気付くと、右折するべき所を随分と通り過ぎていた。
素直に道を引き返すのも癪だ……そう考え出すと、意地でも引き返すのが嫌になった。だからひたすら真っ直ぐ飛んできた。
私がこんな所でくつろいでいるのはそんな経緯だった。流石に呆れたぜ。
まあ、別に大きな問題があるわけじゃない。ここでもお茶は出たし(意外だが)、茶請けに羊羹まで出た。つまり待遇は霊夢のとこよりも良いことになる。
そもそも博麗神社に行こうと思ったのは、今日も退屈だったからだ。こんな日は霊夢と一緒にぼんやりしてるか、パチュリーか香霖のとこから本を借りてくるに限る。ただ、他にも暇を潰せる場所があるっていうなら試してみてもいい。たまには私だって変化が恋しくなる時があるさ。
そう、それは迷いだ。さっきだって進むべき道に迷ったし、こうして茶を飲んでるのだって気の迷いって奴かもしれない。出した本人はどう思ってるんだろうな? 少なくとも、差し出したあいつは快く思ってなさそうだ。命じた方はよくわからん。
案外、今も迷ってる最中なのかもな。何せ、居ながらにして迷ってるような連中だ。あんまり深く考えてると、こっちまで迷い癖がうつっちまうかもしれない。もう迷うのはごめんだぜ。
どれくらい時間が経っただろう。皿の羊羹もなくなって2杯目のお茶がなくなった頃、私は3杯目を要求しようか少しだけ考えた。ちょうどその時、ようやく目の前の庭師がこっちに声を掛けて来る。
「……おい、そこの黒いの」
「なんだ、迷い人」
声の掛け方で迷ってたのか、掛けること自体で迷ってたのか知らないが、迷った挙句に発せられた問いかけは実に単純なものだった。
「ここに辿り着いた経緯は聞いたが……結局、お前は何をしに来たんだ。それに、誰が迷い人だ」
「おっと、大事な用があるから帰らないぜ」
「いったいどんな用があると言うんだ」
「暇潰しという用件」
「あら、それは重大な用件ね」
「さっさと帰れ!」と喚き立てる庭師に、ぽやーんと茶をすするお嬢様。秋も暮れに近づく季節。冥府の中で最も華やかと言われる白玉楼……私はそこにいた。
気が遠くなる程広大な庭が概ね見渡せる縁側に腰掛け、不貞腐れながら働く庭師を眺めているだけだってのに、中々退屈しないもんだな。時折憎憎しい視線をこちらに向けてくる辺りが尚楽しい。
「幽々子さまは少し黙っていてください」
「雇用者への反乱だな」
「反抗的な庭師ね」
「大体、なんでこんな黒いのにお茶なんて出してるんですか」
「お客様だぜ」
「断りもなく人の家に上がりこんできた奴を客とは言わない」
「唐突に家を訪ねてきたからお客様と言うんじゃない?」
「いきなり空から降って来て、「喉が乾いたからお茶でもくれ」なんて言う不躾なお客様なんていませんよ」
「少なくとも泥棒じゃないわ」
「風の噂によると、立派な泥棒らしいですが」
「失礼な奴だな。ただ、借りたら二度と返す気がないだけだぜ」
「泥棒だ」
「泥棒ね」
「おや?」
「まあいいわ。折角だし釣りにでも行きましょ」
「お、なんだ? 人間の魂でも釣り上げるのか?」
「釣ってどうする……」
「提燈代わりにはなるんじゃないか」
「あら、提燈ならもう間に合ってるわ」
「……幽々子さま。何で、私の方を見るんですか」
「夜道でとても便利なのよ。本体よりも役に立つわ」
「幽々子さまぁ~」
「ま、付き合うぜ」
「妖夢、釣竿を持ってきてちょうだい」
「確かに、物置に置いてありますけど……2本しかありませんよ」
「あら? 釣竿は2本しかいらないでしょ? 不思議なことを言うのね妖夢は」
白玉楼からさほど遠くない位置に湖はあった。幾許かの木々が、辺り一面に広がる草原にぽつぽつと点在している。その様があまりに簡素な所為だろうな。第一印象の『でっかい水溜り』ってイメージが未だに拭えやしない。
波紋も立たない静まり返った水面からは、生物が生息しているなんて到底想像できない……いや、みんな死んでるんだったな。冥府には勿体無い程爽やかな風が水面を脅かすと、鯉らしき魚が静かに跳ねた。
「やった! 釣れましたよ幽々子さま」
