射命丸文が紅魔館に訪れたのはただの気紛れ以外の何物でもない。
ましてや彼女が館の門番である紅美鈴に目が留まったのも特に他意は無い。
強いて言えばただなんとなくだった。
雲一つ無い快晴の青空。紅魔館の遥か上空を文は踊る様に飛ぶ。
飛来する飛行物体を察知したメイドの慌しい知らせを宥めながらも、美鈴は凛然と輝く太陽の光を手で遮りつつ空を見遣った。
美鈴の瞳が文を見かけると僅かに頭を垂らし、半歩ずれて気持ちだけ彼女の為に場所を作る。
文には計り知れないところはあるものの、彼女が紅魔館に訪れる際は道理に合った行動をとることを美鈴は知っている。
警戒を解くまでとは言わずとも会釈を交わすことくらいはどうということはない。
また、不躾に罷り通ろうとする者以外に事を構えようとするのは意味を為す筈も無い。
その様子を見て文も軽くお辞儀を済ませる。
そして、羽根を羽ばたかせたと思いきや颯爽と美鈴の傍へと舞い降りた。
「こんにちは」
「ええ、こんにちは」
微笑を携えてお互いに当たり障りの無い挨拶が交わされる。
地面に降り立つやいなや、文が飛行の為に大きく広げていた羽根を畳むと黒い羽根が辺りに舞った。
その一連の動きにも毅然たる態度が窺えるのは流石は天狗というところだろうか。
そんなことを思いながらも美鈴は文に閑談を持ちかけた。
「今日の来客はあなたで二人目ですよ。普段は人っ子一人来ることがないのでつい珍しく思えてしまいます」
「まあ、吸血鬼の館ですしねえ」
「ですねえ」
一日の殆んどを門前で過ごす美鈴は自然と一人でいる時間も多くなる。
門吏が客人を望む。何とも可笑しな話だなと美鈴は思わず内心で苦笑した。
とは言っても、訪れる人の多い吸血鬼の館だとしたら確かに主の威厳が無いだろう。
「二人目というと彼女でしょうか」
「お察しの通りです。と言っても今日は戦いませんでしたけど。あれだけ大人しいから空から礫が降るんじゃないかと思いましたよ」
「いやはや、毎日お勤め御苦労様です」
「いえいえ。お勤めと言ってもここで立っているだけのようなものですから」
たまーに現れる不届き者と戯れるくらいで、と美鈴は付け加えて告げる。
その不届き者は館の中の図書館で大きなくしゃみを一つ。
図書館の主の冷めた一瞥もお構いなく白黒の魔法使いは魔導書に頭を埋めた。
そんな光景が起こっているとは露知らず。
美鈴の声は連続して来訪者が現れたことが嬉しいのか文には心なしか弾んでいるように聞こえた。
「しかし魔理沙さんがあなたにちょっかいを出さずに入るなんて珍しいですね。ネタとしてはインパクトに欠けますが」
「曰く斬新さが肝要だとか、曰く私にだって偶にはアンニュイな気分にもなるとかなんとか」
「彼女が倦怠感を感じているかどうかは兎角、斬新さについては私も同意見です。退屈なのはあまり好きではありません」
文は思わずといったように辟易する。
今の話からすると魔理沙が普段かなり破天荒な振る舞いであることを自他共に認めるということだ。
気付いているのなら少しは悔い改めて欲しいものだと美鈴は思う。
「どうかしましたか?」
「ああ、いえ、その……」
少し物思いに耽りすぎていたか。
文が訝しげに美鈴を覗きこんでいることに気付いたのはしばらくしてからのことだった。
何でも無いことを手で示し、話を元に戻す。
「あなたはしょっちゅう駆け回っていて退屈とは無縁のような気がします」
「とんでもございません。外敵など来る筈も無いのに山の見回りを上司から強要されるのです」
「それはまた大変ですね」
「まあ、せめてもの慰みにと部下をいじめ抜きますが」
「あ、あはは」
そう言って文は手をわきわきと動かし、嫌らしく笑う。
一瞬だけその仕草が自分の上司に当たる人物と重ね合わせてしまったことは美鈴にとっては仕方の無いことだったのかもしれない。
それはもう本当に一瞬だけだが。
美鈴がパンドラの匣と向き合ってしまったような思いを内心感じているにも関わらず、文は続けて捲し立てる。
