浅く沈んだ体勢から少女が一気に放った右足は、狙い過たず、彼女自身の頭と同じ高さで木の幹を打ち抜いた。
時は晩秋。
木は楓。
そして、少女は秋静葉。
紅葉の化身と、紅葉そのものが、今、文字どおりに交錯した。
衝撃。重く、短く。
一切の破壊を起こすことなく、その力の全てを枝葉の先々に至るまで伝わらせた一撃は、悪童十人が登ってもびくともしないような木を周囲の地面もろともに震わせた。
静葉は蹴り足を浮かせたまま、片足立ちでしばし残心。揺れが治まり、ざわめきが静まる。吹き過ぎる秋風だけがさらさらと鳴る。
剣士が刀を納めるように、静葉はゆらりと蹴り足を戻す。とんっ、と右の爪先が大地に触れ、そして、
…………ざ……あっ…………。
全ての葉が、一斉に散った。
鮮やかに。深く。溢れて滴りそうなほどに紅色をたたえた葉たちが舞う。この木の「秋」が、その絶頂と終焉を同時に迎えた瞬間だった。
濃密に乱舞する深紅の中、静葉は瞑目し、舞い散る葉たちを受け止めるように腕を広げる。髪、頬、指先、体のあちこちに触れては落ちてゆく秋の名残に、一年の別れを告げる。慈しむように。悼むように。
儚くも力強く、壮絶にして可憐。秋というモノの一つの在り方を完璧に体現するその姿を、しかし称える者はない。ここは人里遠い山の中、静葉の仕事は常に寂寥という美学と共にある。
ただ、
藪の中に光る一対の目だけが、静葉の姿を捉えて放さずにいた。
~秋を謀 る~
『ああ、静葉様に蹴られたい』
『またそれか。兄者』
狸は思った。また兄の病気ハジマタ、と。
ここは、とある名もない山の中。二匹の狸が仲良く暮らす穴ぐらである。
『あの美しくしなやかなおみ足で、こう、ガコーンとやられてしまいたい。後の事は知らん』
『知らんって』
狸は溜め息をつく。兄の唐突かつエキセントリックな発言も、今や日常茶飯事だった。
なんでもこの兄、去年の秋に「静葉様」を間近で目撃したのだという。それも、彼女が楓の木に蹴りを食らわして紅葉を降らせるという、神の御業の決定的瞬間をだ。
そのあまりに美しく神々しい姿に兄はズキュンと衝撃を受け、色々と燃え上がり、なにかと鷲掴みにされた挙げ句、以来発作的に「静葉様に蹴られたい病」を発症するようになってしまった。とりわけ盛夏の今、きたる秋の足音にあてられて、ますます症状もヒートアップしてきたというところか。
普段はわりとしっかりしているし、家族思いの良い兄貴なのだが、こうなるとただの変態である。とっとと元に戻ってくれないものか、と狸は常々思っているのだが……。
『目を覚ませ兄者。静葉様はお優しい方だ。悪漢相手ならいざ知らず、我らのようなただの愛らしいアニマルを足蹴にするなど、有り得ない話ではないか』
『うむ。そこが問題なのだ』
『いやアンタがそんなことばっか考えてるのが根本的な問題なんだけどね』
この兄貴は別格としても、狸たちはおおむね静葉のことを好いていた。彼女は人間のみならず動物に対しても優しく接してくれるし、降り積もった葉が大地を肥やすのだという事をも彼らは知っている。それに、土の冷たさから彼らを守ってくれるふかふかの落ち葉のベッドは、冬籠りをする狸たちにとって何よりの恵みなのだった。
静葉様とお近づきになりたい、というレベルの話なら、兄の気持ちは解らないでもない。のだが。ねえ。
『はぅあ!』
『どうした兄者!?』
『いや、静葉様のことを考えていたのだがな』
『それは知ってる』
『静葉様は木を蹴る。狸は蹴らない。これは誰にも揺るがせない真理だ』
『揺るがそうとしてるの兄者だけだけどな』
『そこで俺は閃いた。ならば俺が木になればよいと』
『……なんだって?』
『わたし、木になります』
『いや聞こえなかったわけじゃなくて』
トンデモ発言2。
そろそろこの兄、獣医に診せた方がいいんじゃないかと思った。
『兄者、参考までに訊こう。どうやって木になるつもりだ?』
『そりゃ化けるんだよ。狸だからな俺ら』
『化ける? しかし、狸と化狸は違うぞ。我らはただの――』
キュートな小動物、と言いかけたところを兄が遮る。
『皆まで言うな。解っているともさ』
そして、不敵な笑みを浮かべ、
『お前は聞いていないか? 我らが大先達、化け術の泰斗であるあの御方が、麓の寺に逗留しているという話だ』
◇ ◇ ◇
「親分さーん!」
今日も元気に幽谷響子。
耳と尻尾と箒を振り振り、彼女がマミゾウを訪ねてきたのは、暑い盛りの昼下がりのことだった。
自分の庵でごろごろと避暑に励んでいたマミゾウは、日の当たらないラインを死守しながらも縁側に這い出て、響子を迎えた。
「おーう、この暑いのに御苦労さんじゃの」
いつものように境内を掃除していたのだろう。響子の夏服から覗く腕や胸元には、珠の汗が光っていた。こんなに暑い時くらい寺に引っ込んで読経でもしていれば良さそうなものだが、響子としてはすっかり覚えた経も座して詠む気はないらしい。
マミゾウはポケットから塩飴を取り出し、お食べ、と言って響子の掌に乗せてやった。響子は相変わらずの大声で謝辞を述べ、さっそく包みを解いて飴玉を口に放り込む。次いで冷えた麦茶のグラスを差し出してやると、これも響子は喉を鳴らしてうまそうに飲んだ。順番を逆にすべきだったかな、とマミゾウは思ったが、本人が喜んでいるので気にしないことにする。
「汗がたくさん出た時にはな、水だけじゃなくて、塩分もちゃんと摂るんじゃぞ」
「はいっ」
収まるべくして収まったポジションというやつで、まるで保護者とその子供か孫のような、こんなやりとりが二人の日常だった。
