①お題 ニコニコ
「ほんと、頭にくる」
鈴だらけの部屋の中、アリスは不機嫌そうに呟いた。
その瞬間、視界がふっと陰る。
ぽーん、と軽い音を立てて、アリスの頭上に何かが着地した。
「よっと」
「……重い」
見上げるまでもない。
「……魔理沙。降りなさい」
「アリスが呼んだんだろ」
見えない力に引き寄せられるように、アリスの"頭に来た”魔理沙は、ケラケラと笑った。
音を立てて、部屋中に鈴が転がる。
ちりん、ちりん、ちりん。
魔理沙が笑う度に、鈴が増える。転がる。跳ねる。
足元一面——鈴、鈴、鈴。
魔理沙が“鈴を転がすように”笑った、その所為だ。
アリスは鈴の海を見下ろし、深く嘆息した。
——発端は、三十分ほど前に遡る。
「凄い魔法を開発したぜ!」と鼻息荒くアリス邸に闖入してきた魔理沙は、自慢げにそれを披露した。
曰く、「思ったことを現実化する魔法」。
大それた代物に、アリスも少しばかり期待した——のだが。
結果は、失敗。
魔法回路は暴走し、発動したのは「思ったことを現実化する魔法」ではなく——
「まさか、慣用表現が現実化されるなんてなぁ」
アリスの頭上で足をぶらつかせながら、魔理沙が笑う。
床に鈴が溢れる。
アリスがまた文句を言おうと口を開きかけた、その時。
ぽこ。
ぽこぽこ。
視界の端で、何かが蠢いた。
「……何?」
目元に違和感。
触れようとするより早く——
ぽこん。
小さなクジラが、目の下から生まれた。
「は?」
「なるほど、“目くじらを立ててる”と思ったからか」
ぽこぽこぽこ、と続けざまに。
小さなクジラたちが次々と現れ、ぴょこん、と立ち上がる。
鈴の海に、クジラが立つ。
意味の分からない光景だった。
口に出さずとも、慣用表現を“思っただけで”現実化する。
なんとも厄介な魔法だ。
「いい加減、止めなさいよ!」
「私にも止め方が分からん」
「せめて笑うな!」
アリスが真顔で怒ると、流石に魔理沙も神妙な顔になった。
そして、もごもごと口を動かし——
ぎり、と小さな音。
ぺっ、と何かを手のひらに吐き出す。
ぐしゃりと潰れた、笑顔のマークだった。
「……は?」
「笑いを噛み殺したらこうなった」
納得したように笑って、魔理沙は頷く。
「結局笑ってるじゃない」
言いながら、アリスは魔理沙を払いのけた。
本当に、腹が立——
ふわり、と身体が浮いた。
「……え?」
足が床を離れる。
鈴の海が遠ざかる。
クジラたちは、ぽこんぽこんと跳ねる。
「お前、“腹を立ててる”だろ」
「……っ!」
言われて、気づく。
腹が——立ち上がっている。
そのまま、お腹に引っ張られるようにして宙に浮かぶ。
「ちょ、ちょっと!どうにかしなさい!」
「ははっ……ははは……!」
魔理沙はそれを見て——笑い転げた。
床を叩き、鈴を跳ね飛ばし、腹を抱えて。
「笑い事じゃ——」
「はははははは!!」
しかし、やがて——
「はは……は……」
ぴたり、と動きが止まった。
「……魔理沙?」
返事はない。
ぴくりとも動かない。
嫌な予感が胸をよぎる。
「まさか……笑い死んだ……?」
腹の浮力も収まり、アリスは慌てて駆け寄る。
呼吸を確かめる。
「……嘘でしょ?」
魔理沙は、息を引き取っていた。
「は、え、本当に?」
いやいやいや。
こんな形で幕を下ろすなんて。
思考が空回りする。
視界の端では、実際に幕が下り始めているが、それどころではない。
このままではまずい。
何か——何か、方法は。
「……そうだ」
アリスに電流が走る。
痺れながらも、アリスはすぐに行動に移った。
◇
風呂場。
湯気の立ちこめる中、アリスは魔理沙の身体を湯船に沈めた。
「これで、どうにか——」
熱々の湯船に浸かれば、人は"ああ"なるはず。
私がそう思えばきっと——
祈る。
ぽこ、と湯面が揺れた。
そして。
「ぶはっ!」
勢いよく、魔理沙が顔を出す。
「生き返るぜ!」
いつも通りの、調子のいい声。
「……はぁ」
アリスはその場にへたり込む。
安堵が、一気に押し寄せる。
「……良かった」
「ありがとな、アリス」
魔理沙が笑う。
アリスも、つられて笑った。
その時。
ぽた。
ぽたぽた。
二人の顔から、何かが零れ落ちる。
