたしなめるように叱り付けるなり無理やりベッドに寝かす。洗剤の良い香りがするベッドの上で横にさせられた私は、その優しさを素直に受け止めながらも少し不安になっている。私の胸に布団を掛けてくれる師匠に、布団から顔を出して。
「でも師匠……朝の仕事がまだ……」
「それくらいウサギたちに任せておきなさい? 貴女にも少し、休息が必要よ」
優しい声音でそうささやくと、まるで聖母みたいに美しい笑みで髪を撫でてくれた。その笑顔と、包み込むかのような柔らかい右手の感触に心を奪われそうになる。顔が紅く染まっているのを見られないために、布団を深めに被って。
「わっ、わかりました……楽になるまで横になっています」
私がそう返事をすると、布団越しに安堵の溜息が聞こえた。師匠はそこまでして私を休ませたかったのだろうか。
「その方がいいわ」
それだけ言って、扉がバタンと閉まる音。どうやら師匠は用事があるらしい。徹夜をしていたはずなのに、すごい体力……。私も彼女くらいタフだといいのに。
淡い羨望を抱いていたらまぶたが重たくなってきた。昨日は夜まで掃除をしていたから、まだ寝不足なのかもしれない。優秀な医師に休めと言われたし、素直に休む事にしよう。
――とりあえず、起きて元気になっていたらまたお仕事だ。
少女睡眠中……
「ん……」
目に入ってきた電灯の明るさで目を覚ます。起き上がり直後に見えた光景は木造の古めかしい天井だった。ぼんやりとした意識の中、ようやく活動しだした頭に、「動け」と命令を送る。頭の痛みはまだあったが、活動に支障が出る程じゃないので大丈夫。
師匠が掛けてくれた布団を綺麗に折りたたんでおいて、ベッドの周りにあるカーテンを開ける。視界には誰もおらず、シュンシュンと音を立てている薬缶が、止まっていそうなほど静かな時を動かしていた。
「師匠は……まだお仕事なのかな」
だるまストーブの上に置かれた薬缶を眺めながら独りごちる。今日の回診は長いようだ。でも、薬缶を温めたまま出かけていくなんて師匠らしくない。急患でもあったのだろうか。
そんな事を考えていると再び頭に鈍痛。さっきよりも酷いと感じるのは気のせい? とは言っても泣き言を言ってはいられまい。窓に視線を移すと、空に向かって太陽が上がっていた。お昼まで眠っていたみたい。薬缶をストーブから離して、近くの鏡で軽く身だしなみを整えてから、私は医務室を後にした。
廊下と部屋の掃除はウサギたちがあらかた終わらせてくれたので、直ぐに片付ける事ができた。
そして次は外の清掃をすることに。冬場は地面が雪に覆われているので掃き掃除は除き、窓ガラスなどの拭き掃除を行う。寒さで身体が震えるけど、休んでいた分頑張らなくては。
せっせせっせと、時々吐息で手を温めながら、順調にガラス拭きを進めていく。永遠亭のガラスは数自体それほど無い。しかし、一枚が大きいから拭くのが大変だ。
拭き始めて10枚目のガラスに差し掛かったとき、ふと私の視界に何かが入った。
数10メートル先。前栽に隠れて怪しげな布が敷かれている。雪と同色の保護色で、大きさはテーブルクロス程度。ともすれば雪と見間違えてしまいそうなほど精巧だが、余りにもゴワゴワしている。あからさますぎて微笑みすら出てしまった。
――まったく……朝のイタズラで頭を使いすぎたのかしら?
頭の中でそう呟き、窓を拭いていた手を止めて思考する。私のマヌケな決定的瞬間を撮ろうとして絶対にこの近くにいるはず。だったら逆にひっかかったような素振りを見せておびき寄せよう。出てきたところをとっ捕まえてお尻ペンペンだ。脳内で構成した作戦に頷きながらほくそ笑む。我ながら良い作戦ね。さっそく行動開始。
何食わぬ顔で窓ガラス拭きを再開する私。平静を装いつつも、罠にかかる気は毛頭ない。少しだけ悲鳴を上げて崩れるような動作をすれば、てゐも出てくるにちがいな――
ベキッ。氷を踏んだかのような鈍い音。そして身長が低くなったかのような錯覚。
「へ?」
マヌケな声を出している間に、私の身体は冷たい地面に尻餅をついていた。臀部に強烈な痛みが走る。
「ったぁ!?」
痛みを和らげるために患部をさする。しかしなかなか治まってくれない。迂闊だった……あの布がダミーだったなんて。自分の深読みのせいで油断はしていたけれど、まさかこんな近くにあるとは思わなかった。
失策を後悔していると、突然空が暗くなった。上を見上げると、勝ち誇ったような笑顔で私を見下ろすてゐの姿が。
「深読みをしすぎたね鈴仙。まぁ貴女にしては頑張った方かな」
まるで弟子を賞賛する師匠さながら。仁王立ちをして含み笑いをしている。でもこれは絶対に弟子を賞賛する顔じゃない。邪悪な顔で弟子を褒め称えても嬉しくない。
「こっの……イタズラうさぎめぇ!」
足を掴んで引き摺り下ろしてやろうかとも思ったけれど、これまた腕が届かない。それにお尻が痛くて立てやしない。打撲って言うのは地味に痛い。
気が付けばてゐの姿は見当たらず、代わりに「バーカ☆」と書かれた看板が置かれていた。文字の脇に添えられている舌を出したてゐの絵も、私の怒りを助長する。
「くっ……あいたたた」
無理やり立とうとしても腕に力が入らない。外の寒さで固まってしまったのかも知れない。体温がだんだんと奪われていくのを感じて、またもや意識が遠のきそうになったが、気合で我慢する。
「うぅ……覚えてなさいよてゐぃ……」
肩を抱きしめながらガタガタと震える。早く師匠が帰って来てくれないだろうかと願ってみる。だけど返事は返ってこず、体温だけが減少していく。
そろそろ限界、と思った矢先。再び私の頭上に影が落ちた。
「う、うどんげ! なにをしているの!?」
「し、ししょ~」
情けない声で救世主の名を呼び、私の意識はもう一度暗闇に沈んでいった。
だるまストーブの前で毛布を被りながら暖をとっている私を見て、師匠は呆れたように深いため息をついた。
「なんでてゐは貴女にイタズラをするのかしらね」
もっともな質問だけど、私にはその答えが見付からない。てゐには特に恨みを持たれている訳でもないのに、なぜかイタズラのターゲットにされてしまう。
「さぁ……私にはわからな……へっくし!」
くしゃみをして身震い。いくらストーブに張り付いていても、そう簡単には温まりそうに無い。外でかなり体温が減ってしまったので戻すのは一苦労しそうだ。
「とにかく今は温まりなさい。今なにか温かい飲み物でも持ってくるわ」
そう言って椅子から立ち上がった師匠は、私の頭をポンポンと叩いて医務室の扉から出て行った。
静寂が流れる中、私は「ある疑問」について自問自答していた。
―――なぜてゐは私にイタズラをするのだろうか?