「むしろあなたの方が大変でしょうに。雨の日も風の日も来る日も来る日もここに立ち続けるなんて」
「いえいえ、そんなことは」
「失礼ですが私には門に縛り付けられているのと遜色無いように見えます」
「まさか。磔刑でもあるまいし、縛り付けられているとは心外です」
「主の妹さんは確か十字架遊びも出来ますしねー」
「お二方とも雨は苦手らしいですけどね」
吸血鬼が十字架を苦手としているかの真意は一先ず置いておくにして。
むしろ十字架が平気で何故流水が苦手なのだろうかと暫し二人して悩む。
閑話休題。
「新聞で口外することを恐れているのならお気になさらず。今日はオフで来たようなものなので」
「どんなに言われても、私はここで門番をしていることに退屈を感じたことなんてありませんよ」
「シエスタに講じることはあっても?」
「ごふっ!?」
思いもしなかった返しに美鈴は思わず噎せてしまう。
大丈夫ですかと背中を摩る文であったが、その顔はにやにやと嫌みたらしい笑みを張り付けている。
痛い所を突かれた美鈴は呻きながらも思う。
だって仕方ないじゃない。眠いんだから。
一方の文は零れ落ちる笑みを隠そうともせず同情するよう美鈴に語りかける。
「私だって哨戒の任務は非常に退屈極まりないものだと認識しています。しかしそれ以上に同じ場所に何時間も居続けるのは辛いでしょう」
「……何が言いたいんですか」
「だからあなたが退屈だと感じてもそれは自然なことだと思いますよ」
「はぁ」
生返事をしつつも、ただ談笑をしていたつもりがふといつの間にか質問責めにすり替わっていたことに美鈴は気付く。
文がオフで来たと言った記憶はまだ真新しい。
新聞記者の癖なのだろうかと適当に思いつつ、美鈴は急に持ちかけられた取材にどう答えようか考えあぐねる。
下手に答えればゴシップとして書かれる可能性を危惧しながら美鈴は慎重に言葉を紡いだ。
「そうですね……今日はいい天気じゃないですか」
「……ええ、まあ」
突如として話が変わったことに文が二つ返事で返すと美鈴は天を仰いだ。
それに釣られる形で文もまた見上げる。
二人の視界には底抜けに真っ青な蒼空が広がっている。
時折警備の妖精メイドが空を飛び交うくらいで、至って普通の平常が流れている。
「この天気が荒れることもある。雪が降ることもある。今日みたいな晴れの日も雲があって、その雲も一日とて同じことは無い。それだけでも面白いことじゃありませんか」
「……なるほど」
童心に帰ったかのように楽しげに話す美鈴を見て文は少しの間きょとんと目を丸くする。
やがて納得したかのように一言だけ呟くと、文は上を見ていた視線を周囲に向けた。
諸行無常。
美鈴にとっては辺りの木々も、花壇に咲き誇る花も、湖面を巡る水も、足を置く地面も日々変わっていているから見ていて楽しいという。
言いたいことは文にも理解は出来た。
「勿論、それだけじゃないんですけど」
「と、言いますと?」
文は周りに泳がせていた視線を美鈴に戻す。
「ええ、お嬢様に仕えることこそ私の生き甲斐ですから。ですから暇と思ったことはありませんよ」
「生き甲斐、ですか」
「ええ。この仕事は私には身に余る光栄ですよ」
瞳を輝かせ語る美鈴に文は思わずたじろいだ。
果たして自分はどうだっただろうか。
組織に揉まれ、仕事に興じ、こうした自分の時間でさえ風を感じることはあっても心身ともにゆっくりと過ごすことや周りの情景に目を留めて自然を全身で感じ取ったことは近来あまりなかったかもしれない。
また、上司に生き甲斐と言い切る程従っていたかと言われれば苦痛でこそないものの首肯は出来ないだろう。
純粋だ、と文は思う。見方を変えれば、子供だとも言えるのだろうか。
長いこと生きていれば景観の微細な変化もただの日常の当たり前の事象と化してしまい面白味を孕むことは無い。
それは当然のことだ。