「……そんな小さい魚、いらないわ。身が全然ないじゃない。ほんと妖夢はダメね」
「そんな~」
妖夢が見せ付けた小魚は私の掌程の大きさしかなく、しかも薄桃色の身体をしていて、確かに食べるには値しない獲物だった。「私は食べるの専門よ」と草原で寝転がっていたお嬢様にしたら、さぞかし期待外れだろう。
釣り上げた小魚を名残惜しそうに見つめていた妖夢は湖に近づき、そいつをそっと水の中に放してやっていた。寂しげで、少し不貞腐れたような顔で水面をじっと見ていたが、諦めてまた竿を握る。
そんな姿を横目で見つつ、私は霊夢の家で読もうと持ってきていた本を片手にのんびりとしていた。垂らされた釣り糸はぴくりとも動かない。ついでのように木竿を掴んだ右手。あんまりにも穏やかなもんだから、ついつい午睡に耽っちまいそうだ。
「とにかく、これで私のリードだからな」
「お、やったな。お疲れさん」
「……おい、お前やる気あるのか」
「やる気を出しても魚は来ないぜ」
この間のリベンジのつもりなのか、一方的に勝負を挑んで来た妖夢は必要以上に意気込んでいる。半分幽霊の癖に騒々しい奴だぜ。内心で僅かに悔しく思いつつも、羅列された文面に意識を逸らす。そんな私の態度をどう取ったのか、不満そうな表情を貼り付けたままこちらから顔を背けた。
正式に承諾した勝負じゃないにせよ、誰かに負けるのはやはり気に食わない。とは言え、私は釣りに詳しいわけじゃないし、どうにかしようとしてどうにかなるものでもなさそうだ。本でも読みながら気長に待ってるしかないじゃないか。
ただの暇潰しがとんだことになっちまったな……我ながら情けないぜ。
本も読み終わり、両者共に何の進展もないまま時間だけが経過する。幽々子が身を起こした所為か、そろそろ時間切れだな……と頭を掠める。自分でもよくわからないが、何となくそんな気がした。少し離れた所にいるあいつも同じことを考えたに違いない。
正直、内心はかなり焦っていた。別に何を賭けたと言う訳でもない。決闘で負けるより釣りで負ける方がまだマシだろう。だが、私は既に「こいつには何が何でも負けてやらない」と心に決めていたのだ。
その時、竿の先端がぐんっと撓った。
「よっしゃ!」
膝に置いた本が地面に落ちるのも構わず、竿を両手で掴んで立ち上がった。大振りな挙動にただ事じゃないと感じたのか、妖夢も幽々子もこっちに駆け寄って来ている。だが、二人分の足音が聞こえただけだ。こっちは振り返る余裕もない。
しっかりと握り締めた釣り竿が激しく揺れる。気を抜くと竿を持って行かれそうな強さだ。あんまりにも撓るもんで、折れるんじゃないかと不安になりながら大物と戦っていた。
いや、戦うなんてもんじゃない。釣りなんて前に遊びでやっただけの私だ。予想外の引きの強さにパニックを起こしながら竿を動かしていただけだった。右へ左へ右へ左へ……引っ張り上げるなんて動作は頭の中から完全に消え去っている。
「あら、お払いみたいね。ぶーんぶーんっと」
無責任な声に脱力しそうになりつつも、何とか耐え切る。逃げられるかもしれないと言う不安は何処にもなかった。「これを仕留めれば私の勝ちだ」と言う想いが、混乱する思考の大半を占めきっていた。それが勝因だったに違いない。
「おりゃー!」
勢い余って草原に倒れこむ。糸に繋がれた大物の影が空高くにあった。
「……おおー」
幽々子の感嘆を耳にして、呆然としていた意識が我に返る。起き上がり、落下予想地点へ駆け寄ると、そこには80cm近い鯉が騒がしく跳ね回っていた。丸々と太った立派な鯉だ。それを見下ろして唖然としている表情の妖夢を見て、私の口元は自然と歪んだ。
「勝ちだぜ」
「くっ……」
宣言すると、妖夢は憎らしそうに私を睨み付けて来る。それも束の間、徐々に表情が力を失っていき最後には悔しそうな、悲しそうな顔で敗北感を噛み締めていた。
「ほんと、妖夢のとは違って身がたっぷりありそうだわ。活きも良さそうね」
「死んでて活きが良いってのも変な話だな」
「きっと生きてる時には活きがなかったのね。ところでこの鯉、どうやって食べようかしら」