折々に生活の知恵を教えてやったり、ちょっとした事件に巻き込まれた時には手助けしてやったりと世話を焼くうちに、響子はすっかりマミゾウに懐き、頼りにするようになっていた。もともと弱小妖怪を救うべく幻想郷までやって来たマミゾウとしては、少々あての外れた形ではあるが、そう悪くもない気分で今の立ち位置に落ち着いているのだった。
「ぷはー」
満ち足りた顔でグラスを干し、文字どおり一息ついた響子は、ふと我に返ったように「あ」と目をぱちくりさせる。
「忘れてた。今は休憩に来たわけじゃなかったんでした」
「ん、なんぞ用か?」
「はい。親分さんにお客さんです」
「儂に客? はて」
マミゾウは首を傾げる。誰かが訪ねてくるような予定も心当たりも無いのだ。
「誰じゃ?」
「えっと、私も知らない人なんですけど、狸が二匹」
「狸? 妖怪じゃなくて、ただの狸か」
「はい。なんだか訳あり顔で参道をうろうろしてたから話を聞いてみたら、二ッ岩のマミゾウ殿に会わせて欲しいって」
「ほほう。しかしお前さん、狸の言葉も解るのか。なかなかやるの」
「へへー。山育ちですから!」
イヌ科だからである。
「ま、よくわからんがとにかく会ってみよう。連れて来てくれるか?」
「はーい」
軽やかに、響子が参道へと戻ってゆく。
◇ ◇ ◇
「……なるほど。話はよぉく解った」
庵の縁側にどっしりと構えて盃を傾けながら、マミゾウは深く頷く。
マミゾウの正面、先ほど響子が立っていた場所に、今は二匹の狸がちょこんと畏まっていた。
「この儂に、化け術を習いたいというんじゃな?」
マミゾウが今一度尋ねると、狸の片割れ、一回り大きい方が迷わず頷く。
彼らは、妖怪ならぬ身でありながら化け術を会得しようと、他でもないマミゾウの元へ教えを乞いにやって来たのだった。
化かしたい相手も、その理由も、狸は包み隠さず話した。静葉様とか静葉様とか蹴られたいとか、そのへん全部。小さい方の狸はその間ずっと『すみませんこんなバカ兄貴ですみません』と目で訴えていた。いいのよ。
「しかし……いやはや、なんとも欲に忠実で、恐ろしく下らん理由だの。蹴りを食らうために木に化けるとは」
バッサリと言い放ちながら、マミゾウはまた一口、酒をあおる。肴は炙った松茸。狸たちが手土産にと持参してきたものだった。
駄目なのか――落胆しかけた様子を見せる狸たちに、しかしマミゾウは続ける。
「しかし、そういうのは悪くないぞ。いや、実に面白い」
えっ、と顔を上げた狸たちに、ニヤリと笑いかけてやる。
マミゾウとしても、これが『狩りに役立てるため』とか『雌の気を惹きたい』などの実利的な理由であれば、とっとと追い返すつもりでいた。しかるにこいつらの志望動機ときたら、まさに僅有絶無の馬鹿らしさである。
妖怪の本質とは、人間をかどわかし、たぶらかし、おびやかす事だ。そこには実利も見返りも、形になって残る何物もない。本能の赴くままに、ただやりたいからやる。それこそが化け術の本分であり、妖たるものの正しい行動指針なのだ。その点においてこの狸たちは、極めて妖怪的でKENZENな思考をしていると言えよう。
同類のよしみ、プラス天晴れな気概。しかも人間ではなく神を謀ろうなどという、無駄に無謀なチャレンジ精神。
気に入った。
「よし、引き受けよう。このマミゾウが、お主らに化け術の神髄を叩き込んでやる」
ポンと小膝を打って宣言するマミゾウに、狸たちがぱぁっと晴れた表情を見せる。
「言っておくが、儂の稽古は厳しいぞ! 心してかかれ!」
気迫に満ちた面構えで、狸たちはしっかりと頷いた。
それから二匹はなにやらヒソヒソと示し合わせたかと思うと、小さい方の狸が尻尾から二本目の松茸を取り出し、マミゾウに恭しく差し出した。
「……あ、結構考えながら出してたのね……」
色々と見どころのある狸たちだった。
◇ ◇ ◇
こうして、二匹の修行の日々が始まった。
命蓮寺の参道で、あるいはマミゾウの庵で、日々熱心に通う狸たちは講釈に聞き入り、叱咤を受け、マミゾウ自ら披露する見事な化けっぷりに驚嘆と羨望の眼差しを向けた。
ぬえの悪戯にあったり、マミゾウのやたらと長い武勇伝に付き合わされたり、なぜか傍で見ていただけの響子が先に化け術をラーニングしてしまったりと、様々な苦難に見舞われながらも狸たちはそれを乗り越え、ひたむきに習練を積んでいった。
時はあっという間に流れ行き、そして、
気付いたら冬だった。
『また雪が降ってきたぞ、兄者……』
『ああ、木枯らしが身に沁みる。木だけに』
白一色の雪原に、ぽつんと一本、あろうことか見事に紅葉した楓の木が立っている。
はっきり言って、ものすごく怪しかった。
巫女に見付かったら即刻封印されそうなレベルである。
『いやー、ははは。秋って短いねー』
『秋どころか年も明けそうな勢いだけどな』
楓の正体は、もちろん狸である。
そう、彼らは立派にやり遂げたのだった。ただ一つ、少々時間がかかりすぎてしまったという点を除けば。
今、季節は冬のど真ん中である。雪は大地を白く覆い尽くし、人妖も獣も、ごく一部の冷気愛好者以外は皆ねぐらに引っ込んで、寒さに震えながら春を待ちぼうけていた。殊に冬場は暗くなると噂の秋静葉ともなれば、これはもう断固ひきこもり中であるに違いなく、蹴りを貰うどころか一目会う事さえも絶望的に思われた。
とはいえ、せっかく習い覚えた術である。二匹は力を合わせて一本の楓に化け、一縷の望みを抱きながら女神様の到来を待っているのだった。
『てゆうか俺ら冬眠忘れてるし。明日からどうしよ』
『仏門にでも入るか? 兄者』
二匹は修行に集中するあまり、越冬のための食い溜めも、寝床の用意も、綺麗さっぱり忘れていた。