しかし美鈴はいとも簡単に言ってのけた。
文にはまるで自分には無いものを誇示されたようにも思えて仕様が無かった。
だからだろうか。どうにもこの純朴さを持つ彼女に対して少しだけからかってみようと思ったのは。
全くどちらが子供なのだろうか。
自分でも大人げないなと文は自嘲する。
「……そう言えば、私、今日はレミリアさんにもお話を伺おうと思っていたのですが」
「でも、今の時間は多分就寝中ですよ」
「ええ、存じていますとも。ですから――」
続きを言う間も無く、突如として文の周囲に風が巻き起こり、吹き荒ぶ。
風の刃が周囲を襲う直前、美鈴は背後に飛ぶことで事無きを得る。
騒ぎを聞きつけた数体の妖精メイドは何事かと慌てふためく。
それを意に介す様子も無く文は中空に舞い上がり、葉団扇を美鈴に向けた。
「――あなたのお嬢様が目覚めるまでの間ですが、私が生き甲斐を直に感じさせてあげましょう」
無法にも笑みを浮かべ悠然と構える文。
先程までの穏やかな空気とは打って変わって張り詰めた雰囲気に一転する。
美鈴は額に流れた汗を袖で拭った。
「それはまた――」
美鈴は一息吐く。
呼気を整え、ゆっくりと構えに入る姿はそこはかとない会話に乗じていた時に醸し出していた様子とは違う。
門衛として、主を守る一従者として、美鈴はいきなり現れた不礼者に対して、紅魔館の門前に体現していた。
「――なんとも有難い話ですね」
「そうでしょう?」
同じく不敵に笑う美鈴。それを見た文は満足気に頷く。
吹き荒れていた風は嘘の様に凪ぎ、一時の静穏が訪れる。
美鈴はこれから起こるだろう事変に抑えがたい震えを感じていた。
それこそ、恐怖や緊張からではない。
只管に主を守れる戦いがこれから繰り広げられるだろうという戦慄からくるものだ。
吸い、吐き、吸って、吐く。
一呼吸する毎に全身が慄き始めていることを感じる。
こうして彼女の一日は、大きく変化することとなる。
美鈴はその日常の変化を全身で受け、使命に全身で応えることでこれほどに無い充足感を堪能していた。
「はてさて、午睡の誘惑にまどろんでしまうあなたは果たして主君を守衛することが出来るのでしょうか。これは密着取材せざるを得ませんね」
「今日は十二分にお休みを頂きましたので。きっといい画が撮れると思いますよ?」
軽口を叩く。
その間も足に錬氣を籠める。それに応じるかのように地が沈む。
蹴り抜く!
そう意識して美鈴が地を蹴り上げ文に向かっていった刹那。
文の周りにも再び風が巻き起こる。
風はやがて烈風と為り、周囲の物を巻き込みながら美鈴に向かって猛然と荒れ狂う。
――まさか本当に礫が降るなんてね。
文の周りで暴れるように舞い踊る巨大な礫を見た美鈴の口から苦笑いが漏れる。
間も無くして二人の距離は肉迫する。
近づく度に美鈴の体感する風は激しくなり、次第に苦笑も飲み込まれた。
そして、美鈴と文の操る礫がぶつかり合った瞬間。
開戦の合図と言わんばかりに二人は高らかに宣言した。
「吹き降りるは天狗颪、舞い落ちるは天狗礫――『人間禁制の道』」
「生滅滅已、寂滅為楽――『飛花落葉』」
こんな勝負も日常座臥。
でも、いやだからこそ幻想郷は平和なんですね。
情景描写が丁寧で、二人の並んでいる絵がありありとまぶたに浮かびました。
美鈴の考え方が彼女らしくて素敵だと思います。
惜しむらくは、ややストーリー的に薄いのではないかという点。
勿論これだけでも日常を描いた作品として見事に成立しているとは思いますが、
もう少しお話を膨らませる事も出来たのではないかと。
例えば二人の勝負が終わり文が館に入って……とか。貴方の筆力からすると
これは少々小粒に過ぎると思えてならないのです。個人的にはもうしばらくの間、
貴方の文章に浸っていたかった。
その辺りに期待を込めて、今回はこの点数で。
次回作を楽しみにお待ちしています。
上コメと被りますが、二人の間にある空気の変化の表現が素敵ですね