ただ自分のドS欲を満たすのなら私でなくてもいいはずなのに。そこらへんにいる貧乏巫女や黒白魔法使いにでもウサを晴らせばそれで事足りる。
身内以外に手出しできないとか? いや、てゐはそんな殊勝な性格じゃない。前は妹紅さんを落とし穴にはめていたし。
私に恨みを抱いているとか? そんな覚えはないんだけど……知らないうちに何かをしてしまったのなら、謝りたいのに。原因不明だからどうすればいいのか分からない。
――それとも何か別な理由が?
この問いを考えようとしたら、私の首がカクンと舟を漕いだ。大分温まってきたらしく、眠たくなってきたようだ。目を擦って起きようとするが、なかなか治まらない。
眠気でまどろむ中で少しだけ師匠の声が聞こえた気がしたけど、そのまま深い眠りにつくことにした。
少女睡眠中……
目が覚めたとき、医務室は誰も居なかった。ストーブは点いていて、さっき私が寝ていたときと変わらない光景が広がっていた。師匠は戻ってきてくれなかったのかなと、少し残念だった。帰って来ると思ったのに……。
でも私の肩には毛布が掛けてあったから一度は来てくれたんだろう。なぜ行ってしまったのかは分からないが。それに、机の上にはホカホカと湯気を立てているホットココアが置かれていた。
「また急患でもあったのかな……」
ぼぉっとしたまま呟く。しかし気にしていたらキリがないので、自分の頬をペチペチと叩いて脳を起こす。
身体も温まってきたし、お仕事も元気に出来そうだ。
……と思ったけど、陽も沈んでしまったし、今から仕事をしても遅いだろうな。とりあえず今日はゆっくり休むことにしよう。明日に響くと大変だし。
毛布を肩から剥がして椅子にパサっと掛けておく。師匠はいないし、ストーブも消しておいた方がいいよね。ツマミを回して暖房が消えたのを確認したあと、机に置かれたココアを一口だけ傾ける。
「あったかぁい……」
顔を綻ばせてそう呟く。口から身体全体に染み渡ってきて、とてもホンワカとした美味しいココアだった。あとで師匠にお礼を言っておかないと。
師匠の気遣いに終始頬を緩ませながら、医務室を出ようとしたその時。
「ん?」
ふと、机の端に置かれた赤色の飾り物を見つけた。どこかで見たことのあるそれは、誰かの忘れ物であることを象徴させるかのように寂しげに置かれている。手にとって確かめてみると、やっぱり見覚えがある。
「これって……てゐのストラップじゃない。なんでこんなところに?」
右手で持ったニンジン形の首掛けストラップを眺めて首をかしげる。手の平に乗るくらいの大きさをしたソレは、確かにてゐが首からぶら下げているモノだった。
なんでこんなところに、と当たり前の疑問が脳をよぎる。一番自然な回答は「てゐがここに来た」なんだけど、その理由が分からない。師匠がお仕置きをするために呼んだとか、私にイタズラをしようとしたとかも考えられる。
「まぁ、忘れたのなら届けたほうがいいかな」
彼女がいつも大事に持っているものだから、今ごろ必死になって探しているかもしれない。だったら見つけた私が渡してあげるのが一番だ。
イタズラされた仕返しに隠してやろうとも考えたけど、そんな幼稚な事を実行するほど私は幼いわけがない。今、てゐが困っているなら助けなくちゃいけない。それが私の力の届く範囲ならなおさらだ。
コレをなくしてオロオロと取り乱しているてゐの姿を想像して、ありもしないことだと一笑に付した。彼女だって月の民としては長命だから、そこまで子供じゃない。
「姿形は子供だけどね」
自分のツッコミについ笑ってしまったあと、彼女の忘れ物をポケットにしまってから、今度こそ医務室をあとにした。
月の光が目に入るのを感じて、瞬きを数回したら完全に目が覚めてしまった。モソモソと鈍重な動きをしながら、布団から這い出る。
今日は何だか寝付けそうにない。てゐから受けたイタズラのダメージが未だに残っているせいでもあるけど、師匠の言った言葉が頭の中でリピートされているからでもある。
―――なんでてゐは貴女にイタズラをするのかしらね……。
ただの嫌がらせでは無い気がする。もし嫌がらせであるならば、私の前に姿を現さず影からニヤニヤと笑っていればいい。あと気になるのは、彼女がイタズラするタイミング。いつも仕事の途中にトラップを仕掛けている。まるで私の仕事の邪魔をするかのように。
なぜわざわざ私の前に姿を現すか。なぜ仕事の邪魔をするか。この二つが彼女の行為に関する謎。
「う~ん。イタズラをする理由ねぇ……」
窓際で頬杖を突きながら考えてみる。外は暗い闇に包まれ、窓から望める竹林も黒の絵の具をばらまいたよう。もうてゐも寝ちゃっているだろうな。あの子、年寄りのくせに子供みたいに早く寝るんだから。イタズラの理由でも聞こうと思ったのに。
彼女のイタズラの真意が分からないまま、ぼんやりとした夜長を過ごす。こんな事をするなら休んだ方がいいのに。喉に引っ掛かった魚の骨みたいに気分を悪くするから起きたままでいる。
「鈴仙?」
「わっ!?」
いきなり後ろから聞こえた弱々しい声にビックリして、窓のサッシに置いていた肘をガクンと落としてしまった。ギリギリで自制したから床への激突は避けられたけど危ないところだった。
こんな夜遅くに誰がと疑問を浮かべる前に、声で分かっていた。しかし、その声は普段と全く違った声色だったので少し驚いてしまったのだ。いつもは何かを企んでいる、相手の腹を探るように注意深く話す彼女にしては珍しい。