無事に春を迎える見通しも立たず、暗澹たる気分が立ち込め始めたその時――それはやって来た。
『……ん? んん?』
『どうした?』
『兄者、あれ静葉様じゃないか』
『なにっ!? どこ? どこどこ?』
『ほらあそこ、ずっと向こうから歩いて来るの』
『あっホントだ赤い!』
白いばかりの雪景色に、新たに一点、小さな赤が混じる。そして次第に大きくなってゆく。
緋色のマフラー、銀杏色の手袋、朽葉色の帽子――毛糸まみれの重装備に着ぶくれしながらもなお鮮やかに赤いその姿は、まさに秋の女神、寂しさと終焉の象徴、もみじ落としの秋静葉その人であった。
寒風に身を縮こまらせ、積もった雪に危なっかしく足を取られながらも、ゆっくりと確実に、静葉はこちらに向かって歩いてくる。
ここにあるのは雪と風と偽物の楓だけだ。静葉が一体どういうつもりでやって来たのかは判らないが、とにかくこの楓を目指しているのは確かだった。
『し、し、静葉様俺ですこっちです! さあ、さあさあキックミー! キックミー!』
『落ち着け兄者! あまり興奮すると術が解けてしまうぞ!』
テンション有頂天な狸たち、というか主に兄。
そうこうしている内に、彼ら扮する楓の下へ、ようやく静葉が辿り着く。
目深に被った帽子を少しだけ持ち上げ、真意の窺い知れない澄んだ表情で、じっと木を見上げる。ときおり両手で自分の鼻や唇を覆って、深く息を吐く。年収の低さを嘆いている訳ではなく、単に寒いのだろう。
いざ、蹴るか否か。
狸たちが固唾を飲んで待ち構える中、白い息のベールの向こうで二つの瞳が静かに揺れる。彼らにとってこれほど間近で見るのは初めての、可憐な女神の立ち姿だった。
と、その静葉の目に、突如として涙が溢れだした。
『『えっ?』』
予想外の展開に、目を丸くする狸たち。
静葉の涙は止まらない。ほろほろ頬を伝い落ち、ふるふる肩も震えだす。なにやら感極まったかのように、その表情がくしゃくしゃに歪む。
そして、静葉はおもむろに、楓の木にひしと抱きついた。
『なにィ―――――!?』
『んほぉぉぉぉっ!?』
予想と期待を高らかに超えた神の不意討ちに、仰天して悶絶する狸たち。猛然と高まる秋度。
静葉は尺の足らない腕で精一杯に幹を抱き締め、いとおしげに頬を寄せてくる。木に化けた身にもその感触はしっかりと伝わり、華奢な腕、控えめな胸、押しつけられる頬の柔らかさが、秋の空よりも高い場所へと狸たちのソウルを導いてゆく。
『らめえぇぇぇぇぇぇっ!!』
『ちょっ……兄……解け……っ……!』
ひとたまりもなかった。
ポンと音を立てて術が解け、楓の木が二匹の狸に戻る。
そして――それでもなお、静葉は彼らをまとめて抱き締め続けていた。
まるで、彼らが化けていた事など初めから無かったかのように。
『……えーと』
『あ、あのー』
愛しの女神の生抱擁という、文字どおり身の丈に合わない御褒美に、嬉しさよりも驚きが先に立ってオロオロするばかりの狸たち。
その彼らの耳元で、涙に震える声で、静葉は言った。
ありがとう、と。
『……兄者、これは全体どういうことだろうか?』
『全然わかんにゃい。でも幸せだなあ』
寒風吹き荒ぶ雪原のど真ん中で、疑問符だらけの狸たちを、静葉はひとしきり抱き締め続けるのだった。
◇ ◇ ◇
それから静葉は、おいで、と言って、自分の足跡を引き返し始めた。
狸を抱えたまま。
そしてもちろん、すっ転んで雪にダイブした。
狸たちは――勿体ないことではあったが――丁重に礼を述べて静葉の腕から降り、己の足で歩くことにした。
おそらくは家に帰るのであろう道すがら、静葉はほとんど喋らなかったが、それは元来の無口ゆえらしく、機嫌は上々のようだった。ときおり狸たちを振り返っては見せてくれる穏やかな笑みに、そのたび彼らは魅了された。
先程の「ありがとう」は何だったのか。何故狸たちを連れて行くのか。それは未だに謎であるが、静葉の言動から一つ判ったことがある。
二匹が木に化けていたことは、完璧に見破られていたのだ。
考えてみれば順当な話だった。こちらは化け術Lv1の素狸、かたや相手は神にして紅葉のプロフェッショナルである。静葉は、触るどころか近付くまでもなく、遠目に楓を見たときからそれが狸であると看破していたらしい。
『いやはや、流石は静葉様よ。しかし、どこがマズくて見破られたんだろうな?』
『尻尾が出てたところじゃないかな』
果たして、二匹が連れて来られたのは秋静葉の自宅。
質素だがどこか暖かみのある、正しき日本家屋の姿であった。
「おかえり、お姉ちゃん。この寒いのに急に出てって一体どう……ってなにその子たち」
土間に入ったところで一行を迎えたのは、静葉の妹君である穣子だった。分厚いどてらを丸々と着込み、右手に蜜柑、左手に新聞紙という、篭る気満々の体勢である。
彼女も狸たちと同じく、静葉の思惑と状況がよく解っていないらしい。姉と狸を交互に見ると、不思議そうに首を傾げた。
「ま、とりあえずは着替えたら? なんだかお姉ちゃん雪まみれだし」
穣子の言葉に従って静葉は靴を脱ぎ、ちょっと待っててねと狸たちに言い置いてから、妹と共に家の奥へと消えていった。
なにやら嬉しそうに捲し立てる静葉とそれに相槌を打つ穣子の声が、次第に小さくなりながらもずっと聞こえていた。
◇ ◇ ◇
狸たちが土間でしばらく待っていると、穣子が一人で戻ってきた。静葉はまだ着替え中だろうか。
穣子は草履を突っ掛けて土間に降りると、二匹の前にしゃがみこんで、こう言った。
「お姉ちゃんから話は聞いたわ。奇妙な紅葉の気配を感じたから見に行ってみたって。あんた達が綺麗な楓の木に化けて、お姉ちゃんを元気づけてくれたんだって?」
へっ?