「……何?」
湯船に浮かんだそれは、丸く、にこにことした形。
「……笑顔?」
「“笑顔がこぼれる”ってやつだな」
魔理沙がにっこり笑う。
鈴もクジラもない静寂の中。
湯船いっぱいに、ぷかぷかと二人の笑顔が浮かんでいた。
②お題 三十年
藤原妹紅は、竹林へ抜ける峠道を歩いていた。
夕日を背に坂を登る。
上り道は好きだ。景色が徐々に高くなっていくのがいい。
ふと、馬鹿と煙は——という言葉が頭に浮かぶ。
その理屈でいうなら、月の連中は、輪をかけての大馬鹿だ。
「……あの」
ふいに呼び止められて、足を止めた。
振り返ると、一人の男。
人間とは珍しい。
ここは妖怪も現れるというのに。
こいつも馬鹿なのだろうか。
しかし、どこか見たような、ないような顔。
「あなたはもしや、丁度三十年前、この場所で……」
その言葉に、顔に、記憶がゆっくりと蘇る。
――ああ、いたな。こんな顔。
妖怪に襲われていたのを、気まぐれに助けてやった男だ。
その際に自分は、勢い余って転倒した。
そしたら男は蒼白になって、「なんという事だ」と騒ぎ出した。
"三年峠で転んだ者は、三年きりしか生きられぬ"
この峠にそんな迷信があるのは、慧音から聞いて知っていた。しかし、信じている奴がいるとは思わなかった。
青ざめたあばた顔が可哀想になって、慧音に教わった対処法を試してやった。
その場に横になり、ゴロゴロと回転した。
「これで十回転んだ。死ぬのは三十年後だな」
そう言うと、男は安心したように笑った。
男は礼を強く申し出たが、「三十年後、また転びに来るから、その時にな」と手を振って断った。
あれからもう、三十年も経ったのか。
「元気そうで良かった」
そう言うと、男は困ったように笑った。
「いえ。私は、息子です」
「えっ」
「父は、去年亡くなりました」
あぁ、そうか。
三十年。
人間が死ぬには充分な時間だ。
「父から、これを……あなたに渡してほしいと」
差し出されたのは、懐中時計だった。
丁寧な装飾から、安物でない事が伺える。
この息子も同様だが、父親も貧相な身なりをしていた。
だから礼を断ったのに。
これを買うのに、どれだけ生活を切り詰めたのだろうか。
掌に収まるそれが、やけに重たく感じられた。
◇
峠の頂で、妹紅はぐでんと横になった。
ぼんやりと空を眺める。
「三十年、か」
懐中時計を取り出し、蓋を開く。
針は静かに動いている。
カチ、カチ、と。
「……いいなぁ」
ぽつりと零れた。
男が死んで、悲しいとは思わなかった。
ただ、羨ましかった。
棺桶に入る姿を想像して、憧れた。
その感情を恥じるような人間性も、残っていない。
視線を時計に落とす。
三十年前の今日、ここで転んだ時刻を思い出す。
確か、暮れ六つの鐘が鳴っていた。
カチ、カチと針が進む。
長い針があと五周すれば、その時刻になる。
"十回転んだから、死ぬのは三十年後だな"
あまりに、くだらない。
けれど、もしもを考えてしまう。
空想に焼かれ、ひたすら進む時計の針から目が離せない。
少しだけ、鼓動が速くなる。
静かに、カウントダウンする。
五、四、三、二、一——。
「……来るわけ、ないよな」
終わりなど。
遠くで鐘の音が響いた。
馬鹿馬鹿しい迷信なのは、分かっていた。
それなのに、肩を落とす自分がいる。
「……惨めだ」
懐中時計を閉じて、ポケットにしまう。
ごろりと、身体を傾ける。
坂に身を預ける。
重力に引かれるままに、身体が回る。
最初はゆっくり。
次第に速度が増す。
加速しながら、転げ落ちる。
回転する度に全身が地面に叩きつけられ、骨が軋む。
枝が皮膚を裂く。
小石みたいに跳ねながら、転がっていく。
「……っ」
肺が潰れ、息が漏れる。
空と地面が、何度も入れ替わる。
頭が打ち付けられて、思考も曖昧になる。
もし、このまま。
全部壊れて、終われるなら。
ごん、と岩にぶつかった。
骨が砕ける音がした。
腕が反対の方向にひしゃげる。
それでも止まらず、勢いは増していく。
肉は裂け、骨が飛び出る。
内臓が破裂し、血が噴き出す。
けれど。
どれだけ壊れても。
どれだけ潰れても。