内心不安になりながらも、無視をするのは流石にまずいと思って、窓に向けていた視線を来室者に向ける。夜闇に浮かぶシルエットはどこか儚げで、今にも消えてしまいそうなほどだった。
「あ、ごめん……驚かせちゃった?」
控えめな声が、半開きの扉越しに聞こえた。その後、予想していた人物が扉を開いて入室した。白いウサ耳と小さな身体。間違いなくてゐだけど、不安そうにその矮躯を震わせていた。
「やっぱりてゐだったの。別に驚いていないからいいわよ」
本当は驚いたけど、てゐの声が余りにも沈んでいたので安心させるためになるべく優しい声音で嘘をついてあげた。
「そっか」
やっぱりおかしい。いつものてゐとは全く違う。その姿は悪い事をして怒られた後の子供を思わせた。もしかして師匠に怒られて、私に愚痴りに来たのかな。それとも油断させておいて、また罠にはめる気なのか。
私が訝しげに彼女を見ていると、ゆっくりと此方に歩み寄ってきたてゐが、
「隣、座ってもいい?」
「あ、うん……」
突然の質問に対応が遅れ、元気の無い返事になってしまった。しかし戸惑っている私に構わず、「ありがと」とだけ言って私の横に腰掛けるてゐ。体育座りで座った彼女は私から目を逸らしている。何か悪い事でもしたのだろうか。いや、彼女はそれぐらいでへこたれる子ではない。むしろ調子を良くして更なる高みを目指そうとする子だ。
「ケガ」
「え?」
「怪我……治った?」
不意に聞こえた単語に補足を加える。てゐは私の方を向いていなかったので表情は読み取れなかった。
「い、一応ね」
「そっか……ゆっくり休めた?」
「疲れはあまり残ってないわ。大丈夫」
「そっか」
一言だけの会話が続く。いつも元気なてゐに一体何があったのか気になるが、無闇に聞いて傷に触れたら可哀想。かと言ってこのまま重い空気が続くのも耐えられそうにない。
やっぱり聞いてみよう。てゐが心配だし、わざわざ私の部屋に来るなんて余程重症かもしれないから。コホンと軽く咳払いをして、未だ目を逸らしたままの彼女に問う。
「ねぇ、てゐ。何だか元気が無いみたいだけど……どうかしたの?」
ピクッと背中が震える。そして沈黙。何かヘンなこと聞いちゃったかな。傷に触れないように注意していたのに、いきなり境界線を越えてしまったのだろうか。
「机」
「え?」
また聞こえてきた謎の単語。空気から聞き返すことも出来なかったので、言葉の続きを待つしかなかった。
「机の上に、私のストラップ置いてあったよね」
「あ……今、持っているわ」
ポケットにしまっておいたニンジン形のストラップを取り出して、てゐに差し出す。
「てか、忘れたの気付いていたなら取りにくれば」
「それ、鈴仙にあげるよ」
「え?」
予想外の一言に、マヌケな声を出す私。
「だ、だってコレ、大切なものじゃ……」
「……にぶちん。その飾り物は幸せの御守りって、前に言ったでしょ」
またまた謎のワード。にぶちん、という単語が頭でクルクル回っている私を無視して、てゐはヤケのような口調で一人続ける。
「そりゃあ確かにさ。私だってもう少し素直になりたかったよ? でも鈴仙は鈍いから気付かないだろうなぁって思って。わざわざ罠まで仕掛けたって言うのに……まだ働くとか真面目すぎるよ。ココアと毛布も用意してあげたから、ゆっくり休んでいればいいのに」
あさっての方向を向いたまま、私に向かって話している。月光に照らされた顔が僅かに見えて、気のせいか頬が紅くなっているようにも。
「まぁ私が言わなかったのも悪かったし、別にいっか」
彼女の告白で、今まで謎だった質問が次々と解決された。解決しすぎて唖然としてしまったほどだ。
――なぜ私の前に姿を現すのか?――私の安否を確かめるため。
――なぜ私の仕事の邪魔をするのか?――私の仕事を減らし、休ませるため。
――なぜ大切なストラップを忘れたのか?――幸せの御守りを私に渡すため。
それは全部、てゐの不器用な気遣いだったのかも知れない。
その気遣いに気付けなかった私も悪いけど、流石にやりすぎだったのでは、とも思う。
「あのねぇ、てゐ……」
行き過ぎた行動を叱ろうと思って彼女の顔を見た時、彼女の頬に涙が流れていた。
「えっ……? ど、どうし」
「心配だったんだからね!」
私の言葉を遮って彼女の声。涙を隠そうともせず、自分の心の中の言葉を吐露する。
「いつもいつもフラフラしながら仕事して……いつ倒れるかも分からない姿を見せられて平気な訳が無いでしょう!」
叫ぶたびに涙が床に零れる。流れる涙は止まる気配が無く、堰を切ったように溢れ出てくる。
「だけど素直になんてなれなかったから! ちょっと危険な罠で気付いてもらおうと思ったのに……」
勢いに押される私の胸に飛び込んで、悲しそうな声で叫び続ける。
「あまり無理しないでよ……鈴仙は……私の大事な……」
そこまで言って彼女の言葉は止まった。あとに聞こえるのはしゃくり上げる涙声と私の膝に流れ落ちる涙。私はそれを宥めるために、彼女の頭をそっと撫でてあげた。こんな小さな身体にここまでの心配を抱えていたのかと思うと、それに応えられなかったのが悔やまれる。
「……うん」
不器用な想いに対してこんな返事しか出来ない自分が少し恥ずかしいけど、彼女の思いは伝わったから良いかな?