狸たちは間抜けな声を上げ、呆然として顔を見合わせた。
そして同時に、なるほどそういうことだったか、と納得した。
静葉も、目の前にいる穣子も、誰より秋を愛するが故に、冬は大いに意気消沈あそばす神様だ。季節は巡るのが道理とはいえ、己のアイデンティティが根こそぎ過ぎ去ってしまった時を過ごす気分は鬱々としたものだろう。
そして、そんな冬の真っ只中に、静葉は見たのだ。彼女にとっての秋そのもの――鮮やかに紅葉した楓の木を。
「お姉ちゃん感激してたわ。真冬にこんな素敵なものが見られるなんて思ってなかったって」
静葉の気持ちは如何ばかりのものであったか。それは彼女自身にしか語れぬことであろうが、あえて狸の身で想像するならば、飢えて山をさまよっていた最中に沢山のどんぐりを見つけたようなものだろうか。
むろん狸たちとしては静葉を喜ばせることなど全く考慮していなかったのだが、とにかく結果的に静葉は喜んだ。おまけに狸たちの意図まで好意的に解釈してくれたわけだ。
「……で、お姉ちゃんはあんた達にすごく感謝してるわけだけど」
穣子が、さらに身を屈めて狸たちに問う。
「あんた達、実際そういうつもりで化けてたの?」
『そうです!』
「本当に?」
『すいません嘘です!』
「まあ別にどっちでもいいんだけどね」
『ズコー』
穣子は柔らかな笑みを浮かべながら手を伸ばし、二匹の頭をふにふにと撫でた。
「私からも、ありがとう。今年の秋は豊作で紅葉も綺麗で、色々と賑やかだったんだけど、そのぶん冬になってから私達の気分も落ち込んじゃってね。お姉ちゃんなんか今にも消えちゃいそうだったのよ。お陰で助かったわ。私も、お姉ちゃんに消えられると気が重いしさ」
あ、最後のはお姉ちゃんには内緒だからね。
穣子が悪戯っぽくウインクして見せたところで、静葉も部屋着姿で戻ってきた。
ありがとう。静葉は穣子と並んで狸たちを撫でながら、もう一度そう言った。
「でも、もうこんな事しちゃ駄目よ? あんたら冬までモタモタしてたら、凍えて死んじゃうから」
戒めの意味を込めてか、穣子がいささか乱暴にぐにぐにと撫でてくる。
うどん玉になったような気分だった。
『そういや俺ら越冬の危機だったな』
『忘れてたのか兄者。幸せ者め』
こねくり回されながらふと現実に立ち返り、不安になる狸たちに、大丈夫よと静葉がささやく。
穣子もまた、姉と何事か頷き合いながら、自信に満ちた顔を浮かべて見せた。
「今回は特別に、私とお姉ちゃんが協力してあげる。だから真面目に眠るのよ?」
◇ ◇ ◇
暗く静かな、漬物蔵の片隅。
折よく空っぽになっていた米俵の一つが、巣穴の代わりとして選ばれた。
静葉がどこからともなく呼び寄せた大量の落ち葉を、俵の中にたっぷりと敷き詰める。暖かく快適なねぐらの出来上がりだ。
「はい、これ食べなさい。これで春まで持つから」
穣子が差し出してくれた芋は、食べると不思議に体がぽかぽかと暖まった。
狸たちは平身低頭しながら、俵の中へと収まった。
おやすみなさい。二人の女神は並んでそう言い残すと、蔵から去っていった。
◇ ◇ ◇
一仕事終えて居間に戻り、穣子と静葉はお茶をすすっていた。
「……いいわね。きょうだいって」
なんとなく漬物蔵の方を見やりながら、ぽつりと穣子が呟く。
静葉が頷き、なにやらニコニコと穣子に笑いかける。
はっとした表情で、穣子が慌てて付け足した。
「あ、べ、別に私たちのことを含めて言ったわけじゃないよ? ないけどね?」
ないんだけどさ。
三度念を押してから、穣子はおずおずと言った。
「あのさ、お姉ちゃん。たまには、今夜は、その、一緒に寝ない? 寒いし。寒いから」
うんっ。
冬とは思えぬ明るい笑顔で、静葉は強く頷いた。
◇ ◇ ◇
『……気は済んだか、兄者』
『ああ。悪かったな、あれこれ付き合わせて』
『なんだ、急にしおらしいことを言って……』
『春になったら、そろそろお前の結婚相手も探してやらんとなあ』
『なっ、きゅ、急になにを言い出すんだ! 第一、そういう話は兄者の方が先だろうに!』
『いやー、でもお前もさ、』
『ふ、ふん。まあ兄者の嫁になろうなんて物好きな雌がいるわけもないけどな。寂しいだろうから、兄者が結婚するまでは私が一緒にいてやるよ』
『お前、なんか言ってることが色々と矛盾してないか』
『うるさいな。ほら、そろそろ真面目に寝ないと体が冷えるぞ』
『そうだな、寝るか。ほれ、こっち暖かいぞ。もっと近う寄れ、妹よ』
『……バカ…………』
~おしまい~
時は晩秋。
木は楓。
そして、少女は秋静葉。
紅葉の化身と、紅葉そのものが、今、文字どおりに交錯した。
衝撃。重く、短く。
一切の破壊を起こすことなく、その力の全てを枝葉の先々に至るまで伝わらせた一撃は、悪童十人が登ってもびくともしないような木を周囲の地面もろともに震わせた。
静葉は蹴り足を浮かせたまま、片足立ちでしばし残心。揺れが治まり、ざわめきが静まる。吹き過ぎる秋風だけがさらさらと鳴る。
剣士が刀を納めるように、静葉はゆらりと蹴り足を戻す。とんっ、と右の爪先が大地に触れ、そして、
…………ざ……あっ…………。
全ての葉が、一斉に散った。
鮮やかに。深く。溢れて滴りそうなほどに紅色をたたえた葉たちが舞う。この木の「秋」が、その絶頂と終焉を同時に迎えた瞬間だった。