「んー、これだけ活きがいいなら洗いが良いんじゃないか? きっと美味いぜ」
「ええ、勿論洗うわよ。この湖、あんまり水質が良くないもの」
「ゆ、幽々子さま……」
興味深そうに鯉を観察しているお嬢様を見てしまったからだろう。思わずといった感じに発せられた声。まるで、その声を聞いて初めて妖夢がいることに気が付いたような幽々子は、濃度の高そうな溜息を吐いた。
「もう、どうしてこんなに役に立たないのかしら妖夢は」
「そ、そんな……」
「恥ずかしいわ。また道行く人に「あなたの所の庭師は本当にダメね」って笑われるの」
こいつに、よりにもよって冥府で、通りすがりにそんな皮肉を言う奴いるはずないだろう。しかし、今のあいつにはその程度のことも考えられないらしい。半泣きのような表情で言葉を失っている。
「妖夢の後継ぎは頼んだわ」
「前にも断ったぜ」
「手入れの仕方はちゃんと聞いておいてね。でも聞いた通りにやっちゃダメよ」
「本末転倒だな」
「ふ、ふふ……」
搾り出したような笑い声が聞こえた。勿論発したのは他ならぬ先代庭師で、肩を震わせながら不気味に笑ってやがる。どうやら、多少からかい過ぎたらしいな。私は嫌な、もとい愉快な予感を感じとって、先程の釣り場に置きっ放しの箒をちらりと見た。
「霧雨、魔理沙っ!」
先程とは打って変わった気丈な声色。いや、ただ単にヤケクソなだけかもしれない。これからあいつが言い出す事なんて、誰だってわかるぜ。釣りの最中でさえ片時も離さなかった二刀のうち長刀を抜いて、妖夢は高らかに叫んだ。
「お前に白玉楼の庭師は勤まらん」
「私もそう思うぜ」
「よって、私が直々に指導してやろう」
「丁重にお断りするぜ」
「遠慮はいらん……すぐに、この冥府に相応しい姿にしてやるっ!」
剣閃が瞬く。刹那、白い輝きは眩い赤の弾丸に塗りつぶされた。
二刃、三刃、四刃、五刃。空を奔る赤の多弾に背を向け草原を駆ける。身を屈め、帽子を手で押さえ、脇を掠める弾に少しばかり肝を冷やしながら一目散に箒の元へと―――辿り着く。
握り締め空高くへ翔け昇る。下方の空間を埋め尽くす目が眩むほどの赤。私に続き空へ上がった妖夢の眼光は鷹のように鋭い。
「血迷ってるな」
「妖夢の半分は迷いでできてるから」
下の方からのんびりとした返答が届く。全身無駄なく迷い人な雇用者は、安全な所から傍観する気満々らしい。半ば呆れながら肩を竦めた。笑みが勝手に浮かぶ。
「じゃあ私が断ち切ってやろう」
「迷いを断つのはこの白楼剣の仕事だ。すぐに此処から追い出してやる。黒い迷子!」
「さっきと言ってることが逆だぜ」
剣が奔る。弾丸を吐き出した楼観剣を鞘に納め、僅かの弾に先行させ突っ込んで来る。問答無用の突撃に面を食らって反応が遅れた。速度重視の弾を避けた時には既に妖夢は眼前に迫っている。
「せっ!」
力の篭った素早い抜き打ち。だが、私だってスピードには自信がある。急発進して後ろへ躱す。鋭い斬音が耳から消えぬ間に、刃が追ってくる。
歯を噛み締めながらの急降下、急旋回、急上昇。閃光に似た無数の斬撃も服の生地にすら触れさせない。しかし、余裕はない。反撃だってできるもんか。こっちの心境を知ってか知らずか、私目掛けて迫る弾幕が視界に映った。
「おわっ!?」
顔面目掛けて放たれた刺突を何とか避け、地に落ちる。キリモミしながらの自由落下。橙と黄と紫の弾丸が豪雨のように降って来る。目に優しくない弾幕を回避する最中、高らかに妖夢が宣言する。
「幽鬼剣っ!」
弾かれたように顔を上げる。左手にはスペルカード。直後、妖夢が剣を振り上げたまま私に向かって落ちてくる。
「たぁぁぁぁぁぁあああああ!!!」
楼観剣が唸る。縦一直線、滑るように斬り裂かれた空間から膨大な弾丸が迸った。まるで其処から生まれ出でたように。
空を埋め尽くす青の流星。こっちの落下を遥かに上回る速度。思わず舌打ちする。最高速を維持しながら身を翻し、僅かな隙間へ潜り込み続けるしかなかった。そう、今は。
「くぅ……!」