かと言っても、私だって不器用だからどんな行動で返せばいいのか分からない。だから私は、泣きすぎてクシャクシャになった彼女の顔を両手で捧げ持つようにして。
―――コツンと、彼女の額と自分の額を合わせた。
「ありがとね、てゐ」
彼女が不器用で、イタズラでしか気持ちを伝えられないことは分かった。
でも今までされたイタズラは流石にやりすぎだったから。
この軽い頭突きは、私からてゐへのお仕置き。
口から出たお礼は、私からてゐへの自然な気持ち。
そして。
――これからこの小さな身体を抱きしめるのは、私からてゐへの、ほんのちょっとの愛しさ。
冬はつとめて、とはよく言ったものだ。冬季の早朝は身体に刺すような痛みが心地よく、寝起きで鈍くなる身体もたたき起こされる。
そんな中、私――鈴仙・優曇華院・イナバは地平線まで広がる廊下を小走りで進む。
何処までも続いているこの廊下は朝の運動にはうってつけだろうけど、掃除をする分には迷惑この上ない。
でも、私の隣を並列して付いて来る彼女のお陰で最近は楽になってきた。
「てゐ! そこにまだゴミが落ちている!」
「えっ? これくらいなら大丈夫だよ」
「ダメっ! いいからさっさと掃く!」
「ちぇ~」
渋々した表情で、それでもちゃんと廊下のゴミを掃き取ってくれる素直な彼女。
アレから数日。私に罠を仕掛けた罰として、てゐには掃除の手伝いをやらせている。ただでさえ家事をしないのだから、たまには扱き使うくらいが丁度いい。
最初は反抗的だったてゐも、今では言うとおりに手伝ってくれる。そんな何気ない一日が、私にとっては充実している日々に思える。
だから私は、この一瞬を大事にしていこう。疲れが溜まらない程度に仕事をして、てゐが泣き出さない程度に休息をとって、天気のいい日は皆で一緒に出かける。
周りから見たら平凡でつまらない日常かも知れないけど。少なくとも、前みたいに過労で倒れてしまうよりはマシだ。
「てゐ」
「ん~? なに、鈴仙」
私の事を想ってくれている彼女の名を呼ぶ。
「今日は雪も止んでるし、師匠たちも連れて外に出かけない?」
「……私は構わないよ」
嬉しくてはしゃぎたいくせに、俯きながら照れている。普段は生意気な子供だから、こういう姿は本当に可愛い。
だから、ちっとも素直になれない彼女にかわって、私が素直にならないと。
後ろを向いたままモジモジと身体を揺らしているてゐの頭に、私は右手をポンっと乗せた。
「そう。なら、師匠たちを呼んできてくれる?」
無言で頷いた彼女はホウキとチリトリを投げ捨て、風のように廊下を走り去っていった。私はその姿を見て笑みを零す。
「まったく……素直じゃないんだから」
それだけ呟いた私は、彼女の放り投げた掃除用具を掴んで。
ついでに昼食も外でとろうかなと微笑んだまま、お昼ごはんの用意をしようと廊下をあとにした。
その雪に触れてみると指の隙間からサラサラと流れ落ち、まるで白い宝石のよう。
朝霜も屋敷のあちこちに降りていて、眩しいくらいに輝きを放っている。
ここ、永遠亭にも幻想郷の冬を痛感する季節が到来した。朝日が差し込み一面に広がった銀世界を照らす様は、嫌でもそれを知らせてくれる。
そんな光景のなか、私――鈴仙・優曇華院・イナバは、ホウキとチリトリを両手に携えて早朝の廊下を急ぐ。
冬の朝は何かと忙しい。炊事洗濯はもちろんのこと、炭をたいて各部屋の暖を確保したり、長い廊下の掃除、積もった雪の除雪など。
疲れて眠っている師匠も起こさなくてはならないし、ウサギたちも私が起こさなくては働き出さない。姫様は……徹夜で「てれびげぇむ」とかいうものをしているから問題ないよね。
とにかく目が回るほど忙しい。長い間こんな生活をしているとはいえ、流石に疲労の感も否めなくなってくる。
まぁ、疲労の原因は他にもあるけど。脳を横切った「むしろ根本」の人物を忘れるためにブンブンと首を振る。やっと忘れ去ったあと、まだ済ませていない雑用を片付けるため、外に流していた視線を廊下に戻して歩き出す。
――カチッ。
「え?」
瞬間、何かの作動音のような不吉な音が聞こえた。侵入者対策のトラップじゃない。もっと簡素なトラップだ。
そんな事を考えていれば、いつの間にか私の右足は一本のしめ縄によって宙に吊るされてしまった。
「きゃぁぁぁ!?」
思わず大声で叫んでしまう。それもそのはず、吊るされてしまえば引力の関係によりスカートの中が丸見えになるからだ。加えて右足だけバランスを崩す事により、スカートを押さえにくくするという小技まで使っている。
世界が上下反転し、頭に血が上りそうになる。誰か助けに来ないかと辺りを見回すが不運なことに誰も来てくれない。ウサギたちの気配すら感じることができない。まるで私を避けているかのように。
もしかして……いや、もしかしなくてもだ。
だいたい、こんなトラップを仕掛けるのは一人もとい一匹しかいない。あらかじめウサギたちに廊下を通らないようにする事くらい、あの子なら御茶の子さいさいだろう。彼女はそこまで狡猾な奴だ。
罠に引っ掛かった時点で抱いていた疑問は、だんだんと確信に変わっていく。同時に、彼女に対する怒りも湧いてきた。この後「どうやってお仕置きをしようか」という考えで頭は一杯になる。
だけどいよいよ頭に上がってきた血が判断力並びに思考力を失わせる。この体勢、意外とキツイ……。
何とか脱出しようと吊るされたままもがいてみるが、それは余計な体力を使わせるだけだった。ご丁寧に私の腕が届かないギリギリの長さで縄は吊るされている。大声で師匠を呼ぼうにも、彼女はまだご就寝中、しかも頭に上る血で声を出した瞬間に気絶してしまいそう。
なす術無くぶら下がっているだけの私の視界に、ピョコンと小さなウサギの耳が顔を出した。これ以上無いと言わんばかりの邪悪スマイルで此方を見つめている彼女――因幡てゐ。幼い容姿に似合わない妖艶な笑みを浮かべながら、私のほうへゆっくりと歩み寄る。