濃密に乱舞する深紅の中、静葉は瞑目し、舞い散る葉たちを受け止めるように腕を広げる。髪、頬、指先、体のあちこちに触れては落ちてゆく秋の名残に、一年の別れを告げる。慈しむように。悼むように。
儚くも力強く、壮絶にして可憐。秋というモノの一つの在り方を完璧に体現するその姿を、しかし称える者はない。ここは人里遠い山の中、静葉の仕事は常に寂寥という美学と共にある。
ただ、
藪の中に光る一対の目だけが、静葉の姿を捉えて放さずにいた。
~秋を
『ああ、静葉様に蹴られたい』
『またそれか。兄者』
狸は思った。また兄の病気ハジマタ、と。
ここは、とある名もない山の中。二匹の狸が仲良く暮らす穴ぐらである。
『あの美しくしなやかなおみ足で、こう、ガコーンとやられてしまいたい。後の事は知らん』
『知らんって』
狸は溜め息をつく。兄の唐突かつエキセントリックな発言も、今や日常茶飯事だった。
なんでもこの兄、去年の秋に「静葉様」を間近で目撃したのだという。それも、彼女が楓の木に蹴りを食らわして紅葉を降らせるという、神の御業の決定的瞬間をだ。
そのあまりに美しく神々しい姿に兄はズキュンと衝撃を受け、色々と燃え上がり、なにかと鷲掴みにされた挙げ句、以来発作的に「静葉様に蹴られたい病」を発症するようになってしまった。とりわけ盛夏の今、きたる秋の足音にあてられて、ますます症状もヒートアップしてきたというところか。
普段はわりとしっかりしているし、家族思いの良い兄貴なのだが、こうなるとただの変態である。とっとと元に戻ってくれないものか、と狸は常々思っているのだが……。
『目を覚ませ兄者。静葉様はお優しい方だ。悪漢相手ならいざ知らず、我らのようなただの愛らしいアニマルを足蹴にするなど、有り得ない話ではないか』
『うむ。そこが問題なのだ』
『いやアンタがそんなことばっか考えてるのが根本的な問題なんだけどね』
この兄貴は別格としても、狸たちはおおむね静葉のことを好いていた。彼女は人間のみならず動物に対しても優しく接してくれるし、降り積もった葉が大地を肥やすのだという事をも彼らは知っている。それに、土の冷たさから彼らを守ってくれるふかふかの落ち葉のベッドは、冬籠りをする狸たちにとって何よりの恵みなのだった。
静葉様とお近づきになりたい、というレベルの話なら、兄の気持ちは解らないでもない。のだが。ねえ。
『はぅあ!』
『どうした兄者!?』
『いや、静葉様のことを考えていたのだがな』
『それは知ってる』
『静葉様は木を蹴る。狸は蹴らない。これは誰にも揺るがせない真理だ』
『揺るがそうとしてるの兄者だけだけどな』
『そこで俺は閃いた。ならば俺が木になればよいと』
『……なんだって?』
『わたし、木になります』
『いや聞こえなかったわけじゃなくて』
トンデモ発言2。
そろそろこの兄、獣医に診せた方がいいんじゃないかと思った。
『兄者、参考までに訊こう。どうやって木になるつもりだ?』
『そりゃ化けるんだよ。狸だからな俺ら』
『化ける? しかし、狸と化狸は違うぞ。我らはただの――』
キュートな小動物、と言いかけたところを兄が遮る。
『皆まで言うな。解っているともさ』
そして、不敵な笑みを浮かべ、
『お前は聞いていないか? 我らが大先達、化け術の泰斗であるあの御方が、麓の寺に逗留しているという話だ』
◇ ◇ ◇
「親分さーん!」
今日も元気に幽谷響子。
耳と尻尾と箒を振り振り、彼女がマミゾウを訪ねてきたのは、暑い盛りの昼下がりのことだった。
自分の庵でごろごろと避暑に励んでいたマミゾウは、日の当たらないラインを死守しながらも縁側に這い出て、響子を迎えた。
「おーう、この暑いのに御苦労さんじゃの」
いつものように境内を掃除していたのだろう。響子の夏服から覗く腕や胸元には、珠の汗が光っていた。こんなに暑い時くらい寺に引っ込んで読経でもしていれば良さそうなものだが、響子としてはすっかり覚えた経も座して詠む気はないらしい。
マミゾウはポケットから塩飴を取り出し、お食べ、と言って響子の掌に乗せてやった。響子は相変わらずの大声で謝辞を述べ、さっそく包みを解いて飴玉を口に放り込む。次いで冷えた麦茶のグラスを差し出してやると、これも響子は喉を鳴らしてうまそうに飲んだ。順番を逆にすべきだったかな、とマミゾウは思ったが、本人が喜んでいるので気にしないことにする。
「汗がたくさん出た時にはな、水だけじゃなくて、塩分もちゃんと摂るんじゃぞ」
「はいっ」
収まるべくして収まったポジションというやつで、まるで保護者とその子供か孫のような、こんなやりとりが二人の日常だった。
折々に生活の知恵を教えてやったり、ちょっとした事件に巻き込まれた時には手助けしてやったりと世話を焼くうちに、響子はすっかりマミゾウに懐き、頼りにするようになっていた。もともと弱小妖怪を救うべく幻想郷までやって来たマミゾウとしては、少々あての外れた形ではあるが、そう悪くもない気分で今の立ち位置に落ち着いているのだった。
「ぷはー」
満ち足りた顔でグラスを干し、文字どおり一息ついた響子は、ふと我に返ったように「あ」と目をぱちくりさせる。
「忘れてた。今は休憩に来たわけじゃなかったんでした」
「ん、なんぞ用か?」
「はい。親分さんにお客さんです」
「儂に客? はて」