頬を掠める弾丸。衣服の焦げる匂いが鼻に突く。大気の抵抗を身に受けながら空の終点を目指す。駆け抜ける。勢いの衰えぬ無数の弾丸。途切れそうになる集中力を奮い立たせ、スカートからカードを取り出す。ようやく地表を視認した。
「恋符!」
激突直前の急転回。青い弾丸が轟音を立てて地に衝突する。激しい暴風域を脱出し狙いを定める。刹那、妖夢が飛び出してくると同時に叫ぶ。
「ノンディレクショナルレーザーッ!」
横薙の閃光。出力を抑え広域殲滅を重視したレーザーだ。だが、妖夢目掛けて放たれた一撃は何も捉えることなく空を焼く。
「甘い!」
「どうかな?」
上昇し難を逃れた妖夢を頭上から襲う二つ目の閃光。アレを避けられるのは承知の上。横がダメなら縦ならどうだ? 顔色を変えても既に手遅れ。巨大な剣のように振り下ろした光が空間ごと奴を塗り潰した。
……光が霧散し、眼前の光景が復活した。静かに燃え上がる草原。周囲は不気味なくらいに静まり返っている。風の音が煩わしい位に響いた。
「あいつ、何処行った?」
「人符!」
遠く、背後からの絶叫。慌てて振り返るも、冷静さの薄まった思考は神速で間を詰めて来た妖夢の動きに対応できない。
「現世斬っ!」
それが斬撃だって事はわかった。名前を叫んでいたからだけじゃない。
いつの間にか私は草原に倒れこんでいて、横には真っ二つにされた箒が転がっていた。背筋が凍る程に美しい断面。冷たくなった血を意識しながら立ち上がると、腹部が湿っていることに気づく。
「……ふぅ」
地に尻をついて座り込む。ああ、別に動けなくなったからとかそういうのじゃない。ただ、単にこっちのが楽だからそうしてるだけだ。全く、何をやってるんだろうな。私も。
10メートル前方……あいつを見据える。短めに揃えられた銀の髪は軽く焦げ、衣服もボロボロ。穴だって少なくない。肩を上下させながら立つ姿は満身創痍と言っても良いくらいだった。普通の奴なら、あれだけやられれば降参してるぜ。
だいたいこれ、何の意味があるんだ。勝った所で何を得るでもなし。負けた所で何の損もしない。お遊びの弾幕ごっこって言うんなら、十分過ぎるくらい楽しめたぜ。何をムキになってやがるんだかな……あいつも。
「……恋符」
閑寂の草原に声が響く。決して大きくはないが、意思明瞭な宣誓。数瞬の間を置いて、妖夢の宣誓も私の耳に届いた。こっちは座ってるって言うのに、弾の一つも放ってこない。全く、負けず嫌いな奴だぜ。全方位何処から見てもバレバレの負けず嫌いだ。
だから―――私は絶対負けない。得も損も誇りも恥じもない。お前みたいに我武者羅な負けず嫌いには意地でも負けてやるもんか!
「現世斬っ!」
妖夢の姿が掻き消える。躊躇うことなく、臆することなく、私は声を張り上げた。
「マスター……スパァァァァァァァクッッ!!!」
光が世界を塗り潰す。何処かで、鯉が跳ねるような水音が聞こえた。
補修した箒と補修した身体。
よく冷やした鯉の洗いに酢味噌をつけて食べる幽々子を、畳の上から眺めることに飽きたからだろう。グルグルと巻かれた包帯を煩わしく感じながら庭に出た。最初に降り立った場所と同じだった。
「何処へ行くの? まだ庭の手入れが終わってないわ」
「罰ゲームは負けた方がするもんだぜ」
「あら? 栄誉は勝者が受け取るものだわ」
「辞退を申し出るぜ」
「遠慮しなくていいのに」
何処まで本気なのか、それとも何処までも本気なのか。迷惑千万な景品を頑なに拒みながら箒に跨る。残りの庭師の仕事を、体よく押し付けられてたまるか。
「まあ、次回の指導も近いうちにね」
「おいおい、まだやらせる気かよ……」
「さあ? 私はどっちでもいいわ」
幽々子の表情を伺う。何にも考えてなさそうな顔だ。もし考えてるんだとしても、私にはわからない。あいつにはわかるんだろうか。
空が茜色に焼けている。何か飛んでいそうで何も飛んでいない。思えば今日は、随分と慌しい暇潰しだった。ここが冥府だって事を忘れるくらいに。
宙へ浮く。呆けた瞳の幽々子を余所に上昇していく。だから、聞こえたかどうかはわからない。鴉も鳴かない静かな夕暮れを見上げて、私はポツリと呟いた。