「いい格好だね、鈴仙。昨日の夜に仕掛けておいた甲斐があったってもんだよ」
いやらしい笑みを見せ付けるように、予め用意していたらしいサングラスを指先であげる。くぅ……読まれている。これじゃあ私の瞳も意味がない……。
「こ、こらぁてゐ! いい加減にしな……」
さい、と叫ぼうとしたが身体の血がだんだんと上ってきたので、それは阻まれた。恐らく、今の私を鏡で見たら真っ赤に染まった顔が映るかもしれない。
「うんうん。相変わらず元気でよろしい。でも、どっちが優位か分かっているのかなぁ?」
口元を更に歪めたてゐは、ピラピラと一枚の紙を見せ付ける。眼を凝らしてみると、どうやら何かの写真らしいが……
「あぁぁぁ!?」
無意識のうちに大声で叫んでしまった。それは、さっき私が罠に掛かった瞬間の写真だった。見事なまでにマヌケな姿を晒している。おまけにスカートの中まで見えてしまって……。
「か、かえしなさ」
全て言い終わる前に、頭に襲う激しい頭痛。遂に身体の血が脳に到達したようだ。気絶してしまいそうなところを、根性で堪える。
「コレは大事に保管しといてあげるよ。お師匠様へのエサにもなるからねぇ。あははははぁ~♪」
不気味な高笑いを廊下に残したまま、策略家のウサギは何処かへと去っていく。それと同時、私の意識は完全に上った血によって途切れてしまった。
「あと少し遅かったら危なかったわね」
私の顔色を覗き込むようにして診察している女性は、カルテに筆を走らせながらそう診断結果を出す。
「朝早くからすみません師匠……」
私が師匠と呼び慕う医師――八意永淋は私を安心させてくれるかに頬を緩まて、
「気にする事ないわ。どうせ昨日も徹夜だったもの」
徹夜だったとは思えないほど気丈な声で応えた。師匠の身体は大丈夫なのだろうか。最近はやたら熱心に新薬を研究しているようで、しかも彼女はそれについて一切話してくれない。詳細はよく分からないけれど、あまり無理はしないでほしいと思う。
師匠の事を心配していると、不意に響いた頭の鈍痛に額を抑える。薬のお陰で頭の血は治まって来たが、まだ痛みはある。しばらく休んでいたい気もするが、朝の雑用はまだ終わっていない。急いで終わらせないと……。
椅子から立ち上がりフラフラとした足取りで出口へと向かう私に、師匠が肩を掴みながら言った。
「こっ、こらこら!! まだ動いちゃダメよ! しばらく安静にしないと」
私の無理をたしなめるように叱り付けるなり無理やりベッドに寝かす。洗剤の良い香りがするベッドの上で横にさせられた私は、その優しさを素直に受け止めながらも少し不安になっている。私の胸に布団を掛けてくれる師匠に、布団から顔を出して。
「でも師匠……朝の仕事がまだ……」
「それくらいウサギたちに任せておきなさい? 貴女にも少し、休息が必要よ」
優しい声音でそうささやくと、まるで聖母みたいに美しい笑みで髪を撫でてくれた。その笑顔と、包み込むかのような柔らかい右手の感触に心を奪われそうになる。顔が紅く染まっているのを見られないために、布団を深めに被って。
「わっ、わかりました……楽になるまで横になっています」
私がそう返事をすると、布団越しに安堵の溜息が聞こえた。師匠はそこまでして私を休ませたかったのだろうか。
「その方がいいわ」
それだけ言って、扉がバタンと閉まる音。どうやら師匠は用事があるらしい。徹夜をしていたはずなのに、すごい体力……。私も彼女くらいタフだといいのに。
淡い羨望を抱いていたらまぶたが重たくなってきた。昨日は夜まで掃除をしていたから、まだ寝不足なのかもしれない。優秀な医師に休めと言われたし、素直に休む事にしよう。
――とりあえず、起きて元気になっていたらまたお仕事だ。
少女睡眠中……
「ん……」
目に入ってきた電灯の明るさで目を覚ます。起き上がり直後に見えた光景は木造の古めかしい天井だった。ぼんやりとした意識の中、ようやく活動しだした頭に、「動け」と命令を送る。頭の痛みはまだあったが、活動に支障が出る程じゃないので大丈夫。
師匠が掛けてくれた布団を綺麗に折りたたんでおいて、ベッドの周りにあるカーテンを開ける。視界には誰もおらず、シュンシュンと音を立てている薬缶が、止まっていそうなほど静かな時を動かしていた。
「師匠は……まだお仕事なのかな」
だるまストーブの上に置かれた薬缶を眺めながら独りごちる。今日の回診は長いようだ。でも、薬缶を温めたまま出かけていくなんて師匠らしくない。急患でもあったのだろうか。
そんな事を考えていると再び頭に鈍痛。さっきよりも酷いと感じるのは気のせい? とは言っても泣き言を言ってはいられまい。窓に視線を移すと、空に向かって太陽が上がっていた。お昼まで眠っていたみたい。薬缶をストーブから離して、近くの鏡で軽く身だしなみを整えてから、私は医務室を後にした。
廊下と部屋の掃除はウサギたちがあらかた終わらせてくれたので、直ぐに片付ける事ができた。
そして次は外の清掃をすることに。冬場は地面が雪に覆われているので掃き掃除は除き、窓ガラスなどの拭き掃除を行う。寒さで身体が震えるけど、休んでいた分頑張らなくては。
せっせせっせと、時々吐息で手を温めながら、順調にガラス拭きを進めていく。永遠亭のガラスは数自体それほど無い。しかし、一枚が大きいから拭くのが大変だ。
拭き始めて10枚目のガラスに差し掛かったとき、ふと私の視界に何かが入った。
数10メートル先。前栽に隠れて怪しげな布が敷かれている。雪と同色の保護色で、大きさはテーブルクロス程度。ともすれば雪と見間違えてしまいそうなほど精巧だが、余りにもゴワゴワしている。あからさますぎて微笑みすら出てしまった。
――まったく……朝のイタズラで頭を使いすぎたのかしら?
