姫海棠はたてが守矢神社の石段の真ん中に座り、ぼうっと雲を見やっていた。日差しといい、風の具合といい、彼女に似合わぬ暢気な光景だった。
「そんなところで何を取材してるんだい、弱小新聞主宰殿。暇ならまた遊んでくれたまえよ」
背後から後ろ手を組んで降りてくる諏訪子を見上げて、はたては前髪を指先でくるりくるりと巻いた。
「悩んでるの。私の名前がさ、わかんないんだよねえ」
「ふん? なんていうんだっけ」
「姫海棠はたて」
「ほう、姫海棠。美しすぎる名前だね。ウチの早苗が好きそうな名前だ」
「現人神は花が好きなの?」
「派手な名前が好きなのよ。はたて、は珍しい名前」
すると天狗は腕を組み、青い空へ目を上げた。
「なんだか不釣合いなのよね。烏天狗が
この時、はたてが見ていなかった諏訪子の表情に浮かんだものは太古の陰。天狗よりなお古い、歴史にしゃぶられ尽くされた王の残骸であった。
神奈子との共同名義とも言える
己の持つただ一つきりの名前に拘泥するはたてへ、しかし諏訪子が返したのは静かなひとつの言葉のみだった。
「貴方は自ら名乗ってる妖怪じゃないのね」
「名前って、他から付けられるための物でしょう。
はたて。どうして『はたて』なんだろう。私はずっとわからない。烏天狗だから足は速いし、念写はもっと速いよ。でも、どうしたって雷ほどにはなれない」
諏訪子は立ち上がると、猫背になっているはたての手を引っ張り上げて言った。
「神様になってみようか」
二人はずんずん進んだ。諏訪子の目的地である社務所近くになってから、はたては言葉の意味を理解し、踏みとどまらんと両足を踏ん張った。
「いやいや。なれないから」
「なれる」
諏訪子は社務所の扉を勢いよく開け放し、投げ込むようにしてはたてを中へ入れた。
「名前に大いなる物の名前を冠し、力ある妖怪として生まれた。もう一歩で八百万の仲間入りだ」
次々と社内の櫃が取り出されては衣類が舞い上がり、大きさや格式が確認されていく。
「あとは機会と修行を積めば間違いなし。なにしろ、ウチは人間だって神様になっちゃいましたよ」
「人間は成れるわ。でも天狗はそうもいかない。先ず社会が許さないし」
「社会。ああ、天狗の集まりのこと? ほっとけばいいじゃない。鶏口となるも牛後となるなかれ。一人ぼっちでも神様が一番さ。風だの雷だの、自分が好きように動かせるようになる。服脱いで」
風に波立つ草のように、諏訪子の手がはたてを剥いていく。神様の不思議な手は、はたてに抵抗も反感も湧き起こさせず、服を守矢の巫女衣装へと取り替えていった。
「ごめんよ。早苗のは特別品でね、普通っぽいやつしかストックがないんだ。無地だし」
はたては諏訪子へ頷いてみせ、自分から話題を戻した。
「私はあそこに居たいな。ここの神様だって、三人もいるから楽しいんでしょ。たくさん居るって、楽しいことじゃない」
諏訪子は意外そうな顔をした。
「引きこもってたと聞いたよ」
「そうよ。念写があれば、外に出る必要がないと思ってたから。でも、一人ぼっちになりたかったわけじゃないし。新聞を読んでもらったり、書いたりするのって、相手がいないとつまんないから。
社会に不満はないよ。ただ、名前が、私の名前がさ。烏天狗なのに、おかしいなって話」
自身の名や存在への疑問は自らの否定にも繋がりかねない。幻想の生き物にとってそれは死活問題だったが、諏訪子の見たところ、はたての存在はこれっぽっちも揺らいでいない。まるで人間のようにして、彼女は悩みをただ悩んでいた。諏訪子はじっとはたての目ばかり見ていたが、遂に言った。
「名前は願って付けられる物ばかりじゃない。貴方の中にそれを見い出したから、付けられたのかもしれないね」
「私の中に雷を?」
「雷は光だけが全てではない。神鳴と字を当てられるほどに、巨大な音も伴っている。それどころか、死する
はたてが静かに言う。