「もう、迷うのはごめんだぜ」
素直に道を引き返すのも癪だ……そう考え出すと、意地でも引き返すのが嫌になった。だからひたすら真っ直ぐ飛んできた。
私がこんな所でくつろいでいるのはそんな経緯だった。流石に呆れたぜ。
まあ、別に大きな問題があるわけじゃない。ここでもお茶は出たし(意外だが)、茶請けに羊羹まで出た。つまり待遇は霊夢のとこよりも良いことになる。
そもそも博麗神社に行こうと思ったのは、今日も退屈だったからだ。こんな日は霊夢と一緒にぼんやりしてるか、パチュリーか香霖のとこから本を借りてくるに限る。ただ、他にも暇を潰せる場所があるっていうなら試してみてもいい。たまには私だって変化が恋しくなる時があるさ。
そう、それは迷いだ。さっきだって進むべき道に迷ったし、こうして茶を飲んでるのだって気の迷いって奴かもしれない。出した本人はどう思ってるんだろうな? 少なくとも、差し出したあいつは快く思ってなさそうだ。命じた方はよくわからん。
案外、今も迷ってる最中なのかもな。何せ、居ながらにして迷ってるような連中だ。あんまり深く考えてると、こっちまで迷い癖がうつっちまうかもしれない。もう迷うのはごめんだぜ。
どれくらい時間が経っただろう。皿の羊羹もなくなって2杯目のお茶がなくなった頃、私は3杯目を要求しようか少しだけ考えた。ちょうどその時、ようやく目の前の庭師がこっちに声を掛けて来る。
「……おい、そこの黒いの」
「なんだ、迷い人」
声の掛け方で迷ってたのか、掛けること自体で迷ってたのか知らないが、迷った挙句に発せられた問いかけは実に単純なものだった。
「ここに辿り着いた経緯は聞いたが……結局、お前は何をしに来たんだ。それに、誰が迷い人だ」
「おっと、大事な用があるから帰らないぜ」
「いったいどんな用があると言うんだ」
「暇潰しという用件」
「あら、それは重大な用件ね」
「さっさと帰れ!」と喚き立てる庭師に、ぽやーんと茶をすするお嬢様。秋も暮れに近づく季節。冥府の中で最も華やかと言われる白玉楼……私はそこにいた。
気が遠くなる程広大な庭が概ね見渡せる縁側に腰掛け、不貞腐れながら働く庭師を眺めているだけだってのに、中々退屈しないもんだな。時折憎憎しい視線をこちらに向けてくる辺りが尚楽しい。
「幽々子さまは少し黙っていてください」
「雇用者への反乱だな」
「反抗的な庭師ね」
「大体、なんでこんな黒いのにお茶なんて出してるんですか」
「お客様だぜ」
「断りもなく人の家に上がりこんできた奴を客とは言わない」
「唐突に家を訪ねてきたからお客様と言うんじゃない?」
「いきなり空から降って来て、「喉が乾いたからお茶でもくれ」なんて言う不躾なお客様なんていませんよ」
「少なくとも泥棒じゃないわ」
「風の噂によると、立派な泥棒らしいですが」
「失礼な奴だな。ただ、借りたら二度と返す気がないだけだぜ」
「泥棒だ」
「泥棒ね」
「おや?」
「まあいいわ。折角だし釣りにでも行きましょ」
「お、なんだ? 人間の魂でも釣り上げるのか?」
「釣ってどうする……」
「提燈代わりにはなるんじゃないか」
「あら、提燈ならもう間に合ってるわ」
「……幽々子さま。何で、私の方を見るんですか」
「夜道でとても便利なのよ。本体よりも役に立つわ」
「幽々子さまぁ~」
「ま、付き合うぜ」
「妖夢、釣竿を持ってきてちょうだい」
「確かに、物置に置いてありますけど……2本しかありませんよ」
「あら? 釣竿は2本しかいらないでしょ? 不思議なことを言うのね妖夢は」
白玉楼からさほど遠くない位置に湖はあった。幾許かの木々が、辺り一面に広がる草原にぽつぽつと点在している。その様があまりに簡素な所為だろうな。第一印象の『でっかい水溜り』ってイメージが未だに拭えやしない。
波紋も立たない静まり返った水面からは、生物が生息しているなんて到底想像できない……いや、みんな死んでるんだったな。冥府には勿体無い程爽やかな風が水面を脅かすと、鯉らしき魚が静かに跳ねた。
「やった! 釣れましたよ幽々子さま」