やがて、傾斜は緩やかになり、勢いは落ち、麓で止まった。
ぼろぼろの身体で、空を見上げる。
骨も、肉も、まともな形をしていない。
瞬間、炎が噴き上がる。
身体が形を取り戻していく。
癒しの炎に焼かれながら、ポケットに手を伸ばす。
懐中時計を取り出して、開く。
中の針は、歪んで止まっていた。
「あーあ」
せめて、これだけ置いて転がれば良かった。
いつもそうだ。後悔ばかりする。
「……悪いな」
小さく笑う。
何回転がっただろう。あと何年生きるのだろう。
不死の煙がゆらゆらと昇っていく。
馬鹿と煙は——そんな言葉をまた、思い出した。
③お題 ニコニコ 春 三十年
巡る季節の裏には、泥臭く現場を駆け回る職人の姿がある。
春告精、リリーホワイト。
春を告げる業務に携わり、三十年目の大ベテラン。取材班は彼女に密着した。
2月7日 4:30
リリーホワイトの朝は早い。
——おはようございます。
「はい、おはようございます」
明るく挨拶をする彼女。
日が昇りきる前から活動し、春の訪れを確認する。
「まだ来てませんね」
地面に手を当て、春の未到を告げた。
暦の上では春とはいえ、未だ到来の兆しは無い。
だが、彼女はそのまま眠りに付く事は無い。
身体をほぐし、腹式呼吸を始める。
「ハールーデースーヨー。ちょっと低いか。ハールーデースーヨー。うん、いい感じ」
来るべき春に向けて、準備を進める。
その後は、鏡の前で笑顔の調整。
納得いく表情ができるまで、作業は深夜にまで及んだ。
完璧に春を告げる。
そのストイックさが、彼女の流儀であった。
2月13日 20:00
取材班は彼女の自宅に招かれていた。
彼女は、昼間の真剣な表情から打って変わり、穏やかな顔をしていた。
甘酒を煽りながら、これまでの苦悩を語ってくれた。
「先代から引き継いで三十年。色々な事がありましたよ。大きな失敗も」
——大きな失敗?
「十年目くらいの頃かな。ちょっと暖かい日が続いて。よっしゃと思って、春を告げて回ったら、次の日から大雪で」
——フライングしてしまった?
「そういう事です。大変でした」
——どうなったんですか?
「冬眠から覚めた動物達に、頭下げて回りました。母熊に睨まれながら子熊の寝かし付けした時は、死ぬかもって思いましたね。まぁ、おかげで甘さが消えました」
頬を朱に染めて、遠い目をする彼女。目尻の皺に、三十年の重みが刻まれていた。
3月2日 6:00
この日は様子が違った。
忙しなく動き回り、全身に緊張感を身に纏っている。
「来た、来た、来た」
バタバタと支度する。
神妙な面持ち——だが、一歩外に出た途端、満面の笑みに変わった。
「春ですよー!」
高らかな声と共に颯爽と飛び出つ。
取材班も慌てて、その後を追う。
彼女は一直線に駆けていく。
「春ですよー!」
その声に起こされるように、木々の枝先で蕾が膨らみ、一斉に花開いた。
——凄いですね
「まぁ、きっかけみたいなものです」
振り返らずに彼女は言った。
「春は元々そこにあるんです。ただ、少しだけ背中を押してあげる。それが私の仕事です」
その言葉の証明のように、近くの茂みが揺れた。眠そうに目をこする狸が、のそのそと顔を出す。木の枝から鳥が静かに羽ばたいた。
自然が息を吹き返していく。
その中心に彼女はいた。
笑顔を絶やさず、声を乱さず、背景にある努力の影など、一切感じさせない。まさしくプロの姿だった。
「春で……っぶへぇ!」
鈍い音がして、空気が一変する。
彼女の後頭部に、拳大の氷塊が直撃したのだった。
「あたいは春なんていらないっ!」
氷精が彼女の後ろに浮かんでいた。目を吊り上げている。
氷の破片が、ぱらぱらと地面に散る。
その中に、赤い雫が混じっていた。
——血だ。
流血したリリーは、俯いたまま小さく呟いた。
「……ですよ」
そして、顔を上げる。
笑顔だった。
頭から血を流しながらも、ニコニコと笑っていた。
「春ですよぉおお!」
「ひいっ」
鮮血に塗れた笑顔に、氷精は恐怖の声を上げる。我々取材班も息を呑む。
「は、春なんて嫌いだぁあ!」
氷精は吐き捨てるように言って、勢いよく飛び去っていった。
静けさが戻る。
——大丈夫ですか?