頭の中でそう呟き、窓を拭いていた手を止めて思考する。私のマヌケな決定的瞬間を撮ろうとして絶対にこの近くにいるはず。だったら逆にひっかかったような素振りを見せておびき寄せよう。出てきたところをとっ捕まえてお尻ペンペンだ。脳内で構成した作戦に頷きながらほくそ笑む。我ながら良い作戦ね。さっそく行動開始。
何食わぬ顔で窓ガラス拭きを再開する私。平静を装いつつも、罠にかかる気は毛頭ない。少しだけ悲鳴を上げて崩れるような動作をすれば、てゐも出てくるにちがいな――
ベキッ。氷を踏んだかのような鈍い音。そして身長が低くなったかのような錯覚。
「へ?」
マヌケな声を出している間に、私の身体は冷たい地面に尻餅をついていた。臀部に強烈な痛みが走る。
「ったぁ!?」
痛みを和らげるために患部をさする。しかしなかなか治まってくれない。迂闊だった……あの布がダミーだったなんて。自分の深読みのせいで油断はしていたけれど、まさかこんな近くにあるとは思わなかった。
失策を後悔していると、突然空が暗くなった。上を見上げると、勝ち誇ったような笑顔で私を見下ろすてゐの姿が。
「深読みをしすぎたね鈴仙。まぁ貴女にしては頑張った方かな」
まるで弟子を賞賛する師匠さながら。仁王立ちをして含み笑いをしている。でもこれは絶対に弟子を賞賛する顔じゃない。邪悪な顔で弟子を褒め称えても嬉しくない。
「こっの……イタズラうさぎめぇ!」
足を掴んで引き摺り下ろしてやろうかとも思ったけれど、これまた腕が届かない。それにお尻が痛くて立てやしない。打撲って言うのは地味に痛い。
気が付けばてゐの姿は見当たらず、代わりに「バーカ☆」と書かれた看板が置かれていた。文字の脇に添えられている舌を出したてゐの絵も、私の怒りを助長する。
「くっ……あいたたた」
無理やり立とうとしても腕に力が入らない。外の寒さで固まってしまったのかも知れない。体温がだんだんと奪われていくのを感じて、またもや意識が遠のきそうになったが、気合で我慢する。
「うぅ……覚えてなさいよてゐぃ……」
肩を抱きしめながらガタガタと震える。早く師匠が帰って来てくれないだろうかと願ってみる。だけど返事は返ってこず、体温だけが減少していく。
そろそろ限界、と思った矢先。再び私の頭上に影が落ちた。
「う、うどんげ! なにをしているの!?」
「し、ししょ~」
情けない声で救世主の名を呼び、私の意識はもう一度暗闇に沈んでいった。
だるまストーブの前で毛布を被りながら暖をとっている私を見て、師匠は呆れたように深いため息をついた。
「なんでてゐは貴女にイタズラをするのかしらね」
もっともな質問だけど、私にはその答えが見付からない。てゐには特に恨みを持たれている訳でもないのに、なぜかイタズラのターゲットにされてしまう。
「さぁ……私にはわからな……へっくし!」
くしゃみをして身震い。いくらストーブに張り付いていても、そう簡単には温まりそうに無い。外でかなり体温が減ってしまったので戻すのは一苦労しそうだ。
「とにかく今は温まりなさい。今なにか温かい飲み物でも持ってくるわ」
そう言って椅子から立ち上がった師匠は、私の頭をポンポンと叩いて医務室の扉から出て行った。
静寂が流れる中、私は「ある疑問」について自問自答していた。
―――なぜてゐは私にイタズラをするのだろうか?
ただ自分のドS欲を満たすのなら私でなくてもいいはずなのに。そこらへんにいる貧乏巫女や黒白魔法使いにでもウサを晴らせばそれで事足りる。
身内以外に手出しできないとか? いや、てゐはそんな殊勝な性格じゃない。前は妹紅さんを落とし穴にはめていたし。
私に恨みを抱いているとか? そんな覚えはないんだけど……知らないうちに何かをしてしまったのなら、謝りたいのに。原因不明だからどうすればいいのか分からない。
――それとも何か別な理由が?
この問いを考えようとしたら、私の首がカクンと舟を漕いだ。大分温まってきたらしく、眠たくなってきたようだ。目を擦って起きようとするが、なかなか治まらない。
眠気でまどろむ中で少しだけ師匠の声が聞こえた気がしたけど、そのまま深い眠りにつくことにした。
少女睡眠中……
目が覚めたとき、医務室は誰も居なかった。ストーブは点いていて、さっき私が寝ていたときと変わらない光景が広がっていた。師匠は戻ってきてくれなかったのかなと、少し残念だった。帰って来ると思ったのに……。
でも私の肩には毛布が掛けてあったから一度は来てくれたんだろう。なぜ行ってしまったのかは分からないが。それに、机の上にはホカホカと湯気を立てているホットココアが置かれていた。
「また急患でもあったのかな……」
ぼぉっとしたまま呟く。しかし気にしていたらキリがないので、自分の頬をペチペチと叩いて脳を起こす。
身体も温まってきたし、お仕事も元気に出来そうだ。
……と思ったけど、陽も沈んでしまったし、今から仕事をしても遅いだろうな。とりあえず今日はゆっくり休むことにしよう。明日に響くと大変だし。
毛布を肩から剥がして椅子にパサっと掛けておく。師匠はいないし、ストーブも消しておいた方がいいよね。ツマミを回して暖房が消えたのを確認したあと、机に置かれたココアを一口だけ傾ける。
「あったかぁい……」
顔を綻ばせてそう呟く。口から身体全体に染み渡ってきて、とてもホンワカとした美味しいココアだった。あとで師匠にお礼を言っておかないと。
師匠の気遣いに終始頬を緩ませながら、医務室を出ようとしたその時。
「ん?」
ふと、机の端に置かれた赤色の飾り物を見つけた。どこかで見たことのあるそれは、誰かの忘れ物であることを象徴させるかのように寂しげに置かれている。手にとって確かめてみると、やっぱり見覚えがある。
「これって……てゐのストラップじゃない。なんでこんなところに?」
右手で持ったニンジン形の首掛けストラップを眺めて首をかしげる。手の平に乗るくらいの大きさをしたソレは、確かにてゐが首からぶら下げているモノだった。