「……そんな小さい魚、いらないわ。身が全然ないじゃない。ほんと妖夢はダメね」
「そんな~」
妖夢が見せ付けた小魚は私の掌程の大きさしかなく、しかも薄桃色の身体をしていて、確かに食べるには値しない獲物だった。「私は食べるの専門よ」と草原で寝転がっていたお嬢様にしたら、さぞかし期待外れだろう。
釣り上げた小魚を名残惜しそうに見つめていた妖夢は湖に近づき、そいつをそっと水の中に放してやっていた。寂しげで、少し不貞腐れたような顔で水面をじっと見ていたが、諦めてまた竿を握る。
そんな姿を横目で見つつ、私は霊夢の家で読もうと持ってきていた本を片手にのんびりとしていた。垂らされた釣り糸はぴくりとも動かない。ついでのように木竿を掴んだ右手。あんまりにも穏やかなもんだから、ついつい午睡に耽っちまいそうだ。
「とにかく、これで私のリードだからな」
「お、やったな。お疲れさん」
「……おい、お前やる気あるのか」
「やる気を出しても魚は来ないぜ」
この間のリベンジのつもりなのか、一方的に勝負を挑んで来た妖夢は必要以上に意気込んでいる。半分幽霊の癖に騒々しい奴だぜ。内心で僅かに悔しく思いつつも、羅列された文面に意識を逸らす。そんな私の態度をどう取ったのか、不満そうな表情を貼り付けたままこちらから顔を背けた。
正式に承諾した勝負じゃないにせよ、誰かに負けるのはやはり気に食わない。とは言え、私は釣りに詳しいわけじゃないし、どうにかしようとしてどうにかなるものでもなさそうだ。本でも読みながら気長に待ってるしかないじゃないか。
ただの暇潰しがとんだことになっちまったな……我ながら情けないぜ。
本も読み終わり、両者共に何の進展もないまま時間だけが経過する。幽々子が身を起こした所為か、そろそろ時間切れだな……と頭を掠める。自分でもよくわからないが、何となくそんな気がした。少し離れた所にいるあいつも同じことを考えたに違いない。
正直、内心はかなり焦っていた。別に何を賭けたと言う訳でもない。決闘で負けるより釣りで負ける方がまだマシだろう。だが、私は既に「こいつには何が何でも負けてやらない」と心に決めていたのだ。
その時、竿の先端がぐんっと撓った。
「よっしゃ!」
膝に置いた本が地面に落ちるのも構わず、竿を両手で掴んで立ち上がった。大振りな挙動にただ事じゃないと感じたのか、妖夢も幽々子もこっちに駆け寄って来ている。だが、二人分の足音が聞こえただけだ。こっちは振り返る余裕もない。
しっかりと握り締めた釣り竿が激しく揺れる。気を抜くと竿を持って行かれそうな強さだ。あんまりにも撓るもんで、折れるんじゃないかと不安になりながら大物と戦っていた。
いや、戦うなんてもんじゃない。釣りなんて前に遊びでやっただけの私だ。予想外の引きの強さにパニックを起こしながら竿を動かしていただけだった。右へ左へ右へ左へ……引っ張り上げるなんて動作は頭の中から完全に消え去っている。
「あら、お払いみたいね。ぶーんぶーんっと」
無責任な声に脱力しそうになりつつも、何とか耐え切る。逃げられるかもしれないと言う不安は何処にもなかった。「これを仕留めれば私の勝ちだ」と言う想いが、混乱する思考の大半を占めきっていた。それが勝因だったに違いない。
「おりゃー!」
勢い余って草原に倒れこむ。糸に繋がれた大物の影が空高くにあった。
「……おおー」
幽々子の感嘆を耳にして、呆然としていた意識が我に返る。起き上がり、落下予想地点へ駆け寄ると、そこには80cm近い鯉が騒がしく跳ね回っていた。丸々と太った立派な鯉だ。それを見下ろして唖然としている表情の妖夢を見て、私の口元は自然と歪んだ。
「勝ちだぜ」
「くっ……」
宣言すると、妖夢は憎らしそうに私を睨み付けて来る。それも束の間、徐々に表情が力を失っていき最後には悔しそうな、悲しそうな顔で敗北感を噛み締めていた。
「ほんと、妖夢のとは違って身がたっぷりありそうだわ。活きも良さそうね」
「死んでて活きが良いってのも変な話だな」
「きっと生きてる時には活きがなかったのね。ところでこの鯉、どうやって食べようかしら」