「まぁ、よくあることなので」
それで済ませていいことなのだろうか。
「さ、行きましょう」
すぐに前を向く彼女。その背中には、一切の迷いがなかった。
それからは、圧巻だった。
畑には柔らかな土の匂いがたち、野には名も知らぬ花が咲き、湖面はきらきらと光を弾いた。
どこへ行っても、彼女は同じ言葉を届ける。
「春ですよー!」
世界に色が戻る。
やがて、幻想郷の隅々まで、春が行き渡った頃。
彼女は足を止めた。
見渡す限り、花、花、花。
風は柔らかく、空は高い。
彼女は小さく頷いた。
すべてが終わったようだ。
——お疲れ様でした。
声をかけると、彼女は振り返る。
「こちらこそ、長い時間ありがとうございました」
——最後に一つ、よろしいでしょうか。
「はい」
——あなたにとって、プロフェッショナルとは?
一瞬、彼女は考えるように空を見上げた。
「冬を根絶やしにする事……ですかね」
照れ臭そうに笑う。
その笑顔は、どこまでも明るく。
どこまでも、春だった。
「ほんと、頭にくる」
鈴だらけの部屋の中、アリスは不機嫌そうに呟いた。
その瞬間、視界がふっと陰る。
ぽーん、と軽い音を立てて、アリスの頭上に何かが着地した。
「よっと」
「……重い」
見上げるまでもない。
「……魔理沙。降りなさい」
「アリスが呼んだんだろ」
見えない力に引き寄せられるように、アリスの"頭に来た”魔理沙は、ケラケラと笑った。
音を立てて、部屋中に鈴が転がる。
ちりん、ちりん、ちりん。
魔理沙が笑う度に、鈴が増える。転がる。跳ねる。
足元一面——鈴、鈴、鈴。
魔理沙が“鈴を転がすように”笑った、その所為だ。
アリスは鈴の海を見下ろし、深く嘆息した。
——発端は、三十分ほど前に遡る。
「凄い魔法を開発したぜ!」と鼻息荒くアリス邸に闖入してきた魔理沙は、自慢げにそれを披露した。
曰く、「思ったことを現実化する魔法」。
大それた代物に、アリスも少しばかり期待した——のだが。
結果は、失敗。
魔法回路は暴走し、発動したのは「思ったことを現実化する魔法」ではなく——
「まさか、慣用表現が現実化されるなんてなぁ」
アリスの頭上で足をぶらつかせながら、魔理沙が笑う。
床に鈴が溢れる。
アリスがまた文句を言おうと口を開きかけた、その時。
ぽこ。
ぽこぽこ。
視界の端で、何かが蠢いた。
「……何?」
目元に違和感。
触れようとするより早く——
ぽこん。
小さなクジラが、目の下から生まれた。
「は?」
「なるほど、“目くじらを立ててる”と思ったからか」
ぽこぽこぽこ、と続けざまに。
小さなクジラたちが次々と現れ、ぴょこん、と立ち上がる。
鈴の海に、クジラが立つ。
意味の分からない光景だった。
口に出さずとも、慣用表現を“思っただけで”現実化する。
なんとも厄介な魔法だ。
「いい加減、止めなさいよ!」
「私にも止め方が分からん」
「せめて笑うな!」
アリスが真顔で怒ると、流石に魔理沙も神妙な顔になった。
そして、もごもごと口を動かし——
ぎり、と小さな音。
ぺっ、と何かを手のひらに吐き出す。
ぐしゃりと潰れた、笑顔のマークだった。
「……は?」
「笑いを噛み殺したらこうなった」
納得したように笑って、魔理沙は頷く。
「結局笑ってるじゃない」
言いながら、アリスは魔理沙を払いのけた。
本当に、腹が立——
ふわり、と身体が浮いた。
「……え?」
足が床を離れる。
鈴の海が遠ざかる。
クジラたちは、ぽこんぽこんと跳ねる。
「お前、“腹を立ててる”だろ」
「……っ!」
言われて、気づく。
腹が——立ち上がっている。
そのまま、お腹に引っ張られるようにして宙に浮かぶ。
「ちょ、ちょっと!どうにかしなさい!」
「ははっ……ははは……!」