なんでこんなところに、と当たり前の疑問が脳をよぎる。一番自然な回答は「てゐがここに来た」なんだけど、その理由が分からない。師匠がお仕置きをするために呼んだとか、私にイタズラをしようとしたとかも考えられる。
「まぁ、忘れたのなら届けたほうがいいかな」
彼女がいつも大事に持っているものだから、今ごろ必死になって探しているかもしれない。だったら見つけた私が渡してあげるのが一番だ。
イタズラされた仕返しに隠してやろうとも考えたけど、そんな幼稚な事を実行するほど私は幼いわけがない。今、てゐが困っているなら助けなくちゃいけない。それが私の力の届く範囲ならなおさらだ。
コレをなくしてオロオロと取り乱しているてゐの姿を想像して、ありもしないことだと一笑に付した。彼女だって月の民としては長命だから、そこまで子供じゃない。
「姿形は子供だけどね」
自分のツッコミについ笑ってしまったあと、彼女の忘れ物をポケットにしまってから、今度こそ医務室をあとにした。
月の光が目に入るのを感じて、瞬きを数回したら完全に目が覚めてしまった。モソモソと鈍重な動きをしながら、布団から這い出る。
今日は何だか寝付けそうにない。てゐから受けたイタズラのダメージが未だに残っているせいでもあるけど、師匠の言った言葉が頭の中でリピートされているからでもある。
―――なんでてゐは貴女にイタズラをするのかしらね……。
ただの嫌がらせでは無い気がする。もし嫌がらせであるならば、私の前に姿を現さず影からニヤニヤと笑っていればいい。あと気になるのは、彼女がイタズラするタイミング。いつも仕事の途中にトラップを仕掛けている。まるで私の仕事の邪魔をするかのように。
なぜわざわざ私の前に姿を現すか。なぜ仕事の邪魔をするか。この二つが彼女の行為に関する謎。
「う~ん。イタズラをする理由ねぇ……」
窓際で頬杖を突きながら考えてみる。外は暗い闇に包まれ、窓から望める竹林も黒の絵の具をばらまいたよう。もうてゐも寝ちゃっているだろうな。あの子、年寄りのくせに子供みたいに早く寝るんだから。イタズラの理由でも聞こうと思ったのに。
彼女のイタズラの真意が分からないまま、ぼんやりとした夜長を過ごす。こんな事をするなら休んだ方がいいのに。喉に引っ掛かった魚の骨みたいに気分を悪くするから起きたままでいる。
「鈴仙?」
「わっ!?」
いきなり後ろから聞こえた弱々しい声にビックリして、窓のサッシに置いていた肘をガクンと落としてしまった。ギリギリで自制したから床への激突は避けられたけど危ないところだった。
こんな夜遅くに誰がと疑問を浮かべる前に、声で分かっていた。しかし、その声は普段と全く違った声色だったので少し驚いてしまったのだ。いつもは何かを企んでいる、相手の腹を探るように注意深く話す彼女にしては珍しい。
内心不安になりながらも、無視をするのは流石にまずいと思って、窓に向けていた視線を来室者に向ける。夜闇に浮かぶシルエットはどこか儚げで、今にも消えてしまいそうなほどだった。
「あ、ごめん……驚かせちゃった?」
控えめな声が、半開きの扉越しに聞こえた。その後、予想していた人物が扉を開いて入室した。白いウサ耳と小さな身体。間違いなくてゐだけど、不安そうにその矮躯を震わせていた。
「やっぱりてゐだったの。別に驚いていないからいいわよ」
本当は驚いたけど、てゐの声が余りにも沈んでいたので安心させるためになるべく優しい声音で嘘をついてあげた。
「そっか」
やっぱりおかしい。いつものてゐとは全く違う。その姿は悪い事をして怒られた後の子供を思わせた。もしかして師匠に怒られて、私に愚痴りに来たのかな。それとも油断させておいて、また罠にはめる気なのか。
私が訝しげに彼女を見ていると、ゆっくりと此方に歩み寄ってきたてゐが、
「隣、座ってもいい?」
「あ、うん……」
突然の質問に対応が遅れ、元気の無い返事になってしまった。しかし戸惑っている私に構わず、「ありがと」とだけ言って私の横に腰掛けるてゐ。体育座りで座った彼女は私から目を逸らしている。何か悪い事でもしたのだろうか。いや、彼女はそれぐらいでへこたれる子ではない。むしろ調子を良くして更なる高みを目指そうとする子だ。
「ケガ」
「え?」
「怪我……治った?」
不意に聞こえた単語に補足を加える。てゐは私の方を向いていなかったので表情は読み取れなかった。
「い、一応ね」
「そっか……ゆっくり休めた?」
「疲れはあまり残ってないわ。大丈夫」
「そっか」
一言だけの会話が続く。いつも元気なてゐに一体何があったのか気になるが、無闇に聞いて傷に触れたら可哀想。かと言ってこのまま重い空気が続くのも耐えられそうにない。
やっぱり聞いてみよう。てゐが心配だし、わざわざ私の部屋に来るなんて余程重症かもしれないから。コホンと軽く咳払いをして、未だ目を逸らしたままの彼女に問う。
「ねぇ、てゐ。何だか元気が無いみたいだけど……どうかしたの?」
ピクッと背中が震える。そして沈黙。何かヘンなこと聞いちゃったかな。傷に触れないように注意していたのに、いきなり境界線を越えてしまったのだろうか。
「机」
「え?」
また聞こえてきた謎の単語。空気から聞き返すことも出来なかったので、言葉の続きを待つしかなかった。
「机の上に、私のストラップ置いてあったよね」
「あ……今、持っているわ」
ポケットにしまっておいたニンジン形のストラップを取り出して、てゐに差し出す。
「てか、忘れたの気付いていたなら取りにくれば」
「それ、鈴仙にあげるよ」
「え?」
予想外の一言に、マヌケな声を出す私。
「だ、だってコレ、大切なものじゃ……」
「……にぶちん。その飾り物は幸せの御守りって、前に言ったでしょ」
またまた謎のワード。にぶちん、という単語が頭でクルクル回っている私を無視して、てゐはヤケのような口調で一人続ける。