「んー、これだけ活きがいいなら洗いが良いんじゃないか? きっと美味いぜ」
「ええ、勿論洗うわよ。この湖、あんまり水質が良くないもの」
「ゆ、幽々子さま……」
興味深そうに鯉を観察しているお嬢様を見てしまったからだろう。思わずといった感じに発せられた声。まるで、その声を聞いて初めて妖夢がいることに気が付いたような幽々子は、濃度の高そうな溜息を吐いた。
「もう、どうしてこんなに役に立たないのかしら妖夢は」
「そ、そんな……」
「恥ずかしいわ。また道行く人に「あなたの所の庭師は本当にダメね」って笑われるの」
こいつに、よりにもよって冥府で、通りすがりにそんな皮肉を言う奴いるはずないだろう。しかし、今のあいつにはその程度のことも考えられないらしい。半泣きのような表情で言葉を失っている。
「妖夢の後継ぎは頼んだわ」
「前にも断ったぜ」
「手入れの仕方はちゃんと聞いておいてね。でも聞いた通りにやっちゃダメよ」
「本末転倒だな」
「ふ、ふふ……」
搾り出したような笑い声が聞こえた。勿論発したのは他ならぬ先代庭師で、肩を震わせながら不気味に笑ってやがる。どうやら、多少からかい過ぎたらしいな。私は嫌な、もとい愉快な予感を感じとって、先程の釣り場に置きっ放しの箒をちらりと見た。
「霧雨、魔理沙っ!」
先程とは打って変わった気丈な声色。いや、ただ単にヤケクソなだけかもしれない。これからあいつが言い出す事なんて、誰だってわかるぜ。釣りの最中でさえ片時も離さなかった二刀のうち長刀を抜いて、妖夢は高らかに叫んだ。
「お前に白玉楼の庭師は勤まらん」
「私もそう思うぜ」
「よって、私が直々に指導してやろう」
「丁重にお断りするぜ」
「遠慮はいらん……すぐに、この冥府に相応しい姿にしてやるっ!」
剣閃が瞬く。刹那、白い輝きは眩い赤の弾丸に塗りつぶされた。
二刃、三刃、四刃、五刃。空を奔る赤の多弾に背を向け草原を駆ける。身を屈め、帽子を手で押さえ、脇を掠める弾に少しばかり肝を冷やしながら一目散に箒の元へと―――辿り着く。
握り締め空高くへ翔け昇る。下方の空間を埋め尽くす目が眩むほどの赤。私に続き空へ上がった妖夢の眼光は鷹のように鋭い。
「血迷ってるな」
「妖夢の半分は迷いでできてるから」
下の方からのんびりとした返答が届く。全身無駄なく迷い人な雇用者は、安全な所から傍観する気満々らしい。半ば呆れながら肩を竦めた。笑みが勝手に浮かぶ。
「じゃあ私が断ち切ってやろう」
「迷いを断つのはこの白楼剣の仕事だ。すぐに此処から追い出してやる。黒い迷子!」
「さっきと言ってることが逆だぜ」
剣が奔る。弾丸を吐き出した楼観剣を鞘に納め、僅かの弾に先行させ突っ込んで来る。問答無用の突撃に面を食らって反応が遅れた。速度重視の弾を避けた時には既に妖夢は眼前に迫っている。
「せっ!」
力の篭った素早い抜き打ち。だが、私だってスピードには自信がある。急発進して後ろへ躱す。鋭い斬音が耳から消えぬ間に、刃が追ってくる。
歯を噛み締めながらの急降下、急旋回、急上昇。閃光に似た無数の斬撃も服の生地にすら触れさせない。しかし、余裕はない。反撃だってできるもんか。こっちの心境を知ってか知らずか、私目掛けて迫る弾幕が視界に映った。
「おわっ!?」
顔面目掛けて放たれた刺突を何とか避け、地に落ちる。キリモミしながらの自由落下。橙と黄と紫の弾丸が豪雨のように降って来る。目に優しくない弾幕を回避する最中、高らかに妖夢が宣言する。
「幽鬼剣っ!」
弾かれたように顔を上げる。左手にはスペルカード。直後、妖夢が剣を振り上げたまま私に向かって落ちてくる。
「たぁぁぁぁぁぁあああああ!!!」
楼観剣が唸る。縦一直線、滑るように斬り裂かれた空間から膨大な弾丸が迸った。まるで其処から生まれ出でたように。
空を埋め尽くす青の流星。こっちの落下を遥かに上回る速度。思わず舌打ちする。最高速を維持しながら身を翻し、僅かな隙間へ潜り込み続けるしかなかった。そう、今は。
「くぅ……!」