魔理沙はそれを見て——笑い転げた。
床を叩き、鈴を跳ね飛ばし、腹を抱えて。
「笑い事じゃ——」
「はははははは!!」
しかし、やがて——
「はは……は……」
ぴたり、と動きが止まった。
「……魔理沙?」
返事はない。
ぴくりとも動かない。
嫌な予感が胸をよぎる。
「まさか……笑い死んだ……?」
腹の浮力も収まり、アリスは慌てて駆け寄る。
呼吸を確かめる。
「……嘘でしょ?」
魔理沙は、息を引き取っていた。
「は、え、本当に?」
いやいやいや。
こんな形で幕を下ろすなんて。
思考が空回りする。
視界の端では、実際に幕が下り始めているが、それどころではない。
このままではまずい。
何か——何か、方法は。
「……そうだ」
アリスに電流が走る。
痺れながらも、アリスはすぐに行動に移った。
◇
風呂場。
湯気の立ちこめる中、アリスは魔理沙の身体を湯船に沈めた。
「これで、どうにか——」
熱々の湯船に浸かれば、人は"ああ"なるはず。
私がそう思えばきっと——
祈る。
ぽこ、と湯面が揺れた。
そして。
「ぶはっ!」
勢いよく、魔理沙が顔を出す。
「生き返るぜ!」
いつも通りの、調子のいい声。
「……はぁ」
アリスはその場にへたり込む。
安堵が、一気に押し寄せる。
「……良かった」
「ありがとな、アリス」
魔理沙が笑う。
アリスも、つられて笑った。
その時。
ぽた。
ぽたぽた。
二人の顔から、何かが零れ落ちる。
「……何?」
湯船に浮かんだそれは、丸く、にこにことした形。
「……笑顔?」
「“笑顔がこぼれる”ってやつだな」
魔理沙がにっこり笑う。
鈴もクジラもない静寂の中。
湯船いっぱいに、ぷかぷかと二人の笑顔が浮かんでいた。
②お題 三十年
藤原妹紅は、竹林へ抜ける峠道を歩いていた。
夕日を背に坂を登る。
上り道は好きだ。景色が徐々に高くなっていくのがいい。
ふと、馬鹿と煙は——という言葉が頭に浮かぶ。
その理屈でいうなら、月の連中は、輪をかけての大馬鹿だ。
「……あの」
ふいに呼び止められて、足を止めた。
振り返ると、一人の男。
人間とは珍しい。
ここは妖怪も現れるというのに。
こいつも馬鹿なのだろうか。
しかし、どこか見たような、ないような顔。
「あなたはもしや、丁度三十年前、この場所で……」
その言葉に、顔に、記憶がゆっくりと蘇る。
――ああ、いたな。こんな顔。
妖怪に襲われていたのを、気まぐれに助けてやった男だ。
その際に自分は、勢い余って転倒した。
そしたら男は蒼白になって、「なんという事だ」と騒ぎ出した。
"三年峠で転んだ者は、三年きりしか生きられぬ"
この峠にそんな迷信があるのは、慧音から聞いて知っていた。しかし、信じている奴がいるとは思わなかった。
青ざめたあばた顔が可哀想になって、慧音に教わった対処法を試してやった。
その場に横になり、ゴロゴロと回転した。
「これで十回転んだ。死ぬのは三十年後だな」
そう言うと、男は安心したように笑った。
男は礼を強く申し出たが、「三十年後、また転びに来るから、その時にな」と手を振って断った。
あれからもう、三十年も経ったのか。
「元気そうで良かった」
そう言うと、男は困ったように笑った。
「いえ。私は、息子です」
「えっ」
「父は、去年亡くなりました」
あぁ、そうか。
三十年。
人間が死ぬには充分な時間だ。
「父から、これを……あなたに渡してほしいと」
差し出されたのは、懐中時計だった。
丁寧な装飾から、安物でない事が伺える。
この息子も同様だが、父親も貧相な身なりをしていた。
だから礼を断ったのに。
これを買うのに、どれだけ生活を切り詰めたのだろうか。
掌に収まるそれが、やけに重たく感じられた。
◇
峠の頂で、妹紅はぐでんと横になった。