マミゾウは首を傾げる。誰かが訪ねてくるような予定も心当たりも無いのだ。
「誰じゃ?」
「えっと、私も知らない人なんですけど、狸が二匹」
「狸? 妖怪じゃなくて、ただの狸か」
「はい。なんだか訳あり顔で参道をうろうろしてたから話を聞いてみたら、二ッ岩のマミゾウ殿に会わせて欲しいって」
「ほほう。しかしお前さん、狸の言葉も解るのか。なかなかやるの」
「へへー。山育ちですから!」
イヌ科だからである。
「ま、よくわからんがとにかく会ってみよう。連れて来てくれるか?」
「はーい」
軽やかに、響子が参道へと戻ってゆく。
◇ ◇ ◇
「……なるほど。話はよぉく解った」
庵の縁側にどっしりと構えて盃を傾けながら、マミゾウは深く頷く。
マミゾウの正面、先ほど響子が立っていた場所に、今は二匹の狸がちょこんと畏まっていた。
「この儂に、化け術を習いたいというんじゃな?」
マミゾウが今一度尋ねると、狸の片割れ、一回り大きい方が迷わず頷く。
彼らは、妖怪ならぬ身でありながら化け術を会得しようと、他でもないマミゾウの元へ教えを乞いにやって来たのだった。
化かしたい相手も、その理由も、狸は包み隠さず話した。静葉様とか静葉様とか蹴られたいとか、そのへん全部。小さい方の狸はその間ずっと『すみませんこんなバカ兄貴ですみません』と目で訴えていた。いいのよ。
「しかし……いやはや、なんとも欲に忠実で、恐ろしく下らん理由だの。蹴りを食らうために木に化けるとは」
バッサリと言い放ちながら、マミゾウはまた一口、酒をあおる。肴は炙った松茸。狸たちが手土産にと持参してきたものだった。
駄目なのか――落胆しかけた様子を見せる狸たちに、しかしマミゾウは続ける。
「しかし、そういうのは悪くないぞ。いや、実に面白い」
えっ、と顔を上げた狸たちに、ニヤリと笑いかけてやる。
マミゾウとしても、これが『狩りに役立てるため』とか『雌の気を惹きたい』などの実利的な理由であれば、とっとと追い返すつもりでいた。しかるにこいつらの志望動機ときたら、まさに僅有絶無の馬鹿らしさである。
妖怪の本質とは、人間をかどわかし、たぶらかし、おびやかす事だ。そこには実利も見返りも、形になって残る何物もない。本能の赴くままに、ただやりたいからやる。それこそが化け術の本分であり、妖たるものの正しい行動指針なのだ。その点においてこの狸たちは、極めて妖怪的でKENZENな思考をしていると言えよう。
同類のよしみ、プラス天晴れな気概。しかも人間ではなく神を謀ろうなどという、無駄に無謀なチャレンジ精神。
気に入った。
「よし、引き受けよう。このマミゾウが、お主らに化け術の神髄を叩き込んでやる」
ポンと小膝を打って宣言するマミゾウに、狸たちがぱぁっと晴れた表情を見せる。
「言っておくが、儂の稽古は厳しいぞ! 心してかかれ!」
気迫に満ちた面構えで、狸たちはしっかりと頷いた。
それから二匹はなにやらヒソヒソと示し合わせたかと思うと、小さい方の狸が尻尾から二本目の松茸を取り出し、マミゾウに恭しく差し出した。
「……あ、結構考えながら出してたのね……」
色々と見どころのある狸たちだった。
◇ ◇ ◇
こうして、二匹の修行の日々が始まった。
命蓮寺の参道で、あるいはマミゾウの庵で、日々熱心に通う狸たちは講釈に聞き入り、叱咤を受け、マミゾウ自ら披露する見事な化けっぷりに驚嘆と羨望の眼差しを向けた。
ぬえの悪戯にあったり、マミゾウのやたらと長い武勇伝に付き合わされたり、なぜか傍で見ていただけの響子が先に化け術をラーニングしてしまったりと、様々な苦難に見舞われながらも狸たちはそれを乗り越え、ひたむきに習練を積んでいった。
時はあっという間に流れ行き、そして、
気付いたら冬だった。
『また雪が降ってきたぞ、兄者……』
『ああ、木枯らしが身に沁みる。木だけに』
白一色の雪原に、ぽつんと一本、あろうことか見事に紅葉した楓の木が立っている。
はっきり言って、ものすごく怪しかった。
巫女に見付かったら即刻封印されそうなレベルである。
『いやー、ははは。秋って短いねー』
『秋どころか年も明けそうな勢いだけどな』
楓の正体は、もちろん狸である。
そう、彼らは立派にやり遂げたのだった。ただ一つ、少々時間がかかりすぎてしまったという点を除けば。
今、季節は冬のど真ん中である。雪は大地を白く覆い尽くし、人妖も獣も、ごく一部の冷気愛好者以外は皆ねぐらに引っ込んで、寒さに震えながら春を待ちぼうけていた。殊に冬場は暗くなると噂の秋静葉ともなれば、これはもう断固ひきこもり中であるに違いなく、蹴りを貰うどころか一目会う事さえも絶望的に思われた。
とはいえ、せっかく習い覚えた術である。二匹は力を合わせて一本の楓に化け、一縷の望みを抱きながら女神様の到来を待っているのだった。
『てゆうか俺ら冬眠忘れてるし。明日からどうしよ』
『仏門にでも入るか? 兄者』
二匹は修行に集中するあまり、越冬のための食い溜めも、寝床の用意も、綺麗さっぱり忘れていた。
無事に春を迎える見通しも立たず、暗澹たる気分が立ち込め始めたその時――それはやって来た。
『……ん? んん?』
『どうした?』
『兄者、あれ静葉様じゃないか』
『なにっ!? どこ? どこどこ?』
『ほらあそこ、ずっと向こうから歩いて来るの』
『あっホントだ赤い!』