「そりゃあ確かにさ。私だってもう少し素直になりたかったよ? でも鈴仙は鈍いから気付かないだろうなぁって思って。わざわざ罠まで仕掛けたって言うのに……まだ働くとか真面目すぎるよ。ココアと毛布も用意してあげたから、ゆっくり休んでいればいいのに」
あさっての方向を向いたまま、私に向かって話している。月光に照らされた顔が僅かに見えて、気のせいか頬が紅くなっているようにも。
「まぁ私が言わなかったのも悪かったし、別にいっか」
彼女の告白で、今まで謎だった質問が次々と解決された。解決しすぎて唖然としてしまったほどだ。
――なぜ私の前に姿を現すのか?――私の安否を確かめるため。
――なぜ私の仕事の邪魔をするのか?――私の仕事を減らし、休ませるため。
――なぜ大切なストラップを忘れたのか?――幸せの御守りを私に渡すため。
それは全部、てゐの不器用な気遣いだったのかも知れない。
その気遣いに気付けなかった私も悪いけど、流石にやりすぎだったのでは、とも思う。
「あのねぇ、てゐ……」
行き過ぎた行動を叱ろうと思って彼女の顔を見た時、彼女の頬に涙が流れていた。
「えっ……? ど、どうし」
「心配だったんだからね!」
私の言葉を遮って彼女の声。涙を隠そうともせず、自分の心の中の言葉を吐露する。
「いつもいつもフラフラしながら仕事して……いつ倒れるかも分からない姿を見せられて平気な訳が無いでしょう!」
叫ぶたびに涙が床に零れる。流れる涙は止まる気配が無く、堰を切ったように溢れ出てくる。
「だけど素直になんてなれなかったから! ちょっと危険な罠で気付いてもらおうと思ったのに……」
勢いに押される私の胸に飛び込んで、悲しそうな声で叫び続ける。
「あまり無理しないでよ……鈴仙は……私の大事な……」
そこまで言って彼女の言葉は止まった。あとに聞こえるのはしゃくり上げる涙声と私の膝に流れ落ちる涙。私はそれを宥めるために、彼女の頭をそっと撫でてあげた。こんな小さな身体にここまでの心配を抱えていたのかと思うと、それに応えられなかったのが悔やまれる。
「……うん」
不器用な想いに対してこんな返事しか出来ない自分が少し恥ずかしいけど、彼女の思いは伝わったから良いかな?
かと言っても、私だって不器用だからどんな行動で返せばいいのか分からない。だから私は、泣きすぎてクシャクシャになった彼女の顔を両手で捧げ持つようにして。
―――コツンと、彼女の額と自分の額を合わせた。
「ありがとね、てゐ」
彼女が不器用で、イタズラでしか気持ちを伝えられないことは分かった。
でも今までされたイタズラは流石にやりすぎだったから。
この軽い頭突きは、私からてゐへのお仕置き。
口から出たお礼は、私からてゐへの自然な気持ち。
そして。
――これからこの小さな身体を抱きしめるのは、私からてゐへの、ほんのちょっとの愛しさ。
冬はつとめて、とはよく言ったものだ。冬季の早朝は身体に刺すような痛みが心地よく、寝起きで鈍くなる身体もたたき起こされる。
そんな中、私――鈴仙・優曇華院・イナバは地平線まで広がる廊下を小走りで進む。
何処までも続いているこの廊下は朝の運動にはうってつけだろうけど、掃除をする分には迷惑この上ない。
でも、私の隣を並列して付いて来る彼女のお陰で最近は楽になってきた。
「てゐ! そこにまだゴミが落ちている!」
「えっ? これくらいなら大丈夫だよ」
「ダメっ! いいからさっさと掃く!」
「ちぇ~」
渋々した表情で、それでもちゃんと廊下のゴミを掃き取ってくれる素直な彼女。
アレから数日。私に罠を仕掛けた罰として、てゐには掃除の手伝いをやらせている。ただでさえ家事をしないのだから、たまには扱き使うくらいが丁度いい。
最初は反抗的だったてゐも、今では言うとおりに手伝ってくれる。そんな何気ない一日が、私にとっては充実している日々に思える。
だから私は、この一瞬を大事にしていこう。疲れが溜まらない程度に仕事をして、てゐが泣き出さない程度に休息をとって、天気のいい日は皆で一緒に出かける。
周りから見たら平凡でつまらない日常かも知れないけど。少なくとも、前みたいに過労で倒れてしまうよりはマシだ。
「てゐ」
「ん~? なに、鈴仙」
私の事を想ってくれている彼女の名を呼ぶ。
「今日は雪も止んでるし、師匠たちも連れて外に出かけない?」
「……私は構わないよ」
嬉しくてはしゃぎたいくせに、俯きながら照れている。普段は生意気な子供だから、こういう姿は本当に可愛い。
だから、ちっとも素直になれない彼女にかわって、私が素直にならないと。
後ろを向いたままモジモジと身体を揺らしているてゐの頭に、私は右手をポンっと乗せた。
「そう。なら、師匠たちを呼んできてくれる?」
無言で頷いた彼女はホウキとチリトリを投げ捨て、風のように廊下を走り去っていった。私はその姿を見て笑みを零す。
「まったく……素直じゃないんだから」
それだけ呟いた私は、彼女の放り投げた掃除用具を掴んで。
ついでに昼食も外でとろうかなと微笑んだまま、お昼ごはんの用意をしようと廊下をあとにした。
読んでて自然に笑顔になれました!
遠回しにしか優しくできないてゐに、ちょっと鈍臭い鈴仙。二人とも可愛いです
重箱の隅をつつくようなものですが、ちょこちょこ気になった点
「しめ縄」は神を祀るためにあります。普通に縄なんじゃないかな、と
電灯やストラップは受け入れているのに「てれびげぇむ」には不思議がる鈴仙
だるまストーブの燃料は薪や炭です。つまみはありません
戸惑ってしまう箇所があって、もったいないなー、なんて
優しげな雰囲気がある、淡い恋の始まりを読ませてもらいました。ありがとうございます
悪戯は愛情の裏返し、という構図はある種のテンプレだと思いますが、でも可愛いと思っちゃうんだから仕方ない。
>彼女だって月の民としては長命だから
てゐは地上の兎だから、月の民じゃないですね。
あとがきの「展開が急だった」というのも的を射ていると思う。かなりありきたりでおきまりな展開だと思いましたが、処女作だし!ウホッ!これからに期待でごわす。GJ!