ぼんやりと空を眺める。
「三十年、か」
懐中時計を取り出し、蓋を開く。
針は静かに動いている。
カチ、カチ、と。
「……いいなぁ」
ぽつりと零れた。
男が死んで、悲しいとは思わなかった。
ただ、羨ましかった。
棺桶に入る姿を想像して、憧れた。
その感情を恥じるような人間性も、残っていない。
視線を時計に落とす。
三十年前の今日、ここで転んだ時刻を思い出す。
確か、暮れ六つの鐘が鳴っていた。
カチ、カチと針が進む。
長い針があと五周すれば、その時刻になる。
"十回転んだから、死ぬのは三十年後だな"
あまりに、くだらない。
けれど、もしもを考えてしまう。
空想に焼かれ、ひたすら進む時計の針から目が離せない。
少しだけ、鼓動が速くなる。
静かに、カウントダウンする。
五、四、三、二、一——。
「……来るわけ、ないよな」
終わりなど。
遠くで鐘の音が響いた。
馬鹿馬鹿しい迷信なのは、分かっていた。
それなのに、肩を落とす自分がいる。
「……惨めだ」
懐中時計を閉じて、ポケットにしまう。
ごろりと、身体を傾ける。
坂に身を預ける。
重力に引かれるままに、身体が回る。
最初はゆっくり。
次第に速度が増す。
加速しながら、転げ落ちる。
回転する度に全身が地面に叩きつけられ、骨が軋む。
枝が皮膚を裂く。
小石みたいに跳ねながら、転がっていく。
「……っ」
肺が潰れ、息が漏れる。
空と地面が、何度も入れ替わる。
頭が打ち付けられて、思考も曖昧になる。
もし、このまま。
全部壊れて、終われるなら。
ごん、と岩にぶつかった。
骨が砕ける音がした。
腕が反対の方向にひしゃげる。
それでも止まらず、勢いは増していく。
肉は裂け、骨が飛び出る。
内臓が破裂し、血が噴き出す。
けれど。
どれだけ壊れても。
どれだけ潰れても。
やがて、傾斜は緩やかになり、勢いは落ち、麓で止まった。
ぼろぼろの身体で、空を見上げる。
骨も、肉も、まともな形をしていない。
瞬間、炎が噴き上がる。
身体が形を取り戻していく。
癒しの炎に焼かれながら、ポケットに手を伸ばす。
懐中時計を取り出して、開く。
中の針は、歪んで止まっていた。
「あーあ」
せめて、これだけ置いて転がれば良かった。
いつもそうだ。後悔ばかりする。
「……悪いな」
小さく笑う。
何回転がっただろう。あと何年生きるのだろう。
不死の煙がゆらゆらと昇っていく。
馬鹿と煙は——そんな言葉をまた、思い出した。
③お題 ニコニコ 春 三十年
巡る季節の裏には、泥臭く現場を駆け回る職人の姿がある。
春告精、リリーホワイト。
春を告げる業務に携わり、三十年目の大ベテラン。取材班は彼女に密着した。
2月7日 4:30
リリーホワイトの朝は早い。
——おはようございます。
「はい、おはようございます」
明るく挨拶をする彼女。
日が昇りきる前から活動し、春の訪れを確認する。
「まだ来てませんね」
地面に手を当て、春の未到を告げた。
暦の上では春とはいえ、未だ到来の兆しは無い。
だが、彼女はそのまま眠りに付く事は無い。
身体をほぐし、腹式呼吸を始める。
「ハールーデースーヨー。ちょっと低いか。ハールーデースーヨー。うん、いい感じ」
来るべき春に向けて、準備を進める。
その後は、鏡の前で笑顔の調整。
納得いく表情ができるまで、作業は深夜にまで及んだ。
完璧に春を告げる。
そのストイックさが、彼女の流儀であった。
2月13日 20:00
取材班は彼女の自宅に招かれていた。
彼女は、昼間の真剣な表情から打って変わり、穏やかな顔をしていた。
甘酒を煽りながら、これまでの苦悩を語ってくれた。
「先代から引き継いで三十年。色々な事がありましたよ。大きな失敗も」
——大きな失敗?