白いばかりの雪景色に、新たに一点、小さな赤が混じる。そして次第に大きくなってゆく。
緋色のマフラー、銀杏色の手袋、朽葉色の帽子――毛糸まみれの重装備に着ぶくれしながらもなお鮮やかに赤いその姿は、まさに秋の女神、寂しさと終焉の象徴、もみじ落としの秋静葉その人であった。
寒風に身を縮こまらせ、積もった雪に危なっかしく足を取られながらも、ゆっくりと確実に、静葉はこちらに向かって歩いてくる。
ここにあるのは雪と風と偽物の楓だけだ。静葉が一体どういうつもりでやって来たのかは判らないが、とにかくこの楓を目指しているのは確かだった。
『し、し、静葉様俺ですこっちです! さあ、さあさあキックミー! キックミー!』
『落ち着け兄者! あまり興奮すると術が解けてしまうぞ!』
テンション有頂天な狸たち、というか主に兄。
そうこうしている内に、彼ら扮する楓の下へ、ようやく静葉が辿り着く。
目深に被った帽子を少しだけ持ち上げ、真意の窺い知れない澄んだ表情で、じっと木を見上げる。ときおり両手で自分の鼻や唇を覆って、深く息を吐く。年収の低さを嘆いている訳ではなく、単に寒いのだろう。
いざ、蹴るか否か。
狸たちが固唾を飲んで待ち構える中、白い息のベールの向こうで二つの瞳が静かに揺れる。彼らにとってこれほど間近で見るのは初めての、可憐な女神の立ち姿だった。
と、その静葉の目に、突如として涙が溢れだした。
『『えっ?』』
予想外の展開に、目を丸くする狸たち。
静葉の涙は止まらない。ほろほろ頬を伝い落ち、ふるふる肩も震えだす。なにやら感極まったかのように、その表情がくしゃくしゃに歪む。
そして、静葉はおもむろに、楓の木にひしと抱きついた。
『なにィ―――――!?』
『んほぉぉぉぉっ!?』
予想と期待を高らかに超えた神の不意討ちに、仰天して悶絶する狸たち。猛然と高まる秋度。
静葉は尺の足らない腕で精一杯に幹を抱き締め、いとおしげに頬を寄せてくる。木に化けた身にもその感触はしっかりと伝わり、華奢な腕、控えめな胸、押しつけられる頬の柔らかさが、秋の空よりも高い場所へと狸たちのソウルを導いてゆく。
『らめえぇぇぇぇぇぇっ!!』
『ちょっ……兄……解け……っ……!』
ひとたまりもなかった。
ポンと音を立てて術が解け、楓の木が二匹の狸に戻る。
そして――それでもなお、静葉は彼らをまとめて抱き締め続けていた。
まるで、彼らが化けていた事など初めから無かったかのように。
『……えーと』
『あ、あのー』
愛しの女神の生抱擁という、文字どおり身の丈に合わない御褒美に、嬉しさよりも驚きが先に立ってオロオロするばかりの狸たち。
その彼らの耳元で、涙に震える声で、静葉は言った。
ありがとう、と。
『……兄者、これは全体どういうことだろうか?』
『全然わかんにゃい。でも幸せだなあ』
寒風吹き荒ぶ雪原のど真ん中で、疑問符だらけの狸たちを、静葉はひとしきり抱き締め続けるのだった。
◇ ◇ ◇
それから静葉は、おいで、と言って、自分の足跡を引き返し始めた。
狸を抱えたまま。
そしてもちろん、すっ転んで雪にダイブした。
狸たちは――勿体ないことではあったが――丁重に礼を述べて静葉の腕から降り、己の足で歩くことにした。
おそらくは家に帰るのであろう道すがら、静葉はほとんど喋らなかったが、それは元来の無口ゆえらしく、機嫌は上々のようだった。ときおり狸たちを振り返っては見せてくれる穏やかな笑みに、そのたび彼らは魅了された。
先程の「ありがとう」は何だったのか。何故狸たちを連れて行くのか。それは未だに謎であるが、静葉の言動から一つ判ったことがある。
二匹が木に化けていたことは、完璧に見破られていたのだ。
考えてみれば順当な話だった。こちらは化け術Lv1の素狸、かたや相手は神にして紅葉のプロフェッショナルである。静葉は、触るどころか近付くまでもなく、遠目に楓を見たときからそれが狸であると看破していたらしい。
『いやはや、流石は静葉様よ。しかし、どこがマズくて見破られたんだろうな?』
『尻尾が出てたところじゃないかな』
果たして、二匹が連れて来られたのは秋静葉の自宅。
質素だがどこか暖かみのある、正しき日本家屋の姿であった。
「おかえり、お姉ちゃん。この寒いのに急に出てって一体どう……ってなにその子たち」
土間に入ったところで一行を迎えたのは、静葉の妹君である穣子だった。分厚いどてらを丸々と着込み、右手に蜜柑、左手に新聞紙という、篭る気満々の体勢である。
彼女も狸たちと同じく、静葉の思惑と状況がよく解っていないらしい。姉と狸を交互に見ると、不思議そうに首を傾げた。
「ま、とりあえずは着替えたら? なんだかお姉ちゃん雪まみれだし」
穣子の言葉に従って静葉は靴を脱ぎ、ちょっと待っててねと狸たちに言い置いてから、妹と共に家の奥へと消えていった。
なにやら嬉しそうに捲し立てる静葉とそれに相槌を打つ穣子の声が、次第に小さくなりながらもずっと聞こえていた。
◇ ◇ ◇
狸たちが土間でしばらく待っていると、穣子が一人で戻ってきた。静葉はまだ着替え中だろうか。
穣子は草履を突っ掛けて土間に降りると、二匹の前にしゃがみこんで、こう言った。
「お姉ちゃんから話は聞いたわ。奇妙な紅葉の気配を感じたから見に行ってみたって。あんた達が綺麗な楓の木に化けて、お姉ちゃんを元気づけてくれたんだって?」
へっ?