頬を掠める弾丸。衣服の焦げる匂いが鼻に突く。大気の抵抗を身に受けながら空の終点を目指す。駆け抜ける。勢いの衰えぬ無数の弾丸。途切れそうになる集中力を奮い立たせ、スカートからカードを取り出す。ようやく地表を視認した。
「恋符!」
激突直前の急転回。青い弾丸が轟音を立てて地に衝突する。激しい暴風域を脱出し狙いを定める。刹那、妖夢が飛び出してくると同時に叫ぶ。
「ノンディレクショナルレーザーッ!」
横薙の閃光。出力を抑え広域殲滅を重視したレーザーだ。だが、妖夢目掛けて放たれた一撃は何も捉えることなく空を焼く。
「甘い!」
「どうかな?」
上昇し難を逃れた妖夢を頭上から襲う二つ目の閃光。アレを避けられるのは承知の上。横がダメなら縦ならどうだ? 顔色を変えても既に手遅れ。巨大な剣のように振り下ろした光が空間ごと奴を塗り潰した。
……光が霧散し、眼前の光景が復活した。静かに燃え上がる草原。周囲は不気味なくらいに静まり返っている。風の音が煩わしい位に響いた。
「あいつ、何処行った?」
「人符!」
遠く、背後からの絶叫。慌てて振り返るも、冷静さの薄まった思考は神速で間を詰めて来た妖夢の動きに対応できない。
「現世斬っ!」
それが斬撃だって事はわかった。名前を叫んでいたからだけじゃない。
いつの間にか私は草原に倒れこんでいて、横には真っ二つにされた箒が転がっていた。背筋が凍る程に美しい断面。冷たくなった血を意識しながら立ち上がると、腹部が湿っていることに気づく。
「……ふぅ」
地に尻をついて座り込む。ああ、別に動けなくなったからとかそういうのじゃない。ただ、単にこっちのが楽だからそうしてるだけだ。全く、何をやってるんだろうな。私も。
10メートル前方……あいつを見据える。短めに揃えられた銀の髪は軽く焦げ、衣服もボロボロ。穴だって少なくない。肩を上下させながら立つ姿は満身創痍と言っても良いくらいだった。普通の奴なら、あれだけやられれば降参してるぜ。
だいたいこれ、何の意味があるんだ。勝った所で何を得るでもなし。負けた所で何の損もしない。お遊びの弾幕ごっこって言うんなら、十分過ぎるくらい楽しめたぜ。何をムキになってやがるんだかな……あいつも。
「……恋符」
閑寂の草原に声が響く。決して大きくはないが、意思明瞭な宣誓。数瞬の間を置いて、妖夢の宣誓も私の耳に届いた。こっちは座ってるって言うのに、弾の一つも放ってこない。全く、負けず嫌いな奴だぜ。全方位何処から見てもバレバレの負けず嫌いだ。
だから―――私は絶対負けない。得も損も誇りも恥じもない。お前みたいに我武者羅な負けず嫌いには意地でも負けてやるもんか!
「現世斬っ!」
妖夢の姿が掻き消える。躊躇うことなく、臆することなく、私は声を張り上げた。
「マスター……スパァァァァァァァクッッ!!!」
光が世界を塗り潰す。何処かで、鯉が跳ねるような水音が聞こえた。
補修した箒と補修した身体。
よく冷やした鯉の洗いに酢味噌をつけて食べる幽々子を、畳の上から眺めることに飽きたからだろう。グルグルと巻かれた包帯を煩わしく感じながら庭に出た。最初に降り立った場所と同じだった。
「何処へ行くの? まだ庭の手入れが終わってないわ」
「罰ゲームは負けた方がするもんだぜ」
「あら? 栄誉は勝者が受け取るものだわ」
「辞退を申し出るぜ」
「遠慮しなくていいのに」
何処まで本気なのか、それとも何処までも本気なのか。迷惑千万な景品を頑なに拒みながら箒に跨る。残りの庭師の仕事を、体よく押し付けられてたまるか。
「まあ、次回の指導も近いうちにね」
「おいおい、まだやらせる気かよ……」
「さあ? 私はどっちでもいいわ」
幽々子の表情を伺う。何にも考えてなさそうな顔だ。もし考えてるんだとしても、私にはわからない。あいつにはわかるんだろうか。
空が茜色に焼けている。何か飛んでいそうで何も飛んでいない。思えば今日は、随分と慌しい暇潰しだった。ここが冥府だって事を忘れるくらいに。
宙へ浮く。呆けた瞳の幽々子を余所に上昇していく。だから、聞こえたかどうかはわからない。鴉も鳴かない静かな夕暮れを見上げて、私はポツリと呟いた。
「もう、迷うのはごめんだぜ」