「十年目くらいの頃かな。ちょっと暖かい日が続いて。よっしゃと思って、春を告げて回ったら、次の日から大雪で」
——フライングしてしまった?
「そういう事です。大変でした」
——どうなったんですか?
「冬眠から覚めた動物達に、頭下げて回りました。母熊に睨まれながら子熊の寝かし付けした時は、死ぬかもって思いましたね。まぁ、おかげで甘さが消えました」
頬を朱に染めて、遠い目をする彼女。目尻の皺に、三十年の重みが刻まれていた。
3月2日 6:00
この日は様子が違った。
忙しなく動き回り、全身に緊張感を身に纏っている。
「来た、来た、来た」
バタバタと支度する。
神妙な面持ち——だが、一歩外に出た途端、満面の笑みに変わった。
「春ですよー!」
高らかな声と共に颯爽と飛び出つ。
取材班も慌てて、その後を追う。
彼女は一直線に駆けていく。
「春ですよー!」
その声に起こされるように、木々の枝先で蕾が膨らみ、一斉に花開いた。
——凄いですね
「まぁ、きっかけみたいなものです」
振り返らずに彼女は言った。
「春は元々そこにあるんです。ただ、少しだけ背中を押してあげる。それが私の仕事です」
その言葉の証明のように、近くの茂みが揺れた。眠そうに目をこする狸が、のそのそと顔を出す。木の枝から鳥が静かに羽ばたいた。
自然が息を吹き返していく。
その中心に彼女はいた。
笑顔を絶やさず、声を乱さず、背景にある努力の影など、一切感じさせない。まさしくプロの姿だった。
「春で……っぶへぇ!」
鈍い音がして、空気が一変する。
彼女の後頭部に、拳大の氷塊が直撃したのだった。
「あたいは春なんていらないっ!」
氷精が彼女の後ろに浮かんでいた。目を吊り上げている。
氷の破片が、ぱらぱらと地面に散る。
その中に、赤い雫が混じっていた。
——血だ。
流血したリリーは、俯いたまま小さく呟いた。
「……ですよ」
そして、顔を上げる。
笑顔だった。
頭から血を流しながらも、ニコニコと笑っていた。
「春ですよぉおお!」
「ひいっ」
鮮血に塗れた笑顔に、氷精は恐怖の声を上げる。我々取材班も息を呑む。
「は、春なんて嫌いだぁあ!」
氷精は吐き捨てるように言って、勢いよく飛び去っていった。
静けさが戻る。
——大丈夫ですか?
「まぁ、よくあることなので」
それで済ませていいことなのだろうか。
「さ、行きましょう」
すぐに前を向く彼女。その背中には、一切の迷いがなかった。
それからは、圧巻だった。
畑には柔らかな土の匂いがたち、野には名も知らぬ花が咲き、湖面はきらきらと光を弾いた。
どこへ行っても、彼女は同じ言葉を届ける。
「春ですよー!」
世界に色が戻る。
やがて、幻想郷の隅々まで、春が行き渡った頃。
彼女は足を止めた。
見渡す限り、花、花、花。
風は柔らかく、空は高い。
彼女は小さく頷いた。
すべてが終わったようだ。
——お疲れ様でした。
声をかけると、彼女は振り返る。
「こちらこそ、長い時間ありがとうございました」
——最後に一つ、よろしいでしょうか。
「はい」
——あなたにとって、プロフェッショナルとは?
一瞬、彼女は考えるように空を見上げた。
「冬を根絶やしにする事……ですかね」
照れ臭そうに笑う。
その笑顔は、どこまでも明るく。
どこまでも、春だった。
妹紅の いつもそうだ。後悔ばかりする。の部分好きです。
笑い死にして風呂で生き返るのがとてもよかったです