狸たちは間抜けな声を上げ、呆然として顔を見合わせた。
そして同時に、なるほどそういうことだったか、と納得した。
静葉も、目の前にいる穣子も、誰より秋を愛するが故に、冬は大いに意気消沈あそばす神様だ。季節は巡るのが道理とはいえ、己のアイデンティティが根こそぎ過ぎ去ってしまった時を過ごす気分は鬱々としたものだろう。
そして、そんな冬の真っ只中に、静葉は見たのだ。彼女にとっての秋そのもの――鮮やかに紅葉した楓の木を。
「お姉ちゃん感激してたわ。真冬にこんな素敵なものが見られるなんて思ってなかったって」
静葉の気持ちは如何ばかりのものであったか。それは彼女自身にしか語れぬことであろうが、あえて狸の身で想像するならば、飢えて山をさまよっていた最中に沢山のどんぐりを見つけたようなものだろうか。
むろん狸たちとしては静葉を喜ばせることなど全く考慮していなかったのだが、とにかく結果的に静葉は喜んだ。おまけに狸たちの意図まで好意的に解釈してくれたわけだ。
「……で、お姉ちゃんはあんた達にすごく感謝してるわけだけど」
穣子が、さらに身を屈めて狸たちに問う。
「あんた達、実際そういうつもりで化けてたの?」
『そうです!』
「本当に?」
『すいません嘘です!』
「まあ別にどっちでもいいんだけどね」
『ズコー』
穣子は柔らかな笑みを浮かべながら手を伸ばし、二匹の頭をふにふにと撫でた。
「私からも、ありがとう。今年の秋は豊作で紅葉も綺麗で、色々と賑やかだったんだけど、そのぶん冬になってから私達の気分も落ち込んじゃってね。お姉ちゃんなんか今にも消えちゃいそうだったのよ。お陰で助かったわ。私も、お姉ちゃんに消えられると気が重いしさ」
あ、最後のはお姉ちゃんには内緒だからね。
穣子が悪戯っぽくウインクして見せたところで、静葉も部屋着姿で戻ってきた。
ありがとう。静葉は穣子と並んで狸たちを撫でながら、もう一度そう言った。
「でも、もうこんな事しちゃ駄目よ? あんたら冬までモタモタしてたら、凍えて死んじゃうから」
戒めの意味を込めてか、穣子がいささか乱暴にぐにぐにと撫でてくる。
うどん玉になったような気分だった。
『そういや俺ら越冬の危機だったな』
『忘れてたのか兄者。幸せ者め』
こねくり回されながらふと現実に立ち返り、不安になる狸たちに、大丈夫よと静葉がささやく。
穣子もまた、姉と何事か頷き合いながら、自信に満ちた顔を浮かべて見せた。
「今回は特別に、私とお姉ちゃんが協力してあげる。だから真面目に眠るのよ?」
◇ ◇ ◇
暗く静かな、漬物蔵の片隅。
折よく空っぽになっていた米俵の一つが、巣穴の代わりとして選ばれた。
静葉がどこからともなく呼び寄せた大量の落ち葉を、俵の中にたっぷりと敷き詰める。暖かく快適なねぐらの出来上がりだ。
「はい、これ食べなさい。これで春まで持つから」
穣子が差し出してくれた芋は、食べると不思議に体がぽかぽかと暖まった。
狸たちは平身低頭しながら、俵の中へと収まった。
おやすみなさい。二人の女神は並んでそう言い残すと、蔵から去っていった。
◇ ◇ ◇
一仕事終えて居間に戻り、穣子と静葉はお茶をすすっていた。
「……いいわね。きょうだいって」
なんとなく漬物蔵の方を見やりながら、ぽつりと穣子が呟く。
静葉が頷き、なにやらニコニコと穣子に笑いかける。
はっとした表情で、穣子が慌てて付け足した。
「あ、べ、別に私たちのことを含めて言ったわけじゃないよ? ないけどね?」
ないんだけどさ。
三度念を押してから、穣子はおずおずと言った。
「あのさ、お姉ちゃん。たまには、今夜は、その、一緒に寝ない? 寒いし。寒いから」
うんっ。
冬とは思えぬ明るい笑顔で、静葉は強く頷いた。
◇ ◇ ◇
『……気は済んだか、兄者』
『ああ。悪かったな、あれこれ付き合わせて』
『なんだ、急にしおらしいことを言って……』
『春になったら、そろそろお前の結婚相手も探してやらんとなあ』
『なっ、きゅ、急になにを言い出すんだ! 第一、そういう話は兄者の方が先だろうに!』
『いやー、でもお前もさ、』
『ふ、ふん。まあ兄者の嫁になろうなんて物好きな雌がいるわけもないけどな。寂しいだろうから、兄者が結婚するまでは私が一緒にいてやるよ』
『お前、なんか言ってることが色々と矛盾してないか』
『うるさいな。ほら、そろそろ真面目に寝ないと体が冷えるぞ』
『そうだな、寝るか。ほれ、こっち暖かいぞ。もっと近う寄れ、妹よ』
『……バカ…………』
~おしまい~
心暖まる素晴らしい話でした。
やはり秋姉妹は神様してる方がいいよね。
兄者の思考は頗るKENZENでした。
妹は面倒見がいいのです。
静葉様の力強くしなやかな蹴りは思わず息を呑むような美しさと神々しさに違いない。
そしてラスト。可愛い妹達だなぁ。
秋姉妹かわいいよおお!
狸達やマミゾウさんも良い味がでていました。
雰囲気があって良かったです。
この小説は何回萌え殺せば気が済むんだろう。
やられたー
そうした細かなギミックを除いても、とてもいい雰囲気の心暖まるお話でした
面白かったです
「イヌ科だからである」など所々の冷淡な地の分のツッコミが笑えました。
登場人物全員が魅力的でもうすごくいい。
で不覚にも吹き出しました。
こういう妹欲しかったなー(白目)
秋……いい季節よな
おもしろかったです。
響子ちゃんの才媛っぷりもよかった。
色々言いつつも兄や姉を慕う妹たちって良いですねぇ
そしてオチで見事やられました。ちくせうw
兄者とはいい酒が呑めそうだ
秋は良いよねぇ
いいKENZENなお話でした
テンポと落とし方が見事。
まぁ、学業にかまけて冬篭りの準備をおろそかにされることが頻発したら困りものですが。
野の獣なら近親交配も日常茶飯事!
いいのよ
どのキャラも可愛い作品でした
これは良い兄弟愛
ほっこりいたしました。
いやあもう、みなぎりました。ありがとうございます()
兄者ときたら弟者としか思えなかったネット脳…
いい話でした