「どうとでも言えるよ、それ」
「でも面白いじゃない。持ち得ぬはずの属性を持つ烏天狗。少なくとも、不釣り合いだなんて思わないね」
けろんとした顔つきの諏訪子の両手を、はたては掌で包んだ。
「ありがと」
「とんでもない」
諏訪子は一歩下がると、大げさにお手上げの仕草をした。
「あーあ、やっちゃった。己の迂闊さのあまり、自分を呪い殺したい気分だよ。せっかくの同族候補だったのに。今の貴方、つまんない天狗新聞を書きたくてしょうがないって顔に戻っちゃってる」
はたての笑顔が咲いた。すでに巫女の服は脱ぎ捨て、いつもの服装へ腕を滑らせている。
「つまんない服だけど、そっちの方が似合ってるね。あと着替えるの速すぎ」
「天狗だし。また取材に来るわ。次は何の神様か、ちゃんと調べてあげるからね」
「次、ねぇ。じゃあ今日はなにするの」
背中を向ける烏天狗へ、諏訪子はおかしいのをこらえて聞いた。
「とりあえず風より早く飛んでみる。それから、最初の目撃者に取材ね。『貴方はいま、どんな雷が見えましたか?』って」
はたては一本下駄の調子を確かめるようにカツカツとやり、振り向かずにこちらも聞いた。
「ねえ、なんで助言してくれたの?」
「風への叛意を感じたからね。私は風なんて大嫌いなんだ」
もっともらしく言い、そのあと諏訪子はついでのように付け加えた。
「あと、神様はいつも遊んでくれるやつに優しくするもんさ」
「ん。ありがとう。またね」
はたては小走りで社務所を飛び出し、土を踏みしめるや疾走を始め、ついには風をどうと吹かせ、水色に光る空へ飛び立った。
天狗が駆け抜け、砂粒一つあまさずに吹き上げた石畳の上を、ゆっくりと諏訪子は辿った。そうして、空の色がいよいよ光り出した頃、土着神は後ろから声をかけられた。
「諏訪子。貴方、勝手に天狗をけしかけてない?」
返事をする間も与えない声の主、神奈子をちらりと見て、諏訪子は短い散歩を続ける。
「してないよ」
「変なのが居たのよ。いきなりぶっ飛んできて、『貴方はいま、どんな雷が見えましたか?』って。この真っ青な空の下でよ?」
諏訪子は少しだけ動きを止めると、急に背筋をぴいんと伸ばし、それから頭を抱えてかがみこんだ。
この二人の合名である建御名方神がその昔、
胡乱な烏天狗の新聞記者が雷の事を聞いた時、連想から神奈子が何を思ったか、諏訪子は手に取るようにわかってしまった。姫海棠はたてがどうなったのか、考えるまでもないだろう。
「あ、心当たりあるんじゃない」
覗き込んできた神奈子の顔面に、諏訪子は思い切り頭のてっぺんを叩きつけた。そうして、今は失われた神代の言葉で呪い、罵りはじめ、最後にはいつもの喧嘩が始まった。
はたては弾幕ごっこの末に叩き落された川で仰向けに浮かびながら、顔じゅう口のようにしてにんまりと笑っていた。
先ほど、八坂神奈子に「やかましい」と怒鳴られた時、大声こそが自らのイカヅチであったのだと彼女は確信していた。今では悩みを晴らしてくれた二人の山の上の神に感謝を捧げながら、次は鬼の大声でも相手にしてみようか、などと夢を膨らませているのだ。
気味悪そうに河童たちが見つめる中を、姫海棠はたては大笑いしながら水に流されていった。
大声ってのは単に声が大きいことなのか、或いはもっと別の比喩なのか・・・。はたては話し声が喧しいとかだったりしてw どちらかと言うとはたては大声で叱られる側だと思いますけどね。でも懲りないw
神に続いて今度は鬼と。怖いもの知らずなはたてらしさが良く見えます。
・・・はたてって幾つくらいなんでしょうね。少なくとも博麗大結界が出来る前に生まれているとは思うんですが。
千年を生きた無邪気さが、はたてにはありますよね。
それだけに、各設定についてもっと言葉を要した説明がなされると面白かったかな、と。長編でも読んでみたい、と思いました。
文も良い。